PR
◆
世界は二枚貝の中にあった。
貝の中では、長らく唯一の者がまどろんでいた。
唯一の者が見る夢は甘美で何一つ瑕疵のないものであった。
ところがある時、ふいに唯一の者が寝返りを打つと、その拍子に貝の口が開いた。
隙間から明るい光が射し込むと、あまりにもまばゆくて唯一の者は目を覚ました。
その拍子に、永遠とも思える時間ずっと開いていなかった瞼から涙がこぼれ落ちた。
涙からは三匹の龍が産まれた。
三匹の龍は唯一の者に比べれば小さな存在だったが、唯一の者は彼らを愛した。
三匹の龍にせがまれたので、唯一の者はその大きな体をうんと伸ばした。
すると天と地はみるみる分かれて広くなり、三匹はとても喜んだ。
世界がまったく明るくなったので唯一の者はまた、まぶしくて涙をこぼした。
地の多くが涙によって海になった。
さて唯一の者は三匹を並べて、世界を一周してくるようにと命じた。
三匹はあっという間に世界を回ってきた。
最も早かった龍は太陽まで行って、その炎を身に移してきたので、鱗が黄金色に輝くようになった。
唯一の者は黄金の龍を褒め、天を治めるようにと言った。
それこそがアララファルである。
残った二匹の龍に向かって、唯一の者は海の底まで行くようにと命じた。
海はたいそう深く、世界の果てよりもなお深いようだった。
一匹はぐんぐんと潜り始めたが、もう一匹は兄弟のうちで最も体が小さかったがために、このままでは負けてしまうと思い一計を案じた。
小さな龍は涙の海の底に沈んだ大地に呼びかけ、どんどん高くなるようにと言った。
大地は龍の呼び声にこたえて背を伸ばし、ついには海の表を割って天を突くようになった。
唯一の者はこの知恵に驚いて褒め、小さな龍に大地の支配者アラチョファルの名を与えた。
そして潜った最後の一匹は、わずか一息で深い海底まで潜って帰ってきた。
あの世まで通じる海の淵を乗り越えてなお息を乱さぬ龍の胆力を、唯一の者は褒めた。
その龍は、海龍の中の長アラコファルと名乗ることになった。
さて、アラコファルが海底に至った証拠に持ち帰った泥の中から美しい女神が現れた。
目覚めた女神はアラコファルに求婚し、アラコファルも女神を愛した。
海龍神と海底の女王の間に産まれた十一個の卵からは、まず沢山の龍たちが、ポピの木が、そして最後に男のセムタムと女のセムタムが現れた。
唯一の者は彼らを祝した。
『アルマナイマ創世神話』(著:アム=アカエダン)より引用。
※なお、作者姓の「アカエダン」は現地の言葉で「星に証立てた者」の意味とのこと。引用者注。
◇
現地時間午前十時五十八分。
アルマナイマ国際宇宙港の上空二千メートルほどの場所で、大気圏外から突入し着陸態勢にあった汎宇宙客船<ハーヴェスト>が爆発した。
管制室からモニタしていたアムは、ハーヴェストが上空で大きな花火と化す直前に、ああこれはダメだ、と確信していた。
爆発の数秒前からレーダーには巨大な影が確認されている。
それが星の主、龍とよばれる生命体が持つ質量であることは、長年このレーダーと付き合っているアムには自明の理であった。
今回のレーダー反応は超弩級。
急いで窓に駆けよってブラインドをこじ開け上空を双眼鏡で眺めると、長い体をくねらせた龍が、白く塗装された宇宙船、世俗的な企業広告をそのわき腹にごてごてと書き込まれたハーヴェストに体当たりするところが見えた。
龍の鱗は黄金に煌めき、堂々と開かれた翼の間に雷が走っている。
頭に生えた対の角は螺旋を描いて屹立し、瞳は血の如く赤い。
長い胴体には三対六本の手足。
先端まで黄金色に染められた尾が打ち振られるとハーヴェストの胴に冗談のように大きな穴が開く。
壮麗な眺めだった。
そこに人命が失われるのでなければ。
高速で降下中の客船ハーヴェストに反撃の機会は与えられなかった。
与えられていても、客船の攻撃装置程度では鱗を貫通するに至らなかったであろう。
龍は天空の彼方から現れてハーヴェストに一撃を食らわせ、木っ端みじんにしたのち、あっという間にまた空の住処に去っていく。
飛翔に乱れはなかった。
龍へのダメージは皆無。
気にくわなかったのであろう。
恐らくは。
一年に一度は、こういった不幸なアクシデントが起こる。
それがたまたま今日だっただけで。
管制室のレトロな電話が鳴る。
モニタには緊急事態を知らせる真っ赤なアラートが表示されていた。
「<!>宇宙船からの信号が途絶えました」
アムは冷ややかな視線でその文字をなぞりながら電話を取る。
途絶えましたって、そりゃあ爆発したんだもの、現実を自分の眼で見てきなさいよ機械さん。
「はい、管制室」
「ああ神よ―――派手に爆発してしまった、アム」
「知ってる。龍でしょ」
「今まで空港上空に出た中では最大級だった。黄金色だったよ」
「鱗を拾いに行きたいのね?」
「恥ずかしながら」
「行けばいいじゃないの。落下物地帯は関係者以外立ち入り禁止になってるでしょ」
「アム、一緒に来てくれないだろうか。龍の鱗は大きいし、重いし、それに」
「私がアカトだから」
「そう。頼むよ」
「五分待ってて」
「愛してる」
小さくため息をついて、自分の気持ちをごまかして、アムは受話器を置いた。
背もたれにかけていたアルマナイマ国際宇宙港のロゴが入ったジャケットを羽織る。
それからアカトの証であるペンダントも首から下げる。
宇宙船を模した形に作られた鈍色のペンダントヘッドは、アムとこの星の住民たちとの良好な関係の証であった。
管制システムに<新規受け入れ禁止>のコマンドを入力すると(そもそも次の便は一か月後だけれども)、アムは照明を落として部屋を出る。
目から涙がぽろぽろ落ちた。
宇宙港の滑走路を自転車でかっ飛ばして行く。
前方に陽炎のような黄色と黒の縞模様のテープが張られているのが確認できた。
いわゆるトラ柵テープ、昔ながらの立ち入り禁止のサイン。
どれだけ人が宇宙を渡るようになっても、電子上以外の場所を立ち入り禁止にしようとした場合、いちばん有効なのは物理的に囲うことだという。
上空の特殊な大気層のせいで電子機器の使用が制限されるこの星では、まったくもってその通りだ。
十分ほど自転車をこぐと、トラ柵テープの向こうで立ち働いている人影がぽつぽつと判別できるようになる。
人影の内訳は生きている人間がひとり、残りは人型の作業機械。
ハルに電話をかけてきた相手の姿はそこにあった。
やせぎすの上半身に、ぺったりと頭に張り付いた短めの金髪。
テープの前で自転車を止める。
「エヴァン」
呼びかけると、眼鏡をかけた顔がひょいと振り向いて、笑顔になった。
相変わらずのふにゃふにゃした優男だな、とアムは思う。
「待ってました、我がアカト。龍の鱗がけっこう落ちてるみたいで、セムタムたちが沢山集まってきてるんだ。いつもより興奮してる。彼らがしびれを切らす前に頼むよ」
「了解。セムタムたちはどこ?」
「あっち」
エヴァンが指したのは、南側だった。
そちらには海がある。
「行ってくる。私が挨拶を終えるまでは、触らないようにして」
「分かった」
神妙な顔で頷くエヴァンに手を振って、アムは歩き出した。
落下物がいくつも目に飛び込んでくる。
龍の鱗。
ほぼ完全な形で脱落したと考えられる一メートル幅の大きなものから、こぶし大のかけらまで、無数に散らばっていた。
まるで黄金の雪が降ったかのようだとアムは思った
この星の住人であるセムタムは龍の鱗から様々な品を作る。
金銭という概念のない海洋狩猟採集民の彼らにとっては、龍の体のパーツというのは最高級の価値を持つ逸品だ。
完全形の鱗を傷つけずに遠洋の島までもっていけば、一年二年は左団扇で暮らせるかもしれない。
事故の多い宇宙港の近辺で彼らが待ち受けているのも、当然のことだろう。
もっとも龍は彼らにとって神にも等しく、神の事故あるいは故意の負傷を待って利益を得ようとする考え方に警鐘を鳴らすセムタムも、勿論のこと、いる。
セムタム同士のトラブルを避けるために、宇宙港関係者からの挨拶と説明は欠かせないのだ。
南へ南へと足を進めると、次第に人々のどよめきが聞こえるようになる。
打ち鳴らされる太鼓、吹き鳴らされる貝笛。
翻る紋章入りの旗。
エヴァンの言う通り、いつもより随分と人数が多いようだ。
彼らが詰め掛けた坂の向こう側に、エメラルドグリーンの海が見える。
伝統的なカヌー、ファッカムセランの白い帆が海に点々と広がっていた。
まだ続々とセムタムたちが詰め掛けているのだろう。
勇気を出すためにアムはセムタムの歌をハミングしながら歩く。
<海に誓え/卵が割れた日の如く/星を見て進むべき道を知る/海の血族の誓いを>
照りつける日差しが暑い。
アルマナイマ国際宇宙港島、通称空港島は常夏の島だった。
ヤシの木に似た大きなポピが滑走路の脇ににょきにょき伸びている。
木陰を渡る風は涼しそうだが、アムは堂々とセンターラインを歩かなければならない。
何故なら、セムタムの文化において隠れることは恥だからである。
こちらの姿を見つけたセムタムの中から、ドクター、という声が上がった。
アムの愛称である。
彼らにはドクターの意味自体は理解されなかったものの、アムという異人を表す言葉として定着してしまった。
群衆との間には木の柵が置かれている。
セムタムの運動神経ならば一跨ぎで飛び越えてしまうだろうが、宇宙空港が彼らの社会で黙認されるようになってからは不法侵入されたことはない。
アムは彼らの作法に従って、胸に手のひらを当て
「エンダ!」
と挨拶する。
セムタムたちからは
「エンダ!」
のおかえしが津波のように押し寄せた。
裸の上半身に成人の証を下げ、ボディーペイントを施し、ズミックという伝統的な七分丈ズボンを穿いた老若男女のセムタム。
鍛え上げられた筋肉質の肉体と、鋭い目と、潮の香りを持つ誇り高き海洋民たちの視線がアムひとりに集中した。
挨拶ののちは、セムタムたちは怖いほど集中してアムの言葉を待っている。
「私は説明し、証を立てます。つい先ほど龍が宇宙船に当たって、鱗が落ちました」
セムタムは外の星からやって来た人間のことをひとつも信用していない。
余所者は我らの言葉も知らず、船にも乗れず、海で自活できず、龍に敬意を払わない。
セムタムにとって価値あるものを何一つ備えていない。
ただ、アムの言うことだけは尊重して聞く。
何故ならアムはアカト、証を立て終わった者、すなわち成人のセムタムと認められているからである。
セムタム成人として認められるための試練をアカ・アカという。
アムはこの試練に、惑星の外から来た人間として初めて参加し、合格した。
これが一年前のこと。
セムタム達はこの試練にために青春のすべてを捧げるようなものだから、アムの合格はあえて基準を甘くしてくれた、つまり彼女の熱意にセムタムたちが動かされた証なのだろう。
そして、成人が<証を立てる>と言った時には、セムタムはそれを真摯に聞かなくてはならない。
彼らの前で、歩きながら拾った龍の鱗のかけらを見せた。
まばゆく輝く黄金色。
最前列の人々から驚きの声が上がった。
やはり、という声もあった。
「私たちが一応の調査をした後は、いつものように拾っていただくことができます」
アムは続ける。
「けれども今日は人が多いようだから、どうか争わないで」
一度言葉を切ってセムタムたちの顔を見渡した。
表情の豊かな彼らの顔の上に、いつもとは違う気配が漂っている。
緊張というか不安というか。
アムは、その意味することを悟っている。
セムタム族の創世神話によれば、黄金の鱗を持った龍はこの世にただ一匹しか存在しない。
