「……ダブル? ツインではなく?」
口から漏れた声はひどく呆けたものだったと思う。
目の間に鏡があれば、まぬけな面を浮かべているハチワレ猫が目に映っただろう。
フロントに立つ白兎の女性スタッフは、僕の困惑などまるで意に介さないように、表情ひとつ変えていなかった。彼女はひとつ瞬きをしたあと、視線を下げて手元にある端末を慣れた様子で叩き始めた。沈黙の間を埋めるのはリズムよく刻まれるタイプ音だった。その音はすぐに止んで、彼女は顔を上げてから口を開いた。
「恐れ入りますが、ご予約いただいた際のお名前は[[rb:駒形 > こまがた]]さまでお間違えないでしょうか?」
「え、ええ……合っています」
「確認いたしましたが……ダブルのお部屋をご予約いただいておりますね」
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
口を開きながら、コートのポケットに入れていた携帯電話を取り出す。
「予約したときに貰ったメールを見て──」
うちの会社では、出張届けに従って総務部門が宿泊先を手配してくれる運用になっている。そのときの予約内容はメールで転送されていたはずだ。目当てのメールは受信トレイに残っていてすぐに見つかった。僕はあらためて、その文面に目を通す。そこにはしっかりと──
「ええと、ダブルで予約……してますね……」
どうしようもないなという感情が湧いてくると、自然と口元が緩んでくる。僕の声色には乾いた笑いが混ざっていた。
画面から視線を外して顔を上げると、フロントの彼女と目が合った。引きつった笑みを浮かべているであろう僕に対して、彼女は職務を全うするように事務的な笑顔を返してくれた。そこに困ったような色が浮かんでいるのは、僕の気のせいではないだろう。
僕が書類に誤った内容を記入してしまったか、それとも予約をしてくれた担当者のミスか。考えようと思ってやめた。責任の所在を求めたところで状況が変わるわけでもない。さてどうしようかと腕を組もうとしたところ、背後から声をかけられた。
「どうした、駒形。何かトラブルでもあったのか?」
絨毯を介しても感じられる重さの足音とともに、視界の横に大きな影がぬっと現れる。大柄な身体をベージュのステンカラーコートに包んだ、セントバーナードの男性──上司の[[rb:蔵前 > くらまえ]]さんがそこにいた。彼は今回の出張の同行者でもあった。
「蔵前さん……ええと……その……」
言葉に詰まる僕を見て、蔵前さんはいかめしい顔付きに怪訝な表情を浮かべた。
「いいから、とりあえず状況を説明してくれ」
そう求めてきた蔵前さんに、僕は現状を説明した。僕の話を聞いている間、蔵前さんは眉間の影を濃くしながら目を細めて、口吻の下に手を添えていた。
「──というわけなんですが……」
「……まあ、上司と一緒のベッドは嫌だろうな」
半ば独り言のようにそう漏らすと、蔵前さんはフロントの方へ身体を向けた。
「こちらの間違いで申し訳ないのですが、ツインの部屋に変更できませんか?」
あるいは、僕たちが別のベッドで寝られるように調整できないだろうか。蔵前さんはフロントの彼女に対して申し出る。だが、その結果は彼女の浮かべる表情でなんとなく察せられた。
「申し訳ございません。本日は他にご案内できるお部屋がなく……」
予想していた通りの言葉を述べたあと、彼女は本当に申し訳なさそうな表情を浮かべて頭を下げた。蔵前さんの強面に気圧されて、いつも以上に丁重になっているのかもしれない。
それにしても、ここはそれなりの規模のビジネスホテルだ。階数も多いし部屋数は多いはずだろう。一部屋も空いていないというのは本当だろうか。その考えを察したかのように、彼女はこう付け加える。
「普段であればご用意できるかと思うのですが、本日は周辺でイベントが重なりまして」
需要に応えるために全室稼働しており、今日は珍しく文字通りの満室なのだと彼女は説明してくれた。
振り返って見ると、いつの間にかロビーは混雑していた。僕たちのような出張サラリーマンといった出立ちの者だけでなく、カジュアルな服装をしてスーツケースを転がしている者の姿も多く見受けられた。フロントには、チェックイン待ちの列が出来上がっている。僕たちの背中にぶつけられる「早くしろ」という視線から逃げるように、僕はフロントへ顔を戻した。
「ご要望にお応えすることができず心苦しいのですが、ご容赦ください」
「いや、そういうことであれば仕方ない。無理を言って申し訳なかった」
蔵前さんは、深々と頭を下げる彼女に片手を上げながらそう言った。それから、僕にチェックインの手続きを引き継いで後ろに下がった。
気まずい空気が漂ったまま、宿帳への記入を進めていく。フロアの案内や館内設備についての説明は、耳を通り抜けてほとんど頭に残らなかった。部屋のカードキーを受け取った僕は、丁寧に対応してくれたことに礼を言い、フロントを後にした。
ロビーの隅で佇んでいる蔵前さんは、僕の方をじっと見ていた。足取りは重いが、[[rb:踵 > きびす]]を返して逃げるわけにも行かない。ぶつけられる視線を全身でひしと感じながら、僕は蔵前さんのもとへ戻った。
「駒形」
蔵前さんは腕を組み直すと、目を瞑って僕の名前を呼んだ。
「……はい」
「起きてしまったことは仕方がない。だが、事前確認で防げたはずだ。わかるな?」
「それは……蔵前さんの仰る通りです」
「なら、この件は終わりだ」
蔵前さんは納得した風に頷き、組んでいた腕を解く。
「それで、一晩の辛抱だが大丈夫か?」
蔵前さんは顔を寄せてきて、小さな声でそう訊いてきた。まるで内緒話でもしているかのようだ。距離の近さにどきりとして、僕は反射的に口を開いた。
「だっ、大丈夫です!」
思ったよりも大きな声が出てしまった。蔵前さんは驚いたのか、大きな身体を微かに震わせていた。
「僕の不注意ですし……本当にすみません」
今度はボリュームを絞ってそう言い、深く頭を下げる。すると、蔵前さんは僕の肩に手を乗せて口を開いた。
「まあ、顧客に迷惑をかけるわけでもない。反省するのは大事だが、あまり引きずるなよ」
「蔵前さん……」
「よし、とりあえず部屋に行くぞ」
蔵前さんは、僕の肩をぽんと叩いてから歩き出した。僕はその大きな背中を追いかける。肩に残っているのは、蔵前さんの手の厚みと温もりだった。
* * *
納品物のひとつである書類の一部に修正を依頼したい。
とある顧客からそう連絡を受けたのは、数日前、検収日も間際のことだった。
修正の内容はとても些細なものだった。蔵前さん含めて、その修正に意味を見出すことはできなかった。だが先方にとってはそうではないようで──取るに足らないその一部が納品物の本質であるかのように──強く要望された。
理解できないということもない。そういうことは、社内でも割にあるからだ。側から見ればどうでもいいようなことが、規程規則で定められていたりするのが会社だ。
問題は、その客先がひどく遠方で、どうあがいても宿泊を伴う出張にならざるを得ないことだった。修正後データのメール送付や、あるいは郵送でなんとかならないかと交渉してみたものの実らず、僕と上司である蔵前さんは遠路はるばるやってきたというわけだ。
もちろん、当初は予定していなかった出張だ。使える金額は潤沢ではなかった。総務部に無理を言って、なんとか予算内で泊まれる部屋を見付けてもらえたと思っていたのだが、結局はこうなってしまった。
どうにも、うまくいかない物事は重なってしまうものだ。
カードキーをドアノブの近くにかざすと、電子音とともに錠が開いた。
