白熊は、孤独に喘いで愛を知る【後日談】

  静けさが、部屋の中いっぱいに沈んでいる。

  午前の光はもう白く強くて、カーテンの隙間から床に細い筋を落としていた。冷蔵庫が低く唸り、止まる。遠くで車が走る音がする。その合間に、壁掛け時計の針だけが、律儀に時を刻んでいた。

  私はさっきから、台所とリビングを何度も往復している。

  テーブルの上には、[[rb:雪音 > ゆきと]]くんが置いていった買い物リスト。洗濯機の前には、朝まとめた洗濯物の籠。どちらも目に入っているのに、手だけがそこへ伸びない。

  冷蔵庫を開ける。

  中には、昨日の残りの豆腐、半分だけ使った長ねぎ、卵のパック、口を折った味噌の袋。冷気が頬に当たり、ぼんやりしていた頭が少し澄む。けれど、扉を閉めた途端、思考はまた同じところへ引き戻されてしまう。

  牛乳、卵、鶏もも、長ねぎ、豆腐、味噌。

  メモに書かれた字を指でなぞる。角が少し丸くて、急いだところだけ線が細く跳ねている。雪音くんの字だ。見慣れているはずなのに、こうして私一人で眺めていると、胃のあたりを指先でくすぐられているみたいにそわそわする。

  今ごろ、何を話しているのだろう。

  久しぶりに会う友人だと言っていた。同年代の、気心の知れた相手なのだろうか。私の知らない昔話をして、笑ったりするのだろうか。私の前で見せる顔とは少し違う、年相応の、気の抜けた顔をしていたりするのだろうか。

  そう考えたところで、何がどうなるわけでもないのに、心のどこかに小さな棘みたいなものが刺さる。

  「夕方までには帰りますから」

  玄関で靴を履きながら、[[rb:雪音 > ゆきと]]くんはそう言った。

  それから、まるで私がひとりで留守番をする子どもみたいに、

  「洗濯、お願いしますね」

  「買い物は、このメモのぶんだけで大丈夫です」

  と、穏やかな声で念を押した。

  分かっています。

  洗濯も、買い物も、それから、彼には秘密で受け取る荷物のことも。

  分かっているのに、今日は体の置き場がない。

  洗濯機の前に立ち、籠の中からシャツを一枚つまみ上げる。白い生地が、指のあいだでやわらかく折れた。雪音くんのシャツだ。干したときについた柔軟剤の匂いの下に、ほんの少し、彼自身の匂いが残っている。

  私はそれを、鼻先へ寄せた。

  吸い込んだ瞬間、胸の真ん中に細い針がすっと通る。心臓が、ひとつ大きく脈を打つ。

  雪音くん。

  真っ白な毛並み。笑うと少し下がる目尻。買い物袋を片手で持って、もう片方の手で私の手をそっと握ってくれる仕草。

  「[[rb:冬樹 > ふゆき]]さん」と呼ぶ声。

  振り返ったときの、あのまっすぐな目。

  雪音くん。

  雪音くん。

  雪音くん。

  頭の中に浮かぶたび、甘い痛みが全身へ広がっていく。息を吸い込むほどに喉の奥がじんと熱を持ち、たった一枚のシャツなのに、指先から腕へ、腕から背中へ、何かやわらかい火が移っていくみたいだった。

  ——けれど、シャツの襟元に残る匂い程度では、もうとても足りなかった。

  私の片手は洗濯籠のさらに奥深くへと沈んでいく。他の衣類を掻き分け、一番底のほうに丸まっていた黒いボクサーパンツを引っ張り出す。手探りだけで迷いなくそれを見つけ出す手つきには、我ながら一切の淀みがない。

  雪音くんがいない間にしかやらないのだから、彼には絶対にバレていないはずだ。私はそう自分に言い訳をして、両手で広げた下着に、顔を深く埋めた。

  すうっ、と息を深く吸い込む。

  柔軟剤の香りで誤魔化しきれない、濃厚な雪音くんの臭いが鼻腔を直接殴りつけてきた。布の繊維にねっとりと染み込んだ、彼という雄の生々しい体臭。

  「ぁあ……っ♡」

  だらしない吐息が漏れた。肺の奥まで雪音くんで満たされ、足の力が抜けてそのまま床にへたり込む。

  もし、今ここで彼が帰ってきたら。洗面所の扉が開いて、この無様な姿を見られたら。

  いったい、どんな顔をするだろう。

  いつも穏やかに微笑むあの目尻が、さっと冷たく凍りつくだろうか。

  『冬樹さん、何をしてるんですか』

  信じられないものを見るような、底知れぬ嫌悪を込めた目を向けられるだろうか。さすがの彼でも、いい年をしたおじさんが、恋人の下着を握りしめて鼻を押し当てている姿を見たら、顔を引き攣らせるに違いない。

  汚いものでも見るように見下ろされる。冷たい声で蔑まれる。

  ——ああ。

  想像しただけで、分厚い背中の毛をぞくぞくと甘い電流が駆け上がっていった。下腹部がきつく締まり、内側からカッと異常な熱が込み上げてくる。

  引かれたい。軽蔑されたい。あのまっすぐな目で、私のことを「変態」だと、冷たく見下ろしてほしい。

  「っ、はぁ、雪音くん……っ♡」

  もう止まらなかった。

  私は鼻先をさらに布地の股ぐらへと擦りつけながら、浅く荒い息を何度も繰り返す。理性のブレーキなどとうに壊れている。ただ彼の濃厚な臭いを貪り、頭の中は彼に軽蔑される妄想でぐちゃぐちゃに沸騰していた。

  ……何をしているんだ、私は。

  頭の隅で、わずかに残った冷静な自分が呆れている。

  洗濯しなければいけないのに。今日はこれを回して、干して、買い物にも行かなければいけないのに。

  手放して、シャツと一緒に籠へ戻すべきだ。けれど、指先は勝手に布をきつく握りしめ、顔から離そうとしない。鼻の奥には彼の強烈な気配が居座ったまま、麻薬のように全身を痺れさせている。

