ある村があった。
そこに、一匹の黒い狼がいた。
村は平穏だったが、黒い狼にとっては、村は狭くて物足りなかった。
しかし、村からは、勝手に出ることはできない。そういう決まりだった。
村には色々な狼がいた。茶色いもの、灰色のもの、白いもの。
みんな、同じもの同士で群れていた。
ただ一人、黒い狼だけが、群れていなかった。
黒い毛並みの狼はもちろん他にもいた。だが、彼は群れることを嫌っていた、否、苦手だったのだ。
黒い狼はいつも一匹だった。だが、寂しいわけではなかった。
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村から出られる日、というものがある。
それは、冬の終わりを告げる日であり、若い狼たちの門出の日であった。
黒い狼は、次の冬の終わりに門出の日を迎える。
村を出た若い狼たちは、それぞれ目指すべき場所を目指して森や荒野を駆ける。日の出から日の入りまで、目的地まで駆け抜ける。
ただ、全員が目的地まで行けるわけではなかった。
森は狼たちを惑わせ、荒野は狼たちの気力を奪う。
そして、道のりの途中には人間たちが仕掛けた罠もある。
日の入りまでにたどり着けなかった場合、その狼はどの村にも入れないまま次の一年を過ごさなければならなかい。それはあまりにも危険で、森や荒野で無事一年を過ごせたものはいないという。
たどり着けないとわかったら、元いた村まで引き返すこと、そして、次の一年を元いた村で過ごすこと、と、若い狼たちは教えられていた。
黒い狼は、一番遠い村を目指していた。はっきりした理由はない。ただ、そこには、この村にはない何かがあるはずだと思っていた。
一番遠い村にたどり着くためには、風のような速さと、疲れにくい強靭な脚と、道に迷わない正確さと、そして、罠を見抜く賢さが必要だった。黒い狼は、どれもそれなりに持っていたが、村の長老には、まだ足りないと言われていた。
だから、いつもトレーニングしていた。
村にたった一つだけあるトラックを、できる限り速く、できる限り何回も回った。時々、村の敷地内にある森を駆けた。そこには門出を控えた狼たちが練習出来るようにと、いくつかの罠が仕掛けられていたからだ。
他の狼たちが何度もかかる罠を、黒い狼は簡単に攻略した。
黒い狼は自信をつけ始めた。だからと言って、トレーニングを怠けることはしなかった。
そんな時だった。ある茶色い狼が、黒い狼に話しかけてきたのは。
「あなたも、一番遠い村を目指しているの?」
そうだが、というと、茶色い狼はぴょんと跳ねて喜んだ。
「やった!私もそこを目指しているの。お互い頑張りましょうね」
そう言って、他の茶色い狼たちの元へ帰っていった。
黒い狼は、初めて、自分と同じ場所を目指す狼を見つけたのだった。
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茶色い狼は、人気者だった。容貌はさることながら、茶色い狼は他の仲間を惹きつける話し方を知っていた。それが新たな仲間を呼び、普通同じ毛並みを持つもの同士で群れるところだが、茶色い狼の周りには、灰色のものや、白いものもいた。黒いものは、どうやら黒い狼だけらしかったが。
少し経ってから、茶色い狼が惹きつける仲間の中に、黒い狼と同じ一番遠い村を目指す狼が他に二匹いると知った。二匹は額の白い毛が特徴的な、灰色の狼だった。二匹には二匹だけの世界があるようだった。もちろん、黒い狼は入らなかった。でも、茶色い狼は躊躇うことなく話しかける。二匹も別に嫌がっているわけではない。
黒い狼は、そんな茶色い狼を遠くから、しかしじっと見つめていた。茶色い狼が振り返り、目が合いそうになると、さりげなく視線をそらしてトレーニングに戻った。
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頻度は決して高くないが、茶色い狼は黒い狼に話しかけるようになった。
綺麗な毛並みだね!兄弟はいるの?ここのお菓子が美味しいんだよ、今度一緒に食べに行かない?他の村に親戚っている?これすごく面白い話だったの!読んでみて!
トレーニングも、時々一緒にするようになった。トラックを走っていると、茶色い毛並みが目に入る。抜いたり追いついたり、止まって話したり。黒い狼は気がついた。茶色い狼は、特に賢さの点で優れていた。黒い狼が3回で覚えるところを、茶色い狼はたった1回で覚えた。
黒い狼は茶色い狼を尊敬した。
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ある日、太陽がそろそろ地面の下に隠れようとしていた時、茶色い狼は黒い狼に尋ねた。
「どうして、一番遠い村を目指そうと思ったの?」
ここにはないものがあるかもしれないから、と黒い狼は答えた。言い終わってから、黒い狼は、自分の動機を初めて他の狼に話したことに気がついた。
おんなじだね!茶色い狼は笑った。
「あたしたち、案外似た者同士なのかもね」
同意できなかった。快活な茶色い狼と陰気な自分のどこが似ているんだ?
