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[chapter:黄昏の訪問者]
「わたしに対する彼のしうちは、とうてい人格者とはいえなかったけど?」
むしろ無礼者だ。そうシュバリスが暗に指摘すると、
「例外はなんにでもある。それに」
わるびれる様子もなくアレクセイはつづけた。
「時代によって三色のうちどれがいいかというのも変わるんだ。昔は黒と白しかなく、日常的に戦が起こってた頃は黒魔法がもてはやされた。白もまあまあ。でもいまは平和な時代だから灰色が最上とされてる」
「そうねえ、たしかに黒と白はいま考えるとわかりやすかったわね。でも灰色だけはよくわからないわ、黒と白に比べたらどうも中途半端ではっきりしないもの。なぜそれが出ると人格者なの?」
「人格者ってか、やっぱバランスがいいんだな。治癒と防御の白、攻撃と破壊の黒に対し、そのどちらにも属さない日常の何気ない魔法、使い方さえ誤らなければ人の役に立つ魔法、それが[[rb:灰 > グレイ]]だから。人々が平和に、誠実に暮らしてゆくために使われる魔法。それが[[rb:灰色魔法 > グレイマジック]]だ」
「まさに中間、。白と黒を混ぜ合わせた?」
「そうだ。ただし初代皇帝は黒も黒、『漆黒』だったと云われてる。ほかにも帝国千年の歴史上、名を残した皇帝はのきなみ『黒』。だから皇帝家では試石で黒が出ると、灰色ならよかったのにと云われつつ歓迎される。初代の力をちゃんと受け継いでる、血を保持してる、ってな。ハダル・ハルシオンもそう、皇帝家ってのは生まれてすぐ試石をつかって子どもの[[rb:魔力色相 > ヒュー]]を確かめるんだが、あいつは小さい頃にいきなり黒が出てその後もずっと黒いまんま。幼い子どもってのは可能性のかたまり、今日は黒で明日は白、ほかにどの色出ても移ろいやすいがハダルは変わらずずーっと黒。そのせいで周りはいろめきたってた、いまはあのザマだってのに」
だからアルジュナがショックを受けていたのだな、とようやくシュバリスは腑に落ちた。ハルトガルトの子孫とはいえ、アルジュナはいちども黒を出したことがないのだろう。なのに見た目七歳のアイドクレーズがあっさりと黒を出したのだからーー
「で、だ」
アレクセイはしばらく黙りこんだ。しゃべりすぎたと思ったらしく気まずそうにカップに口をつけている。
「ナイジェルのことならおれが知ってるのはこれくらいだ、ほんとうに。だからもういいか?」
「あーーありがとう」
「じゃ、行くわ」
中身を飲み干し、アレクセイは立ち上がった。が、居間のなかほどで立ち止まり「そういえば」とシュバリスを振り返った。
「ひとつだけ、アルの命を助けてもらった恩返しに云っておいてやるイスラメイ。あの外道になぜ関心を抱いたか知らないが、あいつにはもう関わらないほうがいい。あんたはすでに学校でイヤってほど注目されてる、これ以上話題を増やさないほうが身のためだ。あいつについて詳しくーーってことは、あんたはひょっとしてあの外道と接触する気だろうが、やめとけ、ろくなめに合わないから」
「だいじょうぶ、ありがとう。優しいのねアレクセイ」
なんだかんだいろいろ教えてくれたし心配もしてくれている。あるじと離れた状態の彼となら仲良くなれるかもしれない。希望を抱いてシュバリスは微笑みかけた。しかしアレクセイはあべこべに渋い顔をした。
「いや。それもあるが、おれも近いうちにおれも会いに行くつもりだからだ、あの外道野郎に。だからその前にほかの誰かとトラブルでも起こって警戒されちゃ困るんだ」
「え?」
「なあ。その様子だとどうもおれの云うことなんかききゃしないんだろうけど、だったらいまたしかめとくわ、あんたいつあいつに会うんだ? それによっておれも変えなきゃならなくなるんだがーー」
「待って。ちょっと待ってアレクセイ。あなたもなの? なぜあなたが会いにいくの、だってお兄さまのこと嫌いなのでしょ?」
「嫌いだよ。だが、それとこれとは話が別でな」
アレクセイの金色の目が敵意でひかる。シュバリスは気づいた。アレクセイもあるじを襲った犯人がナイジェルだと疑っている、というより確信している。シュバリスは慌てた。
「あのーーやめといたほうがいいわよアレクセイ。初対面でひどいめにあわされて、それからろくに話してないのでしょ。彼もあなたを嫌ってるのでしょ? もしも喧嘩にでもなったら、昔はともかくいまのあなたじゃ、」
シュバリスはアレクセイの全身を見渡した。同級生でも一、二を争う立派な体格のもちぬしで、じっさい、運動系クラブのひとつに入って期待されているらしいし魔法実技の成績も優秀。いまぶつかったら、ただの兄弟喧嘩の範疇に収まらないかもしれない。アレクセイはふっと笑った。
「あんたには関係ない。それにおれはあんたの事情を聞かないことに決めたよイスラメイ、だからあんたも聞いてくれるな。ーーじゃあな、お茶ごちそうさん」
「待って。待って、まだーー」
「あ、そうだもうひとつ。『でてけ』は命令として許容できるが、『だいきらい』はあまりにひどすぎるからやめてやれ」
「……えっ?」
「主人にそう云われたら従者のほうは立つ瀬がない。かわいそうに、あれはそうとうへこんでたぞ。顔も態度もいつもどおり生意気だったけど」
「待ってーーそれはわかってる、悪かったと思ってるわ。でも待ってアレクセイ、三歳のあなたを蹴るようなひとなんでしょうお兄さまは。あなたは会わないほうがいいわよ!」
「そうかい、そりゃお互いさま」
「待って待って。おねがい、待ってーー」
必死で引き止めながら、アイク帰ってきてー! とシュバリスは、ついさっき大げんかしたにもかかわらず幼い従者を心中で呼んだ。彼なら十三歳の男の子を丸め込むなどたやすいはずだ。「待って」とシュバリスは袖をつかみ「離せ」とアレクセイが腕を振る。ドアの前で押し問答するかたちになったアレクセイとシュバリスの耳に、なにか重いものが床に落ちる音が届いた。小さな悲鳴も。
隣室からだ。そこにはアルジュナがひとりきり。アレクセイとシュバリスは顔を見合わせ、次の瞬間走り出した。
「アル!」
乱暴にドアを開いて駆け込んだアレクセイに続いて、シュバリスも初めて隣室に踏み込んだ。間取りも家具もそっくり同じ居間に、ふたりに背をむけるかっこうで黒く巨大な影が佇み、その二メートルほどむこう、窓際のダイニングテーブルで、椅子から腰を浮かせてアルジュナが杖を構えていた。自ら材料を選んで育成をはじめたばかりの彼の[[rb:指揮棒 > バトン]]は、中央に佇む影にまっすぐ照準を合わせている。
「アル!」
アレクセイはあるじのほうへとまわりこもうとした。だが、立ちふさがる影が長い腕を伸ばしてさえぎり、ゆっくりとアレクセイとシュバリスを振り向いた。
ハルトガルトらとともに戦場を経験したシュバリスでさえぎょっとした。男は規格外の巨体のもちぬしだった。黒い外套に黒いブーツ、ほとんど黒一色の騎士団の制服に身を包み、そこにときおり錺の金が光る。足元には魔法陣が浮かんでおり、床に溶けるようにして消えた。一見して短距離移動用の陣だ。寮内はいかなる場所も陣の発着場所に指定できない、なのに設定された禁呪を軽々と破っている。高い魔力をもつあかしだった。
振りむいた男は、腰に挿した剣の柄に手を触れ、アレクセイに向かって威丈高に告げた。
「久しぶりだなアレクセイ」
「ーー、」
「不思議だな。いつからおまえの主人は女になった?」
冷たい黄金の目が、アレクセイとその後ろのシュバリスを撫でる。アレクセイが反論するより先に男が追い打ちをかけた。
「あるじのそばを離れるとは言語道断。つい先日アルジュナは殺されかけたのではなかったか? そのさいもおまえはなんの役にもたたなかったばかりか泣き喚き怒鳴り散らすことしかできなかった、そう騎士団の調書で読んだが、同じ名を名乗りながらこのていたらく、吐き気がする。盾になって死ぬならともかくむざむざ蛮行を許しあるじの命を危険にさらすとはーーいまもそうだ、おなじ愚行を繰り返すつもりか! このアベンチュリンの面汚しが!!」
「うるさい、おまえがやったんだろ!」
アレクセイは歯をむきだして吠えた。
「あれはおまえの仕業だろうがナイジェル! 白々しいことを! おまえがアルを殺ろうとした!」
「まさか、わたしはそんなことはしない。もしわたしが犯人ならおまえがナメクジのように這ってくる前にアルジュナを百回は殺ってる。今日は慈悲をかけてやったんだ、ありがたく思うがいい」
「ーー墓穴を掘ったな!」
アレクセイが一歩前に出た。
「いまのことばで明らかだ、おまえにはいくらだってツテがあるんだナイジェル。金さえ積めばなんでもやる反帝国の蛇人をいくらだって雇える。あいつがおまえかどうかはおれには正直わからなかったが、おまえの性格を考えたらおまえ自身が手を汚すことは考えられない、おまえは万全を期したろうからな。しかし失敗した、だからいま仲間の失敗を埋めにきたんだ! そうなんだろ!?」
「さあどうだろうなーー?」
ナイジェルは笑って肩をすくめ、弟を見つめて冷ややかに云った。
「ほんとうに無知だなおまえは。何もわかってない」
「許さねえ。こんどは好きにはさせねえ、叩きのめして騎士団に突き出してやるーー!」
「わたしにかなうとでも?」
「無理でもやってやる!」
「面白い」
ナイジェルは一歩前へと踏み出し、アレクセイはその場に踏みとどまったが、これは驚異的なことだった。シュバリスは間近で見るナイジェルの迫力にびびりたおしていた。さっき意地でもナイジェルと会って説得してみせるとアイドクレーズに啖呵を切ったが、その意気がみるみるうちにしぼんでいく。「おい、だいじょうぶか?」隣で顔色を変えたシュバリスにアレクセイが首をかしげた。彼女がいることでやや落ち着きを取り戻したようだ。「なんか変だな」とけげんそうに云った。
「寝静まったころじゃなくなんで夕方に来る?ーー殺しにきたんじゃねえなーーおいそこの外道、なんでまたわざわざこの部屋に来たんだよ! なにが目的だ!」
「すこしはおとなになったようだな」くく、とナイジェルが笑った。
「おまえらに用があってきたんじゃない」
「は? じゃあなんだーー?」
「そこのお嬢さんに会いに来た。銀髪紅眼、名はシュバリス。十歳、一年生。そうだな?」