天頂の王、雷の槍を握る者、太陽を宿す龍、キナンを従える師。
そんな大物が現れることは滅多にない。
「その前に教えてほしい。アララフ―――」
セムタムたちは我先に殺到してアムの口を押さえようとした。
はっと気づいてアムはその先を呑み込んだ。
神たる龍の本名を呼んではいけない。
来てしまうから。
アカトだというのに、そんな単純なことすら忘れていた。
しばらく海から離れると、考え方もセムタムから離れてしまうようだった。
このまま坂を駆け下ってファッカムセランに乗り海に出てしまいたい。
アムは言いなおした。
敬意を持って、敬称にて語る。
「<黄金の王>の出現について事前に知っていたアカトはいますか?」
興奮した現地語が飛び交うのに耳を澄ませる。
言葉を選んで喋るのは難しい。
聞き取るのもまた。
アムは異星語の専門家であり、アカトでもあるが、ネイティブスピーカーではない。
セムタムはセムタム以外の文化圏を(おそらく)知らないから、自分たちのことを外部の者に説明するのは不慣れである。
今回の聞き取りは特に難易度が高かった。
お手上げかな、後でゆっくり教えてもらうしかないかな、とアムの脳が諦めの姿勢を見せ始めた時、
「おめえら、それじゃドクターにはわかんねえよ」
そんな声が群衆の後ろで響いた。
口調から読み取るに、そういうぶっきらぼうなニュアンスで言ったのだろう。
黄金の鱗を見た時とはまた違うざわめきが群衆から上がった。
ブーイングのようだ。
アムが顔を上げると、人々を掻き分けたひときわ長身のセムタム青年が、こちらを見ている。
「トゥトゥじゃない!お久しぶりね?」
久しぶりだな、と青年は言って笑った。
「アカ・アカが無事に終わったなら何よりよ」
「それについては、またゆっくり話す」
トゥトゥとは半年ぶりの再会だが、いちだんと声が大きくなったように思う。
百九十センチ強の身長に見合う、太鼓の革のように張りのある大きな声だった。
燃えるような赤い毛束が、彼が首を少し傾げるのに合わせて揺れる。
肩にケープを羽織っていて、それがアムには引っかかった。
成人の儀を終えた者は肩甲骨周りに刺青を彫る。
それはオルフと称され、成人と非成人を分かつ最もわかりやすい要素なのだ。
あえて見せないのか、それとも見せたくないのか。
トゥトゥ一流の反骨心の現れのような気もしたが、わからなかった。
「ドク、こいつらは怖いんだ」
「つまり本物なのね?」
「そう。災いの前触れだからな。アンダナマスのじじいが預言した。黄金の王が空を駆けて、鱗を散らし、余所者の船は沈むであろうと」
「それでみんな―――」
トゥトゥは両手を広げて、頷いた。
「鱗を壊そうとしてるのさ。地の上に置いておきたくないから」
まあ俺は持って帰るけど、というようなことをトゥトゥは話したらしい。
周りを囲むセムタムが鋭い口調で叱責した。
一方のトゥトゥは片方の眉毛をおどけるようにちょいと上げて、それを同族への返事がわりにする。
アムが口を挟むよりも先に、トゥトゥが言った。
「黄金の剣は俺に似合うだろう?」
またセムタム諸氏からのブーイング。
罵声を浴びながらトゥトゥがにやっと笑うと、その口の中の鋭い犬歯がちらりと見えた。
どうもこの子は、とアムは気を揉む。
事あるごとに斜に構えようとする。
面白がって面倒を起こす。
能力は一級品なのに。
しかし成り行き上、この場のかじ取りはトゥトゥを見守るしかないと思って、アムは何も手を出さないことにした。
「アカトたるトゥトゥは証を立てる。俺はあいつの鱗をもらう。文句があるなら―――」
トゥトゥは拳を掲げる。
「これで来い!」
やはりそう出るか、とアムは肩を落とした。
成人になっても喧嘩っ早さはちっとも変りやしない。
しかも天にまします神たる龍を指してあいつ呼ばわりとは、セムタムへの挑発としては最悪の部類。
これじゃあただの悪ガキだ。
勝っても負けても知るものか。
わっと歓声と怒号が上がり、肉と肉のぶつかり合う音が響いた。
トゥトゥは、先ほど真っ先に叱責の声を上げたセムタムの首を掴み高々と投げ飛ばす。
その間に違う相手が飛び出してきて二、三発は殴られたはずだが、屁とも思っていない様子で、叩き返して蹴りを入れた。
おおよそ百人ほどの群衆がおり、成人しているということは武芸も身に着けている。
トゥトゥはそのすべてを相手にして殴り勝つつもりであるらしい。
何とも無謀な、と思われるが、それは正々堂々を旨とするセムタム族のこと、一騎打ちで勝たなければトゥトゥの提示した条件、つまり成人が証を立てた条件であるところの「拳で来い」をクリアすることにならず、袋叩きでトゥトゥをのしたところで不名誉なだけである。
そういったまどろっこしい(とアムには思われる)思考回路を下敷きにしたうえで、勝算ありとトゥトゥは考えたのだろう。
「先に調査してるからね」
アムはくだらなくなって、そう告げた。
「おうよドク、すぐに行く」
トゥトゥは殴りかかってきたプロボクサーのような女性の一撃をかわすと、足を引っかけて転ばせる。
卑怯者、とその女性は言った。
トゥトゥは大口を開けて、ぶははははっと豪快に笑う。
「最後に立ってりゃ勝ちなんだよ」
そして、次に挑んできたやつのズボンを片手一本で掴んで宙づりにする。
挑発だけは上手いんだから、とアムはほとほと呆れてしまったのだった。
落下物が散乱している地点に戻ると、エヴァンが真っ青な顔で立ち尽くしていた。
ただならぬ気配に小走りで駆けより声をかければ、
「アム、話し合いは終わったのかい」
「話し合いじゃないわ。証立てよ」
「うん―――」
「エヴァン?」
「……もしこの状況で生存者がいるかもしれないと言ったら、信じてくれるかい」
顔面蒼白なエヴァンの顔から眼鏡がずり落ちて、滑走路のアスファルトの上を転がった。
アムはその眼鏡を拾い上げるのも忘れて言う。
「いるっていうの!?」
「僕のスキャナのアラートに<生体反応あり>って出るんだ。エラーに違いないけど」
眼鏡、とエヴァンが呻くように言ったので、アムはあわててそれを拾い上げた。
エヴァンの近視は本来ならばアルマナイマ星外の病院で正規の治療を受けたほうが良いレベルに達している。
手探りでアムの手から受け取った眼鏡をはめなおすと、エヴァンはアララファルの鱗が散乱する一角を指し示した。
その辺りでは、鱗に交じって宇宙客船ハーヴェストの外殻の燃え残りから白い煙が立ち上っている。
アムは目を凝らした。
エヴァンが言う。
「反応が出るのは、ほらあの大きな鱗の辺り」
滑走路のアスファルトに、ほぼ完全な形を保った鱗が突き刺さって静止している。
その鱗は他のものより色が濃く、禍々しいながらも否定しがたい美しさがあった。
揺らめく年輪模様を見つめていると、吸い込まれてしまいそうに感じる。
「冠鱗ね」
「まさかまさかだよ。こんな鱗が落ちるくらいだから、龍も痛かったに違いないね。でもアム、あの鱗の向こうに誰かが生きているとは、僕には到底思えない」
「行ってみましょう」
アムが同意を求めて横を向くと、エヴァンは頷いた。
幾分か顔色が戻ってきたようだった。
歩き始めるとすぐに、足の裏で微細な破片がじゃりじゃりと音を立て始める。
太陽の光が黄金の鱗に反射して、それはそれは眩しかった。
今、どこかの国の探査衛星が通りかかってこの地表の写真を撮ったら、世界は騒然とするに違いない。
少なくとも地球由来の人間種族はよだれを垂らすだろう。
どんな大富豪でも羨むような巨大な金塊が、地面にごろごろと落ちている。
しかも航宙機用の滑走路いっぱいにそれが続いているのだから。
アムは、自分の腰ポケットに入れていた管制室のマスターキーに、遠隔コマンドで<上空からの撮影を禁止>と打ち込んでおいた。
セムタム達の暮らしを出来るだけそっとしておいてあげたいとアムは願う。
そう思うのに溶け込もうとするのは、相反しているような気もしないでもないが。
エヴァンのスキャナが、ピーと音を立てた。
スキャナのセンサーは冠鱗の方を向いている。
「生体反応を確認しました、って」
困り顔で振り向いた生物学者に向かって、アムは首を振った。
「あなたにわからなきゃ私にもわからないわよ」
「成人の儀式のときに何か聞かなかったかい、その、生きた鱗の話とか」
「鱗が生き物になる話はあるけど」
神話によれば―――黄金の輝きの前では神話と現実の境目が曖昧になるけれど―――龍の鱗というのは、奇跡を起こすための触媒の役割を果たす。
例えば海を司るアラコファルが身をよじったときに落ちた鱗は、彼の眷属である海龍に変じるという。
また、セムタムたちに流行り病が蔓延した時、地を司るアラチョファルは彼らを憐れんで自らの鱗を剥ぎ、それを器に聖水を汲んでは島々を回って、病をことごとく癒したという。
それに引き換えアララファルは……。
「天の龍、黄金の王に関しては、鱗の話は最初しかないのよね」
「最初?」
「ええ。セムタム族の創世神話によれば、世界が始まったとき神の涙から三匹の龍が産まれた。神は三匹に世界一周を命じたんだけど、そのうちの一匹は余裕綽々に太陽まで行って帰ってきたっていうのね。それで鱗が黄金になった」
「あっ、それは僕も知ってる話だぞ。確かアララフ」
今度はアムが口を塞ぐ番だった。
驚いてふがふが言うエヴァンに向かって
「名前は言っちゃダメなの」
わかった?と念を押すとエヴァンが頷いたので、アムは口を解放した。
「それにしても君の手はずいぶんとたくましくなったねえ。最初に会ったときは傷一つなくてお姫様みたいな手だったのに」
「私の勲章よ」
「うん。世界でいちばん素晴らしい手だってことは僕も保証する」
その時、背後で咳払いが聞こえたので振り返ると、トゥトゥを先頭にセムタムたちが立っていた。
今のやり取りを聞かれていたかと思うと、アムは少々恥ずかしくなる。
「混ぜてもらっていいかな、おふたりさん」
トゥトゥがにんまり笑った。
歯が一本折れている。
「いいに決まってるわ」
と、アム。
顔が熱い。
「そう、ちょうど聞かないといけないことがあるの。生きた鱗の話なんてある?」
ふうむとトゥトゥは唸った。
「俺は知らん」
それから首を捻って後ろを見やると、少し離れて佇んでいるセムタムたちのひと群れに向かって言う。
「おうい、ドクが話を聞きてえってよ。生きた鱗の話、天の龍のやつだ」
セムタムたちはざわざわと互いの顔を見合わせて話し始めたが、これと言って良い逸話は見つからなかったらしく、ついに前に出て喋ろうというものは現れずじまいだった。
トゥトゥはわざとらしく肩をすくめてみせる。
アムは口を引き結んだ。
伝承に例のない話だというのなら、どう対応するのが正しいのだろう。
ここに落ちている冠鱗とは、数ある龍の鱗の中で最も格の高い鱗とされていた。
頭に生えた二本の角の間に形成され、額を守る役割を持つために非常に硬く、大きい。
セムタムの語彙ではエダン(星々)―カム(持つ)-ラナ(鱗)、すなわち<宇宙を宿す鱗>と言われる。
アムがこれを共通語で「かんむり」と訳したのは、冠鱗が角に添って突起型の輪郭を生じるために、古代の王の冠のように見えたからだ。
さて、冠鱗は神の依り代であるとセムタムは信じている。
エヴァンのスキャナが正しければ、その依り代は生きているということになる。
これを穏健に処理する方法がアムには思いつけなかった。
うんうん唸っているとトゥトゥが歩いてきて、無造作に冠鱗に手をかける。
「悩んでるならもらっていくぜ、俺が」
「ちょっと」
と驚いてアムはトゥトゥを見た。
「流石に怒られるでしょうよ、それは」
