カバ舎の新入り
佐倉美咲は動物園の飼育員だった。
担当はカバ。
そして彼女は、そのカバが大嫌いだった。
大きな身体。
鈍重な動き。
泥だらけの生活。
来園者たちが「かわいい」と言うたびに理解できなかった。
どうしてこんな動物が人気なのか。
そう思っていた。
最近の美咲は特に機嫌が悪かった。
一週間前、恋人に振られたばかりだったからだ。
理由ははっきり告げられていた。
「ごめん。」
別れ話の席で彼は気まずそうに言った。
「正直に言うと、俺はもっと胸の大きい人が好みなんだ。」
美咲は耳を疑った。
「……それが理由?」
「それだけじゃないけど。」
彼は視線を逸らした。
「ずっと気になってた。」
その言葉は美咲の心を深く傷付けた。
以来、鏡を見るたびに思い出す。
怒りと屈辱は消えなかった。
そしてその感情は、弱い立場の相手へ向けられるようになっていた。
担当動物であるカバたちへ。
勤務態度は悪化の一途を辿った。
職員から苦情が出る。
来園者からも指摘される。
ついに園長は彼女を呼び出した。
「最近の態度を改めなさい。」
園長は厳しい表情だった。
「このままでは大変なことになる。」
しかし美咲は聞き流した。
どうせ説教だと思った。
その朝のコーヒーに特殊な薬剤が混ぜられていたことも知らずに。
◇
午前九時。
勤務開始。
美咲は不機嫌なままカバ舎へ向かった。
巨大な雌カバが水辺で休んでいる。
その姿を見ただけで苛立った。
恋人の言葉が脳裏に蘇る。
胸の大きい人が好き。
その言葉が何度も何度も繰り返される。
「最悪……。」
美咲は餌箱を乱暴に置いた。
だが気分は晴れない。
むしろ怒りは増すばかりだった。
すると一頭のカバが近付いてきた。
餌を欲しがっているだけだった。
しかし今の美咲にはそう見えなかった。
「近寄らないで!」
苛立ちのまま怒鳴る。
カバは驚いて立ち止まった。
それでも怒りは収まらない。
美咲は手に持っていた掃除用具を振り上げた。
そしてカバを乱暴に叩いた。
鈍い音が響く。
カバは苦しそうに後退した。
その瞬間だった。
胸の奥が熱くなる。
「……え?」
違和感。
胸元が急激に張り始める。
制服がきつい。
美咲は目を見開いた。
胸が膨らんでいた。
目に見えて。
急速に。
「うそ……。」
憧れていた変化だった。
思わず笑みが浮かぶ。
しかし。
次の瞬間。
膨らんだ胸は急速に萎み始めた。
張りを失う。
垂れ下がる。
「なにこれ!?」
今度は腹部が膨らみ始める。
前へ。
前へ。
異常な勢いで突き出していく。
制服のボタンが飛んだ。
「いやっ!」
怒鳴る。
だがその怒りが変化を加速させた。
脚が太くなる。
腕が重くなる。
皮膚が灰色へ変色していく。
「誰か!」
助けを呼ぶ。
しかし変化は止まらない。
顔が前へ伸びる。
鼻が巨大化する。
首が太くなる。
全身の骨格が変貌していく。
美咲は恐怖した。
だが恐怖は怒りへ変わる。
怒りは薬の効果を強める。
悪循環だった。
「ふざけるなぁ!」
叫んだ瞬間。
身体はさらに巨大化した。
四肢は短く太くなる。
指は失われる。
重たい身体が地面を揺らした。
数分後。
変化は終わった。
そこにいたのは。
巨大な雌カバだった。
美咲が嫌悪し続けていた動物そのもの。
「ブォォォォッ!」
叫ぶ。
だが人間の言葉は出ない。
巨大な身体は重い。
起き上がろうとしても思うように動けない。
泥の上でもがく姿は無様だった。
そしてその姿を。
先ほど叩かれたカバが静かに見つめていた。
◇
園長は監視カメラの映像を見つめていた。
変化が始まった瞬間は明確だった。
動物へ暴力を振るった時だった。
「最後の機会だったんだがな……。」
