はじめまして、ちんたま権太郎と申します。

  [chapter:第一章 銀色のファシネーション]

  「……い、嫌です……社長、こんなこと……!」

  重厚な革張りのソファが軋み、若いダルメシアンの青年獣人が必死に身をよじっていた。

  彼を見下ろすのは、下請けイジメで悪名高い、恰幅の良い中年のタヌキ獣人の社長。

  汗ばんだ脂ぎった額、ワイシャツのボタンを弾き飛ばしそうな太鼓腹、そして欲望に濁りきった瞳。

  社長は青年のスラックスを強引に引きずり下ろしながら、粘着質な笑みを浮かべた。

  「嫌? 嫌なのかね? ん〜? 取引停止になってもいいのかなあ?」

  「そ、それは……!」

  「なら、わしの言うことを聞け。これは『接待』だよ。大人の付き合いだ」

  青年の抵抗など意にも介さず、社長は自身の欲望を露わにする。それは青年の想像を遥かに超える、凶悪なほど太く、黒光りする凶器だった。

  「ちゃんとゴムはつけるから、な? 安心しろ」

  しぶしぶコンドームを装着する社長を見て、青年は少しだけ安堵の息を吐く。だが、それはあまりにも巧妙な罠だった。

  体勢を変えるふりをした一瞬の早業。

  「ぐっ……!? う、ぁぁぁあッ!?」

  喉の奥から悲鳴が迸る。

  濡れた粘膜が裂けるような感覚と共に、熱くて太い楔が青年の最奥を無慈悲に穿ったからだ。

  「あぐっ……!? い、痛い……! なんで……!?」

  「んん〜っ! 狭いっ! やっぱりケツは未使用に限る! 締め付けが違うのお!」

  腰を打ち付けられるたび、重い衝撃が青年の思考を弾き飛ばす。

  激しいピストンの中、社長はニタニタしながら片手を掲げた。その太い指には、使用済みのゴムがぶら下がっている。

  「あれぇ? 外れちゃったかなあ? ガハハ! すまんのぉ!」

  「なっ……!? う、嘘だ……中、中で……!」

  「生交尾こそ本物のセックスなんだぞ! ゴム越しじゃ、わしの愛が伝わらんだろうが!」

  絶望に染まる青年の顔を見て、社長の嗜虐心に火がついた。腰の振りが、さらに凶暴さを増す。

  「お前のその綺麗な穴、わしのグツグツ煮えたぎったザーメンで中から教育してやるからな♡」

  「や……やめ……っ! んぐっ、あぁっ!」

  最初は必死に逃れようとしていた青年だが、社長のテクニックはえげつないほど巧みだった。

  的確に前立腺を抉る剛直な一撃。腹の肉がぶつかり合う湿った音。鼻腔を満たす、むせ返るような獣臭い体臭。

  それら全てが、青年のメスとしての本能を強制的に叩き起こしていく。

  「ほらほら、腰が浮いてるぞぉ? 口では嫌がってても、体は正直だなぁ!」

  「ちが、う……ひぐっ、あぁっ……! 離して、ください……!」

  青年はまだ、必死に首を振って拒絶を示す。だが、その声には微かに甘い喘ぎが混じり始めていた。

  「離して? 本当か? こんなにわしのタヌキちんぽに吸いついておいて、よく言うわ!」

  社長は容赦なく最奥を突き上げる。

  「あひぃッ!? ……っ、んぅ……!」

  「ここか? ここがいいのか!? いやらしい音させて喜んでるぞ!」

  「ちが……違います……ッ、あ……そこ、だめ……♡」

  不意に漏れたハートマーク付きの喘ぎに、青年自身が驚いて目を見開く。

  (嘘だ……なんで、気持ちいいなんて……こんな汚いおじさんに……!)

  「ほら見ろ! ダメと言いながら穴が締まった! わしのおちんぽを物欲しそうに締め付けやがって! 正直な体だなぁ!」

  社長はさらに激しく、執拗に弱点を責め立てる。

  「や、あっ……! 社長、の……おっっきいぃぃ……ッ♡」

  「そうだ、もっと味わえ! わしのキンタマが擦れる感覚はどうだ!?  ほらほらほら、喜んで食いついてるぞぉ!」

  「あぁっ! 食いついて……ない、です……っ、でも、あつい……♡ お腹の中、熱い、よぉぉ……♡」

  抵抗していた腕の力が抜け、シーツを掴む指先が白くなる。

  脳裏を支配していた恐怖と嫌悪感が、抗いがたい快感に塗り替えられていく。

  「もっと欲しいか! このデブ親父の肉棒が欲しいか! 正直に言ってみろ!」

  「あっ♡ ほ、ほしいッ……! 社長のちんちん、すごい……♡ お願いします、もっと、奥までぇぇッ……♡」

  青年の瞳から理性の光が完全に消え失せ、代わりに蕩けた色が浮かぶ。

  「僕の中、めちゃくちゃにぃぃぃ♡♡♡してぇぇぇぇ♡♡♡」

  彼は自ら社長の太い首に腕を回し、獣のように腰を振り始めた。

  もはや、そこに気弱な下請け社員の姿はない。ただ快楽を貪る一匹の雌犬がそこにいた。

  「いい子だ! わしの肉便器になれ。そうすれば契約も、快楽も、全部くれてやるゾォ!」

  社長の言葉はもはや命令ではなく、甘美な福音のように青年の脳髄に響く。

  「な、なりますぅぅぅ!♡♡♡社長のぉぉぉ♡♡♡肉便器にぃぃぃッ♡♡♡ 契約更新♡♡♡してぇぇッ!!♡」

  「よし! なら、おまんちょの奥にハンコを押してやる! 契約成立だなッ!!」

  「ああぁっぁっっ!♡♡♡くるぅぅッ!♡♡♡♡社長の、熱いハンコがぁっぁ♡♡♡♡♡♡」

  極太の先端から放たれた、ドロリと濃厚な種が、青年の腸内を灼熱で満たしていく。

  白目を剥き、口端から涎を垂らしながら、青年は激しく痙攣して絶頂を迎えた。

  その見開かれた瞳孔には、自身を犯す社長の醜悪で、しかし頼もしい笑顔だけが映り込んでいた。

  社長の太い腕の中で、彼は完全に堕ちていた。

  もはや、彼にとってこの関係こそが正義であり、逃れられない運命となったのだ。

  ◇

  スマートフォンの画面をタップして、電子書籍リーダーを閉じる。

  最後に目に焼き付いたのは、裏表紙に大きく躍るこの漫画のタイトル文字だった。

  『社長! 契約更新お願いします! 〜下請け社員のケツは契約書〜』

  ……なんて素晴らしいタイトルなんだろう。内容のすべてを端的に、かつユーモラスに表現している。

  ふぅ、と小さくため息を吐き、僕は顔を上げた。

  視界に広がるのは、流れる車窓の風景だ。

  浜松町から乗り込んだ東京モノレールは、運河の上を滑るように走っている。窓の外、寒々とした鈍色の空と倉庫街が飛ぶように後ろへ流れていく。

  窓ガラスは、外気と車内の熱気の差で白く曇り、うっすらと結露していた。

  車内は、異様なほどの熱気と密度に包まれている。

  僕が乗っているこの車両は、間違いなく全員が「同志」だ。みんな一様に、厚手のダウンジャケットやウールのコートを着込み、戦利品を入れるための大きなトートバッグやキャリーケースを抱えている。モコモコとした冬着のせいで、普段よりも人口密度が高く感じる。

  目的地はひとつ。東京流通センター。

  そう、今日は待ちに待った同人誌即売会の開催日なのだ。

  僕は吊り革を握りながら、マフラーに顔を埋めて必死に平静を装っていた。

  さっきまで読んでいた漫画の興奮が、まだコートの下の下半身にくすぶっている。

  (落ち着け……まだ会場にも着いてないんだぞ……)

  ガラスに映る自分と目が合う。

  銀灰色の毛並みをした、気弱そうな猫獣人がそこにいる。

  モノレールが減速を始める。

  「次は、流通センター、流通センターです」

  アナウンスが響く中、僕はホームへと降り立った。

  電車を降りると、そこはもう祭りの入り口だった。

  東京流通センターの駅前には、吐く息を白く染めた獣人たちが溢れかえっている。

  今年で十周年を迎える『CROSS BREED』――通称「クロブリ」。

  同種族同士のつがいが健全とされるこの社会において、異種族間の愛や、体格差・年齢差といったマイノリティな性癖を愛する者たちが集う、年に数回の聖域だ。

  改札を出て、誘導スタッフの指示に従って列形成場所へ向かう。

  「一般参加の方、こちらへ続いてくださーい! 走らないでくださいねー!」

  拡声器を持ったスタッフの狼獣人が声を張り上げている。彼の腕には『スタッフ』の腕章。おそらく彼も、僕らと同じくこのイベントを愛する有志の一人だ。

  「ありがとうございます」

  「お疲れ様です」

  僕の前を歩く参加者たちが、次々と彼に労いの言葉をかけていく。僕もそれに倣って、小さく頭を下げて通り過ぎた。

  クロブリには、「お客様」はいない。サークルも、一般も、スタッフも、全員がこの場を作る「参加者」だという理念がある。だからこそ、運営はボランティアで成り立っているし、互いへの気遣いが会場の隅々まで行き渡っているのだ。

  待機列の最後尾に着くと、すぐに列が動いた。

  「あ、すいません。詰めますね」

  前の大きな熊獣人の男性が、僕が並びやすいように体を斜めにしてスペースを作ってくれた。

  「あ、ありがとうございます……」

  「いやいや、寒いですねぇ。カイロ持ってます? 余ってるんでどうぞ」

  「あっ、す、すいません。た、助かります」

  手渡された使い捨てカイロの温かさが、かじかんだ指先に染みる。

  見ず知らずの他人同士。でもここでは、同じ「業」を背負った同志として、当たり前のように助け合う。

  (やっぱり、いいなぁ……この空気)

  世間からは「異端」と呼ばれるかもしれない僕たちの、ここだけは優しい居場所。

  この温かい連帯感が、僕は大好きだった。

  列が落ち着き、開場までの長い待機時間が始まった。

  僕はもらったカイロをコートのポケットに入れて、温もりを確かめるように指を丸める。

  周囲では、カタログを開いて配置図を確認する音や、推し作家の新刊について熱く語る声がさざめいている。

  僕も手袋を外し、ポケットからスマートフォンを取り出した。

  真っ先に開くのは、SNSアプリだ。

  タイムラインを更新すると、お目当ての通知が一番上に表示された。

  投稿時間は、ほんの数分前。

  ――――――――――

  ちんたま[[rb:権太郎 > ごんぶとろう]] @chin_tama_gon

  【東1 A-69】

  設営おわったぞオラァ!

  新刊『私立珍魂学園ローション相撲部〜春の新入生姦迎会編〜』、印刷所に無理言って表紙を引くほどヌルヌルにしたったわ。これ俺の手汗じゃねぇからな。いや手汁かもしれん。どっちでもいいよな、ヌければよ!

  あと売り子くんがインフルきめやがったから、今日は俺一人で店番な。トイレ行けねぇから差し入れは利尿作用ないヤツで頼むわ! ガハハ!

  ――――――――――

  添付された写真には、見慣れた下品な(しかし愛らしい)タヌキのアイコンが描かれたポスターと、山積みにされた新刊が写っている。

  「ふふっ……」

  思わず口元が緩む。

  (ヌルヌル加工って……。ふふ、また変なこだわり方してるなぁ、先生は)

  文面から溢れ出る、この自由奔放さ。下品なのに、どこか憎めないユーモア。

  「どっちでもいいだろヌければ」という投げやりな一文が、あまりにも先生らしい。この、デリカシーの欠片もないガサツさ。上品ぶった世間体なんてクソ食らえと言わんばかりの、剥き出しの「オス」の勢い。添付された写真の、雑に積み上げられた本の山を見ているだけで、胸の奥がキュンと締め付けられる。

  (……待てよ? バイトくんがいないってことは)

  僕はハッと息を呑んだ。

  つまり、新刊を買う時、対応してくれるのは先生ご本人だということだ。

  今まで委託ばかりで、イベントに直接参加されること自体がなかった先生。

  その先生から、直接本を手渡ししてもらえる。

  それだけじゃない。「いつも読んでます」「大好きです」という感謝の言葉を、僕の口から直接伝えられるのだ。

  (ああ、どうしよう。泣きそうだ……)

  僕の夜のおかずは、九割がちんたま先生の作品だといっても過言ではない。

  僕の精子を、魂を、日々あんなにも情熱的に搾り取ってくれている、尊敬すべき創造主。

  そんな神様に会えるチャンスが、もう目の前まで迫っている。

  (このツイートの感じだと……やっぱり、ガサツで豪快な人なのかな)

  「ガハハ!」と笑う文面や、ちょっと雑に積まれた本の様子。

  きっと、細かいことは気にしない、男くさい人柄なんだろう。

  SNSから滲み出るその「オス」の匂いに、僕は勝手に親近感とときめきを抱いてしまう。

  僕は手提げ袋の中を確認した。先生への差し入れとして用意した、高級栄養ドリンクと、個包装の焼き菓子。

  (ドリンク……利尿作用、大丈夫かな。でも、疲れてるだろうし)

  スマホの画面を親指で愛おしげに撫でる。

  画面の向こうにいる、まだ見ぬ「汚いおじさん」に想いを馳せると、自然と目が潤んでくる。

  本当に、夢みたいだ。

  ずっと雲の上の……いや、もっと深く汚い『欲望の泥沼の底』に君臨する神様だったあの人が

  僕と同じ空気を吸って、そこに座っている。

  (……信じられないな)

  数週間前、あの告知を見た時の衝撃が、昨日のことのように蘇る。僕の平穏なオタクライフを激震させた、あの運命の夜のことを。

  ◇

  約一ヶ月前のあの夜。

  それは、残業で疲れ果てて帰宅した、何の変哲もない平日の夜だった。

  僕はいつものように、コンビニで買った発泡酒を開け、部屋着のスウェット姿でソファに沈み込んでいた。

  日中の仕事で擦り減ったメンタルを回復させるための儀式。

  それは、SNSを開いて『ちんたま権太郎』先生の過去ログを漁ることだ。

  先生の面白おかしい自慰報告や、性欲全開の呟きを眺めては、「今日も先生は元気だなあ」と安堵する。それが僕の日課だった。

  しかし、その日は違った。

  タイムラインのトップに、とんでもない告知が固定されていたのだ。

  ――――――――――

  ちんたま[[rb:権太郎 > ごんぶとろう]]@chin_tama_gon

  【重大告知】次回のCROSS BREED、スペース受かってたわガハハ!

  配置は【東1 A-69】。Aの69とか運営も粋な計らいしやがる。俺のケツでも狙ってるんか?

  聞いて驚け! 今回はなんと直参だ!!

  作家仲間のゴリラ川に「たまには外の空気吸わないと股間のカビで死ぬぞ」って脅されたからな。重い腰(物理)上げてやるよ。

  当日はタヌキの死体みたいなのが座ってると思うけど、餌付け(差し入れ)は歓迎だ。

  誰も来なかったら新刊でドミノ倒ししてツイキャスやるから(会場は配信禁止だっつーの!)、頼むから構いに来いよな!

