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グレイマジック8閑話休題、あるいはまったく余分な恋の話

  [chapter:おそるべき男

  ]

  「しかしとりあえず、ですよ。七年前の件はおいて、まずは現在の事件から考えましょう」

  ここからは長くなる。アイドクレーズはいちどキッチンへ立ち、じぶんのマグカップをもって戻ってきた。ポットからお茶を注ぐとひとくち飲んで喉をうるおし、巻紙の上のペンをとりあげてゆっくりと云った。

  「あのどこからどう見ても完全無欠で瑕疵のない学院理事長が黒幕、つまり真犯人であるとすると、ナイジェルは完全に彼に嵌められていることになります。ユアンによって己の犯罪を肩代わりする[[rb:犠牲 > スケープ]]の[[rb:羊 > ゴート]]として利用されている」

  「そうね」

  「ではまず動機の面からいきましょうか。ユアンが犯人だとすると目的は自身が皇帝になること、ですよね?」

  「たぶんね。でも、だとすると彼は皇位継承者の座をオリたそうだけど、本心ではずっと帝位を望んでいたことになるわ。なのになぜ候補者から降りたかーー無理やり降ろされたのかもしれないわね」

  「ですね。身体が弱いってテディやギネヴィア女史が云ってましたが皇帝公務は激務だ、健康に対する不安が理由で無理やりレースから降ろされたのかもしれません」

  「あと、ひょっとしてご両親の意向もあったのかも。息子が皇帝になったら半年待たずに崩御すると云ってたらしい、だから皇位からの離脱はご両親が申し入れたのかも。ただし教官自身はそのことに納得していなかったーーハダルのお兄さんやお姉さんがどのくらいまで生きていたのかはわからないけどおそらく夭折している。そして教官も、病弱とはいえ彼らよりは健康で丈夫で、あるときからたったひとりの皇位継承者として教育を受けていた。最初は厭だったかもしれなくても継承者として学んできたし、きっとじぶんが皇位を継ぐのだと思っていたーー」

  「だがハダルの誕生でご破算になった。人生狂わされたといってもいい」

  「うん。で、順を追っていくと、やっぱり七年前の誘拐事件に触れざるを得ないわ。教官にはハダルを恨む理由、彼の魔力が減ってしまえばいいと思う理由がある」

  ユアンが犯人だとすると、今回の事件は七年前から繋がっている。ユアンが裏で糸を引いていることはじゅうぶん考えられた。

  「七年前ハダルは十歳。教官は研究所の研究員だったと云っていたけど、そのとき彼は」

  「二十四歳、立派な成人男性です。野望を抱く年頃でもある。じぶんの人生を諦めるには早い」

  「当時は彼もカルセドニー家の別荘に滞在していたとか。テディはセレス市に残って[[rb:巣球 > ネスボラ]]の後輩たちの指導をしていたから、ユアンは従者といっしょにいなかった。ユアンがこっそりなにかしたいと思うならテディがいないほうがいい。テディは家族思いだそうだし、ハダルになにかあったら弟が悲しむとわかっている、それに実直な性格でもある。ユアンがそんな野望を抱いていると知ったら絶対止めるでしょう」

  「ええ、いまもなおユアンの健康を案じていますし、そんなことをしてあなたの寿命が縮まったらどうするんだと、当時も全力で反対しそうだ」

  「だからユアンにとって、テディがセレス市に残っているそのときが絶好のチャンスだった。ユアンなら親戚のお兄さんだしハダルも懐いてたでしょう、こっそりカフェから連れ出すことはじゅうぶん可能よ。その先は誰かほかのひとに任せるにせよ」

  「しかも彼は印陣のスペシャリストで、移動用の陣だってたやすく作れるわけです。[[rb:不在証明 > アリバイ]]の敵といっても過言ではない。彼にはアリバイなど意味をもたない」

  「ええ。魔法陣を用いてカフェに侵入する、ハダルを連れてふたたび魔法陣で一気に広場の馬車停留所へ飛んで仲間にハダルを託し、またすぐさまカルセドニーの別荘まで飛ぶ。周到に準備すれば十秒もかからないんじゃないかしら」

  「そうですね、最大でも一分かからず済むでしょう」

  「目撃者もなしですむ? どう思う?」

  「かなり危険ですが可能かも。むしろ目撃されても構わなかったかもしれない。だって陣であっというまにどこへでも行けるし、彼なら騎士団の捜査網にはひっかからない魔力残渣の残らない印陣を作れるのかもしれない」

  「こうなるとギネヴィアの話は大きいわね。教官は昔から印陣に関してとても優秀で、オリジナルの印陣を開発して売りさばいていたと云ってた。それがある種の実験だったとしたら」

  「七年前の事件を、ユアン・カルセドニーは学生時代からハダルの誘拐と魔力奪取を計画していたことになります。ハダルが生まれた直後から準備をはじめていた?」

  「ううう~ん……」

  ユアンが犯人だと考えるのはナイジェルがそうだと考える以上に憂鬱で救いがなかった。

  「ナイジェルと同じように考えていくとと、教官も蛇神シュバリスが生きていることを知っていて、わたしの魔力を利用できると考えて地下神殿を襲ってきた、と。その場合はハダルの魔力を戻すのが目的ではないわけよね。じゃあなにが目的かしら?」

  「自身の健康のため、とか。奪った魔力を体力に変える、寿命をのばす?」

  「ありうるけど動機としては弱い気がする。少なくともナイジェルに比べたら、七柱の廟を襲うにはとても弱い。それにシオンの槍まで奪うのが解せない。わたしひとりでじゅうぶんじゃない?」

  「いや、ユアンの最大の課題は自身の健康問題のはずだ。それ以外に考えられない。あるいは別の可能性としては」

  アイドクレーズが最大限集中するようにこめかみに指先をあてた。

  「ユアンはナイジェルと競争状態である、とは考えられませんか?」

  「競争状態?」

  「ナイジェルはハダルを治したい、いっぽうユアンはほんとうはハダルに治ってほしくない。シオンの聖遺物を奪ったのはナイジェルで、それがハダルのためといちはやく気づいたユアンは、じぶんもシュバリス廟を襲って彼の目的を阻止しようとした。ナイジェルが聖遺物を魔具として利用しようとする前に、さきに確保してそれを阻止」

  「なるほど」

  「そして別の可能性としてはーーえっと、やっぱりシオン廟もシュバリス廟もエステル廟もユアンの仕業で、目的はナイジェルに容疑をむけるため。ナイジェルはユアンのライバルであるハダルの呪いを解き、命を救おうとしています。しかし呪いを解く過程で、ナイジェルはユーレアイトではなくユアンが黒幕だと気づくかもしれない。ユアンはそれを嫌い、七柱廟から聖遺物を強奪するという罪をナイジェルに着せることで彼を排除しようとした」

  「それはーー」

  シュバリスはしばらくことばを失った。

  「ありうるけどすごく怖いことだわ。とても怖い。だってそれはつまり、同時に」

  「ええ。ナイジェルがいま騎士団に逮捕されれば、ハダルの呪いを解こうとするものがいなくなる。皇帝陛下でもどうにもできなかった呪いです、なのにナイジェルまでいなくなったら、ハダルが死の運命から逃れる芽は完全になくなる。ユアンの目的はそれだった」

  「聖遺物の強奪ではなく、じぶんのかつての罪を隠蔽し、今度の罪もナイジェルに着せる。そしてナイジェルがいなくなればじぶんが確実に皇帝になれる。だから……?」

  「そうです。だからユアンは同じ理由でアルジュナも殺そうとした。しかしこちらはまわりくどい手をとらず、人を雇って襲わせた」

  「人を雇って」

  「しかも」

  アイドクレーズが目を細めた。

  「その場合、ユアンが殺人者に仕立て上げるのにうってつけの人物がすぐそばにいる。テディです」

  「テディが実行犯? アルジュナを刺した?」

  「アルジュナが襲われたときのことを覚えてますか。わたしたちは学院長室から出て寮に戻ろうとしましたが、そこで寮が大騒ぎになっているのに行きあいました。しかしその前に、ユアンとテディが学院長室を出て、ユアンの住む教官用の[[rb:宿舎 > ロッジ]]に帰っている。でもほんとうは帰っていなかったら?」

  「学院長室を出てすぐに、ユアンがテディに命じて、アルジュナを襲いに行かせた?」

  「ええ。時間的にはおかしくない、距離もあう。ユアンにはそうできる力もあるかもしれない。シュバリスさまはナイジェルから、ユアンの[[rb:固有魔法 > マジック]]は人を操るたぐいのものだと云われたんでしょう。人の意思を操ると」

  「ええ」

  「固有魔法の詳細はふつうは本人以外は知らないといいますが、ナイジェルはユアンのマジックについて知っていたのかも。いや、ひょっとしてナイジェルは、七年間あちこち調べ回るうち、ユアンのマジックについて知り、彼が黒幕だとうすうす思っていたんじゃないですか?」

  「待って。じゃ、ハダルが教えてくれたシュラク通りの倉庫のことは?」

  「あそこはほんとうは、ナイジェルのアジトじゃなく、ナイジェルがユアンのアジトではないかと考えていた場所だった。ナイジェルはまんまとあそこに誘導された」

  「頭がおかしくなりそう」

  「わたしもです。ですが、ナイジェルが飛んできたあの夜、ナイジェルはハダルのことであなたに会いにきただけだった、もしくは末弟にアベンチュリン家のものとしての使命を徹底させたくて忠告にきただけだったとして、なにか罠がしかけてあって、ナイジェルの魔法陣はあの倉庫に飛ぶようになり、そこにユアンのしかけた決定的な証拠が置かれていて、ナイジェルは犯人と断定された、と考えると」

  「たしかに、ユアンはまっさきに倉庫に踏み込んできたわ。印陣のスペシャリストとして先に跳んできた、と思えば思えるけど、騎士団がそれほど人材不足とも思えない。無理やり先頭にたった? それはじぶんがしかけた罠の痕跡を消すためだった?」

  「ありえます。そもそも騎士団に協力する立場なのも彼の計算だったりして。彼が犯人だとしたら、ずっとこの機会を待っていた」

  「じゃ、あのときわたしを襲ったのもテディ? 足を切断して眼をえぐり出した、あれもテディなの?」

  「じぶんではやらないでしょうユアンは。できそうにもない。それにわたしはあの男とぶつかっているが、あの男とユアンでは体格がぜんぜんちがう。テディなら同じくらいです」

  「わたしはよく覚えてない。やたら大きく見えた気はするーーでもナイジェルもテディと同じくらいの体格だけど?」

  「テディだけでなくナイジェルも操られている可能性はーーうーん、ないかな。まあでも、ユアンが黒幕だとしたらどっちみちテディを使うでしょう。テディは強いし、しかも彼なら主人の企みに気づいても口をつぐむ。なにがあろうとユアンをかばう。ただ、指輪の件もありますからあの男がテディではない可能性もじゅうぶんある。テディは指輪をもってましたからね」

  「そうよね。たしかに……」

  「だいじょうぶですか?」

  アイドクレーズが腰を浮かせた。いろいろ考えるうち、シュバリスは泣きそうになっていた。

  「だめかもしれない。隣にきて」

  「[[rb:是 > ヤール]]」

  アイドクレーズが隣にすべりこんでくる。シュバリスはアイドクレーズの肩に頭をもたせかけた。

  「教官が黒幕だったとしたら、とても怖いわ」

  アイドクレーズの腕の中で自分の体を抱きしめて、シュバリスは呻いた。

  「彼は蛇神シュバリスがハルトガルトの娼婦ではなく恋人だったと信じていると云った。なのに犯人だとしたら、テディにやらせたにせよ別の誰かを使ったにせよ、彼がわたしを襲ったことになる。もちろんわたしが生きていると知っていたうえでよ。考えられる? 初めて会ったとき荷物を運んでやれってテディに云ってくれたかたが……テディもそうよ、あんなに優しいのに。ほんとうはシュバリスが娼婦だと思っているって云われたほうが何倍もマシだわ」

  「そうですね。あの真剣な口調やわたしたちへの気遣いで、ほんとうは娼婦説の信望者だったとしたら怖いし恋人説信望者だったとしたらもっと怖い」

  「でも、ユアンが犯人だとしたら、シオン廟から槍を盗み出すのも簡単かも……ユアンだって騎士団内部にある機密情報に触れられるでしょう。団長とすごく親しげだったし」

  「ええ」

  「どうしたらいいのかしら」

  皆目見当がつかなかった。シュバリスが黙り込むと、

  「わたしたちの目的はひとつ」

  アイドクレーズがつぶやき、横からゆっくりとシュバリスの頬を撫でた。額にかかった髪をよけ、鼻先を彼女の髪に埋めると、そのままゆっくりと上体を伸ばして頭のてっぺんにキスした。

