【第六話:杜鵑草の咲く頃に 中編】

  日はすっかり傾き、茜色が残る西の空に、すすきの穂が風に揺れていた。虫の音が遠くでかすかに響き、あたりには秋特有の冷え込みがじわりと広がり始めていた。

  「はぁ〜……、さっきの夕陽様かっこよかったなぁ〜……。ねぇ、あいつらの顔見たぁ? 完全に夕陽様にビビっちゃってさ、面白かったよね!」

  「こらこら」

  「……えへへ。でも夕陽様、いつもあんな大金持ち持ち歩いてんのか?」

  「……非常用にね。でも、価値があるだけで、大金というわけではないよ」

  ふわっと、朱雀の頭に夕陽の手が乗った。

  「命より大事なものなんて、ないだろう?」

  優しい声に、朱雀は一瞬、息をのんだ。

  (……やば。俺の夕陽様、かっこよすぎ……)

  胸の奥が、ぽわぽわと熱くなる。

  火照った頬をごまかすように、朱雀はぶんぶんと首を振った。

  「……なぁ、こいつ、大丈夫かな」

  夕陽の羽織に包まれ、ぐったりと抱きかかえられている彼を見つめながら、朱雀はぽつりと呟く。

  「大丈夫。でも、急がないとね」

  そう言って、夕陽は優しく腕の中の小さな体を抱き直した。

  「朱雀、帰ったらすぐ湯を張ってくれるか」

  呼びかけられた朱雀は、ぱっと顔を上げ、こくりと力強く頷く。

  「がってんだ!」

  家に到着するやいなや、朱雀は薪を抱えて湯殿の裏手へ走り、風呂釜に火を入れる。小さな手がせっせと薪をくべ、湯が沸くのを見守った。釜の底からごうごうと音がし始め、やがて湯気が立ち昇る。

  「夕陽様、湯、いい感じになったよ」

  「ありがとう、朱雀。助かった」

  湯殿には白い湯気が立ちこめ、しんと静かな空気が満ちている。

  夕陽は静かに、銀郎の汚れた衣を脱がせた。ぼろぼろで重たく湿った布を傷つけないように外し、すでに固まった血と汚物を流すよう、そっと湯をかけていく。

  その身体はひどく痩せ細り、肋骨が浮き出していた。背や腕、脚にまで無数の傷が走り、ところどころに蛆がうごめいている。朱雀は思わず息を呑んだが、ぎゅっと拳を握って、夕陽のそばを離れなかった。

  「怖いだろう? でも、見てくれてありがとう」

  夕陽は小さく笑いかけ、湯に浸した手拭いで銀郎の髪をゆっくりと拭ってゆく。泥と血で硬くなった髪の束が、少しずつほどけていく。

  「痛くないように」と声をかけながら、汚れを落とすように静かに流す。身体に触れる手は極限まで優しく、細心の注意を払っていた。

  「朱雀、薬を」

  「はいっ、これ」

  小さな木箱から取り出した軟膏を夕陽に渡すと、夕陽はそれを手のひらで温めてから、銀郎の裂けた皮膚にそっと塗った。腫れ上がった場所には冷やした布を当て、丁寧に包帯を巻いていく。

  やがて包帯の白が傷を隠すように身体を包み、傷口の痛ましさが少しでも和らぐよう、祈るような手つきで手当てを終えた。

  「死んじゃうかなぁ……?」

  朱雀は、意識を失ったままの銀郎を見つめながら、ぽつりと呟いた。

  「……幸い、破傷風にはなっていないようだけど。まだ安心はできないね。あとは、ゆっくり眠って、この子の生きる力を信じて見守るしかないかな」

  朱雀は黙ってうなずき、そっと毛布を持ってきて、銀郎の上に掛けた。

  「さて、重湯を作らなくてはね。朱雀、また手伝ってくれるかい?」

  「うん!」

  薬草の香りと湯気がまだ部屋に残るなか、秋の夜が静かに深まっていく。

  ***

  空がまだ群青色に染まる、夜明け前。

  囲炉裏の火がわずかに残る温もりを保つ部屋に、しんと静寂が降りていた。窓の外からは、秋の虫のかすかな鳴き声が聞こえてくる。

  その中で、小さな寝息を立てていた銀郎が、ぴくりと眉を動かした。

  まぶたが、ゆっくりと震えながら持ち上がる。視界がぼやけて、薄明かりの中、見知らぬ天井が映った。

  (……ここは……?)

