【第八話:咎火の絆 後編】

  「私は……もう、一人じゃないんだ」

  夕陽がそう答えた瞬間、篠宮の唇が歪んだ。笑っているのか、泣いているのかも判然としない。

  「……やれやれ。三人揃って、随分と美しい“偽り”の絆じゃないですか」

  手にあるのは、先ほどと同じ黒刃を宿す経巻。

  その巻の端から這い上がる呪が、今度は刃だけでなく、篠宮自身の体すら静かに侵食していく。

  「ですが……私は見てしまった。あなたが“何より美しかった”あの瞬間を……!」

  彼の目が、焦点の定まらない光に濁る。

  「誰より強く、誰より孤独で、誰より正しかった……あの夜の、君を……!」

  篠宮が経巻を翻すと、黒刃がまるで意思を持った蛇のように宙を舞い、唸りを上げながら空気を裂いた。

  「だから私は壊す。君を穢すこの世界を、君に群がる獣どもを、“君自身”すらも!」

  その声に、狂気と祈りが滲んでいた。

  叫ぶや否や、黒刃がうねりを持って飛ぶ。

  狙いは夕陽――その瞬間、夕陽の前に金色の光が広がり、護符が空気を震わせながら、瞬く間に巨大な光の結界を展開させた。

  篠宮の黒刃が結界に触れると、激しく反発して跳ね返り、辺りに光が散った。

  結界はまるで鉄壁のように、全ての攻撃を受け止め、無情に砕けさせていく。

  「その幻想、私たちが断ち切ります」

  銀郎の一迅が鋭く光り、黒刃を薙ぎ払うと、再び結界はその力を強化し、篠宮の呪を弾き返す。

  銀郎の背に銀の尾が揺らめく。

  その気配は、先ほどまでとはまるで別物――夕陽の呪詛の加護を帯びた、覚醒に近い力だった。

  そして、朱雀もまた夕陽の背から離れ、地を蹴る。

  「やっと夕陽様を返してもらったんだ。こんなやつに邪魔されてたまるかっての」

  二人の銀妖が並び立ち、主の前に立ちはだかる。

  「……やはり、私の“美”を脅かすのは、そういう異端か」

  篠宮が経巻を構えたその刹那――ぴしり、と空気に亀裂が走るような音が響いた。

  膝をついた篠宮の口元から、黒く濁った血が滴る。歯を食いしばるように顔を歪めた彼の身体を、内側から裂くように瘴気が噴き出していく。

  「ッ……フ、はは……やはり……“完全”には届かなかったか……!」

  滲む血の笑み。苦悶に満ちた瞳は、それでも夕陽を射抜いたままだ。

  「だが、君も、見届けてくれるだろう……“真の美”が、どれほどの代償を孕むものかを……!!」

  呻くように叫んだ次の瞬間、篠宮の背から何本もの黒い腕のようなものが飛び出す。それは骨と瘡蓋でできた蜘蛛の脚のようでもあり、瘴気の鞭のようにも見えた。

  「これは――」

  銀郎が思わず息を呑む。

  人の形を残していた篠宮の姿は、もはや崩壊寸前だった。肌はひび割れ、血の代わりに黒い液が滲む。髪は逆立ち、目は虚ろに爛々と輝いている。もはや美しさなど一片も残っていない。

