推しの名前が知りたい!

  昼過ぎだと言うのに空は分厚い墨色の雨雲に覆われて夜のように暗い。

  大粒の雨がまるでドラムロールのように傘を叩く。

  この陰鬱な雨粒のドラムロールは怠惰で退屈なゴールデンウィークの終わり、もしくは理不尽で辛い日常の再来を暗示しているようだ。どちらにしても、訪れるのは良くない事に違いない。

  慣れない都会、慣れない社会人生活。右を見ても左を見ても未知な事や理不尽な事で溢れている。これが想像以上にキッツくて……。

  道が分からなくて通行人に訊こうとしても、「急いでますので」という返答を残して足早に去っていく。まともに答えてもらったことなんて一度もない。

  会社もなかなか度し難い。仕事に手間取り、失敗を重ねる俺を見て、最初は優しかった先輩や上司の顔からは日に日に笑顔が消えていった。

  こいつはたいして使えない。そんなレッテルが貼られたと気づいたのは、俺にはすぐ怒鳴る先輩が優秀な同期とは楽しそうに会話しているのを見た時だ。

  俺だって頑張ってるのに……。

  仕事をスマートにこなし、友人や恋人と都会をエンジョイするという目標は上京して一ヶ月で腐り果てていた。

  せっかくのゴールデンウィークもほとんど寝て起きての繰り返し。昼過ぎに起きて冷凍食品をレンジで温め、惰性でスマホを弄っていれば夜になる。そしてまた冷凍食品を温めて寝る。この繰り返し。同じ動きを繰り返す機械のような日々。だから当然、誰かと遊びに行くどころか、家から出る気にもならなかった。

  これはさすがに、と思ってゴールデンウィーク最終日の今日に家から出てみれば外は土砂降りの大雨で滅入った気持ちに追い打ちをかける。

  それでも家にいるよりはきっと有意義だろうと重い腰を上げ、いつ買ったのかも覚えていないコンビニで買った無個性なビニール傘を持って外に出た。

  しかし、この外出は失敗だったようだ。

  平日は仕事に追われて趣味どころか休む時間も満足に取れないので、たまの休みは体を休めることに使っていた。そのため家の周りを歩いたのは今日が初めてだった。

  だと言うのに全く心が湧き立たない。

  空気は車やらなんやらから出る廃棄ガスで淀んでるし、突如現れる自然にも気を配ってます、とでも言いたげな公園はコンクリートだらけの都会では違和感を感じるし、人通りが多い所に行けばバンバン体がぶつかる。

  特に不快なのは飲食店が多く集まる通りだ。きっと客を集めるための戦略なのだろうが、どの店もテカテカと目が痛くなるような看板や装飾をしている。いつもどこかしらで目に入ってくるから、まるでしつこい客引きに何度も引き止められるような鬱陶しさだ。

  

  俺には都会の空気は合わない。

  実家にいた頃は不便で田舎臭くて、早く出ていきたいと思っていたが、今では故郷が恋しい。

  もう家に帰ろう。

  けっこう遠くまで歩いてきてしまったが、これで得たことと言えば俺はここが嫌いという事実。少しでも気を紛らわせようと思って出かけたのに、さらに気が滅入ってしまった。

  やはりこの外出は失敗だ。

  ――チリンチリン

  

  自分の頭の上にのった三角耳がピクリと震えた。

  鈴の音だろうか?

  じっとりとした雨音に混じって耳に届いた鈴の音。

  その音は暗澹たる雨の中でも涼やかに響き、落ち込んだ心を僅かに軽くしてくれた。

  音の鳴った方へと目を向ける。

  来た道を少し戻ったところにある店。喫茶店だろうか?

  黒いレンガの外壁に大きめの窓があって木製の扉の上には『Gertea』と書かれた看板が掛けられている。

  今まで都会で見てきた店と比べると、かなり雰囲気が良い。今まで見てきた店は装飾華美でけばけばしかったが、この店の無駄を削ぎを落としたシンプルさが俺は少し好きだった。こういうのを洗練されていると言うのだろう。

  先程まで暗然とした気持ちを忘れ、引き寄せられるように扉の取っ手に手をかける。

  トクントクンと久しく感じることのなかった胸の高鳴りを感じながら扉を開けた。

  そこはまさに俺にとって新世界だった。

  店に入ってまず感じたのはほろ苦いコーヒーの匂い。

  ゆったりとした暖色系の照明、年季を感じる栗皮色のフローリング、心を落ち着かせるジャズの音色。

  俺が住んでいた地元にも、都会に来てから見てきた店にもない雰囲気。

  心休まる素敵な場所だ。

  「いらっしゃいませ!」

  青年らしい爽やかな声が鼓膜を震わす。

  黒のエプロンを腰に巻き白いシャツを着た店員さんが目の前に立っていた。

  虎獣人特有の縞模様に逞しい身体付き、背も高くかっこいいのに、頭の上の二つの丸い耳が可愛らしくていい意味でミスマッチだ。

  しかし何よりも魅力的なのは彼の表情。雲ひとつない空に輝く太陽のような、晴れやかな笑顔が素敵だ。

  ドクンドクンと胸の鼓動が強くなる。

  緊張によってやる気を出した心臓は、普段の何倍もの血液を全身に送ってる。

  体の節々が熱く、赤くなる。きっと、耳の内側は真っ赤っかに違いない。

  でも、そんなことは些細なこと。

  今は目の前の青年に目を奪われていたい。

  気づけば雨は止んでいた。

  どうやら雨粒のドラムロールは思っていたより、ずっといい事を意味していたらしい。

  

  「ってことがあってさ、それ以来カフェに通いつめてる」

  「ふーん、それで最近元気なのか」

  あのカフェを見つけてから一ヶ月経った。

  平日は仕事でなかなか行けないけれど、休日には必ずあのカフェに行っている。

  お目当てはもちろんあの虎人だ。

  あの虎人はアルバイトのようで、彼がいない日もある。そういう日は残念な気分になるが、あそこの料理は美味いので最終的には幸せな気持ちになれる。

  そして今は会社の休憩室で昼休み中。

  コンビニ弁当をつつきながら会社の同僚の狼人、北原に先日のカフェでの出会いを語っていた。

  「白石、元気なのは結構だがもう少し身体に気を遣った方がいいぞ」

  うっ、痛い所をついてくる。

  窓に反射した自分をちらりと見る。白とグレーの獣毛にピンと立った三角耳が特徴のシベリアンハスキーの犬獣人が写っている。少し前はガタイがいい、で通った身体は今や若干……、たぶん若干の脂肪がついてぽっちゃりに片足突っ込んでいる。

  「どうせカロリー高いもん食ってデザート食ってって感じなんだろ。そんなんじゃ太って当然だ。今日だってそんなコンビニ弁当食って……。好きな奴ができたならもっと気を使え」

  普段はチャラく見える北原なのだが恋愛が絡むと話は別。恋愛ガチ勢の北原はモテるための努力は惜しまない人なのだ。

  毛並みの艶を出すために毎日欠かさず手入れし、会社帰りにはジムに寄って身体を鍛え、今流行りのファッションやデートスポットの情報を集める。当然今食べてる弁当も栄養バランス抜群の手作り弁当という女子アナ顔負けの女子力だ。

