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彼からの使いが来たのは、日の出前の、底冷えの時間だった。
宿の二階のベッドで微睡んでいると、控えめなノックが三回届く。小さく叩いたつもりだったのだろう。それでも、はっきりと俺の耳に届いた。
最小限の荷を掴み、扉に噛ませた細工を解く。一呼吸おいてから扉に手をかけ解錠すると、そのまま扉を内向きに開いてみせる。
立っていたのは、成人したばかりと思しき若い兵士だった。傷のほとんどない真新しい甲冑を身に着けている。紋章入りの留め金が、ランタンの光を無機質に跳ね返している。こんな朝早くからお使いか。ご苦労なことだ。
「ローウェン殿に、グラント隊長からの伝言です」
兵士が折り畳まれた紙片を差し出してくる。受け取って開いた。そこには一言、
『来い』
とだけ書かれていた。変わらない、省略された手順。またか、と短く息を吐く。
俺は紙を畳んでポーチに滑り込ませると、手袋をしっかりと締め直す。手袋の革は少し厚く、指を曲げると革が引っ張られて戻ってくる。その感触を確かめるように、ゆっくりと一本ずつ指を折り曲げた。
「お返事は」
「はいはい、今行きますよ」
兵士は俺の顔を見て何も読み取れなかったらしい。獣人でなければ、大体そんなものだ。俺の耳が今どこを向いているか、この兵士には見えていない。――まあ、いい。
* * *
王都の夜明けは仄暗い。空の端がわずかに白んでいたが、石畳はまだ夜の色をしていた。自分の足音だけがよく響く。他には何も聞こえなかった。こういう時間に呼ばれるときは十中八九、面倒な話に巻き込まれる。
俺が案内された先は、王宮でも兵舎でもなく、その裏手にある詰所の一角だった。権力の華やかさとは無縁の廊下の突き当たり、鉄の扉の前に兵士が二人立っている。廊下には古い石と油と、兵士たちの体の匂いが混ざっていた。緊張した者の匂いではなく、慣れた者のそれだった。新人の案内役はその二人に敬礼をすると、鉄の扉を開いて俺を部屋へと誘った。
中は広くはなかった。机と椅子と、壁に貼られた地図。ランタンが二つ。その部屋の向こう側に、どこにいても場の重力を変えてしまう男が、椅子に座って地図を見ていた。
でかい。
何度見ても、最初の一秒でそれが来る。わかっている。――わかっているのに、毎回来る。首筋の毛が逆立つ。狼として格上の存在を前にしたときの、消しきれない本能だった。
年嵩の男で、俺より一回り以上は上のはずだった。それでも圧は衰えていない。牛獣人はだいたい大柄だが、グラントはその中でも別格だ。厚い胸郭、盛り上がった肩、腕の太さは俺の太腿と大差ない。頭から大きく湾曲した角が両側に張り出していて、椅子に座っていても圧迫感があった。立ったら天井に届くんじゃないかと、見るたびにいつも思う。
牛の顔は読めない。だから体を見る。喉、指先、重心。――グラントを相手にする時は、特に。
今は、動いていない。俺が入ってきたのを確認した。それだけだった。
「来たか」
低い声だった。部屋の広さには不釣り合いなほど、よく通った。
グラントは机の上の地図に視線を落とした。王都から見て北東、山脈の向こう側。人の往来がほぼない区域に、印がついている。そこを指し示しながら、言った。
「辺境の廃棄区域だ。三ヶ月前から、定期巡回の部隊が戻らない」
「……何人?」
「二班、計十二名」
その数字が、地図の印と重なった。どちらも戻らなかった。前任が消えてから後続を出し、それすらも消えた。そういうことだ。――鼻の奥が一瞬だけ締まった。消えた者の数が、匂いのない場所から漂ってくるような感覚だった。気づいて、抑えた。
「私が直接動く。お前も来い」
「俺が必要な理由は」
「地形だ。あの区域には古い魔瘴地帯が残っている。魔法に頼った索敵は使えない。嗅覚と、野外での判断がいる」
「期間は」
「状況次第で前後するが、往復で十日程度だ」
「報酬は」
グラントが少し間を置いた。
「……相場には届かない」
「ですよね」
俺は机に広げられた地図を覗き込んだ。山脈の稜線、川筋、廃棄区域の範囲。広く、十二人が消えるには十分すぎた。その地図の上を、グラントの指がなぞった跡が残っていた。
――あの時のことは、まだ返せていない。
一年半ほど前、東の国境だった。
魔瘴の濃度が高い廃域で足場が崩れた。落ちたというより引きずり込まれた感覚で、気づいた時には体が動かなくなっていた。正直、詰んでいた。
そこで腕を掴まれた。右腕だった。すがるように握り返す。
引き上げられた。力任せではなく、崩落した足場の角度を読んで最小限の力で抜く、そんな動き方だった。地面に出た時、右手の甲が岩でざっくりと削れていて、手袋の上から血が溢れていた。グラントはそれを一度だけ見た。手袋ごと傷のついた、右手を。
魔瘴地帯では傷口を塞ぐことが先決だ。グラントは何も言わず懐から布を出して手早く巻き、それから手を離した。その一秒が、妙に長かった。
俺はその手を、今も覚えている。――俺を救い上げてくれた、あの大きな手を。革と、血と、それからこの男自身の匂いが、あの瞬間に鼻の奥に刻まれた。手袋の上から、温度が来た。それだけのことが、ずっと残っていた。
「わかりました」
俺は地図から目を上げた。
「準備します。出発はいつですか」
「夜明けだ」
俺は頷いて、踵を返した。扉に手をかけた時、不意に視線を感じた。振り向くと、グラントの目が俺の右手に落ちていて、それから目が合った。グラントは何も言わなかった。俺も何も言わなかった。ランタンの火が、二人の間で揺れていた。
* * *
準備は一時間で終わった。荷物は少ない方がいい。食料、水、最低限の医療品、それから替えの手袋を一組。手順通りに。
出発の直前、宿の前でグラントの部隊が集合していた。種族がバラバラの獣人が六人で、いずれも精鋭の身のこなしだった。俺を見る目が一様によそよそしい。それはそうだろう。グラントとは組んだことがあっても、この部隊とは初めてだ。民間の顔も知らない相手となればなおさらだった。
グラントは馬に乗る前に、一度だけ振り返った。
「遅れるな」
「手順通りにやれば遅れませんよ」
言った後で、一拍置いた。余計だったとわかっていた。それでも言った。この男の前だと、そういうことになる。
グラントは何も言わなかった。たぶん、問題はない。
俺は手袋の内側で、もう一度指の感触を確かめた。革の厚み。その下の、自分の指先。
面倒だな、と思った。
そのまま馬に跨った。先頭のグラントの背中が視界に入った。でかい背中だった。腹が立つくらい。それでも、しばらく目を離さなかった。
[newpage]