  洗剤を手に取ることもできず、私はただ床に座り込んで荒い息を吐き続けた。

  駄目だ。本当に、駄目だ。

  「……しっかりしなさい、私」

  口に出してみる。声は思ったより掠れていた。

  玄関のほうへ目をやる。

  まだか。まだでしょうか。そろそろでしょうか。

  そのたびに、下腹部がそわそわと波打つ。

  届いたら。箱を開けたら。それを身につけた自分を、雪音くんが見たら。

  そこまで考えたところで、身体の芯がまた甘く疼いた。

  私は両手で頬を覆う。熱い。指先まで熱が回っている。

  「……雪音くん」

  名を呼ぶだけで、息が詰まる。

  そのときだった。

  玄関のほうで、電子音が短く鳴る。一拍遅れて、インターホンが響いた。

  私はびくりと肩を震わせる。

  心臓が跳ね上がった。先ほどまで沸騰していた頭が、無機質な音によって無理やり現実に引き戻される。部屋のあちこちに散っていた時間が、いっぺんに玄関のドアへと集まっていく。

  来た。

  洗濯機の前から慌てて立ち上がる。床を踏む足の裏が浮きつくように軽い。けれど膝の裏だけが、小刻みに震えていた。

  急ぎ足で玄関へ向かい、ドアを開ける。

  「こんにちは、お届け物です」

  目の前には、段ボール箱を抱えた配達員が立っていた。

  「ご苦労様です」

  荷物を受け取ろうと両手を差し出した、その瞬間だった。

  配達員の視線が、すっと私の手元へ落ち、そのまま動かなくなる。

  釣られて、自分でも手元を見下ろした。

  右手には、雪音くんの白いシャツ。

  そして左手は、先ほどまで顔に押し当てていた彼の黒いボクサーパンツを、しっかりと握りしめたままだ。

  呼吸が止まる。

  チャイムの音でパニックになり、手放すのを忘れていた。

  配達員の目が、わずかに見開かれる。初夏の空気が、玄関先だけすうっと冷え込んでいくのを感じた。

  「っ、ちが、これはっ、洗濯、の途中で……!」

  裏返った声が喉から飛び出した。弾かれたように両腕を後ろへ回し、布の塊を背中へ隠す。

  顔面がカッと熱を帯びた。先ほどまでの甘い興奮など跡形もなく吹き飛び、嫌な汗がどっと首筋を伝い落ちる。

  愛する彼から蔑まれるのは至上のご褒美でも、見ず知らずの他人に『他人の下着を握りしめた変態』として警戒されるのは、ただの社会的死でしかない。

  「……こちら、受領のサインをお願いします」

  数秒の重苦しい沈黙のあと、配達員は何事もなかったかのように電子端末を差し出してきた。表情は能面のようになっている。そして、明らかに半歩ほど距離を取られている。

  私はパンツを背中に隠した不自然な姿勢のまま、左手で端末を支えることもできず、冷や汗で滑る指をどうにか動かして画面にサインを書き殴った。

  「あ、ありがとうございます……」

  「失礼します」

  決してこちらと目を合わせようとしない配達員から箱を受け取り、逃げるように扉を閉める。

  がちゃり。

  鍵が落ちる硬い音が響いた途端、どっと全身の力が抜けた。

  下着を握り込んだままの左手と、右手。二本の腕のあいだに、思っていたより少し重い箱が収まっている。底を支える指に、段ボールの角がじわじわと食い込んでいく。

  部屋の真ん中まで運び、箱を床に置いた。

  しばらく見下ろし、やがて膝をつく。

  梱包テープに指をかける。うまく剥がれず、爪先が引っかかった。もどかしくて、端を強く引く。

  ばり、と乾いた音がした。

  その音だけで、脈が大きく跳ねる。中の薄いビニールが擦れ合い、さらさらと鳴いた。

  箱の中には、黒と、深い青。

  見慣れたはずの色が、折りたたまれた布のかたちで、静かにこちらを見返していた。

  私は口元を押さえる。けれど、こぼれるものは止められない。

  「……雪音くん、早く帰ってきてください♡」

  自分で言った声が、思ったよりずっと甘くて、私はそのまま箱を抱えるようにして床に座り込んだ。

  ◇

  テーブルの上に置いていたスマートフォンが、ブーッと短く震えた。

  『今駅に着きました。遅くなってごめんなさい。何か買っていくものありますか?』

  画面に表示された雪音くんからのメッセージ。

  私は小さく息を吐き、微かに震える指先を抑えながら、短い返信を打った。

  『大丈夫です。気をつけて帰ってきてくださいね』

  送信ボタンを押し、画面を伏せる。

  ふと顔を上げると、夕闇が混ざり始めたリビングの窓ガラスに、私の姿がぼんやりと反射していた。

  分厚い胸板と、丸太のような腕。

  それを隙間なく覆い尽くす、見慣れない黒い光沢。

  胸元や太ももにきつく食い込むベルトの感触が、呼吸をするたびに生々しく肌へ伝わってくる。少し動くだけで、キュッ、と生地が擦れるくぐもった音が鳴る。

  首元が苦しい。熱が逃げ場を失って、スーツの下でじっとりと汗をかき始めている。

  けれど、この不快な息苦しさすらたまらない。

  窓ガラスに映る自分を見つめていると、視界の端が白く明滅し、呼吸がさらに荒くなっていくのを感じた。

  帰ってきた雪音くんは、この私を見てどんな顔をするだろう。

  驚くか。呆れるか。それとも、怒ってくれるだろうか。

  あの日のように、痛いほど真剣な目で私を睨みつけ、その強い手で私の虚勢を引き剥がしてくれるだろうか。

  冷たい床に押さえつけられて、この忌まわしい装甲ごと、私の全部を暴いて——。

  玄関のほうで、鍵が回る金属音が響いた。

  「っ!」

  私は弾かれたように立ち上がり、慌ててテーブルの上のリモコンを掴んだ。

  ボタンを押し、リビングの照明を消す。

  部屋の中が、一瞬にして青黒い夕闇に沈んだ。

  リモコンをソファに放り投げ、リビングの扉から少し離れた位置に立つ。

  扉に背を向けるようにして、窓のほうを向いて立った。

  腰に手を当て、顎を少し上げる。彼に成敗されるべき者の立ち姿だ。

  ああ、早く。

  早くここへ来て、雪音くん。

  一番だらしなくて、醜くて、救いようのないこの私を見つけて。

  「ただいまー。……あれ?」

  玄関から、雪音くんの声が聞こえた。

  靴を脱ぐ音。床を歩く足音。

  その、なんてことのない日常の音が耳に届いた瞬間、下腹部にきゅうっと熱が集まり、ラバーに包まれた太ももが勝手に震えそうになる。

  今はあんなに穏やかな声が、この扉を開けた瞬間、どう変わる?

