地下特有の、カビと鉄錆の混ざったような淀んだ空気が、アタシの鼻腔を撫でる。
魔力で動く換気扇の低い駆動音が、耳の奥で単調なリズムを刻んでいた。
机の上には、インクの染みが無数についた古びた羊皮紙が、地層のように重なっている。
その一番上にある、複雑な幾何学模様と魔力方程式が書き込まれた一枚を、アタシは羽ペンを持ったまま睨みつけていた。
……ダメだわ。
どうしても、最後の計算が合わない。
マジリシアを根本から破壊し、この世界を終わらせるための術式。
その動力源として、アタシは「悪魔」――それも、魔界の頂点に君臨する七大悪魔が有するという、底知れない魔力の泉に目を付けていた。
けれど、理論上は可能なはずの「魔力の抽出と固定化」のプロセスで、どうしても数式が瓦解してしまう。
紙の上のインクの線が、まるでアタシの凡庸さを嘲笑うように、黒い染みとなって目に飛び込んでくる。
「……ッ、忌々しいわね!」
苛立ちが臨界点を超え、アタシは無意識に、スカートの裾から伸びる太い蛇の尾を振り回した。
鋭い鱗が風を切り、机の上にうず高く積まれた羊皮紙の山を無惨に薙ぎ払う。
何日も徹夜して書き留めた研究成果が、雪崩のように宙を舞い、冷たい石床の上に散乱していく。
その光景を見下ろしながら、アタシは荒い息を吐き、額に滲んだ冷や汗を手の甲で乱暴に拭った。
冷静になりなさい。
こんなところで立ち止まっている時間なんて、アタシにはないのよ。
深呼吸をして、散らばった紙を拾おうと身を屈めた、その時だった。
ピクリ、と。
アタシの側頭部にある長耳が、微かな空気の振動を捉えた。
ネズミの足音よりも小さい。
けれど、このアタシの工房で「生命」が発するはずのない、異質な魔力の波動。
アタシは紙を拾う手を止め、視線だけを音源へと走らせる。
工房の隅。
積み上げられた魔導書のタワーの陰に、何かがいる。
アタシは息を殺し、蛇のように音もなく立ち上がると、傍らの杖を静かに手繰り寄せた。
「……そこにいるのは、誰かしら?」
声帯を震わせると同時に、アタシは杖の切っ先をその闇へと突きつけた。
杖の先端に埋め込まれた真紅の宝玉が、主人の殺意に呼応してギラッと不吉な光を放つ。
アタシが一切の詠唱を省いて杖を短く振るうと、床に刻まれた魔方陣が青白く発光し、見えない魔力の鎖が標的の周囲の空間ごと圧縮し、宙へと吊り上げた。
「みぎゅっ!?」
間抜けな悲鳴と共に、光の中に捕らえられた「それ」が姿を現した。
大きさは両手に収まる程度。
半透明の、ゼリーのような質感の身体。
頭部には奇妙な触角があり、胴体の横からは小さな翼のようなものが生えている。
まるで、深海を漂うクリオネのようだ。
……悪魔?
それも、絵本に出てくるような下級の存在。
アタシは眉間に皺を寄せ、宙でジタバタと暴れるその貧弱な生物を睨みつけた。
おかしいわね。
この工房の入り口には、アタシ特製の何重もの結界と、侵入者を消し炭にするトラップを仕掛けてある。
こんな吹けば飛ぶような下級悪魔が、自力で突破できるはずがない。
アタシは視線を入り口の重厚な鉄扉へと向けた。
……あ。
鉄扉の表面に刻まれた防御結界の術式が、まるで高熱の酸でも浴びたかのように、ドロドロに溶け落ちている。
それも、無理やりこじ開けられたのではなく、術式の根幹から無効化されたような、恐ろしく精密で暴力的な魔力の痕跡。
背筋を、冷たいものが這い上がった。
このクリオネもどきがやったんじゃない。
これを入り口としてこじ開けた、とてつもない上位の存在が、偵察のためにこの下っ端を放り込んだのよ。
……七大悪魔。
あるいは、それに匹敵する高位の存在。
アタシの脳内で、恐怖よりも先に、どす黒い歓喜の炎がボワリと燃え上がった。
乾いていた喉が鳴る。
探す手間が省けたじゃない。
向こうからアタシの研究を嗅ぎつけて、ご丁寧にも「扉」まで開けてくれた。
なら、アタシがやるべきことは一つよ。
この見え透いた偵察の糸を逆に手繰り寄せて、その奥にいる大物を、アタシの実験台の上に引きずり出してやる。
「ふふっ……ふふふっ」
アタシは杖を構えたまま、吊り上げられたクリオネ悪魔へと歩み寄った。
アタシの顔に浮かんだ狂気に気づいたのか、半透明の身体がブルブルと震え出す。
「可哀想な迷子ちゃん。きっと、あなたの主が見ていてくれるわよね?」
アタシはこれ見よがしに、部屋の四隅の死角へ向けて声を張った。
杖の宝玉に、新たな魔力を注ぎ込む。
それは肉体を傷つけるためのものではない。
神経の伝達速度を強制的に引き上げ、痛覚を数十倍に増幅させる、アタシ特製の拷問魔法だわ。
無言のまま杖をかざすと、毒々しい紫の光がクリオネ悪魔を包み込んだ。
アタシは杖の先端で、そのゼリーのような表面を、ほんの僅かに、撫でるように突いた。
「みぎぃぃぃぃぃぃぃッッッ!!!」
地下工房の壁が震えるほどの、鼓膜を劈くような絶叫。
半透明の身体が、苦痛でドクドクと赤黒く脈打ち、空中で狂ったように身悶えする。
さあ、出てきなさい。
アンタの可愛いおもちゃが、今にも壊れそうよ?
