負けると『体で』払うことになるタイプのそういうゲーム

  "神を見た"というのは、きっとああいう顔のことを言うのだろう──[[rb:生天目 > なばため]]アリスは、そんな顔をしていた。

  その日、教室に現れた彼女は、髪を丁寧にまとめ、制服のリボンも完璧に整えていたが、どこか──明らかにおかしかった。姿勢はまっすぐで、歩き方も変わらないはずなのに、周囲の空気のほうが彼女を避けているように思えた。

  呼吸は浅く、表情は微笑んでいるのに、笑っているように見えない。目はどこか遠くを見ていて、クラスメイトがかけた声にも反応が一拍遅れた。

  全能感。

  そんな言葉が浮かんだ。自分が何者で、何を持ち、何を捨てたか──すべてを理解した者だけが持てる、奇妙な静けさを、アリスは纏っていた。

  "神を見た"。

  そうとしか言いようがなかった。

  そして、たぶん、その神は──本当に、人間じゃなかった。

  少しだけ、話を巻き戻す。

  雪村ミヅキ。

  同学年のアリスにとって、忌々しくも、完璧だった少女。

  あまりにも、美しかった。ただ顔立ちが整っているだけではない。肌の色、髪の質、指の動き、まばたきの仕方までが、まるで完成された映像作品のようで、誰もが自然に目で追ってしまう。

  静かで落ち着いた声は通りが良く、クールな印象を与えるのに、必要なときには誰にでも優しく接することができる。媚びず、群れず、上にも下にも壁をつくらない。

  それでいて、学年首席。服装や仕草に目立った特徴があるわけでもないのに、気づけば視線を集めている──そんな"天性の中心"だった。

  アリスにとって、それは屈辱だった。

  自分は「選ばれた家」の出身だった。高台の屋敷に住み、送迎車がつき、家には数人の使用人がいる。家柄も、資産も、学歴も──持てるものはすべて、最初から手の中にあった。

  だからこそ、雪村ミヅキの存在が許せなかった。庶民のくせに、礼儀正しくて、成績が良くて、誰にも優しくて、しかもあの顔。クラスの空気を、自然に支配しているのに、当の本人はまるでその事実に無自覚なふりをして、誰にも敵意を持たせない。

  アリスは、ずっとミヅキのことが気に食わなかった。靴を隠したり、ロッカーに水をまいたり、匿名の噂話を広めたり、いくつも手を打った。それなのに──ミヅキは一切、反応しなかった。

  怒るわけでもなく、困った顔すらしない。自分の存在が"眼中にない"のだと理解した瞬間、アリスは本気で腹が立った。見下されたわけでも、無視されたわけでもない。ただ、最初から"相手に値しない"と扱われた。それが、何よりも癪だった。

  だから、火がついた。

  その火は、じわじわと彼女の内側を焼いていき、やがてある日──知ってしまったのだ。世界の裏側で、ほんの一握りの者だけが知っている、"ゲーム"という名の、異常な遊戯の存在を。

  そして今。

  登校してきたアリスは、完全に何かが変わっていた。

  ──神を見てしまった人は、戻れない。

  たとえそれが、どんなに穢れていても。

  *  *  *

  「……っ、ここは……?」

  目を開けたつもりはなかった。まばたきの記憶も、眠った感覚もない。

  けれど、気がついたときには、雪村ミヅキはすでにそこにいた。

  立っていたのか、座っていたのかさえ曖昧なまま、意識だけがそこに置かれていたような感覚だった。

  視界は、正常だった。白い床。白い壁。天井は見当たらないが、どこからともなく照明のような光が満ちており、影がどこにも落ちていない。

  空間全体に、不自然な明るさがあった。無菌室のような清潔さとも違う。清掃の行き届いた部屋とも違う。そうではなく──何か、ひどく"専門的な目的"のために作られた空間。

  無駄がなく、無関心で、けれどどこか"実験的"な意志を感じさせる、異様な場所だった。

  その静寂を、声が破った。

  「ようこそ、雪村ミヅキさん」

  低くも高くもない声だった。男とも女ともつかない。けれど、どこか良く通る声。

  「あなたは、選ばれました。こちらの空間へ《招待》されたことを、まずは光栄に思っていただけると幸いです」

  「なお、誠に残念ながら、拒否権は存在しません。これは強制です。あなたが望んだかどうか、同意したかどうかは、重要ではありません」

  形式的な、しかし妙に滑らかな言い回しだった。だがその中には、ほんの少しの喜悦すら感じられた。まるで「ようやくこの瞬間がきた」とでも言いたげに。

  ミヅキは、声の出どころを探すように一歩踏み出しかけ──その場で踏みとどまった。表情は冷静だった。口元にわずかに力が入り、目元がほんの少し険しくなる。怒りを覚えているのは間違いない。けれど、無暗に声を荒げたり、取り乱したりする気配はない。

  ただ、その場に立ち、ひと呼吸置いて、明確な声で言った。

  「むー……さすがに、この状況で"黙って従え"は無理あると思うけど」

  その言葉には、激情のかけらもなかった。まるで教師に指摘するような、静かな反論。けれど、そこには明確な意志があった。冗談では済ませない、こちらも本気だという意思表示。

  ほんのわずかに首をかしげるその仕草が、どこか人懐こく見えてしまうのは──彼女の顔立ちが、あまりにも整いすぎていたせいだろう。冷たい言葉と、柔らかすぎる輪郭。その微かな齟齬が、逆に印象を強くしていた。

  もう一度、視線を少しだけ上げて、彼女は言った。

  「これ……私じゃなきゃダメな理由、あるんですよね? ないなら、文句言いますけど?」

  あくまでも毅然と。声は震えていない。

  だが、ほんのわずかに眉が寄った。その整いすぎた顔立ちの奥に、かすかな"色"が滲んだ。不安。ごく薄く、でも確かに──。

  それでもなお、彼女は冷静だった。空間の異様さ、発光の不自然さ、耳元で響くような声の気味悪さ。それらを前にしても、姿勢ひとつ崩さなかった。

  そんなミヅキの様子に、声は、軽く感嘆したような調子で続けた。

  「……お見事ですね。この段階でそれだけ話せる方は、なかなかいらっしゃらない」

  そして、そのわずかな間を切るように──音の調子が変わった。

  「──では、説明に入ります。雪村ミヅキさん、あなたには──」

  機械音声のように、感情の抑揚を殺したまま、静かに、しかし一切の逃げ道を与えない調子で。

  「──《体》を、賭けていただきます」

  ミヅキの目が、わずかに見開かれた。肩がわずかに跳ねた。

  反射だった。予期せぬ語の響きに、身体が反応した。

  「……は?」

  冷静に、即座に返す。

  「ふざけてるの? そんな下品な冗談で、誰が怖がると――」

  「あっ、ごめんなさい。卑猥な意味じゃなくて」

  声の主は笑った。けれど、それはミヅキの想像とは"別の種類"のものだった。

  「本当に、"肉体"の話なんです。あなたの、全身、全部、正真正銘の《体》」

  「……は……?」

  冷や汗が、背中を伝った。

  「あなたには、"ある生き物"と入れ替わっていただきます。あなたの魂と、そちらの魂を、強制的にスワップ。とても簡単な仕組みです」

  「もちろん、入れ替わった生き物は――あなたの《体》に入ります」

  「……ちょっと待って。話が飛躍しすぎてる。そんなの、科学的に成立するわけないでしょ」

  「おや?《不可能》という言葉は、我々の世界には存在しませんよ……というわけで、ルールはこちら」

  主催者の声に呼応するように、宙に淡く発光するホログラムのような映像が浮かび上がった。半透明のスクリーンのなかに、無機質な記号が五つ、正方形の枠に収まって並んでいる。

  5つある記号はすべて同じような円形のアイコンで、それぞれが、一回り大きい、グレーの『楕円形の枠』のなかに収められている。円と楕円の組み合わさった記号が、機械的に、カクカクと、枠の中を行ったり来たりするように動いている。ただ、それだけの映像──のはずだった。

  だが、スクリーンの開いている部分に、もうひとつの図が表示された。

  ──ミヅキだった。

  顔だけを強調した、ややデフォルメされたシルエット。簡略化されているのに、誰がどう見てもミヅキだとわかる。

  制服の襟元、髪の流れ、瞳の形。記号の横に添えられているそれは、アイコンとしての雪村ミヅキだった。

  そして、そのアイコンは──『ミヅキ型の枠』に収められていた。

  丸いアイコンのうちの一つと、「ミヅキのアイコン」がふわりと浮き上がったかと思うと──ゆっくりと、互いに引き寄せられるように、中央へと滑っていく。

  そのまま、楕円形の枠にはミヅキのアイコンが、『ミヅキの枠』には、丸いアイコンが入り込んだ。

  「まずはこちら。五つの《器》のうちひとつと、雪村ミヅキさんが入れ替わっていただきます」

  「残りの四つは──ただの、《同種の生物》」

  ミヅキの唇が、わずかに引きつった。

  (なにこれ……)

  何も描かれていないはずの記号たちが、たった今、自分の"入ったもの"と、それ以外に──分かたれた。

  「ご覧のとおり、どれが正解かは、《外からは》判別できません。参加者様には、時間内に5つのうちのひとつを選んでいただきます。見事《当てる》ことができれば──」

  映像が切り替わる。そこには、ミヅキ自身の姿。制服を着た、整った顔立ちの美少女。無表情に立ち尽くすそれが、《景品》として表示されていた。

  「──その方に、あなたの身体を《譲渡》いたします♡」

  「……ふざけないで」

  低く、抑えた声でミヅキが言う。

  「それ、ただの犯罪よ。しかも……こんなやり方、社会が許すはずない」

  「ええ、まさにその通り。が」

  主催者の声に、妙な間があった。

  「このゲーム、《社会の外側》で運営されております。いわば、法外ですので」

  「……っ」

  「ちなみに、正解だった場合、つまり参加者が《あなた入りの個体》を選んでしまった場合、あなたはその生き物として、そのまま暮らしていただきます。二度と、戻れません」

  「……どうして。どうして私なの」

  主催者は、少し芝居がかった間を置いてから言った。

  「ルールなので、説明しますと──《生天目アリス様》によるご指名でございます」

  空気が変わった。

  ミヅキのまなじりが、わずかに吊り上がる。

  「……アリス、が?」

  「もちろん、相応の金額はお支払いいただいております。ほら、人様の《肉体》を手に入れようというわけですからね。倫理の外側、とはいえ最低限の筋は通していただいております」

  「つまり──金で、人の身体を売ってるってこと」

  「おっしゃる通り! ただ、ぶっちゃけた話をしてしまうと……ぶっちゃけ、欲しいだけなら、さらって、奪っちゃえば早いんですよね~。でもそれじゃあ……ぶっちゃけ、《ゲーム》として、面白くない」