  「ドうしテだ……どウしてワタシの“理想”は、こんナニモ醜イ……!」

  その叫びとともに、篠宮の身体が一気に膨れ上がった。人を模した形は崩れ、血と肉と呪詛が混ざり合い、巨大な異形へと変貌する。

  四肢はどこまでも伸び、牙は鎌のように曲がる。口から漏れる咆哮は、もはや言葉ですらなかった。

  異形が邸の天井を突き破り、地響きとともに風穴を開ける。

  「来るぞ――!」

  夕陽が護符を数枚取り出し、周囲に展開。銀郎は太刀を構え、朱雀も目を血走らせて、赤い獣の力を解き放つ。

  「これが……あんたの求めた“美”かよ」

  朱雀が俊敏な跳躍で崩れかけた屋根へと跳び移り、空中で跳ねるように回転しながら火符を放ち火柱を浴びせる。だが、その熱すらも黒い皮膚に吸われるかのように霧散する。

  「効いてないのか……!?」

  すかさず、銀郎の太刀が炎の残影を滑るように追う。刃が鋭く異形の脚部を斬り裂いた――が、血の代わりに黒煙のようなものが吹き出し、数秒とせず肉が再生していく。

  「再生速度が速すぎる……!」

  「なら……止めてみせる!」

  夕陽が短く呟くと、結界陣の印を結ぶ。

  「——浄火の光、呪縛の鎖となれ。此処に顕現し、禍を断て!」

  瞬間、篠宮の足元を中心に五芒星の結界が展開し、地面から光柱が立ち上がる。異形の体がぎしりと軋み、動きを一瞬だけ止めた。

  「今だ、朱雀、銀郎!」

  「了解!」「承知!」

  朱雀が烈火を纏って突撃、銀郎の太刀がその隙を縫って中枢を目指す。

  ――が。

  「グオオオオオォォォォッッ!!」

  篠宮の咆哮と共に結界の一角が砕け散った。抑えきれぬ呪力が爆発し、銀郎と朱雀は弾かれ、地に転がる。

  「く……っ」

  夕陽の額を汗が伝い、顎を濡らす。何度結界を展開しても、護符の光は次々と掻き消され、まるで嘲るように空気が軋んだ。

  「……っ、まだ……終わらせるものか……!」

  歯を食いしばり、血を吐くような気迫で印を切る。霊気がひび割れた地面を走り、瞬く間に陣が広がる。しかし、篠宮の異形はそれすらものともせず、ぬらりと這い寄る。脚とも腕ともつかぬ瘴気の肢体を蠢かせ、まるで獲物を弄ぶ蜘蛛のように、夕陽との距離を詰めてくる。

  「来るな……!」

  鋭く護符を打ち放つ。札が宙を裂き、火花のように爆ぜるが、それすら呑み込むように異形は笑った――いや、笑ったような気がした。無数の目が蠢くような影の中に、意志が宿っている。

  だが、その影に割って入ったのは、赤い残像だった。

  「夕陽様に、近づくんじゃねぇッ……!!」

  朱雀が叫び、地を蹴る。異形の肢体を片腕で受け流し、捻りを加えた膝蹴りが黒い瘴気を弾き飛ばす。だが吹き飛ばしたそばから再生するその体に、朱雀は顔をしかめた。

  「ちっ、どこが本体だよ……!」

  その背後、さらなる瘴気の一撃が迫る。だが、寸前で銀の太刀が横一閃にそれを両断した。

  「油断するな、朱雀。動きが鈍ってきている」

  「うるせぇよ……っ!」

  朱雀は苦笑しつつも反撃に転じ、銀郎と背を合わせて異形を引き離すように動く。その間に、夕陽は目を閉じ、次の術式に指先を滑らせた。己が血を捧げる覚悟で、最後の一撃に賭ける――そのための時間を、二人が繋いでくれているのだ。

  その時、異形の口から、どこか甘やかで歪んだ声が溢れた。

  「ウツクシイヨ、ユウヒクン……ソノ瞳モ、声モ……アノ夜ト、オナジ……」

  異様な笑い声が幾重にも重なって響く。耳鳴りのようなざわめきが、空間を満たしていく。

  「モウ一度、ワタシノモノニ、ナッテヨ……ユウヒクン……」

  ぞっとするほど馴れ馴れしく、そのくぐもった声が耳朶を叩いた瞬間、夕陽の呼吸が浅くなる。背筋に走る冷たい悪寒。あの夜――封じたはずの過去の記憶が、鮮やかに脳裏を焼いた。

  目の前の異形が、ぐにゃりと輪郭を歪ませながら巨大化していく。結界の力を打ち破るように瘴気が襲いかかり、地面ごとひび割れる。張り巡らせた護符の光が一斉に爆ぜ、術式が無理に引き裂かれた衝撃で、夕陽の身体がよろめく。

  「……ッ!」

  足元が崩れ、膝をついた瞬間だった。異形の触手じみた肢体が鋭く伸び、夕陽の片腕を絡め取る。

  「く……ぅ……!」

  瘴気が皮膚に触れた瞬間、焼けるような痛みが奔る。結界を張るどころか、霊力が逆流する。身体が言うことをきかない。逃れようと力を込めるが、瘴気が腕を伝い、喉元へと這い上がる。

  「イイ声ダ……叫ンデ、ユウヒクン……」

  その低く甘い囁きが耳元で響いたとき、夕陽は初めて、本能的な“死”の気配に喉を詰まらせた。

  ドンッ!