  「足は取り戻した。次は眼です」

  「ええ。そして……」

  シュバリスは小さく呟いた。

  「あとひとつだけ確実にわかる。ハダルを助けるの。彼の命だけは救ってあげなきゃ」

  「あなたが望むなら」

  アイドクレーズは苦笑していたが、口調は真摯だった。シュバリスは彼の肩から頭をあげて微笑んだ。

  「ありがとう。ところでアイドクレーズ、最後に聞きたいわ。あなたはどっちだと思う?」

  「それはあなたから聞かせてほしいですね。あなたはどちらだと?」

  「ユアン」

  「なぜです?」

  「図書館で触れられたときとても邪悪なものを感じた。ナイジェルの云ってたことが正しいと思ったわ。ユアンのマジックはひとの意思を操ることで、あのとき教官はわたしを操ろうとしてた。とても怖かった。また眼を奪われるんじゃないか、このひとは見かけ通りのひとなんかじゃないって思った。あのときのとてつもない恐怖」

  「わたしに魔法をかけないで、とあなたは叫んでましたね」

  アイドクレーズが表情を険しくした。

  「らしくなく[[rb:恐慌状態 > パニック]]になって。この五百年、あなたのあんな声は聞いたことがなかった。地下で襲われたときを除いて」

  「ええ。ギネヴィアが来てくれなかったらと思うとぞっとする」

  「しかし図書館では魔法を使えないはずですが」

  「……でもカリロエ教官がおっしゃってた、[[rb:固有魔法 > マジック]]は本人にとってもっとも自然で身近な魔法なのだって。ユアンの魔法は図書館の誓約にもひっかからないのかもーーいえ、ごめんなさい。あなたのいうとおりパニックになってたのね。でも教官が危険だと思ったのはほんとう。すごく怖かったの」

  「あなたを怖がらせるなんて許せませんね。しかし、恐れ入りますシュバリスさま、わたしはナイジェルだと思います」

  「なぜ?」

  「ユアンが犯人だという説は、仮定があまりにも多すぎます」

  アイドクレーズは手を伸ばし、むかいの席にあった巻紙を引き寄せた。

  「七年前の事件の黒幕がユアンだというのも、七柱廟の聖遺物強奪もあなたの眼と足もアルジュナも、ユアン黒幕説はすべて『ユアン・カルセドニーは帝位を望んでいるのだ』という仮定のうえに成り立っている。しかしユアン本人はいちどもそう云っていないし、周囲の反応を見るに彼が帝位を望んでいるとはみじんも感じられません。彼にほんとうに野心があるのなら、少しは気づいているひとがいそうなものです。ギネヴィアはけしかけているようでしたが、それも冗談のようにわたしには聞こえた」

  「本人にその気があるのなら、周囲だってもうちょっと、ということね?」

  「ええ。それに世間ももう、彼を教官や学院長や理事長であるというふうにしか扱っていない。彼自身もすっかり教官として充実した日々を過ごしており、みんな次期皇帝はアルジュナかハダルかと目している。じっさいユアンに割って入る隙はないでしょう」

  「ええ」

  「アルジュナとハダルの両方になにかあれば、ユアンにも帝位をつぐ可能性はある。しかしそれは同時に、アルジュナとハダルになにかあればユアンがもっとも疑わしいということだ。ナイジェルという隠れ蓑があったとしても」

  「そうねーー」

  「なのにいまさら帝位を目指すのはユアンにとってリスクが高すぎる。それに、はたで見ていると、ユアンはすでに帝位を諦め、別の人生を立派に歩んでいるとわたしには思えます。学院内でも街でも、ユアンほど理事長や学院長や教官にふさわしい人間はいないと評判だ。本人も一介の教育人として充実した日々を送っている。いまさら帝位をめぐるごたごたに自ら飛び込むのは考えにくいーーですがナイジェルの場合、状況も証拠もまったく彼がクロであることを示している。聖遺物強奪もあなたへの傷害もアルジュナ暗殺未遂も、どう考えたって彼が犯人だというほうがしっくりきます」

  「ええ……」

  「じゃあ誰か、ユアンを皇帝にしたい第三者が絡んでいる可能性はあるのかないのかでいうと、ありえないことはないでしょう。誰かはわからないがユアンを皇帝にしたい人物がナイジェルを嵌め、ユアンが皇帝になれるようハダルを死へ導きアルジュナを害そうとする。たとえばテディとかーーテディはひそかに、アルジュナやハダルより己の主人のほうが皇帝にふさわしいと思い、なんとかユアンに帝位を継がせようと勝手にことをおこしているんです」

  「テディが?ーーでも、」

  シュバリスはすぐに「それはないんじゃないだろうか」という結論に達した。アイドクレーズもうなずいた。

  「そう。テディの場合、ユアンを皇帝につけたくても、ユアンにその気がないとしたらそうとう従者として礼を欠いた行動をしていることになります。それに、あのユアンが真っ先に気づかないはずはない。テディがユアンに背いているとしたら、そんなことをするテディをユアンが止める。大前提として、テディがユアンを欺けるとは思えない」

  「ええ……」

  「じゃあユアンが黙認しているのか? 従者が犯人であることを知ったうえで、ユアン自身もひそかに皇帝になりたいがためにしらんぷりをしているのだとしたら、やはりそうとうの大間抜けです。だってもしテディが捕まったらどうなりますか? ユアンが知らぬ存ぜぬを貫いたとしても、従者が他の候補者を抹殺しようとしたなんてものすごい醜聞だ。それこそユアンが皇帝になる可能性は消えるでしょう」

  「あなたってすごいわねアイク。よくそこまで頭がまわるわねえ」

  シュバリスは目をしばたかせた。

  「わたしも意外です」

  シュバリスは端正な字で事件の流れが記された紙面を見つめた。

  「あなたってば、わたしよりお勉強もできるしねえ……」

  悔しいことに、シュバリスよりアイドクレーズのほうが座学の成績は上である。学院の生徒ではないが間違いない。宿題を手伝ってもらう際に判明した。アイドクレーズは学院で学ぶ算数や数学、理科、国語の問題を難なく解くことができた。「よくわかりませんが解けますね」と、本人も困惑していたが。

  「あるいは、わたしたちがまだ知らない第三者の企みがあるのかもしれません」

  「第三者。というと?」

  「いちばん考えられる可能性としてはまあ、ユーレアイト家でしょうか」

  「アルジュナのお母さまとお祖父さまね?」

  「はい。アルジュナが殺されかかったのは、そうしておいてじぶんたちに疑いがかからないようにするため。ナイジェルを陥れユアンに疑いがむき、両者が潰しあいになればユーレアイトは漁夫の利をかっさらえる。しかしそうなればやはりユーレアイトが黒幕ではないかと疑われる。ですが、後継者のひとりである肝心のアルジュナが被害を受けているとなれば、誰もユーレアイト家が黒幕だとは思わない。ーーしかし」

  「ひとつだけ腑に落ちない点がある。アルジュナはあのときほんとうに危なかった」

  「そうです。あなたが彼の命を救ってくれるなんて、誰が想像したでしょうか?」

  シュバリスが彼を救ったのは偶然だった。ユーレアイト家がシュバリスの正体を知っていたなら話は別だが、可能性は低そうだ。

  「もしアルジュナを単なる怪我で済ませるだけだったら、あんなに深く刺す必要はないし、呪いまでかけない。あれはものすごく強い呪いだった。アルジュナが助かったのはほんとうに幸運なことだったわ」

  「ええ。すくなくともアルジュナの件に関してはユーレアイトではないでしょう」

  「そうねーーねえアイク。わたしたちこれからどうすべきかしら?」

  「……まず、犯人がナイジェルだろうがユアンだろうが、両者を最大限に警戒すべきですね。彼らふたりが犯人だとするなら目的ははっきりしている。皇位、そしてそれを邪魔するものの排除。すなわち、ナイジェルが犯人ならユアンとアルジュナを害そうとするでしょうし、ユアンが犯人ならハダルとアルジュナが邪魔だ。そしていずれにしろ、事態が動くとしたらこの三人の身辺で、だ。わたしたちはこの三人を張るべきだ」

  ユアン、アルジュナ、ハダル。三人の皇位継承者。シュバリスは唇に指先をあてて考え込んだ。

  「そして三人の命を守ること。ユアンにはとりあえずテディがいるから大丈夫ーーといっても、いまテディは捕まっちゃってるけどね。そうだ、団長はテディがナイジェルをアベンチュリンの実家に匿ってたといってたわね。それってどれくらい信憑性があるかしら?」

  「わかりません。テディはふだんユアンといっしょに宿舎に住んでるから、テディが知らないうちにナイジェルが勝手に実家に押し入って隠れ家にしていたのかもしれない。もしくは、逃亡生活に困って頼ってきたナイジェルに、テディがうちに隠れているようひそかに告げたのかもしれない。ユアンが黒幕なら、彼は主人と弟のあいだで板挟みになっていることになる。しかし、あの様子だとテディはすぐに出てくるんじゃないでしょうかね。どちらにしろユアンは絶対にテディを守ろうとするでしょうし」

  「じゃあ、テディはすぐに出てきてユアンのそばにいるわね。ナイジェルがユアンを狙うとしてもテディが守ってくれる。ならわたしたちはハダルとアルジュナをどうにかして守らなきゃ。ーーハダルにはわたしも防御魔法をかけるわ。とすると問題は」

  「あの小僧ですね。わたしたちが云っても素直に聞きゃしないでしょうし、放っておくという選択肢は?」

  「ないわ」

  いくらアルジュナがシュバリスを嫌っていても、見捨てていいということにはならない。

  「アレクセイに話してみる。彼なら聞くだけ聞いてくれるでしょう」

  頭の中で時間割を追いながらシュバリスは云った。

  「音楽の時間なら話す機会があるわ。アルジュナやカレンたちと唯一別れる授業よ。アルジュナから目を離さないようにって念をおしておく。[[rb:御守 > アミュレ]]も渡せたら渡しておく」

  「わたしはどうにもいけすかないんですけどねえ、あの従者も」

  アイドクレーズがうんざりしたように頭を振った。

  「気づいてるんなら止めろってんだ。けっ」

  [newpage]

  [chapter:楽興の時

  ]

  セレスタイン魔法学院は魔法使いを育てるための学校だが、魔法を使うには知性も不可欠であるという理由で一般的な教育や教養の充実にも力が注がれている。国語、数学、歴史地理などごくふつうの学校で教えられる科目も生徒たちに必修として科されているのはいうまでもなく、またいっぽうで、優秀な魔法使いたるものいつどこへ誰の前に出しても恥ずかしくない教養を備えていなければならない、という貴族的な考え方により音楽や舞踊といった歌舞音曲の授業にも力が注がれていた。そしてこの、特に歌舞音曲において魔法教育と並ぶほど優秀な講師陣をそろえ、生徒にも高い技術習得を要求し、卒業する頃には全員がそれなりに[[rb:舞踊 > ダンス]]のステップも踏めるし演奏会で演奏できるほどの演奏者を多数輩出するということで、セレスタイン[[rb:魔法学院 > アカデミア・マギア]]ではなく、セレスタイン[[rb:藝術学院 > アカデミア・アルシェ]]などと冗談で呼ばれてもいた。

  音楽と[[rb:舞踊 > ダンス]]。このふたつは学院では魔法科目と同じほど重要視されていたが、当初シュバリスはそれがなぜなのかさっぱり理解できなかった。一見何の関係もない。だが教官曰く「[[rb:魔法呪文 > マジックスペル]]を詠唱する上で耳の良さは必須である。長い呪文、音階のある呪文を正確に淀みなく詠唱するには音楽の素養が欠かせない。[[rb:視唱聴音 > ソルフェージュ]]はその訓練にうってつけだし、演奏技術の習得や暗譜能力は瞬発力と記憶力の鍛錬に最適」そして舞踊は「魔法の行使には体力が要るし呪文を唱える際に術者はたいてい無防備になる。もし敵がいたとして、攻撃を避けつつ発動の準備をするなどいちどにふたつのことを行う体力と精神力を養うのに舞踊は必須だ」とのことだった。また、魔法使いも高位階級の賢者にまでのぼりつめるとなにかと公式の場に出ることが多く、貴族たちと付き合っていくうえで両者の素養は身につけておくべきものだという。

  シュバリスはアリアナとたいてい同じ講義を受ける。だが、完全に実力・習得別にクラス分けされるこのふたつだけは例外だった、というより座学においても魔法においても非常に優秀なアリアナの唯一の苦手科目が音楽と舞踊で、そのため彼女は、入試において最初に行われたステップを踏む試験、あれがもっとも苦手で緊張したのだと、両者のクラス分けが行われたさいシュバリスに打ち明けていた。