  ――――――――――

  「……は?」

  思考が停止した。

  持っていた発泡酒の缶を取り落としそうになり、慌てて両手で握りしめる。

  スマホの画面を二度見、三度見する。

  何度見ても、そこには「直参」の二文字があった。

  「じ、直参……? 先生が……?」

  喉が渇き、心臓が早鐘を打ち始める。

  『ちんたま権太郎』といえば、界隈では「幻の作家」として有名だった。

  作品のクオリティは凄まじいのに、イベントには決して姿を現さず、常に委託のみ。

  ファンの間では 「実はAIなんじゃないか」「いや、本当は女性なんだ」「いや、指名手配犯だから表に出られないんだ」などと、まことしやかに囁かれていた。

  その先生が、来る。

  あのクロブリの会場に。

  生身の肉体を持って、そこに座るというのか。

  「う、うそだ……夢だ……」

  僕は震える指で、そのツイートにいいねを押し、拡散し、ブックマークをして、さらにスクリーンショットを撮った。

  興奮で尻尾が膨らみ、バタンバタンとソファを叩く。

  (会える。あの、神様に会える!)

  脳裏に浮かぶのは、先生の自画像通りの姿。

  小汚いジャージを着て、無精髭を生やし、脂ぎった顔で「ガハハ!」と笑うタヌキのおじさん。

  彼の手から直接、あのえげつない薄い本を受け取ることができる。

  もしかしたら、握手だってしてもらえるかもしれない。その手に染み付いたインクや、締め切った部屋特有の[[rb:饐 > す]]えた生活臭を嗅ぐことができるかもしれない。

  「……行かなきゃ。這ってでも」

  僕は残りの発泡酒を一気に飲み干した。

  身体の内側から、熱いものがこみ上げてくる。

  仕事の疲れなんて吹き飛んでいた。

  カレンダーアプリを開き、イベント当日の日付に「決戦」と入力する。

  あの日から、僕の生活は一変した。

  辛い仕事も、面倒な人間関係も、「来月にはちんたま先生に会える」という希望だけで乗り切れた。

  美容院に行き、毛並みを整え、少しでもマシな自分で会えるように準備をしてきた。

  ◇

  「――列、移動しまーす! 前の方に続いてゆっくり進んでくださーい!」

  スタッフの拡声器の声で、僕はハッと我に返った。

  現在。東京流通センター、待機列。

  冷たい海風が吹き抜ける中、周囲の参加者たちが一斉に動き出す。

  「お、やっと動いた」「寒い〜、早く中入りたい」

  ざわめきと共に、巨大な隊列が少しずつ前進を始める。僕も慌ててスマホをポケットにしまい、前の人の背中を追った。

  心臓が、早鐘を打っている。一ヶ月間の妄想と期待がついに結実する瞬間。待っていてください、ちんたま先生。

  僕は逸る気持ちを抑え、ゆっくりと会場の入り口へと向かった。

  会場に入った瞬間、むせ返るような熱気が全身を包み込んだ。

  何千、何万という獣人たちの体温、インクと紙の匂い、そして抑えきれない[[rb:欲望 > フェチ]]の匂い。

  酸素濃度が薄く感じるほどのこの過密空間こそ、クロブリの醍醐味だ。

  僕は人波を縫うように歩きながら、ジャケットのポケットから愛用のコインケースを取り出した。

  (新刊は一部八百円。既刊も合わせて買うから……)

  中には、この日のために銀行で両替しておいた千円札と五百円、百円玉が、整然と並んでいる。

  サークル主の手を煩わせないよう、お釣りを出さないのが参加者の嗜みだ。

  特に今日の相手は、ワンオペで疲弊している(はずの)ちんたま先生だ。一秒でも早く会計を済ませて、負担を減らしてあげなければ。

  僕は人波を縫うように歩きながら、ジャケットの胸元を確認した。

  そこには、小さなクリップ式の名札が留めてある。

  『リク』

  僕のSNSでのハンドルネームであり、本名――[[rb:理玖 > りく]]でもある名前だ。

  (……気づいてもらえるわけ、ないよな)

  僕は苦笑いしながら、名札の位置を整える。

  SNSでは何度かリプライを送ったことがあるし、「いつも見てます」と伝えたこともある。新刊が出るたびに感想を直接送っていたりもする。

  でも、先生のフォロワーは何万人もいる。僕のような一介のファンのことなんて、覚えているはずがない。

  それでも。

  万が一、億が一。

  「あ、いつも反応くれるリクさんですか?」なんて言ってもらえたら、僕はその場で昇天できる自信がある。

  そんな淡い、あまりにも淡い期待を込めて、僕は今朝、震える手でこの名札をつけたのだ。

  「すいません、通りまーす!」

  大型獣人の背中とすれ違うのもやっとの混雑の中、僕は目的の「東1ホール A-69」を目指した。

  壁際の大手サークル配置エリア。

  そこには案の定、とんでもない長さの待機列が形成されていた。

  「最後尾、こちらになりまーす!」

  スタッフの声に反応し、僕は滑り込むように列に並んだ。

  直後、僕の後ろにも新たな参加者が駆け寄ってくる。

  僕はすぐに、前の人から回ってきた『最後尾』と書かれたラミネート加工の札(プラカード)を受け取り、それを頭上に掲げた。そして数秒後、後ろの人に「お願いします」とバトンタッチする。

  無駄のない連携。これぞイベントだ。

  しかし。

  列が進むにつれて、僕は「ある異変」に気づき始めた。

  (……なんだ?)

  買い物を終えて、ちんたま先生のスペースから離脱してくる人々の様子がおかしいのだ。

  欲しかった本を手に入れてホクホク顔……というレベルではない。

  顔を真っ赤にして口元を押さえている女性。

  「マジかよ……」と虚空を見つめながら、ふらふらと歩く男性。

  まるで、とてつもない衝撃映像を見た直後のような、放心と興奮が入り混じった表情をしている。

  (まさか……先生、また何かやらかしたのか?)

  不安がよぎる。

  「手汗でヌルヌル」だけでは飽き足らず、異臭を放つ何かを展示しているとか?

  それとも、予告通り「タヌキの死体」のような姿があまりに衝撃的すぎて、みんな具合が悪くなっているのか?

  僕は堪らずスマホを取り出し、SNSのタイムラインを確認した。

  現地にいる参加者たちの呟きが、滝のように流れてくる。

  「ちんたま先生やばい」

  「A-69、事故だろこれ」

  「脳みそバグった」

  「ちんたま先生、実在した……いや、だけど、そうじゃなくて……!」

  (えっ、何? 何が起きてるの?)

  具体的な情報がない。「やばい」「嘘だろ」という言葉だけが踊っている。

  画像はない。当然だ。会場内は撮影禁止だから。

  僕の不安と妄想は加速する。

  一体、あの人壁の向こうにどんな怪物が鎮座しているというんだ。

  「次の方、どーぞー!」

  列が大きく動いた。

  サークルスペースの前まで、あと数メートル。

  僕はスマホをしまい、意を決して顔を上げた。

  積み上げられた新刊の山。その向こうにあるパイプ椅子。

  そこに座っている人物を、その目に捉えた瞬間――。

  「――はい、新刊一冊ですね。ありがとうございます」

  僕の思考は、その光景を前にして完全にショートした。

  そこにいたのは、薄汚れたタヌキなんかじゃない。騒がしい会場の空気すら浄化するような、全身が白銀に輝く銀狐の紳士だった。

  恰幅の良い体躯を包むのは、オーダーメイドのように体に吸い付くダークグレーのベストとシャツ。豊かな胸板と、ベストのボタンを張り詰めさせる丸いお腹は、だらしなさとは対極にある「富」と「貫禄」の象徴に見える。

  何より目を奪われたのは、その毛並みだ。会場の安っぽい蛍光灯の下ですら、丁寧に手入れされた体毛はプラチナのように艶めき、一筋のほつれもない。本を差し出す指先は爪の先まで磨き上げられ、ページを繰る所作一つが芸術品のように優雅だった。

  「ぁっ……?」

  喉の奥が引きつり、声が出ない。圧倒的な清潔感。知性。そして匂い立つような大人の色気。理想を煮詰めたようなこの紳士が、なぜか「ちんたま権太郎」のスペースに立っている。脳の処理が追いつかず、僕はただ、その銀色の輝きに釘付けになっていた。

  (売り子さん? ……いや)

  彼の胸元には、SNSのアイコンが書かれた名札がぶら下がっている。

  そこには間違いなく、こう書かれている。

  『ちんたま権太郎』

  「……えっ?」

  僕の脳内サーバーが、エラー音を上げてダウンした。

  「……あ、の……」

  口をパクパクさせるだけで、言葉が出てこない。

  金縛りにあったように動けない僕を見て、目の前の紳士――白狐の男性は、心配そうに眉を寄せた。

  「どうしました? ご気分でも?」

  鼓膜を直接撫でられるような、深く、艶のあるバリトンボイス。

  身体を傾けて覗き込まれた瞬間、ふわりと香りが漂った。

  高貴な[[rb:白檀 > サンダルウッド]]の香りをベースに、微かに男らしいムスクが混じる、複雑で洗練された大人の香り。それは、僕が想像していた「汗とカビと男臭さ」とは対極にある香り。

  (意味が、分からない……)

  思考回路がショートして火花を散らす。

  え? 誰? このイケオジは誰?

  『ちんたま権太郎』先生じゃないの? 名札にはそう書いてあるけど、詐欺? なりすまし?

  いや、もしかして先生はタヌキじゃないの? 狐だったの?

  じゃあ、あのSNSの数々の暴言は?

  彼の美しい所作を見るたびに、脳裏に過去のツイートがフラッシュバックする。

  ――――――――――

  ちんたま権太郎@chin_tama_gon

  たまに「先生の描く受けの子が可哀想で抜けません」とか言われるんだが、甘ったれるな!

  俺はこれからも、お前らの心の奥底にある加虐心を刺激しまくってやるからな。

  俺の[[rb:性癖 > うんこ]]をおかずにして飯を食え! そして俺に金を払え!

  ――――――――――

  (……こんな品のある人が、自分の性癖を『うんこ』呼ばわりして金をせびる!?)

  ――――――――――

  ちんたま権太郎@chin_tama_gon

  筆が乗らねぇから全裸でシコって気合入れてたら、勢い余って液タブの画面に盛大にブッかけちまった。

  あまりの背徳感と絶望で興奮してきて、もう一発抜いちまったわガハハ!

  ――――――――――

  (……この人が!?  全裸で!? 液タブに!?)

  情報量が多すぎて、脳の処理が追いつかない。

  あまりのパニックに、僕は持っていた財布を取り落としそうになった。

  その時だ。

  切れ長の瞳が、不意に細められた。

  彼の視線が、僕の胸元に注がれる。

  「……おや?」

  彼はハッとしたように目を見開き、そして次の瞬間、花が咲くような満面の笑みを浮かべた。

  「もしかして……リクさんですか? いつも感想をくださる?」

  「へ……?」

  時が止まった。

  今、なんて?

  リクさん?

  僕のことを、知ってる?

  「そうですよね?」

  彼は嬉しそうに席を立ち上がると、机越しに身を乗り出して、僕の手を両手で包み込むように握りしめた。

  大きくて、温かくて、分厚い手のひら。

  爪先まで手入れが行き届いたその手が、僕の震える手を優しくホールドする。

  「いつもありがとうございます、リクさん。あなたの感想、すごく励みになってるんですよ。特に前作の『ザーメン地獄』の感想、あれは嬉しかったなぁ」

  ――――――――――

  ちんたま権太郎@chin_tama_gon

  今日電車で見たスーツリーマン犬獣人がエロすぎて危うく社会的に死ぬとこだった。

  漫画を描いていて本当によかった。劣情を原稿の上に叩きつけることで、あの犬獣人を、俺という魔物から救うことができたんだ!

  俺の理性と才能に感謝しろよ全人類!

  ――――――――――

  目の前の紳士的な笑顔と、脳内の「変質者」宣言が高速で回転し、混ざり合う。

  「ありがとうございます」という感謝の言葉と、「全人類感謝しろ」という傲慢な言葉が同時に響く。

  至近距離で見せつけられる、極上の笑顔。

  鼻先をくすぐる良い匂い。

  そして、憧れの神様からの、まさかの「認知」宣言。

  (む、無理……これ以上ここにいたら、脳みそが焼き切れる……!)

  キャパシティオーバーだ。

  膝の力が抜け、僕はその場に崩れ落ちそうになるのを、必死にカウンターに縋り付いて耐えた。

  「あ、あ、あ、ああああああの……!」

  僕は震える手で、握りしめていた千四百円(新刊と既刊分)をカウンターに叩きつけた。

  お釣りはいらない。いや、そもそも計算が合ってるかどうかも分からない。

  とにかく、この場から逃げ出さなければ。

  この「致死量の情報」を浴び続けていたら、僕は間違いなく死ぬ。

  「ほ、本! ください! あと、応援してます! 失礼します!!」

  「えっ? あ、リクさん!?」

  先生が驚いて呼び止める声を背中で聞きながら、僕は新刊をひったくり、用意していた差し入れの袋をカウンターに叩きつけるように押し付け、脱兎のごとく走り出した。

  握手? 感想を伝える?

