「はるか南の海の果てには、楽園がある」という言い伝えは、北の大陸では鳥も獣もみんな知っていました。
銀の毛皮のアレクサンドルは、そんな嘘か本当かもわからない言い伝えをたよりに、南を目指したのです。もうすっかり疲れきった体で、険しい山岳を、広い平原を駆けに駆けて、全てを捨てて置いてきて。大陸の端で南に下る船に乗り込んだとき、深く眠りについたのです。
いったいどれほど経ったのでしょうか。
「ガコッ」と大きな音がして、彼はようやく目を覚ましました。船が、港に着いたのです。
鮮烈な日差しでした。空も緑も足元の影も、色濃く鮮やかな南の島でした。船が到着したばかりの小さな港は、ごったがえしています。
「やれ、見ない獣がいるよ」
「ずいぶん恐ろしい姿をしているよ」
カモメたちが口々にささやきあいます。
アレクサンドルは、とがった耳と鋭い牙と、太い尻尾に強そうな四肢を持っていました。見慣れない獣の姿に、牛もカメもネズミたちも、こっそり彼を避けて通ります。
アレクサンドルは日影を探して歩きだしました。すると「パパ?」と足元で声がしました。見てみると、子猫でした。
「パパ?」
子猫はまた尋ねてきます。アレクサンドルは「違うよ」と答えました。「そっか」と子猫はつぶやきます。
「おじさん、誰?」
「アレクサンドル」
「あるる?あうう?」
遠い北の大陸の名前は、この島の子猫には難しいようでした。アレクサンドルは少し悩んで「サーシャだよ」と教えてあげました。
「さーしゃ?」
「そう、サーシャ」
本当は『サーシャ』というのは親しい相手にしか呼ばせないのですが、仕方がありません。
「ミミはね、ミミだよ」
子猫が名乗ってくれたので、サーシャは「そう」と返事をして、頭を撫でてあげました。ミミは嬉しそうでした。
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「ミミが島を案内してあげるね」
ミミは、サーシャの返事も待たずに歩き出しました。サーシャは、小さなミミをうっかり踏んづけてしまわないように、ゆっくりゆっくりと歩きました。
道の脇を、生い茂る草木がずっと続いています。空ではトンボが飛び回り、草むらからはバッタが飛び出してきます。こずえの間に、流れる小川の中に、石の影に、小さな生き物たち
がひしめいている気配があります。
なんて濃い、命のにおい!
「あの木になってるのはトケイソウだよ」
ミミが教えてくれます。
「あの赤い花はハイビスカス。あっちのチクチクした木はソテツ。むこうでザワザワしてるのは……なんだったっけ?」
サトウキビ達はふたりの会話を聞きながら「フフフッ」とおかしそうにそよいでいました。
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「ここからよく見えるんだよ!」
ミミが連れてきてくれたのは、小高い丘の上でした。さっきまでいた港がすぐ手前に、美しい海がはるか遠くまで広がっています。ここから見ると、この島は平坦で、とても小さい
ようです。
並んで景色を眺めていたふたりに、南風が話かけてきました。
「あら、ミミ。パパが見つかったのね?」
たぶんサーシャのことを言っているのでしょう、「それは違う」とサーシャが否定しようとすると
「うん、そうだよ!」
とミミが答えてしまったのです。南風は「よかったわね」と歌いながら丘を流れていってしまいました。
楽しそうにまた歩き出すミミのシッポを見つめながら、サーシャは少し困ったような声で言いました。
「ミミ、嘘をつくのは良くないことだ」
しかし、ミミはまるで聞いていません。
「海の向こうはどんなところ?」
急に聞かれて、サーシャは返事にこまってしまいました。ミミの頭の中ではいったいどんな楽しい世界が、広がっているのでしょう。「いいな、いいな、ミミも行ってみたいな」と答
えも聞かずにうらやましがっています。
「ねぇ、サーシャ。向こうでミミのパパに会った?」
「いいや、会っていない」
サーシャはそれだけ答えました。
道を渡る雲の影が、不意に濃くなりました。いきなりザツと雨が降ってきたのです。
「きゃーっ、雨だ!雨だ!」
ミミははしゃぎます。しかし、雨は滝のように降るものですから、サーシャは喜ぶどころではありません。(とにかく雨宿りを)と思い、少し先に見える大木までミミをくわえて走り
ました。
「アコウのおじいちゃん、こんにちは」
