【第八話:朱と銀の誓約 後編】R完全版

  (※性的描写あり)

  明け方、まだ日が昇りきらない薄暗い部屋で、夕陽は肌寒さにふるりと身を震わせた。

  昨夜の出来事は、霞がかった夢のように曖昧だったが──。

  ただひとつ、身に巣食う呪縛の一片を朱雀に肩代わりさせてしまったという事実だけが、鋭い棘のように胸に突き刺さっていた。

  「……夕陽様」

  静寂を破った声に、夕陽は微かに肩を震わせた。

  横になったまま視線を向ければ、傍らに銀郎が膝を揃えて座っていた。

  「お体の具合は、いかがですか?」

  「銀郎……もしかして、ずっとそこに?」

  「はい。心配でしたので……」

  その声音に、どこか張り詰めた気配を感じて、夕陽は微苦笑を浮かべる。

  「そうか……心配かけてすまなかったな。私はもう、大丈夫だから。お前もお休み」

  優しくそう告げると、銀郎は一瞬だけ視線を伏せ、それからふと問いかける。

  「……朱雀は、貴方に無理を強いたりしませんでしたか?」

  唐突な言葉に、夕陽は口をつぐみ、やや気まずく視線を逸らす。

  「……え、あ……ああ。たぶん。すまない、正直に言うと、あまり覚えてないんだ」

  ぎこちない返事だったが、それでも銀郎はそれ以上は追及せず、そっと手を伸ばして夕陽の手を握った。

  指先が触れ合った瞬間、涙がぽろりと銀郎の頬を伝って落ちる。

  「夕陽様……愛しています。どうか、助けさせてください。貴方を救いたい……でも、傷つけたくないんです……」

  震える声には、葛藤と苦悩が濃く滲んでいた。

  その目に浮かぶ涙は、己の無力と、愛ゆえの苦しみによるものだった。

  「銀郎……」

  静かに名を呼ぶと、銀郎は伏せたまま、かすかに肩を震わせた。けれど、それでも手だけは強く握ったまま、懇願するように言葉を紡ぐ。

  「……どうか、ご命令を。貴方に触れてもいいという――その許しを、ください」

  必死に抑え込まれた声の奥にある慕情と焦がれる想いに、夕陽はわずかに目を伏せ、そして切なげに微笑んだ。ゆっくりと首を横に振る。

  「いいんだ、銀郎。お前まで、呪いを背負わせるわけにはいかないよ」

  そっと、銀郎の手に自分の手を重ねる。

  「ありがとう。お前のその気持ちだけで……私は十分に救われている。嬉しいよ」

  その言葉に、銀郎はついに声を詰まらせ、夕陽の手の甲に涙を落とした。

  どうして、この人は――こんなにも誰かを守ることにばかり、自分の命を削ろうとするのだろう。

  どうして、この人は――こんなにも痛みに、当たり前のように慣れてしまったのだろう……。

  「……昔から、お前は……泣き虫だな」

  かすれた声でそう呟くと、夕陽は銀郎の頬を伝う涙を、指先でそっと拭った。

  そのままの流れで、まるで幼い日のように、銀郎の頭を優しく撫でる。その手は変わらず、あたたかく、優しかった。

  ――変わらない。

  あの時からずっと、この手に守られてきたというのに。

  どうして自分は、いまだ何も返せないまま、子供のままでいるのだろう。

  「……銀郎……。少しだけ、頼ってもいいか……?」

  夕陽がぽつりと呟くように言ったその声は、どこか力なく、それでも誰かを拒まぬ柔らかさを含んでいた。

  「はい……、なんなりと……」

  「……湯浴みがしたい。風呂の準備を頼めるか……?」

  それは命令にも甘えにも聞こえない、ごく自然な言葉だった。だが銀郎は、夕陽の疲れきった声の温度に、ほんの少しだけ弱さを感じ取っていた。

  「承知しました。すぐにご用意いたします」

  涙を拭い、部屋を後にすると、薪を抱えて裏手の風呂釜へと向かった。

  間もなくして戻ってきた銀郎は、蒸気の立つ浴室へと夕陽を案内しようと、襖の向こうで声をかける。

  「支度が整いました。ご案内いたします」

  「……ありがとう。大丈夫、一人で行ける」

  そう言って起き上がろうとした夕陽だったが、思うように力が入らず、掛け布を押しのける手すらおぼつかない。ようやく足を床につけたものの、次の瞬間、視界がわずかにぐらついた。