  映像が切り替わり、画面に"GAME"という安っぽいロゴが浮かび上がった。

  ミヅキは静かに息を吐き、言った。

  「……じゃあ、これ。何回でも指名されたら、いつか絶対、誰かに当てられて、奪われるってことじゃない」

  主催者が、目を細めるような声で応じた。

  「するどォい。我々とコンタクトが取れる方には、<指名>の権利がございます。ただし、同一人物に対する指名は──一度きり」

  「……」

  「ですので、生天目アリス様のターンは、これきりというわけです。逆に言えば、この機会を逃せば、彼女はもう二度とあなたを《奪えない》」

  そのときだった。

  視界の端に、人影が現れた。高価そうな服装。つんと澄ました美しい顔立ち。けれど、口元だけが、歪んでいた。

  「……アリス……」

  生天目アリスは、唇にだけ笑みを浮かべていた。どす黒く、歪んで、ひどく満足そうに。

  「──さて、では、いよいよ《生き物の選定》に参りましょうか」

  主催者の声とともに、先ほどの空中ディスプレイが切り替わる。今度は、文字の羅列だった。

  〈鼠〉〈海狸〉〈蛞蝓〉〈驢馬〉〈蛙〉〈蜚蠊〉……

  見慣れぬ漢字ばかり。どれも、どこか気持ち悪い。ぬめぬめと、画面の中でうごめいているように錯覚した。

  「ランダム性を保つために、今回は《ルーレット》を使用します。あらかじめ選択肢は用意済み。さあ、回していきますよ~~」

  ギィィと、電子的に再現された金属音を立てながら、ルーレットが回転を始めた。妙にリアルな質感のある音。ミヅキの喉が、ごくりと鳴った。いやな汗が、背中から髪の根元へと染み上がる。

  「出ました~~っ!」

  ルーレットの針が、ある一文字で止まっていた。

  《蜚蠊》

  「……は?」

  ミヅキは瞬きをした。もう一度、その文字を見た。読めない。なんて読むのかも、意味も、わからない。だが、何かがまずい気がした。

  主催者は、にっこりと笑った。

  「おめでとうございます、雪村ミヅキさん」

  「……何よ、それ」

  「"ゴキブリ"と、入れ替わっていただきま~~す♪」

  時間が止まった気がした。

  「………………………………………………」

  「……………………………………………………は?」

  「ゴキブリです。台所に出る、あの子。日本中どこでも大人気♡」

  「……冗談でしょ」

  頭が真っ白になった。否定するよりも先に、意味がわからなかった。

  「ふざけないで。そんな……そんなの、人間じゃないじゃない……!」

  「もちろん、そうですよ?《人間以外の生き物》と、入れ替わっていただくというのが、当ゲームのコンセプトですので」

  「待って、無理、やめて……ッ! 私、そんなの……!」

  言いながら、自分でも戸惑った。これは、何に対して言っているのか。

  本当にそうなるなんて、思ってない。思えるはずがない。

  けれど、耳に残った"あの単語"。ゴキブリ──それだけが、現実の温度をもって胸に張りついていた。

  (……なんで、こんなに、空間がリアルなのよ)

  (音も、匂いも、質感も……ふざけてるくせに、ふざけてるくせに……)

  「ふざけないで……そんなの、あるわけないでしょ……!」

  反射的に、否定の言葉が出る。

  否定していないと、考えてしまいそうになるから。

  考えたくない。

  想像すら、したくない。

  「あんなものに、なるとか……冗談じゃない……!」

  それは、恐怖ではなかった。拒絶だった。名前すら知らなかった漢字に、感情を支配されることへの屈辱。

  それでも、主催者の声は、どこまでも穏やかだった。

  「では、ゲームを開始──といいたいところですが、我々も鬼ではありません。まずは、《練習》についてのご説明を」

  「……練習?」

  「ええ。"その生き物"として三日間、過ごすことができる権利です。今回の場合は……そう、《ゴキブリちゃん》ですね♡」

  その言い方には悪意も挑発も含まれていなかった。ただ、現実として「それがそうである」と伝えるだけの、事務的な響きだった。

  アリスはすでに姿を消していた。勝ち誇った笑みを浮かべたまま、扉の奥に消えていったのを、ミヅキは一瞥しただけだった。

  「もちろん、選ぶかどうかはあなた次第です。選ばれなかった場合は、このあと一時間後に、即ゲーム開始となります」

  「…………」

  「でも、ぶっちゃけた話……《体の動かし方》とか、わかってた方が有利ですよ? ゴキブリっぽくない動き方、されちゃうとね……すぐバレちゃいます。"中身が人間だ"って」

  ミヅキは黙っていた。

  黙っていたが──喉が、わずかに鳴った。

  「ご安心ください。『本能に飲まれる』とか、『人間だったことを忘れる』なんてことは──万に一つも、ありえません」

  それでも、主催者の口調はあくまで優しかった。

  「もっとゆっくり、じわじわと……ですね。そうですね、大体《二年》ぐらいで、"自分がゴキブリであること"に違和感を持たなくなります。あっ……でもその前に、寿命が来るかもしれませんね? ワハハ」

  ミヅキは、口元をわずかに引きつらせた。反論したかったが、言葉がまとまらなかった。これは冗談なのか、それとも本気なのか。どちらにせよ、"口に出すこと自体がバカバカしい"という感情が先にきた。

  「ちなみにですが。練習をされる場合、あなたが勝ったときの報酬から《150万円》だけ引かせていただきます。我々としても、いろいろ手間がかかりますので」

  ──報酬?

  その単語が、ミヅキの思考を引っかいた。さっきまで一度も聞かれなかった言葉。いま、初めて提示された「対価」。だが、いや、だからこそか。

  (報酬? ……は、いいとして……『それ』をする場合……私が「それ」になるために? お金を……払う?)

  理解しようとして、ぞっとした。言われた内容をなぞるだけで、思考の奥がざわついた。論理的に整っているように聞こえる言葉が、あまりにも冒涜的で、理性がそれを飲み込もうとしない。

  「では、雪村ミヅキさん。あなたは、《練習》を──選びますか?」

  選ぶわけがない。

  そんなもの、なるわけがない。

  なるかどうかもわからない、でも、仮にそうなったとしても──練習なんて、するわけが……

  「そんなもの、するわけ──」

  口にした瞬間、自分の声が、わずかに震えていたことに気づいた。

  「……では、ご参考までに」

  主催者は、満面の笑みで言った。

  「過去に《練習》を行わずに本番に臨んだ《景品の皆さま》の映像……そちらをご覧いただきましょう」

  「なお、このときの参加者様の行動は違反行為ですので残念ながら《ペナルティ》を受けていただきましたが……とても教育的な記録でございましたので、こうして記録しております」

  空中に映像が浮かび上がる。透明なケースの中、黒く光る影が五つ。ゴキブリ。それも、どれもやけに"生きがいい"。

  「うげっ……」

  ミヅキは反射的に顔をしかめた。一瞬、それがただの気色の悪い映像だと思った。虫嫌いの人間なら、誰だって反射的に顔を歪めるような。

  黒く光る外殻、節のある脚、揺れる触角──

  見慣れた、最悪の害虫。

  「なんで……そんなの見せるのよ……」

  その瞬間、画面にもう一つの影が映る。かごの前に立つ、細身の男。眼鏡の奥の目が、かすかに笑っていた。視線が、ケースの中をゆっくりと這う。ゴキブリを、ひとつひとつ、値踏みするように観察していく。

  (なにこれ……これが、『ゲーム』 ?)

  ミヅキの脳裏に、はじめて現実味のある"理解"が落ちてきた。

  そして、映像の中で、一匹のゴキブリが動いた。

  ……何かがおかしい。

  動きが変だ。脚の運び方が、左右バラバラ。妙にバランスが悪い。方向転換もうまくいかず、壁に突き当たっては何度もぐるぐると回っている。

  (……まさか)

  声が出ない。鼓動が、耳の奥で膨れあがる。なにか、とてつもなく嫌な予感がする。言いようのない違和感が、皮膚の裏を這い回る。

  (いや、違う。ただの変な個体……奇形とか、そういう──)

  映像の中、男が虫かごに近づいた。

  指先には、何か小さな紙片のようなものが握られている。

  ミヅキは、それが何なのか、最初わからなかった。

  男は、一匹目のゴキブリの前にそれを翳した。ゴキブリは、脚をもぞもぞと動かすだけで、何の変化も見せない。

  次に、二匹目。同じように、紙片を壁越しに見せた。──反応はない。

  ただの確認作業のように、男は無言で次へ進んだ。

  三匹目。

  その瞬間だった。ゴキブリが、動きを止めた。ぴたりと。触角も、脚も、腹部の動きさえも凍ったように静止する。

  ミヅキは、違和感に眉をひそめる。

  「……はっ……? なに……?」

  動かない。妙な静けさ。次の瞬間、ゴキブリの腹部が、ひく、と上下に波打った。えづくような動き。腹が何度もぐっとせり上がり、肢が床を掻くように無意味に動く。

  だらしなく開いた口元から、粘り気を帯びた白濁液がとろとろと垂れはじめ──

  それが泡になって、ぶくぶくと、止めどなくあふれ出す。

  「……そんなわけ、ある……?」

  腹が波打つように引きつけを起こし、翅が左右バラバラにビクビクと痙攣する。羽虫のくせに芋虫のように体をよじらせ、最後に何かに引っ張られるように、全身がぐにゃりとのけ反った。

  「……っ」

  跳ねるようにして、その体が──バタリ、と背中からひっくり返った。六本の脚が空を切って痙攣する。

  男の目が、針のように細くなった。鼻の横に刻まれた皺が深くなる。そして──口元が、ぐにゃりとねじれるように吊り上がった。

  笑っているというより、脳髄ごと悦びに沈んでいるような顔だった。勝利を確信し、掌の上で踊る相手の無力さを噛み締めながら、それを舐めるように愉しんでいる。

  そこにあるのは感動でも尊敬でもない。あるのは、自分の描いた筋書きに、他人の人生がぴたりと嵌まったことへの興奮だけ。

  そこでようやく、ミヅキの視界が男の手元に戻る。

  その紙片は写真だった。

  制服姿の少女。

  整った髪。

  あどけなさの残る目元。

  瞳には、誇りと、怯えのない光が宿っていた。

  ミヅキの胸が、軋んだ。映像が切り替わる。かつて人間だったその少女の顔が、画面いっぱいに拡大される。

  そう、「かつて」。

  さっきの、ゴキブリは──この写真を、見せられたのだ。

  ミヅキの喉が、音を立ててつまる。

  かつて「人間の女の子だった自分」の姿を──

  今や虫にされた彼女に向けて、まるで嗤うように突きつけていた。

  見せられて。

  思い出して。

  反応した。

  腹を引きつらせ、泡を吹きながらのたうち、ひっくり返った。

  脚はばたばたと空を掻き、泡は口の奥からこぼれ続けていた。

  無様で、情けなくて、けれど──

  そのどれもが、まるで人間のようで、痛いほどに、人間の残骸だった。

  今は虫。虫になってなお、"自分が誰だったか"に反応して、壊れた。

  ミヅキは、それをただ、見つめていた。

  他人のはずなのに。見知らぬ誰かのはずなのに──どうしても、自分の末路にしか見えなかった。

  目の前で泡を吹いていたのは、あの少女のなれの果てであると同時に、"雪村ミヅキ"という存在の、可能な未来でもあった。

  ただの演出だ、と切り捨てるには、その反応はあまりにも──あまりにも本物だった。

  ──笑っていた。その写真。

  画面いっぱいに拡大された、制服姿の少女は、笑っていた。

  整った髪。明るい表情。あどけない、けれど凛とした目元。

  誇りと、無垢な自信。

  それが、なによりも残酷だった。

  画面が、音もなく暗転する。ミヅキの視線は、ゆっくりと下に落ちていた。

  指先が、かすかに震えていた。呼吸はできていた。ただ、それが本当に自分の意思によるものなのか、わからなかった。

  (──これは、起こるんだ)