扉を開いて部屋に入り、壁に付いている機械にカードキーを差し込む。照明が付いて視界に映ったのは、よくあるビジネスホテルの部屋だった。入ってすぐ、左手側にある扉はユニットバスへつながるものだろう。
奥の方へ歩みを進めると、蔵前さんも後についてきて、扉が閉まる音が背後に響いた。部屋の造りは視線を動かす必要もなく把握できた。床面積のほとんどを占めているのはダブルベッドだ。
それから、壁に対して直角に板を貼り付けただけといった風のデスクと、座るという機能を最低限満たすためだけに作られたような椅子。デスクの上には小さなテレビが乗っていた。空気に耐えられなくなったらお世話になろうかと僕は思った。
小さな部屋は、手を伸ばせば全てにアクセスできるように思えた。コンパクトにまとまっているといえば聞こえがいいが、要は安ホテルの狭い部屋だ。文字通り、足の踏み場がほとんどなく、僕と蔵前さんが並んで立つと荷物の置き場にも困る有様だった。
示し合わせたわけではないが、僕たちの視線はベッドの上に並んで置かれている二つの枕に向けられた。
「僕は机に突っ伏して寝ます」
眼前の光景にたじろいだ僕は、自然とそう口にしていた。ダブルベッドの上で並んで眠るより、そちらの方がよほど熟睡できそうな気がした。
「なので、蔵前さんはベッドで寝てください」
「それは……絵面がパワハラになるからやめてくれ」
「大丈夫です、誰も見ていません。僕も口外しません」
「そういう問題ではない」
「いえ、でも……ここに僕と蔵前さんが……並んで……?」
「……狭いとは言ってもダブルベッドだろう? 駒形、ちょっと寝てみろ」
まるで自分自身に言い聞かせるような声とともに、蔵前さんはベッドを指差した。
拒否するわけにもいかず、僕はコートも脱がないままベッドに腰を下ろした。部屋でこれだけの存在感を放っているのだ。意外と、大の男が並んで寝ても余裕だったりしないだろうかという期待を込めて。
靴を脱いで、掛け布団の上に仰向けになる。隣に蔵前さんが寝ることを想像しながら──それは僕をひどく緊張させた──奥の方へ身体を動かし、ベッドの左半分を使って、窓がある壁の方を向いて横になってみた。
カーテンは窓脇に束ねられており、冬空がガラスの向こう側に広がっていた。駅に着いたときはぱらぱらと雪が舞っていたのだが、今は止んでいるようだ。だが、空を覆う厚い雲からはいつまた再び降り出してもおかしくない。
そんなことを考えていると、僕の背後でベッドの軋む音が響き、マットレスが背中の方へ沈んだ。蔵前さんもベッドの上に乗ってきたようだ。
「どっこいしょ……」
後頭部に聞こえる低い声と息遣い。マットレスが沈んで弾み、身体が揺れる。僕の背後で、蔵前さんもベッドに寝ていることが察せられた。緊張で鼓動が早くなり、拳を握る手に力を込める。
「普段は横を向いて寝てるのか?」
蔵前さんの声が耳元で響いた。吐息を感じそうな距離感に、鼓動が早くなるのを感じる。
「いえ、仰向けですけれど……」
「なら、そうしてみろ」
蔵前さんはそう言うが、僕たちが並んで寝るには、やはりこのベッドは狭すぎる。蔵前さんの身体は縦横どちらにも大きいから、どう考えても半分以上を使っているだろう。僕だって、別に小柄というわけではない。仰向けになれば、少なくとも腕は密着してしまう。
だが、蔵前さんの言葉を無視するわけにもいかない。
小さな深呼吸を一つしてから、僕は身体を転がした。
視界に映るものが、窓から真っ白な天井へ変わった。左肩から腕に何かが触れているのを感じる。これはきっと、蔵前さんの上半身だろう。
左を向くと、眼前に蔵前さんの横顔があった。垂れた耳とずんぐりとした口吻に僕の視線は吸い寄せられる。僕の視線に気が付いたのか、蔵前さんも顔をこちらに向けた。鼻先が触れてしまいそうな距離。微かな吐息が、僕の頬の毛を撫でる。
「机で寝るよりはいいだろう?」
まるでなんてことないように蔵前さんはそう言った。
緊張して眠れなさそうだなんて、口に出すことはできなかった。頭の中で響いている鼓動が蔵前さんに伝わっていないだろうか不安で仕方がなかった。被毛の下から汗が染み出して、体温が上がっているのが自分でもわかった。
それでも、僕は蔵前さんに、頷きを返すこと以外できなかった。
「横になると、起き上がる気が失せるな」
蔵前さんは、微かな苦笑いを表情に浮かべながらそう言った。よく見なければわからない程度の変化だが、それでも普段より雰囲気が柔らかいように感じた。
「長旅でしたからね……僕も身体中が[[rb:凝 > こ]]ってます」
「どうせ移動するだけなら、新幹線でビールでも飲めばよかったか」
いつも真面目な蔵前さんらしからぬ発言に、僕は瞬きを一つした。すると、どこか言い訳めいた口調で蔵前さんは続けた。
「……滅多にない遠距離出張だ、それくらいは許されてもいいだろう?」
僕の反応を待つ前に、蔵前さんはのっそりと身体を起こした。巨体の動きに合わせてマットレスが波打ち、僕の身体はベッドの上でぐわんぐわんと揺れた。
「飯はどうする?」
枕元で腰を下ろし、僕の顔を俯瞰しながら蔵前さんは訊いてきた。
「すぐそこに居酒屋があったから、俺はそこで済ませようと思う」
「……ご一緒してもいいですか?」
「ああ、もちろん」
蔵前さんはそう言うと、ベッドから立ち上がって手洗いに向かった。
左腕には、まだ蔵前さんの熱を感じた。掛け布団の、先ほどまで蔵前さんが寝ていた場所にそっと触れる。同じ温もりがそこにもあった。緩んでしまう口元と反比例するように、胸の内には切なさが湧いてくる。それを奥底に押し込めるように、僕は勢いよく身体を起こした。
* * *
ベッドをめぐってばたばたしているうちに、外はすっかり暗くなっていた。
馴染みのない街の風景だが、宵闇に包まればより一層、ここがどこだかわからなくなる。
ホテルを後にした僕たちは、張り詰めるような寒さに身を震わせながら店へと向かった。幸いなことに、蔵前さんの言葉通り、目的の居酒屋はすぐそこにあった。街灯が少なく薄暗い周囲の中で、店舗の照明が煌々と浮かんでいる。
店内に入ると、暖房でしっかりと暖められた空気が身体を包んだ。何の変哲もないチェーン店だが、店内はそこそこに賑わっている。周辺に競合がないおかげだろうか、ホテルの宿泊客をうまく取り込んでいるように見えた。席に通された僕たちは、とりあえずということでビールを頼んだ。
「酔ってしまえば、ベッドの狭さも気にならんうちに寝付けるだろう」
おしぼりを握りながら、蔵前さんは本気か冗談かわからない口調でそう言った。
「確かにそうかもしれないですね……」
僕は苦笑いを返す。明日に響くほど飲むわけにはいかないが、緊張をほぐす程度に酔っ払っておいた方がいいかもしれない。
「好きなものを頼め。ここは俺が出すから安心しろ」
「ご、ご馳走になります」
「明日の対応はお前に任せるからな。その分の前払いだ」
俺は添え物に徹するぞ、と蔵前さんは付け加えた。
「……了解です。頑張ります」
明日の仕事のことを考えると、どうにも胃のあたりが重たくなってくる。それが表情にも現れたのか、蔵前さんは僕に声をかける。
「露骨に不安そうな顔を浮かべるな」
その顔には珍しく、仕方ないなと言いたげな笑みが浮かんでいた。
「部下の前でそんな顔をしていたら示しが付かないぞ? お前も後輩が増えてきただろう」
「そうですけれど……僕はずっと、蔵前さんの傍で働いていたいですよ」
しまった、と口にしてから思った。変な風に思われていないだろうか、不安になって内心で焦り始める。
