季節の境も分からないまま、ただ日が昇っては沈む日々だった。
食事の味も、誰かの声も、すべてが遠く感じられた。
けれどその日は、雨音の合間に、かすかな泣き声が混じった。
家の裏手。竹の葉を濡らす雨音に紛れて、小さな泣き声が聞こえた。
音のするほうへ近づくと、竹の根元に竹で編まれた籠が置かれていた。
中を覗くと、濡れた布にくるまれた赤子が、か細く泣いていた。
朱い髪。朱い尻尾。
あまりに小さな体が、雨に濡れて震えていた。
そっと抱き上げると、泣き止んだ。
小さな小さな手が、夕陽の指をきゅっと握る。
「……なんで、そんな目で見るんだ……」
まっすぐだった。生まれたばかりのくせに、人の目をしていた。
懐かしい温もりが指先から胸にまで広がる。
思い出すのは、あの日、最後に抱き締めた弟の体温だった。
何も守れなかった。自分の手で、壊してしまった。
なのにまた、命を拾ってしまった。
涙が止まらなかった。
朱い小さな命にすがるように、夕陽はしゃがみこんで泣いた。
***
銀妖の子を拾って三日目の朝。
久々に炊いた粥の香りが静かな台所に満ちていた頃、朝影がふらりと顔を出した。
「おい、夕陽……って、なんだそりゃ。小猿かと思ったぞ」
夕陽が抱く赤髪の銀妖の子を見て、朝影は目を丸くした。
「裏の藪に捨てられていた。……銀妖の子だ」
「はは、まさかおまえが嫁もとらずに子持ちになるとはな。でも……夜白、末の弟が生まれたときのことを思い出すよ。おまえ、あの時と同じ顔をしてる」
からかうような声音だったが、夕陽は微笑を返せなかった。
胸の奥に広がる痛みは、まだ鈍く残っている。
だが、その腕の中の小さな命は、違った。
まだ細く頼りないが、朱い髪は熱を宿し、ちいさな指が夕陽の指をしっかりと握って離さない。
昔――夜白が熱を出して泣いた夜を思い出す。
冷えた手を包んでやると、すこしだけ落ち着いて、甘えるように袖を握って眠った。
この子も、同じように震えていた。熱を奪われ、ひとりで、声もなく泣いていた。
ぽたり、と、涙がその子の髪に落ちた。
――置いて、いけない。
「……で、そいつの名前は?」
湯呑みを手にした朝影が、不意に問うた。
夕陽は言葉に詰まる。まだ、名はつけていなかった。
その時、開け放った障子の向こう――朝の光のなか、庭の雀がチュン、と鳴いて羽ばたいた。
赤い羽毛のような光が、ひときわ眩しく瞬いた気がした。
「……朱雀にしようと思う」
「おお、四神か。いいじゃねぇか。なんか強そうだしな」
冗談めかして笑った朝影の声の奥に、ほんの僅かな安堵がにじんでいた。
その変化に気づいて、夕陽はやっと小さく微笑む。
止まっていた時が、ほんの少しだけ、動いた気がした。
***
朱雀が夕陽と暮らしはじめて、幾日が過ぎた。
最初は一言も喋らなかった子が、少しずつ声を出すようになり、指差しや笑い声が増えてきた頃――。
ある日、町に下りた夕陽は朱雀を背負い、いつもの乾物屋に立ち寄った。
子どもの背負い紐からちょこんと顔を覗かせた朱雀に、女将さんがにこやかに声をかける。
「あらまあ、可愛らしい坊や。……夕陽様のお子さん?」
夕陽は少し戸惑いながらも、「私の子ではないが、今は一緒に暮らしている」と答えた。
「まぁまぁ、それでも夕陽様に育てられてるなら、立派な子になるに決まってますよ」
女将さんは笑い、向かいの豆腐屋の主も、通りがかった子どもたちも、皆「夕陽様」「夕陽様」と口にする。
背中で、朱雀がじっとしていた。
帰り道、夕陽がふと気になって、「どうした?」と振り返ると、朱雀は夕陽をじっと見つめたまま、小さな声でつぶやいた。
「……うーい、たま?」
それは、初めて朱雀が夕陽を名前で呼んだ瞬間だった。
夕陽は、少しだけ驚いて、すぐに表情を和らげる。
「そうか、皆がそう呼ぶからな。……うん、好きに呼びなさい」
朱雀は少し考えるようにして、もう一度、ぽつりと囁く。
「……ゆういたま……」
拙くも真剣な声音だった。
それ以来、朱雀は一貫して、夕陽のことを「夕陽様」と呼び続けている。
それが「名づけ親」でもあり、初めての「主」でもある夕陽への、幼いながらの敬意と、深い愛情の証であることに――夕陽は、まだ気づいていなかった。
***
朝影が久々に家に戻ってきたのは、季節の変わり目のことだった。
珍しく手土産などを持って、ふらりと現れた兄は、言いたいことだけ言うと満足げに煙管をくゆらせた。
「なぁ夕陽、母方の縁続きのとこで婿を探してるらしいぞ。で、年頃の男といえばお前しかいないってさ」
「それを、私に言うのですか?」
「うん。お前、真面目だし。断れないだろ? ほら、俺はこの通り適当だし?」
他人事のように笑う兄に、返す言葉もなく、ため息をついた。
その夜。
さりげなくその話を朱雀に伝えたとき、朱雀の反応は明らかだった。
「見合いって……何で、今さらそんなもんを……」
唇を噛むようにしながら、視線をそらす朱雀。
普段なら軽口のひとつでも飛ばすはずの朱雀が、それ以上何も言わなかったことが、逆に印象に残った。
(……そんなに、嫌だったか?)
