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陛下は今日も団長の腹で眠ります。~学園編~

  [chapter:第一章 腹と王子と、学びの初日]

  王立修学園・南館第三教室。

  騎士科の基礎講義が始まってまもなく、3年のオルドはひそかにため息を吐いていた。

  ……なあにが、「これからの王国を担う精鋭の集い」だ。

  教壇では初老の講師が、戦列槍の構え方について小難しい歴史を語っている。だが、聞く者の目線はまばらで、貴族も平民も等しく舟を漕ぎかけている。

  オルドは教室の隅、壁際の席に座っていた。生徒の中では大柄な体格で、座るだけで椅子がきしむ。自覚はある。だからこそ、他人に迷惑をかけぬよう隅を選んだ。

  だが隣の席――王子殿下がいるとは、知らなかった。

  「……う、む……静かに……」

  くぐもった声がしたと思うと、隣からずりっという音。

  オルドは視線をそちらに向けると、そこに――頭から腹へダイブする王子の姿があった。

  「うおっ――!? ちょ、待っ、殿下!?」

  ばふん。

  それは重力のいたずらではなかった。意志だった。確実に、王子レオナール・グランフォード殿下は、自らの意思で猪獣人の腹へ頭を沈めたのだ。

  「……うむ。沈む。これは……良い」

  「いや何が!? いや、下がってください、殿下! 俺の腹っ……!」

  教室の空気が変わった。ざわざわと立ち上がる生徒たち、息を呑む貴族の子息、震える平民の女子。

  その中心で、オルドは自分の腹を王子に寝床扱いされている現実と戦っていた。

  「ちょ、離れ……! あっ、いや、殿下! 寝ないでください殿下! 俺、叱られるのは……っ!」

  「……ぬくい……静かで……良い腹だ……むにゃ……」

  寝た。

  殿下は腹の上で本当に寝た。

  王子の豊かな鬣が、オルドの制服にかすかに触れる。胸のすぐ下あたりに、じんわりと温もりが広がる。

  この状況が――一体、何なのか。

  オルドの頭は、理解を放棄した。

  ◆

  日が傾き、講義が終わると、教官から直々に注意が飛んだ。

  曰く「王子の枕になるとは、何事か」。

  曰く「そのような近距離で何をしたのだ」。

  曰く「貴様は騎士になる気があるのか」。

  ――やかましいわ。全部俺じゃない。

  それだけは、はっきりしていた。

  だが口に出せば「無礼者」と断じられる立場だ。3年のオルドは頭を垂れ、「申し訳ありません」と三度も謝った。

  王子本人は、ぐっすり眠っていたらしい。

  ……くそ、王族ってのは、ああいうものなのか。

  ◆

  そして夜――。

  寄宿舎で寝巻に着替えていたオルドのもとに、年嵩の従僕がやってきた。

  「3年騎士科のオルド殿でございますな?」

  「……はい、そうですが……何か?」

  「殿下がお呼びでございます。“静かに来い、枕だけでよい”とのこと」

  「……は?」

  ◆

  案内されたのは、寄宿舎の最上階。貴族専用の上級個室。

  王子専用の室(しかも二部屋ある)には、すでに灯が落ちていた。

  従僕は扉を指し示し、言った。

  「お入りなされ。“寝ておられるが、入って良い”とのことです」

  「……いや、いやいや。これって、俺が勝手に侵入した扱いになりません?」

  「なりません」

  「なら良いんですけど……いや良くねぇ!」

  それでも、入ってしまった。

  断れなかった。所詮は平民。王子の命に逆らえるわけもなかった。

  扉を開けると、ほのかな灯と香が漂っていた。

  そして、いた。

  王子は寝巻姿で、寝台に横たわっていた。

  オルドを見て、ゆっくりと片手を上げる。

  「……来たな。静かで良い。……さあ、そこへ」

  「……はぁ……はい」

  心中では叫びながら、オルドは寝台の端に腰を下ろした。

  すると王子は、当たり前のように、再びその腹へ顔を埋めてくる。

  「うむ……今日の腹は、昼よりやや張りがあるな。夕餉は何を?」

  「干し肉と……じゃがいも粥でした……」

  「良い配分だ……沈む、が……返される。心地よい」

  この男は――腹に何を求めて生きているのか。

  オルドは天井を見つめて思った。

  そして、眠る前の王子がぽつりと呟いた。

  「……将来……俺が王になったら……お前を……隣に置こう……枕として……」

  「勘弁してくれよ……」

  そう思いながらも、オルドの腹は、その夜もまた静かに沈んでいた。

  [newpage]

  [chapter:第二章 逃げても腹は追ってくる]

