【skeb】第27話『襲来!メガロキラーシャーク』
磨き上げた靴の甲に反射する眩い光。ふと顔を上げると、空はすっかり赤らんでいた。彼方に伸びる水平線に沈みゆく太陽が、しゃがみこむ少年の背に影を伸ばす。
「お待たせしました。遅くなってしまってすみません」
「いや、こっちも駆け込みだったからね。ありがとう」
小さな掌に報酬を受け取って、クマノミの少年は身なりのよい客の背に揺れる尻尾を見送った。ポケットから響く金属音を耳に小気味よく聞きながら、跳ねるように家路を急ぐ。庇を作って見上げる先に輝くのは、立ち並ぶ家々を一つずつ朱色に染めてゆく黄昏の光。自分の鱗と同じ橙色をした夕陽を眺めて進む帰り道が、少年は何よりも好きだった。
実のところ、少年がこうして働きに出る理由はもうない。母と二人きりの暮らしは、一年と少し前にこの港町を襲った大災害への補償金によって十分成り立っている。長年床に臥せっていた母の病状も徐々に落ち着き、最近は週の半ばを近所の弁当屋での勤務に費やしている。『寝てばかりでは体が鈍るから』と微笑んで出かけてゆく母の背を見送るのが、少年の今の日課だ。
それでも、自主学習の合間を縫ってこうして靴磨きに勤しむのは、やはりこの仕事が好きだからなのだろう。顧客となる大人たちとの様々な会話は、生まれ育った町から出たことのない少年の心に、広い世界への想像をこの上なく掻き立ててくれる。時にはどれだけ話しかけても応えてくれない者や、邪険に扱ってくる者もいるが、少年はそれもまた経験として受け取るようにしていた。もちろん、一時嫌な気持ちにはなる。けれど、自分がそうした大人にならないためには、時に醜悪なものを見聞きすることも必要なのだ。
「……あれ?」
視界の端に自宅が見えたその時、少年は違和感に立ち止まった。振り返って見回すのは、夕陽に照らされ、一面の朱に染まった海面。その鮮やかな彩りの中に、どこか沈んだ暗い色が浮かんでいる。
日頃親しんだ美しい夕焼けの海とは違う、翳りを孕んだ真紅の色合い。
それはまるで、傷口から滴る鮮血のような――
「気のせい……だよね」
じわじわと締め付けるような胸騒ぎを覚えながら、少年は誤魔化すように海から目を逸らした。家の方角から立ち昇る白煙は、きっと母の夕餉の支度だろう。鼻腔をくすぐる香ばしい匂いが、ざわつく不安を覆い隠してくれる。なんでもない、大丈夫だと心中に呟いて、少年は母の待つ自宅へと駆け出して行った。
彼がそうであるように、この町の誰もがまだ気付いていない。
紅に染まった海面から密かに覗く、無数の瞳。そのおぞましいまでの輝きに。
※
宇宙の彼方、ビースト星。
あらゆる動物が二足歩行の知性体『ビースト』として進化し、陸海空に独自の文化を築くこの星は、かつて戦乱の只中にあった。炎・水・風――三つの属性を持つ超エネルギー体・ゴッドロットを巡る数多の戦いは、『鉄拳獰猛王』ライオーガ率いるグロリア王国軍をはじめとする平和を望むビーストたちの尽力によって終結し、安寧の時が戻ってきた。
だが、薄氷の安らぎの下で、邪な企ては密かに進んでいた。海に住まう者たちでさえ安易には立ち入れない、遥か深海の奥底で。
ここはストレージ海、ダイノサウリア海溝に眠る失われた大陸の遺跡。太古の昔、歴史の狭間に消え去ったはずの禁忌が、今まさに牙を剥こうとしていた。
「いよいよですね……サーモマンサー、準備はよろしいですか」
「万事抜かりなく。参謀殿は陣の外にて見ておられい」
夜光虫を集めた灯篭の薄明かりに照らされて、サーモマンサーは鬱金色のローブを翻した。促されて後ずさった『参謀殿』ことシーレンスが見守る中、石造りの床に生贄の血で描かれた魔法陣に踏み入り、胸にかざした両手の指を組む。瞼を閉じ、極限まで研ぎ澄ませた精神が掴むのは、神殿に鎮座する三つの立方体――その周囲に発せられる、暗黒の瘴気。永劫の闇を想起させる強大な魔力に抗うように、絶え間なく呪文を唱えながら、深海の魔術師は陣の中央へと意識を集中させる。
「永久の眠りに微睡む魂よ。大いなる闇の力携えし、我が呼び声に応じよ……」
地を這いずるような声に応じて、紋様を描く線の一つ一つが妖光を放ち始める。円周を駆け巡り、内側に刻まれた古代の文字をなぞりながら、光は徐々にその強さを増す。
「新たなる肉体に宿りて蘇れ、邪悪の化身よ……天を衝き、地を砕き、海をも裂くその力……我が前に現せしめよ……」
厳かに唱える請願は、この世の理に反する野望。陣の中央に横たえられた、見るも無残な亡骸――かつて彼らの主であったそれに、今一度生命を与えんとする冒涜の儀式。
「マンサーマンサーマンサー……マンサーマンサーマンサー……!!」
譫言のように己が名を繰り返し叫ぶこの祝詞こそ、サーモマンサーが磨き上げてきた魔術の真骨頂。悲願成就のためならば、自らの存在さえも捧げるという覚悟の証明である。斯くしてその祈りは聞き入れられ、石室の中空に舞い上がった三つの立方体が魔法陣を取り囲むように回転し始める。全方位に放たれた漆黒の魔力光は、やがて魔法陣の中央へと収束し、かつて大海原を席巻した稀代の悪漢――キラーシャークの骸を包み込んだ。
「おお、ついに……ついにこの時が……!」
シーレンスが陣の外で目を見張るのも無理はない。死後長きにわたって超低温の中で保存されてきた主の屍が、視界を塗り潰す黒い光の中で見る見るうちに瑞々しく復元されてゆくのだから。
魔術師が繰り操る魔力に導かれるまま、賦活の一途を辿る灰白の肉体。肥大した筋肉が傷だらけの鎧を突き破り、露わになった逞しい鮫肌に纏わりつく紫光が新たな装甲となって全身を覆う。胸に浮かんだ紋章も、より鋭角的な輪郭を湛えて新たに描かれ、生まれ変わる大海賊王の威容を堂々と飾り立てる。やがて、鎧の両肩と両腕に備えた大振りの刃が、鋸を思わせる連刃に形を変える。それと同時に、大鮫は閉じていた眼を大きく見開いた。生前は尽きせぬ野望に青く輝いていたはずのその瞳は、今は血よりも深い紅に染まっている。まるで、邪法による転生の証であるかのように。
「お帰りなさいませ、我らが主……ぐぅっ!?」
蘇った主に近付いたシーレンスの首を、巨大な掌がむんずと握った。急速に締まった気道から声にならぬ息が漏れ、静まり返った石室を戦慄が覆う。今にも首の骨をへし折らんとする怪力に怯えながら、シーレンスは潰れかけた喉を鳴らして釈明する。
「お、おやめくださいキラーシャーク様……! 私です、シーレンスです……ッ!!」
「シー……レンス……?」
耳介を擽った音を反射的に呟くと、キラーシャークの思考を覆っていた仄暗い靄が少しずつ晴れてゆく。急激に賦活した肉体に追いつけぬまま置き去りにされていた自我が戻り、大鮫の脳裏を無数の記憶が潮流のように駆け巡る。
弟たちを引き連れて海賊団を旗揚げした日、薄暗い海底から見上げた眩しい海面。
数多積み重ねた暴虐と、強さの果てに待っていた果てしない虚無。
唯一己の餓えを満たした陸の王との戦い――そして、呆気なく訪れた終焉の刻。
瞼に焼き付いた、あの日の炎。
生前の記憶すべてを胸の内に取り戻して、キラーシャークは茫然と腕を下ろした。嵐の海に投げ出された小船のように、所在なく揺れるばかりの頭を押さえて静かに呻く。
「どう……なって、いる……? 我は……あの時……」
「ええ、確かに命を落とされました。しかしこの私とサーモマンサーの尽力、そして」
確かに死んだはずだ、と口にするより前に、傍らに立つ参謀の滑らかな弁舌が唸りを上げる。己の功績を殊更に飾り立て、大仰な身振りで高らかに言葉を紡ぐ過剰な慇懃さに些かの不快感を覚えつつ、キラーシャークは掌をじっと見つめた。
全身にみなぎるこの力は、明らかに生前の己を遥かに上回っている。生命の限界を超え、尋常ならざる領域へと誘う力。かつて自らを屠ったあの『鉄拳獰猛王』が纏っていたのと同じ力。その源は、ビーストならば誰もが知る、伝説の結晶――即ち。
「ゴッドロットによって蘇った……と、いうわけか」
「そう、貴方様は生まれ変わったのです。闇に喚ばれし魂を、新たな肉体に宿して……」
魔法陣の周囲をなおも廻る立方体を見上げて、シーレンスは喜悦に唇を歪ませる。星のない夜空よりもなお昏い闇色に染まった三つの角石は、陸海空に鎮座する三種のゴッドロットとは明らかに異なる雰囲気を漂わせ、上下に揺れながら回転を続けている。魔術師の口から絶え間なく響く詠唱の中、不気味な紫光を指先でなぞり、参画参謀は恍惚とした様子で高らかに言い放った。黄泉路より舞い戻った主を讃える、新たなる御名を。
「”死をも超越せし者”――暗黒の化身、メガロキラーシャーク」
まるで初めから知っていたかのように耳に馴染むその名を、キラーシャークは無言のうちに受け入れた。蘇生した肉体の馴染みを確かめようと拳を握れば、生前とは比べ物にならない膂力が湧き起こり、はち切れんばかりに膨れ上がった上腕に無数の青筋が浮かぶ。
「闇のゴッドロットの力と一体化した貴方様は今や最強の存在。たとえ炎のゴッドロットの加護を受けたライオーガとて……ひいッ!?」
御託を並べ立てる参謀の足元に勢いよく拳を突き立てると、魔法陣が刻まれた石造りの床が粉々に砕け散った。鉄の砲丸を叩きつけられたかのように大きく抉れた床面を一瞥して、キラーシャークは頬を吊り上げる。それは、破壊と殺戮を望む本能から導かれる悦び。自分自身にさえ制御できない破壊衝動がもたらす、邪なる願い。
生まれ変わって得たこの力を、今すぐにでも試したい。傅く参謀や逆らわぬ魔術師などではなく、もっと活きの良い獲物――力の限り抵抗する、惨めで哀れな陸の獣どもに、この拳を思うさま捻じ込んでやりたい。そんな願望ばかりが、大鮫の心を埋め尽くす。
「――世辞など要らぬ。行くぞ」
湧き起こる高揚感のままに、キラーシャークは石室の出口へと歩み始めた。並みのビーストならば優に二人ほどは収まるほどの広い背を揺らして立ち去ろうとする大鮫に、シーレンスの一声が待ったをかける。
「お待ちくださいキラーシャーク様! これより地上を蹂躙される貴方様に、相応しい尖兵を用意しております」
打ち鳴らす掌を合図に、暗闇に蠢く無数の赤い眼が光を放つ。不規則な足音と共に、部屋の奥からゆっくりと姿を現したのは、醜く膨れ上がった身体を引きずり、呻き声を上げながら這い寄るビーストの群れ。その数、およそ数百体。
「これは……ピラゾンか?」
「メガピラゾン。貴方様を蘇らせるための実験の副産物でございます」
ピラゾン――キラーシャーク率いるデスハート団の尖兵として、各地を荒らし回った肉食魚のビーストたちの生き残り。シーレンスとサーモマンサーの差し金により、彼らのほとんどは闇のゴッドロットによる生命賦活実験の被験体として捧げられ、今や見る影もなく変貌していた。
ゴッドロットからもたらされる凄まじい生命力は、ピラゾンのような凡庸なビーストには到底御せる代物ではない。急激に活性化した全身の筋肉は内圧に耐えきれずに断裂し、その都度再生を繰り返しながら常に血液を垂れ流す。終わりのない激痛の中、自我はとうに崩壊し、脳髄を満たすのは原初の獣のごとき生存本能だけ。肥大化した身体の上に、小ぶりな頭が載せられた不均衡な肉体。大きく裂けた口の端から滴り落ちる泡立った涎は、彼らに理性が存在しないことの何よりの証明であった。
「ご覧の通り、ただ眼前の全てを破壊しつくすだけの兵器と化しております。ですが、闇のゴッドロットの力を宿したキラーシャーク様の命令になら、決して背きはしません」
据わりの悪い頭を海藻のように振りながら佇むピラゾンの群れを一瞥して、シーレンスの浮ついた笑みを浮かべる。どこか侮蔑をはらんだその表情を視界の端に捉えて、キラーシャークは小さく溜息をついた。
「ただの木偶人形か。だが、我が歯牙に値しない弱者を除ける篩(ふるい)にはなるか」
強き者が弱き者を従えることこそが自然の摂理であるならば、闇のゴッドロットの力を得た者たちの中にも、自ずとその力の多寡に応じて序列が生まれることは理解できる。しかしそれは、ここに集ったピラゾンたちの中にキラーシャークの餓えを満たす強者は存在しないということに他ならない。少なくとも姿を変える前よりは力を増しているはずが、ろくに逆らいもせず、ただ生きるためだけに鰓を振るわしている、文字通り雑魚の集団。
こんなものを手に入れたところで、満たされるはずもない。
やはり、狩り立てなければ。驕り逆らう禽獣どもを。
「おっしゃる通り。必ずや、貴方様が望む戦いへの道を切り開いてくれることでしょう」
「我が望む、戦い――」