  当然、顔もスタイルも抜群だ。

  元々、狼獣人は程よい筋肉を纏い、スラリとしたマズルや耳を持つ、ヒエラルキーのトップに君臨する種族だ。

  北原は種族の特権だけでは飽き足らず、並の狼獣人たちが裸足で逃げ出すような顔立ちをしているのだ。

  今はフリーだが、今まで付き合ってきた数は男女合わると両手では数え切れない程だそう。

  生まれつきのハンサムフェイスにそれだけの努力を重ねればそりゃあモテるよな……。

  「それでその虎人とはどれくらい進んだんだ?」

  「え?」

  「だから、そのカフェの虎人とはどれくらい仲良くなったんだよ」

  「……まだ名前もしらない。大して話したこともないし」

  「え……」

  一応注文のやり取りくらいはする。 客と店員の関係性から逸脱しない程度の会話はあるのだがそれ以上は発展しない。

  ……本当は彼ともっと話がしたい。彼の声が耳に入るだけで心が踊る。もし彼と向かい合って話せたらどんなに楽しいだろう。

  でも、いざ話そうと思って目を見ると緊張して頭が真っ白になってしまう。用意していた話題も思い出せなくて、逃げるように追加の注文をしてしまう。結果、脂肪も増えてしまう。

  今までこんな気持ちになったことなかった。

  そう、初めて人に恋したのだ。

  だから俺にはこの想いが漏れ出さないようにするので一杯いっぱいで、上手く会話することなんて出来ない。

  ならばどうすればいいか。

  「あのさ、お願いがあるんだけど」

  フリーズから直った北原はこちらを向いて、うん?と疑問符を浮かべた。

  「片思いの相手との話し方を教えてほしいんだ」

  それが出来る人に教えてもらうしかない。

  

  

  

  初めて降りる駅に少しドキドキする。降り立ったホームからはわずかに緑色が見えたが、迫り来る人波に押し流され景色を堪能する暇は一瞬で奪われた。

  せっかくの日曜日だと言うのにせかせかと歩く人々を見ると、時間に囚われた仕事の日々を思い出して嫌気がさす。

  きっと彼ら都会人にとってはせかせかと生きるのがデフォルトなのだろう。

  俺も都会で暮らし続ければああなってしまうのだろうか。

  それは嫌だな。俺は毎日をゆっくり、のんびり過ごしたい。

  駅の改札を抜け外に出る。ビルが乱立する都会には珍しく、緑豊かな景観だった。歩道に沿って等間隔に植えられた街路樹、青々とした芝生が広がる公園。

  広く開けた青い空に大きな雲が悠々と浮かんでいる。

  気持ちのいい場所だ。

  センスのいい北原らしい場所だな、と思った。

  北原は都会生まれ、都会育ちの生粋の都会っ子だったらしい。実家はなんと海が近くてオーシャンビューがイカすタワマンだと言う。

  実家から会社に通うことも出来るが、社会人になっても実家暮しなんて恥ずかしい、と言って家を出たそうだ。なんと贅沢な話だろう。

  駅を出てスマホのマップを時折確認しつつ歩くこと十分、北原の住むマンションに着いた。二十階以上はあるマンションの大きさと高さに度肝を抜かれ、エントランスの前に立っても開かない自動ドアに苦戦しつつも何とか通過し(と言ってもインターフォンを介して北原に開けてもらっただけだが)やっとの思いで北原の部屋に到達した。

  トントン、と扉をノックすると休日だというのにきっちりと身嗜みを整えた北原がのっそりと扉を開けてくれた。

  「お前にはインターフォンを押すという文化がないのか?」

  「ない。俺の地元めっちゃ田舎だからいちいちピンポンしないんだよ」

  「田舎らしい距離感だな。部屋に上がる前にちゃんと靴を脱ぐんだぞ」

  失礼な奴だ。田舎だからって土足で人の家に上がるわけないだろう。いや、ここはあえて知らん顔して土足で突撃して部屋を蹂躙してやろうか。

  苦悩の末、俺はきっちりと靴を揃えて都会人には無い礼儀を見せつけてから北原の部屋に上がった。

  北原の部屋は趣味の良い家具が整然と配置されていて、一目見ただけで家主のセンスの良さを感じる。掃除も隅々まで行き届いていて毛ひとつ落ちてない。チャンスは準備された心に降り立つ、と言うが、万が一オンナ(またはオトコ)が部屋に転がり込んできたとしても、北原はドヤ顔(しないと思うけど)で迎えられるだろう。

  ふかふかで清潔なソファーはさぞ座り心地がいいだろうが、毛をまき散らしそうなのでソファーの前のローテーブルに座った。

  「ほら、コーヒー」

  キッチンから戻ってきた北原がカップを二つ持ってきて、片方を俺の前に置いた。ほろ苦い香りが鼻腔をくすぐる。

  「……あがと」

  出た、都会人の飲み物、コーヒー。都会の人はやたらめったらコーヒーを飲むのは何故なんだろう。朝にコーヒー、昼にコーヒー、ついでに休憩中もコーヒー。都会人は間違いなくカフェイン過多だ。

  俺は都会人に抗議の意を示す意味でもコーヒーは飲まないようにしているのだが、今飲まなければ「田舎者は出されたものをありがたく頂くという礼節すら持っていないのか」と北原に馬鹿にされてしまう。

  それは田舎者代表としては好ましくないので、嫌々ながら飲ませていただく。

  でも香りだけは好きだ。虎の彼がいるカフェを思い出すから。

  「それで現状はどんな感じなんだ?」

  北原が虎の彼のことを言っているのはすぐ分かった。

  「注文を頼む時しか話さない。本当はもっと話したいとは思うんだけど、何話していいか分かんないし……」

  声が段々と小さくなっていく。自分の恋心を他人に明かすのって、こんなに恥ずかしいんだ。顔の毛は白が多いから、きっと赤くなってるのがバレバレだ。そう思うと更に恥ずかしくなってくる。

  「そうか。相手の白石に対する態度はどうだ?」

  こっちの内心なんてお構い無しに質問が飛んでくる。その上、北原はじっと俺の目を見つめてくるから余計に恥ずかしい。思わず目を背けた。

  「……態度は良い。でも、他のお客さんと同じ雰囲気で接客してるから、俺だけに良いってわけじゃないと思う。

  でも、顔は覚えてくれた見たい。俺のお気に入りのメニュー覚えてくれてるみたいだから」

  「多少は気があるのか、それともただ単に顔を覚えるのが得意なのか……。十中八九、後者だな」

  「まあ、そう、ですね……」

  恥を忍んで打ち明けてるのに、北原くんは容赦なくぶった斬ってくる。熱を帯びていたはずの頬が急速に冷めていく。今、俺の耳と尻尾は力なく萎れているだろう。

  「でも、顔を覚えてくれてるってことは白石のことをちゃんと見てくれてるってことだ。少なくともカフェに通った日々は無駄じゃなかったな」

  おや、今度は優しいお言葉だ。もしや、これがSM界隈で有名なアメとムチと言うやつだろうか。

  「それなりに距離を縮められてるのなら、次は会話だな」

  「そうなんだけど、相手は店員さんだろ?

  何を話せばいいか分からなくて……」

  今まで仲良くなった人達は同じコミュニティに属していることが多かった。同じクラス、同じ部活、同じ職場。だから共通の話題を見つけやすかった。

  そして何より、長く関わる相手だから快適な生活を送るには仲良くなる必要があった。無論、常日頃からそんな打算的な考えで人と関わっている訳では無い。それでも、限られたコミュニティに属する者同士、知らん顔では息苦しいから仲良くなろう、という気持ちが湧いた。

  しかし、今回は客と店員という関係だから無理して仲良くなる必要は無い。

  むしろ、店員は客から一歩引いて、ある程度の距離感で接客するものではないのか?それなのに客から寄ってこられたら迷惑ではないか?

