朱雀は、大きな木の根元に空いたウロに腰を下ろし、ぼんやりと夜の虚空を見上げていた。風は静かに枝葉を揺らし、遠く虫の音が小さく響くばかり。
口を開けば、深く潜んでいた感情までこぼれてしまいそうで、ただ黙って、時折短く息を吐くだけだった。
「朱雀、ここにいたのか。いつまでも戻ってこないから、心配したぞ」
振り返ることなく、朱雀はその声に小さく肩を揺らした。聞き慣れた、優しくて凛とした声。だけど今は、胸が締めつけられる。
「飲むか……? 酒を持ってきた。さっき白鷹くんが差し入れで持ってきてくれたんだ。この里で造られた果実酒だそうだ」
夕陽はそう言って、酒の入った竹筒を掲げ、朱雀の隣に静かに歩み寄ると、彼の傍らに腰を下ろした。
懐から盃を取り出し酒を注ぐ。琥珀色の液体が波紋を描き、竹の香りがほんのりと立ちのぼった。
朱雀は無言でそれを受け取る。手元の盃から、甘く熟れた香りが微かに鼻をくすぐる。
それを一口、静かに喉へと流し込んだ。口中に広がる果実の甘さと、竹の香が混じる微かな渋みに、わずかに目を伏せる。
二人の間に、夜の風がそっと吹き抜ける。
葉擦れの音だけが語り、時間が止まったような静寂が流れた。
やがて朱雀が、ぽつりと口を開いた。
「……夕陽様、俺……」
その声はかすかに震えていたが、確かな決意がにじんでいた。
「……半分、人間の血が混ざってるらしい」
朱雀の声は、夜風にかき消されそうなほど静かだった。
「俺が生まれる前、母親が銀妖狩りに出くわして、手傷を負って動けなくなってたとこを、助けてくれた男が……父親、だってさ。……でも、里の奴らは、それを許さなかった」
横顔の奥に滲む感情を、夕陽は言葉を挟まず、ただ黙って受け止めていた。
「隠れて、何度も逢瀬を重ねてたらしい。……でも、それがバレてさ。男は捕まって、あの人の……母親の目の前で殺された。……まるで見せしめみたいに」
その言葉に乗せられた静かな悲しみが、ゆっくりと宙を舞う。
きっと、身籠っていたことに気づいたのは、その直後だったのだろう。愛する者を奪われ、心も身体も傷ついたまま、朱雀の母はしばらく幽閉されていたという。それでも諦めなかった。
隙をついて里を抜け出し、追っ手の目をかいくぐりながら森に身を潜め、たった一人で朱雀を産んだ。
朱雀は視線を伏せ、かすかに唇を歪めて笑った。
「……拍子抜けだよな。あんなに憎んでたのに……母親のことも、父親のことも……ずっと“捨てられた”って思い込んで……勝手に恨んでた……」
言葉の途中で、声が震えた。
「なんだったんだろうな……俺……」
溜め込んできた想いが、堰を切ったようにあふれ出す。ぽろり、とひと粒、朱雀の頬を伝った涙が夜風に濡れた。
――捨てたんじゃない。
惚れた男との間にできた命を、母は最後まで“守ろう”としてくれたのだ。
すべてを捧げて、それでも手放さなかった。
どうか、生きて、とーー…。
小さく肩を震わせ、こらえるようにうずくまる朱雀を、夕陽はそっと抱き寄せた。
その身体を静かに包み込むように、やわらかく頭を撫でる。
「……朱雀。おまえが生きてくれて、本当に、よかった」
その声はまるで、深い夜を照らす月のように優しく、朱雀の胸の奥に届いていた。
***
昨夜は少し飲みすぎてしまったのかもしれない。
朝、目を覚ますとすでに二人の姿はなく、隣には丁寧に畳まれた寝具がそっと置かれていた。