  その時。風を裂く音と共に、空間を斬り裂く一閃が、異形の腕を切り落とした。

  「いよう! 待たせたな!」

  着地と同時に地面を叩き割り、舞い上がった砂煙の中から現れたのは、片目に眼帯を巻いた男。

  ――朝影、影祓いの元筆頭、夕陽の兄。

  「兄上!」

  夕陽が安堵の声を上げると、朝影はにやりと笑う。

  「お前ら、だいぶ派手にやってんじゃねえか。久しぶりに血が騒ぐぜ」

  長巻を握り直すと、朝影は飛び上がり、異形の巨体の肩に斬りつける。

  斬撃とともに呪が走り、醜悪な肉塊を深く裂いた。

  「私が拘束を維持します!」

  篠宮の異形が呻き声をあげる。

  「朝影ェェェ……! 貴様ハ、イツモ私ノ邪魔ヲスルッ! イツモ――イツモ! 邪魔バカリシヤガッテェェェ……!!」

  夕陽の結界術が再び地を穿ち、足元に呪陣が浮かび上がる。

  そこへ銀郎が静かに構えた。

  「朱雀、いくぞ!」

  「……おうよ!」

  紅蓮の焔が咆哮を上げる。紫炎を纏った朱雀が、獣のように宙を裂き、爆ぜるような打撃と、鋭く跳ねる足技を叩き込む。

  刹那、銀郎の太刀が一筋の月光となり、静かに、しかし鋭く敵の急所を斬り裂いた。

  そして朝影の一撃が——

  すべての力が一点に重なるように、異形の中枢を貫いた。

  夕陽が護符をかざし、静かに息を呑む。

  「――浄火よ、穢れを抱きて清めよ。

  輪廻の門、いま開かれん。還れ、迷いし魂よ――」

  声と共に護符が光を放ち、白き炎が異形を包む。

  それは静かに、だが確かに、全ての穢れを焼き尽くしていく。

  篠宮が、獣のような断末魔をあげる。

  「ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ァァァ!! ワタシ、ハ……マ、ダ、……ユウ、ヒ、……クン……――」

  その声は、焼け落ちる呪の中にかき消されていく――

  ……かに思われた、その刹那。

  焦げついた喉の奥から、かすかに洩れた最後の声。

  「……ワタシヲ……ミテ……」

  瘴気が崩れ、異形はゆっくりと崩れ落ちた。

  呪詛の残灰が塵となって消えていく。

  夕陽はただ、どこか哀れむような、痛ましさをたたえた眼差しで静かにそれを見つめていた。

  「――ひゅー……」

  どこか間の抜けた声が頭上から落ちてきた。

  「痺れるねぇ……兄ちゃん、お前がちゃんと成長してて、ちょっと泣きそうだよ」

  朝影は肩をすくめて立っていた。

  「兄上……危ないところを、本当にありがとうございました」

  「うんにゃ。言ったろ? 援護するって――信じてたからな、お前も、あの二人も」

  その時だった。朱雀がふらりとよろめき、膝を折って倒れ込む。

  「……夕陽様! 朱雀が――!」

  「朱雀ッ!」

  夕陽が駆け寄り、抱き起こす。朱雀の身体は驚くほど熱く、そして力なく――

  「あーあ、やっぱ呪詛の力、無理して使いすぎたな。けど平気だよ。篠宮はもういねぇ。心配いらねぇよ」

  「……じゃあ兄上の左目も……まさか」

  「ああ。実はな、別件で背負っちまった呪詛もまとめて、奴さんにぶつけてやった。いい置き土産になったろ?」

  夕陽の顔が引きつる。思わず、口を開きかけて言葉に詰まる。

  「兄上! ……無茶が過ぎます!」

  「ははっ、今さらだろ。昔からだ。けどまあ、そろそろ――弟に怒鳴られるのも、悪くねぇな」

  肩を竦めるように笑った朝影が、ふっと空を仰ぐ。

  「でもま、一件落着ってとこか。篠宮の狙いは、銀妖狩りに反対してた四條家の衰退……と、思ってたが……、かなり私情が入ってたみたいだな。夕陽を孤立させて、あわよくば匿おうとした。俺がいたから手出しできなかったんだろうよ。それでも外道なのは変わんねぇけどな」

