第一章 売れ残りの奴隷

  獣人が居る世界。どこかの国。

  大陸が一つしかないと、信じられていた時代は終わった。

  ガスライトが霧の夜を照らし、剣と魔法を従えた冒険者たちは羅針盤を手に外洋へ繰り出す。

  海の向こうから運ばれてくる異国の花、薬草、獣骨、魔導技術は都市を豊かにし、人々の暮らしを変え始めていた。

  文明の光が夜を変える一方で、世俗の影もまた、案外しぶとく残る。

  海洋都市《エルメリア》の市場では、今日もヒトが商品として値札を下げられていた。

  雨の日は相場が落ちる。

  濡れた毛並みは見映えが悪く、買い手の足も鈍る。だから商人たちは売れ残りを少しでも目立つ場所へ押し出したがる。

  ティオが三週間ぶりに檻の前へ引きずり出されたのも、そのせいだった。

  彼はは黒豹の獣人で、成長しきった黒褐色の体には、無駄なく付いた筋肉が見える。肉体労働には申し分ない。

  短く切りそろえた黒髪で、行き交う客にできるだけの愛想を振りまく。奉仕労働も難なくこなせるだろう。

  「薪割りもできるし、畑も荷運びも掃除もやる!」

  足を止めた客に対して、できるだけの声をかける。その客も、彼の値段をみて悪い顔はしていない。麻布の質素な服に身を包んだ身体を、じろじろと値踏みされる。

  そして、男の視線が札へ落ちる。

  【夜間不良】

  ここから空気が変わることを、ティオは知っている。もう何度も見た流れだった。

  「これは?」と男性客が聞くと、主人の奴隷商がやって来て、少し声を潜める。「寝具を汚しやすくて」

  少しの沈黙が落ちた。

  【夜間不良】とは、ずいぶん逃げた書き方だと思う。

  つまり寝小便だ。それも、大人の。

  真正面から書けば客が引くから、こういう言い方になる。

  ティオは説明しようと口を開くが、流石に笑い顔は浮かべていられなかった。

  「それは……その……お、お……」

  ああ、終わりだ。

  愛想の良い黒豹の顔から、次第に笑みが消えていく、同じくして男性客の顔に困惑の表情が浮かぶ。

  「いや、いらないな。寄ったついでだ、他のを見る」と言って、その男性客は主人を連れて行ってしまった。

  客引きくらいの役には立てたな。と、彼は黒い体でうずくまり、売れ残った自分を慰めた。

  三週間。

  最初はもっと高かった。若い黒豹型の獣人、丈夫、力仕事向き。札にはそう書かれていた。それが値引きされ、さらに札が重なり、目に見えた売れ残りの奴隷。それが、今のティオだった。

  「この子か」

  知らない声に、ティオは顔を上げる。

  檻の前には貴族風の出で立ちだが、少し変わった男が立っていた。

  犬の獣人、蜂蜜色の滑らかな体毛。華やかなブロンドの髪は、無造作に後ろで束ねられているが、清潔な印象は崩れない。

  その整った見た目は貴族らしいのに、眠そうな半眼で、ずっと疲れているように見える。

  後ろから追いついてきた奴隷商が「おい。立て!」と怒鳴るので、慌てて立ち上がり背筋を伸ばす。

  「薪割りも、畑も荷運びも掃除もやる! 仕事に文句も言わねえ」

  精いっぱいの愛想を浮かべて、ティオはまっすぐ立って身体を見せた。

  目の客は、ぼんやりと、どこか焦点の合ってないような目で見つめてくる。

  隣の主人は「いかがでしょう? 他には、もっと色々」と、客の貴族的な風格に揉み手が止まらない。

  だがその男は、普通の客とは違った値踏みを始める。肩を見ない、腕も見ない、顔も見ない。

  どこを見るでもなく、ぼんやりと全体を眺めているようにも見える。一体、何の目的があるのだろう?

  ふと、麻のズボンで覆われた下半身が頭を過る。

  ソッチの狙いの客か?

