七話

  「ホムラサキの竜神アカツキ様と、僕の妻でもある大巫女のカグラちゃんは、この島の火山の麓にあるお社に居るんだ。明日、僕が責任を持って君たちを案内するよ。今日はゆっくり休んで――」

  サクラがそう言って、一同を安心させるように微笑んだその時だった。

  静寂を保っていた大広間の空気を切り裂くように、無作法な足音が廊下に響き渡る。磨き抜かれた黒漆の床を乱暴に叩くその振動に、サコンの狐耳が鋭く反応し、不快そうに跳ねた。

  「報告失礼いたします! 殿、一大事にございます!」

  息を切らせて飛び込んできたのは、顔を真っ青に染めた伝令だった。彼は儀礼もそこそこに、上段の間に向かって叫ぶように報告を叩きつける。

  「街に……街の中空に、見たこともない竜が現れました! 竜は咆哮を上げると、そのまま火山の方角へ向けて飛び去ったとのこと!」

  「……何だって?」

  サクラの空色の瞳から、一瞬にして温度が消えた。傍らでのんびりと茶菓子を頬張っていたウコンも、琥珀色の瞳を剣呑に光らせ、腰の太刀の柄へ無意識に手を寄せる。だが、誰よりも早くその報告の危急を悟ったのは、ウォルカだった。

  「……待て。その竜は、どこに現れた」

  地を這うような低い声。伝令の兵は、その殺気に気圧されながらも震える声で答えた。

  「は、はい! 街一番の老舗旅館――『金桜閣』の露天風呂から、突如として立ち上るように『青い竜』が……。そして、その、入浴中だったお連れ様を連れ去ったと……!」

  「なっ……!?」

  隣に座るアリオスの顔から、瞬時に血の気が引いた。金桜閣。そこは、一行がサコンに案内されて荷を下ろし、そして――未だ疲労の淵で眠っていたティーガを一人残してきた場所だ。

  「誰だろうな。アカツキ様のところへ向かってるのかな」

  (青い竜……、リューゴでもない……!)

  ウォルカの脳裏には、最近ティーガの肩に我が物顔で居座っているあの尊大な紫竜が浮かぶ。だが、現れたのはリューゴでもアカツキでもない、未知の竜神。

  「ティーガ……っ!!」

  ウォルカは座布団を蹴り飛ばし、弾かれたように走り出した。一国の主の面前であることも忘れ、獣のごとき速度で廊下へと躍り出る。

  背後で自分を呼ぶ声も、今の彼には届かない。

  喉の奥で獣の本能が悲鳴を上げていた。無防備な姿で連れ去られたであろう「つがい」の姿を思い、視界が真っ赤に染まる。先程感じた「握ったものがこぼれ落ちていく感覚」が、今、確かな絶望の叫びとなってウォルカの胸を掻き毟っていた。

  ―――

  城を出て、ホムラサキの穏やかな空気を切り裂きながら街を走る。かつて戦場で死線を潜り抜けてきた脚は、今、己の「つがい」を救うためだけに限界を超えて駆動していた。たどり着いた『金桜閣』の門構えは、先程までの平和を嘲笑うかのように、不気味に静まり返っている。

  「……ティーガ! リューゴ!」

  返事はない。ウォルカは無作法に玄関を蹴破り、仲居たちを撥ね除け、露天風呂へと続く渡り廊下を疾走した。独特の硫黄の匂いが湧き立つ風呂場に足を踏み入れた瞬間、ウォルカの動きが凍りついた。

  「…………そんな、バカな……」

  そこには、湯煙だけが白く、虚しく立ち上っていた。湯船の表面は、何かが羽ばたいた衝撃を物語るように激しく波立ち、溢れ出した湯が石畳を盛大に濡らしている。散らばった桶と、強風に乱されたように舞う桜の花びら。

  ウォルカの視線は、脱衣籠の横に釘付けになった。持ち主の体温を失い、無造作に放り出された浴衣。その上には、リューゴが入っていた革袋が無防備に置き去りにされていた。

  震える手で、その衣類を掴み上げる。鼻を擽るのは、確かにそこにティーガがいたことを証明する、あの野性味あふれる、焦がれるような甘い獣の残り香。

  「…………ティーガ……」

  ウォルカは、脱ぎ捨てられた浴衣を顔に押し当て、狂おしいほどにその残香を吸い込んだ。布地にはまだ、微かな湿り気と温もりが残っている。

  「クソったれ……ッ!!」

  慟哭とも咆哮ともつかぬ叫びが漏れる。争った形跡すらなく、ただ「存在」だけが喪われている。全裸のまま、抵抗の術すらなく連れ去られたのだ。ウォルカの紅い瞳が、苛烈な殺意に濁っていく。