「おや、ミミ。こんにちは」
太いうねる幹をした、古い木でした。
「ミミ、一緒にいるのはパパかね?」
またミミが嘘をついてしまう前に、サーシャは「違う」と答えました。
「あぁ。北の方から恐ろしげな獣がきたと、鳥たちが騒いでいたね。そうか、お前さんか」
「少しの間、雨宿りしてもよろしいか?」
サーシャがうかがうと、アコウの木は「もちろん。」と穏やかに答えてくれました。
幹のくぼんだところを見つけて、サーシャは座りました。ミミが体を冷やしてしまってはいけないので、フサフサの毛皮の温かいところにミミを入れました。しかし、ミミは這い出て
きたかと思うと、サーシャの体をよじ登ったり、耳にかじりついたり、シッポにとびかかったりします。
「ミミ、濡れてはいけない」
サーシャが困っていると、降ってきたときと同じように雨は急に止みました。サーシャは濡れてどろんこになったミミのからだを毛づくろいしてあげました。身だしなみがなっていな
いのは、よくないことだからです。ミミはまた「きゃっ、きゃっ」とはしゃぎます。
「アコウのおじいちゃん、またね!」
太陽の戻ってきた道を、ふたりはまた歩き始めました。水たまりのつづく道を意気揚々と歩いていたミミでしたが、突然立ち止まってしまいました。
「疲れちゃった」
それはそうでしょう。ずっとはしゃぎっぱなしなのですから。サーシャは背をかがめて、ミミを頭の上にのっけてあげました。
「すごい!すごい!」
サーシャの上から見える景色のなんて楽しいこと!いつも通る道が、まるで違って見えるのです。それに、イタチもヤギもニワトリもみんな、サーシャの立派な姿にビックリして道をあけるんですもの。ミミは得意になってしまいます。
「あ。カニさん!おぉい、ミミだよっ!」
むこうの小川に、友達のサワガニを見つけてミミは手をふります。カニは、見慣れない獣の姿にビックリしながらも、ハサミを振りかえしてくれました。
ふたりはグングン進んでいきます。下り坂のむこうには、この島の中でだってミミがまだ行ったことのない道が続いています。
「ねぇ、サーシャ!このままどこまででも行けるね!海の向こうにだって行けるね!」
雨上がりの世界は輝いていました。
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「こんな遠くまで、はじめて来た!」
そこは美しい西の浜辺でした。ミミは決まった家が無いというので、海辺にボロボロの小屋を見つけたサーシャは、とりあえずここをお家にすることにしました。
夜、浜辺に出ると、サーシャの知らない南の星座が空を埋め尽くしていました。ジャラジャラと音がしそうです。
「ねぇ、サーシャ、海の向こうで何を見てきたの?きれい?楽しい?」
ミミはまた昼間の質問をしてきました。サーシャは今度はゆっくりと思い返します。北の大地の、短い夏の長い昼。長い長い冬の夜。淡い色彩の美しい景色。厳しい寒さ。
「いろいろなものを見てきたよ」
「どんなもの?」
「いろいろね……美しいものも、そうでないものも。例えば、そう、戦争とか」
「センソウって何?」
サーシャはなんと説明しようか迷いました。
「とても……臭いもの」
「臭いの?」
「そう。鼻が曲がってしまうくらいにね」
それはイヤイヤ、とミミは自分の鼻を抑えて転げまわります。
「本当にね」
ミミは一生知らなくていいでしょう。
「ここにいなさい、ミミ」
サーシャは優しくさとします。ミミはビックリして聞き返しました。
「どうして?何も無いよ?」
「何も無い?」
「うん。寂しいところだよ」
なぜミミがこの島を「何も無い島」だというのか、サーシャにはわかりません。海は優しく潮騒を奏でています。あの海の中には、命がいっぱいつまっているのです。知らないはずな
のに、サーシャはどこか懐かしい気さえします。ずっとずっと昔、覚えているはずもないくらい小さい頃に、自分はこの海に包まれていたような。
サーシャは思いました。
(あぁ、あの言い伝えは本当だったのだ)
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南の島の海を、サーシャは毎日飽きることなく眺めていました。時々(ミミは?)と心配になって、遊んでいるのを見つけてホッと一安心。(誰かと一緒にいるというのは、こんな
