ケモホモ男子寮(公認)に放り込まれた俺の受難な高校生活5

  「――――――つーか先輩服あるんすか?」

  だらだらと続いていた雑談に、句点を打ったのは篠崎の一言だった。その言葉の意味を理解するために、首を傾げながら何度か頭の中でぐるぐると考えてみる。

  当然洋服は持っているし、今もそれを着ている。何言ってるんだこいつ。

  「どういう意味だよ?」

  「首傾げてる先輩可愛い―――――じゃなくて、デートする用の服っすよ!いつも着てるTシャツ短パンなんかで行くつもりじゃないっすよね?」

  当たり前だよな?というような顔で俺のことを見つめる篠崎からそっと視線を逸らす。マンガを描いていたこーすけすらこっちを注目していて、なんだか恥ずかしい気分になった。

  篠崎にたった今指摘されて気づいたけど、都会の人はデートに限らずどこか出かけるだけでもオシャレしていくらしい。明日久郷田先輩と出かける際に、何か俺もオシャレしていかないといけないんだろうか。

  とはいえ持ってる服はほとんどTシャツだし、何がオシャレかなんて全くわからない。もちろん前日の夜に買いに行くこともできないし、どうしたものだろうか。

  「………………でも俺オシャレな服持ってないぞ」

  「ちょっとクローゼット見てもいいすか?」

  「散らかすなよ」

  篠崎は俺のベッドから立ち上がると、クローゼットを開いてがさがさ漁り始めた。人に自分の箪笥を見られるのは、何もないとはいえ気持ちのいいもんじゃない。なんだか落ち着かないまま篠崎の揺れる尻尾を見つめる。

  「哲也は無地のTシャツしか持ってないよ。洗濯してる俺が保証する」

  「ほんっとに白か黒のTシャツばっかじゃないすか!」

  篠崎はごちゃごちゃっと適当にクローゼットの中を漁ると、呆れたような顔をして俺を見る。ただそんなこと言われたって、今までオシャレに全く気を遣ってこなかったんだから仕方ない。服屋なんか行ったことすらない。

  「哲也今度服買いに行こっか。春用のやつ持っといた方がいいでしょ?」

  「あっそれ俺も行きたいっす!!俺けっこう服のセンスいい方っすよ!」

  春用の服って……夏と冬さえ持ってれば一年問題ないように思うけど。買い物に乗り気な二人は置いといて、そもそも一番の問題を口にする。

  「……でも実際必要なのは明日だぞ。今から買いに行くわけにもいかねぇし」

  まぁやはり今気づいたところでどうしようもない。本当なら今日とか昨日のうちに買いに行けば良かったんだろうけど、明日はTシャツで行くしかないようだ。別に無地のTシャツが悪いとは思わないけど、二人は違うようだった。

  すると篠崎が勢い良く尻尾を振り出す。

  「じゃあ俺の服貸しますよ!体格近いし着れるんじゃないすか?」

  「え………まぁ、そうだな…………」

  正直あんまり気乗りはしなかった。篠崎の服ってなんか派手そうなイメージがあるし、着なれない他人の服を着るのも少し抵抗があった。ただ現状どうすることもできないから、頼るしかないか。

  「俺の部屋行きましょ!消灯時間来ちゃいますよ!」

  「っ、引っぱんじゃねぇよ……」

  「行ってらー」

  眠たそうなこーすけの声を背に、篠崎に手を引っ張られるまま部屋を後にした。

  「あれ?渡嘉敷先輩どうされたんですか?」

  二階の一番手前にある篠崎の部屋には、既にルームメイトの上柴が机で勉強していた。部屋を軽く見回して見ると、二人の対極的な性格が見事にわかる。

  上柴側の机やベッドはとても綺麗に整頓してあって、本やら教材やらはきちんと棚に並べられている。ベッドは抜け毛一つ見当たらないほど丁寧にメイキングしていて、フカフカそうな毛布がピッタリとベッドに張り付いていた。

  反対に篠崎側はやたらと物がごちゃごちゃと置いてあって見るからに汚い。机には教科書が散らばっていて、何かのコードを踏んづけている。ベッドには衣類が散乱しており、青縞のシーツを覆いつくさんばかりの勢いだ。

  確か部屋の片付けは上柴がやっていたらしいけど、さすがに篠崎のベッドまではやる気が失せたのかもしれない。篠崎のベッドの上よりも、埃一つない床の方がキレイそうだった。

  「…………篠崎に服借りにきた」

  「あぁ…………明日デートですもんね………………」

  俺がそう答えると、上柴は耳を垂れさせながら苦笑いを浮かべた。ここ数日で俺と久郷田先輩が出かけるということは、寮内でも周知の事実となってしまったようだった。久郷田先輩の人気をよく知らない一年生は他人事、二年生と三年生は少し過剰に反応している。現に今まで一度も喋らなかった二年生から、頑張れよと謎のエールを送られたり、食堂では三年生のテーブルに座らされて詳しい話を聞かれたりと、やたらと絡まれるようになった。その度に噂の元凶であるあやめ先輩がフォローを入れてはくれるものの、面倒なことに変わりない。

  そして色んな人と接点を持つうちに、久郷田先輩の周りからのイメージが段々と分かってきた。三年生で背も高く顔も強面なために、少し話しかけづらい雰囲気があるらしく、いずれにしろみんな俺の方に話を聞きにくるようだ。

  そんな中、上柴や篠崎、こーすけなんかは普段通りに接してくれて、わりと心が安らぐ時間だったりする。

  「……上柴は勉強してんのか?」

  「はい。英検が学期末にあるので、それに向けて…」

  「まだだいぶ先だろ?今からするなんて偉いな」

  「二級は難しいので……それに受からないとお父さんに怒られちゃいますから」

  そう言って上柴は困ったように笑う。もとからしっかりしているイメージがあったけど、勉強までちゃんとしているなんて本当にスゴいと思う。遊んでばっかの篠崎とはまるで違う。

  当人はクローゼットに体ごと突っ込んで、尻尾を振りたくりながら洋服選びをしているようだけど。

  「あっこれ先輩似合うんじゃないすかね!!」

  不意に顔を出したかと思えば、手には白色の洋服を持って差し出してきた。フードが付いていて、胸に英語でなんかの文字が書いてある。

  「このパーカー毛色的に俺には合わないかなーって思って着てなかったんすけど、先輩は全然アリっすね!!」

  「パーカー?」

  俺が聞き返すのを無視して、篠崎は洋服を俺の胸に当ててじっと見つめる。いつもより真剣な眼差しに詳しく聞く気も失せてしまう。

  かと思えば、にっこりと笑顔になって満足げに頷いた。

  「めっちゃ可愛いっすよ!これにしましょう!!」

  「……………………………………………………」

  別に可愛くなりたいわけじゃないんだけど、篠崎的にはこれでいいらしい。俺は服のこととかよく分からないし、任せておけばいいんだろう。

  改めて篠崎に選ばれた服をじっと見つめると、一つ気になる点があった。

  「…………これ英語なんて書いてあるんだ?」

  「え?普通気にしますそれ………」

  白色の洋服に黒字で文字が書いてあるが、筆記体なのと知らない英単語のせいで読めない。silver……なんて意味なんだろうか。

  すると上柴がひょっこり覗き込んで、さらっと目を通す。

  「…………マタタビ常習者って書いてありますね」

  「あーこれ大型猫科の専門店で買ったからっすかねー」

  さすが英検の勉強をしているだけあって、上柴が意味を教えてくれた。と同時に、途端にこの服が変なものに見えてきた。少なくとも、犬科の俺がこの服を着ていたら明らかにおかしいだろう。

  「…………なんか違うのないか?」

  「えー!!別にいいじゃないすか文字くらい!!誰も読んだりしませんって!!」

  「俺が気になるんだよ。これじゃないやつ貸してくれ」

  納得できない、といった顔で俺を見つめる篠崎は、少しして諦めたようにまたクローゼットに顔を突っ込み始めた。さっきよりも尻尾の勢いは無くなっている。

  ふと上柴を見ると、相変わらず苦笑いを浮かべていた。

  「………あれじゃなくて良かったと思いますよ。背中に尻尾を掴ませろ!って書いてありました」

  「…………もう意味が分かんねぇな」

  仮に誰も気にしなかったとしても、わけの分からない英文が書かれた服を着ているというだけで、変人になった気分になる。俺が無地のTシャツが好きなのは、ただ単にそれしか持ってないだけじゃなく、こういうことにも関係がある。篠崎は理解できないみたいだけど。

  「じゃあこれどうすか?なんも書いてないっすよ!」

  今度篠崎が引っ張り出してきたのは、桜の花びらがプリントされた長袖のTシャツだった。白の上に桃色が散っていて、純粋にキレイだなと思ったけど、俺が着るのとでは話が違う気がする。

  「なんか…………雌っぽくないか?」

  「いや全然っすよ!!この上に軽く一枚羽織って、下は無難にタイトめなジーンズとかにすれば、春コーデ感出ると思うっすけどね!」

  「な………………………なんだって?」

  篠崎がペラペラと流暢に語る言葉は9割くらい意味が分からなくて思わず聞き返す。きっとオシャレに関する話なんだろうとは予測がつくけど、急に外国語を喋られた気分だった。篠崎自身も俺に伝えようとする気はないようで、上機嫌にズボンを選んでいた。

  上柴はというと、勉強を中断して篠崎が散らかして床に投げ捨てられた洋服を、綺麗に正座して畳んでいた。その表情からは、諦めのような感情が読み取れる。

  「…………篠崎、上柴はお前の召し使いじゃねぇんだぞ」

  「え?あぁ、ありがとな!上柴!今度ジュース奢る!」

  「いいんですよ先輩。僕が勝手にしてることなので」

  手際よく洋服を畳みながら苦笑する姿を見て、篠崎のルームメイトが上柴で良かったと改めて思った。これくらいのしっかり者じゃないと、どれだけ不潔な部屋になっていたか分からない。

  すると篠崎が俺の肩を叩いて、さっきの桜柄の服を渡してきた。

  「一回着てみてください!絶対似合うんで!!」

  「………………………………………………………………」

  一瞬躊躇してから、渋々と桜柄のシャツに袖を通す。思ったより薄めの生地で、柔らかく軽い感触は動きやすくて着心地が良かった。鏡があるわけでもないから自分では似合うとか似合わないとか分からないけど、篠崎の嬉しそうな顔とブンブン振り回している尻尾を見るに、なんとなく予想がついた。

  「めっっっちゃ可愛いっすね先輩!!!抱き締めてもいいすか?」

  「っ、離れろ!!……じゃあ明日はこれを着ていけばいいのか?」

  「そうっすね!寒かったらカーディガンとかあるっすけど……明日晴れだしいらないっすね!!」

  そのままの勢いでべた褒めしながら抱きついてこようとする篠崎を軽くいなしつつ、それを見ながら苦笑している上柴の方を向く。やはり意見は色んな人から聞くべきだし、老け顔の雄の狼犬を可愛いと言ってくるような変な価値観を持った奴よりも、上柴のような常識的な後輩に聞いた方が当てになるだろう。

  「……上柴もそう思うか?」

  「え?あぁ、はい、とってもお似合いですよ。先輩の毛色が寒色なので、桜が綺麗に映えると思います」

  「俺がデートしたいくらいっすよー!!今度行きましょ!!」

  「行かねぇよ…………」

  何かと可愛い可愛いと言ってくる篠崎はともかくとして、上柴が似合っていると言うならそうなのかもしれない。服装なんて気にしたこともなかったけど、似合うと言われると悪い気はしなかった。

  「下はジーンズ貸しますね!パンツもケツワレにしときます?」

  「あ?いや…………よくわかんねぇけどズボンだけでいい」

  ニヤニヤと厭らしく笑う篠崎に、きっと何か変なことを言われたのは何となく分かったが、それを追及するほど体力は残っていなかった。

  [newpage]

  そして月曜日。

  篠崎から貸してもらった服を着て、朝の9時45分、俺は食堂の椅子に腰かけていた。休日の食堂にはほとんど人がいないことが多いけど、こーすけは見送りたいらしく俺の隣で大人しくテレビを見ていた。

  流れるニュース番組は今人気のカレー屋を紹介していて、驚くほどどうでもいい内容のものだった。こーすけも見ているというよりは、時折携帯に視線を移しているのでさほど興味はないんだろう。

  すると不意に、こーすけが口を開く。

  「…………その服似合ってるね」

  「……………………………あぁ、ありがとな」

  ガラス玉のような目は相変わらずテレビに向けたまま、世辞に聞こえる褒め言葉を寄越してきた。俺が久郷田先輩と出かけることに嫉妬しているんだろうか。ここ二三日はいつもより、こーすけが大人しかったような気がするし。

  そしてそれをそのまま、こーすけにぶつけてみる。

  「………………嫉妬してんのか?」

  「なにが?」

  「久郷田先輩と出かけることだよ。お前俺のこと好きなんだろ?」

  「……………………………………………………」

  こーすけは少し呆れたような顔になって、机に肘をつきながらため息をついた。

  「そんなんで嫉妬するほど嫉妬深くないよ。久郷田先輩も哲也のこと好きなのは分かってるし、機会は平等にあって然るべきじゃない?」

  「…………………………………………………………」

  今度は俺が黙る番だった。こーすけを含め誰にも、久郷田先輩にキスされたことは話していない。そしてその時好きじゃないと言われたことも。

  本当は誰かに相談してしまいたかったけど、今これだけあらぬ噂を立てられているというのに、さらにキスのことまでバレてしまえば、火に油を注ぐことになりかねない。幸いだれにも見られていなかったようだし、このまま秘密にしておく方が賢明だろう。

