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飼い主はペットに似る

  「ペットは飼い主に似る」と言われる。しかし、その逆も然りーーー

  ある日、遥かはワンルームマンションの一室に佇んでいた。その脇には柴犬のココがいた。

  その時だった。ズズズ、と遠くの空が低く鳴り響いた。

  夏の夜特有の、突然の雷鳴。それは人間にとって「あ、雷が鳴っているな」と客観的に認識する程度の、少し大きめの環境音に過ぎないはずだった。

  しかし、その音が遥の鼓膜を震わせた瞬間、彼女の背筋に氷水を浴びせられたかのような猛烈な戦慄が走った。

  「ひっ……! ぅ、ぅう……」

  考えるよりも先に、四肢の筋肉が恐怖で硬直する。遥はソファの上で、膝の上のココと全く同じ姿勢で頭を低く下げ、丸くなって激しく身体を震わせ始めた。

  それは理性を介さない、純粋な野生の恐怖。どこに逃げれば安全なのか、この恐ろしい破裂音からどうやって身を守ればいいのか。激しく脈打つ心臓の音が耳の奥でうるさいほどに響き、彼女はただ、嵐が過ぎ去るのを待つ従順な犬のように、ソファのクッションの隙間に頭を強く押し付けることしかできなかった。

  「いけない。これじゃまるで犬じゃない」

  そう思った時には、「変化」は始まっていた。

  [newpage]

  それから数週間後だった。

  ある朝。スマートフォンの無機質なバイブレーション音が届いた。画面に表示されたのは、今日一日彼女を散々振り回し、夜遅くまで残業を強いた上司からの、信じられないほど身勝手な追加タスクの連絡だった。

  いつもなら、大音量で鳴り響くスマホのアラームに驚くココが先に反応するだろう。しかし、先に反応したのは遥だった。

  「……ッ、るるるる……ッ!」

  不快な着信音に対して湧き上がった怒りは、ストレートに彼女の「顔」へと剥き出しになった。上唇が不自然にめくり上がり、鋭くなった歯茎が剥き出しになる。鼻筋に深い皺を刻み、眉間を極限まで寄せたその表情は、縄張りを荒らされた柴犬が怒りを露わにするときの顔そのものだった。

  さらに、喉の奥からは言葉にならない、低く地響きのような「ガルルル……」という威嚇の唸り声が漏れ出す。スマートフォンという不快な物体を敵と見做し、今にも飛びかかって噛み砕かんばかりに、犬としての獰猛な敵意を全身から発散させていた。

  その時だった。ココが訝しげに首を傾げた。

  「....はっ」

  遥はようやく我に返る

  「私って、バカみたい」

  怒りと恐怖、そして急速に進む肉体の再編に伴って、遥の体内には凄まじい熱量がこもり始めていた。そして、ここ数日の猛暑が追い打ちをかけた。

  人間なら「エアコンの温度を下げよう」と思いつくはずだった。だが、遥の思考はすでにそこまで回らない。ただ、この体内の沸騰するような熱さをどうにかして外へ逃がしたい――その本能が、遥の口元を勝手に動かした。

  「はっ、はっ、はっ、はっ……」

  遥は口を大きく開けると、だらりと長い舌を外へと突き出した。そして、浅く激しい呼吸――犬特有の「パンティング」を始めたのだ。

  ハァハァと激しく空気を出し入れし、舌の表面の水分を蒸発させることで体温を下げようとする家畜の習性。汗腺を失い、喉と舌だけでしか体温調節ができなくなった肉体にとって、それは涙が出るほど心地よく、効率的な行動だった。

  口角からは透明なヨダレがひと筋、肉球へと変化した手のひらへと滴り落ちる。自分が今、どれほどはしたなく、獣じみた姿で舌を突き出しているかという羞恥心すら、心地よい熱風の中に溶けて消えていった。

  [newpage]

  膝の上には、柴犬のココ。

  丸まって、静かに眠っている。

  「ほんと、私たち似てるよね」

  誰に言うでもなく呟く。

  怒ったとき、顔に出る。大きな音を聞いたとき、身体を震わせる。そして、暑いときには舌を出す。

  あれ...?

