軍艦島で隼獣人と運命的な出会いをしてしまう話【#民族鳥ちゃん創作祭り】
[chapter:軍艦島、北センチネル、隼の獣人]
僕の目の前に、隼の姿をした獣人の男が立っている。
孤立した杭の上に器用に片脚立ちして、鋭い嘴はしかと閉じたまま、厳粛な表情を崩すことなく、人間である僕のことを睨めつけている。
背丈は僕とほぼ同じ170センチくらいであるものの、カラダつきはオリンピアンのようにガッチリとしており、髭のように白い羽毛が覆っていても、胸板の形をはっきりと捉えることができた。胸から下にかけて、白地に黒の横縞が入った下腹もしなやかな筋肉を見せつけていた。
きめ細やかな黄色い鱗で覆われた脚から生えた黒くツヤ光りする爪にこびり付いた血が、杭を伝ってゆっくりと流れているのを目の当たりにして、僕は生きた心地がしなかった。
酋長崎の端島——通称の軍艦島の方が世間的には広く知れ渡っている——に、正体不明の生物が住み着いている。そんな噂を聞きつけて、フリーライターの僕はカメラマンと協力者の船乗りを連れて、現在は行政から渡航が固く禁じられている軍艦島へ、夜の闇に紛れて密航してきたのである。
軍艦島は「明治日本の産業革命遺産」を構成するものとして、ひと昔に世界遺産に登録されたことは周知の通りだ。端島炭坑の労働者が住む島で、最盛期には日本随一の人口密度を誇り、戦前から戦後まもない時代、石炭がエネルギーの中心だった時代にあって、大きな役割を果たした。やがて、石油の台頭により石炭の需要が減少するにあたって、炭坑が閉じ、住人たちも島を離れると、酋長らく放置され廃墟と化したが、戦前の軍艦「土佐」を彷彿させる島の外観もあって、世界遺産となる以前から観光地として知られた場所であった。
ところが、今年の春、突如として軍艦島への渡航が禁止されたのである。建造物の劣化が著しく進行し、もはや倒壊の危険を免れないため、というのが表向きの行政の説明だった。けれども、実情はそうではないらしい——という話を、先日某出版社の編集者から聞きつけた。
曰く、軍艦島に正体不明の「部族」が住みつき、島に近づく余所者に危害を加えかねない状態になったから、というのである。
その噂は、ネットでも有名な北センチネル島の話を思わせた。インド洋上に浮かぶその島には、先史時代からセンチネル族という先住民が暮らしており、ごく少数の例外を除いて、今日に至るまで外部との接触を拒絶してきた。少し前に、彼らに布教しようとした馬鹿な宣教師が島に密航し、敢えなく殺されたというニュースもあって、ある種のネットミームとして北センチネル島の名前は頭の片隅にあったのである。
噂が真実であるならば、軍艦島も北センチネル島に近い状況に置かれているのだという。ただ一つ異なるのは、彼らが先住民族などではもちろんなく、何かの拍子で突然現れた未知の部族だという点であった。
それについて編集者が示唆したのは、昨年末より世間を騒がせた新型鳥インフルエンザとの関係であった。何でも、今度の変異型では、一部の感染した鳥類に「亜人化」の兆候が見られたというのである。一時期、SNS上でそのような言説が飛び交ったことがあり、いずれも陰謀論の類として一蹴されたものの、とある信頼できる情報筋によれば、決して眉唾な話ではないのだと、編集者は力説した。現状は過度な社会的混乱を防ぐために、情報を伏せているまでの話だという。
半信半疑であったが、調子の良い編集者の口車に乗せられる形で、僕はホイホイと軍艦島に密航する手筈を整えていた。もし、正体不明の何者かの正体を白日のもとに曝すことに成功すれば、原稿料はそりゃいっぱい弾みます……恐らくは各メディアからあなたに問い合わせが殺到して、一躍時の人になれるでしょうよ……本を出版するとか、テレビやラジオ、動画サイトに出演するとか、しばらくは生活に困ることもないでしょう……生成AIに仕事を奪われそうになっているしがないフリーライターにとって、それは願ってもない話であった。