  「リズムはとれるのよリズムは、それはすごく得意よ。でも[[rb:視唱聴音 > ソルフェージュ]]がほんとうに苦手、あと運動も苦手。だから[[rb:舞踊 > ダンス]]なんてもう! 音楽を聴きながら体を動かすなんて狂気の沙汰よ。楽器の演奏もね。まず楽譜を見るだけで頭がくらくらするもの」

  しかしアリアナは優秀なドラム奏者だった。パトリックが経営する宿屋には、旅行者が好き勝手に演奏する用の各種楽器が置かれており、そこで練習するうちドラムだけは得意になったという。発言通りリズムを刻むのは上手だった。そういうわけで彼女は打楽器クラスにまわり、舞踊では初級クラスにいた。いっぽうシュバリスは音楽は[[rb:歌唱 > ヴォーカル]]クラス、舞踊は中級クラス。そして、クラスメイトがひそかに「貴族連中」と呼ぶところのアルジュナ、カレンらはそろって舞踊は上級クラスにいたが、音楽は全員ばらばらだった。アルジュナはピアノ、カレンはヴァイオリンと別々の講師に師事し、いっぽうアレクセイは歌唱を選択していた。つまりアレクセイは、音楽の組み分けだけはシュバリスと一緒だった。しかもアレクセイは十三歳にしてなかなか艶のある歌声をもつ優秀な[[rb:歌唱者 > ヴォーカリスト]]だった。評判はすでに広まり、生徒が任意で結成している[[rb:小楽団 > バンド]]の、上級生が組んでいるグループから声がかかるほどだった。

  シュバリスも当初は幾つかのバンドから声をかけられていたが、蛇人だとわかってからはなくなった。よって気楽にレッスンを受けていた。一年生は五人ずつ複数組にわけられてグループレッスンを受ける。前の週に渡された課題曲を練習しておき、講師に聴いてもらうスタイルだ。その日の歌唱レッスンは午後一に行われた。他の生徒が先に講師に指導を受けているあいだ、シュバリスはアレクセイに寄っていった。

  「ちょっと話があるんだけど」

  部屋の隅で待機中の他の二人の好奇の視線を遮るようにシュバリスはアレクセイに向き直る。アレクセイは背中に太陽の日差しを浴びながら、手にした譜面に手を落とした。

  「ーーおれはまったくない」

  「そう云わないで聞いてくれない? アルジュナにも関係あることだから」

  「なおさら聞かない。おまえにはおれたちの事情は関係ない。あれからアルと決めたんだ、おまえらには関わらない。面倒はごめんだ」

  「じゃあ、いまからわたしが云うことはひとりごとね」

  シュバリスも同じく窓に背を向けて太陽の日差しを受けながら、すぐそこの三人とのあいだに空気の壁を作った。もちろんばれないように。気配を感じ取ったのかアレクセイだけがぴくりと眉を動かす。シュバリスは気にせず云った。

  「アルジュナはもういちど狙われる可能性があるわ。前回の襲撃はあなたも予想しているとおり皇位継承権に絡んだものよ。詳しくは云えないけれどハダルはいま危険な状態で、彼になにかあれば次に筆頭継承者になるのはアルジュナ。だからアルジュナはまた狙われるかもしれない」

  「おれらだってばかじゃない。……ああ、おれがいまから云うのもひとりごとだとして?」

  アレクセイはそっぽをむきながらぼそりと呟いた。

  「こっちだってアルがなぜ狙われたのかじゅうぶん理解してる。アルはただ生きているという理由だけで殺される理由がある。そしてアルを狙うとしたら誰なのかというのもおおよそ見当がついている。セレスタインかカルセドニーか、敵が誰かなんてこっちはとっくにわかってるんだ」

  「なら話が早いわ。あのね、だったらこれからはもっと厳重に警戒してほしいの」

  「してる。あのあとユーレアイトからは山ほど[[rb:御守 > アミュレ]]が届いたし、母親と祖父が学院に警備について抗議した。おれとアルのつながりも補強してあるし、こんどは出し抜かれたりしない。あのときは油断してただけだ」

  アレクセイの手に力がこもり、譜面の下部からびしりと深い皺が伸びた。

  「まんまとやられたのはここが学院だったからだ。学院は聖域だ。強い禁呪が施され、生徒を害するいかなる魔法も使えないはずだった。なのに破られた。必然、犯人はそれを破れるほどの強い魔力をもつものか、それを解除できるものに絞られる。そして両方の条件を満たすものはナイジェルかユアンしかいない」

  「ーーわかってたのね?」

  アレクセイはうなずきかけ、そのまま静止した。立派に会話が成立しているのに、まだひとりごとの体面をつくろっている。シュバリスはちょっと笑おうとしたが、アレクセイの苦虫を噛み潰したような顔に笑みをひっこめた。

  「もちろんユーレアイトはそれ以外の可能性も排除していない。皇帝の座をつぐかもしれない人間がユアンとハダルとアルのたった三人だけだと思うか? 答えは[[rb:否 > ノール]]だ、他にもいる。継承順はぐっと下がるしあんな真似ができそうな度胸も力もない連中だが、ユーレアイトはあれ以来そちらにも目を光らせてる。おまえに心配される必要なんてない」

  「そう……でも、話を聞く限りじゃユーレアイトのお母さまとお祖父さまは締めつけがきつそうよね。反発するひとが山ほどいるなら、心配してもしたりないわアレクセイ。アルジュナの守りはあなたが頼りよ。あんなことはわたしだってもう二度とごめん」

  「わかっている。だがおれが目下のところ気になるのは」

  ここでやっとアレクセイはシュバリスを見た。射抜くような目をしていた。

  「この件におまえらがどう関わっているかってことだ。命を助けてもらった恩はたしかにあるが、それを超えておまえら怪しいって、しかもいままたこんなこと云いだすなんてなおさら怪しいってじぶんでわかってるか?」

  こんどはシュバリスが視線をそらした。だがアレクセイはちくちく云った。

  「おれもあれからアルとふたりで、あるいはひとりで散々考えた。たしかにこの件は継承権がらみだ、だが関係者のなかでおまえと従者の存在だけが浮いてる。アルは見かけ通りのお坊ちゃんで実務的なことには疎いし他のことに気をとられてるから気づいてないが、あの日おまえがナイジェルについておれに聞いたのはなぜか、テオドールの発言どおりならナイジェルはおまえらの親の仇なのか、あのあとユアンと帰ってきたが魔法陣で飛んだあとなにがあったのかーーアルジュナの身の危険に関わるというならおれはおまえだって怪しいと思う。だから聞きたいねーーナイジェルと消えたときなにがあった?」

  「云えないわ。騎士団にも口止めされてる。ただ、騎士団の捜査には協力してるし、わたしはアルジュナを傷つけた犯人とは無関係よ。信じて」

  「じゃあハダルとのことは? あの後おまえ[[rb:巣球 > ネスボラ]]に入部したよな。きくところによるとハダル・ハルシオンと懇意になってるそうじゃないか。それだって裏があるんじゃないのか?」

  「あなた騎竜部でしょ。なんでよそのクラブのことまで知ってるのよ」

  「噂になってるからだよ。一年の蛇人が皇子にすり寄ってるがこんどはなにをするつもりだろうってな。ハダルはボンクラだが近づきになりたいやつは大勢いる、女子は特に。入学する年を遅らせてさえ、あいつが試験を受けた年にはやっぱり女子生徒の受験生が増えた。だが、ああなってからのあいつは身内以外にまったく心を開かない。獣みたいなものだ、本能で敵と味方を嗅ぎ分けてる。なのにおまえはあれを手なずけて、門番小屋にも出入りを許されてる。それだけでも剣呑なのに、先日は図書館でバザルスとやりあったそうじゃないか。おまけにそのあとナイジェルが現れて、テオドールとおまえの親友のノヴェレッテンを襲ったらしいが、あのときもおまえは現場に居合わせたんだろう。寮の奴らが喋ってたぞ」

  「居合わせてはない、駆けつけたときには終わってたわ。あの、アレクセイ。お願いだからそんな目で見ないで、わたしはあなたの敵じゃないわ。アルジュナの敵でもないし誰の敵でもない。とにかくアルジュナの身辺に気をつけてほしいだけよ」

  だんだんと形勢逆転している。シュバリスは焦って周囲を見渡した。レッスンは淡々と続いていた。シュバリスの隣にいた生徒の番になり、ピアノと講師とのあいだで彼が課題曲を歌い始める。アレクセイは眉間にしわを寄せた。あまり上手くない。

  「隣室でクラスメイトの時点でそれだけじゃ済まない。おまえはそう云うが怪しいところばかりだ。思い返せば、アルが刺された夜だっておまえとアイドクレーズは外套を羽織ってた」

  「外套?」

  なんの関係が、と思っていると、「部屋にいたのならわざわざ外套を羽織って出てこないよな。てことはおまえとアイドクレーズはあのとき外にいたんだ。なにをしてた? おまえらいったいあの夜どこから戻ってきた?」

  「ーー、」

  「どう考えても怪しすぎる。極論、アルを狙ったのはおまえたちじゃないのかとさえ思う。おれにはアルのかわりにあらゆることを疑ってかかる責任があるからな。どうなんだ、おまえなのか?」

  「違うわ!」

  反射的にシュバリスは叫び、歌とピアノが止まった。「ごめんなさい」と生徒と講師と伴奏者に目礼し、シュバリスは風の壁を念入りに作りなおした。この誤解だけは絶対に解かねばならない。

  「それだけは違う。わたしたちはアルジュナが刺されたことにはいっさい関係ない。ナイジェルともユアンとも繋がってない。ほかの怪しいひとたちとも」

  「じゃあぜんぶ話せよ」

  低く小さく、だが叩きつけるようにアレクセイが云った。苛立ちと怒りが浮かんでいた。これこそが彼のほんとうに云いたかったことのようだ。シュバリスは息を呑んだ。

  「おまえの正体を話せよイスラメイ。そしたら信じてやる。おまえはたしかにアルの命を救ってくれたし、その事実だけ見ればおまえはたぶん無害な存在なんだろう。アルのためにもそうあってほしいと思う。だがおれはあいつの従者だ。いまも云ったが、あいつが疑わないところまで疑うのがおれの使命だ。このまま見守るには行動に不審な点が多すぎる。血がーー」

  ふとアレクセイの顔が近づいた。

  「おまえの血が歌ってる」

  「歌ってるーー?」

  「おれのマジックだ。ナイジェルと飛んで戻ってきてから、おまえの魔力は変だーー放出してる魔力がだんちがいに増えた」

  「えーー」

  足を取り戻して増えた魔力。クラスメイトの誰も気づいていないが、彼自身の観察力の高さとアルジュナに対する責任がそうさせたのか。シュバリスは一歩引いたが、アレクセイはその一歩ぶん距離をつめた。

  「近くに寄ると血がざわめいてるのが聞こえる。おれの力はまだ不安定だし、はっきり聞こえたことも少ない、だがその少ない例が働いた相手はもれなく全員大人だった。なのに聞こえるーーこれがどういうことなのかおれも測りかねる。おまえは急に大人にでもなったのか?」

  「そういうこともあるんじゃない?」

  「そうかよ。そういえばおまえ、背も少し伸びたな。アイドクレーズもそうだ。だが一晩でふたりそろって成長期に突入なんてありえないし、年に似合わず魔法が強すぎることも、ガキのくせに色がはっきりしてるところも、考えれば考えるほどやっぱり変だ。確実におまえはなにか隠してる。それを話せ」

  「あなたオルリド?」

  「ちがう。ーーおれの番だ」

  アレクセイはシュバリスの肩にじぶんの肩をぶつけるようにして部屋の中央にむかっていった。講師がやれやれという顔でアレクセイを出迎える。伴奏者までもがアレクセイが譜面を台に置くとほっとしたように鍵盤に手を置いた。急いで口直し、いや耳直しをしたいと云いたげだ。どうやら直前の学生は散々なできだったようだ。

  「[[rb:愛 > リーベス]]の[[rb:歌 > リート]]は得意じゃないといってたわねアレク。克服したかしら?」

  「努力はしました」

  「あなたは歌謡曲や流行歌はともかく古典は苦手よね。だけど古典には必要な技術が詰まってるし、ここをしっかりやらなきゃのちのち泣きを見るからね。歌詞の内容は現代と大して変わらないんだからがんばってちょうだい。さ、はじめて」

  アレクセイが歌い始める。相変わらず十三歳とは思えない声量と声質だ。講師もほかの生徒も聴き入っている。口に出してはいえないがシュバリスもアレクセイの歌は好きだった。歌のレッスンのときだけは主人と離れているからかほんとうのアレクセイの姿が見える気がするし、こころなしか本人ものびのびしているようだ。