  そんな余裕なんて微塵も残っていなかった。

  今の僕にできるのは、真っ赤に茹で上がった顔を誰にも見られないように隠しながら、人波の彼方へ全力で逃走することだけだった。

  ◇

  気づけば、窓の外はもう薄暗い藍色に染まっていた。冬の陽は短い。

  東京湾から吹き付ける冷たい風が、ガラス越しにも伝わってくるようだ。

  僕は東京流通センターの隅にある休憩スペースので、魂の抜けた人形のようにぼんやりと座っている。

  膝の上には、戦利品が詰まったトートバッグ。

  中を覗けば、ちんたま先生の新刊以外にも、チェックしていたいくつかのサークルの本がきっちりと収まっている。

  (……いつの間に買ったんだろ)

  記憶が曖昧だ。

  あの後、先生のスペースから全力で逃走してからの記憶が、ごっそりと抜け落ちている。

  気がついたら、リストアップしていた新刊をすべて確保し、ここに座っていた。

  おそらく、長年染み付いたオタクとしての本能が、半失神状態の僕を突き動かし、会場内を彷徨うゾンビのように買い物を遂行させたのだろう。

  我ながら、業が深いにも程がある。

  「はぁ……」

  ため息をつく。目を閉じれば、すぐにあの光景が蘇る。

  スポットライトを浴びたように輝く銀色の毛並み。

  仕立ての良いベストに包まれた、分厚くも引き締まった胸板。

  そして、鼓膜を溶かすような極上のバリトンボイス。

  『もしかして……リクさんですか?』

  「うっ……」

  思い出すだけで、心臓が痛いほど脈打つ。

  美術館に飾られるような気品ある容貌と、公衆便所の落書きのようにえげつなく汚い(褒め言葉)漫画の内容。

  穏やかで紳士的な口調と、SNSでの暴力的で下品な言葉遣い。

  何もかもが正反対だ。

  水と油のように混ざり合わないはずの要素が、あの一人の狐獣人の中で奇跡的なバランスで共存している。

  (なんなんだ、あの人は……)

  考えれば考えるほど、分からなくなる。

  ただ一つ確かなのは、僕の心のざわつきが、時間が経つごとに静まるどころか、嵐のように大きくなっているということだけだ。

  このままでは頭がおかしくなりそうだ。

  僕は気を紛らわせるように、ポケットからスマートフォンを取り出した。

  画面の明るさが、薄暗い休憩所に眩しく光る。

  SNSアプリを開くと、検索トレンドの上位に見慣れない、けれど見慣れた単語が躍っていた。

  『ちんたま先生』

  「……トレンド入りしてるし」

  僕は乾いた笑いを漏らしながら、そのワードをタップした。

  画面をスクロールすると、そこには喜びと困惑、そして興奮が入り混じった阿鼻叫喚のツイート群が滝のように流れていた。

  『【速報】ちんたま先生、タヌキじゃなくて国宝級の銀狐だった。繰り返す、国宝級の銀狐だった。俺たちが想像してた汚い狸おっさんはどこ行った? 転生したのか?』

  『ちんたま先生の「ありがとうございます(イケボ)」を聞いて、存在しない子宮が疼いた。俺は男だぞ? どう責任取ってくれるんだ」

  『ちんたま先生との握手で妊娠しました。認知して責任とってください(三十代男性)』

  「【悲報】ちんたま先生のブース、実質無料のホストクラブと化す。なお提供されるのはシャンパンではなく濃厚な変態性癖同人誌」

  どうやら、パニックに陥ったのは僕だけではなかったらしい。

  会場中の参加者が、あの「美しき誤算」に撃ち抜かれ、その衝撃をネットの海に吐き出している。

  語彙力を失い、性癖を拗らせ、それでも喜びを爆発させる同志たち。

  先生の存在そのものが、このイベント最大の「爆弾」となって、リアルとネットの両方を揺るがしていたのだ。

  「……みんな、狂ってるなぁ」

  画面を眺めていると、少しだけ冷静になれた気がした。

  みんな同じだ。みんな、あのギャップに脳を焼かれている。

  そう自分に言い聞かせ、僕はそっとアプリを閉じようとした。

  その時だった。

  画面の上部に、ひっそりと、しかし強烈な存在感を放つ通知バナーがポップアップした。

  『ちんたま[[rb:権太郎 > ごんぶとろう]]さんからメッセージが届いています』

  「……は?」

  指が止まる。

  心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

  指先が震えて、うまくタップできない。

  深呼吸をひとつ、ふたつ。

  意を決して通知バナーを押すと、トーク画面が開かれた。

  送信者は、あの見慣れた落書きのようなタヌキアイコンの『ちんたま権太郎』。

  しかし、そこに綴られていたのは、アイコンのイメージとはかけ離れた、整然とした丁寧な文章だった。

  ――――――――――

  ちんたま権太郎

  お疲れ様です、ちんたま権太郎です。

  本日はスペースまでお越しいただき、本当にありがとうございました。

  差し入れもありがとうございました。さっそく頂きました

  せっかく来ていただいたのに、私が驚かせてしまったようで……リクさんが慌てて帰られた後、とても気になっていました。大丈夫でしたか?

  実は、以前からリクさんの感想ツイートを拝見していて、その深い洞察力と熱量に、勝手ながら特別なシンパシーを感じていたんです。

  もしご迷惑でなければ、今日のお詫びも兼ねて、少しお話しできませんか?

  この後、仲の良い作家さんたち(タヌキ山先生とか、ゴリラ川先生)と浜松町で魚が美味しいお店に行く予定なんです。

  もしお時間があれば、リクさんもご一緒にいかがでしょう?

  もちろん、ご無理ならスルーしていただいて構いません。

  ご検討いただければ幸いです。

  ――――――――――

  「え……?」

  文章を読み終えても、まだ現実感が湧かない。

  あのちんたま先生から、直接のお誘い?

  しかも、「特別なシンパシー」?  「他の作家さんたちとの食事会」?

  (僕が? 神々の宴に?)

  想像しただけで眩暈がする。

  タヌキ山先生やゴリラ川先生といった、雲の上の存在たちが集う飲み会。そこに僕みたいな一介のファンが混ざっていいわけがない。

  普通なら、恐れ多くて辞退するところだ。

  けれど。

  文面から滲み出る、あの上品な大人の気遣い。

  そして、「お話しできませんか?」という言葉の引力。

  今日見た、あの銀狐の紳士の笑顔が脳裏にちらつく。

  (会いたい……)

  本能が、理性を飛び越えて叫んだ。

  あの方ともう一度会って、今度こそちゃんとお話ししたい。

  作品への愛を伝えたい。

  そして、あの良い匂いのする空気を、もう一度吸いたい。

  「……行かなきゃ、後悔する」

  僕は震える指で、「喜んで参加させていただきます」という返信を打ち込んだ。

  [newpage]

  [chapter:第二章 悦楽のセンセーション]

  すっかり日の暮れた浜松町駅。北口改札を出ると、そこはイベント帰りの人々だろうか、高揚感を抱えた人々で溢れかえっていた。ビルの合間からは、鮮やかなオレンジ色にライトアップされた東京タワーが、冬の夜空に浮かび上がっている。

  東京湾からの潮風と、都会の喧騒が混ざり合った冷たい空気が肌を刺す。

  僕は指定された待ち合わせ場所――改札を出てすぐの広場へと急いだ。多くの人が待ち合わせをしている場所だが、僕の目は迷うことなく彼を見つけ出した。雑踏の中でも、彼だけスポットライトが当たっているかのように空気が違うからだ。

  (……いた)

  身長百九十センチはあるだろうか。

  英国紳士を思わせるキャメル色のチェスターコートを着こなし、首元には上品なチェック柄のカシミアマフラー。

  背筋はピンと伸び、恰幅の良い体型が「太っている」のではなく「威厳」として映る。

  銀色の毛並みが、駅の照明と背後の東京タワーの灯りを反射して輝いていた。まるで、ファッション誌の撮影のようだ。

  僕が足を止めると、彼――ちんたま権太郎先生が、こちらに気づいた。

  「リクさん」

  彼は目を細め、子供のようにパッと表情を明るくして、大きく手を振った。

  その仕草ひとつ。

  ただ手を振っただけなのに、映画のワンシーンのように美しい。

  ドクン、と心臓が跳ねる。

  「待ってたよ」と言わんばかりのその笑顔に、僕の血液が一気に沸騰する。

  足が震えそうになるのを必死に堪えて、僕は小走りで彼のもとへ駆け寄った。

  「は、はぁ……っ、お、お待たせしま、した……!」

  息を切らして目の前に立つと、改めてその容貌の破壊力に圧倒される。

  近くで見ると、肌のツヤも、整えられた毛並みも、何もかもが完璧だ。

  香水の良い匂いが、夜風に乗って鼻先をくすぐる。

  「あの、お誘いあ……ありが……!」

  言おうとした言葉が、喉で詰まる。

  見惚れてしまって、脳からの指令が口まで届かない。

  「……あ、あ、足が、長いです……っ!」

  代わりに、僕の口から飛び出したのは、自分でも意味不明な言葉だった。

  沈黙。

  彼は一瞬きょとんとして自分の足元を見下ろし、それから堪えきれないように「……ふふっ」と吹き出した。

  肩を揺らして、楽しそうにクスクスと笑う。

  「あ、ちが、あのっ、ち、ちっちち違くて! ご、ごごごごめんなさい! 意味わかんないこと言って……!」

  「いえいえ、ふふっ。最高の褒め言葉ですよ。ありがとうございます」

  彼は目尻に涙を浮かべながら、僕の肩をポンと優しく叩いた。

  その手の温もりに、またしても心臓が跳ねる。

  「さあ、行きましょうか。店はすぐそこですから」

  「は、はい……!」

  彼はスマートに僕を促し、歩き出した。

  その背中を見つめながら、僕は赤面した顔をマフラーに埋める。

  ダメだ。敵わない。

  この人と一緒にいたら、僕の理性なんて数分も持たない気がする。

  浜松町駅から歩くこと数分。

  賑やかな大通りから一本入った路地に、その店はあった。

  竹の植え込みと、上品な白木の格子戸。

  暖簾には達筆な文字で店名が染め抜かれ、入り口には打ち水がされている。

  お店と聞いて想像していた赤提灯系の店とは違い、どう見ても接待や密会に使われそうな、隠れ家的な小料理屋の佇まいだ。

  (え……た、高そう……!?)

  僕は思わず尻込みした。

  こんな高級感のある店に、今日初めて会った(しかも一介のファンである)僕が入っていいものだろうか。

  しかも、これから合流するであろう大御所作家の先生方も、こんな店に相応しい貫禄があるのだろう。

  僕の服装では、完全に浮いてしまうのではないか。

  「ここです。魚が新鮮でね、日本酒の種類も豊富なんですよ」

  先生は何の気負いもなく、慣れた様子で格子戸に手をかけた。

  その背中は、この店の雰囲気に完璧に馴染んでいる。

  「さ、どうぞ」

  「あ、はい……お邪魔します……」

  先生にエスコートされ、僕は緊張でガチガチになりながら暖簾をくぐった。

  入り口で靴を脱ぎ、着物を着た店員さんに出迎えられる。

  「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

  「予約していた[[rb:狐塚 > こづか]]です」

  先生がスマートに名前を告げる。

  狐塚、というのが先生の本名なのだろうか。

  そんなことを考えていると、店員さんが予約リストを確認して言った。

  「狐塚様、二名様ですね。奥の個室へご案内いたします」

  「……えっ?」

  僕は思わず声を上げた。

  二名?

  他の作家さんたちも来るはずじゃ……?

  「あ、あの、先生……? 他の皆さんは……?」

  恐る恐る尋ねると、先生は足を止めて振り返った。

  そして、きょとんとした顔で、何でもないことのように言った。

  「ああ、彼らですか?  呼んでませんよ」

  「へ?」

  「あれは嘘です」

  「……う、嘘!?」

  店先で素っ頓狂な声を上げてしまった僕を見て、先生は悪びれる様子もなく、むしろイタズラが成功した子供のようにクスクスと笑った。

  「だって、あんなむさ苦しい連中と飲むより、君みたいな可愛い子と二人っきりの方がお酒も美味しいでしょう?」

  「えっ、あ、えええ……!?」

  「ごめんなさい、君とどうしても『しっぽり』したくて。つい、嘘をついてしました」

  しれっとした顔でとんでもないことを言っている。

  詐欺だ。これは立派な詐欺だ。

  だが、先生はそんな僕の混乱などお構いなしに、ニコリと微笑んで店員さんに頷いた。

  「さ、行きましょうか。美味しい魚が待ってますよ」

  そう言って、僕の背中に手を添え、強引かつスマートに奥へと促す。

  背中に感じる手の熱さと、「可愛い子」「二人きり」という言葉の余韻。

  逃げるタイミングなんて、とっくに失っていた。

  (こ、こんな素敵な方と、ふ、ふふふ二人きりッ!!??)

  怒るべきなのに、顔が熱くなるのを止められない。

  僕は半ばパニックになりながら、されるがままに個室へと連行されていった。

  ◇

  静かな個室に、とくとくと日本酒を注ぐ音が響く。

  先生のおすすめだという純米大吟醸は、フルーティーで口当たりが良く、まるで極上の湧き水のように喉を通っていく。

  「美味しい……」

  「でしょう? この酒蔵は仕込み水が良いんです。口に含んだ瞬間の華やかさと、喉越しのキレ。君のような、凛とした佇まいの人にこそ味わってほしいと思ってね」

  先生は目を細め、手ずから僕のグラスに酒を注ぎ足した。

  その所作は流れるようで、袖口から覗く腕時計やカフスボタンが、間接照明の下で鈍く光る。

  テーブルの上には、美しく盛られた刺身や、絶品の煮付け。

  先生は箸使いも完璧で、魚の骨を綺麗に取り除き、一番美味しい部分を僕の小皿に取り分けてくれる。

  それどころか、箸で摘んだ身を、直接僕の口元へと運んできた。

  「ほら、あーん」

  「えっ!? あ、じ、じじ自分で食べます!」

  「ふふっ、遠慮しないで。今日は君をもてなしたいんですから」

  先生の笑顔に逆らえず、僕は恐る恐る口を開けた。

  煮付けの柔らかい身が舌に乗る。

  その瞬間、先生の指先が、僕の下唇をあえてなぞるように、ゆっくりと掠めた。

  「ん……っ?」

  ほんの一瞬の接触。

  けれど、その指の熱さと、ザラリとした指紋の感触が、電気のように身体を走った。

  まるでキスをされたかのような錯覚に、僕の顔は沸騰したように熱くなる。

  「ふふ、いい食べっぷりですね」

  まるで姫君のような扱いに、僕の心臓は休む暇もない。

  会話は、魚の産地の話から始まり、最近の文芸作品、さらには美術展の話へと広がっていった。

  先生の知識量は凄まじい。どんな話題を振っても、深く、知的な見解が返ってくる。

  その完璧な姿を見れば見るほど、僕の中の違和感は膨れ上がっていく。

  (本当に、この人が?)