「おいおい、しっかりしてくれ。お前には期待しているんだからな」
だが、蔵前さんはあまり気にしていないようだった。代わりに、少し呆れたようにそう言った。それからこう続ける。
「だが……まあ、そう言ってくれるのは嬉しいものだな」
いつものむすっとした強面とは違う、眦を下げた照れ臭そうな表情。
もしかしたら初めて見るその顔に、胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
──新卒で入った会社の配属先。そこで僕の上司になったのが蔵前さんだった。
初めの頃の印象は、正直に言って、あまりいいものではなかった。
強面でいつも怒っているような表情と、それに違わぬ厳しい言動が苦手だと思った。冗談はかけらほども口にせず、誰と話していても険しい表情は変わらない。いや、険しさが増すという意味では表情が変わることもあったが、その逆はなかった。
僕は気弱な方で、そういう相手に対してどうしても萎縮してしまうタイプだった。ただでさえ親子ほどの年齢差があって、共通の話題も見つからないというのに、これで打ち解けろと言われても難しい話だ。だから、入社してしばらくの間は、会社に行くのが少し憂鬱だった。同僚から見ても蔵前さんの印象は変わらないらしく、他の先輩は苦笑いとともに「まあ頑張れ」などという言葉をかけてくれたりした。
ただ、蔵前さんに問題があるかと訊かれれば、そのときの僕も首を横に振るだろう。
仕事に対しては真面目だし、まだ業務に不慣れな僕を手厚くサポートしてくれる優しさ──強面なところは変わらないが──は確かにあったと思う。理不尽な叱責はなく、一貫した物言いで僕に仕事を教えてくれた。
だからだろうか、過ぎゆく時間とともに、隔たりのようなものは自然と薄れてくれた。苦手に思う気持ちは、今ではもう、懐かしいと思える程度には前のものだ。
転機というには些細な出来事かもしれないが、一つ、印象に残っていることがある。僕が初めて受注から納品まで導くことができた案件。蔵前さんは、検収手続きを終えた僕に、初めて笑顔を向けてくれた
よく見ないとわからないほど──口の端が微かに持ち上がっている程度──の笑みだが、そこには今まで見たことのない柔らかさがあった。「よくやった」と言って、僕の肩をぽんと叩いてくれた。そのとき肩に感じた重みも温もりも、僕はずっと覚えている。そして、胸の底に生まれた[[rb:小 > ﹅]][[rb:さ > ﹅]][[rb:な > ﹅]][[rb:想 > ﹅]][[rb:い > ﹅]]も。
定かではないが、その出来事をきっかけにして、蔵前さんの僕に対する態度は柔らかくなったような気がする。口数は多くないながらも、仕事以外の話もぽつぽつと生まれるようになってきた。少なくとも、一緒に出張をしても息が詰まらない程度には打ち解けられていると僕は思っている。
もしかしたら、部署の中で蔵前さんと最も仲が深いのは僕かもしれない。
そう思ってしまうのは、僕の自惚れだろうか。
……あるいは、そう思いたい自分がいるからだろうか?
「──駒形」
物思いに耽っていた僕は、名前を呼ばれてはっと顔を上げる。
「……どうかしたか?」
僕の顔を見ながら蔵前さんはそう言った。先ほどまで考えていた内容も相まって、思わず視線を下げる。蔵前さんが握っているジョッキは、ほとんど空っぽになっていた。
一方の僕は、まだ数口しか飲んでいない。気が付けば、適当に注文していた食べ物がテーブルの上に並んでいた。店員が運んでくれて来たのにも気が付かないほど、意識が彼方へ飛んでいたようだった。
「すみません……少しぼうっとしてました」
「具合でも悪いのか?」
「い、いえ。少し考え事をしていただけです」
「そうか。ならいいんだが……無理はするなよ」
心配ないと僕は頷いてから、ジョッキに口を付けて傾けた。それから少し[[rb:咽 > む]]せた。想像していた以上に勢いよく流れ込んできて、炭酸が喉を刺激したせいだ。なんだか、動作の一つ一つがぎこちないものになっているような気がした。
馴染みのない街で、蔵前さんとふたりきり。滅多にない遠距離出張で浮き足立っているのだろうか、それとも緊張しているのだろうか。いつもの振る舞いを心がけようとするほどに、それは遠ざかっている気がする。
「お互い移動の疲れもあるだろう。さっさと食べて、戻って休むか」
おしぼりを口元に当てながら咳き込む僕を見て、蔵前さんはそう言った。
特に具合も悪くなければ目立った疲労感もないので、余計な心配をさせてしまったようで心苦しい。
それとは別に「休む」という言葉が僕の意識を刺激した。忘れそうになっていたが、僕はこのあと、蔵前さんと同じベッドで眠ることになるのだ。鼓動が大きく早くなり、胸の内側で風船が膨らんでいるような息の詰まりを覚えた。落ち着かない気持ちが手足の先々まで行き渡ったようだった。
僕が内心で狼狽えている間に、蔵前さんはビールのお代わりを注文した。黙々と料理に箸を伸ばし、ジョッキを傾けるその顔は、いつもの強面と変わりない。
一方の僕は、部屋に戻ってからのことでいっぱいいっぱいになり、あまり食べることができなかった。出張先での夕食時は、そんな風に過ぎていった。
* * *
食事と酒で暖まった身体は、厳冬の夜気に包まれて一瞬で冷え切ってしまった。
ほどよく染み渡っていた酔いも一瞬で立ち消えてしまうほどだ。
蔵前さんは、コートのポケットに両手を突っ込み、大きな背中を丸めて歩いていた。それは僕も同じで、被毛が凍ってしまいそうな寒さにできるだけ当たらないように、縮こまって足を運ぶ。吐息が白い湯気となり、後方へとなびいていった。小粒の雪が降っており、足元が白く塗られていく。僕と蔵前さんが雪を踏む音が、閑散とした通りに響いていた。灰がかった紺色の空に月の姿は見当たらない。
僕たちはホテルに隣接されているコンビニで飲み物を買ってから部屋に戻った。外に出てからここに戻ってくると、その狭さが際立って感じられるような気がした。
コートと上着を脱いでハンガーにかけて、僕はベッドに腰を下ろした。この部屋でそうすることができるのは、固そうな椅子かベッドくらいのものだ。マットレスに尻が沈むと、僕の身体はそこに固定されてしまったかのように感じた。
蔵前さんはデスクに鞄を乗せて荷物を整理していた。距離が近いのと蔵前さんの体の大きさが合わさって、こちらに向けられている後ろ姿で僕の視界はほとんど埋まる。スラックスの尻尾穴から垂れる太い尾は、根本から半分が赤茶色、先端が白色の被毛に覆われていた。身体の動きに合わせて微かに揺れているそれを眺めていると、狭い密室にふたりきりという状況が現実味を帯びて染み入ってきた。
「そうだ──」
鞄を漁る手を止めて、蔵前さんは口を開いた。デスクの鏡越しに目が合う。
「駒形、風呂は先に使って構わんぞ」
「い、いえ。どうぞお先に使ってください」
「他の案件で作業しておきたいことがあるのを思い出してな」
蔵前さんはそう言うと、ノートパソコンを取り出してデスクの上で開いた。
「まあ、帰りの新幹線でやってもいいんだが……」
「それ以外の作業も立て込んでいるんですか?」
「……出張帰りは飲みたいだろう。新幹線でビール」
その物言いに、思わずくすりと笑みが溢れてしまう。鏡の中で目を伏せた蔵前さんは、椅子を引いてどっかりと腰を下ろした。
「じゃあ、お言葉に甘えさせていただきますね」
仕事をしている横でゆっくりすることに多少の申し訳なさはあったが、厚意を無碍にするのもよくないだろう。僕は頭を下げてベッドから立ち上がった。