  鋭く低くなるのだろうか。息を呑むのだろうか。

  あの時のように、力ずくで私を組み伏せようと、本気の声を出してくれるのだろうか。

  スーツの胸元が、私の心拍に合わせて小刻みに軋む。

  リビングの扉が開く。

  廊下の明かりが、私の足元まで四角く伸びてきた。

  「冬樹さん? 真っ暗ですよ、どうしたんです……」

  雪音くんが部屋へ足を踏み入れた気配。

  私はわざとらしいほど優雅な動作で、ゆっくりと振り返った。

  空気が、変わった。

  本当に、一瞬だった。

  それまで部屋に漂っていた生活の匂いや、雪音くんが纏っていた外の空気が、ピタリと静止した。彼の足音が止まり、呼吸の音さえも途切れる。

  私は、目元を覆うマスクの奥で、口角を歪めた。

  「おかえりなさい、雪音くん♡」

  とろけるような甘い声を粘膜に乗せて吐き出す。

  廊下からの逆光を受け、雪音くんの表情は影に沈んで読めない。けれど、私を射抜く視線の熱だけが、肌へ痛いほど突き刺さってくるのが分かった。

  私の足元から、太もものライン、パツパツに張り詰めた腹部、そして胸のマークへと、彼の視線が這い上がってくる。

  そう。

  今の彼が見ているのは、いつもの私の姿じゃない。

  艶かしい黒いラバースーツに身を包み、肉に食い込むベルトと水色のラインをあしらった姿。

  あの日、ヴィランへと堕ちて彼を傷つけ、そして彼によって救い出された、忌まわしくも愛おしい姿。

  『エビルグレイシア』の姿だ。

  沈黙が、リビングを重く満たしている。

  雪音くんはスーパーの袋を提げたまま、彫像のように動かない。

  薄暗がりの中で、彼が僅かに息を呑んだ気配がした。

  「うふふ♡ どうしたんですか、雪音くん♡」

  私はわざと両手を腰に当て、胸を反らした。

  パツパツに張り詰めた黒いラバーが、ギュッ、と艶めかしい音を立てる。水色のラインが、私の太った曲線を強調するようにうねる。

  「エビル、グレイシア……」

  雪音くんの口から、掠れた声がこぼれた。

  その響きに、私の中の『スイッチ』が完全に切り替わる。

  「そうです。私はエビルグレイシア♡」

  私は一歩、彼へと歩み寄った。

  彼の視線が、私の太ももに食い込んだベルトをなぞるように動く。

  たまらない。

  見られている。あの日のように。

  見惚れているわけじゃない。彼が見ているのは、絶対的な「敵」だ。

  その真剣な眼差しが私の体を這い回るたび、頭の髄がトロトロに溶けていく感覚に襲われる。

  (ああ……雪音くん。今日の雪音くんも、すごくかっこいい……)

  口では冷酷な悪役を気取りながら、私の頭の中はそれだけで埋め尽くされていた。

  少し乱れた白い毛並み。戸惑いと警戒が入り混じった、鋭いシルエット。

  全部が、私に向けられている。私だけのものだ。

  その事実が、脳内の熱をどくどくと沸き立たせる。

  「私はずっと『私』の中に眠っていたんです♡」

  黒いラバーに包まれた指先を自分の首筋に這わせ、胸のマークへとねっとりと滑らせる。

  自分の口から吐き出された声は、ひどく甘く、湿っていた。

  「雪音くんに会いたくて、また表に出てきてしまいました♡」

  ただのごっこ遊びのはずなのに、体の奥から湧き上がる熱が言葉に乗り移り、本物のヴィランのような迫真の響きになってしまったことに、私自身が一番驚いている。

  だが、口にした台詞とは裏腹に、私の中にあの時の「別の人格」はもう欠片も残っていない。

  この黒いラバーの下でうねる醜い欲望も、だらしない劣情も、今ははっきりと「私自身」のものだ。

  雪音くんがあの腕で私を抱きしめ、ドロドロになった中身まで丸ごと掬い上げてくれたから。

  だから私は、こんなふうに堂々と、この悪の姿を纏うことができる。

  だからこそ、私はあの熱をもう一度感じたいのだ。

  この最も汚れた姿の私を、彼の手で、彼の力で、否定して、剥がして、そして許してほしい。

  彼の手で乱暴に組み伏せられ、怒られ、最後には呆れたように甘やかされたい。その強烈な渇望が、私の理性をドロドロに溶かしていく。

  「うふふ♡ さぁ、どうしますか? ここでは『あの日』みたいに激しい戦闘はできませんよ?♡」

  私はマスクの奥で艶然と微笑み、黒いラバーに包まれた太ももをゆっくりと交差させながら、ねっとりとした仕草で彼を誘惑した。自分の口からこぼれ落ちる甘い声と、この状況に、頭の芯がジンジンと痺れて完全に酔いしれている。

  「あの日とは別の方法で、私を『成敗』してみますか?♡」

  わざとらしく体をくねらせると、パツパツに張り詰めた腹部や太ももの生地が、ギュッ、ギュッと淫らな音を立てて軋んだ。

  (ああぁ気づいて、雪音くん。私を『成敗』するのは君の、その股間の——)

  期待と劣情で、下腹部がドクドクと重く脈打っている。完全に発情しきった思考が、脳内をどろりと白く塗り潰していく。

  さあ、早く。私の思惑に気づいて。呆れながらも、私を強い力でベッドに押さえつけて。

  私の言葉と仕草に、雪音くんの顔つきが変わったのがシルエットで分かった。

  戸惑いが消え、代わりに現れたのは、鋭利な刃物のような冷たい覚悟だった。

  (……っ、かっこいい……!)

  その引き締まった空気に、私の心臓が大きく跳ねる。

  だが、次の瞬間。

  私は、背筋に冷たい水を流し込まれたような錯覚を覚えた。

  (……あれ?)

  部屋の空気が、おかしい。

  先ほどまでの困惑を含んだ静けさじゃない。

  もっと質量のある、ひりついた殺気のようなものが、雪音くんの体から立ち昇っていた。

  彼が、手に持っていたスーパーの袋を、カサリと音もなく床に置いた。

  そして、ゆっくりと左腕を胸の前に持ち上げる。

  夕闇の中で、彼の手首に巻かれたデバイスが、鈍い銀色に光った。

  変身ブレスレットだ。

  (えっ?)

  雪音くんが、右手をそのブレスレットに添える。

  迷いのない、完璧な動作。

  その目は、完全に「ヴィラン」を排除する者の目をしていた。

  (まずい、まずいまずいまずい!)