  「…………それに、最終的に何を選ぶかは哲也の自由だから。俺はこうやって隣に居ていいってだけで、優越感を感じてるよ」

  「…………お前って性格良いんだか悪いんだかわかんねぇな」

  「どっちも。みんなそんなもんでしょ」

  たまにやけにこーすけが大人びて見えるのは、こういう時だったりする。自分の考えをしっかりと持っているというか、納得せざるを得ないほどちゃんとした我があって、羨ましいと思うときがある。

  それを本人に伝えるのは流石に気恥ずかしくて再び黙りこくっていると、こーすけが自分の尻尾で俺の尻尾をツンツンとはたいた。ん?とこーすけの方を見やると、じっとある一点を見つめていて、自然と俺もそれに目がいった。

  視線の先にいたのは、食堂の入り口から背を屈めて中を覗き込む、久郷田先輩の姿だった。

  「ぁ………………久郷田先輩、おはようございます」

  「おう。そろそろ行くぞ」

  久郷田先輩はいつものタンクトップに半ズボンではなくて、白いTシャツに黒のベストを羽織って着ていた。首からぶら下げた爪痕のような銀色のネックレスが、鈍く光っている。

  「先輩そんな服持ってたんですね。前みんなで買い物行ったときは着てなかったのに」

  

  「あん時は持ってなかったからな。渡嘉敷も洒落た服着てんじゃねぇか」

  「まぁ…………はい」

  喋りながら久郷田先輩は俺とこーすけが座っているテーブルの上にどっかりと腰かけた。近づいてみて分かったのは、久郷田先輩からいつもと違う匂いがしていること。爽やかなミントと、柑橘系の香りも少し混ざっている。そこに久郷田先輩の体臭が加わって、形容できないけど…………いい匂いだと思った。

  猫のこーすけには嗅ぎとれていないんだろうか、違和感もなさそうに喋っているけど。

  「今日はどこまで行くんですか?」

  「中央駅の辺りをぶらついて、後は気分次第だ」

  「駅前に新しくカフェ出来たの知ってます?行ってみてくださいよ」

  「…………気が向いたらな。そろそろ行くぞ」

  久郷田先輩は少し鬱陶しそうにこーすけの話を終わらせると、俺の腕をぐいっと引っ張って無理やり立ち上がらせた。

  至近距離で見る久郷田先輩は、やっぱりデカい。シベリアンハスキーは大型犬の部類だけど、その中でもデカい方じゃないんだろうか。今日はこの人と町に出かけるのかと思うと、なんだか緊張してきた。

  尻尾を緩やかに振る久郷田先輩の後ろをついていきつつ、最後にこーすけの方を振り返る。どんな顔をしているかと思えば、意外と朗らかに微笑んでいて、ヒラヒラと手を振ってきた。もしかするとこの状況を楽しんでいるのかもしれない。

  人の気も知らないでと文句を言ってやりたくなったけど、久郷田先輩に気づかれないようにそっとため息をついて誤魔化した。

  寮の前に出ると、久郷田先輩は急に立ち止まって俺を見下ろした。

  「横歩けよ。はぐれても知んねぇぞ」

  「………………大丈夫ですよ。子供じゃないですし」

  「なんなら手ぇ繋いでやろうか?」

  「もっと大丈夫です……」

  久郷田先輩は小さく鼻を鳴らすと、また歩き始めた。今度は俺も先輩の隣を歩くようにする。一緒に出掛けているのに後ろを歩くのは、なんだか感じが悪いような気がする。

  祝日の朝、学校の周辺は人通りも少なくて、散り始めた桜を眺めながらのんびりと歩くことができた。久郷田先輩の歩調も心なしかゆっくりに見えて、和やかな朝日を堪能していたのかもしれない。

  直接本人に聞いたわけじゃないけど、行き先は予想がついている。恐らく駅まで歩いていってから、電車で中央駅ってところまで行くんだろう。島から寮まで引っ越してきたときに一度経由したことがあるけど、あのときはじぃちゃんの東京の知り合いに引率してもらったから、自分ではほとんど何もしなかった。電車の乗り方も分からないと言ったら、久郷田先輩にバカにされるだろうか。

  「…………今日は何しに行くんですか?」

  「さぁな。何がしたい?」

  「えっ………………………………」

  質問を質問で返されて、思わず困惑する。何がしたいって、可能なら今すぐ寮に引き返したいけど。要するに久郷田先輩も何か用事があるわけじゃないということだろうか。だとしたら尚更帰りたくなってきた。

  そういえば久郷田先輩が俺のことを誘ったとき、服を買いに行きたいと言ってたのを思い出す。

  「……服………買いに行くんじゃなかったでしたっけ」

  「あぁ………………俺は別にいらねぇけどな。渡嘉敷は自分の服買った方がいいんじゃねぇか?」

  「えっ、まぁ…………ていうか何でこれ借りた服って知ってるんですか?」

  久郷田先輩は前を向きながら淡々と歩いていたが、俺がそう質問すると呆れたように目を細めてこっちに顔を向ける。

  「お前…………犬科のくせに気づいてねぇのかよ。どんだけ毎日篠崎とベッタリなんだよ」

  「…………………………っ、」

  久郷田先輩の言葉は直接的ではなかったものの、鈍感な俺でも少し考えれば意味は分かった。

  もちろん俺も他の犬科同様鼻がいいので、この洋服から篠崎の匂いがすることは分かっていたけど……そんな強いものだとは思わなかった。自分でも気づかないうちに篠崎の匂いに慣れてしまって、気にしなくなっていたということなんだろうか?

  なんだか恥ずかしくなって顔が赤くなった。久郷田先輩はなんとも言えない無表情を浮かべているけど。

  「そんな…………匂いキツイですか?」

  「いや、犬科以外は分かんねぇだろ。マーキングされてることくらい気づけ」

  マーキング…………もしかして篠崎が服を貸すのにノリノリだったのはそういう意味があったんだろうか。純粋に趣味で楽しんでるように見えたけど。

  自分の脇の辺りに顔を近づけて、スンスンと匂いを嗅いでみる。紛れもなく篠崎の体臭がしていて、抱き締められているときを思い出す。本人がいないときまでそんなこと思い出したくない。

  「篠崎はかなり本気でオメェが好きみたいだな」

  「まぁ…………そうですね。困ってます」

  過剰なほど可愛い可愛いと言ってきたり、スキンシップも相変わらず激しい。好きだ、とか結婚しよう、とか毎日言われてるし。その度に嫌だと突き放すのも大変だ。

  何となく久郷田先輩から視線を感じてチラリとそっちを見ると、口の隙間から牙を覗かせてかなり怖い顔になっていた。

  「…………キスくらいしたのか?」

  「えっ………………あ、はい…………間違えて」

  「ふーん…………アイツとヤッたのか?」

  「やる?何をですか?」

  俺がそう聞くとのと同時くらいのタイミングで、久郷田先輩はバンッと音が出るほど勢いよく俺の尻を鷲掴みにしてきた。ビクッと体が跳ねて大きな声を出しそうになるのを予想していたかのように、久郷田先輩の手がマズルを抑えていた。

  「セックスだよ。ケツ掘られたのかって聞いてんだ」

  「っ、!!!してッ……………………ないです…………」

  まさか町中でいきなり尻を掴まれると思わなかった。寮内でのセクハラは分からないでもないけど、公然の場でしてくるなんて、どういうつもりだ。最低だ。

  俺が強く睨み付けると、久郷田先輩は嬉しそうにニヤついていた。

  「やっと目が合ったな。怒ってる顔も可愛いぜ」

  「…………外でセクハラしないでください。お願いします」

  「分かったから怒んなって。悪かったな」

  何がそんなに楽しいのか、尻尾を振りながら俺の頭を軽く撫でる久郷田先輩。寮に入ってから二週間以上経ったけど、未だにこの人との距離感が分からずにいる。面倒見のいい頼れる先輩のときもあれば、酷く自分勝手な変態のときもある。顔も怖いし、セクハラをどれくらい抵抗していいのかも分からない。だから俺は今日という日が来てしまうのをストレスに感じていたんだろうか。

  かなりのんびり歩いていたせいで、ようやく学園に面した大通りにたどり着いた。車通りはそこそこ多く、祝日だというのに出かける人が多いようだ。

  俺はまだこの景色を見ると何気なくキョロキョロしてしまうけど、久郷田先輩は当然慣れているようで置いてかれかけた。

  「…………あのラーメン屋行ったか?」

  久郷田先輩が細長い指を伸ばした先には、道路の向かいの縞縞軒があった。

  「はい、先週…………」

  「餃子食ったか?あそこは餃子の方が旨い」

  「えぇ、俺もそう思います」

  いっそのこと餃子屋になった方がいいんじゃないかと思うほどだった。

  「この道まっすぐ行くと駅で、反対方向行けばでかいスーパーがある。日用品なんかはそこで買え」

  「こーすけが、クレープ屋があるって言ってたんですけど…………」

  周りを案内していた久郷田先輩が、急にこっちを向いた。訝しげな表情を浮かべている。

  「………意外だな。好きなのか?」

  「クレープ…………ってなんですか?」

  俺が単純な疑問をぶつけると、久郷田先輩は一瞬戸惑ってからニヤリと笑ってみせる。その顔が、不覚にもカッコいいと思ってしまった。あくまで同性の憧れだけど。

  「クソ甘いスイーツだ。食いに行くか?」

  「あ、甘いのはちょっと…………」

  「俺も苦手だ。利根川は好きだけどな」

  最後に添えられた一言が、頭の片隅で引っかかる。実際こーすけと久郷田先輩がどれくらい仲がいいのかは分からない。二年生から転入してきた俺から見ても、二人の関係性は微妙だ。あまり話しているところは見ないのに、いざ話すとなるととても親しげで。久郷田先輩は恋人を作ったことがないらしいが、こーすけとは体の関係があったと聞いた。

  少し考えてから、やはり本人に直接聞いた方がいいことに気づく。多少不自然に思われても、こんな機会なかなかないだろうし。

  「あの………………久郷田先輩とこーすけは…………」

  「どんな関係か?」

  「……………………はい」

  久郷田先輩の方を見上げると、相変わらず笑っている。

  「…………セフレ、だな。ただの先輩後輩じゃねぇし」

  「セフレ…………?」

  俺が聞き返すと、久郷田先輩はガシガシと自分の頭をかいた。ちょうど歩道側の信号が赤になって、先輩と並んで立ち止まる。先輩のふさふさの尻尾が揺れて、俺の足に当たった。

  「セックスフレンドだよ。要は体だけの関係だ。利根川の他にも五人キープしてたんだが、この間二人切った」

  「っ、それって…………浮気とかじゃないんですか?」

  「浮気も何も誰とも付き合ってねぇからな。セックス目的だし咎められる筋合いはねぇ」

  なんだろう。久郷田先輩の話を聞いて、何となく嫌な気持ちになった。きっとそれはまだ俺が子供で、性的なことに不馴れなせいもあるんだけど、一度に六人と身体の関係を持つのって…………なんだか不純だ。気にくわない。

  信号が青に変わって、久郷田先輩が歩きだした。少し遅れて後ろを歩いていると、先輩が尻尾で俺を急かす。

  「お前は真面目な田舎モンだから、どうせ不純だとでも思ってんだろ。ただゲイの界隈にはよくある話だ、慣れといた方がいい」

  「…………………………………………………………」

  別にゲイの界隈にいる気はないから、慣れたくもないんだけど。例えば今は俺に一途な篠崎が、他の人と身体の関係を持っていてもおかしくない界隈ってことだ。やはり受け入れにくいし、印象が悪いことに変わりない。

  「久郷田先輩は…………恋人いるんですか?」

  「もう長いこと居ねぇな。気になってる奴ならいるが」

  「………………新谷さんですか?」

  「あぁ?あのストーカーなわけねぇだろ。つーかよく知ってんな」

  「あやめ先輩から……聞きました」

  俺がそう答えると、久郷田先輩は不満げに小さく鼻を鳴らした。本人も新谷さんに対して、あまり良い印象を持っていないことに、少しホッとした俺がいる。

  「たまに俺がモテることを羨ましがる奴がいるが、実際はそんなに良いもんじゃねぇ。なんかする度にやたらと注目されたり、デートに誘っただけで学年中騒ぎやがる」

  「…………………………………………………………」

  愚痴めいた口調で語る久郷田先輩は、どこか遠くを見つめていた。先輩自身に人気があることへの自覚はあったんだと知って、俺も何気なく空を見上げる。

  「そりゃセフレに困ったことはねぇが………あんまり好き好き言われんのもかえってストレスだ……それに、」

  久郷田先輩はそこで一度言葉を区切った。かと思いきや、いきなり俺の肩を強く抱き寄せて歩道の端に引っ張った。急なことで驚いたのと、いきなり目の前に久郷田先輩の顔があったのが、俺の心臓を強く脈だたせる。