僕は荷物から着替えを取り出して、ユニットバスに入った。さすがに、蔵前さんの前で服を脱ぐ勇気はなかった。
部屋と同じように、何の変哲もないユニットバスだった。トイレがあり、洗面台があり、バスタブとシャワーカーテンがあった。写真を撮って見せたところで、ここがどのホテルかまったくわからないような造りだ。
脱ごうと思って服に手をかけると、羞恥心が湧いてきた。壁の向こう側からキーボードを叩く音が聞こえてくる。部屋の間取りを考えると、この薄壁の向こう側に蔵前さんが座っているのだ。自意識が過剰かもしれないが、無性に落ち着かない気持ちになる。それでも結局は服を脱いで、僕はバスタブに立ってシャワーカーテンを閉めた。
水栓をひねってお湯を出し、頭から浴びる。冬の空気に冷えて固まった身体が、心地よい熱さににほどけて溶けていくようだった。備え付けの液体石鹸を手のひらに出した僕は、いつもより念入りに、全身をくまなく泡立てて洗った。
僕はこのあと、蔵前さんと同じベッドで身を寄せ合って眠るのだ。別に何があるというわけではない、ただ蔵前さんを不快にさせたくないだけだった。身体の隅から隅までを丁寧に洗った僕は、ドライヤーも丁寧にかけて皮毛を乾かした。
「お風呂、お先に頂きました」
持参した部屋着に身を包んだ僕は、蔵前さんの横顔に声をかける。
僕が入浴している間に外したのか、丸められたネクタイがパソコンの傍らに置かれていた。蔵前さんは、キーボードを叩く指を止めてこちらを向いた。
「……もうそんなに経ったか」
「すみません、手を止めてしまって」
「いや、気にせんでいい。キリのいいところまでは終わったさ」
蔵前さんは椅子に座ったまま腕を上げ、身体を伸ばすように唸った。でっぷりとした腹の膨らみが、シャツの生地に陰影を写している。
「んん……俺も風呂に入るか」
大きな鼻息を吐いたあと、蔵前さんはパソコンの電源を落として立ち上がった。
狭い空間の中ですれ違うと、一日を過ごしてきた匂いが鼻先をくすぐる。僕は蔵前さんの隣で屈み、冷蔵庫からお茶のボトルと取り出して、ベッドに腰を下ろした。消去法ではあるが、すっかりここが定位置になっている。
湯上がりの乾いた口に冷たいお茶を含んで涼む。すると、眼前の蔵前さんは靴を脱ぎ、その場でシャツのボタンを外し始めた。蔵前さんはこちらに背中は向けているものの、デスクの鏡にその前面がくっきりと映し出されていた。あまりにも当たり前にそうするものだから、僕の思考からは驚きというものがすっぽり抜け落ちてしまっていた。
脱衣していくその様子に、僕の視線は吸い寄せられる。蔵前さんは特に気にする素振りもなく、ボタンをすべて外したシャツを脱ぎ、椅子の背もたれにかけた。シャツの下に着ていたのは、薄手の白いTシャツだった。袖の空間はむっちりとした太い腕で満たされて、裾はたっぷりと肉の付いた腹の膨らみで持ち上がっていた。蔵前さんが身体を動かすたびに、収まりきらない下腹──胸元から続く白い被毛は柔らかそうだった──が揺れていた。
蔵前さんはそれから、太いスラックスを締めているベルトに手をかけた。バックルがかちゃりと鳴り、硬質な音が狭い部屋に響く。腰回りの締め付けを失ったスラックスはすとんと落ちそうになり、背面に作られている尻尾穴で留まっていた。
蔵前さんは腹を突き出しながら腕を後ろに回し、尻尾穴を留めているボタンを外した。最後の[[rb:箍 > たが]]が外されたスラックスは、重力に従って足首まで落ちた。蔵前さんが下に穿いているのは紺色のトランクスだった。長く使っているものなのか、どこか色褪せていて、くたびれた感じが否めなかった。どっしりとした尻と太い脚のせいで、トランクスのわりに身体のラインをよく拾っていた。蔵前さんは片足ずつ持ち上げて、スラックスを完全に脱いだ。
それから、こちらに尻を突き出してかがみ込み、床に残るスラックスを拾った。インナーの白いTシャツと、紺色のトランクス、それに黒いビジネスソックス。家に帰ったときの蔵前さんはこんな格好になるのだろうか、意識の片隅でそんなことが思い浮かんだ。
蔵前さんはその状態で自分の荷物を漁り、恐らく替えの下着と寝間着であろうものを片手に持つと、ユニットバスに消えていった。
「……え?」
思わず、声にもならない声が漏れてしまった。
今しがた目に映っていた光景が、脳裏に焼き付いてしまって離れなかった。僕が気にしすぎていただけで、同性ならそこまで気を遣わないのが普通なのだろうか。
いや、そんなことはない。さすがに無頓着がすぎるだろう。
無理にでも状況を呑み込もうとしていた僕を、冷静な自分がたしなめる。だが、僕に対して気を許してくれているというのであれば、嬉しさもある。脈絡のない考えがぽつぽつと湧き上がっては消えていく。
ただ、渦巻く思考と意識の中心に居座っているのは蔵前さんの下着姿だった。普段のきっちりとしたスーツ姿とはまったく違う、隙だらけの格好。考えるほどに身体が火照り、顔がかっと熱くなって、脳裏に響く鼓動の音が大きくなる。
追い打ちをかけるように、壁の向こう側からはシャワーの水音が聞こえてきた。今、この向こう側には、布の一枚すら身に付けていない蔵前さんがいるのだ。下着姿を目にしてしまったせいで、その光景を生々しく想像しそうになる自分を理性で押し留める。
だが、僕の中で渦を巻いている欲望が、それを妨げるように下腹部に熱を帯びさせる。足を閉じて頭を横に振り、するべきではない妄想を追い払うように、僕はボトルに残るお茶を一気に飲み干した。
地に足が付いておらず、落ち着かない気分がずっと続いている。意味もなく立ち上がってみたりベッドの上で転がってみたりしているうちに、シャワーの音が止んだ。
ほどなくして、首にタオルをかけた蔵前さんが部屋に戻ってきた。被毛にはまだ湿り気を残しているのか、顔の毛並みがいつもよりしっとりとして見える。
「あれ? 蔵前さん、着替えないんですか?」
蔵前さんは、入浴後だというのにもかかわらず、昼間と同じような格好をしたままだった。「……寝るだけなら下着でいいだろうと思っていたんだが」
半ば独り言のように、蔵前さんはそう漏らした。
「備え付けの部屋着、僕は使わないので蔵前さんが──」
「俺の身体だとサイズが合わん」
「あ……そ、そう……なんですね……」
失言だったな、と気まずくなりながら僕は口を噤んだ。すべての発端が部屋の予約ミスに繋がっているので、迂闊なことは口にできない。
蔵前さんは椅子に座ると、冷蔵庫から水のボトルを取り出して飲み始めた。身体を動かすと、備え付けの石鹸の香りがふわりと漂ってきて鼻先をくすぐった。今は、僕からも同じ匂いがしているのだろう。
当たり前なのだが不思議に思う。口元が緩みそうになって、ごまかすようにお茶を飲んだ。
* * *
時間は少し早かったが、他に何かすることがあるわけでもなく、僕と蔵前さんは自然と眠る方向で動いていた。
寝る準備を整えた僕は、ベッドに上がり、蔵前さんが横になるスペースを確保するように壁側へと詰めた。時計や部屋の電灯のスイッチなどが埋め込まれているヘッドボードにもたれかかる。
蔵前さんがマットレスに手を置いて膝を乗せて、四つん這いのような体勢でベッドに上がってきた。でっぷりとした腹が垂れて、シャツにその膨らみが現れる。ずんぐりとした下半身を包むスラックスには、下に穿いているであろうトランクスのラインが浮き上がっていた。