  狩人が、昼休みを狙ってくる。

  いや、正確には腹を狙う王子が、である。

  王立修学園・3年騎士科のオルドは、今日もまた全力で昼食と平穏を求めて逃げていた。

  「ここなら……さすがに来ねぇだろ……」

  南棟裏。古い石造りの倉庫と倉庫の間。使われなくなった訓練具が積まれた死角の空間。風通しも悪く、椅子もなければ灯りも差さない。

  だが、静かだ。落ち着く。

  オルドは弁当袋を抱え、こそこそと背を壁に押しつける。

  が――出ている。腹が。

  どう構えても、どんなに警戒しても、前にあるものは隠せない。

  体格がよすぎるというのも、こういうときには厄介だった。

  「いただきます……」

  ぱか。

  干し肉と豆粥。今日は贅沢にゆで卵つき。しっかり噛んで食べれば、腹の持ちも違う。午後の鍛錬も耐えられる。

  「……うまい」

  もぐもぐと噛むたびに、腹の内側に温かさが広がる。満ちていく、という感覚だ。

  ――このまま、誰にも見つからずに済めば。

  オルドは静かに、祈るように箸を動かした。

  が。

  その祈りは、十口目で破られた。

  「……いた」

  声がした。

  「げっ」

  オルドは反射的に木箱の影へ身をよじった。だが腹は、木箱の陰から半分以上出ていた。逃げ切れない質量。

  そこにいたのは――レオナール王子殿下。

  「……よく見つけましたね!?」

  「干し肉の香りが残っている。豆粥も、塩気の強いやつだな」

  「それで場所が分かるんですか!? 殿下、魔物じゃないですよね!?」

  王子は静かにうなずいた。

  「この世には、“腹が満ちたときに発する香気”というものがある。俺は、それを辿っただけだ」

  「知らないですよそんな香気!」

  そして、王子はふわりと膝を折り――近づいてきた。

  「昼の腹は、また夜とは違う……沈みと張りの関係が……」

  「また来た……!」

  オルドは身をのけぞらせた。が、王子は慣れた手つきで制服の腹部をぽす、と軽く叩き、

  そして――

  「む……やはり。沈む……そして、返す。理想的だ……」

  再び、顔を埋めてきた。

  しかも教室ではなく、今度は昼の屋外で。

  「ひ、人が来ますよ! 殿下、さすがにやめてくださいってば!」

  「来ない。この裏手は昼は誰も寄らぬ。静かで、腹に集中できる……ふふ」

  「集中ってなんですか!」

  オルドは抗議の声を上げながら、そっと背筋を伸ばす。腹に乗った王子の体重は軽い。だが、圧がある。

  鬣の毛が制服に触れて、耳元にかすかな息がかかる。

  この距離、この姿勢――あの夜と、まったく同じだ。

  「……そなたの腹は、寝台では得られぬ感触を持つ」

  「はあ」

  「沈むが、沈みきらぬ。温いが、熱くはない。ぬくもりと張りの均衡――」

  「殿下!? 俺の腹で詩作しないでください!」

  「否、記録である」

  「……してんのかよ」

  オルドはため息をついた。

  「じゃあ……せめて、午後の鐘が鳴るまではにしてください。訓練遅れたらまた教官に――」

  「問題ない」

  王子は目を閉じたまま言った。

  「我が指示である。“騎士訓練は、質の良い腹から始まる”」

  「お言葉が、すべておかしいです」

  ◆

  そして午後。

  教官が生徒たちを点呼する中で、オルドは若干遅れて到着した。

  教官「……またお前か、オルド!」

  「申し訳ありません!」

  「殿下の添い寝などという勝手な口実はもう通じんぞ!」

  「本当なんです!」

  生徒たちは失笑し、数人の貴族男子が「また腹か」とひそひそ囁いた。

  オルドは思った。

  これはたぶん、学園生活で誰よりも特殊な立ち位置になってきた。

  だが――

  王子は、午後の実技訓練中も、槍の訓練台のかげで小さく欠伸をしながら言った。

  「……明日も……頼むぞ。昼の腹は、あれで安定する」

  「……はい」

  返事してしまった自分が、いちばん信じられなかった。

  [newpage]

  [chapter:第三章 令嬢の記録は止まらない]

  ――観察対象:レオナール・グランフォード殿下。3年。王家の直系男子。

  行動特性:「静かな場所」「柔らかい接触対象」「猪型種族の男子の腹部」に対し、著しい執着傾向を示す。

  王立修学園・女子寮の一室。

  刺繍科とマナー科を並行受講している2年のシルヴィア・ロスフェーンは、膝の上に記録帳を広げていた。

  記されているのは、文ではない。観察図解と、腹沈みのスケッチである。

  (……今日も、沈んでおられましたわね……)