  もちろんティオは奴隷だ。脱げと言われたら、この場でパンツも脱ぐ。身体はしっかりしてるし、顔も悪くないと、よく言われる。

  ソコのサイズはちょっと自信ないな。

  何より夜の相手は……と、頭の中で嫌な思い出が蘇りかけ、喉がえずいた。

  「職能、何ができる?」

  貴族の男が、聞く。

  「何でもできる。掃除、洗濯、料理も少しなら……。夜だけ駄目だけど」

  そこでやっと、男の視線が札へ落ちる。

  「夜間不良? これは?」

  奴隷商が「はぁ、まぁ……」と、歯切れの悪い答えになる。「夜に粗相をしてしまうそうで。寝具を……その……」

  貴族が視線をティオに移す。蜂蜜色の犬顔から、淡いプラチナ色の瞳が覗き込んで来る。

  「昼間は?」

  男は短く言った。予想外の質問に面食らったが、慌てて言葉を探す。

  「だっ、大丈夫。絶対漏らさない。よ、夜も、なるべく汚さないようにするし、いつか、ちゃんと治すからっ」

  「そうか。期待している」

  男の返答は、あっけないものだった。

  「期待って……」

  予想外の答えにティオの方がたじろいでしまう。

  二人の会話に割って入るように主人が現れ、「こちらの札なのですが……」と言って値引き札を一つ取り去った

  この期に及んで、値上げしやがった。

  「値段。さっきと違うな」

  「これは、先月のセールに出していた値段でして、奥にもっと器量の良い者が……」

  商人がありもしないセールの話を始める。間違いなく、貴族男にもっと高い奴隷を売りつけるつもりでいる。

  慌てたティオが、口を挟んだ。

  「や、安くていい! ちゃんと働く! お、お……おねしょも、できるだけ減らすから」

  ガンッ

  鉄の檻が外から蹴られ、大きな音を立てる。奴隷商から無言の『黙れ』という圧が来る。

  「セールか。機を逃したのは残念だ」

  貴族の男は新しくなった値札を見て、再度悩む。

  終わった。

  おねしょが直らないような奴隷を、好んで買うヤツなんていない。ましてや値段も。

  値上げされてもまだ、今居る中で一番安い奴隷ではあったが、流石に処分品の破格とは言えない値段になっている。

  檻の中でティオの顔が曇り始めたとき、貴族の男が口を開く。

  「やはり、彼にしよう」

  驚いたのは奴隷商のほうだったが、驚くべき速さで手のひらを返す。

  「本当に? い、いやー。それでも、いい買い物をいたしましたな。筋肉は見ての通り、愛想も悪くないですから」

  売れ残りが予想外の値段で片付いたのが、嬉しかったのだろう。いそいそと売買契約に話を進めていく。

  「夜間不良は……説明しましたからな」

  「懸念にならない」

  彼の態度は素っ気ない。

  「よろしい。そうですな。でも、返品については全額とは申せませんぞ」

  「返品? 家族が増えるのだ、世話くらいは当然だろう?」

  丸い目をキョトンとさせて、貴族男がうろたえる。商人は商機を逃すまいと「一応、規則ですので」と短くこの話題を切り上げた。

  気づけば売買は終わっていた。

  金貨が積まれ、書類が交わされ、ティオには手錠がかけられ、鎖を引かれる。

  「ほら、行け」

  元主人からの別れの言葉は、それだけだった。三週間いた場所なのに、追い出される時は拍子抜けするほど軽い。

  外へ出ると、雨は少し弱まっていた。石畳が濡れ、炎の魔法とガスが混じった新型の外灯がぼやけて滲んでいる。

  「こっちだ」

  貴族男が先に進むので、ティオはたまらす呼び止めた。

  「お、おい、鎖!」

  自分の手錠に着いた鎖を自ら差し出す。

  「ああ。私が引くのか」

  大丈夫か? この男?