  自分が、虫になる。

  自分が、あれになる。

  誰かが、それを笑って見ている。

  そして、自分もまた、そのうち"反応しない側"になる。

  (……冗談、じゃ、なかったんだ)

  否定は、もう意味をなさない。現実が、心を一歩ずつ追い越していく。心で「ない」と思っても、理性が「ある」と言っていた。

  主催者の声が、再び淡々と響いた。

  「──いかがですか?」

  「先ほどのご提案、練習という選択肢について、改めてお伺いします」

  「選ぶかどうかは、あなた次第です」

  ミヅキは、顔を上げた。その瞳に、もはや怒りも拒絶もなかった。ただ、ひとつ、確かなことがあった。

  ──これは、もう始まっている。

  「……する。練習……する」

  言った瞬間、妙な違和感が走った。

  それは、声に出したからではない。"どんなふうに言っても、自分のものにならない"という、言語の敗北だった。

  強く言っても、弱く言っても、冷静を装っても──そのどれにも、ミヅキらしさはなかった。

  ただ、何かを認めさせられた人間の言葉だった。

  口に出して、はじめて、それが現実になった。

  そして、取り消せないものになった。

  「では──練習を開始します」

  主催者の声は、真綿のように柔らかだった。

  ミヅキは、言葉を返せなかった。喉が動いて、息を飲み込む音だけが出た。

  まだ、どこかで信じていなかった。

  どこかで「まだ冗談なんじゃないか」「これは、仕掛けられたドッキリなんじゃないか」──そんな考えを、完全には捨てきれていなかった。

  ……だから、立ったまま気を失ったように、意識が落ちたときも。

  「ああ、やっぱり、夢だったんじゃないか」って。

  そう、思えた。

  *  *  *

  目が覚めたとき、ミヅキは、うつ伏せで寝ていた。

  見慣れた感覚のように思えた。体にかかる圧、床の硬さ、呼吸の反動──一瞬だけ、"いつも通り"に思えた。

  (……寝てた? いや、さっきまで……映像が……?)

  頭がぼんやりしている。けれど、すぐに違和感が忍び寄ってくる。

  まず、景色がおかしい。視界が、異様に低い。目の前の床が近すぎる。壁が、異様に遠くに感じる。

  全体が、平坦で、閉じている。

  歪んだパノラマ。左右に開きすぎた視野が、妙に平面的に広がっていた。焦点の合わない"空間の端"までが、脳に無理やり押し込まれてくるような違和感。

  真ん中に、2つしかないはずの"目"が、

  なぜか、いくつもの世界を捉えていて、

  こんなの、『まるで』──

  そう考えてしまったとき、心臓が一度、バクン、と脈打った。

  (い、や……ちがう、ちがうちがう……なにこれ、え、ちょっと、ちょっと待って、これ……こんな、ほんとに? うそ、でしょ……?)

  起き上がろうと、腕をつく。

  その『腕』は──二本ではなかった。

  三本目。四本目。

  意識していないのに、床を押している。

  自分の意志とは関係なく、バランスを取るように、脚が──いや、『脚のような何か』が蠢いていた。

  (……う、ぐっ……あ、わ、ちが、ちがっ……そんな、はず、な……)

  かすれた声にならない音が、心の中でこぼれた。さっきの映像が、脳裏を焼くように蘇ってくる。ミヅキは、自分の腕──だったはずの部位を見た。

  茶色く、硬く、節のある――それは、どう見ても人間のものではなかった。しかも、関節が二段に折れ曲がっている。

  毛のような、触角のようなものが、無数に枝分かれして生えている。

  (ひっ、やだ……やだやだっ、きたなっ……なにこれ、きたない……っ、! ひい……!)

  思わず、拒否するように腕を突き出した。「やめて」と言うように、押し返すように──

  だがその瞬間。茶色くて、硬くて、毛に覆われたその『きたない』が、自分の感覚とともに、バタバタと動いた。

  それは自分自身だった。その"脚"が、思った通りに動いてしまった。感覚が、ちゃんと"通っている"。

  (あっ……!? ああっ、いやあっ、やだあああ!! なにこれっ、なに!? きたない、きたないきたないっ!! きたなっ、やだ、どけたい、どけたいのに……! これ、私……なのっ!?)

  眩暈がした。

  世界が歪む。頭の奥が、しゅうしゅうと音を立てて過熱していく。

  身体の中心──腹の奥から、熱が湧いてくる。それは徐々に、手足の先へと、這うように広がっていく。腹から、生えている、手足に。

  前脚。自分の「手」だったはずの部位。

  今は、感覚としては足に近い。けれど、まだ"自分"のつもりで動かせる。

  後脚。腹から生えている感覚。

  でも、確かに動く。床を掻ける。……これは、「足」だ。

  真ん中の──呼び方もわからない、「脚」。

  でも、意識を向ければ、正確に動かせる。

  熱い。

  怖い。

  でも、それが今の"自分の一部"として、もう疑いようがない。

  嗚咽のような衝動がこみ上げた。叫びたいのに、叫べない。

  怒りも、悔しさも、恐怖も──全部がごちゃまぜになって、胸の中で爆ぜている。

  そして、その爆発は背中にも届いた。

  翅。

  羽ばたくための、半透明で乾いた膜が、背中の奥からぺたりと張りついていた。

  腰でもない。肩甲骨でもない。そのどちらでもない位置に、それは──「在る」。

  (っ、ぐっぅ……むり、むり……こんなの、うごい、てる……っ、私、の、からだ、が……っ)

  喉がぎゅっと縮まって、全身がひくついた。次の瞬間、込み上げるものが止まらなかった。

  吐いた。

  ぬるくて粘ついた個体混じりの液体が、ブッ、ブッ、と音を立てて、口元からぼたぼたと垂れた。どこから出たのかも、もうわからない。

  胃の形も、食道の位置も、自分の中の構造がすべて入れ替わってしまったのだと──今さら、理解した。

  息が止まらなかった。喉がひゅうひゅうと音を立てて、吸うたびに苦味の混じった臭気が奥に残った。でも、それ以上に、体が……熱い。

  まだだ。まだ終わってない。吐いたのに、楽にならない。むしろ熱はどんどん強くなっている。

  腹の奥から、手足の先、羽の根元、触角の基部にまで、じわじわと──熱が滲んでいく。

  (……なにこれ……なんで、まだ……? なんでまだ、終わらないの……?)

  震える脚が、勝手に床を這う。背中の翅が、呼吸に合わせてぴくぴくと動いた。動きたくない。何もしたくない。

  でも、どうしてか──背後が、気になった。

  なにかが、ある。

  ゆっくりと、体をねじる。脚の本数を意識しないようにして、横を向く。

  そして──見えた。

  鏡だった。

  鏡があった。さっきまで気づかなかった場所に、それは無造作に立てかけられていた。「見て」と言わんばかりに。

  (……嫌だ……見たくない……!)

  心が、逃げようとした。でも、視線が、勝手にそちらへ滑った。

  映っていたのは、黒い虫だった。

  茶色がかった外殻。

  つややかに濡れた腹部。

  中間部分から逆方向に曲がった、脚の関節。

  六本の脚。そのうち真ん中の二本だけが、バランスを取るように宙に浮いていた。

  背中には、乾いた膜のような翅が二対。前方からは、くねった二本の触角が、ぴくぴくと──まるで、生きているように、感じていた。

  自分だった。映っていたその"虫"が──自分を見返していた。その単眼と複眼の奥に、怯えと混乱と、逃げ場のない絶望が映っていた。

  ミヅキは、自分が"それ"と目を合わせていることを、自覚した。

  もう、心の叫びすら、声にならなかった。

  *  *  *

  ミヅキは、床にうずくまったまま、何も考えないようにした。何も見ず、何も感じず、ただ、"そこにいる"だけ。体がどうなっているのか、動かそうとも思わない。動けば、また"それ"を知ってしまうから。

  ……時間が、わからなかった。どれだけ経ったのかも、もう感覚が狂っていた。腹に近い場所で呼吸し、脚の本数を意識しないようにしながら、ただじっとしていた。

  けれど──

  その沈黙のなかに、少しずつ"考える自分"が戻ってくる。

  (……三日……そうだ、あいつ……主催者……言ってた……)

  「三日間、練習」

  「そのあとに、本番」

  本番。

  参加者が、五匹のゴキブリの中から、一匹を選ぶ。

  自分が、選ばれなければ──「戻れる」

  でも、選ばれたら──

  (……選ばれたら……?)

  あの声が、耳に蘇る。

  『見事正解を選択できれば、あなたの体は参加者のものに!』

  (……私の体が、「当たり」だったら……)

  その瞬間、ミヅキは、思い出した。

  あの映像。写真に反応した、あのゴキブリ。自分の写真を見せられて、泡を吹いて、ひっくり返って、痙攣して。見ているだけで、体が反射的に拒絶した、あの地獄。

  心臓が──凍った手で、ぐに、と握られたような感触がした。跳ねることもできず、ただ、内側から締めつけられるような、無音の悲鳴。

  思わず、頭を抱えようとした。

  でも、手が──動かない。違う、動かそうとしたはずの"それ"が、節の多い、異形の"脚"であることに気づいた瞬間、理性の輪郭が軋んだ。

  (落ち着け……落ち着け……)

  声にならない声で、自分に命令する。冷静でいなければ。考えることを止めたら──"あっち側"にいってしまう。

  (……ああなったら、私は──)

  (……私の身体は、もう"景品"になる)

  (私は、虫として……終わる)

  ゴキブリとして、死ぬ。ただそれだけの存在として、終わる。

  (……いや、違う)

  死ぬだけなら、まだ──

  まだ、"マシ"かもしれない。映像に映っていた、あの男の顔。よだれを垂らして、人間とは思えない笑顔で、虫かごを覗き込んでいたあの目。

  あんなやつに、虫かごに入れられて──「飼われる」かもしれない。

  私は、虫。

  自由はない。尊厳もない。

  人間相手には絶対にやれないような、人間には適用されない、ルールの外側に置かれて──

  (……なにを、されるんだろう)

  (なにを、"させられる"んだろう)

  想像したくなかった。でも、"想像できてしまった"自分がいた。その時点で、心がまた──ひび割れた。

  ミヅキは、動かずにいた。

  床に腹をつけて、触角をできるだけ動かさないようにして、時間の感覚すら失ったまま、ただ……沈んでいた。

  けれどふと、思い出してしまった。自分がさっき、どんな動きをしていたか。

  バタついた。

  のたうち回った。

  何かを吐いた。

  さっきの映像で見た、あの"当てられた"女の子と、同じだった。普通の虫が、あんな反応をするわけがない。確実に、"中に人間がいる"とわかってしまう挙動。

  (……このままだと、当てられる……)

  自分の動きが、すでに"違反ギリギリ"だった。

  あんな様子を見れば、選ぶ側の人間なら──すぐに気づく。

  (……それだけは、絶対に、だめ)

  声には出せなかった。けれど、その決意は静かに、深く染み込んでいった。

  ミヅキは、ゆっくりと身体を動かしてみた。

  脚を、一本ずつ。「足」だと感じる後脚。「手」に近い前脚。どれも、ぎこちない。バランスが悪い。動きたいように動かない。

  (……当然か。体の構造が、根本的に違うんだから)

  手と足は、まだ"人間のころの記憶"に引きずられている。動かし方も、感覚の流れも、ぎりぎりで理解できる。

  真ん中の脚──手でも足でもない、その奇怪な"肢"ですら、意識を向ければ、動いた。触れたものの感触が、わずかに返ってくる。

  (……こんな部位、あったはずないのに)

  けれど、背中の──「翅」だけは、違った。あれだけは、何度繰り返しても"自分"として結びつかない。

  感覚が、どこから始まり、どこで終わっているのかすら曖昧で、空中に浮かぶ何かを思念だけで操るような、そういう不気味な距離感があった。

  それでも、ためらいながら、ほんの少しだけ翅の根元に意識を添えてみる。

  すると次の瞬間──ばさり、と、音がした。明確に聞こえる風切り音。それは"外"から鳴ったはずなのに、なぜか頭の奥まで響いてきた。

  全開になった翅は、空へ舞い上がるでもなく、左右で非対称に、ばらばらと震えながら開ききっていた。

  羽ばたくでもなく、広げるでもなく、ただ、ぶちまけられたような開き方。

  ──無様だった。ゴキブリとしてさえ、醜かった。

  ミヅキの全身が、ぶるり、と震えた。肌も、目も、脳も、内臓までもが──「こんなものは自分ではない」と絶叫する。翅を開いてなお、まとまりすらないその姿が、ただただ恥ずかしかった。

  (……なに、これ……!)