アタシは唇の端を吊り上げ、暗がりの奥に潜む「本命」の気配を、舌なめずりをして待ち構えた。
すると、カビと鉄錆の臭いが支配していたはずの工房の空気が、突如として変質した。
鼻腔の奥に、甘ったるい、まるで煮詰めた砂糖と果実を混ぜ合わせたような香りがべっとりと張り付く。
「うみゅう~? あもの可愛い眷属ちゃん、いじめちゃダメだよぉ?」
間の抜けた、ひどく甘ったるい声が、アタシの斜め後ろから鼓膜を直接くすぐった。
振り返るよりも早く、アタシはスカートの裾を翻し、杖の切っ先を声のした空間へと突きつける。
そこには、さっきまで確かに何もなかった空間が陽炎のように歪み、一人の「少女」が佇んでいた。
眼球が、その異質な色彩と造形を捉える。
真っ白な、透き通るような肌。
身に纏っているのは、薄紫色の生地に水玉模様があしらわれた、布面積の極端に少ないビキニ水着だ。その上からピンク色のラッシュガードを羽織っているものの、袖に腕を通しているだけで前は完全に開け放たれており、無防備な肩のラインや、豊かに膨らんだ胸元が惜しげもなく晒されている。まるで、真夏のナイトプールで視線を浴びて楽しむ、自信過剰な小娘のような出で立ち。
腰のあたりからは蝙蝠に似た黒とピンクの小さな翼がパタパタと羽ばたき、その後ろからは、先端が可愛らしいハートの形に膨らんだ尻尾が、ゆらゆらと揺れている。
視線を上へと這わせる。
首元には、悪魔特有の小さなソウルスカルが揺れていた。
そして、顔。
右がピンク、左が薄紫に染まったオッドアイが、悪戯を見つけた子供のように無邪気な弧を描いてこちらを見下ろしている。
頭頂部からは薄紫色の二本の角が突き出し、その手前にはピンク色の二つの結び目がピンと立ったカチューシャが鎮座している。さらに異様なのは、両の側頭部から、髪の毛ではなく真っ白な触手が一本ずつ垂れ下がり、微かに蠢いていることだ。
……ふざけた格好ね。
アタシの警戒心を削ごうという、あからさまな意図が見え透いているわ。
並の魔術師なら、この間抜けで無害そうな外見に騙されて、杖を下ろしてしまうかもしれない。
けれど、アタシの肌は騙されない。
ドレスの下の肌に細かい鳥肌が立ち、長耳の先端が静電気を帯びたようにビリビリと痺れて痛い。
少女の周囲の空間だけが、まるで水飴の底に沈んだように、ねっとりと重く歪んで見える。
ただそこに浮いているだけで、その小さな身体から漏れ出す濃密な瘴気が、周囲の空気を圧迫し、アタシの肺から酸素を搾り取ろうとしてくる。
間違いない。
こいつは、有象無象の下級悪魔なんかじゃない。
七大悪魔。あるいは、それに類する魔界の深淵そのもの。
杖を握る左手のひらに、じっとりと冷たい汗が滲む。
全身の産毛を総毛立たせるほどの圧倒的な瘴気を前にしているというのに、アタシの口角は意思に反して、ゆっくりと三日月の形に釣り上がっていった。
喉の奥で、カラカラに乾いた音が鳴る。
探す手間が省けたわ。
自らアタシの結界を破り、この閉鎖空間に足を踏み入れてくれたのだ。目の前に立つこの得体の知れない少女をアタシの実験台に縛り付ければ、喉から手が出るほど欲しかった七大悪魔の無尽蔵の魔力が手に入る。
そうすれば、あの忌々しい計算式も、この世界を終焉に導くための術式も、全てが完璧に組み上がる。
血管を駆け巡る血液が沸騰したように熱を持ち、アタシの呼吸が欲求で浅く、早くなる。
「最近あもたちのことを調べようとしてるコがいるって聞いて、そのコに教えてもらったんだけど、いざ会ってみたらカワイイねぇ。あもね、カワイイコはだぁい好き」
極度に緊張しきった工房の淀んだ空気を、綿菓子のように甘ったるい声が容易く撫で斬りにする。
石床の上に素足で立つあも、と名乗ったその悪魔の薄紫とピンクの瞳が、ふにゃりと弧を描いた。その穏やかな笑みに連動するように、両の側頭部から垂れ下がる真っ白な二本の触手が、意志を持った生き物のようにくねくねと跳ね回る。
空気を叩くぬちゃりとした湿った音が、アタシの耳の奥にへばりついた。
「それは結構なことね。お近づきの証に、あなたの魔力を根こそぎいただきたいのだけど」