「構うもんか。俺は証を立てたんだし」
トゥトゥは拳を振り立てる。
腕は青あざだらけだった。
「鱗は鱗だ。剣でも鍛えてもらうさ。長旅にはうってつけの剣になる」
「トゥトゥ?」
「ドク。俺は成人になれなかった」
トゥトゥが肩からケープを外すと、今度こそ心の底から驚いて、アムは絶句する。
成人の証であるオルフは無かった。
「俺の名はトゥトゥ=ナ・オルフ。オルフなしのトゥトゥは、セムタムではない。セムタムでなければこの海では生きられない。災厄になるだけ。……ドク、長旅になるんだ」
なんてこと、とアムは呟くように言った。
離れてこちらの様子を伺っていたセムタムたちの幾人かが、そっと顔を背けた。
それは彼らのトゥトゥに対する気持ちの表れだったはずだったが、それが憐れみなのか嘲りなのか、あるいは羞恥なのかはアムにはわからない。
ただ、今やらないといけないことだけはわかった。
「トゥトゥ、ココアを飲みましょう」
マグカップが、ひどくちっぽけに見えた。
トゥトゥの長い指は陶器の表面にプリントされたテディベアの絵を無意識に撫でている。
この熊のキャラクターは幾星霜の月日を経てなお、定期的に湧きおこるアンティークブームと共に復活する。
「飲んでいいのよ」
アムがそう言うと、国際線待合ロビーのソファに腰かけたトゥトゥは上目遣いでちらりとこちらを見てから、ふうふうと息を吹きかけてココアを喉に流し込んだ。
「おかわり」
「味わって飲んでってば」
「最初の一杯は許してくれって。幸運を逃がしたくねえから、早く飲んじまうんだよ」
トゥトゥは唇をぺろりと舐めてもう一度言う。
「おかわり」
はいはい、とあきれつつも笑って、アムはテディベアのマグに粉末ココアをスプーン二杯、それからポットに入れたお湯をなみなみ注ぎ、手早くかき混ぜてトゥトゥに手渡した。
茶色い渦が巻くマグカップの中身を、トゥトゥはしげしげと眺めている。
まるで海を読むように。
トゥトゥが無言でココアに集中しているものだから、アムは、半年ぶりに会ったこの青年のことを改めて観察することにした。
まず感じたのは、また背が伸びてるということ。
セムタム族の男性の平均身長は170cm程度。
トゥトゥの190cmオーバーは破格の高身長と言って差し支えない。
筋肉が一回りついて、逞しくなっている。
赤い髪色はセムタム族の中では珍しいものではないが、地肌に近いあたりは黒く、先端が赤いトゥトゥのカラーリングは目を引くものであった。
これは半年前と変わらない。
マグカップを包む骨ばった手指と、口を開くと覗く尖った犬歯は、エヴァンが提唱する<セムタムの先祖返り>の一例だと思われる。
犬歯は半年前よりも長くなっている。
このまま一生伸びるのだろうか。
もしそうなのだとしたら、そのうち自分の口に刺さってしまう危険性があるということだ。
いつか歯医者まがいのことをしないといけないのかもしれない。
ただそれも、トゥトゥがそばにいたらの話だが。
ちびちびと愛しそうにココアを舐めるセムタムの青年は、海の香りを発散している。
長旅になる、とトゥトゥは言った。
それは十中八九、もうここには帰って来られないという意味だ。
何故、アカトとして独り立ちできなかったのか。
そして挽回のチャンスは与えられないのか。
アカ・アカを一度で突破できないセムタムは毎回出る。
アムと同じときにアカ・アカを受けたのは、四十手前の男性セムタムだった。
彼は致命的に記憶力が悪く、口承の暗記だけがどうしてもできずに、二十五回の落第を経てまだナアカ、非成人なのだと言っていた。
挑戦は何度でも認められるはずなのである。
それなのにトゥトゥは一回で諦めようとしているのだろうか。
本当に、成人になることを放棄しようとしているならば、それは思いとどまらせたほうが良い。
アカトであるかナアカであるかは、セムタムにとっては天と地ほどの差がある。
「ドク、俺が変か?」
と、トゥトゥに呼びかけられて、アムは我に返った。
青年の深海色の瞳が訝しげにすがめられる。
随分とぶしつけに視線を送っていたようだ。
「ごめんなさい」
と、アム。
「半年会ってなかったから、とても―――ううん、あなたたちの言葉でなんて言えばいいのかな。単語が見つからないわ」
「バロバロ(うれしい)?スピ(不思議な感じ)?ハフー(待ちくたびれた)?それとも、△△△?」
アムは胸ポケットからノートを取り出した。
「待って、最後なんて言ったの?」
「クエイ」
「意味は?」
ううん、とトゥトゥは天井を睨んだ。
鼻の頭に皺が寄っている。
「すっきり晴れた日のラグーンにパンパナスが迷い込んできて」
パンパナスとは地球産のウミガメに似た動物である。
大きな違いは、この亀が完全なる肉食動物で海龍の天敵だということ。
「俺はそれを銛で突こうと思ったけど、すごくクエイだったからやめた」
「難しいわね。他の例は?」
「あの金色の鱗もクエイだと感じてる」
「感じた、感じた……、ね。ええと、ポラポラ(綺麗;主に女性に対する)に似ている?」
「当たり」
トゥトゥはそこで、二杯目のココアをくいっと飲み干した。
「ポラポラ、ココウ(男性的な美しさ、男らしさへの誉め言葉)はセムタムを褒める。クエイはセムタムじゃないものを褒める。トゥトゥ=ナオルフにはクエイを使う」
アムはノートを脇にどけて身を乗り出し、マグを握るトゥトゥの手に、そっと自分の手を重ねた。
「トゥトゥ、一体あなたに何があったの。なんでそんな―――ああもう、繊細な言葉が出てこない!」
セムタム青年の口が苦しそうに歪む。
「全部、問題なかったんだ。航海術と武術は負ける気しねえし、暗唱もちゃんとできた。竜骨から櫂を作るのも、じじばば連中との問答もできたさ。だけど、夢見師が」
そこでトゥトゥは目をつむった。
内なる声を振り払うようにして頭を振る。
「俺の夢見師は何も見なかったんだ。お前の夢には暗いものしかない。何も見えない、ナオルフだ、って……」
アカ・アカの最後、成人にならんとするセムタムはお告げを受ける。
そのお告げは夢見師というセムタム族のシャーマンによってもたらされ、内容を解釈したもの、すなわちオルフが背に彫られ、成人姓が告げられる。
オルフの最後の一筆が入ったとき挑戦者は晴れてアカトと認められた。
もちろんアムの背にもオルフがある。
夢見師が告げた成人姓セパアは<繋ぎ手>の意味だった。
「過去に例はないの?」
アムはすがる思いで問う。
「ある」
トゥトゥの目がゆっくりと開いてアムを見据えた。
「じじいが五回死ぬくらい前」
独特な表現過ぎて脳内翻訳が追い付かなかったが、五代前ということなのだろうかとアムは推測する。
「ナオルフと告げられた男がいた。その頃は今よりももっとセムタムの数が多くて、食べ物も住むところもなくて、みな航海も下手くそだったから、争いがしょっちゅうあった。ナオルフはセムタムをまとめて、王になろうと考えた」
今のセムタム族の暮らしとは随分と違うように思われた。
セムタムは過密を嫌う。
衣食住に困るセムタム、私欲に走るセムタムの姿は、黄金の龍と出会うよりも神話的だった。
「ナオルフは黄金の王に武器を借りて、敵対する相手を次々と負かしていった。気づけばセムタムの数は争いが始まる前の半分になっていた。誰もナオルフに反対しなくなった。彼は調子に乗って怖いものなしになり、自分のくるぶしから上の空気を我が持ち主にしてくれと黄金の王に頼んだ。黄金の王は、わかった、と言うなりナオルフのくるぶしから上を雷で焼いてしまった。その音に驚いた島々の王が身を震わせたので津波が起きて、セムタムはさらに半分になってしまいました、とさ」
アムとトゥトゥの間に沈黙が落ちた。
アカ・アカのために沢山の伝承を聞き集めたが、こんな話は聞いたことが無かった。
セムタムの間では誰もが知る物語に違いないのに、余所者のアムには秘密にしていたのだろう。
トゥトゥが再び口を開いた。
「わかったな、ドク。俺はセムタムの間にはいられない」
「まさかトゥトゥ、それで黄金の王の鱗は俺に似合うって言ったわけ?」
「うん」
「馬鹿」
とアムは言う。
「馬鹿ってえのは何だ」
トゥトゥはすごんだ。
「あなたがそんな危ないことする前に、私が全力で止めるわよ」
大男にしては、ぱちぱちとやけに可愛らしく瞬きをしてから、トゥトゥはぼそりと呟いた。
「そうか」
◇
翌朝、日の出とともに目を覚ました。
空港のロビーに下りていくと、トゥトゥの姿は既になかった。
寝台がわりに動かしたソファは元通り片付けられている。
アムは、不安になってトゥトゥの名を呼んだ。
もしかしたら、何も言わずに出て行ってしまったかもしれない。
死に場所を探す永遠の航海へ。
そう思ったら、背筋が寒くなった。
太陽が昇るにつれ、ガラス張りの正面玄関から朝の光が押し寄せて、空っぽの到着ロビーを染め上げる。
その色はアルマナイマ星の、生命の力強さを感じさせた。
アムは朝日の中に焦って飛び出し、トゥトゥの名を呼ぶ。
「どこ行ったの!?」
空港を一周しても返事は無い。
自転車に飛び乗って爆走すると、滑走路の近くに輪になって座っているセムタムたちの姿が目に入った。
「エンダ!あなたたち、トゥトゥを見てない?」
挨拶もそこそこに、アムが息せき切ってそう言うと、リーダー格のひとりが立ち上がって南を指し示した。
南はセムタムたちの上陸点。
すなわち船出をする場所。
「ありがとう!」
いつもなら整備不順の原因を減らすために滑走路の脇で自転車を止めるが、今日はその禁を破る。
一刻も早くトゥトゥに追い付きたかった。
自転車をこぎながらちらりと見やると、黄金の王の残留物は、昨日から何一つ動かされていないように見える。
破格の相手であるが故に、セムタムたちも対応に困っているようだ。
ドゥラアカト、彼らの長として認められた成人衆の判断を待っているのだろう。
朝日が黄金の王の鱗に乱反射して、恐ろしいまでに美しかった。
クエイ。
トゥトゥがそう言った時の、感情を押し殺した声の欠片が、まだ耳に残っている。
さらに力を込めてペダルを踏みこんだ。
ぱあん、と破裂音がしてアムは前につんのめる。
タイヤがパンクしたのだと思い至ったのは、体の痛みが少し落ち着いてからであった。
気づいたら滑走路に転がっていた。
じんじん痛む体を少しずつ伸ばしながら見る空は、爽やかに青い。
「やっちゃったわ」
この星ではパンクしたタイヤを直せる見込みはゼロに近い。
エヴァンに怒られるだろうな、とアムは思った。
絵の具のような鮮やかな青、吹き流された雲の白い筋。
そこに、ぬっと赤が混じった。
「寝てると踏んじまうぞ?」
アムは急いで上半身を起こす。
ひどく痛かったが、構ってはいられない。
「トゥトゥ!」
「何やってんだドク」
「何やってんだって、あなたがいなくなったのかと思って」
トゥトゥは胸を反らせて、ぶははははと豪快に笑った。
ひとつに結った長い髪が炎のように揺れる。
昨日ココアを飲みながらうじうじしていたのは、いったい何処の誰だったのか。
「さあさドク、朝飯喰ったか?早くしねえと市場ぁ仕舞っちまうぜ」
「市場?」
「じじばば待ってる間に俺らが食うに困るだろ。坂道に料理人どもが陣取ってる。目ざてえやつらだからなあ」
アムは跳ねるように立ち上がった。
服を探ると、ポケットにはちゃんと小さなメモがしまってある。
衣食住は人々の生活を探るうえで、どんな星のどんな種族に出会った時でも重要なファクターだ。
「トゥトゥはもう食べたの?」
「軽くな」
「一緒に行ってくれない?」
「ドク」
トゥトゥの顔にためらいの色が浮かんだ。
