ケモホモ男子寮(公認)に放り込まれた俺の受難な高校生活13

  青色の柔らかい椅子に乗せられて、外せないシートベルトをつけながら、ゴォーという謎の異音に包まれて、乗務員の人にもらった毛布を握りしめ。

  「うわっ、海綺麗っすね!やばっ!」

  「………………うるせぇよ」

  俺は今、篠崎と共に飛行機に乗っていた。

  周りには多種多様な獣人が座っていて、寝ている人やなんか見たり食べたりしている人がいる。飛行機のシートは柔らかくゆっくり寛げそうなものだが、俺は周りの人のようにリラックスすることはできなかった。人生で二回目の乗り物ということもあるし、安全だろうなと思いつつもどこか不信感を持っているせいで、緊張感が拭えない。加えて篠崎が隣にいるんじゃ、ゆっくり寝るのも難しかった。

  篠崎の言葉を聞いて、小さな窓の外へ少し視線を投げると、そこには眩しい日差しを受けキラキラと輝くエメラルド色の海が広がっていた。誰がどう見たって美しいと言う大自然。久しぶりに見た俺のテンションが少しは上がるかと思いきや、ピローンという音と共に流れ始めた機内アナウンスに再びドキドキさせられる。

  『当機は、まもなく芦国空港へ着陸します。シートベルトの着用を………………』

  「あっ、もう着くんすね…………えあれ、もしかしてセンパイずっと付けてたんすか?」

  「……………………………………………………」

  飛行機に乗るのはやっぱり心が落ち着かなかった。単純に乗り物として慣れないのもあるし、もし落下したらという怖さもある。乗ったときには注意事項みたいな動画を見せられて、さらに不安を煽られた。電車すらようやく慣れ始めた俺が飛行機に慣れるのはだいぶ先の話だろう。

  少しして、ガクンガクン、と揺れが起きる。機内アナウンスも何か言っていたが耳に入ってこない。離陸と着陸は多少揺れると聞いていたが、こんなに揺れて大丈夫なんだろうか?

  横の篠崎は呑気に携帯を弄っているし、いよいよコイツを信じて安心していいんだろうかと思い始めたくらいに、飛行機がゆっくりと地面に着陸したのが窓から確認できた。揺れも収まり、余力で滑走路を走り抜けている。

  ふぅ、と大きいため息をつく。

  とりあえず島に着いたのに一安心だが、ここから家に帰るまでも時間がかかる。そして交通機関も色々と使わないといけない。

  「センパイ大丈夫すか?」

  「………………………………あぁ」

  ニッコリと笑う篠崎に、疲れ顔しか返せなかった。

  篠崎が俺の帰省に同行するのが決まったのは、お盆休みの五日前だった。簡単に言えば、篠崎が着いて行きたいと言い出したのを、じぃちゃんが了承してしまっただけだ。

  帰省の少し前に、じぃちゃんと電話で話していたところにたまたま篠崎が通りかかって、俺の話を聞いて行きたいなーと溢した言葉をじぃちゃんが拾ってしまった。当然俺は反対したが、反対理由を言うのはとても難しい。篠崎と俺の関係をじぃちゃんに詳しく説明するわけにもいかないし、途中から会話に加わり始めた篠崎がまたうまいこと話を運ぶせいで、どんどん同行の予定が進んでしまった。

  篠崎は両親がいないし、実家という実家もなく、元々は寮にいるかお姉さんの家に行くかくらいの感じだから、向こうの家の了承も一瞬で、気づけば飛行機まで隣になって、あれよあれよという間に俺の帰省から出発まで、ずっと一緒にいることになったのだ。

  ただ、篠崎がいて助かったと思うこともある。飛行機や電車等に乗るときに、都会育ちの篠崎は本当に頼りになった。こっちに乗るにはこっちに行けばいいとか、わからないこともすぐ調べたり聞きに行けるコミュ力もあり、とりあえず篠崎に着いていくだけでここまで来れてしまった。俺一人で無事に帰れるか、それを心配しての篠崎の招待だったとは思うが、それにしてもじぃちゃんはやけにすんなり受け入れているように思った。まぁ家は人数の割に広いし、一人泊めるくらいなんてことないけれど。

  篠崎の後を着いて飛行機を降りたあと、空港内も何がなんだか分からないまま出口まで来たらしい。標識なんかも見ながら必死に理解しようとはしたが、ずんずん進む篠崎のスピードには到底追いつけなかった。

  「うわぁ……マジ最高っす!センパイと南の島とか、俺ほんと幸せっすよ……!」

  噛み締めるように言葉を連ねる篠崎の横で、俺は軽く伸びをする。感動するのは勝手だが、まだ帰れたわけじゃない。ここからの道のりも重要だ。

  「分かったって。で…………ここからバスで二時間かけて港に行くけど、そのバスが…………えー………」

  一応出発前に確認してメモしたんだけど、調べた内容と現実とではやっぱり差があるものだ。

  今俺たちがいるのは空港の入り口付近。外には大きな駐車場のようなものが見えているから、このまま出ればバス乗り場もある……のだろうか?

  すると横で篠崎が俺のメモを覗き込みながら、片手で器用に携帯を操作している。

  「バスが出るのあと十五分くらいっすね。そこの売店でなんか買ってきましょうか?」

  「え?そうなのか?」

  「このバス三時間に一本しかないみたいなんで、乗り遅れたら面倒っすね!」

  明るく怖いことを言う篠崎に少し引きつつ、気づけばすぐそばにいる体をそっと離す。

  「…………近ぇよ。お前、何度も言ったけど、ホントに気をつけろよ」

  「はぁーいす。本当はセンパイとずっとイチャイチャしてたいんすけどね」

  「いつもしてるみたいな言い方やめろ……」

  「あ!じゃあ、バスの中はいいすか?港に着いたら絶対離れるんで!!」

  「ダメだろバカ。水買ってきてくれ」

  はいっす!と元気に背を向けて売店に直行する篠崎に、自然と笑みが溢れる。いつにも増してテンションの高い篠崎からは、陽気しか感じ取れない。夏休みに入ってからはそんなに二人きりの時間を作らないようにしてたし、三下先輩と寝ていたから、篠崎とのこういう空気は久しぶりだった。何でもかんでも俺のことを優先して、頼み事も嫌な顔せずやってくれる。なんかこいつ俺のこと前より好きになってないか?と錯覚してしまうほどだった。

  篠崎が売店で軽い買い物をしたあと、そのまま空港から出てバス乗場へと向かった。一度東京の空港を見てるからか、駐車場やらバスやら、どこかこじんまりと小さく感じてしまう。しかしこの凄まじい日照りと南国の蒸し暑さは、数ヶ月ぶりに感じるととても懐かしく思い、篠崎に言えないほど俺も少しワクワクしていた。

  バスに乗り込んだあと、一番奥の端の席に荷物を置いて陣取ると、ようやく飛行機の緊張感から解放されて、一種の安堵を覚えた。あとは港まで乗るだけだが、かなり時間はかかるのでどうしようかと考えた最中、隣の篠崎はウキウキした様子だった。

  「いやぁマジいいっすね!ヤシの木いっぱい生えてるじゃないすか!南国感すげぇ!」

  「こんな綺麗に整備されてんのは空港の周りだけだぞ。ちょっとしたらただの田舎になる」

  「住んでる人からしたらそうかもっすけど、俺からしたら全部エモいっすよ!離島とか行ったことないんで!」

  「ふーん。でもその割には飛行機乗るのスムーズだったな」

  「旅行は親戚に連れられてちょこちょこ行ってたんすよねぇ。でも本州ばっかなんで、南国はホントに初めてっす!しかもセンパイと一緒だし!!」

  止まらない尻尾を振り回しながら、少し肩を寄せる篠崎。あんまり混んではないとはいえ、バスの中でアプローチしてきたら流石に変に思われる。肘で軽く小突くと、渋々といった様子で体を離した。

  今回篠崎が同行する上での決まりごとは、島の人達の前では一切スキンシップや告白も無し、ということだ。当たり前といえば当たり前だが、俺の地元の超田舎の人達は同性愛者に全く慣れていない。そして小さいころからの俺を知ってる人ばかりで、寮での俺と篠崎のやり取りを見たら本当にややこしいことになるだろう。素振りでも見せるなと再三言い聞かせたものの、テンションが上がった篠崎がうっかりをすることは当然あり得る。だから未然に距離を取るようにしていた。

  「本当に、気をつけろよ」

  「分かってるっすよ。でもこんぐらいの距離感ノンケでも全然ありますって。過敏になりすぎると逆にバレちゃいません?」

  「…………そうか?」

  「小中普通の学校に居たから分かるっすよ。体育会系なら全然普通っす」

  「…………………………………………」

  なんか言いくるめられてる感があるけれど、確かに過剰反応したらそれはそれで違和感があるかもしれない。俺も俺で気をつけよう。

  「でもそういや、お祖父さんはセンパイを稲光に入れたんすよね?じゃあ大丈夫なんじゃないすか?」

  篠崎の当然の疑問に、俺も思わずため息をつく。

  「分かんないんだよ。じぃちゃんが俺をどういうつもりで稲光に入れたのか。ゲイの素振りなんて一切無かったのに」

  「電話とかで聞かなかったんすか?」

  「初日の夜に聞いた。でもなんか別の話題にされて詳しく聞けなかった」

  俺が入寮してすぐ、こーすけから稲光の真実を知って急いでじぃちゃんに電話した。だがもう帰りたくなったのか、とか、たった一日で電話するな、とか、違うことで怒られて聞けなかったのだ。

  じぃちゃんは無口で寡黙、気難しくて頑固な人だった。冗談を言ってるところも見ないし、大笑いしてるところも見たことがない。とはいえ別に仲が悪いわけではなく、お互い唯一の家族として通じあってるつもりだった。しかし稲光の件は本当に何を考えてたのか分からないし、聞いても教えてくれない。だからなんとしても今回の帰省で聞き出さなくてはならない。

  「お祖父さん声渋かったっすね。どんな人すか?」

  「…………基本無口だよ。何考えてるかはあんまり分かんねぇ。でも賑やかなところにいるのは好きっぽくて、いつも端っこで酒呑んでる」

  「うーん職人さんみたいな??」

  「近いかもな。真面目なんだけど、たまに行き過ぎて頑固になる。でも昔っから八重木島に住んでるから、めちゃめちゃ知り合い多いんだよな」

  じぃちゃんは島生まれ島育ち、本島の外には出たことがないという根っからの田舎者だ。だけど何故かあっちこっちに知り合いや友達がいて、特に島の中だととても顔が広い。それに付随して俺も昔はよく知らない人から一方的に認知されてることがあった。

  「なんだかんだ愛されてるんすね」

  「………わかんねぇ。家族だけど、じぃちゃんになってからしか知らないし」

  「でもセンパイとはわりと似てないっすね。頑固って感じじゃないし」

  「俺はカイとずっと遊んでたから。どっちかっていうとカイの両親にお世話になった感じだ」

  俺と幼なじみのカイは、それこそ産まれた病院から一緒で、高校二年生まで本当にずっと一緒に過ごしてきた。カイは俺より背が低いし、昔は泣き虫でよく慰めてた覚えがあるが、今では恋人もいてしっかり漁師として働いてるようで、もう精神的にはカイの方がずっと大人かもしれない。

  そしてカイの両親はカイと同じくらい俺の面倒も見てくれてて、やはりじぃちゃん一人では出来ないことをたくさん助けて貰い、五人で食卓を囲むことも幾度となくあった。

  「幼なじみっすよね?いいなぁー俺もセンパイと幼なじみだったらなぁ」

  「変なこと言うな。カイも普通のノンケだから、絶対バレるなよ」

  「心配し過ぎっすよ。どんだけ俺信用ないんすか」

  「いつもいつも所構わず抱きついて来てんだろが。人目気にしなさ過ぎんだよ」

  「え、じゃあ二人きりならいいってことすよね?」

  「…………ホントに二人きりなら、まだな。でもそんな状況無いぞ」

  「えっ!マジすか!ついにハグの許可くれるんすか!」

  「してねぇよ!」

  ヒートアップして大きくなりそうな声を慌てて抑える。流石に無いとは思うが、じぃちゃんの知り合いが乗ってる可能性だってある。少なくとも公共の場では控えるべきだ。

  篠崎に抱き締められるのは………別に嫌じゃないときもある。だからタイミングさえ選んでくれたらいいのに、会うたびに抱き着いてくるから俺も突き放したくなるのだ。それをコイツが分かるのはいつになるんだろうか。

  俺の強めの拒絶も意に介さないようで、篠崎は窓の外に映る景色に携帯を向けている。さすがの俺も、写真を撮ってSNSとかにアップしている、ってことくらいは分かる。ここ数ヶ月散々恥じかいてきたからな。

  「………インスタとかいうやつにアップすんのか?」

  「え?あーー悩んでるんすよね……センパイとのバカンスを自慢したい気持ちもあるし、独り占めしたい気持ちもあるんすよ!」

  「…………よくわかんねぇけど、それってこーすけとか久郷田先輩も見れんのか?」

  俺の不安は、今回篠崎だけを島に連れてったことによって、二人に嫉妬されないかということだった。だから隠すように早々と寮を出たものの、全て隠しきれないのはもちろん分かっている。だがこうでもしないと絶対俺も連れてけと名乗りを上げるに決まっている。万が一じぃちゃんがそれを受け入れてしまったら、せっかく帰省するのに何の安らぎも得られない、いつもと変わらない生活になってしまうだろう。隠し通せなくとも、後からめんどくさくならないようにしたかった。

  「あぁ、見れるっすね。フォロワーじゃなくても、寮生とか友達繋がりから知るかもしれないですし」

  「…………じゃあ載せるな。絶対めんどくさくなる」

  「…………そっすね!誰にも邪魔されたくないっす」

  少し考えてから篠崎は携帯をポチポチと操作し始めた。きっと時間の問題でバレるような気がするけど、休暇が終わるまではのんびり過ごせるだろう。篠崎が大人しければ。

  「ほら、機内モードにしたんでネット繋がんないっす」

  「…………つまり?」

  「誰からも連絡こないってことっす。でもカメラは使えるんで、センパイとの思い出撮りまくるっすよ!」

  「………………まぁ勝手にしろ」

  俺の呆れ顔にもニコニコと笑いながら、窓の外を眺める篠崎。ふとその後ろ姿を俯瞰で見ると、いつの間にか背が伸びたな、と感じた。隣に座っているだけだが、俺よりも少し頭の位置が高い。前は同じくらいだったのに、改めて感じるくらいには離れてしまったということだ。

  複雑な気持ちで篠崎を見ていると、急にくわぁと大きな欠伸をした。

  「ふぁぁ…………あー……昨日全然寝れなかったんで眠いっすわぁ」

  「荷造りでもしてたのか?」

  「いや、フツーに楽しみすぎて寝れなかったっす。飛行機で寝ればよかったなぁ」

  「小学生かよ………まぁ港までしばらくあるし寝てればいいんじゃねぇか?」

  「そっすねぇ……まぁ景色は帰りも見れるすもんね」

  いざ意識し始めると急に欠伸が増えた篠崎は、だんだんと瞼を重くし、頭がコックリと俯いた。俺も寝付きがいい方だが、いつも篠崎は俺より早く眠りにつく。寝相は悪くないがたまに唸り声をあげるときがあるので、バスで出さないといいけど。

  篠崎の体の向こうに見える外の景色は、久々に見ると考え深いものだ。この辺は空港の近くで、人が住んでたり観光地があったりするわけじゃない。遠くに山が見えて、手前にサトウキビ畑が広がっている。青い空には絵の具で描いたような白い雲が浮かんでいて、夏の日差しも冷房の効いた車内まで射し込んでいた。

  篠崎のクリーム色の毛の縁がキラキラと輝いたとき、不意に篠崎の頭が俺にもたれかかってきた。寝ているから仕方ないとはいえ、俺は肩をぐいっと動かして、篠崎を反対側にもたれさせた。

  起きる様子は微塵もない篠崎に、俺は小さくため息をついた。

  車窓を眺めているうちに、みるみる景色は見知ったものになっていった。本島はちょくちょく来ていたし、道なんて数本しかないから、色褪せた道路標識や観光客向けの看板を見るたびに、少し懐かしい思いになる。うねうねした山道と人里を交互に通りすぎながら、気がつけば思い入れのある港、沖ノ内港に到着していた。

  沖ノ内は本島でもかなり端の方にあるため、最後まで乗っていたのは俺たちだけだった。ぐっすりと熟睡している篠崎をなんとか起こし、少ない荷物を持ってバスを降りた。涼しい冷房の効いたバスから、南国のむわっとした蒸し暑い空気と激しい日照りに襲われ、その落差に尚更懐かしさを覚えた。

  「うーわっ!!海綺麗っすね!!」

  バス停から少し歩くだけで、沖ノ内湾の海が眼前に広がっている。夏の日光を受け、深く濃い青色の海が波打ちながらキラキラと反射し、コンクリートの港にぶつかっては分散していく。強い磯や潮の匂いと、まとわりつくような風、押し寄せる波の音。全部を同時に感じた途端、しばらく感じていた海への恋しさが満たされながらも、早く泳ぎたいと切望すら覚えた。

  篠崎はずんずん港のへりまで進み、広大な海へ尻尾を振っている。まぁ俺のも波と同じくらい揺れてしまっているけど。

  「ここは深いから見えないけど、島の方は底まで見えるぞ」

  「マジすかぁ!!なんか透明だし、都会の海とは全然違うっすよ!!」

  篠崎の興奮具合を見て、俺は自然と微笑んだ。俺は小さい頃からこの海で育ってきたから、篠崎ほどの感動はない。だからこそ、初めての人の反応を見るのが楽しかった。

  振り向いた篠崎に慌てて笑みを誤魔化し、帰り道の話をする。

  「港から船に乗って、センパイの実家の島まで行くんすよね?」

  「あぁ……あと十分くらいだ。あのフェリーに乗る」

  港の側には、八重木島の住民御用達のフェリーが停まっていた。八重木島から本島に行くには、このフェリーか漁船を改築した小船しかないのだが、島から車を運べるのがフェリーしかないため、遠出のときは大体フェリー移動だった。沖ノ内にも一つスーパーがあるから、日用品はある程度揃うものの、他の買い物をする時には本島をあちこち移動する必要がある。昔はじぃちゃんの車で渡ったこともあったが、老眼で運転を控えるようになってから、最近はよくカイの一家と共に買い物をしに来ていた。

  ここら辺はほとんど家のようなものだし、俺が先導してフェリー乗り場へ向かう。いちいち写真を撮ろうとする篠崎を急かしつつ、切符売り場のおじさんと軽く挨拶を交わしてから、なんとかフェリーに乗ることができた。

  一階は車が積まれるところで、二階のデッキは人が座れるところや自販機なんかもあったりする。大体みんな室内席に座るけれど、篠崎の希望で海が見える手すりギリギリのところに立つことにした。

  手すりの側で港の様子を見ていると、帰ってきたな、としみじみ思う。都会の景色とはまるで違う、海と山に挟まれた小さくて古い建物の数々。木造の瓦屋根の家なんか、都会ではほとんど見かけなかった。本当に真逆の地に行っていたんだなと再確認する。

  「暑いっすけど、風が気持ちいいっすね」

  「あぁ。まぁ八月はカラッとしてていいよな」

  「他の月は違うんすか?」

  「……亜熱帯だから、ちょっとジメッとしてるときもある。台風も多いしな」

  「あー台風!今年は大丈夫だったんすかね?」

  「そんなに大きいのは無かったみたいだ。昔酷いときは三日くらい電気がつかなかったからな」

  「えぇ!?まじすか!!大丈夫なんすか!?」

  「島の人はみんな慣れてるんだよ。普通に学校行ってたしな」

  目を丸くして驚く篠崎に少し得意になる。台風で停電というのはちょくちょくあることで、土砂崩れで通行禁止とか断水とか、自然災害にはわりと慣れっこだった。

  「なんかいいっすねぇ……センパイと田舎暮らしも」

  「はぁ?なんでお前と二人なんだよ」

  「二人きりなんて言ってないっすよ?あれ、もしかして同棲っすか!?」

  「………………………………はぁ」

  篠崎がウザくなった俺は海の向こうへ目を向ける。遠いから見えないけど、芦国群島とある通り、この島の周りにも小さな島がたくさん点在している。無人島もあるし、観光地もちらほらあるが、俺の住む八重木島には目立った特徴はない。小さな島だし、雑誌に乗るようなスゴいものはないけれど、俺は八重木島が好きだった。

  するとそのときボーーと汽笛の音がして、フェリーの出発する合図が鳴り響いた。甲板にいる俺たちには少しうるさいくらいの音で、エンジンの振動と共に波にも揺られながら、少しずつ港から離れていく。だんだんと加速するにつれ風も音も強くなって、自然と篠崎との会話は止んだ。

  手すりから海を見渡せば、進むフェリーにぶつかる真っ白な波が割れては泡になって消えていくのが目に映る。どんどん濃くなる青色が、いよいよ深くなってきたときに、後ろから声をかけられた。

  「あれ!?あんた哲也くんね?ねぇ!」

  「……あっ、お久しぶりです」

  声の主は八重木島の小学校に通っている三咲ちゃんのお母さんだった。二年くらい前までは顔を見る機会もあったが、集落も隣の隣だしそんなに関わりはない。

  猪の少しふくよかな体を揺らして、大きな声で話しかけられる。

  「東京の高校いっとったんやっけ?はげー大きくなったねぇ!」

  「そうですね、夏休みで帰省しました」

  「…………は、はげ?」

  「重蔵爺によろしくね!!あげーきばりよ~」

  フェリーの上の風に顔をしかめつつも、それに負けないくらいの声で喋ったあと、すぐさま室内席の方へ戻っていった。どうやらわざわざ俺に声をかけにきてくれたらしい。

  会話を終えたあと、篠崎の方を見ると興味深げな顔をしていた。らしくない顔に喋るよう促してみる。

  「…………なんだよ」

  「今の人だれすか?」

  「…………知り合いだ。あんまり喋ったことないけど」

  「な、なんかハゲって言ってなかったすか??」

  混乱した顔の篠崎にフフッと笑いが漏れる。あぁそうか、方言のことなんも説明してなかったな。

  「はげーって、あらぁとかうわぁとかって意味の方言なんだよ。あげーも同じだな」

  「ええぇじゃあハゲって何て言うんすか!?」

  「知らねぇよ。でもはげーはハゲじゃない」

  それを聞いた篠崎は笑いながらハゲーと繰り返していた。都会の人からしたらまぁ発音似てるし面白く聞こえるのかもしれない。島の方言は標準語とけっこう違うのもあるし、小さいころから聞いてる俺もおじぃおばぁの方言は聞き取れない。篠崎からしたら外国語のようなものだろう。

  「はげーーあ、でもやっぱ訛りすごかったっすね!イントネーションがなんか、凄かったっす」

  「馬鹿にすんなよ。あの人はずっとこっちの人らしいからな」

  「馬鹿にはしてないっすよ!なんかでも、センパイはあんまり訛ってないすよね」

  「子供はそんなに方言使わねぇよ。俺でも知らない方言いっぱいあるし」

  「そんなもんなんすねぇ。たまーに訛ってるなって思うけど、センパイは基本気になんないっすもん」

  俺が都会に馴染むために普段から方言を抑えてるとは気づいてないようだが、それだけ上手くできてるんだろう。でも確かに、俺は島の子供の中でも訛りがマイルドな方だった。それはやはりじぃちゃんの影響が大きい。根っからの島人とはいえ、長い間本島で公務員をしていた経験から、じぃちゃんは標準語も普通に喋れる。まぁイントネーションはだいぶ引っ張られてるけど、全然都会の人と話が通じるレベルらしく、何気なく篠崎と電話で話していたが、島の老人たちの中では異質な方なのだ。

