俺のヒールが人生を変えたそうです②―モテ期の代償が金欠だった件―

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  今の俺の当面の目標は――安定した生活だ。

  なんとも地味な目標かもしれない。

  でも、魔王を倒すだの、海賊王になるだの、そういうスケールのデカいやつは、野心家な連中に任せておけばいい。

  俺がほしいのは、もっとこう……

  地に足ついた平和なスローライフだ。

  獣人ショタっ子たちとまったり暮らして、三食寝床つきの生活ができれば、それでいい。

  俺はそれ以上を望まない(多分)。

  そんな俺――アイアンランクの駆け出し冒険者。

  そして、やたらと強くて無口なプラチナランカーの狼少年、ガウル。

  さらに、ついさっきまで奴隷だったウサ耳少年、アヴィ。

  なんとも珍妙な三人組は今、宿屋の一室に集まっていた――。

  「ま、とりあえず自己紹介だな。俺の名前はユーマ。実家を追い出された哀れなヒーラー、18歳。今はしがない魔法使いってとこ。よろしくな?」

  「……ルプス種のガウル。俺も18」

  「僕はクニクルス種のアヴィです。アヴィってのは、奴隷商が勝手に付けた名前でした。

  それまでは、物心ついた頃からずっと……実験施設のような場所にいて。

  ある日、“もう用済みだ”って言われて、売られて……あとはご主人様とガウルさんが知っての通りです」

  重く、静かに語られたその言葉に、思わず俺は口を開きかけた。

  けれど――

  「あ、年は20歳です。よろしくお願いします」

  「……え?」

  あまりにも自然な口調で、さらりととんでもないことを“ついで”のように言われて、思わず聞き返してしまう。

  「ちょ、ちょっと待って!? はたち!? 俺より年上!? この見た目で!?」

  「はいっ!」

  (どう見ても10歳……いや、それ以下にしか見えない……またしても、合法ショタってやつか……!? いやいや、完全にアウトだろコレ!!)

  「ていうか、君たち獣人って……みんなそうなの?」

  俺がそう尋ねると、アヴィはきょとんとした顔で首を傾げた。

  「……? はい。これが普通だと思ってました。ね、ガウルさん」

  「……知らん」

  ぶっきらぼうに言い捨てたガウルの横顔を見ながら、俺は心の中で叫んでいた。

  (この世界の設定考えたやつ正座して出てこい……! で、握手な!!)

  

  「……ところでさ、ガウル。今はどこに住んでんの?」

  俺が聞くと、ガウルは少しだけ目を伏せた。

  「……決まってない。野宿が多いな」

  「えぇ……? でも君の実力なら、庭付き一戸建てくらい余裕で十棟は建てられるでしょ!?」

  「……かもな。でも、俺は生きるのに必要な分しか持たない。

  残りは──必要としてるやつに渡してる」

  「……は? 誰かに貢いでるってこと?」

  思わずそんなツッコミを入れると、ガウルは小さく呟いた。

  「……俺が育った、孤児院だ」

  孤児院……。

  もしかして――あの森で出会った頃、ガウルはそこで暮らしていたのかもしれない。

  気になる。でも、無理に聞くのは違う気がした。

  きっと、彼にも話せない過去があるんだ。

  だから俺は、ガウルの口から語られるその日まで、待つことにした。

  ふと、横にいるアヴィの顔を見て、聞いてみた。

  「アヴィは? 帰る場所はあるのか?」

  アヴィは目を伏せて、そっと首を振った。

  ……そうだよな。

  アヴィも、ガウルも、帰る場所も家族もいないんだ。ひとりで、ずっと生きてきた。

  ……あのときの、俺と同じだ。

  何もできなかった、隣の部屋のあの子とも──。

  