ふと、胸に拳を当てる。思い浮かぶ相手は、ただ一人のみ。
「そうだ。我は必ずや、奴をこの手で叩きのめさねばならぬ」
軋む拳を握り締めて、キラーシャークはひたすらに気炎を吐き散らす。分厚い石室の壁を突き破り、遥か深海の彼方にまで響き渡るような重く低い声は、遠くグロリアの大地に今も君臨しているであろう一匹の雄に向けて放たれた。
「今度こそ、貴様に地獄を見せてやる……ライオーガ……!」
かつて、この身を苛む餓えを満たした、ただ一匹の相手。
かつて、この身を灼熱の炎で焼き尽くし、海の藻屑と化した陸の王。
もしも自分に蘇った理由があるのだとすれば、必ずやかの獅子王を打ちのめすためであろうと、キラーシャークは確信した。
屍兵の群れを引き連れ、参謀と魔術師に見送られながら、キラーシャークは地上へと向かう。宿敵たる獅子王を完膚なきまでに叩きのめし、この瞳に映る世界の全てを平らげるために。死の淵を脱した大海賊王の新たなる野望が、今この瞬間に幕を開けた。
※
けたたましい豪音と共に、瓦礫の山がまた一つ増える。
突き抜けるような晴天の下、普段であれば明るい喧騒に満ちているはずの港町に、衣を裂くような絶叫が千々に響く。つい先ほどまで自宅だったものを後にして、少年は母の手を引き休む間もなく走っていた。逃げ惑う人の波に半ば攫われるように流されながら、鼻腔に届く焼け焦げた肉の臭いとは逆の方角へとひたすらに足を回す。
「なんで、どうして……! どうしてこんなことに……!?」
阿鼻叫喚の中、答える者などいるはずのない問いを叫ぶ。赤潮のように淀んだ海から這い出て、町から平穏を奪い去った者ども。背の低い少年が見上げてなお全体を窺い知れないほどの巨躯が群れを成し、その目に映る全てを破壊し始めたのが、ほんの数十分前のこと。駆け付けた王国のコアレム兵が、襲撃者の腹から飛び出した紫の稲妻のようなサイコエナジーを受けて為す術もなく屠られる様は、飛び散る血飛沫と共に少年の網膜に鮮明に焼き付いている。
不可解と理不尽の嵐の中で、分かっていることがたった一つだけあった。
逃げなければ。少しでも遠くへ、少しでも安全と思える場所へ。
そうしなければ、自分も母も死ぬ。
今にも飛び出しそうなほどに荒ぶる胸の鼓動に突き動かされて、少年はもつれる足を懸命に走らせた。背後に降り注ぐ建物の破片も、鈍い打撃音と共に響く断末魔も、全てを意識の埒外に追いやって、ただ自らと母の生存のためだけに身体を駆動させる。決して振り返らず、断じて躊躇わず、前だけを見つめて。
だが次の瞬間、ほんのわずか緩んだ手の隙間から、痩せた指先の温もりが消える。たとえこの身が朽ちても放すまいと誓ったはずの母の手が、少年の掌から零れ落ちてゆく。
いけない、と振り返った時には、もう遅かった。
「あ、あぁ……」
道に転げた母に覆い被さる、悪魔の影。全身から血を垂れ流し、不規則に膨れ上がった背中の筋肉をにわかに隆起させる破壊の化身。震える母を射竦めるその眼が、鮮血よりも深い紅に光る。
「お母さん、危ないっ!」
思わず差し伸べた手は届かない。
血まみれの掌が、眼前に祀られた哀れな贄に迫った、その時。
「喰らえ! ワンツー・パンチ!」
視界の端から伸び上がったサイコエナジーの拳が、襲撃者を隣家の壁面へ吹き飛ばす。突然のことに動転した少年が周囲を見渡すと、青い鎧を纏った高耳のビーストが、バネのようにしなやかな脚捌きで飛び跳ねながら向かってくる姿が見て取れる。
彼の名はグロリア王国・輸送施設軍所属、カンニガル。海に蠢く何者かの暗躍を聞き知った輸送施設軍隊長・エレドラムの指示を受け、先遣隊として港町ブルーラグーンの手前、敵の橋頭保になりうる要衝・トリムの町の警備に就いていた。
いかなる不穏な動きにも対応できるよう万全の備えを整えたつもりが、敵の本隊は予想に反してブルーラグーンを襲撃してきた。ただでさえ部隊の展開が遅れた上に、押し寄せる敵は一体一体がかのデスハート団の幹部にも匹敵する強さを誇り、防衛線は崩壊の一途を辿りつつある。せめて避難民の逃げ道だけは作らねばと、同僚と共に飛び出した矢先、こうして少年の窮地に行き合ったのが現状であった。
「大丈夫か! ここはもう危ない、すぐに避難を……」
駆け寄る少年に、カンニガルは勢いよく、しかし努めて優しく拵えた声色で促した。たとえ窮地にあろうと、守るべき民を不安がらせるわけにはいかない。未知の敵と相対する不安などおくびにも出さず、頬を緩めて笑みを作ってみせる。
しかし、少年が安堵を覚えた刹那、その笑顔は一瞬にして凍り付いた。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
一拍を置いて響き渡る、少年の叫び。その音韻に引きずられて、カンニガルは肩口に迸る熱をようやく知覚した。吹き出す鮮血が胸の紋章を紅く汚し、驚愕に見開いた瞼が痙攣する。僅かな隙を衝いて放たれた、背後からの一突き。それも、得物を用いぬ貫手による一撃が、鎧を貫通してカンニガルの肩先に深々と突き刺さっていた。身体を抉る傷口から、脳髄へ一直線に駆け抜ける激痛が、顔面を更に歪ませる。
それでも、若き戦士の覚悟は揺るがない。
「し、心配、いらない……ぜ……」
右肩を貫いた腕先を左手で固く掴んで、カンニガルは引き攣った笑みを浮かべた。うっすらと開いた口吻から覗く歯列に滲んだ血を目の当たりにして、少年の肩ががくがくと震える。
「は、早、く……に、逃げ、るん、だ……」
刺さったままの腕を引き抜こうともがく後背の敵を懸命に押さえつけながら、息も絶え絶えに告げる。青ざめた表情を隠せないままの少年が、慌てて引き起こした母と共に彼方へ駆けてゆくのを見送ると、カンニガルは左手を離し、強烈な後ろ蹴りで敵の巨体を跳ね飛ばした。風穴の開いた腕の付け根には、すでに一切の感覚がない。ただの重しと化してぶら下がる右腕を揺らして、誰もいなくなった街路に一人立つと、一抹の虚しさが胸に込み上げる。
奴らの破壊には、意思がない。苦しめてやろう、傷つけてやろう、支配してやろうなどという目的意識が一切感じられない。目の前の全てを壊したい、ただそれだけを希う衝動に突き動かされた行為。そんな空虚な暴虐に、いったい何の意味があるというのか。
「カンニガル、大丈夫じゃん!?」
駆け付けた鼠色の重装兵――アルジャイロの不安げな叫びが耳朶を打つ。普段なら軽口を叩き合うはずの軟派な同輩の深刻な声色を聞けば、向こうの戦況も芳しくないであろうことは聞くまでもない。ならば、ここで弱音など吐いていられない。
「こ、これくらいの傷でへばってたら……隊長に、叱られるぜ……」
一滴、また一滴と失われてゆく命の雫を垂れ流しながら、カンニガルは右肩を強く押さえた。真っ赤に染まった指先が食い込む度、じくじくと蘇る痛みだけが、今の自分をここに押し留めてくれる。
「――こうなったら、せめて一匹でも多く倒すじゃん」
「ああ。たとえ、俺たちの命に代えてでも……!」
悲壮な決意を固めた戦士たちの前に、大勢で道をせしめる殺戮の徒が迫る。炎の如く猛るサイコエナジーを胸部の紋章に充填しながら、二人は大群の鼻先を睨みつけた。
来るがいい。ここから先へ通るなら、俺たちの屍を踏み越えてゆけ。
※
「トリムに展開中の偵察部隊より伝令! 敵第一波、まもなく牙錠砦に到達します!」
「了解・した……! 総・員……戦闘・配置……!」
岩肌にそびえる砦から、地響きのような号令が飛ぶ。
デスハート団の再来を思わせる海からの脅威に対し、輸送施設軍隊長・エレドラムは、グロリア王国首都・プログレス防衛にあたっての最重要拠点である牙城砦防衛の任を担った。以前の侵攻では、海底を通ってトリムの町から上陸し、牙城砦へ攻め上がるルートと、その裏で密かに地下水脈を通ってプログレス市街へ侵入するルートの二つを併用した綿密な作戦が実施された。地下水脈のルートはその後埋め立てられたため、プログレスを攻撃するならば、この牙城砦を通るよりほかに道はない。
だが、今回の襲撃はトリムへ向かうこともなく、その手前の港町から愚直に上陸してきた。定石を外した奇策か、はたまた考えなしの下策か――敵の思惑を見定める間もないまま、沿岸の防衛線は壊滅。トリムからの救援も叩き伏せられ、現在に至る。
「アルジャイロとカンニガルがついていながら、こんなにも早く突破されるとは……」
「敵は・精強・だ。み・な、覚悟・して・か・か・れ……!」
傍らに佇む屈強な黒牛――バッファムの嘆きに、エレドラムは長い鼻を下へ垂らした。右肩を貫通する重傷を負ったカンニガル、彼と共に殿で奮戦したアルジャイロ。いずれ劣らぬ輸送施設軍の精鋭たちが、揃って瀕死の重体となって戦線を離れたと聞かされては、歴戦の古強者たるエレドラムも戦慄に背筋を凍らせざるを得ない。まして、敵の戦力は戦略上の不備さえ覆してこの牙城砦に迫っているのだ。砦に集結させたコアレム兵の全軍で迎え撃ったとしても、勝算は薄い。
それでも、戦わねばならない。
数多の死地を潜ってなお生き永らえたこの命は、祖国を守るためにこそあるのだから。
「輸・送・施・設・軍……! 全・軍・突・撃!!」
迫りくる軍勢を眼下に見定めて、エレドラムは数百の兵たちを一斉に進軍させた。偵察部隊からの報告通り、敵はいずれも醜悪に変容したピラゾンと思しき異形のビースト。断じて一対一で戦わず、複数人数で取り囲めとの指示に従って、コアレムたちは三人一組の編隊を組んで迎え撃った。
しかし、そんな浅知恵で覆せるほど、彼我の戦力差は小さくはなかった。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「こ、こいつら、ただのピラゾンじゃな……ぎゃあぁぁぁぁっ!!」
黒鼻の雑兵たちの絶叫と悲鳴が、瞬く間に戦場を埋め尽くす。得物も持たない相手に腕の一薙ぎで吹き飛ばされ、突き出した槍はたやすくへし折られる。頭上から伸びる掌に頭を掴まれ、赤く熟れた果実のように一息に握り潰された者もいれば、丸太のような足に蹴り上げられ、倒れたところを踏みつけられて地に埋められた者もいる。サイコロットを直撃させても、腹を串刺しにしても怯まず、赤い瞳を爛々と光らせて迫る恐るべき怪物ども。数で勝るはずのコアレム兵たちが、完膚なきまでに叩きのめされ、砦への距離は刻一刻と縮まってゆく。
「ひるむな! 取り囲め!」
砦を出たバッファムの檄も虚しく、兵たちの怯えは頂点に達していた。小刻みに震える身体を寄せ合い、見せかけの密集隊形を取ってみたところで、各々の戦意が粉々に挫かれていては何の意味もなさない。
「3、0……メ、ガ、バ、イ、ト……!」
「ぐわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
ふらふらと揺れる巨躯から撃ち放たれたサイコロットの光が、数十のコアレムの命を跡形もなく奪い去る。サイコエナジーにおいても勝ち目はない――誰もがそう思い知ってしまえば、戦線がたちまち総崩れになるのは最早自明の理であった。
「くっ……コアレムは下がれ! 俺と隊長で相手をするッ!!」
巨体を翻し、砦の門から飛び降りてきたエレドラムの着地が、大地に巨大なクレーターを作る。その脇で身じろぎ一つせず悠然と立つバッファムの胸元に、真紅のサイコエナジーが滾り、必殺の一撃を生み出してゆく。
「ストレート……ラッシュ!」
「ジャ・ン・ボ・プ・レ・ス……!」
目標へ向けて一直線に突き進む牡牛と、敵の頭上に浮かぶ巨大な立方体。強者二人の精神力が作り出した形ある精神力の結晶が、壁のように並んでにじり寄る敵の先陣を削り取る。倒すことなどできないと思われた相手がまとめて倒れてゆく光景に、後退したコアレム兵たちからも思わず喜びの声が上がった。
多くの屍を連ねた先に、ようやく得た戦果。だが、どれほど鍛錬を積んだビーストであろうと、極限まで集中したサイコエナジーを放出する技を乱発することはできない。隊長クラスのビーストが渾身の一撃でようやく数体倒せる相手が、砦の前方に開けた平野を埋め尽くすほど集まっている――到底、二人だけで覆せる戦況ではなかった。
「この強さに、この数……! 抑えきれません、隊長!」
「砦・が……破・られ・る……!」
半ば自棄のようなサイコロットの連射も虚しく、エレドラムとバッファムの脇を黒い嵐がすり抜けてゆく。傷だらけの残存勢力に、猛襲を押し留めるだけの力はすでに残されておらず、グロリア王国有数の防衛拠点は至極あっさりとその門扉を開いた。雨霰のように降り注ぐ邪悪なサイコエナジーが砦を焼き、崩れた物見櫓が逃げ惑う兵たちを押し潰す。