  「方言喋れる人がどんどん減ってきてる、ってのはよく聞くな」

  「あーやっぱそうなんすね。でもみんな言葉が通じた方がよくないっすか?」

  「標準語は便利だけど、方言も文化の一つだからな。無くなったら二度と復活しないし」

  「確かにそっすね。なんか地元同じやつしか通じない言葉って、エモいっすよね!」

  「……………………………………」

  エモいって言葉を八重木島で発したのはコイツが初めてじゃないだろうか。こうやって方言は失われていくんだろうと目の当たりにしたところで、いよいよ島が大きめに見えてきた。一応港から肉眼でも対岸を確認できるが、遠すぎて何も分からない。湾を直進するフェリーが島に近づくほど八重木島の様子がよく見えてきて、じんわりと胸に懐かしさが広がった。

  俺の様子を察してか篠崎も喋らなくなり、潮に当てられながら全身に海風を受け、しばらく無言で八重木島を眺める時間が続いた。視界の端に映る篠崎の頭も、じっと島を眺めてるように見える。何を思うことがあるのか分からないが、大人しいならそれはそれでいい。このあと島の人に散々嘘をつくことになるからな。

  瑠璃色だった海がだんだんと浅くなるにつれ、エメラルド色に変わっていく。フェリーが港に近づくと、海底の様子まで見えるようになってきた。港のそばはそんなに魚とか珊瑚は見当たらない。危なくて泳いだことがないからかもしれないけど。

  とうとう島の目の前まで接岸したところで、再びボーーと汽笛が聞こえてきた。やっと到着した。俺の故郷に。

  「 ……あっ!魚いたっすよ!!あそこ!」

  不意に大きな声を出した篠崎に少し身体をびくつかせた。静かだなと思ったら魚を探してたのかよ。

  「魚くらいいるだろ。ていうか着いたから早く降りるぞ」

  「はーい!うわっ!!海も山も綺麗っすねぇ!」

  篠崎を連れてデッキから降りて、少ない人の波と共に下船する。周りにいる人は顔を知ってる人が多いが、こっちから話しかけにいくほど仲がいいわけでもない。じぃちゃんの知り合いの誰か、って感じだ。

  少し揺れる足場を渡って、港のコンクリートを踏みしめる。懐かしさと共に、春に買った靴の汚れを見て、言い知れぬ感情に胸をざわつかせた。

  「思ったより早かったっすね!あっ、写真撮っとこ!」

  「海なんか後でいくらでも撮れるだろ。それよりまたちょっと歩くぞ」

  桟橋から身を乗り出して携帯を構える篠崎を促して、港から帰り道へと歩み始める。眩しいくらいの直射日光と、港のざわめき声、すぐそばの山から鳴る蝉の大合唱。これが当たり前だったんだよな、と再確認させられる。

  「木造の建物が並んでるんすね。ここら辺全部人ん家すか?」

  「八重木島は小店くらいしか店がなくて、他はほとんど民家と空き家だ。島の反対側には高校があったけど、もう無くなったし」

  八重木島は自転車で一周できるくらい小さな島で、尚且つ面積のわりに標高が高い。だから地形のせいで発展しづらく、畑とかもあまり無い。大きな山の周りをぐるっと囲んだ道路に沿って、集落がポツポツある感じだ。

  一応今いる港から山を挟んだ向こう側は公共施設とか漁港になっていたりするけど、俺の住む集落には本当に家しか無かった。

  「……もちろんバカにしてないっすけど、ほんとーうに田舎なんすね」

  「してんだろ。まぁ実際そうだけど」

  「でも自然はマジですごいっす。人の手が入ってない感じというか」

  凄まじい気温で蜃気楼ができそうなコンクリートの道路を歩くと、島の外周を伝っているような感じになる。だからカーブを曲がるたびに毎回違う景色が広がって、色んな自然を目の当たりにできる。

  例えば道端のハイビスカス、生い茂るマツの木々、ガードレールを挟んで煌めく大海原、どれも紛れもなく自然だろう。ただこの道を何度も行き来してきた俺には新鮮味はなく、ただ懐かしさに感慨深くぼんやりと眺めるのみだった。

  海沿いから山の方を眺めると、ぐわっと緑色が広がる。隙間も見えないほど伸びきった森林が、潮風を受けざわざわと揺れていた。土砂崩れ防止のために、山と道路との境目に金網やコンクリート等で木々の侵食を抑えようとはしているものの、今にも覆い被さってきそうなほどあちこちから草木が伸びている。いずれこの島に人が住めなくなったら、全部樹海になるのかなとふと思った。

  木の葉を揺らす海風の音の合間に、篠崎のハァ……というため息が聞こえた。見ると、やや広めに口を開けて熱い息を漏らしている。

  「…………はは、あついっすねマジで……」

  「……まぁな。都会の人は慣れねぇかもな」

  実際この日の気温は35度とかで、この日照りを加味すると相当な灼熱地獄だ。狼獣人の篠崎は余計に熱がこもりやすいだろうし、サウナにいるような状態だろう。汗を掻いてるのも見ずとも分かる。

  「一応美容室行ってだいぶ薄くしてもらったんすけどね……センパイはよく平気っすね」

  「慣れてるからな。でもじぃちゃんも日中はそんなに外出ないし、島にいる狼獣人はみんなキツイだろうな」

  いくら長いことこの島に住んでたって、南国のギラギラの夏の日射しは誰も浴びたがらない。特に年寄りは身体に来るだろうし、お昼過ぎなのに全然人気がないのはそのせいだ。みんな早朝に活動して、日が高くなると家にいる人が多い。

  数分歩いて最後のコーナーを曲がったところで、俺の住む集落が見えてきた。内側に凹んだような長い砂浜の海岸沿いに、ポツポツと民家が立っている。少し奥に行けば公民館があって、この集落で唯一民家以外の建物だ。多少の畑や端の方に墓地があれど、故郷ながら本当に何もないなと思う。

  だから篠崎の反応は意外だった。

  「うわっ!すげぇビーチっすね!!めっちゃ海綺麗じゃないすか!」

  「え?あぁ…………」

  「あーなんか絵みたいすね!写真撮っていいすか?」

  聞くまでもなく携帯を取り出す篠崎に少し言葉を失う。そういえば、砂浜はまだちゃんと見ていなかったらしい。ただここじゃなくても八重木島にはもっと綺麗なビーチはあるし、高い堤防で見えづらい気がするけれど。

  「…………ここからじゃ撮りづらいだろ?後で反対側から撮れよ」

  「あーーそっすね。でも誰も泳いでないんすねぇ」

  「誰が泳ぐんだよ。この集落俺とカイ除いたら一番若くて40歳だぞ」

  「えぇっ!!!???」

  素っ頓狂な声をあげる篠崎に思わず顔が綻ぶ。いわゆる限界集落ってやつだけど、細々と続いているのだ。

  「えっまじすかじゃあ……センパイたちが最後の希望なんすか?」

  「なんだよ最後って。まぁでも、外から来ない限りこれ以上人が増えねぇだろうな」

  「来る人…………いるんすかね」

  「意外といるんだよ。都会の生活が嫌になって来る人とか、わりと大阪とかからな」

  「へぇ……でもちょっと気持ち分かるっすわ」

  八重木島……というか、この辺の南の島はけっこう都会からの移住者がいる。良いことなのかは分からないが、シングルマザーの家庭の割合が高い。人が少ないから皆で子供の面倒を見やすく、片親でも住みやすいかもしれないな。

  篠崎に集落について説明していると、気づけば俺の家の前まで来ていた。海から20秒くらいのところにある、ちょっと立派な瓦屋根の家。コンクリート塀に囲まれた家は裏の畑も含めて周りの家より広めな立地だ。

  「…………ここだ。俺の家」

  「えっ!急に!?てかここすか!すげぇ立派!!」

  リアクションが追いついてない篠崎は、簡素な門の前の隙間から中を覗いている。

  じぃちゃんが仕事を頑張って、ばあちゃんの為に若い頃に建てたという平屋。俺の父親もここで育ったらしいが、早くに出ていってから二人暮らしだったそうだ。築50年以上は経ってるし、俺とじぃちゃんじゃこの広い家は使いきれない。篠崎を簡単に招けるのも、そういう背景があった。

  「センパイってお金持ちなんすか?」

  「んなわけないだろ。先祖から八重木島に住んでるから、ちょっと土地持ってるだけだ。田舎だし」

  「渡嘉敷家はずっとここなんすねー」

  「………………………………」

  じぃちゃんより前のひぃじぃちゃんとかひぃばあちゃんの話はあまり知らない。戦火に巻き込まれて家が無くなって、当時の物がほとんど残っていないとじぃちゃんから聞いた。じぃちゃんの幼馴染のおじぃから話を聞いたことがあるが、いつどうやって亡くなったのかは頑なに教えてくれなかった。

  黙り込んだ俺の視界に、篠崎の顔が覗き込む。

  「…………センパイ?」

  「…………………あぁ。なんだよ……」

  

  「入らないんすか??」

  「……………………いや。入るぞ」

  不思議そうな篠崎の顔を無視して、形だけの鉄の門に手をかける。鍵はついてるが錆びてるし、閉まっているところは一度も見たことがない。島の人たちはみんな戸締まりをほとんどせず、玄関の扉も窓も鍵をかけない。こんな田舎で泥棒するやつなんかいないからかもしれない。

  いわゆる日本家屋のガラガラと音の鳴る引き戸を開けると、急に懐かしさを感じる匂いに包まれた。なんとも言えない、何かも分からない実家の匂い。たった数ヶ月離れてただけでも感じるほど、俺がずっと嗅いできたものだ。

  「お邪魔しまーす!うわ、めっちゃいいっすね!」

  「何がだよ…………じぃちゃーん、ただいまー」

  広い家の中に声を投げ掛けると、よく響いて返ってくる。それほど物も人も少ないのだ。

  玄関には木造の靴箱が置いてあって、その上に盆栽やら掛け軸やら小物が飾ってある。俺が生まれた頃からあるものばかりで、どういう物なのかはさっぱり説明できない。しかし篠崎はあちこちにある日本家屋らしい物にテンションが上がっているようだった。

  「すげーあの彫り物とかめっちゃ古そうっすね」

  「俺もよくわかんねぇ。じぃちゃんは色んな人から物貰うんだよ」

  顔が広いとそれだけあれこれ送り合ってたようで、暑中見舞いとか年賀状とかしょっちゅう届いていた覚えがある。

  玄関に荷物を置いて靴を脱ごうとしたその時、トン、トンと足音が近づいてきた。障子の開いた正面の居間からのっそりと姿を見せたのは、高年の狼獣人。俺のじぃちゃんだ。

  「……………………………………………………」

  「あっ!どうも初めまして!篠崎です!渡嘉敷センパイの学校の後輩です!」

  「じぃちゃん、電話で話してた奴だよ」

  「……………………………………………………」

  身長が190cm近いじぃちゃんは、黒に近い焦げ茶色の毛をしていて、毛もボサボサだからかなり大きく見える。目元が見えづらいから表情もよく分からないし、無口なのもあって初めて会った人は少し怖い印象を受けるだろう。

  「…………あっ、えっと重蔵さん、っすよね?数日お世話になります!よろしくお願いします!!」

  やや困惑しながらもグイグイ前に出れる篠崎を見て少し感心する。とは思いつつ、流石に何も喋らないじぃちゃんに不信感を覚える。

  すると、

  「………………篠崎………………下の名前は」

  じぃちゃんは低く枯れた声で微動だにせず、篠崎に問いかける。相変わらず表情は読めない。

  「あ、翔っす……篠崎翔です」

  「…………翔………………翔君、」

  名前を呼びながら、篠崎に一歩近づくじぃちゃん。そのまま右手を差し出して、握手を求める。困惑気味の篠崎も、慌てて手を取ってガッチリと握手をした。

  「…………ゆっくりしていきなさい」

  「……っ、は、はい!お邪魔します!」

  大きなじぃちゃんの手の中にすっぽりと包まれた篠崎の手が、数度小さく上下したあと、パッと離れて戻される。今度は俺の方にゆっくりと顔を向けると、相変わらずの無表情で言い放つ。

  「………………哲也………………おかえり」

  「……うん、ただいま」

  たっぷりと間を取って話すじぃちゃんだが、含みがあるようでなかったりもする。とても深いことを暗に考えてるとは思えないが、単に老いてゆっくり話してるわけではない。難しい人だ。

  俺の返事を聞いて、じぃちゃんは徐に背を向けて居間に戻っていった。広い背中は曲がることなく相変わらず大きい。肩までまくった白いシャツも、久々に見ると考え深いものだ。

  そのまま靴を脱いで廊下に上がり、篠崎を導きながら家を案内する。古い木目のギシッと音が鳴る床板を踏みしめて、ひとまず俺の部屋に向かった。篠崎は小声でリアクションしていたが、木造建築にやや興奮気味だった。

  閉まっている俺の部屋の襖。立て付けが悪くなったそれに手を掛けて少し強めに開く。そうしてパッと視界に飛び込んできたのは、とても綺麗に片付けられた、俺の育った部屋だった。

  「おー綺麗っすね!!」

  「…………じぃちゃんが掃除してくれてたんだな」

  俺の部屋は八畳の和室で、家の中ではやや広い方だ。居間とじぃちゃんの部屋以外はほとんど使ってないから、中学のときに広い部屋に移った。物が増えるだろうと引っ越したものの、本やおもちゃをたくさん持ってるわけでも、服を揃えるわけでもなく、他人の寮の部屋と比べてもガラガラだった。

  勉強机、本棚、箪笥……数ヶ月前までいたはずなのに、物の少なさに寂しさを感じる。学校で作った絵とか工作なんかも、今は物置に整理してしまったし。少し前までは毎日外で遊んで、雨の日はカイのおもちゃで遊んでいたのに、カイは漁師になって夏休みが無くなり、俺はファミレスでアルバイトしている。人生本当にどうなるか分からない。

  俺を差し置いて、ずかずかと部屋に入っていく篠崎。

  「これセンパイの机すか?わーシール貼ってある!これ俺もちっちゃい頃好きでした!」

  「うるせぇちょっとは遠慮しろ!」

  「引き出し開けていいすか?うわっ!綺麗に整頓してるっすね!あー!この定規懐かし!」

  俺の部屋の物色を勝手に始めた篠崎に歩み寄って軽く頭を叩く。尻尾を振って部屋を荒らしていた篠崎はニコニコ顔でこっちを向いた。

  「センパイってミニマリストかなってくらい寮の部屋なんも置いてないっすけど、実家の部屋もそうだったんすね」

  「………漫画とか大量に買える環境じゃねぇし、俺は外にいる方が好きだった」

  「だから新鮮なリアクションしてくれるのが好…………楽しいっすよ」

  言ってる最中に慌てて訂正する篠崎を、軽く睨む。別にじぃちゃんが聞いてるわけないと思うけど、うっかりされると困る。

  苦笑いで謝る篠崎にため息を一つついたあと、すこしの荷物を畳の上に落とす。そもそも二泊三日で衣服もこっちの家にあるから、持ってくるものが本当に少なかった。カイへのお土産の方が多いくらいだ。

  俺の部屋からすぐ隣の部屋に通じる障子を開いて、篠崎をそこに呼び込む。隣は客間というか、ただ使われてない空き部屋だ。ここもじぃちゃんが掃除をしたらしい。

  「えっ広!何部屋あるんすか?」

  「四か五。増築したり物置にしたり雨漏りで使わないのもあるから、全部は綺麗にしてない」

  「畳の匂いエモいっすねー」

  客間はごくたまにじぃちゃんの知り合いが泊まったりした時に使っていたが、ここ数年は誰も来ていない。比較的畳が新しいから、たまにこっちで寝ることもあったけれど、壁掛けの鬼の顔をした掛け軸が夜になると少し不気味だった。

  「空き部屋だから、こっちで寝ろよ」

  「あぁ……………やっぱり一緒に寝るのは無理っすか?」

  「じぃちゃんが見たらどうすんだバカ……」

  小声でお願いしてくる篠崎を、小声で突き放す。カイとですら添い寝したことないんだから、もし見られたら絶対勘違いされる。

  「閉めとけば大丈夫っすよ」

  「しつこいと外で寝かすぞ」

  俺の脅しにもニコニコと尻尾を振る篠崎に呆れていたところに、急に背中の襖がガラガラと開いた。俺と篠崎はビクッ!と肩を跳ねさせて、ぎこちなく振り向く。

  「…………………………、昼飯は」

  「あ……いや、ちょっと食べたからいらない」

  「………………みゆきんとこで晩飯ば食べさしてもらいなさい」

  「わかった。じぃちゃんは?」

  「………………わんは行かん」

  扉と同じくらいの高さから俺たちを見下ろすじぃちゃん。足音も気づかなかったし、さっきまでの会話を聞かれてたかも分からない。やっぱり無表情だから何も読み取れないけれど。

  去り際に、篠崎の方を一瞥して無言で襖を閉める。そのままドン、ドンと床板を軋ませながら居間に戻っていった。

  「…………えっと、どういうことすか?」

  「…………今日はカイの家でご飯食べるぞ。みゆき姉っていうのはカイのお母さんだ」

  「ねぇ、って兄弟ではないんすよね?」

  「こっちの人は年上とか大人をにぃ、ねぇ、って付けて呼ぶんだよ。老人までいくとじぃ、ばぁになる」

  「へぇ~ていうか、俺もご飯いいんすかね?」

  「カイにはお前のこと言ってるから、多分歓迎してくれると思う」

  カイの家はかなり面倒見がいいというか、特にみゆき姉は世話を焼くのが好きだから、篠崎のご飯くらい喜んで用意してくれるだろう。

  篠崎が島の人に好かれるだろうな、ってのは、会わせる前から思っている。だからこそ、気分がよくなった篠崎がうっかり稲光のこと漏らさないか心配だ。学校のこと一切話さないのも不自然だし、うまいこと辻褄合わせないとな。

  「………荷物置いたら、風呂とトイレの説明するぞ」

  「あ、はいっす!!」

  清々しく笑う篠崎に安心する自分と、晩御飯が心配になる自分が共存していた。

  荷解きや最低限の説明が終わり、ようやく一息ついたころ、俺と篠崎はひとまず居間でくつろいでいた。テレビはついてるがニュースばかりで特に興味もなく、篠崎は携帯をいじっているので何もない時間が続く。じぃちゃんは台所にいるし、声は聞こえてるので篠崎との会話も緊張ぎみになる。結果的には、何もしないで扇風機にあたりながら、ニュースの音と蝉の声を聞いてボーッとする夕暮れだった。

  十分ほどは無言だったが、不意に篠崎が声をかけてきた。

  「センパイ、この写真どうすか??」

  「………………ん」

  気だるく篠崎の方へ顔を向けると、自慢げに携帯の画面をこちらに見せつけていた。画面には、昼間撮ったであろう海の写真が写っている。

  「…………まぁ、綺麗だな」

  「リアクション薄!加工して結構いい感じになったんすよ~」

  「加工?」

  よく見ると、篠崎の写真は色味が鮮やかに見えたり、邪魔な人や看板等の障害物がボケてたりしていた。そのまんま撮るよりは綺麗に見えるんだろう。

  「お前ずっとそれやってたのか?」

  「これからいっぱい撮る予定なんで、こまめにやっとかないと後で地獄なんすよ」

  「……宿題もそうだろ」

  「痛いとこ突くっすねー!」

  アハハと笑いながらも、画面をスライドさせて色んな写真を見せてくる篠崎。俺からすれば見慣れた風景だから、そんなに感動しないってのに。

  しかし篠崎は思いの外、俺が見ていなかったタイミングでもたくさん写真を撮っていて、隙間の時間に素早く、そして画角もちゃんとしたものが多く、携帯を使いこなす都会人の片鱗に感心した。

  座椅子から身を乗り出して携帯を見せる篠崎の指が、画面をどんどんスライドしていたとき、パッと現れた俺の写真。フェリーの上で海を眺めている横顔をこっそり撮られていたようだった。

  「あっ」

  「おい………………勝手に撮んなよ」

  慌てて次の写真にいったが、見落とすわけがない。もしかして、他にも撮られてたりするんだろうか?

  「いやぁキマってたんでつい……」

  「これだけか?」

  「えーと……これだけっす!」

  取り繕おうとする篠崎の顔を見れば、これだけじゃないのは明白だが、問い詰めたり怒ったりするのもじぃちゃんが聞いてるため、あまり詰めるわけにはいかない。いつもの関係を隠す、というのは篠崎のアピールが無くなってメリットだと思ってたが、意外なデメリットに小さく鼻を鳴らした。

  するとそのとき、ガラガラガラっと玄関の戸が開く音がした。反応した俺が居間から覗き込んだのと、柴犬の頭が扉から出てきたのはほぼ同時だった。

  「ッ!!てっちゃん!!!」

  「カイ!久しぶり」

  覗かせた顔を輝かせて、サンダルを脱ぎ捨て、飛びつくように駆け寄ってきたカイ。慣れた足取りで居間に入ってきて、尻尾を振り乱しながら一瞬で俺の眼前にいた。

  「わぁーー生てっちゃんだ!!久しぶり~」

  「数ヶ月だけどな。元気そうでよかった」

  「疲れてるけど吹き飛んだ!てっちゃんは……あんま変わってないね」

  「カイはちょっとゴツくなったな」

  柴犬獣人のカイは、犬にしては元々背が低めで170センチもなかった。食パンのような色をした毛はかなり短くカットしてあり、前に会ったときより筋肉の凹凸が感じられた。捲り上げたTシャツから伸びる太い腕は、ここ数ヶ月で漁師見習いとして頑張ったのを示唆している。

  カイは苦笑いしながら、少しだけ自分の体を見る。

  「毎日父さんにしごかれてるから。さゆちゃんは細い方が好きって言ってた」

  「さゆりちゃんに会ったのか?」

  「うん!一週間前くらい」

  「その話聞かせろよ」

  「てっちゃんも東京の話教えてね……っあ!!」

  不意に俺の後ろを見たカイが、目を丸くして奥を見つめている。振り返るともちろん、篠崎がやや気まずそうに俺たちを見ていた。

  「てっちゃん言っとった東京の!?」

  「あぁ、後輩」

  「あっ、初めまして!篠崎っす」

  俺と再開したときよりさらに揺れるカイの尻尾。バッと歩み寄ってすぐに篠崎に挨拶に行く。

  「初めまして!!福永海です!てっちゃんの幼なじみ!!」

  「聞いてるっすよ!生まれた頃から一緒なんすよね?」

  「あはは、なんか恥ずかしいね!」

  都会から来た同年代の男子に、オーバーなくらい興奮ぎみのカイ。まぁそれもそうで、八重木島に同年代の若者は俺しかいないし、都内から観光客が来ることもほとんどない。もはやカイにとって異文化交流に近い篠崎の存在は、興味津々になるのも当然だった。

  あの篠崎がやや押されている様子を見て、カイの人懐っこさは健在だと少し嬉しく思った。

  「てっちゃんがまさか友達連れてくるなんて……よっぽど気が合うんだね!」

  「そっすね!めっちゃ仲良しっす!ね!」

  「あ、あぁ……まぁ」

  篠崎との関係は仲良しって感じでもないが、ここ数日は友達として乗り切ることにしたようだ。ならば俺も合わせないといけない。

  「……篠崎は都会人だから、東京のこと結構教えてくれんだよ」

  「あげぇー!いや色々聞きたいけど、そろそろ夕飯だから……おっかぁに早く呼んでこいっち言われて」

  「あぁ、じゃあ行くか」

  「うん!重蔵じぃは?」

  「いらんって」

  カイは一瞬不思議そうな顔を見せたが、すぐにまた笑顔に戻り、玄関へサンダルを履きに行った。俺も篠崎を呼んで、カイに続いて外に出る。夕方の6時といえど南国の、しかも夏はまだまだ日が長く、オレンジ色の夕焼けが家の前を照らしていた。蒸し暑さはあるものの、昼間に比べかなりマシになって過ごしやすい気温。なだらかな風に獣毛をくすぐられ、大地の匂いを強く感じる。

  少し感傷的な気分になりそうだったが、篠崎の声で我に返る。

  「うわ!!めっちゃ夕日キレイっすね!!」

  「秋はもっと綺麗だよ。神立岩にちょうど被るから」

  「かみたちのいわ?ってなんすか?」

  「海岸からちょっと離れたとこにある大きい岩。泳いでいけるぞ」

  「やっぱり名物あるじゃないすか~」

  「観光地ってほどじゃねぇよ」

  海の上にポツンと浮き出てる大きいだけの岩。まぁちょっとは歴史があるが、遠方から見に来るほどではない。

  そのままカイの家に向かう道すがら、カイは嬉しそうに集落の物を説明していて、篠崎は逐一写真を撮っていた。滅多に観光客なんか来ないから、喋りたいことが溜まっていたのだろう。加えて篠崎も大きなリアクションで応えるせいで、足取りは少しずつ遅くなっていた。

  そうこうしながらも、斜面になっている集落の小高いところにある一軒家、カイの家に到着した。俺の家から歩いて1分くらいで、何度も足しげく通った思い出の家。俺の家ほど広くはないが、カイの家は比較的新しく、風呂とかトイレもちゃんとしてるため、とても居心地が良かった。

  久方ぶりのカイの家に入り、懐かしさと食欲をそそる匂いに包まれた。居間に上がると早速みゆき姉が歓迎してくれて、食卓に座るよう促される。六畳ほどの空間に大きな机があり、既にいくつか食器が並んでいた。

  「はげぇ哲也おらんでもーうカイが寂しがったっちばねぇ?」

  「そこまでじゃないって!まぁちょっと寂しかったけど」

  「俺もだ。でもちょくちょく電話しとったから平気だろ?」

  「哲也が行ってからすぐ携帯欲しいっち言っとったよ?したらおっとぉが自分で買え!ちねぇ」

  「だから今お金貯めてるんだ。てっちゃんは携帯買わないの?」

  台所から居間へ大きく聞こえてくるみゆき姉の声。前はよくここでカイと三人で話していたのを思い出す。カイは多少鬱陶しそうにするが、俺にはそんな親子が微笑ましかった。

  「バイトしてたから、買おうかちょっと悩んでる」

  「えぇーなんのバイト?」

  「レストラン。三週間だけな」

  「カイ!!ご飯持ってって!!」

  「はぁーい……」

  気だるげに立ち上がり、台所に歩いていくカイ。今朝も仕事だったはずだし、体は疲れてるだろう。

  ふと篠崎の方を見ると、畳の上で胡座をかきつつ、珍しく神妙な顔をしている。

  「……悪いな、訛りまくってて」

  「へ?あぁいや、言ってることはなんとなく分かるんで、大丈夫っすよ」

  「カイのお父さんの一茂兄はもともと関西の人だから、まだ分かりやすいと思う」

  「あーそういやお父さんどこなんすかね?」

  俺に話しかけられて取り繕ったように笑みを浮かべたが、篠崎の尻尾は微動だにしていなかった。人の家で緊張する……のはあるかもしれないが、あれだけコミュ力が高い篠崎が奥手になるだろうか?