矢のような視線に貫かれてシュバリスは思わずアレクセイの背中に隠れた。まともに目があったとき彼女の脳裏によみがえったのは、剣をふりかざす影とそのなかでただ一点光を放つ金の虹彩だった。
「うーー、」
シュバリスが呻いていると、「ーー狙いはイスラメイか?」とアレクセイがはっとしたように腕を広げて前に出た。
「おまえが目的を遂げ損なったのはこいつが原因だ。だからかナイジェル。そうなんだな?」
「おまえに教える筋合いはない」
「こいつさえいなきゃいけると思ってんだろ!」
アレクセイが腰からすばやくなにかを抜いた。魔法印の描かれた紙だった。従者が戦闘態勢をとったのを見て、「おい、ナイジェル!」とアルジュナまでもが青い瞳をきらめかせた。
「その蛇人を外に出せ! ぼくらでケリをつけるぞ。これは継承者どうしの問題だ。そうだろう!?」
「継承者どうし?」
ナイジェルがするどく云った。
「いいえ違いますよアルジュナさま。継承者はハダルさまひとり。あなたはただの候補者にすぎません」
丁寧に否定するナイジェルの目はなおも弟の頭ごしにシュバリスを見つめていた。アレクセイがいくら長身とはいえ同年代と比較してであって、すでの立派な大人、かつ熊人の視線からシュバリスは逃れるべくもなかった。
「調書で見た、君が命を救ったんだな。それほどに高い白魔法の魔力の由来を知りたいものだ。教えてくれるか、蛇神シュバリスと同じ名をもつお嬢さん?」
じぶんは彼に恨まれる理由がある。アルジュナを救ったから。アルジュナたちの反応からはっとしながらシュバリスは「あ」と声をあげた。
「あのーーあの、」
「それに、ついさっきうちのあるじを暴走させたのも君だな。さきほど帰ってこれを見つけた。そうだろう」
ポケットからナイジェルがつまみ出したのは、シュバリスがハダルに渡したメモだった。
「印が切れたと思って飛んで帰ってみれば、なんとまあ、白い蛇が主人を誘惑していたというわけだ」
「あーー、」
アルジュナを癒したことだけではなくさきほどのハダルとの接触も原因なのだ。シュバリスは必死で否定した。
「違います。誘惑なんかしてません。あのーーあの、」
ハダルはあなたを心配するあまりに暴走し、わたしはそれを止めただけ。そう云おうとしたがナイジェルが遮った。
「そして君は、どうやら本人だな。ヤハンのあそこに、森にいた。そうだな?」
「あーー?」
雷にうたれたような衝撃がシュバリスを貫いた。
(ばれてる。ばれてるーーわたしがそうだってばれてる!)
「わざわざなにをしに来た?」
「あーー、」
「哀れんでくれるつもりか? それともこのーーあいだの恨みを晴らしにか? 奪い返しにきたのか?」
「ーー、」
もはや声にならなかった。ナイジェルはシュバリスに警告しに来たのだ。正体はもう割れてる、おとなしくひっこんでろ、と。
(足と眼を奪ったのはこのひとだ)
(そしてもう、わたしが説得する余地なんてない)
(このひとは敵意で真っ黒。ハダルはともかくこのひとのは、いまのわたしにはとても無理)
ナイジェルの魔力はさきほどのハダルと同じく黒い嵐だった。そして彼はテディと同じ[[rb:熊人 > ウルスソム]]。ナイジェルに獣性を出されたら、いや、出されなくともこの場は圧倒的にナイジェルに支配されていた。もはや魔法は問題ではない、あのときじぶんはナイジェルに呪いをかけられてしまったのだ。魔力を奪われるのみならず絶対的な恐怖という呪いを。
足と眼をあんなふうに強奪する人物に説得など通用するはずがなかった。シュバリスはようやく気づいた。アイドクレーズが正しかった。いまはまだ準備不足だ。
「逃げろ」
アレクセイが顎で廊下をさした。
「部屋へ戻れ。いや、ノヴェレッテンの部屋へ逃げろ。あっちはいまごろ大勢いる」
「あーーえ、あの」
「これで借りはチャラだ。おれたちが食い止めてやるから逃げろ。狙いはおまえだ」
逃げても追われるだけだ。それにアレクセイとアルジュナは? ふたりともナイジェルを止める気だが、じぶんがいなくなってまず攻撃されるのがふたりだとしたら見捨てられなかった。
(だってわたしおとななんだもの、おとなは子どもを守ってあげなくちゃいけないんだもの)
(それに、アベンチュリンももとはセレスタインの分家だって。てことはここにいるみんなハルトの血をひいてる。アルジュナもアレクセイも、ナイジェルですら)
(逃げる? ふみとどまる?ーーでもどちらにしろ足が動かない。どうしよう。どうしようどうしよう)
「アイク」シュバリスは自分でも気づかないうちに呼んでいた。
「ここへ来てーーお願い。早く来て。早く来て! ごめんなさいーーそばに来て!」
「[[rb:是 > ヤール]]、[[rb:女神様 > ディーズ]]。お望み通り」
ふいにシュバリスの肩に手が置かれた。彼女が振り返ると、そこにはアイドクレーズがいた。
「どうして?」
「どうしてってーーあなたのことは離れてたってわかります、笑ってても泣いててもね。そしていちばん強く伝わるのは恐怖です。怖がってるのを放っておくほど意地悪じゃない」
「ごめんなさい。ありがとう」
安堵のあまり手ににしがみつくシュバリスにアイドクレーズは肩をすくめ、皮肉っぽく笑った。
「まあでも、あなたの無謀はときどき大きく事態を進展させてくれるから侮れませんね。ハダルに接触した甲斐があったんだーーあっちから来てくれるとは」
「アイクーーアイク?」
なんだか雲行きがあやしい。シュバリスがはっとしていると、
「喧嘩の続きはあと。いまはそうだな、手っ取り早くこいつをここで斃して、あれを取り返す算段をつけるってのはどうでしょう。うってつけの助っ人を連れてきましたよ。市場でばったり会ったんでハダルの伝言について伝言を頼んだら、もっとちゃんと詳しい話をききたいとかで」
「ナイジェル!」
アイドクレーズの後ろから、ナイジェルに勝るとも劣らない巨躯が現れた。いつも温厚で優しげなテディは、アルジュナの部屋にいる弟を驚愕の目で見つめていたが、驚愕はすぐに怒りと失望に変わっていった。
「なんてことをーー!」
アルジュナの背にした窓から黄昏の光が差し込む。世界が夕闇に包まれる前の一瞬のきらめきに照らされて、寮の一室は闇よりなお暗いねっとりと重い空気のなかに沈みこもうとしていた。
[newpage]
[chapter:飛んで魔法陣]
「おまえはいったいなにをしてるんだナイジェル」
テディは兄らしい威厳をにじませて云ったが、声はうわずっており、ナイジェルはぴくりとも反応しなかった。テディはそれにますます激昂して云った。
「何度連絡しても手紙でもクリスタルでも返信なし、騎士団も家も居留守、いや本当に留守なのかもしれんが折り返せといってもそれもなし、実の兄まで無視していったいどういうつもりだ、いったいなにをしているんだおまえは!?」
「役目を果たしている。従者として最善を尽くしているところだ。おまえやアレクセイに邪魔はさせない、そこをどけ」
静かに答えたナイジェルはなおもシュバリスから視線を外さない。察したらしいアイドクレーズが「主人にちょっとちょっかいかけられただけでこれ? いっちゃってますねえ」とつぶやいた。
「忠誠もここまでいくと病気だな。そうまでして守るほどの主人ですかね、あの二重人格の落ちこぼれ。とっとと死なせてアルジュナかユアンに任せちゃったほうが帝国も安泰じゃないですかねぇ」
「アイクっーー」
アイドクレーズが来てくれてほっとしていたシュバリスだったが、従者の憎まれ口にとびあがった。元保護者として「めっ」とたしなめたが、不埒な発言はナイジェルの耳にもばっちり届いた。子どもたちを庇うように前に出たテディの肩越しに「黙れ小童!」と怒りをあらわにする。「何者か知らないが、ハダルさまへの侮辱は許さんぞ!」ーー腰に帯びた剣の鞘が音をたてた。
「やめないか!」
テディが吠えた。
「いくらあるじのためでもやりすぎだナイジェル! それにおまえはこのふたりに対して云うことがあるだろう、シュバリスの母上もアイドクレーズの父上も亡くなったそうだ、おまえの仕業だろう! おまえがこの子たちかの両親を殺したんだ!」
「ーーえっ?」
アレクセイとアルジュナがぎょっとしたように目を見開いた。
「ーーなんの話だかさっぱりわからん。そこをどけテオドール、わたしはシュバリス・イスラメイに用がある」
「どかない。おまえが妙なことをしているのはもうわかってる、いまならまだ間に合う。手を引け、これ以上罪を重ねるな! いまおまえがここへ来てこのお嬢さんが目的だというなら、もはやおまえでしかありえない!」
それは兄としての悲痛な叫びだったが、ナイジェルは意に介さなかった。
「あるじの命を救おうとしてなにが悪い。だいたいわたしにはおまえがなにを云ってるのかさっぱり理解できない。わたしは誰の母親も父親も殺していないが?」
「なにをーー、」
たしかにそのとおり、ナイジェルはシュバリスの母もアイドクレーズの父も殺していない、ただ彼はシュバリスを襲って眼と足と魔力を奪った。目で合図するシュバリスに、アイドクレーズがうなずいた。
「犯人しか知らないことだ。『アレクセイとアルジュナは拒否。残りは受け入れる』!」
空間封鎖と話者限定の魔法。これからさき、ほかの第三者が室内に入ってくることはないし、かわされる会話はアルジュナとアレクセイには聞こえない。ふたりにはまったく筋の通らない話に聞こえる。
「ほう」
ナイジェルが感心したように周囲を見渡した。
「ただの小童ではないな。その年で優秀なものだ。さすがシュバリスさまの従者といったところか」
「おかげさまで、見た目は子ども頭脳はじじいでやらせてもらってます。さてーーこれで思う存分聞けます。あれはどこですか?」アイドクレーズはぬかりなくテディを盾にし、彼の右から顔をつきだして訊ねた。
「あれとは? なんのことだ従者の坊ちゃん?」
「とぼけるな! あなたがこのかたから奪った眼と足、あれを返していただきたい!」
「眼と足?」
「あ、あれはわたしのものよーー!」
アイドクレーズのおかげでシュバリスも奮い立った。アイドクレーズとは反対側から頭をつきだして叫んだ。
「恨みをはらしに来たのかって云ったじゃない、わたしに! 奪い返しにきたのかって、さっき!」
「たしかに云ったが、眼と足?ーーそれは察するに蛇神シュバリスのか。だからーー?」
「そうだ、知ってるじゃないか。いったいどこに隠してるんだこの盗人! 返せ!」