  「…………それに、好きな奴に好きって言われねぇんじゃ何の意味もねぇからな」

  「っ、……………………すみません」

  俺と久郷田先輩の真横を、自転車が二台通り過ぎていった。俺が呑気に空を見上げていたせいで、後ろから来ていたのを気づけなかったようだ。

  条件反射的に謝ると、久郷田先輩はそっと腕を外して俺を解放する。危うく事故になっていたかもしれないし、本当はもっとお礼とか言うべきなんだろうけど。

  そのときの久郷田先輩は、一瞬だけ寂しそうに見えて。

  「…………喋りすぎたな。お前のことも聞かせろ」

  「えっ………俺…………ですか?」

  再び前を向いて歩きだしたときには、またいつもの強面に戻っていた。俺の気のせいだったんだろうか。

  「渡嘉敷………下の名前は?」

  「……哲也です。哲学の哲に、也って書いて……」

  「そうか、じゃあテツだな」

  俺がはい?と聞き返すと、久郷田先輩はニヤリと不気味に微笑んだ。

  「よろしくな、テツ」

  「ぁ……あだ名ですか」

  なんだか急に距離を縮められた気がして、自然と先輩から少し距離を取った。今のところ俺をあだ名で呼んでいるのは、島の幼なじみのカイだけだ。

  俺の不服そうな顔を見たからか、久郷田先輩は大きな手でまた頭を撫でてきた。

  「二人のときにしか呼ばねぇよ。また噂されるだろうからな」

  「……………………はい」

  まぁわざわざあだ名で呼ばないでください、なんて突き放すのも失礼だろう。別に嫌なわけじゃない、驚いただけだ。

  そして多分無意識だったけど、先輩に頭を撫でられて尻尾を緩やかに振る俺がいた。

  「電車の乗り方分かるか?」

  久郷田先輩は駅の改札口の前で、少しバカにしたような笑みを浮かべながら尋ねてきた。

  祝日の昼前、稲光学園前駅は人も少なく、穏やかな春の陽射しが心地よく駅の周りを照らしていた。猫獣人の家族がちょうど、俺たちの立っている横を通り過ぎて改札口を通っていった。まだ小学生くらいの子供ですら当たり前のように、未だに仕組みがよく分からない改札を通り抜けている。

  きっと久郷田先輩は俺が知ってるのだと思ってからかうつもりで聞いてきたんだろう。その証拠にほら、俺が首を横に振ると驚いたような顔をしてみせた。

  「マジでわかんねぇのか?ほんと田舎モンだな」

  「…………………………はい」

  別に田舎者だと揶揄されることはどうでもいい。実際そうだし、ある種俺は田舎者であることに誇りを持っているし。

  でも誰にだって初めてはあるはずだ。さっきの猫獣人の家族にも、半笑いで俺を見ている久郷田先輩にも。

  「じゃあ教えてやる。こっち来い」

  俺のムッとした雰囲気を感じ取ったのか、先輩は手招きして改札口横の機械のところに案内してきた。近づくと何やらボタンがたくさんあって、触る前から拒絶反応を示す俺がいる。

  「行きたい駅までの料金が上に書いてあんだろ?その値段のボタンを押して、切符を買うだけだ」

  久郷田先輩の指差す方向を見ると、簡略化された地図のようなものが貼ってあった。それには現在地からたくさんの線が伸びていて、各所に打たれた点に駅名が印字されている。

  前にここに来たときはこんなの気づきもしなかった。わざわざ立ち止まってこれを見ている人も少ないし。

  「こっから中央駅まで480円だ。んでここに金を入れて、この480円の切符を買う」

  「間違えて買っちゃったらどうしたらいいんですか?」

  「さぁな。そんときは警察に捕まるから注意して買えよ」

  都会じゃそんなことでも警察に捕まってしまうのか。意外と身近な犯罪が怖くなって、少し電車に苦手意識が生まれた。

  久郷田先輩は慣れた手付きでポチポチとボタンを押すと、機械がガガガッと揺れだして、一枚の切符を吐き出した。

  「これを改札口に通せば中に入れる。まだ使うから捨てんじゃねぇぞ」

  「久郷田先輩の分は…………?」

  「俺はSuica持ってるからいらねぇ」

  「スイカ?」

  「電車上級者向けのカードだ。お前にはまだ早い」

  そう言うと久郷田先輩は俺に切符を渡して、改札口を通るように促した。受け取った紙っぺらは思いの外小さくて、これなら無くしかねない。万が一無くしてしまったときも、警察に捕まるんだろうか。

  改札に近づくと、見るからに小さなカードが差し込めそうな穴があることに気がつく。さっきの猫獣人の家族も、ここに切符を入れていたはずだ。

  少し怖くなって久郷田先輩を見ると、先輩は真剣な眼差しで頷いた。

  恐る恐る、切符を近づけてみる。いや、きっと大丈夫だ、子供ですら平気だったんだから。何も恐れる必要はない。

  ようやく先端が機械にくっついた。ここに切符を入れるだけでゲートが開く。その仕組みがよく分からないけど、きっと気にする方が間違っているんだろう。

  くっつけるだけじゃダメだ。少し押し込まないと。

  そうして手に力を込めたそのとき、

  ガシャッ!!!!

  「うわっっ!!??」

  手に持っていた切符を食べるかのように、改札の機械が勢いよく吸い込んでしまった。突然の出来事に思わず毛が逆立って、尻尾をピンと張る。

  振り返って久郷田先輩を見ると、腹を抱えて笑っていた。

  「危なかったな、もう少しでお前も飲み込まれるとこだったぞ」

  「いやもう…………いいですって…………」

  久郷田先輩はにやけ面が治まらないらしく、時折吹き出しては俺の肩を抱こうとする。そして俺はその手を振り払いながら、黄色い線の内側で電車が来るのを待っていた。

  なんでもここにちょうどよく止まるように、車掌さんがぴったりと停車するらしい。一日に何本も走っている電車全てが、ちゃんと時間通り停車位置通りに止まるなんて、にわかに信じがたいことだ。

  それを当たり前のように使っているんだから、都会の人たちは贅沢だ。

  「おいテツ、あれ知ってるか?自販機って言うんだぜ」

  「……怒りますよ」

  「分かった悪かったって。オメェが面白すぎるのが悪い」

  そりゃ電車を乗り慣れている先輩からすれば、改札口で驚いている俺の反応は面白いかもしれない。でも笑い者にしなくたっていいじゃないか、というのが俺の反論だ。

  もし今日いたのがこーすけや篠崎だったら、もっと酷いことになっていたかもしれない。ある意味まだ久郷田先輩で良かった。

  『まもなく、2番線に電車が参ります。危ないですから、黄色線の内側へお下がりください』

  駅にアナウンスが流れて、遠くの方から電車が走ってきているのが見えた。赤紫色に塗られた車体が、二つのランプをギラギラと光らせて、ホームに迫ってきている。結構なスピードだ。

  「黄色い線から出んなよ。飛び出たら危ねぇからな」

  「っ、だから……からかわないでください」

  また何も知らない子供のように扱われた気がして久郷田先輩の方を見ると、思いの外真面目な顔をしていた。

  「からかってねぇよ。都会の電車は人身事故が多いからな。電車は急に止まれねぇし、よく自殺する奴もいる」

  「……………………………………………………」

  「間違って落っこちたら助からねぇからな。気を付けろ、ってことだよ」

  久郷田先輩はまたそっと肩を抱いてきた。なんとなく振り落とす気にならなくて、電車が止まるまでずっとそうしていた。

  都会は事故が多い。田舎の事故のような、海で溺れてなんかとわけが違う。そのほとんどが人の手によるもので、確実に毎日たくさんの人が死んでいる。そう思うとやっぱり明日は我が身というか、島に帰りたいと思う気持ちは強くなるところだ。

  大きな音と独特の臭いを残しながら、電車はゆっくりと停車した。扉が開くと、たくさんの人が降りてくる。それこそ多種族の獣人が、所狭しと小さな箱の中に詰められているのが、なんだか不思議に感じた。

  「……意外と混んでるな」

  久郷田先輩はボソリと愚痴のように呟くと、そのまま俺を引っ張って電車へと乗り込んだ。電車とホームの間の隙間に足が挟まるんじゃないかと危惧したせいか、下ばかり見て車内の暑苦しさに気づくのに遅れた。

  俺と先輩は最後に乗り込んだおかげで扉のすぐ側だったけど、別の人の腕が体に当たるくらい、車内は密集していた。これが俗に言う、満員電車というやつなんだろうか。

  プシューッという音と共に扉が閉じれば、そこは完全な密閉空間。その中に犬科や猫科、爬虫類や鳥類も一緒にぎゅうぎゅうに押し込められて、ただただ電車が出発するのを待っている。とても滑稽だった。

  「…………狭いですね」

  「人の尻尾踏まねえように気をつけろよ」

  確かに他人の尻尾を踏みつけてもおかしくないくらい、体が密着している。特に体が小さい種族の人たちは、押し潰されないように大変だろう。

  なんとなく自分の尻尾を股の間に挟んだ。

  「最近は大型車両と小型車両で分けてるとこもあるが…………この電車は違うみてぇだな」

  「………体の大きさで分けてるんですか?」

  「少し前は事故が多発してたからな。俺もウサギを蹴っ飛ばしたことがある」

  「それ…………大丈夫だったんですか?」

  「アンゴラウサギだからな。毛がクッションになって無事だった」

  ちょっとした笑い話に頬が緩むと、久郷田先輩がさりげなくまた肩を抱いてきた。ぎゅうぎゅうな電車の中ではあまり気にならず、抵抗する気もなかったけど、ちゃっかりしてるなと思った。

  電車が動き出して、少しずつ加速していく。進行方向とは逆に慣性が働いて、久郷田先輩に少しもたれる感じになってしまった。そんなことすら変に意識して自分から離れようとするも、先輩はさらに肩を抱く腕に力を込めたような気がした。

  ガタンゴトン、左右に揺れる振動が足先から伝わってくる。音は少しうるさいけど、思いの外揺れは小さい。きっと椅子に座れたら、かなり快適なんだろう。

  「………思ったより速いんですね」

  「あー……………そうか?」

  「どれくらいで着くんですか?」

  「20分かそこらだな……5駅くらい先だ」

  曖昧な返事をする久郷田先輩。もしかすると久郷田先輩自身もあまり電車に乗らないのかもしれない。

  ボーッと窓の外を流れる都会の景色を眺めてみると、あまり代わり映えしないたくさんの建物に目がいく。ところどころ大きな広告看板がある以外は、あまりこれといって注目できるようなものはない。都会は物珍しい景色が多いが、どれもつまらなく感じてししまう。

  そしてこの似たような大量のビル群に、詰め込まれるように人がたくさんいて。窮屈な毎日を送っているんだろう。そうだ、例えば今乗っている電車みたいに。

  不意に車内へ意識が向いてしまって、様々な臭いや音が頭に入り込んできた。たくさんの獣人からするそれぞれの体臭と、それを隠すためのような香水が混ざり合う。電車の揺れと共に互いの服が擦れたり、低い唸り声や咳払い、くしゃみなんかも聞こえてくる。そして何よりも、交互に鳴る息遣いが俺の耳をゾワゾワと刺激して毛を逆立たせる。

  …………なんだ、これ。

  「………………どうした?」

  俺の変化に気づいたのか、久郷田先輩が小声で尋ねてきた。軽く体を揺すられて、頭がぐらぐらと混乱する。俺自身の呼吸も浅くなっていくし、込み上げてくる吐き気。ダメだ、こういうときはまず……深呼吸しなければ。

  「………………ッ………………………はぁ…………………………」

  「…………おい、大丈夫か?」

  返事………………返事………………先輩に返事をしないと。今なんだか急に体調が悪くなって…………くそ、体が鉛みたいに重くなってきた。

  この気だるい感じは風邪をひいたときに似ているけど、吐き気は車酔いに似ている。ただここは満員電車………万が一吐いてしまったら、大変なことになる。

  体の力が抜けていく……肩から、腰から……足の力が抜けて、立っていられなくなりそうだ。扉にもたれれば…………なんとかなるだろうか。

  「…………渡嘉敷………おい、掴まってろ」

  「…………っ…………………………ぅ…………………」

  力の抜けた膝から崩れ落ちそうになったとき、久郷田先輩が俺の両腕を掴んで先輩の首に回させた。なんとか首にしがみついて、座り込んでしまわないように腕に力を込める。

  もちろん腕の力だけじゃ支えきれなくて、久郷田先輩の腕がガッチリと腰を掴んでくれていたから、ようやく立てていられたんだろう。

  「…………ッ、すみません……………………っ」

  「……ったく、次で一回降りるぞ」

  久郷田先輩はさらに倒れにくいように、俺を扉に体ごと強く押し付けた。端から見れば抱き合っているように見えたかもしれないけど、狭い電車内で座り込むわけにもいかず、今の俺にはこれしか選択肢がなかった。

  先輩の首元から香る、いつもの匂い。浅くて拍の少ない呼吸を繰り返して、酸欠になりながらもその匂いだけはどうにか認識できた。久郷田先輩の体臭に集中している間は、周りの人達を意識せずにいられた。

