PRPR
  
家に帰ると、ウサギの妻が僕を殺そうとしてきます

  「やあ。君が今日から『僕のお嫁さん』になる子?」

  喉元に突きつけられた冷たい鉄の感触に、僕は両手を挙げておどけて見せた。

  うさぎの獣人なんて、と、心の底から嫌気が差していたのだ。

  一族の老いぼれたちが「優秀な種を残せ」と勝手に宛てがってきた婚姻相手。捕食者の頂点たる黒豹の僕が、なぜ獣人族の中でも最弱の、繁殖力だけしか能のないメスなんぞを抱かなければならないのかと、げんなりしながら部屋のドアを開けたというのに。

  いま僕の首を掻き切ろうとナイフを構えているうさぎの瞳には、恐れなど微塵もなかった。

  「……俺に、触るな」

  それどころか、鋭い眼光で僕を睨みつけてくる。

  (……はは、なるほどね)

  僕は思わず、その姿に口角を上げた。

  知っている。この顔を、僕は嫌というほど知っていた。

  「……威勢がいいねぇ、シン君。でもその持ち方は感心しないな〜?坂本くんに1年、ならってきたんじゃないの?」

  「?!」

  一瞬の隙を突き、ナイフを持つ手首を捻り上げて壁へ押しつける。

  華奢な身体が僕の腕の中で小さく軋んだ。

  距離が縮まり、ふと鼻を擽るのは、甘いか弱い兎の匂い。

  僕は男のフリをし続けてきた彼女の耳元へ顔を寄せ、笑みを深めた。

  「なんで知ってるのかって顔だね〜。僕、坂本くんとは友達で同僚だったんだよ」

  「友、達……」

  シン君の瞳に、一瞬だけ揺らぎが生まれた。 それまでハリネズミのように全身の毛を逆立てていた殺気が、ふっと霧散する。

  (ああ、なるほど。そういうこと)

  僕はこのうさぎの浅はかな思考を簡単に読み取ることができた。

  敬愛してやまない、けれど自分を置いて殺し屋を辞めてしまった『坂本太郎』。その影を追い続けるこの子は、「坂本の友達」という僕の言葉に、身勝手な安心感を抱いたのだ。

  ——坂本さんの知り合いなら、酷いことはされないかもしれない、と。

  「……じゃあ、坂本さんがどこにいるか、知ってんのか」

  縋るような声。普段からオスの振りをしているせいかその口調は粗暴なもので、それでも漏れ出たその響きは

  紛れもない哀れな少女のものだった。

  ……冗談じゃない。

  ドロリとした不快な熱が、胸の奥で渦を巻く。 坂本くんがオーダーを抜けてまで1年も囲っていた理由。

  僕らを放り出して選んだ「何か」がこいつにあるのかと思えば——ただの、坂本くんに依存した哀れな未熟者じゃないか。

  しかも、その男への未練を、あろうことか僕の前で隠そうともしない。

  「……知ってるよ。でも、教えない」

  「なっ——」

  「甘いんだよ、シン君」

  僕はいっそう強くシン君の手首を壁に押しつけ、空いた方の手でその華奢な顎を強く掴み上げた。

  驚きに丸く開かれた瞳。最弱のうさぎが、捕食者である黒豹の懐で無防備に喉元を晒している。

  「坂本くんの友達だからって、僕が君に優しくする理由になると思った?」

  警戒にピンと立った耳元で囁くと、シン君の体が小さく跳ねた。

  これはただの八つ当たりだ。

  自分でも笑ってしまうほど不誠実な感情のまま、僕は彼女の小さな身体をベッドへと押し倒した。

  「教えるわけないでしょ。君は僕の『お嫁さん』なんだから」

  「やめ……離せっ!」

  「暴れないでよ。うさぎの繁殖力の高さ、見せてくれるんでしょ?」

  必死に抵抗するシン君の耳元で、僕は今までで一番底意地の悪い笑みを浮かべた。

  ----

  ベッドに押し倒され、暴れるシン君の両手首を片手で軽々と頭上に押さえつける。

  黒豹の力に叶うはずもないのに、必死に脚をバタつかせる姿はまさに罠にかかった一匹のうさぎだ。

  僕は空いた手で、彼女が着込んでいる無骨な服の裾から容赦なく手を滑り込ませた。

  「ひっ、!?」

  皮膚に触れると、シン君の体が跳ねるように強張る。

  殺し屋として生きてきた割には、坂本くんに大切に守られてきたからか、その肌は恐ろしいほど白く滑らかで、そしてあまりにも無防備だった。

  熱を持った指先で胸から腹、そして脚の付け根へと辿ると、彼女は引きつった呼吸を漏らし、必死に体を捩る。

  「く、っやめ……っ!」

  捕食者の本能を刺激する、甘い匂いがさらに強く部屋を満たしていく。

  鋭い牙で喉元を噛み千切ってやりたい衝動を抑え、僕はシン君の色気のない下着を雑に引き裂き、ろくな前戯もそこそこに彼女の足を無理やり割り開いた。

  「……っ」

  逃げ場を無くし、完全に組み伏せられた状況。

  そこでようやく、シン君は自分が直面している『現実』の異質さに気づいたらしい。

  けれど、僕としてもそういちいち構ってもいられないので、前を寛げ雑に扱き上げた性器を小さな割れ目へとあてがう。

  怯えと混乱で丸く見開かれた瞳が、僕の顔を見上げて、震える唇を開いた。

  「ぁ……ご、ゴム、は……っ」

  あまりにも不釣り合いで、おめでたい言葉。

  どこまでも自分を守ってもらえると思っているその甘さに、僕は心底呆れ、そして——笑みがこぼれ落ちた。

  「ふ……あはは、ハハッ!」

  可笑しくてたまらない。僕の喉から愉悦の笑いが漏れ出る。

  僕は恐怖に垂れてしまったふわふわの耳を優しく撫で下ろしながら、その耳元に低く、残酷な声を滑り込ませた。

  「まだわかってないの? 君はここに、繁殖用として売られたんだよ」

  「え、あぐ……っ!?」

  容赦なく、一気にその奥まで貫く。

  裂けるような衝撃に、シン君の喉から悲鳴にも似た言葉にならない声が漏れた。

  「い゙……っ、ぎっ……!」

  激痛に背を反らせ、僕の肩に必死に爪を立ててくる。

  涙で滲んだその瞳には、今度こそ純粋な恐怖と絶望が宿っていた。

  「……坂本くんに守られてる間に、自分がどんな世界に生きてるのか忘れちゃったんだ?」

  狂おしいほどの締め付けを感じながら、僕は固まるシン君の頬を優しく撫でる。

  腰を容赦なく打ち付けながら、睨みつけるその瞳に、坂本くんではなく『僕』の存在を刻み込んでいく。

  「あ、ぐ……ッ、ぁ……!」

  貫かれた肉の熱さに耐えかね、シン君が息を詰まらせて身悶える。

  黒豹の太い体躯を押し込まれた窄まりは痛々しいほど狭く、容赦のない締め付けが僕のペニスを圧迫した。

  涙で湿った長い睫毛が震え、きゅっと食いしばられた唇から薄い血が滲む。

  (……ああ、やっぱりそうだ)

  視線から伝わってくる、この子の中にある「未練」の重さ。

  坂本くんは行ってしまった。

  あの頃の僕らの世界から。殺し合いと血反吐に塗れた日々の果てに、赤尾が死んで、すべてが変わった。 残された僕は過去に取り残されたままなのに、敵を討った坂本くんはさっさと前を向いて、温かな光の差す世界へ歩み去ってしまった。

  ……僕と、君を置いて。

  胸の奥でドロドロと渦巻くこの感情が何なのか、僕自身にもよく分からない。

  坂本くんに対する怒りなのか。一人取り残されたやるせなさなのか。あるいは、ただの羨望なのか。処理しきれない感情が、熱い塊となって腹の底でくすぶり続けている。

  「……ッ、ハぁ、く……や、め……っ」

  「やめるわけないでしょ。まだ始まったばかりだよ」

  自分でも正体の分からない苛立ちを誤魔化すように、僕は腰の動きを早めた。

  ずぶ、と奥を穿つたびに、シン君の口から可愛らしい悲鳴が漏れ出る。

  僕らは同じだ。 坂本太郎という男に置き去りにされ、過去の影を追い続けている惨めな脱け殻。

  なのに、どうして君はそんな純粋な目で、彼の影を追い続けられる?