  最初から最後まで歌い終えると、講師は発音やブレスなど細かく指摘し、アレクセイは修正していった。最後にもういちどだけ通しで歌う。完璧だった。

  「最後はあなたね。いらっしゃい天使ちゃん」

  女性講師は笑みを浮かべてシュバリスを手招きした。なんと呼ばれようと構わないし蛇人であることに頓着しないセミラーミデのことは好きだったが、じぶんを天使ちゃんと呼ぶのだけは勘弁してほしい。

  「今日は嵐を起こさないでね」

  「はい」

  最初のレッスンで歌ったとき、シュバリスは室内に大風を巻き起こした。木陰で風に吹かれながら過去を思う歌詞だったので、想像に魔力が呼応したらしい。昔も同じことが起こった。ほかの六人と楽しく過ごしていた夜のことだ。そのときはハルトガルトが収束させてくれた。

  「体は小さいから声量があるとはいえないけど、あなたの声はよく通るわ。ふしぎね。矢のようにまっすぐ飛んでいくかと思えば、弓弦が震えるみたいに儚くきこえるときもある」

  今日は風も水も起こらなかった。シュバリスも細かい点を修正し、最後にもういちど通しで歌おうとした。レッスンが終わったら、次の授業に移動するまでにもういちどアレクセイに念をおし、いらないと云われるだろうが[[rb:御守 > アミュレ]]を渡しておこうと思ったーーしかし、予定は第三者の出現によって覆された。とうとつに入り口の防音扉が開かれ、前奏を奏でていた伴奏者の手がとまり、彼女の視線を追ったシュバリスは驚いた。

  「失礼、緊急にそちらの生徒に話がある。イスラメイにアベンチュリン。そう、君と君だな。いっしょに来たまえ」

  ラフな服装だがただ者ではなかった。マスクで覆われた口元、猛禽類のような鋭い目がシュバリスとアイドクレーズに固定されている。セミラーミデが息をのみつつ「なんですかとつぜん。どなたですか」と訊ねると、入り口から室内を睥睨していた長身の女性は室内に歩み入り、講師の耳元に何かを囁きかけた。セミラーミデは目を見張り「えっ」と声をあげたが、すぐに仕方なさそうにうなずいた。

  「わかりました。お連れください」

  「許可を得た。ふたりとも来なさい」

  有無をいわさなかった。シュバリスとアレクセイは互いにそっぽをむいたまま楽譜をまとめ、謎の女性の後に続いてレッスン室を出た。

  長い午後のはじまりだった。

  [newpage]

  [chapter:愛と青春の残響]

  正体不明の女性は名乗ることなく無言でシュバリスたちを学院から連れ出すと、森のなかで待機していたほかの仲間らしき男女とともにあっというまに陣を発動した。次の瞬間、シュバリスは見たことのない場所に立っていた。どこかの建物の内部のようだがかなり薄暗い。そこは廊下の真ん中で、学院をとりまく回廊のようにアーチ型天井の廊下がずっと奥まで続いていたーーが、すぐ手前に見覚えのある人物が、白黒マーブル模様の大理石の壁にもたれるように立っていて、シュバリスを見つけるとさっと手をあげた。

  「ドットール?」

  「やあシュバリス。また会えて嬉しいよ」

  ギネヴィアは発着場所から少し離れた壁際でひらひらと手を振っていた。が、じぶんを鋭く見つめる視線にすぐに表情を引き締めた。ふたりを連れ出した女性がマスクをむしり取り、「ドットール」と威圧感たっぷりに云った。紅の引かれた赤い唇が現れ、その印象的な赤さは人間の赤毛より鮮やかに赤い真紅の髪と相まって、その場に炎の柱が立ったかのようだった。しかもその髪には、ところどころにこれまた鮮やかな青が混じる。ほかのどの獣人種も鳥人ほどきっぱりとした色彩や色のとりあわせをもたない。だから鳥人ーーしかし彼女がいかなる立場の人物なのか、依然としてシュバリスにはわからなかった。騎士団らしいがこの場の誰も制服を着ていないし階級章もつけていない。背中にセレスタインの紋章と騎士団の星のマークをつけた略装のジャンパー姿のものが数名だけ。やり取りで彼女が上司なのだとわかるが、以下は漠然と上下関係を推測できるのみだ。首をかしげるシュバリスの前で、彼女はギネヴィアにするどく云った。

  「なぜここにいる? こちらから研究所に迎えをよこすといったはずだが」

  「いやわたしもそう思ってたんだけど、仕上がったんなら早くもってこいってお達しがきたから持参したのさ。で、あなたがかわいい後輩ちゃんたちをここへ連れてくるっていうから待ってたのよ」

  「あなたとこの子たちは関係ない。終わったのならとっととおかえりになったら。必要なときはまた呼ぶ」

  「あいかわらず冷たい、そしてにべもない」

  ギネヴィアは鼻白んだ。

  「相手は子どもだよ。本物の犯罪者ならともかく、年端もいかない子をあなたの秤に載せるのはどうかと思うわけ。まさかいつも通りのやりかたでいくんじゃないでしょうねえ陛下?」

  陛下、というのは明らかに皮肉だったが、女性は怯まなかった。ふっと笑うと、ギネヴィアを追い払うように軽く手を振った。

  「それを云うためにわざわざ待ってたのか。杞憂だ、尋問したいわけじゃない」

  「じゃあなに?」

  「男子のほうには暗殺未遂について質問するだけだ。女子のほうも質問がある、この子はナイジェルに二度会ってる、寮に飛来しいっしょに倉庫へ消えたとき、そして先日の襲撃のとき」

  「後者なら、我々が着いたときにはもう消えてたけどね。いますぐに?」

  「さきに男子だ。こちらは身内だからな」

  「じゃあそれまで彼女はわたしが引き受けよう。そこでいっしょにお茶でも飲んでる、いくらあなたでも子ども二人は同時に見られないでしょう。異存ない?」

  「ーーいいだろう。上の食堂を使え」

  「行こうシュバリス」

  よくわからないがギネヴィアといるほうが気楽だ。シュバリスはそばにいた男女にぺこりと頭をさげ、輪のなかから抜け出した。アレクセイは無表情だったが、シュバリスが一抜けするのを快く思わないらしい。それに、見るからに明るいギネヴィアと違って暗い雰囲気のひとびとと残されるとわかって落ち着かない様子だ。シュバリスもアレクセイが気になったが、ギネヴィアはシュバリスの手をつかむとどんどん廊下を歩いていく。最初の角を曲がると、ギネヴィアは背後を振り返り「いやー、怖い怖い。すすんで関わり合いにはぜーったいなりたくないね!」とあけすけに笑った。

  「さすが監察の連中。われわれ一般人とは目つきが違うよねえ、うん」

  「カンサツ……?」

  それがさっきの一団の呼称なのかとシュバリスが振り返ると、ギネヴィアが説明した。

  「そ。あいつらは監察部、騎士団内部の裏切り者を追跡・取り調べ・処分する部署だよ。脱走、規律違反、機密漏洩、殺人などの重大犯罪者が出たら彼らが出動してケリをつける。騎士団じゃ防衛部っていう実戦部隊が花形で、[[rb:狩人 > サヤド]]ーーってよばれてるけど、その『[[rb:狩人 > サヤド]]の[[rb:狩人 > サヤド]]』とか『首刈り部隊』とか、もっと軽いのだと『風紀委員』。いまは彼女のチームがナイジェルを追ってる」

  「だからアレクセイとわたしも?」

  「そう。じきに解放されるけどテディを拘束したのもあいつら。かわいそうにこってり絞られたろうからあとで差し入れしてやらなきゃ。連中に取り調べられたら一晩で体重が五キロは減るって噂だ」

  「えったいへん。じゃあわたしもなにか持っていってさしあげないと。でもそうなのですね、解放される? では容疑は晴れたのですね。テディはナイジェルと内通していたわけではないのですね?」

  「そうみたい」

  ギネヴィアもほっとしているようだった。後輩を案じるように手を組み合わせ、「わたしが云ったっていわないでね」とちょっと微笑むと、

  「ナイジェルが勝手にアベンチュリンの屋敷に侵入して隠れ家として利用してた、それが最終的な結論だって。アベンチュリンの屋敷はナイジェルが手配されてから所縁のある場所として騎士団が見張ってたんだけど、ナイジェルはそれをかいくぐって屋敷に入り込んでた。当主で兄のテディが手引きしたと監察部は考えたんだけど、女王ーーさっきの高飛車な赤髪女ねーーがじきじきに取り調べたところテディはシロだった。まあ、あいつはユアンの世話でずっとセレス市にいるし、こないだユアンも抗議してたとおりミクラの屋敷に帰るのは年に数回、ナイジェルもそれを知ってたから魔法陣で直接内部に飛んで隠れ家として利用したんでしょう。今回それがわかったのは定期的に掃除のおばさんが入るからなんだけど、ナイジェルはよほどストレスが溜まってたんでしょ、屋敷のなかはめちゃくちゃだったらしいよ。かなり荒らされてたって」

  「まあ……」

  「迷惑な話だよね。でもアベンリュチンも古い家だから魔具もそれなりに置いてあって、騎士団のおもな懸念は、杖以外の武器となりうる魔具を調達しに実家に行ったんじゃないかって、そっちだったそうよ。屋敷が荒らされたのはそれを隠すためのカムフラージュだろうって。んで、盗まれたかもしれない魔具リストの作成で、テディは先祖代々の膨大な財産目録を精査させられたりして、そうとうたいへんだったって。アベンチュリンが家臣に下って二百年ちょいだけど、[[rb:御十家 > ごじゅうけ]]だったときから蓄積してかなりの財産がある。テディがあそこの当主になって八年だか九年になるけど、ユアンならともかくあいつはそれぜんぶなんて到底把握しきれないーー当時遺産を処理するのだってユアンがかなり手伝ってたらしいしね。あいつのことだから、弟のことで疑われたってより目録精査ほうが堪えてるかも、体力だけのお莫迦さんだし」

  心配はどこへやら、ギネヴィアはそのまま呆れた顔でテディの欠点をあげつらねた。

  「テディもねえ、今回の件はある意味自業自得なのよ。ナイジェルが手配された時点で屋敷に閉鎖魔法をかけるとか探知魔法をかけとくべきだったの。無人の実家なんてうってつけの隠れ家じゃないのねえ、もし入られたらじぶんに容疑がかかるって考えるべきなのに! マヌケよ、おおまぬけ!」

  散々ないわれようだ。テディにはとっておきの料理を届けよう、とシュバリスは思った。

  「ところであのーートリッチトラッチ博士。さきほどの女性は。あなたは女王、とお呼びになりましたが?」

  鮮やかな赤と青の髪に猛禽の目を持つ女性。「ギネヴィアでいいよ」とギネヴィアはウィンクすると、

  「[[rb:女王 > クイーン]]ね。あれは監察部のエース、裏切り者の取り調べで彼女ほど成果をあげてるものはいない。ふつうマジックは本人以外は秘匿されるんだけど彼女は公表してる。彼女はね、相手が嘘をついてるか真実を喋ってるか絶対にわかるんだ」

  「へえっ?」

  すごい能力だ。と同時に、これほど監察部に適したマジックもないだろう。ギネヴィアも感心したように続けた。

  「小さい頃は苦労したらしいけどね。でも監察にはうってつけのマジックだよね。だから入団当初から各部署で取り合いだったそうだけど、とっとと監察部が攫っていっちゃった。でも本人にも適性があったんでしょう、以後、彼女の戦歴と名声はうなぎのぼり。ただし八年前までは死んだと思われてた」

  「死んだーーえっ、生きてますけど?」

  あの威風堂々とした、いかにも女傑といった女性がなぜ死んだなどと、とシュバリスが目をぱちくりさせていると、「なんかの任務に出て、しばらく消息を絶ってたのよ」とギネヴィアはうなずいた。

  「当時はわりと騎士団内部でも噂になったわ。任務にかこつけて目障りに思った同僚や上司に消されたんだとか、いやいや敵対組織に潜伏して殺されて重りをつけられて海峡に沈められたんだとか、まことしやかに云われてた。でも無事に戻ってきた。なにが起こってそうなったのかはわたしも知らない。ただ、魔法にかけられて身動きがとれなかったと本人は云ってたそうよ」

  「そうなんですか。魔法に? ということはあのかた、敵にかけられた魔法を自力で解いて逃げ出してきた?」

  「ーー詳しいことはわたしも知らないけれどね」

  たしかに刮目すべき経歴の持ち主のようだ。シュバリスは思わずつぶやいた。

  「すごい紆余曲折ですね。いかにも組織の高官」

  「そう、まさしく。復帰後はますます切れ者になって、いまは監察部の副長としてバリバリだから、騎士団のほかの部署も震え上がってる」

  ギネヴィアはくくっと笑った。シュバリスは首をかしげた。監察とは騎士団でも謎めいた組織のようだが、ギネヴィアはなぜこれほど知っているのだろう。

  「お詳しいですね。話を聞いていると、監察部とは表立って動く部署ではないのですよね?」

  「実はわたしの叔父も監察だったの。それに、いまわたしは彼女のチームから魔具の開発と改良を頼まれてて、スタッフにいろいろ話を聞けるんだ。もちろん仕事で絡んでることも私的な繋がりがあることも極秘だけどーーって、こんなにぺらぺらしゃべって極秘もなにもないか。まあ、あなたは内緒にしてくれるよね? 繰り返しになるけど、わたしから聞いたって云わないでね」