恰幅の良い巨躯が眼前に迫ってくるとともに、石鹸の香りが鼻先をくすぐる。いつもとは違う格好、匂い、シーツの擦れる音、マットレスの揺れ。五感のすべてが蔵前さんの存在を受け取って、緊張に胸がきゅっと締め付けられる。
僕と蔵前さんは、ベッドの背にもたれかかって、足を伸ばして並んで座った。
「電気、消してもいいか?」
蔵前さんがこちらに顔を向けて、そう訊いてきた。
肩はとっくに触れ合っていて、体温が布地越しに伝わってくる。
僕が頷いて返すと、蔵前さんはヘッドボードのスイッチをぱちりと押した。視界が闇に包まれた。暗闇の中にいると、視覚以外の感覚が鋭敏になるような気がした。すぐ隣にいる蔵前さんの息遣いや、それに合わせて微かに動いている身体の様子を感じ取ることができた。
蔵前さんは、枕に頭を預けて仰向けになったようだ。僕も同じように身体を倒す。仰向けに眠ると、腕はぴったりと沿うように触れていて、そのがっしりとした感触が生々しく伝わってくる。互いの指先が触れて、僕はびくりと手を引っ込めた。
その動きが伝わったのだろう、蔵前さんは僕の方に顔を向けて口を開いた。
「……眠れそうか?」
低い声が耳元で響き、腰のあたりがむずむずとする。それを悟られてしまわないように脚に力をこめて、僕はこう返す。
「……大丈夫だと思います。たぶん」
蔵前さんはきっと、この狭さで眠れるかどうかを訊いているのだろう。少なくとも、隣で寝ている部下が、自身に対して抱いている感情など露ほども知らないはずだ。
そう考えると鼻の奥がつんとなり、僕は顔を窓の方に向けた。カーテンの隙間からは、街灯の光が薄く入り込んでいるのが見えた。
「眠れないようなら遠慮せず言ってくれ。俺が椅子で寝る」
僕の後頭部に向かって、蔵前さんはそう言い、続ける。
「明日の主役はお前だからな、俺は多少寝不足でも構わん」
さすがに申し訳ないと思い、僕は蔵前さんの方へ視線を戻した。それはほとんど反射的に動いたもので、僕の口は同じように無意識に言葉を紡いだ。
「ぼ、僕はこのままで大丈夫です、蔵前さんと一緒に寝たいです」
「……一緒に寝たい?」
珍しく困惑したような声色で蔵前さんがそう言い、僕は自分が何を言ったのか、遅れて理解した。冷や汗が寝間着の下でどっと噴き出し、被毛が湿るのを感じる。焦る気持ちのままに、僕は訂正の言葉を矢継ぎ早に口にする。
「い、いえっ! 今のは言い間違いでっ、一緒でも大丈夫ですと言いたくて……!」
「ふ、変わったやつだな……お前は」
柔らかな声で、蔵前さんは小さく笑いながらそう言った。
時間が経つにつれて闇に目が慣れてきた僕は、いつもは険しい顔が緩んでいるのもはっきりと見えていた。密着している状態でそんな顔を見せられて、僕は胸が高鳴るのを抑えられなかった。
「それじゃあ、明日は頼んだぞ」
蔵前さんは僕の緊張などまるで伝わっていないようにそう言うと、深く息を吐いた。
横目でその顔をそっと窺うと、蔵前さんは目を瞑っていて、もう寝る体勢になっていた。僕もそれ以上何かを言えば墓穴を掘ってしまいそうで、口を噤んだ。耳元に聞こえる蔵前さんの息遣いに鼓動が早くなりながら、僕も目を瞑った。
電灯を消してからどれくらいの時間が経っただろうか。
ヘッドボードに埋め込まれているデジタル時計は、闇に紛れて数字が読み取れなかった。目を瞑ってしばらくじっとしてみても、眠気は一向に訪れなかった。薄目を開き、薄闇の中で微かに白ばんでいる天井を見つめる。カーテンには街灯の光が透けて、縁を通り抜けた光が帯のように伸びている。
眠れない理由は一つしか考えられなかった。隣から感じる蔵前さんの体温や微かな身動き、息遣いなどが僕の心をひどく乱していた。掛け布団の腹のあたりは、蔵前さんの寝息に合わせて膨らんでいる。もう寝てますか、と聞くのは憚られるが、もう眠りに就いているように見えた。
この状況でよく安眠できるなと思う一方で、それが普通なのかもしれないとも思った。少なくとも、上司──それも同性──に対して恋慕の情を募らせている僕を普通と呼ぶのは難しい。しかも、その相手と──アクシデントとはいえ──同衾しているのは更に常識の枠から外れているだろう。平静を装っていられるだけ、よくやっているものだと思いたい。
ホテルの部屋に入ったときからずっと、緊張と興奮が体内を駆け回っていて、意識は休むことを忘れてしまったようだった。一方で、僕の耳には蔵前さんの寝息が鳴り続けていた。それは意外にも静か──もっと豪快ないびきをかくイメージだった──で、蔵前さんは寝返りを打つこともなく穏やかな睡眠を取っている。
まあ当たり前か、と僕は内心で乾いた笑い声を上げる。蔵前さんは僕のことなどどうとも思っていないのだろう。贅沢を言えば、気安く話せる部下くらいには思ってくれていれば嬉しいのだが。どちらにしても、僕が蔵前さんに募らせている想いが叶うことはないだろう。
別に、初めから叶う想いだとは思っていなかった。憧れの上司ということで自分を納得させて、傍で仕事ができればそれでよかった。だが、なまじ近くで──仕事以外の時間を共有してしまったせいで、叶わないという事実が僕を強く苛んできた。
何も気にせず眠りに就いている蔵前さんを見ると、現実が僕の首元をゆっくりと締め上げてくるような苦しさに襲われる。考えれば考えるほどに、胸底には暗く重たい澱が溜まっていくようだった。
僕は頭を動かし、薄闇に横たわる蔵前さんの寝顔をそっと窺った。目を閉じたその顔は、いつもの厳しさが和らいでいる。寝息に合わせて微かに動く鼻先は、どこか無防備な感じがした。もうこんな状況は二度と訪れないだろう。
どうせ叶わないのなら、寝ている間に口元を重ねるくらいは──ちらと頭に浮かんだ邪な思いを、僕は理性と道徳心で振り払った。露呈して軽蔑されるリスクはもちろんとして、たとえそれが秘密のまま留まったとしても、罪悪感を抱えたまま蔵前さんの隣にいることはできないような気がした。
ままならない想いは、喉奥からせり上がってくるような嗚咽として漏れた。
それを抑えてごまかすように、僕は口元を手で包んで鼻をすする。
「……好きです」
その声は、ほとんど無意識に口からこぼれていた。
囁くように、消え入るように、闇に紡がれた言葉。
「蔵前さん……大好きです」
本来であれば口にできない想いを、噛み締めるように口にする。
二度と訪れないであろう出来事を、胸に刻み込めるように気持ちを込めて。
躍る心と、こうすることしかできない切なさが糸のように絡み合って、僕の視界は滲んだ。声を潜めて、両の拳を硬く握りしめて、僕は涙を堪えるのに全力を注いだ。だが、その体勢は薄闇に増えた低い声で瞬く間に崩れた。
「……そうか」
その声が、眼前にいる蔵前さんから発せられたと気が付くまで、何秒かの時間を要した。事態を把握した僕は全身が凍り付いたように動かなくなり、芯からすっと熱が引いていくのがわかった。
蔵前さんはそっと瞼を上げると、僕の方へ顔を向けた。口吻がぶつかり、互いの湿った鼻先が触れるのを感じた。だが、今はそれを気にしている余裕はなかった。
「今の言葉は本気か?」
腹の底を震わせるような太い声で蔵前さんはそう言った。
薄闇の中で僕を見据えるその瞳は、寝ぼけている様子などどこにもなく、僕が口にした想いを聞き漏らしていないであろうことが確かにわかった。
逃げ場はなかった。僕は観念して、目を伏せながら口を開く。
「ほ……本気、です」
僕の声は、ほとんど泣いているようなか細いものだった。それでも、自分の思いを否定することはできなくて、先ほどの言葉を肯定した。