  少し歩いた場所に、馬車が待っていた。立派な貴族用の馬車で、御者が降りて客席の扉を開ける。

  ティオは何かを言われる前に、後ろの荷台へ上がる。貴族が黙って鎖を手放したので、そのまま荷台へ腰を下ろす。

  「ひえっ」

  荷台を見た途端、ティオは固まった。

  角のついた頭蓋。鳥の翼骨。牙。乾燥した植物。瓶詰めの虫。液体に沈んだ何か。紙束の間に、見たことのない獣の骨まで混ざっている。

  鼻を効かせると、魔法油と湿った土、微かに乾いた苔の香りが鼻を撫でてくる。森と博物館を足したような空間が、貴族男の荷台だった。

  「あっ……」

  その隣で膝を抱えて入る自分を見て、嫌な予感が頭を過る。

  安かったから買われた。

  理由なんて、それしか思いつかない。寝小便が治らないような大人でも、実験動物にでもしら、それなりに使い道もある。

  あるいは、骨にされるかも。

  ぞわっと背筋が冷えた。

  カタン

  前方ではアルヴェインが何事もない顔で客席に座り、本を開いていた。買ったばかりの奴隷に注意を払う気配もない。

  普通、説明くらいするだろ。

  何をさせるとか。逃げたらどうなるとか。主人のルールとか。

  何も言われない方が怖かった。

  ギギギ……と鈍い音を鳴らして、馬車が動き出す。

  濡れた石畳を車輪が鳴らし、街の景色がゆっくり流れていく。ガス灯の橙色が雨粒に滲んで、遠くでは港の汽笛が低く響いていた。

  しばらくして、馬車が止まった。目の前には雑貨屋の看板がかかる。

  貴族男は降りると、真面目な口調で店主と話す声が聞こえる。

  「もっと柔らかい生地は?」

  「子供用でしょうか?」

  「いや、大きい」

  しばらくして大きな包みを抱えて戻ってきた。男は何も言わずに、荷台に物を増やしていく。

  荷台にまた別の荷物が広がるので、ティオは膝を曲げて場所を広げた。

  毛布。石鹸。歯磨き用のブラシ。

  そして、おむつ。

  しかも使い捨ての紙おむつだ。比較的新しい発明品だが、今ではすっかり一般的になった。白くて分厚くて、広げるとしっかり膨らんでいる。

  さらに厚手の寝間着みたいな服、やけに柔らかそうな布。それから、妙に吸水の良さそうな布束。

  そのどれもが、愛らしい色調で、見るからに子供用のデザインだ。

  子供でもいるのか。

  それなら少し困るぞ。子供は遠慮が無いから、大人のおねしょなんて、すぐに、からかいの的にされる。

  膝を抱えながら荷台で、ぐるぐると考えを巡らせているうちに、空は暗くなり始めていた。

  街道脇で、また馬車が止まる。男が客席を降りて、荷台に顔を出す。

  「腹は減ったか」

  「べ、別に」

  短く答えた途端に、大きな音で腹が鳴った。ティオは耳を伏せる。

  「……ちょっとだけ。そんなに食わねえよ」

  「そうか」

  少しして、御者に何かを手渡した音、それから、また男が荷台に顔を見せた。暖かい包みが差し出される。

  ティオは受け取り、おずおずと中を開くと、パンと肉の煮込みだった。

  驚くことに、まだ湯気が残っている。そして、手の中の木のカップに浮かぶ、一口大の肉を睨む。

  やはり、肉だ。肉が入っている。

  ちゃんと。

  「これ、余りもんじゃねぇよな?」

  「違う」

  「……もしかして、毒とか?」

  男の動きが止まる。

  やはり、これが最後の飯になるのか。

  貴族男の顔を見ると、眠そうだった目が少しだけ開き、くりくりと目を丸くしている。

  「毒? なぜ?」

  本気で意味が分からない顔だった。

  「怖ぇから聞いてんだよ!」

  少しの沈黙が流れる。

  ティオは、小さく息を吐いた。

  悩んだ所で、近々殺される運命は変わらないか。

  「これ、食えってことだよな?」

  「……ああ。そうだ。そうだな。説明が足りなかったらしい」

  男の顔から困惑が抜ける。