  「飛ぶ」ための器官が、自分の背中にあるということ。

  それがいま、あんなふうに開いてしまったということ。

  その事実だけで、吐き気がした。

  (……演じないと……)

  (私は、完璧に、"ただのゴキブリ"にならなきゃ──)

  それが、生き延びる、唯一の方法だった。

  *  *  *

  ふと、視界の隅に"何か"が見えた。

  壁の一部。そこに──出入り口のようなものが、あった。

  扉ではなかった。開閉式のパネル。人間なら気づかないようなサイズの、ゴキブリ用の「通路」。ミヅキは、ようやく気づいた。自分がいるこの空間が、"虫かご"だということに。

  外側には、透明なアクリルの壁。その外には──普通のワンルームのような家具が並んでいた。ベッド、机、ソファ。生活感のある部屋が、"虫かご"の外に、再現されていた。

  (これ……家を模した……環境……?)

  出入り口の上部に、文字があった。ゴキブリの目にも読めるようなフォント。

  『※この部屋の中での安全は保障します※

  ──ただし、うっかり外に出て帰ってこれなくなった場合、

  こちらとしては一切の保証をいたしかねま~す♡』

  ミヅキは、全身が冷たくなるのを感じた。

  (……ふざけてる。どこまでも、ふざけてる……)

  その時、香りが漂ってきた。振り返ると──部屋の隅に、"食事"が置かれていた。

  それは、ありえないほど豪華だった。フルーツ。甘いソース。香ばしい肉。レストランでも滅多に見ないような盛りつけと量。

  どう考えても、ゴキブリに向けられたものではなかった。ゴキブリが食べきれるはずもないし、そもそも食べさせる必要もない。

  (……そうか……これは、"そういうこと"、だ)

  わかってしまった。

  自分が今"どこまで落ちたか"を、思い知らせるための、演出。

  今後、二度と、目にすることさえできないもの、それの焼き付け。

  そうとしか思えない。

  (腹が立つ……私を、"ここ"に落としておいて……)

  脚が、わずかに震えた。

  けれどそのとき、その豪華な皿のすぐ横、床に設置された──小さな"紙の家"が目に入った。

  まるで子供のおもちゃのような、安っぽい絵柄。ドアや窓のイラストが、雑にプリントされている。

  屋根には、はっきりと書かれていた。『これも、安全です』。

  ──ゴキブリホイホイ。構造は単純だ。スリット状の入口。たが、内部には粘着剤らしきものは無い。その中に、"何か"がほんの少しだけ置かれていた。

  (……おいしそう……)

  その言葉すら、遅れてきた。

  まず先に来たのは、"反応"だった。

  腹の奥。いや、もっと深いところ。

  呼吸でも消化でもない、生きるためだけに存在する、本能の芯。

  そこが、むずり、と蠢いた。

  理解も、言葉も、いらない。

  香りは、脳じゃなく──脊髄を通して、直接、命令になった。

  豪華な食事より、ずっと強い。

  あの箱の中の、名前も形もわからない"何か"が──美味しそうだった。

  「食べたい」と、全身が告げていた。

  鼻ではない。舌でもない。

  翅の根元、節くれだった脚の付け根、甲殻の内側から、"それ"を求める声が立ち上る。

  ──けれど。

  ミヅキは、ぎり、と脚を踏ん張った。這い寄りそうになる身体を、ありったけの意志で押しとどめる。

  (……私は、人間。あんなもの、食べるわけ、ない……)

  でも、次の瞬間には、もうひとつの声が囁いていた。

  (人間として死ぬか。虫として、生き延びるか──)

  答えは決まっている。考えるまでもない。ただ、香りが、強い。強すぎて、脳が霞む。脚が、勝手に動く。視線が、吸い寄せられる。

  壁際の、あの"家"。『これも、安全です』と書かれた、その箱のなかに──

  ──これまで見た何よりも美味しそうなご馳走が、ある。

  ミヅキは、首を振った。視線を逸らし、脚を止め、ぎりぎりで踏みとどまる。

  でも、わかっていた。この抵抗が、何度もできるとは限らない。

  けれど、踏みとどまった。脚を踏ん張って、視線を逸らして、そちらを見ないように。

  (あれは……私のものじゃない)

  這う。前脚で床を押して。

  時折、触角が揺れて、全身がぞわっとする感覚が走る。

  それでも這った。

  目指したのは、部屋の中央に置かれた"豪華な食事"。

  甘い果実。

  鮮やかな色彩の盛りつけ。

  湿度に包まれた柔らかな果肉。

  そこに、登る。

  脚が果実にめり込み、翅がバランスを崩しそうになる。

  けれど、必死に這い上がった。

  やがて──貪りついた。

  (……あっ……)

  甘い。

  信じられないほど、甘い。

  ちゅる、と舌に似た器官が這い、果肉が崩れ、溢れ出した汁が喉奥へと染み込んでいく。

  (ああ……喉が……かわいてたんだ……)

  潤いが、流れ込んでくる。染みるように、じわじわと、枯れきっていた身体の内部に水分が満たされていく。

  脚が──自然と、動いた。

  六本の脚。

  左右から、それぞれの節が器用に果肉をつかみ、まるで赤子のように、それを"抱きしめた"。

  ミヅキの身体はわずかに丸まり、果実を軸に、曲がった脚で己を囲むようにして、貪り続けた。

  やがて、果汁が伝った。

  甲殻の隙間から、腹の裏へと垂れ落ちる。

  敏感な関節の内側。軟らかく、湿ったその部位に、冷たい滴がじゅるりと染みていく。

  (……ぬる……い……)

  感触に、ゾクリと震える。

  でも、止まらない。

  頭のどこかでは、まだ理解していた。

  外から見れば──これはただの、「餌に群がる虫」の光景だと。

  けれど──いい。

  (食べなければ、死ぬ……生きなければ、戦えない……)

  脚は離れない。汁に濡れた裏側が、じんわりと熱を持ってきた。

  それすら──"生きている証"のようで。

  そして──

  食べれば、出る。

  ミヅキは、部屋の隅へ移動した。排泄は、意識を向ければ自然とできた。それすらも、自分の意思ではない気がして、悔しさで脚が震えた。

  けれど、そのまま"戻った"。ケースの隅。何の変哲もない、床の窪み。

  そこが、一番"安全"な気がした。

  その後どれだけの時間が経ったのか、もう感覚はない。

  けれど、日数はわかる。

  あと、二日。そう、カウントしている自分がいた。

  (思えば──これは、通り魔と変わらない)

  選ばれたのではない。

  私が、何か悪いことをしたわけじゃない。

  ただ、巻き込まれただけだ。

  (部屋に閉じ込めらるか、「虫」に閉じ込められるか……その違いだけ)

  (なら──私は、やれるだけのことを、やる)

  もし、それでも──

  (……それでも、だめだったとしても)

  (私は、人間のまま、死ぬ)

  ミヅキは、そう決めた。

  翅がわずかに動いた。もはや、嫌悪はあったが、恐怖ではなかった。

  まだ、慣れてはいない。

  でも──慣れつつある。

  それが、また恐ろしかった。

  けれど、それでも、進むしかなかった。

  *  *  *

  二日目の夜。

  身体の動かし方は、かなり"慣れて"きていた。

  いや──慣れてしまっていた。

  六本の脚。交互に、三本ずつ地面に接地させて、前後に交差させながら進む。それが"正しい歩き方"だと、身体が覚え始めていた。

  前脚は"手"に近い感覚が残っていたが、もう区別は曖昧だった。中脚は、抵抗なく動くようになった。それが何より腹立たしかった。

  壁も、這えるようになった。

  最初は怖かった。高さへの恐怖ではない。指先──いや、前脚の"先端"が、ペタリと吸い付く感触。吸盤のような、滑り止めのような、その"適応した構造"に──嫌悪感が湧いた。

  でも、登れた。垂直の壁も、天井も、普通に歩くことができた。

  それが、"できてしまった"ことが──屈辱だった。

  さらに。翅。

  一番、厄介だった。

  感覚の構造がまるでわからず、動かすだけで吐きそうになる。

  けれど、何度も練習した。

  飛ばなければ、"普通のゴキブリ"には見えない。

  結果──上手くなった。

  滑空も、制御も、壁から壁への飛び移りも、正確にできるようになった。

  だが、それが最悪だった。ミヅキの中にある「ゴキブリ=暴れるように飛び回る存在」というイメージ。あまりにも『綺麗に』飛べるようになった今、自分の動きはそれとかけ離れてしまっていた。

  調整が必要だった。下手に、荒っぽく、無駄に、揺らす。自分で、自分を──"下手に"見せる練習。それが、いちばん、恥ずかしかったし、悔しかった。

  そして、さらに。"振る舞い"の練習。

  驚いたふり。警戒しているふり。油断しているように見える姿勢。

  この虫には、人間にはない器官がいくつもある。温度、空気の流れ、振動。それらに反応する仕草が、少しずつ"わかって"きてしまった。

  なにが、なにを意味しているのか。どう動けば、"それっぽく"見えるのか。そのすべてを──"自分で考えて"、"自分で実行して"いた。

  (……はらわたが、煮えくり返る……!)