  今はとにかく…………吐かないようにしないといけない。

  この数分間がまるで何十分に感じられるほど、とても長い時間を過ごした。無心で必死に久郷田先輩にすがりついて、酷く情けない姿を晒してしまっただろう。それでも先輩は時折優しく背中を撫でながら、ずっと俺の体を支えてくれていた。

  電車の動きがゆっくりになっていくのを振動で感じて、瞑っていた目を開ける。すると目の前に、少し目を見開いた馬獣人の女性の顔があった。俺と目があって慌てて逸らされたけど、間違いなく電車内で抱き合っている俺たちを凝視していた。

  こんな公共の場で雄同士がいちゃいちゃしている様に見えたんだろう、 驚かれるのも目を逸らされるのも当然だ。ただ俺はそれどころじゃなくて、とにかく倒れないようにしなくちゃいけなかった。

  ようやく電車が止まり駅に到着すると、開いた扉から押し出されるようにホームに飛び出た。あまりの勢いに躓きそうになったけど、久郷田先輩が肩を組んでくれたおかげで無事だった。

  外の空気を吸って、苦しかった呼吸がかなり良くなる。ホームにあるベンチに座り込んで、ぐったりと背もたれに寄りかかった。

  「…………大丈夫か?」

  「………………ッ…………………………すみません」

  隣に腰かけた久郷田先輩を横目に、何度も深呼吸を繰り返す。電車の中の密閉した息苦しい空気と違って、外は排気ガスの臭いこそするが風が吹くだけ幾分かましだった。相変わらず電車にはたくさんの人が乗り降りしていて、再びぎゅうぎゅう詰めになると大きな音を鳴らして走り去っていった。

  「…………水でも買ってくる」

  「ぁ…………いや、」

  立ち上がりかけた久郷田先輩の服の裾を、俺は無意識に掴んでいた。水はいらないということと、なんとなく近くにいてほしくて。自分でも女々しいと思うけど、慣れない場所に一人で残されるのは嫌だった。

  「水は………………いらないです………………っ」

  「………………そうか」

  久郷田先輩はゆっくりと腰を落とした。俺も先輩の服からゆっくりと手を離す。少しだけ、今は少しだけ落ち着く時間が欲しい。

  「…………電車酔いか?」

  「…………いや………………人酔いです」

  都会に来てから二週間以上経つけれど、こんなことは初めてだ。きっと極端に狭い場所でたくさんの人に囲まれたから、気持ち悪くなってしまっただけだ。

  久郷田先輩は腕を俺の後ろに回すと、優しく背中を擦ってきた。

  「満員電車に慣れねぇのは分かる。俺も最初はそうだった」

  「…………先輩もですか?」

  久郷田先輩は都会の人のイメージがあったから、とっくに慣れっこだと思っていた。

  先輩は一つ大きめのため息をつくと、俺の頭を雑に撫で始めた。

  「俺の実家は岐阜だ。お前と同じ田舎モンだよ。高校から寮だけどな」

  「……………じゃあ、人酔いしたことあるんですか?」

  「あぁ。全校朝会のとき吐いたこともある。もう誰も覚えちゃいねぇだろうけどな」

  人気者でモテモテの久郷田先輩も、一年生の頃は俺と同じ田舎者だったのか。なんだか親近感が湧いて、少し話が聞きたくなった。

  「先輩の実家は……どんなところですか?」

  「…………山奥にある集落だ。家出て五秒で森がある。空気は綺麗だが、なんもねぇよ」

  ほとんど俺と同じだ。ドがつくほどの田舎の集落出身で、高校から上京してきて。そして何にもないと自嘲しながらも、懐かしそうに遠くを見つめる瞳すら。

  久郷田先輩の印象が、俺の中でかなり変わった瞬間だった。

  「お前は確か鹿児島の離島だろ?」

  「はい…………俺んとこも何もないですよ」

  「海があるだけマシじゃねぇか。山ん中ほどつまんなくはねぇだろ」

  「山もいいじゃないですか……昔よく夏に虫採りに行ってました」

  久郷田先輩は緩く微笑むと、俺の頭を数度軽く叩いた。

  「俺んちは酒造だったから、夏は涼しい蔵の中で過ごしてたな。臭いがキツかったが、おかげでアルコールには強くなった」

  「飲んだことあるんですか?」

  「あぁ……親父の一升瓶をくすねてた。一度兄貴に見つかって死ぬほど叱られたけどな」

  「お兄さんいるんですか……」

  「あと姉貴もな。兄貴はクソ真面目でつまんねえ奴だが……姉貴はまだ冗談が通じるな。俺がホモの学校に行くっつったときも、姉貴だけは賛成してたし」

  久郷田先輩は面倒見の良い兄のようなときもあれば、たまに子供のように身勝手で強引なときもある。もしかすると、本当は末っ子のわがまま気質なのかもしれない。

  先輩は流暢に言葉を連ねていく。

  「俺の兄貴は同性愛なんか認めないとか、古い価値観のアホ野郎だよ。実家の酒造を継ぐのが将来の夢とか言ってるような奴だからな」

  「………………………………」

  「親父は典型的な頑固野郎だし、お袋も亭主関白にされるがままの昔の女だ。田舎っつーのはいつまでたっても時代遅れなのが嫌になるな………………」

  久郷田先輩はそこで言葉を切ると、唐突に俺の頭を撫でる手を止めた。俺も思わず先輩の方を見る。

  「……………………どうしたんですか?」

  「…………いや、そういや家族の話をしたのはお前が初めてだ。喋りすぎたか?」

  「いえ…………先輩の話が聞けて楽しいですよ」

  俺がそう答えると、そうか、と言ってそっぽを向く久郷田先輩。少しの間黙っていたけど、尻尾はゆらゆら揺れている。

  また電車が駅に到着した。俺はもうかなり具合がよくなったけど、久郷田先輩はまだ乗る気もないようだ。

  「…………お前の家族は?どんな家族だ」

  「俺は………………ずっとじぃちゃんと二人暮らしでした。じぃちゃんは年の割に元気で、植物オタクで………………ぶっきらぼうだけど優しい人です」

  「ふーん…………じぃちゃんはいくつだ?」

  「もう八十越えてますよ。でもまだ全然元気です」

  「田舎の老人はゾンビだからな。平気で百歳まで生きてやがる」

  久郷田先輩の言葉にクスリと笑うと、また頭を撫でる手が動き始めた。それが少し心地よくて、目を細める。

  「それと……幼なじみのカイって奴がいて、赤ん坊の頃から一緒でした。今は島で漁師してますけど……家族みたいなもんです」

  「幼なじみか……いいな、それ」

  「気が弱いけど、いい奴で………いつか東京を案内するって約束してるんです」

  「…………なら尚更、慣れとかねぇとな」

  最後にわしゃわしゃ、と俺の髪を雑に撫で上げると、先輩は立ち上がって伸びをした。清々しい春の風が吹き抜けて、先輩の長い毛を穏やかに揺らした。

  「酔いは覚めたか?そろそろ行くぞ」

  「……………………はい」

  吐き気や気だるさはとっくに無くなっていた。時間も時間だし、行かなくてはならない。

  もう少し、このままでいたい気もするけれど。

  [newpage]

  あのあとなんとか再び電車に乗って、酔うこともなく目的の中央駅に着くことができた。とてつもなく広大で複雑な駅のホームを、久郷田先輩は迷わずにすいすいと進んでいて、人混みの中ではぐれないように必死だった。幸い久郷田先輩の背丈は集団の中でもかなり目立つので、見失うことはなかったけど、あまりの人の量に周りを見る余裕すら無くて、俺がここに慣れるのは一年くらい先だろうと思った、

  少し歩くとようやく人混みを抜けて、とてつもなく大きなホールのようなところへ来た。一階から七階くらいまで吹き抜けになっていて、ガラスの天井がはるか上空に見えている。ホールの壁を沿うような形でたくさんの店が立ち並び、それぞれ彷徨うように歩き回る人々を取り囲んでいた。

  一階には環状のベンチが並べられていて、出店のようなものも数多く配置されている。ちょっとした食べ物を買い食いできるような、休憩スペースになってるんだろう。久郷田先輩は空いているベンチにどっかりと座ると、俺を見上げながらニヤついていた。

  「…………空いた口が塞がらねぇって感じだな」

  「…………これ……………一つ一つ全部お店なんですよね」

  「あぁ。服屋も本屋もなんでもあるぞ」

  「いくつあるんですか…………」

  「さぁな。百は越えてるだろ」

  巨大なホールは縦長にカーブしながらさらに奥まで続いていて、終わりがないように思えた。俺が見たことのある建物の中で最大かもしれない。少なくとも稲光学園よりは大きいだろう。

  「ここが夜杉市で一番デカいデパートだ。中央駅に隣接してて、まぁ大抵のもんは何でも手に入る。寮で使うくらいの物はここで買え」

  「すごい…………ですね。迷いそうですけど……」

  「そのために地図がある。そこの看板に全部書いてるぞ」

  先輩が指差した先には黒板くらい大きな看板があって、階層ごとに詳しく店の名前や通路が書かれていた。こーすけは週末よく色んな物を買ってきてたけど、そりゃなんでも揃うわけだ。この景色を、カイに見せてやりたい。

  俺がキョロキョロと辺りを見渡していると、久郷田先輩はベンチにふてぶてしく座って退屈そうに欠伸をした。初めて来る俺は物珍しさに興奮するかもしれないが、久郷田先輩は慣れるくらい何度も来ているんだろう。そもそも特に予定も決めずに来たわけだから、暇なのは仕方ないけど。

  …………あ、そういえば。

  「久郷田先輩、本屋あるんですよね?」

  「あ?あぁ………二階だっけな」

  「行き………………ま……せん?」

  ついこの間秋沢に本を紹介してもらったのを思い出した。暇潰しのために数冊買わないと。

  「…………一人じゃ怖いので久郷田先輩一緒にいてくださいお願いします好きです、ってことか?」

  「そこまで言ってないです……けどまぁ…………はい」

  ベンチに深く腰かけている久郷田先輩は、動くのすら面倒そうだったけど、俺の顔を見て厭らしくほくそ笑んだ。

  「……………………嫌だ」

  「えっ…………?」

  久郷田先輩は俺の腕を掴んで無理やり引っ張ると、俺を隣に座らせた。また肩を組んで顔を近づけてくる。

  「テツがキスしてくれるっつーなら行ってやるけどな

  「っ、は……?いや、それは…………嫌です……」

  すると、今度は急に離れたかと思えば背中をドンと強く叩いて、

  「冗談だ。俺もワンピースの新刊探しに行きてぇからな。余ってる図書カードあるからやるよ」

  またニヤニヤと笑って立ち上がった。久郷田先輩の強面だと、真顔にしてるだけで怒ってるように見えるので、笑っている分にはいいんだけれど。今日はなんだかいつもの久郷田先輩と違って、冗談を言ったり笑ったり、なにかと楽しそうだ。クールでポーカーフェイスな先輩は見る影もなく……なんていうか、はしゃいでるのかもしれない。

  らしくない久郷田先輩はともかく、また俺は先導されるままに、デパートの中をのんびり見回りながら本屋へ歩くことになった。

  一階から二階へ続くエスカレーターに乗り込むと、デパートの全貌がさっきよりよく見えるようになった。足元がゆっくりと動くおかげで観察する時間は十分にある。

  一階は主にフードコートというか、飲食店や土産物が多く売られている印象だったのに対し、二階は雑貨や本屋、電気屋など、物を売っている店が数多く立ち並んでいた。それより上に行けば服屋や靴屋もあるんだろうし、五階にはキッズコーナーがあると看板には書いてあった。

  本当に巨大な建物で、あちこち見てて飽きない。全体的に解放感のある造りになっているから、人混みもあまり気にならなかった。少なくとも、もう酔うことはないだろう。

  「なんか欲しい本あんのか?」

  「はい、小説なんですけど…………」

  「まぁお前休みの日暇そうだしな。部活かなんか入っとかねぇと、やること無くなるぞ」

  「部活は…………もう入りました」

  俺がそう答えると久郷田先輩は意外そうな顔をしてこっちを振り返った。

  「早いな。どこだ?」

  「…………演劇部です」

  そしてそのまま一瞬考え込むように俯いて、またすぐにこっちを向いた。

  「………あやめの差し金か」

  「えっと…………はい」

  「お人好しだなお前。演劇部なんて八割雑用だぞ」

  いやおそらく本当にそうなんだろう。でも俺は役者として舞台に立つより、精々力仕事を手伝えたらというつもりで入部したから…………どちらかというとボランティアに近いかもしれない。俺が都会での高校生活に思い描いていたのとは、だいぶ違う形だけど。

  「………ボランティアみたいな感じです」

  「ならお前がシンデレラのドレス着て歌うのを楽しみにしてるぞ」

  「………………………………………………」

  やっぱり今日の久郷田先輩はいつもより冗談が多い。上機嫌なのか、俺に気を遣っているのか。でも俺は普段の久郷田先輩をあまり知らない。もしかするとこっちが本性だったりするんだろうか。