  その時、背後から追いついてきたアリオスたちが、息を切らせて風呂場に飛び込んできた。

  「ウォルカ! ……ティーガは、ティーガはどうなったんだ!?」

  ​アリオスの悲痛な叫びに、ウォルカは答えなかった。ただ、浴衣を握りしめた拳を血が滲むほどに強く、白く震わせていた。

  ​「……あーあ、こりゃ派手にやられたな」

  ​遅れて風呂場に足を踏み入れたウコンが、濡れた石畳を見渡して太い眉を下げた。続いて現れたサクラは、空色の瞳を細めて火山の方向を見つめ、感心したように顎を撫でる。

  ​「火山へ向かったんでしょ? あそこにはカグラちゃんも、竜神のアカツキ様も居る。もし悪い奴らだったとしても、あのお社に手を出して無事でいられる存在なんて居ないよ。だからウォルカくん、そんなに心配しなくても大丈夫だ」

  ​サクラの言葉は、彼なりの誠実な慰めだった。だが、それが逆にウォルカの逆鱗に触れた。

  ​「……大丈夫だと?」

  ​ウォルカがゆっくりと振り返る。その紅い瞳は、もはや理性の光を失い、飢えた捕食者のような昏い殺意に支配されていた。

  ​「全裸のまま、抵抗の術もなく攫われたんだぞ……! 相手が何者かも、目的も分からん。ティーガに万が一のことがあれば俺は、……何もかも噛み砕いてやる」

  ​「ウォルカ! 落ち着けよ、言い過ぎだから!」

  ​アリオスが慌てて割って入る。

  「サクラ様の仰る通りだ。ティーガだって神使なんだ、きっとリューゴが守っているはずだ。一旦落ち着いて、作戦を……」

  アリオスの言葉が一瞬、思考を揺さぶる。

  だが、次の瞬間には噛み潰す。

  ​「……黙れ」

  ​地を這うような拒絶の一言。ウォルカはティーガの服を握り締めたまま、返り血を浴びた戦士のような冷徹さで、サクラを睨み据えた。

  ​「お前たちの『大丈夫』など、俺には何の保証にもならん。俺のつがいは、俺が取り戻す」

  ​「あ、ちょっと待てって、ウォルカ!」

  ​アリオスの制止を無視し、ウォルカは露天風呂の塀を飛び越えて外へと躍り出た。その背中は、もはや人のそれではなく、愛する者を奪われた獣の執念そのものであった。桜の香りが漂う生ぬるい春風を切り裂き、火山へ向けて疾走していく背中を、一行は呆然と見送るしかなかった。

  ​「……行っちゃったね。あんなに慌てなくてもいいのに、愛してるんだなぁ」

  ​サクラは困ったように頭を掻くと、隣で胃を押さえているサコンと、腕を組んで鼻を鳴らすウコンを見た。

  ​「殿……。お客様をあのような状態で野放しにするわけには参りません。もしお社でアカツキ様と一悶着起こそうものなら、それこそ島がひっくり返ります」

  ​サコンの切実な進言に、ウコンが太い腕を組んで頷く。

  「ああ。あの兄ちゃん、相当な手練れだぜ。殺気だけで言えば、うちの若い衆が束になっても敵わねぇだろうな」

  ​​サクラはふわりと笑みを深めたが、その眼差しには、混乱に揺れる場の空気を一瞬で静めるような、不思議な重みがあった。

  ​「ウコン、サコン。僕たちも用意しようか。せっかく遠いところから来てくれたお客様が、うちの島で悲しい思いをするのは嫌だからね。すぐに後を追うよ。アリオスくん、君たちも来るだろ?」

  ​「は、はい! もちろんです!」

  ​​アリオスは、サクラの穏やかな声に不思議と心が落ち着くのを感じ、力強く頷いた。

  ​「よし、サコンはカグラちゃんに鳥を飛ばしておくれ。ウコンは馬の用意を。こんなに急ぐのは久々だなぁ」

  ​夕焼けに染まる金桜閣の庭に、どこか長閑で、けれどもしっかりとした「主」の意志が満ちていく。ウォルカの荒ぶる殺気を追いかけるように、サクラたちは静かに、しかし迅速に動き始めた。

  ―――

  ​ウォルカは火山の参道を駆け上がっていた。

  ​一段飛ばしに石段を蹴り上げ、肺が焼けるような熱を帯び、喉の奥には鉄の味が混じる。だが、握り締めたティーガの浴衣から伝わる微かな体温が、狂気にも似た活力を彼に与えていた。

  ​(待っていろ、ティーガ……! 今すぐ助け出してやる……!)