  「……決めた」

  「ユーマ?」

  ガウルが怪訝そうに俺を見る。

  「俺、家を建てる。みんなが安心して暮らせて、辛いときほど帰りたくなるような、そんな家を。

  ただの宿じゃない、“帰る場所”を作りたい」

  言いながら、俺は二人に手を差し出していた。

  「……だからさ。俺に力を貸してくれ。ヒールしか使えない最弱ヒーラーだけど、俺は、君たちと一緒にいたい」

  アヴィは驚いたように俺の手を見つめて――それから、そっとその手に自分の手を重ねてくれた。

  「……僕はずっと、自分が何者なのかも分からず、ただ虚ろに日々を過ごしていました」

  アヴィはぽつりと呟くように言った。

  けれどその声は、どこか澄んでいて、悲壮感よりも静かな決意があった。

  そして、ふっと微笑む。

  不思議そうに、けれど確かに、俺をまっすぐ見つめながら。

  「でも、ご主人様のヒールを受けた瞬間……本当の僕を取り戻したような気がして。

  気づいたら、全部、思い出していたんです。……不思議ですよね」

  アヴィは、座ったまま身を少し乗り出す。

  俺の手を、両手でしっかりと包み込みながら、まっすぐに言った。

  「今の僕がここにいるのは、ご主人様のおかげです。

  だから今度は、僕が――あなたの力になりたいんです」

  その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。

  たとえ偶然が重なっただけだとしても――

  思わず息を呑むほどの想いが、静かに、そして確かに、心の内に満ちていった。

  ……そして、ガウルも。

  「……異論はない」

  そっけない言葉の奥に滲む温もりが、静かに伝わってきて、思わず笑みがこぼれた。

  俺は二人の手をしっかりと引き寄せて、ぎゅっと握る。

  「よろしくな。二人とも」

  たぶん、俺はまだ弱いままだけど――

  それでも今、最強の仲間と“帰る場所”を作るための、最初の一歩を踏み出した。

  ……そんな気がしたんだ。

  そのとき。

  「……ぐぅ……」

  小さくお腹が鳴る音がして、俺たち三人はぴくっと固まる。

  見れば、アヴィが真っ赤な顔でうつむいていた。

  「……ご、ごめんなさい……っ!」

  「いやいや!謝らなくていいから!?むしろ……!」

  俺はガタッと立ち上がる。

  「まずは家だとか言う前に!腹ごしらえだ!!よし、今日は贅沢して肉食おう!!アヴィ、遠慮すんな!ガウル、財布頼んだ!」

  「なんでだ」

  ──こうして俺たちは、“家”の第一歩よりも早く、“食卓”を囲む仲間になった。

  ありがとう神。

  人生二周目、今度こそ、ちゃんとやり直せそうな気がする……!