  思い出しながら、羽ペンを走らせる。

  描かれているのは、昼休み。騎士科の校舎裏手にて。

  王子が、猪獣人の男子――3年のオルドの腹に頭を埋めている光景。

  まるで野外の貴族用昼寝椅子のような、異様な光景だった。

  シルヴィアは偶然通りがかり、目撃した。……いや、三度目である。

  「……これはもはや、偶然ではありませんわね」

  ペン先が、腹の沈み込みをなぞる。

  この角度、この重力のかかり方。王子の側頭部が押し返され、布地のしわが浮く。

  (布地が……わずかに……跳ねて……)

  毛並みがわずかに揺れる描写を加えると、ページの余白が足りなくなった。

  観察記録帳・第二巻に、突入する。

  ◆

  「ロスフェーン嬢、刺繍が進んでいますね」

  「ええ、まあ。はい、進んでおりますわ」

  翌日の刺繍科の講義中。講師がシルヴィアの細密刺繍を覗き込み、感嘆の声を上げた。

  だがそれは、講義の題材とは関係のない柄だった。

  講義課題:花冠と王冠の並列文様。

  シルヴィアの刺繍:腹の上に頭を乗せる王子の後ろ姿。

  「……あっ、これは……自主研究課題ですの。後ほど別紙に……」

  「そうですか。たいへん……独創的ですな」

  講師の口角が不穏に引きつったが、シルヴィアは気にせず続きを縫った。

  (この沈み具合は、“張軟”……やや張りつつも、布地の戻りがゆっくり……)

  今や彼女は、王子の睡眠状態と腹の沈み込みの相関関係に確信を抱いていた。

  ◆

  放課後、マナー科の談話室にて。

  シルヴィアは友人の侯爵令嬢から声をかけられた。

  「ロスフェーン嬢。最近、騎士科のほうが少し騒がしいと伺いましたけれど。王子殿下と……どなたかが関わっていらっしゃるとか?」

  「……お腹ですわね」

  「……はい?」

  「王子殿下が毎日、お腹にお顔を沈めていらっしゃるのです。3年のオルド殿の」

  「それは……少々、スキャンダラスではありませんか?」

  「いいえ、まったく。睡眠ですの」

  あまりに自信たっぷりの即答に、友人が黙った。

  シルヴィアは紅茶を一口飲み、静かに息を吐く。

  「わたくし……見てしまいましたの。殿下が、ただの昼寝ではなく……整った寝息を、あの腹の上で初めて整えておられたところを」

  「……観察していらしたのですね?」

  「ええ。手のひらの位置、頬の沈み、うなじの汗腺活動量……。すべて記録しております」

  「……本当に、記録なさっていたのですね……」

  友人はそっと紅茶を置き、カップの持ち手を拭いた。

  ◆

  夜。

  女子寮の自室。机の上には、観察帳・第二巻が開かれていた。

  シルヴィアは新たに、「昼と夜で変化する沈み方の分類表」を書き始めていた。

  分類項目:

  - 張沈型

  - 緩沈型

  - 反発弾型

  - 温吸型

  - 脈動安定型

  そして、その横に――王子の眠る顔のスケッチが添えられていく。

  (この寝顔を描くのは……もう、何度目かしら)

  繊細な筆致で瞼の角度を描きながら、シルヴィアはふと、手を止めた。

  思い返すのは、数日前のあの夜。王子がオルドを部屋に呼んだ初日――

  王子は、夢うつつでこう言っていた。

  『……将来、俺が王になったら……お前を……隣に置こう……枕として……』

  その言葉を、シルヴィアは遠くから聞いた。聞こえてしまった。

  そして今、書き添えたのはこうだ。

  《腹記録・特別項:王子殿下、専属寝具としての“未来予約”を宣言》

  「……殿下……本気でおっしゃったのかしら」

  ぽつりと呟いた声に、誰も応えない。

  夜風が窓を揺らし、記録帳のページがふわりとめくれた。

  [newpage]

  [chapter:第四章 腹ダンスと夜の侵入未遂]

