【第八話:咎火の絆 前編】

  [uploadedimage:20869448]

  鏡の中に映る顔は、すでに人のものではなかった。

  引き攣った皮膚、濁った眼、垂れた頬。

  それでも――もう一度だけ会いたかった。

  あの少年に。

  「こんにちは。……お茶、どうぞ」

  誰もが顔を背けた自分に、笑ってくれた唯一の人間。

  祓い屋の集会で、夕陽君――まだ十代だった彼が、君だけが、分け隔てなく接してくれた。

  心が満たされ、焼けるように苦しくなった。

  だが、再会の日。整えた顔で名を告げても、夕陽君の瞳は自分を映さなかった。

  ――美しくなければ、意味がないのか。

  だから、禁術に手を染めた。

  歳を削り、顔を変え、“理想”に近づけた。

  愛されたかった。ただ、それだけだった。

  滴り落ちる血が、儀式の器を静かに満たしていく。

  仄暗い部屋に、くぐもった声が響いた。

  「……ああ、素晴らしい……」

  篠宮朧雅は指先に付いた血を舐め、うっとりと目を細める。

  「これでやっと……やっと、君に相応しい私になれる……」

  ――夕陽君。おまえはずっと、私の渇きを癒やしてくれる唯一の存在だった。

  だが、老いゆく身ではもう届かない。

  美しいままでいなければ、選ばれない。

  だから、銀妖の血を手に入れた。

  篠宮は器を手に取ると、一気にその液をあおった。喉の奥が焼けつくような痛みに引きつるが、次の瞬間――

  ずるり。

  皮膚が内側からめくれる。

  骨が軋み、肉が膨らみ、全身の細胞が暴れ出す。

  それは苦痛だった。しかし、彼の表情に浮かんだのは歓喜だ。

  彼の身体は若返る。皺は消え、髪に艶が戻り、頬に紅が差す。

  ――まるで、数十年前の青年期のような美貌。

  否、それ以上に「異様な美しさ」が宿っていた。

  鏡の前に立ち、篠宮は己の姿に酔いしれる。

  「見ていてくれ……夕陽君。次に会う時、おまえはきっと私に堕ちる。今度こそ……私を見てもらえる」

  彼の背後、棚の上には、封じられた銀妖の尻尾が一房、凍りついたように置かれていた。

  ***

  朝霧が残る庭先で、小鳥の声が軽やかに響いていた。

  縁側に腰掛けた夕陽は湯飲みを手にし、淡く湯気をたてる茶をひと口含む。

  春とはいえまだ冷える朝、温かさが喉を通って胃に落ちると、ようやく体が目覚めていく気がした。

  そんな静かな時間を破るように、ぱたぱたと足音が廊下を駆けてくる。

  「お、夕陽様! 今日は早いんだな」

  開け放たれた障子の向こうから、朱雀が顔を覗かせる。赤い髪が寝癖で跳ね、尻尾もまだ半分眠そうに揺れていた。

  「お前、もう少し静かに歩けないのか」

  後ろから銀郎が追いついてきて、袴の裾を整えながら小さく息を吐く。

  その顔に浮かぶのは怒気ではなく、いつもの穏やかな呆れだった。

  夕陽の隣に膝をつくと、静かに頭を垂れる。

  「おはようございます、夕陽様」

  「おはよう。……お前も寝癖がひどい。ほら、こっち向いて」

  夕陽は柔らかく笑い、銀郎の髪に手を伸ばす。指先でそっと乱れた毛を撫で、整えてやると、銀郎は一瞬言葉を失ったように目を伏せた。

  「……ありがとうございます」

  朱雀がじとっと横目で睨んでくる。

  「……なぁ、夕陽様。朝からそういうの見せつけるの、やめね?」

  「別に見せつけてなどいない」

  「男の嫉妬は見苦しいぞ」

  「あ゙?」

  「朝から喧嘩はやめなさい」

  夕陽は苦笑しながら、手元の封書に視線を落とした。

  それは昨晩、祓い屋の元締めから届けられた新しい依頼状だった。

  「さて、本題に戻ろう。どうやら新しい案件が来たようだ」

  夕陽は封を切り、中の文書を開く。筆跡は几帳面だが、文面には微かな焦りが滲んでいた。

  「“狐越の里外れ、狩谷家より祈祷依頼あり。近頃、屋敷内に不審な気配が漂い、従者が次々に病を得ている”……」

  「狩谷……? 聞いたことない名だな」朱雀が身を乗り出す。「狐越って、山奥のはずれだよな。あんなとこに屋敷が?」

  「記録では、かつて没落した旧家の一つが、誰かに買い取られたとある。名義は……“狩谷晴継”。」

  銀郎が懐から帳面を取り出して、さらりと記述を確認する。

  「この晴継という名主、表にはほとんど顔を出していないようです。ですが、夕陽様の兄上が以前に調査していた“篠宮朧雅”が、本家を破門されて行方をくらませた時期と妙に重なる……」