しかし、命の危険まで犯して立ち入り禁止となった軍艦島へ向かうことにした理由は、それだけではなかった。まもなく不惑を迎える僕は、いまだ独身であるのみならず、性的な経験値さえ、まるでタマゴから生まれたてのポケモンのように、ほとんど無いも等しい。周囲の誰にも明かしたことがないゲイという性的嗜好のせいでもあるし、それを置いても、昔から他人と良好な関係をなかなか築けない愚図さにもあった。
そのような現実に嫌気が差したこともあってか、高校生の頃から「ケモノ」や「人外」と呼ばれるキャラクターを密かに愛好するようになっていた。その愛好癖は、自覚しつつあった同性愛と容易に結びついて、犬や猫、鳥や虎や龍なんかをモチーフにしたオスのキャラクターに夢中になっていた。絵を描いたり、そういうキャラクターたちとイチャイチャするような小っ恥ずかしい小説を認めたこともあった。周りには一切内緒で、同人イベントに参加して、本を買い漁るなんてこともした。
歳を取って、そういうイベントにもいつしか足が遠のいてしまったし、最新のアニメやゲームを追う気力も失せてしまっていた。けれど、今度の話を聞いて、なおも燻り続けていたものに、再び燃料を与えられたような気がしたのである。もし亜人化した鳥を目にすることができたならば、社会的な注目だけじゃない、これ以上にない目の保養を得ることができる。願ったり叶ったりというわけだった。
協力を渋る同行者たちを何とか説得し、深夜の酋長崎港から密かに出航し、島に辿り着くまでは良かった。ところが、島に船を停泊させた直後、僕らは突如隼たちの襲撃を受けたのである。一瞬の出来事だった。突如として、上空から石つぶてのように急降下してきた彼らに、抵抗することなどろくにできなかった。不運にも、同行したカメラマンと船乗りは、瞬く間に全身を嘴と鉤爪でめった刺しにされてしまった。喉を掻っ切られ、心臓からありとあらゆる内臓を抉り出され、啄まれた彼らは、今は無惨にも骸を港湾に晒している。
それだから、僕がなおも生きていることが不思議でたまらないのだった。僕もまた、襲撃の際に肩を鉤爪でキツく掴まれたので、ポロシャツはボロボロに破かれ、露出した上肩には、悍ましい爪痕が残った。そのまま殺されてもおかしくなかったが、不意に攻撃が止んだ。そうして、隼たちのあいだを掻き分けるようにして現れたのが、いま、僕と相対している彼だった。
他の連中と比べて、彼は見るからに煌びやかな衣装を身にまとっていた。衣装といっても、下半身は簡素な腰巻きをしているだけで、あとはキラキラとした宝飾品を首や上腕に装着していたが、見たところ宝石というよりは、ガラスや小石を繋ぎ合わせたものだった。ともかく、彼がこの隼部族の酋長であることは確かなようだった。
白み出した空を、他の隼たちが低い高度で飛び回っていた。どれも、みんな人のような姿になっている。何羽かは、廃墟のあちこちにとまって、腕ぐみをして立っていたり、あぐらを掻いたりしながら、杭上に佇む酋長と僕のことを注意深く観察している。
酋長と呼ぶにはまだ若いようにも感じていたが、周囲を取り巻く他の隼たちも一様に年少者で、老人と思しき隼は見つけられない。もしかしたら、廃墟の奥に潜んでいるのかもしれないが、そんなことを考えていても仕方がないように思った。