  「――今学期の課題は“王城舞踏基本型第一式”の実演である」

  ダンス科の講堂に、教師の張りのある声が響く。

  重厚な石造りの床には、磨き抜かれた板張りが嵌められている。

  舞踏用の空間に立たされた騎士科とマナー科の生徒たちは、ざわめいていた。

  「……なんで俺がここに……」

  3年騎士科のオルドは、緊張の面持ちで立ち尽くしていた。

  理由は単純。選択科目の“礼法実技”で一定以下の点数を取った生徒は、補習としてダンス課題を受ける羽目になるのだ。

  だがそれはまだいい。問題は――

  「それでは、ペアを組んでいる者たちは順に前へ。なお、ペアを選んでいない者はこちらで任意に振り分ける」

  ――それ。

  教師の言葉と同時に、静かに一人の令嬢が、すっと前へ進んだ。

  「シルヴィア・ロスフェーン。2年、マナー科」

  「あっ」

  オルドは咄嗟に一歩後ずさったが、遅かった。

  「ペアは、3年のオルド様とご一緒します」

  堂々と告げられた言葉に、講堂の空気が微妙に揺れる。

  「あ、え……俺、ですか……?」

  「ええ。貴族令嬢が平民騎士科と組むなどと、言われそうですが……構いませんわ」

  いやそれ、わざわざ言う必要あります?

  オルドの心の叫びは、舞踏用の音楽にかき消された。

  ◆

  ダンスが始まった。

  右手と左手を取り、軽く角度をつける。

  そして一歩、回り、また一歩。

  「……わっ……」

  思わず、オルドは踏み出した左足を引っ込めた。

  「す、すいません、つい……」

  「大丈夫ですわ。踏まれることは、慣れておりますので」

  「それはそれでどうかと……」

  身長差。手の厚み。視線の高さ。どれを取っても、オルドの方が不釣り合いだ。

  にもかかわらず、シルヴィアの動きは乱れない。むしろ――

  「(この安定感……重心が……腹部で吸収されてるのでは……)」

  観察者としてのスイッチが、完全に入っていた。

  オルドはそれに気づかず、ただただ額に汗を浮かべていた。

  ◆

  遠く、講堂の片隅。

  窓の外に、ひときわ静かな気配があった。

  「……あれは……シルヴィア嬢か……そして……オルド」

  3年のレオナール王子殿下は、音もなく立っていた。

  窓越しに、ペアで踊る二人の姿。

  シルヴィアの優雅な旋回。

  オルドの不器用なステップ。

  そして、その腹の動きと引き締まり具合。

  「……今日は……やや張り……だな。回転の遠心力で……表層が硬くなる……なるほど……」

  その場で腹の状態を観察記録しながら、王子は静かに帰っていった。

  ◆

  夜。

  寄宿舎。オルドの個室。

  着替えも済ませ、やっと布団を敷こうとした、そのとき。

  ――ぎ、ぎ、と、扉の音がした。

  「……どちら様……?」

  そっと扉を開けると、そこにいたのは王子だった。

  「……うわああああああ!?」

  「しっ。静かに。周囲には気づかれておらん」

  「気づかれてなくても、侵入はアウトですって!」

  「違う。これは、夜間巡察である」

  「してませんよね!? 武装してませんよね!? 殿下寝巻きですよね!?」

  王子は一歩入ると、すっと布団の横に腰を下ろした。

  「本日は、腹の観察ができなかった。俺は……不安だ」

  「不安の理由が限定的すぎる!」

  オルドは両手で腹をガードした。が――

  腹が前にある限り、防げない。

  「む……うむ……やはり今日の踊りのせいか、張りがある。舞踏による腹の鍛錬……有用だ」

  「俺、腹筋鍛えてるつもりじゃないんですけど!?」

  だが王子は、すでに腹に顔を乗せていた。ふわ、ふわ、と呼吸が浅くなっていく。

  「……まったく……」

  オルドは抗議をやめた。無意味だ。

  この男は、もうすでに眠気の領域にいる。

  ふ、と。王子が寝息を漏らす。

  「ぬくい……布団より……ぬくい……この腹……」

  「……その台詞、何回目ですかね……」

  ◆

  翌朝、シルヴィアの観察帳には、次のように記されていた。

  《第四章記録:殿下、夜間巡察の名を借りて非公式腹接触を実行。

  腹沈下:張軟反発型。王子、速やかに沈眠。観察時間わずか十数秒。

  やや感情的な行動。嫉妬の初期徴候か。今後注意。》

  ページの端に、紅茶のしみが滲んでいた。

  [newpage]

  [chapter:第五章 昼と腹と、観察の終わり]