燃え盛る炎の中に立ち並ぶ、歪な輪郭。踊るように揺らめくその姿が、見る者全てに絶望をもたらす。
「隊長、ここは我々が引き受けます。隊長はプログレスに戻って防衛線の再編成を」
「し・か・し、それ・では……」
言い淀むエレドラムをよそに、バッファムは不敵に微笑む。額を伝う冷や汗を拭うこともせず、立ち塞がる巨躯を一閃に斬り伏せながら、広い背中越しにこう告げた。
「俺より若いもんが大勢、命張って頑張ってるんです。少しはいい恰好させてください」
「……わか・った。……武運・を、祈る」
覚悟を決めた表情に、返す言葉は見つからない。胸に去来する無念を懸命に押し留め、エレドラムは懐にしまっていたジップロットを地面に投げつけた。漂う白煙の中から現れ出でた無骨なビークルに飛び乗り、燃え盛る砦へ飛び込むと、追い縋る巨兵の群れを轢き飛ばしながら首都プログレスへと疾走してゆく。
広く大きな耳を揺らして振り返ると、遥か空へと立ち昇る硝煙がやけに目に付く。与えられた使命を全うできなかった慙愧と、散っていった命への哀悼――そして何より、踏みとどまったバッファムをはじめとする部下たちへの侘しさが、老兵の胸に深く、重く突き刺さる。
なんとしても守らなければ。この国を、その要たる首都プログレスを。
無数の屍の上に立つこの命を費やしてでも、必ず――
※
「デスハート団、牙錠砦を突破! 勢いに乗じ、プログレスへ向けて侵攻中!」
「何としてもここで食い止める! 高速機動軍、特務諜報軍、作戦開始だ!」
牙城砦からプログレスへの道程に位置する小さな市街。牙城砦陥落の報を受け、すでに全市民の避難が完了した無人の街並みに、オーガ隊長からの指揮権移譲を受けたゼブラックス隊長代理率いる高速機動軍と、ロングジラフ隊長が指揮する特務諜報軍が共同で布陣していた。その目的は、首都プログレスに迫る凶暴なビースト――『ピラゾン亜種』と呼称される謎の軍団の群れを、首都到達より前に殲滅することにある。
「へへっ、鬼さんこちら~ってね!」
幾度にも及ぶ都市計画によって入り組んだ街並みを縫うように、潜水スーツを身に着けた小柄なビースト――特務諜報軍・水中工作員のビバップがちょこまかと走り回る。追い縋るピラゾン亜種の巨大な腕を十分に引き付けて躱し、時折おちょくるようにサイコロットのジャブを打ちながら、軍勢から孤立するように仕向けてゆく。
やがて引き入れた、狭く薄暗い路地裏。袋小路に万事休すと見せかけて、身を翻したビバップはしてやったりと言わんばかりに前歯を光らせる。その悪戯な笑みが、総攻撃の合図となった。
「――今です!」
直後、物陰から響いた怜悧な一声と共に四方から押し寄せるサイコロットが、ピラゾン亜種に迫る。相対する者を寄せ付けない並外れた巨体も、不意を衝いての連続攻撃にはひとたまりもなく、迸るサイコエナジーの奔流が引き起こした爆炎の中に消えていった。
「やったぁ! どんなもんだい!」
「読み通りですね。どれほど精強であろうと、取り囲んで各個撃破すれば……」
喜びに飛び跳ねるビバップの前に、重装攻撃軍から借り受けたクリーナー兵たちと共に待ち伏せを仕掛けた張本人――特務諜報軍の同僚・バニキスが自慢気に声をかける。
論理的思考に長けたゼブラックスと、独特の勘と閃きに定評のあるロングジラフが考案した、死中に活を求める策。市街での戦いが避けられないのなら、逆にその入り組んだ地形を利用し、孤立させたピラゾン亜種を各個撃破する。敵にこちらの全容を気取らせず、真っ向からの戦闘による消耗を抑えながら、着実に頭数を減らしてゆく遊撃戦。その最初の成果が、今ここに結実した――はずだった。
「――え?」
振り返るバニキスの眼前に迫るのは、粉々に砕けた壁面の破片と、その奥から飛び込んでくる暴力の塊。反射的に飛び退いたところを、更に後ろから現れた巨大な拳に狙われ、茶褐色の毛並みが弾丸のような速さで路地裏を吹き飛んでゆく。
「ば……バニキスっ!?」
市街戦の利点である入り組んだ地形も、隠れ蓑となる建築物や壁を破壊されては何の意味もない。目標を見失い、手当たり次第に破壊を広げ始めたピラゾンの群れの前には、その場凌ぎで拵えた作戦など風前の灯に等しかったのである。バニキスに続き、クリーナー兵たちも次々と倒され、ただ一人残されたビバップは狼狽する。
「こちらビバップ、バニキスがやられた! 至急援護を……」
<駄目ぞな! こっちもジーダムが重傷で……凌ぐのがやっとぞな!>
平時であれば飄々と応じるはずのフォックスコーンの声が、これまで聞いたことのない深刻な色合いを宿していることに気付いて、ビバップは背筋を凍らせた。頼みの作戦は瓦解、同僚も仲間も揃って瓦礫の下、救援も絶望的――状況を整理すればするほど、全身の血管が広がり、加速する拍動が爆発しそうなほどに高まるのがわかる。冷静な思考は失われ、恐怖と怯懦が胸を満たす。
「くっそぉ……! 倒れろ、倒れろよぉっ!!」
声の限りに叫んでも、ひたすらにサイコロットを撃ち放っても、状況は何も変わりはしない。視界を満たす死神の列は滲み捩れて、もう何人いるのかも定かではない。
――殺される。そう過った一瞬が、命取りだった。
「し、しまっ……」
後ずさる足元がもつれ、ビバップはその場に尻餅をついた。立ち上がろうともがく脚は震え、声にならない吐息がぬめった唇の端から漏れ出る。確定した終焉へ向かう、永遠に等しい一瞬。全身をバラバラに引き裂くような痛みを覚悟し、反射的に目を閉じた。
だが、ビバップに最期の時は訪れなかった。暗く閉ざした視界の向こう側で、くぐもった呻き声と鋭敏な斬撃音が交響する。恐る恐る瞼を開くと、こちらに背を向けた二つの影が、倒れ伏す敵の屍の前に仁王立ちで佇んでいた。
「……ロングジラフ隊長! ゼブラックス隊長代理!」
長い首をもたげて力強く頷くのは、ビバップの直属の上官――ロングジラフ。普段から漂うとぼけた雰囲気が、今ほど頼もしく思えたことはない。並び立つゼブラックスの表皮を飾る鮮やかな縞模様も、破壊された家屋の隙間から差し込む陽光に照り輝き、ビバップの震える心に再び希望を灯してくれる。
「ここは私たちが引き受ける。今のうちに後退を」
「ビバップ! バニキスを頼んだよ!」
安堵に任せて何度も首を振り、後退してゆく部下を見送ってから、ロングジラフはなおも眼前に迫る恐怖の群れを見つめた。誰よりも長い首で戦況を俯瞰することに長けた自分でさえ、見下ろすことのできない巨躯、それも数え切れないほどの大群。今にも蹄を鳴らして逃げ出したくなる己を戒めるように、拳を強く握る。
「こうなったら、一の二の……じゃなくて、四の五の言ってられないっ!」
意を決して、ロングジラフは自らの首筋を強く殴りつけた。頸椎を駆け上がる衝撃は瞬く間に頭蓋の奥底にまで伝わり、何処かに埋もれた獣格変化の押釦に深くめり込む。
「……お前ら……!!」
文字通り目の色を変えた長首の隊長が、居並ぶ脅威の只中にずい、と歩み出た。どこか間の抜けた態度は何処かへと消え果てて、鋭く吊り上げた眼が睨みを利かせる。
「俺の大事な部下に下手な真似して、ただで済むと思ってんじゃねぇだろうな!?」
平時の朗らかさをまるで想起させぬ激しい声色。突風の如く吹き荒ぶ怒号と共に、振り上げた剣を並み居るピラゾンの群れに叩きつけるロングジラフの胸に宿るのは、彼が隠し持つもう一つの心――部下たちからは『本気モード』と称される、狂戦士の側面。
「おらおらぁーッ! ぶっ飛ばされてぇやつからかかってきやがれぇッ!!」
一切の恐れを捨て去り、突風の化身と成り果てた麒麟の振るうなりふり構わぬ刃が、膠着した戦場を切り開く。大振りの剣戟に生じる隙は、ゼブラックスが狙い撃つ的確なサイコロットが覆い隠し、敵に反撃の暇を与えない。隊長格二人の連携を以てしても、容易に跳ね返せない過酷な戦況。一点を突き崩すことさえできれば、少なくとも部下たちを逃がすだけの時間は作れると踏んでの、無謀とも取れる突貫。それでも、ロングジラフの圧倒的な爆発力とゼブラックスの冷静な判断が見事に噛み合った結果、彼らは自身の想定以上の善戦を見せていた。
暗黒の闘気を全身に纏った、あり得ざるものが現れるまでは。
「――随分と威勢がいいな」
ほんの一言、呟くような声。しかしその一声が、全てのピラゾンの動きを止め、戦場に響く喧騒の一切を鎮めた。
驚愕する二人の前に堂々と歩を進めるのは、そこに立っているはずのない者。立っていてはならない者。禍々しい、との形容でもなお足りぬ淀んだ気配を漂わせ、降り注ぐ陽を呑み込む黒鋼の鎧を纏った、疵面の大鮫。その右手に携えた三叉の槍が、揺らめく暗黒の闘気に燻されてぬらぬらと邪な光を放つ。
姿形が変わっていようと、二人には今相対しているビーストが何者であるか即座に理解できた。かつてライオーガ王が屠ったはずの、シャーク三兄弟長兄――キラーシャーク。
「な……!? て、てめえは……!」
「ば、馬鹿な……何故生きている!?」
狼狽するゼブラックスの問いに、キラーシャークは答えない。ただ不敵に口端を歪め、こちらを蔑み嗤っている。無辜の民を踏みつけにし、あまつさえ鼻息一つで嘲笑うその傲慢さが、ロングジラフの怒りに猛火を灯した。
「……なんとか言いやがれ! この野郎ぉぉぉぉぉぉッ!!」
「駄目だ――無暗に突っ込んでは!」
ゼブラックスの制止も虚しく、ロングジラフは長首を大きく前傾させて走り出した。踏み込んだ足裏で地面を抉り、振り上げたもう片足を横薙ぎに叩きつける。並みの戦士ならば視認さえかなわない、超音速の蹴撃。まともに入れば骨の数本は砕くであろうその衝撃を、キラーシャークはおもむろに掲げた左手で掴む。まるで、羽虫を摘むかのように。
「遅い」
直後、ロングジラフの身体は宙を舞っていた。グロリア王国軍一の長身が、左手一本で放り捨てられ、民家の残骸に叩きつけられる。土壁にめり込み、激痛に軋む身体を指一本動かせぬまま、端正な顔立ちが見る影なく歪む。
「………………が、は……ァ……ッ」
がくがくと痙攣する首の上で、ロングジラフは瞼を裏返らせる。掴まれた一瞬のうちに捩じられた左脚はあらぬ方向に折れ曲がり、受け身も取れぬまま強かに打ち付けた全身からは夥しい量の血液が噴き出している。
これだけの損傷を、ほんの一撃で。
眼前の現実を受け止めきれず、ゼブラックスは呻き交じりに叫ぶ。
「ロングジラフ……!」
「ぜ……ゼブラッ、クス…………で、伝、令…………王に…………」
潰れた喉の奥から吹き漏れる声が、ゼブラックスに残酷な決断を迫る。一人この場を離れ、更なる脅威の出現を王宮へと報告する――隊長格を鎧袖一触で屠る相手を前に、無謀な特攻を仕掛けるよりはよほど合理的な行動である。だがそれは、今にも意識を失わんとする同胞を見捨て、ただ一人逃げ延びる行為にも他ならない。
「く……ッ!」
白黒に割り切れない感情を押し殺して、ゼブラックスは奥歯を噛み締める。きつく瞑った瞼に無念の滴を滲ませながら、後方へ踵を返す。あからさまな逃走を図っても、大鮫やその背後に控えるピラゾンたちによる追撃はない。露骨なまでの侮りにたてがみをわなわなと震わせながら、ゼブラックスは王都へ向けて一目散に駆け出していった。
「そうだ、奴に――ライオーガに伝えるがいい。我が戻った、とな」
守る者のいなくなった町に、鋸刃のように尖り荒れた声が響く。更なる脅威と絶望が、グロリア王国を包もうとしていた。
※
「雌と子供が最優先ぜよ! 押し合わず、列を崩さんようにのお!」
「土の下を進んでいけば安全よぉ~! みんな必ず助かるわぁ!」
プログレス郊外、自然豊かな大森林の奥深く。平時は森林浴や果物狩りを楽しむ人々でにぎわうこの地には、特務諜報軍の地中工作員・ランドモグールが有事に備えて掘り進めていた地下トンネルの入り口が存在している。首都プログレスに万一のことがあれば、このトンネルを用いてグロリア第二の大都市・サワーレイクシティへの避難経路を確立する――実用する日など来てほしくはなかったと嘆きながら、黒い毛並みの土竜は市民の列を大きな手ぶりで誘導する。その傍らで、容姿にそぐわぬ甲高い声を上げて支援を行う豚のビーストがいた。
「あらあら大丈夫、坊や? 立てるかしら」
足をもつれさせた幼子を見かねて、コック姿の大柄な豚――デリシャスホッグはその大きな手を差し伸べた。しかし、うずくまった小さな体がその手を取ることはなく、鼻を啜る寂しげな音が漏れ聞こえるばかり。
「おかあさん……おかあさんはどこ……?」
