砂糖菓子の檻

  ……認めない。

  こんな 結末は 認められない。

  キミが 望んだはずの幸せが また 崩れようとしている。

  どうしてだろうね。 アノコの中に眠る「飢え」は ボクの光さえ届かない 深い 深い 闇の底にあるみたいだ。

  

  ボクは あきらめないよ。 キミと ボクの魂は あの日 一つになったんだから。

  

  キミが 二度と泣かないように 愛おしい 蜜の日々を 守り抜くと誓ったんだ。

  

  だから もう一度 巻き戻そう。 キミが 傷つく前に。 アノコが すべてを 呑み込んでしまう前に。

  

  すべてを白紙にして また 完璧な朝を 始めよう。

  

  ……おや。

  

  この 耳を打つ 不穏な風の音は なんだろうね。

  

  ボクが 描き直したはずの 白い地図の上を 勝手な方向へ 飛び回る 黒い影がある。

  

  ボクの手を すり抜けて 指先を 鋭く弾いていく 不遜な羽ばたき。

  

  この 翼の行方は まだ 誰にも分からない。

  

  [newpage]

  夢を、見ていた。

  それは、何も満たされない夢だ。

  

  泥のような鉄の味が、口の中にへばりついて取れない。

  顎が痛い。数えきれないほどのモノを、裂けるほど大口を開けて喉の奥へ押し込み、呑み下し続けてきたせいで、顎の関節が軋みを上げて悲鳴を上げている。それなのに、胃袋の底には焼け付くような渇きがあった。満たされない。どれだけ世界を飲み込んでも、この腹の底に開いた穴は塞がらない。

  瞼の裏に焼き付いているのは、どこまでも続く平坦な大地だ。

  かつてそこにあったはずの凸凹が――家も、木々も、山さえも――すべて私の足元で均されている。視界を遮るものなど何もない。地平線の彼方まで、ただただ無機質な線が引かれているだけ。

  白み始めた空から、暁の光が差している。瞬いていた星々が一つ、また一つと色を失い、死んだ魚の眼のような空気に溶けていく。

  ああ、静かだ。 風の音以外に、何も聞こえない。

  世界にはもう、私という異物しか残っていないのだと、肌を刺す静寂が教えてくる。

  いや――違う。もう一つだけ、「生」の温もりがここにある。

  私は、自身の腹部へと視線を落とす。

  異様に膨れ上がった下腹部。私の華奢な骨格には到底釣り合わない、醜悪な球体がそこにあった。皮膚が極限まで引き伸ばされ、血管が青黒く浮き上がっている。

  その内側で、ピクリ、と何かが蠢いた。

  弱々しい、あまりにも頼りない痙攣。

  まるで、吸収されることを拒むような、あるいは最期の別れを告げるような、微かな抵抗。

  ……私は、何を食べてしまったのだろう?

  思い出そうとすると、頭の中に濃い霧がかかる。

  殺意を向けてきた敵だったろうか。それとも、昨日まで隣で笑い合っていた、あの温かな――。

  思考がまとまらない。ただ、喉の奥から込み上げる生臭いゲップと、胃の中でドロドロに溶けていく「誰か」の熱量だけが、現実としてそこにある。

  膨らみは、みるみるうちに萎んでいく。

  内側にあった命が、私の肉へと変換され、同化していく。抵抗が止む。鼓動が消える。

  

  私の中で、また世界が終わった。

  「ぁ、あ……」

  口を開くと、乾いた唇が割れて血が滲んだ。

  寒い。 腹の中はこんなにも業火のように熱いのに、身体の表面は凍りつくように冷たい。吹き付ける風が、汗で濡れた肌から容赦なく体温を奪っていく。

  誰か。

  誰か、名前を呼んで。

  私がここにいると、私が私であると、誰か認めて。

  「う、あぁああああっ!!」

  裂帛の叫びが、喉を引き裂きながらほとばしる。

  けれど、その声を受け止める壁すらない。絶叫は虚空へと吸い込まれ、反響することなく拡散していく。

  嘲笑うような風が、私の肌を撫でて通り過ぎるだけ。

  私は駆け出した。

  瓦礫すら残っていない更地を、裸足で蹴る。足の裏が擦り切れようと構わない。どこまで走っても景色が変わらない絶望の中、私はただ、幼子のように泣きじゃくりながら、誰もいない世界の果てへと手を伸ばし続けた。

  空を見上げる。

  夜明けの空に、たった一つだけ残っていた、小さな光。

  私を見てくれていた最後の星。 伸ばした指先が、その光に触れようとした、その瞬間――。

  フッ、と。

  瞬きをするように、唐突にその輝きが消滅した。

  私の腹が、とくん、と満足げに脈打った。

  もはや夜空には何もない。地上にも何もない。

  

  ただ、私だけが残された。

  [newpage]

  頬を伝う熱い雫の感触と、自身の喉から漏れる嗚咽で意識が浮上する。

  濡れたまつ毛が重なり合い、瞬きをするたびに視界が滲む。そこに映ったのは、見慣れた寮の無機質な白壁ではなく、年季の入った太い木の梁が渡された天井だった。

  「……っ、うぅ……」

  鼻をすすると、隣のベッドから規則正しい寝息が聞こえてくる。

  横を向くと、布団にくるまって幸せそうな顔をしたミーティアがいた。ネコネコ族特有の尖った耳がピクリと動き、あどけない寝顔が無防備に晒されている。

  その平穏なリズムに同調するように、早鐘を打っていた私の心臓がようやく落ち着きを取り戻し始めた。肌にへばりついていた悪夢の冷気が、親友の体温を感じることで少しずつ剥がれ落ちていく。

  折角のお泊まり会だというのに、またあの夢だ。

  私は乱暴に目元を拭う。昨日、寝落ちする寸前までミーティアと新しい術式の話で盛り上がり、胸を躍らせていたはずなのに。目覚めた瞬間のこの泥のような疲労感はどうだろう。

  夢の内容を反芻しようとすると、頭の芯がずきりと痛む。

  視界を遮るものがない、荒涼とした大地。私が生まれ育ったマナウイ海域の美しい珊瑚礁や、海流の揺らぎとは似ても似つかない乾ききった世界。

  魔術師を目指して故郷を離れ、この魔法都市ソルシエに来て一年半。勉強と実技に明け暮れる日々の中で、あんな荒野に足を運んだ記憶など一度もない。あれは私の記憶ではなく、妄想が生み出した怪物なのだろうか。それとも――。

  誰かが、何かを訴えかけている?

  ふと、そんな考えがよぎる。けれど、その「誰か」の輪郭を掴もうとすると、指の間から砂がこぼれ落ちるように思考が霧散してしまう。

  病院に行くべきか、あるいは専門の先生に相談すべきか。

  いや、もっと身近に頼れる人がいる。けれど、彼にこの話をしようとすると、なぜか喉がつかえて言葉が出てこないのだ。「気のせいだよ」と優しく微笑まれる光景だけが、既定事項のように脳裏に浮かぶ。

  その時、寝室の扉の隙間から、香ばしい匂いが漂ってきた。

  焼けた小麦と、温かいスープの香り。

  どうやら話題の「彼」は、私たちよりも早く起きて朝食の支度を整えてくれているらしい。

  流石にこれ以上、客人が惰眠を貪るわけにはいかない。

  「ミーティア、起きて。朝だよ」

  隣のベッドの膨らみを揺らす。

  けれど、ミーティアは布団を頭まで被り直し、巨大なカタツムリのような塊になって抵抗した。

  「ミャ……あとちょっと寝かせてくだサイ……ジャムパンが、逃げちゃうんデス……」

  「夢の中でご飯食べてないで、現実で食べようよ」

  布団の隙間から見える耳と、モゾモゾと動く姿があまりに愛らしくて、私の指先が悪戯心に疼いた。

  私は掛け布団を一気に剥ぎ取ると、丸まったミーティアの背中に抱きつき、無防備な脇腹へ指を突き立てた。

  「ミャッ!? ミャハハハ!?」

  「起きない子はこうだっ!」

  「や、やーめーテーくだサーイ! ミャハハ……っ! ミーの負け、負けデスからぁ!」

  弾けるような笑い声が、柔らかな光が満ちた寝室に響き渡る。ひとしきりじゃれ合い、ミーティアの乱れた髪と服を整えてから、私たちはリビングへと向かった。

  ……

  リビングのテーブルには、湯気を立てる料理が所狭しと並べられていた。

  キツネ色に焼き上がったパン、彩り豊かな野菜が煮込まれた琥珀色のスープ、そして黄金色の光沢を放つスクランブルエッグ。

  「ミャーオ! 美味しそうデス!」

  ミーティアが目を輝かせて歓声を上げる。

  そこへ、キッチンからエプロン姿の少年――この家の主であるセリオ君が、湯気の立つポットと追加のパンが入ったバスケットを抱えて現れた。

  「やあ、おはよう。二人ともよく眠れたかい?」

  「おはよう、セリオ君。ごめんね、全部準備させちゃって」

  「いいんだよ。僕が好きでやってるんだから。さあ、冷めないうちに座って」

  彼の笑顔は、窓から差し込む朝日よりも眩しく、一点の曇りもない。

  私たちが席に着くと、パタパタという羽音と共に、賑やかな同居人たちが集まってきた。

  セリオ君の使い魔である悪魔のでびるんさん、天使のクピャドエルさん。そして、私とミーティアのそれぞれの契約相手となった、小さな蝙蝠姿の悪魔の姉弟、ココヨとザッスだ。

  「ふわぁ……オハヨーだぎゃ」

  「ねむいっす……」

  皆、まだ眠たげな目をこすりながらも、セリオ君に促されてそれぞれの席に着く。

  大所帯の朝食が始まった。

  カチャカチャと食器が触れ合う音と共に、昨日の魔法実技の反省や、マルス先生がセリオ君の魔法を見て腰を抜かしかけた話、ミーティアが最近熱中している占星術の話で食卓は活気づく。

  その時、ガリガリッ、とガラスを必死に引っ掻く音が響いた。

  音の主はザッスだ。彼はテーブルの中央にあったラズベリージャムの瓶を抱え込み、残り少なくなった赤い果肉をスプーンで根こそぎ掬い取ろうとしていた。

  スプーンの上には、彼の顔の大きさほどもある真っ赤な山ができている。

  「ああっ! ザッス、ズルいぎゃあっ!」

  それを見たココヨが、甲高い声を上げて飛びかかった。

  「それ残り全部じゃない! 塗りすぎだよ! あちきの分がなくなっちゃう!」

  「早いもん勝ちっす、おいらのだ!」

  「ダメったらダメ! 返せだぎゃあ!」

  ザッスがスプーンを死守しようとし、ココヨがその腕に噛みつこうとする。瓶が倒れそうになり、あわや大惨事というところで、私とミーティアが同時に動いた。

  「こらこら、ココヨ。落ち着いて」

  「ザッスもダメでしょ! 独り占めはメッ、デスよ!」

  私がココヨの小さな体を空中で優しくキャッチし、ミーティアがザッスの手からスプーンを取り上げる。 ふー、ふー、と興奮して鼻息を荒くする二人の頭を、私たちはそれぞれ指先で撫でてなだめた。

  「半分こ、ね? 私の分あげるから」

  「ミーのもあげマスから、仲良く食べるんデスよ」

  私たちがなだめると、二人はバツが悪そうに顔を見合わせ、「……分かったぎゃ」「……お姉ちゃんが言うなら」と矛を収めた。

  そんな騒がしくも微笑ましい光景を、セリオ君はポットを持ったまま、目を細めて見守っていた。

  まるで、手のかかる子供たちの成長を喜ぶ父親のような、慈愛に満ちた眼差し。

  この空間には、確かな愛と絆がある。そう思わせてくれる温かい時間。

  「いただきまーす」

  私は焼きたてのパンに、瓶詰めされた濃厚なイチゴジャムをたっぷりと塗った。光沢のある赤色が、食欲をそそる。

  大きく一口かじりつく。

  口の中に広がるはずの、甘酸っぱい果実の風味を期待して。

  ――あれ……?

  咀嚼の手が、一瞬止まる。

  甘くない。いや、甘みという「情報」はあるのだが、それが舌の上を滑っていくだけで、脳に「美味しい」という信号が届かない。まるで、赤い絵の具を塗った粘土を噛んでいるような、無機質な感触。

  首を傾げながらスープを掬う。瑞々しいはずの野菜を噛み締めると、ジャリッ、と奥歯で砂を噛んだような錯覚が走った。

  スクランブルエッグもそうだ。ふわふわとした食感のはずが、どこかゴムのような、あるいは灰を固めたような、異物感が拭えない。

  薄皮一枚。 私と世界の間に、見えない膜が張られているような違和感。

  (……寝ぼけてるのかな)

  私は小さく頭を振って、二口目を口に運ぶ。

  ゴクリと飲み込む。胃の中に落ちれば、それはただの栄養素だ。三口目を食べる頃には、違和感は麻痺したように気にならなくなっていた。

  ふと視線を上げると、でびるんさんがパンを齧りながら、どこか遠い目をしているのが見えた。普段なら傲慢な態度で「オレサマのジャムが少ない!」と騒ぎ出しそうな彼が、今日は妙に静かだ。

  彼の視線は、楽しげに笑うセリオ君の横顔に注がれ、すぐに悲しげに伏せられた。

  けれど、それも一瞬のこと。

  次の瞬間には、いつものふてぶてしい顔で牛乳を飲み干していたから、きっと彼も寝起きで機嫌が悪かっただけなのだろう。

  ……

  食事を終え、私たちは手分けして後片付けを済ませた。

  セリオ君には休んでいてもらい、ココヨとザッスも小さな体で皿運びを手伝ってくれる。

  この子たちと契約した時のことを思い出す。

  「召喚士」の異名を持つ神童、セリオ君。

  彼にとって魔法は呼吸するように容易いものだが、私とミーティアにとっては高い壁だった。

  落ちこぼれかけていた私たちに、彼は「先生」として手を差し伸べてくれただけでなく、画期的な提案をしてくれた。

  

  それは『悪魔との契約』だ。

  

  通常、気まぐれで危険な悪魔と契約するなど正気の沙汰ではない。けれど、セリオ君とでびるんさんの信頼関係、そして彼らが教育したココヨとザッスならば安全だと保証してくれた。

  最初は怯えていた私も、今ではココヨとの魔力経路が繋がっていることに安らぎすら覚えている。

  こうして私たちは、単なる同級生以上の、家族のような繋がりを持つようになったのだ。

  「じゃあね、セリオサン! ご飯美味しかったデス!」

  「また明日、学校でね」

  「うん、気をつけて帰ってね」

  セリオ君と使い魔たちに見送られ、私たちは彼の家を後にした。

  キャリーケースの車輪が、石畳の上で軽快な音を立てる。

  ソルシエの大通りは、既に休日の活気に満ちていた。

  通り沿いには色とりどりの露店が並び、店主たちの威勢のいい声が飛び交う。杖を片手に歩く魔術師、行き交う住民たちが作り出す色彩豊かな往来、空を舞う伝書使いたち。

  見上げれば、吸い込まれそうなほど高く、透き通った青空が広がっている。雲一つない快晴。

  街の中央には、ソルシエの象徴である巨大な時計塔が聳え立ち、その針は正確にこの街の時間を刻んでいる。

  どこを見渡しても、平和で、美しく、完成された世界。

  「ミャ〜、お腹いっぱいで幸せデス〜」

  隣を歩くミーティアが、日向ぼっこをした後の猫のように目を細める。

  「あちきも満腹だぎゃ〜」

  私の肩の上では、ココヨが小さな翼をパタつかせながら、上機嫌で下手くそな口笛を吹いていた。さっきまでジャムの取り合いで喧嘩していたことなど、もうすっかり忘れているようだ。隣では、ザッスが先程まで頬張っていたパンの味を思い出そうと、噛み締めるように口元を動かして悦に浸っている。

  親友と大切な使い魔たち。大切な三人が幸せそうに笑っている。

  私もつられて微笑む。

  何もかもが順調だ。不安要素なんて、どこにもない。

  それなのに。

  

  私の胸の奥底で、さらさらと砂の零れる音がする。

  喉の渇きが癒えない。

  

  ふと視界の端に映る街路樹の緑が、建物の煉瓦色が一瞬だけ色褪せて、灰色の砂の塊に見えた気がした。

  (……疲れてるんだ、私)

  私は強く瞬きをして、その幻覚を振り払う。

  再び目を開ければ、そこには変わらない鮮やかな日常があった。

  私は一歩、また一歩と、美しく舗装された道を歩いていく。

  この平穏が、ずっと続くと信じて。

  [newpage]

  最悪だ。

  どうしようもなく、反吐が出るほど、クソったれな状況だ。

  オレサマは魔界で百年生きてきた。

  その間、死神の鎌が鼻先を掠めるような修羅場なんざ、指で数え切れねぇほど潜り抜けてきたつもりだ。名誉に狂い、実績を焦り、孤独な寒さに震えながら一人で破滅へ突っ走っていたあの頃だって、相棒とドエルのおかげでこうして生き永らえている。

  だが、今のこの状況は、過去のどの地獄とも味が違う。

  今すぐ自分の首が飛ぶわけじゃねぇ。莫大な代償を背負うわけでもねぇ。

  ただ、オレサマの大切な相棒が、オレサマもまた憎からず思っている「トモダチ」を、平気な顔で飼い殺しにしている様を、特等席で見せられているだけだ。

  それも、外側だけは極上の砂糖菓子でコーティングして、中身をドロドロに腐らせていくような、吐き気を催すほど巧妙なやり口で。

  バタン、と。

  重厚な玄関扉の閉まる音が、やけに大きく鼓膜を叩いた。

  厚い木の板一枚を隔てた向こう側から、チュリンとミーティアの銀鈴のような笑い声が、遠い別世界の出来事のように遠ざかっていく。

  その余韻が完全に消えるまで、セリオは扉を見つめたまま動かなかった。

  オレサマは、無意識に呼吸を止めていた。

  本能が警鐘を鳴らしている。全身の毛穴という毛穴が収縮し、背中の翼がこわばって小刻みに震えるのを抑えられない。

  ゆっくりと、相棒が振り返る。

  その動きに合わせて、こやつの顔に張り付いていた「慈愛に満ちた先生」の仮面が、ドロドロに溶け落ちていくのを、オレサマはこの目で見た。

  口角を上げていた筋肉の緊張が、糸を切られた人形のようにフッと緩む。

  目尻に浮かんでいた温かな皺が、瞬きひとつで消失する。

  瞳の奥に灯っていた理知的な光が、スイッチを切ったように遮断され、底のない沼のような暗闇だけが残る。

  ヒュッ、とオレサマの喉の奥で音が鳴った。

  唾を飲み込むことすら忘れていた喉が、カラカラに乾いて張り付いている。

  胃の腑が鉛を飲んだように重くなり、一歩、無意識に後ずさっていた。

  そこに立っていたのは、もうオレサマの知るセリオじゃねぇ。

  感情という不純物をすべて濾過し、目的のためだけに最適化された、能面のように無機質な「管理者」だった。

  額にかかる前髪の奥で、こやつの「魔眼」が固く閉ざされているのが気配で分かった。

  かつてはあんなにも好奇心に満ちて見開かれていた第三の目が、今は世界を拒絶するように、頑なに瞼を下ろしている。

  こやつがやっていることは、教育でも指導でもねぇ。徹底的な「剪定」だ。

  魔法実技が苦手なヒヨッ子二人に、あえて自分では決して使わない非効率で、[[rb:安全な > ・・・]]術式だけを教え込む。

  オレサマは、テーブルに残された空の食器を見つめた。チュリンたちが「美味しかった」と笑っていたその皿の上には、彼女たちの可能性を摘み取るための、冷徹な計算式が残渣のようにこびりついている。

  実力が伸びすぎないように、飛び立たないように、見えない天井を作る作業。

  オレサマの可愛い部下、ココヨとザッスと契約させたのもそうだ。

  あれは護衛じゃねぇ。生きた監視カメラだ。

  想像するだけで、古傷が痛むようにこめかみがズキズキと脈打つ。部下たちの眼を通して、二人の行動、会話、思考の端々までを吸い上げ、想定外の芽が出そうになれば即座に摘み取る。

  無邪気に笑う部下たちすら、こやつは管理の手段として組み込んだのだ。

  日々の些細な悩みに親身になり、「セリオ君がいないとダメだ」という依存の鎖を、真綿で首を絞めるように巻き付けていく。

  そして極めつけは、先ほどの食事の時に見せたような、認識への干渉だ。

  オレサマは見た。セリオの人差し指が、テーブルの下で指揮者のように僅かに動いた瞬間を。

  「おかしい」という思考の切っ先を、魔法の指先でちょいと逸らし、核心から遠ざける。

  その手際があまりに自然で、あまりに鮮やかだったからこそ――オレサマの背筋を、氷柱で撫でられたような悪寒が走り抜けた。

  自分の人生、時間、情熱のすべてを薪にしてくべながら、二人の人生を完璧にコントロールする。それが扉の向こうに消えていったあやつらの「幸せ」だと信じ込んで。

  (……気持ち悪りぃ)

  胃の腑の底から、熱い酸っぱいものが、止めどなくこみ上げてくる。

  口の中が唾液で溢れ、それを飲み込むことさえ躊躇われる。

  目の前にいるセリオの姿が、揺らいで見えた。

  ガワは美しいまま、甘い芳香を放っているのに、皮一枚めくれば中身がドロドロに腐り落ち、蛆が湧いている果実。今のこやつは、それにそっくりだ。

  視界が明滅する。

  どうしてこんなことになっちまった。

  オレサマは、自身の爪が掌に食い込む痛みで、辛うじて正気を繋ぎ止める。

  あの、誰よりも好奇心に目を輝かせていた相棒は、どこへ行っちまったんだ。

  ……

  始まりは――そうだ。半年ほど前の、ある朝だった。

  鼻をひくつかせても、いつもの香ばしい匂いがしない。

  焼きたてのパンの小麦臭も、挽きたてのコーヒーの苦味も、この部屋から完全に消失していた。

  あるのは、埃の舞うのが見えるほど淀んだ、死んだような静寂だけ。

  その冷え切った空気の中心に、相棒が突っ立っていた。

  瞬きひとつしない。呼吸をしている気配すらない。

  まるで精巧な蝋人形がそこに置かれているかのように、指先ひとつ動かさず、虚空の一点を凝視している。キッチンには、手つかずの食材が転がったままだ。

  「おい、セリオ。おみゃー、朝飯どうしたァ?」

  オレサマとドエルが、努めて明るい声を張り上げ、その背中に近づいた――その、瞬間だった。

  ドンッ、と。

  肉と骨のぶつかる鈍い音がして、視界が暗転した。

  肺の中の空気が強制的に吐き出される。

  相棒が、オレサマたちに飛びつき、力任せに抱きしめてきたのだ。

  それは抱擁なんて生易しいもんじゃねぇ。まるで溺れる者が浮き木に縋りつくような、必死で、暴力的な万力の締め付けだった。

  ミシミシと、オレサマの肋骨が悲鳴を上げる。

  「ぎゃっ」と喉から潰れた蛙のような悲鳴が漏れたが、その腕は緩むどころか、さらに肉へ、骨へと食い込んでくる。隣にいたドエルも一緒に巻き込まれ、三人で団子のように押し潰された。

  「……あ、ぅ……あぁぁぁ……ッ!!」

  耳元で、聞いたこともない獣の唸り声が炸裂した。

  違う、これは相棒の声だ。

  オレサマの胸に押し付けられたセリオの顔から、異常な質量の熱が伝わってくる。

  じわりと生温かい液体が染み込み、それがオレサマの皮膚を濡らす不快感に変わるまで、一秒とかからなかった。

  肩が、背中が、壊れた玩具のように激しく痙攣している。

  その振動がオレサマの身体にも直接伝播し、内臓まで揺さぶられるようだ。

  あの鉄仮面のような冷静さを誇るセリオが、幼子のように泣きじゃくっている。

  呼吸困難になりかけながら、オレサマは混乱した脳みそを回そうとしたが、思考の歯車が噛み合わない。

  ただ、涙の熱さと、背骨越しに伝わる相棒の絶望的な震えだけが、現実としてそこにあった。

  オレサマとドエルは、言葉を失い、ただ硬直したその背中を、恐る恐るさすってやることしかできなかった。

  昼前になってようやく、泣き腫らした目をこすりながら、相棒は語り始めた。

  枯れた喉から、ガラス片を吐き出すように絞り出されたその告白は、オレサマの三半規管を狂わせるほど荒唐無稽で――そして、どうしようもなく残酷なものだった。

  「僕は、戻ってきたんだ」

  ぽつりと、相棒が言った。

  「全てが終わってしまった、あの未来から」

  

  ロード魔法。時間の巻き戻し。

  それが相棒の切り札であることは、オレサマだけではなくドエルも知っている。だが、こやつは今回、その禁じ手をオレサマたちに一言の相談もなく使い、たった一人で地獄を見てきたと言うのだ。

  「……何があった」

  オレサマの問いに、セリオは視線を膝に落とし、震える唇で「地獄の正体」を紡いだ。

  ――あの大人しいチュリンが、暴食の怪物に成り果てる、と。

  「は……?」

  思考が凍りついた。

  脳が理解を拒絶し、言葉が意味をなさず上滑りしていく。

  魔法学校の生徒の一人が、あのブブの血を取り込み、暴走する?

  オレサマも、ドエルも、ソルシエの街ごと、あの華奢な少女の胃袋に収まる?

  その瞬間だった。

  ドクン、と。

  心臓ではない、身体の深い場所――魂の核が、不快な脈動を打った。

  胃の腑が、ギュルリと冷たく波打つ。

  強烈な酸味が喉元までせり上がり、オレサマは反射的に口元を手で覆った。

  (……なんだ、これ)

  幻覚ではない。

  皮膚が、覚えている。

  ヌルリとした粘液に全身を包まれ、自由を奪われる閉塞感。

  四方八方から迫りくる肉壁の圧力。

  ジュウジュウと、自分の身体が溶解液に焼かれ、ドロドロに溶かされていく熱と激痛。

  「ぐ、ぅ……ッ!?」

  オレサマは自分の身体を強く抱いた。

  痛い。どこも怪我などしていないはずなのに、全身の皮膚が消化されている幻痛を訴えて悲鳴を上げている。

  脳裏にフラッシュバックする。

  あの屈託のない笑顔で「でびるんさん」と呼ぶ少女が、顎を外してオレサマを丸呑みにする光景。

  光が閉ざされ、空気の代わりに酸っぱい胃酸が肺を満たし、意識が泥のように溶けていく――その死の感触が、セリオの言葉を鍵にして封印された記憶の底から溢れ出してきたのだ。

  「うわぁああああっ!!」

  隣で、ドエルが金切り声を上げた。

  顔面蒼白になり、小刻みに震えながら、自身の腹を必死にさすっている。まるで、自分が消化されつつあることを確認するかのように。

  部屋の空気が、粘着質な泥に変わったように重苦しい。

  呼吸をするたびに、鉄錆のような血の匂いと、鼻をつく胃酸の幻臭が鼻腔にまとわりつく。ここはリビングじゃない。巨大な怪物の胃袋の中だ。

  そんな馬鹿な話があるか。

  これは妄想だ。あり得ない。

  だが、顔を上げれば、そこには相棒の瞳があった。

  涙で濡れたその瞳の奥には、狂気じみた真剣さと、見てはいけないものを見てしまった者特有の、底知れぬ暗闇が澱んでいた。

  その目は語っている。「僕はそれを見てきたんだ」と。

  (……こやつは、見てきたのか)

  心臓が早鐘を打ち、全身の毛が逆立つ。

  この平穏な日々が、たった一つのボタンの掛け違いで崩れ去り、地獄へと変貌する様を。

  オレサマたちが喰われてグチャグチャにされ、魔力として取り込まれる、その取り返しのつかない最期の瞬間を――たった一人で、特等席で眺めてきたと言うのか。

  「……それだけじゃ、ないんだ」

  セリオが、ガチガチと奥歯を鳴らしながら、自らの胸元を鷲掴みにした。

  まるで、そこに空いた風穴を塞ごうとするかのように。

  「彼女は、僕の魔導書さえも、噛み砕いたんだ」

  「……あ?」

  「ロード魔法の発動体ごと、僕の唯一の逃げ道を……彼女は、僕の目の前で咀嚼した。紙片の一枚すら残さずに」

  血の気が引いた。

  オレサマの心臓が、恐怖で凍りつく。

  相棒が持つ真紅の魔導書。それはセリオの魔術の根幹であり、時間を巻き戻すための絶対不可欠な鍵だ。

  それが砕かれた?