  私は、自分が調子に乗りすぎていたことにようやく気づいた。

  雪音くんにとって、エビルグレイシアは「強敵」であり、私の精神を乗っ取った「悪夢」そのものだ。

  そんな姿で、あんなふうに煽られたら。彼が「私の精神がまた乗っ取られた」と誤解して、本気で私を「救助(物理)」しに来てもおかしくない。

  違う。そういうことじゃない。

  私が欲しかったのは、ベッドの上で呆れながら組み伏せられるアレであって、本気の戦闘じゃない。

  「ま、まま、まま待ってください、雪音くんッ!!」

  私はさっきまでのねっとりとした裏声をかなぐり捨て、地声で叫んだ。

  焦りのあまり、パツパツのスーツの中で手足をジタバタと振る。

  「わ、私、私正気です! だ、だだだいじょうぶです!!」

  叫びながら、両手で顔の前の空間を必死に払った。胸元の肉に食い込んだ水色のラインが、無様な動きに合わせてブルンと情けなく揺れる。

  「っ——?」

  ヒーローの変身ポーズを取ろうとしていた雪音くんの腕が、空中でピタリと止まった。

  夕闇の沈黙が、ふたたびリビングに降りてくる。

  ただ、先ほどまでのひりついた殺気は、もうどこにもなかった。

  雪音くんは左腕を中途半端に上げたまま、目をパチクリと瞬かせている。

  彼の視線が、私の顔と、揺れる腹部と、ジタバタしている両手を何度か往復した。

  張り詰めていた空気が、まるで穴の開いた風船からプシューッと音が鳴るように、猛烈な勢いでしぼんでいく。

  「……正気、なんですか」

  数秒の空白のあと。

  雪音くんが、感情の抜け落ちた、ひどく平坦な声で呟いた。

  「は、はい……」

  「精神干渉とか、洗脳とかじゃなくて?」

  「……はい」

  「その格好は、あなた自身の、純粋な意思で?」

  「…………はい」

  雪音くんは、そっと左腕を下ろした。

  そして、床に置いたスーパーの袋をカサッと拾い上げると、深々とため息をついた。

  ◇

  リビングの大型テレビからは、ひな壇に並んだ芸人たちの甲高い笑い声が、薄っぺらな音で響いている。

  いつもならソファで並んで見るバラエティ番組の音が、今の私には酷く遠く、そして冷たく聞こえた。

  二人で向かい合うダイニングテーブル。

  その上には、雪音くんが手早く作ってくれた野菜炒めと、少し崩れた卵焼きが並んでいる。私が夕飯の買い物に行かなかったせいで、彼が冷蔵庫の残り物だけでどうにかしてくれたものだ。

  「いただきます」

  雪音くんが静かに手を合わせる。

  私もそれに倣って、かろうじて聞き取れるほどの声で「いただきます」と口を動かし、箸を取った。

  私はエビルグレイシアの漆黒のラバースーツを着たまま、この食卓についている。

  アイマスクと黒い手袋だけは、雪音くんに「せめてご飯を食べるときは外してください」と言われて外しているが、それ以外は完全武装だ。胸元のマークも、太もものベルトも、ヴィランの姿のままである。