  そのときだった。

  指先が、かすかにむず痒くなった。スマホを握る指が、わずかに震える。

  関節が柔らかく沈み、指の長さが詰まっていく。五本の境界が曖昧になる。皮膚が引き寄せられ、掌が一つの丸い塊へまとまり始める。爪が、硬く、厚く、ゆるやかな弧を描いて伸びる。やがて黒く、鋭い爪が姿を現す。

  両足にも同じ変化が起きる。床に触れたとき、弾力のある柔らかさが衝撃を吸収した。

  慌てて両足を見ると、黒いクッション状の物体ーー肉球が露わになった。

  「……え?」

  遥は息を呑む。

  太ももに違和感が走る。筋肉がしなり、関節の向きがわずかに変わる。膝が深く曲がる。

  足の裏が丸くなり、かかとが浮く。指が縮み、爪が硬く形成される。

  立っているはずなのに、四つ足で立つ姿勢が自然になっていく。

  背骨がしなる。肩幅が狭まり、体幹が収束する。

  重心が低くなり、身体が丸みを帯びる。

  胸の奥が軽くなる。

  「はぁっ、はへっ、へぇっ、へっ、へっ...」

  息が浅く速くなり、リズムが犬のそれに近づく。

  「……あ……」

  視界が低い。家具が大きく見える。世界が、少しだけ広がった。

  鼻筋が短くなる。先端が黒く湿り、空気の流れをはっきりと感じ取る。

  口元が前へ伸び、顎が柔らかく再編される。三角形だった鼻が丸形に変わる。

  歯が鋭く整列し、舌が少し長く、厚くなる。

  言葉が詰まり、代わりに短い呼気が漏れる。

  「……へっ」

  頬の骨格が変わる。顔の中央が前へと突出し、短いマズルが形成される。

  鼻と口が一体化した構造。匂いが、形を持つ。

  床の木材。ココの毛。遠くの夕食の残り香。

  すべてが立体的に分かる。

  視界が一瞬ぼやける。

  次の瞬間、動くものだけが鮮明になる。

  瞳孔がわずかに広がり、光の感度が増す。

  色は少し褪せるが、輪郭が強調される。

  遥は、ココの胸の上下をはっきりと捉えた。

  こめかみが熱を持つ。

  耳が上へ移動し、三角形に整えられる。

  頭頂部に移動した両耳が柔らかく立ち上がる。音に敏感に反応するセンサーのごとく音を集める。

  冷蔵庫の微振動。外の車のタイヤ。ココの寝息。世界が、音で満ちる。

  変身も最後の仕上げに入っていた。

  頭皮が軽くなる。髪がさらさらと抜け落ち、代わりに短い毛が密に生える。一瞬麻痺したような感覚を覚えると、首から背中へ、頭皮を埋め尽くした体毛と同じ茶色の毛が波のように、野火のように広がる。腕、脚、腹。全身を覆う被毛が、皮膚を守るように密度を増す。

  温度が、均一になる。

  背骨が圧縮される。身体が小さくなる。

  床が近づく。家具が遠ざかる。天井が高くなっていく。

  服が余り、服の中に埋もれていく。

  しばらくすると、自分の身体がココと同じ高さになった。

  尾てい骨が疼く。

  熱が集まり、骨が伸びる。背骨が強い力で引っ張られるような感触がした。

  「わ、わぉーーん!!!!!!!!!」

  痛みのあまり、声を出すも既に「人」のものではなくなっていた。

  尾てい骨が伸びるように「尻尾」が姿を見せる。そこに毛が絡みつき、ふわりとした尾が現れる。

  感情に呼応して揺れる。

  それは自分の内面が外に出た形だった。

  遥は、柴犬になっていた。

  ココが目を開ける。

  驚かない。

  ただ、近づき、鼻をそっと触れ合わせる。まるで匂いを確かめるように。

  遥は、喉の奥から小さく音を漏らす。

  「……くぅ」

  それは言葉ではない。だが、意味は伝わった。ココの尾が揺れる。

  遥の尾も揺れる。二つの尾が、同じリズムで動いた。

  人間がいた痕跡は、持ち主を失ったシャツとズボンだけだった。

  完

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