涙と鼻汁に塗れた顔を丸めた紙のように歪めて、幼子はなおも泣きじゃくる。突如として巻き起こった破壊と殺戮の嵐、その犠牲の最たるものといえる姿を目の当たりにして、大きな鼻の奥がつんと痛む。
だが、嘆き悲しむ時間などありはしない。
今は一人でも多く、救える者を救わなければ。
「――大丈夫よ、先に避難しているわ。坊やも早く行かなくっちゃね」
苦し紛れの嘘。だがそれは、相手を騙し貶めるものではなく、真心を込めた優しい嘘。思わず顔を上げた幼子の目に映るのは、まるで陽だまりのように温かな笑顔。胸の内に込み上げる想いを押し殺して、それでも誰かのために瞼を細めるひたむきな心は、世の道理を未だ知らぬ幼子の胸にも届いたようだった。
「うん……ありがとう、おじちゃん」
「んもう、おじちゃんじゃなくておネエさんよ。ほら、行った行った」
しなを作った右手を振って、デリシャスホッグは幼子の背を押した。未だ長く伸びた列に紛れ、見えなくなってゆく小さな掌に、ひらひらと手を振り返す。
「おおきに、デリシャスホッグ。おかげで避難も順調ぜよ」
「そっちこそお疲れ様! もうそろそろ、このあたりの人たちはみんな……っ!?」
ほんの僅かな安堵さえ許さない、裂帛の爆発音。振り返る視線の彼方、列の最後尾に肉薄するサイコエナジーの爆風が、川を上る津波のように迫ってきている。
押し寄せる、強烈な圧力。『奴ら』が迫ってきたのだと、感覚で分かった。
「いかん……もう追いついてきちゅうがか!?」
「このままじゃ間に合わないわ! ランドモグール、みんなをお願い!」
「お願い、って……どうする気じゃデリシャスホッグ!?」
「心配しないで! アタシはアタシのやるべきことをやるだけよ!」
動揺する列の人々を宥めながら、デリシャスホッグは爆発のあった方角へと急行する。元より本業は料理人、多少研鑽しているとはいえとても戦いには向かない体を、それでも必死に動かして、待ち受ける脅威の真正面へふくよかな身体を滑り込ませた。
「待ちなさい!」
見上げる先には、冷たく淀んだ殺戮者の瞳。
立ち向かうのは、フライパンと玉杓子を構えた宮廷料理人。
「町のみんなには、指一本触れさせないわ! えぇ~いっ!」
向こう脛を目掛けて振り抜いたフライパンの天面が大きく歪む。しかし、自慢の道具を打ち壊すほどの力を叩きつけても、頭上の巨体はびくともしない。覚悟していたとはいえ、流石にここまで力の差があるとは思わず、デリシャスホッグは目を丸くした。元が雑兵とはいえ、強化された肉体の耐久性は計り知れず、武器ですらない調理器具で太刀打ちできる道理などあるはずもない。
だが、それでいい。勝つつもりなど初めからない。
せめてほんの僅か、皆を逃がす時間だけでも稼げれば。
「うっ、くぅ……っ! んあぁぁぁっ!!」
鉄がひしゃげる音に引き寄せられたピラゾンの群れが、デリシャスホッグの四方から迫る。慌てて脇の下を潜り抜けようとするが、大きな腹を揺らして進む緩慢な動作ではとても逃げ切れない。後ろから掴み上げられ、まるでちり紙を放り捨てるようにその場に叩き落とされてしまった。
手当たり次第にすべてを蹴散らすピラゾンどもにさえ相手にされず、その場に捨て置かれる屈辱。手入れを欠かさない艶めいた肌が泥濘に塗れても、宮廷料理人の闘志は挫けない。やっとの思いで動かした両腕で、手近な敵の脚にしがみつく。
「行かせる、もんですか……っ!」
この腕が千切れても構わない。この体に宿る全てを失うことさえ厭わない。
ほんの一秒、一瞬だけでも、逃げ惑う人々の安寧を守れるのなら。
――去りゆく間際にあの幼子が見せた、愛おしい笑顔を、守れるのなら。
「アタシは……アタシだって……特務、諜報軍の……一員、なんだからぁぁっ!!」
渾身の雄叫びに応えるように、デリシャスホッグの胸に宿るサイコエナジーの紋章が眩い光を放ち始める。一度は彼を捨て置いたピラゾンたちさえ振り返るその輝きは、やがて大鍋のような半球状の輪郭を描いて周囲に広がり、群れ並ぶ肉食魚群を呑み込んで。
一息に、爆ぜた。
「デリシャスホッグぅぅぅぅぅぅっ!!」
直後、紅い放射光が遥か天へと閃いて消える。儚くも美しく、どこか温かさを感じさせる発光を暗視ゴーグル越しに捉えて、ランドモグールはたまらず戦友の名を叫んだ。
あの輝きが、消えゆく命が遺したものとは思いたくない。だが、それを確かめるために引き返せば、彼の覚悟を踏みにじることになる。忸怩たる思いに唇を噛みながら、ランドモグールは避難民の最後尾をトンネルへ押し込んだ。
※
夥しい血を流し、数多の屍を連ね、それでも戦いは終わらない。
とうとうプログレス市街にまで及んだ戦火の只中では、ライナス総司令官麾下の重装攻撃軍による決死の防衛戦が展開されている。構うものなく暴れ回るピラゾン亜種の大群と、逃げ遅れた民を庇いつつ応戦するグロリア王国軍。個々の戦力差のみならず、守るべきものがあるという事実そのものが、両者を隔てる決定的な差異となって戦士たちを苦しめていた。
「――ふんッ!」
肉食魚の頑強な首を、狙い澄ました匕首の一撃が貫く。重火器による飽和攻撃と鉄壁の守りを是とする重装攻撃軍には珍しく、不意打ちを得手とする特殊暗殺兵・イグアスの手業である。
「イグアス、お見事だベア~。けんど、これじゃあ……」
「やっつけてもやっつけても、キリがないぜ……!」
両腕にガトリング砲を構えた厳つい熊のビーストと、がっしりとした体躯に黒い毛皮を纏ったゴリラのビーストが口々に嘆きを漏らす。歩く火薬庫となって戦場を制圧する重火器戦闘兵のリトルベアと、重装攻撃軍の隊長として奮戦するギャリソンG。彼らと配下のクリーナー兵が敵の群れを引きつけ、隙を見てイグアスが一体ずつ致命傷を加える――着実だが、即効性に欠けるうえ、イグアス一人に大きな負担をかける戦法。全軍が一塊になり突出を避けることで、個々の被害を減らすことこそできてはいるが、荒波のように押し寄せる敵の勢いを減ずるには程遠い。
だが、焦って突撃を敢行しようものなら、よほどの強者でない限り即座に屠られることは目に見えている。すでに市街への侵入を許し、その奥にそびえるグロリア王宮さえ目と鼻の先にまで追い詰められた今、着実に相手の数を減らすよりほかに対抗手段はない。
デスハート団の奇襲から一年、ようやく復興しつつあったプログレスの町の半分は、今や見る影なく瓦礫と化した。惨憺たる有様に逸る胸を懸命に抑えて、今はただ耐えるべき時――胸に固く誓った矢先、戦場に一陣の風が吹く。やけに穏やかで、それでいて背筋を不気味に撫で上げるような、ひどく血腥いその風に触れた次の瞬間、重装攻撃軍一同の肩が一斉に縮み上がった。
「ぐぅ……ッ!?」
「こ、この感覚は……ッ」
「な、なんだぁ……? ふ、震えが止まらねえベア……」
ギャリソンGには著しい頭痛として、イグアスには背後を取られたような急拍動として、そしてリトルベアには奥歯を不規則に鳴らす烈しい身体の震えとして。口々に恐怖を訴えるクリーナー兵たち含め、それぞれ異なる形で発現した不調は、すべて共通する原因によって引き起こされていた。
生きとし生ける者すべてが持つ、『生きたい』という本能を逆撫でるもの。手段を、目的を問わず、ただ相手をこの世から抹消することだけを志向する者が醸し出す、おぞましい気配――即ち、殺気である。
かつてのプログレス防衛戦を生き延びた重装攻撃軍の猛者たちでさえ、恐れを露わにせずにはいられない、途方もない精神的圧力。その中心に立つ者こそは、深海の暗闇より蘇りし邪悪なる大鮫。命じられるまでもなく道を空けるピラゾンたちの合間を一歩、また一歩と進むその脅威を見定めて、戦陣の後方から一体のビーストが姿を現した。
「総司令官! どちらへ!?」
「あれを王宮に近付けるわけにはいかん。重装攻撃軍は引き続き首都防衛にあたれ!」
グロリア王国軍総司令官、ライナス。
鼻先に大いなる角を戴き、鋼の如く鍛え上げたその肉体でキラーシャークの末弟・パワーシャークとも互角に渡り合った、グロリア王国軍最強の戦士。
絶大な威圧感に圧されて粟立つ肌に力を込めながら、ライナスは殺気の源たる大鮫の眼前に立ち塞がった。踏みしめた足元に刻まれる足跡は、エレドラムにも並ぶ随一の巨体と、その身に漲る剛力の証。
「なるほど……化けて出たか、キラーシャーク」
対するは、復活の大海賊王・メガロキラーシャーク。その身に宿した破壊の衝動は、道すがらにどこぞの雑兵を一蹴した程度で治まるものではない。
「――ライオーガはどうした」
「貴様如き、王が相手をするまでもない」
そう言い放つと、ライナスは問答無用とばかりに曲刀を構えた。灰色の硬い肌に覆われた上腕にありったけの力を込めて、鋭い光に閃く刃を振りかざす。
ライオーガ王がゴッドロットの力をもってようやく倒したほどの相手に、出し惜しみなどしている暇はない。文字通りの一撃必殺、乾坤一擲を賭して繰り出した渾身の兜割り。しかし、風をも斬るその一振りはキラーシャークの脳天に届くことはなく、寸前のところで受け止められた。
「ほざくな、角付き。虚勢を張れば誤魔化せるとでも思ったか?」
「く……ッ!」
キラーシャークが構えた槍の穂先が、振り下ろされた剣と擦れ合い火花を散らす。剛力と剛力がぶつかる極限の一瞬の中、時折ぎちぎちと鳴る腕の鋸刃に嘲笑われて、ライナスは眉間の皺を深くした。
見透かされている。未知なる敵への恐怖を。
戦場を駆け巡った殺気に対し、ほんの僅か覚えてしまった、本能的な竦みを。
「そんな怯えた剣で、我に斬りかかるな。不愉快だ」
「う……っ、ぬぅッ!」
咄嗟に飛び退くと、ライナスはすかさず刃の切っ先を引いて構えた。大きく沈みこんだ姿勢から放たれるのは、山のような巨体を稲妻の速度で奔らせ、懐を狙って突き込む渾身の刺突。敵の胸に浮かぶサイコエナジーの紋章さえ貫いて心臓に迫るはずの切っ先はしかし、キラーシャークがかざした掌に真っ向から吸い込まれた。肉を貫くこともなく、勢いのまま折り畳まれるように毀損されてゆく刃を目の当たりにして、さしものライナスも驚愕に目を見開く。その目に映る大鮫の表情が、一瞬にして怒りの形相に移り変わった。
「ぬるいッ!!」
「が……ぐあぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
無防備な腹を直撃する、あまりにも重い拳。いとも容易く吹き飛ばされた巨体が、周囲に辛うじて形を残していた家屋を二、三軒貫いてようやく停止する。打ち付けた全身に隈なく染み渡る痛みを振り払い、ひびの入った鎧に土煙を纏わせながら、それでもライナスは立ち上がった。肚の奥に深く沈んだ衝撃を迸る闘志に変えて、胸にぐっと込める。
「……ならばッ!」
口端に滴る血反吐を手の甲で拭って、ライナスは裂帛の気合を吠えた。直後、胸部に集中したサイコエナジーが、無数の筋繊維となって伸長する。渦を巻いて編み上げられた光の束が作り出す、鋭い大衝角。その切っ先は、瓦礫の向こう側で待ち受ける大鮫に向けられている。
「喰らえ! 一角千筋ッ!!」
鋼の如く磨き上げた肉体が、そのまま結実したような尖角の一撃。恐れも竦みも跳ね飛ばし、敵の正中線をただ一息に貫く、ライナス渾身の必殺技。躱しようのない加速と勢いで眼前に迫るその尖端を見つめ、キラーシャークは溜息を吐いた。
舐められたものだ。こんな取るに足らない一撃で、我が首を獲ろうなどとは。
「――ふん」
失望に鼻を軽く鳴らして、漆黒の大鮫は眼前に迫るサイコエナジーの大角を裏拳で払い除けた。弾道を逸らされた精神力の奔流は行く宛を失い、瓦礫の町に直撃する。
「随分と腑抜けたサイコエナジーだな」
「お……おのれぇ……ッ!」
必殺の一撃を、こうもあっさりと。
悔しさに歯噛みしてみたところで、劣勢に次ぐ劣勢は覆せない。一歩、また一歩と迫り来る大鮫の鎧が立てる金属音が、ライナスの鼓膜に幾度となく反響する。
「茶番は終わりか? ならば……今すぐに消え失せろ」
冷酷な宣告と共に、キラーシャークの胸部に掲げられたサイコエナジーの紋章に光が宿る。海種族であれば本来は青い輝きを放つはずのその光が、不気味な紫色に染まっていることにライナスは気付いた。
目を見張る一瞬の間にも膨張の一途を辿る、紫電を纏った光の立方体。驚くべきことに、その形状は何にも変化する様子を見せない。自らの巨体を覆い隠すほどの大きさに膨れ上がり、途轍もない威圧感を示しておきながら、あのサイコエナジーの塊が何の技でもないただのサイコロットであるという事実に、ライナスは驚愕を隠せなかった。