  僕の視線が、無意識に先生の手元や口元を彷徨っていたのだろう。

  先生はふと箸を置き、穏やかな微笑みを浮かべて僕を見据えた。

  「……リクさんは、まだ私が『ちんたま[[rb:権太郎 > ごんぶとろう]]』だと信じられませんか?」

  「えっ……!?」

  心の中を見透かされたような問いに、僕はビクリと肩を震わせた。

  確かに、会話が弾んでもなお、僕の心のどこかには「本当に?」という疑念がこびりついていた。

  だって、目の前のこの紳士があの下品な……いや、芸術的な変態漫画を描いているなんて、どうしても脳が処理できないのだ。

  「あ、いえっ! 疑ってるわけじゃなくて……その、あまりにもイメージと違いすぎて……」

  「ふふっ、無理もありません。自分でも詐欺みたいだと思いますから」

  先生は悪戯っぽく笑うと、懐から革製の手帳と万年筆を取り出した。

  さらさら、と手帳のメモ用紙にペン先を走らせる。

  迷いのない、流れるような筆致。

  数秒もしないうちに、彼はその紙を切り離し、僕に差し出した。

  「はい。これなら、信じてもらえますか?」

  手渡された小さな紙片。

  そこには、万年筆のブルーブラックのインクで、一匹のタヌキ獣人が描かれていた。

  だらしなく突き出た腹、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた口元、そして無精髭。

  ラフなスケッチなのに、線の一本一本が生きているように躍動している。

  間違いなかった。

  僕が毎晩のようにお世話になっている、竿役の狸獣人だ。

  「……っ!!」

  息を呑む。

  目の前で魔法を見せられたような気分だ。

  この美しい指先から、あの汚くて愛おしい世界が生み出されている。

  その事実に、背筋が震えた。

  「はい、リクさんとの出会いの記念です。魔除けにでもしてください」

  先生は片目を瞑って、パチンとウインクしてみせた。

  そのお茶目さと、漂う大人の色気。

  そして手元にある「下品なタヌキの絵」。

  この強烈なコントラストに、僕の心臓は警鐘を鳴らすほど激しく高鳴った。

  「あ、ありがとうございます……! 家宝にします……!」

  僕は頂いた紙片を、指紋一つ付けないように丁寧に財布にしまい込んだ。

  そんな僕の様子を、先生は愛おしそうに、そしてどこか観察するように見つめながら、自分のグラスを傾けている。

  その視線に耐えきれず、僕は照れ隠しと、回ってきた酔いの勢いを借りて、ずっと気になっていたことを口にした。

  「あの、先生……ずっと聞きたかったんですけど」

  「ん? 何でも聞いてください」

  「その……『ちんたま権太郎』というお名前と……SNSでの、あのキャラクターは……」

  核心を突く質問に、先生は苦笑して杯を置いた。

  そして、少し芝居がかった仕草で、大袈裟にため息をついてみせた。

  「ああ、やっぱり気になりますよね。……幻滅しましたか?」

  「い、いえっ! むしろギャップに萌え……あ、いや、驚いたというか……」

  「ふふっ、正直でよろしい」

  先生は懐かしむように遠くを見た。その横顔は、まるで悲劇の主人公を演じる舞台役者のように雄弁だ。

  「あの名前はね、完全に悪ふざけなんですよ。SNSに登録する当時、作家仲間の悪友たちと飲んでいて……泥酔した彼らに勝手に名前を決められてしまってね。『一番最低な名前にしてやる』って」

  「ええっ!? そ、そうだったんですか……!」

  「ええ。SNSのキャラもそうです。『お前みたいな堅物は、ネットじゃ道化を演じた方が人気出るぞ』って唆されて。最初は嫌だったんですが、やってみたら思いのほかウケてしまって……引くに引けなくなってしまったんです」

  先生は「やれやれ」と肩をすくめた。

  なんてことだ。

  僕はずっと、先生のことを根っからの変態だと思っていたけれど、実は悪友たちに振り回された被害者だったなんて。

  それなのに、ファンの期待に応えるために、あんな汚いおっさんを演じ続けていたのか。

  「……今まで表に出なかったのも、それが理由です。こんな……つまらない男が中の人だと知れたら、ファンの皆さんの夢を壊してしまうでしょう? 『汚いおっさんだと思ってたのにガッカリ』なんて言われたら、立ち直れませんから」

  先生は寂しげに笑い、グラスに残った酒を煽った。

  伏せられた睫毛が、間接照明の下で長い影を落とす。

  その完璧すぎる悲劇のヒーローぶりに、冷静な第三者なら違和感を覚えたかもしれない。

  けれど、恋に落ちかけた僕の目には、ただただ美しく、切ない姿として焼き付いた。

  胸の奥が、ぎゅっと音を立てて締め付けられる。

  喉の奥が熱い。

  日本酒のせいじゃない。

  目の前にいるこの人が、ただ才能ある作家というだけでなく、ファンの幻想を守るために泥を被り続けてきた道化師のように見えてしまったからだ。

  SNSでのあの下品な振る舞いも、汚い自虐も、すべては僕たちを楽しませるための優しさだったなんて。

  視界が滲む。

  彼が積み重ねてきた孤独な演技と、その裏にあった誠実さを思うと、愛おしさがこみ上げてきて呼吸が苦しくなる。

  この人の、この寂しげな笑顔を、僕だけが知っている。

  その事実が、たまらなく甘く、そして重い。

  「そんなこと……ッ!」

  理性が止めるより早く、身体が動いていた。

  テーブル越しに身を乗り出し、カウンターに置かれた先生の大きな手を、両手で包み込むように握りしめる。

  先生が驚いて目を見開く。彼の瞳が、僕を映す。

  「ガッカリなんて……するわけないじゃないですか!」

  声が震える。でも、止められない。

  「僕は……全部、ひっくるめて好きなんです。作品も、…そ、その、ちょっとげ、下品なツイートも、そして……僕たちのためにピエロを演じてくれていた、今の先生も!」

  熱く語る僕の言葉を、先生は瞬きもせずに受け止めていた。

  やがて、その瞳が細められ、とろけるような柔らかな光を宿す。

  「……ありがとう、リクさん」

  先生の手が返され、僕の手を強く握り返す。

  大きくて、温かくて、分厚い手のひら。

  そのまま指が絡められ、親指の腹が、僕の手の甲をゆっくりと、愛撫するように撫でた。

  ぞくり、と背筋を熱い電流が駆け抜ける。

  「君にそう言ってもらえると……救われます」

  甘い声と共に、先生が立ち上がり、テーブルの横へと移動してきた。

  僕の隣に座り、そっと肩を抱き寄せる。

  ふわりと、白檀の香りが濃厚に漂い、僕の思考を白く塗り潰していく。

  「君は本当に……素直で、可愛い人だ」

  「せ、せんせ……?」

  「顔、真っ赤ですよ?」

  耳元で囁かれる低音。

  吐息が耳朶をくすぐり、鼓膜を直接揺らす。

  至近距離で僕を見下ろす瞳は、もう先ほどまでの寂しげな色ではない。

  獲物を完全に魅了し、絡め取ろうとする、美しくも危険な捕食者の輝きを帯びていた。

  「あ……」

  急激に、視界が揺らいだ。

  張り詰めていた糸が切れた反動か、それともこの致死量の色気に脳が焼かれたのか。

  いや、もしかしたら先生が勧めてくれたあのお酒は、僕が思っていたよりもずっと「強い」ものだったのかもしれない。

  世界の輪郭が溶け出し、急速に遠ざかっていく。

  (先生、きれい……)

  思考が途切れる。

  最後に感じたのは、崩れ落ちる僕の身体を支える、大きくて温かい腕の感触。

  そして、闇に落ちる寸前に聞こえた、甘い毒のような呟き。

  「……おやすみなさい、リクさん」

  プツン、と。

  僕の意識は、心地よい熱と共に、深い闇の中へと沈んでいった。

  ◇

  「ん……ぅ……」

  重いまぶたを持ち上げると、そこは知らない天井だった。

  間接照明の柔らかな光。静寂。

  そして、かすかに漂う白檀の香り。

  僕は上体を起こし、こめかみを押さえた。

  頭が少し痛い。記憶の糸を手繰り寄せる。

  個室居酒屋、美味しい日本酒、先生の甘い囁き、そして……。

  そうだ。僕はいきなり意識を失って、先生の腕の中に倒れ込んだんだ。

  (……やらかした)

  恥ずかしさで顔から火が出そうだ。

  憧れの作家さんとのデート(?)で、泥酔して気絶するなんて。

  ファン失格だ。穴があったら入りたい。

  それにしても、ここはどこだ?

  僕は恐る恐る周囲を見渡した。

  そして、息を呑んだ。

  そこは、まるでテレビドラマに出てくるような、とてつもなく広いリビングだった。

  床はピカピカに磨かれたダークブラウンのフローリング。

  僕が寝かされていたのは、大の字になっても余るほど巨大な黒い革のソファ。

  壁にはよく分からないけれど凄そうな絵が飾られているし、テーブルのガラス板なんて指紋ひとつない。

  生活感というものがまるで感じられない。

  (ラブホ……にしては、広すぎるし、高級すぎる)

  僕みたいな庶民が知っている「高い部屋」のレベルじゃない。

  置いてある家具ひとつとっても、きっと僕の給料数ヶ月分じゃ買えないようなオーラを放っている。

  何より、部屋の空気が違う。静謐で、ひんやりとした、成功者だけが纏える、高貴な白檀の香りガスる。

  ふと、視界の端にある、壁一面を覆う巨大なガラス窓に目が止まった。

  僕はふらつく足でソファを降り、窓辺へと近づいた。

  「……うそっ」

  窓の外に広がっていたのは、圧倒的な光の塔だった。

  東京タワー。

  それも、遠くに見える夜景の一部としてではない。

  まるで巨人が少し先に立っているかのような迫力。

  鮮やかなオレンジ色の鉄骨の組み上がりや、展望台の光までもが鮮明に見える。

  眼下には、光の川となって流れる首都高速と、足元にひれ伏すようなミニチュアのビル群。

  (この高さ……間違いなくビルかなにかの高層階だ)

  (しかも、東京タワーとのこの距離感……)

  この距離感で東京タワーが見える場所なんて、日本中探しても一箇所しかない。

  港区。

  日本で最も地価が高いエリア。

  そしてここは、たぶんその一等地にあるタワーマンション。

  ここに僕を連れてきたのは、一体誰だ? 先生?

  「おや、お目覚めですか?」

  背後から声がして、僕は飛び上がるほど驚いて振り返った。

  そこには、片手にグラスを持った先生が立っていた。

  先ほどまでのカッチリとしたベスト姿ではない。

  シャツのボタンを胸元まで外し、袖を捲り上げたラフな姿。

  その無造作な着崩しが、かえって大人の色気を濃厚に漂わせている。

  「せ、先生……! す、すみません! 僕、寝ちゃって……!」

  「ふふ、謝らなくていいんですよ。気持ちよさそうに寝ていましたから」

  先生は優雅に歩み寄り、僕に常温の水の入ったグラスを差し出した。

  「あの……ここは……?」

  「ああ、私の自宅です。君が倒れてしまったので、ホテルを探すのも大変だし……」

  先生はこともなげに言い、窓の外の東京タワーを一瞥した。

  「浜松町からは近所なので、ひとまず君を休ませなくては、と思いまして」

  「……じ、自宅!? き、近所……!?」

  絶句してしまう。

  自宅? ここが?

  「近所」の一言で片付けられるような場所じゃない。

  港区の一等地に聳え立つ、成功者の象徴のようなタワーマンション。

  そこに住んでいるのが、あの『ちんたま権太郎』先生?

  えげつないエロ漫画を描いて、SNSで「手汁」とか「股間のカビ」だの言っていた人が?

  (……先生は、いったい何者なんだ?)

  背筋に冷たいものが走る。

  僕は触れてはいけない聖域、あるいは魔窟に足を踏み入れてしまったのではないか。

  先生は「まあ、座ってください」とソファを勧めた。

  僕は震える手でグラスを受け取り、ソファの端にちょこんと座り直した。

  先生が隣に腰を下ろす。

  革のソファが沈み込み、先生の体温と香りが、ふわりと僕を包み込んだ。

  「水、足りていますか?」

  「あ、はい……ありがとうございます」

  冷たい水が喉を通り、ようやく少しだけ思考回路が繋がり始めた。

  そうだ、僕はお酒を奢ってもらって、しかもご自宅にまで運んでもらって……。

  僕は慌ててグラスをテーブルに置き、居住まいを正した。

  「あ、あの! 先生、お店のお代……!」

  酔っ払って気絶した上に、支払いまで押し付けるなんて言語道断だ。僕は震える手でポケットを探り、財布を取り出そうとする。

  「いくらでしたか? 今すぐお支払いします! それに、ここまで運んでいただいたお礼も……」

  「リクさん」

  先生は僕の言葉を遮るように、穏やかに微笑んだ。焦る僕の手首を、大きな掌が優しく、けれど絶対に逃がさない強さで制する。

  「いいんですよ。今日は私が誘ったんですから」

  「で、でも! ご馳走になりっぱなしで、こんなに良くしていただいて……申し訳なさすぎて……!」

  食い下がる僕に、先生は困ったように、そしてどこか楽しげに目を細めた。

  「ふふ、本当に律儀な人だ」

  先生は僕の手から財布をそっと遠ざけ、その指先で僕の顎をくい、と持ち上げた。視線が絡み合う。

  さっきまでの穏やかな瞳の奥に、昏く、熱い光が揺らめいた気がした。

  「お金なんて、いりませんよ。……お代はこれから頂きますから」

  「え……?」

  意味深な言葉と共に落とされた、艶やかな微笑み。あまりの色気に、僕は言葉を失い、ただ口をパクパクとさせることしかできない。

  先生は僕の反応を楽しむように喉を鳴らすと、テーブルの上のグラスを手に取った。あろうことか、僕が口をつけたのと全く同じ場所に、自身の唇を重ねて、残りを飲み干した。

  「ぁっ……」

  「ん? どうかしましたか?」

  平然と微笑む先生に、心臓が爆発しそうになる。

  隣に座る先生との距離が、少しずつ、けれど確実に縮まっていくのを感じる。

  先生はグラスを置くと、僕を逃がさないように片腕をソファの背もたれに回し、ゆったりと足を組み替えた。その拍子に、ふわりと香る白檀の香り。

  先ほどよりもシャツのボタンが開いているせいで、雪のように白く輝く胸元の毛並みがチラチラと見えてしまい、僕は目のやり場に困った。

  「リクさん」

  「は、はいっ」

  「寝顔も、綺麗でしたよ」

  不意打ちだった。

  先生の長い指先が伸びてきて、僕の頬を覆う長い飾り毛を、そっと梳くように撫でた。

  指の腹が、敏感な耳の房毛をくすぐる。

  「んぅっ……!」

  「ふふ、可愛い声だ。……君は本当に、どこから見ても美しい」

  先生は愛おしそうに目を細め、まるで高級な美術品を鑑定するように僕を見つめた。

  「この豪奢なコート、濡れたような瞳……。君のような素敵な人が私のファンでいてくれて、私は幸せ者です」

  「そ、そんな……僕なんて、ただのオタクで……」

  「謙遜しないでください。君には、自分では気づいていない魅力がたくさんある」

  先生の手が、頬から顎、そして首筋へと滑り落ちる。

  いやらしい動きではない。あくまで優しく、慈しむような手つき。

  でも、触れられた場所から熱が広がり、身体の芯が痺れていく。

  その時だった。

  足首に、何か温かくてモフモフしたものが触れた。

  「ひゃっ!?」

  驚いて見下ろすと、そこには先生の立派な尻尾があった。

  冬毛で極限まで膨らんだ、質量のある純白の極太の尾。

  それが、僕の足首に蛇のように、しかし優しく絡みついている。

  逃がさないように。あるいは、マーキングするように。

  「おや、驚かせてしまいましたか? ……私の尻尾も、君に触れたがっているようです」

  先生は悪戯っぽく微笑み、尻尾の締め付けを少しだけ強くした。

  僕の太い尻尾も、恐怖と期待で大きく膨らみ、無意識のうちに先生の白い尾に絡み返そうとしてしまう。

  本能レベルでの求愛。

  言葉巧みな誘惑よりも、この「尻尾の交わり」が何よりも雄弁に僕の理性を削り取っていく。

  「さて……」

  先生は一度言葉を切り、少しだけ身を乗り出した。

  瞳が、妖しく光る。

  「随分と夜も更けてしまいましたが……どうしましょうか? タクシーを呼びましょうか?」

  言葉とは裏腹に、先生の手は僕の手首を掴んでいた。

  強くはない。振りほどこうと思えば、簡単に振りほどける強さだ。

  けれど、その親指が僕の手首の内側――脈打つ場所を、ゆっくりと、円を描くように撫で回している。

  足元では、純白の尾が僕の太ももの方へと這い上がってきていた。

  「それとも……もう少し私と、『深い話』をしますか?」

  「ふ、ふ、ふか、い……話……?」

  「ええ。君の好きなこと、嫌いなこと……もっと教えてほしいんです。それに……」

  先生は顔を寄せ、僕の耳元に唇を寄せた。

  吐息がかかる距離。

  「私も、君に教えたいことがたくさんありますから」

  低く、甘く、絡みつくような丁寧語。

  それは選択肢の提示なんかじゃない。

  「帰しませんよ」という意志を、最高級のオブラートで包んだ決定事項だった。

  (帰れるわけが、ない)