「そうよ、あれを返して! あれがなきゃ傷もふさがらないし魔力だってだだ漏れだし迷惑してるんだからね! あれさえあればハダルだってもうちょっとなんとかしてあげられたかもしれないのに、呪いだって解いてあげられるかもしれないのに!」
「呪いーー?」
ナイジェルはしばらく黙っていた。彼はシュバリスを探るように見つめていたが、やがて「妙だ」とぽつりと呟いた。
「目的はハダルではないのか。なんだ?」
「なんだってなんだよばーか、とぼけんじゃねーよばーかばーか!」
「そうよそうよ、この強盗、凶悪犯! あのときはほんと痛くてびっくりして死ぬかと思ったんだから、千年ぶり、いや五百年ぶりに飛び上がっちゃったわよ!」
「ちょっーーちょっ、ちょっと待ちたまえ、そこまでだふたりとも。もう黙っててくれ頼むから」
じぶんの両側から顔を出しているシュバリスとアイドクレーズを困ったように背後に押し込み、「他の廟についてはどうだナイジェル。教えてくれ」テディが険しい顔で云った。
「シオンとエステルだナイジェル。シオンの槍はいったいどこへ隠した? おまえのしわざだということはわかっているんだ、ユアンさまがお気づきになられたからな」
「ユアン?」
ナイジェルの目が見開かれた。彼はそのまま、なにかを猛烈に考えていた。テディが続けた。
「そうだ、痕跡を消したつもりだろうがあのかたの眼はごまかせん。もういいからこれ以上はよせ、シュバリスではとうとう人を殺しただろう。いくらあるじのためとはいえ超えてはならない一線を超えた。それにアルジュナさまの件もだ。ハダルさまの魔力は気の毒だが、おまえが気にやむ必要はないんだナイジェル。あれはおまえの責任じゃない。いいからもうこれ以上犯罪に手を染めるのはやめろ!」
「おまえになにがわかるテオドール!」
話がふたたびハダルに及んで赫怒するナイジェルに「危ないなあいつ」とアイドクレーズがつぶやいた。
「あれは主人のこととなると見境なくなるタイプですよ。困ったもんだ」
「……」
「まあいい。とにかくどんなやつかはこれでわかりました。あとはーー」
アイドクレーズも考え込んでいる。と、いつのまにかアルジュナがこちらへ回り込んでアレクセイと合流していた。ふたりとも四人の会話から除かれて不機嫌そうだ。
とーーアルジュナ襲撃の件についてテディが問いただしはじめ、ナイジェルはまた「知らないね」と冷ややかに応じていたが、やがて耐えかねたように「黙れ!」と低く唸った。
「もういい、口を閉じろこの無能。犯してもいない罪について責められるいわれはない、帰る!ーーそれにおまえの話は相変わらずさっぱり筋がとおらない。もう一度頭の中を整理しなおしてこいこの間抜け!」
「しかしナイジェルーー!」
弟に間抜け呼ばわりされてちょっと落ち込んだ様子で、しかし家族を救いたい一念で精神を立て直したテディが云った。
「シオン廟の襲撃についてはユアンさまが証拠をつかんでいる、可能なのはおまえだけだ、罪を認めて出頭しろ、そうしたらわたしとユアンさまでなんとかしてやる。口添えするーーユーレアイトはアルジュナの件でかなり気が立っているが、わたしたちが話をつけてやる、だから!」
「ーーはっ。おまえはほんとうに救えないなテオドール」
ナイジェルは苦々しげに吐き捨てた。
「なるほど。わけがわからないなりになんとか理解できた、これが兄弟の縁だとしたら忌々しいが、シオン、エステル、シュバリスの七柱廟襲撃、そして先日のアルジュナの暗殺未遂、あれが繋がってると思ってるんだな要するにおまえは。そうなんだな?」
「そうだ。あれはぜんぶーーナイジェル、」
「ぜんぶわたしの仕業だと?」
「そうだ」
「ふん……わたしも仲間から話は聞いている。だがその犯人がぜんぶわたしと目されているとはな。おまえたちはそう考えているわけか、なるほど、よくできた話だーーしかしテオドール、おまえはそこになにも疑問を抱かないのか? おまえこそ正気か?」
「ーー違うのか?」
弟の指摘に、はじめてテディが止まった。「おまえではないのかーーほんとうに?」
「皇位のためにわたしが、と?」
ずっと触れていた剣の柄からナイジェルは手を離した。虚無が彼の顔を覆っていった。
「ハダルのためにわたしが廟を襲いアルジュナを殺そうとした? 動機がある? たしかにそのとおりだ、あるじのためならわたしはなんだってする。犯人にはうってつけだ」
「嵌められたのか?」
はっとしたようにテディは目を見開いた。
「そうなんだな? では誰だーー誰が犯人だ?」
「テオドール」
「おまえに罪を着せるくらいだ、おまえのことをよく知ってる者だろう。誰だ? 誰ならやる? 」
「かわいそうなテオドール。どこまでも純情な」
ナイジェルは兄をいたましそうに見つめた。
「もう少し早く気づいてもいいんじゃないのか従者のくせに。いや、兄としてもだ。少なくともわたしはこんなにすぐに騎士団が気づくようにはことを運ばない。ではなぜおまえたちはそうまでわたしを犯人だと思い込んでいるのかーー考えてみれば簡単なことだ。答えは一つしかない」
「なんだ?」
「逆に訊くが兄上。あなたに最初にそう思わせたのは誰だ?」
「えっ? 最初ーー?」
面食らうテディにナイジェルはため息をついた。
「そうだ、最初だ。わたしならそうするだろうと、最初にあなたに告げたのは誰なんだ。誰がわたしの名をだした? あなたのその様子から察しはつくが」
「ーーんん?」
テディが黙る。同じくシュバリスもアイドクレーズも顔を見合わせた。暗闇で光る獣人特有の金色の目がひらめいた。
「シオン廟にわたしの痕跡があった、そうあなたに最初に云ったのは誰だ。騎士団はなんの証拠もつかめなかったと報告書にはあった。なのに誰があなたに、そのようなもっともらしい嘘を吹き込んだ?」
「それはーー、」
「あまつさえわたしがシュバリス廟にもエステル廟に侵入した? それはすべてハダルさまを呪いから解放するため? ではなぜーーあなたはもうお会いしたはずだなシュバリス? わたしのあるじに。ならばおわかりになるはずだ、なぜまだハダルさまはあのままなのだ? なぜ暴走するのだ? あなたの一部をわたしが手に入れてなお?」
「あーー」
シュバリスは息を呑んだ。そうだった。ナイジェルが犯人であり彼女の眼と足を所持しているというのなら、その莫大な魔力を秘めた魔具でハダルの呪いは軽減されているのではないか。なのにハダルは依然として苦しんでいる。ならばナイジェルは犯人ではない。
(もしくは呪いを解くことが目的ではないということになる。でもそれ以外になにがある?)
どこからどう見てもハダルへの忠義一徹のナイジェルは淡々と告げた。
「廟の襲撃はわたしじゃない。それにアルジュナも襲ってはいない。では誰か?ーーわたしに罪を着せて得をするのは誰だテオドール。たしかに2ひく1は1だ、セレスタイン家とユーレアイト家にとっては。しかし、あるものにとってはそうではない。3ひく2は1でしかない。いまわたしがなんらかの理由で騎士団に犯人として逮捕されれば、ハダルさまは死の運命から逃れられない。もしくはアレクセイやアルジュナと対決すれば、お互いにただではすまない。セレスタインとユーレアイトを巻き込んだ大規模な政争に発展するかもしれない。もしそうなったらーーわれらが潰し合い、ともに消えた先に待っている未来、その中心にいる人物は? ここまで云ってわからなければ救い難い無能だが、いくらおまえでもそこまでではあるまい。どうだ、頭に浮かんだか?」
セレスタイン家のハダル、ユーレアイト家のアルジュナ。そのふたりがともに斃れれば、確実に皇位を継ぐものがひとりだけいる。しかしそれは、魔法で会話を限定された四人にとっても想定外の人物だった。
「ーーユ」
テディはそれだけ云って黙った。しかしナイジェルはその一音のみで満足そうに笑みを浮かべた。
「正解だ」
「そんなはずないっーー!」
「そんなはずある。おまえはあの男に心酔しすぎているよテオドール。ひとのことをいえた義理じゃないがよく考えろ、ほんとうにいっさい心当たりはないのか? 学院理事長兼教官であるあの男ならいくらだって協力者を得られるし[[rb:不在証明 > アリバイ]]も作れる。もしくはあなたこそ、雑務にかこつけてわけのわからない命令を受けたりしなかったか? 妙な頼みごとをされたり不審な行動を見たりしなかったか。あなたこそ、あの男に近しいがゆえに知らぬまに廟の襲撃やアルジュナの暗殺に加担させられていた可能性がある」
「そんなはずはない! そんなことはない!」
「絶対に、といいきれるか?」
「ーー、」
テオドールはうめいたきり黙り込んだ。横顔には焦りと驚愕が浮かんでいたが、それを見たシュバリスもアイドクレーズも驚愕した。
「たしかにわたしはシオン廟で魔法陣にかかったーー犯人がしかけた撹乱用の罠に。だが」
「陣!」
すかさずナイジェルが云った。
「あの男は魔法陣のスペシャリストだ。気付かれないうちに陣を設置し、おまえを罠にかけ、騎士団の注意がそちらにむいた隙になにかした可能性もある」
「そんなはずはないーー、だってそのあとわたしを治療してくれたぞ! じぶんで罠にかけたというなら、そんなことするはずがない。あんなに心配してくれるはずが、」
「いつもべったりいっしょにいるわけでもなかろう。あの男がおまえをおいてひとりでどこかへ行くことだってあるはずだ」
「それはーーたしかに今年に入ってからはーーよくーー?」
テディはどんどんじぶんでじぶんを追い込んでいき、もはやナイジェルは肩をすくめるだけだった。さきほどの勢いはどこへやら、すっかり意気消沈するテディにアイドクレーズが「だめだこりゃ」と小さく舌打ちした。
「しかし見てくださいシュバリスさま。あいつ、指輪してませんよ」
「あーー」
たしかにナイジェルのむき出しになった手に指輪はなかった。しかしナイジェルのいうことにも一理ある。シュバリスはテオドールの背を励ますように軽く撫でながらナイジェルを観察した。兄に追い詰められるどころか逆に兄を追い詰めた容疑者は、シュバリスとアイドクレーズ、そして部屋の隅でじっと様子を伺う弟とそのあるじを見渡して大胆不敵な笑みを浮かべると、もはやこれ以上の滞在は無用と悟ったのか手のひらを床に向けて静かに呪文を唱えた。地面に魔法陣が浮かぶ。移動しようとしている。
(どうする?)