  なぜ"私が"、

  "人間にバレないように"

  "虫を演じる"練習を──自分から、しているのか。

  それは、生き延びるためだ。わかってる。でも、その理屈を受け入れた自分が、許せなかった。

  そして──本番、当日。

  空気が、変わっていた。部屋の光が少しだけ明るくなった気がした。

  足元の床が、ほんのわずかに震えた。

  誰かが、"部屋"に来たのだ。

  ミヅキは、姿勢を低くして、翅を畳み、触角をすっと前に向けた。

  (……始まる)

  *  *  *

  部屋の中に、電子音が鳴り響いた。

  《エントリー完了。選定ゲーム、開始いたしまーす》

  その声とともに壁のスリットが開くち、自分のいる大き目の虫かごの中に、四匹のゴキブリが、カサ……カサ……と音を立てて入ってきた。

  ミヅキは、すでに自分の位置を決めていた。

  壁際。奥まった陰。

  適度に警戒し、適度に怯え、でも行動には移さない──"それっぽい"挙動。

  気配を察して振り向く。

  触角を一瞬だけ大きく振り、そのあとは小刻みに揺らす。

  呼吸は浅く。動きは緩慢に。

  あくまで、"生き物として自然に"。

  《それでは……五匹揃いましたので、参加者の方に入っていただきま──》

  ……間があった。

  《──え、遅刻?》

  ミヅキの触角が、わずかに揺れた。

  《あ、ええと……参加者の方が、少々おくれておりまして……そのまましばらくお待ちくださいませ~~。ごめんなさい~~》

  声は、本当に申し訳なさそうだった。明らかに、嫌がらせのテンションではない。

  (……たぶん、ほんとに"遅れてる"だけだ)

  ミヅキは、静かに確信した。三日間、この"主催者"がどんな存在かを、ずっと考えていた。

  一つは──

  『人間性をぶっ壊したいだけの、イカれたサディスト』。

  希望を持たせて、落として、壊して、殺す。その場合はたぶん、結果がどうあれ、私は人間に戻してもらえることなく、残酷に死ぬ。

  もう一つは──

  「ゲームを、純粋に"ルールあるもの"として楽しんでいるタイプ」。

  もともと後者の可能性が高いと思っていたが──今の反応を見て、答えは出た。

  もし前者だったのなら、たぶん、もっと、私の反応を見て、『楽しむ』。だから、後者だ。少なくとも、「ルール」は守る。

  ならば──

  (……私は、"演じきれば"いい)

  少しでも、人間らしさを出せば、終わる。

  けれど、完璧に「なりきれた」なら──

  (……選ばれる確率は、五分の一)

  (二十パーセント。つまり──逆に言えば、八十パーセントで、助かる)

  ミヅキの胸の奥で、熱が静かに膨らんだ。

  だが、同時に。

  (ミスすれば、確率は、ゼロになる)

  (緊張は……だめだ。緊張しているように見えたら、"当てられる")

  今、自分は、舞台の上にいる。

  そしてその舞台では──

  ("完璧なゴキブリ"を、演じなきゃならない)

  ミヅキは、ほんの少しだけ翅を震わせた。

  偶然を装った、小さな動き。昆虫が、意味もなく反射的にやる、あの"よくある挙動"。

  (……私は、"私じゃない")

  (この身体で、生き残る。──それだけ)

  ゆっくりと、部屋の扉が開いた。ミヅキは、翅を畳んで、じっとそこを見つめた。

  事前の映像では不気味な男だったから、今回も『そういうの』が来ると思っていたが──

  まず目に入ったのは、制服だった。自分の学校の。女子用の制服。

  (え……?)

  足元から視線を上げていく。

  スラリと伸びた脚。日焼けひとつない、なめらかな肌。控えめな胸元にかかる、くすんだ灰色の髪。

  そして──その目。

  冷たいようで、どこか憂いを帯びて、どんな時でも気配を見逃さないような、深い眼差し。

  鼓動が跳ねた。

  翅の根元がピクリと震える。

  (あれ、は──)

  視線が交差した。その"少女"の目が、ゆっくりと部屋の中を見回し、そして──どこにも"迷い"を見せなかった。

  (……私──!)

  自分の姿だった。どこからどう見ても、"雪村ミヅキ"。

  完璧な"見た目"。

  完璧な"存在感"。

  けれど、その中身は──"他人"。

  《今回の参加者様はですね~~追加料金をお支払いいただいておりまして~、『ゲーム中』だけ、一時的にこのお体で参加していただいておりま~す☆》

  ミヅキは、体内に"冷たいもの"が流れ込むのを感じた。

  《あ、あと一応、ミヅキ様ご本人に申し上げておきますと~、ご安心ください! お体での自傷行為や、性的な行為などは一切禁じておりますので~~》

  主催者の明るすぎる声が、空気を裂くように響く。

  (……なっ──)

  一瞬、焦った。その言葉の中に、何か"余計な意味"が含まれているような気がして。背筋がざわっと粟立った。

  だが、もう"始まっている"。

  ピロン、と短い電子音。

  《ゲーム開始まで、あと──30秒》

  ミヅキは、体を縮めた。

  呼吸を抑える。翅を震わせない。

  視線を泳がせず、焦らず、怯えず、でも"自然に"──

  (……私は、虫。私は、"ただのゴキブリ")

  そう思い込まなければ、生き残れない。

  《15分のゲームが、間もなく始まります──》

  始まった。

  ミヅキの身体──"ミヅキの姿をした誰か"が、ゆっくりと虫かごに近づいてくる。

  表情は、冷たい。

  眼差しは鋭く、涼やか。

  ──見た目だけなら、完璧だった。

  あの"自分"が、あの整った顔が、透明なケース越しに、こちらを見下ろしている。

  (……私……)

  心臓が、跳ねた。

  それだけで、触角がぴくりと震えた。慌てて、必死で抑え込む。

  視線が合った──そう思った、次の瞬間。

  「ふッ……! ひィィィ~~……♡♡ ケースに映る、この表情……ッ、ッはァ~~ッ、天井まで飛べるッ……!!」

  声が出た。ミヅキの声で。

  自分の口が、勝手にそんな言葉を吐いている。

  「んふぅ……つば、あま……なにこれ、脳までとろける味……っ♡ この唇、ずるくない……? こんなんで"お話"されちゃったら、全部言うこと聞いちゃうよぉ……♡」

  ミヅキの脚が、ぐらりと揺れた。

  触角が、暴れそうになるのを、喰いしばるように押さえ込む。

  「ねぇ、"当たり"だったら……どうしよっか♡」

  「ずっと考えてたんだよね。ねぇ、"きみ"をさ──誰にも見せないで、ひとりじめにしても……いい?」

  少女の顔が、唇の端をきゅっと歪める。

  「そのまま、潰しちゃってもいいし~? でも、もったいないよねぇ……こんなに、綺麗なのに♡」

  「うちでず~~っと飼ってあげよっか。"いい子にしてたら"ね」

  「餌、どうしよっかな……あ、きみの髪の毛とかどう? これ、細かく裂いて乾かして……はい、あーん♡ とかね?」

  笑っていた。

  自分の顔で、自分の声で。

  ミヅキという存在を、娯楽として消費しながら──本気で、楽しんでいた。

  ミヅキは、全身を震わせていた。

  怒り。屈辱。悔しさ。混じり合って、喉の奥が焼ける。

  (ふ、ふっ、ふざけるな……ッ)

  (私の顔で、なにを……! 私の身体で、なにを──!!)

  このまま消えたい。視界を閉じて、全部終わりにしたい。けれど、それでも──ミヅキの中には、まだ消えていないものがあった。

  それは、怒りではなかった。

  ──誇りだった。

  (絶対に……負けない)

  (こんなものに、奪わせたりしない)

  (たとえ今は、虫の姿でも──私は、"私"を、取り戻す……!)

  ミヅキは、怒りで全身を震わせていた。許せない。奪われた自分の身体で、あんなことを言わせて──ふざけるな。

  (私は、"私"を取り戻す……絶対に……負けたり、しない……!)

  その誓いを胸に刻みつけた直後だった。

  "自分"が、ゆっくりと、手を伸ばしてきた。

  透明なケースの蓋が開き、ゴム手袋をつけた指が差し込まれてくる。

  ──人間の手。

  (……来る──)

  心臓が跳ねた。

  触角が勝手に震え、翅がぴたりと閉じたかと思えば、またぶるっと跳ねる。

  違う。これは練習じゃない。

  今、自分は──本当に"選ばれるかもしれない"側なんだ。

  現実が、音を立てて迫ってくる。

  そんな中で、あの"自分"が、また口を開いた。

  「ねぇ……細胞ってさ、どのくらいで入れ替わるんだっけ?」

  「君の髪の毛だけ食べさせ続けたらさあ、ぜんぶ"君の細胞"でできたゴキブリ……できたり、するのかな? うわ、想像したら鳥肌。……あっ、でもゴキブリって鳥じゃないか、ぎゃはッ♡」

  (……はっ??)

  ミヅキの思考が、引き裂かれる。『私』の髪を、咀嚼して、嚥下して、消化して、吸収して──「私」の体をつくる素材にされる。そんな想像が、脳のどこかで勝手に立ち上がる。

  (何て言った? ……何を言った? 私の……細胞、が、なんだ、って??)

  「ちょっと試してみたいよねぇ。君だけで作った"きみ"……♡」

  「"わたし"、そういうこだわりあるタイプなんで♡ ……ね?」

  背筋を、冷たい針で刺されたような感覚が走る。翅がびくびくと震え、六本の脚が、勝手に床を引っ掻いた。

  ──そして、きた。

  人間の手が、虫かごの中に差し込まれた、その瞬間。

  他のゴキブリたちが、いっせいに跳ね上がった。

  バサバサと羽音が鳴り、カサカサと甲殻の擦れる音が響き渡る。

  ミヅキも──暴れた。

  脚を滑らせ、壁を蹴り、翅をバタつかせて跳ね回る。

  ケースの隅から隅へと、無意味に逃げ惑う"演技"を繰り返した。

  ──選ばれないために。"普通のゴキブリ"のように、ただ、群れの一部として溶け込むために。

  (私は、虫。ただの、虫……)

  頭の奥でそう唱えながら、脚をバタつかせる。

  触角を震わせ、目を逸らし、壁面に貼りつき、また滑り落ちる。

  生き延びるために、"醜く"振る舞う。

  けれど──

  震えていた。恐怖で、わななく体が、ほんとうに演技なのか、わからなくなる。

  ("フリ"……のはず、なのに……っ)

  脚がもつれ、滑って転がったとき。

  甲殻の裏側に、昨夜食べた果実のぬめりが残っていて、それが冷たく粘ついて感じられた。

  (ちがう、演技、演技……っ)

  視線の先には、"自分"の顔がある。

  嬉しそうに、どれを選ぼうか迷っているような──品定めする目。

  「う~ん……どの子が"大当たり"かなぁ~~?♡ みんな必死で逃げ回って、演技がんばってるぅ~! えらいねぇ~~♡♡」

  (いやだ、来ないで……! 見ないで……お願い、見ないで──!!)

  恐怖が、冷たい水のように一気に押し寄せる。

  誇りなんて、意志なんて──まるで風船みたいに、破裂して、消えた。

  (やだ……やだ……たすけて……)

  この手が、自分を掴むかもしれない。

  この身体を、その手が抱えるかもしれない。

  あの"自分"が、笑いながら、じっと自分を見つめている。

  「でも……なんかぁ、こういうの、"本気で嫌がってる感"ある子ほど、当たりって気がするんだよね~~♡ まちがいない。ガチ泣き、さいっこう♡」

  (……いや、いや、いやっ、ちがう、ちがうちがう……いやだ、たすけて、たすけて……)

  ──無理だ。

  逃げたい。けれど、脚が滑る。

  翅が暴れ、空気が重く、どこにも出口がない。

  (死にたくない……たすけて……お願い、やだ……やだやだやだ……!)

  叫べない。

  でも、脳の中では、千回以上、泣き叫んでいた。

  そのときだった。下腹部の──"下に曲がるような器官"が、ぐっと熱を持った。

  (……なにっ……これ……!?)

  いままで動いたことのない感覚が、腹の奥から突き上げてきた。

  圧迫。疼き。痺れ。

  呼吸なんてしていないのに、過呼吸みたいに全身がざわついて、皮膚の裏側が逆立つ。

  意味は、わからなかった。

  でも──"知性"が、理解していた。

  これは「反応」だ。危険のなかで興奮する、"あれ"だ。

  生き延びるために、どこかが誤作動して、いや、もしかしたら正しく作動してしまっている。

  (……吊り橋効果……ストレスと生存本能による……錯覚的な興奮……っ)

  知ってる。理屈では知ってる。

  でも──理解したくなかった。

  反応してる場合じゃない。そんなの、絶対におかしい。

  けれど、器官はうずいていた。

  (違う、こんなの違う……ッ!)