アタシは油断なく杖の切っ先を彼女の鼻先に向けたまま、淑女の仮面を被った冷ややかな声で応じた。床を這うアタシの太い蛇の尾が、獲物を前にしてチロチロと鱗を擦り合わせる音を立てる。
「ええ~それはいやだなぁ。欲張りなコは嫌われちゃうよ?」
悪魔は石床の上で体重を片足に預けて身をよじり、腰のあたりに生えた小さなコウモリ羽をパタパタと動かして、子供のように口を尖らせた。明確な殺意を向けられているというのに、心拍数が上がっている気配すら、その真っ白な肌から伝わってこない。
「それほどでもないわよ? アタシの悲願のためには、魔力なんていくらあっても足りないくらいだもの」
冷え切ったアタシの声帯から、抑えきれない熱情が漏れ出す。
視線を極限まで細め、目の前に立つ標的の筋肉の弛緩具合を観察する。杖を突きつけられても、この悪魔は防御の姿勢すら取らない。
その余裕の出処は、おそらくあの頭部で蠢く不気味な触手。いざとなれば、瞬時にあれを鞭のように展開して物理的な盾にするか、あるいはアタシの身体を直接拘束する算段に違いない。
アタシの肺が、冷たい空気をゆっくりと吸い込む。
脳内で、冷徹な計算式が回り始める。
あの真っ白な触手の細胞が膨張し、アタシに向かってしなるまでの初動。そして、アタシの体内の魔力回路が火花を散らし、杖の先で拘束術式を編み上げるまでの速度。
二つの時間を、ミリ秒単位の天秤にかける。
……勝てるわ。
アタシの魔法の展開速度の方が、僅かに上回る。
相手が触手を動かすよりも早く、この空間ごと縫い留めてみせる。アタシは石の床を掴むように蛇の尾に力を込め、杖を握る指先に、全身の魔力を一気に集束させた。
アタシは杖に全魔力を注ぎ込もうとした。
その刹那、脳の奥底でチリッとした微細なノイズが鳴る。
拍動が一瞬だけ不自然に乱れ、胃の腑の底に冷たい鉛が落ちたような、酷く生理的な違和感。
何か、取り返しのつかない致命的なピースを見落としている。肌を粟立たせる警鐘が、全身の神経を駆け巡った。
けれど、アタシの視界の中央には、極上の魔力を内包した無防備な贄が立っている。
この機を逃せば、次いつ七大悪魔なんて代物を捕獲できるか分からない。あの崇高な数式を完成させるための、最後の鍵がすぐそこにあるのよ。
微かな警鐘など、喉からせり上がるどす黒い渇望が強引に呑み込んでしまった。
アタシは迷いを振り切り、鋭く杖を振り抜いた。
床石を這うように、影よりも濃い黒霧の鎖がシュルシュルと這い出し、あの小生意気な少女の四肢を瞬時に縛り上げる。
――はずだった。
静寂。
空気を裂く杖の風切り音だけが、虚しく地下室に響く。
床石には何の変哲もなく、黒い霧の欠片すら発生していない。杖の先端に埋め込まれた宝玉は、ただのガラス玉のように冷たく沈黙を保っている。
呼吸が止まる。
眼球が見開かれ、乾燥した地下の空気が直接瞳孔を刺す。
あり得ない光景に凍りつくアタシの鼓膜を、クスクスという甘ったるい笑い声が優しく撫でた。
「うみゅみゅ、魔術師さんって、それを封じちゃうとほんとーに弱いよねぇ」
「アンタ……! 一体何をしたの!?」
声帯が引き攣り、ひび割れたような声が口から捻り出される。
「魔力の流れを止めてみただけだよぉ? お得意の魔力視で確認してみたら?」
悪魔は小首を傾げ、薄紫とピンクの瞳を悪戯っぽく細めた。
アタシは弾かれたように、視神経へ魔力視の術式を回す。
視界が反転し、世界が魔力の流体として可視化される。そして、自分の体内を見た瞬間、全身の血液が急速に冷え切っていくのを見た。
普段なら脈打つ大河のように輝きながら循環しているはずの魔力回路が、真っ黒に澱み、完全に沈黙している。
視線を、己の足元へと落とす。
石床から、生々しいピンク色の肉塊が、不気味な光沢を放ちながら這い出していた。
謎の白いべっとりとした液体を纏わせているその太い触手が、いつの間にかアタシの足首から蛇の尾の付け根にかけて、ぴたりと、そしてねっとりと吸い付いていたのだ。
冷たく、ひどく湿った粘膜の感触が、鱗の隙間を塞ぎ、皮膚の裏側へと直接侵入してくるような悍ましい感触。
「ちっ……!」
アタシは反射的に床を蹴って後ろへ飛び退く。
しかし、その一瞬の動揺を、捕食者が見逃すはずがない。
床に張り付いていたピンクの触手が、蛇のように鋭くしなった。
バチンッ!