というのも、港から四方を廃墟の取り囲まれた空き地に連れてこられた僕は、すっかり絶望に沈んでいた。絶海の孤島に一人取り残され、逃げるあてもなく、隼が人の形を借りたような異形の者たちに包囲されたからには、死、以外の言葉は浮かんでこなかった。すぐに殺されずに、わざわざこんな開けたところまで連行されたのは、密航者のうち、僕が首謀者だとみなされたからだろうと僕は考え、今からより悍ましい殺され方をするのだろうと想像して、ろくに息もできないほどにパニックに陥っていた。
徐々に昇り始めた太陽の日差しを浴びて、酋長が身につけたアクセサリーのガラス片が胸元できらめくと、僕の視線は、思いがけず彼の肉体に向かい、そして釘付けになった。逞しい隼の体躯は、日差しが作り出す陰影によって、ねっとりと存在感を増していく。パンパンに張り詰めた胸板や、ほっそりとしながらも力強いコブが見られる上腕、引き締まった腰つき、腰巻きでは隠しようのない股ぐら——
追い詰められた僕の思考は、馬鹿げたことにその人並み外れた隼の肉体へと逃避していた。思えばそれなりに酋長い人生において、人間の男でさえまともに抱き得た試しのない僕からすれば、彼の民族衣装姿はあまりにも刺激が強すぎる、ということは否めないのだ。
死を間近に感じたとき特有の興奮も相まって、勃起すらしてしまった。硬い生地に逆らって、微かに隆起する僕のジーパンの一地点を、隼の険しい目が一瞥した、ような気がした。隼は首を傾げ、マジマジと、興味津々に僕のあそこを見つめている——そんな空想で、気を紛らわせていた。
「顔、上げろ」
「えっ」
隼に話しかけられたこと、そもそも隼が人間と同じ言語を平気で喋ったということに、僕は二重で驚いてしまった。嘴を開けたのは、確かに目の前の隼だったが、僕は夢を見たようで、目をパチクリとさせていたが、
「何、おかしな顔、する、顔、上げろ」
念押しするように語りかけてきたので、やはりこれは現実なのだと思い直した。隼の部族と軍艦島で遭遇してしまったことさえ、夢幻劇じみたことなのに、話しかけられまでしたことで、僕はすっかりエキセントリックな気分にまで陥っていた。
「お前、名前は」
「僕は……」
言われるがまま、自分の苗字と名前を答えた。すると、隼はしっかりと組んだ腕はそのままに、何かを理解したかのように、二、三度、深く頷いたのである。
「もしや……いや、まさか……が……」
謎めいた呟きをして、隼は首を傾げながら、僕の顔面を深く覗き込む。厳つい外見とは裏腹に、純粋さを湛えた黒く丸々とした目が、僕の意識を占有した。
「彼の名、お前、知っているか」
隼が口にした名前は、驚くべきことに僕の祖父の名であった。そうです、と答える代わりに僕は驚愕のあまりにギョッとした顔つきをしてしまったので、それで相手は事の次第を悟ったようである。隼は初めて、組んだ腕を解いて、拳をキュッと引き締まった腰のあたりに置いて、満足げに再びコクコクと頷いた。
「どうりで、顔が似てる」
僕は上司に振り回される部下のように、ただキョトンとしていることしかできなかった。僕の祖父は昨年卒寿を前に亡くなっていたが、晩年は施設暮らしだったこと、僕が表向き多忙を装っていたこともあり、ほとんど会う機会も少なくなっていた。祖父について知っていることといえば、趣味で絵を描いていて、休日には日本各地を巡って風景なんかを描いて、地方のコンクールに出品していたことがある、というのをぼんやり伝え聞いたくらいだ。そういえば、祖父からその展覧会の招待をたびたびもらっていたのだけれど、結局行かずに終わっていた。
そんな祖父と目の前の隼の獣人の繋がりについて、まったく見当がつかなかった。祖父の名前をつぶやく時、隼はどこか嬉しげな様子で、改めて僕の顔を眺めては、何かをそこに見出したかのようにウキウキとし、頻りに杭の上の脚を入れ替えるのであった。