  そう考えると、俺と虎の彼の間には大きな溝があるように感じてしまう。そして俺にその溝を越える勇気はなかった。

  「なるほどな」

  先の考えを聞いた北原は、そう独り言ちる。

  「よし、出かけるぞ」

  「え、どこに?」

  俺の疑問に答えることなく、北原は財布をポケットに突っ込み玄関に向かう。俺は北原の後について行くしかなかった。

  「ちょっと待て、どこに行くんだよ」

  俺の再三の問いに北原が答えた時には、俺たちは最寄り駅の改札口にいた。

  「決まってるだろ。白石の想い人がいる喫茶店だ」

  Gerteaの黒い外壁が見えてきた。

  あの黒レンガの洗練された店構えは陽の光を吸収し、絢爛豪華な都会の様相からは一線を画している。何度も来ているが、ここに来る度に初めて来た時と同じ気持ちになる。

  忙しない日常を忘れ、ゆったりとした休日の雰囲気を醸し出す。

  やっぱり、このカフェはいいな。

  「へぇー、いい趣味してるな、白石」

  自分が気に入っているものを、他の人に良いと言われるのも気持ちがいい。それがセンスのいい北原だと尚更だ。

  「いらっしゃいませー!」

  店に入ると明るくて気持ちのいい声が店内に響き渡る。

  「二名様ですか?」

  清潔感のある白シャツに黒いショートエプロンを巻いた青年が問いかける。

  まくった袖からのぞく逞しい二の腕。チラチラと見え隠れする縞模様の尻尾。発育途中ながらも厚みのある胸板。

  そして何より少年のようなあどけなさを残した、人好きのする笑顔が魅力的な彼こそ、俺が想いを寄せる人だ。

  「……あっ、はぃ。二人です……」

  最低でも週一で彼の顔を見ているが、未だにあの笑顔を向けられるとドギマギしてしまう。

  それに北原はこういう受け答えを積極的にしてくれるタイプだから今日もしてくれると思って油断してた。なんで今日はしないんだ?

  こちらへどうぞ、と案内され俺たちは席に着く。

  先程から北原の様子がおかしい。顔がひきつってピクピクしてる。

  「北原、さっきから変だけど、どうかしたか?」

  俺の問いかけに我に返った北原は、慌ててこちらを睨みつける。

  「おっ、お前!あの子、高校生じゃないのか!」

  北原はだいぶ驚いた様子だが、公共の場で声を抑えるだけの理性はまだある様だ。

  「たぶんそう。あれ、言ってなかったっけ?」

  「言ってない!聞いてないぞ、こんなこと!

  白石、お前があの子に手ぇ出したら犯罪じゃないか!?児童ポルノに引っかかるぞ!」

  「いや、児童ポルノって。高校生が児童に分類されるわけないだろ」

  こんな様子だが、会社での北原は仕事が出来るで通ってる。そんな北原がこんな風にトンチンカンなことを言うなんて面白すぎる。スカした北原くんしか知らない会社の同僚に今の様子を見せてあげたい。

  落ち着きを取り戻した体の北原はメニューを見て、「ふーん、センスいいな」と呟いているが、尻尾は落ち着きなく揺れているのはバレている。

  北原の痴態に、ふっ、とほくそ笑んでから俺もメニューを開く。ここのナポリタンは絶品だが、たまには違うものを食べてみようか。

  「白石は何にするか決まったか?」

  「うーん、俺はドリアにしよ。北原は何にする?」

  「俺はいい。白石が決まったなら注文しよう」

  俺はいい、ってどういうことだ?

  北原のことは気になるが、今は注文を済ませよう。ちょうど虎の彼が近くを通ったので「注文、お願いします」と呼びかける。

  「ご注文をお伺いします」

  「このミートソースドリアで」

  俺はメニューを指さしながら注文する。そして、目で北原に注文を促した。

  「ここのオススメって何かな?」

  俺は雷に打たれたような衝撃を受けた。

  店員と客では共通の話題なんて無いと思っていた。でも、北原のように店のオススメメニューを訊くのは店員と客の関係性でも違和感がない。自然に虎の彼と会話が出来る。

  「パスタでしたらトマトクリームパスタがおすすめです。ボリュームあって満足出来ると思いますが、もしガッツリ食べたいならハンバーグプレートもいいですよ」

  「そうなんだ。ちなみにお兄さんは何が好き?」

  「お、オレですか?うーん、賄いで食ったんンですけどナポリタンはウマかったッスよ」

  「じゃあナポリタンお願いするよ」

  「はい!わかりましたっ」

  オススメを聞いただけ。そして一言二言話しただけ。それなのに二人は楽しそうだった。この会話だけで北原は俺よりも虎の彼との距離を縮めていたように感じる。

  「やっぱりすごいな、北原は」

  「別に大したことしてないだろ。いきなりどうした」

  「オススメ聞いたの上手いなって。それにたった少し話しただけで彼、楽しそうだった。俺じゃあんな顔させられない」

  二人が楽しそうに話している様子を見ているのはちょっと辛かった。別に北原に嫉妬したって訳じゃない。ただ、ほんの少し話しただけで距離を縮めた北原を見ていたら、今まで何度もこの店に通った日々が無意味なように感じた。

  「まあショックなのは分かる。俺は人を落とすのは得意だからな」

  こいつ、人の傷口に塩塗りやがって!

  「でも、気にしなくていい。彼は俺じゃなくても、それこそ白石だろうとさっきみたいに喋るから」

  「どういう意味だよ」

  「今日この喫茶店に来たのは件の彼がどんなタイプの人なのか知りたかったんだ。で、さっき話してみて彼のタイプが分かった」

  意味が分からない。タイプってどういうことだ。それにさっきの会話で何が分かったんだ。

  「誰かと仲良くなろうとする時、人には大きく分けて二つの動機がある。一つは白石みたいに仲良くなることで生活がスムーズになるみたいなメリットから仲良くなるタイプ」

  「なんか人聞きの悪い言い方だな」

  「貶してる訳じゃない。メリットを気にすると言っても大半は無意識だ。それに何だったら俺もこっち側だしな」

  「ふーん、それでもう一つは?」

  北原はふっ、と笑って虎の彼に目線を遣った。相変わらずキザな仕草が似合う男だ。でも、不思議と鼻につかない。

  「彼みたいに純粋に人と仲良くなることが好きなタイプだ」

  「人と仲良くなるのが、好き……」

  「そう。彼みたいなタイプは損得勘定なしで人と接するから来る者拒まずのスタンスだ。話しかければ客だろうと宇宙人だろうと関係ない。あっちから距離を縮めに来てくれる」

  「そ、そうかな」

  「ああ、保証するよ。あんな屈託のない笑顔をするやつらは漏れなくそういう人種だ。

  ラッキーじゃないか。もし彼が俺たちみたいなタイプだったらかなり難易度高かったぞ。

  あとは勇気を持って話しかけるだけだ」

  北原の目線の先にいる虎の彼は甲斐甲斐しく働きながら、時折、他の客と言葉を交わす。ほんの少しの会話でも彼は温かな笑顔を絶やさない。

  彼と言葉を交わした人達はまるで陽の光を浴びた花のように溌剌としている。枯れそうな花だろうと元気のない花だろうとお構い無しにエネルギーを与える太陽のようだ。

  「白石、相手を落とすにはまず相手のことをよく知らないといけない」

  北原はいつもの自信に満ちた顔をしていた。たくさん付き合ってきたということは、不安を抱きながらも相手との距離を縮め勇気を振り絞って告白してきたということ。

  俺が感じている不安や恐怖を北原は何度も乗り越えている。それゆえの自信。今はそれがこの上なく頼もしい。

  「彼を知るための第一歩。

  ――彼の名前を知るんだ」

  六月の下旬、日を経るごとに夏の気配が近づいてくる今日この頃。ガンガンに冷房を効かせたオフィスでも、雪国仕様のダブルコート持ちの俺にはじっとりと汗ばむ暑さだ。

  