  上目遣いのギネヴィアに、シュバリスは笑ってうなずいた。憎めない女性だ。「もちろん誰にも云いません」「よかった」ギネヴィアはにっこり笑った。

  「ユアンも騎士団がらみで監察とつきあいがあるけど、表の部署はともかくあそことつながりがあるなんて生徒には知られたくないでしょうね。騎士団の抱える闇の事件にも顔をつっこんでるってことだから。あなたに云っちゃったって知られたらさしものギネヴィアさんも彼に激怒されちゃうーーあ、そうだ、ごめんね。お茶飲もう、お茶」

  ふたりは移動し、上階の中庭にあるベンチに並んで座った。いままでは建物の地下だったらしく、光がまぶしく感じられた。

  「騎士団本部とはいえ、監察の入ってるこの辺はあんまり一般の団員も寄り付かないんだよ。別棟ってこともあるし」

  ギネヴィアの云うとおり、あたりはひっそりしていた。聖堂の[[rb:後陣 > アプス]]のように建物本体から張り出している丸い屋根をもつ場所へ入っていったギネヴィアは、すぐにそこから湯気の立つアルミのカップを持ち出してきた。中には熱い紅茶がたっぷり入っていた。

  「どうぞ。今日は天気もいいし外でお茶と洒落込もう」

  「ありがとう存じます」

  しばらく黙ってお茶を飲んだが、シュバリスはタイミングを計っていた。「ギネヴィアさまは教官とお親しいようですね」とさりげなく訊くと「まあね」とギネヴィアは皮肉っぽく微笑んだ。

  「縁が腐って因縁に成り果ててるけどね」

  「先日テディが連行されたあと、教官のご様子はいかがでしたか? かなりショックを受けているようでしたが」

  「あのふたりも兄弟みたいなものだからね。テディを奪われるのは、あのひとにとっては手足をもがれるのといっしょでしょうよ。だからあのあと大変だった、なだめるのに苦労した。普段は温厚そのものだけど、いちど箍が外れたらすごいから……あの様子を見ると魔力はさすがハルトガルト帝の血を引いてるだけはあるって思う、学生の頃もよく暴走してたなあって、ちょっと懐かしい気持ちにもなったわね。あのころはユアンも色がよく変わった、青、黒、赤、白、ずーっとふらふらゆらゆらして、本人もようやく卒業時点で灰色に収めてじぶんの力と折り合いをつけた。だけどなにか精神的にガタがくると生半可なことでは持ち直せない、だから学生の頃はわたしが近くにいた、っていうのもあるんだけど。わたしなら暴走を抑え込めるから」

  「ということはギネヴィアさまは、教官とは正反対の色をおもちで? だから教官におさえがきくし仲良しでいらっしゃる?」

  「んー。色としては正反対ってわけじゃないけど、わたしの[[rb:固有魔法 > マジック]]は他人の魔力を吸収するってやつなのよ。だから」

  ギネヴィアは声をひそめて、しかしじぶんの固有魔法についてきっぱり明かした。

  「そう、ほかのひとの魔力や魔法を吸収できるのわたし。そしてそれをじぶんのものとして使える。なかなか面白いマジックを授かったもんだなってじぶんでも思うけどもね」

  「他人の魔力を吸収ーーその魔法を使える?」

  それもまたすごいマジックだ。

  「そんなことができるんですか。それはええと、種類によって吸収しやすいとかしにくいとかあるんでしょうか? 色によっては難しいとか?」

  「ないわ。どんな種類の魔法でもほぼ吸収できる。吸収してすぐなら相手の放った魔法をそのまんま相手に返すこともできる、まるで鏡みたいにーーなかなか癖の強いマジックではあるけどね。ただ、ユアンみたいに複雑で強大な魔力をもつ相手ほどわたしのマジックは有効に働く。そういうひとはのべつまくなしに他のひとに魔法をかけたりしちゃうんだけど、わたしのマジックはまるでセンサーみたいにその魔法に反応してかってに吸い取っちゃうから。最初にそのことに気づいたのは三年生のときだった、ユアンもあの頃はじぶんの魔力制御に手こずってて、でもわたしが近くにいると制御が楽だったんだ。いったいなんでかしらねってみんなで不思議がってたけど、そういうわけだったの。そこからはずっと割れ鍋に綴じ蓋みたいに扱われてたよ」

  「そうだったんですか。あの、では教官の固有魔法は? ギネヴィアさまはご存知ですか?」

  「ーーそれを云ったらわたしはほんとにユアンに絶交されちゃうわ」

  ギネヴィアは上品に人差し指を唇にあてた。どさくさに紛れて聞き出す作戦は失敗だ。しかし鷹揚なギネヴィアは「でもこれだけ教えたげる。あのひとはケルベロスなんだ」静かにとつぶやいた。

  「ケルベロスーー?」

  「という云い方もある。正式には[[rb:三固有魔法保持者 > アスラ]]という。彼は三つの[[rb:固有魔法 > マジック]]をもってるわ」

  「三つもーー?」

  だとしたらそのうちのひとつがひとの意思を操るものであってもおかしくない。考え込むシュバリスに、「あなたもユアンのファンかな? あのお綺麗な見た目に騙されてる? だからそんなに彼に興味があるのかしら。せっかく忠告したのになあ、あなたまで犠牲になるんじゃいくらなんでもかわいそうだなって思ったのに」

  「そういうわけではないのですがーーあの、ギネヴィアさまのおっしゃる教官は、なんだかずいぶん普段の教官の様子とは違っているようにわたしには感じられるのですが、いったいなぜ?」

  「そりゃあわたしは、あいつがいちばん荒れてた時を知ってるからね。ユアン・カルセドニーの裏も表もぜんぶ見てきたし底の底も知ってるし、彼のせいで人生狂ったしーーうすうす気づいてるかもしれないけど、わたしたち昔恋人同士だったんだよね」

  「おつきあいされてたーーんですか。やっぱり」

  なんとなくそんな気はしていたが。シュバリスが首をかしげると、「でもあいつはわたしを振ったの」ギネヴィアはしずかに微笑んだ。

  [newpage]

  [chapter:がんじがらめのふたり]

  「わたしとユアンが最初に会ったのはお互い十歳のとき、学院の入学式だった。彼は首席でわたしは次席、ふたりとも特待生で寮の部屋も隣どうし。でも性格は真反対だし境遇も反対だった。なにしろ玉座につくかもしれない純人間の男の子、生まれも育ちも帝都ミクラの御双家のお坊ちゃんと、両親がすでに他界した没落貴族の雑種の[[rb:獣女 > ケモノオンナ]]、おまけにアングイスの田舎出身ーーなもんだからことあるごとに衝突した。魔力も成績も拮抗してたから、対抗心もあって犬猿の仲だったーーでも、いろいろあってお互い悪い奴じゃないなってわかったのが三年、四年生のころ。テディとわたしが[[rb:巣球 > ネスボラ]]の先輩後輩で、その縁でなんだかんだいっしょに勉強したり遊んだりすることが増えて三人ですごすようになって、ひょっとしてお互いに好き同士なんじゃないかっていうのはうすうす感じてて、でもどっちが先に口にするかしないか、みたいな状況でずっときて、彼がとうとう節を屈してわたしに交際を申し込んだのが最終学年、七年生の[[rb:卒業前祝宴 > プロムネイド]]だった。この[[rb:祝宴 > プロム]]っていうのは六年生と七年生が参加できる卒業前のダンスパーティなんだけど、これを機にカップルになるっていうの、学院じゃわりかし多いんだよね。申し込むイコール告白、てことでもあるし」

  「プロムネイド。ダンスパーティ……」

  「そ。わたしは二年の頃から上級生に誘われて出てて、晴れて出席できる六年のときはほかの男がパートナーだった。ユアンも六年生のときはほかの女の子をパートナーにして出席したんだけど、会場で会ったとき、わたしがほかの男と一緒にいると虫酸が走るんだってことにようやく気づいたらしいわ。じぶんもそれまでさんざんほかの女の子と遊びまくってたくせに。だから一年後はちゃんと申し込みにきた、その申し込みもケッサクだったけどねーー『君は今年もその辺のろくでもない男に誘われて一緒にいくつもりだろうが、そろそろちゃんとした男とつきあいたまえよ』、いま思い出しても偉そうったら。でもあのプライドの高いお坊ちゃんにしちゃ上出来の部類、そのころには校内を席巻してたユアンさま人気も鳴りを潜めて、彼自身もわりと丸くなってた頃だったし。なにしろハダルさまが生まれちゃったもんだから、皇帝の妻の座めあてで彼に言い寄ってた女の子は一斉に引いてった。でも、ほかの打算的な女の子はまだまだユアンを狙ってたーーハダルさまもまだ幼かったし、ユーレアイト家にアルジュナが生まれたのももうちょっと後だったかそれとももう生まれてたかの微妙な時期だ。二人になにかあったら、彼が皇帝になるかもしれなかった。本人も野望をもってたと思うよ。だからそれを知って、じぶんを最後のパーティーのパートナーにって、ユアンに逆申し込みする女の子だって多かったのだけれどね」

  「へえ……」

  まだ一年生だから、六年生と七年生だけのパーティだなんてシュバリスには縁遠く実感もわかない。「そうよねえ」とギネヴィアは笑いながら、さらに詳しく教えてくれた。

  「これはとくに高学年にとって一大イベントなの。十三歳入学組だとばっちり成人しちゃってる歳だし、いろいろとジンクスもあって、ここでパートナーになった、しかも最終学年の七年生でパートナーになったカップルは卒業後七割が結婚しちゃうという、こっちはジンクスどころかれっきとしたデータがでてたり。だから貴族も平民も、男も女もわりとパートナーの確保に目の色変えてとりかかる」

  「へえっーーあ、あれ? じゃあ」

  その最終学年でギネヴィアとユアンがパートナーだったということは。ギネヴィアは肩をすくめた。

  「そう。最終学年のパートナーってのはだから、当人同士も意識して選ぶわけ。だからそこからわたしとユアンも正式にカップルになった。それまでほとんど同性の親友で、お互いに女の子の取り合いしたり酔った勢いでベッドに入っちゃったりめちゃくちゃだったのだけどね。でも正式に恋人になって順調に続いて、何年か後にはぼちぼち婚約かって流れにもなった。あちらのご両親から反対されてたけどユアンはわたしを親族にも紹介してくれていろいろフォローしてくれて、うちの叔父もユアンならってうなずいてくれて、おかげでわたしは研究対象として扱われることもなくなってーー彼のおかげでかなり恩恵を被った、そこはすごく感謝してる。ほら、わたしってこんなでしょう?」

  こんな、というのでギネヴィアはじぶんの胸をとんとんと親指でついた。

  「みんなわたしがなんで健康なのか知りたがった。五十以上もの獣人の血を引き、なかには希少種の血も混じってるから、中身がどうなってるのか、魔力はどんなものか、危険な兆候はないか、生まれた時からずっと爆弾扱いされてきた。昔っから研究機関に呼ばれることも多かった。薬で寝かされて、あんまり云えないような検査をされたりね。わたしはそれがずっと苦痛だった。好奇の目も、そうした学究的探究心の的にされるのも、じぶんがするのはともかくーーってこれは単なるわがままだけど。いま思うと、学生時代の無茶はこの反動かも。わたしはいつも自信たっぷりで、じぶんの血に矜持をもってるフリしてた。ほんとうはそうじゃなかったのに」

  ギネヴィアは気弱な笑みを浮かべた。それはシュバリスが知る限りはじめてギネヴィアが見せた翳りのある表情だった。

  「ーー、」

  ふとシュバリスはギネヴィアの背後に、うららかな午後の日差しの差し込む中庭や蔦の絡まった建物の壁とは違う、幼くあどけない少女の姿を見た。陽炎のように細く背景にまぎれそうだったそれは、やがてシュバリスの目にはっきりとあるひとつの光景として形をとった。泣き叫びながら小部屋に連れ込まれていく華奢な手足の紅茶色の髪の少女。全裸で硬い診察台に寝かされ、虚ろな目で天井を見上げている。衆人環視のなか、次々と獣型を取るよう要請され、たてつづけに何度も別の形に変化させられて血のにじむ手足の痛みを必死でこらえているーーシュバリスは唐突に理解した。あっさりとした物言いやあけすけな態度をとっていても、ギネヴィアの全身から放散されているのは他者への深い思いやりと慈愛の波動だ。それは彼女が他人から道具として扱われること、その屈辱と痛みと怒りをほかの人にはけして味あわせまいとしているからだ。ギネヴィアはため息をつき、困ったようにシュバリスに首をかしげた。