あの子の胸の内が、少しだけわかったような気がして、そして、わかりたくない自分にも気づいてしまう。
夜。
寝所で横になっても、朱雀の伏せた睫毛が頭から離れなかった。
ずっと、あどけない弟のように思っていたのに。
どこかで、そうではなくなっていることに、気づいていた。
(気づかないふりをしていたのは……私のほうだ)
自分の胸が、痛んだ。
けれど、それが後悔なのか、期待なのか。
まだ、夕陽自身にもわからなかった。
***
夕陽様に見合い話が舞い込んだ。
聞いたときは、正直、胸がズキリと痛んだ。でも俺は――祝福するつもりでいた。夕陽様が幸せになるなら、それでいい、と。
(……俺なんかが、夕陽様の隣にいるより、きっとそのほうが……)
相手は、隣町の由緒ある家の娘で、才色兼備だと噂だった。
夕陽様も、特別嫌そうではなかった。
(きっと、ああいう人が、夕陽様には似合ってるんだ)
それなのに――見合いの翌日、先方から手紙が届いた。
「……あちら、兄上の方が気に入っていたそうでな。『夕陽殿はやさしすぎて頼りがいがない』と、婉曲に断られてしまったよ」
夕陽様は苦笑交じりにそう言って、肩をすくめてみせたけれど。
――その瞬間、俺の中にふっと風が通ったようだった。
胸が軽くなった。張り詰めていたものが、ほどけていくように。
(……なんでだ。俺、こんなに……ホッとしてる)
自分でも驚くほど、安堵していた。
夕陽様が誰かに取られないとわかっただけで、心の底から嬉しくて――
(……ああ、そうか)
俺は、夕陽様が幸せになるならそれでいいなんて、嘘だったのかもしれない。
本当は――夕陽様の幸せを、自分が与えられるものだと信じたかっただけで。
(……俺、夕陽様のこと……)
その先の言葉を、まだ口にはできないまま。
ただ、遠くで笑っている夕陽様を見つめていた。
夕陽様の見合い話が流れた日を境に、俺の中で何かが変わった。
ふとした瞬間に、夕陽様の姿を目で追ってしまう。
声が聞こえると、心臓が跳ねる。
朝、寝ぼけた顔で欠伸をしている姿にさえ、妙にどぎまぎして目を逸らしたくなるようになった。
(……なにやってんだ、俺)
自分で自分がよくわからなかった。
だけど、気持ちは隠せない。
夕陽様が誰かに優しくするだけで、胸がざわつく。
俺に向けられる笑みと、他の誰かに向けるそれが同じに見えるたび、不安になる。
そうしてある日、ついに我慢ができず、夕陽様に訊いてしまった。
「……なぁ、夕陽様って、さ。誰かと一緒になりたいって思ったこと、ある?」
夕陽様は不思議そうに俺を見たあと、ふっと微笑んだ。
「昔はあったかもしれないな。でも、今は……お前がいてくれる。それで充分、幸せだよ」
――ずるい。
そんなことを言われたら、もうどうしたらいいかわからない。
この人は、俺の知らない哀しみを抱えて、それでも誰かの幸せのために笑う人だ。
そんな人を、俺は――
(守りたい。ずっと、傍にいたい。……この人を、俺のものにしたい)
気づいてしまった。
きっとこれはもう、ただの恩や憧れじゃない。
――恋だ。
***
人間は皆、野蛮だから、近づいてはいけない――母様から、そう教わってきた。それが、銀妖にとっての常識だった。
けれど、あの人は違っていた。
なぜ、そんなことをするのか。それが、理解できなかった。
だから、解ろうとした。
──昔、どうしてあいつがあの人にあんなになついているのか、私には分からなかった。
だから直接聞いてみた。
同じ部屋で、布団を並べて寝転びながら。
同じ天井を見上げ、ふと問いかけた。
「お前にとって、あの人ってなんなの?」
朱雀は少し黙ってから、あっけらかんと笑った。