空気を叩き割る破裂音。右手――あの下級のクリオネ悪魔を握りしめていた手首に、骨まで届くような鋭利な激痛が走る。
「あっ……!」
指先の感覚が完全に麻痺し、無意識に拘束の力が抜ける。
手の中から滑り落ちた半透明のゼリー状の身体は、すぐさま宙を舞い、主である少女の元へ一直線に飛んでいく。
あもと名乗る少女の豊満な胸の谷間にすり寄り、半透明の身体を震わせてポロポロと涙をこぼしている。あもは「よしよし、怖かったねぇ」と、鼓膜にへばりつくようなひどく甘ったるい声で、そのゼリー状の頭をゆっくりと撫でていた。
屈辱で奥歯が軋み、ギリリと耳障りな骨伝導の音が頭蓋に響く。
アタシの工房で、アタシを前にして、随分と余裕な態度じゃない。
怒りで視界の端が赤く染まる。アタシは杖の切っ先を、その無防備な水玉模様のビキニへと真っ直ぐに突きつけた。肺の底に溜まった淀んだ空気を吐き出し、喉の奥から灼熱の魔力を引きずり出す。
「[[rb:不浄を清める煉獄の炎 > プルガトリウム・フランマ]]!」
杖の先端に埋め込まれた真紅の宝玉が、太陽のように眩く発光する。
――直後。プツン、と。
まるで濡れた指先で蝋燭の芯を摘まれたように、練り上げたはずの膨大な熱量が、一切の熱を持たないただの空気となって霧散した。
視線を落とす。
アタシの踵から土踏まずにかけて、あのピンク色の太い触手が、またしてもべったりと張り付いている。アタシが魔力を練り、攻撃の意思を持ったその一挙一動に合わせて、床の石畳と同化するように展開していたのだ。
這い寄る気配すらなかった。粘ついた舌が、鱗の隙間から皮膚の裏側を直接撫で回すような、ひどく生々しい感触。
アタシは息を呑み、反射的に床を蹴って後ろへと飛び退く。
だが、床から伸びたその触手の先端が、離れ際にアタシの足の裏――最も皮膚が薄く敏感な土踏まずの窪みを、そろり、と舐め上げるように撫でた。
「ひあッ!?」
声帯が勝手に跳ね、情けない悲鳴が口からこぼれ落ちる。
背筋を粟立たせる悪寒と、脳髄を焼くような奇妙な熱が同時に駆け抜けた。膝からガクンと力が抜け、アタシは咄嗟に杖を床に突いて、辛うじて前のめりに倒れるのを堪えた。
「せっかちだなぁ」
あもが、小首を傾げてクスクスと笑う。
弄ばれている。その明確な事実が、アタシの血管に煮えたぎる泥を流し込んだ。
杖を握る指先が白く変色し、爪が掌に食い込んで血が滲む。
アタシは昂ぶる感情の波に身を任せ、杖の宝玉に、どす黒い呪詛の魔力を直接流し込んだ。対象の精神を汚染し、猜疑心と憎悪を極限まで増幅させる、とっておきの呪い。
さあ、その胸に抱いた可愛いペットと、醜く殺し合いなさい。
宝玉から放たれた黒い波動が、あもの白い肌へと殺到する。
出力を最大まで引き上げた、致死量の呪い。
だが、その漆黒の波動は、あもの身体に触れる数センチ手前で、見えないガラスの壁にぶつかったかのようにピタリと停止した。
「うみゅ、呪術も得意なんだねぇ」
あもの薄紫とピンクのオッドアイが、三日月の形に細められる。
「でもねぇ、あもは色欲の大悪魔だよぉ? 昂ぶる激情のコントロールなんて、あもにとっては息をするのと同じことなの」
空中で停止していた黒い波動が、水面に落ちた波紋が逆行するように、クルリと反転する。
避ける暇などなかった。
ドンッ、と。
見えない巨槌で胸の中央を殴りつけられたような衝撃。
視界が急速に明度を落とし、色彩が抜け落ちていく。
耳鳴りがキンと鳴り響き、その奥から、泥の底に沈めて蓋をしていたはずの『声』が、無数に這い出してきた。
『ラミア。背筋を伸ばしなさい。あなたは名家の娘なのですから』
『言葉遣いがなっていません。もう一度、最初から』
氷のように冷たい、両親の眼差し。分厚い教本で叩き直される、手足の角度、視線の運び、呼吸の癖さえも。見えない鉄のコルセットで骨格ごと歪められ、アタシという個人の輪郭を削り落とされるような、息の詰まる『矯正』の記憶。
『見て、またあの子よ』
『ヘビヘビ族のくせに、気取っちゃって』
『本当に……気持ち悪いわね』
冷ややかな軽蔑。剥き出しの嘲笑。
学友という名の、有象無象の屑共の顔が、万華鏡のようにグルグルと回転してアタシを囲い込む。誰一人としてアタシの隣を歩こうとはせず、遠くから石を投げ、ただヒソヒソと陰口を叩く。何千回、何万回と繰り返された、絶対的な孤独。
肺が空気を拒絶する。ヒュー、ヒューとひび割れた音が喉の奥で鳴り、全身の毛穴から冷たい脂汗が滝のように噴き出す。
孤独と自己嫌悪という名の絶対零度の泥沼が、アタシの足首から這い上がり、太もも、腰、胸元、そして首筋まで、どっぷりと浸食していく。
胃袋が激しく痙攣し、強烈な吐き気が込み上げる。