アムはトゥトゥの胸を軽くたたいて(これはセムタムの親愛の仕草)、言う。
「私はね、あなたと一緒にいたって理由で何か言われたとしても、これっぽっちも怖くないの。それよりもトゥトゥと話をしたい。美味しいもの教えてよ。あなたが嫌でなければね」
深く息を吐くと、トゥトゥは頷いた。
「仕方ねえなあ。ドク、どのみち売れるもの持ってねえだろ。釣りに行くか」
「そうこなくっちゃ!」
パンクした自転車を滑走路脇の草むらに引きずって、ポピの木の根元に立てかける。
トゥトゥは手を出さなかった。
余所者の技術にセムタムが軽々しく触れることはない。
どれだけトゥトゥが異星の文化に柔軟だといっても、無限に柔軟なわけではない。
それはアムも同じことだ。
例えばセムタム女性はオルフを見せるために、上半身は胸以外の部分を隠さない。
でもアムは恥ずかしいので空港内では上着を着る。
その恥ずかしさは文化の違いによるもので、アカトになったからといって速やかに生まれ育った価値観を捨て去れるわけではないのだ。
トゥトゥと並んで歩きながら、そんなことを思う。
昨日、アララファルの鱗を求めてセムタムたちが居並んでいた坂道に、今はずらりと炊事の煙が並んでいた。
「すごい」
アムが目を輝かせて言うと、セムタムの料理人たちがぱっと顔をほころばせて応える。
「ドクターどうだい、このホピマウがいちばん美味いぜ」
「いんや、うちのテテカだね」
「違う違う。うちのプーリは女性うけがいいんだから」
アムはいちいちノートを取り出して記録を書きつける。
ホピマウは保存食としても重宝される、ホピの葉で魚や肉を包んだ蒸し焼き。
テテカは、小魚の塩漬けをあぶったもの。
プーリは、アルマナイマ固有のイモを潰してプリンのように蒸しあげた甘味。
ボールペンを取り出して(恐ろしいことに、この単純な形のペンは地球の20世紀の地層から発見されたものとほとんど変わり映えがしない)紙の上を走らせていると、セムタムたちがしげしげと覗き込んでくる。
彼らにもハウライ―――創世神話にて海龍の王アラコファルの鱗に浮かんだ紋様に着想を得てセムタムの祖が生み出したと説明される文字があるのだが、アカ・アカを通じてセムタム間の知識が均一化されていることから、書くあるいは書き残すという行為の需要が無かった。
それ以前に書きつける先である紙、パピルス、引っかきやすい石といった資源が少ない。
従ってハウライ文字が登場するのは神事、あるいはオルフとして成人の背に彫りつける用途に限定された。
朝ごはんについて文字で書き留めるアムの姿は、物珍しいだろう。
自分の習熟したレシピであれば目をつむっても皿に盛り付けるところまで出来ると、知り合いのセムタム料理人は言ったものだ。
アムのことは、知識ひとつ頭に納めることすらとても不器用な種族だと認識されているかもしれない。
夢中でノートと格闘している間、トゥトゥは何も言わなかった。
それが彼の優しさであることをアムは承知している。
頭の禿げあがったプーリ屋の店主が、売り物を小さく切って試食させてくれた。
ほんのりと甘く、どこか懐かしい、カスタードプリンに近い味がする。
「美味しい」
と言った拍子におなかが鳴った。
アムが、あ、とおなかを押さえると、店主は笑い
「早く大きなものを食べさせてもらいなさい。あなたは沢山の役割をする人だから」
とジェスチャーを交えながら言う。
「そうするわ。ありがとう」
トゥトゥのニュアンスには慣れたが、初対面のセムタムとの会話はまだいささか拙い。
顔を赤くしたアムが歩き出すと、頭の上の方で、ふん、とトゥトゥが鼻を鳴らした。
何事かと見上げると、トゥトゥの視線は坂の先、海の方を見ている。
船の近くにエヴァンが立っていた。
珍しくセムタムと話をしていて、今ちょうどその会話にきりがついたらしい。
通訳が要らないくらいの内容だったならアムも心配することはない。
こちらに気づいたエヴァンが手を振ったので、アムも振り返した。
トゥトゥはもう一度わざとらしく鼻を鳴らした。
「やっぱり嫌い?」
「ナアカ(成人ではない大人)は嫌いだ」
やれやれ、と思いつつも、アムは坂を下った。
少しだけ離れてトゥトゥがついてくる。
「アム、もう起きたのかい」
「エヴァンこそ早いじゃない。珍しくセムタム料理にチャレンジ?」
「いやあ……」
エヴァンは柔らかい金髪をくしゃりとかく。
「やっぱり僕は舌に合わなくって。保存食のヌードルにも、いい加減飽きてきたんだけどね」
「こればっかりは難しいわ。昨日の墜落は、あなたの胃には痛手ね」
アムがおなかをつつこうと指を伸ばすと、エヴァンは、ひゃあと言いながらそれを避けた。
トゥトゥは鼻を鳴らしながら二人の横を通っていく。
これからどうするのかと問われたので、アムは海に出ると言った。
「セムタムには彼らのやりたいようにやってもらったらいいわ。調査は終わったんでしょ?」
「僕の方はね。アム、君に……」
ファッカムセラン・カヌーの帆が開く音がした。
アムは、申し訳ないとは思ったけれども、今朝ばかりはエヴァンとのおしゃべりに付き合う気がしなくて、聞こえないふりをして身を翻した。
「ごめん行かなきゃ。半日で帰るから!」
砂浜に飛び降りて駆け出す。
トゥトゥのカヌーはもう、ゆっくりと動き出している。
全速力で砂浜を走ると胸が高鳴ってきた。
海が呼んでいる。
鳥たちの甲高い声がする。
波の囁きが聞こえる。
ああ、私の居場所はここだ、とアムは思う。
トゥトゥがラン(浮き木)に片足をかけて、乗りやすいようにしてくれている。
きゅっと口を一文字に引き締めて、砂浜を蹴る。
水面に半ば沈んでいるランに着地すると、トゥトゥが引っ張り上げてくれた。
「ははは、相変わらず勘がいいなあ、ドク」
「もう!すごく緊張したのよ。船に乗るの一か月ぶりなんだもの。届かないかと思った」
「そりゃあ長く○○〇だなあ」
「なになに、なんて言ったの?」
「カラコラコは水が無いこと。船に乗らないセムタム」
「ああ、干上がってるて意味なのね。面白いスラングだわ」
「天候が悪かったのか?」
「ううん。ちょっと悪いことがあって。先月の便で来た観光客がひとり行方不明になったの」
「なんだ、いつものことだろ。そのへんに沈んでらあ」
アムと話をしながらも、トゥトゥはカヌーの上をせわしなく行ったり来たりしている。
湾を囲むラグーンを抜けるまでが、実はいちばんの難所だ。
ラグーンの付近は浅瀬が多いし、海に出るための切れ目は流れが速い。
「手伝った方がいい?」
「いいや、ドクは客だから。座っていて」
ファッカムセラン・カヌーの材質は主に龍骨である。
この素材は木よりも丈夫で軽い。
おまけに火に強いから、いざとなれば船上で煮炊きもできる。
セムタム達にとって龍がそばにいるというのは大いなる幸運だった。
アムはアルマナイマ星以外の海洋民族も調査したことがあるが、鉱石や木材、加工に適する土の不足によって<うつわ>を発展させられないパターンが多かった。
龍体は加工すれば様々な可能性を引き出すことが出来る。
セムタムの伝承歌もその恩恵を称える。
例えばその名もずばり、『龍の体の歌』はこうだ。
骨はカヌーや鍋に。
鱗は武器や釣り針に。
牙は勇士の胸に輝く。
肉は我らの体に。
血は神聖なる染料に。
空を行く龍の骨は軽く、地を歩く龍の骨は重く、海を泳ぐ龍の骨は我らと同じ重さ……。
このあと、龍の内臓について、それぞれの格について、恩恵をあずかるための儀式についてなど実践的な内容が続く。
龍についての歌の中でも特に基本的な歌で、これを子守歌にする母親も多い。
セムタムの魂に染み込んだ歌だ。
「ところでトゥトゥ、どこまで行くの」
「潮の向くまま。パレイパレイが見えるから近くになんかいるよ」
トゥトゥの指さす方を目を凝らして見ると、はるか遠くに白い海鳥が矢印型の群れをなして飛んでいるのが辛うじて分かった。
パレイパレイの飛ぶ下には魚の群れか、小型海龍がいることが多い。
鳥の群れの左手奥には、ぽつんと島影がある。
その名もアムナ島といい、アムにとってはなんだか自分のものように思える島だ。
初めてカヌーの練習のためにラグーンの外に出た時、目標にした島でもある。
トゥトゥが手早く調整すると、風を強く受けた帆が気持ちの良い音を立てて張り詰めた。
カヌーの速度がぐんと上がる。
飛ぶように進むカヌーは波を切り、風を追い越す。
アムが歓声を上げると、トゥトゥもまた勇ましく吼える。
「海はいいだろ、ドク」
舳先に立って胸を張るトゥトゥの姿は、どこからどう見たって誇り高いセムタムだった。
アムは言う。
「ココウ(かっこいいよ)、トゥトゥ」
トゥトゥは口角をふっと吊り上げた。
「そうかい」
「そうよ」
「アエラニ(ありがと)」
少々ぶっきらぼうに言ったトゥトゥは不意に顔を背けると、海面にそっと櫂を下ろす。
この辺の流れは知り尽くしているはずなのに、どうやら照れているらしい。
アムは頬が緩むのを押さえられなかった。
セムタムの歴史は重い。
だけれども、独りで背負う必要はないはずだ。
今でも鮮やかに覚えている。
アルマナイマ星の調査員として降り立った時、初めてアムの拙いセムタム語に付き合ってくれたのはトゥトゥだった。
彫りが深く、心を見透かすような目をしたセムタムの青年は、まだ星になじまぬアムの目には恐ろしく見えたものである。
ただ彼は、好奇心旺盛な優しい魂の持ち主であった。
大きな体を折り曲げて、何度でもアムの発音の間違いを正してくれた。
カヌーの手ほどきも、おいしい料理の見分け方も、サバイバルの仕方も全部、トゥトゥがまず教えてくれたのだ。
この星の名は、セムタム族の創世神話における原初の神が、続いて産まれたすべての命に対して戒めた言葉による。
それはセムタム族の人生観の根幹をなしていた。
アルマナイマ、その意味はすなわち<過不足を求めるなかれ、均衡を貴ぶべし>。
お返しをしたいと思う。
アムがもらった恩はトゥトゥの背を支えて初めて、やっと釣り合うくらいだと感じるのだ。
この星の神が正しく裁定してくれるのならば(と考えるのは随分と不敬だろうか?)、トゥトゥを引き留めたからと言って怒られることもあるまい。
「ドク、見てくれ」
舳先のトゥトゥが手招きした。
横顔が厳しい。
嫌な感じがする。
アムはバランスを崩さないように立ち上がった。
代わりにトゥトゥが舟の中ほどに下がって、ふたりは位置を入れ替える。
カヌーが前傾してしまうので、舳先に並び立つのは難しいのだ。
「飛龍の死骸…?この辺りではかなり大きめの個体ね」
「ドク、気になるのは首だ」
カヌーが近づくと、水面に下りていたパレイパレイが騒がしく飛び立つ。
視界が瞬間、白くなった。
鳥類の独特なにおいが鼻につく。
トゥトゥが帆をたたんだ。
ファッカムセラン・カヌーの速度が落ちて、死骸の翼に乗り上げないように角度を細かく調整しながら近づいていく。
龍の体長はカヌーよりも長く、鼻先から尻尾の先までおおよそ10m。
白い腹を上に見せる姿勢で浮かんでいた。
一本角を生やした立派な頭は海面下にある。
まだそれほど腐臭がしないところから、死後間もないものだろう。
「首の傷を見てほしい」
トゥトゥが言う。
アムは水面に向かって手のひらを広げながら応える。
傷の直径はアムの手のひらよりも大きそうだ。
「えぐられてるみたい。何で突いたらこんなに?」
「銛にしては傷が大きすぎる。セムタムの仕業じゃない」
アムはトゥトゥを振り返った。
「この大きさの龍を襲えるのは龍だけじゃない?でもそれにしては不自然よね」