グラントの部隊は、無駄がなかった。行軍の速度、休憩のタイミング、荷の配分。全部が決まっていて、誰もそれを疑わない。隊員たちはグラントの背中を見て動いていた。命令を待つのではなく、隊長の動きを先読みして合わせる。長く一緒にいる人間の動き方だ。
俺はその外側にいた。
グラントはほとんど喋らなかった。必要な時に、必要なことだけを言う。「右だ」「止まれ」「進め」。一語か二語。それで全員が動く。声は遠くまで届くが、余分な音がない。削いで削いで、必要な部分だけが残った声だった。
視界の端に置きながら、手袋の中で指先に力を込めた。
* * *
二日目の昼過ぎ、山道に差しかかったところで俺は足を止めた。
「どうした」
グラントが振り返らずに言った。
「ちょっと嫌な匂いがしますね」
風が山の斜面を下りてきて、獣と血の匂いを運んでいた。新しくはなく、数日は経っている。俺は鼻の向きを変えながら風上を確かめた。耳が自然に動いた。音を拾っているのではなく、方向を定めるための癖だ。
「道の先に何かいます。獣か、あるいは――」
「余計な動きをするな。予定のルートを外れる根拠がない」
「根拠はありますよ」
俺は言った。なるべく平坦に。
「匂いの種類が問題です。獣の腐敗臭だけなら風で流れる。これは流れていない。閉じ込められた匂いの出方をしています。罠か、術式の残滓か。どちらにせよ、確認してから通るべきです」
グラントが黙った。
一秒。二秒。
「確認しろ。五分で戻れ」
俺は頷いて、道を外れた。
結果は術式の残骸だった。古い結界の痕跡で、魔瘴地帯特有の空間に染みついた類いのものだ。人体への影響はもう薄いが、こういうものが残っているのなら、この先にまだ生きている術式がある。そう読むのが自然だった。
三分で戻り、報告した。グラントは短く聞いて、ルートを変えた。反論もなく、説明もなく。それが、この男の信頼の形だった。午後の光が、木々の間から斜めに落ちていた。
隊員たちが俺を見る目が、少しだけ変わった。それだけのことで、少し、肩の力が抜けた。
* * *
三日目の夜営で、俺は焚き火の位置を変えた。
グラントが設営した位置は悪くなかったが、夜半に風向きが変わる地形だった。このまま置くと煙が全員の顔に向く。小さな問題だったがそのままでは睡眠の質に響き、翌日の判断が鈍る。
グラントは何も言わなかった。止めも、しなかった。
悪くない、と口が動きかけた。やめた。そういう言葉を使う場面ではなかった。
グラントの耳が、わずかに動いた。こちらを向いたというより、気配を確認する動き方だ。言葉はなかった。火の粉が一つ、夜の中へ消えた。
* * *
夜、隊員たちが眠った後、グラントは地図を広げていた。ランタンを手元に引き寄せ、山脈の向こう側を見ていた。火の明かりがその横顔を照らして、また消えた。俺は少し離れた場所で、背中を岩に預けていた。
しばらく無言が続いて、グラントが口を開いた。
「お前は嗅覚で判断するのか、それとも読むのか」
珍しく長い質問だった。俺は少し考えてから答えた。
「どちらでもないですよ。匂いは情報です。情報から読む。嗅覚と読みを分けようとした時点で、精度が落ちる」
グラントが低く唸った。同意なのか保留なのか、判別がつかなかった。
「客観的に示せない読みは、排除すべきだ」
「それはあくまで平地での話じゃないですか」
言ってから、一瞬だけ息を止めた。噛みついた。噛みついてしまった。相手は隊長で俺より年上の、この任務の指揮官だ。
グラントと俺の視線が交差する。お互い、しばらく何も言わなかった。ぱちりという焚き火の音が、やけに響いたように感じられた。
グラントは再び地図に視線を落とし、指先で稜線をなぞった。革と金属の奥で、何か古いものの匂いが出てきていた。疲労でも緊張でもない。戦場の匂いとも違う。もっと個人的な、この男だけの古さ。名前がつかない。俺は何も言わなかった。
「……感情で読むのは誤差を生む」
短い間があった。
「それが、規律だ」
ぽつり、と声が落ちた。俺への言葉ではなかった。自分自身に向けた言葉だった。
気づいたのか、グラントがわずかに止まった。それ以上は言わなかった。俺は何も聞かず、その言葉の裏側を、ずっと考えていた。その言葉の端に、何かの古さがあった。名前がつかなかった。ただ、この男がその言葉に慣れているのは、わかった。
グラントはまた地図を見ていた。指先が、稜線をなぞり続けていた。気づいたら、かなりの時間が経っていた。――それほど悪くはなかった。その時間が。
やめて、目を閉じた。暗闇の中で、グラントが地図をなぞり続ける音だけが続いていた。紙と指先の、かすかな摩擦音。距離にして数メートルしかないのに、その音がやけにはっきり聞こえた。
眠れなかった。
* * *
四日目の夕方、隊員の一人が浅い沢で足を滑らせて、腕を切った。大した傷ではなかったが、手当ては必要だった。俺が医療品を出して近づくと、グラントが先に立った。
「私がやる」
「俺の方が早いですよ。傷の処置は手順があって――」
言いながら、グラントの腕に手をかけようとした。
「触るな」
声の温度が変わった。
俺は止まった。拒絶というより遮断に近かったが、その速さが引っかかった。考えるより先に出てきた速度だった。
隊長自ら、隊員の手当てをした。手際は悪くなかった。その間、ずっと俺には背中を向けていた。隊員が「ありがとうございます」と言うと、グラントはわずかに頷いただけだった。
医療品を仕舞いながら、さっきの「触るな」の速さをもう一度思い出した。牛獣人の種族的な何かなのか、この男だけの何かなのか、わからなかった。
手当ての間ずっと、グラントの体が何かを出していた。緊張とも疲労とも違う匂いだった。昨夜も同じ種類のものを嗅いだ気がした。抑えようとして、抑えきれていない何かの匂い。あの時も名前がつかなかった。今もつかない。ただ、確かにそこにある。
答えは出なかったが、明日からは今までと少し違う気がした。その予感が何なのか、確かめる手順がわからなかった。
その夜は終わった。「触るな」の速さが、まだ頭の中にあった。訓練なのか、あるいは傷なのか。わからなかった。
[newpage]
廃棄区域に入ったのは五日目の朝だった。空は明るかったが、光が地面まで届いていない感じがした。木々が光を吸っているのか、それとも別の何かが吸っているのか、わからなかった。
境界線は目に見えない。ただ、匂いが変わる。土の匂いに何か重いものが混じり始め、それはやがて空気全体を変えていく。雨の前の空気に似ているが、もっと底に沈んでいる。生きているものが出す匂いではなく、かつて生きていたものの残滓が放つ匂いだ。
俺は一度息を止め、それからゆっくり吸い直した。濃度が高い場所に入る時の手順だ。急に吸い込むと体が先に反応する。それでも、体は少し緊張していた。