  「困らせるつもりはなかった。それは積荷ではない。夕食、君のぶんだ、食べてくれ」

  そこじゃねえよ。

  突っ込んで聞きたい気持ちもあったが、奴隷の分際で、食事を拒否することもできない。

  またしばらく沈黙した後、「食べてくれ」と言って、男は客室へと戻って行った。

  そして視線を上げると、彼も客席側で同じ包みを開いていた。

  妙な話だ。主人と奴隷なら、もっと差があって当然だ。少なくとも、同じ匂いのする飯なんて、生まれて初めてだ。

  ティオは薄暗い荷台を眺める。

  頭蓋。牙。瓶詰め。乾燥標本。どう見てもまともな趣味じゃない。

  グゥ……

  本人の疑念とは裏腹に、美味そうな匂いに釣られた腹が、催促の音を鳴らす。

  もう一度客室を見ると、貴族様が優雅に食事を口に運んでいた。どう見ても、ティオの目の前にあるものと同じ料理だ。

  「ううー……」

  ティオは恐怖と空腹に揉まれ、身を奮い立たせるように独り言を漏らす。

  「さ、最後の飯にこんなに良いもん食えるなら、それでも良いじゃねえか」

  ティオは木さじを手に取り、恐る恐る煮込みを口に運ぶ。

  暖かい。

  それに、塩気がある。ちゃんと肉の味がする。香草の風味、野菜の甘み。飲み込んだ瞬間、思わず喉が唸る。

  「はぁ……」

  自然と、溜息が出た。

  いくらなんでも、これは贅沢すぎる。

  ここに毒が入ってなくても、明日の朝日は拝めないだろうな。そう思うと、自然と涙が出てきた。

  「うっ……き、気にすんなって……まあまあの一生だったろ」

  手錠をつけたまま、震える手でスープを口に運ぶ。間違いなく、人生で一番美味い。

  それでも、視界に滲む涙のせいで、味が今ひとつ分からない。

  俺は骨にされるのだろうか。それとも、標本だろうか。幸い、悲しむ身内は一人も居ない。

  次はパンに手を伸ばして噛みちぎる。表面がカリッと焼かれて、香りも良い。

  「うめぇ……」

  腹の底から感嘆の声が漏れる。

  もう何も食えなくなるんだろうな。そう思うと、パンを頬張りながら、堪えていた涙が一滴だけ流れた。

  貴族男が一番最後に食事を終えると、店主の使い走りらしき人物が食器を回収していった。

  日がとっぷりと暮れたころ、ティオを乗せた馬車が止まった。

  降ろされた屋敷は、古い石造りの建物に蔦が絡み、夜闇の奥にぼんやりと輪郭だけ浮かぶ大きなガラス張りの建物が見えた。温室だろうか。

  貴族の別邸にしては華やかさがない。むしろ、誰かが途中で興味を失った家みたいだった。

  馬車の御者台からは、年配の男が下りてきた。

  荷台の積荷を見ながら「荷物は明日の朝に運びます」と、短く告げた。

  「他のを者にも、伝えてくれ」

  貴族男が短く返すと御者は頷き、ティオを一瞥する。会釈を返してみたが、反応はない。

  馬車から外した馬を引き、何事もなかったように門の向こうへ消えていった。

  広い庭に静けさだけが残った。

  「……誰もいねぇの?」

  「夜はいない」

  新しい主人が鍵を開けながら答える。

  ティオは少しだけ肩を縮める。こういう静けさは好きじゃない。人の多い場所の方がまだ楽だった。

  玄関を開けると、湿気と埃の混じった空気が鼻を掠めた。明かりは控えめで、広い廊下の壁には新式の魔法型ランプが薄暗く灯っている。

  「今日は遅い。すぐに部屋を案内しよう」

  主人が先立って屋敷に入ろうとした所を、慌ててティオが呼び止める。

  「お、おい! だから、鎖!」

  手錠から繋がる鎖の反対側をわざわざ拾って主人に手渡す。

  一瞬だけ、丸い目でキョトンとした後、納得したように鎖を引っ張ってくる。

  ジャラ……ジャラ……

  わざと手渡した手錠の鎖に引っ張られ、誰も居ない屋敷を歩く。廊下を進み、階段を登る。

  何なんだよ。

  この屋敷には、絶対に逃げられない仕掛けでもあんのか?