  こんな風に見つめられて。

  尻尾を絡め取られて。

  憧れの神様に「君が欲しい」と言外に告げられて、拒めるはずがない。

  僕の頭の中で、警報が鳴り響く。

  『この人について行ったら、もう戻れない』

  『身も心も、骨の髄まで食べ尽くされる』

  でも、僕の身体は正直だった。

  恐怖よりも、好奇心よりも、目の前の「上品な淫魔」に溺れたいという欲求が勝ってしまったのだ。

  「……帰りたく、ないです」

  蚊の鳴くような声で答えると、先生は満足そうに口角を上げた。

  「……いい子ですね」

  僕の額に、契約の印のようなキスが落とされた。

  先生は少しだけ顔を離すと、とろけるような甘い眼差しで僕を見つめ、長い指先で僕の頬を撫でた。

  指の腹が、愛おしむように銀灰色の毛並みをなぞる。

  「可愛いですよ。震えて……」

  「あ、ぅ……」

  耳元で囁かれるバリトンボイスに、背筋が粟立つ。

  怪しいほどに甘い雰囲気。逃げ場のないソファの上。

  目の前の美しい銀狐は、優しく微笑んでいるはずなのに、その瞳の奥には底知れない暗い炎が揺らめいているように見えた。

  「せんせ……んっ……」

  言葉を発しようとした唇が、先生の唇によって塞がれた。

  最初は、触れるだけのバードキス。

  ついばむように、角度を変えて何度も重ねられる。

  リップ音だけが静かなリビングに響き、僕の思考を少しずつ溶かしていく。

  (やさしい……)

  憧れの神様とのキス。

  夢見心地で、僕は目を閉じ、その感触に身を委ねた。

  けれど、その安息は長くは続かなかった。

  「んっ……ふ、ぁ……!?」

  不意に、先生の舌が強引にねじ込まれた。

  さっきまでの優しさとは打って変わって、口腔内を蹂躙するような激しいディープキス。

  舌が絡みつき、唾液を貪り、僕の息を全て奪っていく。

  それはまるで、獲物の喉元に牙を突き立てる捕食者のそれだった。

  「んぐっ、ぁ……! んぅっ……!」

  苦しい。でも、逃げられない。

  先生の大きな手が僕の後頭部をがっちりとホールドし、自由を奪っている。

  そして何より、足元からの侵食が僕を狂わせる。

  ぞわり。

  先生の太い尻尾が、スラックスの裾から這い上がり、太ももの内側を執拗に擦り上げていた。

  冬毛の密集した柔らかい毛先が、敏感な内股の皮膚を撫で、時折ギュッと締め付ける。

  上からは唇で、下からは尻尾で。

  逃げ場のない快楽の挟み撃ちに、僕の脳は真っ白に弾けた。

  「ぷはっ……! はぁ、はぁ……!」

  酸素が尽きかけた頃、ようやく唇が解放された。

  僕は酸素を求めて大きく喘ぎ、涙目で先生を見上げた。

  先生の口元には、僕との口づけで濡れた銀色の糸が引いている。

  「ふふ……」

  先生は乱れた呼吸を整えることもなく、妖艶に微笑んだ。

  そして、濡れた舌先でペロリと自分の唇を舐め上げた。

  その仕草があまりにも無防備で、そして残酷なほどに嗜虐的だった。

  「すみません。……私としたことが」

  先生はまるで懺悔するかのように困った眉をした。

  「あまりにも君が可愛くて……つい、がっついてしまいました」

  「……っ」

  嘘だ。

  その目は全く反省していない。むしろ、「次はもっと深く味わってやる」と言わんばかりに、飢えた色を宿して僕の全身を舐めるように見ている。

  紳士的な言葉の裏に見え隠れする、暴力的なまでの欲望。

  (……食べられる)

  本能が警鐘を鳴らす。

  この人は、僕が知っている「優しい先生」じゃない。

  僕が憧れ、恐れていた、あの作品の中の「ドSな攻め」そのものだ。

  「さあ……続きをしましょうか」

  先生の手が、僕のシャツのボタンに掛けられた。

  抗う術など、最初から持っていなかった。

  僕は震える身体で、その捕食者の腕の中へと堕ちていく。

  「失礼しますね」

  僕のシャツのボタンが外されていく。

  先生の手つきは魔法のように素早く、けれど乱暴ではない。まるで最高級の画材を開封するかのような、丁寧で、それでいて執拗な手つきだ。

  (……これ、知ってる……!)

  露わになる肌に冷たい空気が触れると同時に、僕の脳裏に既視感がフラッシュバックした。

  先生の名作『新人秘書の残業日誌』だ。

  あの作品でも、狸の社長は「君の能力を査定する」と言いながら、抵抗できない秘書の服を一枚ずつ剥いでいった。

  あの時の社長のセリフは『中身の確認だ、グヘヘ』だったけれど、目の前の先生はあくまで優雅だ。

  「綺麗な毛並みですね。……よく手入れも行き届いてる」

  「ひゃ、あ……っ!」

  冷たい指先が、剥き出しになった乳首を掠めた。

  ただ触れただけではない。指の腹でコリッと弾き、つねり上げるような刺激。

  「んっ! あ、くぅ……!」

  「おや、ここが弱いんですか? 漫画みたいな反応ですね」

  先生は楽しげに目を細め、執拗に先端を弄り始めた。

  右手を乳首に、左手を脇腹に這わせ、くすぐるように、犯すように指を這わせる。

  その愛撫は、僕が何百回と読み込み、何千回とおかずにしてきた「ちんたまメソッド」そのものだった。

  (嘘だ、こんな……漫画と、同じ……っ!)

  先生の指が動くたび、快楽の電流が背骨を駆け上がる。

  『ここを攻めればウケは落ちる』と知り尽くしている、作者本人による直接攻略。

  耐えられるはずがない。

  「君は本当に不用心ですね」

  先生は僕のズボンのベルトに手を掛けながら、諭すように囁いた。

  「今日知り合ったおじさんと、意識を失うまでお酒を飲むなんて……」

  「あ……うぅ……」

  「私の漫画、読んでいるんでしょう? 『こういう状況』になったキャラがどうなるか……君が一番よく知っているはずですが?」

  ベルトが外れる音が、死刑宣告のように響いた。

  (――『世の中の厳しさを教えてやる』!)

  脳内で、狸社長のゲスな名台詞が再生される。

  そうだ、これは『教育的指導』という名の捕食だ。

  ズボンと下着を一気に引き下げられ、下半身が涼しい空気に晒される。

  恥ずかしさに太ももを閉じようとしたけれど、先生の太い尻尾が割り込み、強制的に股を開かせた。

  「隠さないで。……君の全てを、見せてください」

  先生は僕の股間に顔を寄せ、熱い吐息を吹きかけた。

  「ひぃっ!?」

  「ふふ、可愛いのが元気になっている。……さて、後ろはどうでしょう?」

  先生の長い中指が、僕の秘部へと伸びる。

  ヌルリとしたローションの感触もないまま、乾いた蕾を弄ぶように円を描く。

  「く、うぅっ……! せんせ、そこ、は……っ!」

  「力が抜けていませんね。……リラックスしてください。痛くするのは、私の本意ではありませんから」

  嘘だ。

  その目は、獲物の内側を食い破る瞬間を待ちわびている獣の目だ。

  「ふふ……まだ入れませんよ。大切な場所ですからね」

  僕が身を強張らせると、先生はあやすように指の力を緩めた。

  けれど、指先は離れない。

  きゅっと閉じた蕾の周りを、円を描くようになぞり、時折、爪先でカリカリと入り口を引っ掻く。

  「ひぅっ……! んっ……!」

  中に入っていないのに、そこを意識させられるだけで、腰が勝手に跳ねてしまう。

  先生の指は、まるでドアノブに手を掛けて「いつでも開けられるんだぞ」と脅しているかのような、残酷な優しさを持っていた。

  「……ここ、随分と柔らかいですね」

  先生は顔を近づけ、まじまじと僕の恥部を観察した。

  瞳が、解剖学的な興味と、歪んだ嗜虐性で光っている。

  「ヒクヒクと動いて……まるで、何かを欲しがっているようだ」

  「そ、んな……っ!」

  「リクさん。……正直に答えてください」

  先生の声が、一段低くなった。

  心臓を鷲掴みにされるような、威圧感と色気を含んだ声。

  「ここ、使ったことはあるんですか?」

  「あ……」

  頭が真っ白になった。

  憧れの作家様に、自分のオナニー事情――しかも、後ろを使った自慰を尋問されている。

  こんなの、まるで……。

  (『生徒会長の裏の顔』……!)

  脳内に、ちんたま先生の描いた名作の1シーンが浮かぶ。

  優等生の仮面を被った主人公が、狸校長に裏垢での活動をバレて尋問されるシーン。

  『おいおい、優等生がこんな所を使って遊んでんのか? えぇ?』

  あの時、主人公は泣きながら頷き、そこから底なしの快楽に堕ちていった。

  今、僕がその主人公だ。

  「……黙っていては分かりませんよ。……言わないと、無理矢理こじ開けて確認することになりますが?」

  先生の指が、グイと入り口を押し込んだ。

  侵入こそしないものの、圧迫感が「本気だ」と告げている。

  「ひぅっ……! え、あっあ、……あ、あり、ます……つかったこと、あり、ます……」

  羞恥で顔が沸騰しそうだ。

  涙目で頷くと、先生は目を見開き、そして――とろけるように破顔した。

  「……あぁ」

  吐息混じりの感嘆。

  そして、耳元で囁かれた言葉は、甘く、毒を含んだ「教育的指導」だった。

  「いけない子だ……」

  ゾクリ、と背筋に電撃が走った。

  「いけない子」。

  それは、ちんたま作品において「これからお前をめちゃくちゃにしてやる」と同義だ。

  「こんな可愛い顔をして、後ろで悦ぶ味を覚えているなんて……。君は私が思っていた以上に、淫らなファンだったんですね」

  先生の指の動きが変わった。

  優しくなぞるだけだった愛撫が、罰を与えるような強さに変わる。

  皺の一つ一つを丹念に押し広げ、敏感な部分を爪で弾く。

  「あっ、あぁっ! せんせ、そこ、いじっ……!」

  「使ったことがあるなら、開発は済んでいるということだ。……なら、容赦はいりませんね?」

  先生は悪戯っぽく、しかし冷酷に微笑んだ。

  「君のその『いけない穴』……後でしっかり取材させてもらいますよ」

  「さて、と……」

  先生は僕の体から少し離れると、するりと衣擦れの音をさせて、首元のネクタイを緩め始めた。

  滑らかなシルクが解ける音が、静寂な部屋に妙に大きく響く。

  先生はそのネクタイを両手でピンと張り、僕の顔の前に掲げた。

  「リクさん。……こんなこと、したことありますか?」

  「え……?」

  返事をする間もなく、視界がシルクの布で覆われた。

  頭の後ろで結び目がきつく締められる。

  一瞬にして世界が闇に包まれ、僕の不安と期待が跳ね上がった。

  「あ、あの、先生……見えない、です……」

  「えぇ、見せませんよ。……視覚という情報は、時に快楽の邪魔になる」

  先生の声が、さっきよりも近く、そして深く聞こえる。

  右耳のすぐそばで、衣擦れの音。左の太ももに、温かい体温。

  見えないからこそ、先生がどこにいて、どう動いているのか、気配だけで肌が粟立つ。

  「人間は、情報の八割を視覚に頼って生きています。それを遮断されると、どうなるか知っていますか?」

  先生の指先が、僕の首筋をゆっくりと、ねっとりと這い降りる。

  「脳は必死に残された感覚――聴覚、嗅覚、そして触覚をフル稼働させて、状況を把握しようとする。……つまり、感度が強制的に引き上げられるんです」

  「んぅ……っ!」

  先生の言葉を証明するかのように、首筋をなぞられただけの刺激が、まるで電流のように全身を駆け巡った。

  ただの指が、熱した鉄の棒のように熱く、重く感じる。

  「ほら、ビクビクしている」

  先生の指は、執拗なまでにゆっくりと、僕の鎖骨、乳首、そして腹部へと這っていく。

  視覚がない分、指が次にどこへ向かうのか予測がつかない。

  その恐怖と、「触られている」という事実だけが純度を増して脳に突き刺さる。

  「匂いはどうですか? 私の香り、わかりますか?」

  「は、い……いい匂い、する……」

  「耳はどうでしょう。私の吐息、心音……聞こえますか?」

  フゥーッ、と耳の穴に直接息を吹き込まれた。

  「ひゃうっ!?」

  「ふふ、いい反応だ。嘘がつけない身体になってきましたね」

  (これ……この感覚……!)

  闇の中で喘ぎながら、僕はまた既視感に襲われていた。

  これは、ちんたま先生の名作『闇夜の残業申請』だ。

  停電したオフィスで、上司にネクタイで目隠しをされ、『お前の感度をテストしてやる』と弄ばれるシーン。

  あの漫画の中で、主人公は視覚を奪われたことで普段なら感じないような弱いタッチでも絶頂してしまっていた。

  『見えないほうが、感じるだろうが』

  漫画のセリフと、現実の先生の声が重なる。

  「さあ、テストの続きです。……私の尻尾が、今どこにあるか分かりますか?」

  不意に、太ももの内側にふわりとした毛並みが触れた。

  いや、違う。お尻の割れ目だ。

  いや、お腹の上も……?