  広大で複雑なデパートだけど、先輩の後ろをついて歩けばあっという間に書店に到着した。店というよりは一画に広く展開して本棚が並べられているような印象で、フリーマーケットに近いものを感じる。手前にはオススメの最新刊や雑誌なんかが置かれていて、文庫本は奥の方らしい。

  久郷田先輩は早速スポーツ誌を手に取ると、いくつか立ち読みをし始めた。表紙に篠崎に似た狼獣人がサッカーボールを蹴飛ばす瞬間の写真が載っていて、なんとなく目を逸らした。

  あまり人のいない店内を、物色しながら奥へと進む。当然俺がいた島のどんな施設よりも、大量の本が置いてある。学校の図書室の………十倍はあるだろうか。そういえば稲光学園の図書室には行ったことがない。そもそもあるのかすら知らないけど、今度こーすけに連れていってもらおうか。

  「…………………………あ………………」

  思わず声が出た。たまたま見かけたポスターに、見覚えのある名前が写っていたから。

  空色のバックにコートを着て、桜の木の下でポーズを取っている雌の狐獣人。何かの本のイメージモデルになってるんだろう、整った顔立ちでこちらに微笑みかけてきている。ポスターの右下には白い字で小さく、上柴香織と書いてある。この人はあまりテレビを見ない俺でも知ってるくらい、有名な女優さんだ。渡り狼にも出てたし。

  上柴といえば、寮の後輩にもいるけど………たまたま一緒なだけだろうか。顔の作りとか、どことなく面影はある気がするけれど。

  今度聞いてみようと思いつつ、そのままポスターから視線を外した先に、ちょうど俺が買おうと思っていた本を見つけた。

  『兎とナツメグ』とデカデカと表紙に印字された少し下には、帯に映画化決定!と書いてある。秋沢が謂っていた通り、今話題の新作なんだろう。どの本よりも上に積んである。

  元々色恋沙汰には全く興味がなかった。というか、恋ができるような相手がいない環境だった、の方が正しいかもしれない。島の高校には同級生が二人しかいなかったし、その二人………幼なじみのカイと雌チーターのさゆりちゃんは、中三の頃に恋人になった。恋人といっても田舎の子供からしたら友達と大して変わらない。俺は自分が経験することも、傍観することもしないまま高校二年生になってしまった。

  それなのに都会に来たとたんに、転校一週間で二人の雄から告白された。この学園に来てから好意的な視線はよく感じるようになったし、初めて自分がやたらと雄にモテることがわかった。挙げ句この間はキスもされて……知らなかったことを急激に覚えさせられて変な気分だ。

  『兎とナツメグ』は三角関係を描いた恋愛小説らしい。今の俺が置かれている状況も、それに近しいものだ。三角関係の結末は、どうなるのが正解なんだろうか。

  買って読んでみようと思い、本を手に取ったその時だった。

  「ねぇねぇ、お母さん知らない?」

  高い声が隣から聞こえてピクリと耳が反応する。すぐに声の主の方を向くと、自分の足元から声がしたことに気づく。

  俺に話しかけていたのは、子供の虎獣人だった。Tシャツと短パンに青色の帽子を被っていて、かなり幼く見えるけど、体はそこそこデカい。いくつなんだろうか…………っていうかそれよりも、

  「知…………らないけど。迷子か?」

  「あんね!えっと、お母さん虎なんだけどね!白い服着てる!!」

  「……………………そ、そうか…………えっと………………」

  迷子だというのに何が楽しいのか、俺のことをニコニコと笑いながら見上げている男の子。とりあえず俺一人じゃどうしたらいいかも分からなくて、周りを見渡して久郷田先輩を探す。

  「ずかん見てたらいなくなっちゃったの。恐竜のずかん!!」

  「………………恐竜が好きなのか?」

  「うん!!かっこいいし、強いし…………かっこいいから!!!」

  「…………………………………………」

  かっこいいと二回言っていることについては置いといて、この年で恐竜が好きな子供なんて珍しいように思えた。遥か昔に絶滅したとされる獣人の先祖について学ぶことは、立派な学問の一つだ。恐竜図鑑なんて子供向きの場所には無いだろうから、迷子になったのもなんとなく頷けるけど。

  すると、

  「おい、目当ての本は見つかったか………………なんだそのガキ」

  本棚の陰から雑誌を数冊持った久郷田先輩が顔を出しかと思えば、俺の膝に抱きつきそうなくらい近い距離にいる子供を見て眉をしかめた。

  ちょうど良かった、久郷田先輩になんとかしてもらおう。

  「迷子らしいんです。お母さんとはぐれたみたいで………………」

  「…………見事なまでに厄介事を持ってきたなお前は…………ったく…………」

  呆れた口調で首をふりながら、久郷田先輩はこっちに歩み寄ってきて、子供と目線を合わせるようにしゃがみこんだ。

  「おい坊主。名前は?」

  「はると!!!ろくさい!!!」

  「俺の顔見てもビビんねぇなんて肝が据わってんな。ママはどこいった?」

  「うーーーーんわかんない。どっかいっちゃった!」

  「そうか。じゃあ探しに行くぞ」

  そう言って久郷田先輩はめんどくさそうに立ち上がる。口調はぶっきらぼうだったけど、子供が嫌というわけではなさそうだ。むしろ慣れてるようにも見える。

  はるとは嬉しそうに久郷田先輩の周りをぴょんぴょん飛び回ると、先輩のふわふわの尻尾を見て目を輝かせた。

  「しっぽ大きい!!恐竜みたーい!!!」

  「ならはぐれねぇように尻尾掴んでろ」

  「はーい!!」

  確かに猫科の尻尾は基本的に細くて毛量も少ないから、虎獣人のはるとから見れば珍しく見えるかもしれない。ハスキーの先輩の尻尾は腕よりも太いし。

  はるとに尻尾の先を摘ままれながら、久郷田先輩はゆっくりとした歩調で本屋から出ていった。俺もさっさと本の会計だけ済ませて、慌てて後を追いかける。

  「はると、恐竜が好きなのか?」

  「うん!!恐竜カッコいいッ!!!」

  「ふーん。一番好きな恐竜は?」

  「えっと、ティラノサウルス!!!とプテラノドンと、トリケラトプスと…………」

  「おい、一番はひとつだけだぞ」

  「えーーーじゃあティラノ!!!めっちゃ強いんだよ!!!」

  はるとと久郷田先輩を後ろから見ていると、年の離れた兄弟のように見えた。まぁ種族が違うことは置いておいて。

  二人があてもなく適当そうに歩いてるのを見て、背中に声をかける。

  「…………先輩、どうするんですか?母親を探そうにも、俺らは顔も知りませんし…………」

  「こういうデカいデパートには迷子センターがあんだよ。少しブラついてからそこに連れてく」

  振り向きもせずに答える久郷田先輩からは、俺が感じている膨大な不安は微塵も感じられない。俺自身迷子に出会ったのなんか初めてだし、そもそも小さな子供と喋るのも久しぶりだった。島にはあまり幼い子供は居なかったし。

  そして少し意外に思ったのは、久郷田先輩は子供の扱いに慣れている、ということだった。はるとはさっきから陽気に色んなことを語りかけているけど、先輩はうまいこと適当に受け答えしながらあしらっていた。怖いんだか優しいんだか、やっぱりよく分からない先輩だ。

  「お兄ちゃん名前は?」

  「……あー、圭吾だ」

  「けーごお兄ちゃん!!なんでそんなに背が高いの?」

  「野菜をいっぱい食べたからだ」

  「俺も野菜好き!何が一番すき?」

  「…………レタスとキャベツだな」

  「一番はひとつだよ!!!」

  「生意気だな、小僧」

  尻尾を掴んで歩いていた二人が、気づいたら手を繋いで歩いていた。はるとは久郷田先輩のおかげか終始ニコニコと笑っていて、俺としてはホッとした。子供はいつ泣き出すか分からないし、あやすのも大変だ。

  のんびり歩きながら喋っていた二人の後ろをついていると、不意にはるとがこっちを振り返った。先輩の手を離して俺の足元に駆け寄ってくる。

  「お兄ちゃんは、けーごお兄ちゃんのともだち?」

  「え?あぁ…………友達っていうか、」

  「恋人だ。いつか結婚する」

  久郷田先輩が俺の言葉を遮って口を挟んできた。いつもの冗談にしても、はるとに言うのはどうかと思うけど。軽く睨み付ける俺の視線をはねのけるかのように不敵に笑っている。

  「え!?雄と雄なのに?」

  案の定はるとは目を真ん丸にして驚いている。

  「そうだよ。あんまり珍しくないぞ」

  「ふーん変なの…………」

  なんだか腑に落ちない様子のはるとに、久郷田先輩は一言つけ加える。

  「お前が大人になる頃には、変じゃなかったらいいな」

  「…………………………………………」

  思わず俺も黙ってしまった。ゲイの先輩とこういう話をするのは、なんだか気まずい。

  今はまだ、同性愛に抵抗のある人がポツポツと存在しているけど、それも世代が変わるごとにどんどん減少して、いつか当然のものとして受け入れられるようになるだろう。一方で俺のように、異性愛が当たり前だと育てられた子供は、差別主義者としてバッシングを受ける世の中になりつつある。こういう価値観が大きく違う人との関わりは、より一層デリケートにならなきゃいけないはずなのに、俺は久郷田先輩と休日にこんなところで何をしているんだろう。

  …………デートみたいじゃないか、ほんとに。

  横の久郷田先輩を見やると、はるとの頭をポンポン叩いていた。

  「おいはると、腹空いてるか?」

  「うーーーーんあんまり…………」

  「そーかじゃあアイスはいらねぇな」

  「っ、!!!いる!!!!!」

  はるとに引っ張られるようにして、俺たちは一階のフードコートへ向かった。

  二人がアイスを買いに行っている間、付近のベンチに座っていると、周りを歩いている人達の様子が目についた。

  半分くらいは家族連れで、老人や中学生の団体、若いカップルなど、デパートには色んな年齢層の客が来ていることが伺えた。デパートが広いせいか人口密度は低く、人が多くても圧迫感は感じない。

  共通して都会の人を見て思うのは、歩くのが早いなということ。何かに追われているかのようにせかせか目的地に向かっていて、じっと座っている俺が場違いのように思えるほどだ。きっと本人たちは無意識なんだろうけど。

  また洋服も色んな種類が見受けられて、みんなオシャレなんだなと感心する。少なくとも黒色の無地のTシャツは一人も見つからなかった。

  アイス屋の前で列に並んでいる久郷田先輩とはるとを傍観すると、少し不自然なことに気がつく。

  はるとの尻尾は先端だけふさふさしていて、所謂獅子獣人の尻尾に似ているということだ。子供とはいえ虎の縞模様の尻尾は特徴的で、少なくとも獅子とは見た目もかなり違う。顔に斑点があるから勝手に虎獣人の子供だと思っていたけど………獅子だったんだろうか。

  コーンアイスを持ったはるとがニコニしながら帰ってくるまで、俺はその尻尾をじっと見つめていた。

  「けーごお兄ちゃんありがと!!!」

  「礼が言えるなんて最近のガキにしちゃ偉いじゃねぇか」

  久郷田先輩とはるとは俺を挟むようにベンチに座り込んだ。微笑みながらチョコレートアイスを美味しそうにペロペロ舐めている様子に、年相応の可愛らしさを覚える。

  「…………口の周りすごい付いてるぞ」

  俺がポケットからティッシュを出してはるとの口に近づけると、自分から顎を突っ込んで拭き出した。手に触れるマズルの感触は、どちらかといえば獅子獣人に近い気がする。

  拭き終わって綺麗になると、はるとは口の周りをペロリと舐めてまたニッコリ笑った。

  「お兄ちゃんありがと。お母さんみたい!」

  「………………そうだ、母親探さないと……先輩アイス食べてる場合じゃないですよ」

  さっき久郷田先輩は迷子センターに連れていくから大丈夫と言っていたけど、きっとはるとの母親は息子とはぐれて不安になっているはずだ。今頃必死に探し回っているだろう。

  しかし久郷田先輩は呑気にあくびをしている。

  「…………あーー…………そうだな」

  「………………………………………………」

  何でそんなに余裕があるんだろうか。知らない迷子の子供を連れて歩いてるっていうのに。

  「…………はると、お母さんは何獣人だ?」

  不意に久郷田先輩は俺越しにはるとを覗き込んだ。はるとはコーンをかじっている。

  「ん?虎だよ!!!」

  「…………じゃあお父さんは?」

  「おおかみ!!お兄ちゃんと一緒!!!」

  元気よく言い放つはるとの言葉に、久郷田先輩は顔をしかめた。そして驚くべきことを質問する。

  「…………本当のお父さんは?」

  「えっ…………先輩?」

  本当の、とはどういう意味だ?まるで今の父親が偽者だと分かっているかのような言い種だ。

  するとはるとは、アイスを食べるのを止めてパタリと耳を寝かせる。

  「…………わかんない。俺こじだもん」

  「……………………そうか。ごめんな」

  先輩は腕を伸ばしてはるとの頭を撫でた。大人しく座っているけど表情はそんなに暗くなっていない。

  ………というかそれよりもこの歳で自分が孤児であったことを自覚してるなんて、不幸だなと思った。

  現代じゃ異種族交配は認められていないから、養子なんてそこら中にいるし珍しくもない。ただ孤児となると話は別で、親に何かしら事情があって捨てられた、という明確な事実がある。例えば俺のような、法を犯して捕まった、とか。