言葉は出てこない。黒い狼は、再びトラックを走り始めた。日が完全に沈んで、辺りを見回した時には、茶色い狼はもういなくなっていた。傷つけたかな、と黒い狼は心配した。
次の日、茶色い狼は姿を現した。黒い狼は安心した。
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茶色い狼を見ているうちに、黒い狼は、茶色い狼の弱点を知った。
茶色い狼は、強靭な脚を持っていなかった。黒い狼がトラックを10周する頃、茶色い狼は6周だけしてもう疲れていた。
「あたしってばダメね、これだけで疲れちゃうなんて」
茶色い狼は自分の弱点を自覚していた。己の弱さを知るものは強い、と長老が言っていたのを思い出した。黒い狼は改めて、茶色い狼を尊敬した。
しかし、茶色い狼の嘆きは日ごとに増していった。
黒い狼は慰めようとした。頭の中を巡る思いを掬おうとして出てくる言葉はしかし、大丈夫、まだ時間はある、というありきたりのものだった。長老の言葉も伝えてみたが、茶色い狼はただ笑っているだけだった。
日が昇る、走る、ありきたりの慰め、また走る、日が沈む。そんな日々を繰り返した。
いつからか、茶色い狼は姿を現さなくなった。
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川が流れるように時は過ぎ、星が瞬くように季節が変わる。村の木々がほとんど裸になってしまったそんな時期に、若い狼たちは行きたい村を長老に正式に申告する。
混雑を避けようと、朝一番に長老のもとに出向いた黒い狼は、もちろん一番遠い村を申告した。長老は快諾してくれた。
その足でトラックに向かうと、茶色い狼がいた。
長老のところには行ったのか、と黒い狼が聞くより早く、茶色い狼は口を開いた。
「ごめん、あたし、一番遠い村には行けそうにない」
あたしの体力と脚じゃあ、無理みたい。
そう言う彼女は全く黒い狼と目を合わせない。黒い狼は戸惑った。あんなにトレーニングしていたのに? 否、黒い狼はしばらく茶色い狼の姿を見ていなかった。本当にトレーニングをしていたとは限らない。こう考えた瞬間、黒い狼は激しく自分を憎んだ。違う、見えないところできっとトレーニングしていたに違いない。きっとそうだ。
じゃあ、なんでここに来なくなったんだ?
茶色い狼には来て欲しかった。だが黒い狼は茶色い狼がトラックに姿を現わす以外の方法で茶色い狼と会う方法を知らない。どうすることもできなかった。
なんで俺に会おうとしなかったんだ?
秘密の特訓でもしていたのか?
傷つけていたのか?
言いたいことは山のようにあった。しかし、黒い狼の口から言葉は出て来ない。ただ、白い吐息が漏れるだけ。
どうして俺は、こんなに言葉が不自由なんだろう。
茶色い狼がこちらを見た。そして、笑った。
「頑張ってね」
そう言って、長老のいる方へ歩み始めた。
黒い狼の言葉は、とうとう胸のうちから出ることはなかった。
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黒い狼は再び、トラックを一匹で走るようになった。一日に何周もした。連続で15周しても音をあげなくなった。疲れて脚を止めたとき、ふと茶色い毛並みを探してしまう自分がいた。
寂しいと感じる自分がいた。
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門出の日がやって来た。
村の門には多くの狼たちがいた。家族との別れを惜しむもの、友情を確かめ合うもの、様々な狼たちのざわめきが村を満たす。
黒い狼は、ずっと門のそばにいた。
家族との別れは簡単に済ませた。彷徨う視線は、あの茶色い毛並みを捉えようとしている。
空が明るみ始めた。狼たちは日の出と同時に出発する。皆が位置につき始めた。見慣れた茶色い毛並みは見つからない。
もう直ぐ日が昇る、まさにその時、
見つけた。
唯一馴染めた茶色い毛並み。
スタートダッシュが肝心だ、と長老に言われた。でも、構っていられない。
太陽が現れた。
一斉に門の外へ駆け出す狼たち。その流れに逆らって、茶色い毛並みを目指した。向こうもこちらに駆けてくる。間違いなかった。あの茶色い狼だった。
向こうか気づこうが気づくまいが、関係なかった。すれ違う一瞬、出て来た言葉は一つだけ。
ありがとう
茶色い狼の表情は捉えきれなかった。しかし、口元が緩んだのはわかった。
黒い狼の想いが届いた。
狼たちが黒い狼の後ろへと去って行く。黒い狼も門の方を向き、トレーニングの成果を発揮するべく、走り出した。