隊員たちが無言になった。それが正しい反応だった。ただ、グラントだけが変わらなかった。
「進むぞ」
その声に、迷いはなかった。この男に恐れがあるのかどうか、俺にはまだわからなかった。
それだけで全員が動いた。
* * *
嵐の気配は昼過ぎから出ていた。
俺は気づいていた。匂いでわかる。山の向こうから来る湿った風の圧力と雲の動き。夕方までには崩れると判断して、グラントに言った。
「天気が変わります。早めに待避場所を探した方がいい」
グラントは空を見た。判断するような間が一つ。
「どのくらいで来る」
「二時間。早ければ一時間半」
「わかった」
それだけで隊が動き始めた。結果は同じだった。
廃屋が見つかったのは一時間後だった。石造りの古い建物で、かつては管理施設か何かだったのだろう。屋根の半分が崩れていたが残り半分は生きていて、雨風を凌ぐには十分だった。
嵐が来たのは、そこから三十分後だった。
* * *
嵐の中では動けなかった。雨と風が交互に来て外は何も見えなかった。隊員たちは思い思いの場所で体を休め、グラントは入口近くに陣取って地図を広げていた。ランタンの火が風で揺れるたびに影が伸び縮みした。石の壁が、嵐の音を濾過していた。外の荒れ方が、ここでは遠かった。
俺は壁に背中を預けて、目を閉じた。眠るためではなく、匂いを整理するためだ。廃屋の中の匂い、外の嵐の匂い、隊員それぞれの体の匂い。異常がないか確認する。これも手順だ。
異常は、しばらくして出た。廃屋の匂いが強かった。古い石と土、術式の残滓、嵐の湿気。それらが全て混ざっていた。その中からグラントの匂いの変化に気づくのに、少し時間がかかった。層の奥に、血の匂いがあった。微かだったが、確かにあった。金属と革の匂いの下に、隠されていた——あるいは隠そうとしていた——血の匂いが。
俺は目を開けた。グラントは地図を見ていた。ただ、右腕の動きが少し不自然だった。地図をめくる時、肘から先を使っていなかった。
「怪我、してますか」
グラントが顔を上げた。
「……問題ない、かすり傷だ」
「見せてください」
「問題ないと言った」
俺は思わず立ち上がった。
「グラント! この区域で化膿したらどうなるか、あなたの方がよくわかっているはずです。魔瘴地帯で受けた傷は普通より塞がりにくい。今やらないと、手遅れになります」
グラントが俺を見た。相変わらず表情を見せなかったが、視線の重さが変わった。
「……触るな」
声が出たが、さっきより力がなかった。
「触らないと腐ります」
グラントが黙った。黙ったことが承諾だった。
近づくとグラントの体が微かに強張った。承諾したはずなのに、体がそれを知らない。俺は止まらず、速度だけ落とした。急かさずに、手順を見せながら触れる。
「見えてますか、今から俺が何をするか」
グラントが短く頷いたが、俺の手が腕に触れた瞬間に息が止まった。一瞬だけ。堪えた、という止まり方だった。
承諾が取れるとは、半分も思っていなかった。グラントが「触るな」と言う時の速さを知っていたから。処置の手順とは全く関係なく、少しだけ心拍が上がった。
耳が、自分の意思とは無関係にグラントの方を向いていた。気配を追う、狼の本能だった。グラントの匂いが、近かった。それだけのことが、なぜか気になった。
* * *
傷は上腕の外側だった。岩にでも引っかけたのだろう。深くはないが長く、魔瘴地帯の土埃が入り込んでいた。これは洗わなければならない。
俺は医療品を出し、それから手袋を外した。指先の方が細かい作業ができる。それだけの理由だが、人前では滅多に外さない。手袋は、感触を制御するために使っているからだ。外した瞬間、空気の温度と匂いが直接手に触れた。
傷口を水で洗いながら視線の方向を確かめると、グラントは俺の右手を見ていた。手の甲に残った傷痕を。出発前にも、同じ目をした。あの時も、ここを見ていた。この男は、俺の手を覚えている。
一年半前、グラントが掴んだのはこの手だった。引き上げて、傷を見て、布を巻いた。
グラントは何も言わなかった。ただずっと、傷を見ていた。あの時も、何も言わなかった。
消毒をした。グラントの体が一瞬止まった。痛みというより、接触への反応だった。
古い傷が複数あった。長く戦ってきた体だ。ただ、処置をしながら気になる傷が一つあった。上腕の内側、今回の傷とは別の随分と古い痕だった。戦闘でつく位置ではない。何があったのか、読めなかった。
グラントはその傷に触れた瞬間だけ、わずかに体を硬くした。匂いが変わった。古い、何かの匂いだった。その匂いには、名前がなかった。ただ、古い、ということだけがわかった。
それから、グラントの喉が鳴った。一度だけ。
俺は聞こえなかったふりをした。手順通りに、布を当てて、固定した。
「終わりです」
グラントは腕を引いた。素早くはなかった。引いた後、グラントの喉が低く鳴った。何の音かは、わからなかった。
* * *
夜が深くなるにつれて、グラントの言葉が減った。夜ほど言葉を削るのが、この男の習慣だった。ただ今夜は、削った言葉の代わりに、何か別のものが漂っていた。言葉にならない。匂いとも少し違う。ただ、密度が違った。嵐の音を隔てて、二人の間に何かが積もっていく感覚があった。
嵐はまだ続いていた。しばらくして、グラントが言った。
「なぜ来た」
「仕事ですよ」
「相場には届かないと言った」
「言いましたね」
「それでも来た」
体が先に答えを出していた。あの時の匂いを、今も覚えている。血と、泥と、それから革の匂い。自分の体が動かなくなっていたときに、この男の手だけが動いていた。それだけのことだった。ずっと胸の底に残っていた。
「義理です」
グラントが黙った。俺は続けた。
「返さないまま終わるのは、筋が通らない」
「……そうか」
グラントはそれ以上聞かず地図に視線を落とした。炎が揺れるたびに影が動いた。グラントの横顔が、その度に明暗を繰り返した。眠くはなかった。グラントの気配が、まだ動いていた。嵐の音だけが続いていた。
夜明けが近い頃、俺はうとうとしていた。廃屋の隙間から、わずかに白い光が滲んでいた。嵐がまだ続いているのに、空だけが少し明るくなっていた。眠ってはいないが、意識の端が少し緩んでいた。そこで不意に、名前を呼ばれた。
「ローウェン」
低くて、静かな声だった。命令でも確認でもない声の出し方だった。その声が、微睡みかけていた中で、まっすぐに届いた。
俺は薄く目を開けた。
「……はい、何ですか」
グラントは答えなかった。地図を見たまま何も言わず、用件はなかった。ただ、名前を呼んだだけだった。