  捨てられたことを認識してるってことは、今の親になる前の記憶があるってことだ。それでもニコニコしているはるとに、少し同情を覚えた。

  「ねぇけーごお兄ちゃんとお兄ちゃん、結婚するんでしょ?」

  「あぁそうだよ。いつかな」

  「じゃあ子供は、ぜったいこじにしちゃダメだよ!」

  「あぁわかってる。絶対しねぇよ」

  「…………………………………………………………」

  勝手に俺が久郷田先輩と結婚することになってるけど、きっと一生ないだろう。ていうか男同士じゃ子供はできない…………ことを六歳児に説明しても仕方ないか。

  「だってね、あのね、こじいんってつまんないんだもん。先生はいっつも怒ってるし………」

  「孤児院にいたのか。じゃあ今の親に会えて良かったな」

  「うん!おかあさんね、甘い匂いがするんだよ!でね、おやついっぱい作ってくれる!」

  「…………じゃあさっさと探さねぇとな」

  久郷田先輩はようやく重い腰を持ち上げて、その場に立ち上がった。はるとはその様子を見て急いでアイスを平らげて、また俺がティッシュで拭く羽目になったけど。

  するとその時、

  「はるとっ!!??あぁはると!!!やっと見つけた……………」

  近くで驚いた女性の声が聞こえて、見ると雌の虎獣人がこっちに駆け寄ってきていた。毛並みや服も乱れていて、相当焦って探したに違いない。なんだか悪いことをした気分になる。

  「あっ!おかぁさん!!けーごお兄ちゃん、おかあさんいたよ!!」

  「あぁありがとうございます!!!面倒みててくださったんですか!?」

  がっしりと抱擁する母子を気まずく眺める久郷田先輩と俺は、その質問に少しどもりながらはいと答えた。実際面倒みたというより勝手にアイス食べさせただけなんだけど。早く迷子センターに行くべきだったと言えばその通りだ。

  はるとは母親の周りをぴょんぴょん跳び跳ねながら、また幸せそうなニコニコ笑顔になった。それを手で軽くいなしながらもホッとした表情を浮かべる姿は、紛れもなく母親だ。

  「あのね!!おかあさん!!けーごお兄ちゃんがアイス買ってくれた!!」

  「まぁ!ちゃんとありがとうございますって言ったの?」

  「言った!!言ったよ!!!」

  「本当にありがとうございます……!!!」

  「あーいえ、俺らが勝手にしたことですから……」

  勝手にしたのは久郷田先輩であって俺じゃないんだけど。なんだか連帯責任にされたのが引っ掛かった。

  「ねぇねぇおかあさん!!恐竜のずかんほしい!!」

  「んーじゃあ二度と迷子にならないって約束できる?」

  「できる!!!できるできる!!!!」

  「分かったわ。買いに行きましょう」

  「やった!!!けーごお兄ちゃんいこ!!!!」

  はるとは久郷田先輩の手をぐいぐいと引っ張って、二階へ続くエスカレーターに歩き始めた。その後ろを俺と母親と付いていく形になる。

  はるとの母親はさすが虎獣人というか、俺よりも背が高くて少し威圧感がある。ただ同時に柔和な微笑みとはるとの言っていた菓子の甘い匂いがして、俺が想像していた母親のイメージ通りだった。

  「すみません本当にご迷惑おかけして…………」

  「…………いえ、俺らも暇でしたから……あの…………楽しい……ですよ」

  人見知りをしているわけじゃないんだけど、どうも母親というのは不慣れだ。俺には自分の母親がいないし、いわゆる優しいお母さん、って人には出会ったことがない。加えてあまりにもはるとの母親が、想像上の母親の姿だったかもしれない。

  「そう言っていただけて何よりです。一人っ子なもので、お兄さん方に甘えたい年頃なんでしょうね……」

  「…………そうですね。ずっと楽しそうでしたし」

  はるとは久郷田先輩の揺れる尻尾を掴んで遊んでいた。まるで子猫みたいだ。

  横目でチラリと母親を見ると、我が子を愛おしそうに眺めているところだった。少し気が引けたけど、ちゃんと聞くべきかもしれない。

  「…………あの、はると……くんって、何獣人ですか?」

  俺がそう聞くと、母親は驚いたように目を見開いたあと、また微笑んだ。

  「……………気づかれましたか?」

  「ぁ…………いや、あの…………最初は虎かなって思ったんですけど、尻尾は獅子っぽいなって…………」

  「そうです。あの子はライガーです……」

  「………………ライガー?」

  聞き慣れない言葉に疑問符をつけると、母親は神妙な面持ちで答えてくれた。

  「獅子と虎のハーフです。遺伝子的な親は、二人とも捕まったらしくて………孤児院に預けられていたところを私達が引き取りました。本人も自覚してるみたいなんですが…………」

  「…………………………………………………………」

  はるとはきっと全部分かっている。自分が捨てられたことも、ハーフだってことも。それでもあれだけ明るくいられるんだから、きっと強い子供なんだろう。

  …………俺はどうだっただろうか。中学に上がるとき、じぃちゃんから真実を聞いたけど………やりきれなくてしばらくぐちぐちと悩んだ覚えがある。俺にはじぃちゃんがいたから良かったけど、俺も孤児院に入れられていた可能性があったってことだ。ハーフって、生まれただけで親無しが決まってしまうんだから、難儀なものだ。

  「………………たまに思うんです。私達ははるとを十分に幸せに出来ているのか、って。もしかしたら本当の親御さんに会いたがってたり………………」

  「…………大丈夫だと思います。さっきお母さんのことが大好きだって、言ってましたから」

  俺がそう伝えると母親は、顔を分かりやすく明るくして笑顔になった。それだけで、はるとが大切なんだという気持ちが伝わってくる。

  「………………そう…………でしたら、良かった…………」

  「…………………………………………………………」

  それからは特に一言も喋らずに、前を歩くはるとと久郷田先輩を見つめながら本屋まで向かった。

  無事恐竜の図鑑を手に入れて飛び跳ねて喜ぶはるとを落ち着かせながら、母親は何度も何度も久郷田先輩にお礼を言っていて、先輩も少し困った様子だった。

  そこで二人とは別れて、俺と先輩はまたフードコートのベンチに座り込んだ。特に何も買ってはいないし、休憩するほど歩いてもいないんだけど、なんとなく一息つきたくて。

  ぼーっと遠くを見つめる先輩に話しかけてみる。

  「……………先輩。はると…………ライガーだったらしいですよ」

  「あぁ。知ってる」

  意外と淡白な返事が返ってきて、少し驚いた。いつぐらいから気づいていたんだろうか。

  「知ってたんですか?」

  「前にライガーの子供の写真を見たことがあったからな。顔に斑点があって、普通のガキよりデカい。尻尾も特徴的だ」

  「……………………………………………………」

  最初から知ってたのか。ならわざわざはると本人に孤児の話とか聞くべきじゃなかったと思うけど。

  先輩は涼しい顔をしている。

  「お前もハーフなんだろ?見た目じゃわかんねぇけど………同情するとこもあっただろ」

  「同情…………っていうか、シンプルに……かわいそうだなって思いました。俺にはじぃちゃんがいたけど、はるとは孤児院に入れられちゃいましたし…………」

  「……まぁ確かに可哀想だが、良い親に出会えたんだからいいじゃねぇか」

  ……ただそんなの結果論だ。ハーフとして生まれた以上、必ず親無しになってしまうし、幼少から複雑な家庭環境で育たなきゃいけないことになる。それはもちろん、法律を守らなかった親が悪いんだけど……。

  …………なんだろう、このモヤモヤは。

  「………………久郷田先輩…………ハーフって………生まれちゃダメな存在なんですかね」

  聞いてからすぐに後悔した。こんなこと聞いても仕方ないし、久郷田先輩に気を遣わせるだけだ。面倒な奴と思われて、嫌われるかもしれない。

  出した言葉を引っ込めたい。そう思ったそのとき、久郷田先輩の大きな掌が俺の頭を撫でていた。

  「生まれちゃダメな存在なんているわけねぇだろ。少なくとも俺は、お前が生まれたおかげで楽しい休日が過ごせてるぞ」

  「…………………………………………」

  先輩がそう言って微笑んだときの顔が、不覚にもカッコいいと思ってしまったことを、俺は恥じるべきなんだろうか。いつも変態臭くて身勝手なのに、優しくて誠実な一面なんか見せないでほしい。

  …………なんだか少し、変な意識をしてしまうから。

  「…………先輩って、子供の扱い上手いんですね」

  「あぁ、いとこにあんくらいの歳のがいたんだよ」

  その後本も買ってしまいいよいよやることがなくなった俺と久郷田先輩は、昼過ぎまでデパート内を散歩していた。一階から五階まで、一筆書をするように少し店を覗いては、何も買わずに次の店へ行く。店員さんからしたら迷惑だったかもしれないが、都会の店がどんなものか勉強にはなった。やたらとオシャレでごちゃごちゃしている。

  何件も店を覗いていくうちに、久郷田先輩の趣味の傾向がなんとなくわかってきた。前にあやめ先輩や三下先輩が言っていたように、洋服にはほとんど関心がないようで、滞在する時間も極端に短かった。反対に、スポーツ用品店にはかなり長居して、結構な値段のするとあるサッカー選手の限定モデルのシューズを買おうか本気で悩んでいた。結局お財布が厳しかったようで諦めたんだけど。

  あとは先輩は基本的にシンプルなデザインや色のものが好きらしく、これいいな、と勧めてきたのは全部黒とか灰色とか白だった。その点俺と趣味が合う方なのかもしれない。

  少しして、先輩の方から腹が減ったと言ってきて、一階のフードコートに再び行くことになった。

  「…………何が食いたい?」

  一度辺りをぐるりと見渡してから、久郷田先輩は俺を見る。何が食いたいって……………周りに店がありすぎて選べない。アイス屋やたこ焼き屋、クレープ屋みたいな小さな出店もあれば、蕎麦屋や寿司屋、焼肉屋なんかも奥の方にあって、まさに選り取りみどりって感じだ。都会の人は毎回この量の選択肢から飯を選んでるのか………俺には到底決めきれない。

  「多すぎて…………決められないです」

  俺が正直にそう告げると、久郷田先輩はニヤリと笑った。

  「だろうな。じゃあ食ったことないもんはどれだ?」

  「…………………………………………………………」

  この中で言うなら、クレープ…………と、

  「…………ハンバーガー…………ですかね」

  「普通はこういうのは後輩が買ってくるもんだが、お前には訳が分からんだろうから買ってきてやるよ」

  そう言って席を立った久郷田先輩の後ろ姿を見つめていたけど、人混みに紛れて分からなくなってしまった。今いわゆるファーストフード店に来てみたんだけど、なんだか落ち着かなかった。結構な人で賑わっていてうるさいのもそうなんだけど、テーブルとか椅子とか、まるで日本じゃないような感じだ。俺がいた島には当然こんな店はなかったし、あってもじぃちゃんが連れてかなかっただろうな。例えば赤と黄色のネオンの装飾がなかったとしても、それは揺るぎない。

  そもそも店だというのにメニューがないのが、俺を不安にさせる。いくら田舎者の俺とはいえハンバーガーが何かは知ってるし味の想像もつく。でもこんな風変わりな場所では、どんな異様な食べ物が出てきてもおかしくないように思えて、とにかく早く先輩が帰ってこないかな、と考えていた。

  しばらくして、トレイに色々食べ物を積んで久郷田先輩が戻ってきた。結構山盛りに持ってきたようだけど、食べきれるんだろうか。紙の包みからは良い匂いがしていて、食欲をそそられた。

  「こっから半分はお前のだ。がっつくなよ」

  「…………これなんですか?」

  「フライドポテトだ。見たことくらいあんだろ」

  いや、テレビとかで見たことはあるけど………食べるのは初めてだ。匂いは美味しそうだ。

  ためしに一本つまんで引き抜いてみる。揚げたてだからか熱々で、長く持っていられない。

  そのままの勢いで、口の中にまるごと放り込んでみた。本当はちょっとずつ齧るものなのかもしれないけれど。

  「……っ、熱ッ……………………」

  「………………うめぇだろ?」

  口の中で噛み潰した瞬間に、柔らかい感触と適度な塩味が広がって、ただただ脳に美味しいという情報を伝えた。二回目、三回目と噛んでいくほどそれが増えていき、伝えようもない幸福感が俺を包んだ。