「ああ。ざっと見たが首以外に大きな傷がねえんだ。龍同士で噛んだにせよ、爪でえぐったにせよ、ただ一つの傷で終わるとは思えねえな」
「うん、縄張り争いならもっといっぱい傷があるはずね。捕食だったらこのまま残してあるのもおかしいし」
トゥトゥは頬をぽりぽりと掻いている。
空から様子見していたパレイパレイのうち、命知らずな何羽かが二人の船に舞い降りてきて、キャアキャアと甲高い声でわめいた。
邪魔だと言っているのだろう。
振り向いたトゥトゥが、食っちまうぞ、と怒鳴ると、あたふたしながら再び舞い上がった。
「まあいいや、ドク。こいつをアムナ島まで曳いて行こう」
「調べないといけないものね」
「弔いもな」
トゥトゥは船底に巻いて置いてあったロープを取り出すと、その片方を船尾飾りの鉤に結び付け、もう片方を自分の手に巻いた。
躊躇なく海に飛び込むと、すいすいと龍の顔の下に潜り、あっという間に縄を固定する。
アムは手品を見せられているようだった。
こればかりは、生まれた時から海と龍が横にいるセムタム族でなければ体得できない。
「トゥトゥ、縄どうやったの?」
カヌーに上がったトゥトゥは大型犬のようにぶるっと身を震わせた。
しぶきがアムの所まで飛んでくる。
「あ?ああ、あの龍な、歯が折れてたんだ。そこをくぐらせてある」
トゥトゥが口に指を突っ込んで、こんな風に、と見せてくれた。
「歯が折れるなんてね。ずっと折れてたのかな。それとも落ちたとき?エヴァンに解析してもらった方がいいのかな」
嫌そうな顔をしたトゥトゥを見て、アムは即座に
「ごめん、今の無し」
と言う。
鼻を鳴らしたトゥトゥは、少しだけ乱暴に櫂を握って漕ぎ始める。
今度は照れ隠しではなくて本当に漕ぐのだ。
アムも櫂を取って、トゥトゥとひとり分の間隔をあけて海中に入れる。
角度が良い塩梅になったところで帆を開き、カヌーに勢いをつけた。
船尾に結んだ綱が徐々に張っていく。
綱が張り切ったころには、カヌーは龍の重量を引っ張るのに十分な風を捉まえていた。
アムナ島は指呼の間にある。
曳航が上手くいけば、砂浜の間近まで海龍を運んでいけるだろう。
そうすればカヌーからおりて、しっかりした地面に足をつけて観察することが出来る。
パレイパレイの群れも一緒についてきた。
どうしてもこの巨大な食料を手放したくないのだろう。
それに、待っていればセムタムがおこぼれをくれるのを、彼らは良く知っている。
龍の死骸の所有権は第一に発見者にあるが、自分が必要とする以上のものをそこから取ってはいけないという暗黙の了解があった。
それもまた、独占を卑しいものとする<アルマナイマ>の考え方なのだろう。
島のラグーンが見えるほど近づいたところで、突然パレイパレイの群れが方向転換した。
反射的に顔を上げてそれを見ようとしたアムを、トゥトゥが覆いかぶさるように抑える。
それと同時に乾いた炸裂音が響いた。
船尾の辺りで、何かが―――カヌーしかないのだが―――爆ぜる音。
それからアムの良く知る、だがこの星にはあってはならないリズムが聞こえる。
エンジンの回転する音。
「逃げてトゥトゥ」
「何だって」
「余所者の船が来た。こっちより速いわ!」
トゥトゥが勢いよく立ち上がる。
「気をつけて」
頷いたトゥトゥは、船尾に走りよると力を込めて綱を外し、龍の死骸を解放した。
アムは帆を最大角度まで展開する。
エンジン音は前方から響いていた。
ちらりと目を走らせると、小型のボートが島影から出て、こちらの行く手を塞ぐように鼻先へ、鼻先へと動いている。
重みの減ったカヌーは滑らかに速度を上げたが、風頼みのこちらがエンジンを搭載した船を回避できる可能性は、ほぼゼロだ。
再び炸裂音。
浮き木の先端がはじけ飛んだ。
「銃」
アムは奥歯を噛みしめる。
ボートの乗組員の姿がちらりと見えた。
セムタムらしき肌色の人間が数人、そのなかに明らかに違うファッションの人間がひとり立っている。
ボートの操縦をしているのがセムタムなら、さらに逃げきれる可能性は低下するだろう。
風の読み方も潮の読み方もこちらと同じ知識を持っているのだから。
「くそ。妙なもん使いやがって」
と吐き捨てるようにトゥトゥ。
「泳ぐ?」
「いや。ドク、しっかりつかまっててくれ。一か八かだ」
ズボンのポケットから、トゥトゥは何かをつかみだした。
手を開くと、そこに一塊の黄金が乗っている。
トゥトゥはそれをうやうやしく空にかざした。
「それ―――」
「冠鱗の芯だ。こいつは生きてる。恐らく、まだ持ち主につながってるはずだ」
また炸裂音がして、船首がえぐれる。
かろうじてまだ浸水はしていないが、この調子で撃たれたら、穴をあけられるのも時間の問題だ。
どころか先にアムかトゥトゥかどちらかに当たるかもしれない。
「アララファル!」
トゥトゥは叫んだ。
アムは、はっと身を固くする。
「天のいと高き座よりみそなわす尊き龍よ。風を与えたまえ!」
黄金の塊がぎらりと輝いたようにアムには思われたが、風は動かない。
トゥトゥの赤い毛束が、怒りのあまりぞわりと波打ったように見えた。
エンジン音がひときわ甲高くなる。
さらに一発、今度の銃弾は浮き木を完全に断ち割った。
浮力を減らされたカヌーが、がくんと波間でよろめく。
トゥトゥは堪忍袋の緒を真っ二つに引きちぎった。
「何もしねえってんなら大した腰抜けだぞ、アララファル!そこに一匹親族が死んでるだろうが、てめえ、余所者怖さに仇も討たねえってのか!!」
その言葉の後で、一瞬風が凪いで、続いて台風のような猛烈な風がカヌーの帆を突き飛ばすようにして押し寄せた。
トゥトゥの怒声は本当に天まで聞こえたのだろう。
まるで三歳児が駄々をこねながら気に食わない相手をバンバン叩いているかのような滅茶苦茶な調子で、カヌーは揺れに揺れた。
帆は軸を中心に柔軟に回転し、
「うわわわわわ」
「危っぶねええ」
アムとトゥトゥは船底に転がりこんで、驚異の角度で暴れまわる帆から身を隠した。
カヌーは恐ろしい速度で海原をかける。
今、自分たちがどこにいるのか、そしてボートを引き離せているのかを確認する余裕はなかった。
振り落とされないように船底に張り付いているのが精一杯。
「ドク、見えるか空。お出ましだ」
視線を上げると、さきほどまで真っ青だった上空に、みるみる雨雲が集まってきた。
先ぶれもなく極太の雷が雲の真下に落ちて、衝撃でカヌーが跳ねあがる。
ふたりはカヌーから外へと投げ出された。
てっきり海に落ちるものと思っていたら、着地した先は砂浜だった。
トゥトゥがとっさにかばってくれたらしい。
アムの背中と地面の間に、トゥトゥの逞しい腕があったので、打撲することなくすんだ。
「トゥトゥごめん、痛かったでしょ」
「軽いさ。それよりも、あれ」
島のラグーンにボートが引っかかって、黒煙を吐き出している。
トゥトゥは目を細めて
「天罰だな」
と言った。
「王の槍が降ったんだ」
その言葉に同意するように、ボートは沖の方にぐらりと傾き、派手な音を立てて爆発する。
反射的に耳を塞いで、アムは悲鳴を上げた。
トゥトゥはぴくりとも動かなかった。
「……セムタムも乗ってた」
「ああ。助けにはいかねえぞ、ドク。自業自得だ」
アムは小さく頷く。
どこからかまたパレイパレイの羽ばたきが聞こえる。
それにしてもここはどこなのだろう、と振り返ると、何のことはない空港島の砂浜であった。
普段はカヌーを入れない浜だが、間違いない。
ぐぐう、とアムのおなかが鳴った。
「そういやあ、朝飯抜きだったな」
トゥトゥが、くふふと笑う。
滑走路に続く坂道まで戻ってくると、アムの空腹はいっそう激しいものになった。
あちらこちらから、いい匂いがする。
しかし残念ながら、アムは物々交換できそうなものを仕入れそこなった。
セムタム料理に舌鼓を打つのはあきらめた方が良さそうだ。
と思っていたら、トゥトゥがわざとらしく
「そういえば、間違えてベヌーを二人前頼んじまったんだなあ」
「間違えて?」
「間違えたんだよ」
咳払いするトゥトゥ。
ふたりが坂を上っていくと、セムタム達が血相を変えてわっと集まってきた。
口々に質問を投げかけてくる。
先ほどのチェイスの終盤部分は、この坂の上からでも見えたはずだ。
恐らくそれに関することだと見当はつくのだが、やはりヒアリングの難しい早口だ。
今回は一から十までトゥトゥが聞いているから問題はないだろうが、悔しさはつのる。
トゥトゥはアムを背にかばうようにして人混みを掻き分けた。
時折見せる、顔の前で手を振る仕草は「黙れ」の意。
「ドクは朝飯喰ってねえんだ。静かにしろ!」
我慢の限界に達したトゥトゥが大声で言うと、ようやく四方八方から言葉の雨を降らせるセムタム一同は静かになった。
トゥトゥはアムの腕を引いて、坂をずかずか上がる。
足を止めたそこに、ベヌー、すなわちセムタムの愛する鍋料理がぐつぐつ泡をふいていた。
スマートな体形の店主がトゥトゥに気づいて、鍋の蓋を取って見せる。
ぶつ切りにされたパンパナスと、赤い木の実が泡の中で踊っている。
漢方にも似た複雑な香りが鼻にすっと通った。
「食べ時だな」
と言うと、トゥトゥはどっかりと店先に腰を下ろした。
手招きされるがまま、アムも横に座る。
店主は器用に鍋を火から外して、砂を盛り上げた地面に鍋を置いた。
「まさかトゥトゥ、それで今朝は早かったの?」
「たまたまな。島の近くにいるのを昨日見たんだ」
ポピの実の硬い殻を椀にして、トゥトゥが鍋をよそってくれる。
パンパナスは豪快にぶつ切りされて、アムの椀には手先そのものの塊がどんと入った。
鱗や爪といった部分を上手くきれいにすれば、それでも臭みは出ないらしい。
指でほぐしながら食べると、少々グロテスクな見た目に反して淡泊な白身の肉である。
ほろほろに煮込んである身はそのまま食べても良し、レバーと混ぜて食べてもまた良し。
合間に小ぶりなリンゴに似た木の実をつまむと、ほどよい酸味と甘みがアクセントになる。
「どんな取引したか聞いてもいい?」
「俺が獲ったパンパナスはこれくらい」
トゥトゥが長い手を目いっぱい広げる。
「一匹まるごとこの店に卸したわけだが―――」
物々交換と言うものの、セムタム族の取引は労働力と技術の交換でもある。
例えばトゥトゥの説明によれば、今回トゥトゥが支払ったのはパンパナス一匹と、それを狩猟する行為そのものであった。
料理人はそれを受け取り、独自のレシピと秘伝のスパイスを用いて調理を行う。
ここで料理人の側に、調理の手間と技術という価値が発生する。
双方で価値のすり合わせが行われ、合意に達すれば取引成立。
今回に関してはトゥトゥが二人分のベヌーと、可食部以外の価値あるパーツを。
料理人が残りの肉を好きに扱う権利を受け取った。
「それでだいたい対等になるのね、面白い」
「まあ、今回のパンパナスはそこまで立派な奴じゃねえからなあ」
ずず、とスープをすすりながらトゥトゥが言う。
「俺よりでけえようなのを獲ったときは、半年くらいそれの切り売りで食ってた」
「良い稼ぎになるじゃない」
「とはいえ、ひとりのセムタムが獲っていいのは月に一匹だから、まあよほどの幸運でなきゃ割が合わねえ相手だ。こないだも甲羅の間に手を挟まれて、そのまま海に引きずり込まれたやつがいたって聞いたしな」
ふたりがそうして遅めの朝食をとっていると、坂の上から
「ポーラ、ポーラ」
と叫ぶセムタムの声が聞こえた。
これは、セムタム語における集合の意である。
トゥトゥは頭を巡らせて、耳をそばだてていた。
耳の良さもセムタムの特徴である。
他星の人間が退化し過ぎているだけかもしれないが。