  恐る恐る付いて行くと、主人は一つの豪奢な扉の前で立ち止まり、中へと連れ込まれる。

  部屋の豪華さに思わず身が固まった。

  暖炉がある。本棚がある。椅子も窓もある。そして、中央には大きなベッドがある。

  「ここが、主人の部屋?」

  「いいや。君のだ。使ってくれ」

  言葉の意味が飲み込めなかった。

  一瞬、沈黙する。

  「……え?」

  「説明が足りなかったらしい。ここは、寝室だ」

  見れば分かるけど、そうじゃない。

  「俺、奴隷なんだけど?」

  「ああ、そうだな。違ったのか?」

  貴族の男は、蜂蜜色の毛並みの顔をキョトンとさせた。まるで、何か間違えただろうか、といった表情を浮かべている。

  ティオは部屋を見回す。どう見ても使用人部屋じゃない。倉庫でもない。主人の隣室みたいな雰囲気だ。柔らかなカーテン、化粧台、広いクローゼット。誰かの奥方が使っていそうな部屋だった。

  「倉庫とか、納屋とかじゃなくて?」

  彼が少し考え込む。こういう時だけ沈黙が長い。言葉を探しているのか、本当に検討しているのか分からない。

  「近い方が、便利だから」

  近いと便利? 何が?

  主人の足りない言葉の意味を、ティオは一人悶々と考える

  主人の部屋の近く。夜に呼ばれる。やっぱり、ソッチの趣味だろうか。

  男同士の情事は、肉体労働の現場で珍しくなかった。もちろん、バレたら決まって、ひどい仕打ちが待ってるものだが。

  体を求められたらどうしよう。経験は無いけど、無理じゃない。って言うか、奴隷の身で拒否するなんてできないし。

  出来る。男相手も大丈夫。

  優しくしてくれたら良いな……。

  チラリと主人の顔を見ると、まだ目をくりくりさせて、こっちを見つめている。ブロンドの髪が、ランプの光で煌めいていた。

  顔は結構格好良いし、夜の相手を迫られても、全然、嫌じゃない。

  でも本当に、何を考えてるんだ?

  怖いな。何されるかわからないし。

  勃つかな? 勃起できなかったら、どうしよう……

  「どうした? 不満かね?」

  沈黙に耐えかねたのか、男が声をかけてきた。

  「あっ、いや、大丈夫。全然、嫌じゃないけど、け、経験ないから……ね?」

  お尻がひくんと揺れた。経験ないし怖いけど、大丈夫。嫌じゃない。

  もしかして、入れる方かな? 勃たなかったらごめん。まだ、ちょっと怖いだけだから、頑張るから。

  見捨てないで。捨てないで。

  「一人で寝かせても、大丈夫か?」

  「え? あ、はい! 任せて…ください?」

  貴族男の問いかけに、素っ頓狂な声でティオが答える。

  「隣室。僕の寝室だ。何かあったら来なさい」

  「……はい?」

  「今日はもう遅い。まだ、何かあるか?」

  蜂蜜色の犬獣人が、いつもの眠たそうな表情に戻る。

  「な、無いっ、無いから。寝るなら気にせず寝てくれ」

  「屋敷の案内もしたかったのだが、すまないが、少し疲れたのでね」

  「い、いつでも、来てくれ?」

  「くつろいでくれ、気を張らずに」

  主人は踵を返し、部屋を出ていく。

  「お、おやすみ」

  パタン

  背中を見送ると、豪奢な扉が閉まった。

  でも鍵のかかる音が、しなかったぞ?