シュバリスはつかのま迷った。
かずかずの動機や証拠がナイジェルが犯人であると示している。しかし彼のいうとおりユアンが黒幕である可能性もあるーーとなるとナイジェルへの容疑は不当なものかもしれないーー
シュバリスは決意を固めた。
「虎の穴に飛び込まなきゃ虎の赤ちゃんは見られない」
「……んっ?」
「卵を割ってかきまぜなきゃふわふわのオムレツは作れない」
「んんん?ーーあっ」
まさか、という顔でじぶんを凝視する従者にシュバリスは軽く手をあげた。
「なにがあっても死にはしないのよわたしは。ばらばらにされても砕かれてもだいじょうぶ、それをやっと思い出したわ。だからもしそうなったら拾い集めて守っといて、そのうち再生するから。ちょっと行ってたしかめてみる。じゃ、あとはよろしく!」
「あっあっあっーーだめです、なにしてんですかこのーー」
ばかー! という従者の怒声を聞きながら、シュバリスはいまにも消えようとしているナイジェルに突進した。シュバリスにいきおいよく抱きつかれたナイジェルの顔が驚愕に歪む。彼女が魔法陣に飛び込んだせつなに魔法が発動し、シュバリスはナイジェルとともに消えた。
あとには残されたのは、なにが起こっていたのかさっぱりわからず目を丸くするばかりのアルジュナ・アレクセイ主従と、床にがくりと膝をつき、頭を抱えて苦悩のうめき声をあげ、どうやら泣いているらしいテオドール・“テディ”・アベンチュリンと、おいてきぼりにされて怒髪天を衝くアイドクレーズ。アイドクレーズはテディ以外に話の内容が聞こえていないのをいいことに、その場で地団駄を踏んでわめき散らした。
「短慮、浅薄、浅慮! あなたはそれでも七柱か! もし万が一死んだらただじゃおきません、てかこの件これから五百年はぜえーったい忘れませんからねええ! ずーっと根に持ってやる、けえええーっ!」
アイドクレーズはアルジュナの部屋を飛び出した。従者としてのカンが、なんとしてもシュバリスを追うべきだと告げていた。
[newpage]
[chapter:明滅する初戀]
アレクセイ・アベンチュリンはひたすら戸惑っていた。隣室の特待生シュバリスと従者アイドクレーズの大げんかに口を挟みにいってからというもの、じぶんの身に起こったこと、目の前で展開したできごとにずっと呆然としていた。
すぐそこではアイドクレーズが激怒し、アレクセイが長年にわたって「無能」と蔑んできた長兄が床に膝をついている。さながら修羅場だ。だが修羅場を引き起こした次兄の姿はすでになく、無謀にも魔法が発動しかけている陣中につっこむという離れ業をやってのけた少女とともに彼は消えてしまった。よくわからないがなにか秘密を抱えていそうだというアレクセイの疑惑はいまこそ確信にかわった蛇人の少女、シュバリス・イスラメイと。
そもそも最初から気に食わなかった、とアレクセイはシュバリスについてじっと考えを巡らせた。彼の隣では、やはり呆然と立ち尽くすアルジュナがいて、さしもの彼も事態を受け止めきれていないようだ。肩までの金髪を今日は瞳と同じ水色のリボンで結び、白皙の顔を[[rb:格天井 > ごうてんじょう]]から下がるランプの明かりにさらしているアレクセイのあるじーー
やがて、なにごとかわめき散らしながら地団駄を踏んでいたアイドクレーズが部屋を走りでていくと、話者限定の魔法がようやく解け、部屋に漂っていた緊張がゆるんだ。アレクセイはアルジュナと目をみかわしあい、最後に残った客へそっと声をかけた。
「あのさ……」
ためらいがちな末弟の声にテディはゆっくりと動いた。膝がもちあがり、大きな足が床を踏みしめる。いつもアレクセイに威圧感を与え、ひそかに悔しがらせてもいる見上げるほどの巨体の長兄の、覆っていた手が外れた顔は、敗残者の雰囲気を帯びて涙に濡れていた。いつも朗らかで優しげな茶色の瞳はただただ暗い。アレクセイはちょっと気の毒に思った。しかしテディは一切の慰めや励ましを拒否する硬い表情で主従を見渡すと、無言でよろよろと出て行った。ごん、と、ドアの上枠に頭をぶつける鈍い音を残して。
「ーー、」
まだまだ衝撃冷めやらぬアレクセイは、どうしたらいいかわからなかった。長年にわたって因縁の相手と位置付けていた次兄がとつぜん現れたことも、その口から語られたこともめあてがシュバリスだったことも、アイドクレーズとテディが乱入してから話がまったく訳のわからない会話にすりかわったことも。なにがなんだかさっぱり理解できない。いや理解できる部分もあるにはあるが、それらすべてが複雑に混ざり合って、どこから解いていいかわからなかった。
「ーーおい」
そして最初に口を開いたのはアルジュナだったが、彼が言及したのはアレクセイの予想外のことだった。
「ずいぶん遅かったがなにをしてたんだいったい。喧嘩を止めに行っただけにしては長いこと戻ってこなかったじゃないか」
「ああ……」
賢明なアルジュナは、理解できる部分から解明しようとしているのだった。彼の主人にはつねに理性的でいようとする癖があり、それが近頃では常態化している。
「うんーーそうなんだけどな、あのなーー」
正直に「シュバリスに引っ張り込まれてお茶をごちそうになりナイジェルについて話した」と云おうとして、アレクセイは踏みとどまった。シュバリスにじかに触れられたとか手ずからお茶をいれてもらったなんて、まちがいなくあるじの逆鱗に触れる。慌ててとりつくろった。
「注意じたいはすぐ済んだんだけどな。こっちに戻ろうとしたとき廊下で他の奴に呼び止められて、イスラメイもノヴェレッテンのところに行こうとしてかちあって、そこにおまえの声が聞こえたからいっしょに来る羽目になって。ほら、このあいだのことがあったからさ。蛇人のくせに殊勝なやつだよなイスラメイも」
「ふうん」
アルジュナの目が疑わしげに細まる。ぞくっとしながらアレクセイはごまかし笑いを浮かべた。
「お人よしなのは間違いないな、あの女。蛇人のくせになあ」
「そうだな。蛇人のくせにな」
ようやくアルジュナは同意するように笑みを浮かべ、開きっぱなしのドアを閉めにいった。元どおりにダイニングテーブルについたときにはすでに無表情に戻っていた。やりかけの宿題に目をおとしてため息をつきながら、「お茶」とそっけなくいう。「はい」とアレクセイは答えたが、内心ではおかしくてたまらなかった。
アルジュナが、出会ったときからシュバリス・イスラメイに夢中だというのはアレクセイはすぐに気づいた。入学式の日、大講堂で特待生席に案内されて先に座っていた彼女を見た瞬間にアルジュナの視線はシュバリスに固定され、シュバリスが彼に気づき「おはよう。あなたも特待生なのかしら?」と小首をかしげ「よろしくおねがいしますね」と鈴の鳴るような声で云ったときからーーいや、そもそも後ろ姿や横顔を目にしたときから、アルジュナは彼の中にある「特別なひと」のファイル、母や祖父や亡き父、アレクセイにハダルにユアンらといった同じ使命を背負うものの属するファイルに、シュバリス・イスラメイを分類したのだ。そして彼女だけは、ほかのどこにも分類できない特別な印をつけてもっておくことにしたのだと、アレクセイは長年アルジュナに付き添ってきた経験からはっきりと気づいていた。
アルジュナ・ハイドランジア・ユーレアイトは昔から優秀な子どもだった。母親と祖父から多大な期待を寄せられて育ったユーレアイト家の長子であり、ふたりから厳しくユーレアイト流の教育を受けた彼は、幼い頃から美しいもの、正しいもの、健やかなものに囲まれて育ち、自身もそうあるよう徹底的に教育をうけてきた。いうなれば彼はユーレアイト家の生み出した崇高な作品で、そうした教育がもたらす当然の帰結として、物心ついたときから彼自身にそなわった美徳を他者にも要求するようになったため、まだたった十三歳であるにもかかわらず、じぶんにも厳しいが他者にも厳しい、清廉をとおりこして潔癖といえるほど禁欲的な人間となった。つまりそれがアルジュナ・ユーレアイトという少年だった。
だからアレクセイが鑑みるに、アルジュナがシュバリスに抱いた恋心には「初めて目にしたじぶんと比肩しうるもの」という感情も少なからずあったはずだった。おのれと匹敵するほど高い魔力をもちながら、匹敵するほど美しいもの。アルジュナは容姿にも恵まれており、その点においても他者に失望を繰り返してきた。そして恐ろしいほど理想の高いアルジュナは、生まれて初めてその少女をじぶんより美しいと思い、敗北を認めたのだ。
たしかにシュバリス・イスラメイは美しかった。日を受けて虹色の輝きをたたえるまっすぐな[[rb:白金 > プラチナム]]の髪、澄みきった白い肌、ぱっちりと神秘的にきらめく柘榴の目にすんなりした鼻梁、その下で完璧な弧を描く花の蕾のような桃色の唇ーーまだ子どもらしく細長い印象だけれども、柔らかなまろみを帯びた手足にきゅっとくびれた細い腰は、どうしようもなく清らかでありながら、きたるべき成長を迎えれば爆発的に花開くにちがいないと思わせる官能の気配を全身にたたえていた。どこからどう見ても彼女は香りたつような美少女だった。その完璧な造形は、十歳という中途半端な年齢にして将来の美貌を約束されていること確実だったし、また、学校生活が始まってみると、その控えめさやおとなしさや思慮深さ、魔力の高さは、貴族で名家の令嬢であるカレン・ジプサムですらその辺の目立たぬ子どもに貶めてしまうほどだった。ようするにシュバリス・イスラメイは、それまでにアルジュナが目にしてきた少女のいずれともかけ離れていたのだ、見た目も中身も。