あれが直撃すれば、命はない。だが、満身創痍で渾身の一撃を放ったライナスには最早あの巨大なサイコロットを避けるだけの体力は残されていない。確定した死の運命を前に、打つ手なく立ち尽くす犀の烈士――その眼前に、けたたましいエンジン音と共に割り込む影が一つ。
「な……ッ!?」
直後、目の前に広がる紫の閃光が鋼鉄の巨体を呑み込む。吹き荒れる破壊の嵐の中で、ジップロットビークルだったものは粉微塵に打ち砕かれ、搭乗していたビーストも傍らに放り出された。ビークルを緩衝材代わりにしたとはいえ、凄まじいサイコエナジーの中にその身を晒し、深い傷を負った灰色の巨体。倒れ伏すその背を抱き起こしたライナスの顔が、驚愕に引き攣った。
「え、エレドラム……!?」
遥か牙城砦で指揮を執っていたはずの戦友。本来であればここにいるはずのない者が、今自分を庇って深手を負っている。状況を呑み込み切れず、衝撃で混乱するばかりの思考を振り払って、ライナスはその場にがくりと膝を突いた。邪悪の一撃に身を焼かれ、あえなく力尽きんとするかけがえのない友を抱き寄せる。
「我が・友、ラ・イ・ナ・ス……共に・生き、共に・死に……」
かすかに聞こえる声は、遠い日に交わした誓いの言葉。弱々しく震えながら伸びてくる大きな掌を、必死に握り締める。
「共に……国の、礎と……なら……ん」
「エレドラム……ッ!!」
そう言い残すと、エレドラムは瞼を閉じた。こちらを握り返していた力は消え果て、長い鼻がだらりと胸に垂れ落ちる。節くれだった指先に宿っていた僅かな熱までも、まるで火が消えるように冷めてゆく中、ライナスは縋るように友の名を叫ぶ。ひとりでに潤む視界の中、色を失った紋章に、温い水滴が零れ落ちる。
共に祖国の未来に命を捧げると約束した身。何時、如何なる場所に散るのだとしても、それが未来への礎となるのなら構わないと誓い合った。
だが、いざその時となって流れ出す、この涙は――
「喜べ。友とやらと同じ場所に、すぐにでも送ってやろう」
悲しみに浸る暇も、動揺に震える間隙も、無慈悲な大鮫は与えてはくれない。燃え盛るビークルの残骸を隔てた先で、第二射を番える紋章の輝きが冷たく光る。
膝上に蹲る友を捨て置くことなどできはしない。だが、諸共に逃げ出せるほどの時間も体力も残されてはいない。進退窮まった絶体絶命の局面、ライナスが強く噛み締めた唇に鉄の苦味が滴った、その時であった。
「待てェッ!!」
後方から吠え猛る威厳ある制止が、戦場を震わせる。荒野と化したプログレス市街を縦横無尽に駆け巡り、遥か連山の彼方まで届かんばかりに響く声に、ライナスは思わず振り返った。霞む視界に浮かび上がるのは、猛々しい鬣を構えた堂々たる益荒雄の輪郭。王宮へ続く大通りの中央に、並び沿う二つの影と共にすっくと立った、赤鎧の雄姿。
「キラーシャーク! 俺の大切な仲間に……手を出すなッ!!」
それは、陸の大国・グロリア王国を統べる者。『鉄拳獰猛王』の異名を取り、いかなる窮地も拳で切り開いてきた、グロリアの栄華と力の結晶たる偉大なる王者・ライオーガ。
「――来たか、ライオーガ。随分と我を待たせてくれたものだ」
喉から手が出るほどに待ち望んだ相手を前にして、キラーシャークは片頬を歪に吊り上げた。取るに足らない雑兵を放っての退屈な破壊も、期待外れの小物どもを蹴散らして歩んできたここまでの道程も、全てはこの生意気な獅子を完膚なきまでに屈服させるための前座に過ぎない。息を吹き返してから今までの間、満たされることのなかった虚無と空白が、ようやく埋まる。唾液の滴る口腔で、擦れ合う乱杭歯がぎしぎしと音を立てる。
「オーガ、ビッグセロウ。ライナスとエレドラムを頼む」
「わかった。……気をつけろよ、ライオーガ」
「心配するな。誰が相手でも――俺は、絶対に負けはしない」
枝分かれした一対の大角を揺らすビッグセロウ参謀長が、倒れ伏す輸送施設軍隊長とその身を掻き抱く総司令官の元へと駆け寄ってゆく。王と臣下のそれとは思えぬ砕けた口調は、軍学校時代から二人が培った友誼の証。心の底から互いを信じ合うからこそ通じる深い想いが、二人をそれぞれの戦場へと走らせる。
「父上、どうかご武運を!」
「おう! あとは任せたぞ、オーガ!」
ビッグセロウに付き従ってライナスらの救助に向かう息子――オーガの背に、ライオーガは拳を振り上げて応じた。ソアラ聖国復興使節団の団長としての職務を全うし、故郷へ帰還した直後に起きた大惨事に際しても、決してひたむきさを失わないその姿勢は、父にとっては胸を張って誇るべきものであった。
彼らだけではない。かつてない危難に見舞われたこの国で、誰もが誰かの精一杯を振り絞り続けている。彼らの死力に報いるために、なんとしてもここで首魁を倒す。
「さぁ、受けてもらおう。キラーシャーク……俺とのビーストファイトを!」
誇りを懸けた真剣勝負の名をあえて宣言し、ライオーガはほくそ笑む大鮫の前に単身立ち塞がった。ビーストファイトの放棄は戦士の恥、一度受ければ決着がつくまで逃れることはできない。キラーシャークの脅威を自分一人に集中し、他に累が及ばないよう隔離するための策であった。
助けを求める声があればどこへでも駆け付け、自らの手で救う――それが、拳一つを頼りに戦い抜いてきた獅子王の信念。自分を王として認め、支えてくれる民のため、傷を厭わず立ち向かう覚悟を胸に燃やし、ライオーガは毅然と拳を構えた。
その覚悟の先に、想像を絶する地獄が待ち受けていることなど、想像だにしないまま。
※
「キラーシャーク! よくもグロリアを……俺の愛する民と土地を、こうまで痛めつけてくれたな!」
鍛え上げられた筋肉に飾られた太腿を躍動させて、ライオーガは眼前の宿敵に向け鋭く飛び掛かる。勢いを乗せた拳が一直線に狙うのは、歪んだ笑みを崩さないキラーシャークの顔面。しかし、獅子王を上回る巨躯を思わせぬ反応速度で、大鮫は俊敏にも初撃を躱してみせた。胴を狙って繰り出した追撃も、揺らめくようにすり抜けてしまう。
「知ったことか。我が望みはただ一つ――貴様だ、ライオーガ」
「何……!?」
猛る炎のように繰り出される拳の連撃を両腕でいなしつつ、キラーシャークは喜色を浮かべて語る。
「黄泉路より舞い戻ったこの魂を満たすのは、強き者を嬲り、蹂躙する一時だけ――この国で、我に迫る力を持つ者は貴様だけだ」
高速の腕捌きで拳を受け流す度、ほんの僅か触れただけの表皮にすら伝わる鋭い痺れ。誇り高き獅子王の振るう腕は、その一撃一撃が肉を抉り、骨を断ち、即座に戦いを終わらせるほどの威力を持つことが、まともに受けずともわかる。
これまで纏わりついてきた木端どもとは、強さの格が違う。
だからこそ、この手で嬲る価値がある。
「せいぜい我を楽しませろ、陸の王。我を殺した貴様には、その責務がある」
「戯れ言を……ッ! 貴様一人の愉悦のために、この国を蹂躙されてたまるものか!」
さらに激しさを増して燃え盛る怒りとは裏腹に、ライオーガはキラーシャークに決定打と呼べる一撃を浴びせられずにいた。律動を崩して繰り出した片肘さえも身を引いて避けられ、心の奥に焦りの火種が点る。
「御託を抜かすのは、我を倒してからにしろ……倒せるならば、な」
「そうさせてもらう! うおぉぉぉぉぉッ!」
得物の槍を構えることもせず、挑発めいた素振りで立つキラーシャークの顔面目掛けて、ライオーガの右拳が飛ぶ。軸足にありったけの力を籠め、全身をバネのように捻って放った渾身の一撃。分厚い黒鎧を貫通し、敵を遥か彼方へ殴り飛ばすだけの威力があるはずの拳が――あと一歩のところで、届かない。
「どうした……その程度か……?」
キラーシャークの左腕に握られた右拳が激しく軋む。鋼の如く鍛え上げた拳骨を砕き、指をへし折らんばかりの握力が、ライオーガの唯一の武器を著しく痛めつける。
岩をも砕く拳の威力を、事もなげに差し出された腕一本で完全に殺された。そればかりか、戦うために突き出した己の拳を弄ばれ、耐え難い苦痛を与えられている。一切の武装を封じ、拳一つで戦い抜くことに誇りと自信を持つライオーガにとっては、これ以上ない屈辱であった。
「ぬ、ぐぅ……がああぁぁぁぁッ!」
痛みに呻く間もなく右腕を捩じり上げられ、続けて腹に横一閃の蹴りを浴びせられる。分厚い腹筋を貫き、胃液を逆流させる著しい衝撃に悶え苦しみながら、ライオーガの体は垂直に吹き飛ばされた。倒壊した家屋の壁面に打ち付けた背が痛み、立ち上がろうと藻掻く身体が震える。
「話にならん。見せてみろ……貴様の真の力を」
西へと傾いた日差しを体側に煌々と浴びるキラーシャークの全身に、悪意に満ちた漆黒の闘気が揺らめく。その滾りを己の内に留め、決して解放しようとしない迂遠な戦いぶりに背筋をわななかせながらも、ライオーガはやっとの思いでその場に膝を突いた。
間違いない。奴は待っているのだ。宿敵が最大の力を繰り出すその時を。
これ以上ない最強の一撃を、真っ向から打ち破って倒すために。
「――いいだろう。炎のゴッドロットよ……我に力を!」
挑戦を受けるかのように、ライオーガはすっくと大地に立ち、天に掌をかざした。その堂々たる立ち姿を目掛けて、グロリア王国に散在した三つの立方体から眩い光の柱が立ち昇る。ヘッド・ボディ・ボトムの三つのパーツに分かたれた、陸種族の象徴たる超エネルギー体・炎のゴッドロット。かつてキラーシャークを一撃の元に打ち倒し、暗黒神デスコンドルとも渡り合った絶大なる力が、ライオーガの求めに応じて光臨する。
全身を焼き尽くすような熱波の中で、身に纏う鎧が変化を遂げ、より深い紅を宿した更に勇ましい姿へと刷新される。額に輝く王冠は、大国をただ一人背負って立つ勇者の証。全身に漲る超エネルギーによって増強された筋肉がはちきれんばかりに擦過音を立て、尽きせぬ闘志に燃える瞳はさらに光り輝く。迫る邪悪の瘴気に負けじと、灼熱の闘気を纏ったその姿こそ、炎のゴッドロットと合一した超獅子王――スーパーライオーガである。
「行くぞ、キラーシャーク!」
「来るがいい、ライオーガ。その力で、もう一度我を屠ってみせろ」
かつて己の命脈を断った因縁の相手を前にして、キラーシャークの心はこれ以上ないほど沸き立っていた。ついに、蘇った意味を得る瞬間が訪れた。己の生涯を終わらせた真紅の脅威を正面から打ち破り、悔恨と屈辱の全てを叩き返す――胸に巣食う無限の虚無を埋める、ただそのために。
「うおぉぉぉぉッ! ふんッ! でぇりゃあぁぁぁぁぁぁッ!」
どれほど力が増したといっても、ライオーガの戦術自体に一切変化はない。全身全霊を込めた拳を、一心不乱に敵に打ち付ける。搦手など考えない、混じり気なしの真っ向勝負。それ故に、単純な速度と威力の増強が脅威となる。一撃もらっただけで致命傷になり得る拳が、目にも止まらぬ速さで無数に飛んでくる。さしものキラーシャークといえど、先程までのように息も切らさずに捌けはしない。
「そうだ、それでいい……! 我に比肩する強者でなければ、甲斐がないッ!!」
「その驕りが敗北につながることを……教えてやるぞ、キラーシャーク!!」
数多閃く三叉の槍を左右に躱し、時に拳の背で弾きながら、ライオーガは昂るキラーシャーク目掛けて果敢に攻めかかる。誰も割り込めない、二人だけが知覚できる間合いで繰り広げられる神速の決戦。絶え間ない衝突の余波は周囲に衝撃の波紋を振り撒き、別次元の激闘はいつ果てるともなく続く。スーパーライオーガとメガロキラーシャーク、いずれもゴッドロットの力を得た者同士、その力は現状拮抗している。ほんの僅かでも隙が生まれた瞬間、勝負は決まる。
「はぁぁぁぁぁッ、うぉりゃぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
「ぐう……ッ」
そうして先に隙を晒したのは、キラーシャークであった。肩口を掠めた穂先がすり抜けた刹那、大鮫の懐に潜り込んだ獅子王の左腕が槍の柄をかち上げる。続けて繰り出された灼熱の右拳が、キラーシャークの顎に深々とめり込んだ。全身を襲う衝撃に打ち上げられ、ライオーガよりも一回り大きい身体が中空を舞う。
「どうだ、キラーシャーク! これが俺の……この国を想う、皆の力だ!」
千載一遇の好機を逃すまいと、ライオーガは胸の紋章にサイコエナジーの全てを結集させる。大気ごと渦を巻き、集まってゆく超火力の奔流。勇ましき雄獅子の姿を象り、轟々と燃え盛る必殺の一撃を、頭上に吹き飛ばされた邪悪なる大鮫に向けて撃ち放つ。
「バーニングゥゥッ! ダイナマイトォォォォォォォォッ!!」