  洗面所のほうから、洗濯機のモーター音が響いてくる。

  私が朝に頼まれていたのに、すっかり忘れていた洗濯物だ。帰宅してこの騒動が一段落したあと、雪音くんがため息をつきながら自分でスイッチを入れたのだ。

  モーターの振動音が、私の鼓膜を直接殴るようで耳に痛い。

  テレビの笑い声と、洗濯機の唸り声。

  その二つが混ざり合う空間で、パツパツのラバースーツに身を包んだ白熊が、背中を丸めながら卵焼きの欠片を箸の先でつついている。

  首から上が、沸騰したように熱い。

  スーツの下にはべっとりと汗をかいていて、息をするたびに分厚いラバーが肌に張り付く。その感触のすべてが、今の私にはひどく居心地が悪かった。

  「……質問は、いっぱいあるんですけど」

  雪音くんが野菜炒めを静かに咀嚼し、お茶で流し込んでから口を開いた。

  声のトーンは、驚くほど平坦だった。

  「まず、それは、どこで……?」

  彼の箸先が、私の胸元の黒い光沢をピタリと指した。

  「えっ……と」

  手から箸が滑り落ちそうになる。

  視線が、雪音くんの顔からテレビのテロップ、そして自分の手元へと激しく泳いだ。

  「その……写真、とかから……コスチュームを作ってくれる、業者さんのようなところを見つけて……その、ネットで、注文、しまして……」

  幸か不幸か、『エビルグレイシア』の映った動画はいまだにネット上に拡散され続けている。資料を見つけるのは簡単だった。

  喉の奥がカラカラに乾いて、言葉が途切れ途切れになる。

  「……いくら、したんですか?」

  「っ!」

  私は息を呑み、思わず目を強く瞑った。

  言えない。

  言えるわけがない。

  『ディティールを忠実に再現するために、特注で数十万円しました』なんて。

  呆れられるに決まっている。怒られるに決まっている。いや、もうすでに手遅れなくらい呆れられているのだろうけれど。

  私が口を噤んで俯いていると、雪音くんは小さく息を吐き、次の質問に移った。

  「なんで、そんなものを作ったんですか」

  その問いは、金額のことよりもさらに深く、私の急所を抉った。

  言えない。

  言えるわけがない。

  『雪音くんを傷つけた悪役の姿になって、雪音くんに性的にこらしめられたかったんです』なんて。

  『無理やり組み伏せられて、私のドロドロした欲望ごと力ずくで剥がしてほしかったんです』なんて。

  「その……ちょっと、出来心、というか……魔が差したと、いうか……」

  消え入るような声で誤魔化そうとする私の背中に、洗面所からのモーター音が、脱水へ向けてさらに高く、激しくなり始めた。

  甲高い音が、私の逃げ道を塞ぐように響き渡る。

  「夕飯の買い物も行ってないし。洗濯機も、回していませんでしたよね」

  雪音くんの言葉が、氷の棘のように刺さった。

  「ごっ、ごめんなさい……!」

  「一日中家にいたはずなのに、何をしてたんですか?」

  「そ、それは……」

  またしても、言葉が喉の奥でつっかえた。

  言えない。

  絶対に言えない。

  衣装が届いた瞬間、我慢できずにすぐに着込んでしまったこと。

  鏡の前でポーズを取りながら興奮し、雪音くんが帰ってくるのを待ちきれず、シリコンの玩具で後ろを押し広げて、一人で発情しきっていたことなんて。

  今もまだ、内臓の奥には、その時の痺れるような熱と拡張された感覚が、じっとりと居座っているのだ。

  雪音くんに(性的に)成敗されるための『準備』は、もう万端に整っている。

  だが、この冷え切った空気の中で、どうしてそれを言い出せるだろうか。

  私は顔から火が出るほどの熱を感じながら、必死に俯いて、箸の先で空っぽのお皿を突っついていることしかできなかった。

  俯いたまま固まっていると、雪音くんが小さく息を吐く気配がした。

  コトリ、と彼がテーブルに箸を置く音が、やけに大きく響く。

  「……だいたい、予想はつきますけどね」

  静かな声だった。

  私がビクリと肩を跳ねさせると、雪音くんは私の顔を真っ直ぐに見据えたまま、淡々と口を動かした。

  「……僕に無理やり組み伏せられる妄想でもして、一人で盛り上がってたんじゃないですか?」

  心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。

  太ももの上で握りしめた拳に力が入る。ラバースーツがギュッと鳴いた。

  「昼間からそんなことに夢中になってたから、家事も全部頭から抜けてたんですよね」

  「う……っ」

  言葉の刃が、寸分の狂いもなく私の急所を貫いていく。

  頭の中の隠しておきたかった部分を、一枚一枚、丁寧にピンセットでめくられているような感覚。

  否定の言葉すら出ない。図星すぎて、喉がヒューヒューと情けない音を立てるだけだ。

  雪音くんはさらに言葉を続ける。

  その視線が、私の顔からゆっくりと下がり、テーブルの下――私の下半身のあたりへと向けられた気がした。

  「……おまけに、いつでも『そういうこと』ができるように、もう後ろの準備まで済ませているんでしょう?」

  「あ……っ、ぁ……」

  全身の毛穴から、どっと汗が噴き出した。

  身体の奥に残っている鈍い熱が、急にその存在感を増して疼き出す。太ももの内側が小刻みに震え、膝が勝手に擦り合わさった。

  全てお見通しだ。

  私の歪んだ欲望も、みっともない発情も、この滑稽な一人芝居も、彼の手のひらの上で完全に透けて見えている。

  「……ごめんなさい、雪音くん」

  私は耐えきれず、両手で顔を覆った。

  指の隙間から、惨めな声がポロポロとこぼれ落ちる。

  「私、おかしいですよね……。いい歳をして、こんな妄想に取り憑かれて……我慢もできなくて。こんなおじさん……嫌、ですよね……」

  胸の奥底にこびりついていた泥のような自己嫌悪が、口から溢れ出した。

  いつもそうだ。私は自分のマゾヒズムをコントロールできず、結局彼に呆れられ、迷惑をかけてしまう。

  私が背中を丸めて震えていると、椅子の擦れる音がした。

  雪音くんが立ち上がり、空になった食器を重ねていく。

  カチャカチャと陶器が触れ合う音。続いて、シンクで水が流れる音が聞こえてきた。

  彼が手際よく洗い物を済ませる日常の水音が、私の情けなさをさらに浮き彫りにする。

  やがて水音が止まり、タオルで手を拭く気配がした。

  足音が、私のすぐ横で止まる。

  顔を上げられない私を見下ろして、雪音くんは今日一番の深いため息をついた。

  「冬樹さん」

  呼ばれて、恐る恐る指の隙間から彼を見上げる。

  怒っているだろうか。軽蔑しているだろうか。

  そう思って覗き込んだ彼の顔には――呆れと、それを上回るほどの、優しくて柔らかい微笑みが浮かんでいた。

  「僕は一言も、そういうことはしない、なんて言ってませんよ」

  「……えっ?」

  私が間抜けな声を漏らした、次の瞬間。

  雪音くんの手がスッと伸びてきて、私の胸元に触れた。

  パツパツに張った黒いラバー越しに、彼の手のひらの熱が伝わってくる。

  そのまま、硬い指先が、スーツの下の胸の突起を布地ごと正確に捉え――キュッと、強めにつねり上げた。

  「あっ♡」

  摩擦の強いラバー素材が皮膚を乱暴に擦り、脳天を突き抜けるような鋭い快感が弾けた。

  私の口から、自分でも驚くほど淫らな声が、甘く跳ね上がった。

  ◇

  寝室のオレンジ色の間接照明の下、私は雪音くんの胸に手を置き、彼をベッドのシーツへと縫い留めていた。

  「ふふっ♡ 抵抗しても無駄ですよ、コヨーテフロスティアくん♡」

  私は上に跨り、黒いラバースーツを軋ませて彼を見下ろした。深い青を基調とした『コヨーテフロスティア』のスーツを着た彼が、私の下で荒い息を吐いている。

  「くっ……冬樹さん、目を覚ましてください……! あなたは、そんな悪に染まる人じゃないはずだ……!」

  雪音くんが、顔をしかめて苦しげな台詞を絞り出す。

  アイマスクの奥から彼を見つめていると、いつもより頬の赤みが強いのが分かった。

  無理もない。ベッドのすぐ横、サイドテーブルの上には、度数の高い缶ビールが二つ、すでに空になって転がっている。食後、「……ちょっと、勢いをつけさせてください」と言って、彼はあの缶を一気に煽っていた。素面で私のごっこ遊びに付き合うのは、彼には荷が重すぎるのだ。