  「な、何だ……ここ?」

  ジャラ……

  手にはまだ手錠がかけられていることを、今更思い出した。とは言え、自分から手錠を外せ、などとは言い出せるはずもない。主人は寝ると言っていたのだから、そんな理由で起こせるわけがない。

  頭の中でまた悶々と自問自答が始まる。

  手錠はあるが、おそらく扉に鍵はかかってない。

  なんでかけなかった?

  夜の相手を求めている様子でもなさそうだった。

  何より俺には……お、おねしょがあるし、俺より適任の奴隷なんて、あそこには山ほど居たよな。

  どう考えても、安いから買ったとしか思えない。

  そうなると、最初の疑念がまた戻ってくる。

  「さ、最後だもんな。こんないいベッドで寝たって、悪くないよな」

  自分に言い聞かせながら、声が少し震えていた。

  人生で見た中で、これまでの主人たち全員と比べても、一番高そうなベッドが目の前にある。

  だが安心より先に浮かんだのは、やっぱりおねしょのことだった。

  嬉しいけど、こんなに良いベッド、おしっこで汚しちゃ悪いよ。

  カタン

  部屋の端、カーペットの無い冷たい床に座る。

  いそいそと着ている服を全部脱いだ。引き締まった体に、小さな股間がフルンと揺れる。笑われるようなサイズじゃないが、男娼で客を取るには物足りない可愛らしい大きさ。

  陰毛が剃られているので、子供らしい印象すら覚える。

  事実、おねしょのおちんちんは、子供のモノだとも言える。

  「おやすみ」

  冷たい床の上に、裸のままで寝転がる。手錠があって上着は脱げないので、たくし上げて手元で丸めた。

  奴隷商人のところでは、檻の中だった。裸で、硬い床に寝る。藁が湿っている日もある。隣の檻の誰かの咳が聞こえ、臭いが混ざる。朝になる頃には身体の節々が痛くなっていた。

  それと比べれば、木張りの床はまだ暖かい。静かで、匂いもしない。寒いけど、隙間風も吹かない。

  ちょっとでも役に立つところを見せたら、実験に使わないでもらえるかな?

