「茶道」は江戸時代まで「ちやどう」と呼ばれてゐたらし。
「さどう」は禪院と關係が深いらし。
「表千家」だけが「さどう」と呼んでゐるが、人口に膾炙してゐるところを見るに、表千家が凄いらし。
千利休の孫、元伯宗旦。
彼には四人の子がゐた。
長男の閑翁宗拙(かんおうそうせつ)は家出した。『古事記』中巻の神武天皇の兄弟みたいだ。實際四人兄弟であつた。
次男、一翁宗守(いちおうそうしゆ)。
官休庵(かんきゆうあん)=武者小路千家。
所在地が京都府京都市の無車小路通り。烏丸通らへんの短い通りなのだとか。
公家の武者小路家、そこの出の武者小路實篤とは關係無ささうである。
三男、江岑宗左(こうしんそうさ)。
不審菴(ふしんあん)=表千家
四男、仙叟宗室(せんそうそうしつ)。
今日庵(こんにちあん)=裏千家
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おまけ・二つの武者小路家
どちらも藤原北家(※)らし。
日野流・武者小路教光(1378年没)を祖とし、五代目の武者小路縁光(1524年没)まで「公卿」(三位以上)であつたが、戰國時代(1467〜1568)に廃絶となつたらし。
縁光の子・武者小路資茂は、從五位下になつたらし。
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もう一つの方は、藤原北家閑院流の嫡流の三条家の分家の分家(つまり分々家?)の三条西家のその又庶流の武者小路家である。公家、華族なり。
祖は武者小路公種(1692年没)。つまり復活の武者小路家2(ツー)といふわけだ。何が?
第十代・武者小路實世(さねよ、1887年没)は、明治期に子爵となつた。子爵は男爵よりも上。
実世の四男が武者小路實篤(1976年没)である。本名だつたとはびつくりである。
※藤原北家…他に南家・京家・式家の「藤原四家」。これは藤原不比等の四人の子、通称藤原四子をそれぞれ祖とする。
不比等の父は中臣鎌足(中臣鎌子)であり、乙巳の變で天智天皇(中大兄皇子)に協力し、なんやかんやで「藤原」姓を賜つた人である。
「五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命。四柱。故、御毛沼命者、跳波穗渡坐于常世國、稻氷命者、爲妣國而入坐海原也。」神武は次兄が海を越へて常世國へ行つた。三兄は海に入つた。長兄は紀伊半島で敵の矢を受けて亡くなつた。出来過ぎた樣な末子相続である。本当は長子相続が望ましいが訳あつて、とも言ひたげな神話だ。儒教の影響を疑はずには居られない。
千家は三代目の子が四兄弟で、長男家出。真ん中の三男の表千家が、「さどう」として人口に膾炙してゐる。禅の心だらうか?
藤原は元は中臣であり、天孫降臨の天児屋根(アメノコヤネ)であり、春日大社に祀られてゐる。
藤原鎌足が初代で、二代不比等の子が四兄弟だ。
次男房家の北家→五攝家(近衛・一条・九条・鷹司・二条)。
あの御堂関白こと道長も、その娘・中宮彰子の女官の紫式部こと藤式部(爲時女)も、北家の人だ。
同じく一条天皇中宮定子の父道隆も、道長の兄で、北家だしなあ。
近代では、首相の近衛文麿(1945年没)が有名。
嫡流(武智麻呂)の藤原南家は、764年の藤原仲麻呂の亂で衰えた。
三男藤原宇合(式部卿)の藤原式家は、810年の藥子の變で没落した。
四男麻呂の藤原京家は、知名度が低い。
母が天武天皇夫人で、不比等が後に娶つたといふ、やば過ぎる出自故か。異父兄が皇子である。
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