  それなのに、彼は今、私の下で真っ直ぐに台詞を口にしてくれている。

  下から私を睨みつけてくる、アルコールで少し潤んだ瞳。

  それを見つめているだけで、喉の奥がツンと熱くなり、指先が微かに痺れる。

  込み上げてくるその熱が、私の中の『エビルグレイシア』という役柄の輪郭を、さらに濃く、鮮やかに縁取っていく。

  「目を覚ます? うふふ、私はとっくに目覚めているんですよ♡ この、どこまでも気持ちのいい悪の悦びにね♡」

  私は指先を這わせ、彼が纏う青いヒーロースーツの胸ぐらをなぞった。

  引き締まった大胸筋から、腹筋の起伏をなぞるようにゆっくりと下へ撫で下ろしていく。

  「んっ……ぁ……」

  私の指先が下腹部に到達した瞬間、雪音くんの喉から甘い吐息が漏れた。

  視線を落とすと、ヒーロースーツの股間の部分が、隠しきれないほどぽっこりと膨らみ上がっている。

  私は意地悪く微笑み、その硬いテントの先端を、ラバー越しに手のひらでゆっくりと円を描くように撫で回した。

  「あっ……!  触るな、ヴィラン……っ!」

  雪音くんがビクッと腰を跳ねさせ、必死に抵抗の言葉を紡ぐ。

  けれど、スーツの布地越しに伝わる熱は、私の手のひらを焦がすほどに熱く、大きく育っていた。

  「あらあら♡ 触るなと言いながら、こんなに大きくしちゃって♡」

  私は顔を近づけ、彼の耳元で粘つくように囁いた。

  「口では立派なことを言っていても……体は、とっても正直ですね♡」

  さらに腰を深く沈め、仰向けになった雪音くんの顔面に、自分の股間を直接押し当てる。

  「むぐっ……!? んんっ……!」

  分厚いラバー越しに、私の股間で彼の口が塞がれた。

  昼間に衣装が届いてからずっと、私は一人で自慰行為に耽っていた。密閉されたラバーの内側には、たっぷりとかいた汗と粘液の匂いが、逃げ場もなく充満している。

  その匂いを、今、正義のヒーローが至近距離で吸い込んでいる。

  その事実が、背筋に強烈な電流を走らせた。

  全身の肌がゾクゾクと粟立ち、下腹部の奥で重たい熱がとぐろを巻く。

  「うふふっ♡ どうですか、ヒーローさん? 悪の匂いは、どんな味がしますか?♡」

  雪音くんは私の股間の下で、身悶えしながら甘く掠れた声を漏らした。

  その声の響きに浸っていた、次の瞬間だった。

  「んんっ……ふ、ぁ……っ!」

  空いた彼の両手が、黒いラバーの上から私の分厚い胸板を鷲掴みにした。

  「あっ……んっ……!?」

  大きな手のひらが、的確に乳首を探し当て、硬い指の腹で容赦なく捻り上げる。

  「あひぃっ!? ぁ、あっ、やっ……♡」

  脳天を突き抜ける刺激に、腰から一瞬で力が抜け落ちた。

  雪音くんが身を捩る。天井のオレンジ色の光がぐるりと反転し、ドサリと背中を打ち付けられた。私が下、彼が上の体勢へと綺麗にひっくり返される。

  「はぁ……はぁ……っ」

  私を押さえつけ、上から見下ろしてくる雪音くんの顔。

  アルコールで赤く染まった頬。うっすらと涙目になった瞳。

  けれど、その瞳の奥には、ドロリとした濃密な熱が渦巻いていた。

  正義のヒーローの顔に混じる、生々しい捕食者の顔。

  私は彼を見つめたまま、瞬きすら忘れていた。

  頭の髄から甘い汁が溶け出していく。ヴィランとしての台詞を紡ぐことすら忘れそうになるほど、視界が彼の青いスーツの色で埋め尽くされていく。

  「……口で言っても、わからないようなら」

  低く熱を帯びた声が囁く。彼の手は私の胸元に残ったまま、執拗に乳首を弄り続けていた。

  「あぁっ♡ は、ぁっ、コヨーテフロスティア、くんっ……♡」

  「僕が、その身体にわからせてあげます」

  私の耳元でそう言い放つ。

  そして、いよいよ「あの」台詞を口にしようと、彼は小さく息を吸い込んだ。

  「ぼ、僕の……ひ、ひーろー……っ」

  だが、言葉はそこで止まってしまった。

  見上げると、雪音くんの顔は耳の先まで真っ赤に染まっている。視線が激しく泳ぎ、口をパクパクとさせていた。

  私の胸の奥が、きゅんと鳴った。

  私がねだったから、彼はこんなに言葉を詰まらせながらも、必死に音を紡ごうとしてくれている。

  震える唇を寄せ、そっと小さな声で囁いた。

  「……『ヒーローちんぽ』、ですよ♡」

  私が促すと、雪音くんはギュッと強く目をつむり、叫んだ。

  「ぼ、僕のヒーローちんぽでっ……! せ、正義を注いで、あ、あなたをヒーローに、も、戻しますっ!!」

  心臓が、耳元で跳ねたように大きく鳴った。

  視界がぐらりと揺れる。目頭がツンと熱くなる。

  自分の考えた妄想の台詞が、雪音くん本人の口から直接響いてきた。

  私は、彼がくれたその熱を燃料にして、さらにヴィランの演技へと拍車をかけた。

  両脚を大きく開き、彼の下半身を誘き寄せるように腰を浮かせる。

  「うふふ♡ やれるものなら、やってみなさい♡」

  彼の首に腕を絡ませて、濡れた声で囁いた。

  「あなたのヒーローエナジーで……私を、正義に染めてみせてごらんなさい♡」

  私の挑発に呼応するように、雪音くんの手が私の下腹部へと伸びてきた。

  黒いラバーの表面を指先が滑り、股間の中心に設えられた金属製のスライダーを的確に捉える。

  ジジッ、と短い音が鳴った。

  スーツを脱ぐことなく、「そういうこと」ができるように、開閉式のジッパーを付けてもらったのだ。

  冷たい空気が、熱く蒸れた内側へと流れ込んでくる。

  その温度差が、いよいよこれから彼が私の中に入ってくるのだという事実を際立たせ、頭の芯がじんわりと痺れ始めた。

  「うふふ♡ 私はあなたのヒーローちんぽなんかに負けませんよ♡」

  私はシーツを握りしめ、自分でも驚くほど滑らかな口調で言葉を紡ぎ続けた。

  「私があなたのヒーローエナジーを全部吸収した後は、空っぽになった体に、私のヴィランエナジーをたっぷりと注いであげます♡」

  何を言っているのか、自分でもよくわからない。

  ただ、私に覆い被さる正義のヒーローを言葉で辱める快感が、次々と新しい台詞を口から押し出していく。

  「さあ、どうしました? 早く私を屈っ――」

  「ひっ!?」

  言葉は、そこで断ち切られた。

  前触れもなく、太くて熱いものが、私の一番奥の粘膜を一気に押し開いて入り込んできたのだ。

  正常位のまま、深く、深く。

  ディルドとは比較にならないほどの質量と、生々しい脈動。

  「あぁぁっ……!?♡ ゆき、とくんっ……! あぁっ♡」

  ヴィランの演技など、一瞬で吹き飛んだ。

  ラバースーツの中で反り返り、私は口からだらしない悲鳴をこぼす。

  「……負けないんじゃなかったんですか、エビルグレイシア」

  私の耳元に低い声を落とした。

  その言葉と同時に、彼の腰が重い音を立てて打ちつけられる。

  「あひぃっ! ひ、ひぃぃっ……♡」