できるだけ静かにアムはホピの実の椀の中身をすする。
良い出汁が出ていて胃が落ち着く優しい味だ。
海でもみくちゃにされた内臓を休め、これからの出来事に備える必要がある。
可能な限りしっかりと食事をとっておくことだ。
それに、トゥトゥはああ見えて礼儀にはうるさい。
きちんと椀の中身が片付くまで、ここを動こうとはしないだろう。
最後の一口をえいやと飲み干すと、アムは店の主にホピの椀を返す。
「ありがとう。カヒ(ごちそうさま)」
椀にトゥトゥが素早く目を走らせたのを、アムは見逃さなかった。
「ちゃんと空よ」
目を細めてトゥトゥが言う。
「よしよし」
こちらも空になった椀を店主に返して、さあ行くかとトゥトゥは立ち上がる。
「何て言ってたの?」
「それがなあ、余所者が来たって話してるんだよな」
釈然としない様子のトゥトゥ。
「さっきの船に乗ってた奴かなあ」
とアム。
「わからんが、まあ見に行こうじゃねえか」
セムタム達は列をなして坂を上がっていた。
今日は柵は開け放たれていて、そこから滑走路へとどんどんセムタムが流れ出てていく。
「空港の方に向かってる?わっ、プリー(ごめんなさい)」
誰かの足につまずいてアムがあやまると、その足を引っかけられたセムタムは怒るでもなく微笑んで、いいんですよ、と言った。
この穏やかさをアムは愛する。
セムタム達が向かったのは、アムの推測通り空港であった。
近づいて行くとエヴァンが必死のセムタム語で彼らを落ち着かせようとしているのが聞こえてくる。
しかし、成人ではないエヴァンの言葉には誰も耳を貸さない。
アムは慌てて前に出た。
「エヴァン、私が話すわ。その前に何があったのか教えて頂戴」
「ああ、スーパーヒロインのお帰りだ!ありがとうアム」
エヴァンはアムをハグする。
男性にしては随分と細っこい骨格だとアムは妙に冷静に思った。
「さっき島に非セムタムの人間が漂着してね。今は医務室に寝かせてあるんだけど、どうやら僕たちがずっと探してた先月便の行方不明者みたい」
「何で今頃……」
「一か月に一度定期便があるっていうのを知ってたんだろ。それを目指して、必死にここまで帰って来たに違いないよ。まあ……」
と、エヴァンは顔を曇らせた。
アムもその先に言葉が続かない理由は痛いほどわかっている。
その定期便は昨日、木っ端みじんになったのだから。
「わかった。話してみるわ。彼らの要求の中身も知らなきゃいけないし」
「お願い」
アムが向き直ると、セムタム達は水を打ったように静かになった。
「証を立てます。私はあなたたちの話に耳を傾ける。だからあなたたちも私の話に耳を傾けてほしい。お願いできますか」
前方のセムタム達は頷き、後方からは同意の声が返ってきた。
いつの間にやらトゥトゥは最前列の端っこで腕組みをして、彼女の声を聞いている。
徹底的にエヴァンと関わりたくないらしい。
「まず、あなたたちは何を求めていますか」
すると最前列のセムタムが
「余所者を出せ」
と言った。
「なぜ余所者を出す必要がありますか」
アムは必死に言葉を手繰り寄せる。
セムタム語には丁寧な言葉遣いというものがあるのだが、この際気にはしていられない。
「余所者が余所者の武器で龍を撃ち殺した。あってはならない。あなたは余所者を隠した。その余所者が龍を殺したと、我らは考える」
そうだそうだ、というヤジが飛ぶ。
「出すことはできない。何故なら、私はここに隠れた余所者の顔を見ていないから」
アムはゆっくりと彼女を取り囲むセムタムたちの顔を見渡しながら言った。
「私は今朝、トゥトゥと一緒に海に出て、龍の死骸を見た。その龍を殺した余所者に、私たちも襲われた。だから余所者の顔を見れば本物かどうかわかる」
セムタムたちは殊の外静かにアムの言葉を聞いている。
空港島に命からがら帰還した後、もみくちゃにされたときにトゥトゥが上手く説明しておいてくれたのだろう。
「少し待ってほしい。余所者の顔を見て、もし龍を撃った人間だったのなら、私はあなたたちにそれを引き渡します」
アムは、駄目押しにひとこと、きっぱりと付け加える。
「私は余所者を逃がさない。それを証し立てましょう」
セムタムたちがどよどよと、おおむね賛同の声を上げたので、アムの言は聞き入れられることになった。
あなたの求めるものは何か、と尋ねられたので、空港前に集まらないようにしてほしい、とアムは言う。
これは渋々ながら聞き入れられた。
アカトが証立てると言ったのだから、疑うのは彼らの美意識に反するのであろう。
ようやく空港を包囲したセムタムたちが三々五々、散っていく。
安心したアムは、エヴァンと共に空港の建物へ入った。
トゥトゥは、気づかない間にいなくなってしまっている。
彼にとっても島の上の大地を汚した強化コンクリートの塊は、ココアにつられて入ることはあるにせよ、肌に合わないものであることに違いない。
船の修理もしなければいけないし、もらうと宣言した黄金の王の冠鱗のこともある。
余所者の顔を眺めに付き合うほどお節介焼きではないのだろう。
「生存者のバイタルサインは安定してる。ずっと海に浮かんでたみたいで低体温症と衰弱は見られるけど、怪我もないし」
エヴァンに連れられて医務室へ向かう。
その扉の五歩ほど前でエヴァンは立ち止まり、言った。
「それより、ねえアム。僕の耳が確かなら、襲われたって聞こえたんだけど」
「ええ、言葉通りよ」
アムは肩を落とす。
「海に出て、ほらすぐ南に島があるでしょ」
窓の外の景色を指さす。
「あのあたりで龍が死んでたの。調べようとしたら襲われて……モーターボートと銃で武装してた。信じられないわ」
「そうだね」
とエヴァンは目線を落とした。
海なんか見たくない、外の世界なんて興味ない、とその姿勢は告げているようだった。
「君が無事なら何よりだ」
「エポー(ありがとう)」
思わずセムタム語で言ってしまったので、慌てて共通語で、ありがとうと付け加える。
「君は本当に馴染んだねえ」
「ふふ、まだ聞き取りは難しいし、話すのだって片言よ。ねえエヴァン、私たちがどうやって助かったか顛末を話したいわ。後で聞いてくれる?」
「もちろんさ」
エヴァンは再び歩き出して医務室の扉をノックした。
返事はなかったが、エヴァンは何も言わずに扉を開ける。
白い壁、茶色いひだのカーテン、疑似陽光ライト、最低限の医療器具。
低度人工知能プログラム少々、医療ロボットおよびアンドロイドナースは無し。
本日はそこに、男性患者一名が加わっている。
アムは胸を撫でおろした。
私とトゥトゥを狙った人間ではない。
新入りの患者一名は、ぼおっとこちらを見つめていた。
無理もないだろう。
同じ立場に置かれたら私だって言葉をなくすわ、とアムは思う。
着衣は医務室に置かれていた白いガウン。
襟に緑色の縁取りがある。
「御気分は?」
エヴァンが努めて朗らかに言った。
「ああ、悪くない」
新入り患者は、意外とはっきりした口調でそう答える。
「失礼ですが名前を教えていただけますか」
「リチャード・ガンデ。パスポートはここにある」
「ガンデさん。珍しい苗字ですねえ」
「母が地球系で、父がオリオン系だから。リチャードと呼んでいただければ」
エヴァンが簡単な質問をしながら簡易カルテを書いている間、アムは、リチャード=生存者を観察した。
髪は短く刈り込んでいる。
エヴァンの気の抜けた色とは違い、伸びたらさぞかし豪華な金色になるだろう。
短めにそろえられた髭が顔を縁取っていた。
漂流していた割にはこざっぱりと整っている。
曰く、リチャードは観光業界の関係者だという。
元はライフセーバー、カヌー競技の選手、密林地帯の河川観光ガイドなど水回りの仕事を転々としていたが、オリオン系の海洋ヴァカンス専門旅行会社<サニーデイズ>に就職して初めての仕事がアルマナイマ星の調査だったらしい。
経歴に入星審査書類との齟齬は認められなかった。
疑う余地はない。
愛用のカヌーを持ち込み、漕ぎ出して三週間であえなく遭難。
何とか持ち前の体力とサバイバル技術で食いつなぎ、定期便に望みをつないで必死に空港島まで帰ってきた、と説明した。
セムタムと接触することはあったが言葉がわからず、コミュニケーションはできなかったとのこと。
彼らは基本的に余所者に興味がないからだ。
野垂れ死んだら良いと願われたのだろう。
リチャードの説明に混乱は感じられない。
アムは、彼を引き渡すことはできないと思い、セムタム達を説得する方法を案じ始めた。
エヴァンは現在の空港の状況を、ストレートかつソフトに説明している。
その柔らかな物言いが功を奏しているのか、リチャードも冷静に現状を受け止めているように見えた。
次の定期便はきっかり一か月後。
あなたのばあいは辺境星遭難者登録がされているから特別便が検討される可能性がある。
<サニーデイズ>社は保険に加入していますか?
ただし、とエヴァンは声のトーンを落として言う。
アムの耳が彼の言葉に引き付けられた。
「ご存知でしょうが、この星にいる龍―――超大型生物のせいで確実な帰還が保証できないのは残念です」
リチャードはベットシーツを握りしめた。
それ以外に感情をぶつける先がないというように。
「何とかならないのか」
「それについては」
エヴァンは一旦言葉を切り、深呼吸してから続けた。
「賭ける気はありますか。僕にはあいつを殺す方法があると言ったら?」
アムは小さな悲鳴を呑み込んだ。
「それで安全が確保できるなら。この星はもうこりごりですよ」
リチャードは事もなげに答える。
エヴァンはくるりとアムの方を振り返った。
「アム」
その優しげな顔のそこここに、狂気の渦が描かれているような気がした。
いや、エヴァンの反応の方が正常なのだ、とアムの中の常識が告げる。
ここは二度と生きて故郷に帰ることが出来ない可能性のある星。
「君に協力してもらわないといけない。管制室へ連れて行ってくれ」
「何をしようというの」
「宇宙港には、いざという時のために対空兵器が備わっているはずだ。動かすには管制室の緊急防衛装置のロックを外す必要がある。違うかな?」
「エヴァン、ああ、どうか落ち着いて。龍にダメージを与えられるような性能じゃないわよ。戦艦だって沈められたことがあるっていうのに」
エヴァンの頬が、ひくりと痙攣した。
笑ったつもりなのだろう。
「策があると言った。実証実験は済んでるよ」
アムの脳裏に、今朝がた見た飛竜の死骸が鮮やかに浮かぶ。
銃で殺した。
火薬で龍は撃てるのか。
背筋が寒くなった。
「あなた、いつからそんな大それたことを」
「最初からだよ、アム。僕は生物学者なんだ。現状発見されている生物の中で最も強固な装甲をもつターゲットを研究するなら、それがどれだけの衝撃を加えて耐えきれるのか、あるいは死ぬのかを計測しなければならない」
エヴァンは懐から銃を取り出す。
あまりにもさり気ない動作だったので、アムには反応を返す暇もなかった。
「さあ、管制室に行こう」
エヴァンは今度こそ晴れやかに笑った。
背中に銃口が向けられている。
ちっぽけだが、それは確実にアムを殺傷できる。
リチャードは味方にならない。
なるはずがない。
常識的に考えて、拡張脳内機能も星間移動の自由も七つ星レストランも、そして生存の権利を不確実にされた人間は、アルマナイマ星から安全に脱出する道があるならば、迷わずそれ―――エヴァンの計画を後押しして龍を殺す選択をするだろう。
アムは非常識なのだ。
セムタムとアルマナイマ星に憑りつかれた哀れな女。
だからどうだというのだ、とアムは思う。
守りたいものを守るのに常識的正義が要るか?