  「ぁっ、ひぅ……っ! んぐ……!」

  「ねえ、シン君。坂本くんはもう君を助けに来ないよ」

  うつ伏せにしようと体を強引にひっくり返し、後ろから腰を掴んで深く突き上げる。

  背中を丸め、ベッドのシーツにしがみつくシン君の耳元に、呪いのように言葉を吐き捨てた。

  「彼は自分の家庭を守るのに夢中なんだ。君がどこで誰に買われて、どんな風に抱かれてたってもうどうでもいいんだよ」

  「……っ、うそ、だ……坂本さんは……っ!」

  「嘘じゃないよ。君だって分かってるでしょ?でもそれを理解したくなくて、わざとしくじって売られたんじゃないの?」

  言い当てられた事実。

  シン君の体が、びくりと大きく跳ねて硬直した。抗う力を失い、ただ僕の突き上げる衝撃に揺られるだけの存在になる。

  「……あ、ぁ……っ」

  「僕らは同士なんだよ。どうせ惨めなら、仲良くしよう」

  名前もつかないこの歪んだ感情も、吐き捨てる宛てのない熱も、なにもかも全部をこの可哀想なうさぎに叩きつける。

  僕はシン君の細い首筋に噛みつき、牙を立てながら、夜が明けるまで何度もその奥を暴き続けた。

  ----

  うさぎの獣人は、恐ろしいほどの繁殖力を持っている。

  受胎率は脅威の百パーセント。

  どの種族の種であっても問答無用で子を成し、かつ劣性遺伝であるがゆえに生み落とされる子はほぼ父親たる雄の形質——つまり、黒豹の優秀な血を引く。

  その性質のせいで、年々うさぎ獣人は数を減らし絶滅の危機に瀕していると言われているのだが、裏社会では『流通』しているので、まだ絶滅は遠いだろう。

  (……まあ、あれだけ中に出したんだから、もう確実に妊娠してるでしょ)

  翌朝。 眩しい朝光が薄暗い寝室へ容赦なく差し込む中、僕は服を着替えながらベッドへ視線を向けた。

  シーツの上に丸まったシン君は、毛布を頭からすっぽりと被り、ぴくりとも動かない。

  声をかけても、うさぎ特有の長い耳ひとつピクとも反応を示さなかった。ただ、毛布の隙間からかろうじて聞こえる浅く短い呼吸の音だけが、彼女がまだ息をしていることを伝えている。

  昨夜の痕跡——乱れたシーツと、部屋に充満する甘くか弱い兎の匂い、そして微かに混ざる血の匂いが、僕が行った行為の激しさを物語っていた。

  「じゃ、僕は仕事だから。食事はメイドに運ばせるよ」

  返事のない毛布の塊にそれだけ言い捨て、僕はそっけなく部屋を後にした。

  正直、もう実家に用はない。僕は普段、街の各所に所有しているセーフティハウスを転々として暮らしており、権力闘争と血統主義に固執する年寄りどもが巣食う実家などという息苦しい場所には近づきもしないのだ。

  目的たる『種付け』は果たした。あとは勝手に一族の奴らに管理させておけばいい。

  そう——そう思っていたのだが。

  (……嫌な予感がする)

  夜、依頼を一つ片付けた僕は、珍しく自分のセーフティハウスではなく実家へと車を走らせていた。

  ハンドルを握る脳裏をかすめるのは、明け方最後に見た、あの暗く死にきったシン君の瞳だ。

  あそこまでボロボロに痛めつけて、彼女が縋っていた唯一の心の支え——坂本太郎という男の存在まで容赦なく叩き折ってやったのだ。

  もしかしたら、僕の居ない間に絶望に耐かねて首でも括っているんじゃないか。あるいは、与えられた食事すら拒絶して自死を選んでいるんじゃないか。

  そんな後味の悪い想像が、どうしても頭から離れてくれなかった。

  「……まあ、僕が訪れたところでどうすることも出来ないけど」

  自嘲気味に息を吐き出しながら、闇に包まれた実家の屋敷へ足を踏み入れる。

  廊下を進み、あの部屋の前に立つ。静まり返ったドアのノブを静かに回し、部屋の中へと一歩踏み出した、その瞬間——。

  ——シュッ

  空気を切り裂く鋭い風切り音。

  「おっと」

  反射的に首をわずかに傾ける。直後、僕の頬をかすめた一本のナイフが、背後の木製ドアへ深々と突き刺さった。硬い音とともに柄が微細に震えている。

  「……へぇ」

  視線を部屋の奥へと戻せば、昼間の毛布を脱ぎ捨てたシン君が、窓から差し込む青白い月光の中で肩を上下させていた。

  昨夜のダメージが残っているのか、下半身にはろくに力が入っていないらしく、壁に痛々しく身体を預けている。膝はガクガクと震え、立っていることすら奇跡のような状態だった。

  だが——その瞳にあったのは、明け方のような「死」ではなかった。

  僕へ向けられた、明確で、狂おしいほどの『殺意』。

  それが、濁った瞳の奥で篝火のように爛々と燃え盛っていた。

  「生きてたんだ」

  「殺す……っ! お前だけは……絶対殺す……ッ!」

  声は掠れ、呼吸は乱れきっている。立ち上がることすらままならないくせに、殺し屋としての凄絶な爪を立て、今にも僕の喉笛に噛み付こうと身構える最弱のうさぎ。

  坂本くんに置かれて絶望に折れ、静かに死んでいくどころか、僕という新しい「仇」を見つけて、必死に命を繋ぎ止めているのだ。

  その見苦しくも美しい足掻きを見た瞬間、胸の奥で冷たく固まっていた何かが、一気に熱を帯びて弾けた。

  「面白いねぇ、君」

  「な、……っ」

  僕は一歩でその距離を詰め、彼女が次のナイフを抜く隙すら与えずに、その華奢な体を強引に抱き上げた。

  妊娠初期の繊細な身体だろうが知ったことではない。膝裏と背中に腕を回し、羽毛でも扱うように軽々とすくい上げる。

  「なっ、放せ! 何すんだっ……! 殺させろ、放せッ!」

  「ここに置いておくのはやめた。僕のセーフティハウスに連れて行くよ」

  腕の中で暴れ、拳で僕の胸を叩くシンの耳元に顔を寄せ、僕はクスクスと愉悦の笑いを漏らした。

  「僕を殺したいんでしょ? だったら近くに居なきゃ機会なんて訪れないよ?」

  「っ……!」

  ぴたりと、シン君の動きが止まる。 僕を射抜くような眼光は相変わらず鋭かったが、その瞳にわずかな惑いが浮かぶのを僕は見逃さなかった。

  「せいぜい頑張って、僕の命を狙いなよ。——僕のお嫁さん」

  僕は抵抗を続ける愛しい『獲物』を抱え直すと、夜の闇が深まる屋敷を後にした。

  ----

  シン君をセーフティハウスへ連れてきてからというもの、僕の帰宅時間はすっかり賑やかになった。

  「ただいま〜、シン君。今日の夕飯なーに?」

  カチャリ、と玄関の鍵を開けると同時に、頭上から鋭い風切り音が響く。

  ヒュッと空気を裂いて降ってきたのは、僕がコレクションとして棚の奥に飾っていた観賞用のダマスカスナイフだ。

  首を少し傾けてそれをかわすと、ナイフはフローリングの床へ深々と突き刺さり、柄を微細に震わせた。

  「……チッ、また外したか」

  玄関口でため息をついたのは、エプロン代わりに僕の大きめのシャツをすっぽりと引っ掛けたシン君だ。 わざわざ靴箱の上に登って待ち伏せていたらしい。本当によくやるものだ。