アタシの身体はガクガクと小刻みに震え、もはや立つことすら許されず、冷たい石床の上に両膝を突き崩していた。
それでもアタシは、震える右腕に無理やり力を込めた。焦点が定まらず、涙で淀みきった視界の先、水玉模様の小娘に向けて、杖の切っ先を震えながら持ち上げる。
指先の感覚はない。ただ、己の魂を削り落とした奴らへの憎悪だけが、辛うじてアタシの身体を動かしていた。
「しぶといコだね。でもあもはそんなコ好きだよぉ」
上から降ってくる、毒のように甘ったるい声。
直後、アタシの真横の石壁がドロリと歪んだ。硬い石の材質が水面のように波打ち、そこからピンク色の太い肉の柱が射出される。それは瞬きする間もなくアタシの左手に伸び、杖の柄へと蛇のように巻き付いた。
抵抗する間すらない。凄まじい力で上方へ引かれ、掌の皮が擦り剥ける熱い痛みと共に、唯一の武器が虚空へと奪い去られる。カラン、と遠くで杖が転がる無機質な音が、ひどく遠くに聞こえた。
「……ッ!」
武器を失ったパニックで、肺がヒュッと引き攣る。
アタシは反射的に空になった両手を前へ突き出し、カラカラに乾いた喉から、得意の炎魔法と呪いの詠唱を矢継ぎ早に紡ぎ出した。唇を噛み切りそうな早口で、必死に言葉を重ねる。
しかし、指先からは火花一つ、黒い霧の欠片一つ生まれない。魔力回路は完全に死に絶え、アタシの言葉はただの乾いた空気の振動となって工房に消えていく。
その絶望の隙を突くように、背後から音もなく忍び寄った生温かい『何か』が、首元のドレスの隙間から滑り込んできた。
ヒヤリとした、それでいて粘着質で生々しい肉の感触。それが、背骨のラインをなぞるように、下へ下へと直接肌を撫で上げていく。
「ひ、あぁッ!?」
声帯が裏返る。背筋を這うおぞましい感覚に、アタシは狂ったように首を振り、背中の異物を手で振り払おうと無様に身を捩った。
爪が石床をガリガリと引っ掻き、不様な這いずりでその場から逃れようと尾をばたつかせる。だが、前へ進もうとした片足首を、床石を突き破って生えた別の触手が万力のように締め付けた。
「離しなさいッ、離して……!」
いくら暴れても、ピンク色の肉はビクともしない。それどころか、足首に絡みついた先端の口から、どろりとした白い液体が吐き出された。
鼻腔を暴力的に満たす、吐き気を催すほどに甘い砂糖とバニラの匂い。その白くて甘いホイップは、アタシの足首から太もも、さらにはドレスの裾の裏側までねっとりと這い広がり、上質な布地をひどく卑猥な粘度で皮膚に張り付かせていく。
冷たくて甘い粘液が太ももを伝い落ちる感触に、全身の鳥肌が立つ。
這いつくばって荒い息を吐くアタシの頭上から、あもが事も無げに言葉を落とした。
「ここに入ってきた時からね、もうこの空間はあものお庭なの。どこからでも『ホイップイソギンチャク』ちゃんを呼んで、キミを自由にできちゃうんだよぉ」
その言葉が鼓膜を打った瞬間、工房の空気が一気に重力を持ったかのように、アタシの身体を石床へ押し付けた。
絶対の安全圏であり、アタシという呪術師にとっての玉座であるはずの工房。それが、この少女が現れた最初の1秒で、既に異界の悪魔の胃袋の中へと塗り替えられていたのだ。
アタシが扉の結界の破壊を訝しんでいた時も、杖を構えて歓喜に震えていた時も、彼女はただ、自分の領域の真ん中で踊る滑稽な道化を眺めていただけ。
呼吸が浅くなる。冷え切った指先が、べとべとになったドレスの裾を無意味に握りしめる。
相対したあの瞬間。あの時、アタシは全力で背を向け、この部屋から逃げ出していなければならなかったのだ。取り返しのつかない致命的な見落としが、いま確かな絶望の形をとって、アタシの四肢に絡みついていた。
べっとりと肌に張り付く甘い粘液とドレスの不快な重みが、石床の冷たさと混ざり合って体温をじわじわと奪っていく。這いつくばるアタシの視界の上から、あもがゆっくりと顔を覗き込んできた。
「カワイイ魔法少女ちゃんは、きっと今までは負けたことがなかったんだよねぇ。だからずっと強者の立場で周りを見下して、自分が虐げられる側になるなんて一切考えもしなかったんだよねぇ?」
鼓膜の奥にまでねっとりと侵入してくる声。先ほどまでの、どこか間延びしたのほほんとした響きの中に、じゅわりと粘着質な熱が混じり始めている。
「あもの眷属ちゃんを拷問しようとした時、随分手慣れてたもんねぇ。でも、たまには自分がじっくり甚振られる方を体験したら、相手の気持ちも思いやれるんじゃないかなぁ」
その言葉の端々から漏れ出す濃密な呼気が、アタシの顔に直接吹きかかる。