「ロックを開けて」
とエヴァン。
管制室の扉は、アムの生体認証で開くようになっている。
指紋、静脈、体内パルス、その他。
「感情認証が無くてよかったわね」
と、アムは嫌味を言った。
ストーキング、DV、その他の暴力犯罪を抑止するため、怒りや憎しみあるいは悲しみと言った負の感情や、極度の興奮を読み取るセンサーが開発されたのもう何世紀も前のことだが、恐ろしいことにその市場は年々拡大を続けている、という。
一般的にはセンサーの警告域に達したと認証された場合、オプションが発動する。
警察あるいは警備会社への即時通報である。
「さて、それはどうかな。ここには駆け付けてくれるような秩序の番人はいないし、駆け付けたとしても武装艦は上空で撃墜されるだろう」
エヴァンの声は冷静だった。
指紋認証、クリア。
静脈認証は、数度エラーが出たのちにクリア。
扉のスキャナーがアムの体を矢継ぎ早に精査していく。
ロックが解除されるまではエヴァンも妙なことはしないだろう。
幾分か、冷静になれた。
先のエヴァンの言葉が妙に引っかかっている。
<武装艦は上空で撃墜されるだろう>
その言い切り方は、どうにもエヴァンらしくなかった。
アルマナイマ星上空での龍による襲撃の被害は、観光船や貨物船にも及んでいる。
<武装艦は>
確かに無事に着陸できた軍艦の類は一隻として存在しないのだが。
オールクリア、の青白い文字が管制室の扉の表面で踊るように点滅した。
ぷしゅうと空気を排出する音と共に、滑らかに左右に分かれて開く。
アムは、一つの可能性に至った。
「エヴァン。あなたハーヴェストで何を運び入れるつもりだったの」
背中に固い衝撃を感じて、アムは床に突き倒された。
じんと痺れる痛みが胃の辺りにせり上がる。
エヴァンに殴られた。
痛みよりもむしろ、そちらが衝撃的だった。
「立て」
とエヴァンは言った。
アムは振り返らずによろよろと立ち上がると、一気に重くなった体を引きずってコンソールの前に座る。
背後で扉の閉まる音がした。
制御盤の右手、五つあるモニタはいつものように空港を映し出していた。
滑走路を映した映像には、アララファルの鱗の周りで立ち働くセムタム達の姿が見える。
映像の中央付近には冠鱗が確認でき、微かに鼓動のような明滅が感じられるような気もしたが、モニタのちらつきのせいかもしれない。
そこにトゥトゥはいなかった。
空は朝から一転して、急速に曇り始めている。
スコールが来るのか。
「何をしてほしいの」
アムの声はショックで震えている。
「武器制御パネル」
「……私の生体認証がいるわ。あなたがすべてを話さない限り、操作は拒否する。マスターキーでも武器だけは動かせない。奪っても無駄よ」
エヴァンの目が冷ややかにアムを見下ろしていた。
嘘は許さない、とその瞳は雄弁に語っている。
「ここの空港の監督官は私なのよ。制御パネルの操作優先順位に割り込みたいなら辺境治安部隊の権限でも持ってくるのね」
「リチャード」
と、エヴァンはアムから目を離さずに言った。
「扉の脇の小さなボックスに、制圧用スタンガンが入ってるはずだ。君はそれを持ってくれ。我が愛しの学者さんが何をするかわからないからね。暗証番号は9999」
「無用心な番号だな」
と呟いて、リチャードはこちらに背を向けた。
扉の脇にかがんで黄色と黒の<取扱注意>の箱を開ける余所者の姿を、アムはじっと見ている。
制圧用スタンガンは強化装甲を着込んだテロリストへの対抗措置して、すべての宇宙港に設置が義務付けられているものだ。
素人でもスイッチ一つで凶悪犯を無力化できる―――ほぼ確実に息の根を止めて。
「連打できる番号の方が緊急時に役立つの」
思わず解説したアムの額に銃口が向けられる。
「アム、君が操作するんだ。それですべてが解決する」
「違うわね。ロックを開けて、防衛機能をオンにして、私の口を封じて解決するんでしょ」
「何故わからない。ここに僕を閉じ込めるのが君の仕事か」
「この星を壊したくない。仕事ではなく願望よ」
エヴァンの目がすっと細められた。
そこには感情が無い。
「あなたは誰」
アムの問いかけを、エヴァンは嘲笑うようにして聞く。
三日月の形に口が歪む。
笑っているのだと気づくのに時間がかかった。
「僕はエヴァン。生物学者にして軍事従業者だ。そうさアム、僕は君を殺す。殺さなければ、僕は特許が取れないからね。君はどうせ僕を告発するだろう?このくだらない星の権利を巡ってね。ああリチャード安心して欲しい。君は生かしておくよ、僕に従順である限り」
緊張のあまり、ぐ、と喉が鳴る。
エヴァンは饒舌に喋り続ける。
背後のリチャードは凍り付いたような顔をしていた。
「僕は発見したんだ。龍を殺傷しうる銃弾を龍そのものから造ることが出来る、ということをね。骨と鱗の粉末を火薬に混ぜるだけで、あの忌々しい飛竜を一発で殺せた」
アムの脳裏にフラッシュの花が咲くようにして、断片的な映像が浮かぶ。
首に大穴の開いた飛竜の死骸。
歯が折れていたのは着弾の衝撃で顎が跳ねあがったからか。
セムタム達と話し合っていたエヴァンの姿。
モーターボート。
余所者の構える銃。
そして、滑走路。
「さてアム先生、もうわかっただろう。昨日、とんでもない宝の山が生み出されたのさ。空の怪物を撃ち落とすに足る、怪物自身の鱗だ。しかもご丁寧に粉末状になっている」
エヴァンは、教授をあっと言わせた天才学生の面持ちで、アムを見ている。
「ああ君を逃がしてあげてもいい。それもいいな。僕の協力者の手で追いつめてあげる。君の大好きなセムタム同士が憎しみあい、どんどん死ぬだろうね。さて僕は?龍を殺して売りまくるよ。誰一人齟齬が出なくて、とても幸せだと思うけど」
アムはふっと息を吐いて言った。
「齟齬が出なかろうと、反吐が出るわ」
銃口がさらに額に近づく。
「言い忘れたな。僕は辺境維持軍の学者。武器制御パネルの優先順位に割り込むことが可能なんだよ。君の手でこの星を綺麗に掃除してもらおうという、僕なりの誠意なんだけどな。でもこれ以上、僕の手を煩わせるなら……」
その時、誰かが管制室の扉をノックした。
間抜けなほど平和な声が聞こえる。
「おーい、ドク。そろそろ昼飯食わねえかあ」
トゥトゥの声。
きょとんとした顔でリチャードが振り向いた。
扉を指差す。
トゥトゥが何を言ったのか、セムタム語を解さないリチャードにはわからないのだ。
「セムタムが迷い込んだんだ。無視していい」
苛立ちの滲んだ口調でエヴァンが言った。
またノックの音。
少し強くなった。
どうしてここにトゥトゥがいるのだろう。
空港にアムを迎えに来るなんて、未だかつてなかったはず。
「ドク、そこにいるんだろ?」
エヴァンは舌打ちする。
「相変わらずうるさいな。何故ここに来る。リチャード、スタンガンの電源を入れてくれ」
アムは叫んだ。
「だめ!」
眉間に突き付けられている銃のことも忘れてアムは立ち上がろうとしたが、エヴァンに足を蹴飛ばされて床に膝を突く。
「トゥトゥ、来ちゃだめよ」
首筋にひやりとした金属の感触を覚えた。
どこからか隙間風が入ってきて、モニタと別方向にある窓の重いブラインドをかたかたと揺らす。
ハーヴェストの撃墜を見届けたのは、その窓からだった。
閉め忘れたのかもしれない。
そこから漏れてきた光が鋭く明滅した。
遅れて、雷の音。
アララファル―――。
「あれ」
とリチャード。
「おかしいな。電源が入らない」
「何だと」
エヴァンが言う。
「バッテリーパックが外されてる」
ほら、とリチャードがスタンガンを見せている気配。
首筋に当てられた銃の感触が、痛いほど強くなった。
「私のせいじゃないわ。着任してから一度も触ってないもの」
エヴァンが、無能め、と悪態をつく。
そんな言葉遣いをするのは初めてだわ、とこの期に及んでもまだアムは衝撃を受けた。
衝撃を感じる程度には冷静なのか、それとも甘いのか。
アムはエヴァンが苛立ち、首元の中心から銃口がずるりと滑った隙に、体を捻った。
銃把を握る右手の手首をホールドし、ねじり上げる。
成人の儀で習った、セムタム式の格闘術。
こんな時に役立つなんて。
「くそ!」
反射的にエヴァンが発砲した。
管制システムのモニタがひとつ吹き飛ぶ。
時を同じくして、管制室の扉の方でも軽い爆発音が響いた。
<緊急事態>
と機械音声が流れて、サイレンがけたたましく鳴り始める。
エヴァンは抵抗を止めなかった。
どころか、平時の彼からは想像もできない俊敏さで、手首を捻じられたまま跳躍してアムの腹を蹴りつける。
息が詰まった。
床の上で何とか酸素を吸い込もうとのたうち回っているアムの体を跨ぎ越して、エヴァンは管制官用の椅子にどさりと腰を下ろす。
アムは必死にそちらへ向かって手を伸ばした。
止めなければ。
「ここまでくると哀れだな。せめてアララファルを自分の手で殺させてやろうと思ったのに」
アムの耳には途切れ途切れにそう聞こえた。
何か命じられたのか、リチャードがアムを引きずって椅子から引きはがした。
やめて、とアムは叫ぼうとする。
叫んだところでどうにもならないのは知っているが、それでもなお。
めり、という軋み音が聞こえる。
幻聴か自分の肋骨の音かと思ったら、そうではなかった。
続いて、ばき、という破砕音と共に管制室の扉がエヴァンに向かって飛ぶ。
飛んできたのは扉だけではなかった。
椅子から転がり落ちて飛来する扉を避けたエヴァンに向かって、トゥトゥが飛びかかる。
あらゆる惑星で死につつある大型肉食獣のように、しなやかに。
「殺す!」
「黙れ、野蛮な―――」
トゥトゥの片刃の剣が、空気ごと引き裂くように振り下ろされた。
エヴァンは躱しながら発砲する。
しゅう、と音を立ててトゥトゥの背に赤い血が走った。
止まらない。
剣が舞う。
エヴァン辛うじて直撃を避けるが、発砲する余裕は無いらしい。
勝てる、とアムは思ったが、エヴァンが白衣の片方のポケットに手を突っ込むのを見て叫んだ。
「避けて!」
身を引いたトゥトゥの鼻先で、粉末状の物がぱっと散った。
げほ、と息を詰まらせたトゥトゥに向かって銃口が振り上げられる。
アムはエヴァンに飛びかかろうとしたが、その肩をぐいとリチャードが引いた。
そこからは一瞬だった。
リチャードが右手に持っていた制圧用スタンガンが―――バッテリーがそもそも抜かれていたはずのそれが、光を放つ。
驚いた顔をしてこちらを振り向いたエヴァンと目が合い、ああ、とアムはどんな感情なのか自分でもわからないまま、ひとひらの言葉だけが口からこぼれた。
さようなら、エヴァン。
スタンガンから放たれた電撃は、即座にエヴァンをこの世界から蒸発させた。
恐ろしいほどの光量を生み出したスタンガンのおかげで、アムの視界はしばらく白いままで、その中に、トゥトゥが剣を取り落とす乾いた音だけが響く。
まさかトゥトゥにも当たったのか?