すると、蔵前さんは深く息を吐いて上体を起こした。それはそうだろう、自分のことを[[rb:そ > ﹅]][[rb:う > ﹅]][[rb:い > ﹅]][[rb:う > ﹅]][[rb:目 > ﹅]][[rb:で > ﹅]][[rb:見 > ﹅]][[rb:て > ﹅]][[rb:い > ﹅]][[rb:る > ﹅]]相手と同じベッドに寝たいはずがないのだから。
それなら、元凶である自分が机に突っ伏して寝る。そう言おうと思ったのだが、続く蔵前さんの行動に僕は何も言えなくなってしまった。
蔵前さんは掛け布団をめくると、僕の身体を跨ぐように膝立ちになってから、押し倒すように覆い被さってきた。マットレスが揺れて軋む音が電灯の消えた部屋に響く。
ごつごつとしている蔵前さんの手は、僕の顔を挟むように置かれていた。僕の視界は、僕を見下ろす蔵前さんの顔でほとんどが埋まっている。でっぷりとした腹が下に垂れて、部屋着越しに触れ合って柔らかさと熱を感じた。
何が起きているのか理解できないまま、僕の鼓動は際限なく大きくなっていく。見つめ合っていることに心が耐えられず、僕は視線を横に逸らした。すると、蔵前さんは片手を僕の頭の下に差し込んでそっと抱いた。その動きで、僕の視線は蔵前さんの顔へと戻される。
いつもとあまり変わらない険しい顔付きは、今の状況に似つかわしくないもので、それが僕の混乱を増した。そんな僕を置いたまま、蔵前さんは囁きかけるように僕に問いかける。
「さっきの言葉は……本気なんだな?」
「ほっ、本気です……僕は、く、蔵前さんがっ……好き──」
涙交じりの声で紡がれる言葉は、途中で遮られた。
「ん、ぅ……っ⁉︎」
蔵前さんの口元が、僕の口元を塞いでいた。
それを理解するのとほとんど同時に、僕の口内に温かなものが入ってくるのを感じた。蔵前さんの厚ぼったい舌が僕の内側を充たしていく。鼻息が頬の毛を撫でて通り過ぎていき、僕の後頭部は蔵前さんの手のひらに押し付けられた。口内を満たす蔵前さんの舌は、遠慮なく動いて中を撫で回してくる。
僕の身体から力が抜けていくのを蔵前さんも感じ取ったのか、その動きはどんどんと激しいものとなっていった。こちらを征服してくるように、蔵前さんは口元を押し付けてきて、僕の顔が離れないようにがっちりと押さえ付けてきた。
僕は事態を飲み込むことができないまま、されるがままになっていた。
薄闇に包まれた部屋の中を、荒くなっていく互いの吐息と、湿り気のある音が漂っていく。夢でも見ているのだろうかという考えが脳裏をよぎったが、口に感じる湿り気や熱や歯磨き粉の味も、後頭部に感じる蔵前さんの手のごつごつとした感触も、着ているものとシーツの衣擦れの音も、全てが確かな質感を伴っていた。
これは紛れもない現実で、僕はいま、想いを募らせていた上司と口付けを交わしていた。
蔵前さんは息が続く限りに僕の口を塞いで、自身の熱を僕に刻み込むかのように舌を隅々まで這わせた。荒くなっていく互いの鼻息が頂へ達したころ、僕たちは自然と口を離した。
蔵前さんは呼吸を整えるように肩を上下させていた。空気を吸い込むたびに肉付きの良い腹が膨れて、僕の腹部に圧迫感を与えてきた。
僕たちは視線を外すことができずに、荒い吐息をしながら見つめ合っていた。
「駒形──」
蔵前さんは僕の名前を口にすると、僕の顔の脇に肘を置き、僕に覆い被さっている身体を下ろしてきた。
肉がたっぷりとついている大柄な身体、その重みが僕の身体にかけられていく。綿のたっぷりと詰まったクッションのように、張りのある柔らかさを感じる。だが、その中に硬く、一際熱い部分を感じ取ることができた。それは僕の股座に押し付けられ、何かを伝えるようにぴくりと微かに動いた。
「……抱いてもいいか、もう辛抱できん」
蔵前さんは僕の耳元でそう囁いた。鼓膜を震わせる低い音が意識に染み渡り、腰のあたりが浮くような、不思議な感覚を覚えた。何かを考えるよりも先に、僕はこくりと控えめな頷きを返していた。僕の下腹部に押し付けられている蔵前さんのものは、それに応えるように硬さを増していた。
蔵前さんは再び僕に口付けをしてきた。今度は僕も、僕の中に入ってくる蔵前さんの舌を受け入れるように舌を動かした。絡み合う互いの熱に、蔵前さんは少しだけ目を見開いたが、どこか嬉しそうに鼻息を漏らした。
蔵前さんは枕元から片手を離すと、僕の身体の下、背中の方へ手元を伸ばした。背中を撫でられ、尻尾を弄ばれ、その手は僕の尻のあたりに触れた。
「んっ……」
寝間着のズボン越しに、蔵前さんは僕の尻をゆっくりと撫で回してきた。その手つきはひどく淫猥なもので、喉奥から興奮にまみれた細い声が漏れてしまう。深い口付けを交わしながら、蔵前さんは僕の尻を手のひらでさすり、優しく掴んで揉みしだいてきた。
そして、無意識か本能的なものか、蔵前さんはたっぷりと肉のついた腰をゆさゆさと振り、硬くなっている下腹部を僕の股座に擦り付けてきた。僕が蔵前さんの舌を吸うとさらに気持ちが高まるのか、その動きはどんどんと激しいものへと変容していく。
あの蔵前さんが、僕に対して欲望をぶつけてくれている。そう考えると、僕の興奮もどんどんと胸の内で膨らんでいった。それは自身の形にも表れ、下着の布地を突き上げて膨らみを作る。行く宛が見つからない感情のままに、僕は蔵前さんの背中に両手を回して強く抱きしめた。
口元を離し、蔵前さんの首筋に鼻先を埋める。まだ残っている石鹸の匂いと、その奥に蔵前さん自身の匂いを感じた。
蔵前さんは、僕のズボンと下着の尻尾穴を留めているボタンを外し、有無を言わせずにまとめて下ろした。芯の入った僕のものは、ズボンと下着のゴムに押さえつけられたあと、弾けて勢いよく跳ねた。僕は下に履いているものを完全に脱がされた。恥ずかしさはあるものの、目の前の状況でそれを気にする余裕は残されていなかった。下半身が部屋の空気に晒されて、ひんやりとする。
「いきなりは厳しいだろう。まずは指で慣らすぞ?」
蔵前さんはそう言うと、僕の尻を一度わし摑みにしてから離した。
「……身体を起こせ」
僕は蔵前さんに言われるがままに身体を起こし、目の前で座った。別に指示されたわけではないが、自然と正座の姿勢を取っていた。すると、蔵前さんは僕の顔に手を伸ばして頬に右手を添えた。それから──何の前振りもなく──僕の口に指を入れてきた。
「んっ……ぐ……っ⁉︎」
ずんぐりと太い指が口吻の内側を満たし、僕は困惑しながらもそれを咥える。歯を立ててしまわないように口蓋を上げると、自然と中の湿り気が増してくるように感じた。
「しっかり濡らすんだぞ? 今からこれがお前の中に入るんだからな」
そう言う蔵前さんの表情には、どこか獰猛な目付きが浮かんでいて、口の端は歪んでいた。
僕はもう、完全に蔵前さんのされるがままになっていた。覆い被さられたときからすでに、僕の心は蔵前さんに完全に服従しているのだと思った。
僕はこちらに伸ばされている蔵前さんの手首を両手でそっと握り、たっぷりと指を舐め回した。吸うような水音が小さく響き、その奥からは間隔の早い呼吸音が聞こえてきた。指を咥えながら蔵前さんの顔に視線をやると、目を細めて、口を半開きにしている様子が見えた。
少しはみ出ている舌先は、口元をなめずるように動いている。眼前にいるのは厳格で真面目な上司ではなく、一匹の雄となった蔵前さんだった。
視線を下ろすと、あぐらをかいて座っているスラックスの股座が、しっかりと盛り上がって膨らみを作っている。蔵前さんもこの行為に滾っているのだ。それを知って、正座をしている両脚の間で押さえつけられている僕自身がびくりと大きく跳ねるのを感じた。