それは、かつてキラーシャークを海の藻屑と化した一撃。王たる誇りと、その背に負う
民の願いと祈りの全てを込めた、スーパーライオーガ最大の奥義。邪悪を浄化するかの如く燃え盛る劫火が、身動きを封じられたキラーシャークに向けて殺到する。やがて天空に咲き乱れた爆炎の華に包まれ、大海賊王は再び灰燼に帰すかに思われた――が、しかし。
「――何ッ!?」
白煙の帳の向こうで揺らめく、紅の瞳。その身に漲る紫のサイコエナジーを障壁代わりに纏いながら、キラーシャークはライオーガの眼前に悠然と着地した。傷一つないその姿を見るにつけ、ライオーガの首筋を冷や汗が伝う。
「流石だ、と誉めてやろう。一度は我を葬った力、堪能させてもらった」
首を左右に捻りながら、一歩また一歩と迫り来る漆黒の大鮫。鎧が擦れ合うたびに上がる金属音が、破滅を告げる秒読みの如く鳴り渡り、ライオーガの胸に恐怖と焦燥を掻き立てる。
「だが……もういい。十分だ」
直後、獅子王の視界からキラーシャークの姿が消える。たった一歩で詰められるような距離ではなかったはず――と思索を巡らせても、時すでに遅し。気付けば、サイコエナジーの紋章を突き破り、腹に拳が突き刺さっていた。
「が、はァ……ッ」
鎧を貫く鋭い一撃が、ライオーガの臓腑を抉る。先程までとは比べ物にならない速度が、常人の頭蓋であれば跡形もなく消し飛ばすほどの破壊力へと転じ、獅子王の肉体に途方もない痛みを強いる。
先程までとは明らかに段階の異なる力。
まさか、手加減されていたとでもいうのか。
その事実に、今の今まで気付けなかったとでもいうのか。
「ここからは、我も本気を出させてもらおう」
驚愕する暇も与えられず、ライオーガの全身を三叉槍の乱舞が襲う。弾こうと腕を振りかざせばその隙に脇腹を斬り裂かれ、防ごうと脇を固めれば後ろに回り込まれて背を刺される。まして、動揺に鈍った身体では、更に加速する大鮫の動きを捉えきれるはずもない。手も足も出ないまま、裂傷ばかりが増えてゆく。
「ぐ、ぁッ、ふ、んぐぅッ! ぬ、あ、うぁぁぁぁぁッ!!」
「先程までの勢いはどうした、ライオーガ!? 我に一撃でも返してみせろ!」
ゴッドロットの力で強化された装甲を以てしても、目まぐるしい連撃を浴びせられては無事ではいられない。徐々にひび割れ、末端から砕けてゆく鎧の裂け目が毛皮越しに肌を抉り、また新しい傷を作る。
絶え間なく与えられ続ける苦痛と、最大戦力を持ち出してなお敵わない焦燥と無念が、ライオーガを心身両面から鋭く抉ってゆく。奴の言う通り、せめて一撃だけでも通せれば――逸る気持ちが、獅子王の一手を誤らせた。
「く、お……うおぉぉぉぉぉぉッ!」
がむしゃらに振り抜いた反撃の拳をかわされ、回り込まれた後ろから両腕を掴まれる。腕を思い切り引き絞られ、地に向けて弓なりになった身体に押し付けられたのは、土塊に汚れた冷たい靴底。ライオーガの脳裏に、一年前の記憶が過る。
「こ、これは……」
それは先のデスハート団との戦い、牙城砦における緒戦の一幕。先だってのゴールダーとの対決で消耗していたとはいえ、キラーシャークを相手に苦杯を舐めたイオーガは、ちょうど今と同じような姿勢で背を踏み抜かれ、両腕を脱臼させられて無様な敗北を喫した。それも、王国軍の同志たちが見守る眼前で。
キラーシャークを倒し、もう二度と相対することはないと思われた苦い記憶が、同じ体勢を取らされたことで否応なしに蘇ってくる。忘却の淵から不意に浮かび上がるのは、あの日与えられた痛みと屈辱。
「懐かしいな。だが――今度は、腕を抜くだけでは済まさん」
低く囁く声に告げられて、ライオーガは本能的に予感した。これから与えられるのは、そんな記憶など比べ物にならないほどの絶望なのだと。
「ぐ、ぁ……あ、あぁ……ッ!」
あらぬ方向に捻じ曲げられてゆく肘が、ぎりぎりと軋む。脳天へ突き抜ける痛みは痺れにも似て、断続的に与えられる電流が中枢神経を狂わせる。宙を掻くように指を蠢かせても、握り潰された手首からキラーシャークの手が外れることはない。むしろその哀れな足掻きが、かえって大海賊王の嗜虐を煽り立てる。
「ん、ぃ、ぎぃ……ぁ、あぁ、うあぁぁぁ……ッ」
肘にかかる力がじわじわと強まる度に、堪えられない悲鳴が牙をすり抜けて口を這い出る。断末魔のような音を上げながら可動域を外れていく肘。ますます強まり舌の根を突く無尽蔵の痛み。そして、汚れた靴底を幾度も押し付けられる屈辱――その全てがライオーガを徹底的に貶め、袋小路へと追い詰めてゆく。身動ぎ一つ取れぬまま、ただその時を待つばかりの無力な躰。毛皮の奥に噴き出る汗が体中の傷に沁み込み、更なる苦痛に獅子王の顔面が歪む。
あと一寸、もう一寸。両腕に籠める力を小刻みに強めながら、キラーシャークは邪悪な笑みを深める。皆目の前で腕を引き抜いてやった時とは比べ物にならぬ愉悦と快楽が、背骨を駆け上がって脳髄を浸し、大鮫の欲望をこれ見よがしに刺激する。
そして、ライオーガが恐れ、キラーシャークが待ち侘びた一瞬がやってくる。
「――――ぐおぉ、あ……あぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
可動域を九十度外れた肘が、おぞましい音を立てて圧し折れる。時を同じくして、脳髄を直接突き刺すような激痛が駆け抜け、獅子王の喉を絶叫に震わせる。度重なる命がけの戦いに磨き抜かれた精神力さえ容易く毀損する、想像を絶する痛み。到底受容しきれるはずもない刺激に白目を剥いて、ライオーガは膝からその場に崩れ落ちた。
「う、あ、あぁ……」
真っ青に変色した肘に、最早感覚は通っていない。自らの頼る唯一の武器たる拳を奪われ、指一本さえ動かせない中、獅子王の口から声にならない声が零れ落ちる。
拳を失ったライオーガなど、翼を千切られた鳥のようなもの。最早戦いの趨勢は決し、決着はついたも同然となった。
ならば、これから繰り広げられるのは、一方的な蹂躙でしかない。
「この程度で倒れてもらっては困る」
まだ終わらせない、と残酷な宣告を声に紡ぎながら、キラーシャークは今にも倒れんとするライオーガの鬣を無造作に掴み上げた。薄汚れた緑の毛並みを引き千切らんばかりに持ち上げて、力なくぶら下がる体を無理矢理引き起こす。吊り上げられるままに地面を彷徨う足先を目掛け、槍の穂先を思い切り突き込んでやれば、割れんばかりの咆哮が戦場に響き渡る。
「ぐぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
「まだまだ嬲り足りんのでな――付き合ってもらうぞ、陸の王」
その一言を合図にして、流星の如く降り注ぐ拳の雨が獅子王の全身を隈なく襲う。頬を抉る鋭い拳撃に唇は切れ、鉄の味に浸された舌先が痺れる。すでに見る影なく崩れた全身の鎧にも、無慈悲な追い打ちが畳みかけられ、肩鎧や腕鎧が砕け散って脱落してゆく。
「ふはははははははは! いいぞ、一撃ごとに血が滾る!」
「う、く、ぁ……ぐっ、うぅ……ッ、はぁッ! が、あぁ、あぅ、ああ……ッ」
肘から折られた腕は使い物にならず、地に縫い留められた右足は出血に疼く。残された左足にもすでに力はなく、ライオーガは反撃もままならずにひたすらに拳の乱舞を浴びる。キラーシャークの瞳が狂喜にますます輝きを強める中、ライオーガの双眸に宿る光は次第に弱まり、漏れる苦悶も徐々に小さくなってゆく。
「一度は我を殺した貴様が、我が拳を甘んじて受ける! これに勝る愉しみはない!!」
「ぐ、お、ぉ……お、ぁ……あぁ……ッ、はぁ…………ッ」
止まない殴打に身体が揺れる度、右足に突き刺さった槍と肉の間に生じた間隙が四方に振れ、じくじくと責め苛むような痛みが込み上げる。度重なる暴力に腫れ上がった表皮には、ほんの僅かな空気の流れさえ高温の熱波のように感じられ、もう何度殴りつけられたかもわからない目の周りには青い痣が浮かび上がる。誰が見ても、大国を率いる王の成れの果てとは思えないようなみすぼらしい姿。弱まった呼吸の間隔が、少しずつ広くなってゆく。
「大丈夫か、ライオーガ……ッ!?」
「ち……父上ぇッ!!」
そんな中、耳介に染み渡る驚愕の声。ライナスとエレドラムを避難させ、漸く戦場に舞い戻ったビッグセロウとオーガに向けて、ライオーガは辛うじて動く首を向けた。
「く、来るな……こい、つは……危険、すぎる……ッ」
力の限り叫んだつもりが、嗄れ果てた喉から溢れるのは途切れ途切れの微かな声だけ。その声さえも、間髪入れずに怒鳴りつける大鮫の拳に掻き消される。
「余所見をするなァッ!!」
「ごふぅ……ッ!?」
口端から滴る血が、ライオーガの胸元に零れる。勇ましい獅子頭の紋章を穢し、荒れ果てた大地へ垂れ落ちてゆく紅い雫。もうとっくに死んでいてもおかしくない量の血液を垂れ流してなお、ライオーガは意識を失うことなく立ち尽くしていた。それが、彼に宿ったゴッドロットの力による自然治癒力の向上による超回復の賜物であることを、彼自身は知る由もない。しかし、その回復能力こそが、かえってキラーシャークの残虐な戯れを長続きさせる手助けとなってしまったことは、何たる皮肉であろうか。
「――そろそろ飽いたな。この辺りで仕舞いにするか」
足を刺し貫いていた槍を何気なく引き抜いて、キラーシャークはくずおれたライオーガの肢体をその場に蹴り転がした。結果は見ての通りとはいえ、一時は仇敵とつけ狙った相手である。曲がりなりにも敬意を表すのなら、最後はどう壊してやろうか――としばし思索に浸る大鮫の耳に、微かに伝う弱々しい声が一つ。
「お、俺……おれ、は……」
「……ん?」
振り返れば、倒れ伏していたはずのライオーガが、その場に立ち上がらんと懸命に藻掻いている。両腕を地に突くこともできず、傷だらけの足にもすでに立ち上がる活力は残されていないはずだった。それでも、全身から立ち昇る炎のような闘気は決して消えない。
「俺は……負け、ない……貴様のような奴には――――絶対に、負けは、しない……ッ」
己の血で紅に染まった身体をなおも立ち上がらせるのは、炎のゴッドロットの力だけではない。王として、戦士として、決して違えるわけにはいかない不朽の誓い。幼い頃から胸に焼き付けられた、王たる者としての使命――正義が、今のライオーガを支えている。
「この、国を……民を……ッ……皆を、守る、ために……ッ!!」
へし折られた下腕を無理矢理土に押し付けて、なおも立ち上がる勇気の化身。ゴッドロットから湧き上がる力で傷を徐々に癒しながら、決して光を失わないその眼。その身体から立ち昇る炎に、一度死んだあの日の面影を見て、キラーシャークの胸は躍った。
「――ふふふ……ははは……ふっはっはっはっはっはっはっはっは……!!」」
こらえられない哄笑が、大きく裂けた口から溢れ出す。荒野と化した戦場に、その奥で今まさに蹂躙されている首都プログレスに、そしてグロリア王国全体にさえ響くほどの声量で鳴り渡る、愉悦の独唱。それは、絶望に満ちた終焉の時を告げる鐘の音。
「そうだ、その目だ。どれほど痛めつけても、怯まず我を睨みつけるその目……!」
見つめる度に嗜虐を煽る、曇りなき眼。いかなる暴力にも決して屈服せず、胸に宿る愛だの正義だのといったくだらない感情に因って立ち上がる、あの美しい瞳。
あの瞳を曇らせたい。あの瞳を穢したい。
――曇りなき眼だからこそ、穢れない瞳だからこそ、壊してしまいたい。
「そういう目をした貴様だからこそッ! 徹底的に嬲る甲斐があるというものォッ!!」
昂る感情の全てを込めて、キラーシャークは胸の紋章からサイコエナジーの立方体を発生させる。幾筋も宙を奔る紫の稲妻に打たれ、弾けるように割れた立方体の内奥から、キラーシャークの巨体をも覆い隠すほどの巨大な波壁が姿を現す。まるで、全てを押し流す大津波のように。
「デヴァステーティング……タイドォォォォォォォォッ!!」
撃ち放たれたサイコエナジーの奔流が、ライオーガを真っ向から呑み込む。その圧力に抗えるはずもなく、獅子王の体は容易く宙を舞い、遥か後方へと吹き飛ばされてゆく。
「う、ぐ……ぬあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
全身に殺到し喰らい付く鮫の幻影が、辛うじて残っていた胴鎧さえも跡形もなく吹き飛ばす。頭頂から爪先に至るまで、体中を痛覚で包む壊滅の大潮。毒々しい紫の稲妻を纏ったその奔流が止んだ時、王の敗北は確定した。
「ライオーガ!」
「父上ぇぇぇッ!!」