  ​やがて視界が開け、巨大な朱塗りの鳥居と、荘厳な社殿が姿を現した。しかし、そこは平時の静謐とは程遠い喧騒に包まれていた。

  ​「なんだあの青い竜は……!?」

  「一体どこの竜神だ……!」

  ​白衣の巫女たちが裾を乱して右往左往し、槍を構えた男たちが血相を変えて奥へと走り込んでいる。先程の「青い竜」の唐突な襲来は、このホムラサキの聖域をも、かつてない混乱の渦に叩き落としていた。

  ​「どけ!通してくれ!!」

  ​ウォルカは人だかりを強引に掻き分け、土足で拝殿へと踏み込んだ。

  ​「お待ちなさい! これより先はアカツキ様の聖域、巫女様以外は立ち入りを許されません!」

  ​数人の屈強な守護兵たちが、槍を交差させて壁となって立ち塞がる。だが、今のウォルカには神罰も人の理も関係ない。紅い瞳に獣の猛々しい光を宿し、今にも飛び掛からんと脚に力を込めた、その時。

  ​「――皆、そこまでにしなさい」

  ​低く、けれど鈴の音のように透き通った声が、喧騒を縫って響き渡った。​騒がしかった男たちが一斉に動きを止め、道を開けて深々と頭を下げる。

  奥から静かに現れたのは、燃えるような緋色の袴を纏い、背にまで届く艶やかな黒髪を揺らす女性であった。その肌は陶器のように白く、切れ長な瞳には深い慈愛が宿っている。彼女こそが、サクラの最愛の妻にして、島全ての巫女を束ねる大巫女カグラだった。

  ​「……サクラから、伝令の鳥が届きました。貴方がウォルカ殿ですね」

  ​カグラは、殺気に濁りながらも、その奥に愛する者を失う恐怖を隠し持ったウォルカの瞳を、静かに見つめ返した。彼女は怯えることも憤ることもなく、ただ迷える子供を導くように優しく微笑む。

  ​「こちらへ。貴方が案じている者は、この奥……竜神様の御許に居りますよ。ついておいでなさい」

  ​「……案内しろ。早く」

  ​促されるまま、ウォルカはカグラの後に続いた。

  社殿の最奥、一般の立ち入りが厳しく禁じられた聖域へと繋がる石造りの回廊を進む。心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに鳴り響いている。

  ​「ここです」

  ​カグラが迷いのない手つきで、神域を守る重厚な石扉を押し開けた。その瞬間、眼前に夕暮れの陽光が溢れ出し、火山の恵みを含んだ暖かな春風が、ウォルカの頬を撫でた。

  ​そこは、火山の地熱によって常に白濁した湯がこんこんと湧き出る、神域の隠れ湯であった。立ち込める濃厚な湯煙の向こうに、ウォルカは連れ去られた「つがい」の確かな影を捉える。

  「ティーガ!!」

  絶叫と共に踏み込んだウォルカの目に飛び込んできたのは、彼が道中、血の涙を流さんばかりに想像していた惨劇とは、あまりにもかけ離れた平穏な光景だった。

  「おっ、ウォルカ! ちょうどいいところに来たな。お前、宿に置いてきた服を持ってきてくれたか? この湯も最高に気持ちいいんだけどよ、いい加減ふやけちまいそうだぜ」

  湯船の中で、ティーガがいつもの屈託のない笑みで肩を竦めていた。その隣には、彼の肩に偉そうに乗る紫の小竜。ゆったりと湯に身を沈める人間大の青竜。そして傍らで小山ほどの身を丸めてあくびをする燃えるような赤竜。大中小揃った竜たちが、実にご機嫌そうに尾を振っている。

  「な、…………なんだと?」

  ウォルカの手から、握りしめていたティーガの服が、力なく滑り落ちた。

  胸を焦がしていた衝動が、行き場を失って宙に漂う。

  ただ立ち尽くし、何かが――確実に、ズレてしまったことだけを、理解していた。