だから、学校生活が一日、二日と進むにつれ、アルジュナがだんだんと内心で弱りきり、苦りきっていることにもアレクセイは気づいていた。アルジュナは、ともに従者を連れていたことから、シュバリスが「じぶんがこれまで会ったことのないやんごとなき貴族の令嬢」だと、入学式の日にすっかり信じ込んでしまったのだ。だから当然、翌日からじぶんと同じグループに入るだろう、そこですこしずつ接近して仲良くなればいいと思っていた。しかし彼女はどういうことか、従者がいるにもかかわらず両親も後ろ盾もない、貴族の家柄でもない身の上で、経済的に苦労した家庭の出身であるアリアナ・ノヴェレッテンとつるみ、すっかり親友どうしだった。話によると、入試の日に初めて会って意気投合したという。ならばまだ付き合いは浅いはずだが、小鳥のようにたわむれ、子猫のようにじゃれあう姉妹めいたふたりのあいだに割って入る隙はなかった。ほかにも、シュバリスが彼を顧みることなく次々と同級生の少年少女と打ち解けてゆくにつれ、アルジュナは内心「なんでだ」と密かな怒りと嫉妬を爆発させていた。
冷静と理性の仮面の下に隠して、授業中も休み時間も、寮で朝すれちがうときも、アルジュナはじっとシュバリスを見つめていた。シュバリスたちはふだん寮の自室で自炊をしているが、たまに食堂で夕食をとるときなど、隣室ゆえの利点で、同じ時間か少しあとにアルジュナも食堂へ向かっていた。近づきたいのにプライドが邪魔をして近づけない、そんな忸怩と焦燥を抱えるアルジュナに思いを寄せるカレンはだから、そんなアルジュナの苦悩や奥底に秘めた願望を感じ取ってよけいにシュバリスやアリアナに噛み付くのかもしれなかった。
しかし、同じくカレンと長年のつきあいであり多少は友情も覚えているアレクセイですら、気の毒だがシュバリスを知ったいまでは、カレンにもはや勝ち目はないと思った。カレンは十歳のころからアルジュナに恋しており、あわよくば御双家の後継ぎの妻にという願望をもっているようだが、アルジュナは彼女をそういう目で見たことはないしこれからもない。とくにシュバリスが現れてしまった今では絶対にない。誰が見てもカレンよりシュバリスのほうが数倍アルジュナにふさわしかったーー貴族でないとしたってシュバリスのもつ天性の上品さや淑女としてのふるまいはカレンの上を行き、そんなシュバリスを見ていると、これまでカレンを「まあまあ美人でいいやつだな」と思ってきたアレクセイでさえ前言撤回したくなる。とはいえ、カレンとてさすがエイシャ辺境伯の娘だけあって立ち居振る舞いはちゃんとしているし、母譲りの美しい金髪に大きな目、ふっくらした頰の、なかなか美形に入る類のかわいらしい少女である。街に出て写真を掲げて聞いて回れば、彼女が美人ではないとは誰も言わないはずだ。ただ、彼女の目元や口元に底意地の悪さを思わせるなにかがあって、それが全身から荒々しさとなってにじみでていた。じっさい、見ようとしてみれば、カレンの振る舞いや言動にはいつもなにかしら相手への媚びや強者に対するおもねりが含まれていた。アルジュナに対するのとアレクセイに対する態度にははっきりと差別が見られたし、それが最近になってアレクセイには、かなり鼻につくというか鼻持ちならないというか、この女は油断できない、という印象を与えるにいたっていた。貴族階級の子女として時折顔をあわせる程度ならともかく、学校生活を共にするようになると、カレンの表裏のある性格やしたたかさがひどく目についたーーその傲慢さや自らを省みないところ、実家の権力や名声に拠ってしか美点を見出せないところ。どこまでも矮小なのだ。ここもシュバリスとは正反対だったーー性格も見た目もたおやかで、その優しさや儚さ、全身に纏わせた小春日和のような穏やかさ、幼いながら自立し自活しているところに保護欲をかきたてられ、おもてうらのなさに感心させられるシュバリスとまるでちがう。
そしてそんな思いを抱いたのは、傍観者であるアレクセイに増してクラスメイトのほうが強かったらしい。シュバリスを目にし、じっさいにことばをかわしたことのある同級生や上級生、ときには一部の教官さえも、すでに彼女の愛らしさに夢中になっていた。彼らは密かにシュバリスを「天使」と呼んでおり、天使の動向は絶えず注目のまとだった。アリアナをおしのけて親友の座をかちとろうと画策している少年や少女はたくさん見かけたし、彼女の一片の微笑みや「ありがとう」という感謝のことばのために、滑稽なほどおどけたり親切にしてやったりするクラスメイトの様子は、アレクセイにとっては娯楽であり嘲笑の対象だった。あの子は「みんなの妹」だからと、十歳のシュバリスにそれと知られないよう協定を組み、クラスメイトの一線を越えて抜け駆けしないよう互いに目を光らせ合う同級生男子もおかしかったーー最初から仲のよかったアリアナは仕方ないにしても、入学以来、ことほどさようにレイミア・シュバリス・イスラメイは、ひとびとの関心と愛着と、ひそやかな崇拝のまとだった。
そして、このクラスメイトたちの狂騒が、ますますアルジュナを頑なにしていったのだ。大騒ぎする少年少女を横目に、じぶんはけしてあの連中のごとく堕するものか、と意地をはり、カレンの連日の暴言暴挙も見逃して、じぶんからはけしてシュバリスに近づこうとはしなかった。もっとも、己のほうから異性に近づくような度胸も手練手管もアルジュナは持ち合わせていない。アルジュナはこれまでずっと話しかけられ、関心をもたれる側だった。彼自身が関心をもったり話しかけたりする必要のある相手はいなかったから、そうなったときどうすればいいかをアルジュナは知らない。まして相手が十歳の、年下の女の子となるとーーそれに、相手がまったくじぶんを意識していないことがそもそも彼には耐え難いのだ。ただのクラスメートか同じ特待生の男の子としか見られていないことなど、アルジュナ・ユーレアイトのプライドが許さない。
というわけで、入学以来、ことシュバリスに関してだけはアルジュナはがんじがらめだった。アレクセイはそれをはたで見ていて、はらはらし、どきどきし、わくわくし、よほど背中を押してやるかじぶんがお膳立てしてやろうかと考えたがけっきょくやめた。アレクセイのなかにもほんの少し、じぶんの立場に対する葛藤いがあったからだ。兄ふたりのように、行動原理や思考のすべてが主人になってしまうなんていまどき流行らないし莫迦げている。とはいえ、テオドールはともかくナイジェルの心理や思考はアレクセイにはまだ理解できた。ハダルは次期皇帝なので七年前のようなことがまた起こるかもしれない。しかしテオドール、彼の主人はただの学院長であり理事長であり教官だ。学院はいたって平和で常に魔法で守られている。危険などあるわけがない。ユアン本人も穏やかだし危険な場所にはつっこんでいかない。従者より魔法使いとして優秀だ。
だからまあ、アレクセイはそのときまでずっと気楽にしていた。従者として学友として、めったに見られないアルジュナの、本人は隠しているつもりの苦悩や押し殺そうとすればするほど膨れ上がっていく恋心に、表面上は難しい顔をしつつ内心では腹を抱えて笑っていればよかった、のだがーーそうもいってられなくなったのは先日の事件からだった。
[newpage]
[chapter:二人迷宮の夜]
思い出すたびにアレクセイの脳裏を真っ赤な怒りが染め上げてゆく。胸にどす黒い恨みがきざす。
とつぜん窓から現れ、アルジュナを刺し、あっというまに暗闇に身を翻していったあの男。そして流れたアルジュナの血。
じぶんのなかにこれほどの忠誠心やアルジュナへの愛着が潜んでいたなど思いもよらなかった。あるいはテディならば「血」とひとこと断言したかもしれない。しかしそれもアレクセイの中では微妙に異なっていた。ユーレアイトの後継として、つねに「いい子」だったアルジュナのなかには、母や祖父への反抗心がわずかながらにあり、やはりそれはアレクセイのなかにあった「従者として生きるべし」というアベンチュリンの家訓への反抗とも合致していたのだ。それを理解し合っていたからこそ、ことばにしないながらもふたりは「兄たちのようにはなるまい」と互いに示し合わせ、がちがちに敬語を使ったり使われたりもしない、あくまで横並びの主従という関係をひそかに結んでいたのだ。ぼくたちは友だちでいようね、と。
だがーー