「わかんねぇ。考えたこともなかった」
その時、ますます分からなくなった。
けれど──今なら、少しだけ分かる気がする。
あの人のそばにいるようになって、どれほどの時が経っただろう。
朱雀と夕陽を、じっと見つめる。
二人で仲良く洗濯物を干していた。
風に揺れる布の向こう、見えたのはあの人の横顔と、屈託なく笑う朱雀だった。
──親子のようだな、と思った。
その時、ふと、あの人がこちらを振り返って微笑んだ。
「おいで」
胸の奥が、きゅっと軋んだ。
どうしてだろう、呼ばれただけなのに。
嬉しかった。けれど、それ以上に……どうしようもなく、切なかった。
最初はただ、命を救われたことへの恩だった。
振りほどいても、なお抱きしめようと手を差し伸べてくれたこと。
居場所をくれたこと。
傍にいてくれたこと――。
雪のような人だと思った。
触れようとすれば、ふわりと離れ、けれど決して冷たくはない。
静かで優しく、でも、その奥底に決して触れられない寂しさを抱えている。
その寂しさを、ずっと傍で見ていた。
何もできず、ただ見つめるしかできなかった。
ある冬の日。
雪の中、あの人がふと手を差し出してきた。
「寒くないか」と言いながら、自分の袖を私の肩にかけた。
ただ、それだけのことだった。
けれど――その一瞬、胸の奥が、静かに熱を帯びた。
白い吐息の中、私ははじめて、自分の中にあった感情の正体に気づいた。
これは、憧れなんかじゃない。
尊敬でもなければ、恩でもない。
(……私は、この人を、愛している)
雪のように、知らぬ間に積もっていた想い。
気が付けば、身動きができないほど深く、そしてそれは、もう簡単には融けそうになかった。
***
朱雀と銀郎、二人の心の丈を打ち明けられたクチナシの香る庭に、茜色の風がそっと吹き抜けてゆく。
言葉を返すことも、手を伸ばすこともできず、私はただそこに立ち尽くしていた。
空はゆるやかに暮れかけ、光と影が交じり合う時間。白い花の香りが、夕暮れの空気にほのかに溶け込んでいた。
私はその場に立ち尽くしたまま、二人の背をただ見送ることしかできなかった。
――追えなかった。
「私より、もっと相応しい人を見つけてほしい」
そう口にした自分の声は、思いのほか穏やかだった。心とは裏腹に。
手のひらにまだ、朱雀が触れてきた温もりが残っている。銀郎の真摯な瞳も、焼きついて離れなかった。
木々の間に立ち尽くし、茜色の空の下でそっとしゃがみ込む。
――どうして、こんなに胸が痛むんだろう。
膝を抱え、顔を伏せる。じんわりと頬に熱が広がるのを止められなかった。
「……まいったな」
小さな声が漏れた。誰に届くでもない独白。
愛されていることは、わかっていた。
けれど――あの真っ直ぐな告白に、心が強く揺れた。
でも。
(私が応えられるはずがない)
この身に巣食う呪いは、愛する者を喰らう。
抱きしめたその腕の中で、大切な命を蝕んでしまう――。
そんな未来を、私はもう二度と繰り返したくなかった。
だから、拒んだ。嘘をついた。二人の気持ちに気づかないふりをした。
本当は、ただ……怖かった。
けれど、心はずっと叫んでいた。
――触れたい、と。
それでも、あの手を取ることはできない。
過去に壊してしまった温もりが、まだこの掌に焼きついているから。
(……ごめん。私には、やはりあれが精一杯だ)
微笑むことさえ、もう罪のようで。
ただ、願うことしかできなかった。
あの手に、もう一度だけ――触れられたならと。
けれど風は通り過ぎ、朝日はただ静かに昇る。
何も知らぬままに、優しく、残酷に。
第九話:こころ花、こぼれて 完