  「白石ぃ!これコピーしてこーい!」

  「分かりました!」

  昔かたぎの竜人上司はそんなことお構いなく指示を飛ばす。暑さでふらつく頭に車のクラクションにも負けない音量の怒号が耳を貫く。もはやノックアウト寸前だ。

  最近やっと使い方をマスターしたコピー機を駆使して膨大な量の資料を印刷する。

  「コピー出来ました」

  「うむ。

  ところで、白石が昨日出した資料だが……」

  当然お礼の言葉はない。それはこの数ヶ月で慣れたのでもう気にならない。

  問題は資料の方だ。入社してこの方一度も褒められたことはなく、耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言ばかり浴びせられてきた。

  普段とは一変、「白石」と恐ろしく静かな声で呼ばれた時に資料を目の前でシュレッターにかけられた、なんてこともある。残業だけでは時間が足りず、家に持ち帰って徹夜で作った資料が目の前でバラバラになっていく様は、何度か夢に見るほどのトラウマだ。

  今日は少し様子がおかしい。激昂した感じではない。トラウマを植え付けられた時と似てる気がする。

  上司は僅かに逡巡して口を開いた。どんな暴言、暴挙が飛んでくるのか……。恐怖と緊張で身が固まる。

  「資料だが……、悪くはない。誤字脱字はまだまだ多いし、表は見づらいし、改善点はまだまだあるがこれくらいなら及第点だろう。今回はこれで許してやる」

  「あ、ありがとうございます……」

  想像していた暴言も暴挙もなく、むしろ予想外の容認の言葉に呆気に取られた。

  「まあ、クソが鼻クソくらいにはなったな。

  次、今回と同じくらいの質の資料を出した時は肥溜めに捨てるからな。覚悟して作れよ」

  結局クソじゃねえか。

  「上司が褒めるなんて珍しいな」

  自分のデスクに戻ると、隣に座る北原がパソコンに目を向けたまま話しかけてきた。

  「いや、あれは褒めてないだろ」

  「あれでも褒めてるつもりなんだよ、上司は。

  それに怒鳴られない程度には白石も仕事ができるようになったってことだ。良かったじゃないか」

  「ハッ!上司お気に入りの北原さんに言われても嬉しくないでーす!」

  「俺は仕事ができるからな。上司に気に入られるのは道理だろ」

  かはッ!

  全力投球の嫌味を打ち返された挙句、打ち返された嫌味が胸を直撃する。心肺停止一歩前のダメージだ。

  本当に腹立たしい物言いだが、北原が言うことは事実だ。

  北原は仕事が早く、かつ正確。なんだったら上司が指示する前に仕事を終わらせていることだってある。お前ホントに新入社員?って感じだ。

  今だって、俺と話していながらキーボードを打つ速度は普段と変わらない。何だったら普段の俺よりも早いくらいだ。

  北原は仕事だけではなく、周りの人に細かい気配りもできるから女性社員からの人気も高い。

  北原の優秀さは自他ともに認めるものであり、ゆえに上司をはじめとして多くの社員が頼りにする人財なのだ。

  「でも、白石のそれはバイアスかかってると思うけどな」

  「どういう意味だよ」

  北原の幼い子供を相手にするような態度が腹立たしくて、返す言葉にはどこかトゲがあった。

  それでも、北原は気にすることなく続ける。

  「白石は入社したばかりの頃は明るかったが、だんだん暗くなていっただろ。それに合わせて社内の評価も悪くなるばかりだった。

  それに対して、俺は入社してから大した失敗もなく評価を上げてったから、白石からの俺の評価は相対的に過剰なものになってると思う」

  ……思い当たる節はある。

  自分にいつも怒鳴ってばかりの上司が北原と話している時は声を上げて笑っていた。それを見た瞬間、視界に暗幕がかかった。暗くぼやけた視界の中、北原の姿だけは忌々しいほどに鮮明に映っていた。

  「でも、最近は白石も調子いいみたいだから良かった。

  少し前の白石は、たまに俺を親の仇のように見てることがあったからな」

  「……そうか」

  

  「おっ、ハスキーのお兄さん!いらっしゃい!」

  穏やかな喫茶店の雰囲気には合わない溌剌とした声が自分に向けて発せられる。

  「こんにちは」

  俺は胸元で小さく手を挙げ、虎くんに挨拶する。

  客へのかしこまった挨拶ではなく、知り合いへの気軽な挨拶を自分にしてくれる。それだけで頬を赤くし、尻尾を振ってしまう俺はチョロいのだろうか。

  「ハスキーさん、いつもの席空いてるッスよ」

  「じゃあ、そこでお願い」

  虎くんが案内してくれたのは窓際のカウンター席。北原と一緒に来た時はテーブルにしているが、ほとんど一人で来るのでそういう時はカウンターの方が気楽で良い。

  「あれ、これって新メニュー?」

  「そうッス!もうそろそろ夏じゃないッスか。だから暑くて食欲がない時でも食べやすいメニューがあったらいいッスねって言ったらマスターが考えてくれたンスよ!」

  「へぇー、そうなんだ。虎くんはもう食べた?」

  「食べました!これとか結構いけるんで、良かったらハスキーさんも食べてみてくださいよ!」

  「虎くんがそれだけ言うならそれをお願いするよ」

  「あざっす!デザートはいつものでいいッスか?」

  「うん。ありがとう」

  現在高校二年生と言っていたが、この活発さは小学生のそれと同じだ。本当は体の大きい小学生なのではなかろうか。

  しかし、彼のこの活発さのおかげでこうして会話が出来ているとも思う。

  虎くんに初めて話しかけた時は、その性格が本当にありがたかった。

  初めて北原とGerteaに行った翌週に俺は一人で店を訪れていた。

  その日は俺が初めてGerteaに来た日と同じように、雨が降っていた。

  虎の彼が席に案内するわずかな時間、その逞しい背中を見ながら話しかけるか否か考えた。

  客がいきなり話しかけてきたら気持ち悪くないか?もし急ぎの仕事があったら迷惑だし……。そもそも何を話せばいいんだ、といくら考えても正しい答えは見つからない。考えれば考えるほど焦りと不安が胸いっぱいに広がっていく。

  胸中に吹き始めた嵐を抑えることはできず、決心する前に席に着いてしまった。

  結局、最後に背中を押してくれたのは北原の言葉だった。彼は純粋に人と仲良くなるのが好きなタイプ、そう確信した北原の言葉と表情は不安が吹き荒れる胸をわずかに穏やかにさせた。

  彼に話しかけるには俺が持ってる勇気だけでは足りない。友人の言葉からたくさんの勇気を貰って、それでも少し足りない分は自分の胸の奥底の埃被った勇気を引っ張り出す。

  そうして、なんとか虎の彼に話しかけるための勇気を胸に広げ嵐を抑えこみ、俺はテーブルから去っていく彼に「あの」と話しかける。

  「どうかしましたか?」

  くるりと振り返る彼を見て、しまったと思った。話しかける事ばかり考えていて、話す内容まで頭が回っていなかった。

  至急、頭を高速回転させて話題を探す。そして見つけた話題は……

  「……いい天気ですね」

  そういえば今日雨だった!