  誰にともなく吐き出すように言った言葉に、夕陽は返すことができなかった。

  「…………」

  「そんな顔すんなって。お前のせいじゃねぇよ。全部終わったんだ。胸張って帰ろうぜ」

  けれど、夕陽は目を伏せたまま、肩を震わせている。朱雀を腕に抱いたまま、涙を堪えていた。

  朝影が少しだけ困ったように笑い、銀郎の方をちらりと見て、無言の目配せを送る。『慰めてやれ!』と、顎でぐいっと。

  銀郎はため息ひとつ、小さく吐いた。そして静かに、夕陽の隣に膝をつく。

  「……夕陽様」

  名を呼ぶ声は、どこまでも優しかった。

  「私も……朱雀も、生きています。貴方が守ってくれたおかげです。どうか……どうか、ご自身を責めないでください」

  そっと、夕陽の肩に手を添える。暖かな体温が、確かにそこにある。

  夕陽はゆっくりと顔を上げる。涙に濡れた瞳が、銀郎を映し、何も言わず、少しだけ頷いた。

  静寂の中、朝影がぽんと膝を叩いて立ち上がる。

  「……さて、帰るかねぇ」

  誰ともなく呟かれた言葉に、朱雀を抱えた銀郎が立ち上がり、夕陽もそれに続く。

  夜明けが近い。崩れた屋敷に、うっすらと朝日が差し込む。

  瓦礫の隙間を縫って届く光は、まるで長き夜の終わりを告げる祝福のようだった。

  誰も言葉を交わさぬまま、ただ静かに歩き出す――それぞれの想いを胸に、再び“帰るべき場所”へ。

  ***

  まる二日間、朱雀は目を覚まさなかった。

  幾度も眠りと覚醒を繰り返すかのように眉をしかめては、すぐに浅い呼吸で眠りへと戻る。

  そのたびに、夕陽と銀郎は交代で朱雀の枕元に付き添い、静かにその手を握っていた。

  そして――夜が明けきった、三日目の朝。

  「……う……」

  小さく、掠れた声が漏れる。

  「っ朱雀……?」

  ぴくりと眉が動き、ゆっくりと朱雀のまぶたが開いた。瞬きひとつ、そしてもうひとつ。

  「……いてぇ……全身バッキバキ……」

  呻きながら体を起こしかけたその瞬間、柔らかな温もりが胸元に飛び込んできた。

  「朱雀……! 良かった……!」

  泣きそうな声が、耳元で震える。

  次の瞬間、あたたかな腕がきつく朱雀の背に回された。

  胸元に感じる体温と香りは、誰よりも愛しい、夕陽のものだった。

  「……うわ、まじ天国……」

  思わず頬が緩む。

  甘やかされている、と自覚しながらも、朱雀はそっと夕陽の腰に手を回す。

  もう少し、この夢のような時間を味わっていたかった。

  だが――

  「……ッ」

  ばちりと、首筋に冷たい視線が刺さる。

  視線を向けると、座椅子に腰掛けた銀郎が、腕を組みながら凄まじい形相で睨んでいた。

  「……お、おう銀郎、元気そ……?」

  「下手に動くと傷が開くぞ」

  「……へい」

  朱雀は即座に手を離し、再び布団の中に沈んだ。

  けれど心の中では、(でも……これも悪くないな)と、うっすら笑みを浮かべていた。

  夕陽は小さく息をついて、朱雀の髪をそっと撫でた。

  「……食欲はあるか?」

  「んー……夕陽様の煮物が食べたい」

  「……分かった。すぐ作ってくるから、少し待っていなさい」

  立ち上がる際、名残惜しげにもう一度朱雀の頭を撫でてから、夕陽は部屋を後にした。

  部屋に残された朱雀と銀郎の間に、ふとした静寂が流れる。

  「……悪いな、いろいろ世話かけて」

  ようやく力が戻ってきたのか、朱雀がぽつりと呟いた。

  「全くだ。あの邸からここまでお前を担いで運んでやったんだ。感謝しろ」

  銀郎はそっけなく答えたが、その声にとげはない。