  (ていうか……これ、"見られたら"──まずい!)

  手が、迫る。

  他の個体を、一匹ずつ掴んでは、離す。

  真剣な目。

  自分の顔で、自分を見極めようとしている、その目。

  そして──ミヅキの身体が、掴まれた。

  宙に浮く。

  冷たい手袋越しに、腹部の節のあたりを撫でるような感触。

  ──生理的な嫌悪と、死にたくないという本能が、全身を包む。

  (……っ私は────)

  見られている。

  まさに今、この瞬間、"判断"されようとしている。

  生きるか、飼われるか。

  "選ばれる"か、"逃れる"か。

  (────どうする……!?)

  ・もがく   [jump:2]

  ・何もしない [jump:3]

  *

  *

  [newpage]

  (……もがけ──! いまは、"ただの虫"になりきれ!)

  ミヅキは全身をばたつかせた。脚を震わせ、翅をばさりと跳ねさせる。節をずらすようにくねらせ、腹をひっくり返し、無様に暴れた。

  ──けれど、その動きは自分でもどこか不自然だった。

  (……やりすぎた? いや……これ、ばれた……?)

  恐怖が、遅れて脳を満たす。

  焦りに任せて動いた脚が、今や自分を"普通の虫ではない"と証明してしまったような気がした。

  節の動き、翅のばたつき、脚の順序。

  ──全部、「演技だ」と見抜かれたかもしれない。

  (終わった……おわった……? やだ……やだやだ……!)

  (お願い、見逃して、見逃して……ッ!)

  暴れ続けながら、意識はどんどん沈んでいく。

  "このまま掴まれて、外に出されて、『違うケース』か何かに入れられて、蓋を閉じられて──"

  想像だけで、腹の奥がひくりと震える。

  そのとき。冷たい指が、ぴたりと動きを止めた。

  息が、かかった。

  "自分"の顔が、ゆっくりと近づいてくる。

  眼前に、睫毛の1本。

  肌の細かい毛穴。

  そして──呼吸の熱が、皮膚にぬるく触れた。

  (ちがう……いや……見ないで……!)

  (そんな目で見ないで……もう、わかってる……わかってるから……!)

  見られていた。

  まな板の上で、「価値があるかどうか」を、まじまじと、選別されていた。

  目が、真っ直ぐにこちらを射抜いていた。

  「ん~~~~……」

  唇がわずかに動いた。

  思案の声。軽い吐息のような声。

  でもそれは、誰かの生死を決める者の、重みのない口ぶりだった。

  ミヅキの脚が、自然と止まった。

  止めようとしたのではない。「なにをしても無駄だ」という予感が、心を空にしただけだった。

  "自分"の目が、少し細まった。

  その目が、数秒だけの思索を終え──

  「この子じゃないなぁ~~~。惜しい、惜しいんだけどね♡」

  ──手が、離された。

  ミヅキの身体が、ぽとん、と床に落ちた。

  翅がひるがえり、脚がばらりと開く。

  触角が、震える。

  脚がジンジンと痺れている。

  けれど動かしたらバレる気がして、震えを内側に留めたまま、ぴたりと静止する。

  (……助かった……? ……いや、まだ……終わってない……!)

  油断はできなかった。

  また戻ってくるかもしれない。

  何かを思い直して、「やっぱりこの子」になる可能性だってある。

  けれど──そのまま、"自分"の手は、別のゴキブリへと向かった。

  今度は慎重に、時間をかけて、じっと見つめる。

  「う~ん……きみはさあ、なんか"死に顔"が良さそうなんだよねぇ♡」

  「死んだら、おうちの前に捨ててあげるね~~! あっ、やっぱ犬のウンチのお墓がいいかな? カワイイよね? ウン墓♡」

  声が脳に刺さる。

  視界の隅で、参加者がにっこり笑う。──ミヅキの顔で。

  (……終わった……? 助かった……本当に?)

  心臓が、壊れそうなほど鳴っている。

  でも、ミヅキは見届けた。

  その指が、ただのゴキブリを持ち上げた、その瞬間を。

  「──その子に決めたようですね?」

  主催者の声が、異様に弾んでいた。

  高揚。興奮。熱っぽさ。

  「ではそのまま、箱から取り出していただいて、隣の専用ケースに入れて……フタを閉めたら、"確定"ですッ」

  透明なプラスチックの容器が、カチリと鳴って閉じられる。

  その瞬間、部屋の空気が、変わった。

  選ばれたゴキブリは、ミヅキではなかった。

  どこにでもいる、ただの個体。

  なんの名前もなく、なんの因果もない──けれど、確実に"ハズレ"の一匹。

  ──そして。

  部屋の中央、モニターに結果の映像が表示された。

  参加者が、一瞬、固まる。その表情は──ミヅキの顔のまま、笑っていた。

  けれど、唇だけが、ぴくりと歪んだ。

  「……あ~~~~~っ、まじか……っ。やっちった……」

  苦笑。嘘みたいな、作り物のような。

  ──選ばなかったのが、ミヅキだったと知らされたその瞬間。

  (……私、選ばれなかった……)

  (ほんの、ほんの、すぐ近くで──)

  ミヅキは、震える脚を抱えながら、静かにうずくまった。

  心臓の鼓動が、まだ、止まらない。

  ──時間が、止まっていた。

  確定音が鳴ったあと、ケースは閉じられ、モニターはブラックアウトした。

  部屋の温度が、まるで数度、下がったように思えた。

  選ばれた個体は、そのままケースに放置され、ハズレを引いた参加者は、笑顔のまま──あくまで笑顔のまま──口を歪めていた。

  「は~~~……マジで惜しかったわぁ……」

  「てか、ゴキブリのふり……うますぎるだろォォ……?」

  笑いながら、ミヅキの顔で、吐くふりをする参加者。

  だがその目は、確かに、欲望と未練で濁っていた。主催者は、それすらも愉快そうに眺めながら、拍手のように手を叩く。

  「おつかれさまでしたーっ! いやあ、実に素晴らしい回でした!」

  「ギリギリまで迷わせるパフォーマンス力、まさに芸術の域でしたね!」

  「それでは──お身体のご返却となります!」

  *  *  *

  ……戻ってきた。

  自分の身体に──雪村ミヅキとしての身体に──帰ってきた。

  最初の一瞬、まったく動けなかった。

  膝が笑う。

  喉が震える。

  手の先、指の一本さえ、意識の外側にあるように感じられた。

  でも──少しずつ、取り戻した。

  呼吸の仕方。視線の定め方。筋肉の連動。

  指が動く。眼が合う。

  私は人間だ。

  ──そう言い聞かせた。

  だが、身体の奥底に残っている"あの熱"だけは、どうしても消えなかった。命を守るために発動された、あの誤作動の快感。

  吊り橋効果。ストレスホルモン。

  理屈では説明できる。でも、感覚はまだ残っていた。

  喉が妙に乾いていた。

  下着が貼りつく感触が、いつもより何倍も強く伝わってきた。

  皮膚が、異常に敏感だった。

  崩れ落ちるように床に手をついたとき、

  コンクリートの冷たさが、掌に気持ちよかった。

  火照ったままだった。

  熱が引かない。

  でもそれを誰にも言えなかった。

  這うようにして、立ち上がる。

  足元はふらついたが、それでも──立った。

  主催者が言った。

  「いやあ、本当にお疲れさまでした。ミヅキさん、あの震え方、実に素晴らしかったです!」

  「どうでした? "死ぬかもしれない"って思った時、自分の中の何か、変わったでしょう?」

  ミヅキは、答えなかった。

  ただ、まっすぐに主催者を見据えた。

  少しの会話。泣きもせず、怯えもせず、ただひとつの感情を──焼きつけるように。

  ──覚えておけ。

  次にこの手が動くとき、握るのは"潰す"ためだ。

  そのまま、服を着直し、出口へ向かう。

  自分の足で。

  人間の足で。

  開いたドアの外、吹き込んだ風が、肌を撫でた。

  ──感じる。ちゃんと、冷たい。ちゃんと、自分の皮膚で。

  太陽があった。

  雲があった。

  街の音があった。

  それら全部が、まるで別世界のように遠かった。

  けれど、戻ってきた。

  戻ってこられた。

  だから今度は、取り返す番だ。

  すべてを──あの虫どもごと、這いつくばらせてやる。

  ……けれど、それとは別に。

  どうしても、ひとつだけ、済ませておきたいことがあった。

  *

  風に吹かれても、汗をかいても、体の奥の熱が消えない。

  下腹部の違和感は、その場を離れても、ずっと続いていた。

  あの「反応」は錯覚だったと、わかっている。

  でも──身体が、忘れてくれなかった。

  だから、あの雑多なディスカウントストアの前に立っていた。

  黒と黄色の看板。ペンギンのキャラクター。

  欲しいものがあるわけじゃない。

  ただ、"この熱を制御できる手段"があるなら、手に入れておきたかった。

  入店する。

  視線を感じたが、気にしなかった。

  棚から手に取ったのは、用途がはっきりとしたものだった。

  いくつも。種類も素材も、使い方も違うものを、乱暴に籠へ入れた。

  レジの女が、一瞬だけ視線を泳がせた。

  だがミヅキは、気づいても表情を変えなかった。

  それらは、帰宅直後から、一晩中使われた。

  *  *  *

  ──どうして。

  どうしてあの女が、人間のまま戻ってきてるの……?

  生天目アリスは、呆然としていた。

  誰よりも先に、"あの"ゲームのモニター結果を確認した。当然、参加者が勝利したものだと信じていた。

  だが画面には、無機質な文字でこう表示されていた。

  《残念! ……今回の正解は、引かれませんでした。》

  だから今、あのミヅキが、何事もなかったように歩いてる。

  制服を着て、髪を揃えて、完璧な姿勢で、廊下を歩いている。

  (おかしい……おかしい……っ)

  あれだけのことを仕込んだ。

  金も、手も、人も。ありえないほどのオプションを積み込んだ。

  "強制敗北"は却下された。

  「ゲームにならないから」と、主催者に笑ってはねのけられた。

  だから──可能な限り、ルールの内側で潰しにかかった。

  通常は十匹から選ぶところを、五匹に減らした。

  本来はルーレットによって決まる"変身先"すら、今回は操作されていた。本質的には変わらないからと主催者は言っていた。

  ミヅキが、唯一"本気で嫌がる"もの。あの黒くて、速くて、光沢のある虫。

  ゴキブリだけは無理、と、かつて泣きそうな表情で言っていた──その記憶だけは鮮明に残っていた。

  だから、そこに固定した。

  そして、「追加オプション」の金まで払って参加券を譲ったのは──

  なるべく虫に詳しくて、生理的にきついタイプのおじさんだった。汗っぽくて、喋り方がねっとりしていて、語り出すと止まらない。

  虫が好きで、特に"交尾の話"を妙に熱心に語るタイプの奴。

  ミヅキが最も相容れない種類。いや、ミヅキならそんな相手とでもすぐに打ち解けて、友人になれるのかもしれないが。

  その男に"自分の顔"を与えて、あの姿で弄ばせるつもりだった。

  (……それなのに、どうして……!?)