  「なんか元気なさそうだな」

  「え!?いやぁ全然っす。ちょっと旅疲れしてるだけっすよ。気にしないでください!」

  「……なんでも言えよ」

  珍しい篠崎の様子を少し気にはなるが、本人が気にしないでというなら大丈夫なんだろう。篠崎の尻尾はまた緩やかに揺れ始めたし、気のせいだったかもしれないしな。

  するとそのとき、ガラガラと引き戸を開けて、風呂場の方からパンツにタンクトップの柴犬獣人が出てきた。首からタオルを掛けて、顔は少し赤らんでいる。

  「おぉっ!あげぇ哲也帰ってきたんかぁ!ん?知らん子もおるなぁ」

  「あ!初めまして!哲也センパイの学校の後輩の篠崎っす」

  「ぉあぁ!そんなご丁寧によろしくねぇ!篠崎君」

  デカイ声と陽気な態度。これがカイのお父さんの一茂兄だ。みゆき姉はもともと島の人だが、一茂兄は関西から移住してきたパターンだ。カイには厳しいときがあるけど、俺にはけっこう優しい印象だった。

  「あげイケメンじゃが若い頃のワシそっくりやな!」

  「マジすか!あはは!」

  「おっとぉより篠崎くんの方が100倍イケメンだよ」

  カイが料理を長机の上に運びながら軽口を叩く。持ってきた大皿にはありとあらゆる海鮮が盛られていて、刺身や焼き魚や貝の醤油焼きなど、珍しいくらいの豪華っぷりだった。

  一茂兄は島にきてから長年漁師だが、それでもここまで豪勢なのは初めて見る。篠崎のために用意してくれたんだろうか。

  「うわっ!!!すげぇ豪華っすね!!」

  「はっはっは、せやろ!!!哲也と篠崎君には旨いもん食わせんばな!!!」

  篠崎のリアクションに大満足な一茂兄。明るい篠崎は気に入られるだろうと思ったけど、こんなに波長が合うとは思わなかった。同じくらい声がデカい。

  「はげまたてげてげやなあんたもう~自分で釣ってきたみたいに言って~」

  すると台所の暖簾から、エプロンをつけて味噌汁のお盆を運んできたみゆき姉が現れた。一茂兄とは少し色が違う柴犬獣人で、小柄で細身のわりに元気で気が強い人だ。みゆき姉は集落は違えど八重木島の出身で、ずっとここで暮らしてる島の人。島のおじぃおばぁも、小さい頃から成長を見守ってきたらしく、じぃちゃんくらい顔が広い人気者だ。

  みゆき姉はお盆から味噌汁を順番に取って並べていく。中にはとても大きなあさりが入っていて、散らしたネギも美味しそうだ。

  「一茂兄たちが捕ってきたんじゃないの?」

  「この辺はスーパーで買ったんよ。この貝はさっきカイが採ったっち?」

  「休憩中にちょっと潜ったら、たまたまサザエがいたんだ」

  ニコニコ顔で麦茶とコップを持ってきたカイ。俺もよくそこら辺で潜ってたけど、サザエだなんてなかなか運が良い。本当に人の手が加わってない自然が相手じゃ、美味しく食える物が見つかる方が珍しい。

  「一茂兄何もしてないじゃん」

  「何もせんわけ違うど、このイカは昨日わんが釣ったっちょ」

  「えぇーみんなして準備してくれたんすか??」

  「もちろん!お客さんなんか滅多に来ないからね」

  嬉しそうな顔を浮かべるカイを見て、俺も自然と心が和んだ。成り行きで渋々だったが、こんなにカイの家族が喜ぶなら連れてきてよかったかもしれない。

  みゆき姉が大皿の天ぷらを持ってきて、お茶碗にも山盛りに米をよそって、小鉢や箸の準備もできたところで、ようやくみんな揃って食べられるようになった。正直朝に少しおにぎりをつまんだくらいだから、目の前のご馳走に涎が湧いていた。ここしばらくスーパーのお弁当生活だったのが、余計に腹を鳴らしてしまう。

  全員が畳の上で座ったところで、一茂兄がいただきまーすと大きな声で号令をかけた。それに続いて各々バラバラに手を合わせると、カイと俺と篠崎はすぐさまご飯に手が伸びていた。

  「あげー食べ盛り見んのは気持ちええなー」

  「ご飯と味噌汁はおかわりあるから、たくさんみしょりよ」

  熱々で、浅蜊の出汁がよく染みた味噌汁を口に含んでから、ゆっくりと嚥下する。そのまま揚げたての玉ねぎの天ぷらを醤油につけて、大きく口に含んだあとに白飯を掻き込む。出来たてのご飯がこんなに美味しいことをしばらく忘れていた気がする。言い知れぬ幸福感に黙々と箸を進めていたが、ふと篠崎の様子を見てみる。

  「んぅー!!!めっちゃ旨いっすわ!東京で食べる刺身とまた違うっすね!」

  「せやろ!!新鮮さがちゃうもんな!」

  「それにこの、醤油?なんか甘くて刺身に合うっすね!!」

  「鹿児島の醤油は甘いじゃがね。ほら、このサザエもみしょれみしょれ!」

  篠崎の食レポに気分がよくなって、どんどん勧めてくるカイの両親。一茂さんに至っては缶ビールも空けていて、すっかりご機嫌なようだ。

  不意に篠崎がこっちを向いて聞いてくる。

  「みしょれ、ってどういう意味すか?」

  「え?あぁ召し上がれ、ってこと」

  「あーなるほど!じゃあいただきます!!」

  遠慮なく、といった様子で幸せそうに飯を頬張る後輩を見て、少し二人の気持ちが分かったような気がした。

  少し食べるペースが落ち着いてきたところで、隣からカイの視線を感じる。見つめ返すと、味噌汁を一口啜ったあと、すぐに飲み込んで口を開く。

  「てっちゃん学校の話聞かせてよ!楽しんでる?」

  キラキラとした眼で視線を送るカイに、ぐっと丹田に力を込めて、嘘をつく準備をする。まぁ、楽しいっちゃ楽しいけど。

  「あぁ。何もかも島と違って、混乱しながらなんとかな」

  「何もかも違うって、例えば??」

  「んーと、まず全部大きい。生徒も数百人いて、体育館も三つあって、校舎は四つある」

  「えぇ!!??都会はスゴいねぇ!!」

  俺の話に目を見開きつつも、カイの瞳にはほんの少し羨望が含まれていた。あまり考えないようにしていたが、転校して学校に行ける俺とは違って、一茂兄の後を継ぐことが決まっているカイは、少なからず高校生活をもっと味わいたかったはずだ。両親の手前口に出すことはないが、カイの気持ちを考えると複雑な気分になる。

  「哲也勉強は?都会の子に着いてけてる?」

  「まぁ、なんとか。そんなに頭いい学校じゃないから、俺みたいなやついっぱいいるよ」

  「都会の高校ば部活もたくさんあるやんな?なんか入ったか??」

  「うん、まぁ……演劇部に入った」

  俺の返答に案の定三人からえぇ!?と驚愕の声があがった。島では全くやったことないんだから驚かれるのも無理はない。

  慌てて白飯を飲み込んだカイが一番に口を開く。

  「なんで!?てっちゃん芝居とかできるの?」

  「いやいや、先輩に頼まれて雑用とか裏方だよ。俺が出るわけじゃない」

  「哲也やったら野球とかサッカーとかできるやろ!なぁ?」

  「スポーツはみんな中学とかからやってるから、俺が入っても無理だよ。篠崎はサッカー部だよな」

  俺が話を振ると、夢中で刺身を食べていた篠崎が耳をピンと立てた。ぱちくり瞬きしながらごくんと飲み込んだ。

  「はげぇサッカー部かいな!身体もがっしりしてラガーマンかと思ったわ!!」

  「はは、全然っすよ!」

  「あげやっぱりスポーツマンやったね!カイも負けんとみしょらんば~ねぇ?」

  「もう背伸びんもん。篠崎くんはサッカーめっちゃ上手いの??」

  「いや普通っす。うちのサッカー部弱いっすから!」

  三人の興味が篠崎に向いている間、こっそりよもぎの天ぷらに箸を伸ばす。カイも篠崎もよく食べるから、自分の分も確保しとかないと。

  「篠崎くんイケメンやからモテるでしょう?」

  「あはは、モテないっすよ~」

  「自分それは嘘やろ!えぇ?じゃあ彼女おらんのかいな?」

  「いないっすよ!……まぁ好きな人はいるんすけどね」

  篠崎の言葉にほんの少しピクリと身体が動く。まさか変なこと言わないだろうな。

  聞き耳を立てつつご飯に夢中なフリをしていると、無神経なおばさんたちはさらに盛り上がる。

  「あげぇー青春だねぇ!」

  「若いなぁ!ええわぁ……え、告白したんか?」

  「おっとぉ止めろっち……」

  「何回もしたけど、なかなか振り向いてくれないっすねー」

  「はげ!!ええな篠崎くん!ガッツがあるわ!!カイも見習わんば!」

  「もうおっとぉうるさいってー」

  「篠崎くんにそんな追いかけられるっち、どんなきょらむんさんやろねぇ~」

  篠崎がどんどん二人に好かれていくなか、反対にカイは恥ずかしそうだった。まぁ両親が思春期の恋愛に身を乗り出して聞いてる様はちょっと嫌だろう。カイもさゆちゃんのことで散々口出されてるだろうし。

  すると篠崎は聞かれてもいないのに言葉を連ねた。

  「めちゃくちゃ好きで、でも向こうはそうでもなくて……誰かと喋ってると嫉妬しちゃって、その人のことしか考えらんなくて。なんか毎日、頭ごちゃごちゃっす!」

  「…………ッ」

  それを聞いた途端、背筋が凍るような気がした。篠崎が普段そう思ってたのか、と驚くと同時に、それをここで言ってんじゃねぇと怒りも込み上げる。それでも尚平静を装わなくちゃいけなくて、俺の心もごちゃごちゃになりそうだった。

  しかしそんな突然の吐露も、篠崎の陽気な雰囲気と明るい言い方で誤魔化されたらしく、おばさんたちは切ないため息をついていた。

  「あげぇ……篠崎くんもうおばさんキュンキュンするわ」

  「なんやもうドラマとちゃうねんぞ。でも篠崎くん、ワシも応援してるわ!!!」

  ドン、と背中を叩く一茂兄に、篠崎は明るくお礼を言う。カイはその様子を見て少し呆れたような、しかしどこか複雑な表情を浮かべていた。

  そんなカイに小声で話しかけてみる。

  「みゆき姉嬉しそうだな」

  「……恋愛ドラマばっか見てるから。周りにそういう人いないしさ」

  「カイは順風満帆だもんな」

  「んーそうでも……ていうか後でね」

  二人に聞かれるのを案じて、そっとひそひそ話を止めた。まぁ正直恋愛事情は大人に聞かれたくない。篠崎についても、後で叱らなきゃいけないな。

  いつもより賑やかな晩御飯は、そのままあっという間に終わってしまった。篠崎に気を良くした一茂兄はどんどんビールを空けていき、ベロベロに酔っ払っていた。みゆき姉の渾身の料理も三人でおかわりまで平らげて、満腹感に幸せを感じつつ、名残惜しくも久方ぶりのカイの家から帰ることとなった。

  「えっ!うわっ!!星めっちゃ綺麗っすね!」

  夜は八時前くらい。田舎の空は明かりもなければ排気ガスもないから、都会とは比にならないくらいの満天の星空を見ることができる。埋め尽くさんばかりの小さな光が、写真みたいにすぐそこにある。昨日までの夜空と全く違う光景だった。

  「ちょっと前まで毎日見てたのに、久しぶりに見ると綺麗だな」

  「都会の空はあんまり綺麗じゃないの?」

  「東京は全然星なんか見えないっすよ!うわヤバ!!写真映るかな……」

  篠崎の興奮度合いは、なんとなく分からんでもない。八重木島は何もないけど、この大自然だけは自慢の景色だ。だが早く風呂に入りたいから、パシャパシャやってないで歩いてほしい。

  カイは微笑みながら緩やかに尻尾を振っている。ゆっくりと空を見上げながら帰るのも、本当に久しぶりだったな。

  「……てっちゃん東京楽しい?」

  「ん、まぁ……それなりかな」

  投げかけられた質問は何気ないものだったけど、俺は答えるのに少し考えた。即答できるほど、楽なもんじゃない。

  「田舎者っちいじめられてたらどうしよう、とか心配しとったけど、大丈夫そうだね」

  「あぁ。みんないい人だよ」

  ふと新谷さんの顔が過るが、頭を振ってなかったことにする。

  「………………そっか」

  「……………………カイ、なんか……寂しそうだな」

  「…………………………………………………………」

  珍しくカイが沈黙した。顔を見るとまた複雑な表情になっている。島にいたころは、見ることのなかった顔だ。

  ……言われなくても、カイの気持ちは分かる。俺とさゆりちゃんはカイだけ残して、都会の高校に転校した。高校も卒業できず、漁師になるしかなくなったカイは、よほど一人で心細かっただろうと思う。何より幼い頃から一緒だった俺と、初めて別々に暮らしているから。

  「…………この間さゆちゃんと会ったけど、数ヶ月でなんかこう……都会に染まったっていうか、おしゃれになって、趣味とかも変わって………置いてかれた気になっちゃってさ」

  「………………さゆりちゃんも、都会に馴染むために頑張ったんだろうな」

  「うん………………だからきっと、そのうち僕のこと、どうでもよくなるんだ。篠崎くんみたいにカッコいい人が、都会にたくさんいて……好きになるんだろうな」

  「……………………………………………………」

  俺は何も言えなかった。都会で暮らしてみたからこそ、そんなことない、と軽はずみなことは言えなかった。都会はとにかく人が多くて、モデルみたいな人がそこら辺を歩いてて、常に刺激と変化で満ちている。さゆりちゃんが心変わりしないなんて、言い切ることはできない。

  「…………てっちゃんも、そのうちきっと、都会に染まっちゃうのかな」

  カイは思いの外悲しそうな顔はしていなかった。ただ粛々と、何かを悟っているような。

  「そんなことねぇよ。俺は何回も島に帰りたかったし、卒業したら、帰るつもりだし」

  「ううん、違うんだ……そうじゃなくて、えっと……」

  色褪せた海沿いの道路を、フナムシが通りすぎていった。少し後ろでは、篠崎が空を見上げているだろう。少量の蝉の声と、生ぬるい潮風が、俺たちの会話を覆い隠していた。

  「僕は……おっとぉに反対して、都会に飛び出す勇気が出なくて………だから、僕が悪いんだ。てっちゃんがもし島に帰らなくなっても、僕はてっちゃんを責めないよ」

  「……………………いや、俺は」

  「分かんない、でしょ?誰も分かんないんだ。でもてっちゃんはスゴいよ。学校に馴染んで、バイトもして、友達連れてくるなんてさ……」

  カイの黒い目を見つめる。少し見つめ合ってから、カイは海の向こうへ視線を投げた。

  「重蔵じぃが、帰ってくるなっち言っとったの、ちょっと分かる気がする。てっちゃんはスゴいから、こんな島に縛られちゃダメなんだ」

  「……俺は、スゴくなんかない」

  「ううん。スゴいんだよ」

  カイの顔は無表情に近かった。感傷的でもなく、悲観的でもなく、ただ目の前にあるものを受け入れているような。そんな顔のカイを見るのは初めてで、この数ヶ月がどれだけ俺たちを変えたのかを思い知った。

  ……喉につっかえて、思わず言いたくなった。俺はゲイの学校で言い寄られる日々だって。悩まされて、困惑して、自分でも道に迷ってる気分だ。

  カイは昔から、俺のことを俺より知っていた。泣き虫で、何度も助けて慰めてきたはずなのに、成長するにつれて、俺が悩んでいるといつも的確な言葉をくれる相談役になっていた。何を見透かしてるのかは分からない。きっと本人も計算高くやってるわけじゃない。ただ一つ言えるのは、カイに生まれて初めて隠し事をする今が、とても居心地が悪かった。

  「………………カイだって、島を出ればいいだろ」

  「…………考えたけど、やっぱり無理。今さらおっとぉを説得できないし、それに……漁師も楽しくないわけじゃないんだ」

  カイは微笑を浮かべると、小さくため息をついた。と思えば、口から欠伸が飛び出した。

  「いっつも八時には寝てるから、もう帰らないと。明日も漁なんだ」

  「そっか…………大変だな」

  「こっちのセリフ。てっちゃんには無理かもしれないけど、とにかく言いたいのは、気にしないでっち」

  カイが歩みを止めた。気がつけば、俺の家の前に着いていた。

  「気にしないで。てっちゃんのやりたいようにやったらいいんだから」

  背丈は変わっていないのに、どこか大人びた顔で微笑んだカイに、なぜか言葉が出なかった。そのままおやすみ~と言いながら、踵を返して帰っていくカイ。背中になんとかおやすみと返事して、揺れる尻尾をどこか呆然と見つめてしまった。

  カイと俺は、生まれた頃から一緒にいた。だからお互いの些細な変化も、見た目だけじゃなく気持ちまで気づいてしまう。それは半ば感覚的なもので、明確に答えがあるわけじゃないんだけれど。

  カイは俺が島に置いていったことに寂しがってる、と思って俺はカイを気遣おうした。でもそれをカイは気がついて、気にしないでと言っていた。

  もしかすると、カイは俺が隠し事をしていることに気がついてるのかもしれない。きっと目敏く推理してるわけじゃない。何となく、俺には不都合があって秘密にしてるんだとしか。だからカイは、気にしないで包み隠さず言ってくれと……言ったのかもしれない。

  不意に、肩を叩かれる。

  「……センパイ?入らないんすか?」

  「………………あぁ。お前、今の話聞いてたか?」

  篠崎を見ると、少し困ったような顔をしていた。

  「深刻そうだったんで、聞かないようにしてました。なんか俺マズかったっすか?」

  「……いや、何でもない…………風呂入るぞ」

  「あ、はいっす!」

  篠崎を連れて玄関の引き戸を開けながら、人間関係ってこんなに難しかったかと、小さくため息を漏らした。

  

  長旅の疲れかは分からないが、風呂から上がって扇風機で体を涼ませている頃には、軽い気だるさと眠気に襲われていた。実家というのはどこか落ち着くもので、座椅子の上でぐったりくつろいでいる心地よさに、そのまま眠ってしまいそうだった。

  窓の外に光につられた羽虫が集まってるのを見ていたとき、じぃちゃんが顔だけ居間に覗かせて声をかけてきた。

  「………………哲也。翔くんの布団出しといたど」

  「ん?あぁ……ありがとう」

  「……………………………………………………………………」

  一瞬何か言いたげに見えたけれど、じぃちゃんはそのまま自室に戻っていった。じぃちゃんは九時には寝てしまうから、この時間はいつも一人だったのを思い出す。こっそり夜の海に出ていったり、カイと桟橋でずっと喋っていたりしていた。

  …………カイには、稲光のこと説明した方がいいんだろうか。きっと気味悪がったり、篠崎のことを差別するようなことはしない。でも絶対戸惑うだろうし、洗いざらい話すわけにはいかない。特に俺が、篠崎とキスしたことあるなんて知ったら……どんな反応をされるだろうか。

  「………………同性愛者って、普段こんな風に生きてんだな」

  ボソッと口をついて出た思い。でもそれは、改めて自覚するまで分かっていなかったのかもしれない。

  稲光にいると、同性愛者が多数派だから、誰も隠すことなんてしない。相手に拒絶される危険を犯さなくて済む。でも学園から一歩出れば、それは通用しなくなる。きっと稲光のみんなも、学校以外ではなんとか隠して生きてるに違いない。カイやじぃちゃんに俺がしているように。

  同性愛者の学校、稲光学園の必要性は、度々世間でも論じられているらしい。学ぶためにある学校に、性的嗜好なんか関係ないだろ、と。

  でもそれはうわべだけの話で、みんな普通に恋愛もしたいし、隠し事もしたくない。同性愛者の高校生が、楽に生きられる場所として、今の時代には必要なのかもしれないな。

  するとそのとき、今度は篠崎が居間に顔を覗かせた。

  「ふぅ……さっぱりしたっすわ!あ、扇風機俺も当たりたいっす!」

  タオルを首から下げて、上裸の篠崎が歩み寄ってきた。ホカホカと温まった身体のまま俺の隣に座ろうとしてくる。

  「……なんで裸なんだよ」

  「いやー流石に暑すぎて……南国の気温舐めてたっすわぁ」

  流石に真隣は嫌なので、扇風機の首を回して篠崎にも風が当たるようにする。自分の方を向いたときに、顔を近づけてアァーと声を出す篠崎を後ろから見守る。

  毛を乾かした後とはいえ、篠崎の身体は前より大きく見えた。背も伸びてるし、筋肉も増えたかもしれない。少し久郷田先輩に似てきたな、とぼんやり思った。

  「風呂不便だったろ?」

  「んー?まぁそうでもなかったっすよ!田舎じゃないとなかなか味わえないですし」

  家の風呂にはシャワーが無くて、浴槽を沸かして桶で掬って浴びるスタイルだ。数ヶ月間寮のシャワー付きの大きな浴槽を体験していると、俺ですら不便に思った。じぃちゃんのためにも改築したいが、きっとけっこうお金がかかるんだろうな。