陶器のように無機質に真っ白だった彼女の頬や首筋に、じゅわ、じゅわと、内側から血の巡りが加速して滲み出すような朱色が差していく。水玉模様の薄紫色のビキニに包まれた豊満な双丘が、浅く、早いリズムで上下を繰り返し始めている。その荒くなった呼吸のペースが、彼女の内に渦巻く加虐の興奮を隠しきれずに露わにしていた。
頭の横から垂れ下がる真っ白な二本の触手が、主人の異常な高揚に呼応するようにびくびくと脈を打ち、空気をぬちゃりと湿った音で叩く。背後で揺れるハート型の尻尾の先端が、期待に打ち震えるように小刻みに痙攣している。
そして何より、アタシの背筋を極寒の氷で撫で上げたのは、あの目だった。
ふにゃりと三日月の形に緩んでいたはずのピンクと薄紫のオッドアイから、子供のような愛らしさが完全に削ぎ落とされていた。色彩の奥にある瞳孔が針のように細く、鋭く収縮している。ガラス玉のような無機質さの奥底で、ギラギラとした粘つくような光が乱反射を繰り返していた。
アタシの震える唇から、ホイップに塗れた手足の先、そして恐怖に硬直する尾の先までを舐め回すその重たい視線。それは、網にかかった獲物の肉の柔らかさを品定めし、骨の髄まで啜り尽くすまで絶対に逃がさないと断言する、飢えた捕食者の生々しい眼差しそのものだった。
肺の奥で空気が凍りつく。心臓が肋骨を突き破らんばかりに早鐘を打ち、喉仏が上下に激しく引き攣る。カラカラに乾いた気管から、ひゅっ、と掠れた摩擦音だけがアタシの口から情けなく漏れ出た。
逃げようと床石を引っ掻いたアタシの指先が、空を切る。
視界の端で薄闇が爆ぜたかと思うと、四方八方から無数のピンク色の肉柱が射出された。手首、二の腕、腰、そして太い蛇の尾。あらゆる関節と自由が、吸盤のついた生温かい粘膜に絡め取られ、一瞬にして宙へと吊り上げられる。
「ふ、ふざけるなッ! 離しなさい、この薄汚い化物ッ!」
気管が裂けそうなほどの絶叫。全身の筋肉を軋ませて暴れ回るが、ゴムのような弾力を持つその肉は、アタシの抵抗を嘲笑うように深く食い込んでくるだけだ。
それどころか、手足の末端を縛る触手が、蛇のようにうねりながらドレスの裾から内側へと這い上がってくる。ひんやりとした異物が、素肌を直接這いずる感覚。
「ひっ、やめ……!」
悲鳴が裏返る。触手の先端から、あの吐き気を催すほど甘いバニラの匂いがする白いホイップが大量に吐き出された。冷たくて重たい粘液が、上質なシルクの裏地を汚し、アタシの硬い鱗の一枚一枚の隙間にまで執拗にねじ込まれていく。そして、最も無防備で敏感な肌の奥底にまで、その不快な冷たさが容赦なく塗りたくられていく。
その甘い冷感に身体を強張らせた瞬間、背後で揺れていたハート型の尻尾が、アタシのうなじをチクリと刺した。
「あッ……!?」
焼けた鉄串を神経の束に直接ねじ込まれたような、鋭利な激痛。だが、それはすぐにドロリとした熱に変わり、体中の血管を逆流していく。脳髄が白く弾け、アタシの意思とは全く無関係に、背骨がビクンッと大きく跳ねた。内臓が溶け出すような奇妙な熱と痺れが、全身の筋肉を強制的に弛緩させていく。
さらに、別の太い触手がアタシの首筋に巻き付き、気管をゆっくりと圧迫し始める。
生かさず、殺さず。絶妙な力加減で酸素が遮断され、耳の奥で自らの心拍音がドクンドクンと暴力的に響く。視界の端にチカチカと黒いノイズが走り、口からはヒュー、ヒューという惨めな空気の漏れる音と、毒によって強制的に引き出された甘い喘ぎ声が混ざり合って垂れ流された。
氷のようなホイップの悪寒。毒がもたらす内臓を焦がすような熱。絶え間なく響く粘着質な水音。酸素欠乏の苦痛と、焼け付くような神経の疼き。
相反する感覚の濁流にごちゃ混ぜにされ、一体自分がこれからどうなってしまうのかという恐怖に、アタシの目からボロボロと大粒の涙が溢れ落ちる。
ガタガタと痙攣するアタシの顔を、両側から小さな、けれど絶対的な力を持つ白い手が優しく包み込んだ。
「無理矢理するのも嫌いじゃないけど、やっぱりカワイイ女のコ相手なら優しくしたいなー」
至近距離で、あもの甘ったるい声が鼓膜を撫でる。
直後、アタシの震える唇を、ひどく柔らかくて熱いものが塞いだ。
「んぐッ……!?」
声にならない悲鳴が、あもの口内へと吸い込まれる。抵抗しようと首を振ろうにも、両手で固定された頭蓋は微塵も動かせない。
蕩けるような熱い唇がアタシの口内を強引にこじ開け、歯列を舐め、歯茎を這い、そして無防備な舌へと絡みついてくる。他者の体温と唾液が混ざり合う、圧倒的で濃密な蹂躙。アタシはただ、されるがままに涙を流し、その甘い地獄の中で、酸欠の金魚のように浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。