はっきりと主従だという線引きをしていれば、アレクセイはあのとき友人を失う恐れからなにもできないという失態を犯さずにすんだかもしれなかった。親友だったからこそ喪失の恐怖につかれた。悔しいがナイジェルのいうとおりだ。いっぽうでシュバリスには感謝していた。すさまじいまでの白い光や火花を発してあるじを治癒してくれるさまをみたとき、アレクセイもはじめて、この女はほんとうに天使かもしれないと思った。そして「はやく抜きなさい」とじぶんにナイフを抜くよう命じた存外に強い意志を秘めた瞳に、この女は見かけどおりの天使ではなく戦士であるのかもしれないとーーふしぎとそこに、幾多の困難を切り抜けてきた熟練の女性の姿をも見た気がして深い尊敬と畏敬の念にうたれた。同時に希望も抱いた。このことでようやくアルジュナはシュバリスと打ち解けるかもしれない。少しずつことばを交わし、友だちになり、いずれはその先へと関係を発展させられるかもしれないとーーシュバリスなら間違いなくアルジュナにふさわしいとアレクセイも考えていた。後ろ盾がないとか貴族ではないということは、実際に彼女を見ていれば問題にならない。魔力の高さも容姿も性格も、頑迷なアルジュナの母や祖父でさえじかに接すれば、魅力の虜になるだろう。それに、御双家ももうそろそろ外部の血を入れるべきなのだとずっと以前から云われていた。ならばアルジュナの代で入れるべきだ。
しかしシュバリスは[[rb:蛇人 > アンギス]]だった。この世でもっとも忌まれ、疎まれ、蔑まれ、滅ぼされるべきとされている群れの一匹。ほかの獣人種ならまだよかった。アレクセイにとってもこれは衝撃の事実であり、いよいよ謎が深まったーーシュバリスは最初からどこかおかしかった。どんなに天使だと騒がれていてもアレクセイが心底から同意できなかったのは、彼女はなにかを隠しているという奇妙な確信がアレクセイにはあったからだ。アルジュナは彼女に夢中だが、その様子をはたで見ていたアレクセイには、従者としてのカンが妙に騒ぐのを感じていた。彼女は家族の話をしないし、水をむけられてもそれとなく逸らす。おとなしい性格、孤児だからというより別の原因がある気がしたーー身元に関してなにか別に秘密があると。
彼女が蛇人であるということはさらなる謎も呼んだ。
くわえてアレクセイの目に異様に映ったのはそのときに見たシュバリスの従者アイドクレーズの様子だった。いつも妙にアルジュナとアレクセイに敵意のこもった視線を向けてくる少年。「わたしの目はごまかせませんよ」というように、じっさいアルジュナの秘めた思いにも気づいているのだろう、顔を付き合わせればアルジュナと、とくにその隣のアレクセイを「主人をなんとかしろ」と云わんばかりにひそかに睨みつけてくる少年。年の割におとなびてシュバリスより世慣れてみえるのは、従者として厳格に育てられたゆえだろうと思っていたが、シュバリスに年上の淑女の落ち着きがひそめられているのと同様、アイドクレーズにも狷介で成熟した男の気配を感じた。年上のアルジュナを「小僧」呼ばわりした迫力も、その後一切の追求を拒否した態度も。考えるにつけ尋常な育ち方をしたとは思えない。
見るからにふつうでないシュバリスとふつうでないアイドクレーズの取り合わせ。これにもアレクセイは単に偶然や奇跡で片付けることもできず首をひねるばかりだったが、蛇人が従者を連れているなんてパターンも、いままで見たことがなかった。従者を従えるということは、すなわちイスラメイ家は蛇人のなかでも高位の家だということだが、しかし蛇人はエウレシアじゅうに散り、たとえ地域で尊敬を集めているとしても正体を明かすことはない。従者をもつという、一般社会では高位階級であることをわざわざ公開するような真似はしない。学院に堂々と入学してくることなどまして考えられない。しかしそれが入学してくる、いや、すでにきたーーよりによってセレスタイン魔法学院という名家の子弟ばかりが集まる場所に。彼女が孤児だというならますますおかしかった。
だが今夜、アレクセイはようやく真実を垣間見た。
「親が死んだと云ってたよな。しかもあの口ぶりだと、おそらくナイジェルにやられた」
「ーーそのようだな」
「ほんとうだろうかーーどう思う?」
「さあな」
気になっていたのだろう。カップを置いてアレクセイが向かいがわの席につくと、アルジュナも話にのってきた。アレクセイはひとりごちた。
「途中から蚊帳の外だったが、それまでの話の流れだとそうなる。となると、さっきシュバリスからナイジェルについてやたら聞かれたのも理解できるんだけどな」
「ということは、廊下で行き合ったんじゃないんだな?」
水色の瞳がアレクセイをにらみ、アレクセイはさらりと答えた。
「ごめんあれ嘘。まあーーとするとあれかな。騎士団の仕事で蛇人とぶつかって、その時にでた犠牲者の家族かなにかだったわけかねシュバリスたちは。それが仇をとりにきた? 逆恨み? しかし無能野郎の様子だと、どうもナイジェルのほうが一方的に悪いようなーーあいつならやりかねないけどな。一方的に蛇人を狩ったとか」
「ーーああ」
アルジュナがふと声をもらし、アレクセイの頭にも、おそらくあるじと同じだろうと思われるあるできごとが浮かんだ。ふたりが生まれた頃に起こったという大事件の記憶だ。正体を隠して会社を経営し、広く慕われていた蛇人の一家が、別の蛇人に妬まれた挙句に惨殺された。なかなか有名な事件だからふたりも知っていたーーだがナイジェルは騎士団だ。彼がシュバリスの親を殺すというなら、騎士団の仕事がらみでと考えるべきだった。
「任務でやってしまったのかもしれないな」
アルジュナがぽつりと云った。
「ナイジェルはたしか[[rb:狩人 > サヤド]]だろう。防衛部。部の仕事で、誤情報をもとによこしまな蛇人だと思い込んでうっかり殺してしまったか、あるいはほんとうにイスラメイの親のほうが犯罪に手を染めていた可能性もある。シュバリスらが親の仇討ちで学院へ来ていたというなら、ただの逆恨みの可能性も捨てきれない。というか、そちらのほうが可能性が高いと思える。ぼくにはナイジェルがそんなうっかりものだとは考えられない」
「いや、だとするとあの無能がふたりに肩入れしているのがおかしくないか? あの様子だと、シュバリスたちはなにも悪くないし奴らの親も無実だってテオドールは考えてるんだ。だからあの外道を止めに来たーーそれにテオドールが知ってるってことはもちろんユアンも知ってるんだろう。とするとやっぱりナイジェルのほうが悪い、その公算がでかい。テオドールはともかくユアンは信頼できる。だいたい、ナイジェルの目当てがおまえではなくシュバリスだったってことはさっきの様子からも明らかだ、ナイジェルはシュバリスを殺す気だった、と思う」
「そうだなーー」
蛇人であるにせよ、命の恩人であり初恋のひとが殺されるとなると穏やかではいられないのだろう。アルジュナの顔が険しくなった。
「たしかにあいつは蛇人だ。ひょっとしてあの女もそうとうあくどいことをやっていて、それでナイジェルが斃そうとしているとも考えられるが、あの見るからにぼーっとして弱そうな女が、ナイジェルが殺しにくるほど凶悪な犯罪に手を染めているとは考えにくい。どちらかというとーー」
「ナイジェルのほうが口封じにきたみたいだったよな? だとするとテオドールがああまで激昂するのもわかるんだ、それに覚えてるか、あのときシュバリスは足に怪我してた。おまえを治療してくれたときだ。あの傷はかなり大きなものだ。もしあれがーー」
「ナイジェルがらみでついたのだとしたら、だな。黒魔法で傷つけられたのではないかーー」
「そうだ。だとすると、親の事情含めシュバリスにはナイジェルを恨む正当な理由があることになる」
「だがその理由ははっきりしない。そんな大きな事件なら新聞に載っていてもおかしくないが、騎士団がらみでそんな事件が起こったという記事を見た覚えがない」
「そうだな。だからそうーーたとえばーー」
しかし、アレクセイの頭にはそれ以上なにも浮かばなかった。彼は唸った。
「ーーだめだ、ますますわけがわからない。ただ、この件にはなにか裏がある」
「ああ、もっと大きな事件なのかもしれないよな。公表されてないか、できないーーだからぼくたちがしらない」
「そうだ。それに」
アレクセイはそっとあるじの白い面を見つめた。いまになってアルジュナはひどく真剣に考え込んでいた。
「ーーおまえが襲われた件とは関係があるのかどうかーーってことにもなる。おまえを襲ったのはナイジェルかもしれない。おれはおまえを連れて逃げるのに必死だったがおまえは正面から犯人と対峙した。なあ、率直に云ってくれ、おまえはあのときの犯人がナイジェルだったと思うか? おれはあいつの雇った仲間かなにかだと踏んでるが。動機は継承権だと」
「うんーー」
アルジュナはじっと考え込んでいた。白い右手がそっと胸にあてられる。あの夜刺され、いまはひきつれたような傷跡だけが残っている場所ーーシュバリスが癒してくれた場所。
「わからない」
アルジュナがつぶやき、その瞬間アレクセイはため息をついた。
「しかしひとつ疑問がある」
「なんだ?」
「シュバリス・イスラメイが目当てなら、なぜナイジェルは今夜ぼくたちの部屋に来たんだろう。ここへ来るのは話がややこしくなるだけじゃないか?」
「ああ、まったくだなそれ! ほんと!」
たしかに、今夜シュバリスに用があるなら直接隣の部屋に現れるべきだった。それがなぜアルジュナとアレクセイの部屋だったのか。寮全体にかけられている魔法を破り、いきなり目の前に出現するなど、いたずらにアレクセイの敵意を煽り疑念を深めるだけだ。