  陽光があたたかく、空気がぬるかった。

  学園の南側――訓練場の裏手にある裏庭は、昼休みにしては人影がなかった。

  ベンチの片端に座ったオルドは、弁当の包みをほどきながら、ちらりと隣を見た。

  「……ロスフェーン嬢。ほんとに、そこでいいんですか?」

  「ええ。遠慮しなくて大丈夫ですわ。……観察の対象は、腹だけですので」

  「いやいや、さすがにそれはひどくないか?」

  我ながらツッコミが完全に素で出た。

  しまったと思い、すぐ言い直す。

  「……あの、失礼。ちょっと口が……」

  「まあ。冗談まで丁寧に謝られるのですね。やはり、観察に値しますわ」

  「観察と何でもつなげるなよ……って、あっ、また……」

  ついまた素に戻っていた。

  オルドは咳払いして姿勢を正す。弁当を開く指がちょっと硬い。

  今日のシルヴィアは、紙も筆も持っていない。ただ、彼の隣にいる。

  観察帳もないのに、視線が妙に落ち着かない。

  「……昼間、ひとりのときって、あんまりないんですよね。自分」

  「ええ。いつも、誰かのお腹の上に王子殿下が……いえ、逆でしたわね。あなたの腹の上に殿下が」

  「いや、訂正する必要あるかそれ?」

  また素が出た。今度は止めなかった。

  「観察者としては、対象の正確な位置関係は大切ですの」

  「わかったけど、それ以上腹を専門分野みたいに扱うなって」

  もう無理だ。全部ツッコんでたら、口調の維持とかしてられない。

  ていうか、なんで俺、最初から丁寧語だったんだっけ……?

  「……なあ」

  「はい?」

  「口調、もう崩していいか?」

  シルヴィアは一瞬、驚いたように目を丸くした。

  だが、すぐにふわりと笑った。

  「ええ。嬉しいですわ、オルド」

  名を呼ばれた瞬間、なにか胸の奥がじんわりと温まる。

  「俺も、あんたのこと、ロスフェーン嬢じゃなくて、名前で呼んでいいか?」

  「もちろん。“シルヴィア”で」

  「……じゃあ、シルヴィア」

  やけに素直に言えた気がする。

  ◆

  会話は他愛のないものに移っていった。

  今日の授業、昼の弁当、王子が今朝起きたとき「腹が冷えていた」と怒っていた話。

  「……ていうか、毎朝俺の腹が起床装置って、どうなんだ」

  「新しい魔導器の開発分野ですわね。“腹枕式自動起床導具”。市場が狭そうですけれど」

  「そっちもノってくるんだな……」

  笑いながら、ベンチの上で二人の肩が揺れる。

  オルドはふと、弁当袋を手に取りながら言った。

  「そろそろ、卒業っすね。俺も、殿下も」

  「……ええ。わたくしも、“観察”は卒業いたしますわ」

  「それって、何かの卒業証書もらえるやつか?」

  「もしあるなら、あなたの腹印が押されるべきでしょうね」

  「やだな……それ、王印より重そうだな」

  言葉が重ならずとも、沈黙が苦にならない空気だった。

  春の風が吹いて、前髪がふわりと揺れる。

  ふたりの間に流れる温度も、もう“記録”では測れなかった。

  シルヴィアが、スカートのポケットから小さな手帳を取り出した。

  表紙に金文字で書かれたその名は――

  『腹沈記録・第二巻』

  彼女はそれをそっと閉じ、静かに口を開いた。

  「……わたくし、これから“観察者”ではなく、“ご友人”になりますわね」

  「こっちも、腹を守るだけのやつじゃなくなるといいな」

  「ええ。でも、腹は好きですけれど」

  「言うと思った」

  笑い声が、春風に舞った。

  [newpage]

  [chapter:第六章 眠る王と、見つめる令嬢]