ぷつり、と。繋がっていた銀色の糸が切れ、あもの甘い唾液ごと外の空気が一気に肺へ流れ込んでくる。
視界のピントが合わない。酸素を求めて喉がヒューヒューと惨めな音を鳴らし、肩が大きく上下に波打つ。焦点の定まらない視界の端で、薄紫とピンクの悪夢が蠢いている。
ドレスの布地を無残に押し広げた太い触手が、アタシの柔らかな双丘に吸い付き、そして、これまで誰の目にも触れさせたことのない密壺へと、容赦なくそのぬめる先端を滑り込ませていた。
「あッ……ひ、いやぁ……ッ!」
固く結んでいたはずの唇から、アタシ自身のものとは思えない、酷く甘ったるい声がこぼれ落ちた。
暴力的な拘束とは裏腹に、その動きはひどく、ひどく丁寧で……。吸盤が肌を吸い上げ、柔らかく捏ねるたび、脳髄の奥が白く明滅する。必死に膝を閉じようともがくが、太ももに絡みついた別の肉柱がそれを許さず、無防備な急所を執拗に弄り回してくる。
さらに、首筋に忍び寄った尻尾の先がチクリと皮膚を破る。
血管に直接流し込まれた未知の毒素が、ガソリンのように体内の熱を爆発させた。額から脂汗が吹き出し、頬から首、胸元に至るまでが、高熱に浮かされたように真っ赤な朱色に染まっていく。心臓が肋骨を突き破りそうなほどに早鐘を打ち、視界がぐらぐらと揺れる。
「あはっ、お顔、真っ赤だねぇ。すっごくカワイイよぉ」
触手だけじゃない。あもの白く滑らかな指先が、そして熱を帯びた柔らかい舌が、びくびくと跳ねるアタシの肌を直接なぞり上げ、丹念に舐め回していく。鱗の境目、うなじ、そして震える太ももの内側……。アタシが最も震え上がる箇所を、悪魔の嗅覚で正確に探し当て、舌先でチロチロと愛撫してくる。
「ひぐッ、や、やめなさいッ……あ、あァッ!」
これまでのアタシの人生は、息の詰まるような両親の抑圧と、冷たい石室での魔術研究の中にしかなかった。他者の体温を知らず、己の身体に眠る歓喜の在処すら知ろうともしなかった。本来なら、これほどの刺激を受けても性感など鈍麻しているはずの身体。
けれど、悪魔の毒は、泥の底に沈んでいたアタシの内なる性を、強引に叩き起こし、引きずり出した。触手による冷たい粘液と、あもの体温による熱。緻密に計算された苛烈な責め苦が、未体験の感覚となってアタシの神経を焼き尽くしていく。
「あ、あぁ……ダメッ、何か、くる、あぁぁぁぁッ!!」
目の前で真っ白な火花が散った。
背骨に雷が落ちたような強烈な痺れが駆け抜け、宙吊りにされた手足の指先が限界まで反り返る。肺の空気を全て吐き出すような甲高い叫び声と共に、アタシの身体は、生まれて初めての、そして致死量とも言える絶頂の波に飲み込まれ、空中で激しく、無様に跳ねた。
頭の奥が真っ白に染まり、理性も、復讐の誓いも、ただ甘く熱い奔流の中にドロドロに溶かされていった。
……
四肢を宙に縫い留められたまま、アタシの身体は完全に、自らの理解を超えた「異物」の支配下にあった。
ピンク色の太い肉柱が、アタシの魔力回路の要所――手首、足首、首筋、そして魔力の源泉である胸の中央――にべったりと吸い付いている。
「じゃあ、いただくねぇ。カワイイ魔法少女ちゃんの、とびっきりの魔力」
あもの鼓膜を舐めるような囁きと同時に、触手の奥で何かが脈打った。
直後、アタシの体内を巡る高純度の魔力が、毛穴という毛穴から強引に、そして貪欲に外へと引きずり出され始めた。
「あ、ァッ……!? ぐッ、あ、あぁぁぁッ!」
痛みではない。肉体を切り刻まれるのとは全く次元の違う、魂の髄を直接啜り上げられるような感覚。魔力を抽出されるそのプロセスは、アタシの神経の束を甘く焼き焦がすような、致死量の快楽の奔流となって脳髄を直接殴りつけた。
目の前で、チカチカと真っ白な火花が散る。
復讐のために、マジリシアを滅ぼすという大層な悲願のために、血を吐くような努力で丹念に練り上げ、生涯手放すことなどないと誓っていたアタシの「誇り」の結晶。それが今、目の前の得体の知れない悪魔の胃袋を満たすための単なる養分として吸い上げられている。
あろうことか、その喪失の過程が、脳細胞をドロドロに溶かすような恐ろしいほどの甘い痺れにすり替えられていく。
「ふざけ、るなッ! 離せ、この、いやらしい悪魔ッ……! アタシの、アタシの魔力を……ひぐッ、あァッ!」
涙とよだれで顔をぐしゃぐしゃに汚しながら、アタシは首を振り乱し、掠れきった声で罵詈雑言を吐き散らす。
だが、あもは初めての感覚に恐慌をきたすアタシを、まるで駄々をこねる幼児でもあやすように、優しく、ひどく残酷な手つきで頬を撫でた。
「うみゅみゅ、そんなに怖がらなくても大丈夫だよぉ。初めてだからビックリしちゃったんだよねぇ。ほら、力抜いて? すっごく気持ちいいでしょ?」