この男が誰かの名前を、用件もなく呼ぶことがあるのだと、初めて知った。
俺は少し待ってから目を閉じた。
面倒だな、と思った。
ただ今回は、その後に何も続かなかった。何かが来るはずだったのに、面倒だな、だけで止まった。
グラントの気配が、暗闇の中でまだそこにあった。嵐が、少し遠くなった気がした。
眠ろうとした。目を閉じて、呼吸を整えて、手順通りにやった。それでも眠れなかった。考えないようにしたが、余計に引っかかった。
グラントはまだ起きていた。気配でわかった。地図を見ているのか、ただ座っているのか、それともこちらを見ているのか。確かめる理由がなかった。一瞬、耳が動いた。音を拾おうとして、何も来なかった。
ただ、起きていることはわかった。
嵐の音が続いていた。俺は壁に背中を預けたまま、目を閉じていた。眠れないまま、夜明けを待つ。こういう夜は初めてだった。手順を組もうとして、組めなかった。
面倒だな、ともう一度思った。
今度は、違う種類の面倒だった。どういう種類か、わからなかった。
[newpage]
嵐が引いた翌朝、廃棄区域の空気は洗われたように澄んでいた。光が、久しぶりに真っ直ぐ地面に落ちていた。
ただ澄んでいるのは空気だけで、地面は夜の雨をまだ手放せずにいた。足を取られやすい。匂いも変わっていた。土の奥から術式の残滓が滲み出てくる、重い匂いだった。俺が前に出る方がいいと判断して、グラントより先に動いた。鼻を風上に向けながら、匂いの層を一枚ずつ剥がすように吸った。グラントの部隊はその後ろを、いつも通りの隊形で続いた。
いつも通り、ではあった。グラントが俺の動きを止めなくなっていた。
道を外れても、立ち止まっても、何も言わなかった。その沈黙が何を意味するのか、俺にはまだわからなかった。ただ、昨夜のあの匂いが、あの名前の呼び方が、この変化と、無関係だとは言えなかった。
悪くない、と言いそうになって、やめた。面倒な変化だった。
* * *
目標が見えたのは、その日の午後だった。
廃棄区域の中心部に近い場所に、古い塔があった。かつては監視塔か何かだったのだろう。今は魔瘴の濃度が高く、長時間近づけば、人体に影響が出る。失踪した二班が最後に向かったと思われる場所でもあった。
グラントが隊員たちを手で制した。
「待機。私と斥候が先行する」
隊員たちが頷いた。俺は少し遅れてグラントの隣に並んだ。
「俺が先に行きます。あなたは後ろを頼みます」
グラントは何も言わなかった。それが答えだった。
* * *
塔の内部は暗かった。石の壁に術式の痕跡が走っている。複雑な、生きている術式だった。失踪した二班はここで何かに遭遇した。痕跡の種類からして、魔瘴が凝固して実体を持ったものだった。珍しくはないが、厄介だ。
それが、不意に上から来た。匂いで先にわかった。術式が凝固した時の、焦げたような、冷たいような匂い。
実体化した魔瘴は視覚を持たないが、術式と連動して動く。塔の壁に刻まれた痕跡が、奴の動きを誘導していた。厄介な相手で、戦闘は短くはなかった。二人でなければ、負けていた。
その途中で、グラントがある痕跡を踏んだ。一年半前と同じ、引き込まれる匂いがした。何も考えず、右手が先に出た。グラントの腕を掴んで、引いた。手袋はしたままだった。
術式の罠が空振った。
「匂いが出ていました。危ないところでしたね」
グラントは一秒黙ってから俺の右手を見た。手袋をしたままの、右手を。
「……以前とは逆だな」
「そうですね」
この手で、この男の腕を掴んだ。一年半前の逆だった。返した。返せた。それだけのことが、なぜかひどく重かった。
* * *
塔の最上部に記録が残っていた。
封鎖の理由、術式の構造、解除の手順。そして失踪した二班の記録。最後の一人が七日前まで書き続けていた。俺たちが出発した頃、まだ生きていた計算になる。
記録の中に術式の部分解除の手順があった。完全ではないが、濃度を許容範囲まで下げることはできる。グラントはそれを読んで少し止まってから、束を揃えながら言った。
「今夜はここに泊まる。術式の解除に時間がかかりそうだ」
「他の隊員たちは?」
「魔瘴の濃度がまだ高い。抵抗力の低い者は入れられない」
「つまり二人で、ということですか」
グラントが一瞬止まった。
「……そうなる」
俺は頷いた。
「わかりました」
グラントは何も言わず記録の束を持ち直した。その手がわずかに遅かった。
* * *
夜になった。隊員たちは塔の外で距離をとって野営していた。俺とグラントは一階にいた。石の壁、ランタン一つ、術式の痕跡が走る天井。廃屋より、狭かった。壁の術式の痕跡が、ランタンの光を受けて、かすかに光っていた。
グラントは記録を読んでいた。俺は壁に背中を預けて、術式の匂いを監視していた。
嵐の夜を経験した分だけ、今夜の静けさは余計に深かった。
しばらくして気づいた。皮膚の奥で抑えている種類の匂いが来ていた。術式ではなく、グラントだった。グラントが記録を読んでいなかった。視線が紙の上で止まったまま、動いていなかった。
昨夜、用件もなく名前を呼んだあの声が、まだ耳の奥にある。
このまま夜が終わる。それでいい、とも。
ただ、手順として、それが正しいかどうかがわからなくなった。昨夜、名前を呼ばれた。用件はなかった。あれを放置したまま任務が終わる。グラントの匂いが、また変わっていた。それが、嫌だった。
「……あの」
グラントが顔を上げた。
「何だ」
「読めてますか、それ」
「……読んでいる」
「そうですか」
俺は壁から背中を離してランタンを手に取り、術式の痕跡を確認するふりをしてグラントの近くを通った。通った瞬間、グラントの体が一瞬止まった。俺は止まらず術式を確認して戻ったが、戻る時にグラントとの距離を縮めた。これまでより半歩、近かった。グラントは何も言わなかった。
* * *
「昨夜、名前を呼びましたよね」
グラントが止まった。
「……任務上の確認だ」
「用件はなかったようですが」
グラントは答えなかった。記録に視線を落としたまま、動かなかった。
「呼んだ理由を聞いていいですか」
グラントが顔を上げ、俺を見た。答えようとして、言葉が出なかった。この男が、言葉を見つけられない瞬間があるのだと、初めて知った。――それだけで、十分だった。
俺は一歩近づいて、ゆっくりとグラントの手首に触れようとした。触れる直前にグラントの体が、一瞬止まった。来るか、と思った。しかし、来なかった。息が、少しだけ乱れた。
グラントの呼吸が、聞こえた。ここまで近づいて、初めて聞こえる種類の音だった。その体が俺の正面にあり、見上げる形になった。ランタンの光が逆光になって、顔が読めなかった。
グラントは動かなかった。言葉を探して見つからず、ただ立っていた。