  ***

  翌日。

  今ある5万ギニーを使って、ガウルが俺とアヴィの装備を揃えてくれた。

  財布はすっからかんになったけど、

  ボロ雑巾みたいな服を着てたアヴィが、綺麗な服を身につけた瞬間──

  「まるで別人みたいだな……」

  思わずそんな言葉が漏れた。

  もともと整った顔立ちではあったけど、

  洗って整えられた髪に、サイズの合った綺麗な服が加わると──

  その美しさは、まるでベールを剥がされたかのようにあらわになる。

  「……思い出はプライスレス!!」って叫んだ俺を、ガウルがジト目で見てきたが、反省はしている。

  ……たぶん。

  ギルドの広間は、朝から活気に満ちていた。

  報酬の交渉に声を張り上げる者、テーブルに広げた地図を囲んで作戦を練る者、次の依頼を吟味して掲示板を見上げる者たちのざわめきが、天井まで響いている。

  そんな喧騒の中、俺たちもまた掲示板の前に立っていた。

  アヴィの冒険者登録も無事に終えたところだ。

  そんな彼は、新しく支給された冒険者タグを手のひらで何度も眺めながら、どこか誇らしげな顔をしている。

  「……アヴィもいるし、できれば安全なやつの方がいいよな? しばらくは、地道にF難易度の雑用こなすしかないか」

  貼られた依頼書をひと通り見終えた俺は、ため息まじりに呟く。

  「もっと上でも行ける。前線は俺が張る。こいつ……アヴィもそこそこ戦える」

  隣で腕を組んだガウルが、無表情のまま自信たっぷりに言ってのけた。

  「え、アヴィ、お前そんなに?」

  思わず俺が顔を向けると、アヴィは小さく照れたように笑って肩をすくめた。

  「はい。クニクルス種は、もともと群れで狩りをする種族です。施設でもなぜか、そういった訓練を受けさせられていました。

  長く檻の中にいたせいで、感覚は少し鈍っているかもしれませんが」

  ガウルが無言で一枚の依頼書を指先で示した。

  「このへんがいいんじゃないか」

  それは、西方の森に棲みついているというモンスター──ウルトラベアー〈亜種〉の討伐依頼だった。難易度はC。

  この前のドレイクに比べれば格下……のはずなのだが。

  報酬が妙に高めなうえ、依頼書の端に小さく「再掲」と書かれていた。

  それが意味するのは、つまり――すでに挑んだパーティーがいて、討伐に失敗したということだ。

  俺にとっては、どう考えても命がけの相手だ。

  特に今の季節は繁殖期。子育て中の個体は気が立っていて、下手な大型モンスターよりよほど危険だと聞く。

  できれば近づきたくない、できれば一生縁のないままでいたい、そんな地雷臭のする依頼である。

  アヴィはすでに、覚悟を決めたような目で俺を見上げていた。

  ……ショタっ子二人に守られる主人公。情けないにもほどがあるが、こうなったらもう、腹をくくるしかない。

  意を決して、俺はその依頼書を破り、受付の美人なおねえさんに手渡す。

  パチン、とスタンプが押され、依頼は正式に受理された。

  ……まあ、すでに他のパーティーに討伐されてる可能性もあるけど。

  そのときはそのときで、せめて森の平和でも見届けて帰ろう。

  こうして俺たちは、次なる冒険の地へと向かうべく、ギルドをあとにした――。

  ***

  深い森の中を、俺たちは静かに進んでいた。

  鬱蒼とした木々が頭上を覆い、昼間だというのに光が届かない。足元には乾ききらない苔と枯葉が積もり、時折、どこかで不気味な鳥の鳴き声が響くたびに――俺は、いちいちビクッとしていた。

  先頭を歩くガウルは、そんな気配にもまったく動じることなく、まるでこの森に溶け込むように無言で進んでいく。

  その背に続く俺はというと、内心ずっと「やっぱこの依頼ヤバいんじゃ……」とぐるぐる不安に囚われていた。

  そして俺のすぐ後ろには、昨日まで奴隷だったとは思えないほど堂々とした足取りでアヴィが歩いていた。

  むしろ森に入ってからのほうが落ち着いて見える。そんなことを考えていた矢先――

  「安心してください。ご主人様は、僕が守りますから」

  ふいに背中越しに、穏やかな声が降ってきた。

  「……えっ?」

  思わず振り向くと、アヴィはまっすぐな瞳でこちらを見ていた。真顔だ。悪びれた様子なんて一切ない。

  いや待って、それってなんか、乙女ゲーのヒーローみたいなセリフじゃん!?

  顔が熱い。視線そらせない。心臓うるさい。

  やばい……! 俺の中の乙女回路が勝手にスイッチオンされてるッッ!?

  二時間ほど、俺たちはひたすら森の中を――いや、正確にはガウルの背中を追って歩き続けていた。

  ガウルは、まるで獣のような嗅覚と勘を頼りに進んでいく。ときおり木の幹に残された爪痕を指でなぞり、鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。そのたびに、姿勢を低くし、地面のわずかな起伏や足跡に目を凝らす。俺にはまったく分からないが、彼にしか見えない何かを確かに感じ取っているようだった。

  そんなガウルの動きが、ふと止まる。

  緊張が一気に張り詰め、俺も思わず足を止めた。

  「……いる」

  低く絞られた声。その視線の先には、ぽっかりと開いた大きな穴ぐらがあった。

  木の根元にぽつんと口を開けるそれは、まるで森の奥が不気味な口を開けて俺たちを誘っているようにも見える。

  ――明らかに、何かの巣穴だ。

  「あの中にいるのか……?」

  「わからない。このあたりに匂いが充満しすぎている。この近辺にいるのは確かだ」

  「僕がおとりになって、中を確認してきましょうか?」

  「そんなの危険すぎるよ!」

  「俺が行く。ここで待ってろ。アヴィ、ユーマを頼む」

  俺が口を挟むより早く、ガウルはサッと岩を飛び越え、音もなく巣穴へと忍び寄った。姿勢を低くし、慎重に中を覗き込んだかと思えば、そのまま迷いなく暗闇の中へと消えていく。

  アヴィは、いつの間にか両手に短剣を構え、緊張の面持ちで周囲を警戒している。

  俺は全身に冷や汗をにじませながら、ただ息を潜めてその場を見守るしかなかった。

  やがて、巣穴の奥から人影が現れた。ガウルだ。しかし、ひとりではない。肩に小柄な誰かを抱えている。

  子供……?