にも大変なのか)と思います。だって、彼は今までずっとひとりで生きてきたのです。自分のことだけを考えていればよかったのです。しかしミミといったら、まったく目が離せませ
ん。つい先日なんて、蝶々と遊んでいると思っていたら、次の瞬間には悲鳴が聞こえてきて、サーシャは血の気がひきました。ミミがヘビにグルグル巻きにされていたのです!慌てて
蛇の頭を噛み砕いて助けました。でもミミは、もうそんなことも忘れて、今は蜂を追っかけています。(元気でよかった)と思っていると、すぐそばの木の上でカラスたちがギャーギ
ャーと騒ぎはじめました。
「やい、獣!ここはお前の場所じゃないぞ!」
「恐ろしい北の獣!不吉だ、帰れ帰れ!」
するとミミが走ってきて、カラスたちに向かって叫びました。
「サーシャをいじめるな!許さないぞ!」
カラスたちは、今度はミミに向かってまくしたてます。
「生意気なガキめ!親無しのくせに!」
「やい、親無し子!親無し子!」
カラスたちはミミの目を突つこうとまでします。サーシャは、鋭く吠えました。
「ウオォォォンッ!」
カラスたちは一目散に逃げていきました。
「ミミ、ケンカはよくない」
サーシャがたしなめると、ミミはすっかりしょげてしまっています。泣きそうな声で小さくつぶやきました。
「ミミ、パパいるもん……」
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日が暮れてもミミは元気になりませんでした。サーシャが遊びに行こうと誘っても、草のお布団の中で小さく縮こまっています。サーシャはどうしたらいいかわかりません。
「ミミ、パパいるもん……」
ミミはまたこぼしました。
「ママ、言ってたもん。パパは海の向こうにいるって」
サーシャが「ママは?」と聞くと、ミミは「死んじゃった」とか細く言いました。
「クジラのおじさんも約束してくれたんだよ!もし海の向こうでパパにあったら、この島に帰ってくるように伝えてくれるって」
だからミミは、ずっとパパを待っているのだそうです。
夜になってもミミは丸まったままでした。サーシャは浜辺に出ることもなく、ずっと小屋の中でミミのそばにいました。まるで波まで声をひそめているような静けさです。
「……パパ?」
とミミが小さくつぶやきました。寝言でした。
悲しそうなミミの顔をそっとなめてあげながら、サーシャは返しました。
「……違うよ」
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「ミミ、今日もお出かけしないの?」
次の日、サーシャはひとり小屋をでました。なんとも重く曇った日です。海までもが不機嫌に白波を立てています。
「北の獣!おい、お前は知らないだろう!」
木の枝の上から、あのカラスたちがまた叫んでいました。サーシャはとびかかって、カラスたちを退散させてしまいました。それでもまだ遠くで何やら騒いでいるカラスたちに、気持
ちがいらだちます。
サーシャは心を落ちつけたくて歩き出しました。ただひたすらに歩きます。しかし、あんなに輝いて見えた島の景色は、まるで色の無い世界に変わりはてていました。
(きっとミミに元気がないからだ。)
あぁ、許せない、あのカラスども!そしてミミを元気にできない自分のふがいなさ!腹立たしいのと悲しいのとで、サーシャの頭の中はグルグルします。
「おや、北のお客。今日はひとりかね」
気が付けばアコウの木の所まで来ていました。
「えぇ」
サーシャはそっけなくかえすと、そのまま歩いていってしまいます。
「北のお客。どうしてミミにパパかと聞かれた時、そうだと答えてあげないんだね」
アコウの木が、ずっと不思議に思っていたことを尋ねると、サーシャは立ち止まりました。
「子供に嘘をつくのは良くないことです。だまされていたのだと気づいたとき、きっと深く傷つくでしょう」
「そうかね……」
アコウの木はどこか残念そうです。
「北からのお客、今日は風が不穏だ。早くミミのところへ帰っておあげ。」
しかし、サーシャは返事もせずにそのまま行ってしまいました。
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サーシャはこの島を楽園だと思っていました。ところがどうでしょう。ミミは傷つき、寂しがっています。
(望み通り、外に連れて行ってあげようか)
けれど、外の世界は厳しく、決してミミひとりで生きていけるよう場所ではありません。