  目の前でにやにやと笑う久郷田先輩の顔をちらりと見る。これは確かに、うまい。

  俺が一本食べ終えて、すぐに次の一本に手を伸ばしたのをみて、先輩は小さく笑って自分も食べ始めた。

  「今時フライドポテトを食ったことがない奴がいるなんてな」

  「……俺の島にはこういう店がなかったので………あってもじぃちゃんが行かせなかったと思います」

  「一度食ったらやみつきになんだろ?ジャンクフードってのはそういう風に作られてんだよ」

  全く先輩の言うとおりで、気づけばポテトを口に運ぶ手が止まらなくなっていた。もう半分くらい減ってしまっていて、残念に思う俺がいる。

  それでも手は止まらなくて、なるほどそりゃこれだけ混むわけだと納得がいった。

  すると、

  「………ここはベジタリアン用のメニューもあるらしいぞ」

  「…………………都会じゃ珍しいんですか?」

  「基本的にはな。少なくともファーストフード店にあんのは珍しい」

  先輩の唐突な発言に、思わずポテトを食べる手が止まった。

  俺の驚いた様子を見て、先輩も申し訳なさそうに頭をかく。

  「いや、離島じゃそういう文化がポツポツ残ってるって聞いたことあったからな。お前の周りにはいなかったのか?」

  「……………いませんでした」

  ベジタリアンというのは菜食主義者のことで、肉や魚を食べないという主義を掲げている人達のことだ。ただこの主義が生まれたのははるか昔で、今ではなかなか珍しい人種ではある。

  そもそも俺たちが普段食べている肉の原料は豆や麦などの植物で、菜食主義という言葉自体もおかしなものだ。ベジタリアンたちは何百年も前に行われていた食獣人肉文化を気にして、肉と名のつくものを片っ端から否定しているのだ。はるか昔には、今でいう狼獣人や獅子獣人とその近縁種たちが羊獣人などを食べていたという史実があるらしいが、現代じゃそんな文化どこの国にもないし、ただの殺人だ。科学的にも獣人同士で肉を食べると病気になるって証明されているらしいし。

  ベジタリアンという人達は、世間では基本的に疎まれがちな存在だ。被害妄想の強い変人、といった扱いを受けることが多い。そしてそのベジタリアンの中心にいるのが羊獣人や山羊獣人、豚獣人たち。また彼らへの他種族からの差別が、社会問題になったりもしている。

  そういうデリケートな話が、先輩の口から出てきたことが意外だった。あまり気にしないタイプだと思っていたんだけど。

  「…………ベジタリアンってどう思います?」

  「どうって……………人に迷惑かけねぇんなら好きなもん食えばいいと思うけどな」

  「…………でも、強要してくる人もいるんですよね」

  「つーかベジタリアンのほとんどは偏屈な頑固者だからな。特に俺らみたいな犬科の獣人を敵視してるし、仲良くはなれねぇだろうな」

  ベジタリアンに悪いイメージがついている原因として、度々世間を騒がせていることがあげられる。立て籠り事件やテロまがいの行為、デモ活動等が定期的にニュースで報道され、めんどくさい人々、というレッテルが貼られてしまっているのだ。まぁ事実めんどくさいのは確かなんだけど。

  でも俺は今までベジタリアンに出会ったことがないし、直接意見や考えを聞いたこともない。実際に出会ったこともない人に勝手に悪いイメージを持ってしまっているのは、きっとニュースのせいだろう。せっかく都会に来たんだから、田舎では味わえない色々な経験をしてみるべきだ。

  これもその一つだ。指先につまんだポテトを眺める。

  正直めちゃくちゃ美味しい。ちょっと悔しいくらい。

  「…………なんでも経験してみるもんですね」

  「あ?…………まぁそうだな」

  「これいくらなんですか?」

  「Mサイズで270円だ。買って帰るか?」

  「あぁいや…………でもまた食べたいです」

  気づけばポテトは全て無くなっていた。少し残念に思った自分がいる。これだったらいくらでも食べてしまいそうだ。

  すると久郷田先輩はふと考え込むような表情を一瞬見せてから、俺のことをじっと見つめる。

  「…………今までしたことない経験してみてぇだろ?」

  「……………………?………………まぁ、はい………………」

  俺がゆっくり頷くと、久郷田先輩は表情をニヤリと厭らしい笑みに移ろわせた。なんだか悪巧みしていそうなその顔に嫌な予感は何となくしていたけど、でもそのとき俺は久郷田先輩のことをある程度信用しきっていた。優しくて頼りがいのある、子供とも仲の良い先輩。時折自分勝手だけど、それも甘えているんだと思えば許せた。

  ただそれも、このあと向かった場所に着くまでだったけれど。

  [newpage]

  ファーストフード店を後にして、久郷田先輩は俺に目的地を伝えないまま都会のよく分からない道を連れ歩いた。駅前は人や店も多く、いわゆる都会という印象だったけれど、久郷田先輩が歩く道はどんどん人通りの少ないビル群に近づき、暗い路地や狭い道を通っていっているように思えた。途中で不安に思った俺は、何度もそれとなく先輩に目的地を尋ねたけど、先輩は休憩場所、とだけしか教えてくれなくて、それが余計に不信感を煽る。

  久郷田先輩の歩調に迷いはなく、まるで見知った道かのように歩いていた。何度もきたことがあるのだろうか。

  次第に俺も口数が少なくなっていて、ただ黙々と先輩に着いていくだけだった。正直周囲の風景が怪しく見えてきたし、駅前に戻りたいところだったけれど、ここで久郷田先輩とはぐれたら絶対に一人じゃ帰れないだろう。俺は携帯も持ってないし、近くに交番も見当たらないし。

  そして駅から二十分ほど歩いたところで、久郷田先輩はひとつの建物に迷いもなく入っていった。なんだか高いビルのようだけど、ピンクのネオンがどこか怪しくて、尻尾の毛が逆立つのを感じる。

  少し遅れて中に入ると、先の方で久郷田先輩が誰かと話しているのが見えた。相手の顔はしきりで見えないようになっていて、手でしかわからない。何かの店だとしたら、店員が顔を見せないってどういうことなんだろうか。

  また少しして、久郷田先輩に手招きされてどんどん建物の奥へ入っていく。エレベーターに乗って五階まで上がると、指先でどこかの部屋の鍵をくるくると回す先輩が上機嫌に見えて。そのまま505と書かれた部屋に入れば、やや薄暗い照明にやたらと豪華な家具。そして真ん中にあるとても大きなベッドが目に入った。

  …………いや、ここってやっぱりもしかして、

  「久郷田先輩…………ここホテルですよね?」

  自分では泊まったことはないけれど、テレビで見たり聞いたりした話の印象で、ここが宿泊施設であることは分かった。

  久郷田先輩は一通り部屋を見渡しながら、エアコンのスイッチを入れた。

  「あぁ。先シャワー浴びるか?」

  「っ、ぃ、いや………………え?ここに泊まるんですか?寮に帰らないと…………まずいですよ?」

  先ほどから感じていた不安をようやく口に出せた。寮即では外泊は厳禁、無断外泊なんてもっての他だ。そんなの久郷田先輩が一番よく分かってるはずなのに、何を考えているのか全く分からない。

  久郷田先輩は上着を一枚脱いでベッドの上に放り投げた。

  「…………泊まらねぇよ。まさかここまで来といて断るんじゃねぇだろうな?」

  「断る……?って何のことです…………ッ、」

  先輩は俺に近づいてきて手首を掴んだかと思うと、とても強い力でベッドに引っ張ってきた。抵抗もできずそのままスムーズに押し倒されると、柔らかなベッドの感触と、久郷田先輩の硬い胸板に挟まれることになった。俺の尻尾は緊張でピンと張っている。

  「…………こうしてみるとやっぱお前…………そそるな」

  「……………………っ、……………………?」

  舌なめずりをしながら俺のことを見下ろす久郷田先輩は、なんだか満足げだった。固く閉じた俺の足の間に先輩の膝が割り込んで、無理やり脚をこじ開けさせられる。

  そして俺の両手首をベッドに縫い付けると、久郷田先輩は俺の首元へマズルを突っ込んできた。

  「……………………ッ…………………………………………、」

  思わず体がピクリと跳ねた。先輩が俺の首にかぶりついてきたからだ。痛みなんて全くなかったけれど、まるで俺の生死を握ってるかのように、脅されている気がした。

  そのままゆっくりと唾液を含んだ舌で首を撫でられる。少しザリっとした感覚に体が強ばった。

  何往復かめで一度先輩は口を離す。ゾクゾクとした変な気分と、背筋に走る嫌悪感。心臓は早鐘を打っていて、何故だか声すら出せなくなってしまった。

  「…………いい顔だな。堕ちんのが楽しみだ……」

  「っ、…………あの…………ッやめて…………ください…」

  先輩の手が俺のシャツに滑り込んできた。優しい手つきで胸を数回撫で回したかと思えば、指先でピンと乳頭を弾いて見せる。その瞬間むず痒い感覚が全身に駆け回って、また身体がビクンと反応した。

  俺の制止の言葉を無視して、久郷田先輩は顔を近づけてきた。キスされると思った俺はすぐに顔を背けたけれど、先輩はまた首に噛みついて、しつこく舌を這わせてきた。その間も胸の愛撫は続いていて、俺が体を押し退けようとしても体重をかけて覆い被さってくる。もはや俺だけの力じゃ退かしようもなかった。

  「…………、っぁ…………………………や、めて…………くだ…………さい…………!」

  「………………………………………………………………」

  先輩は首をなめ回すそのままの勢いで、力が抜けている俺の口を侵食した。閉じようとしていた顎を無理やり開かれて、口内に割り込んでくる肉厚な舌。俺が首を振って避けようとすればするほど、俺を押さえつける力が強くなっていく。

  それでもなんとか抵抗しようと、膝で久郷田先輩の脇腹を蹴飛ばす。しかしどれだけ力を込めて蹴ってみても、硬い腹筋はビクともしないようだ。未だに深いキスをされ続けている俺の頭を、段々と恐怖心が占めていった。

  「……………暴れんじゃねぇよ。優しくできねぇだろうが」

  「っ、…………離して…………ッ、ください……!!」

  「あ"ぁ?」

  すると久郷田先輩は俺の股間を膝でグリグリと押してきた。急所への刺激に体の力が抜けて、一瞬抵抗できなくなった。その隙に先輩は一気に俺のシャツを捲りあげると、胸元へ湿った鼻先を突っ込んできた。

  そしてそのとき生暖かい感触が乳首を包み込んだ。先輩が熱い舌でベロリと舐めてきたのだ。その感触に連動するかのように、頭に走ったのは初めての感覚。背筋を強くゾクリと震わせ、口から零れ出た甘い吐息。

  先輩は俺の様子を見てニヤリと悪人面で笑うと、今度はかぶりつくように舌全体を胸に押し当てて、たっぷりと唾液を染み込ませるように舐め回してきたのだ。

  「……ッ、ぁ………………や、…め…………っ、ん…………」

  「…………乳首の感度がたけぇな。メスの才能あるぜ」

  輪をかくようになぞらえたかと思えば、ぐりっと押し潰すかのように犬科の長い舌で圧迫してくる。俺は性知識にはとことん疎いけれど、これは間違いなく襲われているのだとぼんやりする頭で思った。

  …………なんとか抜け出さないと。少しパニックになりかけていたところだった。こういう時こそ冷静にならなければ。

  まず力じゃ久郷田先輩に勝ちようがない。さっきの全力の抵抗も軽々ねじ伏せられてしまったから。急所に攻撃を入れたらどうだろうか。たださっきの脇腹への蹴りはほとんど効かなかった。目潰しでもしないと逃れられないだろう。

  「…………ッ、…………ん、…………っ、」

  「…………オラ、黙ってりゃ気持ちよくしてやっから」

  先輩の目はギラギラしている。さっきから気にしないようにはしていたが、俺の膝に当たっている鉄のように硬い物体は、間違いなくアレだろう。

  冗談じゃない。犯されてたまるか。

  ふとそのとき、頭に浮かんだのは昔じぃちゃんが言っていた言葉。押してだめなら引いてみろ。

  体の力をフッと抜いて、一度久郷田先輩にされるがままにしてみる。何も確信や考えがあったわけじゃない。単なる直感だった。

  久郷田先輩は興奮している。きっとそこまで頭が回らないだろう。

  俺の抵抗する力が弱くなったのを感じてか、久郷田先輩が手首を押さえつける力も自然と弱くなった。こっちが抵抗しないのなら、優しく扱うつもりというのは本当なのだろう。

  俺は雄にモテるんだろう?じゃあこうしたら………

  「…………っ、ぁ、……せ、んぱ…………ぃ………………ッ」

  「……………………あ?」

  甘えるような、鼻先から抜けた声で先輩を呼んでみる。顎を引いて、上目遣い、少し口を半開きにして舌をチラつかせる。

  久郷田先輩は愛撫をやめて俺を見下ろしている。まだ警戒しているのか、手首は掴んだままだ。

  …………もう少し、まだ辛抱だ。

  「…………エッチなこと………ッ……わかんないんで………」

  「………………っ……………………………………」

  先輩の喉仏がゴクリと唾を飲んだのが見えた。多分上手くいっている。恥ずかしさで顔が焼けそうだ。

  「………………やさしく………………教えてください……///」

  「………………ッ、あぁ…………………………」

  先輩の尻尾が空中でブンブン揺れているのが視界の端に写った。久郷田先輩が尻尾をこんなに振っているのは初めて見る。

  手首の力はだいぶ緩んできたが、まだ放してはくれない。あともう一言……とどめが必要だ。

  先輩は俺にキスしようと顔を近づけてきた。まずは先手に回ることだ。そのあとに一撃お見舞いしてやる。

  ゆっくりと近づく先輩の顔。今日何度も至近距離で見てきたこの顔に、今更羞恥心なんてない。肉を切らせて骨を断つ。多少の犠牲は必要だ。

  興奮で熱い吐息を吹きかける先輩のマズルに、俺は顔を持ち上げていち早くキスをした。触れるだけの、簡単なキス。それでも先輩を煽るのには十分だったようだ。

  「………………ッ、テメェ……………………っ」

  「………………クゥン………………///」

  犬科なら、この鳴き声の意味を知っているはずだ。子犬が母親に甘えるときの、可愛らしい鳴き声。まず高校生の、しかも雄からは聞くことのない声だ。

  先輩はそれを聞いた途端、俺の手首を掴んでいた手の力を完全に抜いた。

  その瞬間、俺は久郷田先輩の右腕に噛みついた。いくら力で差があっても、犬科がそこそこ強めに噛めば誰だって怯む。狼の顎は本気で噛めば骨を粉々にしてしまうくらいなんだから。