「ーーん? あれ……、
ふとアルジュナがドアのほうを指差した。小さなメモが落ちていた。ナイジェルが持っていたものだ。アレクセイは立ち上がり、紙片を拾って戻った。
「そういえばあの外道、このメモを出すとき、イスラメイがハダルに接触したようなことを云ってたなあ」
メモを渡しながらアレクセイが首をかしげると、
「云ってたな、たしかに」
「どういうことだろうな? まさかほんとうにあの女、売女だったりして。ハダルを誘惑したようなこと云ってなかったか。それでナイジェルがぶちきれて殺しにきたとか?」
「ばかな」
アルジュナは動揺していた。そもそもじぶんが売女って云ったんだからそんなにショックを受けるなよ、とアレクセイは内心ちょっと面白くなった。しかしアルジュナはすぐに体勢をたてなおした。
「ーー今となっては口にするもおぞましい。ぼくとしたことがあんなことを口走るとは不徳のいたすところだ。今後はもっと上品な侮辱のことばを考えておくとしよう。だが、ナイジェルがなぜこの部屋に現れたかはわかった。見ろ」
「上品な侮辱のことば」なんて二律背反なものがあるもんかね、ということばを口腔内に押しとどめたアレクセイに、先に目にしたアルジュナがメモを示した。寮の部屋番号が書かれていたが、最後の部分が水に濡れて滲んでいた。階数はわかるが部屋番号が判別不能だった。
「そもそもイスラメイの部屋のほうに現れるつもりだったんだナイジェルは。それが末尾を読み間違ってうっかりこちらへ来てしまった。どうりで、しばらくぼくの顔をみてふしぎそうにしてたわけだ」
「えっ。なにそれ、あの外道でもうっかりミスとかするの。ちょう見たかった!」
「ああ、ああ。見せてやりたかったよぼくも」
なんで肝心なときにいないんだおまえは、という主人の思考を感じ取ったアレクセイはごまかし笑いで手を振った。メモをぴらぴら振って、
「にしても、やっぱり妙な事態だってことには変わりないよな。ナイジェルの狙いがイスラメイであり、イスラメイたちの狙いがナイジェルだとしたらほんとうの理由はなんなのか、テオドールが云ってたことはほんとうなのかーーアルが襲われた件はひとまず置いておいて、あのあとナイジェルはあいつらになんて云ったんだろう。テオドールが泣くほどなんてよほどのことだ。ユアンに関してかな?」
「兄じゃないというわりにおまえはあいつらをよく知ってるよな。ほんとうは好きなんじゃないか?」
「いや、いつか吠え面かかせてやるときのために情報収集を怠ってないってだけ。そうーーそういえば、シュバリスはいったいどこに行ったんだろうな。ナイジェルと消えたがふたりきりでだいじょうぶかね。殺されないかね? 明日の朝、ばらばらになって運河に浮かんでたりしてな」
「ーー、」
嫌味に対する意趣返しのつもりでアレクセイは云ったが、その瞬間じぶんが地雷に足をかけたことを知った。アルジュナの眉間にくっきりと五本のしわ。最大級に機嫌を損なったときのバロメータ。しかしアルジュナは何気ないふうを装ってカップに口をつけた
「ぼくたちの目の前で消えたんだ。殺しはしないはずだーー」
それで平静を装って優雅にお茶など所望したわけかい、とはアレクセイは云わなかったが、たしかに今夜シュバリスが殺されることはないだろう。無事に帰ってくるはずだ。しかしアレクセイは云ってみた。
「命を救われたお礼に、あいつらに協力してみるってのはどうだ?」
「協力。ーーそれはぼくにいってるのかアレク」
「そうだけど」
「なら訊くが、ぼくはどっちを助けりゃいいんだ。相手は騎士団だぞ」
てことは、はなからシュバリスに肩入れしようとしてるんじゃないか、とアレクセイは思ったが、これ以上機嫌を損ねたくないので曖昧に笑った。アルジュナはそのあいだにみずからの発言の矛盾を悟ったらしく、苦々しげに吐き捨てた。
「ぼくは危ない橋をみずから渡る趣味はない、五体満足で学院を卒業さえできればいい。ぼくが襲われた件なら騎士団が勝手に調査するだろう、あちらの事情とは関係ない、任せておけばいい、放っとけ!」
「はあーー」
また頑なになってしまった。ほんとうは気になるくせに、とアレクセイはそっぽをむいてしまった主人の横顔を見つめ、彼の手が依然として胸に触れ、シュバリスの魔法の名残を探し求めているのを見てつくづくため息をついた。蛇人はたしかに邪悪でよこしまだ、しかしなにごとにも例外はある。その例外が唯一当てはまるとしたらシュバリス以外にはありえないだろうーーそう思ったがやはりアレクセイは黙った。
「なんだ、うるさいなさっきから。なんだ!」
かすかな怒声が庭から響いていた。アイドクレーズが外に飛び出して、ぶつぶつなにかを呻きながら地面に何かを描いていた。魔法陣のようだ。シュバリスを追いかける気だろう。あの一瞬でナイジェルが描いたものを記憶し、同じものを描けば同じ場所へ飛べるはずと考えたらしいのはおそるべき学習能力だし正解だーーだが、アルジュナが窓をひきあけ「もういいからおとなしくしておけ!」と叫び、アイドクレーズの集中を乱しにかかった。
「従者まであるじと同じく莫迦をやらかす気か、恥を知れ! とっとと寝ろ!」
おまえになにかあったらシュバリスが泣くだろうが、という副音声が聞こえるのは気のせいだろうか、とアレクセイはしみじみあるじを見つめてため息をついた。アイドクレーズが怒鳴り返す声が聞こえたが、泥試合になりそうだ。どのみち、シュバリスが無事に帰ってくるまで今夜アルジュナも一睡もしないだろう。
アレクセイは席をたち、お茶のおかわりと簡単な夕食を用意するべくキッチンにむかった。と同時に、今夜はじぶんも徹夜する覚悟を固めた。
[newpage]
[chapter:ほの暗い部屋]
気づいたときシュバリスは真っ暗な場所に放り出されていた。
魔方陣で転送されるときの体がゆがみねじれる感覚にはまだ馴れない。かるく身震いしつつ、ひとまず無事に移動できたと思っていいのかしら、とあたりをぼんやり見渡したせつな「なんてことを」と厳しい声が頭上から降り注いだ。はっと見上げた彼女をナイジェルが激しく叱責した。
「なんということをするのだ! 発動した陣に中途から飛び込むなど、手足が別の場所へ飛んでいっても文句は云えないぞ! しかも子どもの身体で! あまりに危険だ!」
「ごーーごめんなさい」
「まあいいーー」
ナイジェルは厳しい顔であたりを見渡す。シュバリスも倣い、そこがずいぶんだだっ広くがらんとしたスペースであることを知った。門番小屋ではないようだ。いったいここはどこなのか?
「くそっ」
舌打ちと共に「計画が狂った」という毒々しい悪態がふりかかる。ここで消されるかもしれない、とシュバリスはとっさに身構えたが、ナイジェルはシュバリスを省みることなく、大股に壁ぎわへ歩んでいった。ナイジェルが小さな魔法の明かりで周囲を照らすと、壁一面に、どこか偏執狂的なものを感じさせる様子で何枚もの紙がべたべたと張られていた。赤や黒の筆跡で激しく丸やバツや文字が書き込まれている。ナイジェルはしばらくそれに見入ったあと、ふたたび「くそ!」と怒鳴り、手前にあった簡素な折りたたみの事務机を蹴り倒した。
「なーーナイジェル・アベンチュリンーーさん?」
「ようやくーーわかったぞーー」
激しい恨みと屈辱をたたえた、禍々しい顔でナイジェルはぶつぶつ云った。
「やられたーーユアン! ユアンーー! やはりあいつだ! あいつだったんだーー!」
「あのーーあの、ナイジェルーーナイジェル!」
ナイジェルは一瞬そこにシュバリスがいることさえ忘れていたようだったが、彼女を見てはっと表情をあらためた。
「なんだーー恨みを晴らしにきたのでないならあなたはいったいなにをしに来たのだ。わたしになんの用だ!」
「足をーー眼を。あなたよね? あの、返してほしいのーーお願い、返してください」
「足? ああーー」
ふとナイジェルは表情を歪め、「もう隠してもしょうがないのか」とつぶやくと、妙にだだっぴろい部屋の隅っこに置かれた重々しげなロッカーの扉をひきあけた。「おお、あった」ーー彼はそのままおそるべき力でロッカーを持ち上げると、シュバリスのもとへ運んできた。
「探しているのはこれか? 蛇神シュバリス」
「あーーああっ!」
がしゃん、と盛大な音を立てて床におろされた細長い箱には、まさしくシュバリスの足が収められていた。先端にむかうにつれ細くなっていく[[rb:大白蛇 > ナーガ]]の尾の部分。それが[[rb:魔晶 > クリスタル]]に封じ込まれて闇の中で白く輝いている。ナイジェルが冷たく云った。
「魔晶じたいが魔法で作られたもののようだがあなたなら割れるだろう。もっていけ」
「あーーありがとう」
というのもおかしな話だが、シュバリスは急いでおのれの足をロッカーから引っ張り出した。これでかなりの力が戻る。
(でもこれーーこれを持ってるってことは?)
(やっぱりナイジェルが犯人なんだわ。ユアンじゃない。このひとは教官に罪をなすりつけようとしている)
(あらやだどうしましょう。うっかりついてきちゃったけど、ここで殺されるかもーー?)