  「どうしました? 僕にヴィランエナジーを注ぐんじゃなかったんですか?」

  ズン、ズンと、容赦のない律動が始まる。

  ヒーロースーツの青い生地が、私の黒いラバーと擦れ合い、ギュッ、ギュッと淫らな音を立てる。

  奥の、一番感じやすい部分を正確に削り取られ、目の前で白い火花が弾けた。

  「む、むりっ……♡ はげしっ、あぁっ……♡ 負けっ、まけちゃ、うぅっ……♡」

  もはや、演技など欠片も残っていなかった。

  頭の中はただ真っ白に明滅し、押し寄せる波に溺れていく。

  雪音くんの顔を見上げる。

  アルコールで赤くなった頬。荒い呼吸。ヒーロースーツの奥から覗く、雄の目。

  そのすべてが私を支配し、私という存在そのものを、ドロドロに溶かして飲み込んでいく。

  「あぁっ、あぁぁぁっ……!!♡ ゆきと、くん、ゆきとくんっ……!!」

  私は両腕で彼の首にすがりつき、ただただその熱と重さに身を委ねた。

  「……だらしないですね、エビルグレイシア」

  耳元で低く響いた。

  その瞬間、彼が打ち付ける腰の角度がわずかに変わった。太い熱が、私の内側の、最も敏感に腫れ上がった一点だけを正確に擦り上げていく。

  「あひぃっ!? ぁ、そこっ、だめっ……♡」

  「だめじゃないでしょう。……あなたが一番、ここを突かれるのが好きだってこと、僕が知らないとでも思いましたか?」

  ドチュッ、と水気を孕んだ音が、シーツの擦れる音に混ざって寝室に響く。

  腰の動きだけではない。私の首筋に這わせた指先が、最も粟立つ皮膚の薄い部分を的確になぞり、もう片方の手はラバー越しに尖った乳首を、私が一番声を上げてしまう絶妙な強さで弄り回している。

  「あぁっ! はぁっ、はぁっ……♡ ゆきと、くんっ……やぁっ♡」

  「口では立派な悪役を気取っていたくせに、ヒーローのちんぽでこんなに中をうねらせて。……本当に、いやらしい身体ですね」

  「いやらしい」「だらしない」と浴びせられる言葉のすべてが、強烈な痺れとなって下腹部に直結していく。

  見上げた雪音くんの顔には、普段の温厚な青年の面影はなかった。

  前髪から滴る汗が、青いヒーロースーツの胸元に落ちる。

  薄暗いオレンジ色の光の中で、私を見下ろす瞳はギラリと細められ、獲物を押さえつける肉食獣のそれだった。

  アルコールと熱に染まった、むき出しの「雄」の顔。

  その冷酷な表情を見た瞬間、私の脳髄は白くショートした。

  普段は私を気遣ってくれる優しい彼が、今は私の身体を完全に支配し、言葉と肉体で蹂躙している。

  私の身体の隅々まで知り尽くし、どこをどうすれば私が壊れるかを知り尽くしている。その絶対的な力関係が、私の中の最も深い部分を容赦なく抉り出していく。

  「ひぃっ、あぁぁっ……! もっとっ、もっとぉっ……♡」

  私は青いスーツの背中に爪を立て、自分から腰を跳ね上げてその暴力的な熱を迎え入れることしかできなかった。

  ズン、と奥まで突き入れられたまま、雪音くんがピタリと腰の動きを止めた。

  「あっ……?」

  最も敏感な場所を押し潰されたまま静止させられ、間抜けな声が漏れる。

  体内から燃え上がるような熱が逃げ場を失い、下腹部でギリギリと暴れ回った。

  「もっと、なんですか?」

  底意地の悪い声で囁く。

  その瞳は、苦しげに身悶えする私をじっと見下ろし、どこか楽しむように細められていた。

  最近、雪音くんはこういうことをする。

  私をギリギリのところで焦らしたり、わざと言葉で痛めつけたり。

  付き合い始めた頃の彼からは想像もつかないほど、私を「いじめる」手つきが堂々と、手慣れてきているのだ。

  彼の中に元々眠っていた性質なのか、それとも、私が彼のそういった部分を引き出してしまったのかは分からない。

  でも。

  それが。

  たまらなく。

  心地いい♡

  大好きな彼に、私の隅々まで完全に掌握され、嬲られているという事実が、私の内側をこの上ない熱で満たしていく。

  「あぁっ……はやくっ、ゆきとくん……動かしてぇっ……♡」

  私は腰をよじり、シーツに爪を立てて懇願した。

  「まだエビルグレイシアのままでいいんですか? ヴィランのくせに、ずいぶん素直にヒーローにおねだりするんですね」

  雪音くんが、ラバー越しの乳首をコリッと弾きながら意地悪く笑う。

  私はもう、自分がどんな設定で演じていたのかすら忘れかけていた。

  ただ、彼の熱を、彼の荒々しい支配を、もっと私の身体の奥に刻み込んでほしかった。

  「だってぇっ……♡ 私、雪音くんのヒーローちんぽに、もうメロメロなんですぅっ……♡」

  口をついて出るのは、淫らで間抜けな言葉ばかりだ。

  「コヨーテフロスティアくん……っ、お願いっ♡ 私の中を、めちゃくちゃにしてぇっ♡ あなたのそれで、私を悪ごと貫いてぇっ……♡」

  私が涙目で訴えかけると、雪音くんは小さく息を吐いた。

  「……本当、どうしようもない人だなぁ」

  呆れたような、けれどどこか愛おしさを孕んだ声。

  「しょうがないですねっ!」

  彼が短く言い放った瞬間。

  私の奥深くに埋まっていたそれが、今までで一番の凶悪な角度と力強さで、最奥の粘膜を激しく突き上げた。

  「――っ、ぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!??」

  声にならない絶叫が、喉を切り裂いて迸った。

  視界が、一瞬にして真っ白に染まる。

  脳内のヒューズが全て焼き切れ、パチン、と音がして記憶がわずかに飛んだ。

  「ひぃっ、あひぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」

  そこからはもう、果てのない濁流だった。

  雪音くんの腰が重い音を立てて打ち付けられるたび、私の身体は雷に打たれたように激しく痙攣した。

  漆黒のラバースーツと青いヒーロースーツが激しく擦れ合い、汗と粘液の匂いが寝室の空気を満たしていく。

  「あぁっ、ゆき、とくんっ……! だめっ、いくっ、いくぅぅっ……!」

  私は完全に理性を手放し、ただ彼という圧倒的な正義に蹂躙される熱に溺れながら、何度も何度も、みっともなく身体を震わせ続けた。

  ◇

  カーテンの隙間から、細い朝の光がシーツの上に伸びている。

  ゆっくりと瞼を開け、隣に視線を向ける。

  そこには雪音くんが丸まっていた。規則正しい寝息に合わせて、柔らかな白い毛並みが微かに揺れている。

  私よりも一回り以上小柄な体躯。けれど、昨夜の記憶が、その毛並みの下に隠されたしなやかで屈強な筋肉の感触をありありと蘇らせる。

  普段の凛々しい姿からは想像もつかないほど、無防備な寝顔だった。そっと手を伸ばし、耳の裏のふわふわとした毛並みに指を滑らせる。指の間に絡む柔らかな手触り。シーツにこもった微かな汗の匂いと温もりが、手のひらからゆっくりと腕へと伝わってくる。