  先輩は痛みに顔をしかめて、反射的に右手を引っ込めた。そこで浮いた腹を思い切り蹴っ飛ばす。

  ドンッ、と鈍い音がして、先輩の体が押し退けられた。もう俺を押さえ付けるものは何もない。瞬時に立ち上がってベッドから離れる。

  目の前には怯んでいる久郷田先輩。周りを見渡すと、蛍光色の部屋にいくつかの家具と、外に出られる扉があった。

  逃げられる!と頭に浮かんだのと、久郷田先輩の腕から流れる血が目に入ったのは全く同時だった。

  俺は思わず立ち止まってしまう。

  「…………ッ、クソッ…………ぃってぇな………………」

  先輩は悪態をつきながらゆっくりと立ち上がった。右腕を押さえながら、俺の方へフラフラと近づいてくる。

  やり返されるだろうか?今すぐ走って逃げるべきか?でも久郷田先輩の怪我も心配だ。骨は折れてないだろうか?血は出過ぎていないだろうか?救急車を呼ぶべきか?どうやって?

  頭の中が一度に色んなことを考えようとして、結局何一つ考えがまとまらない。体も動かない。ただただ、時間だけが過ぎ去っていく。

  先輩の息遣いが聞こえる。流れる濃い血の臭いも。あれは俺がやったんだ。人に怪我を負わせてしまった。どうしたら、

  「…………………………ッッ、……………………………………」

  「………………悪かった。………………許してくれ」

  俺は先輩に抱き締められていた。さっきまであれほど逃れたいと思っていた人に、抱き締められて抵抗もしなかった。

  先輩は俺に血が付かないように、右腕を自分のシャツに擦り付けて、左腕だけで俺の背中を撫でている。その力はいつもの久郷田先輩からは考えられないくらい弱く、優しかった。

  「…………ッ………………すいませ……ん…………そんなつもりじゃ……………………」

  「あぁ……………………分かってる…………………………」

  「だっ、て………………おれ、……こわか…………ったから」

  「あぁ。悪かった………………俺のせいだ」

  「……………………ごめ……っ、ん……なさ……ぃ………………ごめんっ、な、ざ…………いッ……………………」

  俺は何故か泣いていた。人前で泣いたことなんて全くないのに。俺が泣く必要なんて、全くないはずなのに。

  次々に溢れる涙が、止まらなくなっていって。先輩の胸にすがり付くように顔を擦り付けて。子供のように泣いてしまった。

  それは初めて性的に襲われそうになって、怖かったからかもしれない。

  それは人を傷つけてしまったことへの罪悪感からかもしれない。

  何が理由なんて分からないけれど。どんどん濃くなっていく血の臭いに比例して、大粒の涙を溢してしまっていた。

  「………………本当に悪かった。だから泣き止め。な?」

  「ッ、…………は………ぃ………………すみませ…………ん……」

  「謝んなくていい…………全部俺が悪い。どうかしてた」

  何度か深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる努力をする。俺が泣いてたって仕方ないし、こんなのみっともない。子供じゃないんだから………情けない。

  先輩の腕が俺の頭を数回撫でる間に、俺はなんとか泣き止んでみせた。冷静になって、深呼吸をして。今は啼いてる場合じゃない。

  「…………腕…………大丈夫ですか?」

  「………心配すんな…………ちょっと洗ってくる」

  先輩は俺からさっと離れると、足早に風呂場と思わしき方へ向かっていった。隠そうとしていたけれど、先輩の右腕は真っ赤になっていて、どう見ても重傷だ。

  先輩の背中を見送ってから、とりあえず一度落ち着こうとベッドに腰かける。軟らかい低反発のベッドは、俺の腰を深々と沈ませて受け止める。目を瞑って、息を吸って…………吐いて、目を開けて。

  今すべきことは先輩の手当てだろう。あの出血量じゃもしかしたら病院に行かなくてはいけないかもしれない。やはり救急車は呼んだ方がいいだろうか。何針か縫うことになったら………輸血も必要か?

  傷の具合を確認して、冷静に判断しよう。先輩は絶対強がると思う。少し過保護なくらいでいい。

  学校には……どう説明しよう。久郷田先輩に襲われそうになったから、俺が噛みついた……?そうなったら久郷田先輩が叱られるだろうし、最悪停学や退学もあり得る。伝え方は考えた方がいい。

  それと…………時間はまだ大丈夫だ。部屋の時計はまだ2時過ぎ。六時までに寮に帰ればいいから、焦る必要はない。

  すると、久郷田先輩が風呂場から出てきた。シャツは脱いでいて上裸、右腕に白いタオルを巻き付けている。

  「先輩、大丈夫ですか………?」

  「あぁ。血は止まった。傷はそんなに深くねぇよ」

  「あの、本当にすみません………………俺、」

  「だから謝んな。全面的に俺が悪いんだからよ」

  先輩はどっかりと俺の隣に腰かけた。だが心なしか少し距離を置いている。俺に気を遣ってくれているんだろう。

  「…………発情期に入りかけなのもあったが、レイプみてぇな真似して悪かった。怖かったろ?」

  「いや…………こちらこそ噛んじゃって…………すみません」

  久郷田先輩の顔を見ると、何とも言い難い無表情だった。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでも、興奮しているわけでもない。普段の久郷田先輩だ。

  ……というか、発情期に入りかけって言ってたけど……ついこの間もそうだったはずだ。犬科はそんな頻繁に来ないはずだけど。

  「…………ついでに俺の恥ずかしい秘密を教えてやるよ。俺は発情期の頻度が普通よりかなり多い。なんなら年中発情期みてぇなもんだ。そんでよく自制が効かなくなる」

  「………………………………………………大変ですね」

  「あぁ。それのせいにするわけじゃねぇが、よく強引にセックスしちまうんだよ。大抵のホモは俺に迫られただけで簡単に股を開くが、噛みつかれたのは初めてだ。おかけで目が覚めたぜ」

  「……………………………………………………………………」

  そりゃそうだろう。久郷田先輩くらいモテモテで人気のある人なら、性処理の相手には困らないはずだ。なのになんでわざわざ俺を誘ってきたんだろう。特別仲が良いわけでもない、先輩のことを好きなわけでもない俺を。

  久郷田先輩は右腕を軽く擦るとタオルを取り始めた。さすがにまだ取らない方がいいと思うけど、本人は煩わしかったようだ。

  「…………お前、ホモじゃねぇだろ」

  先輩は俺の目を見つめながらそう言ってきた。

  俺が目を逸らしながら小さく頷くと、久郷田先輩は大げさにため息をついた。

  「…………だと思ったぜ。こんだけ口説いてんのにちっともなびかねぇからな。俺に抱かれて全力で抵抗するホモはいねぇ」

  「………………………………………………はい………………」

  やれやれ、といった口調で首を振る久郷田先輩には、少しおっさん臭さを感じた。まるで素に戻ったかのようだ。

  「んで何でノンケが稲光にいんだ?あれか?見る専ってことか?」

  「…………いや…………あの、知らなかったんです。そういう学校だって………………」

  俺の答えに久郷田先輩は一瞬驚いたような顔をしたけれど、すぐにいつものニヤケ面へ変わった。

  「…………まぁお前意外と抜けてるからな。少なくとも賢かったらノコノコラブホまで着いてきたりしねぇな」

  「ラブホ……?ってなんですか?」

  「ラブホテルだよ。要はセックスするためのホテルだ。ここは雄同士でもいいっていう俺の行きつけのとこだ」

  え?じゃあ未成年の俺たちがここにいるのは不味いんじゃないだろうか。少なくとも成人向けの施設なことは分かる。

  しかも行きつけってことは何度も利用してるってことじゃないか。学校にバレたら停学じゃ済まないかもしれないのに。

  堂々とルールを破る久郷田先輩になんだか呆れてしまう。この間寮則云々って注意してきたのは何だったのか。

  「…ノンケか………………やっと腑に落ちたぜ」

  「………………それにしても何で先輩は俺のこと襲おうとしたんですか?俺のこと好きじゃないのに」

  俺の質問に久郷田先輩はさっき以上に驚いた顔をした。先輩のこんな顔なかなか見られないだろうな。

  「俺がいつお前のこと好きじゃないって言った?」

  「この間……靴箱でキスしてきたとき、言ってたじゃないですか」

  俺が先輩にえっちな方のキスをされたあと、間抜けにも俺のこと好きなんですか?と尋ねたら、違うといって去っていったのだ。

  実はあれ以来ずっと疑問だったのだ。俺のことが好きじゃないのに、デートに誘ったりキスしてきたり。体目当てにしてはやたらと優しいし、先輩が何を考えているのか分からなかった。

  すると久郷田先輩は俺の顔をまじまじと見つめてきた。

  「………………違う、つったろ?」

  「はい…………好きじゃないんですよね……?」

  俺がきょとんとしていると、先輩はずいっと顔を近づけながら言ってきた。

  「…………違う。俺はお前を無理やり犯して快楽漬けにして一生俺以外のことを考えられなくなるまで調教して俺なしじゃ生きていけなくなって首輪付けて監禁したいくらい"大"好きなんだよ」

  「…………っ、……………………!」

  先輩は大真面目な顔で一息で言ってのけた。半分くらい内容は入ってこなかったけど、それって要するに。

  「………………告白ですか?」

  「そうだよ。渡嘉敷好きだ。愛してる」

  予想外の言葉に頭が痛くなってきた。ずっと久郷田先輩は俺のことが好きじゃないんだと思ってたから、まさかの急ハンドルに頭がついていかない。

  つまり俺はこーすけにも、篠崎にも、ついには久郷田にまで告白されてしまったのだ。真面目にどうにかしないと増え続けるかもしれない。

  返事はもちろん決まってる。ノーだ。それは久郷田先輩も分かってるだろうけどそれよりも。

  学校で一番モテモテで人気者の久郷田先輩が俺に告白したってことは、絶対そのファンから当て付けがくる。久郷田先輩のことが好きな人達から嫉妬される。

  そんなの…………そんなの最悪だ。

  「…………や…………めてください」

  「は?やめろってなんだよ」

  「っ、ぉ俺はノンケだしハーフだし田舎者なんで…………先輩ならもっといい人見つかるでしょう」

  頼むからこれ以上悩みごとを増やさないでくれ。篠崎とこーすけのセクハラやアプローチを退けるのだって精一杯なのに、もう一人、しかも強引な先輩なんて絶対嫌だ。

  久郷田先輩はニヤリと笑う。

  「俺はノンケでハーフで田舎者なお前が好きなんだよ。これ以上はいねぇ。探さねぇしな」

  「…………っ、……………………………………」

  「まぁ俺は体から落とすタイプだからな。じわじわ落としてってやるよ」

  そう言って久郷田先輩はベッドにごろんと大の字に寝転んだ。ベッドは寮のに比べてかなり大きいしフカフカだ。メイキングもされてて綺麗だから、きっと昼寝したら気持ちがいいに違いない。

  こんなことしたらまた勘違いさせてしまうかもしれない。それは自分でも分かっていた。でももしかすると俺は、絶対に嫌だと思う反面自分が雄にモテるという事実がほんの少し、ほんの少しだけ嬉しかったのかもしれない。

  …………昼寝するだけだ。

  「……………噛みつくほど嫌なんじゃねぇのか」

  「…………昼寝するだけですから」

  久郷田先輩の横に寝転んで、背中を向ける。隣で寝たことなんてない。本当なら危ないんだろうけど。

  今はなんだか穏やかな気分で、さっきまで襲われそうになっていたことなんて頭から飛んでいってしまって。こんな能天気な性格だったかと自問しても、答えるのすら面倒だった。

  ボソッと呟いてみる。

  「……………………俺の、恥ずかしい秘密も教えます」

  「……………………………………………………何だ?」

  「…………ハグが………………好きです」

  するとその瞬間、後ろから優しく抱き締められた。先輩の心臓がゆっくりと脈打っているのが、背中越しに伝わってくる。意外と毛並みがよくて柔らかい。

  「…………………………満足か?」

  「…………それと…………………先輩キス上手ですね」

  フフッと笑い声が聞こえたあとに、俺の頬に当たった湿った感触は、それほど不快には感じなかった。