どぎまぎするシュバリスに、
「違う」
ナイジェルは両手肩の上にあげ、敵意がないことを示すと、かるく距離をとって後退するシュバリスに真剣な面持ちで云った。
「信じてくれ。わたしじゃない。わたしは犯人じゃない。あなたを襲ったりしてない」
「でもーーでもこの足はーー?」
「わたしも今気づいたんだ。わたしじゃない、ここにこんなものを隠してない。わたしはなにもやってない」
「でもあなたはーー」
「時間がない」
ナイジェルの顔には焦りが浮かんでいた。初めてこのひとの焦ってる顔を見る、とシュバリスははっとし、いつでも逃げ出せるよう出口を密かに探りながら、ナイジェルから目を離さないよう気を配っていた。ナイジェルは淡々と告げた。
「わたしはハダルを救いたいだけだ。それだけだ」
「それはーーわかりますが、」
「ハダルの命がわたしの最優先事項だ。そのためならなんでもする。いまだってそのために動いている。あなたの眼と足だって利用できるものならしたかった。だがわたしにはそんな発想はなかった」
「じゃあーーひょっとしてーー」
誰かをさしむけてわたしの眼と足を奪ったの? とシュバリスが呟くと、即座に「ちがう」とナイジェルは否定した。
「わたしはだれも雇ってないしだれも傷つけてない。違う、わたしはただ犯人を追ってるだけだーーハダルから魔力を奪った犯人だ。けっきょくはそれが解決の道なのだとーーそしていまようやくわかった、この事件のほんとうの犯人はユアンだ。ユアン・カルセドニー。廟を襲ったのも強奪犯もあいつだ」
「学院長?」
「そうだ。あいつには気をつけろ。とくにあいつのマジックに」
「マジック?」
「彼はもともと青だ。ひとの思考に干渉しひとの考えを意のままに変える、それが奴のマジックだ」
「えーー?」
「黒幕があいつなら、おそらく、あなたを襲って眼と足を奪ったのはわたしの兄だ」
「えっ。あ、兄ってテディ?」
いつもにこにこと優しい、ユアンを守ることだけを考えている男。シュバリスは「そんなはずないわ」と反論の声をあげたが、ナイジェルは確信しているようだった。
「兄を実行犯にしたんだ。ユアンなら彼を操ることができる。記憶さえ操作できるのかもしれない。[[rb:固有魔法 > マジック]]の詳細はふつう本人以外には秘密にされ、学院ですら色相のぼんやりとした位置しか把握しない。マジックは魔法使いにとっていざというときの切り札であり、秘匿は魔法使いに認められている正当な権利だからだ。だがユアンはおそらくそうだ。ひとの考えをたやすく操ることができる。それで兄を操り、あなたを襲わせた。本人にもおそらくその自覚はない。だからテオドールはああしてあなたや従者に接して平気な顔をしていられる。なにも覚えていないからだ」
「そんなーー、」
「他の七柱廟に侵入したのも兄だろう。ユアンに操られて犯行を重ねたんだ」
だとしたらとんでもないことだ。シュバリスもアイドクレーズもすっかりユアンを信頼し、ほとんどすべてを打ち明けてしまった。
「でもーーでも」
シュバリスは息を吸い込んだ。
「あなたが犯人じゃないという証拠にはならないわ。だってこの場所はなに? あなたがこんなところへ飛んできたことじたいがおかしな話じゃないの」
浮かんだあかりに照らされて、壁をモザイクのように彩っているたくさんの張り紙。見たところ、それらはすべて七柱廟の見取り図や騎士団内部の秘匿情報だ。ここは彼の隠れ家なのだ。そして、普通では手に入らないあれら機密情報がここにあるということはーーシュバリスがじっと考え込んでいると、
「ーー[[rb:女神様 > ディーズ]]!」
ふいに、ナイジェルがざっと床に片膝をついた。そのまま腕を膝に置き、もう片方の手を心臓の真上に置く。相手に最大限の礼節を示す姿勢だ。シュバリスは立ち尽くした。長身であるナイジェルが膝をついたところで、目線は彼女と同じ位置にしかならなかったが、ナイジェルはいま、最前とはまったくちがう、慈悲を乞うまなざしでシュバリスを見つめていた。
「あなたの狙いがハダルではないのならーーどうやらハダルを傷つける気はないようだが、ならばどうか恨みをも忘れていただけないだろうか。少なくともハダルだけは例外としてみとめてくださらないだろうか。彼は純粋で無垢だ、いまじゃ赤ん坊どうぜんだ、彼はあなたの復讐に耐えられない。どうか彼だけは見逃してくれ!」
「ほあ?」
意味がわからない。シュバリスは目を丸くした。
「どういうことですか。わたしの復讐ってなに? むしろわたしはハダルを救いたいのですけどーーあのう、そうするには足だけじゃ足りなくて眼もいるのですけど、眼はどこに?」
眼のほうにこそ多くの魔力がある。ハダルを救うには絶対に必要だ。あなたが持っているの? とシュバリスはナイジェルの纏う魔力に注意をむけた。ときに表情やしぐさよりそこに真実が現れる。しかしナイジェルの魔力はまったく揺らがず、冷たく凍りついていた。
「ーー、」
ふいにびくんとナイジェルの耳が激しく動いた。シュバリスもはっとした。どこからか大勢の足音が聞こえる。こちらに向かっている。助けがきたのだろうかーーそれはナイジェルの助けかじぶんの助けか。シュバリスは必死で訊ねた。
「ナイジェルーーナイジェル・アベンチュリン、どうか教えて。わたしを襲ったのもシオンやエステルの廟を襲ったのもあなたじゃないの? アルジュナは? 彼を襲ったのもあなたじゃないの?」
「わたしはなにも知らない」
「じゃあ恨みを忘れてってどういうこと。わたしがハダルに復讐すると思うということは、すなわちあなたには後ろめたいことがあるってことではないの。だからそんなことを云うのではないの。それにあなたはわたしの正体を知ってる。なぜ? 普通なら気づくはずがない」
「ーーだ」
「えっ?」
ナイジェルは膝をついていた姿勢からすばやく立ち上がった。彼は手のひらを床にむけた。床にぼうっと魔法陣が浮かぶ。
「ソネット、ビリティスD11。わたしは考え違いをしていたかもしれない」
「えっーーえっ? そね……びりてぃ?」
「[[rb:女神様 > ディーズ]]。わたしだってあなたのことは疑わしいのだ。すべては話せないしとうてい信じきれない。あなたには動機がある」
「えっ、なんの?」
「復讐の」
(復讐? わたしが誰に? 犯人に? でもわたしはべつに、眼と足さえ返してもらえればそれでいいのに、復讐って?)
ひたすらきょとんとするシュバリスに、ナイジェルは初めてシュバリスが見る笑みらしきものを口元にたたえた。しかしそれはすぐに消えた。
「動くな!」
ドアの開く音が反響して、この場所がかなり広大な倉庫だとシュバリスは気づいた。魔法の明かりが次々とあたりを照らす。「入り口周囲に結界と罠」「わたしが解除する」「解除!」「騎士団だ!」大勢のひとびとがどっと室内に踏み込み、ふたりめがけて駆けてきた。
「ナイジェル! そこにいるな!?」
先頭の男の声にシュバリスはぎくりとした。腕に抱えたしっぼに魔力を送って必死に破壊する。なんとか尻尾の先を取り出して手でつかむと、己の体に取りこむーー砕けた魔晶は砂となり、ざあっと床に散った。
「また会おうシュバリス。わたしは逃げる。いま捕まるわけにはいかない」
ナイジェルの姿が陣の上でぼうっとかすむ。
「イスラメイ! 無事だったか? もうだいじょうぶだ、わたしが来たからには」
心配そうに告げる男の手が背後から肩にかかったとき、切断された足は本体に吸収されてあとかたもなく消えていた。全身に魔力が広がり安堵する、と同時にシュバリスはどこかぞっとするものを感じて、背後から肩を抱きよせた男を見上げた。ユアン・カルセドニーだった。ユアンは魔法陣が放つ光に包まれて消えゆくナイジェルを食い入るように見つめていた。
「どこへ行く? これだけのことをしておいて、逃げられないぞーー!」
「わたしのセリフだ。しかしいまはもはやなにも云うまい、さらばだユアン。わたしはようやく気付いた、おまえの思い通りにはさせない」
「なにを云っているーー」
ナイジェルは暗闇に溶けるように消えた。すでに騎士団の制服に身を包んだ男たちが倉庫に踏み込み「どこに飛んだ」「さがせ」「証拠を」と怒鳴りあっていた。
「あなたがどうしてここに、教官?」
シュバリスが問うと、ユアンは彼女を見下ろしてふっと笑った。
「テディが君たちのとろこに行く前に[[rb:通信用魔晶 > コム]]にメッセージを残していた。緊急のようだったからテディを追おうと思ったが、先にこちらを処理することにした。団長に頼んで急遽チームを派遣してもらった。まさか君が彼とここにいるとは思わなかったが彼にさらわれてきたのか? なにか乱暴されたりは?」
シュバリスはまだ運河に落ちた時のまま、泥をあちこちにこびりつかせていた。「いえ、これはなんでもーーだいじょうぶです。あの、教官。ここはどこです?」
「シュラク通りにある倉庫だが。セレス市の端、ミクラに近い地区のはずれ。君からの情報だとテディは云っていたがーーそれにしてもなぜ君自身で動いたんだイスラメイ。あの男はナイジェル・アベンチュリンといってテディの弟でアレクセイの兄だ。ひょっとしたらアルジュナを暗殺しようとした犯人かもしれない。それに君のお母上やアイドクレーズのお父上を殺した、すなわちシュバリス廟やそのほかの廟に侵入した犯人でもあるかもしれないんだ。みたところ無事でなによりだが、君までなにかあったらどうするつもりだった?」
シュバリスはなにも云えなかった。
「ーーあのロッカーは? なにか入っていたのか?」
ユアンの眼がするどく空っぽのロッカーに向けられる。シュバリスはやはりなにも云えなかった。
([[rb:固有魔法 > マジック]]。ユアン・カルセドニー教官のマジックーー)
灰色。それは気持ちひとつで白にも黒にもなる色。ひょっとして、ひとを幸福にも不幸にもする魔法かもしれない。
(ナイジェルだと思ってたけど、よくわからなくなっちゃったーー)
「わたしは大丈夫ですわ教官」
シュバリスはユアンの腕から逃れて微笑んだ。虎の穴に飛び込んではみたものの、とんでもない赤ちゃんを見つけてしまったと思った。
周囲では検分がすすめられていた。あたりの様子から、聖遺物強奪の容疑者がナイジェル・アベンチュリン以外のなにものでもないと騎士団員たちは断じたらしい。壁の張り紙はやはり廟の見取り図だったり警備の時間割を記したもの、そう囁きかわすのがきこえた。「指名手配」ということばも。この先ナイジェルは裏切り者として追われることになるだろう。もしそうなったらーーもしこれがすべて仕組まれたことで彼が犯人ではないとしたら、いちばん得をするのは誰なのか、シュバリスは考えざるを得なかった。
「ところで、なぜ君とアイドクレーズははこの倉庫のことを知っていたんだ? 誰からきいた?」
やはりシュバリスはなにも答えられなかった。かわりに思い出したのはハダル・ハルシオンのほがらかな笑顔だ。
ハルトガルトにそっくりな彼と接触したことが、迷宮に踏み込んだか開けてはいけない箱を開けたか、もう後戻りできない領域にまで踏み込んでしまう契機になったのではないかと、シュバリスはどうもそんな気がしてならなかった。
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