格子戸から外に目をやると、広場では銀郎と朱雀が、里の子供たちに取り囲まれていた。いや、正確には――遊ばれていた。
「いてて、いってぇーっつの! 髪ひっぱんな!」
「その調子です。全部引っこ抜いてしまいなさい」
「オイ……ッ!!」
外の世界とほとんど接点のない子供たちにとって、見慣れぬ客人たちはさぞ珍しいのだろう。目をきらきらと輝かせてはしゃぐ様子が、なんとも微笑ましい。
思わず夕陽は、くすりと肩を揺らした。
長屋の外に出ると、朝靄の中、やわらかな陽光が世界を包み込んでいた。
「おはよう」
「おはようございます、夕陽様」
「あっ、おはようございます夕陽様。よく眠れたか?」
朱雀の顔はどこか晴れやかで、なにか吹っ切れたような、胸のつかえが取れたような、そんな笑みを浮かべていた。
ふと気づけば、さっきまで元気にはしゃいでいた子供たちが、いつの間にか二人の背中へ隠れるように身を寄せていた。
「にんげんだ……!」
「にんげん、こわい……」
夕陽はそっと腰を落とし、目線を合わせるように子供たちを見つめ、穏やかに微笑んだ。
「こんにちは。私は夕陽といいます。いま、この里で流行っている病を治しにきたんだよ」
「……ほんと?」
「お父さんも、お姉ちゃんも、びょうきになっちゃったの……」
「ほんとだぜ! 夕陽様は人間だけど、めっちゃすごい御方なんだぞ!」
「……ゆうひ様、おねがい。この里のみんなの病気、なおして……」
小さな手が、夕陽の袖をそっとつかんだ。
「ああ、約束する。必ず、みんなの病を治してみせるよ」
***
空が陰り、ぽつりぽつりと小さな雨粒が落ち始めた。
葉を打つ音がかすかに広がり、里の景色がほんのりと湿り気を帯びていく。
それはまるで、これから向かう先を静かに警告するかのようだった。
夕陽たちは装備を整えると、雨で湿った土を踏みしめながら、里の外れへと足を進めた。目指すのは、深碧の紫陽花が咲き誇る、あの不穏な一角。
「深碧の紫陽花、か……」
呟いた朱雀の声に、夕陽が頷く。
「ああ。あの空間だけ、異様に気が淀んでいる。瘴気も濃い。おそらく、呪いを撒き散らす怪異が潜んでいる可能性が高いだろう」
言葉に重みが乗る。銀郎と朱雀が、自然と背筋を伸ばした。
「銀郎、朱雀。戦闘に備えておいてくれ。……この依頼は、ただの退魔では済まないかもしれない。それでも――あの里の子供たちが、安心して眠れる日常を取り戻せるように」
夕陽は静かに振り返り、二人に目を向けた。
「……頼んだぞ」
「はい!」
「――ああ、任せときな!」
二人の声が重なり、決意がひとつになった。
深碧の紫陽花が群生するその一角は、まるで時が止まったかのような静けさに包まれていた。風も、鳥の声も途絶え、ただ重苦しい瘴気だけが肌を刺す。
夕陽は足元に結界の護符を展開しながら、目を細める。
「来る……ッ」
その瞬間——紫陽花の根元、幾重にも重なった青の中から、“それ”は這い出てきた。
ぐちゅ、と湿った音を立てながら土が蠢き、現れたのは巨大な赤子の怪異。
皮膚は火傷のようにただれ、膨れ上がった頭部には、歪んだ笑みが貼り付いていた。紫陽花の花弁がその体にまとわりつき、血を吸ったかのように一部は黒ずんでいる。
「——ッ、なんだ、あれ……!?」
朱雀が目を見開いた瞬間、怪異は嬰児のような喚き声を上げた。耳を劈くような音と共に、瘴気の波が周囲に放たれる。紫陽花が一斉に震え、花弁を散らせた。