「会えて、とても、とても、嬉しい」
ふんわりと僕の正面に降り立った隼は、今までの緊張した空気とは裏腹に、恭しく一礼した。明らかに距離感を詰めすぎていて、発達した筋肉に押し出された羽毛が、僕の腕や肩に触れて、否応なくドキリとさせられる。
「彼、とても、世話に、なった」
「は、はい……?」
「我ら、いつか、人のよう、大きくなり、言葉話すよう、なった、島に来る人嫌い、だが、彼、血を継ぐ、なら迎え入れるの、嬉しい」
死の恐怖を紛らわしがてら空想していた肉体が間近に触れる距離まで接近してきたことに気を取られ、僕はろくすっぽ隼の話が頭に入ってこなかった。とはいえ、何やら好意を持たれていることは確かだった。すっかり安心してはいなかったが、僕は少しずつ平静さを取り戻していた。
[newpage]
酋長に案内されたのは、かつて団地として使用されていた廃墟の一室だった。僕は傷ついた肩を庇いつつ、彼の後に付いて行ったのである。そのあいだも、背丈の割にMLBの選手のように感じられる大きな背中を、まるで騙し絵を見るかのように思いながら、歩いていた。
ところどころ壁が崩壊して、部屋は外部に剥き出しになっていたが、四畳程度の空間に簡易的なテントが設られていて、そこが酋長の住まいとなっているようだった。テントの中には、シーツが敷かれ、簡易的な祭壇があり、その上には拾い物と思しき光り物が横一列に、丁寧に並べられていた。廃墟にあるとは思えないくらいの生活感があり、清潔な印象だった。
僕はそこで酋長とさし向かいになって、ひとしきり話をすることとなった。先ほどとは打って変わって、くつろいだ感じで、僕も意外なくらいだった。つい数時間前まで、心の底から死を確信していただけに、その危機が不意に去ったことで、妙な興奮状態に置かれていた。
僕は僕について、隼の欲するがままに話して聞かせた(お前、どこから来たか。お前、何をするか)。大学というものを出た後、しばらくは会社というところで働いていたが、それを辞めてしまってから、フラフラと暮らした。文章を書くのはどちらかと言えば得意な方だったから——というのも、「ケモノ」好きが高じて一時期小説を書き散らしていたことが幸いした、ということまでは話さなかったのだが——、フリーライターというものになって、色んな雑誌やウェブサイトに文章を書く仕事を始めたが、うまくいっているかどうかはわからない……隼は身を乗り出して、頻りに頷きながら僕の話を傾聴した。傾聴し過ぎるくらい、真剣に聞いていた。
彼はしばらく躊躇った末に、祖父のことを訊ねた。ずっと聞きたがっていたが、どこか躊躇いのある様子だったから、僕もしばし本当のことを言うべきか迷っていた。意を決して、昨年亡くなったことを知らせると、隼は深く頭を項垂れた。ポタポタとシーツの上に、涙の滴が落ちた。隼は全身を大きく揺さぶりながら、カッと嘴を開いて弔いの声を上げた。彼が嘆き悲しみは驚くべきほどで、僕は思わず彼の側に近寄っていた。しかし、こういう時どうすればいいのか、人との付き合いさえ覚束無かった僕は、内心戸惑うばかりだった。
「ありがとう、すまない」
やっと落ち着いた隼は、そっと私の手を取った。そうして、祈りを捧げるかのように、祖父のことについて、言葉を紡ぎ始めた。
「……彼、この島、よく来た、そして、我ら、描いた」
彼の話から察するに、祖父はしばしば絵の取材のために軍艦島を訪れていたそうである。画家としての祖父の関心があったのは、島全体を覆う廃墟だけではなく、そこに住み着いた隼たちの姿だったらしい。いま、酋長をしているこの隼は、とりわけ祖父の目に留まった。