蔵前さんは、たっぷりと舐められた指を僕の口から引き抜いた。それから、僕は仰向けに寝かされて両脚を上げさせられた。乳児がおむつを替えられるような格好は、こんな状況の中でもさすがに恥ずかしい。
蔵前さんは添い寝をするように横になると、露わになった僕の尻に手を伸ばし、今しがた僕が咥えていた指を割れ目に這わせた。普段は決して触れることのないそこに与えられる刺激が、ぞくぞくと背筋を上ってくる。割れ目の肉を穿つように蔵前さんは指を進めて、僕のそこに指先を触れさせた。不安と期待の入り混じった感情に、僕は思わず息を呑み、そこはきゅっと締まった。
「駒形、力を抜け。まずは指一本からだ」
蔵前さんはそう言ってから、強引に口元を重ねてきた。僕の口に差し込まれた蔵前さんの厚ぼったい舌は、荒々しく動いて内側を撫で回してくる。その刺激のせいか、僕の意識や身体からは芯といったものが抜けて、僕の後ろ側は緩んだ。
それを察したのか、蔵前さんの指に力が込められるのを感じた。何かが擦れて、身体の内側に熱いものが入り込んできた。蔵前さんは指を僕の奥までずんずんと進めて、ついには根元まで僕の中に収めた。
「んぁっ……」
異物感に喉奥から声が漏れる。だが、痛みはなかった。それは、たっぷりと湿らせておいたおかげかもしれないし、あるいは──
「なんだ、すんなり入るじゃないか。普段から弄ってるのか?」
蔵前さんは口元を離してそんなことを訊いてきた。僕は曖昧に首を振って、その問いかけをかわした。だが、蔵前さんはその答えに満足しなかったようで、僕の下半身は更なる異物感に貫かれた。
「あ──ぁっ」
掠れた声が出るのと同時に、二本目の指が僕の後ろに呑み込まれたことを察する。蔵前さんは僕の中で指を曲げたり回したりした。心の準備ができていない状態で、内側を掻き回される刺激が僕の感覚を覆っていく。視界が明滅するように感じて、僕はぎゅっと目を瞑った。
「二本目も簡単に入ったぞ? どういうことだろうな?」
闇に包まれた視界の中で、腹の底に響く低い声が囁きかけてくる。
倍になった異物感と内側を擦られる刺激は、徐々に快楽へと変貌していた。求めるように僕の後ろ側は締め付けを強くして、蔵前さんの指を包み込む。それに応えるように、蔵前さんは指を曲げて、内側のある箇所をぎゅっと押し込んできた。下腹部がじんわりと熱を帯び、痺れるような刺激が快感となって意識を満たしていく。
それから、蔵前さんは有無を言わさず三本目の指を僕に挿入した。
「あっ──う、うぁ……く、蔵前、さんっ……」
三本ともなるとさすがに圧迫感がきつく、僕は縋るように蔵前さんの名前を呼んだ。滲む視界に映る蔵前さんの顔、その視線には、完全に疑いの色が浮かんでいた。
「……本当に、弄ってないんだな?」
静かに、だが確かに問いただそうとする物言いに、僕は観念して口を開いた。
「す、すみません……その、本当は……い、弄ってます」
後ろに存在し続けている圧迫感と、嘘をついていた後ろめたさから、僕の声は震えて掠れていた。ひどく気まずい気持ちになり、僕は思わず蔵前さんの顔から視線を外した。
「……とんだ変態だな、駒形は」
蔵前さんは、僕に向かって吐き捨てるようにそう言った。その言葉に身体がびくりと震え、外した視線は再び蔵前さんに向く。蔵前さんは目を細めて、蔑み見下すような視線を僕にぶつけていた。だが一方で、片方の口の端は何かを楽しむように歪んでいた。
「俺は真面目な駒形を買っていたんだが、こんなやつだったとはな」
蔵前さんは落胆したようにそう言うと、更に身を寄せてきた。
腰の辺りに硬い感触を覚えて、それが蔵前さんのものであると気付く。蔵前さんは腰を振るように動かして、滾っている熱いものを僕に擦り付けてきた。それに併せるように、僕の中にある蔵前さんの指も動いた。
「う、ぁ……蔵前さんっ……す、すみまっ、すみません……っ!」
勢いよく抜き差しされる指に、僕は息も絶え絶えになりながら謝った。それでもなお僕に向けられる蔑みの視線に、心が冷えていく。その一方で、胸の底から何か暗い興奮のようなものが湧き上がってくるのも感じた。そういう性向が自分の中にあることを、僕は今、初めて知った。
「……もう十分だな」
蔵前さんはそう言い、僕の後ろから指が引き抜かれる。解されて柔らかくなったそこは熱を持っており、部屋の空気がやけに冷たく感じた。
蔵前さんは身体を起こすと、スラックスを下ろした。どっしりとした下半身を覆うトランクス、その股はテントを張っており、中身の形をくっきりと表していた。
それから、蔵前さんは膝立ちになった状態でトランクスを下ろした。ウエストのゴムが落ち、豊かに茂った被毛が現れ、その奥にある蔵前さん自身が姿を見せる。芯が入っているそれは、ゴムに押さえ付けられて下を向き、それから放たれると勢いよく飛び跳ねた。体格に似合うずんぐりとした太短いものがぶるんと揺れて、その先端はわずかに上を向いた。半分ほど剥けていて、高く張っている部分の輪郭が皮越しに浮かんで見えた。垂れ下がる袋はずっしりと重そうで、脚の動きに引っ張られるように揺れていた。
蔵前さんは、どこか急くような動きでスラックスとトランクスを脱ぎ捨てた。マットレスの端に放られた衣類は、そのまま床へずり落ちる。上に着ていたシャツと黒い靴下はそのままで、蔵前さんは仰向けの僕の足元で膝立ちになった。
その鼻息は荒く、蔑みの色が混ざった獰猛な視線が僕を捉えていた。だらしなく開いた口とそこから垂れる舌は、欲望に染まった顔つきそのものだった。シャツの裾を持ち上げるように上を向いている蔵前さんのものは、呼吸に合わせて微かに脈動していた。
蔵前さんのそんな様子を眼前にして、僕はどうしようもなく気分が高揚していた。湧き上がる情動のままにめちゃくちゃにして欲しいと思った。
「蔵前さん……」
僕は呟くように名前を呼び、招くように両手を突き出す。それに誘われるように、蔵前さんは僕の両脚を力強く掴んだ。それから、蔵前さんは腰を動かし、屹立している自身を僕の後ろ側にあてがった。十分に解された敏感なそこは、蔵前さんのものの熱を感じ取り、僕に伝えてくる。その硬さも質量も、これから僕はそれを受け入れるのだと思うと、鼓動が早くなる。僕はこれから、想っていた上司に抱かれるのだと、あらためて現実を受け止める。
「駒形……っ」
蔵前さんが僕の名を呼び、腰に力が込められるのがわかった。上体がゆっくりと倒れ込んできて、同時にずしんとした重みを感じる。
僕は、糸のように細く長く息を吐き出す。身体を巡っていた力がゆっくりと抜けていき、僕の後ろ側は蔵前さんのものを受け入れるように締め付けを緩めていった。僕の下半身に蔵前さんの体重がかかり、熱を帯びて滾っているそれが割れ目の肉に押し付けられる。
圧迫感を感じたのは一瞬で、蔵前さんのものが僕の内側に入ってくるのはすぐだった。つぷ、と一線を越える感覚が伝わってきた直後、身体の中身が押し除けられて、四方八方に移動してしまうような衝撃を感じた。それから、指とは比べ物にならない圧迫感と異物感に襲われる。
「っ、ぅ……ぁっ……」
思わず口が開き、声にならない音が奥底から漏れ出た。
目をぎゅっと瞑り、口を大きく開いて、蔵前さんのものを必死に受け入れる。幸いにも痛みはなかった。その間にも、蔵前さんのものは僕の奥深くへどんどん進んできて、やがてその動きは止まった。
薄く目を開いて、下腹部へと視線を向ける。僕の後ろ側と、蔵前さんの股座──被毛が豊かに茂っている部分は完全に触れ合っていた。蔵前さん自身の根元までが、僕の内側に収められていた。
「こ……駒形っ」