  あぁぁぁ!変人確定だぁぁぁ!絶対変な人だって思われたぁぁぁ!

  「ぷはは!今日雨ッスよ。あ、もしかして雨の方が好きなんですか?」

  「あっ、うん、そんなところです……」

  「へぇー、オレはやっぱ晴れの日の方が好きッスけどねー。友達と遊びに行く時は晴れば選択肢が多いじゃないッスか」

  「確かに。雨降ってる時の遊園地とかは微妙ですもんね」

  「そうなんスよ!この前の春休みに高校の友達とDズ二ー行ったんスけど雨降っちゃって。あの日はテンション下がったなー」

  あれ、思ったより引かれてない?なんだったら会話、続いてない?

  「ハスキーさんはなんで雨好きなんですか?」

  「うーん、なんて言うか、雨の日って、みんなあんまり外出しないじゃないですか。それで外がいつもより静かに感じるんです。それが落ち着くからいいなって」

  会話の流れで雨が好き、なんて言ったが実は嘘ではなかったりする。

  「俺、最近上京して会社員になったんですけど、なかなか思ってたようにはいかなくて……。地元は田舎だったから都会の最先端な感じとか煌びやかなところとかに慣れなくて。

  必要とされてない感とか、ここは俺の居場所じゃない感みたいなのを常に感じてるんです。

  でも、雨の日ってどんよりとしてるじゃないですか。そのどんよりとした雰囲気が都会の嫌なところやへこんだ気持ちを霞ませたり押し流したりするから少し落ち着くんです。だから雨の日は結構好きなんです」

  「へぇー、オトナって大変なんスねぇ。

  そりゃ雨の日が好きになるかも」

  「あっ、すいません。こんなこと言われても困りますよね」

  「気にしないで下さいよ。獣人ならだれでも辛いことの一つや二つありますって」

  年下の青年に慰められるなんて情けない話だ。

  でも、人間関係が希薄な印象の都会でも真っ直ぐで優しい人がいる、という事実は嬉しかった。

  「ありがとうございます。虎さんは良い人なんですね」

  「えッ!ちょっとちょっと!止めてくださいよ、そういうの!なんかむず痒いんで!

  ていうか、オレの方が年下なんだから敬語なんて要らないッスから!」

  照れながら去って行く彼の背中とうねる尻尾を見てとても温かい気持ちになった。

  思わず余計な事まで話してしまった。いや、胸の内に溜まっていた気持ちを彼に引っ張り出されてしまったのだろうか。

  虎の彼は話すのが上手だが、それ以上に聞くのも上手だ。

  だからこうして胸の内に溜まった膿を吐き出すことができたのだろう。

  「ハスキーさん!お待ちどう!

  注文のナポリタンとモンブランです!」

  「え、モンブラン頼んでないけど」

  「ふふん!サービスッスよ!」

  思わず、え、と声が漏れる。

  「モンブランって大人っぽいから、都会っぽいじゃないですか。だからこれ食べてたら都会に慣れるかもしれないッスよ!

  雨の日も晴れの日も、どっちも好きって言えるように前向いてきましょうよ!」

  「デッケェなぁ―」

  

  最寄り駅を出てすぐ現れる巨大なショッピングモールは駅の出口をぐるりと覆うように半円状に広がっている。

  最近作られたと分かるピカピカの真っ白な外観に、バルコニーからカーテンのように垂れるツタが都会らしい。

  「あまりキョロキョロしてると田舎者だってバレるぞ」

  「これだからシティボーイは。何を見ても無感動でもったいない。せっかく目新しいものに出会ったんだからしっかり見ておかないともったいないだろ?」

  はいはい、と呆れた様子で返事をする北原はとりあえず置いておく。

  オシャレなショッピングモールも新鮮だったが、そこを訪れる人々を見るのも楽しかった。

  大きな声で話す猫科の男子高校生のグループや穏やかな雰囲気のお年寄りの兎夫婦、小さな犬獣人の赤ん坊を抱いた家族まで、老若男女問わず多種多様な人々が一つの場所を訪れる。

  ここには地元にはなかった賑やかさがあり、彼らの様子を見ているだけで都会に生きる人々の生活が感じられ刺激を受けた。

  「ぎゃいんっ!」

  「感傷にひたってるところ悪いが、ただでさえここは広いんだ。こんなとこで時間を潰してる暇はない」

  「だからって尻尾引っ張ることないだろ……!」

  犬獣人のシッポの重要さを抗議したいところだが、そんなことをすれば北原に尻尾を千切られかねないので大人しくショッピングモールの中に入ることにした。

  中に入ると外以上に人が多くてごった返している。前に進む度に人とぶつかりそうになるのでジグザグに避けながら歩かなければならず焦れったい。これは都会のバッドポイント。

  「今日は服を選ぶんだろ?」

  「ああ。白石の私服は田舎っぽいからな」

  「でも俺、都会の流行りとか分かんない」

  「俺がコーディネートしてやるから安心しろ」

  「あざっす!」

  やはり持つべきもの(有能な)友達だ。

  「ちなみに、どの店に行くんだ?俺ユニシロでしか服買ったことないんだけど」

  「ユニシロはやめとけ、悪いことは言わないから。

  ここには色々なブランドが出店しているから、歩きながら気になる店があったら寄っていこう」

  「りょーかい」

  モール内にはファッション系の店舗だけではなく、女の子が好きそうなスイーツ店やアクセサリーショップ、更にはアニメショップなど様々な店舗が並んでいる。

  どの店も人で溢れていて活気に満ちている。地元の店は訪れる人が少なすぎて売れ行きは大丈夫なのかと心配になることも多かったが、都会ではそんな心配は無縁なようだ。さすがは流行と経済の中心だ。

  ふと、見覚えのあるブランドマークが目に入った。

  「俺、あのマーク見たことある」

  「入ってみるか」

  店前には様々な服を着せられたマネキン達が立っている。マネキンの着ている服の組み合わせはとてもオシャレなのだが、その組み合わせを真似してみても自分が着るとイマイチパッとしないのだ。

  このことを北原に話してみるとと、

  「マネキンの種族は見てるか?白石はハスキーなんだから犬系のマネキンのコーディネートを真似するといい。他の種族のを真似すると骨格の違いだとか、鬣の有無、模様の有無なんかで似合わなくなるんだ。実際、虎獣人は縞模様があるから柄物の服はあまり似合わないしな」

  とのこと。違う種族のファッションは参考にしない方がいいらしい。新発見だ。

  「じゃあ、俺はどういうのを着ればいい?」

  「白石の毛皮は白と黒のモノトーンだから、それにあう色の服を選ぶといい。例えば白のTシャツ着て、この紺のアウター羽織るだけでもお洒落に見えるだろ。冒険せずにシンプルなデザインの組み合わせで十分だ」