  そこでふと、さっきの食事会を思い出す。そういえばあれから二人きりの時間が無かった。

  「お前、晩御飯のとき何であんなこと言ったんだよ」

  篠崎はこっちを振り返って、分かりやすい愛想笑いを浮かべる。

  「あはは…………なんかノリで」

  「そういうのやめろって言っただろ……」

  「すんません。でも流石にバレないっすよ」

  俺が呆れ顔を見せると、苦笑いしながら少し耳を垂れさせる。俺が怒るといつもその顔だ。

  扇風機が俺の方を向いていた。

  「……ホントにあんな風に思ってんのか?」

  俺が誰かと喋るだけで嫉妬して、四六時中俺のこと考えているなんて、聞きたくなかったかもしれない。

  扇風機は篠崎を向いた。

  「あぁ……まぁ、そうっすね。前から言ってるすけど、俺はセンパイのこと大好きなんで」

  「…………………………………………………………」

  こっちを向いた扇風機に答えを促されてるような気がしたが、俺は何と言ったらいいか分からなかった。篠崎が俺を好き過ぎて、本人も俺もどうするべきか分からない問題。たまに周囲にも飛び火するし、いい落とし所を探している。

  「でも誰と喋ってても嫉妬してるわけじゃないっすよ!束縛系みたいになりたくないし、ちゃんと分かってるっす」

  「俺が久郷田先輩にちょっかい出されてるとき、お前ほんと不機嫌そうだよな」

  「あの人は…………なんか別っす。俺と似てるとこあるし……でも向こうの方が経験豊富で、テクとかあるし……」

  少ししょぼくれたように耳を寝かせる篠崎。前から二人はライバル意識を持っていたが、篠崎の口からはっきりと聞くのは何気に初めてかもしれない。学園の外だからこそ、正直に言えることもあるらしい。

  「イケメンだしな」

  「えぇー!?それセンパイに言われるとめっちゃキツイっす………………」

  俺のからかいに悲痛な声をあげる篠崎。本当に精神的なダメージを負ってるようで思わず笑みがこぼれる。

  「向こうは三年なんだから、比べてもしょうがないだろ?」

  「関係ないっすよ!俺はセンパイの一番になりたいんすもん」

  「分かったから声抑えろ。じぃちゃん起きてるかもしれないだろ」

  少し膨らんだ尻尾をぱたつかせる篠崎の頭を、軽く叩くように撫で付けて落ち着かせる。久郷田先輩はイケメンかもしれないが、篠崎の方が可愛げがある。もちろんどちらの肩を持つつもりもないから、本人たちには言わないけど。

  篠崎と少し沈黙の時間ができると、自然と欠伸が出てきてしまった。今日はそんなに動いた覚えはないけれど、連日のバイトと長距離移動に意外と疲れていたらしい。本当は着いたらすぐ海で泳ごうと思っていたのに、諦めてしまうくらいだし。

  重い腰を上げて自分の部屋に戻ると、敷き布団が二つ畳んで並んでいた。片方は俺が使っていた布団だが、じぃちゃんがどちらも綺麗に洗ってくれたらしい。寮のベッドも柔らかくて寝心地はいいが、畳の上で寝るのは安心感がある。

  後ろを着いてきていた篠崎が顔を覗かせる。

  「ぅわーエモいっすねぇー」

  「……こっちお前の布団だ。隣持ってけよ」

  俺の指示に篠崎は少しだけ黙る。そしてひそひそ声で予想通りの提案をしてくる。

  「…………一緒に寝ません?」

  「ダメだ。昼間も言っただろ」

  「バレないですって。最初から並んで置いてるじゃないすか」

  「だからって隣で寝てたらおかしいだろ」

  「部活の合宿とか全然隣で寝るっすよ」

  「それに暑い。クーラーねぇんだぞ」

  「じゃあちょっと離れるんで。扇風機あるし平気っすよ」

  ああ言えばこう言う、篠崎がこんなに食い下がってくるのは珍しく感じた。そんな俺と寝たいのかコイツ、っていう引きの気持ちと、断る理由があんまり無いことに気づくのがほぼ同時で、なんだか複雑な気分になる。このまま乗せられていいんだろうか。

  「ここのと居間のと二台あるから、それぞれ使えばいいだろ。コンセント足りないから隣で寝ろ」

  「えぇーじゃあ俺扇風機いらないんで……」

  「しつこいぞ……ただでさえ暑いのに」

  追いすがる篠崎をあしらいつつ、元々俺の部屋にあった扇風機のコンセントを挿す。俺の部屋は風通しが悪いから、窓を開けただけじゃそんなに涼しくない。

  長年使っている古い扇風機のスイッチを入れると、ガガガッと軋む音を鳴らして回り始め…………止まった。

  「……あ?」

  「あっ……壊れたんすか?」

  ガチャガチャと何回かスイッチを入れ直してみる。今度は微塵も動く様子はなく、何の音も鳴らなくなってしまった。最後に使ったのは半年くらい前だし、特にメンテナンスもしてないから壊れるのも仕方ないが……このタイミングかよ。

  少し肩を落として篠崎を見る。目をしばたかせる狼にはぁ、とため息をついた。流石に扇風機無しで寝かせるわけにはいかない。熱中症になる。

  「…………近寄んなよ」

  「っ!はいっす!」

  急激に尻尾を振る篠崎の頭を軽く小突いた。

  [newpage]

  「…………ん?なんか…………体重いな」

  布団の上に投げ出した体。動こうとしても、四肢にすら力が入らない。

  「無理に動かなくていいっすよ。センパイ妊娠してるんすから」

  ぬっと視界に現れた篠崎。感情の読めないぼやけた顔で俺の腹を撫でる。見ると、俺の腹が見たこと無いほど丸く膨らんでいた。

  「は?妊娠?」

  「エッチしたんだから妊娠するに決まってるじゃないすか。俺とセンパイの子供っすよ」

  「は?え?」

  いつの間にか脱いでいた服。篠崎は腹に耳を当ててにっこりと微笑む。

  「俺も全力でサポートするんで、元気な赤ちゃん産みましょうね。名前も決めないとっすよ」

  「……ッは、え……?ぅそだろ…………?」

  「大好きっすセンパイ。結婚もして子供も産まれて、一緒に幸せになりましょうね」

  「っ!!??ぇ、…………ぁ……っ!?」

  「ッッッ!!????」

  そこでバッと目が覚めた。目に映るのは俺の部屋の天井……木目と古い蛍光灯。全身にびっしょりと汗をかいて、 張りついたTシャツが気持ち悪い。むわりと体に熱が籠って、呼吸が荒く身体が重たい。

  そしてようやく、俺は篠崎に抱き着かれていることに気がついた。半裸どころかパン一の篠崎が、仰向けで寝ている俺にピタリとくっついていた。こんな真夏の夜に毛深い種族の獣人がくっついてたら、そりゃ寝汗をかきまくるだろう。俺も篠崎もびちょびちょで、はぁぁ……と深いため息をついた。

  昨夜は先に俺が寝たが、寝る前に布団も離してしっかり距離を取っていたはずだ。なのに何なんだこれ。おかけで訳の分からない悪夢を見るはめになった。

  ドン、と肘で篠崎を強めに突いて引き剥がす。畳の上に体が転がったが、アホ面のまま気持ち良さそうに寝ている。湿った毛皮から離れて、呼吸を整えつつ起き上がると、ようやく心がホッとした気がした。

  窓の外の明るさを見るに、また5時くらいに目が覚めているようだ。夏の朝は涼しくて好きだが、汗が気持ち悪いのでとりあえずTシャツを着替える。風呂に入ってもいいけど、どっちみち今日は海で泳ぐつもりだから我慢しよう。

  部屋を出て洗面所に行き顔を軽く洗ってから、外に出て庭の方へ行ってみる。コンクリート塀で囲まれているから外から全く見えないが、庭にはじぃちゃんが長年大事にしている畑がある。毎朝早くから土いじりをしたり、植物を育てているじぃちゃんの手伝いをするのが日課だった。とはいえそんなに広いわけでもないので、近所の人の畑にも行ったりしていた。

  案の定そこには畑に座り込んでいるじぃちゃんの姿があった。周りには盆栽や花のプランターもあって、じぃちゃんの植物愛が伝わってくる。ここ数ヶ月でも変わらず世話を楽しんでいるようだ。

  「……じぃちゃんおはよう」

  「………………………………お早う」

  俺が近づきながら声をかけると、じぃちゃんは一瞥することもなく返事をした。やや仄暗い、それでいて朝日は見えているような絶妙な時間帯。涼しい風と、眠そうな蝉の声が、夏の早朝を心地よく包んでいた。

  じぃちゃんの隣にそっと屈んで、忙しなく動いている手元を眺める。畑には色々な野菜を植えているところを見るが、今年はオクラを育てているらしい。ハサミで何やらパチパチやっているが、俺には何をしてるのか分からない。

  「………なんか、手伝うことある?」

  「…………………………………ない…………」

  少しぶっきらぼうにも聞こえるが、じぃちゃんはこれが平常運転だ。大体は額面通りに受け取った方がよくて、ないというなら手伝ってほしいことは無いんだろう。

  いつもなら自分でやることを探すか、近所を散歩しようかといったところだが、せっかく篠崎を除いてじぃちゃんと二人きりの機会だ。畑にいるときは比較的機嫌もいいし、聞きたかったことを聞くチャンスかもしれない。

  俺が見ていても気にならないのか、黙々と作業を続けるじぃちゃんに、あまり深刻な口調にならないように気をつけながら話しかける。

  「…………じぃちゃん、一個聞きたかったんだけどさ。なんでじぃちゃんは俺を稲光学園に入れたの?」

  「……………………帰りたくなったんか」

  「いや……そうじゃなくて…………都会にも色々学校はあったでしょ?なんで稲光を選んだの?」

  「……………………………………………………」

  じぃちゃんは少しの間静かになった。それでも手は止めないようで、答えを考えているように見える。でも何を考えるというんだろう、何か言えない理由でもあるのか?

  畑の土の上にいた芋虫がそっと視界から消えたとき、ようやくじぃちゃんが口を開く。

  「…………………………桑原さんの…………勧めど」

  「え?桑原さん……って誰?」

  初めて聞く名前に、思わず目をしばたかせる。じぃちゃんの知り合いはたくさんいるから、もちろん全員知ってるわけじゃないけど……その話自体も初耳だし。

  するとじぃちゃんは初めてこっちを向いた。近くで見る真っ黒な目は、珍しく驚きの色を浮かべていた。

  「…………まだ会っちょらんのか?」

  「うん……?ていうか稲光にいるの?」

  「…………おんのは桑原さんの孫……わんの昔の友人っちば」

  たじろいで屈んでいた足のバランスを崩しそうになる。いやいやそんな話ホントに初耳だ。じぃちゃんの知り合いの孫?桑原……って、どこかで聞いただろうか。

  「全然知らんかった……っていうかじぃちゃんも何でそれ今まで言わなかったの?」

  「……言わんかったか?」

  「うん…………そのお孫さんはいくつなの?」

  「……うらと同い年ど」

  うら、というのはお前という意味だ。じゃあ俺の同学年にいたのか……じぃちゃんの知り合いが。

  もし入学時から知っていたら、もうちょっと友達作りとか楽に………………いや、大して変わる気はしないけれど、戻ったらとりあえず探さないとな。こーすけに聞けば大抵分かるだろうし。

  色々なことが頭を過ったが、いくつかの疑問は解決した。そもそもインターネットも分からないじぃちゃんがどうやって学校を見つけてきたのかも疑問で、学校の先生が何とかしてくれたもんだと思ってたが、たまたま東京に同級生の孫がいる知り合いがいたから、稲光を選んだという経緯らしい。

  ……じゃあ、LGBTのこととか知らなかったのか?

  「…………ねぇじぃちゃん、稲光ってどういう学校か知ってる?」

  「………………………………どういう意味や」

  黒い目でじっと俺を見つめるじぃちゃん。相変わらず表情は読めないが、何か後ろめたい様子はない。もしかしてホントに知らないで俺を送り出したのか?田舎者で年寄りのじぃちゃんならまぁ、あり得なくはないけれど。

  そこで俺は口を開こうとして押し留めた。もしじぃちゃんが何も知らなかった場合……LGBTの学校だって説明して、どんな反応が返ってくる?島から出ない、テレビもあまり見ない田舎の老人が、ゲイに対してどう思ってるかなんて予想がつかない。もし否定的だったら………篠崎はどうなる?出ていけとは流石に……言わないよな。でも何か傷つけることを言うかもしれないし、今の歓迎的な態度が変わるのは明らかだ。

  一か八か言ってみるか、さりげなく探ってみるか……俺の沈黙に、じぃちゃんは段々と不審な目付きになっていくような気がした。

  するとそのとき、

  「あっ、おはようございます!!外にいたんすね!」

  背後から声が聞こえたかと思えば、寝起きで上裸のままの篠崎が裏庭の入り口にいた。つんつんと寝癖も立っているし、汗でちょっと湿った毛もだいぶみっともないが、本人もじぃちゃんも大して気にしていないようだ。

  「うわーいい庭っすね!一人で作ってるんすか?」

  「………………あぁ」

  「めっちゃ元気に育ってるっすね!!うわっ芋虫でか!!!」

  うるせぇ、と思わず言いたくなったが、じぃちゃんはそう思っていないようだった。手元の作業を続けながらも、篠崎のことをチラチラと見ている。もし不快に思ったら不快だ、とそのまま言っちゃう人だから、特に篠崎は印象悪くもないんだろう。

  ニコニコしながら篠崎はそっとじぃちゃんの隣に座った。俺たちでじぃちゃんを挟むような形だ。

  「篠崎、なんで上裸なんだよ」

  「あー寝汗めっちゃかいちゃったんすよ!替えのTシャツ足りないからもういいかなって」

  「…………後で俺の貸すよ」

  じぃちゃん越しに篠崎と話すのは、なんだか変な気分だ。よく真隣にどんと居座れるなコイツ。距離を詰めるのが早すぎる。

  「あっ!これオクラすか?」

  「……………………………………………」

  黙って頷くじぃちゃんに、篠崎が嬉しそうな声をあげる。

  「うわっ!!え俺オクラちょー好きなんすよ!!」

  「野菜苦手じゃなかったか?」

  「オクラは別っす!俺納豆とかもネバネバ系好きなんで!!」

  それは初耳だ。まぁ寮食でオクラってなかなか出ないもんな。

  すると意外にもじぃちゃんがボソッと会話に加わった。

  「…………………………今日の昼飯に出しちゃる」

  「えっ!?マジすか!やったー!!」

  篠崎の笑顔にも顔を背けるじぃちゃんだが、内心では喜んでいるようだ。珍しく僅かに尻尾を動かしていて、あのじぃちゃんに好かれるなんてと篠崎のコミュ力が恐ろしくなる。

  ここまで好かれてるんだったら………篠崎がゲイだと分かっても問題ないかもしれない。寝起きに話すことではないけれど、この雰囲気に便乗した方がいいだろう。

  そう決心して口を開こうとしたとき、

  「………………哲也。わんはいいから他の畑を手伝ってきなさい」

  「え?あぁ………………うん」

  「………………翔くんを紹介せんばな」

  「う、うん……………………じゃあ、篠崎行くぞ」

  「はいっす!あ俺上裸で平気すか?」

  「まぁ別に気にする人いないけど」

  予想以上に篠崎を気に入っていたじぃちゃんに驚きつつ、厄介なことにならなきゃいいけどと、一抹の不安が過った。

  その後朝ごはんまで、近所のおじぃおばぁに挨拶回りをしていた。みんな俺が赤子の頃から知ってる人ばかりだから、久々に会うとすごく喜んでくれた。じぃちゃんよりも訛りがきつく、俺ですら何と言ってるか分からないおじぃもいたが、得意のテキトーなノリで篠崎はどんどん島の老人たちに好かれていった。元々みんな若い子が好きなのに、この人当たりの良さと明るさが本当に可愛かったらしく、泣くほど喜んでいるおばぁもいた。

  島民から次々と篠崎が好かれていく様は、横で見ていて少し複雑な気分になる。小さな村に友達が受け入れられてホッとする気持ちと、こんなに俺に近い人たちに気に入られると、篠崎がどんどん俺に近づいてるような気がしてしまった。例えばもし篠崎と付き合うことになったら、全力でお祝いされそうなくらい。

  安堵と不安と、何だか落ち着かない気持ちのままご近所巡りは終わった。

  篠崎と適当に朝ごはんを食べたあと、まだ朝の10時前だったが、島に来てからずっと我慢していた海で泳ぐことにした。朝とはいえ日が昇ってしまえばすぐに気温は上がり、毛皮をヒリヒリと焦がす直射日光から逃げるように海へ向かった。

  「うわっ天気良っ!雲一個もないっすよ!!」

  篠崎につられて空を見上げると、白く燃える太陽意外には、絵の具で塗りつぶしたような青空が広がっていた。360度、どこを見渡しても雲ひとつない晴天だ。

  そのまま目線を下に落とすと、俺の家の前に広がる長い砂浜を半分に区切る小さな桟橋が見える。長方形のコンクリートの足場が海へと伸びているだけだが、眺めたり飛び込んだりするのに最適だった。

  「ほんと暑いな……早く行くぞ」

  「あー待ってちょっとズボン脱ぐっす」

  篠崎がズボンを脱ぐのにもたついてるのを余所に、桟橋の真ん中を堂々と歩く。眼前にはエメラルドグリーンの海が広がっており、激しい日照りにキラキラと輝いていた。手前の浅瀬は透き通る海水に底の様子までハッキリと見ることができて、波の模様が影となって揺蕩う砂に映し出されている。少しずつ深くなるにつれ、青と緑が混ざったようなグラデーションを見せ、海中には岩や珊瑚も見え隠れする。穏やかな波の中で忙しなく泳ぐ小魚たちに誘惑されているように錯覚した。

  桟橋のギリギリに立つと、群青色の海面と、コンクリートにびっしり付いたフジツボがぶつかっている様子が良く見える。桟橋の側は普通に危ないから、篠崎にも注意しなきゃな。

  「やっべぇ!!マジで海キレイ!!貸し切りっすよね!コレ!!」

  「他に泳ぐ人いないからな。珊瑚とかフジツボとかで足切るかもしんないから気をつけろよ」

  隣に歩いてきた海パン姿の篠崎に注意を促す。人の手が入ってない自然だからこそ、全然怪我や事故を起こす可能性もある。海に慣れてる俺と違って、篠崎は海水浴場しか行ったことないらしいし。

  「うわー確かに底の方ゴツゴツしてるっすねー」

  「まぁそんな深くまで潜らないだろ?ていうかもう早く飛び込むぞ」

  「えっ?こっから行くんすか?え服着たままっすよ!うわぁ!行っ──────」

  ───ジャボォーーーンッ!!!!!

  篠崎の声も無視して、桟橋のへりから思いっきり前へジャンプした。足から着水して砕けるような海水の泡が視界いっぱいに広がったあと、次の瞬間一面に鮮やかな海の景色が広がった。水面から射す光の柱を受けて元気に育つ珊瑚礁。その隙間から顔を覗かせては逃げていく小魚たち。穏やかな波に揺られながら暮らすその光景は、半年前に潜った頃のままだった。

  そして何より、全身を包み込む海水がとても気持ち良くて、暑かった毛皮を根本まで冷やしてくれた。いつの時期も泳げるっちゃ泳げるが、やはり夏の海は最高だ。

  息継ぎのため水面から顔を出すと、驚きつつもにこやかな篠崎の顔が桟橋から覗いていた。

  「すげぇー!ここ結構高いっすよ?」

  「平気だって。お前も飛び込んでこいよ!」

  「まじすか!うわ、ちょっと勇気いるっすね!」

  そういいつつも篠崎は少し下がって助走をとった。俺も少し沖の方に寄ってスペースを作る。これでも潮は満ちている方で、2メートルくらいの飛び込みなら初心者でもできる。プールと違って下がどうなってるか分からない不安はあるけどな。

  すると篠崎は小走りで桟橋まで駆けてきた。そのまま踏み切って勢い良く飛ぶ………かと思いきや、ギリギリで踏みとどまった。

  「いややっぱ怖ぇ!これ下大丈夫っすよね!?」

  「大丈夫!早く飛べよ!」

  「俺若干きょう所こう恐症なんすよねぇ」

  「言えてねぇぞ!」

  少しビビっている篠崎を見るのは新鮮で楽しかった。そういやホラー映画のときも一番驚いてたし、意外とビビりな性格なのかもしれない。

  この桟橋は昔からカイとよく来ているが、カイが飛び込めるようになったのは小6のときだ。そのときも一茂兄と俺で散々追い詰めて、無理やり飛ばせたような感じだった。ただ一度飛べるとそれ以降は躊躇なく飛ぶようになってたな。

  そこでふと、少し悪趣味な考えが思いつく。自分でも良くないとは思うが、篠崎を試してみたくなった。

  「篠崎!」

  「はいっす……!今行くっすけど……」

  飛ぼうか、というポーズは見せるけれど、表情は少し引きつっている篠崎。高校生とはいえ、初めてはやっぱり怖いか。

  「篠崎!!足つった!!助けてくれ!!!」

  「ッッッ!??」

  俺はあえて立ち泳ぎの力を弱めて、少しずつ体を沈ませていった。マズルを海面から出して、もがく演技をする。もし俺が溺れたとなったら、篠崎は飛び込んで助けに来るのだろうか。俺への愛情と、この桟橋への恐怖どっちが勝つか、自分でも悪趣味だとは思うが、試してみたくなってしまった。

  篠崎は驚いた顔を浮かべて、少しの間思い悩んでいるようだった。足元を見て、ほんの一瞬表情をひきつらせたが、束の間、前傾姿勢を取って両足でぐっと踏みきると、頭から綺麗な水泳のフォームで海へと飛び込んでいった。

  その水飛沫を見つつ、判断の速さに少し驚いた。もうちょっと悩んだり、違う解決法を試そうとしたりするかと思ったからだ。

  篠崎はすぐさま俺のところへ泳ぎ着くと、ばッと顔を上げて俺の脇へ手を添えた。

  「大丈夫すかセンパイ!!??」

  「大丈夫っ…………ふ、…………あぁ、大丈夫だって」

  あまりの迫真な表情に思わず笑ってしまい、その様子に篠崎は今度は目を丸くした。

  「ははっ、ウソウソ……ッ、溺れてないよ」

  「はっ、えっ、えぇ!?」

  間近で見る篠崎の反応が面白くて、止まらない笑いのせいで溺れてしまいそうだった。足でしっかりと立ち泳ぎしつつ、篠崎の手を外す。

  「飛べるかどうか、ちょっとからかっただけだ」

  「えぇぇ…………まじすかぁ…………!」

  「意外と早くて驚いた」

  「そりゃ、センパイが溺れてたら行くっすけどぉ………………」

  色んな恐怖が終わったことによる安堵なのか、篠崎はため息をつきながら少し落ち込んでいた。まぁ自分の善意が無駄になったような気がして、嫌な気分になるかもしれない。

  「はぁぁ………………まぁセンパイが無事ならいいっすけど………………」

  「篠崎、」

  耳を垂れる篠崎に、少しだけ顔を近づける。マズルの先端が、触れてしまいそうなくらい。

  俺がじっと見つめると、篠崎も同じくらい見つめ返してきた。

  「………ごめんな?」

  「ッッッッ!!!!全然いっすよ!!!」

  俺と目を合わせるだけで、分かりやすく笑顔になる篠崎の変わり様を見て、俺も思わず笑みがこぼれた。

  そこから少しの間、海の中をひたすら泳ぎ回って遊んでいた。手付かずの自然が残っている南国の海は、篠崎にとって感動的なものだったらしく、海中で何かを見つけては俺に報告してきていた。珊瑚礁はちらほらあるとはいえども、そんな観光地のように熱帯魚だらけという訳でもない。それでも貸し切りの海を楽しんでいる様子は、出身者としてシンプルに嬉しかった。