「朱雀、左から回れ! 銀郎、抑えを!」
夕陽の指示に、二人の銀妖が即座に反応する。
銀郎が鞘から太刀を抜き、怪異の正面に立ちはだかる。
『ギィィぎゃああぁぁ……ッ!』
怪異がずるりと這い寄り、異様に伸びた手足で地を蹴る。その爪は鋭利に割れており、一本一本が杭のようだった。
銀郎は斬撃を繰り出しつつも、その力に押され、地を滑る。
「ちっ……! 夕陽様、この瘴気、通常の怪異より格段に濃いですッ!」
「わかっている、浄化の印を展開する——朱雀、囮を頼めるか?」
「任せとけ!!」
朱雀が勢いよく跳躍し、宙を舞う。赤い髪が弧を描く。
腰に隠し持っていた護符を投げつけると、それが怪異の顔面に当たり、バチバチと火花を散らす。
『がぎゃああああッ!!』
怪異がのたうち回るその隙に、夕陽は静かに手を合わせた。
結界陣の印を結び、地に刻んだ護符の上から呪を唱える。
「——浄火の光、呪縛の鎖となれ。此処に顕現し、禍を断て」
刹那、青白い光が紫陽花の根を包み込み、怪異の体を引き裂くように縛った。
銀郎がすかさず飛び込み、喉元へと一閃。
朱雀もまた、火符を口にくわえ、最後の火柱で怪異を焼き尽くす。
凄まじい断末魔が辺りに響き、紫陽花が燃えるように色づいた。
怪異が絶叫とともに崩れ落ちる。
その体が土に還ろうとする瞬間、無数の声が、紫陽花の根元から漏れ出すように響いた。
『……もっと、生きたかった……』
『母の胸に、抱かれたかった……』
『母の声を聞きたかった……』
『愛されたかった……』
『お母さん……』
それは、かつてこの場所に埋められた――“禍の子”と呼ばれ、恐れられ、見捨てられた命たちの、深い深い無念の叫びだった。
深碧の紫陽花が、その魂たちの想いに応えるように風に揺れ、ふわりと、ひとひらの花びらが舞い上がった。
それはまるで、ようやく静かに眠りについた子供たちの吐息のようで――
夕陽は、その穏やかな風の行方に目を細めた。
「やっと……新しい場所へ行けるな」
その声は誰に語るでもなく、けれど確かな祈りを帯びていた。
――次はどうか、祝福のもとに生まれ、誰かに愛され、温もりの中で生きていけますように。
夕陽は、静かにその想いを空へと送り出した。
傍らで、朱雀が小さく鼻を鳴らす。
「……やるせねえよな。こんなの。本当の“禍”になっちまうなんて、あんまりだ」
けれど、拳を握るその手には怒りよりも、深い哀しみがにじんでいた。
銀郎は何も言わず、ただ祈るように目を伏せて佇んでいた。
空は少しずつ晴れ始め、雨の雫を滑らせた紫陽花の色が、ほんのりと淡く、やさしい碧へと変わっていった――。
***
その頃、長の家では、にわかに慌ただしい気配が走っていた。
部下が戸を叩き、息を切らしながら駆け込んでくる。
「長っ、奥方様方のご病気が――急に、容態が回復の兆しを……!」
「……! なんだと、それは一体、どういうことだ」
「……分かりません。ですが、さきほどから奥方様だけでなく、寝込んでいた者たちの容態が、次々と……まるで呪縛が解かれたように……!」
「なに?」
「まさか……あの祓い師の仕業、なのでしょうか。紫陽花の咲く一帯に向かわれたとの報せも……。あれは……人の力で成せる業なのか……」
長は厳つい面持ちのまま、沈黙した。
その鋭い眼光が宙を彷徨い、次第に思考の迷路へと沈んでいく。
――あの祓い師が、本当に"それ"を成したのか?