  いや、ただの子供ではない。

  可愛いモフモフのクマ耳がちょこんとついている。俺じゃなかったら見逃してるね。

  ガウルはその体を岩陰にそっと横たえ、静かに口を開いた。

  「巣穴の中にいた。ウルスス種だ。息はあるが、だいぶ弱っているな」

  「どうして、ウルトラベアーの巣穴に……? まさか……」

  「保存食かもな」

  「……やめて!? それ以上は聞きたくない!!」

  思わず肩をすくめたそのときだった。

  ズ……ッ

  微かな気配に、背筋がゾクリとした。だが、もう遅かった。

  「ユーマッ!!」

  ガウルの怒声と同時、岩陰の死角――俺たちの背後から、黒い影が音もなく迫っていた。

  「なっ……!」

  次の瞬間、俺の視界がぐるりと回る。 ガウルに思いきり突き飛ばされ、地面を転がった。 土と葉の匂いが鼻をつき、頭がついていかないまま、起き上がった俺の目に映ったのは──

  ウルトラベアー。

  それはまるで地そのものが動いたかのような巨体だった。 背後の木々をなぎ倒す勢いで現れたその獣は、鋭い牙を剥き、今まさに俺たちのいた岩陰に、咆哮とともに爪を振り下ろしていた。

  怖い──だが、それだけじゃない。

  目の前のウルトラベアーは、どこか様子がおかしかった。

  左の前脚──そこに深い裂傷があった。

  肉が裂け、血が滲んでいる。おそらく、他の冒険者との戦闘で負った傷だろう。

  ……ならば、なぜ倒せなかった? なぜ、あの巨体がまだ生きている?

  その答えのように、ウルトラベアーは背後の岩陰にいたクマ耳の少年をかばうように立ちはだかっていた。

  巨体を盾にするようにして、誰にも近づかせまいと、威嚇するかのように唸り声をあげている。

  ──いや、それとも、ただ餌を守っているだけなのか?

  思考が揺れる。

  守っているのか、囲っているのか。

  どちらにせよ、それが人を襲う存在であることに変わりはない。

  地面に這いつくばった俺の前で、アヴィが短剣を構えていた。

  唸るウルトラベアー。

  ガウルが静かに剣を抜き、気配を殺して仕留めにかかろうとした――その時だった。

  「……ヤメて……!」

  鋭く、かすれた声が響いた。

  俺の目の前で、クマ耳の少年がウルトラベアーにしがみついていた。

  ふらつく足取りで、それでも全身を使ってその巨体をかばっている。

  震える体で、それでも決して離れようとしない。

  その小さな背中越しに、涙声で、必死に叫ぶ。

  「おとうさん……コロさないで……!