  「あ、あちこち……すごい、モフモフして……」

  「正解。……逃がさないように、包み込んでいるんですよ」

  見えないけれど、分かる。

  先生の立派な尻尾が、僕の身体を檻のように取り囲み、その毛先で全身をくすぐり、愛撫しているのが。

  視覚がない世界で、僕は先生の匂いと、声と、毛並みの感触だけに支配されていた。

  「ひっ、あぁっ!?」

  突然、無防備な胸の先端を、先生の指先が鋭く摘み上げた。

  先ほどまでの優しい愛撫とは違う。

  爪を立て、硬くなった突起を容赦なく擦り潰すような、サディスティックな指使い。

  「んあああっ! せんせ、そこ、やぁっ……!」

  「視界がないと、こんなにも正直になるんですね。……ビクビクと背中を反らせて」

  見えない闇の中で、先生の声が楽しげに弾む。

  見えないけれど、きっと先生は今、獲物を追い詰める捕食者の目をしているに違いない。

  先生は僕の反応を楽しむように、右の乳首をギリギリと捻り上げ、左の乳首を爪先で弾いた。

  「すごい……こんなに勃って、熱くなっている。まるで雌のようですね?」

  「ちが、あぅっ! んくぅっ……!」

  「違う? ……身体は嘘をつきませんよ」

  先生は冷徹に観察し、分析する。

  僕が必死に逃れようと身を捩っても、その動きさえも快楽のスパイスにされているのが分かる。

  電流が走るような痺れが胸から全身に広がり、恥ずかしい声が止まらない。

  「リクさん。……ここ、普段からいじっているんですか?」

  核心を突く質問が、矢のように飛んできた。

  「え……っ、あ……」

  「私の漫画を読みながら……後ろだけじゃなく、ここも自分で慰めているんでしょう?」

  図星だった。

  先生の描く『オスの陥落』シリーズを読みながら、主人公の喘ぎ顔に合わせて、自分の乳首をまさぐっていた夜は数え切れない。

  あの漫画の主人公たちと同じように、開発されてしまっているのだ。

  「う、そ……ちが……ひぐっ!?」

  「嘘つきには、お仕置きが必要ですね」

  否定しようとした瞬間、先生の指が限界まで強く乳首を引き絞った。

  痛みと快楽の境界線が消し飛ぶような強烈な刺激。

  「あぎゃあっ! い、いじっ……いじってますっ! していますぅっ!」

  「……ふふ、やっぱり」

  自白を引き出した先生は、満足そうに喉を鳴らした。

  しかし、手は緩まない。むしろ、僕が淫乱なファンであることを確定させたことで、その愛撫はより容赦のないものへと変わっていく。

  「なんて淫らな子だ……。えっちな漫画で、自分の身体をこんな風にメスに変えていたなんて」

  先生の言葉攻めが、視覚のない世界で反響する。

  『淫ら』『メス』。

  その単語一つ一つが、僕の理性をボロボロに崩していく。

  「あぁっ、んあぁっ! 乳首、いっちゃ、うぅ……!」

  「いいですよ。私の指でイキなさい。……君がどれだけ『好き者』なのか、この指で確かめてあげますから」

  両方の乳首を同時に、激しく、リズミカルに捏ね回される。

  見えない先生の顔。けれど、その歪んだ笑顔だけは、脳裏にはっきりと焼き付いていた。

  それは間違いなく、僕が愛してやまない、あの鬼畜な攻めキャラの笑顔そのものだった。

  「はぁっ、はぁ……っ!」

  そうしていると、執拗な乳首責めがふいに止んだ。

  視界を奪われた暗闇の中で、僕は荒い息を吐きながら、次の刺激を待って身を震わせていた。

  けれど、先生の手は動かない。

  代わりに、ドサッ、と重たい気配が僕のすぐ目の前に迫ってきた。

  「……ん?」

  頬に、そして肩に、何かとてつもなく熱い塊が押し付けられた。

  衣服越しでも分かる、異常なほどの熱量。

  そして、コンクリートのように硬く、脈打つ質感。

  (これ、まさか……)

  「おや、気づいてしまいましたか?」

  先生の低い声が、頭上から降ってくる。

  楽しげで、それでいて獰猛な響きを含んだ声。

  「あ、の……せん、せい……?」

  「手を、貸してください」

  先生の大きな手が、僕の手首を掴んだ。

  抵抗する間もなく、その手は熱源の正体へと導かれる。

  スラックスの上から、僕の手のひらが「それ」を鷲掴みにさせられた。

  「ひっ……!?」

  (で、でかい……!)

  手のひらに収まりきらないほどの太さと、圧倒的な存在感。

  スラックスの生地が悲鳴を上げんばかりに張り詰め、中の肉棒が脈動しているのが直に伝わってくる。

  「すごいでしょう? ……こんなに硬くなってしまったんです」

  先生は僕の手の上から自分の手を重ね、さらに強く股間へと押し付けた。

  グリグリと先端を手のひらに擦りつけられる。

  「あ……熱い、です……」

  「ええ、熱いですよ。……誰のせいだと思っていますか?」

  先生が顔を寄せ、耳の裏に唇を這わせた。

  熱い吐息が、鼓膜を直接揺らす。

  「君の乱れる様を見ていて……君が私の指で、メスのような声を上げてイッてしまうのを見ていたら……」

  ズボンのジッパーの冷たい感触と、その下のマグマのような熱気。

  先生の昂りが、言葉だけでなく、物理的な圧力となって僕にのしかかる。

  「こんなに、[[rb:滾 > たぎ]]ってしまいました」

  (うそだ……僕のせいで、先生が……?)

  それは、ちんたま作品における『責任転嫁』の黄金パターンだ。

  加害者が被害者に向かって『お前が誘ったんだ』『お前のケツが悪い』と理不尽な理屈を押し付け、暴力を正当化するあのセリフ。

  漫画の中では「なんて酷い攻めなんだ」と興奮していたけれど、現実に憧れの神様から囁かれると、それは甘美な毒薬となって思考を麻痺させる。

  「リクさん」

  先生が、僕の耳たぶを甘噛みしながら、決定的な一言を放った。

  「責任、とってくださいね?」

  「――っ!!」

  頭の中で、何かが焼き切れる音がした。

  「責任をとれ」。

  それはつまり、この滾りきったモノを処理しろという命令。

  逃げることなど許されない。

  恐怖よりも、畏敬よりも、「先生の役に立てる」「先生の昂りを鎮める道具になれる」という喜びが勝ってしまった。

  僕の口は、脳の指令を待たずに反射的に動いていた。

  「は、は、はいぃ……! とり、ます……責任、とらせて、ください……っ!」

  「いいお返事です」

  ジジッ……。

  耳元で、スラックスのジッパーが下ろされる音がした。

  「待ちなさい。……まだ口をつけてはいけません」

  ガサリと布が擦れる音がして、熱い塊が僕の顔の前に露わになった気配がした。

  僕は無意識に口を開きかけ、それを先生の手によって優しく、しかし強引に制止された。

  「まずは、よく観察してください。……視覚以外の全てを使って」

  「んぅ……?」

  「鼻で、よく嗅ぐんです。……私の興奮の匂いを」

  後頭部を掴まれ、僕の顔は先生の股間――下着から解き放たれたばかりの、むき出しの剛直へと押し付けられた。

  「んんっ……!?」

  (すごい、匂い……!)

  鼻孔を突き抜けたのは、洗練された白檀の香水の香りではない。

  その奥にある、もっと動物的で、もっと生々しい匂い。

  一日中スラックスの中に閉じ込められていた汗の蒸れた匂い、獣人特有の麝香のような体臭、そして先走りの甘酸っぱい鉄錆のような香り。

  それらが混ざり合った、強烈なエグみのあるオスの芳香。

  「ふぅ……んぁ、ぁっ……」

  普通なら顔をしかめるような濃厚な匂いなのに、僕の脳髄はそれを「最高のご馳走」だと認識してしまった。

  なぜなら、これは――。

  (『社畜の昼休み』の……トイレでのシーンだ……!)

  ちんたま先生の短編で、部下が上司の股間の匂いを嗅がされ、『いい匂いです』と泣きながら答える場面。

  漫画を読みながら「どんな匂いなんだろう」と想像し、自分の股間を擦ったあのシーンが、今、現実のものとして鼻先にある。

  「どうですか? リクさん。……臭いですか?」

  ペシッ。

  質問と同時に、硬い先端が僕の頬を軽く叩いた。

  乾いた音と共に、頬に熱い粘液が付着する。

  「あ、いいえ……っ! いい匂い、です……オスの、匂いがします……」

  「正直でいい子ですね」

  ペシッ。

  先生は僕の答えを楽しむように、剛直を左右に振って、僕の頬、鼻筋、唇を執拗に叩き始めた。

  いわゆる「マラビンタ」だ。

  けれど、先生のそれは暴力的というより、まるでペットにボールを擦り付けるような、歪んだ愛玩のようだった。

  「顔中、私の匂いだらけですよ。ふふっ……興奮しますか?」

  「は、いっ……! すごく、興奮、しますぅ……!」

  「君は本当に、言葉と身体が裏腹にならない素直な子だ」

  先生の手が、不意に僕のすでにぐしゃぐしゃになった股間へと伸びた。

  「ひゃうっ!?」

  「ほら。顔を叩かれているだけなのに、こんなに汁を垂らして……」

  先生の指先が、僕の亀頭から溢れる先走りをすくい取った。

  辱められているのに、顔をペチペチと男根で打たれる屈辱と、鼻腔を満たす獣の匂いで、僕のペニスは破裂しそうなほどに勃ち上がっていた。

  「こんな変態的なプレイで勃起するなんて、本当に救いようがない」

  「あ、うあぁ……っ! すみ、ません……ごめんなさ、い……!」

  「謝る必要はありませんよ。……もっと狂わせてあげますから」

  ビタンッ!

  最後の一撃は、少しだけ重く、僕の唇を塞ぐように叩きつけられた。

  「んむっ!?」

  「さあ……」

  先生の剛直が、僕の唇を割り、口内へと侵入を開始した。

  「召し上がれ」

  匂いと熱と屈辱でとろとろになった僕の脳は、もう何の抵抗もできず、ただその侵略を歓喜と共に受け入れた。

  「……ん、く……っ、ちゅぅ……」

  意を決して、目の前の巨大な熱源を口いっぱいに頬張った。

  口蓋を押し上げる圧倒的な質量。

  舌の上に広がるのは、先ほど鼻で嗅いだ以上の、濃厚なオスの味だった。

  少し塩辛く、鉄錆のような、そして脳を痺れさせるような苦みを含んだ味。

  (これが、先生の味……!)

  僕は夢中で舌を動かした。

  漫画で読んだ知識を総動員して、裏筋を舐め上げ、亀頭のカリを舌先で転がす。

  視界がない分、舌の感覚は研ぎ澄まされている。

  血管の浮き出た脈動、張り詰めた皮の硬さ、尿道の入り口の僅かな開きまで、その全てが愛おしい。

  「あぁ……っ、いいですよ」

  頭上から、先生の陶酔した声が降ってくる。

  いつもの冷静なバリトンボイスが、熱を帯びて少し掠れている。

  その声を聞くだけで、僕の股間はさらに硬く跳ね上がった。

  (気持ちいいんだ……僕の口で、先生が感じてくれてる……!)

  嬉しくて、もっと奥まで咥え込もうと喉を開く。

  卑猥な水音が部屋に響く。

  この音さえも、まるでちんたま作品の効果音のようだ。

  「……くっ、舌使いまで、なんてやらしいんだ……」

  先生の大きな手が、僕の後頭部に添えられた。

  最初は優しく、毛並みを梳くように。

  「いい子だ」と褒めるように。

  けれど、僕が鈴口を吸い上げた瞬間、先生の腰がビクリと跳ね――空気が変わった。

  「……もう、我慢できませんね」

  「んうっ……?」

  添えられていた手の力が、ふいに強くなった。

  優しく撫でていた指が、鷲掴みするような形に変わり、僕の頭蓋骨をガッチリと固定する。

  「……少し、乱暴にしますよ」

  「ふ、ぁ……!?」

  「君のその口……使わせていただきます」

  警告と同時に、先生の腰が容赦なく突き上げられた。

  「んごっ!? ぉ……げっ、えぐぅっ……!」

  喉の奥、食道の入り口まで剛直が到達する。

  「味わう」なんて余裕は一瞬で吹き飛んだ。

  先生は僕の頭をハンドルのように掴み、自分の腰を打ち付けるのではなく、僕の顔を自身の股間へと引き寄せ、叩きつけ始めた。

  「ほら、もっと奥まで……! 喉の奥で締めなさいッ……!」

  気管が塞がれる苦しさと、涙が滲むほどの異物感。

  けれど、その苦痛こそが歓喜だった。

  (使われてる……! 僕、いま、先生のオナホールにされてる……!)