  都合のいい話が頭を過る。すぐに、そんなはずはない、と頭を振った。

  それでも、考えただけで、また視界が滲む。

  死にたくない。

  大した人生じゃなかったけど、死にたくなんてないよ。

  ぐすぐすと、吐息が涙混じりに変わる。

  明日……

  明日、おねしょが治ってて、仕事もバリバリできたら、心変わりとかしてくれないかな。

  そんな都合のいい期待をほのかに胸に宿らせながら、ティオは人肌で温まってきた木目床で、静かに眠りについた。

  翌朝、腹の下の冷たい感触で、ティオは目を覚ました。

  終わった。

  心臓が一気に冷えきり、慌てて飛び起きた。

  木目の床には、薄黄色の水たまりが広がっている。ベッドじゃないことだけは救いだった。

  雑巾になりそうな布を探したが、部屋に布という布は、どれも高そうなものばかりだった。

  視線が落ちる。穿いてきたズボン。

  ティオは裸のまま、ズボンで床を拭いた。情けない格好だったが、そんなことを気にしている余裕はない。

  少しでも迷惑を減らさないと。その一心で、床を拭く。

  下手に隠すより、謝った方がまだましだよな。

  そう思った時、控えめなノックが鳴った。

  「起きてるか」

  昨日の夜に現れた、新しい主人の声だった。

  「お、起きてる!」

  情けないほど声が裏返る。

  少し間があり扉が開くと、蜂蜜色の毛並みが部屋に入ってきた。朝日を浴びたブロンドの髪は、暖かく柔らかい光を振りまく。

  相変わらず眠そうな顔で部屋へ入って来た瞬間、足が止まる。

  床の濡れ跡。ズボン。裸のティオ。

  ティオは反射で床へ伏せた。額が木の床へ当たる。耳まで伏せ、惨めなくらい小さくなる。

  「ご、ごめん! ごめんなさい! 汚した! 今拭いてる! 洗うから! 次は気ぃつけるから!」

  声が勝手に早くなる。

  「実験動物でもいいから……捨てないで……!」

  男は、まだ沈黙していた。部屋を見回しているらしい。

  「……ベッドは?」

  怒る声ではなかった。ただ不思議そうな声で話しかけられる。

  ティオは顔を上げる。焦りの方が勝って声が大きくなる。

  「よ、汚してない! 最初から床! そんなの、汚したら……終わりじゃん」

  「終わり?」

  またしても、沈黙。

  ジャラリ

  ひざまずいたまま上体を上げると、手錠の鎖が鳴った。

  「ああ。窮屈な思いをさせたな」

  男は本当にキョトンとした顔で驚いていた。

  意味が分からない。

  怒られると思った。殴られると思った。そして、気持ち悪がられると思った。それから、返品だと思った。

  貴族男はしゃがみ込み、鎖を手に取る。

  「来てくれ」

  ティオの背筋が冷える。

  返品だ。

  いいや、やっぱり、実験かな。

  裸のまま廊下へ出される。少し恥ずかしがったが、逃げる気も起きない。従順にしていた方がまだ生き残れる。

  連れて行かれたのすぐ隣の主人の部屋だった。

  部屋に入るとあらゆる調度品で室内が埋め尽くされていたが、ティオには何も目につかなかった。

  怒鳴られるのか。体罰か。薬か。実験か。骨にされるのか。

  ティオが恐怖に強張り、硬直している間に、男は鍵束を取り出し、しゃがみ込む。

  カチャリ

  あっさりと手錠が外れた。

  あまりにも呆気なく、ティオは自分の手首を見下ろしてなお、何が起きたのか信じられなかった。

  「風呂だ。すぐに入れるから、着いて来てくれ」

  「……は? なんで?」

  「用意しておいてもらったからだ。昨日は遅かったから、朝一番に入れるように、家人に言いつけておいた」

  そこじゃねーよ。風呂を沸かした方法じゃなくて、理由。理由を聞いたんだ。

  また頭の中で悶々と考えながら、すっぽんぽんのまま、主人のあとに続く。

  恥ずかしいし、なにより雫がたれないよう、両手で股間を隠したまま歩いた。

  風呂場へ入った瞬間、暖かい空気が身体へまとわりついた。

  広くて、真っ白いタイル。浴槽からは、まだもうもうと湯気が立っている。その縁には、見たことのない魔法式の装置が見えた。

  「座って」

  風呂場の木椅子に腰掛ける。すっぽんぽんで股間を握ったまま、ティオは縮こまる。

  向かい合って正面に貴族の男が立つ。こっちは丸裸なので、少し恥ずかしい

  「……俺、井戸水で十分だって」

  反射で口から出る。貴族男は、またキョトンとした顔で、困ったように動きが止まる。

  「それは習慣か、何か宗教のようなものか?」

  本気で確認している顔だった。

  「いや。そんな変なこと言ってねーだろ。俺なんかに、お湯なんて、もったいないだろ。奴隷なんかに」

  「私が嫌だから用意させたのだが」

  「……へ?」

  「つまり、冷たい水で洗わせられるのか?」

  意味が分からない。誰が誰を洗う話になっている?