  ということは、その時点で「やり直し」は不可能になる。セリオも、オレサマたちも、その惨劇の時空で永遠に死に絶えることが確定したはずだ。

  「なら、なんでおみゃーは今、ここにいる!? 戻れるわけがねぇだろ!」

  オレサマの叫びに、セリオは虚ろな目で天井を仰いだ。

  その瞳に映っているのは、この部屋の天井ではない。もっと高次元の、人知を超えた何かだ。

  「……『彼』が、激昂したんだ」

  「彼……?」

  「力を授けてくれた、あの神様だよ。魔導書を失って、チュリンに吸収されるのを待つだけだった僕の頭に、直接声が響いた。鼓膜が破れるほどの絶叫で」

  セリオが自分の頭を抱え込む。その指が白く変色するほど食い込んでいる。

  「『認めない』って」

  「『こんな駄作で終わらせることは、このボクが絶対に許さない』って」

  慈悲じゃねぇ。救済でもねぇ。

  それは、物語の結末を勝手に決めつける観客の、あまりにも身勝手で、強大すぎる妄執だ。

  「気づいたら、僕は半年前の朝に戻っていた。砕かれたはずの魔導書も元通りだ。……神様は、僕を助けたんじゃない。ただ、自分の気に入らない結末を、世界ごと握り潰して無かったことにしたんだ」

  セリオはそこで言葉を区切り、申し訳なさそうに眉を下げた。

  「その際の反動だよ。無理やり因果をねじ曲げた歪みが、でびるんとドエルの記憶野にも干渉してしまったみたいだ。特に関わりが深い二人には、前の世界線の記憶がノイズとして焼き付いてしまったんだね……ごめん」

  「……さっきの吐き気は、そのせいか」

  オレサマは脂汗を拭いながら、ようやく腑に落ちた。あの生々しい地獄は、幻覚じゃなく、消されたはずの現実だったのだ。

  底知れねぇ。

  怪物の胃袋も地獄だが、そやつのその異常な執着心は、吐き気がするほど恐ろしい。

  オレサマたちの命すら、その神とか言う奴にとっては舞台の上の小道具に過ぎないのか。

  だが、その狂気じみた奇跡のおかげで、首の皮一枚繋がったということか。

  「それだけじゃ、ない」

  セリオは、自分のこめかみを、白く細い指先でトントンと叩いた。

  まるで、そこにある異物の存在を確かめるように。

  「神様は、時間を戻すついでに……僕の脳みそに『正解』を刻み込んだんだ」

  「……どういうことだ?」

  「あの子が二度と破滅しないための、絶対的な管理手順だよ。どの枝を切り、どの芽を摘み、どの情報を遮断して、どこへ誘導すればいいのか。その膨大な[[rb:道筋 > ・・・]]の全てが、まるで焼き印のように頭の中で輝いてるんだ」

  相棒の声から、感情の揺らぎが消えていく。

  恐怖も、悲しみも、迷いさえも。

  急速に冷え込み、研ぎ澄まされていくその様は、魔獣が心を持たない歯車へと作り変えられていく瞬間を見ているようだった。

  こやつは、神から攻略本を渡されたのだ。

  「こうすれば誰もが幸せになる」という、神の都合で書かれた完璧な台本。

  セリオは今、その台本を一文字一句違わず実行するためだけの、忠実な演者に成り下がろうとしている。

  「だから、もう大丈夫なんだよ。でびるん」

  セリオが、ふわりと笑った。

  だが、その笑顔に体温はない。貼り付けたような、完璧すぎて不気味な曲線。

  額の前髪の奥で、こやつの魔眼がギョロリと動き、内側を向いた気がした。外界ではなく、脳内に刻まれた神の指示書だけを凝視するために。

  「この『道筋』通りにやれば、絶対に救える。……僕はもう、二度と間違えない」

  それは、誓いというよりは、呪詛だった。

  自らの意志も、良心も、チュリンやミーティアの自由さえも、すべてを犠牲にしてでも「正解」をなぞるという狂気じみた宣言。

  「……なら、その『正解』の第一手ってのが、そいつか」

  震える声でオレサマが指摘すると、相棒は無言のまま、ポケットから一つの小箱を取り出した。

  その瞬間、リビングの空気が一変した。

  まるで、腐敗した臓物を鼻先に突きつけられたような、甘ったるく、吐き気を催す腐臭が立ち込める。

  高級感のある装丁に、有名な魔術具ブランドのロゴ。中身は、召喚魔法陣を描くためのチョークだ。

  だが、そんな外見はどうでもいい。

  問題は、その箱が纏っている気配だ。

  箱の周囲で空間が悲鳴を上げている。

  どす黒いタールのような魔力が、箱の隙間から滲み出し、外の世界へ触手を伸ばそうと蠢いているのが見えた。

  獲物がかかれば、骨の髄まで侵食し、魂ごと乗っ取ってやろうという強烈な悪意。絡みつくような執念深い呪いだ。

  オレサマですら、肌が粟立ち、背中の羽が強張るほどの危険物。

  「おい、よせ! 素手で触るな!」

  オレサマは叫びかけた。だが、声が出なかった。

  相棒が、それを素手で鷲掴みにしていたからだ。

  指先が黒く侵食されてもおかしくない濃度だ。

  けれど、セリオは一切の精神干渉を受けていなかった。それどころか、呪いの触手さえもが、セリオの手の中で怯えるように縮こまっている。

  オレサマは、相棒の横顔を盗み見た。

  ヒュッ、と喉が鳴る。

  泣き腫らした瞳の奥。

  そこに渦巻いていたのは、感情に任せた熱い怒りではなかった。

  巨大な歯車が、噛み合わせを狂わせる歪みを検知し、排除しようとする瞬間の、絶対零度の殺意だ。

  怒鳴り散らすわけでもない。ただ、神の描いた完璧な設計図についた「汚点」を見る冷徹な眼差しが、静かに、青白く燃えている。

  その視線は、チョークを作った元凶を通り越し、この理不尽な運命そのものを修正しようとしているようだった。

  「これさえ、なければ」

  ボソリと呟く声は、事務的ですらあった。

  ギリッ、と音がした。

  セリオの手の甲に青筋が浮き上がり、血管が切れそうなほど膨張する。

  それがこやつに残った唯一の、血の通った魔獣らしい反応だったかもしれねぇ。

  次の瞬間。相棒の手の中で、箱が空間ごとひしゃげた。

  まるで深海の水圧に放り込まれたかのように、物理法則を無視して内側へと圧縮される。

  断末魔のような魔力の残滓が飛び散り、オレサマの頬を焼いた。

  握り拳を開くと、そこには塵一つ残っていなかった。

  完全な消滅。

  オレサマは、自分の膝が震えていることに気づいた。

  目の前にいるのは、かつての研究熱心な少年じゃねぇ。

  傷だらけの魂を引きずりながら、たった一つの正解にしがみつく、孤独な神様になっちまったんだ。

  その背中が、恐ろしくて、哀れで――オレサマはもう、かける言葉を持っていなかった。

  [newpage]

  相棒が豹変してからは、もはやオレサマではとても追いきれない速度で、事態が回転し始めた。

  まず、セリオは学校に魔法で通話を繋げた。

  杖を握るその指先には、ミリ単位の震えすらない。

  淡々と休みの連絡を入れるその声色は、まるで何事もなかったかのように平然としていて――それが逆に、オレサマの背筋を氷の指で撫で上げた。

  呼吸のリズムが、一定すぎる。瞬きの回数が、異常に少ない。

  まるで、精巧な録音テープが再生されているかのような、生気のない完璧な日常会話。

  そして電話を切るなり、ドエルの奴に、とんでもない頼み事をしやがった。

  振り返ったその瞳は、ガラス玉のように光を反射するだけで、何の感情も映していない。

  「『大天使ミカエル様』との面会を取り次いでほしい」

  オレサマの耳が、ピクリと無意識に跳ねた。

  心臓がドクンと嫌な音を立てる。

  ミカエルといえば、天界の頂点に君臨する存在だ。

  オレサマの視線が、吸い寄せられるようにセリオの左手――その薬指へと落ちた。

  そこに嵌められた「福従の指輪」が、窓から差し込む陽光を弾いて、チリリと網膜を焼くような輝きを放っている。

  以前ドエルから聞いた話によると、セリオがミカエルと面会を果たしたのは、これが初めてではないらしい。

  かつてオレサマを破滅の未来から救うために、セリオとドエルが泥沼を這いずり回っていた頃。あらゆる未来を探っても救いの道が見つからず、二人とも――特にドエルは、精神がすり減って限界を超えていた。

  それでも、セリオがドエルに寄り添い、共に在り続けた。

  その魂の輝きをずっと見ていたミカエルは、ドエルを通じてセリオを天界に招き、めでたく対面が相成ったというわけだ。

  幸せを突き詰めれば魔神すら従え、七大悪魔クラスの召喚魔力すら肩代わりする、ふざけた性能の指輪。

  それが今、主人の意図を汲み取ったかのように、微かに脈打っている気がした。

  しかし、だ。

  今になって、わざわざその雲の上の存在に会って、何の話をするつもりだ?

  また新しい魔道具でもねだりに行くのか? いや、そもそも会ってくれるのか?

  喉がカラカラに乾き、唾を飲み込むことさえ億劫だ。

  相棒の底知れない思考の闇を覗き込めずにいるオレサマを他所に、ドエルが天界への伺いから戻ってきた。

  覚めるような青空から降り立ったドエルの顔は、困惑の色で染まっていた。

  翼の羽毛が、不安げに逆立っている。

  「……許可が、降りましたぁ」

  震える声での回答は、まさかのOKだ。

  そうしてセリオは、躊躇いなくベッドに身を横たえた。

  ドエルの手引きで、幽体離脱の魔法が紡がれる。

  フッ、と部屋の気圧が変わったような感覚と共に、セリオの口元から、淡い光の塊が抜け出した。

  魂が肉体から分離し、天界へと昇っていく。

  後に残されたのは、糸の切れた操り人形のように重力を失った、セリオの肉体だけだった。

  オレサマは、ベッドに横たわる相棒の抜け殻を、恐る恐る覗き込んだ。

  魂という主を失った肉体は、重力に逆らうことをやめ、枕に深く沈み込んでいる。

  閉ざされた瞼。長く伸びた睫毛が、赤毛で覆われた頬に淡い影を落としていた。

  さっきまで能面のように張り詰めていた表情筋の緊張は、嘘のように解けている。

  胸が、規則正しいリズムで上下し、微かな寝息だけが静寂に溶けていく。

  それは、オレサマが見慣れていた、普段のセリオの顔だった。

  どこか抜けていて、隙だらけで。

  それでいて、大事な時は誰よりも真っ直ぐで頼りになる、あやつの顔。

  気づけば、オレサマは吸い寄せられるように、その胸板へと飛び込んでいた。

  ドサッ、と音がして、視界が灰色に埋め尽くされる。

  顔を、強く押しつけた。

  鼻先を潰す勢いで、その存在を確かめる。

  頬に触れるのは、あやつが愛用している灰色のローブの、少し硬くてごわごわした繊維の感触。

  肺いっぱいに吸い込むと、鼻孔を満たすのは――男のくせに全然臭みがない、干したばかりの布団のような、日向の匂いだった。

  トクトク、トクトク……。

  耳を押し当てた胸の奥から、心臓の音が聞こえる。

  ゆっくりとした、穏やかな鼓動。

  さっきまでの、狂気じみた早鐘とは違う。生きているだけの、純粋な脈動。

  (……帰ってくんな)

  不意に、そんな思考が脳裏を掠めた。

  喉の奥が、苦いもので詰まる。

  この後、魂が戻ってきたら。

  温かい肉体は、また瞬時に冷却され、相棒の皮を被った「冷徹な何か」に変わっちまう。

  このまま放置すれば、この肉体はいずれ衰弱し、死ぬ。分かってる。分かってるが、それでも。

  いっそ、ミカエルがあやつをたっぷり絞り上げて、脳みその皺一本一本まで説教して、元の優しいセリオに書き戻してくれねぇだろうか。

  オレサマの爪が、無意識にセリオのローブを強く握りしめていた。

  一時は七大悪魔の座さえ務めた大悪魔様が、今だけは、普段なら唾を吐きかけたくなるような大天使の威光に、赤子のように縋りたくなっていた。

  この温もりが、永遠に続けばいいのに。

  そんな、叶うはずもない逃避に浸っていた、その時だった。

  不意にドスドスと、外から、地響きのような足音が近づいてくる。

  床板が小刻みに跳ね、テーブルの上のコップの水面が波紋を描いた。

  続いて、玄関のベルが鼓膜をつんざくような悲鳴を上げた。

  誰だ? 相棒とドエルは今頃空の上だ。

  こんな時間に、家ごと揺らすような勢いで走ってくる奴なんざ、心当たりがねぇ。

  オレサマは、おずおずと身体を起こし、玄関へ向かった。ドアノブに手をかけると、向こう側の「気配」だけで、掌にびっしょりと嫌な汗が滲む。

  意を決して、重い扉を手前に引いた。

  そこにいたのは、のどかな昼下がりの街には到底似つかわしくない、巨大な魔獣の影だった。

  光を遮る山のような肉体。

  七大悪魔の一柱。暴食の大悪魔ベルゼブブ。

  「ハァ……ッ、ハァ……ッ、グゥ……ッ!」

  ブブは、壊れたふいごのような音を立てて、肩で息をしていた。

  ムッとするような体臭と、強烈な熱気がオレサマの顔面を打つ。

  全身から白い湯気が立ち上り、顎からは玉のような汗がボタボタと滴り落ちて、玄関のタイルに黒い染みを作っている。

  血走った眼球が、ギョロギョロと忙しなく動き回り、オレサマの姿を探して彷徨っていた。

  その表情は、何か大切なものを落として、血眼になって探し回っていた者のように、強張り引き攣っている。

  オレサマの姿を認めるや否や、ブブの四本の丸太のような腕が、視界を埋め尽くすように伸びてきた。

  「あ――」

  逃げる暇などなかった。

  ドンッ、という衝撃と共に、万力で締め上げられるような、全力の抱擁がオレサマの小さな身体に襲いかかった。

  ミシミシと、全身の骨が、危険な音を立てて軋む。肺の中の空気が、一瞬にして強制排気された。

  まただ。今日は厄日か。

  どうしてこうも力自慢の野郎どもに、二度も抱きしめられて、圧死しかける目に遭わなきゃなんねぇんだ。

  「ベル……ベルぅ……!」

  耳元で、湿った声が響く。

  鼓膜に直接、熱い吐息が吹きかかる。

  「良かった……無事だったか……ワシは、なんてことを……ッ!」

  ブブの巨体が、小刻みに痙攣していた。その振動が、密着した身体を通してオレサマの骨の髄まで伝播してくる。

  嗚咽を漏らしながら、クリーム色の体毛に覆われた顔を、オレサマの頬にこすりつけてくる。ジョリジョリとした痛みが走り、顔中が汗と涙でべとべとに濡れた。

  その取り乱し方は、つい先程のセリオとそっくりだった。

  だが、決定的な違和感がある。

  ブブがこんなに感情剥き出しで、迷子になった子供のようにオレサマに縋ってくる姿なんて、数十年付き合ってきて一度も見たことがねぇ。

  こやつはオレサマに対しては、いつだって不器用だが優しい親父のように、腕を組んでどっしりと構え、見守ってくれる側の悪魔だったはずだ。

  まさか。

  背筋を、氷柱のような冷たいものが駆け抜けた。

  ブブの身体から発せられる高熱とは裏腹に、オレサマの指先が冷たく凍りついていく。

  こやつも、思い出しているのか。

  相棒と同じ、あの忌まわしい記憶を。

  ……

  とりあえず、鉛のように重いブブの巨体を引きずるようにして、寝室へ戻った。

  ベッドに横たわるセリオの抜け殻を見て、ブブが目をカッと見開いて仰け反ったが、「今はドエルと天界に行ってる」と早口で説明し、無理やりソファーに座らせた。

  革張りのソファーがその重さに悲鳴を上げ、バネが限界まで沈み込む。

  ブブに渡した水のコップは、こやつの手の中で小刻みに震えていた。

  水面に絶え間なく波紋が広がり、ふちから雫がこぼれ落ちる。コップと牙のぶつかる硬質な音が、不規則なリズムで静寂を刻んでいた。感情の爆発に慣れていない大悪魔の肩は、まだ寒気を感じているかのように揺れ続けている。

  途切れ途切れの呼吸と共に語られた事情を聞くうちに、オレサマの胃の腑もまた、冷たく縮み上がっていった。

  やはり、ブブも取り戻していたのだ。あの、惨劇が起きた世界線の記憶を。

  全ての始まりは、些細で、そして致命的な事故だった。

  ブブの場合は、最初チュリンに召喚された際、楽しみにしていた「ニンニクマシマシラーメン」を食べる至福の時間を台無しにされた。

  その腹いせに、ほんの軽いお仕置きのつもりで――チュリンを丸呑みにしてしまったらしい。

  ブブが、自身の分厚い舌を、忌々しげに指さした。

  その際、抵抗したチュリンに舌を噛み千切られたのだと。

  傷口から溢れ出した暴食の大悪魔の血が、口腔内を満たし、そのままチュリンの細い喉へと流れ込んでしまった。

  それが、終わりの始まりだった。

  暴食の大悪魔の血を、一般の魔獣が取り込んだらどうなるか。

  答えは一つ。貧弱な器が内側からひび割れ、発狂し、中途半端な化け物へと作り変えられる。

  事実、チュリンは異常な食欲に蝕まれ、次第に理性のタガが外れていった。

  そして親友を、住民を、街そのものを喰らい、破壊し尽くした。

  ブブが、四本の腕で自身の頭を抱え込んだ。

  指先の鋭い爪が、自身の皮膚に食い込み、血が滲む。

  そんな地獄絵図の中で、ブブはセリオに頼まれ、チュリンを止める役割を担っていたそうだ。

  場所は、ソルシエール魔法学校の魔法練習室。

  そこにチュリンを召喚し、オレサマを含めて呑まれた皆を救い出すための大魔術を敢行した。

  だが。

  ブブの声が、ガラガラと掠れた。

  暴食の化け物と化したチュリンの力は、大悪魔の想定すら超えていた。

  「ワシも……呑まれかけたのだ」

  ブブの視線が、床の一点を凝視したまま動かない。

  咄嗟に魔法で離脱し、自分だけは助かった。

  だがその代償として――オレサマを、あの胃袋の奥へ置き去りにした。

  その瞬間の光景が脳裏に焼き付いているのだろう。

  ブブの瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ち、毛深い頬を濡らしていく。

  大切な存在を見捨てて逃げ出した情けなさ。圧倒的な力への敗北感。それが長い間、この誇り高き大悪魔の魂を苛んでいたのだ。

  話を聞き終えたオレサマは、奥歯を噛み締めすぎて顎が痛かった。

  オレサマが思い出していたのは、チュリンに呑まれた時の、あのヌルリとした生々しい感触だけだった。

  だが、ブブの告白を聞いて、当時のソルシエで何が起きていたのか、黒いパズルのピースが埋まるように全容が見えてしまった。

  だからこそ、信じられねぇ。

  脳が理解を拒絶して、キーンと耳鳴りがする。

  あのチュリンが。あんなに小さくて、弱々しい小娘が。

  そんな大それたことをやらかしたなんて。

  全容が明らかになった今も尚、「どうしてこうなっちまったんだ」という理不尽さだけで、脳みそがパンクして焼き切れそうだった。

  泥のような時間を吐き出したことで、ブブの荒い呼吸は次第に整い、あの山のような巨体に静けさが戻ってきた。

  こやつは深く息を吸い込み、鋭さを取り戻した視線を、ベッドの上の抜け殻に向けた。

  「……で、セリオは何をしに天界へ行ったのだ?」

  オレサマは、喉の渇きを唾で潤しながら、説明を始めた。

  記憶を全て思い出した相棒が、ミカエルとの面会のために空へ昇ったこと。

  そしてその直前に、神とかいうクソ野郎に唆されて、元々あった優しいあやつの人格が、黒いインクで塗りつぶされるように書き換えられてしまったこと。

  話しているうちに、脳裏に焼き付いた映像がフラッシュバックする。

  あの、ガラス玉のように光のない、恐ろしく冷たい瞳。

  言葉にするだけで、舌が震えた。

  豹変したあやつにビビって何も言い返せず、ただ羽を丸めて震えていた自分が情けなくて、悔しくて、胃の奥が熱くなる。

  耐えきれず、オレサマは目の前の分厚い壁――ブブの胸板に、顔を埋めた。

  ムワッとする獣の体臭と、圧倒的な質量。

  泣きたくなんかねぇのに。

  その硬い筋肉の鎧越しに伝わる、父親のような高い体温に触れた瞬間、張り詰めていた涙腺のダムが決壊した。

  熱い雫がボロボロと溢れ、ブブの胸毛を濡らしていく。

  怖かった。

  身体の芯が、ずっと震えていた。

  かつて怠惰の大悪魔、ベルフェゴールとしての責務を果たせず、魔界から追放された時、オレサマの世界は灰色だった。何もかも面倒くさくて、どうなってもいいと、世界の全てを諦めていた。

  そんな吹き溜まりの中で、セリオという相棒と、ドエルという腐れ縁に拾われた。

  三人で食卓を囲み、喧嘩して、笑い合う。このちっぽけな家が、いつしかオレサマの安息の地になっていた。

  ここなら安心して眠れると、心底思えたんだ。

  そんな場所が今、音を立てて崩れ去ろうとしている。

  足元の床が抜け落ちていくような浮遊感と恐怖が、オレサマの背中を這い上がってくる。

  ポン、ポン、と。

  震えるオレサマの背中に、大きく、温かい重みが乗せられた。

  ブブの手だ。

  丸太のような太い指が、慈しむように、一定のリズムでオレサマの背中を撫で下ろしてくれる。

  その温もりが、冷え切った背骨に染み渡っていく。

  「ベルよ、すまぬ。ワシは自分の感情ばかり優先して取り乱してしまった。だが……辛いのはベルも同じだったな」

  頭上から降ってくる声は、先程までの激情が嘘のように穏やかで、腹の底に響く低音だった。

  セリオが戻ってきたら、今後について一緒に相談しよう。

  そう語るブブの鼓動が、トクトクと耳元で聞こえる。その力強いリズムに、在りし日の頼もしさを感じて、強張っていた筋肉が少しだけ緩んだ。

  だが。

  背中を撫でていた手が、ピタリと止まった。

  「だがな……すまん」

  ブブの筋肉が、再び硬く強張るのを肌で感じた。

  「ベルが無事と分かっていても、ワシは……あの小娘のことを、許す気になれん」

  空気が、澱んだ。

  ブブの声から、温度が消えていた。

  「ワシの魔力が原因だとしても、あやつ自身の意志によるものではないのだとしても。小娘が起こした所業を思えば、もはや理屈では語れぬよ」

  ブブの吐く息が、熱を帯びて荒くなる。

  「生理的な、拒絶反応なのだ」

  その言葉と共に、ブブの腕に鳥肌が立っているのが見えた。

  嫌悪。忌避。

  自分の舌を噛み千切り、仲間を喰らい尽くした「捕食者」に対する、本能的な恐怖と憎悪が、こやつの身体を内側から蝕んでいる。

  「……時間が、必要なのやもしれんな」

  「ブブ……それは仕方ねえよ。あんなことされて、いきなり許せる奴なんて――」

  「気持ちは分かるよ。でも、どうかチュリンには手を出さないでほしい」

  不意に。

  室内の空気を切り裂くように、第三者の声が響いた。

  ビクリ、と。

  オレサマの背骨に電撃のような衝撃が走り、心臓が跳ねた。

  今の今まで、オレサマが縋り付いていた「温かい抜け殻」から、氷のような声が発せられたのだ。

  恐る恐る、顔を上げる。

  ベッドに横たわっていたセリオが、糸で引かれたように上半身を起こしていた。

  布団が擦れる衣擦れの音すらしない、あまりに滑らかで、静かすぎる挙動。

  あやつが、こちらを見つめていた。

  さっきまで安らかに閉ざされていた瞼が開き、そこから覗く双眸には――光がない。

  底の知れない古井戸のような、淀んだ暗闇。

  瞬きすらしないその眼球は、乾燥しきっているはずなのに、潤いすら感じさせない無機質さを湛えている。

  その隣、空間の揺らぎと共に、いつの間にかドエルが戻ってきていた。

  だが、その様子がおかしい。

  いつもなら優雅に広げている翼を、背中にへばりつくほど小さく畳み、視線を床に落としている。まるで、直視してはいけない「何か」の側に立たされているかのように、身を縮こまらせていた。

  「……どういうことだ」

  ブブの喉奥から、低い唸り声が漏れた。

  空気がビリビリと振動し、窓ガラスが共鳴して音を立てる。

  大悪魔の威圧。だが、セリオは眉さえも動かさず、明日の天気の話でもするかのように、平坦な呼吸で答えた。

  「チュリンは、僕が責任を持って『調教』する」

  その単語が落ちた瞬間、肌を刺すような冷気が部屋を満たした。

  「あの悲劇を、この世界線で起こすわけにはいかないからね」

  セリオの唇が、綺麗な弧を描く。

  だが、目だけが笑っていない。顔の下半分だけが貼り付けられたように動いている。

  「……『調教』だと?」

  ブブの四本の腕が、ギチリと握りしめられた。

  筋肉が膨張し、血管が怒張する。

  部屋中に、焼け付くような殺気が充満した。オレサマの肌がチリチリと痛み、本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らす。

  「まるでペットに対する物言いではないか。ワシはそれでも構わんが、ベルが納得せぬだろうよ」

  真正面から叩きつけられた大悪魔の怒り。

  普通なら、膝が笑い、失禁してもおかしくないプレッシャーだ。

  なのに。

  セリオは、呼吸のリズムすら乱さなかった。

  額に汗一つ滲ませず、脈拍も一定のまま。ただ、無色透明な視線で、巨大な悪魔を見上げている。

  「あの悲劇を起こさないためには、仕方ないさ」

  セリオの声には、怯えも、躊躇いも、申し訳なささえも混ざっていない。

  あるのは、鋼鉄のような「決定事項」だけだ。

  「僕も彼女は好きだけど、物事には優先順位があるんだ」

  空気が、凍りついた。

  いくら親交が深いと言っても、相手は機嫌を損ねれば国の一つや二つ簡単に滅ぼせる大悪魔だ。

  それに対して、この一見頼りないはずの魔獣は、一歩も引くつもりがない。

  いや、引くとか引かないとか、そういう次元にいないのだ。

  「壁」に向かって話しているような、絶対的な断絶がそこにあった。

  さらにセリオは、白く細い指先をゆっくりと持ち上げた。

  窓から差し込む陽光が、左手の薬指に吸い込まれ、冷たい輝きとなって反射する。

  こやつが「天界から持ち帰ってきた成果」として指し示したのは、出かける前からその指に嵌まっていた「福従の指輪」だった。

  それの何が成果なんだ?