  この家に連れてくる際、当然ながら身一つ・無一文だった彼女には、この家に置いてある武器や道具しか使うことを許していない。外に出て直接買い物をするのも当然禁止だ。

  『買い物がしたかったらタブレットでネットスーパー使ってね。欲しいものは何でも自由に買っていいから。受け取りはマンションのコンシェルジュがやって玄関まで届けてくれるから、君は外に出なくていいよ〜』

  そう教えてあげて以降、彼女はネットスーパーで食材や日用品を注文し、毒や刃物を探すために家中の隅々を捜索——もとい、掃除がてら整理整頓をしてくれている。

  『使っていいのはこの家にある武器だけね。あ、保管場所は教えないよ?棚の整理でもしてみるといいかもね?』

  そう意地悪く付け加えておいたおかげで、彼女は毎日必死だ。

  床の掃除なんかは自動掃除機が勝手に走り回ってくれるけれど、本棚の上や高い棚の埃取り、散らかりがちな小物の整理なんかは流石に自動化できない。

  武器が見つかるなら掃除くらいしてやる、と背の小さいシン君が椅子や踏み台を駆使し、一生懸命に高いところを拭き掃除している姿は、なんとも可愛らしい。

  まさか僕の命を狙うついでに、散らかり放題だった家がどんどんピカピカになっていくとは思わなかったな。

  「で? 今日のご飯は?」

  「……ビーフシチュー」

  刺さったナイフを引っこ抜き、リビングへ向かうと、キッチンからデミグラスソースの甘く香ばしい匂いが漂ってきた。

  ネットスーパーで購入できるものしか手に入らない以上、強力な軍用兵器や毒薬を外部から調達することはできない。

  銃火器を使用していない以上、彼女はまだ隠し扉の位置を見つけられていないのは明らかだった。

  それでも、ネットスーパーで買える家庭用洗剤や薬品、観葉植物なんかを組み合わせ、殺し屋としての知識でちまちまと毒を精製しているのだ。

  毒を盛る機会を伺うために、嫌々ながらも自らキッチンに立って料理をしてくれるようになったのだけれど……残念なことに、ORDERとして過酷な訓練と実戦をくぐり抜けてきた僕には、大概の致死毒や神経毒は当然のこと、大抵の薬物に耐性があるため、その殆どは全く効かなかった。

  「いただきます」

  ダイニングテーブルにつき、スプーンですくって一口食べる。

  「……」

  向かいに立ったシン君が、息をのんで僕の喉元の動きをじっと凝視していた。ピンと立った兎の耳が、緊張でわずかに震えている。

  ゴクンと飲み干すと、じっくり煮込まれた野菜の甘みと隠し味のスパイス(と、微かに感じる舌を刺すような苦い毒の味)が口いっぱいに広がった。

  「ん、おいしい。今回はうまく隠したね。何の毒? 朝顔の種子から抽出したやつ?」

  「チッ……これも効かねーのかよ」

  あっさりと種明かしされて、シン君は心底悔しそうに顔を歪めた。

  わざわざレシピ本と睨めっこしながら、毒の苦みを消すために隠し味まで工夫して作ってくれたのだと思うと、可笑しくてたまらない。

  僕は席を立ち、悔しさに唇を噛むうさぎのちいさな頭を、ぐしゃぐしゃと撫で回した。

  「なっ、触んな!」

  「あはは、怒らないでよ。すごく上手だったよ」

  嫌がって首を振る彼女の頭から手を離し、そっとその平らなお腹へ視線を落とす。

  うさぎの獣人は、交尾の刺激によって排卵が誘発される仕組みになっている。

  つまり、人間のような定期的な生理というものが存在しない。だからこそ、自分の体内に新しい命が芽生えているという自覚は、身体に明確な変化が出るまで決定的に遅れることになる。

  ここには今、僕と彼女の子供——黒豹の種が順調に根を張り始めているというのに。

  当の本人は僕の命を狙うことだけに必死になっていて、自分の身体に起きつつある小さな変化にもまだ全く気づいていない。

  また、シン君は出自が特殊なようで、性的知識や獣人族の特性についてもあまり理解していないようだった。

  僕にとっては好都合すぎる状況に、思わず笑みが深くなる。

  「ごちそうさま。明日も美味しいご飯、期待してるね」

  「……くそっ、次こそ絶対殺してやる……!」

  がちゃがちゃと音を立てながら、悔しそうに皿を洗うシン君の背中を眺めながら、僕は今までになく心地よい「我が家」の空気を楽しんでいた。

  ----

  「南雲、お前それ何食うとんねん」

  ターゲットの処理を終え、血生臭い匂いが充満する荒れ果てた廃倉庫の片隅。

  壁に背を預けていた神々廻が、僕の手元を見て心底不快そうに顔を顰めた。

  イライラと小さく揺れるのは、チーターの獣人特有のしなやかなヒョウ柄のしっぽだ。不機嫌そうにピンと立った丸い耳が、僕の動作を鋭く警戒している。

  僕が鞄から取り出し、膝の上で大事そうに広げたのは、タッパーを再利用した可愛らしいお弁当箱だ。蓋を開ければ、彩り豊かに詰められたおかずと、ツヤツヤとした白い白米が綺麗に並んでいる。

  「え? これ? 僕のお嫁さんが作ってくれた愛妻弁当♡」

  「……は? 嫁? お前いつ結婚したんや」

  「最近だよ〜。可愛いうさぎちゃんでさ。僕の命を狙いながら毎日ご飯作ってくれるんだ」

  「頭おかしいんか自分……」

  神々廻は呆れ果てたように盛大なため息をついた。しっぽの先が鬱陶しそうにパタンパタンと床を叩く。

  まあ、一般的な視点から見れば、僕の言動は狂気の沙汰に見えるかもしれない。

  けれど、あの家で僕の帰りを待ち構え、毒を盛ったりナイフを投げてきたりするあの物騒な日常は、僕にとって何物にも代えがたい「至高の新婚生活」になっていた。

  「ていうか、その唐揚げ……なんか微妙にうっすら緑色の謎の汁出てへんか? 明らかに毒入っとるやろそれ」

  チーター特有の圧倒的な視力と鋭い観察眼は伊達じゃない。神々廻の黄色い瞳が、僕のお弁当箱の一角を正確に射抜いていた。

  「ん〜、まあね。さすが神々廻、目鋭いねぇ。シン君特製の新作毒だよ」

  昨日の毒が効かないと知るや否や、シン君はすぐに頭を切り替えたらしい。

  殺し屋としての応用力と執念には感心させられる。

  しかも今回のシン君は一味違った。お弁当箱全体に毒を混ぜるのではなく、あえて「右上の唐揚げひとつだけ」に毒を仕込み、他のおかずやご飯はとびきり美味しく仕上げてある。