  「読んだね? 感じたよ、皮膚がぴりついた。シュバリス、あなたいまわたしの過去を見たでしょ?」

  「あーーごめんなさい」

  見られたくない光景だったはずだ。シュバリスがさっと顔色を変えると、しかしギネヴィアは優しく微笑んだ。

  「いいよ。でもそれ、あんまり他のひとにはやらないほうがいいかな。勝手にオーラを読むのは失礼なこととされてるから。次からはちゃんとことわりをいれてね」

  「はい。あの」

  「いいよ。ーーそう、さっきのそれがわたしの痛みだよ。無神経な連中から実験動物みたいに扱われることは、わたしにとって耐え難い屈辱だった。だけどそれを知ったユアンがカルセドニーの力で止めてくれた」

  「教官が?」

  「うん。あいつは学生時代ほんとにプライドが高くて、じぶんの地位や容色をめいっぱい利用する厭な男だったけど、優しいことは優しかったんだよね。途中まではわたしなんて、彼と違って健康で陽気でハチャメチャに奔放な、じぶんと正反対の下衆な女だったんだろうけど、ある日どこかからわたしがされてることをきいて、なんでわたしが二ヶ月に一度ぐったりしてるのか理由を知った。研究に協力した後はさしものわたしも講義に出るどころじゃなくて、おまけに自暴自棄な素行の結果か、寮室で意識朦朧としてるところを押しかけてきた上級生に無理やりされそうになったりしてーーお隣だったから、大乱闘の物音をきいて彼が加勢にきてくれてね。といってもじぶんで実力行使できるほどの腕力はないから、実際に助けてくれたのはテディだけど」

  「そうだったんですかーー」

  「うん。だからわたしもその頃はけっこうユアンを見どころのある男だと思ってた。両親がなんと云おうとあなたが皇帝になるべきよって焚きつけたりもした。彼が皇帝になってくれたら獣人蔑視の風潮も変わるし、見かけのか弱さとはまったく正反対の硬くて靭い部分がユアンにはあるんだって気づいたから。なんといっても彼はその気になったらどんなひとでもいうことをきかせられるから、政治の世界には断然むいてる。発動には一定の条件があるし、あんまりな能力だからってふだんはじぶんで鍵をかけてるけどーーああ、これが彼のマジックのひとつね。指で描いたものが現実になる。云っちゃったわーー不思議ね。あなたならきっと秘密を守ってくれるって思っちゃうのかしら」

  思いがけずひとつはわかった。意思を操るのとは微妙に異なるようだがかなり剣呑なマジックだーーシュバリスはあいまいに笑った。

  「マジックの内容までご存知なんですね。それに婚約するところまでいった。なのになぜ教官とお別れされたんですか?」

  「さあ、なんでかなあ……」

  ギネヴィアは、今日もおおざっぱに後ろでポニーテールにした紅茶色の髪を揺らし、カップを口につけた。

  「原因はひとことじゃいえない。ただ、原因のひとつはユアンの優柔不断かな。婚約まではいったけど、そこから先に進む段になって彼は二の足をふんだ。というより、本心では小さい頃に会った初恋のひとが忘れられなかったみたい」

  「初恋のひとーー?」

  「うん。あんな王子さま然としてるわりに現実主義者ではあるけど、恋愛に関しては笑っちゃうくらいの浪漫主義者でもあるんだよユアンは。その子とは学院に入学したころに会ったみたい、わたしなんかが参加できない高位の貴族の夜会だか昼食会だかで会って、初恋で、大きくなってからも忘れられなかったの。いったいどういう女よって訊いたら、とっても美人で優しくて強くて清純で非の打ちどころのない女性だって。完璧だって。ぼくはあんなひとが好みなんだーーって頬なんか染めてた。もうどこにもいないけど、できればもういちど会いたいんだーーって」

  「そうなのですか。えっと、でもーーその調子だと、学院長の初恋の、というかたは、ひょっとしてお亡くなりに?」

  「うん。彼の口調もそういえば暗かったし、若くして亡くなったのかも。どこぞの病弱なお姫さまだったとか……てことはつまりわたしとは正反対よね。現に、君なんかわたしの理想と程遠いって罵られたこともあるし、彼女に比べたら星と硝子玉だって云われた。硝子だってとても綺麗でわたしは好きだけどーーってこれはまったく別の話だけれどね。でも、わたしは彼のそんなことばや態度に嫌気がさして、そこからすれ違いが大きくなってーーいや、彼ばかり責めるのはお門違いだね。原因はわたしにもある。そう、彼がいちばんわたしを必要としたときに側にいてあげられなかったことも原因の一つかな」

  「教官が、いちばんドットールを必要としたとき。あの、それは?」

  「何を隠そうハダルさまの誘拐事件のときよ。あのとき彼は、強力なオルリドだったこと、印陣に関しては帝国でも五本の指に入る実力者だったこと、ハダルと親しい兄代わりだったこと、もろもろあって騎士団に見解を求められ、彼自身もハダルを救いたくて積極的に捜査に協力していた。いま思うと、あれが騎士団から外部顧問として雇われるきっかけになったわねーー。でも当時の彼は立場的にも微妙でね。ほら、ハダルとアルジュナになにかあったら彼が、みたいな立場だから。監視をつけられ自由には動けなくて内心歯がゆかったんでしょう、だからわたしにじぶんの手足になって動いてほしくて、わたしを別荘に呼んだのよ。わたしなら彼と同じくらい機転もきくし、彼の知りたいことも残らず調べられるし、叔父のツテで騎士団から情報もひきだせる。ほんとうはあの夏、わたしも彼とカルセドニーの別荘に行く予定だったしね。そもそも事件が起こったときには、ユアンといっしょにいるはずだったーーだけどわたしは仕事が忙しくて研究所に残ってた。仕事が終わったら来てくれって、彼の元へひとっ飛びにとんでゆける印をユアンは渡してくれたんだけど、ハダルさまが誘拐された直後から、再三来てくれって頼まれ続けてたのにわたしはそれを使わなかった」

  「使わなかった。なぜですか?」

  「失くしたの。なーんて嘘、わたしにも迷いがあって使えなかった。わたしはそのころ魔具の研究者として働き始めたばかりで仕事が面白くて、このままユアンと結婚していいのかどうか正直迷ってた。もっというと怖かった。だってわたしとの結婚はつまり、彼が完全に皇帝になる可能性を潰しちゃうってことだから。ほら、皇帝家は純人間で構成されるでしょ? てことは、相手も人間じゃないといけないわけよ、純粋な」

  「そのようですね。蛇人としても獣人としても、ちょっと怒りたくなるような慣習ですけれど」

  「そうそう。だからそれもあってね、彼に云われるまま飛んでって捜査協力して、ハダルさまが無事に見つかったらーーもちろんそれはとても喜ばしいこと、帝国民のひとりとして絶対に協力しなくちゃいけないことだけど、もしそうしたらユアンが皇帝になる可能性はひとつ減る、そのことも考えないわけにはいかなかった。そしてじぶんとユアンのこと。わたしはもちろんユアンのことが好きだった、性悪だし何考えてるかわかんないし体弱いし、そのくせ気ばっかり強いし、どうしようもないろくでなしだけど、なんだかんだいい人だし気も合うし、ずっと一緒にいたかった。生涯このひとのそばでーーって思ったわ。でも、それと同じくらいわたしは彼に皇帝になってほしくもあったの」

  「ああーーなるほど。そういうことですか」

  「そう。だのにわたしが彼とくっついちゃったらその時点ではいおしまい! でしょう。彼が獣人であるわたしと結婚することは、皇帝になる未来を完全に諦めること。だからユアンが最後まで迷ってたのは、初恋のひとが理由じゃなくそっちがほんとうの理由なんじゃないかって気もするのね。そしてわたしも。だから、あのときどうしてもユアンのもとへ行けなかった」

  軽口めかして云っていたが、ユアンの皇帝即位をギネヴィアは誰よりも切望しているのだとシュバリスは理解した。ギネヴィアは遠くを見つめてぽつりと云った。

  「その点ではカルセドニーのご両親に感謝してる。セレスタインはよくわからないけど、ユーレアイトみたいに人間至上主義だったり獣人に対して偏見ばりばりだったり、そんなふうにはおふたりはユアンをお育てにはならなかった。ユアンは少なくとも獣人に対する差別はもちあわせていない。だからーー」

  カルセドニー家のユアンが皇帝になればなにかが変わる。ギネヴィアは片手にカップを持ったまま、もう片方の手でそっと胸元をまさぐった。

  「これからきっと、わたしみたいな身上の子は帝国に増える。わたしは彼らにわたしと同じ想いはさせたくない。[[rb:合成獣 > キマエラ]]なんてことばこの世から駆逐してやりたい。あんな屈辱、人を人とも思わない扱いを子どもたちには味あわせないーーそのためならなんでもするわよ」

  一瞬の昏く深遠な表情の後、ぱっといつもの明るい顔で彼女は笑った。

  「変なことばっかり喋っちゃったね。でもついでにもう少し話しちゃう。そうーーそのことで完璧にわたしたちの間にはヒビが入った。で、ユアンから別れを告げられて、失意のわたしはその後言い寄ってきた男とあっさり結婚しちゃった。ただしその男、表面上は申し分のない貴族の令息だったんだけど、やっぱりそんなふうにしてユアンと別れたわたしに思うところがあったんでしょう。信じられないくらい雑種のうえに蛇人の血が混じってることもたぶん気に入らなかったのーーちょっとしたことから喧嘩になって、気づいたら夫婦仲が険悪になるどころか、ことあるごとにわたしの行状をあげつらねて、やっぱり蛇人の血を引く売女だの娼婦だの、仕事もわたし自身の生き方も人格も否定するようになって、最後はとうとう家から出してもらえなくなった。仕事も辞めさせられた。辞職願を出すよう迫られて、そのとおりにせざるを得なくなって泣く泣く提出した。あまりに急すぎるからおかしいって上司のところで止められてたんだけどーーで、家に閉じ込められて精神的におかしくなってたところにユアンがいきなり訪ねてきて、そのときは結婚以来すっかり疎遠になっちゃってたから久々の面会だったんだけど、柄にもなくわたしが憔悴してるもんだからびっくりしたんでしょう。あのころのわたしは食べ物も喉を通らない半病人みたいなありさまで、会ったのもベッドのうえでだったしーーだいじょうぶ、元気よ、すぐ治るからねってわたしは云ったんだけど、嘘をつくなって怒り出して、そのまま夫に抗議して大騒ぎになってーーそのときは夫に凄まれて引き下がったんだけど、後日夫が家にいないあいだにわたしを救出しにきてくれて、使用人をつけてアパートにかくまって、夫の追っ手から目をくらませたり、最終的には離婚の手続きまでしてくれた。あとからきいたところによると、どうもあのころのわたしは夫から呪われてたそうよ」

  「えっ。その呪い、いまは?」

  「もちろん消えてる。ユアンが解いてくれたのーー彼はそのときなにも云わなかったけど、だいぶあとになって医者から、もうちょっと遅かったら危なかったですよって云われた。だからわたしにとってユアンは親友でライバルで、元恋人で元婚約者であると同時に命の恩人にもなってしまった。あっちだって学生のころ散々迷惑かけてくれたからおあいこだけどーーあは、なんかすごいでしょ。大人ってほんとろくでもない、シュバリスはこんな大人になっちゃダメだよ? というか、わたしたちふたりみたいに?」

  「ろくでもないとは思いませんわ」

  話の内容は驚くべきものだし、あとで細部を検証しなおす必要があるが、ギネヴィアの話じたいはシュバリスの胸を強く打った。大好きなひとと別れることはほんとうに辛い。じぶんにはどうにもできない生まれ育ちで引き裂かれることも、思ってもみない偏見がもとで暴力をふるわれることも。

  「売女ーーって云われたことがあります、わたしも。とても辛かったです。だってわたしはそんなことしてないのに。そんなのじゃないのに」

  「そうだね。今も昔も奔放なところに関してはわたしだってぐうの音もでないけど、でもそんなんじゃないよね。結婚してたころの記憶にはいまでもときどきうなされるよ、幼いころのトラウマを凌駕するほどの経験なんてもうないって思ってたのにーー。いまじゃどうしてあんなに打ちのめされたんだろうって思うけど、でも、毎日毎日おまえはほんとうにどうしようもない女だ、おれが飼ってやらなきゃ他の誰もおまえなんか相手にしてくれないんだ、おれが躾けなおしてやる、これはおまえを思ってやってることなんだ、おれだって辛いんだ、だけどおまえはそういう生まれ育ちなんだから仕方ないんだーーって呪文みたいに繰り返されると、ほんとうにじぶんでもそうなんじゃないかって気がしてくるんだよね。洗脳ってやつ? だからシュバリスは、ほんとうのあなたをみてくれるひとを選ぶんだよ。これはお姉さんの助言」