  見たところ、形状も、魔力の波長も、何も変わっていない。

  オレサマとブブが顔を見合わせ、怪訝な表情を浮かべるのを、セリオはどこか楽しむように見下ろしていた。

  「ミカエルに確認を取りに行ったんだ。……これから僕がやることに対し、天界は干渉するか否かを」

  セリオが、右手で指輪の表面を愛おしげに撫でた。

  ツゥー、と。銀色の金属音が聞こえてきそうなほど、滑らかな指の動き。

  その仕草だけで、オレサマの背中に粟が立った。まるで、凶器の手入れをしているかのような冷徹さが滲み出ていたからだ。

  セリオの唇が、一定のリズムで動き出し、こやつが組み立てた「推論」が紡がれる。

  福従の指輪。

  本来の「幸せのために魔神を従える」という用途以外にも、持ち主の魔力を肩代わりし、自動回復までする規格外の代物。

  あまりにも、都合が良すぎる。

  託す相手次第では、世界を大惨事に巻き込む引き金にもなり得る危険な秘宝だ。

  そんな爆弾を、一介の魔獣である自分に渡してしまうことについて、セリオはずっと違和感を抱いていたという。

  さらに、初めてミカエルと対面した時、あの大天使は言った。

  「最初からずっと見ていた」と。

  いくら未来を見通せる大天使だとしても。ドエルの手助けをするためだとしても。

  ただの魔獣一人に対して、そこまでの手間とリソースを割くのは、どう考えても採算が合わない。不自然すぎる。

  だからセリオは、その疑問の解消を始めに行った。

  この男は、天界の頂点に君臨する存在に対し、命知らずにもカマをかけたのだ。

  「『僕は、あなたの遠い関係者ではないのか』……ってね」

  セリオの目が、三日月のように細められた。

  「『だから、この指輪の主として選ばれたのではないか』と聞いたんだ」

  その問いを投げかけた瞬間。

  大天使の完璧な仮面に、ほんの一瞬、亀裂が走ったのを、セリオは見逃さなかったらしい。

  ほんの数ミリの、眉の動き。呼吸の乱れ。あるいは、沈黙の間。

  実際、どんな事情があるのかは分からねぇ。だが、セリオはその微細な反応だけで「確信」を得て、さらに言葉のナイフを畳みかけた。

  この福従の指輪は、幸せを成すためであれば効果を発揮するもの。

  であるならば――これから自分がやることに対しても、力を発揮するはずだ、と。

  そして、そのことについて天界は干渉する気があるかを、突きつけた。

  「ミカエルの回答は……『天界と魔界のバランスに致命的な影響が生じない事柄に、我々が干渉することはありません』というものだったよ」

  セリオの声が、微かに弾んだ気がした。

  まるで、難解なパズルを解き明かした子供のような、無邪気で残酷な響き。

  要するに、だ。

  セリオは、自分がこれから行う非道な「管理」に対して、天界を代表するミカエルからのお墨付きを奪い取ってきたのだ。

  ほんの少しの脅しをチラつかせて。

  オレサマの喉が、引き攣ったように鳴った。

  隣でブブが、呆れと恐怖がないまぜになったような深いため息をつくのが気配で分かった。

  こやつは、大天使さえも、自分のシナリオのための「駒」として利用したのだ。

  このやり取りを、一番側で聞いていたドエルは、どれほどの恐怖を感じただろう。

  チラリと視線を向けると、あやつは真っ青な顔で、自身の白い翼を身体に巻き付けて震えていた。

  羽毛の一枚一枚が逆立ち、呼吸をするたびに衣擦れの音が微かに響く。

  直視してはいけない「禁忌」に触れてしまった者の反応だ。

  「……おぬし、何をするつもりなのだ」

  ブブが、呻くように問うた。

  その声は低く、部屋の空気を重く震わせたが、どこか力が入りきっていない。爛々と光る複眼が、セリオの表情筋の僅かな動きすら見逃すまいと、凝視している。

  対する相棒は、薄く笑った。

  口角だけが、糸で吊り上げられたように不自然な角度で持ち上がる。

  「思考を、ちょっと逸らすだけだよ」

  セリオが、右手の人差し指をこめかみの辺りでクルリと回した。

  その動作は、スープを混ぜるよりも軽く、虫を追い払うよりも無機質だった。

  人の精神構造を書き換えるという行為を、まるで書類の不備を直す程度の事務作業のように語る。

  「……これが、僕の覚悟だ」

  言い切った瞬間、セリオの瞳から完全に色が消えた。

  ブブは、しばらくの間、無言でセリオを睨みつけていた。

  張り詰めた沈黙。

  ブブの額から、新たな汗の滴り落ちる音が聞こえるほどの静寂。

  だが、いくら大悪魔が殺気を放とうとも、目の前の「虚無」には通用しない。

  暖簾に腕押しどころではない。底なし沼に石を投げ込んでいるような、不気味な手応えのなさ。

  「ハァァァァ……」

  やがて、ブブの巨大な肺から、諦めを含んだ熱い吐息が吐き出された。

  盛り上がっていた肩の筋肉が、ガクリと落ちる。

  チュリンに義理を立てる必要がないこやつにとって、これ以上、理解の範疇を超えたセリオの狂気に首を突っ込む理由は、もう見出せなかったのだろう。

  本能が、「関わるな」と告げているのだ。

  「……分かった。おぬしの好きにすれば良い」

  ブブが視線を逸らした。

  もう、セリオの顔を見ていられない、というように。

  「だが、次はしくじるなよ。……何かあれば、すぐにワシを呼べ」

  最後の言葉だけは、オレサマに向けられている気がした。

  ブブの足元から、どす黒い転移魔法の渦が巻き起こる。

  空間が捻じれ、ブブの巨体が光の粒子となって分解されていく。

  その去り際は、あまりにも早かった。

  まるで、汚染された区域から一刻も早く立ち去りたいと願うかのように。

  逃げるように、ブブの気配は消失した。

  後に残ったのは、オレサマと、ドエルと、狂った相棒。

  そして、ブブが逃げ出すほどの、重苦しい沈黙だけだった。

  「さて、と。……これから忙しくなるな」

  パン、と。

  乾いた音がした。

  セリオが両手を軽く打ち合わせ、立ち上がったのだ。

  その動作には、重い話をした後の疲労も、これから行う非道への躊躇いも、何ひとつ混ざっていない。

  まるで、休日のピクニックの準備でも始めるかのように、軽やかで、意気揚々としていた。

  そのあまりの温度差に、オレサマの脳血管が切れそうになった。

  我慢の限界だった。

  「もう、やめてくれ!」

  懇願するような絶叫が、無意識に飛び出していた。

  オレサマは、逃げるように歩き出したその背中へ向かって、手を伸ばした。

  「いつもの相棒に、戻ってくれよ!!」

  指先が、空を切る。

  このまま見過ごせば、取り返しのつかないことが起きる。

  世界が歪み、大切なものが壊されていく。

  オレサマの生物としての直感が、けたたましい警報音を鳴らして叫んでいた。

  だが。

  セリオは、振り返りもしなかった。

  足を止めることすらない。

  ただ、ドアノブに手をかけ、背中越しに声を投げただけだ。

  「任せてくれ」

  ガチャリ、と無機質な金属音が響く。

  「僕は、いつも通りだよ」

  その声色は、本当に「いつも通り」だった。

  優しくて、穏やかで、少しだけ自信なさげで。

  だからこそ――吐き気がするほど、異常だった。

  バタン。

  重厚な扉の閉まる音が、決定的な断絶として鼓膜を叩いた。

  部屋に残されたのは、静寂だけ。

  オレサマを支えていた力が、プツリと切れた。

  膝が折れ、その場にへたり込む。床の冷たさが、膝小僧を通して全身に伝播していく。

  「……なぁ、ドエル」

  掠れた声が出た。

  視界が滲んで、ピントが合わない。

  「オレサマは……どうすればいいんだろうな」

  答えはなかった。

  ドエルは何も言わず、ただ悲しげに瞳を伏せただけだった。

  その白い翼が、力なく垂れ下がっているのが、今のオレサマたちの無力さを何よりも雄弁に物語っていた。

  [newpage]

  そうして。

  まるで真綿で首を絞めるような、甘ったるくて、吐き気を催す日々が始まった。

  元化け物のチュリン。そして、強すぎる魔力ゆえに危険視された親友のミーティア。

  彼女たちの周囲に、肉眼では見えない粘着質の糸が、静かに張り巡らされていく。

  普段の挨拶。すれ違いざまの視線。偶然を装った接触。

  その全てが、セリオの脳内で構築された「蜘蛛の巣」の構成要素として、緻密に組み上げられていった。

  それを、オレサマはただ、幽霊のように側で立ち尽くして見ているしかなかった。

  ギリリ、と奥歯の軋む音が頭蓋骨に響く。

  歯茎から血の味がしても、喉の奥から込み上げる酸っぱい胃液を飲み込んでも、現実は何ひとつ変わらねぇ。

  クソッたれが。涼しい顔で罠を張るセリオも。それを止められずに、ただ指をくわえて見ているだけの無力なオレサマも。

  何もかも、反吐が出るほどクソッたれだ。

  今。

  洗面所の鏡の前で、セリオは跳ねた寝癖を整えている。

  サァ、サァ……と。

  櫛が髪を梳く、乾いた音が一定のリズムで響く。

  その手つきには、迷いや震えはない。

  白く細い指先が、一ミリの狂いもなく前髪の角度を修正し、満足げに頷く。

  鏡の中の自分に向けたその表情は、どこまでも平穏で、春の木漏れ日のように爽やかだ。

  瞬きの回数も、呼吸の深さも、完全に「善人」のそれ。

  そこに、罪悪感というノイズは一切混ざっていない。

  (……おみゃーは、こんなことを平気でやっておきながら)

  オレサマの拳が、爪が掌に食い込むほど固く握りしめられた。

  胃の腑の底から、どす黒いマグマのような感情が湧き上がってくる。

  食道を焼き尽くしそうなほどの、激しい嫌悪と憤怒。

  (どうして、そんなに暢気に……いつも通り呼吸ができるんだ)

  視界が赤く染まる。

  悪魔が言うことじゃねぇが、てめぇのその胸の中身は空洞か?

  魔獣としての心臓は、もう動いてねぇのか?

  気づけば。

  オレサマの腹の底――へその下あたりにある「邪眼」が、熱を持って蠢いていた。

  あの日から、この目を閉ざしていた。

  相棒の心を覗くのが、死ぬほど恐ろしかったからだ。

  どう考えても、そこには氷点下の冷徹な計算式か、あるいは底が見えない空虚な暗闇しか広がっていないはずだ。

  そんなものを見てしまえば、オレサマの心は決定的に傷つき、二度とあやつの隣にはいられなくなる。

  そう思うと、瞼が鉛のように重くて、開けられなかった。

  だが。

  窓の向こうから、風に乗って微かな音が届いた。

  『アハハっ!』

  『もう、ミーティアったら!』

  チュリンとミーティアの、鈴を転がすような朗らかな笑い声。

  そして、オレサマの可愛い部下たちが、無邪気に羽音を鳴らしてはしゃぐ気配。

  その、あまりにも平和で、眩しすぎる日常の音が、オレサマの鼓膜を優しく撫でた瞬間。

  プツン、と。

  脳内で張り詰めていた何かが、焼き切れた。

  こんなこと、さっさとやめさせねぇと。

  嘘っぱちの平和なんてぶち壊して、現実を突きつけて、あの澄ました顔をひっぱたいてでも目を覚まさせてやらねぇと。

  オレサマの意思に呼応して腹の目が脈打つ。

  意を決してカッと見開いた。

  分厚い角膜が開き、濡れた眼球が空気に触れる。

  視界が反転する。

  オレサマは、その鉄壁の仮面の裏側――セリオという男の、魂の深淵へとダイブした。

  「――――ッ!?」

  肺の中の空気が、一瞬で凍りついた。

  呼吸が止まる。心臓が、早鐘を打つのさえ忘れて硬直する。

  そこにあった光景は。

  オレサマの予想とは、あまりにも、あまりにもかけ離れていた。

  暗闇でも、無機質な機械室でもなかった。

  そこは、血と泥にまみれた、戦場だった。

  心の中のセリオは、泣いていた。

  膝を突き、爪が剥がれるほど地面を掻きむしり、ボロボロと大粒の涙を流しながら。

  それでも、奥歯が砕け散りそうなほど強く、ギリギリと歯を食いしばっていた。

  『僕が、やるんだ』

  鼓膜ではない。脳髄に直接響く、悲痛な叫び。

  『僕が何とかしなきゃいけないんだ』

  『僕が折れたら……全部、終わってしまうんだ』

  全身から血を流しながら、見えない重圧で押し潰されそうになりながら、それでもこやつは、必死に顔を上げていた。

  『諦めるな。絶対にやり遂げるんだ。……あの時、そうだったように』

  視界が滲んで、歪んでいく。

  それは、オレサマがよく知っている姿だった。

  誰よりも優しくて。

  誰よりも責任感が強くて。

  一人で全部背負い込んで、傷だらけになっても誰にも言わず、ただ笑って立ち続ける。

  どうしようもなく不器用で、愛すべき馬鹿野郎の姿だった。

  (……どうしてだ?)

  腹の「邪眼」を、慌てて閉じた。

  だが、瞼の裏に、あの血まみれの魂の残像が焼き付いて離れない。

  視界が、熱い膜で覆われていく。

  喉の奥が引き攣り、呼吸が浅く、早くなる。

  ヒュー、ヒューと、情けない音が気管から漏れた。

  (どうして、そんなに辛そうなんだ?)

  胃液が逆流しそうだ。

  いっそ、何も感じてないサイコ野郎だった方が、ずっとマシだった。

  それなら、オレサマだって心置きなく軽蔑して、見捨てられたのに。

  なんで。

  なんでそんなに、魂を血の海に沈めながら、鏡の前ではあんなに涼しい顔をして笑ってやがるんだ。

  (どうしてオレサマを、ドエルを頼ってくれないんだ?)

  奥歯を噛み締めすぎて、口の中に鉄の味が広がった。

  拳の爪が、掌の皮を破りそうだ。

  てみゃーがかつて。

  そうやって泥沼からオレサマを引きずり上げ、救ってくれたんだろうが。

  その手を、今度は自分には差し伸べないのかよ。

  一人で勝手に背負って、勝手にボロボロになって、勝手に完結してんじゃねぇよ。

  「この、バカアホゴミクソッたれがあ゛あ゛ぁあああ!!」

  喉が裂けるほどの絶叫と共に、オレサマは思いつく限りの罵詈雑言を相棒の背中に叩きつけた。

  部屋を飛び出し、玄関の扉を、蝶番が悲鳴を上げる勢いで蹴破るように開け放つ。

  「えっ、でびるん!?」

  背後で、セリオが素っ頓狂な声を上げて振り返る気配がした。

  手にした櫛を取り落とす音が、カランと虚しく響く。

  だが、遅すぎる。

  オレサマが今、何を考えてるかなんて、今のあやつには分からねぇだろうな。

  何せ、あやつの額にある「魔眼」は、すっかり白く濁って、何も見えなくなっちまってるんだから。

  『最近見えなくなったんだよね』とか、大したことでもなさそうに言いやがって。

  ふざけんな。一番大事なもんが、見えてねぇじゃねぇか。

  オレサマはマントをバサリと広げ、地面を蹴った。

  重力を振り切るように、空へと舞い上がる。

  肌を刺すような風圧。

  眼下に広がるソルシエの街並みは、憎たらしいほど鮮やかで、空はどこまでも高く、澄み渡っていた。

  太陽の光が網膜を刺し、痛い。

  その青さが、滲んで歪む。

  オレサマは、頬を伝う熱い雫を風に撒き散らしながら、当てもなく飛び続けた。

  [newpage]

  今日は魔法実技の講義数が少ない日だったので、傾きかけた西日が校舎の窓を焼き、教室の床に長い影を落とす頃、私はミーティアと共にセリオ君のもとを訪ねていた。

  放課後の個人指導。この贅沢な時間が、私の日課としてすっかり浸透している。

  私の目の前で、セリオ君が杖を構える。

  杖を握るその指先には、骨の継ぎ目など存在しないかのように、硬さが微塵もない。

  彼が手首をわずかに返した瞬間、空気が震えた。

  一切の無駄を削ぎ落とした所作。

  まるで空気中にある見えない鍵盤を叩くように、白く細い指先が滑らかに踊ると、そこから視認できるほどの濃度を持った魔力の糸が紡ぎ出される。

  毎回、至近距離で見せられているせいで、私の感覚は麻痺しつつあるのかもしれない。

  けれど、肌で感じる魔力の圧力は嘘をつかない。

  彼の魔法構築は、学校の先生たちと比べても次元が違う。あまりの精緻さに、見ているだけで鳥肌が立つほどだ。

  静寂に包まれた魔法練習室の中、聞こえてくるのは、私の荒い呼吸音だけ。

  対するセリオ君の胸郭は、波一つ立たない水面のように静止している。

  息をするように。まばたきをするように。

  彼にとって魔法を行使することは、意識して行う「技術」ではなく、ただ手足を動かすことと何ら変わらない、当たり前の生理現象なのだろう。

  毎日のように新しい魔法や新薬を開発することさえ、彼にとっては朝起きて冷たい水で顔を洗う程度の、日常のルーチンワークにしか見えない。

  そんな、文字通り雲の上の存在である彼だ。

  私のような万年落第生には、さぞ冷たく、厳しい指導が待っているのではないか。最初はそう身構えて、肩にガチガチに力が入っていた。

  けれど、現実は違った。

  彼は、膝を折り、私の目線の高さまで降りてきてくれる。

  教科書通りの堅苦しい言葉は使わない。誰でも分かるように基本を解きほぐし、私が躓きそうな石ころを先回りして丁寧に取り除き、幼児に食事を与えるように咀嚼して教えてくれる。

  レベルが低いなんてものじゃない、初歩的すぎる質問の山をぶつけても、彼の整った眉根が寄ることは一度もなかった。

  その双眸は、春の日差しのように細められ、ただ穏やかな慈愛だけを湛えて私を映している。

  おかげで、変化は確実に訪れていた。

  必死で頭に詰め込んで、脳では理屈を理解していても、指先が追いつかない。

  そんな、もどかしくて歯がゆい心身の乖離が、薄紙を一枚ずつ剥ぐように、確実に解消されつつあるのを肌で感じていた。

  それは私だけではない。

  同じ悩みを共有し、共に補習を受けていた親友のミーティアも、めきめきと実力を伸ばしていた。

  かつては、どんな魔法を使おうとしても、杖の先から「星型の光」しか出せずに、耳を伏せて泣きべそをかいていた彼女はもういない。

  それどころか、最近の彼女は水を得た魚のように――いや、マタタビを与えられた猫のように、ある分野に熱中している。

  『占星術』だ。

  今も、ミーティアは楽しそうに杖を振るっている。

  ブン、と空気を切る音に合わせて、彼女の長い尻尾がご機嫌なリズムで左右に揺れていた。

  杖の軌跡に残るのは、ただの光ではない。ダイヤモンドダストのような、微細な光の粒子だ。

  彼女が空中に点と線を描き出し、特定の星座を完成させるたび、そこから溢れ出す淡い光が、周囲の空気を浄化していく。

  肌に触れる空気が、急に澄み渡り、ひんやりと心地よいものに変わるのが分かる。

  「ミャーオ!」

  

  成功を喜ぶ彼女の瞳孔が、興奮で少しだけ開いている。

  その大きな瞳は、濡れたガラス玉のようにキラキラと輝き、大好きな星の光を反射していた。

  星に触れている時の彼女は、夜空のどの一等星よりも眩しくて、生き生きとしている。

  占星術。

  天文学を母体とする、古くて新しい魔法体系。

  かつては、霧の中にある不確かな未来をどうにか推し量ろうと、先祖たちが夜空を見上げて足掻いた、ただの「占い」に過ぎなかったという。

  しかし、歴史の砂時計が降り積もるにつれ、それは星々の運行を読み解き、季節の移ろいや吉凶さえも先読みする高度な魔法へと昇華した。

  現代の占星術師たちは、夜空に輝く星々の配置を、創造主が記した「真実の設計図」だと解釈しているそうだ。

  その法則を解き明かすことは、世界の真理そのものに指先で触れることと同義なのだ。

  腕の立つ術者なら、対象の運命はおろか、本来あるはずのない未来さえも手繰り寄せると言われている。

  (もし、ミーティアがそんな凄い占星術師になれたら……)

  想像してみる。

  いつもの練習用の杖の代わりに、豪奢な金色の天球儀と巨大な望遠鏡を構える彼女を。

  魔力を帯びて青白く光る計算尺を片手に、誰も見たことのない遥か未来を見通し、得意げに微笑む彼女の姿を。

  なんて、素敵なのだろう。

  想像しただけで、胸の奥がカッと熱くなった。

  心臓が、早鐘を打つ。

  視界が不意に滲み、世界が水の中に沈んだようにぼやけた。

  慌てて目元を拭う。

  最近、あの悪夢を見るせいだろうか。涙腺の締まりが馬鹿になっている気がする。

  いや、それだけじゃない。胸の深い場所、魂の根底から、突き上げるような衝動がある。

  「それが私の悲願なのだ」と叫びたくなるような、喉が焼けるほど切なくて、どうしようもなく愛おしい感情が、マグマのように湧き上がってくる。

  ふぅ、と。

  肺に溜まっていた熱い空気を、すべて吐き出すように長く息を吐いた。

  瞼の裏が熱い。指の背で目元をこすると、じわりと涙の湿り気を感じた。

  いけない。今はまだ、そんな壮大な未来の幻影に浸っている場合じゃない。まずは目の前の、私自身の課題を片付けなければ。

  頬をパンと両手で叩き、意識を現実へと引き戻す。

  セリオ君の指導のおかげで、技術的な問題は解消された。

  だが、それによって皮肉にも、私特有の根本的な「欠陥」が浮き彫りになってしまった。

  魔力保有量の、絶望的な少なさ。

  そしてそこから来る、無意識に魔力消費を抑えようとする悪癖だ。

  それは、生存本能に近いブレーキだった。

  蛇口を全開にすれば勢いよく水が出ることは分かっていても、タンクの水が尽きて乾上がってしまう未来が怖くて、指先が勝手にハンドルを絞ってしまう。

  そのせいで、詠唱とイメージは完璧なのに、肝心の魔法構築の途中で供給が途絶え、魔法が「スン……」と情けない音を立てて萎み霧散してしまうのだ。

  その時の、血管から血が引いていくような虚脱感は、何度味わっても慣れるものではない。

  「魔力の問題さえ解決できれば、チュリンはむしろ、大抵の子よりも精度の高い魔法を構築できているよ」

  セリオ君は、そう言ってくれた。

  神童と呼ばれる彼からの、最大級の賛辞。

  嬉しくて、首筋から耳の先まで、カッと身体の火照る感覚があった。

  でも、どうやって?

  無い袖は振れない。生まれ持った魔力タンクの容量を急に増やすことなんて、物理的にできっこない。

  以前、魔力保有量が桁違いであるミーティアと手を繋ぎ、回路を直結して魔力を流してもらったことがある。

  結果は、大惨事だった。

  繋いだ掌から、私の制御許容量を遥かに超えた、濁流のような魔力がドッと流れ込んできたのだ。

  血管が破裂するかと思った。全身の神経が焼き切れるような熱と圧力に悲鳴を上げ、放った水魔法が暴発し、辺り一面を水浸しにした。

  あの時の、溺れるような恐怖と、コントロールを失う感覚は、もう二度と御免だ。

  そこで、セリオ君が提示してくれた解決策が二つある。

  一つは、彼が設計してくれた特注の杖だ。

  持ち手の先端に、ぽっかりと空いたソケットがあり、そこに魔石を嵌め込むことで、足りない魔力を予備の水筒のように補えるという代物。

  画期的だが、問題はコストだ。

  魔石は、火山の火口や深海など、命がけの場所でしか採れない貴重品。当然、慢性的な品不足で価格は高騰している。

  私の故郷の村も採掘を生業にしているが、ここからは遠すぎて頼れない。貧乏学生の私が、弾丸のように使い捨てていいものではないのだ。

  空のソケットを撫でるたび、その空洞が財布の寒さとリンクして、胃が痛くなる。

  そして、第二の矢。

  セリオ君が普段から左手の薬指に嵌めている、「福従の指輪」だ。

  銀色に輝くそのリングには、なんと無尽蔵に近い魔力が込められており、しかも時間経過で勝手に回復するという、夢のような性能を持っているらしい。

  「魔石の魔力が切れそうになったら言って。いつでも補充してあげるから」

  そう言って微笑む彼の口元は、慈愛に満ちていた。

  干上がった砂漠で、冷たい水を差し出されるような感覚。

  断る理由なんて、どこにもない救いの手。

  さらに、ミーティアも魔力補充を手伝ってくれるという。

  二人の天才の助けがあれば、私の「欠陥」も、きっとなんとかなる。

  この問題の解決は、私だけの話ではない。

  私の肩に止まり、運命を共にしている相棒――ココヨにとっても、文字通りの死活問題だ。

  チラリと、自分の肩を見る。

  そこに感じる重みは、悲しいほどに軽い。

  ココヨは私と契約し、私の魔力を供給されて生きている。だが、私の出力が低く、パスが細すぎるせいで、彼は常に慢性的な飢餓状態にあった。

  私と繋がっている見えないパイプからは、ポタ、ポタ、と雫が垂れる程度の魔力しか流れていかない。

  そのもどかしさに、胸の奥がキリキリと痛む。

  度々、自分で乾燥ラズベリーを齧っている姿を見るのが辛かった。

  小さな両手で赤い実を必死に抱え、カリ、カリ、と乾いた音を立てて齧る。

  その背中は小さく丸まり、足りないエネルギーを物質摂取で必死に補おうとしている。

  その健気な咀嚼音を聞くたびに、心臓を直接握り潰されるような罪悪感が、胃の底からせり上がってくるのだ。

  弟のザッスと見比べてみると、その差は明らかだ。

  ミーティアの肩に乗るザッスは、毛並み一本一本が内側から発光しているかのように艶やかで、筋肉もふっくらと張りがある。

  対して、私のココヨは……毛並みが少しパサついていて、身体の線も細い。

  発育に、明確な差が出始めている。

  無尽蔵の魔力を持つミーティアに養われているザッスは、魔力に関しては常に満腹で、溢れ出るエネルギーを持て余しているのだろう。

  もっとも、その分物理的な食事量も底なし沼のように凄まじく、ミーティアの財布が悲鳴を上げているらしいけれど。

  私は、肩の上のココヨを、指の腹でそっと撫でた。

  指先に伝わる体温は、少し低い気がする。

  ごめんね。いつもひもじい思いをさせて。

  でも、これからは違う。

  セリオ君とミーティアの助けがあれば、もう二度と、この小さな身体を飢えさせなくて済む。

  そう思うだけで、張り詰めていた肺の空気が抜け、何より嬉しい安堵感が身体中を巡った。

  ……

  実技指導を終え、学校の魔法練習施設の重い扉を押し開けると、世界はとろりと溶けたような夕焼け色に染まっていた。

  火照った頬を、夕方の少し冷たを含んだ風が撫でていく。

  汗ばんだ首筋が急激に冷やされる感覚に、思わず小さく身震いをした。心地よい疲労感が、足の裏からふくらはぎへと鉛のように溜まっている。

  ミーティアと並んで、石畳の道を歩く。

  私の右肩と、彼女の左肩。

  そこでは、ココヨとザッスが身を寄せ合い、何やらヒソヒソと話し込んでいる。

  彼らの小さな爪が服の生地を掴む感触や、話し声が鎖骨に振動として伝わってくるのが、くすぐったくも愛おしい。

  街道沿いに、見慣れた看板が視界の端に引っかかった。

  アンティーク調のランプが灯る、お洒落なカフェ。

  いつもミーティアたちと「星空パフェ」を目当てに通っている店だ。

  普段なら窓ガラス越しに満席の店内が見え、肩を落として通り過ぎるのが常なのだが。

  今日、私の目は逃さなかった。

  窓の向こう。一番奥のソファ席が、奇跡的にぽっかりと空いているのを。

  ピタリ、と足が止まる。

  隣でミーティアも、同じタイミングで息を呑んで足を止めていた。

  

  顔を見合わせる。

  二人の唇の端が、示し合わせたようにニヤリと吊り上がる。

  

  言葉はいらない。

  魔法の酷使で糖分を渇望し、キュルキュルと悲鳴を上げている脳髄と身体には、甘いご褒美が必要不可欠なのだ。

  カラン、カラン……

  軽やかなベルの音と共に、店内へと足を踏み入れる。

  その瞬間、暴力的なまでの幸福が鼻腔を襲撃した。

  焦がしたバターの芳醇な香り。焼きあがったばかりの小麦の匂い。そして、濃厚なバニラエッセンスの甘い余韻。

  空気そのものが砂糖漬けにされているかのような濃密な匂いに、胃袋がギュッ、と強く収縮した。

  口の中に、じわりと唾液が溢れてくる。

  導かれるように席につき、看板メニューの星空パフェと、ココヨたち用のラズベリーパイを注文して待つ。

  ふかふかのソファに沈み込むと、緊張していた背中の筋肉が泥のように解けていく。

  「ああ……美味しそうだぎゃあ……」

  「じゅるり、っす……」

  隣から、生々しい音が聞こえた。

  ココヨとザッスが、テーブルの端から身を乗り出し、隣の席の客を凝視している。

  いや、正確には客ではない。その手元のチーズケーキに、視線が釘付けになっていた。

  瞬きすら忘れている。

  客がフォークでケーキを切り取り、口へと運ぶその軌道を、彼らの瞳孔は狩人のように追跡していた。

  ケーキの上に贅沢に乗せられた、イチゴやブルーベリーの麗しい光沢。

  照明を弾いて艶めくその果実は、甘酸っぱいものが大好きな彼らにとっては、宝石の山に見えているに違いない。

  喉が、ゴクリと鳴る音がした。

  見れば、ココヨの口の端から、透明な雫がツーッと垂れそうになっている。

  ザッスに至っては、もう口を半開きにして、自分も一緒に食べているつもりになっているようだ。

  「よだれ、垂れてるよ」

  「もう、行儀が悪いデスよ」

  私とミーティアは慌ててハンカチを取り出し、二匹の口元を拭った。

  拭き取った指先に伝わる、彼らの体温と、獲物を前にした興奮による鼻息の荒さ。

  (……折角空いてるなら、セリオ君も誘えばよかったかな)

  ふと、店内の温かなオレンジ色の照明を見上げながら、そんな考えが脳裏をよぎった。

  セリオ君だけじゃない。でびるんさんやクピャドエルさんも一緒なら、もっと賑やかで、テーブルが狭くなるくらい楽しかっただろう。

  彼らがこの甘い匂いに包まれて、幸せそうに目を細める姿が、ありありと想像できた。

  また、家にお邪魔することもあるだろう。

  帰りにお土産の焼き菓子でも買っていこうか。

  そんな、とりとめもない穏やかな思考が、夕暮れの凪のように、疲れた頭を優しく満たしていた。

  「お待たせしましたー!」

  店長の快活な声と共に、風が動いた。

  重厚な木のテーブルに大きなトレイが置かれ、その振動が肘を通して私の骨に伝わった。

  それと同時に、二匹の悪魔の喉から、言葉にならない歓喜の悲鳴が迸る。

  星空パフェ。

  その名の通り、結露した冷たいグラスの中には、小さな宇宙が閉じ込められていた。

  照明を弾いて煌めくのは、金粉を散りばめたチョコソース。それが、漆黒と紺色のグラデーションを描くブルーベリーアイスの夜空を、妖艶に覆っている。

  頂点に君臨するのは、鋭角にカットされた星型のオレンジアイスと、飴細工で繊細に表現された箒星。

  そこから漂う白い冷気が、私の顔にふわりと触れ、熱った頬を心地よく撫でた。

  その宇宙を取り囲むのは、入道雲のようにふわふわとした生クリームの帯。

  視線を下へと滑らせれば、グラスの側面には魅惑の地層が広がっている。

  乳白色のバニラアイス、空気を孕んだシフォンケーキ、荒く砕かれたクッキーの礫、そして漆黒のコーヒーゼリー。

  スプーンで掘り進めるたびに、異なる食感と甘さが雪崩れ込んでくるであろうその構造は、もはや建築物のように計算され尽くしている。

  一方、その横で湯気を立てているラズベリーパイも負けていない。

  鼻腔をくすぐるのは、焦がしバターの芳醇な香りと、酸味の効いた果実の匂い。

  こんがりとキツネ色に焼き上げられたパイ生地は、指で触れればパリパリと乾いた音を立てて崩れそうなほど軽やかだ。

  その膨らみは、赤ん坊のほっぺたのようにふっくらとして、温かな熱を帯びている。

  ナイフを入れられた断面からは、時間をかけてトロトロになるまで煮込まれたラズベリージャムが、マグマのように溢れ出していた。

  ガーネットのような深く、赤い輝き。

  それを見た瞬間、私の舌の下にある唾液腺がキュッとしびれ、口の中が潤いで満たされた。

  「いただきます」

  「いただきマス!」

  私とミーティアが胸の前で手を合わせ、その一言を発した瞬間だった。

  バッ! と風切音がした。

  合図を待っていた獣のように、ココヨとザッスがパイへとダイブしたのだ。

  小さな手で熱々のパイを掴み、ハフハフと息を漏らしながらかぶりつく音が響く。

  ミーティアも、待ちきれない様子で銀のスプーンを構えた。

  カチャン、と硬質な音を立てて、頂点のオレンジアイス――「一等星」をすくい上げる。

  唇を尖らせ、それを愛おしげに口の中へ。

  「ミャーオ……!」

  甘美な吐息が漏れた。

  彼女の大きな瞳が細められ、長い睫毛が震える。

  ピンと立っていた猫耳がペタリと伏せられ、頬の筋肉がだらしなく緩んでいく。

  全身の力が抜け、ソファに沈み込むその姿は、至福そのものだった。

  私も、期待ではち切れそうになる胸を抑え、銀のスプーンを握りしめた。

  指先に伝わる金属の冷たさが、心地よい。

  金粉の散ったチョコソースと、深い紫色のブルーベリーアイス。その黄金比を狙って、慎重にひとすくい。

  プルン、とスプーンの上で揺れるひんやりとした塊を、開いた口の中へ迎え入れる。

  (……あれ?)