  全部を毒味にして僕に警戒されるのを防ぎ、油断させて本命の唐揚げを口にさせようという、なかなか考えられた心理戦である。

  「毒入りの唐揚げ以外はすごく美味しいよ。シン君、日増しにお料理が上達してて僕嬉しいな〜」

  箸で卵焼きをつまんで口に運ぶ。出汁がしっかり効いていて、本当に美味しい。

  「……いや、なら毒が入っとる唐揚げだけ捨てればええやん。なんでわざわざそれも食おうとしとんねん」

  ジト目で僕を見下ろしながら、神々廻が至極まっとうな(そして夢のない)ツッコミを入れてくる。

  僕はわざとらしく大袈裟に首を振ってみせた。

  「えぇ〜? 食べ物を粗末にするなんてダメだよ神々廻。シン君が僕のために一生懸命作ってくれたんだから、残さず食べるのが愛でしょ」

  「愛もクソもあるか、毒やぞ」

  「じゃ、いただきまーす」

  「食うなや!!」

  神々廻のツッコミを背に受けながら、口の中へ放り込む。

  噛み締めると、鶏肉の旨味と一緒に、舌を刺すような強力な化学薬品の苛烈な苦味が広がった。

  うん、なかなかの劇物だ。一般人なら喉が焼けて意識を失うくらいはするかもしれない。

  「……はぁ。まあええわ、好きにせぇ。言っとくけどな、後でどれだけ腹壊して苦しもうが、今日の分の報告書提出は代わらんからな」

  吐き捨てるように言い放ち、神々廻は面倒くさそうに背を向けた。

  神々廻の呆れ顔を見送りながら、僕は心の中でほくそ笑む。

  今日の毒は僕の体に一切のダメージを与えられないけれど……「腹痛で苦しんでるフリ」なら、いつか忘れた頃に仮病として使わせてもらおう。報告書を丸投げして早くセーフティハウスへ帰りたい時にでも、重宝するかもしれない。

  (惜しいなぁシン君)

  今日もセーフティハウスに帰れば、僕がけろりとした顔で空のお弁当箱を差し出すのを見て、彼女はあのふわふわの耳を逆立てて怒るのだろう。

  報告書を素早く片付け、いそいそと車を走らせてあの家へと戻る。

  いつもなら、僕が玄関のドアノブに手をかけた瞬間から、部屋の中では息を殺してナイフを構える気配が漂っているはずだった。

  「ただいま〜、シン君」

  カチャリ、と鍵を開けて足を踏み入れる。

  ……が、宙を舞うダマスカスナイフも、フローリングに突き刺さる金属音も聞こえない。

  (あれ?)

  拍子抜けして首を傾げる。 靴を脱ぎ、忍び足で廊下を進むと、キッチンから微かにトントンと包丁を動かす音が聞こえてきた。

  僕の帰宅に気づいていないのか、珍しく夢中で作業をしているらしい。そっと壁から覗き込むと、僕の大きめのシャツを着たシン君が、まな板の前で眉間にシワを寄せ、毒の成分を含む観葉植物の茎をペティナイフで細かく刻んでいた。

  ——っ。

  その時、シン君が急に息を詰めた。

  ごく微かな気配の変化。

  だが、過敏なほど研ぎ澄まされた黒豹の聴覚が、彼女の小さな息呑みを正確に拾い上げる。

  「なにしてんの」

  気づいた時には、身体が勝手に動いていた。 無音で背後に肉薄し、彼女の手首を掴み上げる。

  「っ……!? 南雲……っ、放せっ!」

  「手、見せて」

  ペティナイフがコトンとまな板の上に転がる。

  シン君の左手の親指から、ツッと赤い血がひとすじ伝い落ちていた。

  刃先が滑って、指先を浅く切ってしまったらしい。

  なんてことのない小傷だ。殺し屋として生きていれば、こんな擦り傷など日常茶飯事どころか傷のうちにも入らない。

  まな板の上には、細かく刻まれた劇物の切り屑。 赤い血が、その上へぽたりと落ちる。

  ——まずい。

  「っ、なんだよ……こんな擦り傷くらいでガタガタ騒ぐなっ! 痛くも痒くも——」

  「傷口から毒が入ったらどうするの!!」

  僕の喉から出た声に、シン君が驚きに目を見開き、ぴたりと動きを止めた。

  僕はシン君の細い手首を掴んだまま、半ば引きずるようにキッチンの洗い場に手を差し出させ、蛇口を乱暴にひねり、冷水を勢いよく吐き出させた。

  「……痛っ、冷たい……っ」

  「我慢して。毒が残ってたら困るでしょ」

  強引に指先を水流に押し当て、毒を洗い流す。ネットスーパーで購入した薬品や植物とはいえ、傷口から直接血管に入ればどんな重篤な作用を引き起こすか分からない。

  消毒液をぶっかけ、絆創膏をきつく巻きつける。

  いつもなら手首を振り払って、噛みついてくるはずのシン君は暴れることもなく、ただ黙って僕の手元を見つめていた。その瞳には、僕への警戒よりも先に、深い困惑が浮かんでいる。

  (……なんで、僕こんな慌てるんだろ)

  手当てを終え、絆創膏が貼られた小さな指を解放した瞬間、胸の奥に不思議な違和感が残った。

  『お腹の子供に何かあったら困るから』? いや、違う気もする。今僕の頭にあったのは、お腹の子供のことなんかじゃない。

  ただ「この子が傷ついた」「この子の身体に毒が回るかもしれない」という純粋な焦燥だけだった。

  (……僕が? このうさぎに?)

  自分の内側に芽生えた理解不能な感情に、背筋が薄寒くなるような感覚を覚えた。

  「……ヘタクソ。きつすぎんだよ」

  沈黙に耐えかねたように、ぷいっと横を向いたシン君の、ふわふわの耳がほんのりと赤く染まっている。

  僕への強い警戒心と殺意の裏側で、彼女の頑なな心が、初めて微かに解け落ちたように見えた。

  ----

  「ただいま〜、シン君。今日も美味しいお弁当ありがと……」

  いつも通りの嫌味とともに、鍵を開けて足を踏み入れる。

  ……が、静まり返った玄関には、いつもの空気を切る鋭い音も、頭上から降ってくる刃物もなかった。

  あの日を思い出し、嫌な予感に思わずしっぽがぶわりと膨らんだ。

  けれど、この前と違うのは部屋の中から漂ってくるはずの、夕飯の仕込みの匂いもしなければ、シン君のもつ甘いうさぎのフェロモンの香りすらしない。

  まさか僕の目を盗んで逃げ出した?

  いや、コンシェルジュを通さなければ外部への扉は開かないシステムになっている。

  セーフティハウス中の武具を探し回るためにピカピカに磨き上げられたリビングにも、人影はない。

  静寂に包まれた部屋の中で、唯一、奥の洗面所からかすかな音が聞こえてきた。

  「……ッ、うぐ……ッ、……はぁ、……ッ」

  引きつった浅い呼吸と、苦しげな衣擦れの音。 僕は気配を殺して洗面所のドアをそっと開けた。

  「……シン君?」

  青白い照明の下、洗面台の縁に必死に爪を立て、床にへたり込んでいるシン君の姿があった。

  いつも着ている僕のシャツは、みっともなく肩からずり落ち、華奢な背中が痛々しく上下している。

  その顔色は見る影もなく土気色で、唇は血の気が引いて白くなり、まるで見えない手に喉を絞められているかのように必死に息を吸い込もうとしていた。

  「シン君、どうしたの?」

  僕が歩み寄り、その華奢な肩に手を置こうとした、その瞬間。

  「……ッ、触んなッ……ち、近寄るな……ッ!!」

  いつも以上の拒絶の悲鳴。

  シン君は猛烈な悪寒に襲われたように身体を跳ねさせた。

  そのまま口元を両手で強く押さえ、洗面台へ顔を突っ込む。

  「ゔ、え……ッ! げほっ、……ッ! ぐ、……ッ」

  胃の中には何も入っていないらしく、吐き出されるのは透明な胃液と唾液だけだ。

  「……う、……なんだこれ……急に……きもちわる」

  シン君は洗面所の冷たい床の上で、嘔吐感に小さく体を震わせる。

  その痩せた背中を撫でる指先から伝わってくるのは、小刻みな拒絶の震えだった。

  ORDERとして修羅場を潜り抜けてきた、体に染み付いた、血と死の匂い。そして、捕食者の頂点たる黒豹のオスが発する雄々しいフェロモン。

  普通のうさぎ獣人なら卒倒していただろうそれらも、殺し屋として鍛えられた彼女には効かなかった。故に僕の繁殖相手として選ばれたのだけれど、今の彼女にとってはそれらは刺激になってしまうようだった。