  あの顔が、あの表情が、今ここにある。

  笑っていない。泣いてもいない。

  でも──負けてなどいない顔だ。

  悔しい。

  悔しい、悔しい、悔しい……ッ!!

  演出も整えた。舞台も完璧。

  ミヅキ・イズ・ゴキブリ。あの美貌をあの姿で葬ってこそ、永遠に汚せると思ったのに──

  アリスは、机を爪で叩いた。赤く塗った爪が、一度跳ねて、机の表面に細い傷を刻む。

  (あの女、なによ……私から、全部奪って……)

  (美貌も、成績も、人気も。なのに、あんな目に遭わせたのに……どうして、平気な顔で立ってるの……!?)

  当然、嫌がらせは続けた。

  ロッカーに水を撒き、SNSで陰湿な工作もした。でも──何をしても、ミヅキは壊れない。

  あの日から、ミヅキは何も言わない。ただ静かに、すべてを見透かすような目でこちらを見るだけ。

  その目が、何より怖かった。

  ──そして、ある日。

  放課後の廊下で、ミヅキが声をかけてきた。

  「アリスさん。……今日、放課後、ちょっとお話があります」

  静かな声。淡々とした口調。でも、どこか──終わりを告げるような、そんな音。

  ──ああ、"それ"っぽいじゃない。いいわよ、付き合ってあげる。

  まるで漫画に出てくる令嬢のセリフのように。小娘が何か言いたげなら、聞いてあげる。優越感を保つために。

  けれど、放課後。

  ミヅキは、静かに、しかし絶対に抗えない口調で言った。

  「──次は、あなたの番。アリスさん。お前を、あのゲームに参加させる。」

  声が、脳の奥に突き刺さった。

  アリスは、目の前の少女を見た。

  まるで何もなかったように笑う、その完璧な"ミヅキ"を。

  そして──

  はじめて、"下にいる"と感じた。

  「……は? え、ちょっと、待って。なに言って……っ」

  「"参加させる"? 誰を? あたしを……?」

  「いやいやいや、そんなの、できるわけ──あんたみたいな貧乏人に、そんな大金、出せるわけ──」

  言いかけたアリスの言葉を、ミヅキは遮らなかった。

  ただ、一拍置いて、静かに口を開いた。

  「ルールを確認した。

  ……"我々とコンタクトがあること"。

  "1回だけ、任意で指名できること"。

  そして、"相応の大金"が必要なこと──それだけだよね?」

  アリスの口が、止まる。

  「だから、私にはコンタクトもないし、そんな大金出せるわけが、って言いたかったのかもしれないけど」

  「──あのあと、ゲームが終わって、主催者に確認した」

  その言い方に、微笑みはなかった。むしろ、感情の色がほとんどなかった。

  「"今回の私の扱いはどうなるのか"」

  「コンタクトがあるってことでいいんだよね? って聞いた」

  「──通ったよ」

  アリスの頬が引きつる。

  「"賞金"は、1350万円だった。……1500万から、150万円引かれてた」

  「そっちがいくら払ったのか知らないけど……たぶんその10倍はくだらないでしょ?」

  「だって──人間ひとりの人生を、確率二十パーセントとはいえ"奪える"んだよ。そんなに安いわけ、ないじゃない」

  アリスの視線が泳ぐ。笑おうとして笑えず、怒ろうとして言葉が出てこない。

  「驚かれたよ。『全部当たってる』って。で、ついでに聞いてみた。──"景品"って、どのくらい需要あるの? って」

  「食いついてきたよ、主催者」

  「相手に喋らせると楽だね。あとはちょっと"期待"を持たせてあげて、ゴールまで同じ間隔で餌を撒くように質問していったら……細かいルールの話とか、こっちが聞きたかったこと、全部話してくれた」

  「最初は"同じ金額の報酬で"とか言ってたけど、細かく詰めていったら──」

  「"1日虫と入れ替えるのに50万円"っていうところから逆算して、そこから条件引き出して、交渉して──」

  ミヅキは、ほんのわずかに首をかしげた。

  「……結局、10倍になった」

  「だから、あと2回──『自主参加』、してきた」

  アリスの脳が、言葉を理解できていなかった。

  けれど、身体は知っていた。いま、目の前のミヅキが、"何をしようとしているか"。

  笑っていない。

  怒ってもいない。

  ただ、目的のために"正しく動いているだけ"の目。

  その目が、恐ろしかった。

  *  *  *

  ──目を開けるつもりなど、なかった。まばたきをした感覚も、眠った記憶もない。

  でも、気づいたら──そこにいた。

  視界は、普通だった。

  床は白く、壁はどこまでも無機質で、天井はなかった。不自然なまでに明るい空間。

  人工的な、ゲームのために"作られた"としか思えない場所。

  (……なによここ……? なにこれ……まさか……!)

  足元には円形の模様。

  上空から照らすような光。

  そして、天井から吊るされたスピーカーのようなものから、甘ったるい声が響いた。

  「ご参加、誠にありがとうございます。それでは、ただいまより、《ゲーム》を開始いたします」

  「ふざけんなッ!!」

  「人殺しっ!! 悪魔っ……!! そんなの、許されていいわけが──っ」

  「これはゲームなんかじゃない……犯罪よ!! 狂ってる!! 絶対に、許されない!!」

  アリスの叫びは、空間に吸い込まれるだけだった。

  返事はない。

  あるのは、冷たい進行だけ。

  「では、ゲームを開始──といいたいところですが、我々も鬼ではありません。まずは、《練習》についてのご説明を」

  「いらないッ!!」

  「そんなのいらないわよ! 今すぐ始めなさいよッ!!」

  「こっちは15分だけ付き合ってあげるって言ってんのよ!? 終わったら殺すッ、全員殺すからッ!!」

  絶叫は、言葉になっていなかった。

  それでも、主催者は小さく苦笑し、進行を続けた。

  「承知いたしました。それでは──」

  そして──ゲームが始まった。

  透明な虫かご。その中に、うごめく5匹のゴキブリ。

  「どぅっふふ……」

  低く、うっとりした声がした。

  ──参加者だった。

  知った顔だった。

  虫に詳しくて、汗っぽくて、喋り方がねっとりしていて、語り出すと止まらない。特に交尾の話を妙に熱心に語るタイプの奴。

  しかもその表情は、"正気のもの"ではなかった。

  「こんな奇跡って……あるんだね……♡」

  「まさか、"あの子"が……参加権、譲ってくれるなんて……ッ!」

  「──しかも♡ "アドバイス"までくれたんだよ……!」

  片手で顔を覆い、肩を震わせながら、うわごとのように続ける。

  「そんなこと、僕でも思いつかない……!」

  「"ゴキブリがちゃんと生きてるって証拠を、意図的に作る"なんて……ッ!」

  「"反応しすぎないように、わざと途中で止めさせる"なんて……そんなプレイ、聞いたことない……!!」

  「悔しいッ……僕のほうが、ずっと、ずっと長くこの世界にいたのにッ……!」

  「くぅっ……才能って……罪だよね……♡」

  アリスは、言葉を失った。

  今目の前にいるこの"男"が、何を言っているのか、まったく理解できなかった。

  「では、参加者の方は、15分以内に1匹を選び、隣のケースに移してください。……あーーーー、まだ15秒も経ってないですよ~~……もう終わっちゃった……」

  「はい、まあそうでしょう。……一応言っておきますと、フタを閉めた時点で……あ~~もう閉めてるし……はい、"確定"です。お疲れ様した」

  参加者の男は、迷わなかった。

  その1匹を、すぐに見定め──そっと持ち上げて、すぐにフタを閉じた。

  「ほんと、ありがとうね……。ぜったい、ぜったい、ぜ~~~~ったい、いいようにしてあげるから♡♡♡」

  ぱたん。

  プラスチックのケースが閉まる音。

  ファイナルアンサー。

  「確定、確認しました。それでは、正解発表に移ります──」

  ──結果は、映し出された。誰かが微かに笑った。

  そして、終わった。

  男の巨大な手が、透明なカプセルに収められたそれ──アリスの入った"それ"を、宝石でも扱うように、慎重に、そっと持ちあげる。

  男は、痙攣するように肩を震わせていた。潤んだ目で、抱きかかえられる"それ"を見つめながら、口を開いた。

  「っ……っ、ありがとう……! ほんとに、ありがとう……っ!」

  「うわぁ……すごい……本当に……本当にこの子が……僕の……」

  「ちゃんと、言われたとおりにするよ……途中で止めて、ちゃんと反応が残るようにして……!」

  「アドバイスくれたもんね……! "そうすれば、もっと愉しめる"って……ッ!」

  ──その声に、答えるように、ゆっくりと足音が響いた。

  そこには──ミヅキがいた。制服姿。完璧な姿勢。穏やかな目。ただ、口元だけが、かすかに笑っていた。

  男の目が見開かれる。興奮とも、恐怖ともつかない色が宿った。

  まるで、"神様が自分の前に現れた"ような顔だった。

  「いっぱい遊べると思った?」

  「アドバイスまでしてあげたもんね。私のときに、あなたが言ってたことを──もっと『良く』したやつ」

  一拍置いて、少しだけ顔を傾ける。

  「──でも、やっぱりあげない」

  男の顔が、ぐしゃりと歪んだ。

  まるで、心臓を引きちぎられるような顔だった。

  ……そう。"失った者"の顔。

  そこで画面が切れる。代わりに映し出されたのは、ひとつの"肉体"だった。

  アリスの体。だがその中身は、もうアリスではなかった。

  背筋も伸ばせず、関節も満足に扱えず、ぐったりと崩れたまま、四つん這いで地を這っていた。

  よだれを垂らしながら、意味を成さない声を漏らしている。

  甲高く、時に低く、リズムもなく叫ぶだけの"音"。

  ──中身がもう、"人間ではない"ことは一目瞭然だった。

  奇声。

  痙攣。

  目は焦点を結ばず、唾を飛ばしながら舌を出し入れするその姿は、もはや"誰"でもなかった。

  「……いらないよ、そんなの」

  ミヅキの声が、最後にもう一度だけ届いた。

  カメラ越し。表情は穏やかだった。けれど、言葉だけが残酷だった。

  「どうせ、二年ぐらいすれば、『定着』するんでしょ?」

  「そのときは……きれいな性格になってるといいね」

  パタン、と。

  ドアが閉まる音が、空間に残った。

  *

  ──しばらくして。

  何枚かのティッシュにくるまれた黒い塊が、そっと便器に落とされた。

  中で激しく蠢いていたそれは、必死に、紙から這い出ようとしていた。脚がはみ出し、触角が空気をかき、明らかに"助け"を求めていた。

  だがすぐに水が流れ、白い渦が、それごと静かに呑み込んでいった。

  【END1 『きれいになってね』】

  *

  *

  [newpage]

  ──何もしなかった。

  暴れなかった。叫ばなかった。動かず、ただ、じっとしていた。

  それが「本物らしさ」なのかどうか、ミヅキにはわからなかった。けれど、脚が動かなかった。触角が固まったまま、視線だけが僅かに泳いでいた。

  ──人間の手が、すぐ目の前まで来て、止まった。

  そのとき、体内のどこかがひくりと痙攣した。

  股間にあたるはずの器官──腹節の奥、湿って熱を帯びた部位が、ぴくりと震えたまま、疼いている。見られたわけでも、触れられたわけでもない。けれど、それがたまらなく恥ずかしかった。

  そして、手は──去った。

  (……たすかった……!?)