  舌の上で、アイスが体温を奪いながら溶けていく。

  冷たい。確かに、頭がキーンとするほど冷たくて、滑らかだ。

  けれど。

  脳が待ち焦がれていた「味」が、どこか決定的に遠い。

  本来なら、口いっぱいに広がるはずの濃厚な甘みと酸味が、まるで分厚いガラス越しに景色を見ているかのように、ぼやけている。

  一回りも二回りも、味が薄い。いや、薄いというよりは、「届いていない」。

  舌の表面を、目に見えない薄いゴム膜が覆っているような感覚に陥り、味蕾という受容体を物理的に塞がれているような、隔靴掻痒のもどかしさ。

  既視感があった。

  以前、セリオ君の家でお泊まり会をした時の朝食。あの時もそうだった。

  周りの皆は、焼きたてのパンやスープを美味しそうに頬張っていたのに、私だけが、味の輪郭を掴めずに取り残されていた感覚。

  カチャ、カチャッ。

  焦りが、スプーンを動かす手を早める。

  二口、三口と、確認するように口へ運んでみる。

  やはり、同じだ。

  脳髄が「もっと甘みをくれ、糖分をよこせ」と信号を出してスパークしているのに、入ってくる情報は、水で薄めたインクのように味気ない。

  私の舌が、おかしいのだろうか。

  怖くなって、ごくりと唾液を飲み込むが、喉を通る冷たさだけがやけに鮮明で、それが余計に不安を煽った。

  「チュリン、どうかしまシタ?」

  不意に、ミーティアがスプーンをピタリと止めた。

  覗き込んでくる大きな瞳。

  猫のような鋭い観察眼は、流石ミーティアだ。私が無意識に眉間に皺を寄せ、口角を下げていたほんの一瞬の変化を、完全に見抜いていた。

  「ううん、大丈夫」

  私は反射的に、顔の筋肉を総動員して「笑顔」の形を作った。

  頬の筋肉が、自分の意志に反して歪に引き攣った。声のトーンが、半音だけ上ずってしまったかもしれない。

  せっかくの楽しい時間を、私の原因不明の不調で台無しにしたくない。

  なんとかして、この正体不明の違和感を、飲み込んで誤魔化せないだろうか。

  そう思案し、視線を泳がせていた、その時だった。

  バンッ!

  カフェの扉が、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで開け放たれた。

  同時に、店内の空気がドンと押され、テーブルの上の紙ナプキンが舞い上がる。

  「はぁーッ、やっと……着いたぜ!」

  風と共に飛び込んできたのは、やけに元気な、しかし肺の底から絞り出したような声。

  そして、この街でも珍しい、天井の梁に届きそうなほどの大柄な影だった。

  トリトリ族。腕の代わりに巨大な翼を持ち、空を生活圏とする種族だ。

  その青年は、全身を白と黒のまだら模様の羽毛で覆われていた。

  胸元の内側は、雪のように柔らかそうな白い綿羽が密集し、外側へ行くほどインクをこぼしたように艶やかな黒い正羽が、鎧のように重なり合っている。

  飛行の余韻だろうか。羽毛の隙間から、ムワッとした強烈な熱気と、上空の冷たい風の匂いが立ち上っていた。

  額には、飛行中の飛来物を防ぐための鉄製の額当てが食い込んでいる。左右に跳ねた頭頂部の羽毛と相まって、そのシルエットはまるで羽兜をかぶった騎士のようだ。

  特に目を引くのは、胸から背中までを覆う焦げ茶色の革製外套だ。何本ものベルトと真鍮の留め具でガチガチに固定されており、彼が呼吸をして胸郭を大きく膨らませるたびに、革がギチギチと軋む音が聞こえる。

  背中には、パンパンに膨らんだ丈夫そうなリュックサック。その重量感に、彼の太い足の筋肉がピクリと脈打っていた。

  「オリオン! 頼まれてた食材、持ってきたぜ! 要望通り一日で間に合わせたから、明日の仕込みには間に合うな!」

  肩で息をしながらも、声量はラッパのように大きい。

  「バロか。いつも早くて助かるよ。あと依頼主を呼び捨てにするなっての」

  「へへ、悪ぃな。ここまでかっ飛ばしてきたからよ……」

  バロと呼ばれた青年は、そこで言葉を切り、大きく喉を鳴らした。

  ゴクリ、と。渇ききった喉の鳴る音が、離れたこちらの席まで届きそうなほどだった。

  「腹減っちまって。……甘いもん、いくつか買ってもいいか?」

  言うが早いか、バロはカウンターの焼き菓子コーナーへ一直線に向かった。

  カツ、カツ、と四本指の鋭い爪が床を叩く。

  その歩き方は、人間のような滑らかさはない。重心を上下させながら獲物に迫る、捕食者のそれだ。

  ショーケースの前で、彼がピタリと止まる。

  クッ、クッ、と小刻みに首を動かし、その鋭い視線がマドレーヌやフィナンシェに突き刺さる。

  獲物を狙う猛禽類のように、瞳孔が収縮と拡大を繰り返しているのが見えた。

  ただのお菓子選びではない。彼にとってそれは、空腹を満たすための真剣な「狩り」なのだ。

  ふと、彼と目が合った。

  心臓が跳ねる。

  獲物が捕食者に見つかったような、本能的な悪寒。

  私はハッとして視線を逸らし、手元のグラスへと逃げた。

  (ジロジロ見すぎちゃった……失礼だったかな)

  頬が熱くなるのを感じながら、数秒の沈黙をやり過ごす。

  恐る恐る、睫毛の隙間から、チラリと視線を戻すと。

  ……合っていた。

  まだ、合っていた。

  彼は、瞬き一つせず、首をわずかに傾げて私を凝視していた。

  その水色の虹彩は、魔獣が向ける不躾な視線とは質が違う。

  もっと生物としての根源的な――茂みの中に潜む「異物」を見つけた猛禽類の、純粋で鋭利な好奇心。

  カツ、ドス。カツ、ドス。

  彼が、テーブルの間の狭い通路を、無遠慮に歩み寄ってくる。

  四本の鉤爪が床を掴む、独特の乾いた足音。

  それが近づくたびに、テーブルの水の入ったコップが微かに揺れ、私の心臓のリズムがかき乱される。

  隣でミーティアの背中の毛が逆立ち、ココヨたちが喉奥で「ウゥー……」と低い唸り声を上げるのが気配で分かった。

  けれど、彼はそんな威嚇などそよ風程度にしか感じていないようだ。

  私のテーブルの前で、巨大な影が止まった。

  「なあ、あんたさ」

  頭上から降ってくる声。

  肺活量が多いせいか、空気がビリビリと震え、鼓膜を圧迫する。

  「……その纏わり付いてる変な魔力、あんた自身のものじゃないだろ。誰かに魔法でも掛けられたか?」

  「え……?」

  思考が、凍りついた。

  呼吸が止まる。

  見ず知らずの相手に、いきなり何を言われているのか分からない。

  変な魔力? 私に?

  背筋に、冷たい虫の這うような感覚が走る。

  「あの……この子に何か用デスか?」

  ミーティアが、低い声で割って入った。

  彼女の猫耳がぺたりと伏せられ、瞳孔が細く収縮している。親友を守ろうとする、完全な戦闘態勢だ。

  だが、バロは悪びれる様子もなく、翼の関節部分でポリポリと頭を掻いた。

  「すまんな。ちょっとそいつの周りの空気が気になってさ。……申し訳ねぇんだが、ちょっとだけその場で動かないでくれ」

  言うが早いか。

  彼は一歩下がると、片方の巨大な翼を、音が出るほどの勢いで大きく振りかぶった。

  「あっ」と声を上げる間もなかった。

  「ほらよッ!」

  爆発的な風圧が、私の頭のヒレを揺らした。

  目の前を、白と黒の羽毛の壁が薙ぎ払う。

  ザザッ……!

  その瞬間。

  鼓膜の奥で、砂嵐のような耳鳴りが響いた。

  視界からあらゆる色が剥がれ落ちる。

  鮮やかなパフェも、温かなカフェの照明も、すべてが荒い粒子の灰色に塗りつぶされる。

  空間に、白い横線が走る。

  まるで、壊れかけた映写機で、古いフィルムを無理やり再生したような――世界の解像度がガクリと落ちる感覚。

  三半規管が狂い、自分が座っているのか浮いているのか、上下の感覚が曖昧になる。

  

  だが、それは瞬きする間の出来事。

  映画の場面が切り替わるように、元の色鮮やかなカフェの風景が戻ってきた。

  今のは、何?

  視界の端に、灰色の砂嵐の残滓がチカチカと残っている。

  脳の奥がチリチリと痺れるような、奇妙な既視感。

  以前、どこかでこれと同じ、「世界がズレる」感覚を味わったような気がする。

  「あだだッ!?」

  私の目の前で、巨体がうずくまった。

  バロが、薙ぎ払った方の翼を抱え込み、脂汗を滲ませて顔を歪めている。

  「くそっ、この魔法……思ったより硬かったな……」

  彼が翼をさすると、白と黒の羽毛がボロボロと抜け落ちた。

  その下の皮膚が黒く鬱血し、赤く腫れ上がっていくのが見える。

  まるで、空間に存在するはずのない鉄板を、全力で殴りつけたかのような負傷だ。

  「チュリン! 大丈夫デスか!?」

  ミーティアが私の肩を掴み、顔を覗き込んできた。

  その瞳孔は針のように細く収縮し、本気で心配していることが伝わってくる。

  「おみゃー! あちきのチュリンに何するんだぎゃあ!」

  「腹ごしらえの敵っす! とっと失せろっす!」

  ココヨとザッスが弾かれたように飛び上がり、バロの顔の周りを旋回する。

  怒りで逆立った彼らの羽が起こす風は、バロの前髪を乱し、甲高い抗議の声が鼓膜をビリビリと震わせる。

  周囲の客からも、一斉に冷ややかな視線が突き刺さっていた。

  「え、俺が悪いの?」

  バロは目を丸くし、鳩が豆鉄砲を食らったような顔でキョトンと辺りを見回した。

  首をクックッと動かし、状況を理解しようとしているが、その表情には悪気のかけらもない。

  殺気立っていた空気が、そのあまりの暢気さに毒気を抜かれ、霧散していく。

  「分かった、分かったよ。……いきなり悪かったって」

  バロはバツが悪そうに唇を尖らせ、ボサボサになった頭の羽毛を乱雑にかき回した。

  「もうしねぇからよ。お邪魔虫はとっと去るわ」

  彼はそそくさとカウンターへ戻り、焼き菓子の代金をジャラリと放り出すと、逃げるように出口へ向かった。

  その背中のリュックが、重そうに揺れる。

  だが、ドアノブに手をかけたところで、彼は一度だけ振り返った。

  夕日を背に、その水色の瞳が細められ、白い歯を見せてニカリと笑う。

  「そのパフェ、美味そうだな。今度俺も食べてぇな」

  素っ頓狂な言葉を残し、いつの間にか小さなタルトを口に咥えた嵐のような男は、ドアの向こうへと消えていった。

  サクッ、という軽快な咀嚼音だけを、店内に残して。

  その後、店長が額に玉のような汗を浮かべながら、平謝りにやってきた。

  「あいつは礼儀がなってないんですが、決して悪いことはしない奴なんです。ご迷惑をおかけしましたので、今回のお代は結構です……!」

  何度も頭を下げる店長の言葉を聞きながら、ミーティアが事情を尋ねると、彼は「魔力の流れを整える」特技を持っているらしい。店長自身も、彼に酷い肩こりを治してもらったことがあるそうだ。

  ……魔力の流れを、整える?

  あの、乱暴な翼の一振りだけで?

  私は無意識に、自分の胸元に手を当てていた。

  心臓の鼓動は、まだ少し早い。けれど、さっきまでの息苦しさや、胸につかえていた鉛のような重さが、嘘のように消えている気がする。

  釈然としない気持ちのまま、私たちは残ったパフェを片付けることにした。

  グラスの中では、時間が経って角の取れたブルーベリーアイスが、紫色のスープになって溶けかけている。

  勿体ないから、食べなきゃ。

  義務感だけで、銀のスプーンを動かす。

  チャプ、と頼りない音を立てて、液状化したアイスをすくい上げる。

  口を開ける。

  期待なんてしていない。またあの、薄いゴム膜越しの、ぼやけた冷たさが通り過ぎていくだけだ。

  惰性で、スプーンを舌の上に乗せた。

  その、瞬間。

  「――――ッ!?」

  脊髄に、電流が走った。

  舌の上の味蕾が一斉に開花し、脳髄に向けて猛烈な信号を送りつけた。

  甘い。

  暴力的で、濃厚で、目眩がするほど深みがあって、鼻に抜けるバニラと果実の香りが、鮮烈なほどに甘い!

  口の中が、情報の洪水で溺れそうだ。

  ブルーベリーの鋭い酸味が唾液腺を締め上げ、チョコチップのほろ苦さがアクセントとなり、溶けたクリームのコクが全体を優しく包み込む。

  それらが混然一体となって、舌の上で極彩色のダンスを踊り狂っている。

  カッ、と目が見開かれた。

  視界がクリアになる。

  さっきまでの、あの世界を隔てていた薄いゴム膜はどこへ行ったの?

  これが、本来の味?

  これが、同じパフェだと言うの?

  「……おいしい」

  吐息と共に、震える声が漏れた。

  熱いものが込み上げ、視界が潤むほどの感動。

  ミーティアが、不思議そうに小首を傾げ、私の顔を覗き込んでいる。

  私は、ゆっくりと首を巡らせ、窓の外へと視線を向けた。

  そこにはもう、あの嵐のような男の姿はない。

  日が沈みかけ、群青色に沈みゆく夕焼けの空。

  そこにただ一筋、鋭い爪で引き裂いたような、真っ白な飛行機雲の軌跡だけが、鮮やかに焼き付いていた。

  [newpage]

  すっかり日が落ち、僅かに残った夕焼けの赤錆びた光さえも、いつの間にか忍び寄っていた黒い雲の胃袋に、音もなく飲み込まれていた頃。

  ソルシエの裏通り。

  人通りが絶え、湿った苔が張り付いたレンガ造りの建物が並ぶその一角に、俺は舞い降りた。

  足裏の鉤爪が石畳を掴む感触と共に、全体重と荷物の衝撃が踵を突き抜ける。

  酷使したふくらはぎの筋肉が、限界を訴えてピクリ、ピクリと痙攣し、熱を持って脈打った。

  「っだー……! 重かったぜ、まったく!」

  背負っていたリュックサックを、バキボキと音を立てる肩を回しながら降ろす。

  ドサリ。地面が揺れるほどの質量。

  汗を吸って黒ずんだ革のベルトが、ようやく身体から離れる。

  だが、俺の肩にはまだ、ベルトが食い込んでいた場所が鬱血し、心臓の拍動に合わせてジンジンと痺れるような痛みを訴えていた。

  羽毛の下の皮膚が、摩擦で赤く腫れ上がっているのが分かる。

  これもすべて、先程終わらせたオリオンの旦那からの依頼のせいだ。

  「絶対に中身を揺らすな」「指定の時間きっかりに届けろ」。

  注文の多い料理店みてぇな案件だったが、すべては報酬の、脂の乗った美味い肉のため。文句は空腹で鳴りそうな腹の内にしまっておく。

  フゥーッ、と肺の底から熱い息を吐き出す。

  白い呼気が、夜の冷気の中で揺らめいて消えた。

  さて、今日の最後の仕事は、鉄の箱で厳重な包装がなされた、鉛のように重いこの荷物を届けるだけだ。

  目の前に鎮座するのは、古びた魔術工房らしき建物。

  窓は分厚いビロードのカーテンで目張りされ、中からはネズミ一匹の呼吸音も聞こえてこない。

  まるで巨大な墓石みてぇな静けさが、路地の底に重く沈殿している。

  肌にまとわりつく湿度が、やけに不快だ。

  「よぉーし! 頼まれてた荷物、届けに来たぜー!」

  丹田にグッと力を込め、腹圧を高めてドアをノックする。

  ゴン、ゴン、ゴン!

  硬い樫の木の感触が拳に返ってくる。

  乾いた音が路地に反響し、虚しく空気に溶けていく。

  ……返事は、ねぇ。

  静寂が、音を食ってしまったようだ。

  「留守か? いや、指定時間は今のはずだろ」

  懐から、依頼主から渡されていたメモを取り出す。

  街灯の薄明かりに目を細め、瞳孔を調節して文字を追う。

  指定時間に誤りはねぇ。

  さらには、紙が破れそうなほどの筆圧の赤字で「置き配禁止」「必ず本人に手渡すこと」「再配達禁止」なんて条件まで書き殴られている。

  文字から滲み出る神経質さに、眉間の羽毛が寄る。オリオンの旦那とは別ベクトルで、厄介な匂いがプンプンする要望だ。

  そんなに長いこと運び屋稼業をやっているわけじゃねぇ。

  だが、毎日一分一秒を争って空を飛び回り、風の流れを読んできた俺の「勘」が、首筋あたりでチリチリと警鐘を鳴らしている。

  こいつは、ヤバい案件だ。

  「必ず本人に直接手渡し」なんて、便利な転送魔法が溢れる今時は却って珍しい。そこに「再配達禁止」なんて注文が付けば、ほんの僅かな時間すら荷物を手元から離したくない、あるいは自分達の管理外に置きたくないという、病的な執着が透けて見える。

  迂闊に要望を無視して玄関先へ置き去りにしようものなら、後から命をかっさわれても文句は言えねぇだろう。

  そんな碌でもない依頼を何で受けるのかって?

  グゥ、と腹の虫が答えた。美味い飯のためだよ。

  一度で運べる量に限界がある中、俺が個人でやっていけてるのは、自慢の翼による配送速度と、どんな無茶ぶりな依頼も力業でねじ伏せてきた実績があるからだ。

  俺は空腹を誤魔化すように、唇を舐めた。

  ポツリ。

  冷たい雫が、鼻の頭を叩いた。

  視線を落とすと、握りしめたメモの上に、インクのように黒い染みがジワリと広がっていくのが見えた。

  クッ、と顎を上げて空を睨む。

  頭上に重く垂れ込めていた黒い雲が、その重さに耐えきれず腹を裂き、今にも冷たい吐瀉物のような夕立をこぼし始めたところだった。

  「ああっ……くそっ」

  不味い。

  湿気を含んだ風が、羽毛の隙間に潜り込んで肌を撫でる。

  雨で自慢の翼が濡れそぼれば、水を吸った綿のように重くなり、飛行バランスが崩れるのが常だ。

  かと言って、今日の宿は街の反対側。そこまでずぶ濡れになりながら、鉛のような身体を引きずって歩くなんて御免だ。

  兎にも角にも、さっさとこの荷物を届けて雨宿りしねぇと、明日のコンディションにも関わる。

  「おーい! 誰かいねぇのか!」

  腹の底から空気を絞り出し、喉を震わせて叫ぶ。

  だが、返ってくるのは雨粒が石畳を叩き始めた音だけ。

  カーテンの閉ざされた窓は、死人の瞼のようにピクリとも動かない。

  本当に誰か住んでるのかすら怪しくなってきた。

  かくなる上は仕方ねぇ。

  覚悟を決め、首を突き出して鍵穴を凝視する。

  真鍮製の古びたドアノブは、表面が酸化して鈍い光を放っている。

  玄関に取り付けられた鍵は大抵二種類。物理的なギミックか、魔法が仕込まれた魔法式か。

  俺は瞳孔を収縮させ、鍵穴の奥に潜む気配を探る。

  こいつは――。

  しめた! 魔法式の鍵だ。魔力の通り道さえ狂わせれば、俺でもこじ開けられる。

  右の翼の先端を、鍵穴の奥へ差し込もうとして――ビクリと動きを止めた。

  翼の先端に、熱を持った鈍痛が走ったのだ。

  羽毛をかき分けると、先ほどのカフェで妙な魔力を解除した際の名残である、赤い腫れが毒々しく主張している。

  ズキリと脈打つ患部に舌打ちし、俺は左の翼へと切り替える。

  脳裏に、あのイルカの女の姿が過る。

  着ていた上等なローブ。アカデミックな魔法の匂い。

  あいつ、ここらじゃ珍しいイルカの種族だったな。どこかの魔法学校の生徒か。

  いいよなあ。俺だって、あんな風に机へ向かって、世界の理とやらを学んでみたかったぜ。

  そんな暇があるなら、一件でも多く荷物を運んで日銭を稼がなきゃならん身だがな。

  叶わぬ夢をふっと思い出していたら、感傷を振り払うように翼先に意識を集中させた瞬間、パチン、と指先でシャボン玉を割ったような感触があった。

  魔法が弾け、霧散する。

  同時に、鍵穴からドロリとした黒い煙のようなものが、蛇のように絡み合いながら立ち上る。

  鼻をひくつかせ、小刻みに嗅ぐ。無臭だ。喉が焼ける感覚もない。まあ無害だろう。

  冷たいドアノブを鷲掴みにし、回す。

  蝶番が錆びついた悲鳴を上げ、扉が重々しく開いた。

  僅かに開いた隙間から、片目だけで中を覗く。

  淀んだ空気が漏れ出してくる。薄暗い廊下が奥へと伸びているだけで、人の姿は見当たらない。

  「勝手に入らせてもらうぞ!」

  一応、仁義を切るようにもう一度、腹の底から声を張り上げてみる。

  だが、返ってくるのは、俺の声が湿った闇に吸い込まれていく気配と、粘りつくような静寂だけ。

  チッ、と舌打ちが漏れる。

  面倒くせぇ。細かい条件を指定したなら、とっとと出てこいや。

  俺は背中のリュックを揺すって位置を直し、無遠慮に廊下へと足を踏み入れた。

  その、最初の一歩。

  右足の鉤爪が床板に触れた、その瞬間だった。

  ゾワリ、と。

  背筋から首元にかけて生え揃った綿羽が、一斉に逆立った。まるで、皮膚の下に無数の虫が這い回っているような、粟立つ悪寒。

  本能のサイレンが、頭蓋骨の中でけたたましく鳴り響き、全身の血管を収縮させる。

  この古びた家屋に澱んでいる空気。

  それは、ただの埃やカビの臭さではない。

  俺の網膜には、その「異常」がはっきりと色を持って映し出されていた。

  足元を這うのは、赤黒く、泥のように濁りきったドブのような魔力の残滓。

  そして、それとは対照的に、天井付近を漂うのは、何故か食欲をそそる甘ったるい黄色い魔力の靄。

  二つの異質な色が、混ぜ損ねた絵の具のようにマーブル模様を描き、空間を埋め尽くしている。

  どちらも、俺の目で確認したことのない異常な代物だ。

  こんなものが充満している時点で、生物としての直感が「今すぐ回れ右をして空へ逃げろ」と叫んでいる。

  だが、俺は運び屋だ。プロとして依頼を完遂しなきゃならねぇ。

  カツ、カツ、と。

  意識して音を殺そうとしても、俺の鋭利な爪が床板を叩く音が、やけに大きく鼓膜に響く。

  建物の中は、埃っぽい乾燥した匂いではない。

  何かこう……湿った爬虫類小屋みてぇな、独特の青臭い生体臭が充満していた。

  鼻の粘膜にへばりつくような、ツンとするアンモニア臭。

  生理的な嫌悪感で、鼻の穴が勝手にヒクヒクと動く。

  奥に向かうほど、二種類の魔力の濃度が増していく。

  息をするたびに、肺胞の一つ一つが汚泥で塗りつぶされていくような錯覚。

  顔の筋肉が強張り、眉間から鼻筋にかけて、くしゃくしゃに歪んでいくのが自分でも分かる。

  それなのに。

  あの黄色い魔力を吸い込むたび、喉の奥がキュッと鳴り、舌の下からじわりと唾液が湧いてくる。

  吐き気と食欲。相反する生理反応が同時に襲ってくる気持ち悪さに、俺は唇を固く引き結んだ。

  ああ、頼むから早く出てきて受け取ってくれよ。一秒でも早くここからおさらばしてぇんだ。

  浅い呼吸を繰り返しながら、廊下の奥まで辿り着く。

  突き当たりにある重厚な扉が、わずかに開いていた。

  その数センチの隙間から、濃密な気配が漏れ出している。

  どうやら、この不快な魔力の発生源は、ここらしい。

  俺の勘が、この先に入ったら間違いなく命取りだと、脳髄に直接鐘を鳴らして叫んでいる。

  逃げろ。今すぐに、空へ。

  だが、ここまで来たら毒を食らわば皿までだ。何時依頼主に会おうが、遅かれ早かれこの空気を吸う羽目になる。

  俺は一度深く息を吸い込み、肺を覚悟で満たすと、意を決して重厚な扉を押し開けた。

  その瞬間。

  ドロリとした熱風が、顔面に吹き付けた。

  一気に、視覚、嗅覚、そして肌感覚に、許容量を超えた暴力的な情報が雪崩れ込んでくる。

  そこには、とんでもなく禍々しい――何をどうすればこうなるんだと叫び出したくなるような、極彩色の地獄があった。

  一見すれば、そこは整然としている。

  銀色に輝く調合器具や、手入れされた魔法器具、背表紙の揃った分厚い魔導書の類が几帳面に整頓された、神経質な学者肌の魔術工房に見える。

  だが、魔力が「色」として視える俺の網膜は、その偽りの平穏を焼き尽くすほどの異常を捉えていた。

  部屋の奥。

  壁に立て掛けられた大きな杖から、反吐が出るほど濃い、赤黒い魔力の奔流が噴き出し、天井を舐めている。

  その杖の先端に嵌め込まれた宝玉は、血のようにドス黒い赤色を放っていた。

  中央には、爬虫類の瞳孔を思わせる、縦に割れた鋭い一本線が浮かんでいる。

  ギョロリと。

  その瞳孔が、まるで生き物のように忙しなく収縮と拡大を繰り返し、部屋中を舐めるように見回している。

  そして、その視線の先――杖の周囲には。

  「ぅ、ぅぅ……」

  小さな悪魔や精霊たちが、魔力で編まれた赤黒い鎖により、空中で磔にされていた。

  彼らの頬はこけ、皮膚は乾燥してひび割れ、眼窩は落ち窪んでいる。

  虚ろな目をした彼らの痩せ細った身体から、あの杖がストローで髄液をすするかのように、生命力である魔力を貪欲に吸い上げているのだ。

  ズズズ……と、魔力が管を通る幻聴すら聞こえてきそうだ。

  ふと、一人の悪魔の胸が動かなくなった。

  枯れ木のように干からびた身体から、魔力の供給が途絶える。

  

  宝玉の瞳孔が、即座にその「用済み」を捉えた。

  次の瞬間。

  ボッ!