  「う……っ、……! はなせ……っ!」

  背中を撫でる僕の手を払いのけようと、華奢な腕が弱々しく空を掻く。だがその力はあまりにも儚く、僕の手首すら動かすことができない。

  涙と唾液でべったりと汚れた顔を洗面台の白磁に押し付け、必死に呼吸を整えようとしている姿は、まさに罠にかかり絶望の中で喘ぐ一匹のウサギそのものだ。

  (可哀想に。何もわかってないんだ)

  自分を苦しめているのが、僕に盛った毒でも、自分が誤って吸い込んだ薬品でもなく——先日、僕がその奥深くに注ぎ込んだ『種』のせいだとは、夢にも思っていないだろう。

  交感排卵という都合の良い生体器官のせいで生理がない彼女は、妊娠という現象が自分の体に訪れていることにすら気づいていない。

  ただ、抗えない吐き気と不快感に襲われ、パニックを起こしているだけなのだ。

  これ以上、冷たい洗面所の床に転がしておいて、お腹の子供に万が一のことがあっても困る。

  「ほら、シン君。こんなところで倒れてたら風邪ひいちゃうでしょ」

  「っ、やめ……触る、な……っ!」

  拒絶の声を無視し、僕は力任せに彼女の細い腰と膝裏へ腕を滑り込ませ、軽々と横抱きに抱き上げた。

  腕の中でシン君の体が大きく跳ねる。だが、持ち前の筋力すら揮えないほど衰弱している彼女は、僕の胸元に顔を押し付けられる格好になり、再び猛烈な吐き気に身悶えた。

  「ゔ……、…………気持ち悪ぃ……」

  「吐いてもいいから」

  僕は軽く窘めながら廊下を歩き、奥にある寝室へと向かった。

  静かな部屋のベッドにそっと腰掛けさせ、体を倒してやると、シン君はすかさず毛布を引き寄せて頭から被り、小さく丸まった。まるで外界の刺激から身を守ろうとする動物の習性そのものだ。

  「……はぁ、……ふ……っ」

  毛布の隙間から聞こえるのは、荒く乱れた息遣いだけ。

  僕はベッドの縁に腰を下ろし、毛布越しに彼女の頭を優しく撫でた。

  「ねえ、シン君。今日、お昼から何か食べた?」

  「……」

  返事はない。けれど、呼吸が一瞬だけ止まったのを僕は見逃さなかった。

  「食べてないでしょ。お昼に届いた食材、キッチンにそのまま放置してあったよ」

  掃除や毒の精製には余念がない彼女が、食材の受け取りだけ済ませてキッチンに放置していた。

  つまり、昼過ぎあたりから急激な吐き気に襲われ、料理どころか自分の口に食べ物を運ぶことすらできなくなっていたのだ。

  「ダメだよ、ちゃんと食べなきゃ。君一人だけの体じゃないんだからさ」

  「……あ? 何……言って……」

  毛布の隙間から、涙で濡れた瞳が覗く。

  シン君は僕の言葉の意味を理解できず、ただ不快そうに眉をひそめる。

  「何でもない。……さて、何なら食べられそうかな」

  僕はベッドから立ち上がり、顎に手を当てて思案した。 さっき洗面所で見せた反応を見る限り、油っこいものや匂いの強いものは全滅だろう。

  「……何も……いらねぇ……っ。出てけ……」

  「そんなこと言わないの。倒れられたら困るんだから」

  辛そうに目を閉じ、ベッドに横たわる彼女を置いて、僕はキッチンへと戻った。

  普段、料理なんて気まぐれにしかしない僕だけれど、ネットスーパーで届いたばかりの段ボールを漁り、使えそうなものを探す。

  冷蔵庫を開けると、シン君が毒を仕込むために買ったであろう観賞用植物の残骸や、僕のために作った毒入りの食事の残りが目に入った。

  ……うん、どれも今の彼女に与えられるものでは無い。坂本くんの元で訓練されてきたとはいえ、お腹の子まではそうじゃない。

  何か買いに出るかと思案しながらも、段ボールの底を探ると、小さめのゼリーと、新鮮なりんごが数個転がっていた。

  生の果物なら、匂いもキツくないし水分も摂れる。

  僕は果物ナイフを手に取り、そこそこの手つきでりんごの皮をむき始めた。

  殺し屋として人の喉を掻き切る刃物の扱いには慣れているけれど、りんごの皮を剥く機会はそうあるものでもない。

  少し厚く実が着いた皮は勿体ないけれどそのまま捨てて、剥いた実を食べやすい大きさに小さくカットし、小さなお皿に盛り付ける。

  ついでに冷たい水と、スポーツドリンクもグラスに注いだ。

  お盆にそれらを載せ、再び寝室のドアを開ける。

  「ほら、シン君。これなら食べられるんじゃない?」

  ベッド脇のサイドテーブルにお盆を置くと、毛布の中からうっすらと開かれた瞳が、皿の上の歪なりんごを見つめた。

  「……お前が……切ったのか……?」

  「そうだよ。……あ、安心してよ、毒なんて入ってないから」

  「知ってる……それに、俺だってそれなりに耐性つけてるし」

  「はいはい」

  掠れた声で毒づきながらも、空腹と喉の乾きには勝てなかったらしい。

  シン君は毛布を肩に羽織ったまま体を起こし、おそるおそるりんごを一口、小さく齧った。

  サク、と静かな部屋に小さな音が響く。 噛み砕き、ゴクンと飲み込む。

  吐き気がぶり返してこないことを確認すると、彼女はホッとしたように小さく息を吐き、もう一口りんごを口に運んだ。

  (……食べた)

  美味しそうにりんごをシャリシャリと噛むうさぎの姿を、僕は頬杖をつきながらじっくりと観察する。

  「美味しい?」

  「……普通」

  そっけない返事。けれど、その頬にはほんのりと血色が戻り始めていることに、僕はどこか安堵を覚えていた。

  ----

  つわりのピークが過ぎると、シン君の体調は少しずつ持ち直していった。

  相変わらず僕の顔を見れば「殺す」と吐き捨てるし、隙あらば首元を狙って刃物を投げてくる。

  けれど、一時期の土気色の顔色は消え、頬にはうっすらと健康的な赤みが戻っていた。

  「……ただいま〜、シン君」

  カチャリ、と玄関のドアを開けると、正面から小ぶりなペティナイフが飛んでくる。 ひょい、と首を傾けてかわすと、ナイフは後ろのドアに突き刺さった。

  「ちっ……今日は角度が甘かったか」

  「はいはい。お迎えありがとね」

  サイズの合っていない僕のシャツの上からエプロンを着たシン君が、靴箱の上から飛び降りながら悔しそうに舌を打つ。

  一見するとセーフティハウスに来たばかりの頃と何も変わらない日常。けれど、僕たちの間にある空気は、確実に変化していた。

  「今日の夕飯、なに?」

  「……おじや。まだ油っこいのは無理だから」

  「そう。楽しみだな」

  洗面所で手を洗い、ダイニングへ向かうと、湯気が立つお鍋と、小さな取り皿がふたつ並んでいた。

  毒は入っていない。

  つわりで体力が落ちて以降、彼女は「毒を作る体力がもったいない」と言い訳をして、料理に毒を混ぜるのをやめていた。……いや、僕にひととおりの毒の耐性があるせいで、諦めただけかもしれないけれど。

  「いただきます」

  熱いおじやをレンゲですくい、口に運ぶ。出汁の優しい味が広がった。

  「……どうだ」

  「ん、美味しいよ。すごく上手」

  向かいに座ったシン君が、僕の反応を伺うように長い兎の耳をぴくぴくさせている。

  『殺してやる』と意気込んでいた初期の頃の尖った気配は薄れ、どこか僕の反応を気にするような、素直な眼差しがそこにはあった。

  僕がレンゲを何度も口に運んでいると、シン君は誇らしげに鼻を鳴らし、自分の分のおじやに手を伸ばす。

  その細い指先や、華奢な腕を眺めながら、僕は小さく目を細めた。

  (……毒も仕込まず、ナイフの精度も落ちている)