  心臓がバクバク鳴っている。触角の先まで痺れている。

  でも、選ばれなかった。掴まれなかった。脚の震えは止まらないけれど、それは「ここにいられる」という希望だった。

  (よかった……よかった……!)

  助かった。選ばれなかった──そのはずだった。安堵が、少しだけ呼吸を戻しかけた、そのとき。

  カサカサと、他の個体がまた動き出す。視界の端に、うっすらと"自分"の顔が映る。笑っていた。まだ、終わっていなかった。

  「──よし、もう一周しよっか♡」

  何気ない一言だった。

  でも、それが"地獄の続きがある"と告げる呪文に聞こえた。

  「うーん、さっきピクリともしなかったのが怪しいんだよなァ……」

  「ていうかぁ、ほんとにこのなかに人間入ってんの? だとしたら……フリすんの、うますぎるっしょ。マジでわかんないんだけど」

  (やめて……やめてやめて……もう、こないで……っ)

  思考がまとまらない。意識が崩れる。触角が震え、節の隙間からじわりと冷汗が滲む。

  脚が勝手に動きかける。動かしたら終わる。わかってる。でも、動かなきゃ終わるんじゃないかとも思う。どっちでも終わるなら、なぜこんな選択を……ッ

  (あああああああッ……!!)

  喉がひゅっと鳴った。声にならない声が、身体のどこかで漏れた。翅がカサカサと動く。他の個体とぶつかる。ぶつからないようにしていたのに。

  身体が勝手に逃げようとしてる。けれどそれもまた、目立つ。

  「この子……違うね」

  別の一匹が、掴まれた。視線の先で浮かぶ。ほんのわずかに脚が震えていた。

  でも──それだけ。

  「うん、たぶんハズレ。ざんねーん」

  投げ出される。そのままケースの中にポトリと落ちる。

  (あ……やめて……)

  「じゃあ、次ぃ」

  別の個体が掴まれる。今度は翅がバサついた。でもそれも「普通」に見えたらしい。

  「これも違うねー」

  また、捨てられた。

  (わぁぁああ……あああぁぁ……やだ、やだ、やだ……ッ!)

  心の中で何十回も叫んだ。頭の芯が焦げるように熱い。

  でも、股間に相当する部位はまだじんじんと熱を帯びていて、それがいちばん、どうしようもなく恥ずかしい。

  他のどの感情よりも、それだけが鮮明だった。

  ──見られてはいない。でも、反応している。それが、死より怖かった。

  「この子も違う、かぁ……」

  また一匹、見送り。

  (確率が……上がっていく……)

  あと、何匹? あと、何回? あと何秒?

  なぜこんなにも、世界が狭く、音が大きく、息が苦しいのか。

  昆虫の身体は呼吸しない。でも今、肺が爆発しそうだった。

  (こないでこないでこないでこないで──!)

  「……この子が、いちばん"怪しい"んだよねぇ……っ!」

  ──掴まれた。

  その瞬間、器官が跳ねた。視界が揺れた。

  皮膚の内側が裏返るような嫌悪と、焼けつくような羞恥と、全部ひとまとめになって、脳に突き刺さった。

  (いや、やめて──やめてやめて、触らないでッ!)

  脚が暴れようとした。けれど抑えられた。翅がバサついた。けれどそれすら、見世物のように扱われた。

  冷たい指が腹部の節を撫でる。産卵管の周囲、軟らかくて脆い部位を、確認するように押される。

  ピクンと震えた。

  それが──"反応"だと、相手は気づいた。

  「……ああ、やっぱり。これ、あるよね? ここ。ちゃんと震えるんだ……♡」

  「この子、ぜんっぜん動かなかったのに、いまビクビクしてるしぃ……」

  「当たりだ。間違いない」

  「ねえ、中の人♡バレちゃったねぇ♡」

  (ああああああああああああ──ッッ!!)

  ミヅキの理性が、焼けきれた。

  逃げたい。隠れたい。消えてほしい。

  なんでもいい──やめて。やめて。やめてやめてやめてやめて──!

  でも、やめてはくれない。

  この身体は、いま──"選ばれようとしている"。

  それを回避するには、何かを選ぶしかない。

  けれど──選べば、動いてしまう。動けば、もっと確定してしまう。

  どうすればいい、どうすれば助かる、どうすればここから生還できる。

  わからない。わからない。わからない。

  私は──

  ・噛みつく    [jump:4]

  ・脱走する    [jump:4]

  ・翅を広げる   [jump:4]

  ・暴れる     [jump:4]

  *

  *

  [newpage]

  翅が広がった。

  限界までバサリと開き、音を立てて振動した。

  同時に、脚を振り上げ、近くの手指に向かって噛みついた。

  節が悲鳴を上げるように軋む。自分でも知らなかった反射が走る。

  もう、どうでもよかった。逃げられるなら、醜くてもいい。壊れてもいい。

  暴れた。六本の脚をばたつかせ、触角を振り、腹部を折りたたむようにして、必死に揺さぶった。

  (離して……ッ! 離せ、離せ離せ離せぇええええ!!)

  でも──離してはくれなかった。

  それどころか、逆だった。

  掴んでいた手の力が、強くなった。

  「あっ……暴れるってことは、やっぱ中に人いるってことだよね♡」

  「そっかぁ、ほんとにいたんだぁ~。さっきはよく我慢してたんだねぇ……えらいえらい♡」

  「でも、バレちゃったら、もう我慢しなくていいんだよ?」

  やめて。

  その言葉がいちばん、いやだった。

  誉めるような口調。慈しむような声。

  なのに──すべてが嘲笑だった。

  もう一度、噛みついた。けれど、歯が立たない。

  羽ばたいた。翅がひどく重く感じた。

  脱走しようとした。けれど、大きな手で簡単に「蓋」をされてしまって、それもできなかった。

  何を選んでも、何をしても、何を叫んでも。

  全部、無意味だった。

  「はい、確保~♡」

  「この子に決まりだねっ♪ おめでと♡」

  その言葉が突き刺さるたびに、体がぴくりと震えた。

  体液が、じわりと節の隙間から滲み出しているのが、自分でもわかった。

  やめたいのに、止まらなかった。それが、いちばん恥ずかしかった。

  ──そして、取り出された。

  「その子に決めたようですね?」

  上から降ってきた主催者の声は、異様なほど弾んでいた。

  高揚。興奮。熱に浮かされたみたいな明るさ。

  けれど、「自分には向いていない」温度。

  「ではそのまま、箱から取り出していただいて、隣の専用ケースに入れて……フタを閉めたら、"確定"ですッ♡」

  (あああぁぁぁぁ……? うそ……こんなの、うそ……!)

  (ありえない、こんな……私が、こんな……っ!)

  ミヅキの体は抵抗ひとつできず、別のケースの中に、乱雑に転がされた。

  脚が上を向いて突っ張り、翅がばさばさと震えたあと、だらりと垂れ下がった。

  腹の奥が、きゅう、と収縮する。底部が、まるで勝手に、意志もなく、暴れだしていた。

  (……ちが……これ、なに……っ! こんなのおかしい……)

  そこに誰の手も触れていないのに、腹の奥の器官がうごめいていた。無理やり絞り出すように、全身の水分がそこに向かって集まってくる。

  拒絶の言葉だけが、かろうじて浮かぶ。

  (あ……あっ……ちが……っ! ふざけんな……ッ! ふざけ……!! これ……ありえない、こんなの……!)

  でも、来ていた。

  圧が、来ていた。

  快感という言葉では足りない。

  これは、ただの反応──死にたくないという本能が、勝手に発情を起こしてしまった暴走。

  止まらなかった。

  (やめろ……やめろやめろやめろ!! 汚い……こんなの、気持ち悪い……ッ!)

  外では、軽やかに声が響いていた。

  「では、よろしければ"確定"をお願いします♡」

  「フタを閉めていただいた瞬間から、その子は正式に"参加者のもの"となりますので♡」

  もう、「それ」は決まりかけていた。

  選ばれる、閉じられる、分類される。

  ミヅキがなにを言おうと、なにを思おうと、それはもう変わらない。

  "誰のものでもない存在"だった自分が、これからは"「所有物」として扱われる存在"に変わってしまう。

  それが、じわじわと、何の引っかかりもなく進んでいくことの恐怖が、静かにのしかかっていた。

  ──そして、それとはまったく関係なく。

  身体の、腹の奥。

  産卵管の基部が、熱を持ち、勝手にうごめいていた。

  本能も、判断も、恥も、なにも介在していない。

  ただそこだけが、決まるよりも先に"決壊しそう"になっていた。

  それに意味があるわけじゃない。

  止めたところで、認識されるわけでもない。

  (なにか来る……やだ、やだ……! これ……ほんとに出る……? ほんとに……出ちゃうの……?)

  (……うそ……やめろ、やめて……お願い、お願い、お願い……!!)

  だがそれは、心の奥底からの"泣き"だった。

  懇願。否定。恐怖。羞恥。

  けれど、もう分かってしまっていた。

  腹の奥で、出てくるためのものが、蠢いている。

  産卵するでもないのに、その部分の「根っこ」が、内側からパンパンに膨らんで、今まさに破裂しようとしていた。

  脈打つように熱い。内臓の底を這い上がってくるような、逃れようのない"圧"。

  (やだ……いやだ、やだやだやだ……お願いだから……止まって……!)

  「いい? じゃあ、閉めるね♡」

  「3、2──」

  脚が、突っ張った。

  「──1♡」

  ──ぱたり。

  その瞬間、腹の奥で、はじけた。

  ぶしゅっ、と音を立てて、熱く濡れた液体が噴き出した。

  産卵管が暴れるように跳ね、腹節が波打つように痙攣した。

  脚は空を向いたまま硬直し、翅がびくびくと震えたまま貼りつく。

  仰向けのまま、体が丸まっていく。

  一度、果てた。

  けれど、それでは終わらなかった。

  再び、震えが戻ってきた。

  引き絞るように腹の奥が蠢き、またじわじわと、液体が内側で煮え立っていく。

  もう誰も見ていない。もう誰も気にしていない。

  でも身体は、まだ、反応し続けていた。

  (……っ、ぐ、ぐう……ううッ──ああああっぁぁ!! わあああああッ!! やだ……いや、ぁああ……っ!)

  悔しい。情けない。意味がわからない。

  何が「出た」のもかわからない。

  でも、出た。

  そして、それを誰も気にしていなかった。

  「確認完了、確定しました♡」

  「ケース閉鎖、ロック完了でーす♡」

  「じゃあ次、正解発表に行きましょっか~」

  会話が、どこまでも軽かった。

  まるで、自分がいなかったみたいに。

  仰向けのまま、小さく震えるミヅキの身体は、

  もう、自分であるかどうかもわからなかった。

  ──そのときだった。

  ケースの向こう側に、ひとつの影が立った。

  覗き込んでいたのは、自分の顔だった。

  なにも言わず、笑っていた。

  その笑みは、どこまでも自然だった。

  まるで──"かわいいペット"を見るときの顔だった。

  ミヅキは、喉の奥で搾り出すように、震える声を吐いた。

  (……ころして……お願い、はやく……ころして……っ)

  その声は、届かなかった。

  虫の声は、届かない。

  意思も、尊厳も、伝わらない。

  そして──その"自分"が、口を開いた。

  「……これから、"よろしく"ね──」

  透明なケースの内側で、

  ミヅキの触角が、かすかに震えた。

  【END2 『よろしくね』】