大きな手が熱かった。触れているのに、革越しにさらに熱が来た。グラントが低く息を吐いたが、手はまだそこにあって動かなかった。
* * *
境界を越えたのは、気づかないうちだった。踏み込む理由を探していたわけでも、手順を組んでいたわけでもなかった。ただ、グラントの体が引いていた。重力のように、静かに、確実に。
俺はグラントの胸に踏み込んだ。
大きな体だった。間近で感じると、余計にそうだった。厚い胸郭、幅のある肩。熱かった。熱い、という言葉では足りず、体温を持つ壁に触れている感覚だった。鎧の重さとは別の、もっと根本的な重さが伝わってきた。
革の匂いが薄くなっている。その奥、体温に最も近いところから、別の何かが表に出てきていた。それがどういうわけか、俺の頭を一瞬空白にした。
首筋の毛が、また逆立った。今度は、抑えなかった。
「わかってますか、今」
グラントが低く唸った。
「……わかっている」
「わかった上で、ですか」
グラントは答えなかった。代わりに、額を俺の頭に押しつけた。重かった。体重を預けてくる動き方だった。こんな男だとは、読んでいなかった。この体格で、こんなに静かに、何かを求める男だとは。
「……なんですか、それ」
「うるさい」
グラントがそれを口にしたのは、初めてだった。命令じゃなかった。
俺は笑わなかった。
* * *
グラントは最初、手の置き場を間違え続けた。
肩に置きかけて、腰に移りかけて、また肩に戻る。触れるたびに止まり、力が入ったり抜けたりした。戦場で一切迷わないはずの手が、こんな動き方をする。
その手が彷徨うのを、俺はただ見ていた。その彷徨いが、どういうわけか俺の喉の奥を締めつけた。
俺は手袋を外し、素手でグラントの手首を取った。太くて指が半分も回らなかった。掌を開かせた。大きな手だった。
「手順がわからないなら教えます」
言った後で自分の心拍が上がっているのに気づいた。理由を考えかけて、やめた。グラントの体が一瞬だけ固まってから、長く息を吐いた。
グラントの手を俺のシャツの裾から差し入れさせる。そして腹の上で止めて、直接皮膚に触れさせた。グラントの指がそこで固まった。熱かった。皮膚が皮膚に触れた瞬間の電流に似た感触が直接来て、グラントの手が微かに震え、喉の奥で低い音が一つ漏れた。
「止めなくていいですよ」
グラントが恐る恐る動いた。掌が腹の上を探るように動く。筋の形を確かめるような、輪郭を刻もうとするような触れ方だった。指先が肋骨の縁を一本ずつ確かめるように動いた。その丁寧さが喉の奥に刺さり、抜けなかった。
「もう少し力を入れて」
「……加減がわからん」
グラントが俺の前で「わからない」と口にしたのは、初めてだった。
「俺が言います。強い、弱い、止まれ。それだけ聞いていてください」
グラントが短く唸り、体の力が抜けた。
手が再び動いた。今度は、迷いが少し減っていた。脇腹から胸へ、掌全体がゆっくりと上がってくる。その重さと熱が移動するたびに、皮膚がそれを追った。胸の中央で止まり、グラントの掌が心拍を直接押さえていた。速くなっている。グラントには伝わっているはずだった。伝わっても問題なかった。
今度はグラントの手を下へと導いた。ゆっくり、腹を越えて。下着の上から俺の下腹部に触れさせた。グラントの手が止まった。
「そのまま、触れていてください」
グラントの息が一度止まってから、おそるおそる掌で形を確かめるように包んできた。すでに勃起していたのは下着を通していてもわかっただろう。グラントの指が布越しに幹の形をゆっくりなぞった。根元から亀頭まで、一度だけ。それだけで俺の腰が微かに動いた。
俺は下着をずらし、固く勃ち上がった自身をグラントの前へ解放する。そしてそのまま直接、素肌に触れさせた。グラントの指先が俺の中心に触れた瞬間、グラントの喉から低い声が漏れた。触れている側が、声を出した。
「包んでください。そのまま、ゆっくり動かして」
グラントの掌が包んだ。指が根元まで回りきり、その締まりと熱が一度に来た。陰茎全体がグラントの手の温度に包まれ、グラントの手がゆっくりと上下した。不慣れだったが、力加減は悪くなかった。むしろ、ちょうど良いくらいだった。
亀頭まで来て、戻る。その度に皮が動いた。グラントの指先が亀頭の縁に引っかかるたびに、俺の息が落ちた。意図していない。ただ、その場所が特に快感を拾っていた。グラントがそれに気づき、同じところで動きを変えた。親指の腹が亀頭をなぞった。
「……っ」
声が出た。今度は俺の声だった。グラントの動きがぴたりと止まった。
「……痛かったか」
「……逆です。続けてください」
グラントが低く息を吐いた。手が再び動いた。今度は迷いがさらに減っていた。掌全体で包んで、根元から先端へ、先端から根元へ。律動が生まれ始めていた。摩擦のたびに、俺の先端から透明な滲みが出た。それがグラントの指に絡んで、動きが滑らかになっていった。濡れた音が、静かな塔の中で響いた。
俺の腰が、その動きを追って前に出た。
「……こうすれば、いいんだな」
「そうです」
「……」
「上手いですよ」
グラントが低く唸った。律動が、わずかに速くなった。先端を親指でなぞりながら、幹を掌で扱く。二つの動きが重なった。息がもう整えられなくなってきていた。下腹部に熱が集まり始めていた。
「……止まって」
グラントの手が即座に止まった。
俺は息を整えた。少し時間がかかった。グラントは何も言わずに待っていた。止めたまま、ただ包んでいた。重さと熱だけが、残っていた。塔の外で、不意に風が鳴った。
「……強すぎたか」
「いえ。……これ以上続くと限界だったので」
グラントが黙り、短く息を吐いた。了解の音で、手がゆっくりと離れた。
* * *
グラントを横たわらせた。
促すと抵抗しなかった。大きな体が石床に向かった。天井に頭がつきそうだと毎回錯覚させる体格が、今は俺の前に収まっていた。こんな形で見ることになるとは。
「……でかいですね」
「……うるさい」
「事実を言っただけです」
グラントが低く唸った。俺の額に額を押しつけてきた。重かった。それだけの重さをかけてきて、それでもまだ加減していた。加減しながら、制御は追いついていなかった。隠しているのか、それとももう隠し方がわからなくなったのか。たぶん両方だった。
服を脱がせるとき、グラントが俺を見た。何かを確認するような目だった。
「続けていいですよ」
グラントの体が一瞬止まってから息を吐いた。
「手伝いますか」
「……いい」
ゆっくりと、一枚ずつ。
服の下も同じだった。厚い胸郭、盛り上がった肩、腹の筋が幾重にも重なっている。密な体毛は熱を帯びていた。それが皮膚を覆っていて、掌を当てると毛の奥の熱を直接伝えてきた。胸に触れると、その下で心拍がおそろしく速く打っていた。