  「っ……」

  ふらつく身体を、すかさず銀郎が抱きとめる。思いのほか強く、けれど丁寧な手つきだった。

  「……やはり、付き添います。無理をなさらないでください」

  その声音には、揺るぎない忠誠と、どうしようもなく溢れる情が滲んでいた。

  その指先には決して焦りも昂ぶりもなく、ただ主を労るための誠実なぬくもりだけが宿っている。

  湯殿へ向かう道すがら、銀郎は一言も発さなかった。

  触れる手も、向ける視線も、ひたすらに慎ましく、それでいて決して離れぬように寄り添っていた。

  衣を解く所作にも無駄はなく、どこか神事のような静けさがあった。

  夕陽の片方の肩を脱がせたとき、銀郎の視線が微かに揺れたが、すぐに伏せられる。

  薄布の裾がするりと落ちかけ、下衣をつけていない素肌の腰が、淡く湯気の中に浮かび上がる。

  銀郎の指先が一瞬、わずかに止まりかけた。だが、表情ひとつ動かさず、手元を正す。

  「……力を入れないで下さい。私が支えます」

  夕陽は小さく頷き、銀郎の肩に身を預ける。湯気の満ちる湯殿は静かで、湯が揺れる音と、衣擦れだけがやけに大きく響いた。

  その肌に触れるたび、整った骨の形、熱を帯びた皮膚の感触が指先に残る。己の手がわずかに震えていることに、銀郎は気づいていた。しかし、それを認めるわけにはいかなかった。

  主に仕える者として、ただ静かに湯を汲ぎ、髪を梳く。それだけのことに心が揺れるなど、あってはならない。

  「……どうか、目を閉じてください」

  絞り出すようにそう告げた声音は、自分でも驚くほどに穏やかだった。だが、その実、喉の奥には疼くような葛藤がこびりついている。

  夕陽が目を閉じる。長い睫毛が静かに伏せられたその顔は、まるで眠るように儚く、美しかった。

  けれど次の瞬間、ふいに夕陽がこちらに体を預けてきた。

  ――ああ。

  銀郎は、そのわずかな重みに、喉の奥で息を呑んだ。

  越えてはならぬ一線。そのことは、誰よりも銀郎自身がわかっている。欲など、あってはならない。だが、今この瞬間も、夕陽の命の灯火が脅かされつづけている事に、銀郎は胸を焼いた。

  「……」

  無言のまま、銀郎は夕陽の背をそっと支えた。その手は、礼儀を崩さぬように、しかしどこか必死だった。

  誰よりも尊い人。傷ついて、それでも笑おうとするその姿に、どうしても惹かれずにはいられない。

  「銀郎……」

  湯けむりの向こう、淡い灯りの中で、夕陽様が名を呼ぶ。声はかすかで、震えるほどに弱々しかった。

  「……傍にいてくれて、ありがとう……」

  その一言が、銀郎の心の奥に静かに降り積もっていた理性を、ふっと優しく押し崩した。

  

  ――こんなにも弱った声を、誰にも聞かせたくない。

  自分だけに向けられた甘えなのだと思ったら、胸がしめつけられた。どうしようもないほどに、愛しさが込み上げる。

  ――ああ、この人を、失いたくない……。

  「……はい、私はここにおります。いつまでも、貴方のそばに」

  そっと濡れた髪に触れると、夕陽は驚くことも拒むこともなく、そのまま銀郎に身を委ねた。

  その温もりに触れた瞬間、銀郎の中で何かが、静かに、ほどけていった。

  「……夕陽様。どうか、今だけは……私を傍に置いてください」

  震える指先が、そっと夕陽の頬を撫でた。まるで消えてしまいそうな幻を、この手で確かめるかのように。

  「……拒絶されてもいい、嫌われてもいい、たとえ、明日あなたにすべてを忘れられても、それで貴方の苦痛を取り除く事ができるなら、構いません。今だけは、あなたの痛みを、共に背負わせてください……」