  かくいう俺もそこら中泳ぎ回って、軽く素潜りしたり貝を採ってみたりして存分に楽しんでいた。波に揺られるだけでも心地よく、どれだけ自分が海を好きなのか再確認した。

  ずっと泳いでばかりでも疲れるので、一度篠崎と浅瀬の方で半身だけ浸かって座り込む。緩やかな波に前後しながらも、日差しと水温のバランスがちょうど気持ちよかった。

  「はぁぁーーマジで最高っすわぁー」

  しみじみと味わっているびちょ濡れの篠崎を見る。風呂上がりくらい多幸的な顔をしていた。

  「お前、泳ぐの上手いな。あんまり海泳ぎしてないんだろ?」

  「センパイに比べりゃ少ないっすけど、川崎にも海岸あるっすから」

  「じゃあちょこちょこ行ってたんだな」

  「でも神奈川の海と全然違うっすよ!やっぱ南国っていいっすねぇ」

  照りつける太陽に眩しそうに顔を歪める篠崎。海中で海藻みたいにゆらゆらと尻尾を揺らしていた。

  「…………お前連れてきて良かったよ」

  俺が正直に呟くと、篠崎は露骨に嬉しそうに笑顔を浮かべる。

  「なんかセンパイ、上機嫌っすね!」

  「え?そうか?」

  「やっぱ海ってテンション上がるっすもんね~!」

  指摘されて気がついたが、確かに今日は篠崎に怒ったり小突いたりしてないなと思った。篠崎と同じくらい尻尾も揺れているし、なんか今なら海のように広い心で何でも許せてしまいそうだ。

  波の中で、海底の砂をぎゅっと掴んでは離してみる。

  「そういや、何でセンパイTシャツ着たままなんすか?」

  「ん?島の人はこれが普通なんだよ」

  少し前にこーすけにも言われたことを思い出す。都会じゃ水着が当たり前らしい。

  「えーでも脱いだ方が泳ぎやすくないすか?」

  「………なんかそれ、プールの授業でも同級生に言われたな」

  「えっ!?まじすか!そいつもセンパイの裸目当てっすよ!!」

  「そいつもってなんだ、お前もじゃねぇか」

  頭を軽く小突くと、快活に笑う篠崎。そうやってすぐにエロい方に持っていきたがるのが、男子高校生というものらしい。

  とはいえ川元は筋肉に興味がある、って言ってたな。多分川元もゲイだし、全くそういう含みがない………とは言いきれないのか?でもあんまり川元からは下心を感じたことはないけれど。

  「風呂で散々見てるけど、センパイの筋肉とか毛色とか、俺好きなんすよねー」

  「なんかそれも言われた気がするぞ」

  「えぇぇ??センパイモテすぎっすよマジで」

  心配するように耳を寝かせる篠崎に微笑み返す。川元が俺のことを好きだとしても、なんだか大丈夫な気がしていた。結局人数が増えるだけだ。

  「……なら、俺に好かれるようにいい子でいてくれよ?」

  海水で湿った頭をポンポン撫でると、分かりやすく朗らかになり、尻尾が振れまくってパチャパチャと音を立てた。

  「なんか今のセンパイ色々ヤバいっす!!あーーめっちゃ押し倒したい」

  「やめとけ……ていうかまた暑くなってきた。泳ごうぜ」

  俺が徐に立ち上がると、ズボンから大量の水が垂れた落ちる。黒いTシャツに熱が溜まって、また海に戻りたくなってきていた。

  隣の篠崎もすくっと立ち上がる。

  「はいっす!あ、せっかくなんで神の岩行ってみません?泳いでいけるんすよね?」

  「あぁ……まぁ別になんもないけど、行ってみるか。また飛び込むか?」

  俺の問いかけに、篠崎は露骨に苦笑した。無理やり飛ばせるまでもないか、ってことで、浜辺からゆっくりと神立岩に泳ぎ出した。

  神立岩は海岸からちょっと沖の方にぽつんと立ってるでかい岩だ。ぽつんととは言ったが、海の中はちょっとした岩場になっていて、座礁する危険もあるため、うちの集落に港ができなかったとじぃちゃんから聞いた。陸から見ると分かりづらいが、近くで見ると結構大きな岩で迫力がある。俺は昔から学校行事の遠泳大会とかで長距離を泳ぐのは慣れてるが、篠崎はどうだろうかと度々止まって振り返ると、遅いながらにもちゃんと着いてきていて、サッカー部の運動神経を再確認した。

  休むことなくまっすぐ泳ぎ続けて、神立岩のすぐそばまで近づいた。少し回りこむと岩の段差で一部上がれるところがあって、ちょっとした隠れ家のようになっている。

  濡れた体を太陽で暖まった岩の上に晒すと、とても気持ちが良かった。ここら辺は岩だらけで沖ほど波は荒くない。それでも桟橋に比べて深いので、ちょっとした危険は着いてくる。

  「…………篠崎ー!こっちだ!」

  まだ姿が見えない篠崎を呼んでみると、多少波に押されながら平泳ぎで近づく狼を見つけた。前のプールでも思ったことだけど、都会の人は顔を水面から上げたり下げたりしながら平泳ぎをする。多分浮きやすい海よりプールに慣れてるからだと思うけど、ギャップを感じるところだ。

  そのまま篠崎はすいすいと岩場までたどり着くと、びちょ濡れの顔を拭いながら、ブルリと体を振るった。

  「はぁ…………思ったより遠かったっすね」

  「でかいからな。ここが唯一登れる部分で、そこにちょっとした洞穴がある」

  神立岩の真ん中の部分、ぽっかり空いた空洞を指差すと、篠崎は興奮気味に尻尾を振った。

  「うわ、なんかわくわくするっすね!神様の祠みたいな感じすか!?」

  「いや、特に中には何もない。ここはちょっと悲しい歴史があるからな」

  俺の言葉に、興味深げに目をしばたかせる。あんまり良い話じゃないが、続きを促されてるような気がして話すことにした。

  「太平洋戦争のとき、沖縄とかこの辺の離島は米軍に攻められてたんだけど、昔の八重木島の人は最終手段としてこの穴に隠れたんだ」

  「あぁ……確かに見つかんなそうっすね」

  「もし見つかったら、毒を飲んで自決するつもりだったらしい。結局バレなかったらしいんだけど、何日も隠れてたせいで他の原因でたくさん人が亡くなったんだよ」

  八重木島の子供は学校の社会の授業でこの歴史を習ったりする。じぃちゃんはこの岩には行かなかったらしいが、その当時の話は一切してくれなかった。

  「だからまぁ………あんまり楽しい場所じゃないかな」

  「そうなんすねぇ…………じゃあ一応お参りしとくっす」

  そう言うと両手を合わせて目を瞑り、じっと念じ始めた篠崎。意外とそういうの大切にするタイプなんだな。俺とカイは子供の頃散々この岩で自由に遊んでいたけれど。

  「……亡くなったのは60年以上前だけどな」

  「でも今日お盆じゃないすか。ご先祖じゃないけど、手合わせときましょーよ」

  「え?そういや今日か……」

  日付はもちろん知っていたが、この辺の地域にはお盆という風習はない。八月踊りとか、お盆に代わる別の行事があるから、いわゆるナスとかキュウリとかの一般的なお盆の風習はよく知らなかった。

  きっとこの岩には、俺の親戚もいたんだろう。直接血が繋がってるかは知らないけど、この辺の地域の犬科はめちゃくちゃ遠縁の親戚であることが多い。昔は近親婚とか……杜撰だったらしいし。

  篠崎の隣で、一応両手を合わせてみた。もし先祖がいるんなら、今の俺に助言をくれないだろうか。霊にも頼りたいくらい、最近悩み事ばかりだ。

  「…………こういうお参りって、ちゃんと届いてるんすかね」

  ボソッと篠崎が呟く。篠崎も、親戚や両親を早くに亡くしているから、何度もお参りしているんだろう。

  「…………ここは神がいるって岩だから、仏に念じられて怒ってるかもな」

  「もーうそういう事言ったらホントに祟られるっすよー」

  少し呆れたような、それでいて笑っているような顔で軽く肩を小突かれる。テキトーな性格だが、意外と霊とかも信じているらしい。

  「篠崎は幽霊とか見たことあんのか?」

  「あるっすよ!小学生のとき、夜中のアパートで黒い影を見たんすよ」

  「気のせいじゃなくてか?」

  「ちょっとしたら消えたんで、何なのかは分かってないんすよねー。俺もビビって確かめられなかったですし」

  「その頃からビビりだったんだな」

  「今もみたいな言い方やめてほしいっすー!ちゃんと飛び込んだじゃないすかぁ!」

  二回目は遠慮したけどな、と言おうとしてやっぱりやめた。これ以上膨れさせたってしょうがないし。

  日に当たる岩の上はずっといると暑いので、また腰から下を海に浸けながら休憩する。ここからだと、俯瞰で八重木島を捉えることができる。こんもり繁った夏の青い山々は、遠くから見るとブロッコリーみたいに見えた。

  「…………あそこにちょっと突き出てる木見えるか?」

  「あー…………あれっすか?」

  俺が指差す方向には、山の一部に一本だけ大きく飛び出た巨木がある。遠くから見ても分かりやすい。

  「そう……今は一本しか見れないけど、昔は島のあちこちに八本あったらしい」

  「へ~っあ!だから八重木島なんすか??」

  「あぁ。折れたり倒れたり、他の木が伸びて分かりづらくなっちゃって、今は一本しかないけどな」

  「一木島っすね」

  「………………。あの木の麓までの山道も、今は塞がってるらしいし、ゼロ木島になるのも時間の問題だな」

  俺の冗談に篠崎はニヤニヤと笑った。でもわりと冗談じゃなく、島のアイデンティティはどんどん失われつつある。

  「山の中って、どこももう入れないんすか?」

  「いや、山頂まで行けないだけで、わりとあっちこっちに入れる場所はある。登りたいのか?」

  「せっかく来たんで、海だけじゃなくて山も行ってみたいなーって思ったんすよ」

  八重木島の山道は、道路以外ほとんど整備されてないから、ちゃんと登るのは計画性がないと危険かもな。俺もじぃちゃんと何回か登ったが、一歩間違えたら転げ落ちそうな道もあるし、有害な植物もあったりする。

  ただ、たまにカイと行っていた比較的低い場所にある原っぱなら、行ってもいいかもしれない。星が綺麗に眺められる小さな草原があった。

  「…………じゃあ、夜にでも行くか。ていうか今何時だ?」

  「分かんないっすけど、そろそろお昼っすよね」

  休憩しながらとはいえ、たくさん泳いで少し腹が減っていた。神立岩にいても特にやることはないし、そろそろ帰りたかった。

  「…………戻るか?昼飯食べるにしても、さっさと風呂入らないとだし」

  「そっすねー腹減ったっす!あでも、せっかく誰もいないんで………」

  一瞬、篠崎が目を光らせたと思ったら、ぐっと距離を詰めていきなり俺を抱き締めてきた。ここ最近奇襲されることがなくてすっかり油断していた俺は、気づけば篠崎の肩に顎を乗せていた。

  「うぅぅ~!!!センパイ大好きっす!!」

  「…………はいはい、もういいだろ」

  お互いびしょ濡れだしいつもより心地悪かったが、海のおかけで上機嫌だったせいか、仕方ないな、くらいの感情に落ち着いた。とはいえさっさと離れて欲しいけど。

  「…………なんか久々っすね。センパイ三下センパイのとこ行ってたじゃないすか」

  「まぁ………そうだな」

  「俺ちょっと…………嫉妬してたっす」

  「…………知ってる。でも久郷田センパイと寝るよりマシだろ?」

  「…………………………………そっすね 」

  篠崎の胸に手をかけて軽く押す。一瞬拒むように押し返されたが、すぐに篠崎の方から離れてくれた。

  「せっかくライバルいないのに、センパイと寝れないの……生殺しっすよぉ」

  「…………とかいってお前今朝俺の隣で寝てただろ」

  「あ、やっぱバレてたっすか?」

  「当たり前だろ。今日はやめとけよ」

  「…………今日はどっちみち無理っす」

  それまでにこやかに喋っていた篠崎の表情が、一瞬だけ曇った。それを不審に思った頃には、またいつもの笑顔に戻っていて、何故か咎めることも遠慮してしまい、それ以上話すことはなかった。篠崎にも色々あるんだろうと、綺麗な海と眩しい日差しの前に気にしなくなっていった。

  海から出たあとはそのまま乾くと毛皮がゴワゴワになってしまうので、念入りにシャンプーして水風呂から上がった。篠崎が浴び終えた頃には昼過ぎになってしまっていて、そこから少し遅めの昼ごはんを食べた。じぃちゃんの料理は上手というわけではないけれど、毎日飲んでいた味噌汁の味は、久しぶりに味わうと懐かしい気持ちになった。今朝言っていた通り、オクラと納豆の和え物も出してくれて、篠崎の気に入られぶりに驚いた。

  山に登るのは夜だし日中はまだまだ暑いので、昼ごはんの後もしばらくゴロゴロしていた。一応宿題の一部は持ってきたが、なんとなくやる気にもならず扇風機の前で寛ぐ午後。昼間のあまり興味のないバラエティ番組を見ながら、新聞を読むじぃちゃんと、携帯をいじる篠崎と、なにもしないまま時間だけが過ぎ去っていった。

  始まりも分からない沈黙がしばらく続いたあと、篠崎から少し新鮮な提案をされた。

  「……あ、そういえばセンパイ、アルバムとかあるっすか?」

  「…………アルバム?」

  「せっかくなんで見てみたいっす!昔の写真とか!」

  アルバムか……じぃちゃんは俺が産まれる前にばぁちゃんを亡くして、それから両親の代わりになるように色々と頑張ってたらしい。その一つがアルバムだ。そんなに気合いを入れて作ったわけじゃないだろうけど、俺の幼い頃の写真は少しずつ写真に撮っていたらしい。カイの家がその辺しっかりやってたから、カイのアルバムに俺がいたりもするけれど。

  「…………じぃちゃん、アルバムってどこにしまったっけ?」

  「…………わんの部屋じゃが」

  「押し入れの中?取ってもいい?」

  「……………………………………」

  じぃちゃんは無言で頷いた。許可はもらったので、伸びをしながら立ち上がって篠崎を手招く。慌てて起立した篠崎と共に、キッチンの隣にあるじぃちゃんの和室に入った。

  じぃちゃんの部屋は六畳の普通の和室で、他の部屋より圧倒的に古い。きっといる時間も、使ってきた物の時間も長いんだろう。

  貰い物や小物もかなり多いはずだけど、本当に大切な物以外は家のあちこちに飾っているから、部屋の中はかなり簡素だ。年季の入った洋服箪笥と、小さな個人用の座卓。そして何より、この部屋にはばぁちゃんの仏壇があった。

  「おじぃちゃんの部屋って、こんな感じなんすね」

  篠崎の呟きに、思わず振り返る。

  「…………じぃちゃん家行ったことないのか?」

  「おばあちゃんは二人とも生きてるんすけど、おじいちゃんは早めに死んじゃったんすよね。うちの家系は男は早死にするんすよ」

  笑いながら篠崎は言ったが、正直笑えなかった。何ならうちは俺とじぃちゃんしか残ってないし。

  中に入って、ばぁちゃんの仏壇の前で立ち止まる。にっこりと優しそうな笑顔の狼の女性。写真でしか見たことない、俺の中のばぁちゃんはこれだけだった。

  線香を取って、ライターで火をつけて刺す。小さな鐘を軽く叩くと、ちーんと悲しげな音が鳴り響いた。

  「……………………ばぁちゃんただいま」

  そのまま少しの時間合掌して、何となく念じてみる。正しい順番とか手つきなんて分からないけど、俺は昔から何となくでお参りしていた。ばぁちゃんは会ったこともないから、この適当さに怒るかも分からない。

  「…………………………優しそうな人っすね」

  「…………らしいな。じぃちゃんはあんまり喋んないし、地域の人に聞く限りだと、優しくて美しい人だったらしい」

  ばぁちゃんは元々違う島の人だから、地域のおじぃおばぁも嫁入りの後しか知らない。じぃちゃんはとっくに悲しみを乗り越えたとは思うけど、そんなにばぁちゃんの話を教えてくれない。というかそもそも、いない家族の話をするのは何となくタブーな空気があって、俺もハナから聞く気が起こらなかった。

  お参りを終えて、押し入れを開けて中から大きな木箱を取り出す。ずっしりと重たい木箱の中には、俺やじぃちゃんのアルバムがまとめて入ってある。開いてみると、7割くらいは俺のアルバムだった。

  「おぉ………すげぇ貴重品って感じっすね」

  「どこがだよ…………えっと、これかな?」

  俺側のアルバムの中で一番古いものを手に取ってみる。最後に見たのはかなり前だから、どんなんだったか俺も覚えてない。

  分厚くて固い表紙のアルバム本を開いて、達筆な字で『哲也 アルバム』と書いた一ページ目を捲ると、まだ一歳頃の俺の写真が入っていた。

  「ッ!!かわいい~!!!うわ、マジでこの頃から美形なんすね」

  「赤ちゃんなんかみんな可愛いだろ」

  布団の上でどこか天井を見上げている狼犬の赤ちゃん。まだ一歳頃の俺の写真だ。じぃちゃんの部屋で撮ったものだろうけど、当然何も覚えてない。

  「小さい頃は狼より犬っぽいんすね」

  「だな…………うわ、これ懐かしい……」

  ゆっくりとページを捲ると、小学生前くらいまで使っていた毛布を持った俺がいた。青色のロケットの毛布……特に思い入れはないけど懐かしさで溢れている。

  「いやぁ可愛い……ッうわ!これも可愛いっすね!」

  写真一枚一枚に可愛いという篠崎に呆れつつも、自分でも赤子なりに愛くるしいなと思った。今じゃ見る影もないけど、俺にも可愛い時期があったんだよな。

  次のページは三歳だ。隣には俺よりも小さなカイが写っている。これは集落のお祭りのときのだろう、法被を着て笑っていた。

  「えぇーこれも可愛い!!てかこれカイさんっすよね!?」

  「だな。カイの方がかわいいな」

  柴犬獣人は素面でも愛嬌があるように見える、なんて言うけど、同い年でも並べば一目瞭然だった。小さい頃から周りの大人たちにチヤホヤされてた覚えはあるが、その分じぃちゃんは厳しかったから、ちょうど良く育った感覚がある。

  そしてまた次のページ。四歳の俺は海にいて、体の半分が浸かっていた。手には貝殻を持っていて、カメラに微笑んでいた。

  「あらーこの頃から海が好きだったんすねぇ」

  「じぃちゃんによると、三歳から泳げたらしい」

  「天才じゃないすか!てか危なくないんすか?」

  「知らねぇ」

  そのままページを捲ると、五歳の頃の写真。何をしてるところかは知らないが、公民館の壁の前でじっとこっちを見ていた。少し面影を感じるくらい、子供の成長は早いなというところだ。この頃から段々と落ち着いていって、泣き虫なカイのお兄ちゃんのような自覚があったような気がする。今となっては、もうよく分からないけれど。

  「あぁ……このセンパイ可愛い。ちょっと今の面影があるっすね」

  「写真撮られてるのに無表情だな。じぃちゃんが撮ったんだっけ」

  そうして次のページを捲ったところで、そこには大きな白紙が飛び込んできた。

  「えっ?」

  「………………………………………………」

  これが俺のアルバムだ。とても分厚い本だが、幼少期の写真は五枚しかない。そもそもじぃちゃんがカメラを使うのだって覚束ないし、何枚も撮って丁寧に整頓するような人じゃない。きっともっと撮ってはいると思うけど、現像できなかったとか上手く撮れなかったとかで、残ってるのはこれだけだ。

  「もう終わりすか?」

  「幼少期のはな。じぃちゃんはこういうの苦手なんだよ。カイの家には俺がいる写真もたくさんあると思うし、卒業アルバムはもうちょい分厚いだろ」

  篠崎の、失望とも同情ともとれる表情に、言い訳のように言葉を連ねる。じぃちゃんが俺を愛してないとか、絶対そういうんじゃない。男一人で、じぃちゃんは精一杯育ててくれた。本当は両親がやることを、一人でやっていたんだ。写真が少ないくらい、仕方のないことだ。

  「…………センパイ、じゃあこれから俺といっぱい写真撮りましょうね!」

  「なんでだよ。アルバム作んねぇぞ」

  「作るっすよ!最近のスマホは自動でやってくれるんすよ」

  すぐに場の空気を明るくしてくれる篠崎に感謝しつつも、写真が少ないことへの小さな悲しさはあった。前に見たのを覚えてないのも無理ないくらいだ。

  改めて木箱の中を見てみると、卒業アルバムが二冊と、俺が小中学生の頃の作文や絵画をまとめたファイル、そして少量のじぃちゃんのアルバム。

  ………多分、俺の父親のアルバムもここにあったはずだ。でもどこかのタイミングでじぃちゃんが色々と片付けてしまったようだ。この家にいた痕跡を全て消してしまうかのように。

  どうして父親の話を一切したくないのか分からない。世間的には前科持ちだし、親子の仲が悪かったのも知ってる。でも俺は何も知らない方が嫌で、ひどい父親だったとしても知っておきたかった。だから中学生のとき、それでじぃちゃんと何度も喧嘩したことがある。結果的に、俺が大人になってから話してくれるらしいが、いつになるのかは分からない。

  とりあえず中学の卒業アルバムを手に取る。一年ちょっと前だから、表紙を見てもそんなに懐かしい気がしない。

  「あ、これ中学すか?あれ、真ん中に女の子いる」

  表紙のスリーショットを見るなり篠崎が言う。さゆりちゃんのこと、言ってなかったな。

  「………去年までいたさゆりちゃんだ。今は大阪にいるらしい」

  「…………フツーに可愛いっすね。三角関係とかならなかったんすか?」

  篠崎の嫉妬混じりの声色に少し呆れつつ、弁明のように説明する。

  「さゆりちゃんが転校してきて、半年くらいでカイが好きになったんだ。その相談に乗ってたりしたから、二人が付き合ったときは普通に祝ってた」

  「えーカイさんの彼女さんすか?」

  「あぁ。一応今もな」

  昨日の話しぶりだと、二人の遠距離恋愛はあまり好調ではないのかもしれない。さゆりちゃんは元々都会からの転校生で、俺たちとはちょっと価値観が違うというか、ギャップを感じることがあった。さゆりちゃんとは仲がよかったが、俺はお母さんがあまり好きではなくて、家に遊びに行ったりはしてなかった。集落も違うし、絶妙な距離感だったと今になって思う。

  パラパラとページを捲ると、季節の行事に取り組む制服姿の俺たちが並んでいた。学ランが懐かしいなと思うけど、顔や体型はほとんど今の俺と遜色ない。

  「稲光の制服も好きっすけど、学ランのセンパイもいいっすね」

  「稲光はなんかオシャレだよな。誰が着ても様になるっていうか」

  「うーんまぁ他所の学校よりは恵まれてる感じするっすね。バリエーションも多いし」

  多様性を重視した校風だからか、制服はめちゃくちゃ種類があって改造してる人もいる。スカートを履く男子生徒もいるし、ズボンの女子生徒もいる。そのため遠くから雌雄を見分けるのは意外と難易度が高かった。

  自由なら私服にしろ!という意見もちらほら見かけるが、俺としては制服の方が楽でありがたかった。

  「……俺もちょっと前まで中学生だったんすよねぇ。なんか稲光に慣れすぎて、普通の中学通ってたの信じらんねぇっす」

  「お前は中学のときどうだったんだ?」

  「サッカー部の友達と、クラスの友達と遊んでばっかでしたね。うちのクラスマジで全員仲良くて、ちょー楽しかったっす」

  「なんか今とあんま変わんねぇな」

  少し懐かしそうに当時を振り返る篠崎に、何気なく聞いてみる。興味がないと言えば、嘘になる。

  「…………恋人とかいたのか?」

  「いたっすよ。男二人と、女二人。全部長続きしなかったっすけどね」

  篠崎は何てことない口調で答える。根っからのゲイだと思っていたので、女の子とも付き合っていたとは意外だった。

  その辺をもう少し聞いてみようかと興味が頭をもたげたところで、篠崎にじっと見つめられる。

  「センパイ俺の恋愛歴気になるんすか?」

  「え?い…………や別に?」

  「ちょっとでも嫉妬とかしませんか?」

  「するかアホ」

  思わず突き放してしまったが、これだけ俺を好き好き言ってる奴が過去に四人も付き合ってることを知ると、どうも詳細が気になった。もしかすると、付き合ったら俺への気持ちもすぐに冷めるんだろうか……いや、それならそれでいいんだけれど。