下腹部まで視線を下ろした。グラントはすでに完全に勃起していて、隠す余裕がなかった。大きく、体格に見合った大きさで、陰茎が腹側に向かって反り上がり、根元から亀頭まで脈動しているのが見えた。俺の視線に気づいたのか、グラントは体をよじった。
「……見るな」
「手順の確認です」
「……うるさい」
グラントが顔を背けると、耳の付け根が熱くなっていた。
俺は掌でグラントの陰茎を包んだ。大きくて指が根元まで回らなかった。どくどくと脈打っている。グラントの喉から低く短い声が出た。意図していない声のようだった。掌の中でそれがさらに硬くなるのがわかった。
「力を抜いていてください」
「……わかっている」
わかっていても体が言うことを聞かなかった。ゆっくりとグラントの剛直を扱くたびに息が乱れ、首筋に押しつけてきた額に汗が滲んでいた。亀頭の先端から透明な滲みが出始め、それを親指でなぞるとグラントの腰が一度びくりと動いた。
「……っ」
「感じてますか」
「……うるさい」
声は低かったが、腰の動きは止まらなかった。
俺は次に向かう準備を始めた。油を指先に含ませ、グラントの太い脚の間に手を入れた。触れてほしそうに脈打つ陰茎の根元を越えて、さらに奥へ。後孔に指先が触れた瞬間、グラントの体全体がびくりと震えた。
「力を抜いた方が楽になりますよ」
「……わかって、いる」
それでも後孔は固く閉じていた。俺は焦らず、入口を円を描くようにゆっくりなぞった。グラントの息がその動きに合わせて乱れ始め、声を殺そうとして鼻から漏れた。
「……ここに触れると、どうですか」
「……」
「聞いてます」
「……変、な感じがする」
「それでいいですよ」
入口が少しずつ解れてきた。指先を押し当てると弾かれなかった。ゆっくりと一本グラントの中へと差し入れると、グラントの体が一瞬抵抗して息が詰まった。
「止めますか」
「……止めなくて、いい」
低い声だった。俺は止まらず、動かさずにグラントの体が慣れるのを待った。後孔が指を締めつけていて熱く、内側の熱が指先から直接伝わってきた。
しばらくして、締まりが少し緩んだ。
動かし始めた。ゆっくり、引いて、押し込む。グラントの息も深くなる。声を殺そうとして、それでも殺しきれていなかった。堪えた声が鼻から漏れるたびに後孔が内側から応えた。締まって、緩む。その繰り返しが指先に伝わってきた。
二本目を加えた。グラントの体がひくりと動いた。
「……っ」
「大丈夫ですか」
「……問題、ない」
二本になると、内側の感触が変わる。指を広げるたびに、グラントの息が落ちた。奥を探りながら、特定の場所を確かめた。指先がそこに触れた瞬間、グラントの腰が大きく跳ねた。
「……っ!」
「ここですね」
「……な、なん、だ、これは」
「もう一度触れますよ」
「ま、待――」
待たなかった。指先で前立腺をゆっくり押すと、グラントの分厚い体が弓なりになり、腹の筋が全部収縮した。陰茎が腹に向かってさらに反り上がり、先端から透明な液体が糸を引いた。グラントの喉から出てきた声は、これまでで最も加工されていない声だった。制御しようとした痕跡がなく、ただ出た、という出方をして、その声が石造りの塔の中で一度響いて消えた。
「……こういう、こと、か」
グラントが息を乱しながら言った。
「そうです」
「……知らな、かった」
「知らなくて当然ですよ」
グラントが黙った。額を俺の肩に押しつけてきた。返事の代わりだとわかった。重かった。さっきまでと、力の抜け方が変わっていた。
* * *
「力を抜いてください」
グラントが止まった。
「……どこを」
「全部」
「全部は――」
「できますよ。今夜だけでいい。手順は俺が組みます」
「……お前に任せる」
グラントが言った。任せると。言葉は少なかったが、この男がそれを口にしたのは初めてだった。
グラントの体から、少しずつ力が抜けた。少しずつ、本当に少しずつ。抜けるたびに、体がわずかに重くなった。これが本来の重さだった。
「……こういうことは」
グラントが低い声で言った。
「慣れていない。……その、一度も」
「知ってますよ」
「なぜ知っている」
「動き方でわかります。恥じることじゃないですよ」
グラントが黙ったまま額をまた押しつけてきた。額がさっきより熱く、その熱が俺の頭頂部から首筋まで伝わってきた。
体勢を整えてグラントの脚を開かせた。グラントは抵抗しなかった。内腿の密な体毛が俺の腿に触れる。グラントの後孔に先端を当てた。入口はまだ少し固かったが、指で解したそこは先端を押し当てると少しずつ受け入れようとした。
「息を吐いてください」
グラントが息を吐いた。その瞬間、ゆっくりと分け入って中へと押し入った。
「……っ」
グラントの体が抵抗して締まりが来た。内側の圧力が直接来たが、焦らずに押し進んだ。グラントの息が止まりかけた。
「息を止めないでください」
「……っ、わかって、いる」
グラントが息を吐くと同時に後孔の締まりが少し緩み、その隙に奥へ進んだ。押し広げていく感触が続き、グラントの体が俺を受け入れながら同時に締めつけてきた。その圧力が幹全体に伝わり、内側の熱が先端から根元まで包んできた。
「……っぐ」
グラントが呻いた。大きな傷でも表情を変えなかった男が、俺に侵入されて顔を歪め、たまらずに声を出していた。その事実が、俺に仄暗い制圧感を連れてきた。
「抜きますか」
「……抜くな」
拒絶ではなく、もっと確かな言葉だった。俺は腰を進める。根元まで入った瞬間、二人とも止まった。
グラントの体の奥から熱が伝わり、内側が脈打っていた。陰茎全体がグラントの体の中にある。その事実が、感覚より先に頭に届いた。グラントの内壁がひくひくと収縮し、幹を締めるたびに俺の息も跳ねた。
ゆっくりと腰を引いた。入口が亀頭の形を感じ取るように締まった。先端まで引き抜く手前で止めて、また押し込んだ。グラントの体が、その動きに合わせて声を出した。低く、腹の底から押し出されるような声が。内壁が俺の陰茎を締めつけながら奥へ迎え入れ、その摩擦が根元から先端まで伝わってくる。
「……っ」
「力を抜いた方が楽になります」
「……わかって、いる」
「わかってないですよ、今」
グラントが低く唸った。その唸りの途中で、体から力が抜けた。後孔が一度だけ大きく緩んだ。その瞬間に深く押し込んだ。先端がグラントの敏感な部分を抉った。
「……ぐあっ!」
グラントの腰が跳ね、後孔が強く締まってその収縮が陰茎全体を包んだ。俺の動きも一瞬止まりかけた。
「感じますか」
「……っ、あ」