  「……ありがとな」

  「……まぁ今回は、お前に助けられた部分も大きいが、もう少し自制しろ。お前が死んだら、夕陽様が悲しむだろう? あの人を泣かせるようなことはするな」

  そう苦言を呈しながら、銀郎は枕元の水差しを手に取り、湯呑にそっと注いだ。

  「……飲めるか?」

  「……わりぃ。あー……なんか、あったけぇな」

  「湯だからな」

  「あはは、そうだけどさ……違ぇよ。銀郎、お前も、ちょっとはあったかい奴だったんだな」

  銀郎はわずかに目を細めて、ふっと息をついた。

  「……うるさい。寝てろ、馬鹿がぶり返す」

  「へーへー。……でも、呪いは消えた。あの力はもう使えねぇよ」

  「……それなんだが、そうでもない、みたいだぞ」

  「……は?」

  「恐らく、夕陽様から貰ったのは呪いだけじゃない。……分からないか?」

  「……まさか」

  「そのまさかだ。あの人の霊力は、並の祓い手の比じゃない。……私たちは、呪いと一緒に“祝福”も授かってる」

  ぽかんと口を開けたまま、朱雀はしばらく言葉を失っていた。

  「……マジかよ」

  「ああ、マジだ。そのうち、身をもって分かる」

  朱雀は力なく布団に倒れ込み、天井をぼんやりと見つめた。

  「はぁ……やっぱ、俺の夕陽様ってとんでもねぇなぁ」

  「……言っておくが、“お前の”ではない」

  しばらくして、夕陽が湯気を立てる小鍋と器を盆にのせて戻ってきた。香ばしい出汁の匂いが、ふわりと部屋に広がる。

  「お待たせ。煮物、できたよ」

  その瞬間、朱雀と銀郎の視線が揃って夕陽に注がれる。あまりに無言で真剣なまなざしに、夕陽は思わず首をかしげた。

  「……ん? どうかしたかい?」

  「いやっ、なんでもねぇ! すげぇ良い匂いだなって!」

  ぎこちない返答に、夕陽はふっと目を細めたが、それ以上は何も言わずに器を並べ始める。

  「……なぁ、夕陽様」

  布団から顔だけ出した朱雀が、やや甘えるような声で上目遣いになる。

  「あー、っと、今日は、……食べさせてくれねぇ?」

  ぴくり、と銀郎の眉が跳ね上がった。ジリ、と床を鳴らして座椅子の位置が朱雀に近づく。

  「自分の手は動くだろう」

  「いーじゃん! 病み上がりなんだぜ!?」

  「……なら、私がやる」

  銀郎がひと言そう言って立ち上がり、箸を手にした。

  「へっ?」

  「ほら、口を開けろ。朱雀」

  「お、おう……あーん」

  熱々の煮物を迷いなく朱雀の口元に差し出した銀郎。そのまま、ためらいもなく押し込まれる。

  「ど熱っっっち!!」

  「何を慌てている。熱いに決まっているだろう」

  「ふつー吹くだろ!? ふうふうとか!! 殺す気か!」

  「私が食べさせてやっているだけありがたく思え」

  「こえーよお前……!」

  くすくすと夕陽が笑い、代わって穏やかな手つきで箸を取る。

  「二人とも、はいはい。ほら、朱雀。今度はちゃんと冷ましたからね、あーん」

  「……あーん。うん、うめぇ……これが食いたかったんだよ……」

  「もうちょっとおかわりもあるから、ゆっくり食べなさい」

  「はーい……やっぱ俺の夕陽様、最高だわ……」

  「お前のではない」

  ぴしゃりと言い返す銀郎に、思わず朱雀は声を出して笑った。

  そんなふうにして、ようやく穏やかな日常へと還っていく。

  戦いは終わった。

  まだ癒えぬ痛みもあるが、大切な人たちが、確かに傍にいる。

  それだけで、朱雀の胸の奥は、やわらかな温かさで満たされていた。

  第八話:咎火の絆 完