  殺し屋としての刃が鈍っているわけじゃない。

  ただ、彼女の中で僕という存在が「殺すべき仇」から、いつの間にか「生活を共にする存在」へと滑り落ちつつあるのだ。

  最初は絶望に歪む顔が見たくて、そして優秀な子供を生ませるための器として彼女を閉じ込めたはずだった。 けれど——。

  「……あ」

  「ん? どうしたの、シン君」

  「持ってやるよ。掬いにくいだろ」

  お椀を持ったまま、食卓の上の鍋に手を伸ばそうとした僕を制し、シン君が小さな手を出して取っ手を掴み傾けてくれる。

  指先が微かに触れ合った瞬間、彼女はビクッと肩を跳ねさせたけれど、以前のように飛び退くことも、嫌悪に満ちた目で僕を睨みつけることもなかった。

  おじやを食べ進め、鍋にあった殆どを僕の胃袋に収めた頃、シン君は一度キッチンへと立った。

  「これ、この前買ってきてくれた桃。最後なんだけど、うまかったから……その」

  シン君はデザートに剥いておいてくれた桃の小鉢を出してくれる。最後なのに、ちゃんと2人分に分けてくれたらしい。

  「気に入ったの? じゃあまた買ってくるね」

  「!」

  その好意が愛おしくて、僕は思わず手を伸ばし、彼女の柔らかい金髪をそっと撫でた。

  以前なら猛烈に嫌がって手を払いのけ、ナイフを突きつけられていたはずの行為。

  けれど彼女は、ただ不機嫌そうに眉をひそめて耳をぺたんと寝かせるだけで、その温もりをおとなしく受け入れた。

  (……ああ、ダメだな)

  胸の奥が、甘く重い何かで満たされていく。

  僕の腰の後ろで、しっぽが優しく彼女の細い腰に絡みつこうと伸びていくのを、僕は必死で理性で抑え込んだ。

  心を傾け始めているのは、なにも彼女だけじゃない。

  毒入りの不味い料理をからかい混じりに食べていたはずの僕が、今では彼女が作った優しい味の食事に安らぎを感じ、彼女が美味しそうに果物を咀嚼する音に愛おしさを覚えている。

  ……ほだされているのは、僕の方だったのだ。

  彼女が僕に心を許し始めれば許し始めるほど、僕の胸の底には、恐ろしいほどの強欲と焦燥が渦巻き始めていた。

  (このまま、何も気づかないでいてほしい)

  彼女のお腹の中では、僕と彼女の子供が着実に育っている。

  つわりが落ち着いた今、これから先はお腹が少しずつ膨らみ、体型が変わっていく時期に入る。

  もし、彼女が妊娠の事実を知ってしまったらどうなるだろう。

  うさぎの獣人としての自分の身体の仕組みを知り、僕が初夜の一回で意図的に自分に種を仕込んだのだと気づいたら。

  ——きっと、彼女は僕を酷く憎む。

  せっかく芽生えかけた僕への情も、この穏やかな日常も、すべてが崩れ去り、彼女は再び絶望の底へと叩き落とされるだろう。

  僕を拒絶し、腹の底から湧き出る殺意で僕を刺そうとするだろう。

  「……南雲? 何見てんだよ、気持ち悪いな」

  視線に気づいたシン君が、桃をかじりながら怪しむように眉を寄せる。 頭上のうさぎの耳が警戒するようにピンと立ち、彼女の瞳が僕を覗き込んでいた。

  「ううん。シン君が可愛いなぁと思って」

  「〜〜っ、ごちそうさま!」

  顔を真っ赤にして、照れ隠しのようにガラスの小皿を僕の分までひったくっていくシン君。

  パタパタと足音を立ててキッチンへ向かう彼女の背中を見つめながら、僕は優しく微笑んだ。

  (気づかせないようにできないかな)

  あの平らなお腹がどれだけ膨らもうと、動きが重くなろうと、言いくるめて、時には変装術を使ってでも。

  そんな馬鹿な思考を重ねてしまうくらいには、僕はもう彼女に嫌われるのが怖くなってしまっていた。

  ----

  任務のない日、シン君はセーフティハウスに備え付けた簡易的なトレーニングルームで、落ちた体力を戻すために毎日のように体を動かしていた。

  その日も、僕がリビングでコーヒーを飲んでいると、奥からシュッ、シュッと鋭い風切り音が聞こえてくる。

  ふらりと様子を見に行き、ドアの隙間から覗くと、シン君が壁に据え付けた的に向かってナイフを投げていた。

  (……ん?)

  違和感。

  ORDERとしての僕の目が、ほんのわずかな「狂い」を捉える。

  刺さったナイフの位置は、狙い通りの中心。けれど、投擲する直前の彼女の足元——踏み込んだ右足の重心が、ほんの数ミリ、後ろへ逃げていた。

  さらに、宙を舞う時の背筋の反り、踏み込みの深さ。

  すべてにおいて、以前のようなしなやかな体幹の軸が、微かにブレている。

  「……っ」

  五本目を投げ終えたシン君が、ぴたりと動きを止めた。

  ナイフを握ったまま自分の手元を見つめ、それからゆっくりと、自分の下腹部に手を当てる。

  その顔には、困惑と、殺し屋としての鋭い察知が浮かんでいた。

  「……おかしい」

  ボソリと漏れ出た声。僕は心臓がドクンと嫌な跳ね方をするのを感じながら、ひょうひょうとした笑みを張り付けて部屋へ足を踏み入れようとした。だが、それよりも早くシン君がこちらに気づき、射抜くような視線を向けてきた。

  「南雲。……腹が、おかしい」

  「え? 何が?」

  「……ナイフを投げる時、軸がブレる。腹筋の底に力が入り切らねぇ……それに、ジャンプした着地の瞬間、腹の奥がズシッと重く引っ張られる感覚があって」

  引き締まった自分の腹部を、服の上から強く押し込みながら、シン君は深く眉根を寄せた。

  「俺の体の中に……何か違和感が……」

  ——鋭すぎる。

  さすがは坂本くんに鍛えられ、死線を潜ってきた殺し屋だ。

  自分の身体に生じたわずかな狂いを、彼女は見逃さなかった。

  まずい。

  この子は、自分の身体を武器として扱ってきた。

  だからこそ、誰よりも早く異変に辿り着く。

  冷や汗が背中を伝った。

  このまま彼女が自分の身体の構造と、うさぎ獣人の特性を思考の糸で繋ぎ合わせてしまえば、答えに辿り着くのは時間の問題だった。

  すべてを知られたら、彼女は僕をどう見るだろう。

  絶望し、激悪し、僕の手の届かない場所へ心を閉ざしてしまうかもしれない。

  せっかく、僕の隣でご飯を食べるようになってくれたのに。

  せっかく、僕の作ったりんごを口にしてくれたのに。

  せっかく、僕の手を払いのけなくなってくれたのに。

  (嫌だ。……嫌われたくない)

  感じたことのない猛烈な恐怖が、僕の脳を支配した。

  僕は瞬時に「ORDER・南雲」の完璧な仮面を貼り直し、心底おかしそうに口角を上げた。

  「あはは! シン君、大袈裟だなぁ」

  「……あ?」

  「体調崩してしばらく寝てたでしょ? 筋肉って一回落ちると変な感覚になるんだよ。そのうち戻る戻る」

  軽薄で、どこまでも自然なトーン。

  相手を安心させ、油断させるための完璧な嘘。

  シン君は怪しむように目を細め、僕の顔をじっと見つめた。僕の表情から嘘を見抜こうとするかのように。

  だが、僕の嘘はプロの拷問官すら欺くレベルだ。

  ピタリと動悸を殺し、瞳に一切の動揺を見せずに微笑み返す。

  「まぁ……最近お前に投げるナイフも軽いのばっかにしてたしな……」

  「そうそう。まあ、数日もしたら体が慣れて元に戻るよ。今日はもうトレーニングはおしまい。ね?」

  そう言ってシン君の頭を撫でると、彼女は首を傾げながらナイフを置いて部屋を出て行った。

  彼女の背中がドアの向こうへ消え、廊下を歩く足音が遠ざかっていく。

  一人取り残されたトレーニングルームで、僕は貼り付けていた笑顔を剥がし、その場に深く屈み込んだ。

  顔を両手で覆う。指先が微かに震えていた。

  (……最悪だ)