園長は静かに呟く。
薬の効果は八時間。
怒らずに過ごせば元に戻れた。
だが美咲は開始直後から怒り続けた。
そして暴力を振るった。
結果。
変化は不可逆となった。
◇
カバになってから最初の数日は、混乱の日々だった。
美咲の意識はまだ人間のままだった。
どうにかして元へ戻ろうと考える。
どうにかして園長へ訴えようとする。
しかし人間の言葉は出ない。
巨大な口から漏れるのはカバの鳴き声だけだった。
そんな中。
彼女は別の異変に気付く。
空腹だった。
異常なほどに。
朝に餌を食べても空腹。
昼に食べても空腹。
夕方になっても空腹。
胃袋に穴が開いているのではないかと思うほどだった。
「ブォ……。」
もっと食べたい。
その欲求だけが頭を支配する。
最初は必死に耐えようとした。
だが無理だった。
身体が勝手に餌へ向かう。
干し草。
野菜。
果物。
与えられるものを片っ端から食べる。
止めたくても止まらない。
満腹感が来ない。
まるで底なしだった。
◇
やがて来園者たちもその様子に気付き始めた。
「あのカバ、すごく食べる!」
「見て見て!」
「ずっと食べてる!」
噂は広がった。
大食いカバとして。
動物園の名物として。
休日になると人だかりができる。
餌やりイベントまで企画された。
もちろん安全管理のため制限はあった。
しかし来園者は次々に餌を与える。
美咲は食べる。
食べる。
食べる。
ひたすら食べる。
歓声が上がる。
さらに餌が与えられる。
悪循環だった。
◇
数年後。
その身体は見違えるほど巨大になっていた。
いや。
巨大という表現では足りない。
脂肪が積み重なり続けた結果。
歩くことすら難しくなっていた。
腹は地面へ広がる。
脚は身体を支えるだけで精一杯。
立ち上がることも一苦労だった。
ついには。
自力でほとんど移動できなくなった。
餌は飼育員が運んでくる。
来園者はガラス越しに眺める。
そして相変わらず歓声を上げる。
「あのカバ今日も食べてる!」
「かわいい!」
「すごい食欲!」
美咲は聞いていた。
だが。
最近はその意味を考えなくなっていた。
◇
食欲。
食欲。
食欲。
頭の中にあるのはそればかりだった。
餌を見る。
食べる。
眠る。
起きる。
また食べる。
それだけ。
昔は人間だった。
その事実は覚えている。
だが。
思い出そうとすると妙に遠い。
昔の恋人の顔。
職場の同僚。
園長。
自分の名前。
どれも少しずつ曖昧になっていた。
「ブォ……。」
餌を咀嚼する。
何か大切なことを忘れている気がする。
だが。
考えるより先に餌へ意識が向く。
空腹が勝つ。
いつからだろう。
人間に戻りたいと思わなくなったのは。
◇
ある日の夕方。
園長はカバ舎の前に立っていた。
巨大な雌カバは今日も餌を食べ続けている。
その瞳には。
かつての激しい怒りも。
憎しみも。
ほとんど残っていなかった。
ただ食べ物を追う本能的な視線だけ。
園長は静かに目を伏せる。
獣医が小さく尋ねた。
「もう人間の記憶は……。」
園長は首を横に振った。
「まだ少しは残っているだろう。」
そして続ける。
「だが、それも長くはない。」
巨大なカバは餌を飲み込む。
次の餌を探す。
ただそれだけ。
もし数年後に彼女へ問い掛けたとしても。
自分が誰だったのか。
何をしていたのか。
なぜここにいるのか。
答えられないかもしれない。
そしていつの日か。
彼女は完全なカバになる。
身体だけでなく。
心も。
記憶も。
本能だけを残して。
その時にはもう。
佐倉美咲という人間が存在していたことを知る者はいても――
本人だけは、永遠に思い出せなくなっているのかもしれなかった。