  これは『咽頭開発計画』のクライマックスだ。

  「口は喋るためじゃなく、咥えるためにあるんだ」と言われ、白目を剥くまで突かれるあのシーン。

  先生は今、僕という人間を「ファン」としてではなく、「排泄のための肉の穴」として扱っている。

  その事実が、たまらなく興奮する。

  「んぐっ、おえっ、ふぁ……っ!」

  「いい音だ。……苦しいですか? でも、離しませんよ」

  先生の腰使いは、もはや紳士のそれではない。

  欲望のままに、ただひたすらに気持ちいい場所を貪る、飢えた獣のピストン運動。

  僕の口内は、先生の剛直によって蹂躙され、唾液と快楽でデロデロに書き換えられていった。

  「おや、苦しいですか? ……涙が出ていますよ」

  先生は目隠しの下から垂れる僕の涙を親指で優しく拭いながら、腰の動きを一切緩めなかった。

  むしろ、その言葉とは裏腹に、突き上げる速度は秒ごとに加速していく。

  「んぐっ、おえぇっ! げふっ、あうっ……!」

  「可哀想に。……でも、吐き出してはいけません。飲み込むんですよ、私の全てを」

  優しげな声色なのに、やっていることは拷問に近い。

  僕の呼吸のタイミングなどお構いなし。

  先生は僕の頭を両手でガッチリと掴み、まるで使い慣れたオナホールを調整するかのように、角度を微調整しながら最深部を打ち据えてくる。

  「素晴らしい喉だ……」

  唾液が溢れ、顎を伝って首筋を汚していく。

  普段の僕なら「汚い」とパニックになるはずの光景。

  でも、今は違う。先生が僕を汚している。先生が僕を「使用」している。

  「はぁ……っ、く……」

  不意に、先生の喉から、理性のタガが緩んだような、低く唸るような吐息が漏れた。

  「……奥だ。……もっと、奥で……咥えろ」

  「――っ!?」

  剥き出しの「雄」の命令。

  その声は、いつもの先生じゃない。僕が漫画の中で何度も見てきた、理性を失って本能のままに受けを貪る、あの「獣」の声だ。

  「んんーっ!!?」

  「あぁ……そうだ、そこだ……! ……ッ、締めろっ!」

  警告なしの強烈なピストンが、喉の限界を超えて突き刺さった。

  「がはっ、えっ、ぁ……!」

  「……ふぅ。……失礼、少し乱暴すぎましたか?」

  先生はすぐにいつもの穏やかな口調に戻ったけれど、その腰はさらに深く、残酷なまでに僕の口内を抉り続けている。

  もう、僕のことを人間としては見ていない。

  ここに在るのは、自分の性欲を処理するための「温かくて濡れた穴」だけ。

  「ですが、仕方ありませんね。……君の口が、私をこんな風にさせるんですから」

  先生の手が、僕の後頭部の髪を鷲掴みにし、強引に上を向かせた。

  逃げ場のない角度。

  「酸素なんて必要ないでしょう? ……今は、私のことだけを感じていればいい」

  「んぐぅっ、ふ、あぁ……ッ!」

  視界のない闇の中で、僕は悟った。

  先生は今、完全に僕を「道具」として消費している。

  作家とファンという関係ですらない。

  ただの「雄」と、その欲望を受け止める「器」。

  そのあまりにも非人間的な扱いが、僕の脳髄を焼き切るほどの快感を与えていた。

  喉の奥を塞いでいた圧倒的な質量が、湿った音を立てて引き抜かれた。

  途端に気道へ空気が雪崩れ込み、酸素を求めて肺が痙攣する。

  むせ返り、涙を流しながら呼吸を整える僕の頭上から、先生の荒い息遣いが降ってきた。

  それは理知的な紳士のものではなく、獲物を食い荒らした直後の獣の、熱を帯びた呼吸だった。

  「ふぅ……危ないところでした。……あまりに気持ちよくて、理性が飛びそうだった」

  布が擦れる微かな音がして、後頭部の結び目が解かれる。

  僕の世界を覆っていた闇が、音もなく滑り落ちた。

  瞼を開けると、照明の光が網膜を刺した。

  涙で滲んでぼやけた視界の中心に、雪のような銀色の世界が広がる。

  白檀と濃厚なオスの匂いを纏った、美しい狐。

  けれど、その瞳は獲物を完全に掌中に収めた捕食者の色をしていて、口元には僕の唾液で濡れた銀糸が妖しく光っていた。

  「……リクさん」

  逃げることなど考えもしなかった。

  近づいてきた先生の顔が、僕のそれに重なる。

  ついばむような優しい接触。

  さっきまで喉奥を蹂躙していたとは思えないほど慈愛に満ちた口づけだったが、すぐにその舌は僕の唇をこじ開け、中へと侵入してきた。

  互いの唾液が混ざり合い、粘つく音が鼓膜を打つ。

  僕の口に残る先生の味と、先生の口に残る僕の味が、濃厚な口づけによって一つに溶け合っていく。

  唇が離れると、先生はいつもの穏やかな、紳士的な微笑みを浮かべていた。

  まるで、先ほどの獣のような行いが幻だったかのように。

  「ごめんなさいね。……私としたことが、少々乱暴すぎましたね?」

  瞳が、優しく細められる。

  けれど、僕は知っている。その優しさが、次の快楽へのスパイスでしかないことを。

  僕は首を何度も横に振った。

  「い、いいえっ……! ぜんぜん……むしろ、その……」

  「興奮、しましたか?」

  「は、はい……っ! 先生のモノで、口を……犯されて、すごく……!」

  僕の素直すぎる告白に、先生は満足そうに喉を鳴らす。

  そして、大きな手が僕の背中を滑り落ち、汗ばんだ臀部の肉を鷲掴みにした。

  「ふふっ、本当にいやらしい子ですね」

  長い指先が、両の割れ目に沿って這う。

  中には入れない。入り口をノックするように、トントンとリズミカルに叩く感触。

  先生は悪戯っぽく、けれど絶対的な支配者の笑みを浮かべた。

  その笑顔は、かつて読んだ作品『放課後の浣腸指導』の保健医と全く同じだった。

  「では、次はこっちの番ですが……準備が必要ですね」

  不意に、先生の手のひらが振り上げられた。

  次の瞬間、臀部の柔らかいところに掌の面が落ちて、乾いた衝撃が部屋に散った。

  痛みは遅れて熱に変わり、叩かれた場所だけがじんと主張してくる。

  「あっ……!」

  僕が息を詰めたところへ、先生が穏やかな声で囁く。

  「いい声です」

  先生は赤くなった僕の肌を愛おしそうに撫でさすると、耳元で甘く、残酷な命令を囁いた。

  「お風呂場で、中を綺麗に洗ってきなさい。……洗い方は、分かりますね?」

  ◇

  「ふふ、こんなに綺麗に洗ってくるなんて。本当に健気な子だ」

  粘り気のある液体が、指と肉の間で卑猥な音を立てていた。

  たっぷりと注がれたローションと、先生の長い指。

  それが僕の最奥を確かめるように、広げるように、執拗に動き回っている。

  「あっ、ぁ、ぁ……♡ せ、んせぇ……そこ……♡」

  シーツを掴む指先が白く変色し、僕は焦点の合わない目で天井を見上げていた。

  洗浄したばかりの無防備な粘膜を、先生の指紋が直接擦り上げていく。

  与えられる快楽の許容量を超え、意識は泥のように濁り、思考の輪郭が溶け出していた。

  「いい声ですね。……もう、指だけじゃ満足できない顔をしている」

  ふわりと指が引き抜かれ、体内に空虚な喪失感が広がる。

  けれど、息をつく暇などなかった。

  すぐに、指とは比較にならないほどの熱量と質量を持った肉塊が、ぽっかりと開いた入り口に宛がわれたからだ。

  「さあ……受け入れなさい」

  拒絶を許さない圧力が、括約筋を割り開く。

  「――っ!?  ぎ、ぃ……っ!」

  悲鳴が喉の奥で押し潰された。

  亀頭の張り出したカリが、潤滑液で濡れた入り口を限界まで引き伸ばし、肉を押し退けながら侵入してくる。

  身体の正中線を太い杭で貫かれるような、重苦しい異物感。

  (おおきい……! 無理、これ、入らな……ッ!)

  「力まないで。……君なら、全部飲み込めますよ」

  先生の低い声が、直接骨に響く。

  腰が沈み込むにつれ、極太の幹が僕の奥へ、内臓を押し上げながら雪崩れ込んでくる。

  皮膚の下で脈打つ血管の感触までもが、内壁を通じて鮮明に伝わってくる。

  「あ、ぁ……あぁぁ……ッ!」

  熱い。苦しい。

  けれど、空っぽだった場所が完全に埋め尽くされる充足感が、脳髄を痺れさせていく。

  先生の下腹部が僕のお尻にぶつかり、剛直が根元まで収まった瞬間、僕は自分が自分でなくなってしまったような錯覚に陥った。

  「ふぅ……。なんて、極上の締め付けだ……」

  先生が満足げに吐息を漏らす。

  眼前には、興奮で瞳孔を開いた銀色の獣。

  逆光で表情が陰ったその姿が、ぼんやりとした意識の中で、今朝読んだ漫画の「あの光景」と完全に重なった。

  ――『嫌? 嫌なのかね? 取引停止になってもいいのかなあ?』

  逃げ場のないソファの上、絶対的な権力者に組み敷かれ、蹂躙されるだけの弱い存在。

  今の僕は、まさに彼そのものだ。

  現実と虚構の境界線が溶ける。

  押し寄せる圧倒的な「雄」の力に飲み込まれ、僕の口から無意識の言葉がこぼれ落ちた。

  「……や、やです……」

  小刻みに震える手で、先生の腕を弱々しく押す。

  「……先生、こわい……! こんなこと、やだ……っ!」

  口をついて出た拒絶の言葉が、静まった寝室の空気に溶けていく。

  (あ……ぼく、なにを……)

  熱に浮かされた頭の片隅で、冷ややかな思考が明滅する。

  憧れの神様に抱かれているのに。

  身体中を指と舌で開発され、今まさにその剛直を受け入れている最中なのに。

  「怖い」「嫌だ」などと、水を差すようなことを言ってしまった。

  先生の腰がピタリと止まる。

  質量を埋めたままの沈黙が、肌に張り付く汗のように重く感じられた。

  (怒らせてしまったかもしれない……)

  心臓が早鐘を打ち、胃の腑が冷たく縮み上がる。

  せっかくの夢のような時間が、僕の不用意な一言で終わってしまう。

  突き上げられる快楽と、血の気が引くような感覚で視界が揺らぐ中、僕は恐る恐る視線を上げた。

  「……せん、せい……?」

  強張った僕の瞳が、彼の瞳とぶつかる。

  そこに在ったのは、冷たい拒絶の色ではなかった。

  先生は、まるで面白い玩具を見つけた子供のように、あるいは獲物の最も美味しい食べ方を思いついた獣のように、目を細めていた。

  口角がゆっくりと吊り上がり、整った顔立ちに、底意地の悪い歪な笑みが浮かぶ。

  (あ、その顔……)

  気づいてくれたのだ。

  僕が今、無意識に見ていた幻影を。

  震える身体が、本当は何を求めているのかを。

  先生は僕の汗ばんだ前髪を乱暴にかき上げると、今まで聞いたこともないような、粘着質で、傲慢な声音を作って囁いた。

  「嫌? ……嫌なのかね?」

  太い剛直が、わざとらしく僕の最奥をノックする。

  「ん〜? ……取引停止になってもいいのかなあ?」

  「――っ!」

  息が止まった。

  それは、間違いなく『彼』のセリフだった。

  僕たちが愛してやまない、残酷で、欲望に塗れた狸社長の言葉。

  先生は、僕のために「神様」の座を降り、僕の妄想の中の「ゲスな攻め」へと変貌してくれたのだ。

  そのあまりの完璧な解釈と、贅沢すぎる振る舞いに、背筋が粟立つ。

  この即興劇に応えなければならない。

  僕は震える唇を開き、物語の中の「哀れな下請け社員」として、掠れた声を絞り出した。

  「そ、それは……困ります……!」

  「なら、わしの言うことを聞け。……これは『接待』だよ。大人の付き合いだ」

  先生の声色は、完全に役に入り込んでいた。

  いつもの洗練されたバリトンボイスに、わざとらしく卑俗な響きを混ぜる。

  それが妙に生々しく、耳の奥をくすぐる。

  「ちゃんとゴムは……つける必要、ありませんね?」

  先生の腰が、一度浅く引き抜かれ、また深く打ち込まれた。

  湿った音が、生身の肉と肉が擦れ合っている事実を告げる。

  「君は『生』が好きなんでしょう? ……漫画の中の彼みたいに」

  「あ、あっ! ひぐぅっ……!」

  漫画では「外れてしまった」という事故を装った罠だった。

  けれど現実は、最初から確信犯だ。

  先生の熱くて硬い楔が、何の隔たりもなく僕の粘膜を直接抉ってくる。

  ゴム越しの摩擦とは違う、内壁のひだ一枚一枚まで感じ取れるような鮮明な感触。

  「ぐっ……!? う、ぁぁぁあッ!?」

  「んん〜っ! 狭いっ! やっぱりケツは未使用に限ります! 締め付けが違う!」

  演技が熱を帯びるにつれ、先生の腰使いも豹変していく。

  優しく気遣うような動きは消え失せ、ただ快楽を貪るための乱暴なピストンへと変わる。

  下腹部がぶつかり合う音が小気味よく響き始めた。

  「あぐっ……!? あっぁ♡」

  「生交尾こそ本物のセックスなんですよ? ……私の愛が、直に伝わっているだろう?」

  先生の瞳がギラギラと輝き、汗ばんだ白い胸毛が僕の胸に押し付けられる。

  視界いっぱいに広がる銀色の毛並みと、体内を暴れ回る凶器。

  僕はもう、自分が「リク」なのか、あのダルメシアンの青年なのか、区別がつかなくなっていた。

  「お前のその綺麗な穴、わしのグツグツ煮えたぎったザーメンで中から教育してやるからな♡」

  「や……やめ……っ! んぐっ、あぁっ!」

  先生の言葉攻めが、僕の理性の最後の一線を焼き切る。

  憧れの作家様の口から飛び出す、最低で最高にエロティックなセリフ。

  それが僕の耳から脳髄へと直接注ぎ込まれ、拒絶の言葉とは裏腹に、身体は歓喜して跳ねていた。

  「ほらほら、腰が浮いてるぞぉ? 口では嫌がってても、体は正直だなぁ!」

  先生の大きな手が、僕の腰を掴んで固定する。

  逃げ場を塞がれ、一番感じるところ――前立腺を、狙い澄ましたように突き上げられた。

  「あひぃッ!?♡……っ、んぅ……!」

  「ここか? ここがいいのか!? いやらしい音させて喜んでるぞ!」

  「ちが……違います……ッ、あ……そこ、だめ……♡」

  自分の口から漏れた声に、心臓が跳ねた。

  「だめ」と言いながら、語尾には甘い響きが混じっている。

  僕の奥の筋肉が、意思とは無関係に先生のモノをギュウギュウと締め付け、離すまいと吸い付いていた。

  「ほら見ろ! ダメと言いながら穴が締まった! ……正直な体だなぁ!」

  先生の動きがさらに激しくなる。

  ベッドがきしみ、僕たちの汗が混じり合ってシーツを濡らしていく。

  現実の快楽と物語の興奮が完全にリンクし、僕は絶頂への坂道を転がり落ちていった。

  「や、あっ……! 社長、の……おっっきいぃぃ……ッ♡」

  視界が白く明滅する。

  激しく打ち付けられるたび、脳髄が揺さぶられ、思考の断片が弾け飛んでいく。

  先生の剛直が、僕の最奥にある柔らかい場所を正確に抉り続けている。

  そこを擦られるたび、背骨に電流が走り、手足の先まで痺れて力が抜けていく。

  「そうだ、もっと味わえ! ……わしのきんたまが当たる感覚はどうだ!? ほらほら、喜んで食いついてるぞぉ!」

  「あぁっ! 食いついて……ない、です……っ、でも、あつい……♡ お腹の中、熱い、よぉぉ……♡」

  シーツを握りしめていた指が痙攣し、力が抜けていく。

  必死に繋ぎ止めていた「自分」という輪郭が、圧倒的な快楽の熱量によってドロドロに溶かされていく。

  お腹の底から突き上げてくるのは、屈辱でも抵抗でもない。

  ただひたすらに、もっと強く、もっと深く、この異物に侵されたいという渇望だけ。

  「もっと欲しいか! ……この『社長』の肉棒が欲しいか! 正直に言ってみろ!」

  先生の声が、鼓膜を震わせる。

  現実の先生は太った狸おやじではない。白く輝く美しい銀狐だ。

  けれど、今の僕には、その両方が重なり合って見える。

  僕を犯し、支配し、種を注ぎ込もうとしている絶対的な「雄」として。

  「あっ♡ ほ、ほしいッ……! 社長のちんちん、すごい……♡ お願いします、もっと、奥までぇぇッ……♡」

  理性の堤防が決壊した。

  口から溢れ出るのは、自分でも信じられないような媚態を尽くした言葉。

  だらしなく開いた口元から唾液が糸を引いて流れ落ち、瞳の焦点が虚空を彷徨う。

  もう、誰に対して喘いでいるのかさえ分からなかった。

  「僕の中、めちゃくちゃにぃぃぃ♡♡♡してぇぇぇぇ♡♡♡」

  僕は無意識のうちに両脚を先生の腰に絡め、獣のように自ら腰を振り始めていた。

  擦り切れるほどの摩擦も、裂けるような広がりも、すべてが快感の燃料になる。

  「いい子だ! ……なら、私の肉便器になれ。そうすれば契約も、快楽も、全部くれてやる!」

  先生の言葉が、脳天に直接響く甘美な福音のように聞こえる。

  肉便器。契約。

  その響きが、空っぽになった頭の中を木霊する。

  「な、なりますぅぅぅ!♡♡♡ 社長のぉぉぉ♡♡♡肉便器ぃぃぃッ♡♡♡ けいやく、こうしん♡♡♡してぇぇッ!!♡」

  僕は泣き叫ぶように懇願した。

  僕を壊してください。僕をあなたのモノにしてください。

  一生逃げられないように、その証を身体のいちばん深い場所に刻み込んでください、と。

  「よし! ……なら、君の奥にハンコを押してあげましょう! ……一生、私のモノだという契約書に!」

  先生の腰が、限界まで引かれ、そして弾丸のような勢いで突き刺さった。

  「ああぁっぁっっ!♡♡♡くるぅぅッ!♡♡♡♡社長の、熱いハンコがぁっぁ♡♡♡♡♡♡」

  一際高く、獣の咆哮のような絶叫が喉から迸る。

  僕の世界が真っ白な光に包まれ、身体中の筋肉が硬直した。

  直後、お腹の底でドクン、と巨大な脈動が弾け、灼熱の奔流が勢いよく撒き散らされた。

  「あぁぁぁぁあっぁつ♡♡♡♡……ッ、あ、ついぃ……♡♡♡♡♡♡」

  お腹の底が、灼けつくように熱い。

  身体の芯に埋め込まれた剛直が、ドクン、ドクンと心臓のように強く脈打ち、その先端から熱い濁流が奔流となって噴き出してくる。

  それは終わりを知らないかのように、次から次へと注ぎ込まれ、僕の内臓を白く塗り潰していくようだ。

  (なか、いっぱい……社長の、熱いのが……♡♡)