(誰かが一緒にいてあげなくてはいけない。
ミミにはパパが必要だ…)
サーシャは思いました。
(もういっそ、本当に自分がミミのパパになってしまおうか……)
その時です。「ドッ」と強い風が、サーシャに体当たりしてきました!ハッと気づくと、空では灰色の重い雲がものすごい速さで流れていきます。風は、「ヒョウヒョウ」と不気味
に甲高く吠えています。
「嵐⁉」
この季節、この島にはしばしば台風がやってくることなど、サーシャは知るはずもありません。戸惑うサーシャの足元で声がしました。
「ああ、よかった銀色のお方。こちらに逃げておいででしたか。」
それは、ミミのお友達のサワガニでした。
「西の浜は危険です。対岸から野犬どもがやってきて、辺りを荒らして回るのですよ!」
サーシャは息をのみました。
「今日も台風に乗じてやってくるとか。今朝、カラスどもが騒いでおりませんでしたか?」
カニの言葉を最後まで聞かずに、サーシャは走りだしました。
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ミミが気づいたとき、もう小屋の外では、風も雨も、我を忘れて荒れ狂っていました。
サーシャはいません。ミミは心細くて泣きそうです。すると、「ドンドンッ、ドンドンッ」と外から扉をたたく音がしました。ミミはおそるおそる尋ねました。
「パパ?」
外から、しゃがれた声が返ってきました。
「……そうだよ」
「パパ!」
ミミは、急いで扉を開けに走りました。
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暴風雨の中を、サーシャは全力で走ります。
故郷の吹雪を思い出しました。北の大陸を全力で走る時、息が出来ずにとても苦しいのです。戦争を思い出しました。煙と焦げた臭いと、胸をふさぐ何かがあって、やはりとても苦
しいのです。苦しい、苦しい、苦しい。それでも足は止まりません。だってミミが危ないのです。助けなければいけません。ミミには自分しかいないのですから!
稲妻が走りました。雷鳴がとどろきました。
西の浜はまだ遠く、雨も風も激しさを増すばかりでした。
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ようやくたどりついた西の浜はひどいありさまでした。風に飛ばされた草木と、波が打ち上げた海のゴミと、もういなくなった野犬たちの荒らした後で、小屋の中もグチャグチャに
なっていました。
「ミミ」
サーシャは呼びます。
「ミミ…」
しかし、子猫はペチャンコにつぶれてしまって、もう二度と返事をしないのです。
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海は穏やかでした。夕焼けは、壮絶なまでに美しく世界を織りなしています。
サーシャが、浜辺に打ち寄せる波の腕に、そっと子猫のからだを預けました。
「いいのかね?」
南の海流は尋ねました。
「そばに置いておかなくても?」
サーシャは静かに首を振ります。
「その子をどうか、海の果てまで連れて行ってあげてほしい。空と落ち合うところで、きっとパパに会えるだろう」
南の海流は、動かない小さなからだを大事に抱きあげて、そっと陸を離れていきました。サーシャが見届ける先で、太陽は海にトプリと落ちて消えていきました。
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それからいったい何日過ぎたでしょうか。
はるか北の大陸を吹き抜けた風は、遠く海を渡り、その島にたどりつきました。季節が変わったのです。
北風は、浜に横たわる銀色の獣の姿を見つけました。低い声で語りかけます。
「銀色の戦士よ、自分の土地に戻るがいい。この地上に楽園など無いことぐらい、もうお前もわかっているだろう。」
北風は去っていきました。
次の日の朝。北へ向かう船の甲板に、銀色の獣の姿がありました。
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皮膚を裂くような冷たい風が、乾いた大地を吹き抜けていきます。銀の毛皮の獣は、たたきつける吹雪の中を走っています。もし今度、誰かが自分に「パパ?」と聞いてきたら「そ
うだよ」と答えてあげよう。
その思いを胸に、獣は今日も走り続けているのです。