  するとその時、玄関からてっちゃーんと遠くに呼ぶ声が聞こえてきた。小さかったが明らかにカイのものなので、いそいそとアルバムを片付けてじぃちゃんの部屋を後にする。散らかしたままにするとちゃんと怒られるからな。

  居間に戻ると、カイがいつものように玄関に座ってこっちを呼んでいた。

  「あ、てっちゃん!」

  「お疲れ。仕事終わったのか?」

  「うん!おっとぉに頼んで、早めに帰らせてもらった。てっちゃんたち明日帰っちゃうんでしょ?」

  「あぁ……」

  そう考えると、二泊三日はあっという間に過ぎてしまうような気がした。本当はもう少しゆっくりしたいけれど、じぃちゃんが何故か長期滞在に否定的なのと、篠崎もいるってことでこの日数になった。

  「明日は休みだから、お見送りまでいれるよ。何する?泳ぐ??」

  「さっき泳いできたばっかだよ。ちょっと暇してた」

  「そっかぁ~じゃあせっかくだし篠崎くんを案内しようかな!」

  「えっ!まじすか!?」

  背後から顔を出す篠崎に、カイも嬉しそうな表情を浮かべる。もしかしてカイも篠崎が気に入ってるんだろうか。

  「うん!!昨日は夜だったし、ゆっくり散歩しながら喋りたい!」

  「そんな案内するとこあったか?」

  「あるある!ブランコとか!!」

  あぁブランコか……俺たちからしたら見慣れすぎて何とも思わないが、篠崎も同じとは言えない……かな。

  とはいえ何もすることはないし、二人が乗り気ならそれに着いていこう。まだまだ暑い昼下がりだけど。

  「篠崎くんは、八重木島気に入った?」

  「あーもちろんっすよ!!海も山も綺麗だし……あ、あそこに南国の花咲いてるじゃないっすか!何でしたっけあれ」

  「……ハイビスカスな」

  「僕らは普通だと思っちゃうけど、都会の人は違うんだねー!」

  照りつける日差しから少しでも逃げるように日陰を歩きながら、カイと共に島の端の方へ歩く。むわっとした纏わりつくような暑さが、何度味わっても懐かしく、憎い。特に東京の冷房だらけの生活を知ってからは、余計にそう思ってしまう。

  「…………篠崎、暑さ平気か?俺より毛深いだろ」

  「平気っす!って言いたいとこっすけど、やっぱあちぃっすねぇ」

  「僕らも暑いもん。熱中症にならんようにせんばね」

  意外と、熱中症で倒れる人を島の周りでは聞いたことがない。みんな暑さに慣れっこで、どのくらいが限度なのか弁えているんだろう。人が少なすぎて、そもそも事故が起こらないのもあるだろうが。

  集落から少し外れた墓場の隣にある空き地に、暑さを嘆きつつ到着した。小石で整備された長方形の空き地と、一軒の掘っ立て小屋が立っている。

  「え?ここすげー綺麗っすね」

  「ここはゲートボール場!島のおじおばがたまにやってるんだ」

  「へぇーゲートボール…………」

  まぁ微妙なリアクションになるのも無理はない。ゴルフ場を作るほどの土地もないし、老人ばかりの集落でできるスポーツといったら、ゲートボールくらいだろう。俺もいまいちルールは分かっていない。

  どちらかというと、メインはその奥だ。空き地の端っこにどっしりとそびえ立つ、一本の木。ゲートボール場の半分近くに影を作るほど伸びた、大きなガジュマルの木だ。

  「篠崎、あれ見ろよ」

  「え?どれすか?っ、うっわ、でッッッか!!!」

  地面ばかり見ていて気づかなかったのか、間近で巨木を見てとても驚いていた。そして言わずもがな、一際太い枝からロープで吊られている、手作りのブランコも目に入ったようだ。

  「あっ!これが言ってたブランコっすね!」

  「そう!昔てっちゃんとよく遊んでたんだ」

  「…………誰が作ってくれたんだっけ?」

  「えっと……国雄兄?だっけ」

  「あー……そっか」

  俺とカイがゴニョゴニョ話している間、パパッと携帯を取り出して写真を撮る篠崎。ここは確かに画になるスポットで、学校の絵画の宿題で何度も頼ってきた場所だ。

  「…………それにしてもスゴい形っすね。めっちゃうにょうにょしてる」

  「ガジュマルの木だよ。島には結構いっぱい生えてるんだ」

  何と表現するのが正しいのか、ガジュマルの木はほんとに特徴的だ。幹の周りを細い幹が伝っているような、たくさんの細い幹が集まっているような……でこぼことしていて触手のように枝分かれするこの木は、すごく目を引くデザインをしている。

  「……なんか登りたくなるっすね!」

  「足場っぽいのあるもんね!でもガジュマルの木には妖怪がいるから登っちゃだめなんだ」

  「えっ!?マジすか!ブランコはいいんすか?」

  「登ってないからいいんじゃねぇか?」

  「てげてげやからねー」

  そういう言い伝えとか伝説的なものは色々あって、島のおじおばに小さい頃に教わったりしていた。でも俺とカイはあまり信じてなくて、ガジュマルの木に登ったことも何度かある。特にバチに当たったことはないので、妖怪も寛容なんだろう。

  篠崎は足下の根を踏んづけながら幹に近づいていく。近くで見ると余計にその大きさが伝わるだろう。

  「立派な木っすね…………うわっめっちゃアリいる」

  「篠崎くんせっかくだからブランコ乗ってみる?乗れるかなぁ」

  「………俺らも最後に乗ったの中一とかだよな?」

  「えっ、大丈夫すかね?折れないかな」

  枝にぶら下がったブランコは、木の板切れにロープがくっついていて枝に引っ掻けてあるだけだ。板もロープもだいぶ老朽化していて、何の安全も保証できない。篠崎が近づいて板切れの上に腰を下ろ……そうとしたときに、すくっと立ち上がってこっちを見る。

  「そもそもケツ入んないっすわ!」

  「あはは!あげーおっきいもんね!」

  「…………もう俺らじゃ無理だな」

  じゃあ小さい子に試させるか、っていう訳にもいかないけど、気づけばデカくなったんだなぁと考え深かった。

  笑っているカイと篠崎を横目に、俺も口の端を綻ばせてしまった。

  そのままカイに着いていくように集落の中をぐるっと回っていく。ほとんどが老人の家だし、空き家もあるから外に人がいることはなく、敷地内とかも気にせず自由に歩けるのは、田舎暮らしの特権かもしれない。さして半年前と変わった部分は見つからないし、俺にとってはいつもの夏だけど、入り組んだ小道や用水路、雑草だらけの原っぱを見るたびに篠崎は感嘆の声をあげていた。都会じゃ本当に見られないんだな、とは思いつつ、これが当たり前と思っている自分に田舎者の自負を感じて、どことなく安心感を覚えていた。

  昼間の灼熱のアスファルトを緩和すべく、あちこちで打ち水した跡があったけど、そんなに意味を成していないほど今年の日照りは強く感じた。三人とも汗だくになりながら、カイのガイド通りに歩くだけ。まぁ二人が楽しそうならそれでいいけど、水分補給もしたくなってきたな。

  すると気づけば公民館の前まで戻ってきていた。そんなに広い集落じゃないし、山に入らなきゃすぐに一周できる。公民館の前に小さな塀があって、近場のデイゴのおかげでずっと日陰なのでそこに並んで座ることにした。

  「ふぁー疲れたねぇー」

  「そっすねー!暑すぎてヤバいっす」

  「…………一回家帰るか?なんか飲んだ方がいい」

  胸より少し高い位置にある塀の上から、六本の足と三本の尻尾がぶら下がっている。木陰で海風が吹くととても心地よく、枝葉の揺れるカラカラとした音に耳を澄ませる。セミの大合唱と波の音に混ざりあって、まさしく田舎の夏だな、と満足げにため息をついた。

  「そうだね……なんかジュースとかあったかな」

  「さっき自販機あったっすよね?なんか買ってきましょうか?」

  「いやぁいいよ、あの自販機高いし……っあ、安海兄だ」

  「ん?」

  カイの言葉を聞いてパッと目を開けると、向かいの家からイルカ獣人の安海さんが出てきていた。家から出てすぐにこっちに気がつくと、にっこり笑ってやっほーと声をかけてきた。

  「安海兄こんにちはー」

  「こんにちは~新しい友達?」

  「うん!てっちゃんの学校の友達の篠崎くん」

  「っ、あ、初めまして!篠崎っす!」

  「初めまして~安海です~」

  間延びした話し方をする安海さん。年は40後半くらいで、少し前に都会から移住してきた人だ。そもそもイルカ獣人自体が珍しいし、八重木島にいるのも珍しい。篠崎も少し面食らった様子で、いつもより慎重に挨拶していた。

  背が高い安海さんは、塀の上にいる俺たちと同じ目線で話をする。

  「哲也くん、帰ってきたんだね~」

  「あ、はい。安海さんは何しに行くんですか?」

  「僕は本島に買い物に行くよ~」

  「暑いから気をつけてねー」

  「君らこそ~あ、じゃあお小遣いあげる~ジュースでも買いな~」

  そう言いながら、財布から小銭を出してカイに渡す安海さん。カイがにこにこ笑って受けとる様子を、篠崎は緊張した顔で見つめている。まぁ……都会じゃ知らないおじさんから貰ったお金を使うのは怖いよな。気持ちは分かる。

  「ありがとう!またなんか採れたらあげるねー」

  「ホント~?嬉しい~じゃあまたね~」

  「あ、さようならー」

  「ばいばーい」

  安海さんはその巨体をゆらゆら揺らしながら、原っぱのような駐車場の方へ歩いていった。イルカの尻尾は特徴的な形をしていて、後ろから見てるとぶらぶら揺れて面白い。

  しっかり後ろ姿を見届けてから、篠崎はすぐさまこっちを向いた。

  「え、誰すかあの人!?若い人いないんすよね?」

  「安海さんは50手前とかだよ。去年か一昨年くらいに都会からこの集落に来た」

  「千葉だったかな?たまにお小遣いくれるんだ」

  大丈夫なのか?と言いたげな篠崎の表情を汲んで、もう少し説明する。

  「確か小説家かなんかで、どこでも仕事できるらしいから、海が綺麗な田舎に移住したかったらしい。まぁちょっと浮いてるけど……いい人だと思う」

  「てっちゃんとはあんまり気が合わんもんね。優しいんだけどねー」

  「でもちょっと怖いだろ」

  「怖くないよー」

  カイの誰とでも仲良くなれる才能はスゴいと思うが、40代のおじさんと友達のように喋るのはちょっと危ないだろう。一茂兄も最初は仲良くしてたけど、最近は一緒に飲んでるところも見かけない。悪い人じゃないだろうけど、大人が一からこの狭い島に馴染むのは大変だ。

  「……俺、イルカ獣人ちゃんと見たの初めてかもっす。街とかでたまーにいるっすけど」

  「えー珍しいんだ」

  「田舎にはちらほらいるって本人が言ってた。でも海が近いとこがいいらしい」

  イルカ、鯱、鯨などの海来獣人と呼ばれる種族はちょっと特殊で、進化の際に俺たちとは少し違う過程を追ったらしい。詳しくは知らないが、海から陸に出るのが遅かったとかなんとか。種類も少なく、全体的に大柄なため日本にはほとんど住んでいない。祖先は魚のように海で暮らしていたらしいが、今の海来獣人は陸で生活しているし、特に水が必要でもないらしい。だけど生来の海好きが多いらしく、海岸沿いに暮らす人が多数派だそうだ。

  それもこれも全部安海さんに教えて貰った話で、学校でもそんなに深掘りしないから、篠崎が驚くのも無理はない。日本人は海来獣人に不慣れらしいし。

  「近くで見ると意外とかわいいっすね」

  「あ、それ差別になるって言ってたぞ」

  「え!?まじすか!」

  「海来獣人への差別ってインターネットとかで未だにあるんだって。安海兄が言ってた」

  「へぇー気をつけるっす。じゃあ俺、よかったらジュース買ってきましょうか?」

  「あーじゃあ頼んだ」

  「えー?いいのに」

  「平気っす、いつも部活でやってるんで!」

  ぴょんと飛び降りた篠崎に、カイが貰った小銭を手渡す。篠崎はパッとズボンのポケットに入れると、反対側から財布を取り出しつつ歩いていった。自販機の位置覚えてるか不安だが、まぁ平気だろう。

  その背中を見守っていたカイが、不意にこっちを向いた。

  「……てっちゃんて、いつも篠崎くんにジュース買ってきてもらうの?」

  「は?いやなんでだよ」

  「なんかめっちゃ慣れてたから」

  「………俺から頼んだことはない」

  そういえば昨日水頼んだな、と思いつつ、カイに表情を読まれないように自然とそっぽを向いた。

  [newpage]

  夕飯はそうめんと天ぷらのご飯だった。暑中見舞いでじぃちゃんに送られてきたちょっと高級なそうめんを、野菜のかき揚げと一緒につゆで食べるのが美味しくて、篠崎と二人でおかわりしまくっていた。中にはオクラの天ぷらもあって、喜ぶ篠崎を台所から見つめるじぃちゃんの姿は、少し印象的だった。直接的ではないにしろ、だいぶ篠崎を気にかけてる様子を見て、またあの何とも言えない気持ちになるのだ。

  夕食を終えて、カイと約束していた夜の桟橋に足を運ぶ。篠崎はじぃちゃんの家事の手伝いをする、とか言って家に残ってたが、恐らく俺たちに気を使ってくれたんだろう。島にきてカイと二人で喋る時間はなかったし、三人だと話せないこともある……学校のこととか。

  桟橋に行くと空には大きな丸い月が出ていて、月明かりでそこそこ明るかった。真っ暗な夜の海に反射する月が、波に揺れて歪な道のように見えていた。

  その月明かりの下で、桟橋の階段に座り込むカイの背中が見えた。少し曲がっているような、疲れたような背中にわざとらしく足音を聞かせる。

  「…………あっ、てっちゃん。篠崎くんは?」

  「じぃちゃんの手伝いするって」

  くるっと振り返って微笑むカイの横に近づいて、ゆっくりと腰を下ろす。眼下に広がる夜の海を眺めつつ、懐かしい感覚に尻尾を揺らした。

  「篠崎くんいい子だねーてっちゃんと仲良くなるのも分かる」

  「何だよそれ。俺がいい子ってことか?」

  「うーんやっぱりそうでもないかも」

  「なんでだよ」

  俺のツッコミに、カイが短い尻尾を動かす音が聞こえてきた。くるりと丸まった尻尾はあまり自由に動かせないけど。

  はぁ……と声を含んだため息がカイから聞こえて、思わずそっちを見る。屈むように海を覗き込んだあと、俺に気づいて目が合った。

  「何のため息だ?」

  「いや…………明日帰っちゃうんだ、って。さゆちゃんのときもだったけど、前日の夜が一番寂しい」

  そう言って明らかにもの悲しげな顔をするから、俺も同調して少し悲しくなった。確かにもう何日かいられたらよかったのにな。

  「………じぃちゃん何で帰ってくるなって言うんだろうな。じぃちゃんは寂しくないのかな」

  「絶対寂しいよ。重蔵じぃ、てっちゃんが居なくなってからあんまり外出なくなったんだ」

  「え?…………それホントか?」

  「暑いせいだ、っておっかぁは言ってた。でも元気は無いと思う」

  それは初耳だった。お互い唯一の家族だし、全く平気ではないだろうと信じてたが、さっきまでの様子を見る限り、変わらず元気そうだったから。

  …………本当はもっと、篠崎のように甘えてほしいとか思ってるんだろうか。聞いても絶対正直に答えてくれないけど。

  「じゃあ尚更、島に長く居た方がいいんじゃねぇか?何で早く追い出したいんだ……」

  「………………………………………………」

  カイはそこで少しの間沈黙した。幼なじみだから分かるけど、分からないから黙ってるんじゃない。分かるから黙ってるんだ、

  「…………カイ?」

  「………………多分、だけど。てっちゃんに、気にしてほしくないんじゃないかな」

  「……………………………どういう意味だ?」

  俺が促すと、カイは一瞬こっちを見てから、気まずそうに話し出した。

  「…………重蔵さんからしたら、てっちゃんが最後の家族で……自分が死んだら、てっちゃん一人になっちゃうでしょ?だから、あんまり気にかけないで、都会で新しい家族を見つけてほしい……とか」

  「……は?そんなの……」

  「昨日僕が言ったのと、ちょっと似てると思うんだ。てっちゃんをこの島に縛りたくない、っていうか……広い世界で生きてほしい…………みたいな」

  「…………でも俺は、縛られてるなんて思ってないし……この島が好きなんだ」

  「うん……そう。てっちゃんは優しいから、重蔵じぃを最期まで大事にする。だから、物理的に距離を取ろうとしてるんだよ」

  「…………ッ…………………………」

  何だよそれ。もし本当だとしたら……俺はどうしたらいいんだ?高校卒業したら島に帰って、島に骨を埋めようと思ってたのに。綺麗で、平和で、のんびりしたこの島が好きで、じぃちゃんもカイも島の人も好きで…………でも島の人は俺に、帰ってくることを望んでないらしい。

  思わずカイの肩を掴んだ。ピクッと動いたがカイの顔は変わらなかった。

  「…………カイ、俺は島にいたい。都会は刺激的だけど、大変なことばっかりで…………本当は、今すぐ帰りたいんだ……………なんか、上手く言えないけど、学校も俺とは違う人がたくさんいて…………」

  「…………いじめられてるの?」

  「いや、そうじゃねぇけど…………でも毎日人間関係に苦労してる。できるなら………何も考えないで、毎日お前と泳いでた時に戻りたい」

  口をついて出た願いには、これまで俺が半年間抱えてきたストレスが強く載せられていた。稲光のみんなに言い寄られて、口説かれて、えっちなことされて。それに慣れるのすら嫌になって、自覚してなかった疲れを、島に来たのをきっかけに感じてしまったのだ。

  カイは小さく微笑むと、宥めるように俺の背中を軽く叩いた。

  「…………てっちゃん、本当に、全部苦しかったの?みんな違う人でも、楽しかったりしなかったの?」

  「………………………………………………」

  見透かしてるように、俺の目をじっと見つめるカイ。息が少し浅くなって、そっと俯いた。

  「…………篠崎くんが笑ってるとき、てっちゃんの尻尾も揺れてるんだ。ホントに辛かったら、都会からそんな仲良い友達連れてきたりしないでしょ?」

  「…………辛いのは、ホントだよ」

  「疑ってないよ。でも、辛いだけじゃないと思うんだ。辛さの先に、少し楽しさがあったりさ」

  カイの言葉は、ストンと俺の胸に落ちていく。俺という人を理解し尽くしてるからこそ、俺ですら気づかないことに気づいてる。

  そりゃ、何もかも辛いわけじゃない。遊んでるときも、怒ってるときも、悩んでるときも、誰かを、自分を理解する幸せはあった。でももし、島に帰れたら……大元の辛さも無くなって、もっと楽しいんじゃないかと思ってしまうのだ。

  「……苦労するのはしょうがないよ……自分のいた場所と全然違うとこにいるんだから。でも苦労した分、幸せな出会いがあって、夢も広がって、大人になるんじゃない?この島にいれば安全だし楽だけど、多分何も変われないんだ」

  「……………………でもカイは、」

  「だからてっちゃんを応援してるの。色んなことを経験して、成長するチャンスがあるから。だから…………島のことは、一旦忘れてほしい」

  カイは真剣な眼差しで、俺の目を見つめる。それを受け止めるのに、幾分か時間がかかりそうだった。

  「…………きっと重蔵じぃも同じだと思う。かわいい子には旅をさせろ、って言うでしょ?」

  「……………………………………………………………」

  納得させられてしまった自分が、少し嫌だった。稲光は、ノンケの俺がいるには厳しい学校だ。でも稲光に行かなかったら………俺はこんなに悩めただろうか。

  波に割れる月が、静かな海面に揺らぎ続けている。手を伸ばせば、ぐしゃぐしゃに出来てしまいそうだ。

  「………………なんで、そんなに正しいこと言うんだよ」

  「……正しいかは分かんないよ?」

  「いや……俺にとっては、正しいんだ」

  カイの満月のような丸い顔が、月明かりの下で笑顔になった。人懐っこい笑い顔は、見ていると尻尾が揺れてしまう。

  「…………もうちょっと頑張るよ。お前いつからそんなに大人になったんだ?」

  「えーなってないよ。でも………てっちゃんがいなくなって自分で頑張らなきゃ、ってことが増えたんだ」

  「……前までは、一緒に頑張ってたもんな」

  「うん…………」

  どこか切なくて、お互い遠くを見つめてしまう。誰よりもお互いを分かってて、お互いを大事にしてる親友なのに、離れて生きなきゃいけない。きっと神様に、自立を促されてるのかもしれない。

  「……さゆりちゃんとキスして、差が生まれたのかもな」

  「っ、そんなわけないでしょ」

  「でもお前の方が、早く結婚しそうだな」

  「てっちゃんは東京で彼女作らないの?」

  「うーんまぁ……できたらな。でもファーストキスはお前の方が早い」

  当たり前のように彼女と聞いてくるカイに、なんだか嬉しくなった。稲光にいる限りは難しそうだけど、まぁ何が起こるか分からないしな。

  するとカイは、少し照れくさそうに笑って話し出す。

  「…………てっちゃんやっぱり覚えてないんだ」

  「……え?何を?」

  「小学生のとき、僕とキスしたの。ここの桟橋で」

  「は!?そんなのあったか?」

  カイは吹き出すと小さく手を叩いて笑う。

  「あったじゃーん!あんまり覚えてないけど、キスってどんな感じかやってみようって。なんかいけないことな気がしたから、こっそりしたよね」

  「………………あーなんかあったような」

  遠い記憶の断片に、うっすらと情景が浮かんできた。小学生だし、聞いた話に興味が出て特に疑問も持たずにキスしたかもしれない。

  「だからファーストキスは一緒。男含めるのか分かんないけど」

  「…………含めなくていいだろ」

  「じゃあ一歩リードだね!」

  一歩リードどころか、女の子とキスなんかしたことないけれど。そんなに競争心もないが、男に言い寄られてる俺はマイナス三歩くらいだろうな。

  少し話は変わり、昔話になる。昼間見たアルバムのことを話したら、カイは意外にも覚えているようだ。

  「豊年祭で、法被着ながら太鼓叩いたよねー」

  「そうだったっけ?よく覚えてんな」

  「小学生から相撲になって、毎年てっちゃんと戦わされてたよね」

  「子供相撲俺らしかいないからな。一回も負けたことないよな?」

  「絶対勝てないのにやれやれっていうのホント嫌だったー。おっとぉにも情けないって言われるし」

  豊年祭は九月にある豊穣を祈る祭りだが、演目の中に子供相撲があった。小学生までで終わったが、カイは毎年負けるので嫌いだったのを覚えてる。

  「今年も豊年祭やるのか?」

  「うーんやると思うけど、みんなでご飯食べて踊って終わりじゃないかな。子供いないしね」

  八重木島に学校があった頃は、他の集落にも子供や若い人がいて楽しかったが、今は人も減って集まる行事も減っている。あちこちに散った若者が、家族を連れて戻ってこない限り、しばらくこのままだろう。

  「餅つきとか凧揚げとか芋掘りとか、今思えば都会の学校ではあり得ない行事いっぱいあったな」

  「あー都会じゃやらんのかな?」

  「遠泳大会は聞いたことないって、篠崎が言ってた」

  「そうなんだー楽しいのにね」

  「あと学校の先生が、都会の学校はちゃんとしてるな。田舎の先生てきとーだもんな」

  「えーそんなに違うの?」

  「あぁ。俺のクラスの担任はロボットみたいな人だよ」

  「えっ!こ"ん"に"ち"は"、みたいな?」

  「そんなにロボットじゃねぇよ!」

  二人で笑っていると、時間があっという間に過ぎていくように感じた。喋りたいことはどんどん出てきて、聞きたいこともいっぱいあって、どれだけ喋っても時間が足りないような。