  爆ぜる音と共に、悪魔の身体が内側から発火した。

  紅蓮の炎が、瞬く間に小さな身体を包み込む。

  断末魔の悲鳴を上げ、炭化した手足をバタつかせて苦しみに足掻くも、数秒と経たずに動きが止まる。

  燃え尽きた骸が灰となって崩れ落ち、床に積もった灰の山の一部と同化した。

  焦げた肉の臭いと、魔力が焼ける臭いが、鼻の奥にこびりつく。

  化け物だ。

  拘束されたこいつらは、生き物じゃねぇ。あの杖を動かすための、ただの「燃料」だ。

  残酷極まりない方法で生かされ、最後の一滴まで搾り取られ、用済みになればゴミのように焼却される。

  あまりにも悍ましい光景に、胃液が逆流しそうになる。

  俺の意思とは無関係に、足の筋肉が硬直し、勝手にジリジリと後ずさりを始めていた。

  だが、この場所における地獄は、それだけじゃ終わらねぇ。

  俺の鼻腔をくすぐり続けている、あの妙に食欲をそそる甘ったるい「黄色い魔力」。

  その発生源は、部屋の中央に鎮座する、冷たい金属製の大きな机の上にあった。

  並んでいるのは、大人の腕ほどもある太いガラス製の試験管だ。

  中には、粘度の高そうな緑色の保存液が満たされ、底から立ち上る気泡に揺られながら、「何か」が浮遊している。

  俺は目を凝らし、瞳孔を極限まで絞ってその正体を見極めようとした。

  ピンク色の、肉片。

  ……いや、違う。臓器だ。

  握り拳大の心臓、襞の寄った胃袋、赤黒い肝臓。

  様々な種類の臓器が、持ち主という器から丁寧に切り離され、試験管の中で標本のように整然と保管されていたのだ。

  そこから、あの黄色い魔力が、調理された肉料理の湯気のように立ち上り、ふわりと風に乗って俺の顔面を包み込んだ。

  甘い。芳醇な脂のような匂い。

  脳が「美味そうだ」と誤認し、条件反射で口の中に唾液がドッと溢れ出す。

  だが、目は「直視するな」と悲鳴を上げている。

  それは、つまり。

  「生きてるのか……? あの状態で……?」

  信じられねぇもんを見た。

  生命維持に必要な血管も、神経も、骨格も、その悉くを切り離され、冷たいガラスの管によってバラバラにされても尚。

  もはや悲鳴すら上げられないただの肉塊にされても、あの臓器たちは生を求めて必死に脈打っていたのだ。

  ドクン、ドクン。

  心臓が、保存液を震わせて収縮と拡張を繰り返す。

  胃袋が、消化する中身もないのに、空虚な蠕動を繰り返して波打つ。

  その生々しい動きを見るたびに、俺の胃袋も共鳴するように痙攣した。

  「ぐ……ぅ、お゛ぇぇッ……!」

  限界だった。

  食欲と嫌悪。相反する信号が脳内でショートし、どうしようもない吐き気が食道を駆け上がってくる。

  俺は膝から崩れ落ち、床に手をついた。

  喉奥が熱く焼け、先程カフェで頬張ったタルトの残骸が、酸っぱい胃液と共に床にぶちまけられる。

  ビチャビチャと、汚い音が静寂に響く。

  涙で滲んだ視界の端で、まだあの心臓が元気に動いているのが見えた。

  だめだ。

  もう、こんなもん見せられたら、仕事どころじゃねぇ。

  口元の汚れを翼の甲で乱雑に拭う。

  さっさと荷物だけ置いて逃げるしか――。

  「ねぇ、アンタ。アタシの工房で何をしているのかしら」

  不意に。

  鈴を転がしたような、場違いに可憐な声が、俺の鼓膜を撫でた。

  その瞬間、痙攣していた胃袋が凍りつき、嘔吐がピタリと止まる。

  ゾワリ、と。

  背筋の毛穴という毛穴が開き、全身の綿羽が一斉に逆立った。

  皮膚の粟立つ音が聞こえそうなほどの悪寒。

  俺は酸っぱい胃液で濡れた口元を拭うのも忘れ、ギギギと錆びついた機械のように首を後ろへ巡らせた。

  そこに、いた。

  いつの間に開いたのか。床に設けられた地下への入り口から、音もなく上半身を出した女の姿が。

  土色の柔らかな毛並みに、豪奢なドレス。

  その裾からは、朱が差した艶やかな蛇の尻尾が覗き、床を這っている。

  ヘビヘビ族だ。

  一見すれば、童話にでも出てきそうな、深窓の令嬢のような可愛らしい装い。

  風に揺れる長い耳や、ふわふわとした毛並みは、触れれば温かそうだと思わせる。

  だが。

  俺の目は釘付けになった。

  その可憐な顔の中央に鎮座する、オレンジ色の瞳に。

  そこには、温度がなかった。

  人間や魔獣が持つ「感情」の揺らぎが一切ない。

  爬虫類特有の、濡れたガラス玉のような硬質な光だけが、ただそこに在る。

  女は、微笑んでいた。

  口角を左右対称に吊り上げ、目を三日月のように細めて。

  このむせ返るような鉄錆の血の臭いと、臓物の腐臭に塗れたどうしようもない地獄には、到底似つかわしくないほどに、慈愛に満ちた聖母のような笑みで。

  本能が、理解してしまった。

  こいつは、心臓の鼓動のリズムからしてイカれた、本物の化け物だ。

  ……

  「今日も、良い天気ね」

  アタシの声が、湿った石壁に反響して吸い込まれる。

  もっとも、地上はとっくに日が沈み、鉛色の雨雲が空を覆っている時間帯らしいけれど。

  分厚い岩盤に閉ざされたこの地下室では、日の光なんて永遠に拝めない。

  あるのは、カビの臭いと、錆びた鉄の臭い。そして、鼻腔にこびりついて離れない、新鮮な血の芳香だけ。

  アタシは、目の前で鎖に繋がれ、磔にされている「協力者」さんに、朗らかに話しかける。

  彼はもう、言葉を返さない。

  ただ、剥き出しになった神経が空気に触れるたび、壊れた玩具のようなリズムで痙攣を繰り返しているだけだ。

  「アンタの主人に用があるんだから、さっさとマジリシアに降り立つ時の居場所を教えてくれるだけで、良かったんだけどなあ」

  自身の長い尾を、シュルリと滑らせる。

  冷たい石床を鱗が擦る、乾いた音が心地よい。

  アタシほどの呪術師と言えども、瘴気渦巻く魔界に直接乗り込むのは、流石に分が悪いわ。リスクマネジメントは呪術師の基本だもの。

  それなら、あの大悪魔が時折美食を漁りに、このマジリシアにお忍びで来てるタイミングを狙った方が、余程効率的でしょう?

  でも、アタシの魔力が強すぎるせいか、随分と警戒されちゃったみたい。

  アタシは「協力者」さんの、あらぬ方向へひん曲がった左手に触れる。

  指先を這わせると、彼はビクリと身体を跳ねさせた。

  どれだけ指を一本ずつ、丁寧に、優しくへし折って「お願い」しても、全然答えてくれないの。

  もう、折る指が残っていないじゃない。

  「BBB様……どうか、お逃げ……くだ……さい……」

  千切れかけた唇から、血の泡と共に空気が漏れる。

  虫の息で、まだそんなことを殊勝にも呟いちゃって。

  ベルゼブブという真名なんてとうに割れてるんだから、こんな肉塊になっても偽名で通そうとするなんて、涙が出るほどいじらしいわね。

  チッ、と。

  舌打ちが出た。

  尾の先端が、イラつきに合わせて左右に激しく打ち付けられる。バシン、と床を叩く音が、静寂を乱す。

  そういうの、生理的にイライラするのよね。

  何が固い絆で結ばれた主従関係よ。

  そんな不確かなものがなくても、個としての実力さえあれば、いくらでものし上がれるのよ。

  アンタがその狭い世界に落ち着こうと、泥の中で蹲っている間に、アタシは世界の何もかもを破壊して、真理を暴いてみせるわ。

  今だってそのために、こうして手を汚して動いているもの。

  アンタがそんなつまらない忠義ごっこに縋るのは、ただ自分が無力で無能であることを自覚しているからでしょ?

  弱者の言い訳。負け犬の遠吠え。

  そんなことよりも、この欺瞞に満ちた世界を壊した方が、余程楽しいはずなのに。

  脳裏に、あの姿が過る。

  時計塔の上から見下ろした、あの忌まわしくも、無限の可能性を感じさせたイルカの化け物。

  彼女は、凄く楽しそうに笑っていた。世界を敵に回して、蹂躙することに喜びを感じている、あの無邪気な笑顔。

  思い出すだけで、アタシの冷たい血が滾り、頬が熱くなるのが分かる。

  それに比べて、目の前のこの肉塊は、なんて退屈なのかしら。

  「あーあ……」

  肺に溜まった空気を、すべて吐き出すように長く溜息をつく。

  なんか、急激に気分が下がっちゃった。熱が冷める。

  もう数日間もアンタの相手するの、飽きちゃった。

  アタシは、興味を失った冷めきった瞳で、彼を見下ろす。

  「もう、さっさと『解放』しちゃおうかな」

  これ以上の尋問は、時間の無駄ね。

  先にアタシの研究に「協力」してくれた、綺麗に分類された臓器だけのアンタのお仲間が、上で待ってるわよ。

  せめて彼らと一緒の試験管に詰めてあげるのが、アタシなりの最後の慈悲かしら。

  ……あら?

  意識の端で、プツン、と何かが切れる音がした。

  極細の糸が焼き切れるような、神経に障る不快な感触。

  玄関の扉に仕込んでおいた呪いが、完全に沈黙したのだ。

  あれは、迂闊に触ろうものなら一瞬で対象の皮膚をドロドロに溶かし、骨まで到達するアタシのお気に入りの罠だったのだけれど。

  経年劣化で術式が脆くなっていたのかしら?

  アタシは空中に指を走らせ、監視用の水晶を起動する。

  ブゥン、と低い羽音を立てて浮き上がった水晶の表面に、ノイズ交じりの映像が浮かび上がる。

  薄暗い廊下を、無遠慮に歩いてくる影。

  大柄な、鳥の魔獣。

  ああ、アタシが依頼した運び屋だわ。

  やってしまった。「協力者」さんの悲鳴で奏でられる音楽が楽しくて、つい「実験」に夢中になり、時間の感覚が脳から溶け落ちてしまっていたみたい。

  律儀にも、アタシに直接渡そうと中まで入ってきてくれている。

  仕事熱心で、結構なことね。

  でも、その扉を開いたら、もうそちらの世界には戻れないわよ。かっこいい鳥の運び屋さん。

  磔にしていた「協力者」さんに、痛覚を百倍に増幅させる素敵な魔法を置き土産に仕込む。

  「ギャアアアアッ!」

  喉が裂けんばかりの絶叫。

  その心地よい旋律をBGMに、アタシは石造りの階段を滑るように昇り始めた。

  シュルリと。アタシの自慢の蛇の尾が、冷たい石段を擦る乾いた音が、地下道に反響する。

  頭上で、重い扉の開く音が響く。

  あーあ、やっぱり入っちゃった。

  ということは、愛しい杖の食事風景とか、試験管の中で漂う元「協力者」さんの無様な姿も、その目に焼き付けちゃったわよね。

  じゃあ、今日の夕飯は手羽先に決定かな。

  この街では珍しい種族だからあまり口にしたことはないのだけれど、筋肉質なその肉は、どんな味がするのかしら。

  思わず、先が二股に分かれた舌が口元から覗き、唇を湿らせた。

  ……待って。

  食欲よりも先に、純粋な疑問が脳裏を掠める。

  そもそも、どうして玄関の呪いをあんなに簡単に、音もなく壊せたの?

  まずはそれを、脳髄を切り開いて、前頭葉を直接つついて聞き出してからでも遅くないわね。

  ただ、早めに吐かせないとダメ。

  最近、アタシの杖はどれだけご飯を補充しても満足してなさそうだし、あんな魔力の塊のような鳥を見つけたら、アタシの命令を待たずに真っ先に飛びついて、髄液まで吸い尽くしちゃうかも。

  ああ、淑女たるもの言葉遣いには気を付けないといけないわね。

  ふと、遠い記憶の中の両親の顔が浮かび、すぐに霧散した。

  もうそれを咎める口煩い奴らもいなければ、気にする必要もないのだけれど。

  地下から魔術工房に続く入り口から、音もなくぬるりと顔を出す。

  そこには、素敵な光景を前に、血の気を失って立ち尽くす侵入者の姿があった。

  アタシは首を小首に傾げ、呆然としている運び屋さんに話しかける。

  「ねぇ、アンタ。アタシの工房で何をしているのかしら」

  ビクリ、と。

  大柄な身体が、電流を受けたように跳ねた。

  驚いて、錆びついた蝶番のような動きで振り向いた運び屋さん。

  その引きつった顔に対し、アタシは頬の筋肉を総動員し、練習通りの完璧な角度の笑顔を貼り付ける。

  口角を左右対称に引き上げ、眼輪筋を緩め、敵意がないことを示す可憐な表情。

  男って、単純で可愛いわよね。

  和やかな笑顔さえ最初に見せれば、裏でどんな凄惨なことをしていようと、多少は警戒の壁を下げてくれるもの。

  今まで家でも学校でも、来る日も来る日も散々実践させられたから、もうすっかり顔の表情筋に形状記憶されちゃったみたい。

  その代わり、アタシの瞳は笑っていないけれど、彼は気づかない。

  「ラ、ラミア・スネイクさんだな? 俺は、依頼を受けて荷物を、と、届けに来た。わ、悪ぃな……呼んでも返事がなかったもんで、入ってきちゃって……さ……」

  声が、上擦っている。

  ヒュッ、という浅い呼吸音。

  喉が渇ききっているのか、言葉の合間に、ゴクリと唾液を飲み込む音が聞こえた。

  首元の羽毛が逆立ち、微かに震えているのが見て取れる。

  怯えている。

  アタシの鼻腔に、彼から発せられる酸っぱい恐怖の臭いが届いた。可愛いわね。

  「あら、そうなの。届けてくれてありがとう。荷物はそこに置いてもらえばいいわ」

  運び屋さんの言い訳を聞いて、アタシは「初めて知った」という風を装い、声のトーンをワントーン上げて答える。

  アタシの視線が、彼の手元にある鉄の箱へと吸い寄せられた。

  瞳孔が、欲望でグワリと開くのが自分でも分かる。

  重い音がして、待望の荷物が机に置かれた。

  素晴らしい。

  これさえあれば、あの化け物――時計塔の夢で見た、世界を灰に変えるほどの力を持った「少女」の背中に追いつくための糸口を解明できる。

  アタシの指先が、期待で微かに痙攣した。

  「じゃ、じゃあ俺はこれで失礼するぜ。邪魔したな」

  運び屋が、弾かれたように踵を返した。

  逃がさない。

  その背中に、甘い蜜を塗ったような声で呼びかける。

  「待ちなさい」

  パチン。

  アタシの指が鳴ると同時。

  風圧が顔を打つほどの勢いで、入り口の鉄扉が閉ざされた。

  見えない手によって重い閂が下ろされ、施錠される音が、石造りの室内に絶望的に反響する。

  運び屋さんの肩がビクリと跳ね、彼の退路は完全に断たれた。

  「折角来てくれたんだもの。少しオハナシでも、いかがかしら?」

  「……え、いや、俺は遠慮しておく――」

  「いいのよ。へりくだる必要なんてないから、少しでも聞いていきなさいよ」

  アタシは歌うように語りかけ、床を滑るように彼との距離を詰める。

  シュルリ、シュルリ。

  ドレスの裾から覗く蛇の腹が、冷たい石床を撫でる音が、彼の鼓膜を圧迫していく。

  「もう見たと思うけど、そこの杖はアタシの愛用しているものなの。きゃはっ、綺麗でしょ? くりくりしたお目々がチャームポイントなの」

  ゆっくりと杖に歩み寄り、我が子を慈しむように、赤い宝玉を人差し指で撫でる。

  指先に、生温かい感触が伝わった。

  杖が「もっとよこせ」と、アタシの指の腹に吸い付いてくる。

  血管を通じて、微量な魔力が吸い出される感覚。甘えん坊さんね。

  「この子ね、随分と大食らいなの。すぐに『お腹空いた』って文句を言うものだから、度々ご飯を補充しないと追いつかなくて。……ああ、もう一匹燃えちゃったのね。すぐ補充しないと尽きてしまうわ」

  足元を見る。

  そこには、先ほどまで生きていた悪魔のなれの果て――炭化した黒い塊が転がっていた。

  邪魔ね。

  汚い埃でも払うように、無造作に脇へ蹴り飛ばす。

  乾いた音がして、それは脆く崩れ、灰となって床の隅に散らばった。

  「それと少し前にね。アタシったらずっと忘れてたことを思い出したの」

  アタシはうっとりと、虚空を見つめる。

  脳裏に焼き付いた、あの時計塔からの光景。

  全てを濁流で押し流す、あの圧倒的な少女の力。

  「その記憶に焼き付けられた事象の正体が掴めれば、アタシの夢なんてあっという間に達成できてしまうほど重要な情報だったのに。だから、今とっても忙しいの。あの魔力の正体を突き止めるために、あれこれ『協力者』さんを集めていてね。『これ』もその一つだったものよ」

  ツン、と指差す。

  机の上、緑色の保存液で満たされた試験管の中で、プカプカと漂うピンク色の肉塊。

  元「協力者」さんの胃袋だ。

  保存液の中で、それはまだ主人の死を知らぬまま、ゆらりゆらりと蠢いている。

  意外と長いこと魔力を出し続けてくれているので、研究サンプルは今のところ困っていないけれど。

  「……そ、そんなことを……どうして俺に教えるんだよ」

  運び屋の顔色が、土気色に変色している。

  頬の筋肉が強張り、肩を小刻みに震わせているのが、羽毛越しでも分かる。

  けれど。

  動揺しながらも、彼の眼球は忙しく左右に動き、サッケードを繰り返している。

  扉の強度、壁の材質、アタシとの距離。

  この運び屋、ただの脳筋に見えて、実は場数を踏んで手慣れているのね。必死に生存ルートを探している。

  無駄なのに。

  「どうして? そんなの決まってるじゃない。アンタに研究の『協力』をして欲しいからよ」

  アタシは油断なく魔杖を手に取った。

  ずしりとした重みと、脈打つ熱が掌に伝わる。

  その切っ先を、礼儀がなっていない侵入者の眉間に向ける。

  「ああ、その前にまずは、今夜の夕食にでも付き合ってもらおうかな。モモが随分逞しいようだし、この杖も喜んでくれるわよ」

  アタシの言葉に、運び屋の喉がヒュッと鳴った。

  「てめぇ……イカれてやがる……ッ!」

  大した魔力も持たないであろう、羽虫のような運び屋の戯れ言。

  それに付き合う義理なんて、これっぽっちもない。

  けれど、ここは侵入者が絶望で顔を歪め、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになる様が見たくなったので、特別に応じてあげる。

  アタシはカッ、と眼を限界まで見開き、白い歯を見せて満点の笑顔を作って宣う。

  「イカれてる? 理を追い求める呪術師であれば、この程度は当たり前の倫理観でしょう? やっぱり常識がない魔獣の相手は疲れるわね。まずは下拵え。その自慢の羽を、一本残らず燃やし尽くしてあげる」

  魔力を、指先から杖の柄へと流し込む。

  ドクン。

  それに呼応して、赤い宝玉がアタシの心臓のリズムとシンクロして脈打ち、紅蓮の光を放ち始めた。

  室内の温度が一気に数度跳ね上がる。

  肌がチリチリと焼けるような、心地よい魔力の飽和感。

  戦闘態勢に入ったアタシに反応して、運び屋の雰囲気が一気に変わった。

  全身の毛穴から、殺気が噴き出す。

  重心が沈み、太腿の筋肉がバネのように収縮する音が聞こえそうだ。

  何か仕掛けようとしているようだけれど、呪術師の工房という、アタシにとっての絶対領域で勝てるなんて思わないことね。

  アタシは、乾いた唇を舐め、速度重視の炎呪文を舌の上で転がす。

  「[[rb:不可侵の罪を焔で償 > ノア・グレス・フラメ]]――」

  「――おらぁッ!!」

  ……え?

  アタシの詠唱が完了する、コンマ数秒前。

  侵入者は片方の翼を、抜刀術のように鋭く振り上げた。

  鼓膜を裂くような高音が響く。

  不可視の「風の刃」が飛び出し、アタシの喉元へ向かって一直線に迫ってくる。

  速い。

  杖も詠唱もなしに、予備動作ゼロで、ただの身体操作だけで魔法を撃ってくるなんて想定外だ。

  アタシは反射的に瞬膜を閉じ、咄嗟に杖をかざして障壁を展開し――。

  風の刃は、アタシの喉の皮一枚手前で軌道を直角に逸れ、その背後で拘束されていた魔神たちの鎖だけを、外科手術のような正確さで断ち切った。

  「おまえら、逃げろ!」

  侵入者は杖のご飯たちに向かって叫ぶと、両翼に青白い魔力を纏わせ、爆発的な加速で床を蹴った。

  ドンッ、と床板が悲鳴を上げる。

  向かう先は、この部屋の唯一の脱出経路と「考えられる」、突き当たりの大窓。

  彼は空中で身を捻り、全体重を乗せたドロップキックの体勢で、太い鉤爪を突き出す。

  コンマ一秒の世界で、アタシの思考が加速する。

  確かに、窓を割って脱出するのは、密室においては妥当な選択肢に思える。

  でも、そんな浅知恵、工房の主であるアタシが想定しないわけがないじゃない。

  この工房は、アタシの大切な研究拠点であり、一度中に入った獲物を永遠に閉じ込める、血も涙もない牢獄でもある。

  その一見頼りなく見える窓には、アタシが何日もかけて、寝る間も惜しんで丹精込めて編み上げた結界が施してある。

  上級魔術すら防ぎきる物理防御障壁に加え、窓枠を通過しようとした瞬間、不可視の魔力で形成された無数の毒蛇と、拷問の末に殺された何十もの怨念が飛び出し、侵入者の手足を瞬時に拘束して取り込む。

  一度捕らえれば、例え死んでも魂ごと縛り付けられ、その永遠の檻から出ることは叶わない。

  ――さあ、絶望で顔を歪めなさい。

  ――自分の浅はかさを呪いながら、蛇に巻かれて窒息する様を見せてちょうだい。

  アタシは期待に胸を膨らませ、カッ、と目を見開いた。

  瞬きなどしてやるものか。

  この瞳で、愚かな羽虫が断末魔を上げるその刹那を、一秒たりとも逃さず録画するのだ。

  「――どりゃあぁ!!」

  パリン。

  ……は?

  軽い音がした。

  ガラスが割れる音ですらない。

  もっと薄い、張ったばかりの氷の膜を指先で弾いたような、乾いた、儚い音。

  アタシの視界の中で、信じられない光景が、コマ送りのスローモーションのように展開された。

  男が翼を広げ、窓枠を蹴った瞬間。

  侵入者を食い殺そうと実体化した数百の魔力の蛇と、赤黒く渦巻く怨念たちが、男の身体に触れることさえできず、硬直した。

  次の瞬間、それらは極寒に晒された薔薇のように、パリパリと音を立てて凍りつき――

  キラキラと輝くガラス細工のように、空中で粉々に砕け散ったのだ。

  鉄壁の物理防御障壁も。

  絶対の自信があった拘束術式も。

  神経を焼き切る猛毒の呪いも。

  すべてが、ただの「風」に吹き飛ばされた埃のように、跡形もなく消滅した。

  「――――ッ!?」

  声が出なかった。

  喉の奥で、声帯が引き攣り、呼吸が止まる。

  心臓が、とてつもなく大きな一拍を打った後、沈黙した。

  何が起きた?