「ケガしていた、ほら、ここ」
隼は右脇腹の辺りを僕に示した。深い羽毛を掻き分けると、桃色の皮膚に痛々しい傷跡が残っていた。
「むかし、喧嘩、嘴、爪、貫いた、腹から腹、とても痛く、とても苦しい、そして彼、苦しむの私、見つけた」
隼は私の手首を握って、傷跡に触れされた。僕の鼓動は不意に高まっていた。僕の緊張を感じ取ってか、隼はそっと肩を組んだ。端正な隼の顔が、僕の頬に密着する。早朝の、まだ涼しげな時間にあって、隼の羽毛の温もりは堪らなかった。
「お前、手つき、似ている、彼、に」
「そうですか?」
「本当、本当に、似ている、思い出す、とても、あの時……」
隼は羽毛を目一杯に膨らませて、カタカタと震えていた。そのカラダに抱いていたあらゆる思いを、一気に放出したかのようである。隼は僕のことを、まるで祖父が若返りでもしたかのように、あるいは蘇った存在ででもあるかのように接しているように思えた。確かに僕は祖父の孫であるけれど、祖父そのものというわけではない。「ケモノ」好きにとって理想的にも程がある恵まれたカラダを誇る鳥獣人に、ただならぬ好意を向けられているのはまさしく夢のようで嬉しかったけれども、彼の好意は僕を通じて、既にこの世にいない祖父に向けられているのだと思うと、もどかしい気がした。
「……祖父のこと、想ってくれて、感謝します」
僕は隼の背中をさすりながら、やっとのことで声をかけた。翼の付け根でもある肩甲骨は、人間とは比べ物にならないくらいゴツゴツとしていて、小ぶりなのに、とても大きく感じられた。隼は前のめりになりそうなほどに項垂れ、啜り泣いた。僕が支えてやらなければ、本当に倒れてしまいそうだ。筋肉の方がいっぱいに詰まっているのであろう酋長のカラダは、思いの外ズッシリとしていた。
「すま、ない」
片腕をシーツの上に突きながら隼は言った。凛とした彼の横顔に、胸が締め付けられそうになった。彼の瞳は、そのようなものがあるとすればだが、夜更けの湖が湛える静謐のような美しさだった。
気がつけば、僕は酋長をキツく、キツく抱きしめていた。思考よりも、言葉よりも早く、僕の肉体は動いていた。それにしても、初めてのことだった。人間を含めて、誰かをここまでも、本気で力強く抱きしめたことなんて。
「!……あり、がとう」
僕の行動に、隼は一瞬狼狽したようだったが、すぐにその翼ある腕で抱き締め返してくれたので、僕は安堵した。その熱烈さに僕は溺れかけるが、彼の羽毛に埋もれてようやっと息をした。野卑な臭いはむしろ芳しく香って、カラダの温もりは何もかもを包容してくれるかのようだった。
「彼、お前、同じ……生きている、生きている」
隼が漏らした「彼」という言葉は、まるでマンドリンの音色のように耳に響いた。人間と隼獣人がクリムトの絵画のように、ブランクーシの彫刻のように一体となっているあいだ、僕は祖父であり、祖父は僕であり、故に隼は祖父を抱きしめ、僕を抱きしめているのだ、と思った。
幼少期の祖父の記憶が、僕の心奥から蘇ってきた……いつのことだったろう、小学生になるかならないかの頃、アトリエ代わりに使っていた部屋で、イーゼルに架けられた大きなキャンバスを前に黙々と絵筆を入れる祖父の横に座っていた。
——ここはな、この一番細い筆を使おうか……見てみろ、こうやって、丁寧に、細かく塗っていくんだ、な?……
僕に教え諭すように話しながら、祖父は楽しげに筆を走らせていた。すると、最初は鉛筆の簡単な下書きしかなかったキャンバスがカラフルになって、どんどん森や湖、建物、たくさんの動物たちの形になっていくのだ。何時間も、何時間も、僕はそれが面白くていつまでも祖父の横に座っていた——長らく僕は、そのことを少しも思い出すことがなかった。けれども、記憶はつい最近のことのように、鮮明に残っていたのはなんだか不思議な気がした。