答えになっていなかった。グラントの体が正直に答えを出している。前立腺を意識しながら角度を調整し、押し込むたびにそこに当たるようにすると、グラントの声が変わった。低い声が少しずつ抑えきれなくなってきた。
「声、殺さなくていいですよ」
「……」
「隊員たちは皆獣人です。聞こえてますよ、どうせ」
「……わかって、いる」
わかっていても殺そうとしていたが、今夜はその習慣が負け続けていた。グラント自身は気づいていないようだった。
動きが深くなった。引いて押し込むたびにグラントの体が奥から声を出した。内側の弱点を押すたびにグラントの陰茎が腹の上で脈打ち、先端から透明な液体が零れる。触れてもいないのに体が応えていた。グラントの声が俺に伝わり、俺の動きがグラントに返る。その往復が続いた。
グラントの手が俺の背を掴んだ。大きな手が背骨の脇を包み、引き寄せながら深く受け入れた。その熱と重さが、皮膚から直接入ってきた。
「……ローウェン」
「はい」
「……」
「はい」
「……ロー」
俺の動きが止まった。フルネームすら言い切れなくなっていた。「ロー」という音だけが、体の奥まで届いた。名前ではなく、音として。
「……います」
「……もっと」
グラントが言った。この男の口から、それが出た。命令口調ではなかった。もっと削れた言葉だった。規律を全部失った男が、それだけを絞り出している。
腰の動きを速めた。グラントの内側を意識したまま角度を保って深く押し込むたびに、グラントの体が大きく揺れた。後孔が俺の動きに合わせて緩み、締まる、その繰り返しが速くなった。グラントの声が、もう制御されていなかった。低く腹の底から来る声が止まらなくなっていた。
「……出していいですよ」
「……わかって、いる」
「わかってないですよ。触れてもいないのに、もう出そうになってる」
グラントの動きが一瞬、揺れた。
「……っ」
グラントを、俺は内側からさらに擦り上げる。低い声が、グラントの喘ぎが、塔の中に長く長く響いた。グラントの巨大な陰茎が腹の上で大きく脈打ち、先端から大量の白濁が溢れた。触れてもいないままグラントの体が達し、後孔が強く収縮して俺自身を内側から締めつけた。その圧力が根元から先端まで一度に来た。痺れた。
俺の動きが止まりかけたが、止まらなかった。収縮するたびに内側の熱が増し、グラントの体が震えていた。堪えていたものが堪えることをやめた時の震え方で、そういう揺れ方だとわかった。
「ここに、いますよ」
声が、思ったより低かった。言葉を口にしてから、自分でも少し驚いた。グラントの体が、大きく一度、揺れた。最後の波が来た。その瞬間に、俺の体も限界を越えた。
俺はグラントの中に全てを吐き出した。彼の体の奥に熱が広がる。奥まで、全部。俺の体が止まり、内側が俺を包んだまま脈打っていた。収縮するたびに俺の熱い部分がそれを感じる。
しばらく、二人とも動かなかった。
グラントの息が乱れていた。整えようとしていたが、整えきれていなかった。荒い息が俺の耳元にかかって熱かった。その息が少しずつ落ち着くのを、ただ聞いていた。まだ締めつけが続き、緩みきらなかった。
グラントの腹の上に、白濁が広がっていた。密な体毛に絡み、ランタンの光を受けて、てらてらと光っていた。
グラントの腕が、俺の背を離さなかった。
「……重いですよ」
「……」
グラントがわずかに動いて腕の力を緩めたが、完全には離れず、そのまま俺の首筋に鼻を当てた。
俺は何も言わなかった。この男の息が、俺の首筋にかかっていた。
* * *
全部が終わった後、グラントは呆けたように天井を見ていた。
胸郭がまだ大きく上下していて、その度に体毛が俺の腕に触れた。体温が高く、行為の後もそれは続いている。俺の体温と混ざって、どちらがどちらかわからなくなっていた。
グラントの腹の上の精液が乾き始めていた。体毛に絡んで、冷えてきていた。俺はそれを指先でそっと拭った。グラントの体が、わずかに動いた。
「……触るな」
声が出た。力がなかった。
「もう遅いですよ」
グラントが低く唸った。反論ではなく、漏れた音だった。
俺はゆっくりと体を離して後孔から抜いた。グラントの体がわずかに震えた。余韻だった。抜いた後も後孔がしばらく収縮を繰り返していて、グラントはそれを感じているはずだったが、何も言わなかった。天井を見たままだった。
俺は隣に横たわった。石床は冷たかったが、グラントの体が近く、体温が横から来た。
しばらく、無言だった。
グラントの息が少しずつ落ち着き、荒い呼吸がゆっくりと深くなっていった。それを聞きながら俺は天井を見ていた。術式の痕跡が走っていて、ランタンの火が揺れるたびに痕跡が動いて見えた。
グラントの手が、静かに俺の手の甲に触れた。
掴んだわけではなかった。ただ、置いた。大きな手で、重くて、熱かった。それだけだった。ただ、そこにあった。
俺は動かなかった。動きたくなかった。それも、本当のことだった。
革も金属もなかった。最初からそこにあったものだけが残っていた。体温と、息と、それから獣の匂い。こんなに深いところの匂いを、この男から嗅いだのは初めてだった。この場所から離れたくなかった。それが、今の本当のことだった。
しばらくして、グラントが口を開いた。
「……俺は」
止まった。気づいたように体が一瞬固まった。
「今、なんて言いましたか」
グラントは答えなかった。長い沈黙があった。ランタンの火が揺れた。グラントの手が、俺の手の甲の上でわずかに動いた。指先が、俺の指の形を確かめるように一度なぞった。手袋のない、素手の指を。
息が、少し乱れた。それから、小さく息を吐いた。
「……敬語を使うな」
命令口調だったが、今までのどの命令とも種類が違った。任務でも拒絶でもなく、距離を詰める命令だった。
胸の底で、何かが静かに動いた音がした。ずっとそこにあって、今夜だけ動いたものの音だった。名前をつけたくなかった。つけた瞬間に、引き返せなくなる。
「……参考にします」
「参考にするな。従え」
「はいはい」
グラントが低く唸った。呆れているのか、それ以外の何かなのか。今夜はもう判別しない。
グラントの手が、俺の手の甲から離れなかった。
俺は目を閉じた。
面倒だな、と思った。
ただ、面倒の種類が最初と変わっていた。それだけは、わかった。
[newpage]
術式の解除は翌朝に終わった。
グラントが記録に従って手順を踏んだ。術式の核に近づくにつれて匂いが変わった。安定しているか、崩れかけているか。それは記録には書いていない。俺がその都度読んで、止まるタイミングを伝えた。二時間かかった。
最後に術式の核が砕けた瞬間、廃棄区域全体の空気が変わった。重さが抜け、土の匂いが戻った。ただの、古い場所の匂いになった。俺は深く息を吐いた。風の音だけが、ここまで届いた。