  「……篠宮?」朱雀が目を険しくする。

  夕陽は黙って湯を啜る。

  その目はどこか遠く、そしてわずかに緊張を含んでいた。

  「ただの祓いで終わるとは思えないな」

  「ええ、そんな気がします。何か、引っかかるような……違和感を感じますね」

  「いずれにしても行くんだろ、夕陽様」

  「篠宮について、何か手がかりが掴めるかもしれない。それに――これはただの依頼じゃなくて、“おびき寄せ”の可能性もある」

  「つまり、罠ってことか」

  朱雀と銀郎が同時に、鋭く目を細めた。

  やがて、外から軽い足音と共に、客間の襖がそっと開かれる。

  「いよう! 夕陽とポチにタマ。……もう読んだか? その依頼」

  現れたのは朝影――

  やや乱れた羽織を纏いながらも、眼差しには狩人のような鋭さを宿している。

  「やっぱりお前も気づいたか」

  「ええ、狩谷晴継。確証はありませんが、おそらく仮の名でしょう。――篠宮の尻尾を掴む好機かもしれない」

  静かに、しかし確かに空気が張り詰める。

  「……しかし兄上。どうして、この依頼の内容を?」

  朝影はにやりと口の端を上げ、乱れた羽織をかるく直す。

  「ん? ああ、祓い屋元締めのじいさんとは昔の飲み仲間でな。たまに面白い話をこぼしてくれるんだよ。“今回の依頼は少し匂うぞ”ってな」

  「ああ……」

  夕陽が目を細める。名の知れた祓い屋の元締めのひとり。表立った依頼の多くは彼を通して流れてくる。

  「名主からの依頼にしては、妙に急ぎだった。それに、相手の名前も最近になって急に出てきた“狩谷晴継”。――何となくな。耳にした瞬間に、胸騒ぎがした」

  「だから、あえてこちらへ?」

  「そういうこった。……おまえに変な依頼が飛ばされて、俺が何も知らないままじゃ、また後悔するかもしれねぇだろ」

  言葉こそ軽いが、その眼差しには確かな覚悟が宿っていた。

  「俺は援護に回る。下手に動くと警戒されて、また行方をくらますかもしれねぇからよ」

  「……はい。よろしくお願いします、兄上」

  ***

  その日のうちに、三人は支度を整えた。

  依頼先――狩谷晴継が名主を務めるという寒村は、山々の影に隠れるように存在する辺鄙な集落だった。道中の街道すら荒れ果て、地図にさえ載っていないという噂もある。

  「……何もねぇな」

  肩に担いだ荷を軽く持ち直しながら、朱雀がぽつりと呟く。彼の視線の先には、鬱蒼とした森と、霧が立ちこめる獣道が続いていた。

  「地形のせいでしょう。人の出入りが少なければ、自然と霊も籠る」

  銀郎が答える声は静かだが、腰の刀に添える手は緩まない。

  そんな二人の前を、夕陽は何の迷いもない足取りで進んでいた。

  「この道、知ってるのか?」

  「……以前、父に伴って調査に来たことがあってね。霊障の報告が出ては消え、原因不明で終わったこともある土地だ」

  その言葉に、銀郎と朱雀が目を見交わす。

  「つまり、篠宮がこの場所に潜んでいた可能性もある……。あるいは、ここを実験場にしていたのかもしれない」

  夕陽の声は淡々としていたが、僅かに張り詰めていた。

  やがて霧が薄れ、木々の隙間から屋根の先端が見え始める。鬱蒼とした森の奥、唐突に現れたそれは、場違いなほど立派な邸だった。

  黒漆の門には古びた家紋が飾られており、主の趣味か、手入れは行き届いている。だが、どこか作り物めいた整いすぎた静けさが辺りに漂っていた。

  「……空気が妙に澄みすぎてる。まるで、何かを隠しているみたいだ。結界か?」

  朱雀が鼻を鳴らし、周囲の気配を探るように目を細める。

  夕陽は静かに言った。

  「いいか。相手が篠宮だと確定するまで、手を出すな」

  銀郎と朱雀は無言のまま視線を交わし、それから夕陽へと真っすぐ頷いた。

  緊張が場を満たす。空気が、張りつめるように重たくなる。

  その時――

  ぎぃ……と、屋敷の門がきしむような音を立てて、ゆっくりと開いた。

  「ようこそ、狐越の地へ」

  中から現れたのは、白い狩衣を身にまとった男だった。年の頃は二十代半ばほど、すっきりと整った顔立ちに、長い黒髪をゆるく後ろで束ねている。やや痩身だが、瞳の奥には不思議な熱が宿っていた。