  昼下がりの中庭は、空気の色まで淡かった。

  陽は高く、けれど風はひんやりとやさしくて、芝の上に影がやわらかく落ちていた。

  レオナールは一人で、古い石のベンチに座っていた。

  制服の上着は脱いで脇に畳み、袖をたくしあげたシャツの腕に、微かな春の光が当たっている。

  寝るには、いつもより“条件が悪い”――それだけが、今日の問題だった。

  「……やっぱり、腹がないと落ち着かん」

  ぽつりと漏れた言葉は、空に吸われた。

  いつもなら、オルドが隣にいてくれた。昼寝でも夜でも、あいつの腹があれば、眠れた。

  けれど今日は、訓練で遠出している。

  代わりの何かを探そうとしたが、“あれ”の代わりは存在しないと、ようやく悟った。

  枕でもない。抱き枕でもない。掛け布でもない。

  オルドの腹。それは唯一だった。

  「……どうしたものか……」

  頭を預ける石の背もたれは硬すぎて、眠気を拒んでくる。

  諦めかけたそのとき――足音が近づいてきた。

  「殿下。それは昼寝前の御言葉ですか?」

  光の向こうから声が届いた。

  現れたのは、シルヴィア・ロスフェーンだった。

  彼女は教科書を小脇に抱え、風に揺れるスカートの裾を抑えながら、王子に向かって一礼した。

  「偶然……ですわよ?」

  「そうであろうな。まさか、お前が俺の腹の代わりになる気ではないだろうな」

  「代わりになろうにも、質量が足りませんわ」

  「冷静な返しだな」

  微笑がこぼれ、二人の間に小さな静けさが生まれた。

  「……座ってよいぞ?」

  「失礼いたします」

  シルヴィアはベンチの端に腰掛け、制服の前を整えた。

  座った途端、ふっと肩の力が抜ける。今日は珍しく、記録帳を持っていなかった。

  ◆

  「……殿下、今日は眠れないのですか?」

  「腹がないからな」

  「本当に、そこまで必要とされているとは……観察者としては光栄ですわ」

  「お前の観察帳は、もう完結したのではないのか?」

  「はい。観察は、終わりました。“記録”に移行しております」

  「似たようなものに聞こえるが」

  「大違いです。観察は一方的です。記録は――“残したい”という意志が伴いますの」

  レオナールは、わずかに顔をこちらへ向けた。

  「それは……誰のための記録だ?」

  「殿下のため。そして、わたくしのためです」

  風が吹いた。小さな葉が二人の足元を滑っていく。

  ◆

  「……俺は、よく“見られている”」

  ぽつりとレオナールが言った。

  「王族というだけで、何もかもが目にさらされる。

  その視線は、いつも値踏みで、期待で、場合によっては侮蔑だ。……慣れているつもりだったが」

  「はい」

  「けれど、お前の視線は……妙に、静かだった」

  シルヴィアは目を伏せた。

  「……わたくしの視線が、“無音”だったから、ですね」

  「……ああ。お前だけは、俺の寝顔を見ても……“崩れた”とは言わなかった」

  「崩れてなど、いませんでした。……“ほどけていた”だけですわ」

  ふたりは目を合わせた。光と影の揺れる下、柔らかく。

  「なあ、シルヴィア」

  「はい」

  「この先、俺が王になったら……やっぱり、“腹枕”は無理だと思うか?」

  「ご安心ください。きっと、そのときには“オルド”が居てくださいますわ」

  「……それは、期待していいのか」

  「ええ。“名前で呼び合える人”がいる限り、殿下は王になられても眠れるはずです」

  風がまた通った。

  ◆

  しばらくふたりは言葉を交わさず、ただ木々の音と沈黙を共有した。

  何も言わなくても、崩れなかった。

  そういう関係が、確かにあった。

  やがて、シルヴィアが立ち上がる。

  「そろそろ講義です。……また、こうして座っても、よろしいですか?」

  「いつでも」

  レオナールは、目を細めた。

  「お前の視線だけは、俺の眠りを妨げないからな」

  「それは、観察者冥利に尽きますわ」

  「……もう、“観察者”じゃないだろう」

  「そうでした。……友人、でしたわね」

  シルヴィアが静かに微笑んだ。

  ◆

  その夜、レオナールは一人で眠った。

  いつもの腹はない。静かで、落ち着いて、けれどやや物足りなさもある。

  眠る前、彼はふと、窓の方へ視線を向けた。

  「……今日の視線は、あたたかかったな」

  誰に聞かせるでもなく、呟いて布団に横たわる。

  その夜、夢の中には、風の吹く中庭と――

  陽だまりのなか、視線を静かに重ねる少女の姿があった。

  彼女は何も言わず、ただ見つめていた。

  けれどその視線は、やはり。

  眠りを妨げなかった。

  [newpage]

  [chapter:第七章 腹の上で、呼び名が変わる夜]