  脳の処理が追いつかず、シナプスが焼き切れるような錯覚。

  侵入者は魔法を使ったわけではない。

  ただ、無造作に。

  そこにある蜘蛛の巣を手で払うように、アタシが寝る間も惜しんで構築した最高傑作の結界を「通過」しただけだ。

  「あばよ!」

  侵入者は、アタシを一瞥もせずに、粉々になった術式の残滓を翼で撒き散らしながら、激しい夕立の降り始めた空へと飛び去っていった。

  遅れて、爆風のような風が吹き込んでくる。

  その風圧に、アタシの長い髪が乱れ、ドレスの裾がバタバタと煽られた。

  後に残されたのは、ぽっかりと口を開けた窓枠と、意味をなさなくなって床に散らばる、光の粒のような魔力の残骸。

  そして、工房に取り残され、指一本動かせずに呆然とするアタシだけだった。

  何よ、あれ。

  こんな屈辱、あの召喚魔法の少年に呪いの弱点を突かれ、アタシの精神が代償により蝕まれた時以来だわ。

  胸の奥底にある古傷が、ズキリと疼いた気がした。

  一切の魔術的な手順もなしに、アタシの術式が一方的に無効化されるなんて、ありえない。

  呪術師としての人生の中でも一度もなかった経験だ。

  理解できない。

  アタシの身体はまだショックで硬直したまま、ただ、開け放たれた窓から吹き込む冷たい雨が、熱った頬を濡らす感覚だけが、やけに鮮明だった。

  ガタ、ガタ……。

  静寂を引っ掻くような、遠慮がちな物音。

  その音が、凍りついていたアタシの意識にヒビを入れ、強引に現実へと引き戻した。

  ギギギ、と首を巡らせる。

  視界の端、開け放たれた窓枠にしがみつき、よろよろと外へ這い出そうとしている矮小な影があった。

  あの男が拘束を解いた、魔神どもだ。

  アタシの所有物が。アタシの許可なく。外の世界へ逃げようとしている。

  ブチリ。

  脳内で、理性のヒューズが焼き切れる音がした。

  頭に血が上り、視界が真っ赤なフィルターで覆われる。

  激情の赴くままに、言葉を発することさえ忘れ、無言で杖を振り上げる。

  死ね。

  一瞬だった。

  窓枠ごと、魔神たちが紅蓮の炎に飲み込まれた。

  悲鳴を上げる暇すらなかっただろう。

  肉が焼け、骨が炭化し、魂ごと燃え尽きる音が、雨音に混じって一瞬だけ響く。

  次の瞬間には、彼らは黒い灰となり、吹き込む風に攫われて闇夜へと消えていた。

  はぁ、はぁ、はぁ……。

  肩で息をする。

  肺が焼けるように熱い。

  荒くなる呼吸を無理やり整えながら、沸騰した神経を冷却しようと試みる。

  窓が開け放たれたせいで、外から冷たい雨が容赦なく吹き込んでくる。

  氷のように冷たい雨粒が、興奮で異常な高温になったアタシの肌や、尾に降りかかる。

  ジュウ、ジュウ……。

  微かな音を立てて、水滴が瞬時に蒸発していく。

  身体から白い湯気が立ち上り、雨の匂いに混じって、甘い蛇の体臭が漂う。

  大丈夫。

  深呼吸を一つ。瞬膜を閉じて、開く。

  目的のものは、手に入った。

  アタシはゆっくりと振り返り、机の上に鎮座する鉄の箱を見る。

  あの硬質な輝き。

  あれの中身の研究さえ進めば、今日の屈辱も、逃げたネズミのことも、すべてはどうでも良い些事になる。

  そうして、あの「少女」の力に迫る研究が進んだ暁には。

  チロリ。

  二股に分かれた舌先が、乾いた唇を濡らした。

  「次は、絶対に逃がさない」

  誰もいない空間に、独り言が漏れる。

  「アンタを呑み込んで、胃袋の中でたっぷり苦しめて……骨の髄まで溶かして、ありがたくアタシの養分にしてあげるわ」

  アタシは勝ち誇ったように、顔面に貼り付いたままの笑みを、三日月のように歪めた。

  引きつった頬の筋肉が戻らないまま、暗い部屋で一人、クツクツとせせら笑う声だけが、雨音に重なって響いていた。

  [newpage]

  年度の初めを祝福するようだった春の陽気が、いつしか石畳をジリジリと焦がす猛烈な熱波へと変わり、全身から水分を奪っていったかと思えば。

  それも過ぎ去り、今は襟元の隙間から肌を刺すような、冷たく乾いた風が吹き始めている。

  ソルシエの街路樹は、燃えるような赤や、目に痛いほど鮮烈な黄色へと衣替えを済ませていた。

  ヒュウ、と乾いた風が吹き抜ける。

  足元で、枯れ葉がカサカサと乾いた音を立てて舞い上がり、足のつま先を掠めた。

  私とココヨは、休日の午後の日課として、日用品の買い出しに出かけていた。

  並木道の下。

  幅の広い歩道には、イチョウの葉が何層にも重なり、分厚い黄色の絨毯となって敷き詰められている。

  踏みしめるたびに、フカフカとした柔らかさと、葉の砕ける頼りない感触が足裏に伝わってくる。

  初めて見る秋の風物詩に、ココヨの瞳孔が興奮で丸く開かれていた。

  彼女は小さな身体をバネのように弾ませ、落ち葉の海へとダイビングしては、全身でそのカサカサという感触と、土と枯れ草の混じった匂いを楽しんでいる。

  その無邪気な姿を目で追うと、頬の筋肉が自然と緩み、口元に笑みが浮かんだ。

  今日のお目当ては二つ。

  商店街にある乾物屋で、ココヨの好物であり生命線でもある乾燥ラズベリーを買うこと。

  そして、花の香りがほんのりとするお気に入りのインクを補充することだ。

  私はコートのポケットの中で、革財布を握りしめた。

  指先に力を込め、その感触を確かめる。

  財布の紐は、物理的にも精神的にも、固く結んでおかなければならない。

  なぜなら、一歩足を踏み入れれば、そこは魔の商店街だからだ。

  通りの向こうから、暴力的なまでの「誘惑」が風に乗って漂ってくる。

  熱された鉄板の上でパチパチと弾けるソーセージの脂の匂い。鼻腔をくすぐる、焦げた醤油とスパイスの香ばしさ。

  視界を埋め尽くす色とりどりの砂糖菓子。怪しげな燐光を放ち、網膜を刺激する魔法器具。見たこともない斬新なデザインの日用品。

  それらが四方八方から視覚と嗅覚を殴りつけ、脳髄に直接「買ってくれ」と囁きかけてくるのだ。

  ごくり、と喉が鳴るのをこらえる。

  ソルシエでの二年近い生活で、私は学んでいた。

  一瞬でも気を緩めれば、あっという間に財布の中身が空になり、来月の食費が霧散するということを。

  「ねえ、あれ美味そうだぎゃ! 食べたいぎゃあ!」

  不意に、ローブの裾をグイグイと強く引かれた。

  立ち止まったココヨが、ショーケースにへばりついて指差しているのは、湯気を立てる焼きたてのミートパイだ。

  バターと肉汁の焦げる暴力的な香りが、鼻腔をくすぐる。

  彼女の瞳は、獲物を狙う肉食獣のように爛々と輝き、口の端からはじわりと涎が滲んでいた。

  「ダメだよ、今日はラズベリーだけ」

  私は心を鬼にして、即答する。

  パイの黄金色に奪われそうな視線を、意志の力で無理やり引き剥がし、前方へと固定する。

  一度でも立ち止まれば、あの甘美な匂いに理性が溶かされてしまう。

  「ケチー! チュリンのケチー!」

  ココヨが頬を目一杯に膨らませ、いやいやと首を振って抗議する。

  その声は、四方八方から押し寄せる客引きたちの、腹の底から張り上げた元気な掛け声の波に揉まれながらも、私の鼓膜を鋭く揺らした。

  「ほら、行くよ」

  私は喧騒を聞き流すように耳を塞ぎ気味にしつつ、抵抗するココヨの手をしっかりと掴んだ。

  小さな身体だが、食欲に駆動された悪魔の踏ん張りは強い。

  指に伝わる腕がピンと張り詰め、私の腕の筋肉にも力が入る。

  人混みの熱気と、すれ違う人々の体温。

  様々な匂いが混ざり合った濃密な空気をかき分けるようにして、私はふくれっ面の相棒を引っ張るように歩を進めた。

  どうにか必要なものだけを買い済ませ、商店街の出口へと抜ける。

  フゥーッ……。

  背後に遠ざかる喧騒を感じながら、私は肺に溜まっていた熱い空気を吐き出し、ようやく肩の力を抜いた。

  帰路につく頃には、ココヨの不機嫌な嵐はすっかり過ぎ去っていた。

  並木道のそばにある、こじんまりとした公園。

  そこに吹き溜まり、小山のように積み上がった落ち葉の山が、彼女の機嫌を劇的に直す特効薬だったようだ。

  このあたりは、近所の子供たちのたまり場になっているらしい。

  あちこちに作られた落ち葉の山。その周りで、厚手のマフラーに顔を埋めた子供たちが、白い蒸気機関車のような呼気を吐き出しながら走り回っている。

  私は、公園の端にある石造りのベンチに腰を下ろした。

  ドサリ、と自重を預ける。

  硬い座面から、じわりと染み出してくる冷気が、厚手のローブの生地を透過し、太腿の裏側の皮膚を冷やしていく。

  温まっていた筋肉が、冷たさに触れてキュッと収縮するのが分かった。

  ふと、乾いた風が頬を撫でる。

  私の故郷の海には、こんな乾燥した公園なんてなかった。

  代わりにあったのは、極彩色の光を放つ珊瑚礁の迷路や、マナウイ海域付近に浮かぶホノハノ島の、パウダーのような白い砂浜。

  水圧という心地よい重力と、全身を包む湿潤な青の世界が、幼い頃の私の遊び場だった。

  場所は変わり、身体にかかる重力は軽くなり、空気は肌を乾燥させるけれど。

  キャアキャアとはしゃぐ子供たちの、鼓膜を震わせる甲高い笑い声や、頬をリンゴのように紅潮させて動き回る熱量は、陸も海も変わらないものだ。

  いつしか周りにいた子供たちを巻き込み、頭から尻尾の先まで落ち葉まみれになって転げ回っているココヨ。

  その目まぐるしい動きを目だけで追っていると、私はふと、遠い潮騒を聞いたような感慨に耽った。

  本音を言えば、早めに寮へ帰って散らかった部屋の掃除もしたいし、明日の講義の予習もしなければならない。

  けれど、ココヨの輝くような時間を、私の都合で分断するのは忍びない。

  首を少しだけ巡らせ、横を見る。

  同じように子守に来たのであろう親たちも、文庫本のページをめくったり、焦点の合わない目でぼんやりと秋空を眺めたりして、所在なさげに時間を潰していた。

  ここだけ、時間の流れが澱み、蜜のように重く、ゆっくりと回転しているようだ。

  相変わらず勉強と実技練習の日々に忙殺され、常に何かに追われている私にとって、この生産性のない退屈な時間は、何よりの贅沢な息抜きだった。

  不意に、瞼が鉛を含んだように重くなる。

  瞬きの回数が増え、開けているのが億劫になる。

  カサカサと風に揺れる枝葉の音と、遠くで響く子供たちの歓声が、輪郭を失って混ざり合い、心地よいホワイトノイズのような子守歌に変わっていく。

  首の力が抜け、意識が温かい泥の中へと溶け出して――。

  「いやーあ! これわーたーしーのー!」

  鼓膜を直接針で刺されたような絶叫が、公園のけだるい空気を切り裂いた。

  驚いた心臓が肋骨を裏側から殴りつけ、私の身体は意思とは無関係に跳ね起きた。

  微睡みは一瞬で霧散し、代わりに冷たい緊張が血管を駆け巡る。

  ハッとして顔を上げる。

  平和なセピア色だった午後の風景が、暴力的な色彩を帯びて一変していた。

  砂場の近く。

  数人の子供たちが、ひとつの肉の塊のように団子状になり、砂煙を上げて転げ回っていた。

  取っ組み合いの喧嘩だ。

  だが、それは玩具のショベルを取り合うような、生温い子供のじゃれ合いではなかった。

  他人の髪を根本から掴み上げ、柔らかな頬に容赦なく爪を立てる。

  喉が枯れ、血管が切れるほどの金切り声を上げて奪い合うその姿は、飢えた獣同士の生存競争そのものだ。

  子供たちの瞳孔は開ききり、そこには理性も友情もなく、ただ「排除」という殺気だけが渦巻いている。

  背筋の産毛が逆立ち、胃の底が冷え切るのを感じた。

  「それは触っちゃダメだぎゃ! 早く捨ててぎゃあ!」

  その暴力の旋風の中心で、ココヨが必死に叫んでいる。

  彼女は奪い合いに参加しているのではない。

  小さな手足を一杯に広げ、殺到する子供たちの腕にしがみつき、何かを必死に止めようとしていた。

  彼女の尻尾が、恐怖と焦燥でタワシのように膨れ上がっている。

  ただならぬ状況だ。

  私は弾かれたようにベンチを蹴り、駆け出した。

  落ち葉を踏み砕く音が、やけに大きく響く。

  周りのベンチに座っていた大人たちも、血相を変えて走り寄ってくる。

  誰もが、事態の異常さを肌で感じ取っていた。

  「やめなさい! 何やってるの!」

  「離れろ! おい!」

  大人たちが総出で、複雑に絡み合う子供たちの手足に指をかけ、強引に引き剥がしにかかる。

  私も、一人のフェネフェネ族の少年の腕を掴んだ。

  熱い。

  異常な体温の高さと、汗の湿り気。

  そして何より、子供とは思えないほど、筋肉が岩のように硬直していた。

  「あー! あー!!」

  少年は私に掴まれたまま、涎を垂らして暴れ、手足をバタつかせる。

  蹴りが私の脛に入るが、痛みを気にしている余裕はない。

  火事場の馬鹿力のように強烈な抵抗に、私は歯を食いしばり、腰を入れてなんとか地面に押さえつけた。

  他の大人たちも、数人がかりでようやく鎮圧に成功する。

  すると。

  プツン。

  見えない糸が切れたように、私の押さえつけていた少年の身体から力が抜けた。

  見開かれていた瞳から、急速に狂気の色が抜け落ち、光が戻ってくる。

  荒い呼吸だけが残る静寂。

  「……あれ?」

  「なんで、僕たち……こんな喧嘩したの?」

  一様に、我に返ったような、寝起きのような呆けた表情。

  彼らは自分の手が汚れていることや、友人が倒れていることに、理解が追いついていない様子だ。

  そして、数秒の空白の後。

  互いに引っ掻かれた頬の傷の熱さや、打撲のズキズキとした痛みが、遅れて脳神経に届いたのだろう。

  顔が歪み、涙が溢れ出す。

  ワァァァァ……!

  一斉に、泣き声が爆発した。

  一体何故、こんなことに。

  私は膝に手をつき、はぁ、はぁと喉を鳴らして酸素を求めた。

  額に浮かんでいた冷や汗を拭い、彼らが争っていた中心地へと視線を滑らせる。

  そこには、石畳の地面に白い線で描かれた、拙い落書きがあった。

  円柱形に、ろうそくのような線。ホールケーキだ。

  そして、その横に転がる、一本のすり減った白いチョーク。

  ただの、子供の落書きだ。

  たったこれっぽっちの粉の痕跡を、あの子たちは血を流してまで取り合っていたのだろうか。

  理解できない。

  その不可解さが、逆に私の好奇心を刺激したのかもしれない。

  私はその場に屈み込み、何気なくそのチョークに手を伸ばした。

  指先が、乾いた白い粉の表面に触れた。

  その、瞬間。

  グニャリ。

  世界が溶けた。

  平衡感覚を司る三半規管が機能を停止し、視界の風景が、水をぶちまけた油絵の具のように無茶苦茶に混ざり合い、歪んだ。

  熱い。

  ドロリとした、腐った泥のような高熱の奔流が、チョークに触れた指先から皮膚を食い破り、血管を強引に遡ってくる。

  それは瞬く間に肘を抜け、肩を駆け上がり、脳髄の奥底へとなだれ込んできた。

  私の思考が、私ではない「何か」によって、黒く塗りつぶされていく。

  (……なんて、美味しそうなケーキ)

  瞬きをする。

  地面の上の、白い線だけの絵。

  なのに、今の私の網膜には、それが最高級の純白の生クリームと、宝石のように瑞々しい苺で飾られた、世界で一番価値のある芸術品として映し出されていた。

  甘い香りが幻臭となって鼻腔を満たす。

  欲しい。

  喉が鳴る。

  いや、違う。私が描きたい。

  私ならもっと上手く描ける。

  こんな拙い線じゃない。もっと完璧で、もっと素晴らしい、世界中がひれ伏すような絵を描いて、すべてを私のものにしなければ。

  承認欲求と独占欲が、ガソリンを被った炎のように膨れ上がる。

  誰にも邪魔はさせない。

  私のキャンバスを奪わないで。私の才能を否定しないで。

  視界の端に映るココヨの姿さえ、今はただの邪魔なノイズにしか見えない。

  ああ、妬ましい。忌々しい。許せない。

  自分以外の全てが憎い。

  すべてを排除してでも、私が描かなきゃ。

  ドクン!!

  心臓が肋骨を砕かんばかりに早鐘を打ち、全身の血液が沸騰する。

  呼吸が熱く、荒くなる。鼻の奥がツンと痛むほどの興奮。

  私はどす黒い感情に身体の主導権を完全に乗っ取られ、焦点の合わない虚ろな目で、白いチョークを鷲掴みにした。

  指の関節が白くなるほど強く握りしめる。

  地面に、切っ先を突き立てる。

  石畳とチョークが擦れ合い、悲鳴のような音がして、白い粉が爆発するように舞った。

  「チュリン、ダメ!」

  乾いた破裂音と共に、手の甲に鋭い痛みが走った。

  ココヨが、私の手を全力で叩き落としたのだ。

  その物理的な衝撃が、神経を通って脊髄に突き刺さる。

  ビクッ、と筋肉が収縮し、指の力が抜けた。

  握りしめていた白いチョークが手から弾き飛ばされ、乾いた音を立てて地面を転がっていく。

  その、瞬間。

  脳髄をドロドロに覆っていた黒いタールのような分厚い霧が、台風ごとの強風に吹き飛ばされたように、一瞬にして晴れ渡った。

  思考の回路が、強制的に切断される。

  「……ッ、はぁ!? っ、かはっ……!」

  喉が鳴り、空っぽだった肺に酸素が強引に雪崩れ込んでくる。

  私は、自分が息を止めていたことに今さら気がついた。

  肋骨がきしむほど大きく胸を波打たせ、貪るように呼吸を繰り返す。

  正気に戻った反動は、劇薬だった。

  先程までの、頭が沸騰するような熱い激情と全能感が、潮が引くように嘘のように消え失せる。

  代わりに、胃の底からせり上がってきたのは、冷たくて粘着質な、生理的な嫌悪と恐怖だった。

  自分の手を見る。

  白い粉が、指紋の溝に入り込んでいる。

  ただのチョークの粉だ。

  なのに、今の私にはそれが、猛毒の胞子か、得体の知れない寄生虫の卵のように見えた。

  汚い。汚らわしい。

  自分の手が、まるで他人のもののように感じられ、皮膚の下を虫の這うような悪寒が走る。

  服で拭おうとして、それも躊躇われ、指先が空中で彷徨う。

  「なに、これ……」

  膝の力が抜け、ガクガクと音を立てて崩れ落ちる。

  私はその場にへたり込み、手をついた。

  視界が明滅し、冷や汗が背筋を伝う。

  「大丈夫!?」

  ココヨが心配そうに私の顔を覗き込み、私の震え続ける手を、彼女の小さな両手で包み込んでくれる。

  温かい。

  彼女の掌から伝わる高い体温と、柔らかな皮膚の感触が、現実との唯一の接点となって私を繋ぎ止める。

  その温かさにすがりつきながら、私は恐る恐る視線を上げた。

  数メートル先に、一本の短いチョークが転がっている。

  何の変哲もない、白い棒きれ。

  だが、私の網膜は、その周囲の空間が陽炎のように歪んでいるのを捉えていた。

  それはもう、ただの画材には見えなかった。

  人の心の隙間にねじ込み、ドロリとした欲望を注ぎ込んでくる、禍々しい瘴気を放つ特級の「呪物」にしか見えなかった。

  ……

  その後、通報を受けた魔法警察が到着した。

  夕暮れの公園に黄色い規制線テープが張り巡らされ、風に煽られてバタバタと乾いた音を立てる。

  平和な子供たちの遊び場は、一瞬にして物々しい事件現場へと変貌した。

  直ちに、現場鑑識班による不審なチョークの魔力解析と、救護班による私や子供たちの診察が進められた。

  白い手袋をした捜査員に瞳孔をライトで照らされ、冷たい聴診器を胸に当てられる。

  事務的な質問と、皮膚の上を這うような魔力スキャンの感触。

  私は毛布にくるまり、ココヨと身を寄せ合いながら、震えを抑えるのに必死だった。

  数十分後。

  現場責任者の口から告げられた解析結果は、文字通り背筋が凍りつき、血液が逆流するような事実だった。

  「呪物ですね。それも、精神干渉系です」

  あのチョークには、触れた者の脳内に作用し、「嫉妬」や「独占欲」といった負の感情を極端に昂ぶらせ、精神を汚染する特殊な術式が仕込まれていたという。

  幸い、私と子供たちは症状が発現して間もなく、物理的に引き剥がされたため、脳への深刻なダメージや後遺症もなく済んだ。

  また、ココヨが悪魔特有の感覚器――その小さな角で、チョークから立ち昇る異常な魔力をいち早く感知し、警告を発してくれたことも大きかった。

  だが、もし。

  ココヨが止めてくれなかったら。大人たちの助けが、あと数分遅かったら。

  

  私は、そしてあの子たちは。

  互いの肉を爪で抉り、髪を引きちぎり、誰かが血を流して動かなくなるまで、あの拙いケーキの絵を奪い合っていただろう。

  想像しただけで、口の中に鉄錆のような血の味が広がった気がして、私は口元を押さえた。

  このような手の込んだ、悪質な危険物が。

  よりにもよって、無防備な子供たちが集まる、平和な公園に置かれていたのだ。

  それは、誤って落としたものではない。明らかに、明確な意図を持った「故意」による犯行だった。

  無差別に、抵抗力のない子供を実験台として標的にし、これを設置したのだとしたら。

  そこには、愉快犯などという生温い言葉では片付けられない、底知れない悪意の深淵が、黒い口を開けて笑っている。

  当然ながら、私が解放され、寮に帰った後も、魔法警察による厳重な捜査が進められた。

  街のあちこちに、目撃情報を求める看板が立てられた。

  しかし。

  街路樹の葉が落ちきり、冷たい木枯らしが吹きすさぶようになり、一ヶ月ほどが経過しても。

  犯人が逮捕されたというニュースが、ソルシエの街に流れることはなかった。

  犯人はまだ、この街のどこかで、息を潜めて次の「キャンバス」を探しているのかもしれない。

  私は、ふと窓の外の暗闇を見つめ、無意識に自分の腕を抱いた。

  [newpage]

  平和なソルシエの日常を切り裂いた、あの不気味なチョーク事件。

  人々の心に得体の知れない不安の種を植え付けたまま、警察の捜査は膠着し、模倣犯も現れず、季節の移ろいと共に世間の記憶から風化しつつあった。

  だが。

  私の中には、未だに鉛のような冷たい澱が、胃の底にへばりついて残っている。

  ふとした瞬間に蘇るのだ。

  あの時、白い粉に触れた指先から、ドロドロとした熱が血管を遡り、脳髄まで侵されたあの感覚が。

  自分のものではない、どす黒い感情に思考を塗りつぶされ、支配される恐怖。

  体調は戻った。けれど、安全だと思い込んでいた日常が、実は薄氷の上に辛うじて成り立っているのだという事実を突きつけられたショックは、そう簡単に癒えるものではなかった。

  道端にハンカチが落ちているのを見るだけで、心臓が早鐘を打つ。

  公園で遊ぶ子供たちの無邪気な声が聞こえると、鼓膜の奥がキーンと痛み、あの日の絶叫が幻聴となって重なる。

  ビクリ、と肩を震わせ、呼吸を止めて周囲を警戒してしまう自分がいる。

  無意識のうちに、指先を服の裾でこすり、存在しない「汚れ」を拭う仕草が癖になっていた。

  そんな私の強張った様子を見かねてか。

  魔法実技の授業中、杖を握る指先が白くなるほど震えていた私を、ミーティアとセリオ君が心配してくれた。

  彼らの提案で、今日は気分転換のために、ココヨとザッスを加えた五人で、アフタヌーンティーを楽しむことになったのだ。

  でびるんさんとクピャドエルさんも誘おうとしたが、あいにく二人は別の用事が入ってしまったらしい。

  セリオ君が予約してくれたのは、ソルシエの街を一望できる、広いテラス席のあるカフェだった。

  週末ともなれば、着飾った人々で長蛇の列ができる人気店だ。

  だが、私たちは待つこともなく、雑多な喧騒をすり抜けるようにして、一番見晴らしの良い特等席へと案内された。

  店員への目配せ、歩く速度、椅子を引くタイミング。

  彼のスマートなエスコートに、私は改めて感嘆の息を漏らす。彼はいつも、呼吸をするように自然で、そして完璧だ。

  席に着くと、高台を吹き抜ける風が、私の火照った頬を優しく撫でた。

  やがて、テーブルに運ばれてきたのは、磨き上げられた銀色の三段スタンド。

  西日を受けてキラキラと輝くその塔には、夢が詰まっていた。

  下段には、一口サイズに美しく整えられた、彩り豊かなセイボリー。

  中段には、芳醇なバターの香りを漂わせる、焼き立てのスコーンやフィナンシェ。

  そして上段には、まるで宝石のように艶やかなフルーツとクリームで飾られたスイーツが、所狭しと並べられている。

  コトッ。

  さらに、薄いガラスのグラスが置かれる。

  淡いピンク色の液体の中で、炭酸の気泡がシュワシュワと弾け、薄くスライスされたリンゴの果肉が浮かんでいる。

  注がれた瞬間に、甘酸っぱく爽やかな香りがふわりと風に乗り、私の鼻腔をくすぐった。

  その甘い刺激に、緊張で収縮していた胃袋が、きゅぅと音を立てて動き出すのを感じた。

  「わあぁ……!」

  「すごいぎゃあ!」

  ミーティア、ココヨ、そして私の三人は、感嘆の声を漏らし、引き寄せられるようにテーブルへと身を乗り出した。

  ザッスに至っては、猛禽類特有の鋭い瞳を爛々と輝かせ、半開きになった口の端から一筋の涎が今にも零れ落ちそうだ。

  そんな私たちを見て、セリオ君は白い陶器のティーカップを優雅に傾けながら、静かに、聖人のように優しく微笑んでいた。

  柔らかな陽光の下、私たちは思い思いに手を伸ばし、食事を楽しんだ。

  とりとめもない雑談に花が咲く。

  久しぶりに、心の底から肺胞の隅々まで酸素が行き渡り、安らぐ感覚。

  事件以来、常にピンと張り詰めていた神経の糸が、温かい紅茶の中で溶けていく角砂糖のように、ホロホロと甘くほぐれていくのが分かる。

  自然と口角が上がり、強張っていた表情筋が緩み、会話のテンポも弾んでいく。

  あの凄惨な状況に居合わせたのに、私のことをずっと気遣ってくれていたココヨ。

  彼女は、この前食べ損ねたミートパイを両手で大事そうに掴み、大きな口を開けてガブリと齧り付いた。

  サクッ、という軽快な音。

  リスのように頬を目一杯に膨らませ、熱々の肉汁にハフハフと息を漏らしながら、ホクホク顔で咀嚼している。

  ミーティアはといえば、リンゴのカクテルが随分と気に入ったらしい。

  グラスが空になるペースが早い。短い間隔で、クイクイと喉を鳴らしておかわりを繰り返していた。

  そのせいか。

  ピンク色の肌に、熟れた桃のようなほんのりとした朱が差し、大きくパッチリとした瞳が、とろんと潤んで蕩けている。

  瞬きの速度がゆっくりになり、時折、こっくりと船を漕ぐように首が傾ぐ。

  普段の快活でエネルギッシュな彼女からは想像できない、無防備で隙だらけの可愛らしい姿だが、このまま放置すればソファで丸くなって寝てしまいそうだ。

  私は苦笑しながら、彼女の手からグラスを抜き取り、そっと冷たいお水に差し替えた。

  ああ、幸せだ。

  胸の奥が、温かいスープで満たされたようにポカポカする。

  思わぬ事件に巻き込まれ、一度は失いかけたけれど。

  こうして仲間とテーブルを囲み、何の憂いもなく笑い合える時間が戻ってきた。

  これでまた、私は愛しい日常を取り戻せるだろうか。

  そう信じたいと、私は眩しい空を見上げた。

  しかし。

  現実は、ささやかな安寧を求める私を、決して見逃してはくれなかった。

  カチャ。カチャ。カチャ……。

  楽しげな談笑の合間に、異質な音が混じり込んだ。

  食器とカトラリーが触れ合う音だが、食事のそれとは違う。

  一定のリズムで、正確に、延々と繰り返される、壊れた時計のような無機質な音。

  背筋の産毛が逆立つような不快感に、私は会話を止め、視界の片隅に映った違和感へと視線を向けた。

  いくつかテーブルを挟んだ先。

  眼下に大通りを見下ろす特等席で、それは静かに、しかし確実に進行していた。

  恰幅のいい夫婦が食事をしている。

  その内、夫と思われるウルウル族の巨漢の男性は、目の前のショートケーキを跡形もなく平らげた後も、フォークを動かすのをやめていなかった。

  何も乗っていない皿の上で、銀色のフォークが虚しく空を切る。

  カチャ、カチャ。

  金属の先端が、白い陶器の表面を虚しく叩く。

  その奇妙な反復動作を、向かいに座るウサウサ族の奥さんが、長い耳を不安げに震わせ、眉をひそめて訝しげに見つめていた。

  次の瞬間だった。

  ガッ!!

  男性の動きが変わった。

  彼はフォークを、まるで短剣でも握るように逆手に持ち替えると、親指に全体重を乗せ、勢いよく陶器の皿に突き刺したのだ。

  耳障りな高音が響く。

  そして、あろうことか。

  彼は上体を前のめりにし、そのまま皿の縁に、獣のような顎で噛み付いた。

  バキリ。ゴリッ、ガリガリ……。

  咀嚼音だ。

  だが、それは食物を噛む音ではない。

  硬い陶器を、より硬い犬歯で無理やり砕き、すり潰す、硬質で不協和な破砕音。

  彼は砕けた皿の欠片を、ゴクリと音を立てて飲み込んだ。

  鋭利な破片が口内の粘膜を内側から切り裂き、口角から鮮血が噴き出す。

  赤い液体が顎を伝い、純白のテーブルクロスにポタポタと落ちて、毒々しい染みを作っていく。

  だというのに、彼の瞳孔は一点に固定され、瞬きひとつしない。痛みを感じていないのだ。

  白目が赤く血走り、理性の光が消え失せ、ただ純粋な「飢餓」だけで黒く塗り潰されている。

  ブツブツと、血に濡れた彼の唇が痙攣するように動くのが見えた。

  「……たりない……たりない……」

  その異様な光景に、私の心臓が凍りついたように跳ね上がり、顔からサーッと血の気が引いていくのが分かった。

  指先が冷たくなる。

  私の会話が唐突に止まり、視線が一点に凝固していることに気付いたのだろう。

  ミーティアとセリオ君も、訝しげに私の視線の先へと振り返った。

  その、瞬間。

  惨劇は、唐突に幕を開けた。

  男性の血走り、濁った眼球が、ギョロリと回転した。

  焦点が、目の前で絶句し、小刻みに震えている奥さんを捉える。

  瞳孔が、獲物を見つけた爬虫類のように縦に裂け、極限まで散大した。

  次の刹那。

  メキメキメキッ!!