  北原が話に出したアウターを手渡しながら言う。

  「流行的には何がいい、とかあんの?」

  「犬系獣人の最近のトレンドだとホワイトのTシャツだけど、白の毛並みに更に白を重ねるのは微妙だからな……。でも、ブルーのストライプシャツとかならあうかも」

  「この店だとそういうの服、なくないか」

  「そうだな。もう少ししたら別の所も見てみるか」

  俺は北原に勧められた服を買って、次の店へ、また次の店へと足を進めた。

  半日近く歩き回り地元のテナントの少ない大型ショッピングモールならとうに全店制覇する勢いで巡ったが、この巨大モールだと服系だけでもまだ半分しか見れてないらしい。いま見てきたのと同じ数の店がまだあるとは、都会のショッピングモールの広さは恐ろしい。

  俺も北原も昼飯を忘れるほど服を見るのに没頭していた。しかし、とうとう疲労と空腹が激しく自己主張を始めたので、戦利品の入った大量の紙袋を引っ提げて、モール内の様々な食事店の集まったフードコートに向かった。

  「このハンバーガーうま!」

  「それ最近できたハンバーガー屋のやつだろ?結構人気らしいな」

  「へぇー、でも北原の焼肉丼もいいじゃん。ちょっと交換しね?」

  「いいぞ」

  ハンバーガーを北原に渡し、代わりに目の前にやって来た焼肉丼のなんたる豪華さ。

  見るからに柔らかい肉にタップリとタレが絡み、しまいには半熟卵の黄身が肉を彩っている。口がヨダレでいっぱいになってきた。

  いただきます、と箸を持った手を合わせ肉と白米を口に運ぶ。

  「さいっっこう!めっちゃうめえよ!」

  思わず二口目もいきそうになったが、北原に阻止されてしまった。

  さっきまで食べてたハンバーガーが戻ってくる。焼肉丼を食べる前は都会のシャレたハンバーガー!と好印象だったのに、焼肉丼を食べた後では途端に貧相に思える。

  「あ〜あ、なんか物足りない……」

  「そんなに落ち込むなら白石もこれにすれば良かっただろ」

  「服にほとんど金使ったから高いの買えないんだよ。

  あ〜あ、今日からひと月はモヤシ生活だよ」

  隣のイスに目をやると金持ちのお嬢様が買ったのか、と勘違いするほどの紙袋が置かれている。隣のイスに載らなかった分は北原の隣に置かせてもらった。今日だけで一ヶ月の給料分を使ってしまい、胸の奥からふつふつと後悔と不安が込み上げてくるので極力紙袋の方は見ないようにしている。

  「でも、楽しかっただろ。服買うの」

  「……ああ。俺には似合わないって服もたくさんあったけど、そういうのも含めて全部良い服ばっかだからどれを買うかめっちゃ迷った。

  でもあれも良い、これもいい、あれもいいって迷ってる時間がすっげぇ楽しいよな」

  地元にいた時は服なんて着れれば何でもいいと思っていた。実際、地元の服屋にはどれも同じような服ばかりでどれを選んでも同じだった。

  しかし、都会に越してきて気になる人が出来た。今までは自分をよく魅せようなんて思ったことなかったけど都会のオシャレな服を見て、これを着たら虎くんはどんな反応するだろう、と心を踊らす自分がいた。

  似合わないっすね!と笑われてしまうかもしれない。逆にカッコいい!と褒めてくれるかも。

  服を手に取る度に、それを着た時の虎くんの反応を想像して口元が緩んだ。

  「よし。飯も食い終わったし、もう半分も制覇するか!」

  そう言って威勢よくフードコートから飛び出したが既に手持ちの金をほぼ使い切っていた俺は何も買えず、ただ北原の後を黙ってついて行くしかなかった。

  北原は気に入るものがなかったのか、それとも俺を気遣ってくれたのか、二、三店回って「帰るか?」と呟いた。

  「いいのか?北原、今日なんも買ってないけど」

  「別にいいさ。いろいろ店回って今の流行が追えたしな」

  ふーん、よく分からんが満足したならいいか。

  「ねえ、あの人キモくない?」

  「それなー。ちょっとやめて欲しいよね」

  俺の三角耳がピクピクと動いた。ヒソヒソとした様子だったが犬科の優れた耳は聞き逃さなかった。

  声のした方へ目を向ける。

  話の対象は店の外の通路にいた。ハイエナ獣人の男が顔を床に擦り着けながら自動販売機の下を覗き込んでいる。服の汚れ具合を見るに、何度も同じようなことをしていたのだろう。服や顔に汚れやゴミを纏わせた彼は、身なりを整えた人々が行き交うこの場では浮浪者のように見えた。

  「何やってんだアイツ」

  「ヤバ、近づかんとこ」

  「うわー、何あれダッサ」

  彼の奇っ怪な行動に周りの人達はヒソヒソと侮蔑の言葉を囁きながら足早にその場を去っていく。

  当のハイエナ獣人は自動販売機の下の隙間に無理やり腕を突っ込んで動かしている。成人男性の腕ではその隙間は狭すぎて奥まで手が届かない。そんなことは当の本人が一番よく分かっているだろうに、もっと奥へ、もっと奥へと右腕をねじ込んでいく様子は、見ているだけの自分の腕が痛んだ。

  やがてハイエナ獣人は隙間から腕を引き抜き、落胆した様子で立ち上がった。右腕は隙間に溜まった埃や油がまとわりついて茶色の毛並みが真っ黒になる程汚れていた。

  「探し物、みたいだな」

  ハイエナ獣人に気付いた北原が呟いた。

  俺は口の中で、うん、と喉を振るわせる。

  分かっているのだ。彼に手を差し伸べるべきだ、ということは。

  でも、そう出来ない。

  手伝いが面倒くさいからでも、よごれるのが嫌だからでも、ましてやあのハイエナ獣人を軽蔑しているからでもない。

  ただ、怖いのだ。

  周りの人達の視線が。

  大多数の人々とは違う行動をしただけで、対等という枠組みから一方的に突き落とし、蔑み、嘲笑う彼らが心底怖い。

  ハイエナ獣人に手を差し出せば、自分も同じものを向けられてしまう。耳や目から入る無自覚で無数の悪意は体の中で成長して、心に深く爪を立てる。

  しかし、見捨てようとすれば今度は罪悪感が刃物のように胸を刺す。

  今、ハイエナ獣人は自動販売機の隣の休憩用ソファーの下を這いつくばって覗いている。時折、彼の丸みを帯びた耳がピクピクと震える。

  聞こえているのだ。

  彼は自分に向けられた言葉の数々を聞いている。

  それでも彼は止めない。涙が零れそうになる度に目をぎゅっと瞑って、目を開く。その目には未だに拭いきれない恐怖が残っている。それでも止めることなく、懸命に、懸命に、何かを探し続ける男の姿が俺の網膜に映り続ける。