蔵前さんは荒く息を吐きながら僕の名前を呼んだ。
目を細めて、眉間の影を濃くして、蕩けそうになるのを堪えているような表情だった。
「すまん……辛抱できん、動くぞ……っ」
僕の足首を握っている蔵前さんの手に力がこもる。それから、蔵前さんは腰を振り始めた。僕の中から熱いものが引き抜かれて、また奥深くまで突かれる。中を擦られる刺激が快感となって全身を巡り、下腹部から腰の辺りがじんわりと熱を帯び始める。
「あっ……く、蔵前、さんっ──蔵前さんっ……!」
胸の底から湧き上がる切なさのような気持ちに流されるまま、僕は縋るように名前を呼ぶ。
腕を突き出して蔵前さんを求めると、蔵前さんは足首から手を離し、僕の方へ上半身を倒れ込ませてきた。互いの鼻先が触れ、雄の獰猛さを備えた双眸が僕の顔を捉える。それから、口吻に噛み付かれるような荒々しい口付けをされた。有無を言わせず舌が挿入されて、その熱が僕の内側をくまなく這っていく。不規則な荒い鼻息が頬の毛を撫でて、少しだけくすぐったい。僕から舌を絡ませると、蔵前さんはまるで喜ぶように腰の動きを激しくした。
「んっ、ふぅっ……んんっ……!」
頭の中に響く水音と、下腹部から響いてくる湿った音。それに互いの吐息が混ざり、ホテルの部屋は淫らな音で充たされていた。
薄闇の中で、僕たちは快楽を貪り合い、眼前の行為に耽った。蔵前さんは僕の顔の横に両手を置いて、僕が動けないようにがっちりと頭を押さえつけた。快感に身を捩らせることもできず、僕はただひたすらに、蔵前さんの情動を受け止めた。
「はっ、駒形っ、好きだ……駒形っ」
重なっていた口元が離れ、それでも鼻先は触れたままの距離で、蔵前さんは掠れた低い声でそう言った。
「蔵前、さんっ……」
視界を埋めていた蔵前さんの顔が、水彩画のように滲んでぼやけていく。熱いものが眦から垂れて、シーツを濡らすのを感じた。
「す、好きですっ……僕もっ……蔵前さん、ずっと、ずっと好きでした……っ」
まるで子供が泣きじゃくるように、僕は何度も想いを口にした。
顔の横に置かれている蔵前さんの手に、自分の手を添える。すると、蔵前さんは指を絡めて固く握りしめてくれた。
「俺で……いいのか、俺なんかで」
「僕はっ、蔵前さんが好き……です」
「変わったやつだな……お前は」
ふっと鼻息を漏らし、眦を下げて蔵前さんは言った。初めて見る柔らかな表情に、僕の心は駆け回るように跳ねて、じっとしていられない気持ちになった。
今度は僕から、甘えるように口付けを交わした。蔵前さんは少しだけ驚いた表情──それも初めて見た気がする──を浮かべて、それを受け止めてくれた。
蔵前さんの口の中は温かく、アメニティの歯磨き粉の味がした。絡み合う互いの舌が溶け合って、僕たちの存在が一つになるように感じた。そして、蔵前さんの腰の動きは少しずつ激しさを増していった。湿り気のあるものを叩き付けるような音が響き、マットレスごと僕の身体が揺れる。内側を擦られる刺激が全身に染み渡り、気が付けば僕のものはこれ以上ないほどに張り詰めていた。
蔵前さんもそれに気が付いたのか、片手を離して僕のそこに触れてきた。ごつごつとした厚い手に包まれた僕自身は、蔵前さんにゆっくりと扱かれる。口を吸われながら後ろを突かれている僕は、それだけでも耐えられる快楽の限界を越えそうだったのだが、更に下腹部への刺激が加わった。
「あ……う、うぁ……んっ──!」
喉奥から漏れる甘い声は、抑えられずに口元から垂れ流される。
与えられる快感を耐え忍ぶ術はなかった。どろりとした熱が腰のまわりを包み、下腹部にむず痒さを感じる。内側で渦巻く何かが迫り上がってきて、堤防のふちぎりぎりまで充されていく。そして、一線を越えるのはすぐのことだった。
僕のものはこれ以上ないほどに硬く張り詰め、そして蔵前さんの手の中で大きく跳ねた。先端から白濁が迸り、僕の腹に白い線を描く。蔵前さんの手の中で何度も跳ねた僕自身は、その度に熱いものを噴き出した。
それに併せて締め付けられる後ろ側で、蔵前さんは快楽に眉間の影を濃くしていた。
「駒形……俺も、そろそろ……いいか?」
僕が落ち着くのを待たずに、蔵前さんはそう言った。僕の内側で、蔵前さんのものが脈打つのを感じる。うずうずと落ち着かない様子で、円を描くように動く腰付きが僕の中をかき回している。
「蔵前さん、その……中に……欲しい、です」
「……いいのか?」
その問いかけに、僕は頷いて口元を重ねた。それがスイッチとなったように、蔵前さんは激しく腰を振り始めた。僕のものを握っていた手を離し、再び指を絡めて手を繋ぐ。
大きく腰を引いて、勢いよく叩きつけられる度に身体は揺れ、喉奥から喘ぎ声が漏れる。その刺激で、萎え始めていた僕のものは再び芯が入りそうだった。荒々しく舌を絡めて口を吸われながら、僕は薄目で蔵前さんの顔を見ていた。一匹の雄として眼前の快楽に夢中になっているその姿は、いつも会社で見ているそれとは全く違うものだった。
喉奥から唸り声のような音を響かせて、蔵前さんは一心不乱に腰を振っていた。
「っ……ん、ぐ……っ──」
蔵前さんは一際大きな声を漏らすと、細めていた目を固く瞑り、口元を離して続ける。
「駒形っ……出すぞ……っ」
静かに、だがはっきりと低い声で、蔵前さんは僕にそう言った。
欲望のままに口を吸われ、今までで一番大きなストロークで腰を打ち付けられる。僕の中にいる蔵前さん自身はその大きさと硬さをどんどん増していき、それに比例するように腰の動きも速くなっていった。
「ん……おっ……ぐっ、おぉ……っ!」
絞り出すような低い声とともに、蔵前さんは渾身といった風に僕の後ろを穿った。
それと同時に、蔵前さんのものが膨らみ、僕の肉壁を押し除けるようにびくりと脈打った。僕の内側で、じんわりと熱いものが広がっていくのを感じる。押し寄せる快感の波を堪えるかのように、蔵前さんは僕の舌を強く吸った。痛いほどに手を握られて、マットレスに押し付けられる。
達したあともしばらく、蔵前さんは腰を緩やかに動かしていた。内側に感じていた圧迫感や異物感といったものが徐々に薄れていき、それで蔵前さん自身が元の形へと戻っていくのを感じた。柔らかくなったそれは締め付けに追い出されて、中に放った白濁とともに抜け出た。
重なっていた口元が離れて、蔵前さんは肩で息をして呼吸を整えた。それから、僕たちは見つめ合い、もう一度深い口付けを交わした。先ほどまでの荒々しいものではなく、穏やかで優しい口付けだった。
絡めていた手を離し、蔵前さんは僕の頭を抱き、僕は蔵前さんの背中に腕を回した。頬を擦り合わせたり、鼻先を触れ合わせたり、舌を絡めたりした。僕たちはしばらくそうして、行為の後の疲労感を癒した。
火照った身体が冷えてくるのと同じように、その勢いも次第に失われていく。蔵前さんは口付けを止めたタイミングで、独りごちるように言葉を漏らした。
「……すまなかった」
「何がですか?」
「その……襲うような形になってしまって……」
蔵前さんはバツが悪そうな表情を浮かべて、本当にすまない、と繰り返して言った。
最中にあれだけ想いを交わしたのに今更だ、と思わず口が緩む。
「……僕は、ええと……むしろこれからもして欲しいというか……」
ほとんど何も考えずに言葉にすると、蔵前さんは細い目を開いて僕の顔をじっと見た。口にしてから恥ずかしさがじわじわと上がってきて、僕は顔の火照りとともに目を逸らした。
「ふ……物好きな部下を持つと苦労するな」
蔵前さんは──僕の大好きな上司は、少し意地悪な笑みを浮かべながらそう言った。
<了>