  少し前もこうして、ずっと話して夜を明かした。何気ない話でも、悩み事も、バカな話も。それがとても楽しい時間で、他には何もいらなかった。俺にとって、大事な時間だったのだ。

  しばらくして、話してる途中に後ろから足音が聞こえてきた。ふと気になって振り返ると、暗闇の中で篠崎がこっちを見ていた。

  「っ、あ!篠崎くん!」

  「うっす。なんか全然帰ってこないんで見に来ちゃいました。ずっと喋ってたんすか?」

  「あぁ。てか今何時だ?」

  篠崎が携帯を見ている間に、カイから大きな欠伸が聞こえてきた。漁師は早寝早起きだし、明日が休みとはいえ生活リズムを崩すわけにはいかない。

  「えーと、九時過ぎっすね」

  「えっ!もうそんな時間!?そろそろ帰らなきゃ」

  「門限あるんすか?」

  「うん。てげてげやけど、九時には帰らんば」

  「……とげとげ?」

  「テキトーって意味だ」

  カイの家はみゆき姉がちゃんとしてるから、そこそこルールはあるんだけど、じぃちゃんは俺が高校生くらいから放っておくようになって、門限とかも無くなった。自己責任だぞ、とは言われたけど。

  楽しかった時間もすぐに終わって、また少し切なくなった。明日は朝から移動しないといけないから、お見送りは来てくれるとはいえ、遊ぶ時間はない。

  立ち上がったカイも腰が重いようで、だらだらと桟橋の入り口まで歩く。それでも眠気は襲ってきて、欠伸も増えていた。

  「……じゃあ、てっちゃん、篠崎くんまた明日ね!」

  「あぁ。おやすみ」

  「おやすみなさーい!」

  カイに軽く手を振りながら、別れて俺たちも家に戻る。月明かりが届かなくなるまで背中を見守ったあと、家の門を開けながら篠崎と話す。

  「マジでずっと喋ってたんすねー」

  「あぁ……よくやってたんだ」

  「……なんか羨ましいっす。俺もセンパイとのんびり星を眺めたいなぁ」

  「声でけぇよ。じぃちゃん起きてたらどうすんだ」

  「あーさっき寝るって言ってたっすよ?その後呼びに行ったんで」

  家の戸を開けたところで、その話を聞いて考えがよぎる。じぃちゃんが寝てるなら、この後何をしようと朝に帰ってきてれば問題ない。そういえば篠崎と、山に登る約束をしていた。この時間から山に登るってじぃちゃんに言ったら、危ないからと怒られただろうけど、今ならまぁ……行ってもバレないか。

  そっと家の戸を閉じる。篠崎が背後でえっ、と言ったのが聞こえた。

  「…………星、見に行くか?」

  振り返って篠崎に問いかけると、尻尾を振りながら嬉しそうに頷いた。そうして家から踵を返して、月明かりの照る夜道を、山に向けて歩き出したのだった。

  目的地の山道は、集落の少し奥から登ることができる。集落全体が緩やかな坂になってるから、実際奥からでも綺麗に星は見える。だけど、昔カイと遊びに行っていた原っぱは、山の中にぽつんとあって、集落の明かりも視界にいれずに星だけを見ることができた。

  山道といってもそんなに登らないし、一応道っぽくなってるから危険は少ないが、念のため篠崎の携帯のライトで足元を照らしながら登っていく。月明かりは木々に遮られてしまいここまでは届かない。落ち葉や枝をバリバリと踏みしめながら、少し早足に目的地へ進んでいく。

  暗いながらも付近の植物の様子に篠崎はやや興奮気味で、所々立ち止まっては木々を照らしたりしていた。

  「うわっ、これ何の花すかね?」

  「わかんねぇけど……アザミっぽいな」

  「ライト強すぎて色が分かりづらいっすね!」

  「暗くしても危ないしな………こっちだ」

  山道はあまり人が立ち入らないと、すぐに草木が繁って道じゃなくなってしまう。途中何本か枝を折りながら、草花を踏みつけて先へ進む。夜だし不気味といえば不気味だった。

  「………なんか肝試ししてるみたいっすね」

  「あぁ……お前信じてるんだったな」

  「信じてるっつーか……いそうだな、ってくらいっすけど。でもこの山道にはどの幽霊もいなそうっすね」

  こんなにも人の気配がないと、幽霊なんて出る隙もないだろう。どちらかというと妖怪とか、神様とかの方が出てきそうな雰囲気だ。

  足下を照らしながら先導して進んでいくが、俺が最後にここに来たのは中学生のときで、しばらく足を運んでいなかった。それ以降誰も来てないということはないだろうが、明らかに前より険しい道な気がする。一本道だから間違えようはない……とは思いつつ、一抹の不安がずっと頭に過っていた。

  草を踏む音にも飽きてしまうくらい、黙々と山を登り続ける。標高は大したことないしそんなに遠くないはずだが、生い茂る草木に妨害されてなかなかに歩みは遅かった。もしなんかあっても篠崎は無事で帰さないとな、と想像ばかりが先行する。

  しかしそのとき、ほんの少し開けた道に出た。一瞬到着したかと思ったが、そういえば途中にこんな場所あったなと記憶が甦った。

  何本かも判別できないこんもりとした木々の隙間を、小さな光がふわふわと浮いている。この近くに湧き水があって、近くでホタルが見られる場所だった。

  突然、背後から大きな声がしてビクッとする。

  「えっ!!??もしかしてホタルっすか!?」

  「うわっ…………いやそうだけど」

  「うわうわ…………めっっちゃキレイ……!!」

  通り過ぎようとした俺の後ろで、篠崎は歩みを止めてじっとホタルに注目していた。黄色い光が時折点滅しながら動いて、葉っぱの上を淡く照らしている。

  とりあえず携帯のライトを反対側に向けて、釘付けになっている篠崎に声をかける。

  「……ホタル見るの初めてか?」

  「えっ、逆にそんな見れるもんなんすか??」

  「あぁ……そっか、都会にはいないんだな」

  「………いやぁ…………ロマンチックっすね」

  篠崎は俺の手からそっと携帯を奪うと、白色のライトを消して無言になった。その様子に何となく俺も黙ってホタルを眺める。初めてというなら、じっくり見せてやるか。

  二人の呼吸と夜の森に鳴く虫たちに共鳴するように、ホタルは一帯で消えたり光ったりしていた。何も考えずに無造作に点滅しているだけなのに、どこか一体感を持ってショーにしているような錯覚。光の粒は自由に飛び回って、またどこかの葉で休息する。

  「…………ホタルって、ホントに水が綺麗なとこにしかいないんすよね?」

  「近くに湧き水があるから………それかもな」

  「…………ほんと綺麗っすね」

  暗がりの中、クリーム色の篠崎の横顔はぼんやりと見えている。焼き付けるように真剣な眼差しでホタルを見つめていて、何だか不思議な気分だった。

  不意に、篠崎の手が俺の手をそっと握る。どうした、と言おうにも、まだ篠崎は真剣な顔つきなままで、何となく口をつぐんでしまう。

  「………………………………………………」

  「……………………………………そろそろ行くか?」

  俺の手を包む体温は高かった。ゆっくりとした脈に合わせるように、そっと話しかける。

  少し間を置いて、篠崎は俺の方を見ると嬉しそうに微笑んだ。

  「うす。いいもん見れたっすわ」

  「……………帰りも見れるしな」

  握られた手が徐に離れる。近かった熱は跡形もなく消えた。篠崎はまた携帯を操作してライトを点けると俺に手渡した。

  「……………………………………………………」

  「………………………………じゃあ行くか」

  珍しく無言な篠崎を不思議に思いつつ、仕方なく背を向けた。自分よりも強い灯りに照らされたホタルたちは、恥ずかしそうにそっとその身を木々に消してしまった。

  そこから登り続けること五分弱、ようやく目的地の原っぱへ到着した。山の中に唐突に現れる丘のような開けた草地。付近に特段大きな植物もなく、生垣みたいにぐるっと周りを背の低い木が囲んでいるだけだ。柔らかい芝に座り込めば、そこからとても広い星空を眺めることができる絶景スポット。数年振りに来てもさして変わってないようで、一先ずたどり着けたことにほっと胸を撫で下ろした。

  携帯を篠崎に返すと、早速ライトを消して写真を撮ろうとしているようだった。

  「いやぁ……めっちゃ綺麗っすね。写るかなぁ」

  「邪魔な光がないし、くっきり見えるな…………」

  周囲は一面森だから、当然真っ暗闇だ。今夜の月が明るくなければ、篠崎の顔も見えなかったかもしれない。木々の枝の影が薄く地面に映るほど、月明かりも燦々と輝いていた。

  芝の上に腰かけて、夜空をじっくりと見上げてみる。

  真っ黒なキャンバスの上に、小さな宝石を敷き詰めたような星々が無数に広がっている。空の真ん中に煌めく天ノ川と、一際輝く夏の大三角形。星座の隙間を失くすかのようにそれらの間にも星が散らばっていて、青や白、赤く光る粒たちがベールを作り出していた。

  「………なんか人生観変わりそうっすね。田舎の空って」

  「そうって……お前は変わったのか?」

  「うーんと、センパイ大好きからセンパイ超好きになりました」

  にやつく篠崎を軽く小突いて、俺は地面に背中を預けた。柔らかいとはいえ芝には虫もいるかもしれないが、そんなこと気にもならないくらい、目の前の宇宙をじっくりと眺めていたかった。

  それに続いて篠崎も隣に寝転ぶと、満足げなため息が聞こえてきた。

  「センパイとこんな綺麗な星空見れて、マジで幸せっす」

  「蚊に刺される価値はあったか?」

  「はは、マジで咬まれまくってますけど、別にいいっす」

  山の中は特別蚊が多いが、俺はあまり咬まれなくて篠崎が身代わりになっているようだった。明日からひどい目に合うかもしれないが、今はいいらしい。

  くっついた肩から伝わる体温は相変わらず高い。篠崎はいつも熱いくらい体温が高いが、今はもっと感じる。それでも、触れた肩を離す気にならなかった。

  「…………夏の大三角形、綺麗に見えるな」

  「えっ?どれすか?」

  「いや……あれだよ」

  片手を挙げて一等星を指差す。教科書に載っていた写真と同じ星空が目の前にある。

  「……あのぐちゃっとなってるとこすか?」

  「え?違う…………まぁ天ノ川と被ってるけど」

  「え?どこすか?あれすか?」

  篠崎も手を持ち上げて空を指差す。見えている角度は違うのに、見ているものが同じだと思ってしまう。

  「もうちょっと下………あそこにわし座があるだろ?」

  「わし?星多過ぎて分かんないっす」

  「違げぇよ……あれだよ」

  面倒くさくなって篠崎の浮いている手首を掴む。角度を調整して、夏の大三角の説明をする。

  「わし座のアルタイル……こと座のベガ、はくちょう座のデネブ……分かるか?」

  「あぁー!確かに三角形っぽいすね」

  「ぽいってなんだよ……」

  分かってんだが分かってないんだか微妙だが、一応見つけたらしい。

  「センパイ詳しいんすね。星好きなんすか?」

  「いや小学校で習っただろ」

  「まじすかー覚えてないっす」

  小さく笑う篠崎の手が、俺と競べるように真っ直ぐ伸びた。空を掴もうとしてるのか、手のひらを上に向けている。

  「……なんか一個くらい掴めちゃいそうな感じっすね」

  「…………空が近いよな。どこも変わらないのに」

  澄んだ空気で星が大きいせいか、ちょっと高い場所にいるせいか………本当に掴めてしまいそうだった。

  篠崎の手に合わせて、ぐっと空へ片手を伸ばす。ピンと伸ばしても篠崎の腕より短くて、開いた手のひらも篠崎より小さかった。

  思ったことが、口からつい溢れてしまった。

  「…………お前背伸びたよな」

  「え?マジすか?自分じゃ気づかなかったっす」

  「結構伸びたよ。四月の頃なんか同じくらいだったのに、今はお前の方が高い」

  周りと比べるとよく分かるが、俺はほとんど身長が変わってない。多分俺の成長期の限界なんだろう、じぃちゃんには追いつく気配がない。

  でも篠崎はふと気がつくと背が伸びていて、あっという間に久郷田先輩くらいになりそうだ。昼間海で上裸を見たときも、部活の成果か筋肉が増えていて、全体的に逞しくなったような気がする。

  「………なんか嬉しいっす。四月の頃より、センパイを抱き締めやすくなったってことすよね?」

  「なんだよそれ。ぬいぐるみじゃねぇんだぞ」

  「四月のとき、センパイと初めてキスしたっすよね。寮の玄関で」

  言われて思わず当時のことを思い返してしまった。雨の降る早朝、玄関の前で、背中から抱き締められて。

  「………………そんなのあったっけか」

  「ウソだー絶対覚えてるっすよ。寮監に邪魔されたっすよね」

  正面で微笑む篠崎が、おいで、と俺に言った。広げた腕の中に、気がつけば飛び込んでいて……マズルを近づけた。

  「………………………………………………………」

  「……そんでその日の夜に、センパイと添い寝して。センパイが寝るまで、何回もキスして……」

  ホームシックで寂しかったせいだと、あの夜のことは整理がついていた。思い出すだけで赤面しそうになるくらい篠崎に甘えていて、本当に自分だったのかと疑ってしまう。

  でも翌日から、同じようなことには一切ならなかった。気の迷いか、篠崎の口車に乗っただけ。俺の中では納得していた。

  「………………あれから、一回もキスしてないっすね」

  「…………当たり前だろ。そもそもあれがおかしかったんだよ」

  「センパイは、思い出したりしませんでした?俺は何回もあの夜のこと考えて、でも間違いって言うから…………」

  「…………………………………………間違いだよ」

  篠崎に抱き締められることは幾度となくあった。それでも俺から腕を回したり、キスをねだったことは一回もなかった。無くていいと思っていた。

  …………本当は、何回か思い出したことがある。恥ずかしい、消し去りたい思い出と………なんか忘れられない思い出として。気の迷いでも、あの夜の俺も俺の一部で、優しい誰かに甘えたい一面が自分にあることを、どうしても認められなかった。

  「…………いいんすよ、別に」

  篠崎が、あまり抑揚のない声色で意味深げに呟いた。

  「……………………何が?」

  「…………俺を便利に使ってくれても。センパイのこと超好きっすから、多分何されても嫌いになれないっす」

  低い声色は、優しさと共に哀愁や諦めも混ざっているように感じた。俺の脈が、少し速くなる。

  「……………なんでそんなに俺が好きなんだ?俺からお前になんかしたか?何も…………あげてないだろ」

  篠崎からの愛情はいつも一方通行で、受け取りもせず突き放している。あの夜以降は俺から何の愛情も与えてないし、夏休みはむしろ距離を取ろうとしていた。その前はこーすけとキスをしたし………何を思って篠崎は、俺を好きで居続けるんだろう。

  宙ぶらりんの手を、そっと篠崎が握ってきた。止まった星空の上で、指と指が絡み合う影だけが浮かんでいる。

  「…………なんで好きかなんて、自分でも分かんないっすよ。でもどこが好きかだったら、たくさん言える」

  「……………………………………っ、」

  「たまに見せてくれる笑顔とか、海に尻尾振っちゃうところとか、家族と友達大事にするとことか、人の気持ちに誠実なところとか、責任感があるところとか」

  淡々と話す篠崎の口調は、単調なようで愛情がこもっていた。俺のために、感情を抑えようとしているのだろうか。

  「顔とか、毛色とか、目とか…………俺全部好き」

  握られた手にぎゅっと強く力が入る。思わず真横を見ると、篠崎も鏡写しのように俺を見つめていた。

  暗闇の中で、覚束ない視界で、繋いだ手を通してお互いの体温だけが強く感じられる。少し汗ばんできても、離す素振りはない。

  「だから…………センパイが甘えたいなら、我慢しないでいいんすよ。俺がちゃんとセンパイと付き合うまで、思い出せなくていいっすから」

  「………………ッ……………………………………」

  篠崎は優しく微笑んだ。クリーム色の毛は暗闇でもかろうじて見えているが、篠崎には俺の灰色の表情は見えていない。それでも暗闇に向かって微笑み続ける。俺の手を握りながら。

  ………どうしてそんなに、俺を好きでいられるんだろう。

  「…………甘えてるよ。とっくに」

  「………………………………そうすか?」

  「……………………………………あぁ」

  俺は何度も篠崎の求愛を突き放している。無視したり、ど突いたり、怒ったりしながら。それでも俺は心のどこかで、これだけやってもまだ篠崎は俺のことが好きだろうと、安心していたのだ。それに自分でも嫌気が差して、でも篠崎に応えるわけにもいかなくて、たまに分からなくなる。

  ………だから、篠崎に恋人がいたと聞いたときに、少し心がざわついたのだ。俺にとっては、誰よりも俺が好きな篠崎が、当たり前だったから。

  「…………………………お前、なんで…………恋人と長続きしなかったんだ?」

  「えっ?………中学の話っすか?」

  「…………うん………………」

  恥を忍んで、聞きたくなった。これで篠崎にどう思われても、俺は正直でいたかった。

  握った手が、ゆっくりと落ちていって、二人の膝の間に着陸した。

  「………………全部向こうからコクってきたんすよ。俺も恋愛興味あったし、何となくで付き合ったんすけど…………全部向こうにフラれたっす」

  「…………なんで?向こうからきたんだろ?」

  「俺がデートのときとか無関心だって、最初の女の子に言われたっす。それから気を付けるようにしたけど、やっぱボロが出ちゃって……俺から愛情を感じないって、みんなそれっすよ」

  「……………………っ、………………」

  あまりにも意外な答えだった。直球で愛情を伝えてくる篠崎を、そんな風に思ったことがない。てっきり好きな人皆に抱き着いてるものだと思ったけど……俺だけなのか?

  「…………俺から好きになったのは、センパイが初めてっす。だからずっとストレートに、思ったこと言うようにしてるんすよ」

  「……………………意外だった」

  「そっすね。俺も自分が、こんなに好きになれる人がいるなんてビックリしてるっす」

  にっこりと笑う篠崎が、いつもと違って見えた。知れば知るほど、分からなくなっていく。この明るくて素直な後輩の手を、どうして離さないのか。

  自分に嫌気が差していた。篠崎の話を聞いて、安心感を覚えている自分が、理由も分からず嫌いになりそうだった。

  …………いや、理由は知っている。分かりたくないだけだ。本当は誠実な人間でいたかったんだ。全員と適切な距離を取って、誰の誘いにも乗らない自分が良かった。抱き締められたり、ボディタッチすら過敏に反応する、転校した時の自分のままでいたかった。

  でも今は、篠崎の手を離したくなかった。篠崎を愛してるなんて思ってないのに、篠崎が自分だけを愛してるという事実に胸を高鳴らせていた。自分勝手で、わがままな自分を、篠崎なら受け入れるだろうと知っている自分すら、嫌になってしまう。

  便利になんてなってほしくない。それに慣れる俺でいたくない。ちゃんと、俺は、責任を負うんだ。

  「………………………………翔……」

  「っ、え?あ、はい…………」

  「…………………………俺……………………ハグしたい」

  「ッッ!?もちろん!いいっすよ!」

  「……………………お前とハグしたい…………けど、お前に恋愛感情があるわけじゃない」

  「…………はい、それでもいいっす」

  「けど俺は…………ちゃんと覚えとく。お前に甘えたくなる俺………お前をもっと好きにさせた、俺のことを」

  「…………っ、」

  横を向いて、手を離して篠崎にぎゅうっと抱き着いた。見られてるわけでもないのに、固く目を閉じる他なかった。厚い胸板にマズルを乗せて、汗の匂いごと吸い込んだ。手の行き場が分からなくて、何となく服の裾を掴む。

  篠崎はすぐに抱き締め返してきた。芝生の上で、土も身体に付けながら、横を向いて抱き締め合う。篠崎の腕が俺の頭を支えて、背中まで手を回す。俺は脇腹の下から、篠崎の背中の服を掴んだ。

  「………………センパイ…………センパイ、大好きっす」

  「………………超好きなんじゃねぇのかよ」

  「超好きっす!超大好きっす!!世界で一番好きっす!!!」

  思わず笑い声が漏れてしまう。こんな田舎の山奥で、大声で愛の告白をしてるなんて、誰が思うだろうか。正直、自分でも分からない。なんで雄に抱き締められて、尻尾を振ってるのか。でも俺は、これを無かったことにするのはやめた。今までになかった、新たな自分の一面だ。他の感情との折り合いは、今はまだつけれないけれど、ただこうしたい、自分の欲求には正直であることにした。

  「センパイも、俺のことちょっとは好きっすよね?」

  「……………恋愛感情じゃないけど、まぁ……好きだよ」

  「マジっすか!!?もう……死にそうっす!」

  篠崎の尻尾が千切れんばかりに振り乱れて、芝生を荒らしている音が聞こえてくる。それにニヤリと笑ってグリグリと頭を胸に押し付ける。篠崎は片足を持ち上げて俺の足を固定するように覆い被せてきた。

  「心臓、爆発しそうなくらい速いな」

  「だってホント……幸せだし………………」

  「なんか、つられて俺まで速くなってきた」

  「はは、ちょっと……落ち着かないとっすね……!」

  そう言いつつもぐっと抱き締める腕に力を込める篠崎。痛いくらいの密着でも、なんだか我慢できた。汗だくで、土の上で、真っ暗で。もう大抵のことは気にならなくなっていた。

  少しだけ力が緩むと、体を離して、篠崎の顔と向かい合った。じっと見つめると、連動しているかのように笑顔になる。

  「…………センパイ、キスしません?」

  「………………………………あぁ…………いいよ」

  「……………………口………………開けてくれます?」

  「…………………………ッ……………………」

  初めて篠崎とキスしたときを思い出した。あのときも、舌を入れるキスを求められたのだ。

  別に俺は…………あまり好きではないけれど。でもまぁいいか、と軽い気持ちで口を開いた。

  「…………っ、」

  「………………ッん……………………」

  途端に、顔を傾けた篠崎の舌が口内へ割り込んできた。犬科同士の長い舌が絡み合って、互いの唾液が混ざり合う。とても熱い肉の感触が情熱的に俺の口内を侵食していく。重ね合わせたマズルから、荒い鼻息を物ともせず、舌が絡む水音が響いて恥ずかしくなるも、篠崎は止めるつもりはないらしい。

  「…………ッ……ふ………………ぅ…………っ、」

  「………………んッ……ぅ………………ん………………」

  前に久郷田先輩にキスされたときを思い出したが、二人のキスは全然違った。久郷田先輩は官能的で、快楽を引き出されるような感覚だが、篠崎は情熱的で、伝わりきらない気持ちを伝えられてるような感覚だった。どちらがいいなんて分からないけど、今はただ身を任せて、篠崎の気持ちを受け止めるので精一杯だった。

  数十秒か、数分か、時間も分からなくなるくらいマズルを重ねたあと、篠崎の舌がゆっくりと引き抜かれていった。二人の間に唾液が糸を引いて、途切れた頃に篠崎の顔が見えるようになった。

  そこには、満面の笑みを浮かべる篠崎の顔があった。

  「…………センパイ…………愛してるっす」

  「ッ…………………うん…………伝わった」

  「……………苦しくなかったっすか?」

  「…………はぁ…………ちょっとだけな。でも平気だ」

  俺の言葉を聞いてまたしても尻尾を振り回しながら、体を強く抱き締める篠崎。再び聞こえる鼓動は、相変わらず速く脈打っている。俺の首元に鼻先を埋めて、必死なほど俺を感じようとしていた。少しくすぐったくて身を捩るも、がっしりと抱かれている腕は微動だにしなかった。

  「……っ、くすぐってぇよ」

  「センパイの匂い、大好きっす……」

  「……汗臭いだろ」

  「それも込みで、全部好き……」

  また一段と、ホールドが固くなったような気がした。俺だって、篠崎の匂いは嫌いじゃない。犬科は匂いをとても大切にする。互いの存在を、できるだけたくさん感じてたいんだ。