  「はい」

  「蛇人だなんだって云ってくる莫迦な奴らに負けちゃ駄目。そうーーでも、あれがあったからわたしもほんとうのじぶんの望みに気づいたともいえる。命をかけてもやるべきことに」

  ギネヴィアは金銀を散らせた紅茶色の目をすがめ、細いがしっかりとした指先でひときわ激しく胸元をまさぐった。

  「ユアンがわたしを心と体の檻から出してくれた。だからわたしは自由になれた。本人にはとても云えないけど」

  (ーーあ、思い出した)

  ふとシュバリスも、頭の奥深くから泉のように湧き出してきたある光景と対峙した。

  『わたしがあなたに何をしたというの?』

  シュバリスはとつぜんじぶんにむかって叩きつけられたことばと暴力に驚いていた。そのときシュバリスは子どもたちと一緒だった。アリスの五人の子と、ほかの仲間が長い戦のあいだに築いた家庭に生まれた子ら。部下の子の面倒をみる保育者の役目もシュバリスは請け負っていた。拠点にしているお城でいっしょに洗濯をしたり掃除をしたり、縄跳びをしたりかけっこをしたりカードで遊んだり歌を教えたり、ある特定の戦のときは前線に呼ばれることもあるが、ほとんど毎日そうして過ぎた。

  そこへ彼らだけが、補給のためだったかなにかで帰ってきたのだ。ハルトガルトの部下の一団。そして、シュバリスだけがお城でぬくぬくと安全に暮らしていること、ちょうど子どもたちと遊んでいるところを見られたのがまずかったか、ほかならぬドーリスに、子どもたちから引き離されたシュバリスは暗い武器倉庫に連れ込まれた。

  『なんて能天気な! ハルトが前線でどんなに厳しい状況におかれているかわかってるの!? いまが大事な時期だというのに!』

  『なあに? どうしたのドーリスーー』

  ぽかんとしつつ、その後「おかえりなさい」と云ってしまったのも火に油だったようだ、彼女はよけいに怒り、恨みのこもった目でシュバリスを睨みつけた。

  『あなただけがほかの六人ほどわたしたちの戦いに貢献していない。あなたなんてただのひきこもり、ふだんはなんの役にもたちやしないじゃないの。なのにこうして毎日遊んで、たまに戦場に出るだけで、ハルトの歓心も愛もなにもかもあなたひとりが手に入れていいと思ってるの!?』

  『はあ?』

  とつぜんの糾弾にさっぱり頭がおいつかなかった。とはいえシュバリスもやられっぱなしではなかった。

  『わたしはわたしにできることをやっているわドーリス。この城もほかの城も、ハルトが領地に組み入れたたくさんの町や村も、守っているのはわたしでありわたしの魔法よ。わたしの防御魔法なの。そして、離れた城や町や陣地に防御を張り巡らせるのは、戦場で戦うのと同じくらい気力も体力も魔力もつかう、わかってるでしょう?』

  『……、』

  『そしてみんなが帰って来る城や町や、そこに住んでる子どもや老人や女性、怪我や病気で動けないたくさんのひとを守り、癒すのだってだいじな役目でしょう。ハルトもほかの五人も承知してくれてる。あなたも理解しているでしょう?』

  『――だとしても、わたくしたちが汗まみれ泥まみれで戦っているあいだ、あなたは綺麗な服をきて子どもたちと歌って遊んで、じっさいにじぶんの手を汚しもしないのにまるで勝利の女神のように崇められていい気になってるじゃないの。わたくしが許せないのはあなたのその傲慢さよ!』

  『傲慢なんて、そんなことはないわよ』

  『いいえ、わたくしたちがぼろぼろで帰って来たときあなたはそうやって綺麗な格好でいい匂いをさせてハルトガルトを笑顔で迎えるのよ。彼にいいところしか見せないで、そんなの卑怯よ!』

  『そんなことはないわよ、汗まみれで泥まみれのときもあるし血まみれだったこともあるわよ。それにドーリス、なんだか話がどんどん本筋とずれていっているように思うのだけれど、すこし落ち着いたら?』

  『――殺してやるわシュバリス』

  低い声に、氷のまなざしに、シュバリスは思わず息をのんだ。そしてドーリスの背後で腕組みしながら、建物の陰に同化するように、ひっそりと彼女を見つめる存在にようやく気づいた。たくましい甲冑姿の大男。ドーリスの兄だ。ドーリスにまして、シュバリスは彼が苦手だった。端的にいって恐ろしかった。

  ドーリスはそんな彼女に、長い戦のあいだに汚れて傷んだ金色の髪、ハルトガルトと戦場に出るためにいつか彼女自身がばっさりと切ってしまった短い髪を振って絶叫した。

  『脆弱な蛇人ふぜいが。どうしてなの、わたしのほうがーーわたしのほうがよほど彼の役にたつのに!』

  『ドーリス。ドーリス、おちついて。だいじょうぶ? 疲れてるの? どこか怪我したの?』

  『だいじょうぶってなによ! あなたにそんなこといわれたくない! わたしはまともよ!』

  『もうよせドーリス。そんな女相手にするな』

  兄がようやく妹を諌めた。しかしそれはシュバリスにさらなる恐怖を与えた。ねっとりとからみつくような男の視線が胸や胴や腰を這う。かすかに身震いした彼女に、歪んだ微笑を浮かべながら彼は低く云った。

  『あの男もいつか目をさますさ、美しい妹よ。ハルトガルトがおまえを愛さないはずがない。そうーーこの女がいたとしてもいくらでも機会はある、おまえは必ずあの男の子を産む。そしてその女の存在は闇に消え、同胞である悪しき蛇人ともども永久に泥の底を這い回ることになるのだ。あの男も皇后の座も、栄誉も魔法も、いずれすべておまえのものだドーリス。すべて』

  個人的にはシュバリスはドーリスの気持ちを理解できないわけではなかった。長く美しい髪をハルトガルトのためにばっさりと切ったドーリス。女性ながら甲冑に身を包み、剣を握って戦場に出た[[rb:戦乙女 > バトルメイド]]のドーリス。キャンプ地での過酷な生活を賞賛に価する胆力と精神力で乗り切り、ハルトガルトの副官として勤め上げているドーリス。しかし彼女の行動と理由がすべてハルトガルトへの愛ゆえなら、そのハルトガルトの愛がすべてシュバリスひとりに注がれ、愛の欠片もまわってこないのは彼女には許しがたいことだっただろう。帰還のたびにハルトガルトはシュバリスを抱きしめて全身にキスの雨を降らせる。「君のおかげで今回も勝ったよ」「君のために勝ったよ」と囁くーーシュバリスにむけられる熱く烈しいことばのいっぽうで、ドーリスへの報酬が「ありがとう」「ご苦労だった」などの通りいっぺんの感謝や激励にすぎないとしたら、献身に対してあまりに報われない、と彼女が思うのは当然だ。ドーリスの嫉妬も「なぜ」という思いも、だからシュバリスは理解できる。

  そして、だからこそシュバリスさえいなければじぶんが、といつからかドーリスは思い込むようになったのだ。少女らしい真摯さと、痛々しいほどの生真面目さで。

  シュバリスはけっきょくその出来事をハルトガルトに告げることはなかった。しかしハルトガルトはいつのまにか知っていた。いたずら好きのアリスの長男がこっそりと武器倉庫まで様子を見に来ていたのだ。子どもの戯言と捨て置くことなく、ハルトガルトは手を打ってくれた。ドーリスも彼女の兄にも、シュバリスはじぶんの妻同然なのだときつく通告し、シュバリスに対しては「ぼくを夫と呼ぶように」と云った。

  『奥さま、ぼくの愛しいひと。君だけがぼくの妻だ。ぼくもこれからはそう呼ぶ。なんとしても君のことで彼らに好き勝手云わせない』

  アリスとエステル、シオンにエコーにライドは、シュバリスがようやくハルトガルトを「わたしの夫」と呼びはじめたのを聞いて「遅すぎるくらいだ」と苦笑していた。同じ部屋で夜を過ごしたあと、ハルトガルトとそろって食堂を訪れると、仲間はふたりの全身をじろじろ見渡してため息をつきあっていたものだ。そして云った。「これで恋人じゃない夫婦じゃないって言い張るのは、あまりにもぼくらや部下に対して失礼すぎるだろ」と。

  ーーという記憶がようやく脳裏の底の底から浮かび上がってきて愕然としていると、ギネヴィアのすっとんきょうな声が庭じゅうに響いた。

  「あ、まずーい。なんだ、いつからいたんだろ?」

  シュバリスは我に帰ってギネヴィアに注意をひきもどし、その拍子に目に映ったものに愕然とした。

  「ドットール。それ、なんですか!?」

  「え、なに?」

  胸元に手をあてたまま、正確には胸元に下げられた鎖の先を指先で弄びながら、ギネヴィアがきょとんとする。細い指先から黒い小さな魔晶がひょっこり顔をだしていた。

  「その、いまその手にお持ちでいらっしゃるのーーそれはなぜ、」

  「あ、これ? 毎年成績優秀者に渡される学院の記念指輪だけど、これがどうかした?」

  「なぜーーなぜ三つもお持ちなんですかっ……!?」

  指輪はなんと三つもあった。シュバリスは叫びだしそうだった。

  「えっ? そりゃあわたしが三回受賞したからだけど。普通はみんな一個だけつけてるみたいね、まあ、三つ持ってるひともめったにいないでしょうけど……でもそれがなに? そんなに驚くようなこと?」

  ひとりの人間が複数所持している場合もあるのだ。しかし、

  「ドットールの興味ぶかい過去を聞いてこちらも感に堪えんな。しかしいいか、そろそろ君の話もききたい、レイミア・イスラメイくん?」

  振り返ると、ベンチの背後から覗き込むようにして例の監察部の女性が立っていた。ハイヒールの跫は芝生に吸収されて接近に気付かなかった。どんな嘘も見抜くという鋭い双眸がシュバリスを見下ろしていた。

  [newpage]

  [chapter:女王さまがみてる]

  「あっーーああ、ええとーーはいっ……、」

  指輪についてギネヴィアに山ほど聞きたいことがあったが、しかしまずは女王陛下の尋問に耐えねばならない。動転しつつシュバリスは女王と呼ばれる監察のエースにむきなおり、怜悧な猛禽の目をした、おそらく三十代から四十代にさしかかろうとしている女性を初めてまともに見つめた。彼女はシュバリスを見下ろして無表情に首をかしげた。どこかよそに移って質問に答えるのだろうとシュバリスは立ち上がろうとしたが、静かに手で制された。

  「そのままでいい。あの少年は身内だが君は部外者だし、部屋にきてもらうまでもない、ここで済ませる。[[rb:博士 > ドットール]]も同席したままでけっこう。どうせ君はうちのファラスからすべて聞き出すだろうから、痛くもない腹を探られるより直接見てもらったほうがましというものだ」

  女性はじぶんの背後にちらりと視線を送りざま、ギネヴィアを睨みつけた。ギネヴィアは肩をすくめた。

  「あなたにしちゃ粋な対応をしてくれるじゃない。じゃあ遠慮なくいさせてもらうよ」

  ギネヴィアはまったく動じることなくカップの残りを口にし、女王はシュバリスの隣に座った。さきほど下ろしっぱなしにしていた赤い髪を、いまは簪で一つにまとめている。鼈甲に青い玻璃玉、まとわりつくように銀色の錺が揺れていた。玻璃にはエイシャ北東部、シーナ地域でよく見られる吉祥柄が彫り込まれている。ベンチの背後では部下らしい三十代前半の男性が低く咳払いをした。記録用のクリスタルを手に困り顔だ。「やあファラス」とギネヴィアが挨拶した。

  部下とギネヴィアを一瞥し、女王陛下が凛とした声で云った。

  「さて、こちらを向きなさいーー君の名はレイミア・シュバリス・イスラメイ。そうだな?」

  「はい」

  覗き込まれて、ごくりと息を呑みながらシュバリスはうなずいた。

  「そうです。あなたは監察の副部長さまだとお聞きしましたがーー?」

  「ユィリエ・フィン・シャマールだ。ユイでもユリでもリエでも好きに呼んでくれたまえ。君は手配前のナイジェルとまともに顔を合わせ、会話もしている貴重な証人だ。率直に聞きたいーー以後、質問に対する返答は[[rb:是 > ヤール]]か[[rb:否 > ノール]]で頼む。ではーー君はナイジェル・アベンチュリンの潜伏先を知っているか?」