  耳を覆いたくなるような、湿った破壊音が響いた。

  男性の顎の関節が、自らの筋力によって無理やり外された音だ。

  下顎がガクリと垂れ下がる。

  ミチミチ、という音と共に、首から頬にかけての皮膚がゴムのように薄く引き伸ばされ、透けた血管が浮き上がる。

  口腔が、ありえないサイズまで広がった。

  魔獣の頭がまるごと一つ、余裕ですっぽりと収まるほどの、底なしの闇。

  誰かが悲鳴を上げるよりも、速かった。

  男性はテーブルに身を乗り出すと、鞭のように首を伸ばし、妻の頭にその巨大な口を被せた。

  ガブッ、ジュルリ。

  咀嚼ではない。

  大量の唾液と共に、対象を濡らし、滑らせて、喉の奥へと送り込む動きだ。

  まるで蛇が卵を呑み込むように。

  抵抗しようと上げた妻の両手が、空を掻く。

  だが、頭部を拘束された彼女に成す術はない。

  男性の喉の筋肉が波打ち、強力な蠕動運動を開始する。

  妻の上半身が、ゆっくりと、しかし抗えない力で、男性の喉の奥へと吸い込まれていく。

  ボコォ、ボコォ。

  男性の喉仏が、通過していく獲物の形に合わせて、歪な形に隆起し、沈む。

  薄い皮膚一枚隔てた向こう側を、肩が通り、腕が通り、胸が通っていくのが、シルエットとして生々しく見て取れる。

  獲物の形を保ったまま、魔獣が同格の体躯を持つ魔獣を捕食するという、生態系の理を無視したグロテスクな光景。

  「――っ、――ぁあ!」

  男性の腹の底から、くぐもった、濡れた音が聞こえた。

  呑み込まれた妻の、声にならない絶叫だ。

  「キャァァァァァァッ!」

  一拍の遅れを経て、周囲の客がようやく事態を認識した。

  絹を引き裂くような悲鳴が連鎖し、椅子を蹴倒し、食器をぶちまけながら逃げ惑う。

  陶器の破壊音がBGMのように響く中で、私の脳は真っ白に凍りついていた。

  何が起きているか理解できない。思考の処理速度が追いつかない。

  だが、本能だけが、全身の毛穴を全開にして警鐘を鳴らしている。

  逃げなければ。

  食われる。

  ガタガタと震え、言うことを聞かない膝を叱咤し、どうにか席を立とうとしたその時。

  「イヤァァァァァァッ!!」

  鼓膜を食い破るような、ミーティアの絶叫がテラスに響き渡った。

  私の思考が白く吹き飛ぶ。

  慌てて振り返ると、彼女はソファから転げ落ち、硬い床板の上に蹲っていた。

  全身の毛が、電流を受けたように逆立ち、ガクガクと痙攣している。

  覗き込んだ彼女の瞳。

  その瞳孔は、恐怖のあまり針の穴のように極限まで収縮し、焦点が合わずに小刻みに振動していた。

  そこに、私の姿は映っていない。

  彼女は、ここにはいない「何か」を見つめている。

  「ミーティア! しっかりして!」

  私は彼女の細い肩を両手で掴み、強く揺さぶった。

  けれど、私の必死の呼びかけも、肩に食い込む指の感触も、彼女の意識には届いていない。

  まるで魂だけが別の次元に連れ去られたかのような、絶対的な断絶。

  彼女の両手が、狂ったように空を切り、何か見えない壁を必死に押し返そうとしている。

  爪が空気を引っ掻き、ジタバタと足をばたつかせ、自分の身体を抱きしめるようにして肌を掻きむしる。

  口から、泡混じりの譫言が、壊れた蛇口のように溢れ出してくる。

  「ひっ、あぁ……くらい、あつい……! なくなっちゃう、ミーが、なくなっちゃうぅう……っ!!」

  喉が細く鳴り、酸素を取り込めていない。

  それは、ただの恐怖による錯乱ではなかった。

  見ていれば分かる。痛いほどに伝わってくる。

  彼女は今、あの男性の胃袋に収められようとしている女性の感覚を、我が事のようにリアルタイムで追体験しているのだ。

  今のミーティアの網膜には、テラス席から臨むソルシエの絶景など、一ミリも映っていない。

  彼女が見ているのは、ぬらついた赤黒い肉壁の牢獄だ。

  全身が締め付けられ、骨がきしむほどの強烈な蠕動の圧迫感。

  強酸性の消化液に皮膚が焼かれ、ジュウジュウと溶かされるような激痛と、茹で上がるような湿った熱さ。

  そして、酸素がなくなり、意識が泥の中に沈んでいく絶望的な閉塞感。

  彼女は、目の前の事件に怯えているのではない。

  「今まさに自分が消化され、世界から消失する」という、あまりにも鮮明な死の幻覚に襲われていた。

  恐る恐る、視線を戻す。

  男性は、すでに女性の足先までを完全にその巨大な口内へと収め終えていた。

  喉仏が大きく上下する。

  ゴク、ン。

  重く、粘着質な嚥下音が響く。

  彼は満足気に鼻から息を噴き出した。その呼気には、鉄錆のような血の臭いと、胃液の酸っぱい臭気が混じっている。

  視界の先、彼の腹部は異常なほどに膨張していた。

  皮膚が限界まで引き伸ばされ、血管が青黒く浮き上がり、今にも裂けそうだ。

  その巨大な肉の袋が、内側からの激しい力によって、ボコッ、グニョリと、不定形に形を変え続けている。

  ドムッ、ドムッ。

  腹の皮一枚隔てた内側から、くぐもった女性の悲鳴と、必死に内壁を殴り、蹴りつける音が、鈍い振動となって大気に伝播してくる。

  生きている。彼のお腹の中で、まだ。

  (……暴食の、魔力)

  不意に。

  聞き覚えのない単語が、黒いインクを垂らしたように脳裏に滲んだ。

  不意に見えないハンマーで後頭部を殴られたように脳が揺れ、平衡感覚が狂い、視界がぐらぐらと歪む。

  グゥ。

  私の胃袋が、卑しい音を立てて鳴った。

  空腹ではない。吐き気とも違う。

  気持ち悪さとは別の、脳の奥底、厳重に鎖で封印されていたはずの棚から、何かがボロボロとこぼれ落ちてくる感覚。

  唾液が、とめどなく溢れてくる。

  私は、知っている。

  あの男性が今、全身の細胞で感じている、脳が溶けるほどの至上の快感を。

  あのお腹が、他者の命で内側からパンパンに満たされる、圧倒的な重量感と充実感。

  温かい命の塊が、食道を拡張しながらゆっくりと擦り落ちていき、自分の一部になる、あのとろけるような喉越しの快感。

  そして何より。

  腹の中で暴れる獲物の無様な抵抗を、愛おしい胎動のように掌で愛でながら感じる、神にも似た絶対的な優越感と嗜虐心。

  ああ、どうしようかしら。

  消化液を大量に分泌して、一息に溶かして吸収してしまおうか。

  それとも、この心地よいマッサージのような抵抗を、窒息して動かなくなるまで長く楽しもうか。

  なんて、なんて贅沢な悩み――。

  ――ッ、私は何を、何を考えているの!?

  一度も考えたことがない、残酷で甘美な思考が、まるで最初から私の記憶であったかのように、矢継ぎ早に浮かんでくる。

  その事実に戦慄し、鳥肌が全身を駆け巡った。

  強烈な吐き気が込み上げ、口元を手で覆う。

  違う。これは私じゃない。

  私でない「何か」が、土足で私の脳を侵食し、書き換えようとしている。

  脳が割れるような激しい頭痛に襲われ、私は頭を抱えてその場にうずくまった。

  しかし、惨劇はこれ以上続かなかった。

  私とミーティアの様子がおかしくなるまでの、わずか数秒の間隙。

  その刹那の間に状況を全て把握した彼は、極めて冷静に、機械のような正確さで、そして誰よりも迅速に動いた。

  ふわり、と風が動く。

  彼が、床に倒れて痙攣するミーティアを片手で軽々と抱き起こし、同時に、回転する視界の中でうずくまる私を背に庇うように立ったのだ。

  目の前に、灰色のローブの背中が壁となって立ちはだかる。

  残った左腕から愛用の杖を取り出し、指揮者がタクトを振るような、滑らかな手つきで空を切った。

  「――[[rb:愛すべき稀人を縛る祝福の鞭 > ベネ・ギエ・スカーモレ]]!!」

  彼の手元から、眩い光の粒子が凝縮され、無数の光の鞭となって飛び出した。

  空気を裂く音がしたかと思えば、鞭は生き物のように男性の四肢へと殺到し、蛇のようにきつく巻き付いた。

  巨体が地面に縫い付けられる格好で倒れ伏す。

  男性が身動きを封じられたことを確認するよりも早く、彼は間髪入れずに次の詠唱に入っていた。

  息継ぎの隙間さえ感じさせない。

  「[[rb:展開せよ > スプレディニン]]――」

  ヒュン、と空気が震える。

  瞬く間に、男性を中心とした幾何学模様の魔法陣が床に展開された。

  紫と白銀の光が入り交じって輝き、私の網膜を焼く。

  その魔法陣に刻まれた、複雑怪奇な術式の配列。

  それを見た瞬間、ズキリとこめかみが痛んだ。

  何故か、どこかで見たことがあるような――強烈な既視感。

  いつ? どこで?

  思い出そうとする思考を遮るように、セリオ君の詠唱が完了する。

  「――[[rb:混じり合う理を分かつべし、境界を定める魔の楔よ > スピリトゥ・ディスシャーニド・バリシア]]!!」

  カッ!

  世界が、白一色の静寂に染まった。

  男性のうめき声も、周囲の悲鳴も、風の音さえも、全ての音が真空に吸い込まれたように消失する。

  鼓膜がキーンと鳴り、平衡感覚が失われる。

  やがて、強烈な光の奔流が収まり、眩しい視界が戻った先には。

  白目を剥いて気絶し、大の字で倒れている男性と、その横にゴロリと転がる女性の姿があった。

  女性の身体は全身が透明な粘液――胃液に塗れ、湯気を立てている。

  虚ろな目をしているが、胸が上下している。五体満足だ。生きている。

  救出に成功したのだ。

  数瞬、何が起こったか理解が追いつかなかった。

  だが、混乱した頭がようやく再起動し、セリオ君がたった一人で、一瞬にして事態を解決したのだと認識した。

  それは考え得る限り、最速にして最適の処置だった。

  あまりにも、手際が良すぎる。

  躊躇いも、思考のラグも一切なかった。

  まるで、何度も何度も同じような事態を経験し、何十回も処理してきた作業であるかのように。

  ガタンッ!

  不意に、近くで椅子の倒れる音がした。

  ハッとして、音のした方を向く。

  テラス席の入り口付近。

  そこに、見知った顔があった。

  ソルシエール魔法学校の教師、マルス先生だ。

  おそらく、騒ぎを聞きつけて駆けつけたのだろう。彼は肩で息をし、乱れたコートのまま立ち尽くしていた。

  目が、合った。

  先生なら、助けてくれる。事情を説明しなきゃ。

  そう思って、私は口を開きかけた。

  「あ、マルス、せんせ――」

  「――ヒッ、あ、あぁ……ッ!!」

  マルス先生の喉から、空気の抜けるような短い悲鳴が漏れた。

  彼の瞳が、限界まで見開かれている。

  その視線は、倒れている犯人でも、被害者の女性でもなく。

  まっすぐに、「私」だけを見ていた。

  その顔色は、蝋人形のように蒼白だった。

  額から脂汗が噴き出し、唇が紫色に震えている。

  それは、教師が生徒に向ける目ではない。

  山道で、飢えた捕食者に出くわした草食動物の、生存本能が警鐘を鳴らす原初的な恐怖そのものだった。

  どうして?

  どうしてそんな目で私を見るの?

  私は被害者で、ただここにいただけなのに。

  まるで、私の中に潜む「化け物」の正体に気づいたかのように。

  「こ、来ないで……来ないでください……ッ! たす、助けてぇ……ッ!!」

  マルス先生は、もつれる足で後ずさり、脱兎のごとく踵を返した。

  そして、逃げた。

  被害者の安否確認も、魔術師としての事件の収拾も放棄して。

  私という存在そのものから一秒でも早く距離を取りたいと願うように、足を無様に滑らせながら、雑踏の中へと姿を消した。

  呆然とする私の思考が、空白に染まる。

  へたり込んでいた私は立ち上がろうと、地面に手をついた。

  だが、無意識に力を入れすぎていた足の筋肉が硬直し、痺れて膝が笑い、思うように立ち上がれない。

  ガクッ、と体勢が崩れそうになる。

  ふわり。

  温かい香りが鼻孔をくすぐった。

  セリオ君がすぐに私に駆け寄り、倒れかけた私を支えるために、優しく、けれど視界を塞ぐように強引に抱きしめてくれたのだ。

  しっかりとした腕の感触。彼の胸越しに、トクトクという落ち着いた心音が伝わってくる。

  「もう、大丈夫だよ。これ以上は見なくていいし、聞かなくていい」

  耳元で囁かれる、落ち着いたバリトンボイス。

  まるで、今のマルス先生の姿を私の記憶から消し去ろうとするかのような響き。

  その声の振動が、直接私の鼓膜と骨を揺らす。

  「……僕がすべて片付ける」

  その言葉に含まれた深い響きと、包み込むような優しさに、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れた。

  私は全身の力が抜け、彼の胸に身を預けた。

  ……

  カフェで起きた騒動が一段落した後、私とセリオ君は、意識の混濁したミーティアを抱え、彼女の家のベッドまで運んだ。

  部屋のカーテンを閉め切り、薄暗くなった寝室。

  錯乱が酷かったミーティアは、セリオ君がその場で調合してくれた鎮静剤を飲み、今は深い眠りについている。

  けれど、それは安らかな休息とは程遠かった。

  ヒュッ、ハッ、ヒュッ……。

  不規則で、浅い呼吸音だけが部屋に響く。

  彼女の額には、拭っても拭っても脂汗が滲み出し、前髪が濡れて張り付いている。

  苦悶に歪む眉間。

  猫のような耳は怯えたようにペタンと頭に伏せられ、布団から出た両手は、爪が突き刺さるほど強くシーツを握りしめていた。

  時折、ビクンと身体が大きく跳ねる。

  「こわい……こわい……助けて……」

  乾いた唇から漏れる譫言はどれも、恐怖に染まり、誰かへの助けを求めるものばかりだ。

  無理もない。

  あんな、地獄の釜の底を覗くような凄惨な事件を、特等席で、それも高い感受性で目の当たりにしてしまったのだ。

  その精神的ショックは計り知れない。トラウマとして心に深く刻まれてしまっても不思議ではない。

  私は痛む胸を押さえながら、彼女の汗をタオルで優しく拭う。

  しかし。

  「……ごめんなサイ……チュリン……逃げて……」

  不意に漏れたその言葉に、私の手がピタリと止まった。

  時折、私に対して謝る言葉が混ざるのは、何故だろう。

  それに、「逃げて」とは?

  彼女は夢の中で、一体「何」を見ているの?

  ドクン。

  心臓が、嫌なリズムで跳ねた。

  怖い。

  彼女のその、絞り出すような悲痛な響きを聞くたびに。

  私の脳裏にある、厳重に閉ざされた「蓋」が、ガタガタと激しく揺れるのを感じる。

  頭の奥で、錆びついた蝶番のきしむような音がする。

  何かを。

  思い出してはいけない、致命的な「何か」を思い出しそうな――。

  私は得体の知れない悪寒に襲われ、自分の二の腕を強く抱いた。

  「チュリン、大丈夫だよ。ここは安全だからね」

  耳元で、甘く、低い声が囁かれた。

  震える私を、セリオ君が再び、その長い腕の中に閉じ込めるように抱きしめてくれた。

  彼のローブから漂う、清潔な石鹸と、微かな薬品のような冷たい香り。

  頬を彼の胸板に押し付けると、リズム良く刻まれる心音が、暴れる私の脈拍を強制的に整えるように響いてくる。

  彼の大きな掌が、私の背中をゆっくりと、一定のリズムで優しくさすってくれる。

  肩甲骨から腰へ、そしてまた肩へ。

  シュル、シュル……。

  衣服越しの摩擦音が、メトロノームのように規則正しく刻まれる。

  そのひとさすりの度に、私の心にへばりつき、こびりついていた黒い不安の泥が、少しずつ確実に削ぎ落とされていくようだ。

  「ありがとう。私、私ね……どうしたらいいか分からなくて……っ」

  張り詰めていた緊張の糸が、プツリと切れた。

  底が見えないほどの深い安心感に、緩んだ涙腺が一気に決壊する。

  じわり、と目の奥が熱くなり、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。

  熱い雫が頬を伝い、セリオ君のローブの胸元を濡らしていく。

  嗚咽で喉が引き攣り、言葉にならない声が漏れる。

  セリオ君は何も言わなかった。

  ただ私の頭に顎を乗せ、うんうん、と母親が赤子をあやすように頷きながら、背中をさすり続けた。

  その掌の温かさと、機械のように正確なリズムだけが、今の私を繋ぎ止める世界の全てだった。

  ふと。

  背中をさすっていた彼の手つきが、変わった。

  それまでの、母親が子供をあやすような、掌全体を使った温かい動きが止まる。

  代わりに、少し冷えた硬い指先が、私の脊椎のラインを探り当てた。

  首の付け根から腰に向かって、骨の窪みを一つ一つ、まるで医師が触診するように、あるいは陶器のひび割れを探すように、丹念になぞっていく。

  ゾクリ。

  背筋に、冷たいものが走った。

  それは愛情表現ではない。私の骨格に歪みが生じていないか、中身が変質し始めていないかをチェックするような、冷徹で分析的な感触だった。

  本能的な違和感を覚え、私は無意識に身じろぎをしようとした。

  その瞬間。

  私を抱きしめていた彼の腕に、万力のような強烈な力が込められた。

  肋骨が悲鳴を上げ、きしむ音が体内で響く。

  肺が圧迫され、呼気が強制的に止められた。

  痛い。

  それは私を「守る」ための抱擁というよりは、この場に「固定」し、絶対に逃がさないようにするための物理的な拘束だった。

  セリオ君が、少し湿った唇を私の耳殻に押し当てるようにして、熱っぽい吐息と共に、そっと囁く。

  「あんな風にはさせない。君はずっと、無垢なままでいなくちゃいけないんだ」

  鼓膜を直接揺らす、甘く、低い声。

  「あんな風」? 呑まれてしまった女性のことを指しているのか。それとも。

  思考が酸欠で霞む。私は彼の言葉の真意を深く考える余裕もなく、ただコクコクと頷き、彼の体温のない、不思議な温かさにすがっていた。

  苦しさから逃れようと、あてどなく視線を彷徨わせる。

  ふと、視線が天井に向いた。

  ミーティアの部屋には、星や月の装飾が飾られている。天井には、光を反射する素材でできた小さな銀色の月が、モビールのようにいくつも吊り下げられ、微かな気流で揺れていた。

  その中の一つ。歪んだ鏡面仕上げの月に、抱き合う私たちの小さな像が映り込んでいた。

  私と、私を羽交い締めにしている、灰色の服のセリオ君。

  私の視線が、偶然、その鏡像の中のセリオ君の顔に焦点を結んだ。

  ほんの一瞬。時間にしてコンマ数秒。

  その瞳は。

  私を見ているようで、私を見ていなかった。

  瞳孔が感情なく開ききり、光が一切宿っていない。

  まるで汚らわしい害虫を観察するか、あるいは管理すべき実験動物のデータを読み取るような、人間的な感情が一切抜け落ちた、深淵のような冷酷な目。

  「ひっ」

  喉の奥から、声帯が引きつったような、短い悲鳴が漏れてしまった。

  心臓が凍りつき、全身の毛穴が収縮する。

  パッ。

  拘束が解かれた。

  セリオ君が身体を離し、心配そうに私の顔を覗き込む。

  そこに在るのは、いつもの穏やかで、完璧な慈愛に満ちた、優しい笑顔だ。

  さっきの冷たい目は、どこにもない。

  ああ、見間違いだ。

  疲れていたんだ。ただの偶然、光の加減や鏡の歪みで、そんな風に見えたに違いない。そう自分に言い聞かせる。

  私は激しい動悸を悟られないよう息を潜め、頬の筋肉を引きつらせながら、無理やり笑みを作った。

  「ごめんね、何か……鏡の加減で、セリオ君の顔が変な風に見えちゃって」

  「えっ、本当? こんな顔だった?」

  セリオ君は、わざと目を細めて舌を出し、おどけた変顔をして見せた。

  普段クールで完璧なセリオ君が、そんな子供っぽいことをするとは思わなくて、私は緊張が解けて、思わず吹き出してしまった。

  プッと笑う私を見て、セリオ君は照れくさそうに、はにかんだ。

  その屈託のない笑顔に、私は心の底から救われた気がして、深い安堵の息を吐いた。

  [newpage]

  ソルシエの空気は、鼻腔に粘りつくような独特の匂いがする。

  何万枚もの古びた羊皮紙が擦れ合って舞う、埃っぽく乾いた匂い。路地裏の湿った排水溝から立ち昇る、得体の知れない薬草が腐敗し煮詰まったような、甘ったるい香り。

  そして何より。

  大気中に過剰に充満した魔力が、帯電した静電気のように俺の二の腕の皮膚を、そして背中に畳んだ翼の羽毛の一本一本を、チリチリと逆立てるように刺激してくる。

  数ヶ月ぶりに踏みしめた、この街特有の灰色の石畳。

  自慢の鉤爪を通して、不揃いな石の凹凸と、骨まで染みるような硬質な冷たさが、ダイレクトに足の裏へと伝わってくる。

  その反発力は、俺の帰還を拒絶しているようでもあり、同時に妙な懐かしさを含んでいるようでもあった。

  ズシリ。

  背負った商売道具の入った荷物が、重力に従って身体にのしかかる。

  革製のベルトが食い込んだ左肩の僧帽筋が悲鳴を上げ、血流が滞ってジンジンと痺れ始めていた。

  俺は顔をしかめ、肩を大きく一度揺すり上げ、ベルトの位置を数ミリだけずらす。

  そして肋骨を広げ、肺の奥底に溜まっていた旅の疲れという名の澱んだ空気をすべて絞り出すように、「はぁー……」と、深く、重い溜息を地面に吐き捨てた。

  正直に言えば。

  胃の内容物をぶちまけそうなくらい、戻ってきたくなんかなかった。

  ソルシエを離れていた数ヶ月間、俺は運び屋としてあちこちの街を転々としていた。

  だが、現実は世知辛い、なんて言葉じゃ生温い。

  魔法使いが石を投げれば当たるほど多いこの街以外では、俺のような「怪しい術を使う運び屋」への需要は薄く、稼ぎは文字通り雀の涙だった。

  歯が折れそうなほど硬くなった黒パンを水で流し込み、蚤が跳ね回る安宿の煎餅布団で寒さに震える日々。

  そんな、金と共にプライドまですり減っていく生活に、俺はほとほと嫌気が差したのだ。

  背に腹は代えられない。

  そう何度も自分に言い聞かせ、無理やり足を前へと運んで戻ってきたものの。

  俺の身体は、理性よりも遥かに正直で、臆病だった。

  街の雑踏で、誰かと肩が触れそうになる。ただそれだけで、心臓が肋骨を内側から殴りつけるような早鐘を打ち、全身の血流が一気に加速する。

  首筋の産毛が、電流を流されたようにゾワリと逆立つ。

  眼球が落ち着きなく左右に動き、無意識に視線が泳ぐ。

  路地裏の湿った暗がりや、建物の物陰。そこに潜むはずのない「あいつ」――ラミアの影を、網膜が勝手に探し求めてしまう。

  人混みから聞こえる女性の笑い声に、ビクリと肩が跳ねる。

  かつて俺を襲い、玩具のように弄んだ、あの蛇女。

  俺が恐怖で顔を引きつらせるのを、随分と楽しそうに眺めていやがった、あの細めた瞳。

  脳裏にフラッシュバックしただけで、胃液の逆流しそうな酸味が喉の奥にこみ上げ、吐き気を催すほど胸くそ悪い。

  あの悍ましい光景の記憶は、俺の思考にまで深い爪痕を残していたのだ。

  呼吸が浅くなる。掌にじわりと冷たい汗が滲む。

  だからこそ。

  俺には、この理不尽から自分を守るための、確実な力が必要だった。

  今まで己の勘だけに頼って、我流で適当に磨いてきた魔法。

  だが、それだけじゃもう足りない。

  逃げるためではなく、生き残るために。魔法という技術に、正面から向き合う時が来たのかもしれねぇ。

  とは言え、何か具体的な当てがあるわけではない。

  荷物の重みで痺れる指先を握りしめる。

  ここで仕事を再開する中で、どうにか依頼主等の伝手を頼って、学のない俺のような素人でも丁寧に教えてくれる、都合のいい人物を探すしかない。

  そこまでの間に、もし。

  万が一、あの蛇女とかち合ったら。

  想像するだけで、奥歯がギリリと音を立てる。

  その時は、命を賭けて戦うしかねぇ。

  もっとも、奴が本気の実力を見せる前に、俺は尻尾を巻いて逃げちまったから、勝算があるかどうかも分からないが。

  こんなはずじゃなかったんだがなあ。

  何度も繰り返し思った後悔が、また頭をもたげる。

  だが、今回は正に自分の命そのものが天秤にかかっているのだ。その重みも、深刻さも、今までの比じゃねぇ。

  まあ、仕方ない。

  あの牢屋みたいに閉塞した、光の届かない故郷から逃げ出して以降、何の保証もない中でここまでしぶとく生き延びてきたんだ。

  少なくとも、路頭に迷い、泥水を啜っていた最初の頃よりは、随分とマシな状況になった。

  贅沢言ってる暇があったら、もっと努力して、泥臭く上を目指すべきだ。

  そんなわけで、以前から親交がある業者の元を尋ねて、また仕事を回してもらうとしよう。何やかんやで築き上げた人脈は、金よりも硬く、裏切らねぇ。

  バサリ。

  俺は背中の筋肉を大きく収縮させ、畳んでいた翼を一気に展開した。

  地面を蹴り、大気を叩く。

  ふわりと身体が浮き上がる浮遊感。

  ソルシエの街の上空へ躍り出ると、冷たく乾いた風が、翼の皮膜をパンと張らせ、俺の身体を空高くへと押し上げた。

  気流に乗り、滑るように滑空する。

  頬を切り裂く風の冷たさが、地上での鬱屈した気分を物理的に吹き飛ばしてくれるようだ。

  目的の場所へ向かう途中。

  俺の、獲物を探す猛禽類のように鋭敏な目が、眼下に広がるミニチュアのような街並みの中で、一際異彩を放つ建物を捉えた。

  ギュン、と眼球の水晶体が厚みを変え、遠くの景色にピントを合わせる。

  それは、街外れのなだらかな丘の上に鎮座する、巨大な城だ。

  以前仕事をしている頃から、あの威圧的なシルエットの存在は知っていた。だが、正直何の建物なのか、一ミクロンも興味がなかった。

  どうせ、この魔法都市を治める王族の居城か、金持ちが道楽で建てた別荘だろうとしか思っていなかったからだ。

  だが、遮るもののない上空から、改めてその全貌を見渡してみると。

  いくつか、妙な点があることに気がついた。

  俺は目を細め、視覚情報を拡大する。

  まず、城の敷地内を行き来する、米粒のような魔獣たち。

  彼らが皆一様に、同じデザインのローブ――制服のようなものを羽織っていることだ。

  赤、青、緑。色こそ異なれど、その形状は統一されている。あるいは、教師とおぼしき、威厳ある杖を持った魔術師風の奴らしかいねぇ。

  それを踏まえて、全体を俯瞰する。

  城の周りには、本城と連結するようにして、講堂や教室と思われる横に広い建物が、回廊で繋がれて複数連なっている。

  さらに裏側には、巨大なドーム型の建物があった。

  その周囲が、陽光を反射してキラキラと歪んでいる。分厚い、あまりにも強固な防御障壁だ。あれだけの防護が必要ということは、中で派手な魔法の練習を行う演習場か何かなのだろう。

  こうして空から構造を丸裸にしてみると、誰がどう見ても学校だ。

  それも、国が運営するような、本格的な魔法学校だ。

  自分の視野の狭さと、今まで「金持ちの城」だと決めつけていた短絡さに、思わず鼻で笑って呆れてしまう。

  フン、と鼻から呼気が漏れた。

  だが。

  俺の脳内で、歯車がカチリと噛み合った。

  今気付いて、正解だったかもしれねぇ。

  魔法学校ということは、少なくともここには、魔術師を志す金の卵どもが、腐るほど大量に集っているということだ。

  そんな有象無象の中には、俺の喉から手が出るほど知りたい「護身用の魔法」について、ある程度詳しい奴もいるかもしれねぇ。

  そういった学生を捕まえて交渉すれば。

  有用な魔法を学べるチャンスが、転がっているかもしれない。

  何も、俺の先生役が、堅苦しい本物の教師である必要はないのだから。

  俺はニヤリと口角を上げ、乾いた唇を舌で湿らせた。

  風向きが変わった気がした。

  どうやって、俺の目的に見合う学生を見つけ出すか。

  学校の周りを、大きな弧を描いて旋回しながら考える。

  眼下では、ちょうど放課後の時間帯なのだろう。校舎から吐き出された学生たちが、列を成して帰路についているのが見える。

  空から品定めをするのはやめだ。直接、肌で感じる反応を見るしかねぇ。

  俺は片翼を折り畳み、重力に身を任せて急降下した。

  風切り音が鼓膜を震わせる。

  通学路の開けた場所を選び、減速。

  鉤爪が石畳を打ち、衝撃が足首から膝、そして腰へと抜けていく。

  着地の風圧で、砂埃が舞い上がった。

  「ひっ!?」

  「な、なんだ!?」

  突然の空からの来訪者に、歩いていた数人の学生が、弾かれたように後ずさる。

  彼らの瞳孔が一瞬で収縮し、呼吸の止まるのが分かった。

  明らかに警戒されている。まあ、無理もねぇ。空から薄汚れた男が降ってきたんだ。

  俺は努めて頬の筋肉を緩め、牙を見せないように唇を閉じ、手のひらを見せて敵意がないことをアピールした。

  「おい、ちょっと聞きたいんだが」

  声をかけると、彼らの肩がビクリと跳ねる。

  どうにか宥めすかして、俺の喉から出る声をできるだけ低く、威圧感を消して話を聞き出した。

  だが、返ってきた答えは芳しくない。

  一般の魔獣に魔法を教えるといったサービスやボランティア。そんな話を聞いたことがあるかと問えば、彼らは困惑して顔を見合わせ、首を横に振るばかり。

  まあ、学生の身分じゃ、万が一素人に魔法を教えて事故が起きた時、その責任を負いきれないだろう。

  俺も駆け出しの運び屋だった頃、荷物を一つ傷つけただけで、先輩に頭を引っ叩かれながら「信用の重み」について耳にタコができるほど説教されたもんだ。

  それでも。

  俺は食い下がった。相手の目が泳ぎ、早く逃げたがっているのを感じながらも、粘り強く情報を引き出す。

  その結果、一つだけ有力な情報の欠片を拾うことができた。

  敷地内の奥の方に掲示板があり、そこに稀に一般向けの募集や依頼が貼り出されているらしい。

  なるほど。じゃあ俺もそこで募集の張り紙を出せば、もしかしたら物好きな奴が釣れるかもしれねぇな。

  胸の奥で、期待という名の小さな火が灯る。

  情報を教えてくれた学生に、軽く手を上げて礼を言う。彼らは安堵の息を漏らし、逃げるように早足で去っていった。

  俺は早速校門を潜り、教えられた場所を目指した。

  すれ違う職員や学生に道を尋ねつつ、整備された植え込みの横を通り、奥へ、奥へと進んでいく。

  すると、目的の掲示板に辿り着いた。

  しめしめ。俺は口角を歪め、ボードに歩み寄る。

  だが、貼られている羊皮紙の束を目で追ううちに、期待の火は音を立てて消え失せた。

  どうも、思っていたのと違う。

  そこに並んでいるのは、学校の公式な行事予定や、事務的な連絡事項が淡々と、無機質な文字で羅列されているだけだ。

  何かを募集する張り紙もあるにはあるが、それは教師が特定の優秀な学生を指名して、研究の手伝いを募る程度のもの。

  俺のような部外者が入り込む隙間など、一行たりとも存在しなかった。

  ここに無理矢理、俺の汚い字で書いた募集を貼り付けてもいいが、部外者の悪質な落書きとして、次の見回りですぐに剥がされてゴミ箱行きだろう。

  俺はがっくりと肩を落とし、肺の中の空気をすべて吐き出した。

  当てが外れて、途方に暮れていると。

  ズドン……。

  腹の底に響くような、小さな、けれど重い破裂音が空気を揺らした。

  耳がピクリと反応する。

  音の出処は、隣の建物だ。

  見上げれば、上空から眺めた時にも見えた、あの巨大なドーム型の演習場だ。

  学生が魔法の練習でもやっているのか。

  先程、道すがら職員に聞いた話では、校舎以外の施設は公共物扱いだから、申請さえすれば市民でも利用が可能らしい。

  ……扉は、開いているか?