「終わりましたね」
「ああ」
それだけだった。
* * *
少しして、グラントが口を開いた。
「規律は」
「はい」
「……誰かに、言われたわけではない」
俺は何も言わず、続きを待った。
「感情で動いた者が先に死んだ。だから感情を削った。欲を持った者が隊を割った。だから欲を封じた。それだけだ。……それだけのつもりだった」
「間違ってないですよ。ただ、手順ってのは目的に合わせて組み直すものです。目的が変わったなら、手順も変わる」
グラントが押し黙った。
「昨夜のことは規律違反じゃないですよ。俺の見立てでは」
「……お前の見立てか」
「信用するかどうかは、あなたが決めてください」
グラントがまた黙った。今度は長くはなかった。
* * *
グラントは几帳面な手つきで記録の束を革袋に収めた。昨夜のことは顔に出ていなかったが、動きの速度が普段よりわずかに遅かった。俺にはそれがわかった。まだ、この男の体に残っている。それが、なぜか俺の胸の奥に触れた。
塔を出ると、隊員たちが待っていた。
グラントが簡潔に報告した。術式の解除完了、記録の回収、区域の安全確認。隊員たちが頷いたが、誰も余計なことを聞かなかった。この部隊は、聞かない訓練ができていた。
帰路についたのは昼前だった。
来た時と同じ隊形だった。グラントが先頭、俺がその隣よりやや後ろ。グラントが時々、後ろを見た。その度に俺の耳が動いた。グラントの気配を拾っていた。意識してではなく、それが何度か続いた。体が、この男を追っている。隊員たちは、見ていないふりをしていた。
帰路の四日間、俺はいつも通りに動いた。先行して匂いを確認し、地形を読み、問題があれば報告した。手順の中にいれば、余計なことを考えずに済んだ。
グラントが後ろを見るたびに俺はそれに気づいた。気づかないふりもできたが、しなかった。この男の匂いが、行きよりも近くなっていた。距離は変わっていない。ただ、匂いの届き方が違った。
夜営のたびに、二人の距離の取り方が変わっていた。言葉を交わしたわけでも、何かを決めたわけでもない。ただ、変わっていた。
三日目の夜、眠れなかった。あの塔の夜と同じ理由だった。ただ今回は、理由がはっきりしていた。「ロー」という音が、まだ耳の奥にあった。あの夜、あれほど近くにいたのに、それまでとは違う届き方をした。音ではなく、あの音が自分の中の何かに落ちた瞬間の感覚が。把握できないものが内側にある。その感覚が、まだ消えていない。
名前をつけたくなかった。つけた瞬間に、引き返せなくなる。ただ、もう引き返したいとも思っていなかった。それだけは、わかっていた。
グラントの温度が、まだ手に残っている気がした。皮膚がそこを覚えていた。消えるのに、もう少しかかりそうだった。
面倒だな、と思った。今度は笑えなかった。
面倒の中身が、変わっていた。任務でも義理でも手順でもない何かが、もうそこにある。
気づいたら、手袋の中で指先に力を込めていた。手順にはない動作だった。
* * *
王都が見えたのは四日後だった。
石畳の道に出た瞬間、空気が変わった。人の匂い、馬の匂い、食べ物の匂い。廃棄区域の澄んだ空気とは正反対の匂いだった。音も戻ってきた。人の声、馬の蹄、荷車の軋み。十日間、こんなに多くの音の中にいなかった。悪くはない。ただ、静寂に慣れた耳には少しうるさかった。
城門の前でグラントが解散を告げた。各自、報告と休養。手短だった。隊員たちが散っていった。
俺も行こうとした。
「待て」
グラントが言った。
俺は止まって振り返った。グラントは城門を背にして立っていた。あの体格が、夕暮れの光の中にあった。夕暮れの光が、角の輪郭を縁取っていた。
「何ですか」
グラントが答えなかった。来た時と同じだった。紙切れ一枚で呼びつけて、今度は引き止める。言葉も使わずに。
「義理は返しましたよ」
俺は言った。半分だけ、本当だった。
「今度は義理なしで来る理由がないですね」
グラントが黙った。
「そうですよね」
「……もう一つ、緊急の任務がある」
「それは本当ですか」
グラントが止まった。長い止まり方だった。夕暮れの風が石畳を渡っていった。どこかで馬が嘶いた。世界がその間も続いていた。
「……嘘だ」
驚いた。嘘だったからではなく、グラントがそれを認めたからだった。
「正直ですね」
「……うるさい」
「それも正直ですよ」
グラントが俺を見た。牛の顔は読めないが、動きが止まった。昨夜とは種類の違う静けさだった。
覚悟の匂いがした。迷いが全部燃え尽きた後の灰のような、静かで、もう揺れない匂い。塔の夜に嗅いだ、あの匂いだった。
「来るか」
命令ではなかった。問いだった。答えを強制せず、判断を俺に預ける、その言葉を。
俺は少し考えるふりをした。
実際には考えていなかった。いつから決まっていたのかはわからなかったが、この男の匂いを、もう一度嗅ぎに来るつもりでいた。それだけは、わかっていた。
「面倒だな」
俺は言った。
グラントが一瞬止まった。
「それで次の任務は、いつごろ――」
「敬語を使うな」
昨夜と同じ言葉だったが、声の置き場所が違った。昨夜は命令だった。今夜は、その先に踏み出す何かだった。
俺はため息をつく。そして続けた。
「……次の任務は、いつだ」
グラントの喉が鳴った。長かった。
承諾でも感謝でもない。もっと根本的な、受け入れられた、という音だった。
「……次は、四日後だ」
「じゃあ、出発の二日前までに連絡してくれ。準備がある」
「わかった」
「他になにか言っておくべきことは?」
グラントが少し止まり、逡巡し、やがて低い声で言った。
「ご苦労だった。……ロー」
短くて、不慣れな言い方だった。
俺は笑わなかった。「ああ」とだけ言った。それで、よかった。俺達には、それで十分だった。
背を向けて歩き出すと石畳が足音を立てた。少し行ってから振り返ると、グラントはまだそこにいた。動かず、あの体格で夕暮れの中に立っていた。
振り返らなければよかった。振り返ると確かめたくなる。確かめると、名前をつけなければならなくなる。――ただ、そうやって気づかないふりをしているだけで、とっくに名前がついている気がした。
俺は前を向いた。
義理は返した。次は義理じゃない。次の任務が終わったら、飯でも誘うか。この男が飯を食う場所を、俺は知らない。だから、知りたかった。
面倒だな、と思った。そして笑った。誰にも見えない方向で。自分でも少し驚いた。こんな面倒を、笑えるようになるとは思っていなかった。
夕日が俺とグラントを、同じ色に染め上げていた。
了
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