  情けない。

  自分のことが心底情けないと感じる。

  彼の姿を見続けて尚、俺には彼を助ける勇気がでないのだ。

  人々の悪意とハイエナ獣人の懸命な姿が、心の許容量を超えて流れ込む。

  溢れ出た感情は海のように広がり、俺はその暗く冷たい水の底に落ちていく。

  視界は霞み、指先が冷えていく。

  溺れてしまったかのように、呼吸が苦しくなっていく。

  ――誰か、助けて。

  「手伝いましょうか?」

  その聞き慣れた声は、水の底まで、まるで太陽の光の様によどみなく差し込み、ざばんっと音を立てて俺を水の中から引き上げた。

  「腕とかスゴいことになってますけど大丈夫ですか?」

  見慣れた背格好だけど、喫茶店の制服姿しか知らないから私服なのが新鮮で、ああ、あまり服には気を使わないんだな、と場違いな感想を抱いたり。

  「いやー、たまたま今日はタオル持って来といてよかったッス!これ使って下さい。

  探し物ッスよね。オレも、探すの手伝いますよ」

  そこには、俺が想いを寄せる虎の彼がいた。

  俺は虎くんがハイエナ獣人を連れてどこかに行くのを見届けると、隣にいる北原に「帰ろう」と声をかけた。

  外に出ると、太陽は水平線に沈みつつあり、夕焼けが来た時は真っ白に見えた外壁を橙色に照らしていた。どこか懐かしくて柔らかい色だ。

  「声かけなくて良かったのか。

  あそこで白石も行けば、虎の彼からポイント稼げただろ」

  「まあ、そうなんだけどな……」

  北原の言うことも分かる。確かに虎くんがハイエナ獣人に声をかけた時に、俺も手伝うと出ていけば虎くんに好印象を与えることが出来ただろう。

  でも、それは純粋な気持ちで人助けをしている彼に酷く失礼な気がして出来なかった。

  だから、これでいい。

  それに、

  「俺、いますっげぇ嬉しいんだ。

  世界には周りの空気とか関係なしに人助けできる人がいて、俺はそんな人を好きになれた。

  それがすっげぇ、嬉しいんだよ」

  曇天の雲の切れ間から差し込む光芒のような声。

  残雪を溶かす春の日差しのような笑顔。

  雪解け水のように暖かく優しい想いが俺の身体中を駆け巡る。

  彼を好きになれなければ、抱かなかった感情が溢れてる。その感情はこの上ない幸福で満ちている。

  初恋の困惑、好きな人を取られる嫉妬、話しかける時の緊張、お洒落した自分への反応に対する期待。

  そして、好きな人の良いところを見つけた時の、世界で最も素晴らしい宝を見つけたかのような高揚。

  ネガティブな感情すらも、彼のおかげで抱けたのだと思うと愛おしい。

  「俺、彼のことを好きになれて良かった」

  北原は僅かに瞼を閉じて、そしてすっと開いた。

  澄んだ瞳の奥に、夕日のような輝きをたたえて

  「落とそう。必ず」

  そう言って強く握った拳を差し出した。

  「おう!」

  輪郭が揺らぐほど眩い夕日に照らされて、長く伸びる二つの影。ぴんと立った三角耳にフサフサの尻尾、両手いっぱいの紙袋が少しカッコつかない彼らの影。

  二人の拳の影が合わさって、一つの大きな影を映し出していた。

  今日もまた、Gerteaに向かう。

  天気は快晴で、夏の気配を感じる真っ直ぐな日差しが都会のアスファルトに降り注ぐ。太陽に熱されたアスファルトは、見慣れてきたはずの都会の景色をゆらめかせ、夏の都会の姿を垣間見せてくれた。

  昨日買った新しい服を着ると、今までの自分とは違う自分になった気分になった。

  惰性で選んでた頃と違って、友人とたくさん吟味して選んだからだろうか。我ながら垢が抜けて、シティボーイって感じだ。

  ……いや、もうボーイって歳でもないか。

  何はともあれ、足取りは軽い。しっぽもブンブン揺れている。

  あの喫茶店に行くようになって色々なことが良くなった。

  まずは平日の仕事。今だってよく上司に怒鳴られるが、入社したばかりの時と比べればだいぶ減って、それなりに仕事が出来るようになってきた。

  「もう少ししたら、お前にも大事な仕事を任せるかもな」とあの竜の頑固上司がもらした時は、俺も会社の戦力として認められてきたんだ、と少し嬉しかった。

  休日は、たまにだけど北原とショッピング。都会の店は人が多くて、洒落てて驚いた。一人だったら入れなかったかもしれない。でも、都会育ちの北原は俺の躊躇なんて気にしない。

  細かな気配りが出来るやつだから、俺が躊躇っていることに気づかないってことはない。それでも、あえて気にせず連れて行ってくれる北原は、やっぱりキザでムカッとするが、感謝しなければとも思う。

  でも、口には出さない。ハズイカラ。

  週末はGerteaに行って、料理を食べる。

  Gerteaの料理は本当に美味しい。

  鮮やかな色のナポリタン、最近美味しさが分かってきたコーヒー、虎くんが嬉しそうに運んでくれるモンブラン。

  都会の忙しなさから隔絶されたこの空間で、ゆっくりと料理を味わう。この瞬間が、地味だけど、俺はとても幸せに感じる。

  都会に来るまでは、仕事はそつなくこなして、休日は恋人や友人と遊園地だとかバーだとかではしゃいでいる予定だったんだけど……。

  でも、まぁ、今の生活も悪くはないな。

  「おー、ハスキーのお兄さんだ!いらっしゃい!」

  いつの間にかGerteaのすぐ近くまで来ていて、店の外に置いてある看板に何かを書いていた虎くんが、俺に気づいてくれた。

  「こんにちは。何してたの?」

  「この前話した夏限定メニューの紹介を看板に書いてるんス」

  看板を覗いて見ると、下手な字で夏限定のメニューについて書かれていた。

  「お、お〜……。読みにくい……」

  「あー、やっぱりっスか?

  よく友達にも言われるんスよね〜、お前の字は汚くて読みにくいって。

  でもま、こーゆーのは気持ちッスよ!き、も、ち!」

  わっはっはっ、と笑いながら虎くんは店に入っていった。

  字は下手だけど、カラフルに彩ったり、猫っぽい何かから伸びた吹き出しにコメントを書いたりと見ていて楽しい。

  これを見ただけで、看板に書き込む虎くんのご機嫌な姿が目に浮かぶ。鼻歌でも歌っていそうだ。

  俺も扉を開けて中に入る。

  チリンチリンと鳴る鈴の音や、コーヒーの香りが心地いい。

  「確かに、気持ちのこもったいい看板だ」

  「でしょーっ!

  たまに学校の友達も来るんですけど、ああいうの作るとみーんなバカにするんスよ。見る目ないっスよね!」

  いつもの席、空いてますよ、と虎くんが案内してくれる。

  席に座ってホッと一息。

  僅かに漂う香ばしい匂いはなんだろう?とっても美味しそうで食欲がそそられる。

  「この匂いは?」

  「え、なんか匂います?もしかしてオレ!?」

  慌てて自分の腕の匂いをくんくん嗅ぐ虎くん。

  「違う違う。食べ物の香ばしい匂いがしたから何かなって」

  「ああー、そういう事っスか!

  びっくりしたー。オレが臭かったのかと思ったッスよ

  たぶんペペロンチーノっスね。さっきまでいたお客さんが食べてたんで」

  「ごめんごめん。じゃあ、今日はペペロンチーノをお願い」

  「飲み物はどうします?」

  「コーヒーで」

  「了解ッス。デザートはいつも通り、食べ終わったら持っていきますね」

  「うん、ありがとう」

  虎くんは身を翻し、厨房へ去っていく。

  その背中のたくましさや、注文をメモする時の真面目な目つきは、溌剌とした彼からは想像できない大人らしさがある。

  きっと、虎くんの学校の友達は彼のこの大人っぽい一面を知らないだろう。

  友達すら知らない虎くんの一面を知っている、と思うと優越感がある。

  しかし、この喫茶店以外での虎くんを俺は知らない。

  友達とはどんな会話をするんだろう?勉強はどれくらいできるんだろう?家では何をしているんだろう?