アタシの必死の抵抗を嘲笑うかのように、拘束する触手たちがいやらしいうねりを見せる。先端から、どろりと大量の冷たいホイップが吐き出され、魔力を吸い上げられて異常な高熱を持った肌の上を滑っていく。
極寒の甘い粘液と、体内を焦がす搾取の熱。
その絶対的な温度差が、アタシの狂気をさらに加速させる。
「やめ……ッ! いや、いやぁぁッ!」
抗おうと、石床に向かって無様に尾をばたつかせる。関節を外してでも逃れようと筋肉を軋ませる。
けれど、魔力を一滴搾り取られるごとに、背骨から雷のような痺れが突き抜け、アタシの意思とは完全に無関係に、喉の奥から甲高い、甘ったるい喘ぎ声がとめどなく溢れ出てしまう。
アタシの身体は、もうアタシ自身が知っている「ラミア」という呪術師のものではなかった。
誇り高き自我が、真っ白な光と快感の渦の中に融解していく。復讐に命を燃やす覚悟を決めた女の輪郭は崩れ去り、ただ底なしの甘い毒と魔力の搾取に溺れ、喘ぐことしかできない哀れな肉の器へと作り替えられてしまったのだ。
視界が涙で完全にぼやける中、絶え間なく続く抽出の波に、アタシの身体は空中で弓なりに反り返り、惨めな絶頂の声を何度も、何度も地下の石室に響かせることしかできなかった。
……
宙に縫い留められていた四肢からふいに圧力が消え、アタシの身体は冷たい石床へと無様に落下した。
べちゃり、と。
上質なドレスにたっぷりと吸い込まれた白く甘いホイップと、全身の毛穴から噴き出した脂汗、そして魔力を啜り尽くされる過程で幾度となく撒き散らしたドロドロの露が、冷たい石畳に叩きつけられて不快な水音を立てる。
肺が空気を求め、ヒュー、ヒューとひび割れた音を鳴らして痙攣している。全身の骨の髄まで完全に脱力し、指一本動かすことすら叶わない。焦点の合わない視界の端で、薄紫とピンクの姿がふわりと揺れた。
「うみゅみゅ……ちょっとやり過ぎちゃったかなぁ。でも、すっごく美味しかったよぉ」
間延びした声が、頭蓋骨の上を滑っていく。
屈辱で、奥歯が砕けそうなほどに噛み締めた。口内に生暖かい鉄の味が広がる。
アタシはマジリシアを滅ぼすのよ。こんな薄暗い地下室で、得体の知れない化物のおやつにされて終わるような、そんな安い命じゃない。
アタシは泥のように重い両腕をホイップまみれの床に突き、ガタガタと震える上体を無理やり起こした。枯れ果て、焼き切れた魔力回路の奥底を掻き毟り、命の残りカスのような魔力だけを左手に集束させる。
「舐める、なッ……!」
血反吐を吐くような詠唱破棄と共に、アタシは左手を突き出す。掌から赤黒い炎が弾け飛び、無防備に立っていた悪魔の身体を真っ直ぐに捉えた。
ボワァッ! と熱風が工房の羊皮紙を激しく舞い上げる。
――けれど、それはあまりにも矮小だった。
散々魔力を啜り尽くされたアタシの炎は、あもの白い肌を焦がすどころか、水玉模様の水着の表面をチロチロと舐めるだけで、文字通り煙となって霧散していく。熱気すら帯びていない、ただの赤い光の残滓。
煙が晴れた向こう側で、あもが小首を傾げていた。
薄紫とピンクのオッドアイの瞳孔が、スッ、と針のように細く収縮する。口角はふにゃりと上がっているのに、その瞳の奥には、新たな玩具を見つけた捕食者の狂おしい熱がドロリと渦巻いていた。
「あはっ。もう限界って顔して、まだまだ元気いっぱいだねぇ」
あもの両側頭部で蠢く白い触手が、歓喜に震えるように空気を叩く。
「あも、そういう強気なコ……もっと自分から泣き叫んでおかしくなるまで、ぐちゃぐちゃにしたくなっちゃうなぁ」
ゾクリと、背筋を絶望の氷柱が貫く。
逃げる間もなかった。石床から再び弾け飛んだピンク色の肉柱が、アタシの手首と足首、そして蛇の尾を、先程よりもさらに強固に、骨が軋むほどの暴力的な力で縛り上げた。
同時に、アタシの真下の石床が禍々しい漆黒に染まり、複雑な幾何学模様を持つ転移魔方陣が浮かび上がる。そこから立ち昇る瘴気は、ここが二度と生きては帰れない魔界の深淵へ直結していることを、アタシの肌に直接叩き込んできた。
「いやッ、やめなさいッ! アタシは、アタシはまだ――!!」
身体が、底なしの泥沼へと沈み込んでいく。
アタシの絶叫は、空間が歪む耳鳴りのようなノイズと共に、ぷつりと途絶えた。
静寂が戻った地下工房。
換気扇の低い駆動音だけが響くその空間に残されたのは、熱風で部屋中に散乱した大量の羊皮紙。そして、床石にべったりとこびりついた白く甘いホイップと、絶頂の果てにアタシが撒き散らした生々しい水溜まり。
主を失った淀んだ空気に、最期に響き渡った絶望の残響だけが、いつまでも虚しく漂っていた。