そんなはずはない、遠距離型のスタンガンには指向性があるはずだ。
「ふん」
と、耳元で知らない声がした。
そこにいるのは漂流から生還したリチャード、定期便を失い、あげくこんなアクションムービーのような事態に巻き込まれた不運なリチャードのはずなのだが。
「演じるというのも、まあ楽しいものだな」
ようやく視界が戻ってきた。
アムは床に寝かされている。
すぐ横に、見慣れない金色の靴があった。
いや、靴ではない。
これは、とアムは今度は思考回路が白くなりそうな感覚を味わいながら<靴>と認識したものの把握に努めようとする。
これは、何というか、鎧なのではないか。
時代錯誤甚だしい、金属製の鎧の足の部分。
何という名称だっただろう。
地球文明考古学博物館のどしょっぱつの方に飾られていたはずなのだけれど。
ゆるゆると体を起こす。
つま先、膝、腰、と視線が鎧の上の方へ進んでいって、着用者その人と目が合った時、アムはすべてを悟った。
「アララファル」
先ほどまでリチャードであって、今は爬虫類的な瞳を持ったその顔が、微かに表情を見せる。
「儂の名をここまで直截的に呼ぶとはな」
「あ」
と、アムは絶句した。
助けを求めて横を見ると、トゥトゥは平伏の姿勢で顔を上げようともしない。
「ただいまは、儂は機嫌が良い故に許してやらんでもない。仏の顔も三度と言う」
「その言葉―――」
再度アムは絶句した。
黄金の王の前で絶句しまくるのは不敬極まりないような気もしたが、仕方ない。
仏の顔も三度まで、そのスラングは古い地球の言葉だったはずだ。
言語学者だから知っているようなものの、決して一般的な知識ではない。
人の姿をした龍は、口角をわずかに上げて言った。
「何を考え違えておるのか知らんが」
今度は本当に笑っているらしい。
くつくつと小さな声がもれる。
「お主らは我が神話を外から観察しておるにあらず、ただ我が神話の一部分であるのみ。我が世界の内にありて、雷の巡るもの、天を行くものはすべて儂のモノである。分かり易く偉大さを言うてやれば、例えそれが形を成さぬ電子的な知識であっても、電波として漂う以上は儂の脳髄に納まるということだ」
「質問を」
アムは勇気を出してそう言った。
「許そう」
と、龍は答える。
「言語学者として教えていただきたいことがあります。無礼なのは承知しておりますが」
「回りくどく申さんでよい」
この質問がこの場にどれだけ相応しくないかは重々承知の上で、それでも探求心からアムは口に出した。
「ア(龍に対する敬称)-ララ(空、天)-ファル(龍)というお名前は、本当のお名前なのでしょうか」
「ほう?」
先を促すように黄金の王は小首を傾げる。
「あまりにも意味が整い過ぎている」
「成程、小賢しい」
アムの耳元で空気が振動したような気がした。
ぶーん、という微かな耳鳴りのような音。
それが黄金の王が足の重心を右から左に移し替えたから発生した静電気の類なのか、それとも彼の気分の変化により気圧がこじれたからなのかはわからない。
「答えをやろう。儂の名が先にあった。意味は後からついた。我らが三柱の兄弟の名を、セムタムどもがそう解釈したが故にな。しかし」
何故だ、と黄金の王は言った。
アムは龍の赤い瞳を見上げる。
絶対的に人間とは異種族である証の、漆黒の縦線が走る瞳を。
「私はこの星を守りたいと思っています。知ることは力です。相手のことを知れば、多くの知性体は進んで敵対関係を結ぼうとはしません。完全に理解することなんてできないことはわかっています。それでも、私は、この星の美しさを世界に知らしめ、それからこの星の静けさを保存していきたいと、心から願います」
「心がけは殊勝だが、無用だな。何故なら我が眼は遍く星々を見通して居る」
「神にも黄昏があります。ご存知でしょう。どれだけの神話が没落していったのか。どれだけの神々が世界のあちらこちらで黙殺されてきたのか。私は心配なんです」
黄金の王の瞳がくっと見開かれた。
アムは気圧されながらも続ける。
ひとつ、賭けをした。
「エヴァンはセムタムと協力していました。あなたを殺すために」
「何」
「恐らく、もう既にエヴァンは悟っていたんです、電子の世界に情報を流せばあなたがそれを自らの知識にするということを。逆に言えば口頭で伝える情報であればあなたに知られないということを。そして、この星の外に興味を持ったセムタムが、最早あなたを害することをためらわないということを」
自分で話しながら、恐ろしさがつのっていく。
「モーターボートや銃は、小さな部品を密かに運び入れ組み立てることであなたの目を欺くことができるでしょう。ですがそのボートを操っているのがセムタム、あなたの民だとしたらどうですか」
黄金の王は頗る気分を害したようであったが、静かに耳を傾けていた。
アムの推理通り、黄金の王には初耳であったということだろう。
「王よ、どうか気づいてください。この星の神話には綻びが出来つつあります」
とうに絶滅した巨大な獣が唸るような気配がして、管制室の窓が割れた。
ガラスの破片に打たれたブラインドがまるで金管楽器としての才能に目覚めたが如く鳴る。
ごく近いところに雷が落ちた。
「だがまあ面白い。見込んだとおりに」
赤い目に宿った険をすっと緩めて、黄金の王は言う。
さて、と龍は一拍置いてから視線を動かした。
黄金の王の顔など見えていないはずなのに、手を突き頭を下げた姿勢で息を殺していたトゥトゥの肩がびくりと跳ねる。
「セムタムよ。許す、顔を上げい」
今朝がた、思い切った名指しの暴言を吐いた後だ。
トゥトゥだって怖いだろう。
ずいぶんと遠い記憶のように思えるけれど、まだモーターボートに追い回されてからよう
やく半日が経ったくらいだ。
「トゥトゥ=ナオルフ。お主の口の悪さは如何なる育ちによるものか。さぞかしセムタムの中でも煙たがられておるだろうな」
無回答。
黄金の王は静かにトゥトゥの背を見ている。
赤い筋が一本走った、それ以外は不名誉に綺麗な背中。
「お主の余白は<選択肢>という名のオルフであったのだがな。だがまあ、己が選択で筋を刻んだのであれば、我が戯れを無に帰した事は良しとしよう。有り余る力は我がために使え。それで今朝がたの無礼は帳消しにしてやる」
黄金の王は、尊大に言い放った。
トゥトゥはやはり何も言わなかった。
祝祭が始まった。
ララ・アファラ・モナ、すなわち天の龍を祭るこの行事の開始は、黄金の王の楽器とされる鱗銅鑼によって告げられる。
それは、雷の音に似ていなくもない。
三柱の龍に捧げる祭りは、セムタム達にとって最高のレジャーであった。
海龍の長にして誕生の象徴神アラコファルを称えるラコ・アファラ・モナの祭りでは、この一年の内に新たに作成した武具や生活用品を売る見本市が大々的に開かれる。
大地を司る英知の神アラチョファルに知恵を見せるラチョ・アファラ・モナは、語り部たちにより毎年新たな物語が謡われる演劇大会の様相を示す。
では、ララ・アファラ・モナは、といえばセムタムのオリンピックと呼ぶべきであろう。
カヌー競技や武芸を競う、体力自慢たちの大一番。
武神アララファルに捧げる汗と涙の一週間である。
アララファルが降臨した島であるとして、本年度のララ・アファラ・モナの開催地は空港島になった。
エヴァンの担っていた日常業務と、新たに書く論文『アルマナイマ星における知性体とその特性を活かしたテロリズム抑止についての可能性』の下書き、その論文に続く予定の特許申請「空港到着時保安システム<ララ・スキャナー>」の手続きが、アムの仕事量を膨大に増やしている。
嫌ではなかった。
それがアムの生きる道だと定めていたから。
でも、せめてトゥトゥの晴れ舞台くらいは応援に行かねばと思って、文字通り走ってきたのである。
アムが砂浜を見下ろす丸太の観戦席に座って
「負けるなトゥトゥ!金メダルをもぎ取るのよ」
声援を送ると
「負けるわけねえだろがあ!」
トゥトゥは大声で、相変わらずの憎まれ口を返す。
観戦席がわっと盛り上がった。
ふたりの大立ち回りは、すでに群島域に住むセムタムの間では知らぬ者はいない。
次なる競技はカヌー短距離走。
レースは砂浜から始まる。
内容はいたってシンプルだ。
ふたりの競技者が一斉に砂浜からカヌーを押し出し、飛び乗って、一つ先の島をぐるりと回って戻ってくる、その速さを競う。
カヌーが自前の物であれば、それ以外に制約事項は無い。
予選からの三戦をぶっちぎりで勝ち抜いたトゥトゥはこれから決勝戦に挑む。
相手はこの競技を五連覇中の強豪エタリ。
色黒で小柄だが、いかにも精悍なセムタム族らしい男だ。
成人姓ラコポゥ(海を駆ける者)に恥じぬ快速船の造り手は、スタートの合図を前にトゥトゥと静かににらみ合っている。
トゥトゥは腰に佩いた黄金の剣の柄をぎゅっと押さえていた。
黄金の冠鱗から鍛えた、彼のシンボル。
カヌー競技の王様エタリ=ラコポゥと、アララファル直々にオルフを刻まれたトゥトゥ=ナオルフ改めララカフィ(空の漕ぎ手)の決勝戦こそが、今回の祭りの目玉と言っても過言ではない。
鱗銅鑼が鳴らされると、両者一斉に砂浜を蹴立てて走り出した。
トゥトゥの長い長い髪の束が、龍の尾のように翻る。
身を乗り出して観戦していたアムの横、管制官用の椅子に、何気なく誰かが腰を下ろす。
こちらも何気なく視線を下げると、そこにいたのは
「ア、ララフ……」
金髪、顔を縁取る顎髭、少し垂れた目をした青年は唇に指を当てた。
「リチャードだ。お主の文明では、これは<静かに>の意であったな?」
さながら壊れた人形のようにかくかくとアムは頷く。
今回は、黄金の鎧は着ていない。
如何にも柔らかなくたりとした布地のシャツに、平凡なストレートパンツを合わせている。
足元は飾らない革靴。
何処にでもいるビジネスマン、何処にでもいるくたびれた観光客に見えるだろう。
すらりと手足の長い長身だから、お忍びのモデルと言っても通じるかもしれない。
ただし黄色いシャツにはうっすらと黒い縞が入っている。
地球トラの柄。
センスは悪いっぽいな、とアムは密かに思った。
流行に取り残されているのはこちらも同じだが。
「ジェスチャーの全盛は前文明の頃でしたが、まだ通じます」
「左様か」
「お帰りなさいませ」
「次の便ではテロリスト二名。ただし落としはせんがな。あれのココアが届くだろう」
「スキャナーを試してみます」
あれの、と言いながら人型に化けた龍は海に視線を飛ばす。
黄金の王の視線の先では白い帆を勇ましく張った二隻のファッカムセラン・カヌーが競り合いながらまるで飛ぶように海を駆けていく。
アムは頭を下げた。
この黄金の王は人型に擬態し、諜報活動を展開している。
全能の龍として空を駆けていた方が安気であろうにわざわざ制約の多い人の身に混ざるのは、そちらの方が刺激的で楽しいからだそうだ。
アルマナイマ星を外からの文明で汚染したくないのだというアムの理念に、協力してくれる気であるらしい。
これ以上に頼もしい味方はいないが、恐ろしくもある。
リチャード=アララファルは目を細めてアムを振り返った。
「……何か?」
ふ、と黄金の王は笑った。
「なに、お主の見解を聞きたいと思うてな」
「トゥトゥなら、エタリにも勝てるかもしれません」
「ふん、あれは弟のお気に入りだからな。勝ってもらわねば困る。どれ、風でも吹かせてやるとするか」
「ずるい」
アムが言うと、黄金の王は不敵に目を光らせる。
「恩寵は有難く受け取るものだ」
人型の龍は、人間臭く肩のストレッチをしてからアムと共に身を乗り出した。
風の音がアムの耳元で唸る。
矢のように放たれた風はエメラルドグリーンの海の囁きとなり、ラグーンをひらりと飛び越し、やがてトゥトゥのカヌーに張られた白い帆を押していくのだろう。
アムは口元に手を当てて声を振り絞る。
「頑張れ、トゥトゥ!」
おう、待ってろよ、という返事が彼方から聞こえた気がした。
本日のアルマナイマ国際宇宙港の天候は晴れ、現在の気温は30℃、波はラグーン内ではほぼ0m、外洋ではやや高くなっており、スコールと落雷の頻度は気分次第です。
どうぞ良い旅を。
(了)
PR