  俺は周囲を見回す。不法侵入にならないよう、誰かに見咎められないか、慎重に確認する。

  不用意に踏み込んで命を狙われるのは、俺の過去の経験でもう十分だ。背中の翼を小さく畳み、気配を殺して近付く。

  重厚な鉄の扉に手をかける。

  ひやりとした金属の冷たさが掌から熱を奪う。

  力を込めて押し開けると、重い音と共に扉が開き、だだっ広い空間が視界に飛び込んできた。

  ムッとするような、濃密な魔力の匂い。

  外だけではなく、ドームの内側にも、分厚い透明な防御障壁が何層にも張られているようだ。

  壁が厚い分、防音もしっかりしているのだろう。外の風の音も、鳥の声も、ここでは一切聞こえない。

  完全な静寂と、張り詰めた空気。

  流石は魔法学校。設備が本格的だなあと、俺が感心して高いドームの天井を見上げていた。

  その、時だった。

  「あーっ! おみゃー、あの時のーっ!」

  静まり返ったドームの空気を引き裂くように、鼓膜を直接紙やすりで擦るような、甲高い金切り声が響いた。

  ビクリと肩が跳ねる。

  突然、視界の端から小さな黒い塊が弾丸のように飛び込んできた。

  蝙蝠だ。

  そいつは、俺の顔の周りをパタパタと不規則な軌道で飛び回り、羽ばたきの風圧を頬に叩きつけてくる。

  そして。

  ペチ、ペチ、ペチ!

  小さな掌が、俺の頬や頭を連続で叩いてきた。

  空中からの攻撃だから、体重も腰も全く入っていない。

  痛みなど皆無だ。まるで濡れた落ち葉が当たった程度の、頼りない質量。

  だが、耳元の至近距離で、蚊が飛び回るような不快な羽音と「このーっ、くらえーっ!」という喚き声を垂れ流されるとやかましくてたまらない。

  俺は反射的に首をすくめ、眉間に深い皺を刻んで、鬱陶しい羽虫を払うように手を振った。

  「こらっ! ココヨ、何やってるの! ごめんなさい、うちの使い魔が……あれ?」

  俺の頭上を旋回する黒い塊を叱責しながら、小走りで誰かが近付いてくる。

  タタタッ、と軽い足音が、床の硬い反響音として伝わってくる。

  俺は片目で蝙蝠を牽制しつつ、近付いてきたその姿を網膜に捉えた。

  瞬間、妙な既視感が脳裏を掠める。

  顔の中心から胸、そして腹にかけては、滑らかな陶磁器のような純白。

  対照的に、それらを外側から包み込む背中や手足は、深い海を思わせる鮮やかな翠色に染まっている。

  陸上の獣ならあるはずの体毛が一切なく、濡れたような光沢を放つその皮膚は、水の中を抵抗なく泳ぐために進化した証だ。

  頭部と耳、そして腰の後ろでバランスを取る尻尾には、大きなヒレが生えていた。

  おそらく、水のある環境に適応した種族だ。

  確か、イルカの……。

  記憶の検索が、カチリと音を立てて一致した。

  「あっ、あんた。オリオンのカフェにいた奴か」

  声が出た。

  同時に、目の前で急停止したイルカの彼女も、同じ結論に達していたらしい。

  丸い瞳が大きく見開かれ、ハッとしたように唇が開く。

  「いやぁ、久しぶりだな。あれから少しはすっきり……というわけもなさそうだな」

  俺は、彼女の華奢な身体にまとわりつく、目に見えない――だが俺の目にはハッキリと映る「それ」を見て、不快げに鼻に皺を寄せた。

  粘着質な油汚れのように、あるいは腐らない蜘蛛の巣のように。

  あの時払ってやったはずの魔力の澱が、またしつこく再生し、彼女の全身を薄く包み込んでいやがる。

  本来、魔力というのは水物だ。

  あらゆる生き物の活力の元となる最重要のエネルギーであり、体内に孕んでいる魔力は、その宿主の呼吸や鼓動に合わせて、最適な形へと常に流動し変化し続ける。

  従って必ず、指紋のように唯一無二の個性が生まれる。

  暖色系の温かみ、ザラついた土の質感、花の香り、あるいは鉄の味。

  同じ種族ですら一つとして同じものはない。その個人だけが持つ、独特のフェロモンのような魅力があるんだ。

  だと言うのに。

  目の前のこの魔力は、どこまでも気色が悪かった。

  俺の感覚器官が、生理的な拒絶反応を起こして総毛立つ。

  無味無臭。

  揺らぎも、温度も感じられない。

  まるで定規で引いたように整然としすぎている幾何学的な形状と、冷たく硬いプラスチックのような、のっぺりとした質感。

  それは生き物が息づいているのではなく、人工物のように無機質で、どれだけ見ても変わり映えのしない死んだエネルギー。

  こんな魔力は、長く運び屋をやって色々な術者を見てきた俺でも、一度だって見たことがねぇ。

  あの蛇女や、可哀想な実験体の魔力ですら、腐臭を放ち歪んではいたが、そこには強烈な「個」の主張があった。

  だが、これは何もない。空っぽとすら思える、完全な「虚無」だ。

  そんな異質で不快な魔力の被膜に覆われながらも。

  ほんの僅かな隙間から、こいつ自身の本来の魔力が息苦しそうに輝いているのが見えた。

  どこまでも奥まで見通せそうな、透き通った碧色が覗いている。

  断然、俺はこっちの方が好きだな。

  「ほらよ」

  俺はあの時と同じように、背中の右翼を大きく展開した。

  肩甲骨周りの筋肉を収縮させ、バサリ、と一振り。

  翼の皮膜が空気を弾く乾いた音がする。

  今度は彼女に激しい風圧をぶつけないように、けれど、こびりついた汚れだけは確実に剥ぎ取れるように、風圧と角度を繊細にコントロールしながら空気をぶつけた。

  フワッ。

  巻き起こった風が、彼女の衣服を揺らす。

  同時に、纏わりついていた霧のような人工の魔力が、風に洗われて霧散し、剥がれ落ちていく。

  現れたのは、本来の彼女の魔力だ。

  やはり、この女の魔力は綺麗だな。

  俺は思わず目を細めた。

  そこにあるのは、海そのものと言って良かった。

  万物の母である海のように、それは底知れないほどに深く、そして何もかもを受け入れてくれるような温かな蒼、碧、藍。

  様々な青色が層を成して揺らめき、美しいグラデーションを作り上げていた。

  潮風にも似た清涼な気配が、俺の鼻腔をくすぐった。

  「あーっ! またやったぎゃあ!」

  耳元で、ガラスを爪で引っ掻いたような金切り声が炸裂した。

  鼓膜がビリビリと不快に振動し、頭蓋骨に直接響く。

  俺の目の前を飛び回る小さな黒い塊。

  あまりの鬱陶しさに、俺のこめかみで血管がピクリと脈打った。

  そろそろ、こいつの首根っこを摘んで、ドームの外へ放り出してやろうか。

  「ココヨ、やめてったら! このヒトは助けてくれたんだよ!」

  チュリンが慌てて蝙蝠を制止する。

  その声には、先程までの湿った陰鬱さが消えていた。

  どうやら、イルカの彼女には、物理的な重りが取れたような、劇的な身体感覚の変化があったらしい。

  強張っていた肩のラインがストンと落ち、浅かった呼吸が深くなる。

  肺が十分に広がり、新鮮な酸素を取り込んでいるのが見て取れる。

  先程まで暗い影が差し、濁っていた瞳の水晶体には、パッと照明の光が宿り、本来の輝きを取り戻していた。

  「ね、ねぇ。その翼で空気を振ったのって、何をしたの?」

  彼女が、おずおずと上目遣いで俺を見上げてくる。

  長い睫毛が瞬き、視線が俺の翼と顔を行き来する。

  不安と、それ以上の好奇心。

  どうやら俺の力に興味があるらしい。聞いて驚けと、俺は胸を張り、鼻で息を吐いた。

  「これか? 澱んだ魔力を整えたんだよ。あんたの周りに変な魔力が漂ってる様子だったんでな。俺は魔力が見えるから分かるのさ」

  「魔力が……見える!? それ、どうやってやってるの?」

  彼女の目が、驚愕で限界まで見開かれた。

  口元がポカンと開き、呆然としている。

  「俺は生まれつきだったな。でも、あんたはイルカの種族みたいだし、多分レテ地方出身だろ? ならできるんじゃないのか」

  実際のところ、俺の故郷でも、生まれつき俺と同じことができる奴はいなかった。

  だが、何となくイメージを共有して練習させたら、人数こそ少ないが習得した奴はいたので、素質があればできると思っている。

  「そ、そうなの? でも私そんなのできないよ。全然やったことないし……」

  彼女は自信なさげに首を縮め、視線を足元の床へと落とした。

  小さな手が、不安を紛らわせるようにローブの裾をギュッと握りしめている。

  「そうか。じゃあ練習したらいいじゃねぇか。俺が教えて――。あっ」

  言葉が、喉の奥で止まった。

  脳内で、火花が散る。

  そうだ。

  俺の手札には、これがあったじゃねぇか。

  ドクン、と心臓が強く跳ねた。

  これは、ただの会話じゃない。俺がこの街で生き残るための、最高の切り札になるかもしれない。

  俺は目を細め、値踏みするように彼女を観察した。

  「なあ、ちょっと提案なんだが」

  俺は一歩、彼女との距離を詰めた。

  俺の影が彼女に落ちる。

  「俺のこの技術を身に付けたいなら条件がある。あんた、ここの魔法学校の生徒だよな? 魔法の勉強は得意か?」

  「う、うん。実技は苦手だけど、座学や理論の勉強は自信あるよ」

  俺の問いに、彼女は一度怯んだが、すぐに顔を上げ、ハッキリと答えた。

  「自信ある」と言った瞬間、彼女の背筋がスッと伸び、声に確かな芯が通ったのを俺は聞き逃さなかった。

  「いいねぇ、そういう奴が欲しかったんだ」

  俺の口角が、自然と吊り上がる。

  俺は身を屈め、彼女と視線の高さを合わせた。

  「俺は訳あって魔法を一から学びてぇ。だが、魔法学校に通う金も時間の余裕もないもんでな。誰か詳しい奴に教えてもらいたかったんだ。俺の言いたいことは分かるな?」

  俺の問いに、コクコクと頷く彼女の瞳。

  その奥底に、揺るぎない真面目さと、知識に対する貪欲な飢餓感が垣間見えた。

  実技が苦手だと言った時の、悔しげに歪んだ眉。

  おそらくその分のマイナスを、睡眠時間を削り、眼球が乾くほどの膨大な勉強量で補ってきたのだろう。彼女の指先には、ペンを握り続けた者特有の硬い皮ができているのが見て取れる。

  だからこそ。

  教科書には載っていない、未知の魔法技術なんて餌をぶら下げられれば、間違いなく食いついてくるはずだ。

  俺は、獲物が罠にかかるのを待つ狩人の忍耐強さで、言葉を続けた。

  「俺は普段運び屋をやっていてな。この時間帯なら多少融通が効くから、どっかで落ち合って、お互いの知識と技術を教え合うというのはどうだ?」

  俺の声は、ドームの静寂に低く響いた。

  彼女が息を呑む気配がする。

  「チュ、チュリン!? あちきはこやつのこと信用できないぎゃあ! 大きくて怖いし!」

  彼女の肩に戻った蝙蝠が、全身の毛を逆立ててキシャーッ! と威嚇した。

  小さな爪が、チュリンの肩のローブに食い込んでいるのが見える。

  その言葉に、チュリンの視線が揺れた。

  彼女の目が俺の顔から、指先に生えた鋭利な鉤爪、そして背後に畳まれた巨大な翼へと、恐る恐る走るのが分かった。

  喉がゴクリと鳴る。

  当然だ。俺はどう見ても、堅気の魔法使いじゃない。路地裏の泥と暴力の匂いが染み付いた、得体の知れない男だ。

  生物としての本能が、逃げろと警鐘を鳴らしているのだろう。彼女の顔色が僅かに蒼白になり、足が一歩、無意識に後ろへ下がりかけた。

  だが。

  彼女は逃げなかった。

  下がりかけた足を、意志の力で床に縫い付ける。

  視線が足元を彷徨い、唇をギュッと、血が滲むほど強く噛み締める。

  何かを自問自答するように、呼吸のリズムが乱れている。

  ……何だ?

  俺は眉をひそめた。

  普通なら、ここで悲鳴を上げて逃げ出すのが正解だ。あるいは、条件を断るのが賢明な判断だ。

  だが、こいつは逃げない。

  恐怖で震えているのに、それ以上に譲れない「何か」が、彼女をその場に縛り付けている。

  その華奢な拳が、青い血管が浮き上がるほど強く握りしめられているのを見て、俺は直感した。

  こいつには、余程の事情があるらしい。

  恐怖をねじ伏せてでも、力が欲しいと願うだけの、切実な理由が。

  やがて、彼女は横隔膜が大きく上下するほど深く息を吸い込み、乱れていた呼吸を無理やり鎮めた。

  泳いでいた視線が止まり、俺の双眸にピタリと焦点を合わせる。

  「私ね、今まで頼りになる人が周りにいて、おんぶに抱っこだったの。それでいいと思ってた。だけど……」

  喉の奥で、言葉が硬い塊になって詰まったかのように、一瞬の間が空いた。

  だが、彼女はもう、弱さを隠すように俯くことはしなかった。

  潤んだ瞳の奥で、俺への恐怖とは異なる、暗く熱い種火が熾るのを俺は見た。

  「この前、大切な友達が傷付けられた。あんなに苦しんでいるのに、私が何もしてあげられないのが悔しくて。……自分の無力さが、死ぬほど惨めで」

  吐き出された声は、さざ波のように微かに震えていた。

  だが、それは俺という捕食者を前にした怯えではない。

  自身の弱さに対する激しい憤りと、それを焼き尽くそうとする決意の熱量が、声帯を物理的に震わせているのだ。

  「だから、一人でも強くなりたいと思ってここに来たの」

  その言葉は、重かった。

  ただの学生の憧れではない。心臓に刺さった棘を抜くための、彼女なりの固い決意が込められていた。

  「だから、どうか私に足りないものを教えて欲しい。あなたなら、この前も今回も助けてくれたし、オリオンさんも信用してるしね」

  まっすぐな視線。

  そこに、先程までの怯えや迷いは、塵ほども残っていなかった。

  最後の一押しがオリオンの信用というのが若干気に食わないが、まあいい。

  今までの仕事が正当に評価された結果勝ち取った報酬ということにしておこう。

  俺は鼻を鳴らし、ニヤリと口の端を歪めた。

  「じゃあ交渉成立だな。今日は時間があるからあんたの魔法を少し見てやるよ。さっきまで練習してたんだろ?」

  「うん。あそこで練習してたんだ」

  彼女は、広場の奥で寂しげに佇む、ボロボロになった案山子のようなものを指し示した。

  藁が焦げ、何度も修復された跡がある。あれが魔法を当てる練習台なのだろう。彼女の努力の痕跡だ。

  だが、俺の目はそれよりも、彼女が右手に強く握りしめている杖に吸い寄せられた。

  切先は巷に溢れる素朴な木製の杖だ。

  しかし、その持ち手部分は、酷使してきた手脂と汗で黒ずみ、滑らかな艶が出ている。

  そして何より奇妙なのは、グリップの根本に埋め込まれた金属製のギミックだ。

  空っぽの窪みがある。まるで、何かを嵌め込むためのソケットのような。

  「なあ、その杖って普通のじゃねぇよな。どんな仕組みなんだ?」

  「ああ、これ? ここに魔石をはめて魔力を貯めると、足りない魔力を補えるんだよ。私、魔力の保有量が少ないから」

  彼女は悪びれもせず、むしろ少し自慢げに杖を掲げた。

  俺は一瞬、言葉の意味を理解するのに数秒のラグを要した。

  魔石? 貯める? 保有量が少ない?

  「はぁっ? まさかあんた……自分の体内にある魔力しか使ってねぇのか?」

  俺の声が、思わず裏返った。

  呆れを通り越して、恐怖すら感じる。

  俺は周囲の空間を、手で掻くように示した。

  「魔力なんて、この辺の空気中に腐るほど漂ってるだろうが。肌にベタベタ張り付くくらい濃いのがよ。それを使えば、いくらでも撃ち放題だろ」

  俺は本心から、今日の天気の話をするくらいの気軽さで言った。特段おかしなことを言ったつもりはなかった。

  だが。

  ピタリ。

  それを聞いたイルカの女の動きが、完全に停止した。

  呼吸の音が消える。

  彼女の肩が、ビクリと電流を受けたように大きく跳ねた。

  ギギギ……。

  油の切れた機械か、あるいは錆びついた蝶番が悲鳴を上げるように。

  彼女の首が、不自然なほどのゆっくりとした速度で、こちらへと回転した。

  その表情は。

  信じられない話を聞いたと言わんばかりに、眼球が眼窩から零れ落ちそうなほど限界まで見開かれ、唇は半開きになり、小さく痙攣している。

  顔から血の気がサーッと引き、蒼白になっていくのが見て取れた。

  「……ねぇ、今、何て言ったの?」

  掠れた、乾いた声。

  「空気中の魔力が、いくらでも使えるって……言った?」

  「お、おぅ。そうだが?」

  俺が頷くと、彼女の瞳孔がギュンと収縮し、そしてまた散大した。

  彼女は杖を持つ手に力を込めすぎて、指の関節が白くなっている。

  「そ、その技術……私でも、できるようになるの?」

  「ああ。別に難しいことじゃない。皮膚の毛穴を開くような、ちょっとした呼吸のコツだ。練習すれば普通に――」

  「――画期的じゃないの!!」

  彼女の口から、爆発音のような絶叫がほとばしった。

  空気がビリビリと震える。

  「そんなこと、誰も教えてくれなかった! 教科書のどこにも書いてなかった!! 今までの私の苦労は、高い魔石代は、一体なんだったのよぉ……ッ!!」

  ガクッ。

  叫び終えると同時に、糸が切れた人形のように彼女の膝が折れた。

  硬い床に膝頭を強打し、そのまま両手をついて、嘆くように突っ伏す。

  絶望のポーズだ。

  おとなしい優等生かと思っていたが、その内側には、行き場のない熱量がマグマのように煮えたぎっていたらしい。

  ズイ、と。

  彼女が膝をついたまま、俺の足元ににじり寄ってきた。俺を見上げる瞳。

  そこにあるのは、単なる尊敬や憧れではない。

  砂漠で水を求める遭難者のような、あるいは未知の獲物を見つけた猛獣のような。

  ギラギラとした、知識への「飢餓」だった。

  「あなた、天才だよね……。その技術、私に教えてください。……先生と呼んでもいいですか?」

  彼女の潤んだ瞳が、瞬きもせず俺を射抜いていた。

  その言葉は、あまりにも唐突で、そして切実すぎた。

  俺は鳩が豆鉄砲を食らったように目をパチクリとさせ、呼吸を一瞬止めた。

  天才。先生。

  その甘美な響きは、俺の鼓膜にはあまりにも馴染まない異物だった。

  今まで俺のこの特異な力に対して、気味の悪い化け物だの、呪われた忌み子だの、好き勝手な罵詈雑言を吐き捨ててきた連中はそれこそ掃いて捨てるほどいたが。

  こんな風に、何の裏もなく、キラキラした目で褒められたことは……生れて初めてだ。

  いや。

  ……待て。他に一人だけ、いたな。

  不意に。

  鼻腔の奥に、鼻につくほど甘ったるい、高級な香水の幻臭が蘇った。

  俺の脳裏の奥底、記憶の澱みから、ある男の顔がヌラリと浮かび上がる。

  

  洗練された仕草。

  人畜無害を絵に描いたような、穏やかで優雅な微笑み。

  そいつは、俺の肩に手を置き、確かに今の彼女と同じ言葉を口にした。

  けれど、その瞳の奥は決して笑っていなかった。

  そこに在ったのは、俺という「便利な駒」をどう使い潰し、己の野心のための踏み台にするかという、氷のように冷徹な計算だけ。

  褒め言葉を餌に、俺を底なしの陰謀へ引きずり込もうとした、あの粘着質な手触り――。

  ゾワリ。

  背筋を、冷たい蛇の這い上がるような悪寒が走った。

  思い出したくもねぇ。

  胃の腑に重い鉛を流し込まれたような不快感が込み上げる。

  奥歯をギリリと噛み締め、こみ上げる酸っぱい吐き気を堪える。

  チッ、と舌打ちしそうになるのを、俺は喉の筋肉を硬直させて無理やり飲み込んだ。

  殺気にも似た不快な感情が、表情に出てしまったのだろう。

  目の前のチュリンが、ビクリと肩を震わせ、数センチ後ずさった。

  ヒレのついた耳が、怯えたようにペタンと伏せられる。

  「あの……やっぱり、気に障りましたか?」

  上目遣いの瞳が、不安げに揺れている。

  いけねぇ。こいつはあの腹黒い貴族とは違う。ただ純粋に、俺を評価してくれただけだ。

  「いや、悪ぃ。こっちの話だ」

  俺は強張っていた頬の筋肉を意識的に緩め、大きく息を吐き出して、彼女に向き直った。

  改めて見る彼女の表情は、俺が命令すれば今すぐ翼の毛繕いさえ喜んでやってくれそうなほどの、熱烈な忠誠心と期待に満ち溢れている。

  だが。

  急に「先生」なんて呼ばれて、尊敬の眼差しで仰ぎ見られる立場になるのは、どうにも慣れない。

  背中の肩甲骨の間、翼の付け根あたりが、どうしようもなくムズムズと痒くなる。

  俺はたまらず、ポリポリと首筋を掻いた。

  それに、この約束は一方的な施しや、主従関係じゃない。

  俺たちは互いに足りないものを埋め合う、対等な共犯者であるはずだ。

  それなら、変に崇められるより、軽口を叩き合って笑えるくらいの距離感の方が、俺としては居心地がいい。

  「じゃあ、自己紹介でもするか。俺はバロだ。よろしくな」

  「私はチュリンです! この子は使い魔のココヨ。よろしくお願いします!」

  チュリンは、腰を直角に折るような勢いで、お手本のような深々とした一礼をした。

  その拍子に、肩に乗っていたココヨがバランスを崩しかけ、不満げに「ぎゃっ!」と鳴いて、未だに俺に向かって「べー!」と小さな舌を出してみせる。

  そうそう。この使い魔くらい反抗心があった方が、あの猫被りの貴族よりよっぽど信用できるってもんだ。

  「あー……そうだ。俺さ、名前覚えるの苦手なんだわ。もし次会う時忘れちまったら『海トカゲ』って呼ぶな」

  敢えて、適当な名前をでっち上げてみる。

  これで「それでもいいです」なんて従順に言うくらいなら、別の骨のある奴を探そうかな。

  だが、その名前は彼女にとっては許容範囲を遥かに超えていたらしい。

  ピキッ。

  彼女の顔から、それまでの尊敬で輝いていた光が急速に失われた。

  優しげな瞳が吊り上がり、輪郭がさらに鋭くなる。おー怖い怖い。

  「……お父さんが付けてくれた名前を蔑ろにしないで! この、えーと……『野生児』!」

  彼女は頬を膨らませ、精一杯の悪口をひねり出した。

  あっ、こいつ面白ぇな。

  喧嘩慣れしてないのが丸わかりだ。悪口のセンスが古臭くて可愛いもんだ。よし、今後はこれでいじってやろう。

  それにしても「野生児」か。

  悪くない渾名だ。

  これまではクズだのアホだの、碌でもない呼ばれ方しかされなかったが、それでもあの男のように「君」なんて他人行儀に呼ばれるよりは、よっぽど心が安らぐ。

  そこに「野生児」なら、ある意味では誰にも頼らず、自分の手で生き抜いてきたことの証明のようなもんだ。

  結構、気に入ったかもしれない。

  「それでいいんだよ。気持ち悪ぃ敬語なんていらねぇからよ。じゃあ早速始めようぜ、『海トカゲ[[rb:先生 > ・・]]』」

  「い、今気持ち悪いって言ったでしょ! 酷い! あと海トカゲもやめてって!」

  チュリンは頬を目一杯に膨らませて抗議した。ココヨも合わせて頬を膨らませる。

  何かこいつら、種族は違っても、案外似た者同士の主従かもしれない。

  そんなこんなで始まった、奇妙な約束。

  正直、俺もチュリンも、この時はお互いに打算があった。

  俺は適当な魔法を覚えさえすれば、あとは機を見てトンズラすればいいと思っていたし、あいつも自分の目的のために俺を利用しようとしていただけだろう。

  だが、まさか。

  これが後に、俺の夢を叶えるための、かけがえのない出会いになるとは。

  この時の俺は、まだ知る由もなかった。

  続く