  「お初にお目にかかります。私がこの地の名主、狩谷晴継と申します」

  狩谷は、深く、あくまで礼儀正しく頭を下げた。

  「……依頼を承りました、四條夕陽と申します。こちらの二人は護衛も兼ねて仕えております。以後、お見知り置きください」

  狩谷の目が静かに細められ、夕陽へと真っすぐ向けられる。

  「これはこれは……四條の御名を継ぐ方が直々にとは。誠に光栄の至りです。どうか、ゆっくりしていってください。……屋敷の中は、すでに客間をご用意しております」

  「――では、遠慮なく」

  銀郎が一歩前に出て、さりげなく夕陽を庇うように立つ。狩谷の目が、銀郎の動きにわずかに反応し、そして朱雀にもちらと視線を流す。

  「……銀獣を従えているというお噂はかねがね耳にしております。ですが――そのような下卑た獣を伴うなど、貴方のような方にはふさわしくないのでは?」

  言葉の端に混じる嘲りを、銀郎と朱雀は見逃さなかった。銀郎は表情を変えずにその言葉を受け流すが、朱雀の目が静かに、鋭く光る。

  「ふさわしいか否かは、私が決めます。彼らを侮辱するのはお控え願いたい」

  「……それは失礼いたしました。では、どうぞ中へ……」

  狩谷は、その内心を見透かしているかのように、優雅な笑みを浮かべたまま屋敷の奥へと導く。

  朱雀は、笑みを浮かべたままの男の気配を見逃さなかった。礼儀の裏に潜む「欲」のようなものが、微かに匂う。

  邸の門が背後で音もなく閉ざされたとき、三人の背筋を、かすかな悪寒が撫でていった。

  通されたのは、広々とした応接間だった。調度は上品に整えられ、窓から差し込む日差しも柔らかい。だが、三人の内心に漂う警戒心は晴れないままだった。

  「……実は、ここ数ヶ月の間に、屋敷付きの従者が次々と体調を崩しまして。中には原因不明の高熱や、うわ言を繰り返す者もおりましてね。医師に診せても埒が明かず……やむなく暇を出し、実家に帰らせた者もおります」

  淡々と語る狩谷の声音には、芝居じみた痛ましさが滲んでいた。

  「それで、妖の仕業ではないかと?」

  「ええ。噂を聞きつけた親族などからも、屋敷が穢れているのではないかと……それで、確かな腕をお持ちの祓い屋様にお願いしたくて」

  夕陽は頷きつつ、ふと窓の外に目をやる。空間の歪み――気配の膜のようなものが、ごく薄く張られているのを感じ取った。

  「……結界が張られていますね。このあたりでは珍しい構成です。どなたが?」

  「ああ、それは……この辺りは昔から妖が出ると聞きまして。著名な祓い屋の方に、一応の備えとして設えていただいたのです」

  さらりとした嘘。その裏にある「確かな術者」の匂いを、銀郎と朱雀もまた敏感に感じ取っていた。

  狩谷邸の廊下を進み、静まり返った一角に案内されると、そこは病に伏せたという従者たちの部屋だった。

  夕陽は立ち止まり、静かに戸に手をかける。「失礼」と一言添えて、襖を開く。

  中には、確かに数枚の布団が敷かれていた。だが、そのどれにも人の気配はない。

  掛け布団は少し乱れ、枕元には湯呑みが置かれている。ついさっきまで誰かが寝ていたような形跡。だが、そこには誰もいなかった。

  「……誰もいないな」

  朱雀が不審げに眉をひそめ、銀郎もまた静かに周囲を見渡す。

  空気が、重い。何かがここに“留まって”いるような澱みがある。

  ──実験に利用され、命を奪われた銀妖たちの“無念”が、この場に染みついているのか。

  そのときだった。銀郎が一歩踏み出そうとした瞬間、ふいに床の板が鈍く軋んだ。

  ――カチリ。

  何かが噛み合うような音が、床下から響いた。

  「下がって!」

  夕陽が叫んだときにはもう遅く、部屋の四隅に隠されていた結界の印が淡く光を放ち、瞬く間に三人を飲み込んでいった。

  続く