  夜の帳が降り、寄宿舎の灯がまばらになった頃。

  いつものように、オルドは静かに王子の私室を訪れた。

  扉は半分だけ開いていた。中はほのかに香が焚かれ、寝台の上にはレオナールが背をもたせかけて座っていた。

  寝巻姿。髪はほどかれ、額には微かな汗。

  「……よく来たな。今日は少し、遅かったな」

  「すみません、殿下。訓練が長引きまして」

  「構わん。……腹が待ち遠しかっただけだ」

  「そういうことを、さらっと仰るのが困るんですけど……」

  オルドは控えめに布団の端に腰を下ろし、深く息を吐いた。

  この時間はもう慣れた。訓練よりも礼法よりも、今となっては“当たり前”になってしまった習慣。

  そして当然のように、王子が体を横たえ――

  「……うむ。今日は、やや張り。昼食は?」

  「干し魚と黒パンでした。あと芋のスープです」

  「ふむ……塩気と澱粉質の混合……腹に、ちょうどいい」

  王子の顔が、いつものようにオルドの腹に沈む。

  じんわりと、そのぬくもりが生地越しに伝わってくる。

  寝息にはまだ遠い。

  けれど、静かで、落ち着いた空気が部屋を満たしていた。

  しばらくの沈黙があった。

  ふと、オルドがぽつりと声を落とした。

  「……殿下」

  「うん」

  「俺……いや、私は……その……殿下にとって、何なんでしょうか」

  言ってから、自分でも驚いた。

  問いかけるつもりなんてなかったのに、ふと、心の奥から言葉が漏れ出ていた。

  レオナールは返事をしなかった。すぐには。

  沈黙の中で、呼吸だけがゆっくりと繰り返される。

  やがて――小さく呟くように言った。

  「……枕だな」

  「……やっぱりそうなりますか」

  「ふふ。だが――」

  言葉が途切れた。少しの間があって、再び。

  「……かけがえのない友でもある」

  オルドは、驚いた。

  冗談でもなく、からかいでもなく――真正面から言われた“友”という言葉。

  王子の声は柔らかく、けれど確かに深く、真面目だった。

  「……え、あ……」

  返事が出ない。どうすればいいか分からず、思わず頭をガシガシと掻いた。

  「……じゃあ……」

  沈黙を破るように言葉を押し出す。

  「だったら、もう“殿下”って呼ぶのやめて、呼び捨てにしてもいいですか? 言葉遣いも、普通で」

  レオナールは、ゆっくりと目を開けた。

  「もちろん。呼び方など、好きにしてくれていい。……俺は、そう望む」

  オルドは、少し照れたように目をそらしながら、小さく言った。

  「……レオナール」

  それは、最初の“呼び捨て”だった。

  ◆

  そのまま、しばらく言葉を交わさずに過ごした。

  レオナールは腹に顔を埋めたまま、軽く目を閉じていた。

  「……レオナール。お前、よく俺の腹で眠れるな」

  「安心するからな。温度も……沈みも……全て、最適だ」

  「そりゃどうも」

  「……友とは、こういうものか」

  「ん?」

  「頭を預けて、腹を信じられる相手。俺は、そう定義している」

  「斬新すぎるわ」

  ふたり、かすかに笑った。

  それ以上は、何も言わず。

  ただ、穏やかな夜が流れていく。

  ◆

  レオナールはまどろみの中で、ぽつりと呟いた。

  「……おやすみ、オルド」

  オルドは天井を見上げたまま、ぽつりと返した。

  「……おやすみ、レオナール」

  名前を呼んで眠る夜は――初めてだった。

  [newpage]

  [chapter:第八章 王子と猪と、腹の境界線]

  卒業式を翌日に控えた夜。

  寄宿舎の上階、王子専用の部屋は、いつもと変わらぬ灯と香に包まれていた。

  その変わらなさが、妙に静かだった。

  「……明日で、ここも終わりだな」

  布団の上で、オルドは背をもたせて座っていた。

  寝巻の胸元には微かにしわが残り、足元の布団には寝癖の跡。

  対してレオナールは、いつも通りの恰好で横になっていた。

  「うん。けど、腹は続く」

  「お前、ほんと……卒業とか感傷とか、ないの?」

  「あるぞ。だが、それは腹に沈みながら語るものだ」

  「……はいはい」

  オルドは苦笑しつつ、いつものように体勢を整え、

  布団の上に横たわった。

  王子の頭が、迷いなく腹の上に収まる。

  「……やっぱ、ここが落ち着く」

  「慣れすぎて逆に怖いわ。俺がいなくなってから、眠れんくなるぞ?」

  「なら、王宮に連れていく」

  「簡単に言うな」

  夜の空気は、普段よりも少しだけ冷たかった。

  それでも、布団の中と腹の上はあたたかい。

  ◆

  「なあ、レオナール」

  「ん」

  「俺、お前にとっては“友”で……“枕”で……まあ、それはいいんだけどさ」

  「うん」

  「……友ってさ、こういうの、卒業しても変わらないもんかね」

  レオナールはすぐには返事をしなかった。

  腹の上で目を閉じたまま、言葉を選ぶように小さく息を吐く。

  「俺にとって、“友”というのはな……

  安心して背中を預けられるやつのことなんだ」

  「……それ、腹にも言ってない?」

  「腹は一部だ」

  「はいはい」

  ふたりの笑い声が、小さく交わった。

  ◆

  「……でもよ」

  「ん」

  「お前が王になったらさ。やっぱちょっとは、俺に敬語使えとか言うんだろ」

  「言わない」

  「嘘つけ。側近が止めにくるぞ」

  「止められても、止まらない」

  「お前な……」

  オルドは頭を掻いてから、少し間を置いて言った。

  「……じゃあさ。

  “王になっても友でいてくれ”って、先に言っといてくれ」

  「……もう言ったつもりだったのだが」

  レオナールは、腹の上に顔を埋めたまま、穏やかな声で続けた。

  「お前が、俺に“レオナール”って呼びかけてくれた夜。

  あれが答えだった」

  「……そっか」

  「うん。だから今日も……寝る前に、もう一度呼んでくれ」

  「……お前って、結構ずるいよな」

  「知ってる」

  オルドは、布団の中で静かに笑った。

  そして、ゆっくりと声を落として、言った。

  「……おやすみ、レオナール」

  「おやすみ、オルド」

  それが、学園最後の夜の“腹枕”だった。

  もう、呼び名に迷うことはなかった。

  [newpage]