  喉の奥がカラカラに乾いていた。

  罪悪感と、自分に対する吐き気がこみ上げてくる。

  僕は何をしているんだろう。

  惨めな未練の八つ当たりで彼女を抱き、道具のように種を仕込んだはずだった。なのに今、僕は彼女に嫌われることを何よりも恐れ、こんな惨めで情けない嘘をついている。

  「……ごめん」

  誰もいない部屋で呟いた謝罪は、もちろん彼女には届かない。それでも、もう分かっていた。

  坂本くんへの意地でも、一族への反発でもない。僕はもう、とっくに手遅れだった。

  ——彼女に嫌われることが、怖い。

  それが何よりの証拠だった。

  ----

  嘘は、長くは持たなかった。

  変装術で服のシルエットを誤魔化し、食事の量を微調整したところで、日々命をやり取りしてきた殺し屋の感覚を騙し続けられるはずがない。

  数週間後、セーフティハウスの寝室。

  朝の光の中、ベッドの上で自分の腹部に手を当てていたシン君が、静かに、けれど逃げ場のない声を漏らした。

  「……南雲。嘘つくなよ」

  その声に、僕は着替えの手を止めた。

  振り返ると、シャツを押し上げ、自分の下腹部をじっと見つめるシン君の姿があった。

  そこには、明らかに以前の彼女にはなかった、なめらかで小さな丸みが宿っていた。

  「体幹のブレも、腹筋が入らねぇのも……筋肉が落ちたからじゃねぇ。……これ、だろ」

  まっすぐに僕を見抜く、濁りのない瞳。 シン君は馬鹿じゃない。

  自分の体がうさぎの獣人であり、裏社会でどう扱われてきたかを知っている。

  そして、僕が初夜に何を処したかも、頭では理解していたはずなのだ。

  愚かなのは、僕の方だった。

  「……うさぎの受胎率はほぼ百パー。あの時ナカに出されたんだ……最初から、こうなる可能性は分かってた」

  シン君は静かに服を下ろし、少しだけ掠れた声で続けた。

  「……なんで嘘ついた? 腹括って種付けしたんじゃねぇのかよ。俺が騒いで暴れると思ったからか?」

  僕は詰めていた息を静かに吐き出した。 いつものようにヘラヘラと笑い飛ばすことも、過剰に情けなく取り乱して謝罪することも、できたけど。

  ただ、感情を殺した声で、隠しようのない事実だけを告げる。

  「……君に、嫌われたくなかったんだ」

  その一言に、シン君がぴくりと耳を揺らした。

  「最初は八つ当たりだった。坂本くんに置き去りにされた惨めな同士として、君を傷つけて、僕と同じ絶望に沈めてやりたかった。……でも」

  僕は歩み寄り、ベッドの脇に膝をついた。

  見上げる視線の先、シン君は身構えるでもなく、どこか呆れたような、複雑な眼差しで僕を見下ろしている。

  「君が毒を盛って僕を殺そうとするのも、不器用にお弁当を作るのも、僕の剥いたりんごを食べるのも……全部、愛おしくなっちゃったんだよ」

  僕の手が、そっと彼女の小さく膨らんだお腹に触れる。 シン君は一瞬だけ体を強張らせたけれど、その手を振り払うことはしなかった。

  「……バカじゃねぇの」

  シン君は深く溜息をつき、頭上の長い耳をぺたりと寝かせた。

  「最初はぶっ殺して腹かっさいてやろうかと思った。……でも、お前が毒入りの食事をありがたがって食ったり、擦り傷ひとつで焦って水ぶっかけたりすんの見たら……なんか、怒るのも不毛になってきたんだよ」

  「……シン君?」

  「別に、あの日のことを許したわけじゃねえ。これからも隙があったらお前のことは殺しにかかる」

  「え」

  「でも、俺は坂本さんの弟子だ。過去に囚われて死んだフリすんのは、もうやめた。……お前が俺を要らねぇって捨てないなら、俺もこのガキとここで生きてやるよ」

  粗暴で、けれどどこまでも真っ直ぐな言葉。

  シン君は僕の手の上に自分の温かい掌を重ね、ふっと小さく鼻を鳴らした。

  「だから……もう二度と、しょうもねぇ嘘つくなよ」

  「……うん。約束するよ」

  胸の奥に詰まっていた冷たい重圧が、スッと溶けて消えていく。

  僕は重ねられた小さな手を握り返し、そのまま彼女の額に、静かに誓いのキスを落とした。

  シン君は照れ隠しのように鼻を鳴らし、僕の肩へ額を預けた。

  小さく膨らんだ腹を包むように重ねた二人の手だけが、朝の光の中で静かに温もりを分け合っていた。

  ----

  季節が巡り、セーフティハウスの外の空気に冷たさが混じる頃、シン君のお腹は服の上からでもはっきりと分かるほど大きく、円やかになめらかな膨らみを帯びていた。

  妊娠後期。身体の重心は完全に変わり、長時間の歩行や激しい運動は物理的に不可能な時期に入っている。

  そして、それに比例するように、僕——南雲の「管理」は、より一層過敏で、冷酷なまでに完璧なものへと変貌を遂げていた。

  「……南雲。これ、何だ」

  昼下がり。リビングで、シン君が呆れたような声で僕を呼んだ。

  彼女の目の前に積み上がっているのは、今朝コンシェルジュ経由で届いた巨大なダンボールの山だ。

  「何って、これから生まれてくる僕たちの赤ちゃんのための準備品だよ」

  「……見りゃわかる。聞いてんのは、なんで『うさぎ』ばっかりなのかってことだ」

  シン君が指刺した箱の隙間から覗いているのは、柔らかいパステルカラーのベビー服や、肌触りの良いおくるみ、小さな靴下。そのすべてに、ぴょこんと可愛らしいウサギの耳や刺繍があしらわれていた。

  「うさぎ獣人の子供は、基本的に父親の種族——つまり黒豹の形質を引き継ぐんだろ? 生まれてくるのは黒豹だ。なんでウサギ柄なんだよ」

  「だって君の耳、可愛いし」

  「は」

  「子供にも一回くらい付けてみたい」

  「……はぁ」

  「僕の黒豹の血なんて無駄に頑丈で可愛気がないんだからさ〜、せめて身に付けるものくらい可愛くしてあげたいでしょ?」

  僕はコーヒーカップをテーブルに置き、ソファに腰掛けるシン君の隣へ歩み寄った。

  僕が一歩近付くだけで、彼女の頭上のうさぎの耳がぴくりと揺れる。

  逃げ場をなくすように隣へ腰を下ろし、大きくなった彼女のお腹へそっと手を添えた。服越しに伝わってくるのは、僕と彼女の血を引く、力強く温かな胎動。

  「……それにね」

  僕はシン君の耳元へ顔を寄せ、密やかに言葉を滑り込ませた。

  「姿形は僕に似てもいいけれど……性格は、絶対にシン君に似てほしいんだ」

  「……は?」

  「僕に似たら、きっと嘘つきで、根曲がりで、人を騙すような嫌な奴になっちゃうからね。」

  言ってから、自分で少し笑ってしまった。

  そんなもの、この子には要らない。

  坂本くんの光を追いかけ、僕の嘘すら受け止めてここに居てくれる、この強い最弱のうさぎの心を継いでほしいのだ。

  「……勝手なこと言ってんじゃねぇよ。俺だって殺し屋だし、ロクな性格してねぇ」

  シン君は不機嫌そうに顔を背けたが、お腹に添えられた僕の手を払いのけることはしなかった。

  それに気を良くして、照れ隠しに耳をぺたんと寝かせる彼女の髪を一束指先で取って弄っていると、シン君はどこかうんざりした声を漏らす。

  「……なぁ、南雲」

  「ん?」

  「お前、最近やりすぎだ」

  シン君の目が、鋭く僕を射抜く。

  「刃物は全部没収。廊下には滑り止めのマット。俺が少しでも一人で動こうとすると、お前は無音で後ろに立ってる。……俺を、なんにも出来なくするつもりか?」

  「そうだよ」

  僕は微笑みを一切崩さず、即答した。

  「今の君は、僕が本気になれば指一本で壊せてしまうくらい繊細な体なんだよ。……外には一族の刺客や、僕の首を狙う奴らがごろごろいる。君とこの子に万が一のことがあったら、僕は正気でいられる自信がないからね」