もしそうなら、この里に訪れた意味とは。
その存在は……吉兆か、あるいは。
「わかった、今すぐ様子を見に行く」
長が立ち上がると、静まり返っていた屋敷の空気が揺れる。
「ハッ!」
部下が一礼し、すぐさまその背に続く。
長は無言のまま廊下を進み、妻たちの病室へと歩を進めていった。
「夕陽殿っ、皆さんーー!」
一仕事を終えた三人のもとへ、白鷹が駆け寄ってくる。
深く泥に塗れた夕陽たちの姿を目にし、白鷹は何かを悟ったように、静かに目を見開いた。
「やっぱり……あなたたちのおかげだったんですね……」
白鷹の顔と腕に浮かんでいた痣は、ほとんど消えかけていた。
それに気づいた朱雀が、少し目を細める。
「本当に、本当に、ありがとうございます……! 母も、先ほど目を覚ましました。……目が、見えるようになったんです……!」
そこまで言った瞬間、白鷹の声が詰まり、そのまま崩れるように地に膝をついた。
こらえていた涙が、ぽつぽつと土の上に落ちていく。
朱雀が照れたように鼻をかき、銀郎はそっと目を伏せて微笑んだ。
夕陽は静かに一歩近づき、白鷹の肩に手を添えた。
長屋に戻ると、もうそこに、具合の悪そうな彼女の姿はなかった。
「……白鷹! ……!!」
白鷹に伴われて部屋に入ってきた朱雀の姿を見た瞬間、彼女はぽろぽろと涙をこぼした。
朱雀によく似た、儚げでとても美しい女性だった。病に伏していたとは思えないほど、今は穏やかな表情をしている。
「ああ……夕陽殿、大事な息子を……育ててくださって、本当にありがとうございました……。それに、この里の危機まで救っていただいたと……本当に……なんとお礼を申し上げればいいか……」
「いいえ、私の方こそ、朱雀には何度助けられたかわかりません。朱雀は、とてもまっすぐで、優しい子ですよ」
女性は頷きながら、朱雀に向けて微笑んだ。
「そう……朱雀。とても綺麗な名をいただいたのね。あのとき、せめて名前だけでもと願っていたことを……叶えてくれた方がいたのね」
朱雀は黙ったまま、目を伏せていた。拳がわずかに震えている。
「朱雀。どんな事情があろうと――たとえどれだけ私が追い詰められていたとしても、一度でもお前を手放したこの罪は、きっと一生消えません。それでも……それでも、もし……いつか、ほんの少しでも、そんな私を許してくれる日が来たら……どうか、また会いに来てちょうだい」
涙ながらに差し出された手を、朱雀はゆっくりと握った。
その手は温かく、どこか懐かしい匂いがした。
静かな感謝の言葉が交わされていたその時――
板戸が、控えめに二度、叩かれた。
「失礼する」
低い声と共に、板戸が静かに開き、長とその部下達が姿を現した。普段の威厳ある佇まいはそのままに、どこか肩の力が抜けたような気配をまとっている。
厳つい顔に深い陰を落としながら、長らは夕陽たちの前に立ち、静かに頭を下げた。
「伝令より、しかと事の経緯は把握した。このたびは、私の目が曇っていたばかりに……。祓い師殿に対して、数々の無礼があったこと、深くお詫び申し上げます」
その声音には、誠実な悔いと、積年の思いがにじんでいた。
「……あなた方が来てくださらなければ、この里も、我が家族もどうなっていたか……。妻だけでなく、白鷹、そして里の者まで――本当に、感謝してもしきれません」
夕陽は静かに微笑んで応じた。
「いいえ。救ったのは私たちではありません。朱雀が、白鷹くんが、そしてあなたのご家族が、自らの力で乗り越えたのです。私たちは、ほんの少し背を押したに過ぎません」
長はしばらく沈黙したのち、再び深々と頭を下げた。
「それでも……あなた方が、この里に訪れてくださったことが、吉兆であったことに変わりはありません。どうか、この不甲斐ない長の非礼、今一度お許し願いたい」
長の深い礼に、夕陽は静かに頷いた。
そして、ほんのわずか躊躇したのちに、口を開く。
「……でしたら、お願いがございます」
夕陽の声音には、どこか遠くを見つめるような優しさがあった。
「どうか、この地に祠を建てていただけませんか。あの深碧の紫陽花の下に埋められていた子らが、少しでも安らかに眠れるよう……供養の場を。彼らは誰よりも、愛を欲し、抱かれることを望んでいたのです。せめて祈りの灯りで、その魂を包んでやってほしいのです」
長は、黙って頷いた。
夕陽は視線を伏せ、静かに言葉を継いだ。