  [chapter:第九章 別れの朝、名前を呼ぶ日]

  春の朝は、少しだけ冷たい風が吹く。

  空は澄み渡り、王立修学園の正門には、今日を境に旅立つ者たちがゆっくりと集まりつつあった。

  門の前、石畳の一角。

  騎士科の制服姿のオルドは、整列も歓談もせず、ただ静かに立っていた。

  斜めがけの鞄の中には、卒業証書と、折りたたまれた寝巻――そして、

  王子の顔を数え切れないほど受け止めた腹の感触が、まだどこかに残っていた。

  「……思ったより、実感ないな」

  小さく独り言をこぼして、制服の裾を握る。

  そこへ――

  「……オルド」

  聞き慣れた、けれど今はもう少し深く胸に響く声。

  振り向けば、そこには王子――いや、もう間もなく王となるレオナールが立っていた。

  制服の胸元に金の刺繍。眼差しはいつもより静かで、けれど変わらず真っ直ぐだった。

  「来てくれたのか、レオナール」

  「当然だ。腹の卒業式だからな」

  「卒業するの、腹じゃないから」

  「俺の中では同義だ」

  ふたり、顔を見合わせて、ふっと笑う。

  ◆

  「……このあと、王都に戻るのか」

  「うん。即位の準備がある。けど――」

  レオナールは、少しだけ視線を逸らすように言った。

  「枕の準備も考えている」

  「お前な……」

  「“お前”と呼ばれるの、やっぱり好きだ。安心する」

  「……俺も、ずっと“殿下”って呼ぶわけにいかないしな」

  「“レオナール”が、やっぱり一番落ち着く」

  その名を、お互い自然に交わせるようになっていた。

  ◆

  そこへ、ひとりの少女が歩いてくる。

  淡い色の制服の裾を丁寧に押さえ、整えられた髪が朝日に透けるように光る。

  シルヴィア・ロスフェーン。

  この三人で並ぶのも、これが最後になるかもしれなかった。

  「おはようございます、オルド、レオナール」

  「おう、おはよう、シルヴィア」

  「おはよう」

  名を呼ぶやり取り。それは、もうどこにも“敬称”が必要のない関係になっていた。

  「……二人とも、良い顔ですわね」

  「そりゃ、お前の観察帳に変な顔で載りたくないからな」

  「ふふ、それはもう閉じましたわ。“観察者”としては卒業です」

  「けど、これからも見てるんだろ?」

  「ええ。“友人”として、ちゃんと。あなたたちのことを」

  シルヴィアは、スカートのポケットから小さな本を取り出した。

  表紙には、金箔の控えめな文字――『腹記録・最終巻』。

  それを静かに閉じて、胸元に抱きしめる。

  「……二人が、これからも名前で呼び合ってくれるなら、それだけで充分ですわ」

  「言ってくれるじゃねぇか」

  「言わせていただきますわよ。友人ですから」

  ◆

  正門に、鐘の音が響く。

  卒業式の開式を告げる音――そして、別れの始まりでもあった。

  オルドは、鞄の紐を握り直し、背筋を伸ばして、ふたりを見た。

  「……じゃあな、レオナール。元気でな」

  「お前も、オルド。俺の腹騎士が来ることを城で待っている」

  「うるせぇよ。なんだよ腹騎士って」

  そして――

  「……ありがとう、シルヴィア」

  「ええ。こちらこそ。……元気でね、オルド」

  ふたりの間に、もう“嬢”も“殿下”もなかった。

  名前で別れ、名前で繋がる。

  ◆

  風が、制服の裾を揺らす。

  ふと、オルドの腹がぐぅと鳴った。

  沈黙の中、王子と令嬢が顔を見合わせ、にやりと笑う。

  「……やっぱり、お前の腹は優秀だな」

  「腹の卒業は、まだ先みたいですわね」

  「うるせぇ」

  言い合いながら、三人の笑いが、春の風に乗って広がった。

  名前を呼ぶ朝は、始まりの朝でもあった。

  (完)

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