  脅迫でも懇願でもない。

  ただの事実として告げた感情の重さに、シン君は息を呑んだ。

  今の僕にあるのは、彼女を絶対に手放さないという執着と、失うことへの恐怖だ。

  「……だったらなおさらだろ。俺は、守られるだけの玩具じゃねぇよ。坂本さんの弟子だ」

  シン君は僕の腕を掴み返し、力強く言い放った。

  「子供が生まれれば、俺はもっと強くならなきゃならねぇ。お前がいくら過保護になろうが、俺は俺の足で立つ……ナイフは一本返せ。自分の身くらい、自分で護る」

  引き下がらない強い瞳。

  僕の管理下に甘んじることなく、殺し屋としての、そしてこれから親になる者としての誇りを捨てない彼女の言葉に、僕は思わずくすりと口角を上げざるを得なかった。

  「……本当に、強いんだから」

  僕は彼女の手首を優しく握り返し、その指先に小さく口づけた。

  「分かったよ。小型のペティナイフ一本だけ、君の手の届くところに置いてあげる。……ただし、僕の目の前以外で振り回さないこと。いいね?」

  「それ、あんま意味ねーだろ」

  「あるよ。僕がそばにいる上で万が一、君に届かなかった時のために使って」

  互いに一歩も引かない、殺し屋同士の妥協点。

  シン君は溜息をつきながら、テーブルに出されたうさぎ柄のおくるみをひとつ手にとると、「……肌触りだけは悪くないか」と小さく呟いて、僕の肩へぽんと頭を預けてきた。

  重くなる身体と、日に日に強くなる胎動。

  セーフティハウスを満たす静けさの中で、黒豹と、小さくも強いうさぎは、確かに二人だけの「家族」の形を創り上げていた。

  ----

  小さな手が、僕の指をギュッと握りしめて離さない。

  生まれてきた男の子は、僕の予想通り、見事なまでに僕の形質を引き継いでいた。

  漆黒の毛並みと、引き込まれるような真っ黒な瞳。

  一族の老いぼれたちが見たら「優秀な黒豹の血だ」と歓喜して万歳三唱でもしそうな、完璧な捕食者の姿形。

  けれど——。

  「うにゃぁっ!!」

  ベッドの上で小さな手足をバタつかせ、気に入らないことがあるとまっすぐに僕を睨みつけて威嚇してくるその不器用で頑固な気性は、どう見てもシン君の血だった。

  自分より遥かに巨大な僕相手にも臆することなく、真っ直ぐに感情をぶつけてくるその瞳。

  見るたびに愛おしくて、僕は目元を緩めずにはいられない

  「ねぇ、見てよシン君。この子、お腹が空くと僕の手を威嚇しながら噛んでくるんだよ。生意気で可愛いと思わない?」

  「……誰に似たんだか」

  ベッドの中で、まだ体力が戻り切っていない身体を丸めているシン君が、呆れたように息を吐く。

  頭上のうさぎの耳は疲れたようにぺたりと寝ているけれど、その表情には以前のような尖った殺気も、過去に囚われた陰りもない。

  「誰に似たって……君に決まってるじゃない。僕の血だけだったら、もっと愛想笑いの上手な嫌な奴になってたよ」 「俺はそんなに威嚇しねぇよ」

  「嘘だ。出会った初日、僕の首元にナイフ突きつけて威嚇してきたの誰だっけ?」

  「……」

  言い返せずに苦虫をかみ潰したような顔をするシン君。 その横顔を眺めながら、僕は我が子の頭をそっと撫でた。

  黒豹の血を引くこの子は、うさぎのシン君が命懸けで産み落としてくれた僕たちの宝物だ。

  あの冷たい一族の屋敷で、八つ当たりと歪んだ執着から始まった関係。

  坂本くんという過去の影に囚われ、お互いに傷つけ合うことしか知らなかった僕らが、まさかこんな風に「家族」として穏やかな朝を迎える日が来るなんて、昔の僕なら想像もできなかっただろう。

  「……おい、南雲」

  「ん?」

  「そろそろ俺も動く。ずっとベッドの上にいさせられたら、腕が鈍る」

  シン君がシーツを跳ね除け、ふらりと立ち上がろうとする。

  殺し屋としての本能が、身体の鈍りを拒絶しているのだろう。

  だが——。

  「ダメだよ」

  僕は我が子を抱っこ紐で胸元にしっかりと固定すると、無音の足取りでシン君の目の前に立ちふさがった。

  「シン君はまだ休んでて。産後の身体を舐めちゃダメだよ。君に万が一のことがあったら、僕とこの子は生きていけないんだから」

  「……また始まった、お前の過保護」

  シン君は心底嫌そうな顔をして、眉根を寄せた。

  「俺はもう普通に歩けるし、自分のことくらい自分でできる! 抱っこくらい代われ!」

  「ダメ。今のシン君は羽毛より軽いんだから、風が吹いたら飛んでっちゃうよ。ほら、ベッドに戻って」

  「飛んでくわけねぇだろ!!」

  シュッ——と、空気を切り裂く鋭い音。

  「おっと」

  僕は首を数ミリだけ傾け、間一髪で目の前を通り過ぎたペティナイフをかわした。

  ナイフは背後の壁に深々と突き刺さり、軽やかな金属音を響かせる。

  「危ないなぁ。赤ちゃんの前で刃物振っちゃダメでしょ〜?」

  「お前なら絶対避けるだろ」

  まだこの子がお腹の中にいた頃、僕が折れて返してあげたあのペティナイフだ。

  あの後もシン君は護身用として使うことはなく済んだのでよかったのだけれど。

  我が家にはまたこうして、賑やかで物騒な日常が戻ってきた。

  僕の胸元で、抱っこ紐に収まった小さな黒豹が「にゃう」と短く鳴いた。

  まるで、父親にナイフを投げつける母親の姿を、面白がって応援しているかのように。

  「ほら見て、この子も『お母さん、暴れちゃダメ』って言ってるよ」

  「嘘だ。俺に似たなら、ぜってー言ってない」

  シン君の横顔からは、もう坂本くんへの未練も、世界への絶望も感じられなかった。

  かつて失うことを恐れて嘘を重ねていた僕も、もうどこにもいない。

  僕の首元を狙うナイフの鋭さも、投げつけられる暴言も、そのすべてが僕とこの子に向けられた彼女なりの愛情の裏返しなのだと、今の僕なら痛いほど分かっているから。

  「はいはい、分かったから。……ほら、林檎剥いたんだ。美味しいうちに食べて?」

  「……毒、入ってねぇだろうな」

  「入ってるわけないでしょ。愛しか入ってないよ」

  「剥いただけだろ」

  毒づきながらも、僕の手から小さく切り分けた林檎を受け取り、シャリシャリと音を立てて頬張る。

  あの日、毒入りの食事を囲んでいた僕らには想像もできなかった、ありふれた朝。

  僕の胸元では、小さな黒豹が満足そうに喉を鳴らしていた。

PRPR