ビッグセロウとオーガの悲痛な叫びが、大海嘯に覆われた戦場に響く。一拍を置き、舞い上げられた土埃が晴れた向こう側には、瓦礫の跡すら残らない更地が広がっていた。キラーシャークの正面、溢れ出したサイコエナジーに包まれた地点だけが、まるでそこだけを切り取ったかのように平らげられている。
生命の痕跡が消え果てた、真っ白な道の向こう。かつては鐘楼であったと思しき小高い塔の中心に、獅子王だったものは四肢を広げて埋め込まれていた。まるで、磔にされた罪人のように。
「――――――う…………ぁ……………」
その身を守っていた勇ましい真紅の鎧は、最早一欠片たりとて残ってはいない。額に掲げた王冠も砕け散り、胸に浮かんだサイコエナジーの紋章も跡形もなく消え果てている。野の獣と変わらぬ、ビーストにあるまじき裸体を晒し、襤褸布と化した褌が秘所を守るだけの、無様で哀れな姿。許容量を超えた激痛に白目を剥き、全身を痙攣させながら微かな息を漏らす敗北者。その身に刻まれた無数の裂傷に滴る血が、夕陽に照らされて惨たらしく輝いている。
「…………そん、な」
「う、嘘だ……父上ぇ……」
ロングジラフには、とても信じられなかった。
オーガは、決して信じたくなかった。
あらゆる窮地に膝を折ることなく、今日まで戦い抜いてきた竹馬の友が。
いかなる時も快活に笑い、進むべき道を示してくれた我が父が。
――これほど完膚なきまでに、叩きのめされるなどとは。
「さぁ、次の相手はどいつだ。誰が我を楽しませてくれる?」
名乗り出ることなど、できるはずがなかった。誰もが認めるグロリア王国の頂点、統治者としてのみならず戦士としても頂点に立つ雄が敗れた今、あの暴力の化身に敵う者など存在するはずがない。立ち上がる勇気も、とっくに折れている。
「――つまらん。やはり、我に愉悦をもたらすのはライオーガ。貴様だけか」
舌を鳴らして心底不愉快そうに吐き捨てると、キラーシャークは鐘楼へ向けて身を躍らせた。壁面に埋まり切ったライオーガの腕を無造作に掴むと、脱力しきった無骨な肉体を強引に引きずり出す。乱れた緑の鬣が、無慈悲に吹き荒ぶ風に虚しく揺れる。
「ま……待て……ッ!」
「ち、父上を……父上をどうするつもりだ!?」
「答えてやる義理はない。拾った玩具をどう使おうが、我の勝手だ」
生死さえ定かでない獅子王の肢体を小脇に抱え、キラーシャークは悠然と歩み出す。穂先まで震える槍を、それでも構えたビッグセロウが去りゆく背に追い縋ろうとしたその時、後方から破裂の轟音が響き渡った。
振り返る先にあるのは、首都プログレスの最奥に位置するグロリア宮殿。最終防衛線が後退の一途を辿る中、戦火を逃れたプログレスの民の避難場所ともなっていた最後の砦。白くたなびく噴煙は、宮殿の守りまでもがついに陥落したことを如実に示していた。
「まずい、宮殿が……!」
「くそお……っ! キラーシャーク! 父上を……父上を、返せぇぇぇぇッ!!」
声の限りに張り上げた絶叫が、虚しく響き渡る。
「よせ、オーガ! 今は民の安全が最優先だ!」
「放せ……ッ! 父上が……ッ、父上ぇぇッ!」
制止するビッグセロウの腕もまた、悔恨と屈辱に震えている。それをわかっていてなお、オーガは叫ばずにいられなかった。叫ぶことしかできなかった。声を張り上げなければ、心に圧し掛かる絶望に、今にも押し潰されてしまいそうだった。
「父上ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
夕焼けに沈む瓦礫の町に、若獅子の絶叫だけが響く。
それは、グロリア王国の完全敗北を認める宣言に他ならなかった。
※
篝火の灯だけが照らす、薄暗い天幕の中。粗末な布の上に寝かされた怪我人の間を、黒豹のビースト――レパーミントが懸命に動き回る。熱に呻く少年のタオルを絞り、深い裂傷を負った兵士の血が滲む包帯を取り換え、今にも事切れそうな老爺の手を握る。
医療従事者が何人残っているのかさえ定かではないこの臨時救護室で、彼女は八面六臂の活躍をしていた。自らの身を顧みることもないまま、次々に担ぎ込まれてくる患者を迷わず受け入れ、出来得る限りの手当てを施す。看護服に汗をにじませ、ふらつく額を押さえて、それでもなお職務を全うしようとするその肩を、優しい掌が力強く握った。
「少し休め、レパーミント」
「へ、平気です。これくらい……」
駆け付けた老医師――ワンダーリバーの制止を振り切って、レパーミントはなおも命の最前線へ戻ろうとする。だが、その覚束ない足取りは、彼女の限界を如実に示していた。
「お前さんが倒れてしまったら、誰が皆を救うんじゃ。休めるときに休んでおけ」
「でも……」
「街が壊されても、土地を奪われても、命さえあれば必ずやり直せる。グロリア王国の存亡は、今まさにわしらの肩にかかっておるのじゃ」
なおも言い淀むレパーミントの両肩を正面から掴んで、ワンダーリバーは強く言い聞かせた。野戦病院で医療従事者が倒れれば、その者が救えたはずの命まで巻き添えになる。国の要といえる首都を失い、奪還の目途も立たない今、守れるものは人命だけ。長毛の奥で鋭く光る老練な瞳に射竦められて、レパーミントは思わず耳を立てた。
「より多くの人を助けるためじゃ。聞き入れてくれるな、レパーミント」
「……わかり、ました。すぐ戻ります」
天幕を出るレパーミントを見送って、ワンダーリバーは張り詰めた息を大きく吹いた。かく言うワンダーリバー自身も、今にも倒れそうな身体を懸命に動かしている身である。診察室代わりの仕切りを潜りながら、霞む目許を押さえ、誰にともなく静かに呟く。
「――いかんな。わしも、しっかりせねば」
あと一人、いや二人だけは診察してから休もうと心に決めて、老医師はカーテンの内側に患者を受け入れる。苦しみ呻く声が絶えない限り、彼らの戦いは果てしなく続く。
遠くプログレスを焼く炎の残照が、宵闇を切り裂いて天幕を照らす。残酷なまでに優しい月明かりの下、夜はまだ明けない。
※
「見ておられん……我らがプログレスの都が、あんな有様に……」
遠くに揺らめく首都壊滅の大火を眺め、グロリア王国内務大臣・マインドリールは深い悲しみに溜息をついた。それぞれの苦闘から逃れ、やっとの思いで逃げ込んだ小さな砦。ビッグセロウ参謀長の指揮の下、臨時の前線基地として整えられた木造の城壁の中で、グロリア王国軍の生き残りたちが今後の方針を策定するために集合している。
しかし、彼我の絶望的な戦力差に加え、国家元首たるライオーガ王を略取された状態でまともな策など練れるはずもない。加えて、負傷した市民を多数抱えた野戦病院も併設され、そちらの運営にも多くの人員を割いている。戦闘要員も負傷者がほとんどの今、疲れ果てた身体を癒すこと以外にできることなど、そう多くはなかった。
「参謀長。サワーレイクシティへの避難民の移送が完了したぜよ」
「ご苦労。避難民の総数は」
「オラのトンネルで逃がせた人数が、全市民のおよそ三割。他の手段で逃げおおせた避難民も合わせて――六割っちゅうとこぜよ」
「そうか……」
ランドモグールからの報告を受け、ビッグセロウは表情を曇らせた。報告に基づくならば、残る四割の市民は燃え盛る首都に残されているか、あるいはすでにこの世にはいないということである。守れなかったものの大きさと重さを思い、たまらず俯きそうになる己を懸命に鼓舞して、ビッグセロウは周囲に号令をかける。
「グロリア緊急事態条項第十二条に基づき、サワーレイクシティを臨時首都とする。前線基地は明朝を目途に解体。我々もサワーレイクシティへ向かう」
グロリア王国第二の大都市と謳われる水の都、サワーレイクシティ。美しい湖と自然に囲まれ、名家の邸宅が立ち並ぶ風光明媚な街並みを戦禍に巻き込むのは忍びないが、プログレスに代わる拠点がなければ国家の運営すらままならない。埃をかぶった条文を引っ張り出してでも、ビッグセロウは第二首都への迅速な都市機能移転を優先した。
「ライナス総司令官、残存兵力をサワーレイクシティへ集結させてください。敵がプログレスを落としただけで満足するはずはありません」
「無論、すでに伝令を走らせている。残された民を、何としても死守せねば……」
片腕を吊り、額に包帯を巻いた痛々しい姿のまま、ライナスは深く頷いた。数多くの兵が死傷し、総崩れといっても過言ではない現状でも、守るべき民がいる限り戦い続けるのが軍人の務めである。自分を庇って重傷を負い、未だ死の淵を彷徨う親友に報いるためにも、ライナスは命ある限り戦う決意を再び胸に固めていた。
だが、この場に立つ誰もが皆、彼のように強く在り続けられるわけではない。
「オーガ、出立の準備を」
知己のゼブラックスに声をかけられても、若獅子は応じない。肩を落とし、深く項垂れたまま、微動だにせずその場に佇んでいる。
「……どうした、オーガ」
「無駄だよ……何をやったって」
『無駄』。
吐き捨てられたその二文字に、一同の表情が凍り付く。
「――何……?」
「全部無駄だって、そう言ったんだよ……!」
尻尾を振り乱して、オーガは癇癪を起した子供のように叫んだ。とめどなく溢れる感情の奔流が、普段の彼ならば決して口にしない諦観に満ちた言葉を羅列させる。
「あの父上が勝てなかった相手に、どうやって勝てるっていうんだ? ゼブラックスも、エレドラムも、ライナスだって……あいつに傷一つ付けられなかったじゃないか!」
ゴールダーの反乱、デスハート団の襲撃、そして暗黒神デスコンドルとの決戦――幾度となく襲い掛かってきた危難の全てを、その拳一つで討ち払ってきた父の背中は、オーガにとって目指すべき道標であり、強さの象徴そのものであった。その父が、完膚なきまでに叩きのめされ、文字通りすべてを失って敗れ去った光景は、若獅子の心に深い絶望を植え付けてしまっていた。
父ですら勝てない相手に、誰が敵う道理があるのか。考えれば考えるほど答えは遠ざかり、無力さばかりが目に付いて離れない。
「みんな尻尾を巻いて逃げることしかできなかったんだ。俺だって……」
そして何よりも、自分自身の無力こそが、オーガを深く苛んでいた。強く握り締めた拳に爪が食い込み、滲んだ血の熱さに咽ぶ。
「もうどうにもならないんだ。プログレスには二度と帰れないよ……」
近くの梁に背をもたれて、オーガはゆっくりとその場に腰を下ろした。それは、全てを投げ出し低きに流れる逃避の姿勢。オーガの胸に植え付けられた諦念は決して彼一人のものではなく、この場に逃げ延びた誰の胸にも大小問わず宿った偽らざる本音であった。故に、それを咎められる者は誰一人としていなかった――ただ一人、込み上げる怒りに顔を真っ赤に染めた老爺を除いて。
「戯言を抜かすな、小童ァ!!」
雷鳴のような檄が飛ぶや否や、オーガの頬を長指の平手が張り飛ばす。前線を離れて久しい老いたるビーストのそれとは思えない鋭い掌撃に、オーガは呆然と口を開いた。
「ま……マインドリール……」
集まった誰もが予想だにしなかった展開。痛撃に赤く染まった頬に手を添えながら、驚愕に目を見開くオーガに、マインドリールは続けて怒号を飛ばした。
「皆の……グロリアの民の前でそんな腑抜けたことを一言でも抜かしてみるがよい。その瞬間、貴様の脳天をサイコロットでぶち抜いてやるわ!」
王に仕える者としては、あまりにも過激な発言。しかし、その主旨は正鵠を射抜き、腐りつつあったオーガの心にも深く染み渡る。
「ライオーガ王が敗れ、王都を奪われた今、民の縋るよすがは殿下ただお一人。その殿下が、斯様な弱気で一体どうされるおつもりか!?」
「……それは……ッ」
人々を率い、導く者として君臨する王には、不安を表に出さず、毅然とした態度を示し続ける義務がある。もし王がほんの僅かでも不安を外に漏らせば、その不安は民から民へと広がり、いずれ大きな混乱となって世を揺るがすことになる。将来のために日々学ぶ身ならば、知らぬはずがない帝王学の初歩。一時の感情に流されて、そんな当たり前のことさえ忘れてしまう己の愚かさに、若獅子は思わず言い淀む。
「内務大臣のおっしゃる通りだ、オーガ」
「ゼブラックス……」
高速機動軍の隊長補佐として、オーガを支え続けてきた縞馬の凛とした声が、オーガを更に強く現実へと引き戻す。
「お前が挫けたところで、事態は何も好転しない。こうしている間にも、多くの同胞が、育ってきた土地が、奴らの暴虐に晒されている」