「命は……誰かの願いから生まれてきます。純血を重んじることが、悪いとは申しません。けれど、どうかその“願い”までを、なきものにしないでください。どの命も、望まれて生まれてきたのだということを、忘れないでいてほしいのです」
しんと、室内に静寂が落ちる。
その言葉の重さを受け止めるように、長は深々と頭を下げた。
「……心得ました。必ず、しかるべき祠を設けましょう。そして、今後は命の在り方を、改めて見つめ直して参ります」
言葉を失ったのは、長だけではなかった。
その場にいた誰もが、夕陽の言葉に打たれたように黙し、ただ静かに息を潜める。
やがて、格子戸の外から風に揺れる木の葉の音が、そっと場を和らげるように届いた。
夕陽は一歩、長の前へと歩み寄る。そして、そっと微笑んだ。
「……ありがとうございます。あの子たちも、きっと喜びます」
それが、“禍の子”とされてしまった子らへの、祈りであり、誓いだった。
長が再び深く頭を下げると、朱雀と銀郎もその背に倣って、静かに礼を取る。
夏まだ浅き日の午後。
その家には、いくつもの命を救った、穏やかな風が吹いていた。
***
出立の日。
荷造りを終え、長屋を出ると、里の広場には銀妖たちが集まり、静かに見送りの列を成していた。名残を惜しむような、ほのかに切ない空気が梅雨の湿った風とともに漂い、広場を包み込んでいった。
「途中までの道案内は、僕が務めます」
白鷹が、いつものように真摯な声で申し出ると、長はゆっくりとうなずき、前に出た。
「うむ。頼んだぞ、白鷹。それでは、祓い師殿、旅路の無事を祈っておる。そして、朱雀殿……もう、取り返しがつかぬことかもしれぬが、もしそなたが再びこの里に戻る気があるのなら、我々はいつでも迎え入れよう」
長は、深く静かに頭を下げた。朱雀はその言葉を受けて、しばし黙った後、肩をすくめて、いつものように優しく笑った。
「……いや、俺の居場所は、ここじゃねーから」
「……そうか、わかった。……達者でな」
「ああ」
そのとき、ひときわ柔らかい声が広場の隅から聞こえてきた。
「朱雀……元気でね……」
人々の隙間から、朱雀の母が顔を覗かせていた。涙に濡れた瞳を、震える手で拭おうとしている。
朱雀はその姿に目を伏せ、少しだけ躊躇した後、深く息を吸って、小さく微笑んだ。
「ああ……行ってくるよ、“母さん”」
その言葉に、夕陽と銀郎は静かに目を細めた。少しの安堵と共に、温かな眼差しを向けていた。
***
深い森の中、白鷹の先導で細い道を進みながら、夕陽が静かに口を開いた。
「……本当に、あの里に残らなくてよかったのか?」
朱雀は一瞬黙り込んだが、すぐに穏やかな吐息を漏らし、答える。
「……今さら“帰ってこい”なんて言われても、虫が良すぎるというか、なんというか……。それに……俺の居場所は、ここしかねーんだ。……夕陽様の傍にいることが、俺の全てだって、そう思ってる。だから……置いてほしい。これからも、ずっと」
「……そうか」
夕陽は一瞬、柔らかな微笑みを浮かべるが、その瞳には、どこか遠くを見つめるような、複雑な陰が宿っていた。
この選択が朱雀を幸せにするのか――ふと、そんな問いが脳裏を掠めた。
夕陽はそれをそっと胸の奥にしまい込み、何も言わずに歩を進める。
「この道を真っすぐ下れば、馴染みの神社の裏手に出られるはずです」
「白鷹くん、案内をありがとう」
「いいえ、こちらこそ……本当に、ありがとうございました。兄のこと……よろしくお願いします」
夕陽は、静かに頷くだけだった。
「じゃあな、白鷹。……母さんのこと、その、頼むな」
朱雀は、少し照れくさそうに頭をかく。白鷹は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに穏やかな笑みを返した。
「……はい」
そのまま、見送る白鷹に背を向け、一行が歩き出そうとしたとき——
「あっ、そうだ……!」
白鷹が小走りで追いつき、朱雀の耳元にそっと囁いた。
「夕陽殿って、とっても素敵な方だね。銀郎殿は手強そうだけど、頑張って。兄さんの恋……僕、応援しているからね」
「〜〜〜〜っ!? な、なに言ってんだおまっ……!!」
朱雀が真っ赤になり、驚いた声を上げる。
「白鷹うぅぅ〜〜〜てめぇ、ふざけんなあああ!」
「ふふふっ」
その笑い声が、森の静けさをやさしく破り、遠くに広がった。
木漏れ日がやわらかく降り注ぎ、鳥のさえずりが響く中で、その“内緒話”はそっと囁かれていた。
第四話:忘郷‐紫陽花の幽都‐ 完