  ティオは慌てて言葉を吐き出した。

  「い、いや! 体くらい、自分で洗える!」

  主人に身体を洗わせるなんてあり得ない。そんなの怒られる側だ。

  「信用がない。ベッドの使い方も知らない子だ」

  「それは、その……おねしょが……」

  「子の世話をするくらい、当然の役目だろう」

  「うぅ……」

  奴隷という立場を考えれば、こんなことで主人に歯向かうなんて、本来おかしい話だ。

  股間を隠した両手を体の横につけて、ティオは背筋を伸ばして座り直した。

  可愛らしい股間が、丸見えになり、ちょっとだけ顔を赤くした。

  「熱かったら言ってくれ」

  貴族男は袖をまくり、桶にたっぷりの湯を張って、躊躇なく頭からかけてくれた。

  温かい。あまりの心地よさに、体が緩んできた。

  もう一度、ざばりとお湯をかけてくれる。体から土や古い垢が浮かんで流れていく。

  濡れた視界を上げると、浴槽に次々とお湯が流れ込んでいた。縁についた装置は、湯沸かし器付きの蛇口のようなものらしい。おそらく魔法式の、とんでもなく高価な代物だ。

  次に桶のお湯に布を染み込ませながら、男が口を開く。

  「触られるのは、嫌か?」

  「い、嫌じゃない」

  「良かった」

  せめて洗いやすいようにと両手を横につけて、背筋を伸ばす。恥ずかしい所も丸見えだが、主人の手を煩わせるなんて、もってのほかだ。

  チャプ……

  お湯の中で、布の擦れる音。

  湯気にシャボンの甘い香りが混ざってきた。

  石鹸だ。

  それも高いやつ。

  昔、下働きをしていた屋敷で、主人一家だけが使っていた匂いだった。自分たちは井戸水で流すだけ。

  たまに灰を混ぜたごわごわの石鹸を回されれば運が良い方で、それも泡立ちが悪く、肌がきしむような代物だった。

  「そんなもん使うな!」

  思わず声が出る。

  蜂蜜色の体が止まり、くりくりした目で、少し考える。

  「石鹸を、知らないのか?」

  キョトンとした、何が間違っているのか分からない顔でティオを見つめてくる。彼は、全部本気で言っている。

  「い、いや。そんなもん、使ったことねーよ」

  「これから覚えれば良い。肌に合わなかったら言ってくれ」

  話が噛み合わない。

  こんな高価なものを自分なんかが使ったら、あとで絶対怒られる。

  だが当の主人は、キョトンとして本当に分からない顔で困っている。しばし沈黙してから、当然みたいに泡立て始める。

  クシュ……クシュ……

  なめらかな指が、ティオの黒い体に、ふわふわの白い泡を広げていく。肩から胸に指が這い、泡の塊で体をくすぐられる。

  真正面から裸の身体を弄られ、少し顔が赤くなる。相手は特に気にした様子もなく、子供かペットショップを洗うような素振りで、体を洗いに来る。

  泡は胸から下へ、下腹部から、雄の大事な所に指が伸びてきた。

  「んっ……あっ……」

  そんなつもりはないのに、思わず声が出てしまう。

  「すまない。痛かったか?」

  「だっ……大丈夫だ」

  おちんちんをくにくにと、皮の中にまで伸びてきて、敏感な先端をこちょこちょと指先で転がされる。

  優しい快感に、身体がピクピクと跳ねる。

  「……んっ」

  昨日の夜は『勃つかな?』なんて思ったけど、全然心配要らない。手つきも優しいし、見た目も格好良い。

  俺、余裕で行けそう……だけど、今じゃないよね。

  顔を上向けて視線をそらし、必死に無心を心がける。

  彼の手が離れると、股間はひくんひくんと脈打ち揺れていたが、主人の目の前で勃起するような醜態を晒すまでには行かなかった。

  よく耐えた。

  身体中の垢という垢を落とされ、あまつさえ恥垢さえも綺麗に拭われた。

  チャプ……

  泡を落として、促されるまま、湯船に浸かる。

  一生分の贅沢をしている気がする。

  こんな大量のお湯なんて見たことのないどころか、湯が減るたびに足される道具なんて、想像すらしたことない。浴槽にシャボンの泡が浮かび、今まで一度も触れたことのない甘い香りに包まれる。

  やっぱり、実験動物だよな。

  綺麗なほうが実験しやすい? あ、解剖か。それなら、身体は綺麗にしたほうが良いよな

  散々良い思いをさせてもらったんだし、キチンと役に立って死にたいな。

  死にたくないけど。

  ちらりと浴槽の隣を見ると、貴族風の男は椅子に座って本読みつつ、時折こちらに注意を向けてくる。まるでペットか子供が溺れてないか、身守る親のようだ。

  殺されるよな?

  それにしては、不可解な行動も多いし……この男、本気で何のつもりなんだよ。

  って言うか、俺、男の名前すら知らないんだけど!