思い浮かぶのは、遠く砦の向こう側に広がった地獄絵図。夜をも明るく照らすあの炎の下で、今も民が傷つき死んでゆく――決して目を逸らしてはいけない、現在進行形の悲劇。彼らのことを思うのなら、膝を抱えている暇などない。まして、父が不在の今、弱気に浸って負けたつもりになっている余裕など、断じてあってはならないのだ。
「もし、ライオーガ王が今のお前と同じ状況に立たされたら……諦めると思うか?」
「――諦めない。父上なら、どんな時でも最後まで諦めない」
不安に震えながらも絞り出した声を携えて、オーガは再び立ち上がった。いついかなる時も前を向き、共に支え合う仲間を信じて戦い抜いてきた父の志を胸に懐くと、枯れ果てたかに思われた勇気が心の奥底から再び湧き上がってくる。
「王国軍は壊滅状態、占拠されたプログレスには未だに多くの国民が取り残されている。加えてライオーガ王は瀕死のまま消息不明……正直、最悪の状況だ」
まとわりつく絶望の誘惑を振り切ったオーガの凛々しい表情に、真っ先に強く頷いたのはビッグセロウだった。飾らない現実を赤裸々に語りながらも、その瞳には確かな希望の輝きが宿っている。
「だが、我々は決して挫けてはならない。たとえ今は、何の方策も見出せないのだとしても……諦めずに――」
たとえ今すぐに打開策が見つからないのだとしても、せめて皆の闘志だけは折れぬように。祈りと願いを込めた不確かな決意を、言葉を選びながらも述べようとしたその時、誰かがビッグセロウの言葉尻を捕らえてこう述べた。
「諦めずにどうするつもりだ、ビッグセロウ」
明らかに輪の中から発せられたものではない異質な声色に、誰もが幕舎の入り口を振り返った。驚きに見開いた瞼の向こうに立つ影は、濃紺の鎧を纏った白虎。
「……ゴールダー!」
「久しぶりだな。俺がいない間に随分手酷くやられたそうじゃないか」
かつてグロリア王国に併合された祖国・ベンガ国の再興を狙い、王国軍の内部から反乱を企てた東方軍司令官――ゴールダー。ライオーガとの戦いの末に、炎のゴッドロットに呑まれて焼死したはずの彼は、空種族の国・ソアラ聖国で白虎の姿となって蘇り、現在はかつての東方軍の仲間たちを引き連れて新たなベンガ国となる領土を探す旅に出ているはずであった。
「……認めたくないものだな。あんな惨めな焼け野原が、我が祖国を呑み干した大国・グロリアの末路とは」
東方軍の部下四人を引き連れて、ゴールダーは幕舎の奥へと足を踏み入れる。苦虫を噛み潰したような表情で溢した一言には、一度弓を引いてなお拭い去れないグロリアへの深い愛着が滲み出ている。
「グロリアはまだ滅びたわけではない! プログレスは、必ず我々が奪還してみせる!」
「傷だらけのお前たちに、いったい何ができる」
「……それは……」
食って掛かるライナスの勢いを軽くいなしつつ、ゴールダーは淡々と言い放つ。現状の惨憺たる有様を詰られたのでは返す言葉もなく、ライナスの巨体が心なしか縮む。
「まさか、我々をあざ笑いに来ただけではないだろう。本題を話せ、ゴールダー」
「ふん……いいだろう」
悔恨に歯噛みする総司令官に助け船を出すように、ビッグセロウはかつての学友に真意を問い質す。あくまで強硬な態度を崩さない大角の鹿に鼻を鳴らしながらも、ゴールダーは皆の前に歩み出て講釈を始めた。
「どれほど強くなったとしても、キラーシャークごときにライオーガが敗れるはずはない。奴に分不相応な力を与えているのは――ゴッドロットだ」
「しかし、ゴッドロットはいずれも奴らの手には渡っていないはず……」
「三種のゴッドロットは、な」
持って回った言い回しに、一拍を置いてマインドリールが反応を示す。
「――まさか、古のゴッドロットか?」
「そのまさかだ、老いぼれ」
突然の侮蔑に眉を吊り上げる老猿と白虎の間に火花が散る中、ゴールダーの部下たちの中から一際毛並みのよい白猫が歩み出る。常に芝居がかった口調で話し、何よりも己の美的価値観を優先する変人・シアンビである。
「ベンガ国再興のため、未踏の地を巡った我々は、その過程で古代ビースト文明の遺跡を発見しました。この私の美貌にも匹敵する、大変美しい遺跡でした……」
「遺跡の美しさはどうでもいいんだよッ!!」
己に酔い痴れるように恍惚と語るシアンビの独壇場に、ムササビの密偵・モーガンの喧しい指摘が割って入る。そのまま美しさの要否について口論を始める二人を差し置いて、鋼鉄の鎧に身を包んだ小熊猫のビースト・パドレッサーが細々と述べる。
「その遺跡で……ボクたちは見たんだ。古のゴッドロット……その実在を示す証拠を」
一同を騒然とさせる、信じがたい事実。かつて現存する三種のゴッドロットとは別に、『古のゴッドロット』と称される四種のゴッドロットが存在していたという伝承は、陸海空を問わずビースト星に生きる者なら誰もが知るところであった。だが、伝承の通りであれば、古のゴッドロットが『実在している』はずはない。
「馬鹿な……! 古のゴッドロットは、古代ビースト文明時代に失われたはず……!」
「オイラたちも信じられなかったんだけどさぁ、掘ったら掘っただけ壁画だの碑石だのどしどし出てきちゃって。信じるほかないよねぇ」
いやに馴れ馴れしい口調の大熊猫・ジャンジャンの口ぶりからはにわかに信じがたいが、仮にこれが偽りであったとして、このような大法螺を五人がかりで堂々と吹聴する意図が見えてこない。顎に手を当てて思索するビッグセロウをよそに、ゴールダーはなおも語りを続ける。
「そして、パドレッサーによる解析の結果、俺たちは全てを知った。古のゴッドロットは、失われたのではなく……意図的に隠されていたのだ」
「この世を司る、四大元素――炎・水・風・土。加えて、すべてを包む闇と、すべてを照らす光。そして、星をつなぎとめる大いなるもの。それが……七つのゴッドロット」
パドレッサーが鎧の腕部から照射した光の中に、七組のゴッドロットの姿が映し出される。ヘッド・ボディ・ボトムの三つのパーツに分かれ、それぞれ陸海空にて管理されるゴッドロット三種と、この星のどこかに隠された『古のゴッドロット』四種。急速に紐解かれてゆく歴史の謎と神秘に、一同は思わず息を呑む。
「暗黒の闇を司るゴッドロットは、失われた大陸もろとも、ストレージ海の海溝に沈められたという。奴らはそれを入手し、キラーシャークの蘇生に用いたのだろう」
「闇の……ゴッドロット……」
その名を聞いたライナスの脳裏に、親友を瀕死に追いやったキラーシャークのサイコロットが放つ禍々しい紫の光が過る。あれは光などではなく、全てを呑み込む闇そのものだった――そう思い起こすだけで、背筋を戦慄が走り抜ける。
「だけど、父上だって炎のゴッドロットの力を全開にして戦ったんだ! それで勝てないなんて、どうして……」
「碑文によると、光と闇のゴッドロットは、他のゴッドロットとは格が違うらしい。現存する三種のゴッドロットとの間に、果たしてどれだけの力の隔たりがあるものか……」
「つまり、キラーシャークを倒すには……」
「光のゴッドロットを手に入れるしかない、ということだ」
示された、たった一つの対抗策。三種だけでも手に余る神の力、その更に上に在る力に手を伸ばす、禁忌の道。その意味するところに思い至らぬ者などいるはずもなく、一同の間に押しなべて沈黙が広がる。細く、険しく、今にも崩れ去りそうな危うい一本橋。足を踏み入れるべきか否か、声にならないどよめきが広がる中で、ゴールダーは明朗に言い放った。
「光のゴッドロットの在処は俺たちが握っている。これがどういう意味かわかるか」
「――何が望みだ、ゴールダー」
何せ、相手は国家転覆を企んだ反逆者である。大きすぎる交換条件を突きつけられれば、ビッグセロウが怪訝そうに身構えるのも無理からぬ話であった。しかし、ほくそ笑むゴールダーが提案したのは、思いの外ささやかな望みであった。
「いずれ俺たちが建国する新生ベンガ国に、一切干渉しないこと。要求はそれだけだ」
「……そ、それだけでよいのか?」
狼狽するマインドリールの前に、東方軍の面々がすかさず割り込む。口々に言い放つのは、それぞれの胸に抱く祖国再興への熱い想い。
「まさかグロリアの国土を要求するとでも思ったかぁ? 信用ないなぁ、オイラたち」
「俺たちは俺たちだけの国を作るんだよ! お前らの土地なんていらねえっての!」
「弱みに付け込んで領土を奪うなど、美しくありません」
「ボクたちは、もう二度と奪われない、平和な国を作れれば……それでいい……」
平和なグロリアに暮らしながらも、ベンガ国の末裔としてどこか疎外感を抱き続けてきた者たち。ゴールダーが野望の果てに命を落とし、転生を果たした今となっても、自分たちの新たな拠り所となる新たなベンガ国を夢見る志に変わりはない。四者四様の瞳の輝きが、今まさに祖国を失おうとしているグロリアの戦士たちの胸に小さな灯を点す。
「そういうわけだ。もし貴様らが、光のゴッドロットを求めるというのであれば……俺たちが力を貸そう」
部下たちの決意表明に深く頷きながら、ゴールダーは改めて提案を述べた。予想だにしなかった申し出を受け、静まり返っていた面々の間に再びどよめきが広がる。
「さあ、どうする。このまま奴らの鰭に踏み潰されて、無様に地べたを這いずり回るか。それとも、俺たちと共に僅かな望みに全てを懸けるか」
振り上げた両腕を高く掲げ、ゴールダーはなおも続ける。挑発とも鼓舞とも取れる口ぶりは、この場でたった一人、国の行く末を決めることのできる雄に向けて放たれていた。
「決めるのはお前だ、オーガ」
王族の血を継ぎ、偉大な父の背を追って走り続けてきた若獅子。深く瞑目したまま押し黙る彼に、一同の視線が集中する。
答えが出るまでに、そう時間はかからなかった。
「――光のゴッドロットを探しに行こう」
「殿下……!」
喜びと不安の入り混じったマインドリールの一声に見送られて、オーガは輪の中央に歩み出た。疲労に丸まった背を伸ばし、大きく胸を張って、力強く前を見据える。
「今俺たちに必要なのは、誰もが信じられる希望だ。たとえ、それがどんなに不確かでも――俺はその希望を、この国のみんなに示したい」
グロリア王国に生きる誰もが、明日をも知れぬ不安に苦しむ今こそ、今日を生き抜くために信じられるよりよい未来を示す。王たる者の責務に目覚めた瞳が、より一層強い輝きを放つ。
「ゼブラックス、俺と一緒に来てほしい。ゼブラックスの力が必要なんだ」
「ああ。お前が言い出さなくても、そうするつもりだったさ」
今日までも、これからも、未熟な自分の歩みを傍で支えてくれる最良のパートナー。これからいかなる困難が待ち構えていようとも、ゼブラックスがいれば恐れることはない。溢れる友誼と信頼を込めて差し出した右手を、白黒の縞に飾られた手が力強く握った。
「ビッグセロウ、マインドリール、ライナス……みんな、国の守りを頼んだよ」
「任せろ。あいつの――ライオーガ王の国を、これ以上好き勝手にはさせない。絶対に」
決意を込めて頷く参謀長の、力強くも温かい眼差しを餞に受け取って、オーガは小さな荷物一つを抱えて歩き始めた。その道行を導くのは、かつて父と刃を交えた反逆の徒と、それに付き従う奇妙な戦士たち。
「事態は一刻を争う。行くぞ」
数奇な運命に導かれ、今ここに光のゴッドロットを求める長い旅が始まる。
少しずつ白み始めた東の空に昇る朝陽が、その旅路を祝福するように照り輝いていた。
※
「……ぁ……ぅ……あ……うぁ、あ…………あぁ……」
旧デスハート団アジト・デッドロック。廃船の残骸をそのまま拠点とした海底の伏魔殿に、くぐもった呻き声が響く。その声の主は、キラーシャークによって『戦利品』として連れ去られ、壁飾りの代わりに磔にされたライオーガである。
未だその身に流れ込み続ける炎のゴッドロットの力は、ライオーガに安直な死への逃走を許しはしない。どれほど肉を抉られ、血を流し尽くしても決して死なず、意識を失うことさえ叶わないライオーガは、永劫の痛みと苦しみの中で呻き声を上げ続ける。
その傍らで、メガロキラーシャークはその呻きを極上の調べとして楽しみながら、更なる侵攻の構想を練る。傍に侍るシーレンスとサーモマンサーも加わり、ますます盛り上がる邪悪な企てを遠くに聞きながら、ライオーガは静かに瞼を閉じた。永久に訪れぬ眠りに代えて、遠く彼方で今も戦っているであろう仲間たちと、愛する民の無事を祈りながら。
オーガとゴールダーが光のゴッドロットを手に入れ、闇のゴッドロットに魅入られしキラーシャークを倒さんと立ち上がるその日まで、ライオーガの苦悶に満ちた日々は続く。
新たな戦いは、まだ始まったばかり。
ビースト星に平和が戻るのは、果たしていつの日か。