  その低く押し殺した声に、夕陽の瞳から一筋、涙が零れた。

  その涙は、銀郎の覚悟に心を打たれたからだけではない。

  優しすぎるその言葉にすがりたくなっている、自分自身の弱さに気づいてしまったからだ。

  「……銀郎……私は……っ」

  「っ、どうか、泣かないでください……夕陽様」

  銀郎の声もまた、かすかに震えていた。感情が胸の奥から溢れ、言葉がかろうじて形をなしている。

  「私は……嬉しいのです。あの日、貴方に救っていただいた命が、今ここにあることが……。きっと、この瞬間のためだったと……そう思えるのです」

  そして銀郎は、そっと顔を寄せた。

  その唇が、夕陽の唇に静かに重なる。

  そこに欲望はなかった。ただ、懺悔と祈りのような、深い慈しみと痛みの熱があった。

  唇を重ねたまま、銀郎は夕陽を抱き締めた。

  その腕は強くも優しく、ひとときの安らぎを乞うように、しかし何よりも、夕陽を壊さぬようにと祈るようだった。

  夕陽を抱き寄せたまま、銀郎はそっと膝を折る。静かな所作で床に座し、その膝に夕陽を迎え入れた。まるで、大切なものを包むように夕陽の腰に手を添え、そっと引き寄せる。

  身体の重なりはまるで、冷えた魂に寄り添う炎のようで――熱はじんわりと、静かに広がっていった。

  互いの体温が、名もないやさしさを通わせ合う。

  そこにあるのは、慰めでも、赦しでもない。

  ――ただ、「共に在る」という選択だった。

  銀郎は指先で、夕陽の髪を梳いた。喉元を、胸元を、まるで祈るように指先で撫で、確かめる。

  その先にある傷も、痛みも、すべて受け入れるという覚悟とともに。

  ふたりは、まるで呪いの隙間に流れ込む光のように、そのまま、銀郎はゆっくりと夕陽の体の奥へ沈んでいった。

  拙くも真摯に、何度も確かめるように。触れるたび、夕陽の喉から漏れる息が熱を帯び、銀郎の理性を蝕んでいく。

  繋がった部分に、ふたりの体温が重なる。

  銀郎はそこに祈りを込める。焦らず、急かさず、ただ沈むように。まるで心の奥に溶けていくように――深く、深く、交わりながら。

  「夕陽様……」

  浅い息の重なり。言葉にならない微かな声。

  銀郎は、夕陽の苦しみに寄り添いながら、優しく、深く――罪の名を持つその痛みを、共に背負うように、己のすべてを捧げていった。

  「……私が、います。夕陽様。どうか、この身を、支えに……」

  その言葉に、夕陽は小さく頷いた。頬を伝う涙は、もはや悲しみだけのものではなかった。

  愛しさと、救いと、ほんの一瞬の許し。

  ただそれだけが、この夜を清めるように、静かに降り注いでいた。

  ふたりを隔てていた理性の壁は、すでに崩れていた。

  けれどそれは、どちらかの我を通すためではない。

  ――ただ、罪を分け合い、孤独を手放すため。

  明けの光が差しはじめる頃、ふたりの影が重なり合い、やがて、静かな一つの祈りへと変わっていった。

  陽は静かに昇り、外では鳥のさえずりがかすかに響いていた。

  身を寄せ合ったまま、互いの呼吸を感じている。

  夕陽の身体はまだ熱を帯びていて、それは呪いの余燼か、快楽の名残か――銀郎にも判別がつかない。

  だが、ひとつだけ、はっきりと分かることがあった。

  ――夕陽の指先が、そっと銀郎の背に触れたその瞬間だった。

  「……すまない……」

  ぽつりと落ちた声は、低く、かすれて、苦しげで。

  静かに崩れるように、夕陽の目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。

  震える唇を噛みしめながら、懺悔のように言葉を繰り返した。

  呪いを他者に分けることは、祓い屋にとって屈辱だ。

  ましてや、愛しい者を巻き込むなど――本来、あってはならないことだった。

  けれど、それでも。銀郎は、そっとその手を取った。

  「……どうか、もう泣かないでください」

  額を寄せ、静かに、けれど祈るように言葉を紡ぐ。