「お祖父さん、血を継ぐ、お前来た、これは、テンメイ……」
隼が溢した「テンメイ」という言葉が、じわじわと「天命」という漢字へ、網膜の裏で変換されていった。僕はウットリとして、いま一度力を込めて、夢中になって彼を抱きしめた。僕は祖父のようになりたいと願っていたことを、願っていたがために——ままならぬ僕の人生を曲がりなりにも、無気力であろうが、正当化するために——かえって祖父の思い出を遠ざけるように立ち回っていたことに、僕は、40間近になって、手遅れになる前に、やっと気づくことができたのである。
人間の柔らかい唇では、隼の嘴に接吻はし難かった。その代わりに僕は彼の羽毛溢れる胸元に深く顔を埋め、得も言われぬ体温の熱さと、筋肉の柔らかさと唇で、髪で、額で、瞼で、頬で、鼻で、鼻と口のあいだの溝で、口の回りから伸び出したジョリジョリとした不精髭で、顎で、下顎で、喉仏で、じんわりと感じ取った。彼が身につけた宝飾類の硬さは、かえってアクセントに感じられるくらいだった。
隼は、僕の傷で深く抉れた肩に嘴を挟み込んで、柔らかい舌を伸ばして傷口をペロ、ペロと舐めていた。襲撃からずっと痛みの走る箇所だったが、彼の舌の生暖かい感触を感じると、痛みよりも心地よさが勝った。
隼は嘴をほのかに開いて、低い声を立てた。彼の心許ない腰巻き越しに、ホカホカと、熱いものが滾っていることに、気づかないわけがなかった。そうなったら、これまで愚図で通してきた僕も覚悟を決めないわけにはいかないじゃないか——僕は容量がギリギリになったハードディスクドライブのような頭で考えていた。
僕は隼に向けて全体重を掛けた。彼の力であれば、耐えることは容易であるはずだが、僕が倒れかかるに任せて、倒木するように、ゆっくりと、それからドッシリと、シーツ上に横倒しになった。彼にのしかかった僕は、強い確信の下で、股間を隠していた布切れを剥ぎ取ってやった。抵抗は、なかった。僕は取り繕うようにポロシャツを脱ぎ、ジーパンも、パンツも下ろし、邪魔者のように打っちゃった。
あられもない姿になった僕らは見つめ合い、穏やかな笑みを交わした。それからのことについて、言葉は要らないだろう。
[newpage]
「あ……そうだ」
汗だくになった僕は、ポロシャツの胸ポケットからいつの間にかこぼれ落ち、シーツの裏側に紛れていたスマートフォンをやっとのことで見つけ出した。充電ゲージは真っ赤だった。
「一枚だけ、写真を撮ってもいい?」
僕が差し出したスマートフォンが何なのか、隼にはさっぱり理解できないようだったが、すっかり僕を信頼してくれていたので、躊躇うこともなく承諾してくれた。
「じゃあ、いく……よ」
自撮りカメラであられもない姿になった僕と彼の姿をパシャリ。僕は猛烈な、それこそ猛烈な幸福感に満たされながら、SNSのアカウントを開いた。画像を添付して、僕は素早く、
僕の“幸せ”は、ここにありました。
——投稿しました、と表示があった直後に充電が切れた。僕はただの置き物と化したスマートフォンを、力の限りを込めてぶん投げてしまった。遠くで、硬いものにぶつかる物音がした。サッパリした。それから、僕らは、互いの気が済むまで誓いを立て続けたのである。
まもなく、SNS上に投稿された一枚の画像を巡って、日本国内——いや、世界中で物議が醸すことになるかもしれないが、いずれにせよ僕にはまったく関係のないことだ。僕は彼の伴侶として、彼は僕の伴侶として、ニッポンからも、アメリカからも、世界からも遠く離れて、軍艦島で末長く暮らすことを固く決意したからなのだ。