  ベッドの脇へ視線を移す。

  ひしゃげたように脱ぎ捨てられた漆黒のラバースーツと、深い青のヒーロースーツが、互いに絡み合うように床に落ちていた。ゴム特有の焦げたような匂いが、微かに鼻を掠める。

  それを見た途端、網膜の裏側に昨夜の熱がフラッシュバックした。

  半分だけ強引に引き剥がされたラバーからはみ出た、自分の太った白い腹肉。

  小柄なはずの彼に力強い腕であっさりと組み伏せられ、よだれと涙で視界が滲む中、容赦なく一番奥の粘膜を突き上げられた重い鈍痛。

  そして何より――薄暗い照明の下、私を見下ろしていた雪音くんの顔。

  勢いをつけるために煽ったアルコールのせいもあったのだろう。彼の言葉は、普段からは想像もつかないほど容赦がなかった。

  「どうしたんですか? 僕を堕とすんじゃ?」

  「ヴィランのくせに、いやらしい身体ですね」

  鼓膜を震わせる低い声でなじられ、退路を塞がれる。私を見下ろす、ギラついた雄の目。

  それは弱きを助ける正義の味方というよりも、這いつくばる獲物をいたぶる、絶対的な支配者の顔だった。

  そこでふと、脳内に一つの閃きが落ちる。

  (ヒーローである彼に『成敗』されるのもたまらなかったけれど……昨夜の雪音くん、私をいじめる振る舞いがあまりにも堂に入りすぎていなかっただろうか?)

  もし、あの冷酷な目つきやサディスティックな支配欲が、正義の遂行としてではなく、「純粋な悪」として私に向けられたなら。

  気高く優しい正義のヒーローが、もし悪に堕ちて、冷酷な『ヴィラン』として私の前に立ちはだかったら——?

  その思考に至った瞬間、記憶の中の彼の鋭い視線が、脳内で勝手に新たなヴィジョンを組み上げていく。

  真っ白なサモエドの毛並みに、ところどころ素肌が露出した漆黒のラバースーツを纏う姿。白と黒の強烈なコントラスト。目元を冷たく隠すアイマスク。

  正義を捨てた彼は、昨夜よりもさらにきつく残酷な言葉で私をなじり、足元に這いつくばる巨体を氷のような目で見下ろすのだ。

  「あ……っ♡」

  想像しただけで、下腹部の奥がドクンと大きく脈打つ。

  シーツの下で急速に血が巡り、太ももの間で熱を持った器官がみるみるうちに膨れ上がって、布地をテントのように持ち上げた。

  呼吸が浅くなり、無意識のうちに鼻息が荒くなる。

  「ん……」

  私の荒い息遣いに反応したのか、雪音くんのまつ毛が震え、ゆっくりと瞼が開かれた。

  「……おはようございます、冬樹さん」

  寝起きの、少し掠れた低い声が耳をくすぐる。目をこすりながら私を見上げた彼は、すぐに私の荒い呼吸と、不自然に持ち上がっているシーツのふくらみへと視線を落とした。

  数秒の空白。

  彼の瞳から睡魔がすっと消え去り、代わりに半ば呆れたような視線が私に向けられる。

  「……朝からまた、変な妄想してるんでしょ」

  完全に見透かされていた。

  けれど、すでに興奮でフル回転している脳には、取り繕う余裕など残っていない。

  「ね、ねえ雪音くん!」

  私はシーツを強く握りしめたまま、身を乗り出した。

  「今度は、逆をやりましょう! 雪音くんがヴィランになって、正義のヒーローであるこの私を、力ずくで悪に堕とすんです!」

  「は……?」

  「早急に採寸をしないと……デザインは、私のエビルグレイシアと対になるようなものがいいですね。名前は……そうです、私に倣って『エビルフロスティア』なんてどうでしょう。ああ、なんてかっこいい響き……っ!」

  呆気にとられる彼を置き去りにして、言葉が勝手に口から溢れ出てくる。

  「正義のヒーローである私は、悪に堕ちてしまったエビルフロスティアを必死に正気に戻そうと戦うんです。でも、強すぎる彼に私では勝てない。そして私は彼に捕らえられ、冷たい言葉でなじられながら……っ!」

  鼻息を荒くしてまくし立てる私を前に、雪音くんは深く、本当に深い溜め息をこぼし——ふっと、目尻を下げて柔らかく微笑んだ。

  「……はぁ。もう、まだやるんですか?」

  呆れ果てた声。けれど、その響きには、私のだらしなさも、どうしようもない妄想癖も、全てを受け入れてくれる心地よい温度が溶けていた。

  「もちろんです! もっと私をめちゃくちゃにしてください!」

  「……ほどほどにしてくださいよ、本当に」

  雪音くんは苦笑いしながら身を寄せると、私の分厚い胸板にその細身の体を預け、ぎゅっとしがみついてくる。

  鼻先が首筋にすり寄り、サモエドの柔らかい毛並みが頬をくすぐった。

  私は、一回りも二回りも小さな彼を、太い腕で包み込むように優しく抱きしめ返す。

  シーツの海の中、密着した胸元から彼のしなやかな筋肉の硬さと、確かな鼓動が伝わってくる。

  窓の外からは、どこかの家のベランダで干される洗濯物の擦れる音や、微かな風の音が聞こえてきた。

  かつては凍りついていた私の世界に、今はこんなにも騒がしくて、呆れるほどに温かい時間が満ちている。

  太い腕の中にいる彼と触れ合うこの瞬間だけが、私にとっての最も確かな『正義』だった。

  カーテンの隙間から差し込む光が、床に落ちた二つの抜け殻を白く染め上げている。

  目を閉じ、胸元で柔らかく息を吐く私のヒーローの背中を撫でながら、私は頭の中で広がる次なる妄想の海へと、心地よく溺れていった。

  (了)