  喉が焼けつくように渇いている。体は鉛のように重く、少し動かしただけで軋むような痛みが走った。

  それでも、わずかに首を傾けると――

  寄り添うように丸くなって眠っている小さな赤髪の少年がいた。着物の袖を枕にしながら、ぐっすりと眠っているその姿は、どこか守りたくなるような愛らしさを孕んでいた。

  (……銀妖……?)

  警戒と疑念が浮かびかけたその時、ふと、もうひとつの気配を感じる。

  少し離れた場所から、じっとこちらを見つめる、柔らかな光のような眼差し。

  「……目が覚めたかい?」

  その声に、銀郎の意識がゆっくりと現実へと戻っていく。

  細められた目の奥に、どこまでも静かで、深いものを湛えた男がいた。中性的な美貌と、どこか影を引くような気配。それでも、その人は穏やかに微笑んでいた。

  「今、重湯を持ってくるから、少し待っていなさい」

  (……誰だ。ここは、どこだ……)

  この男が敵か味方か、それすら判断できない。けれど、ただ一つわかるのは、檻の中よりもずっと温かい場所で、毛布にくるまれ、清潔な布が巻かれた身体をしているということだった。

  やがて、男――夕陽が、湯気の立つ椀を手に戻ってくる。

  その香りに、銀郎の喉が微かに鳴った。

  ぐつぐつ煮立てられた米の甘みと薬草のほのかな香りが、飢えた胃袋に訴えかけてくる。

  「熱くないから、大丈夫だよ。少しずつ口に含んで」

  そう言って、匙にすくわれたとろりと白い重湯が、銀郎の唇に近づく。

  銀郎は顔をそむけた。

  「いら、ない……」

  声にならないほどかすれた拒絶。だが、腹の虫は正直だった。ぐぅ、と情けなく鳴った腹に、銀郎自身が悔しそうに眉をひそめる。

  (食べたくない……けど、腹が……)