  おとうさん、ワルくない……オレ、たすけてくれた……!」

  がっしりとしたその腕に、小さな両手を伸ばす。

  その姿は――間違いなく、父と子だった。

  俺たちは、誰一人として動けなかった。

  剣を構えたままのガウルでさえ、静かに力を抜いた。

  「……こいつが、父親?」

  俺の声はかすれ、問いというより独り言だった。

  ウルトラベアーは、少年の肩口にそっと鼻面を寄せた。

  それだけで、何も言えなくなってしまった。

  その目が、まぎれもなく――慈しみに満ちていたからだ。

  俺は、おそるおそる立ち上がる。

  アヴィがそっと袖を引いたが、制止の手を振りほどき、ゆっくりとその親子の前へ歩み寄った。

  不思議と、恐怖はなかった。

  「……お父さんの怪我を、手当てするよ」

  少年が、泥と涙でぐしゃぐしゃになった顔をこちらに向ける。

  その瞳に、わずかな希望の光が灯ったのを、俺は見逃さなかった。

  ウルトラベアー……いや、もう彼をそう呼ぶのは違う気がした。

  この子の“大切な家族”を救いたい――ただそれだけだった。

  深く呼吸を整え、俺はその前に膝をつく。

  「ヒール」

  淡い光が、掌から滲み出す。

  温かく、やさしく、大きな体の傷へと染み込んでいく。

  光が、ゆっくりと消えていく。

  俺のヒールが届いたその瞬間、巨大な熊のようなモンスター──ウルトラベアーだった存在が、苦しげに呻き声をあげた。

  「……クー……?」

  低く、けれど確かに人の言葉で発された名を聞いて、クーと呼ばれた少年の体がビクリと震える。

  「……おとう、さん……?」

  クーが、小さな体で飛びつくようにその巨体に抱きついた。

  あの毛並みの下に、確かに父を感じているように。

  「おとうさん、おとうさんっ! コトバ、もどった……っ!」

  涙と泥でぐしゃぐしゃの顔を上げたクーが、精一杯の声で笑っていた。

  父親――今やそうとしか呼びようのないその熊の獣体は、ぎこちなく、けれど確かに息子を抱きしめていた。

  「……生きていてくれて、よかった……クー……」

  その声には、温もりと懐かしさが混ざっていた。

  俺も、アヴィも、ガウルも、誰一人としてその場から動けなかった。

  彼はやがて、ゆっくりとこちらを見た。

  その瞳は人の理を取り戻していて、どこか深く、澄んでいた。

  「……ありがとう。おまえが、クーを……俺たちを助けてくれたんだな」

  「……そんな、俺は……ただ、手当てをしただけで……」

  言葉を濁す俺に、彼は静かに首を振る。

  「俺の名はオロ……。もとは、ウルスス種の獣人だった。だが、魔法省の手で“戦闘兵器”として改造された。……人の姿も声も、すべてを奪われて。 けれど……それでも……クーの匂いだけは、忘れられなかった」

  オロの巨体が、小さく震える。

  「名前も、顔も思い出せなかった。……でも、“守らなきゃいけない”って、本能が叫んでた。 ……あの施設からクーを連れて逃げ出したのも、きっとその本能のせいだったんだと思う。無意識にでも、俺は……こいつを連れて、一緒に外へ出たんだ」

  少しだけ空を仰ぎ、オロはかすれた声で続けた。

  「言葉が戻った今、やっとわかった。……俺が守っていたのは、俺の息子だったんだ」

  クーが顔を上げた。まるで迷子のような瞳で、父を見上げている。

  「じゃあ……おとうさん、あの山の家に、いっしょに、帰れる……?」

  オロはゆっくりと首を振った。優しい眼差しを浮かべたまま。

  「ダメだ。俺はもう、人の世界には戻れない。……今こうして理性を取り戻せても、次はいつ本能に飲まれるかわからない。冒険者にも狙われる。

  俺と一緒にいたら、クーまで危険に巻き込んでしまう」

  少し間を置き、オロはゆっくりとこちらへ顔を向けた。

  「……おまえの名は?」

  その問いに、俺はほんの一瞬だけ戸惑って、でもすぐに答えた。

  「俺の名はユーマです」

  オロは、ふっと目を細めた。

  その視線が、そっと俺の後ろへと移る。

  そこには、警戒しながらも武器を収めたガウルと、静かに佇むアヴィの姿。

  オロはわずかに目を伏せ、鼻先でゆっくりと息を吐く。それは、戦闘態勢を解いた獣が見せる、ごく自然な“信頼”のサインだった。

  「……頼む、ユーマ。

  どうか……クーを……連れて行ってやってほしい。……お願いだ」

  「え、でも……」

  その声に、クーの目が潤む。

  「やだっ!! オレ、いかない! おとうさんといる!! ずっと、いっしょにいるんだ!」

  小さな体で、クーは必死にオロにしがみつく。

  その瞳から涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。

  「クー……」

  オロは、大きな腕でそっとクーを抱きしめた。

  「……俺も、できることなら一緒にいたい。

  でもな、クー……次に俺が暴れてしまったら、おまえを傷つけるかもしれない。それだけは、絶対に嫌なんだ」

  「やだ……やだよ……オレ、ひとりじゃ……」

  「ひとりじゃない。ユーマがいる。あいつは優しい。ちゃんと、おまえを守ってくれる」

  クーは泣きじゃくりながら、何度も首を横に振っていた。必死にしがみつく小さな手の力が、切なすぎて――俺は何も言えなかった。

  オロはそっと、その小さな背を前足で包み込む。

  「……ごめんな。クー」

  低く、愛おしむような声とともに、彼の前足がほんのわずかに動いた。

  その一撃はあまりに優しく、クーの首筋に触れたか触れないかというほどだった。

  「――っ……!」

  クーの身体がふっと弛み、力なくその場に崩れ落ちる。

  寝顔は穏やかで、泣きはらした頬に、一筋の涙の跡が残っていた。

  「眠らせただけだ」

  オロは、こちらを見ずに言った。

  「……俺のわがままだ。でも、あいつを手放すには、こうするしかなかった。……頼む、ユーマ」

  オロは優しくクーの体を鼻先で押し出し、こちらへ託すように、ゆっくりと俺に視線を向けた。

  俺はくったりとしたクーを抱きとめる。

  まだ子供のその身体は、驚くほど軽くて、小さくて、あたたかかった。

  「ちょ、ちょっと待って!? これ責任重大すぎない!?」

  (心の準備なんて、まだ一ミリもできてないんですけど!?)