  ショッピングモールで彼が見せた優しさ。

  喫茶店で働いている時には、見られなかったものを彼はあそこで見せてくれた。もし、この喫茶店で同じようなことをしても、それは店員としてのサービス、という様に見て、虎くん自身がもつ魅力として映らなかったかもしれない。

  違う場所、違う立場だからこそ見える姿がある。

  俺は虎くんのことをもっと知りたい。

  そのために客と店員という関係ではない、もっと別の親しい関係になりたい。

  ――そのために、君の名前を知りたい。

  カシャンと、何かが割れる音がした。

  オレのモットーは、どんな時でも楽しく生きること。

  学校から家に帰るために駅で電車を待っていた時、友達と騒いでいたオレは、後ろから聞こえた深いため息が気になって振り向いた。

  そこにはシワひとつ無い新品のスーツを着た犬獣人がいた。

  疲れた顔をして、一人ぽつんと立っている姿に心が痛んだ。

  きっと大きな体をしているだろうに、今は萎んでいるように見える。

  「どーした?」

  「……なんでもない」

  声をかけられて、少し、我に返る。

  それでも、あのサラリーマンの姿が心に引っかかる。

  「お前んところの担任、田口だろ?

  いいよなー、めっちゃ緩いんだろ?」

  「そうそう。新学期早々運いいわ!

  お前んとこは岩城だっけ?」

  「そう!

  あー!マジ最悪!

  なんで俺だけアイツのクラスなんだよ!」

  「どーんまい!」

  「お前、バカにしてるだろ?」

  「し〜てな〜いでぇ〜す」

  どうでもいい話でも心の底から楽しそうに話すこいつらと、たった一人で思い詰めたような顔をしているサラリーマンを頭の中で比べて、あぁ、こいつらにはこんな顔して欲しくないな、と思った。

  どうしらたらこいつらにあんな顔をさせずにすむんだろう、と考えようとしたが、結局今のままでいいのだと気づいた。

  今を楽しく生きている人と一緒にいること。

  きっとそれだけで十分だ。

  電車の到着を知らせるアナウンスが駅の構内に流れる。

  こいつらといると、いつも流れているこのアナウンスにすら気づかないんだよな。

  ホームに入ってきた電車は風を発生され、いろんな人の間を平等にすり抜けていく。

  ホームで待っていた人達は吸い込まれるように電車に入っていく。

  

  せめて、オレの周りにいる人にはあんな顔はさせないように楽しく生きよう。

  そして、

  目の前に座っているサラリーマンにも、彼を笑顔にしてくれるような人がいますように。

  そんなこんなでこの春から『どんな時でも楽しく生きる』、をモットーに生きているのですが、この『どんな時でも』っていうのが曲者でした……。

  このモットーを掲げてから、オレはオレが思っているより繊細な心を持っていると気づいてしまったのです!

  注文を間違えたり、皿を割ったりする度にちょっとだけ落ち込んでしまう。

  そう、ちょっとのつもりなんだけど、オレは分かりやすいみたいで周りの人に落ち込んでるってすぐバレちゃう。

  周りの人に元気に過ごして貰うために楽しく生きようとしているのに、これでは立場が逆ではないか!

  だから、今だってたかだかカップを落とた位で凹んでいる場合ではないんだけど……

  「申し訳ございません!お怪我はありませんか……?」

  大丈夫です、の声を聞いってホッとする。周りのお客さんに怪我がなくて良かった。

  でも、しゃがみこんでカップの破片を拾っていると惨めさが込み上げてくる。

  せっかく自分でいれたコーヒーも全部床にこぼれてしまった。

  「あーぁ、またやっちゃったな……」

  誰にも聞こえないくらいの声で呟く。

  体の中で呟きが反響して、余計凹んでしまう。

  まったく、何やってんだか。

  

  「手伝おうか?」

  声に弾かれたように顔を上げると、さっきまで話していたハスキーのお兄さんがそこにはいた。

  「コーヒー拭くよ。雑巾貸して」

  「い、いいっスよ!

  こういうのは自分の仕事っていうか、そもそも自分でやらかしたことだし……」

  「いいから、雑巾持ってきて」

  予想外に食い下がってくるので、しぶしぶ雑巾を取りに行く。

  「雑巾持ってきました」

  「ありがとう」

  「いや、それはこっちのセリフですよ……」

  初めて来た時はこんな頑固な人には見えなかったんだけど。

  もっと暗くて、捨てられた子犬のように弱々しい人だったのに。

  「ぁ……」

  床を拭くハスキーさんの横顔を見て、思わず声が漏れた。

  あの頃とは全然違う顔をしてる。

  顔つきだけじゃない。服もなんだかお洒落になってる。

  大人だけど、この人は少しずつ変わってきているんだ。

  オレが今まで見てきた大人、親や学校の先生は既にもう完成されているもの、のように見えていた。完成されているとは言っても、それは必ずしも良いことではない。

  何と言うか、もう変われないものを完成したもの、という風にオレは見ているのだろう。

  だから、大人になったらもう変われないのだと思っていた。

  でも、この人は違う。

  今もまだ、変わろうと、より良くなろうと頑張ってる。

  現状維持ですら上手くいかないオレとは大違いだ。

  すごい……、すごいかっこいい。

  「ありがとうございます。あとはオレがやっとくんで大丈夫ッスよ」

  「そう?」

  「はい、大丈夫ッス。雑巾、戻してきます」

  「あぁ、はい」

  コーヒーが染み込んだ雑巾はずっしりと重たい。

  でも、この重さがこの人の優しさの重さなのだろう。

  「ほんと、ありがとうございます。トイレあっちにあるんで、手洗ってください」

  「うん、分かった」

  「あ、あと」

  トイレに足を向けたハスキーさんを呼び止める。

  これは言っとかないとね。

  「その服、めっちゃ似合ってるッス。かっこいいですよ」

  「エッ!?あっ、あぁ……。どうも……」

  どうも、ってなんじゃそりゃ。取引相手との会話か。

  雑巾やカップの破片をもって裏に戻る。すると虎獣人の女性、マスターが声をかけてくる。

  「片付け、早くなったわね」

  「いや、それ褒めるところじゃなくないッスか?

  お客さんが手伝ってくれたからですよ」

  「え!お客さんに手伝わせたの!?」

  「ちーがーう!手伝ってく、れ、た、の!」

  「へぇー、変わった人もいるのね」

  「失礼っスよ……。

  手伝ってくれたお客さんに、お礼にデザートをサービスしたいんですけどいいっスか?」

  「いいよ。そのお客さんは普段何食べるの?」

  「うーん、最近はモンブランが多いですかね?」

  「じゃあモンブランにするか!せっかくだし、いつもより大きいの作っちゃうぞ〜」

  「ありがとうございます」

  マスターは心が広い。オレの失敗で余計な事をしなくてはいけなくなったのに、嫌がるどころか、もっと良くしようとしてくれる。

  オレの周りには良い人がたくさんいる。幸福なことだ。

  「助けてくれたんだし、名前くらい知らないと失礼かもな」

  Gerteaで働く虎獣人、嶋田翔は、そう独り呟くのだった。