  匙が、もう一度近づく。

  今度は、ゆっくりと口元に触れた。銀郎は、迷うようにわずかに口を開き、重湯が舌に乗る。

  ――うまい、なんてものじゃない。

  染み渡る。温かい。命が、戻ってくるような気がした。

  「ほら、もうひと口」

  銀郎はかすかに首を振ったが、次の匙には抗えなかった。

  警戒の光を失わない金の瞳で夕陽を睨むように見つめながら、それでも、ひと匙、またひと匙と、重湯を喉へ流し込んでいく。

  食べたくない。信用もしていない。

  けれど体が、生きようとする。

  その事実が、銀郎には悔しくて、涙が出そうだった。

  夕陽はそれを咎めず、慰めもせず、ただ静かに重湯を運び続けた。

  ***

  そんな日が、何日か過ぎた。

  すっかり秋も深まり、朝夕の冷え込みが肌に染みる頃。朱雀は湯気の立つお粥の椀を盆に乗せ、軽やかな足取りで部屋に入ってきた。

  「ほら、飯だぞー」

  布団の中、身を起こしてうつむいていた銀郎が、ちらと朱雀を一瞥する。

  「…………」

  「お、顔色だいぶ良くなってきたな。血の気も戻ってきてるし、目もハッキリしてる。……ところでさ、お前、名前は?」

  返事はない。銀郎はまた目をそらす。

  「俺は朱雀。夕陽様に拾われて、ここで暮らしてんだ。よろしくなー」

  やたらと気さくな口調で言いながら、朱雀は椀の粥をすくい、小さな匙で銀郎の口元へ差し出す。

  「まっ、言いたくないならいいけど。ほら、あーん」

  「……いらない」

  「いいから、ほら遠慮すんなって」

  ……その瞬間だった。

  「……っ!」

  銀郎が、朱雀の手ごとバシッと振り払う。粥が床に散り、匙がカラリと音を立てて転がった。

  「って、うわ! ……おい、なにすんだよ!」

  びしょ濡れになった手を見て、朱雀はむっとした表情で銀郎を見下ろす。

  「せっかく看病してやってんのに、その態度はねぇだろ!? ったくもう……」

  くるりと振り返り、廊下に向かって叫んだ。

  「夕陽様! こいつぜんっぜん可愛くない!!」

  廊下に向かって叫ぶ朱雀の声が響いた。

  その隣で、銀郎は薄く目を細めたまま、再びふいと視線をそらす。

  「もうちょっと感謝とかあってもいいんじゃねぇの!? 水替えたのも、薬煎じたのも俺なんだからなー!」

  ぷんすかと文句を言いつつ、畳の粥をふき取る朱雀の横顔には、しかしどこか心配そうな色が混じっていた。

  「どうかしたかい?」

  その声に、朱雀が顔を上げる。夕陽が戸口に立ち、様子を伺っていた。

  「夕陽様〜、見てよ、これ!」

  朱雀が不満を込めて振り返ると、夕陽は室内に目をやり、こぼれた粥と俯く銀郎を一瞥して、「ああ」と静かに息を漏らした。

  「もう起きて、身体は大丈夫なのか? まだ病み上がりだから、あまり無理はしないように」

  やわらかく語りかけるその声音に、銀郎は睨みつけるように夕陽を見上げたあと、何も言わずに顔をそむけ、布団を頭まで被った。

  「こいつ……!」

  朱雀が眉間に皺を寄せ、いかにも不満そうに唇を尖らせる。

  「まあまあ。あれだけの目に遭ってきたんだ、無理もないさ」

  夕陽は朱雀の肩にそっと手を置き、諭すように微笑んだ。

  「……さて、朱雀。夕餉の支度を手伝ってくれないか?」

  「はぁ……ほんっと夕陽様って、甘すぎるっていうか……まあ、いいけど。何したらいいんだ?」

  不満を残しながらも、朱雀は立ち上がり、素直に夕陽の後を追う。

  そんな二人のやり取りを、布団の奥から銀郎はじっと聞いていた。

  ──なんでだ。

  なんであの赤毛は、人間なんかの言うことを、そんな素直に聞いてるんだ。

  胸の奥に燻るような、よくわからないざらついた感情が、銀郎の瞼の裏に静かに広がっていった。

  日が暮れ、秋の虫の音が静寂の帳を下ろしていた。

  朱雀は銀郎の隣に自分の布団を敷きながら、背を向けたままの相手に声をかける。

  「なぁ……いい加減、名前くらい教えてくれてもいいだろ?」

  ──だが、銀郎は相変わらず顔を見せず、微動だにしない。

  「……教えてくれないなら、ゴンベエって呼ぶぞ」

  「お前には関係ない」

  「ああ、そうですか。おやすみ、ゴンベエ」

  肩をすくめて朱雀はふっとため息を吐き、勢いよく枕に頭を沈めた。

  夜更け。

  囲炉裏の火もすっかり落ちて、家の中はしんと静まり返っていた。

  ふと、微かな鼻をすする音が聞こえる。

  銀郎だった。

  横になったまま、誰にも聞かれまいと必死に声を押し殺しながら、布団の中で泣いていた。

  思い出すのは、母の顔。

  ぬくもり。

  その声。

  何度も、何度も、手を伸ばしても届かない夢のような日々。

  「……母様……」

  小さくこぼれた声に、隣で眠っていた朱雀がそっと目を開ける。

  背中越しに、そのすすり泣く声を聞いていた。

  しばらく、じっと天井を見つめていた朱雀は、そっと寝返りを打ち、背を向ける。

  触れもしない。

  声もかけない。

  けれど、銀郎の泣き声を遮ることなく、ただ寄り添うように、その静けさに身を任せていた。

  ふたりを包む夜は、やけに冷たく、長かった。

  ***

  ある日、事件が起きた。

  「夕陽様ー! 大変だ! ゴンベエがいなくなった!」

  朱雀が血相を変えて駆け込んでくる。

  夕陽は一瞬、考え込むように眉を寄せたが、すぐに「彼」のことだと察した。

  「さっき、飯を運ぼうとしたら、もういなくてさ、どうしよう……ごめん、夕陽様……俺がちゃんと見てなかったから……」

  必死に訴える朱雀の声に、夕陽の胸に一抹の不安が広がる。

  まだ傷も癒えきっていないうえに、体もまともに動かせない状態だ。そんな彼が一人で彷徨えば、何が起きるかわからない。

  しかし、こうなることも見越して、夕陽は手を打ってあった。

  袂に手を差し入れ、小さな鈴を取り出して朱雀に見せる。

  「鈴……?」

  「うん、これは『還りの双鈴(かえりのそうれい)』って言って、二つで一つなんだ。一つの鈴を持って念じると、もう一つの持ち主の元に案内してくれる」

  「……ということは」

  「そう、念のため、一つは彼の着物にこっそり仕込んでおいた」

  「……!! さっすが夕陽様!! 迷子札ならぬ、迷子鈴ってわけだな」

  朱雀が感心して目を輝かせる。

  「まだ、そう遠くへは行っていないはずだ。一緒に探しに行こう」

  「うん!」

  続く