  オロは静かに、右前脚を差し出した。

  「そこの、ルプス種の少年。俺の右腕を切って持っていけ。……多少は金になる」

  「……それでいいのか?」

  低く問うガウルの声音に、ほんの僅かにためらいが滲む。けれど、その目はまっすぐオロを見据えていた。

  「ああ。一人で生きてくなら、手足なんざ三本あれば十分だ」

  「な……っ、そ、そんなの、ダメだよ!」

  「いいんだ。俺はもう、この姿で生きていく覚悟はできている」

  俺が言葉を失っていると、ガウルが無言で一歩前に出て、静かに刃を抜いた。

  その背中には、迷いも、ためらいも、何ひとつ見えなかった。

  俺はクーをしっかりと胸に抱きながら、オロの巨大な体を見上げる。

  その右前脚が、ゆっくりとこちらへ差し出されている。

  (――もう、決めてるんだろうな)

  どんな言葉をかけたとしても、きっとオロの覚悟は変わらない。

  それは、親としての想いに裏打ちされた、揺るぎのない決断だった。

  だから俺は、ただ黙って頷いた。

  「……せめて、すぐ止血できるように。タイミングだけ教えてください」

  言葉と同時に、右手に魔力を込めた。

  ヒールの光が、いつでも放てるように構える。

  (クーを、預かった。だったら――俺も、覚悟を決めなきゃ)

  オロの目が、一瞬だけ俺を見つめた。

  父の目だった。どこまでも深く、優しく、そして揺るぎなかった。

  「……今だ」

  剣閃が走る。

  同時に、俺の魔力がほとばしった。

  「ヒール……ッ!!」

  淡い光が炸裂し、瞬時に傷口を焼き塞ぐ。

  その光の向こうに、確かな“親の覚悟”があった。

  彼は、この子を託すために、文字通り、自分の一部を差し出したのだ。

  オロはその大きな頭を一度だけ深く下げると、静かに言った。

  「……ありがとう、ユーマ」

  それきり、振り返ることもなく、ゆっくりと背を向けて歩き出す。

  森の奥へ、暗がりの中へ、その巨体がひとつ、またひとつと枝を揺らして遠ざかっていく。

  俺たちは誰も、声をかけなかった。

  ただ静かに、その背中を見送っていた。

  報酬は――0ギニー。

  冒険者としての査定も下がるだろうし、財布の中身もすっからかん。

  でも、俺の腕の中にあるこの命が、

  もう“ただの依頼”じゃないことに、気づいてしまった。

  あたたかい命の重さを胸に感じながら、俺たちは森をあとにする。

  クーの小さな手は眠ったまま俺の服をぎゅっと掴んでいた。ガウルは無言で先を歩き、アヴィも静かにその後を追ってくる。誰も何も言わなかった。言葉にすれば、この気持ちはこぼれてしまいそうだからだ。

  俺はアヴィが抱えている“それ”――オロの右腕を見て、思わず深いため息をついた。

  「……それ、ギルドに持ってったら、“討伐済”ってことになったりしないかな……」

  風にまぎれる声に、アヴィは小さく首を振った。

  「討伐認定には、やはり“首”が必要かと……。でも、この右腕だけでもかなりの価値はありますよ」

  「そっか……首じゃないとダメか……」

  苦笑しながら目を伏せ、静かに息を吐く。

  背中に視線を落とすと、すうすう寝息を立てるクーのぬくもりが伝わってきた。泥と涙にまみれた顔はぐしゃぐしゃだが、しっかりと俺の服を掴んでいるその手は、頼もしく感じられた。

  (大丈夫。ちゃんと守るからな)

  そう思い、背中を少ししゃんとさせる。

  そして、まだ薄暗い森の奥、光の差す出口を目指して歩みを再開した――