人跡未到の山奥。
そこは、濃密な魔力が霧となって立ち込める「迷いの森」。
人間に「不吉の象徴」と忌み嫌われ、追い出された黒髪の猫獣人『ユエ』は、この静寂の中で1人、外界を拒絶して生きていた。
「……うわ、最悪」
茂みの中でユエは敏感な鼻をひくつかせた。
風に乗ってやってくる嗅ぎ慣れない匂い。
鉄の匂い、埃の匂い、そして、いくつもの混ざり合った、不快な残り香。
(人間の匂い……。それも、幾つもの匂いが混ざってる……)
ユエは耳を伏せ、鋭い犬歯を覗かせる。
かつて自分を石で追い払った人間たちの顔が脳裏をよぎり、黒い魔力は、彼女の苛立ちに呼応するみたいに不穏に揺らめいていた。
一方、その「匂い」の主であるチリは完全に途方に暮れていた。
「あっちゃ〜……。これ、マジでどっち行けばええん?チリちゃんとしたことが、仕事中に迷子とか笑えへんで。」
翠色の髪をかき上げチリはぼやく。
普段なら、適当な街まで戻って適当な女に声をかけ、一夜の宿と癒やしを得る。
それがいつものルーティーンだった。
「……ん?」
木々の隙間から射抜くような視線を感じて足を止める。
霧の向こうに影がひとつ。
「……消えて。人間」
低く、けれど震えるような警戒心を含んだ声。
霧が風に流されその姿が露わになった。
濡れ羽色の黒髪、そこから突き出した三角形の耳。
そして何よりチリの目を奪ったのは左右で鮮やかに色が分かれた瞳だった。
右目は燃えるような赤、左目は深く澄んだ青。
「…………っ」
心臓が、どくん、と跳ねた。
綺麗な女なんて見慣れていたはずだった。
軽口を叩いて、笑って、一晩過ごして終わり。
そんな関係ばかりだったのに。
目の前の少女からだけは、どうしても視線を剥がせなかった。
(なんや……この子。めちゃくちゃ綺麗やんか……)
一目惚れ。
そんなガラじゃないと思っていた。
けれど、威嚇するように自分を見つめるその「危うさ」からどうしても目を離せなかった。
「おっと、ごめんやで。驚かすつもりはなかってん」
チリは反射的に人を警戒させない笑みを浮かべる。
だが、ユエはさらに顔をしかめる。
「寄るな。……あんた変な匂いがする。色んな混ざってて……反吐が出る」
「げ……。あ、あー……それは、その、お付き合いというか、なんというか……」
うまく笑えない。
今までなら適当に流せたはずなのに、目の前の少女に嫌悪を向けられるだけで、妙に胸がざわついた。
拒絶する声とは裏腹に、彼女の周囲では黒い魔力が落ち着きなく弾け続けていた。
(あかん。この子危なっかしくて見てられへん……。)
放っておけば、その魔力で自滅してしまうのではないか。
……そんなのは、耐えられない。
「なぁ、怖がらんといて。チリちゃん、怪しいもんやないから」
「……信じない、人間は、みんな嘘つき」
「嘘やないって。……なぁ、君。名前、なんていうん?」
チリは一歩慎重に距離を詰めた。
ユエは反射的に身を引こうとしたが、その瞳に宿る熱にぞくりと背筋が粟立つ。
獲物を逃すまいとする獣みたいな視線から、目を逸らせなかった。
「………………ユエ」
消え入りそうな声で彼女は答えた。
「ユエちゃん、か。……ええ名前や。……困ったなぁ。もう放っておける気ぃせぇへんわ」
ユエの赤と青の瞳が困惑したように揺れる。
その視線を向けられただけで、胸の奥がじわりと熱を帯びた。
……離したくない、と。
そんな感情が、自分の中に生まれたことにチリ自身が一番驚いていた。
(ユエちゃん……。あんたを誰にも渡したくない。獣人と契約を結べば、その魔力も存在も繋ぎ止められる。……全部チリちゃんだけのものにしたいわ。)
遊び慣れていた男の初めての恋。
それは、純粋で、かつ狂気すら孕んだ執着の始まりだった。
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