  どれくらい抱き合っているか分からない。ずっと前から時間の感覚は無くて、星空の下、芝生の上で、ただ真っ黒な夏の夜を過ごしている。眠れるほど快適じゃないが、この状態がどうも心地好くて、どちらからも離れることを切り出さなかった。夜の虫は鳴き続ける。星は空で周り続ける。穏やかに揺れる葉の音と、篠崎の心臓の鼓動。何もかも、ずっと続いていくような気がした。

  終わりはとても唐突だった。一定だった篠崎の呼吸が、一度熱っぽいため息をついたのだ。

  「……………………、はぁッ……………………」

  「…………ん………………暑いか……?」

  「はは………………まぁちょっとだけ」

  慣れてしまって気づかなかったが、二人の体の間にとてつもなく熱が籠っていて、お互い汗だくだった。いい加減離れるか、と俺が身を引こうとすると、篠崎は少し力を込めて抵抗した。

  「……っ、おい、帰れなくなるぞ?」

  「んー…………帰れなくてもいいっす……」

  「俺はイヤだ………じぃちゃんに怒られるし」

  「はぁ………………時間って残酷っすよね……」

  離れようとする俺の額に軽くキスをすると、ようやく篠崎は俺を放してくれた。籠った熱が放出されて清々しいが、同時に物足りなさも感じた。

  ゆっくりと体を起こして、辺りを見渡す。来た頃と何も変わってる様子はないが、時間はどれくらい経ったのだろうか。まだ寝ている篠崎に聞いてみる。

  「今何時だ?」

  「えっと…………11時っすね」

  「そんなにいたか…………風呂入んないとだし、帰らないとな」

  夕食後に一度入浴したが、汗と泥まみれでとてもじゃないが布団に入れない。どうせまた寝汗をかくことを考えると、夏は何度風呂に入っても足りない気がする。

  それを聞いて、篠崎も渋々といった感じで上半身を起こす。当然のように尻尾を絡めてくるも、振りほどく気にはならなかった。

  「………センパイと星見にこれて、めっちゃ幸せっす」

  「……あんま星見てないけどな」

  「星よりセンパイの方が魅力的っすもん。ずっと見てられるっす」

  その言葉を証明するかのように、真っ直ぐ俺をガン見してくる篠崎の頬を軽く押し退けた。

  「っ、はは、抵抗すんなよ」

  「ふ……っ、笑った顔も可愛いっす」

  俺の手に挟まれて顔が少し潰れるのが面白くて、篠崎に微笑みかけると、篠崎もにんまりと笑って牙を覗かせた。

  「あぁ…………一生このままだったらなぁ」

  「こんな山の中でか?」

  「寮に帰ったら、またセンパイの取り合いじゃないすか。独り占めしたくなるっすよ」

  「……いい加減嫉妬でいちいち揉めないでほしいよ」

  篠崎だけを実家に連れてったことに、こーすけも久郷田先輩もうるさいだろうなぁ。深い理由は無かったんだけど。

  でも篠崎以外だったらこんなに地域の人に好かれてないだろうし、土の上に寝ることもなかったかもな。

  「まぁでも一歩リードっすよ!センパイとディープキスできだし!」

  「え?あぁ……………………」

  篠崎の嬉しそうな物言いに、思わず曖昧な返事をしてしまった。なんなら久郷田先輩の方が早かったし、回数も多いけど。

  目敏く俺の反応に気がついて、篠崎は分かりやすくショックな顔をしていた。

  「えっ!!?まさか…………!!」

  「…………久郷田先輩にされたことある。まぁ無理やりだったけど」

  「ええぇぇぇ…………マジすかぁ……………………」

  耳を寝かせて不快そうに尻尾を膨らませる篠崎に、言わない方が良かったかと内省する。誰と何をしたかなんて、いちいち正直に言わない方が嫉妬心を煽らなくて正解かもな。なら今日のことも尚更誰にもバレたくない。

  「…………どっちの方が……いや、やっぱいいっす」

  「気にすんなって。人は人だろ?」

  軽く肩を叩いて慰めるも、そうけろっと立ち直りそうではなかった。篠崎は俺のことになると色んな人に嫉妬するが、本人も漏らしていた通り、久郷田先輩へは特別強いライバル意識を持っているようだった。普段は表に出さないけど多分久郷田先輩も同じで、二学期になってもこの二人の競争心には振り回されるかもしれない。

  少し落ち込んだような篠崎だったが、不意に少しだけ表情が明るくなった。

  「…………でも、ファーストキスは俺っすよね?入寮してすぐっすもん!」

  「…………ファーストキスって、男も含めるのか?」

  「当たり前っすよ!!」

  興奮気味な篠崎を落ち着けるために、さっきまで手で触れていた横顔に、軽くマズルを近づける。今なら何をしてもいい気がして、篠崎の頬にキスをしてしまった。

  「っっっ!!!センパイ……!!」

  またしても抱き着いてキスをしてこようとする篠崎を軽く押し退ける。ずっとこんなことしてたら朝になってしまう。

  俺は重い腰を持ち上げて、久しぶりに立ち上がった。気休め程度にズボンの汚れを払って、こちらを見上げる篠崎に手を伸ばす。

  「ほら、帰るぞ。今日は隣で寝ていいからさ」

  「ッ、はいっす!!風呂も一緒すか!?」

  「アホ、狭すぎて無理だよ」

  ニコニコ笑ってすくっと立ち上がる篠崎に背を向けて帰り道を歩き出した。ファーストキスの相手を、篠崎に言うのははるか先だろう。いや、言わないかもしれない。小狡く勘違いさせたまま機嫌を取るなんて、転入した頃の俺にはできなかっただろう。振り回されるばかりじゃなくて、振り回す側に回って、少しは扱いに慣れてきたのかもな。

  下山の帰り道は危険もあるが、上機嫌に山道を降りていく。なんだか今日は、悪いことが起こる気がしなかったから。

  「………………なんだよ?」

  家に帰って風呂にも入って床についたのは、午前零時を過ぎた頃だった。このくらいの時間まで夜更かしするのは珍しく、いつもならすぐに眠気に襲われるところだが、夏の夜の蒸し暑さと共に、瞼を閉じようとした俺の身体にのし掛かる影を感じて、不思議と覚醒してしまっていた。

  仰向けで横たわる俺の上に、狼の影が乗っかっている。部屋はほぼ真っ暗だからあんまり詳しくは分からないが、篠崎が俺に跨がっているのはすぐに理解できた。さっきおやすみ、って言ったばかりなのに、まだかまってほしいのかと少ししつこく感じた。

  暗闇に問いかけた俺の言葉には、返事がない。篠崎は跨がったまま動かないし、喋ろうともしない。ただ、いつもより鼻息が荒いような気がしていた。

  「…………おい、重たい………………なんだよ」

  「………………ッ、…………………………」

  再び問いかけ直すも、聞こえるのは吐息だけ。寝かせてくれない怒りよりも、何も言わない篠崎の様子を不思議に思って、暗がりの大きな影にまた呼びかけてみる。

  「………………おい大丈夫か……?」

  「……ッ………………はぁ…ッ………………………ぅきです」

  「…………え?…………なんて?」

  「………………ッ、発情……期………………す……ッ」

  刺々しい言い方の中に、ハッキリと聞こえてきた言葉。発情期……?このタイミングで急に?

  布団の上に、一抹の緊張感が走る。発情期の篠崎が、俺を組み敷いている。動かせない下半身は一先ず置いて、興奮を宥めるように冷静に話しかける。

  「…………いつからだ?」

  「………………三日前……ッ………………」

  「薬は?」

  「昨日…………、切れたっす」

  「っ、お前なんでもっと早く…………」

  「…………ッ!センパイ……旅行、行きたかったから……ッ…………」

  切なそうな声で応える篠崎に、呆れつつも不安になる。もし発情期に入ってることを知ったら、帰省に連れていかなかっただろうから、篠崎は言わなかったのだ。

  通常、発情期は雄雌問わず獣人の第二次成長期に来ると言われている。種族によって期間や回数はまちまちだが、犬科の場合は思春期に一、二回来て終わりだ。

  元々は先祖の名残らしいが、現代は薬によってほとんど完璧に抑えられることが分かっているため、不幸な事故や事件はゼロに近い。保険の授業で誰でも習うし、ちゃんと服薬するよう誰でも指導を受ける。

  …………なのに、篠崎は薬を切らしてしまい、あろうことか俺にも言わなかった。それで今、どうしようもない悶えに苦しんでいる。

  「…………はぁ…………バカ。何で言わねぇんだよ」

  「…………ッ……………………ッ……………………」

  暗闇から、荒い息遣いだけが聞こえてくる。発情期は、身体が子供から大人になる上で欠かせないものだ。激しい性的興奮を覚えて、俗に言う、盛った状態になる。

  ………実は俺は発情期が来たことがない。遅い方だとは思うが、篠崎の苦しみは共感できない。久郷田先輩の発情期は見たことがあるけど、今の篠崎ほど苦しそうではなかった。

  「……………一日くらい……ッ…………平気だって、…………思ってッ………………でもセンパイ目の前に…………、はぁ……ッ………………」

  何度も唾液を飲み込んで、葛藤している篠崎。少ししてようやく気がついた………篠崎は、俺を性的に襲うかどうかで葛藤しているのだ。

  理性と欲望がぐるぐる渦巻いて、本人も訳が分からないくらい悶絶して、襲いたくないが、離れたくもない………まるで俺に救われるのを待っているかのようだった。

  「……………………篠崎…………………………」

  「…………グルルッ………………、…………」

  唸り声が絡む激しい呼吸。上裸でも、篠崎の体は嘘みたいに熱くて、ここ数日触れてきた、高い体温の正体をようやく理解した。

  そんなに苦しいんだろうか。辛いんだろうか。なったことがないから想像するしかなく、明らかに足りないのは分かっている。発情期の発散は、単に性欲を満たせば治まることも知っている。でもそれは、俺たちにとって良いことなんだろうか。

  色んな疑問が頭を巡って、声が出せなくなった。何と声をかければいいのか分からなかった。頭の片隅で蘇る、久郷田先輩との記憶。またあれくらい強い抵抗をしないといけないんだろうか。

  もし俺が、少し傷ついて…………でも篠崎を楽にできると考えたらどうだろう。発情期が終わったら全力で謝罪されるだろうし、埋め合わせはいくらでもしてくれるだろう。さっきまでキスなりハグなり進んでしていたなら、一夜の過ちとして片付けることもできるのかもしれない。

  だがそれは、俺たちじゃない。俺は篠崎を愛してはないし、深い関係になるつもりもない。もし仮に深い関係になったとしても、それが発情期の勢いで、なんて嫌で仕方がない。

  篠崎は俺を何より大事にしてくれて……俺は篠崎と一線を引いて付き合い続ける。先輩と後輩として。

  そのとき、篠崎の腕が俺の顔の横に差し出される。覆い被さるように、前に倒れてもたれ掛かってくる。

  暗闇で見えなかった、近づいた篠崎の顔。ギラギラと鋭い眼光を俺に突き刺して、逃げるなよ、と脅されているような気がした。

  灼熱の吐息を漏らす口元から、唾液が零れ落ちた。俺の喉を濡らしたそれは、蝕むようにじわりと広がっていく。

  「……………………篠崎…………」

  「…………ッ、グル、ッぅ、は、ッ、はッ…………!」

  俺はそのケダモノのような眼光を見つめた。いつも優しくて、愛おしそうに見つめてくる瞳を。

  こんなこと、俺たち二人とも望んでいない。

  「…………………………篠崎、やめてくれ……」

  「…………………ッ………………………………………」

  時間が止まったような気がした。空気が無くなったような気がした。この世界から二人だけ……消えたような気がしていた。

  篠崎の開いた瞳孔は、じっと俺を見つめている。開けた口からまた唾液が垂れた。蚊の鳴くような声で言った俺の言葉が、篠崎に届いたのかも分からなかった。それでも体は動かせなくて、何度も見てきた互いの顔が、初めてのように分からなくなった。

  次の瞬間、

  「………………っ、冗談…………冗談っす…………ッ……」

  「…………………………、………………」

  バッと身体を起こした篠崎が、転げるように俺の布団から離れていく。片手で目元を隠して、取り繕うように笑おうとする。逆立った毛を少しでも見えないように、俺から逃げるかのように。

  「…………俺…………ッちょっとどうかしてたっす……ッぁ頭冷やしてくる…で、あの…………忘れて…ください」

  焦るような声色と、覚束ない千鳥足で部屋を出ていこうとする篠崎。声をかけようか、無言のままがいいのか、悩み始めた頃には襖を開けて部屋を飛び出して行ってしまう。バタバタと廊下を走り、洗面所の方へ向かった足音が遠ざかったとき、ようやく俺は無意識に止めていた呼吸を取り戻した。

  「……………………っ…………………………………………」

  何度か深呼吸を繰り返す。鼓動はバクバクと激しく鳴っている。自分でも何に緊張しているのか分からなくて、何が心を締め付けるのか理解できない。

  辛そうな篠崎の様子を見て、いたたまれなくなった。取り繕うなんて、お互いできるはずもないのに、痛々しい姿を見ていられなかった。

  段々と、呼吸がスムーズになっていく。篠崎は帰ってくる気配がない。でも今追いかけるのが違うのは分かっている。嫌でも寝るしかない。寝れなくても、フリをするしかない。

  「…………………………篠崎…………」

  暗闇でそっと名前を呼んだ。返事なんて求めてない。

  アイツは理性を飛ばしそうになりながら、俺がやめてくれといったらやめてくれた。自分の情欲よりも、俺を優先させたのだ。もっと酷い結末になると思っていた。今よりも、ずっと。

  明かりのない部屋で一人。誰もいない方へ首を回す扇風機と共に、終わらない寝返りを打って何時間も過ごし続けた。

  [newpage]

  翌朝、俺は案の定寝坊していた。朝の八時にじぃちゃんに叩き起こされて、眠気眼に周りを見ると、ちゃんと篠崎は自分の布団で大の字になっていた。

  こんなに寝坊することも滅多にないから、じぃちゃんから昨晩何をしていたか聞かれた。仕方なく星を見に行ったことを告白すると、軽い力で拳骨が帰ってきた。

  今日は東京に戻る日だから、昼前には家を出て島とお別れしなくてはならない。じぃちゃんの朝食を急いで食べ終わり、散らかした部屋を片付けて荷造りをした。荷解きも満足にしていなかったから一瞬で終わったが、ゆっくりしている暇もなく、ばあちゃんに別れを告げて直ぐ様フェリーを乗る港へと出発した。

  朝起きてから、篠崎と二人きりになる瞬間もあったけれど、昨夜のことについてはお互いに何も言い出せなくて、ぎこちない会話が続いた。誰かに聞かれるかも、というより、話題に触れる勇気がなかったのだ。篠崎はどう思ってるか知らないが、軽い気持ちで話せることじゃない。みゆき姉に港まで送ってもらう車内 でも、何となくカイとばかり話してしまっていた。

  昼前とはいえ太陽は高く登り始め、港の周りは相変わらずの日差しに晒されていた。海岸線から見えるフェリーも徐々にその陰を現し、強い潮風に吹かれながらも俺は待合室の外で見納めとなる海を眺めることにした。

  眼下の海は今日も眩しく煌めいて、俺を誘うように港に波打っている。青色に少し混ざったエメラルドが、岸から沖にかけて濃淡を変えている。ずっと変わらないこの海が、ひりつく日差しが、そよぐ木々が。明日からも恋しくなるだろうと物憂げに見つめるばかりだった。

  海に心惹かれつつも、背後からする足音には気がついていた。からからとなるサンダル音が、次第に大きくなっていく。

  「……てっちゃん!また今日でお別れだね」

  「…………あぁ。次は……年末かな」

  「5ヶ月後かぁ……なんか長く感じるな」

  俺の隣で同じ海を見るカイ。日差しに顔をしかめつつ、背中をポンポンと叩いてきた。

  「都会は大変だけど、てっちゃんなら上手くいくっち思ってる!応援してるよ」

  「お互いにな。漁師の仕事頑張れよ」

  「うん!年末もさゆちゃんと会えたらいいけど」

  ………それはどうだろう。都会からこの田舎も田舎の島に、そう頻繁に旅行するのも大変だ。さゆりちゃん家は島に親戚もいないわけだし。

  「……じゃあカイが大阪行ったらどうだ?」

  「えぇ!?うーん……行きたいけど、一人じゃ絶対ムリ」

  「何とかなるって。俺も何とかなったし」

  緊張した顔をするカイに笑いかけると、少しほぐれて笑顔になった。俺も行くよ、とは言えないくらい、まだまだ俺は田舎者だった。

  足下の小石を蹴っ飛ばすと、転がって海へ落ちていった。大海の波には抗えなかった。

  「……てっちゃん、篠崎くんと何かあった?」

  不意にそんなことを聞いてくるもんだから、俺は体が固まってしまった。カイはどれだけ俺の違和感に気づいてしまうのか。

  「…………まぁちょっとな。でもそのうち解決する」

  「篠崎くんとてっちゃん、カップルみたいに仲良いもんね!」

  「っ、やめろよ、気持ち悪い」

  快活に笑うカイを見て、昨夜の一部始終を知られてなくて良かったと思った。いや当然、知りようがないんだけれど。

  「篠崎くん良い子だよねぇ。重蔵じぃにも気に入られてない?」

  「あぁ。珍しいよ、あのじぃちゃんが」

  「さっきも、待合室の端っこで二人で話してたよ」

  「は、えぇ?」

  俺は一人で出ていったから知らなかったが、わざわざ端に行ってまで何を話したんだろう。単に気に入られてたとしても怖いし、説教されてても嫌かもな。

  「それって何の話──」

  「カイ!!哲也!!!もう船来るど!!!」

  待合室の方からみゆき姉が叫ぶ声が聞こえる。ゆっくり話す時間はないから、また寮に帰って電話で喋るしかないか。終わりの時間は近づいている、このまままたしても、俺は東京に行かないといけない。

  カイと並んで、待合所に向かって歩きだす。その足取りも、どことなく遅くなってしまう。

  「…………次はもっと、いいお土産買ってくるよ」

  「お菓子美味しかったよ?」

  「あれ、実は篠崎に選んでもらったんだ。次は自分で決めてみる」

  「そうなんだ。楽しみにしとく」

  照り返す熱いアスファルトを、一歩一歩踏みしめる。きっともう、しばらく味わうことはできないから。

  「東京の友達に、島のお土産持ってってね」

  「空港で買うつもりだけど、黒糖くらいか?」

  「パパイヤ漬け、東京の子は好かんかな」

  「まぁな。俺は好きだけど」

  汽笛の音が鳴っている。フェリーはもう到着したんだろう、少量の人や車が降りていって、俺たちが乗る番が来てしまう。

  「年末は、もっと長くいるから。カイも、元気でな」

  「うん。てっちゃんもね」

  「じぃちゃんよろしくな。迷惑かけるけど」

  「うん。もちろん!」

  乗降口の前で、立ち止まる。少し先の篠崎は俺を見ている。声が届かない離れた待合所から、じぃちゃんとみゆき姉が手を振っている。目の前のカイは、真っ直ぐと立って、俺たちを優しく見つめていた。

  「……………………っ……………………」

  目に入ってしまった。サファイア色に輝く海が、青々と生い茂る山が、潮風にそよぐ木々が、激しく照りつける太陽と、絵の具のような入道雲が。

  変わらず美しくそびえ立つ、大好きな八重木島が。

  思わず一歩踏み出しそうになった。ぐっとこらえて、ゆっくりと瞬きをした。小さく深呼吸して、またカイを見つめ直した。

  「てっちゃん、またね!」

  食パンのような柴犬が、満面の笑みを俺に向けていた。

  「………あぁ。またな」

  俺はすぐに背を向けて、錆び付いた甲板に足を踏み出した。

  揺れる車内、うねる山道を走るバスは、信じられないほどガラガラだった。ゆっくりと蛇行しながら登る道を、コピーしたかのような木々で埋められた樹海を眺めながら進み続ける。木漏れ日は窓から差し込むが、バスの中のクーラーで暑くはない。最後部座席に陣取った俺たちは、無言のまま二十分が経過しようとしていた。

  必要最低限の会話はしてる。乗り物の確認とか、昼飯の話とか。それでも二人とも昨夜のことが気がかりで仕方ないのに、どちらから切り出すのか迷っているような感覚だった。少なくとも俺は。

  何個めかの急カーブか分からないが、遠心力で窓に押し付けられるたび、篠崎の肩が凭れてきていた。昨日と何ら変わりない、俺より少し逞しい肩を。

  「……………………………………………………」

  「…………………………っ…………………あの……」

  重ためなトーンで篠崎が切り出した。とてつもなく気まずそうに、今までで見たことないほどおずおずと話し出す。

  「…………なんだ?」

  「……………………いや………………………………」

  長い沈黙。視線を篠崎の方へ向ければ、一瞬だけ目が合ったけれど、すぐに俯いた。こんなにがら空きなバスで、座席一つに身体を縮めている。

  きっとこのまま促せば、また関係ない話をし出すのだろう。朝からずっとそうだ、何とも言えないぬるま湯のような心理戦。戦う理由もないはずなのに。

  でもきっと、ここまで篠崎が怯えているのは俺だからなんだろう。他の誰かなら、こうはなっていないはずだ。絶対に会話を間違えられない、俺だから。

  「…………………………はぁ……………………」

  「………………………………………………………………」

  「……………………………………………………………………」

  「…………………………………………………………………………」

  「………………あぁもういいや」

  思わず口から言葉がついて出た。俺だって篠崎を心配していた。昨日の様子が辛そうで、見ていて痛々しかったから。でもそれと同時に怒ってもいた。杜撰な管理のせいで、発情期を乗り切れてないのだから。

  だから篠崎から謝ってこいとは思っていたが、この様子じゃ一年かかっても無理だろう。本当に心の底から不安がっている。俺に嫌われたんじゃないかと。

  篠崎の顔をじっと見て、なるべく抑揚のない声で言い放つ。

  「………………怒ってねぇよ」

  「ッッ!!?本当にすみませんでした……ッ!!!」

  直ぐ様頭を下げて謝罪する篠崎に、ふん、とため息を漏らす。謝られたなら、そんなにネチネチ続けるものでもない。肩を軽く叩いて、頭を上げさせる。

  篠崎は露骨に俺の顔色を伺っていて、不安げだった。とはいえすぐに態度を変えるのも違う気がして、ひとまず無表情を保つ。

  「……ほんと、センパイのこと傷つけるつもりなくて…………」

  「別に実際傷ついてねぇけど、体は平気なのか?」

  「あ、はい!もう全然……」

  少しだけ表情が明るくなった篠崎に、またため息をついてみる。再び耳をしゅんと寝かせる様子を笑いそうになってこらえた。

  久郷田先輩のときとは違って、襲われかけたけど何もされなかった。自分から部屋を出ていって解決したのだから、あんまり被害者の意識もない。でもすぐ許すと調子に乗りそうなので、もう少しだけハラハラさせてみることにした。

  「…………正直怖かった。お前があんな顔するなんてな」

  「ホントすみません……マジで頭おかしかったっす」

  「俺がああいうの嫌いって、知ってるだろ?」

  「……ッ…………………………すみません…………」

  ちょっとやり過ぎたか、篠崎は本気で落ち込んでいた。揺れていた尻尾もピタッと動かなくなり、心なしか猫背になっている。反省させるのもいいが、我ながらちょっと悪趣味だと思った。最近少し、篠崎で遊び過ぎてるかもしれない。

  ………犬科には、躾とご褒美だっけ。

  「…………昨日全然寝れなかったから、ついたら起こせよ」

  「はいっす……ッ!?え、いいんすか?」

  俺はそっと頭を傾けて篠崎の肩の上に預けた。俺より少し逞しい肩を枕にして、身を捩って収まりのいいポジションを探すと、そのまま目を閉じた。

  案の定篠崎は動揺していて、喉仏を動かしてごくりと唾を飲んだ。シートの背もたれを尻尾が擦れる音が聴こえてきた頃くらいに、ちょうど俺の眠気も高まってきて、篠崎に寄りかかったまま気がつけばうとうとしてきていた。

  意識が途切れる前、ソワソワとして眠れる様子が微塵もない篠崎に、そっと笑みをこぼした。