  「いいえ」

  「ナイジェルは兄テオドールとつながっていると思うか?」

  「いいえーーいえ、恐れ入りますシャマールさま、わたしにはそれはわかりません」

  「ではユアン・カルセドニーとナイジェルがつながっている可能性はあると思うか?」

  「わかりません」

  前置きもろくになしだが質問内容は容赦ない。監察部もユアンの関与を疑っているのだ。当然といえば当然、ありとあらゆる可能性を視野にいれるのが彼らの仕事にちがいなかった。

  「君はあの倉庫にナイジェルといた。そのときなにか手がかりとなるようなことを見たり聞いたりしていないか。ナイジェルは君になにか漏らさなかったか?」

  「ーーわかりません」

  ソネットのことを話すべきだろうかと思ったが、これは話しても仕方がない。ユィリエの目が細くなり、黄色い目から強い魔法の気配が感じられた。[[rb:固有魔法 > マジック]]で見られている。きっと嘘だとばれただろうがユィリエはなにも云わず、「はいかいいえで頼む」と念を押した。

  「は、いーー」

  「では次。君はアルジュナ・ユーレアイトの命を救った。そのことでナイジェルに目をつけられ、あの日ナイジェルが君に会いにきたそうだが、たしかか?」

  「はい」

  「君がアルジュナを救ったのは偶然?」

  「はい」

  「君はユーレアイトに雇われてはいない?」

  「いえーーあっいえ、[[rb:是 > ヤール]]ですーー誰にも雇われておりません」

  シュバリスは仰天した。な第三者には、シュバリスがアルジュナを救ったことは偶然にしては出来すぎていると考えられるのか。

  「いくらユーレアイトが過保護だって、こんな小さな子を影の護衛に雇うなんて考えられないんじゃない、ユリィ?」

  横からギネヴィアが苦笑まじりに云った。

  「いくらシュバリスが凄腕の白魔法使いだからって、雇うならもうちょっと年上にするでしょう。くわえて連中はひどい人間至上主義者だ、どんなツテで彼女を見つけ出したにせよ獣人の手は借りないでしょ」

  「いちおう確認したまでだ、黙っていろ」

  ユィリエは笑いとばし、返す言葉でずばりと云った。

  「君は聖遺物の強奪犯か?」

  「いーーいいえ」

  「君は級友を殺そうとしたか?」

  「いいえ」

  「君はなにか秘密を知ってる?」

  「いいえ」

  「君は誰かをかばってる?」

  「いいえ」

  「君は誰かの手先か?」

  「いいえ」

  「君はこれから誰かに害を成そうとしている?」

  「いーーいいえっ……」

  質問は矢継ぎ早で、かつ鋭く烈しく、シュバリスは呼吸すらままならない。もとよりこれがユィリエのやりかたなのだろう。是か否かを問うているわけではない、相手がどう答えるか、答えるときの反応をこそ彼女は見定めているのだ。真実か嘘か。鉄壁のマジックで見抜いた真実とそれらを組み合わせて最終的な判断をくだす。彼女にとってこの二者択一は、獲物を追い詰めるためのまっとうな手順、そして犯人をあぶりだすゲームなのだ。

  シュバリスは戸惑い、助けを求めてギネヴィアを振り返った。ギネヴィアはシュバリスを案じるような表情をしていたが、ユィリエの仕事に口を挟むことはできないと知っているのだろう、遠くに視線を遊ばせ、なにも見ていないし聞いていないふりをして自らの立場を示した。シュバリスは諦めてユィリエに向き直った。ユィリエも一瞬、シュバリスをとおりこしてギネヴィアを睨みつけていたが、その後もさらに質問は続いた。だが長くは続かなかった。

  「時間です」

  いつのまにか三人の座るベンチの正面へとまわりこんでいた男性がユィリエに声をかけた。ユィリエはその声でふと微笑み、シュバリスにむかって「以上」と冷たく云った。

  「君への質問は以上だ。知りたいことはあらかた知った。では失礼する」

  「えーーあの」

  ベンチからさっと立ち上がったユィリエに、シュバリスは思わず声をかけていた。立ち去りかけたユィリエは立ち止まった。

  「なんだ?」

  「あのーー恐れ入ります、監察部の捜査はどこまで進んでいるのでしょうか。わたしは現場に居合わせておりましたし、関係者のなかに知人が多数おります。いまこの時点でわかっていることを、少しでいいので教えていただけないでしょうか?」

  せっかくここまで来たのだ、アイドクレーズと話しあうための材料が欲しかった。だがユィリエ・シャマールは「君はなかなか肝が据わってる」とため息をつくと、「話すことはない。なぜなら君は巻き込まれただけのただの部外者だからだ。そうだろう? それともひょっとしてそうではない? そうなのか?ーー是か否か?」

  「のーー[[rb:否 > ノール]]です。あの、それはーー、」

  「では君が犯人なのか? 君が黒幕か?」

  「いえーーいいえ!」

  ユィリエにもっと厳しく追及を受けたら、じぶんの正体や目的まで知られてしまうかもしれない。ユィリエの目は、必要以上の好奇心は身を滅ぼすぞ、と暗に告げているようだったが、じっさいユィリエの冷たい視線は、その気になればシュバリスのすべてを暴き立てることができるのだと言外に知らせる底知れぬものをたたえていた。これ以上は無理だーーシュバリスは舌先にでかかったことばをひっこめた。ふん、とユィリエが顔をそらし、「こんな子になにができるっていうのよ」と、とうとうギネヴィアが声をあげた。

  「怖いよあなた、いったいどういう神経してるの? それとも監察に入るともれなく非道になるわけ? 手当たり次第犯人扱いするような?」

  「そのことば、そっくりそのまま君に返そう博士。いろいろとご立派な噂を聞いてるぞ。よしきにつけ悪しきにつけ」

  「いやいやいや、わたしのは別に法に触れるようなことはあ〜、ごにょごにょごにょ」

  「そのごにょごにょのところをはっきり云ってみたまえよわたしに。ん?」

  「うーむむむう。あっ流れ星!」

  仲がいいのか悪いのか、軽口をたたきあうふたりを前にシュバリスは考え込んだ。

  (うーん。監察からは簡単に情報はもらえない、と。とすると、いまわたしにできるのは……)

  さきほどギネヴィアに注意されたが、シュバリスはユィリエ・シャマールのオーラを読むべく神経を研ぎ澄ませた。悟られない程度にオルリドの力を調節したーーしかしユィリエは気づいたようだ。ぴくりと耳を震わせ、ばっとギネヴィアからシュバリスに視線を移した。

  (あ……)

  さきほどより鮮明に映像が見えた。ただしそれは望んだような事件についての内容とはまったく違う、無意味としか思えないものだった。

  (女の子ーー?)

  小さな女の子が手を伸ばしている。三歳ごろだろうか、走りかけて転びながら、『母しゃま!』と舌足らずに云って嬉しそうに飛びついてくる。その女の子をユィリエは抱え上げてやるのみならず、いまの彼女とは似ても似つかない優しく穏やかな笑みで『君はほんとうに強い子だな』と、いかにも愛しくてたまらないといったように、じぶんに頭をこすりつけてくる少女に頬ずりし返し、耳元で囁きかけた。

  『ほんとうに賢くて強い女の子だよ、お姫さま』

  そして別の場面。泣き疲れて眠ってしまった、五歳頃に成長した少女を抱っこして、厳しい表情でユィリエはうつむいているーー

  『君はね、お姫さま』

  やるせなさそうにつぶやいて、背を撫でる手を少女の心臓の真裏で彼女は止めた。手のひらはそのまま背筋を辿り、子ども特有の丸っこい頭のてっぺんをゆっくり撫でた。

  『ここにとても強い力をもってる。昔のわたしとおんなじーーだけどそのマジックは君を傷つけ、君の好きなひとや君がだいじにしたいひとのこともめちゃくちゃにしてしまうかもしれない。だから君がじぶんを嫌いになったり憎んだり恨んだりしないよう、少なくとも真実と嘘、本音と建前の区別がつくようになるまでお母さまが封印しておいてあげようと思う。ーー初代皇帝も云っていたものだよ、この世には白黒はっきりつくようなことなんてほとんどない、真実なんてほんとうはないのかもしれないとね。だけど、傷つくことなくまっすぐ真実を見つめられるようになるまで、そのマジックはわたしが結んで、どこにも出て行かないようにしておこう。大丈夫、痛くないよ』

  ユィリエは少女の体から細い糸を引き出した。糸は手の中で青いリボンに変わり、ユィリエがそのリボンをきゅっと蝶々結びにすると、少女の体を巡っていた魔法の光は急速に輝きを失っていった。少女の[[rb:固有魔法 > マジック]]がこれで封じられた。ユィリエは悲痛な面持ちで『ごめん』とつぶやいた。

  『莫迦にされるかもしれないね。君はとても悩むかもしれない。でもだいじょうぶ、強いマジックをもつ子にはよくあることなんだ。両親のどちらかが封じておくものなんだ。だいじょうぶ、君ひとりじゃないーー君はいずれあそこで同じ悩みをもつ子と出会うだろう。そうさ、きみはいつだってひとりじゃないんだ。さあ、おやすみお姫さま。母さまの勇敢なお姫さま」

  ユィリエは少女のもつれた髪を梳き、頭のてっぺんに口づけた。その指に黒い石の嵌った指輪が光った。

  『母さまにはやらなきゃならないことがある。誰にも必要とされないかもしれなくてもーー正義を』

  そして少女を寝台に寝かせ、名残惜しそうにかがみこんでもういちど頰にキスすると、ユィリエは立ち去った。後ろ姿が闇に溶けていった。少女は寝台でしずかに眠り続けていた。

  (なにかしら。なにかしらこれーーええと、彼女の記憶であることはたしかだけど)

  (いやーー)

  ユィリエではなく少女のほうがひっかかった。どこかで見たような気がする。シュバリスは必死でぼやけていく輪郭を脳裏に蘇らせ、それが誰なのか探った。「ほうら」と横から不機嫌そうにギネヴィアが呟き、シュバリスの視界が現実に引き戻された。

  「この子はこう見えて最年少入学者で特待生でわたしのお仲間だよ。見たとこそんじょそこらにはいない強力な[[rb:読魔能力者 > オルリド]]だ。いくら小さな女の子でも、犯人扱いされちゃそりゃ怒るってものさ。女王さまの横暴もいいかげんにしなよ」

  「犯人あつかいなどしてないぞ」

  ユィリエはシュバリスの見ているものを振り払うように手を振った。

  「それに、読まれて困るものは見えないようにしてある。容疑者のなかにいままで能力者がいなかったとでも? 常に防御は張ってある。それに」

  ユィリエは目を細めた。

  「封じられてさえこの目は真実を見分ける。彼女が仲良くしているというならその子はシロだ、わたしは彼女の判断を信じている」

  「はあ? あなたなにを云ってるの?」

  「そうだろうシュバリス・イスラメイ?」

  「ーーあ」

  シュバリスはふいに思い当たった。同時に、頭を殴られたような衝撃にうたれたーーお姫さま。姫。姫君。それに、学院でシュバリスを最初からシュバリスと呼んだのは、アイドクレーズをのぞけばたったひとりだ。シュバリスはずっと副名のレイミアを真名と偽っていたのに。

  「えっーーえっえっえっ。えええええ!?」

  「どうしたのシュバリス。どうしたの?」

  「いえーーいえ、あのだいじょうぶですドットール。でもあのーーえっーーほんとに? ほんとにシャマールさまは、アーー」

  「なあに、なにが見えたの。ちくしょうわたしも人を読めたらなあ! あ、ひょっとして女王の過去でも見えた? どんなだった? とんでもない敵がいた?」

  好奇心いっぱいに訊ねるギネヴィアに、ユィリエが「ふん」と鼻を鳴らした。

  「なぜそうまでして知りたがるのか知らないが、知りたいならこそこそ嗅ぎ回らず堂々と聞きたまえドットール。そうしたら教えてやらないでもないぞ」

  「じゃあ聞こう。ねえ、あなた何の魔法をかけられて十年近くも行方不明だったわけ? よっぽど凶悪な敵とぶつかったとか潜入中にミスったとか、いろいろ云われてるけどいまはっきり真相を教えてちょうだいよ。なにがあったの。ほんとうに魔法にかけられてたの?」

  「ああ、かけられてたよ」

  ユィリエは、シュバリスとギネヴィアと、同じく目をまん丸にしている部下の男性を交互に見てきっぱりと告げた。

  「なんとも恐ろしい魔法だった。わたしがかかっていたのは、この世でいちばん古く、ゆえに強力な魔法だったよ」

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