  意識がつなぎ止められない。

  足の指先が勝手に突っ張り、ふくらはぎが痙攣する。

  視界が激しく明滅し、天井の照明が白い線になって溶けていく。

  頭の奥が真っ白に弾けて、自分が男だとか、人間だとか、そんな認識すら吹き飛んでしまった。

  顎の力が抜け、舌が勝手に口の外へこぼれ落ちる感覚だけがある。

  ただひたすらに、お腹の中に溜まっていく重みと、圧倒的な熱量だけに支配されていた。

  「ふぅ……っ、はぁ……♡」

  頭上から、先生の長い吐息が降ってくる。

  入りきらなくなった大量の熱い液体が、結合部の隙間から溢れ出し、シーツに大きな染みを作りながら太ももをドロリと伝っていくのが分かった。僕の身体は今、完全に先生の「種」を受け止めるだけの容器になってしまったんだ。

  (あぁ……幸せだ……♡)

  思考が溶けたまま、僕はその余韻の海に漂っていた。

  脊髄を駆け巡った痺れが、指先からゆっくりと抜け落ちていく。

  このまま、この熱に包まれて消えてしまいたい。

  窓の外から、遠く車の走る音が聞こえた気がした。

  規則正しい寝息のような、部屋の空調の音だけが耳に残る。

  世界から切り離されたような真空の時間。

  それが数分だったのか、数時間だったのか。

  暴れていた心臓の早鐘が徐々にリズムを取り戻し、白く霞んでいた視界に、少しずつ色が戻り始めた。

  ぼんやりと滲む天井のライト。汗で肌に張り付く乱れたシーツの感触。

  そして、鼻孔を占領する濃厚な雄の残り香。

  「……ぁ」

  鉛のように重たい瞼を持ち上げ、瞬きを数回繰り返す。

  そこにいたのは、さっきまで僕を蹂躙し、快楽の底へ突き落とした「ゲスな狸社長」ではなかった。

  汗で濡れた銀色の前髪をかき上げ、慈愛に満ちた瞳で僕を見下ろす、憧れの「ちんたま先生」だった。

  大きな掌が、僕の汗ばんだ頭の被毛を優しく梳く。

  「……戻ってきましたか? リクさん」

  「……せん、せい……♡」

  掠れた声に応えるように、先生は愛おしそうに目を細め、そっと顔を寄せてきた。

  触れるだけの、羽根のように優しい感触。

  さっきまでの獣のような激しさが嘘のような、紳士的な口づけだ。

  その唇の温度と柔らかさが、浮遊していた僕の魂をゆっくりと現実世界へと繋ぎ止める。

  「ふふ……本当に、私の作品が好きなんですね」

  先生は僕の目尻に残った涙を親指の腹で拭い取りながら、少しだけ恥ずかしそうに、けれど誇らしげに微笑んだ。

  「あんなに役に入り込んでくれるなんて……作者冥利に尽きますよ」

  「……は、はい……♡」

  僕はまだ痺れの残る口元を緩め、力なく笑い返した。

  大好きなんてもんじゃない。

  刻み込まれた熱は、まだ奥で燻っている。

  身も心も、そして開発されたばかりの弱点さえも。

  僕はもう完全に、先生の「作品」の一部になってしまったのだから。

  [newpage]

  [chapter:最終章 運命のデスティネーション]

  金曜日の午後二時。

  パソコンの画面に並ぶのは、港区再開発エリアの地価公示データと、権利者一覧のエクセルシート。

  僕は無機質な数字の羅列を目で追いながら、ふと顔を上げて窓の外を見た。

  ガラス張りのオフィスの向こう、ビルの谷間から東京タワーの赤い鉄骨が覗いている。

  この街の不動産会社に勤める僕にとって、それは見飽きた日常の風景だ。

  けれど今日の僕には、その赤い塔が、やけによそよそしく、遠い存在に見えた。

  (……あそこからは、もっと大きく見えたな)

  記憶の蓋が、不意にこじ開けられる。

  ――麻布十番。

  帰りのタクシーからぼんやりと見えた駅の看板を思い出し、僕はハッとする。そうだ、あの場所は確かにそこだった。

  港区、麻布台。日本の心臓部とも言える一等地に聳え立つ、ガラス張りの超高層マンション。

  脳裏に焼き付いて離れない光景が、鮮烈にフラッシュバックする。

  あの夜、遮光カーテンの開かれたリビングから見上げた東京タワーは、遠景の夜景などではなかった。窓枠という額縁に収まりきらないほど、暴力的な質量を持った巨大な鉄塊。それは、逃げ場のない僕の眼前に、圧倒的な「赤」となって迫ってきた。

  まるで、僕の身体を無理やり割り開き、深部まで白く塗り潰した、あの銀色の獣のように。

  鉄骨の赤と、体液の白。網膜と粘膜に刻み込まれたその色彩が、今もまだ僕の奥底で熱を持って疼いている。

  キーボードを叩く手が止まる。

  この仕事をしているからこそ、嫌というほど分かってしまうのだ。

  あの立地。あのグレード。

  坪単価数千万の世界。管理費だけで僕の家賃が消し飛ぶような空間を、当たり前の日常として消費する成功者。

  僕はデスクの上のスマホを裏返し、画面をタップした。

  メッセージアプリのアイコン。

  トークルームの一番上にある名前は『A.Kozuka』。

  アイコンは、なんの変哲もない観葉植物の写真。

  最初で最後のやりとりの履歴は、日曜日の夜。

  『また会いましょうね。 リクさん』

  先生からの、短くも余韻を含んだメッセージ。

  それに対し、僕は『ありがとうございました!』という敬語のスタンプ一つで会話を終わらせていた。

  あれから五日。

  指が画面の上で迷い、結局、文字を打てずに閉じる。その繰り返しだ。

  あんなに完璧なエスコート。

  初めての相手を蕩けさせる手腕。

  そして何より、あの即興で見せた「社長」の演技。

  あれほどスムーズに他人を快楽の底へ突き落とせるのは、慣れているからに違いない。

  (僕みたいなファンなんて、きっと掃いて捨てるほどいる)

  甘い言葉も、また会いましょうという約束も、余裕ある大人の社交辞令だ。

  真に受けて尻尾を振って連絡すれば、空気の読めない痛いファンだと呆れられるのがオチだろう。

  それに、あの人は危険すぎる。

  優しく微笑んでいても、その奥で何を考えているのか全く読めない。

  これ以上踏み込めば、僕はもう二度と、この平凡で安全な日常には戻ってこられなくなる気がする。

  「……これでいいんだ」

  僕は小さく呟き、スマホを伏せた。

  あの夜は、迷い込んだ羊が見た、一夜限りの奇跡。

  美しい思い出のまま、アルバムに閉じて鍵をかけるのが正解だ。

  深呼吸を一つして、強引に意識を目の前の地価データへと戻す。

  「おい、[[rb:猫宮 > ねこみや]]」

  不意に背後から声をかけられ、僕はビクリと肩を揺らした。

  振り返ると、上司の犬森部長が書類の束を片手に立っていた。

  「あ、はい。お疲れ様です、部長」

  「今、手空いてるか? 十四時半からの『麻布台再開発プロジェクト』のリーガルチェック、同席頼むわ」

  麻布台。

  心臓が嫌な音を立てたが、顔には出さずに頷く。

  「え、僕ですか? ……顧問の猪狩先生ですよね?」

  「いや、今日は事務所のシニアパートナーが直々に来るらしい。相当な切れ者で、ウチの役員も頭が上がらないらしいぞ」

  部長は「やれやれ」といった様子で肩をすくめた。

  シニアパートナー。

  つまり、大手法律事務所の頂点に立つ人間だ。

  ただでさえ気乗りしないのに、さらに胃が痛くなるような相手が出てくるらしい。

  「分かりました。……すぐ準備します」

  僕は逃避するように閉じたばかりのPCを再び開き、必要な資料をプリントアウトした。

  憂鬱だ。

  早く終わらせて、家に帰って泥のように眠りたい。

  そんな叶わぬ願望を抱きながら、僕は重たい足取りで大会議室へと向かった。

  ◇

  大会議室の重厚なドアを開けると、空調の乾いた風と、かすかなコーヒーの匂いが混ざって肌を撫でた。

  

  壁際には大型モニター、反対側にはホワイトボード。窓一面のガラスの向こうに、港区の摩天楼が立ち上がり、その中心に東京タワーが赤く鎮座している。まるで映画の舞台のよう芝居がかった空間だ。

  そして、その舞台の上座に、正しい姿勢で座っている男がいた。

  上質なグレーのスリーピースが、丸太のように太い腕と、岩のように分厚い胸板を、だらしなさではなく貫禄として包み込んでいる。

  ベストのボタンが張るお腹回りさえ、富の象徴みたいに見えた。

  (……でかい)

  その人物は、こちらが入室した気配だけで顔を上げた。

  立ち上がる動作が、異様に静かで、無駄がない。椅子のキャスターがわずかに鳴るだけで、室内の空気が一段引き締まる。

  男は上座から回り込み、テーブルの端を避けるようにして、まっすぐこちらへ歩いてきた。

  近づくほどに、オフィスの無機質な匂いに混じって、深く甘い[[rb:白檀 > サンダルウッド]]が鼻先を掠める。

  (……え?)

  心臓が、ドクンと跳ねる。

  まさか。そんなはずはない。

  だって、あの人はクリエイターで、ここは不動産会社の会議室で。

  男はこちらへゆっくりと歩いてくる。その所作は、計算され尽くした優雅さを感じさせる。

  豊かな白銀の毛並み、精悍な顔立ち、涼しげな目元。そこに、銀縁の眼鏡。

  「――初めまして」

  鼓膜を震わすバリトンの声。

  それだけで、五日前の熱と匂いが脳の奥から引きずり出される。

  尻尾の付け根がぞわりと震えて、僕は反射的に太ももを寄せた。

  (め、眼鏡……!)

  あの夜、素顔のままで僕を蹂躙した彼が、今は知的な銀縁の眼鏡をかけている。

  その繊細なフレームが、彼の野性味あふれる顔立ちに冷徹な知性を上乗せし、信じられないほど似合っていた。

  恰幅の良い雄の肉体美が、禁欲的なスーツと眼鏡によって完璧にパッケージングされている。

  その破壊力に、僕は膝から崩れ落ちそうになった。

  「本件を担当させていただきます、[[rb:狐塚 > こづか]]です」

  「…………っ」

  「猫宮、挨拶しろ。……どうした?」

  隣で部長が怪訝そうに僕の脇腹を小突く。

  僕は弾かれたように背筋を伸ばし、裏返りそうな声を必死に押し殺して頭を下げた。

  「は、は初めまして……っ! 用地仕入れ部の、ね、猫宮です……!」

  顔を上げられない。

  心臓の音がうるさすぎて、耳がおかしくなりそうだ。

  どうしてここにいるの?

  弁護士? シニアパートナー?

  あの巨体で僕に覆いかかり、あんなに激しく腰を振っていた人が、今は眼鏡をかけたエリート弁護士として僕の目の前にいるなんて。

  「猫宮さん、ですね」

  狐塚先生――いや、狐塚弁護士の声が、僕の名前を呼んだ。

  恐る恐る顔を上げると、彼はあくまでビジネスライクな表情で、けれど眼鏡の奥の瞳だけを少し細めて、僕を見つめていた。

  「優秀な方だと伺っています。よろしくお願い致します」

  その言葉の端に滲む、微かな含み。

  「では、始めましょうか」

  先生――狐塚弁護士は、翻るジャケットの裾を払うようにして、流麗な動作で席に戻った。その一言で、場の空気が完全に切り替わる。僕も部長に小突かれるようにして、席へと腰を下ろした。

  会議が始まった。

  先生の指摘は鋭く、的確だった。

  複雑な権利関係の不備を次々と暴き、リスクを排除していく手腕は、まさに「切れ者」。

  僕が知っている、あのアブノーマルな漫画を描く男とは別人だ。

  (やっぱり、夢だったんじゃ……)

  そう錯覚しそうになった、その時だった。

  先生が不意に説明を止め、ベストのポケットからスマートフォンを取り出した。

  「失礼。……緊急の案件で連絡が入ったようです。少し確認させてください」

  「あ、どうぞどうぞ! お気になさらず」

  部長が慌てて頭を下げる。

  先生は申し訳なさそうな顔を作り、太い指先で器用にフリック入力を行う。

  その表情は真剣そのものだ。

  (さすがシニアパートナーだ。多忙なんだな……)

  僕が妙な感心をしていた、次の瞬間。

  手元のデスクに置いた僕の私用スマホが、ブブッ、と短く震えた。

  マナーモードの微かな振動。

  通知バナーには、見慣れた植物のアイコン。

  A.Kozuka

  『連絡待ってたのに。五日も放置するなんて、酷いじゃないですか(泣き顔スタンプ)』

  (……えっ?)

  思考が停止する。

  僕は恐る恐る顔を上げ、上座を見た。

  先生はスマホをしまい、「お待たせしました」と涼しい顔で会議を再開しようとしている。

  でも、その視線が一瞬だけ僕に向き、眼鏡の奥で楽しげに細められたのを、僕は見逃さなかった。

  (緊急案件って、これのこと!?)

  全身の血が一気に沸騰した。

  この人は、会議中に、しかも「緊急案件」なんて嘘をついてまで、僕に「構ってちゃん」なメッセージを送ってきたのだ。

  その事実が、たまらなくおかしくて、そしてどうしようもなく嬉しくて。

  僕は赤くなる顔を必死に資料で隠しながら、悟った。

  偶然なのか、それとも仕組まれた必然なのか。逃げようとした先で、僕は結局、一番会いたくて、一番危険な人の掌の上に舞い戻ってきてしまったらしい。

  偶然なのか、それとも仕組まれた必然なのか。

  逃げようとした先で僕は結局、一番会いたくて、一番危険な人の掌の上に戻ってきてしまったらしい。

  ガラスに映る東京タワーが、冬の夕陽を浴びて赤く燃えている。

  その赤は、契約書の隅に押される印影みたいに――消えない形で、僕のこれからを縁取っていた。

  (了)