  「何度でも言います。私は、あなたの力になれて嬉しいんです。ようやく……あなたの苦しみに触れられた。ずっと、私を傍に置いてください……」

  銀郎の頬を伝った涙が、夕陽の胸元に落ちる。

  「……ありがとう、銀郎……」

  夕陽もまた、銀郎の名を呼びながら、そっとその体を抱き締めた。

  互いの涙を頬に感じながら、ふたりはしばし、言葉もなく寄り添った。

  罪も、呪いも、後悔すらも抱きしめてなお、離れがたい何かがそこにあった。

  苦しみの中に見つけた、ひとしずくの救いを――ただ確かめるように。

  ***

  「なーんか、お前ら、ますます夕陽にベッタリになっちまったなぁ……」

  縁側にのしのしと現れたのは、朝影だった。無精髭を撫でつつ、いかにも面白がっている声色で言葉を投げる。

  「あ、兄上……っ!」

  肩には銀郎がそっと寄り添い、膝では朱雀が丸くなっている。完全に身動きの取れない夕陽は、焦ったように身を起こそうとするが、どちらもぴくりとも退かない。

  朱雀は寝そべったまま顔だけ持ち上げ、ジト目で朝影を睨んで威嚇した。

  「チッ、ジジイは帰れ!」

  「おい、誰がジジイだ! お・に・い・さ・まだろうが!」

  朝影が笑いながら朱雀の頬をむにっと摘むと、

  「触んなジジイ!!」

  朱雀は勢いよく跳ねて縁側から転がり落ちそうになる。

  その様子に銀郎は小さくため息をついた。

  「……せっかく夕陽様との癒しのひとときだったのに。台無しです」

  「まぁまぁ、そんな怒るなって。……今日はな、ちゃんと礼を言いに来たんだよ。夕陽の命を救ってくれて、ありがとな」

  不意に低く真面目な声に変わると、銀郎と朱雀はふと目を伏せ、軽く頷いた。

  「朝影の兄貴。ヤツについて、何か分かったことがあったら何でもいい、俺たちにも教えてくれ。……まだ、呪いが完全に消えたわけじゃねぇ。俺は夕陽様を救う。必ず――篠宮を、[[rb:篠宮朧雅 > しのみやろうが]]をぶっ殺してやる」

  「ええ、夕陽様の敵であり、私の母の仇でもある。……もはや、これは宿命。与えられた報いを、その身に受けさせましょう」

  二人の目に燃えるような決意が灯る。真っすぐに、迷いも恐れもない。

  朝影は少し目を細め、黙って頷いた。

  「私も、もう誰も傷付いて欲しくない。……銀妖狩りを繰り返し、非道な手段で不幸をばら撒いている連中を、私は見過ごすわけにはいかない」

  「……ああ。俺は引き続き、篠宮の痕跡を追う。そっちにも火の粉が飛ぶかもしれねぇ。そのときは――頼んだぞ」

  「はい!」

  「任せとけ!」

  夕陽を囲む縁側の空気が、静かに、しかし確かに熱を帯びた。

  「……ま、あんまり無理すんなよ、三人とも」

  ぽん、と朱雀の頭に軽く手を置いてから、朝影はふっと笑って立ち上がった。

  振り返らず、ひらひらと手を振る後ろ姿が、縁側の光に溶けていく。

  「じゃ、また気が向いたら顔出すわ。……夕陽、風邪ひくなよ」

  「……はい、兄上も」

  兄が去ったあと、春の風がまた静かに庭を撫でていった。

  夕陽の肩に銀郎が寄り添い、膝では朱雀が再び目を閉じる。何も言葉はいらなかった。ただ、その温もりだけが確かだった。

  ――こんな日々が、少しでも長く続きますように。

  「ところでお前たち、そろそろ退いてくれないか……いい加減、足が痺れてきたのだが」

  夕陽のぼやきに、左右からぴくりと反応が返る。

  「……! では、夕陽様、私が揉んで差し上げます!」

  「銀郎てめぇはすっこんでろ! やらしー手つきで夕陽様に触んな!」

  「なっ、それはお前だろう! この前だって、夕陽様の布団に忍び込んで――」

  「あ? 寒いからあっためてやろうとしただけだろうが!」

  罵声と押し合いが、縁側で小さな嵐を起こす。

  「……二人とも、私の上で喧嘩するな」

  喧しいけれど、あたたかい。  騒がしいけれど、満たされている。

  静けさの中に、穏やかな幸福が、ゆっくりと満ちていた。

  第七話:朱と銀の誓約 完