水の大陸、ワイワイタウンの港湾部。
朝日に照らされた倉庫の入り口には見張りの兵士の姿があり、倉庫内には貨物を調べている騎士達の姿がある。武装した騎士達は積まれた貨物を一つずつ地面に降ろし、その中身を確認している。
また一つ、地面に降ろされた木箱の蓋を開けた騎士は、倉庫の入り口付近に立つ影に声をかけた。
「室長‼︎これを見てください‼︎」
室長と呼ばれた影、牡のバクフーンのグレイは副官を務める騎士の傍に歩み寄り、木箱の中身に目を向ける。木箱の中には緩衝材が敷き詰められ、その上には銃と弾薬が保管されている。その一つを手に取ったグレイは驚きの顔を浮かべ、銃の造りを観察した。
「…これは、かなり精巧に作られているな…」
グレイの呟きを聞いた副官も頷き、弾丸を手に取る。
「この銃弾の薬莢と雷管の精度も高いですね…騎士団では技官達がまだ試作している段階なのに…」
「…金属加工と薬学に長けた者が関わっているのかもしれないな」
グレイは小声で呟き、副官の差し出した納品書に目を通す。それに記された数字を見たグレイは目を見開き、倉庫内にある木箱やコンテナと見比べた。
「…まさか、他にも貨物があるのか?」
眼前の光景を遥かに凌ぐ量の銃火器と弾丸が納品されたと知ったグレイは呟き、視線を辺りに向ける。倉庫内の貨物の内、銃火器や弾丸は一部である。他の貨物は食料や香辛料、日用品などである。
しかし、グレイの手中にある納品書には倉庫内に収められた以上の量の銃火器が取引された事を示しており、それを理解したグレイは苦い表情を浮かべる。
グレイは視線を副官に向け、指示を出した。
「管理会社に要請し、過去の納品記録を照会しよう…それと、逮捕した連中の財政状況も把握しておきたい…」
命じられた副官は怪訝そうな顔を浮かべ、グレイの顔を見た。
「納品記録はわかりますが…捕まえた連中の財政状況も知る必要がありますか?」
副官に問われたグレイは頷き、手元の納品書に記された数字と貨物の中身を見比べ、口を開く。
「これだけの精度の品を大量に購入するには…莫大な資金が必要だ。逮捕した連中にそれを用意できる力があるのか…或いは納品書の数字がブラフなのか…知る必要がある」
グレイの説明を聞いた副官は感心したように頷き、部下を呼びに走った。その背中を見届けたグレイは、再び視線を貨物の中に向け、そこに収められた品々を観察する。
(…どれも騎士団が研究開発している以上のクオリティを保っている…この数とクオリティを維持できる金属加工の技術…)
心の中で考えたグレイは、苦い表情を浮かべつつ、貨物に収められた銃の精巧さに舌を巻いた。
グレイ達が逮捕した連中は反社会的な集団であり、日頃から武器や薬物の取引を仕切っている連中である。今回も『大量の薬物を取引している』と匿名からリークがあり、騎士団が捕縛した。
捕縛した結果、騎士団の想像以上の取引が見つかった。
(…連中にこれほどの資金力があるとは思えない…納品書はブラフか?ならば…匿名のリークの狙いは…我々に納品書を見つけさせる事か?)
グレイは静かに思考し、溜息をこぼした。騎士団本部の参謀という立場である以上、思考する事はグレイの仕事であり、日々頭脳労働に明け暮れていた。
新たな問題が見つかり、グレイは軽い頭痛を覚えつつも、タバコを取り出し口に咥えた。自身の指の炎でタバコに火をつけるため、グレイは指に力を込めた。
「タバコは不健康の元ですよ、叔父様」
グレイの耳に若い牝の声が届いた。彼が視線を向けた先には叔母であるオリビアの孫娘、フィルが立っていた。外交部に所属する親戚の顔を見たグレイは軽く手を振り、タバコをケースに収納した。
「頭脳労働で疲れた頭には、必要な栄養素だよ」
グレイは苦笑いしつつ、自身の唇を指先で撫でた。タバコを吸えなかった寂しさが口元にあり、それを誤魔化すためにグレイは舌舐めずりをした。
グレイの顔を見上げたフィルは肩から下げたカバンに手を入れ、中から小さな飴玉を取り出した。フィルはそれをグレイに差し出し、微かに笑みを見せた。
「頭脳労働にはタバコより甘い物が良いですよ、叔父様」
笑みを浮かべたまま差し出してくるフィルを見たグレイは、再び苦笑しそれを受け取った。雨の包装を破り、それを口内へ含み、グレイは微かに目を細めた。
口内にイチゴの味が広がる。
甘い匂いと味がグレイの疲れた脳に広がり、グレイは微かに溜息をこぼした。グレイは視線をフィルに向け、穏やかな声で彼女に礼を述べた。
「ありがとう…確かに、そろそろ禁煙を考えても良いかもしれないね」
グレイの返事を聞いたフィルは満面の笑みを浮かべ、グレイの顔を見上げながら口を開いた。
「禁煙するなら、お祖母様も一緒にお願いします」
まだ年若いフィルの言葉を聞き、グレイは苦笑しつつ彼女の頭を撫でた。赤子の頃から世話をしてきたグレイにとって、フィルは第2の娘とも言える存在である。
グレイに撫でられたフィルは擽ったそうに目を細めた。フィルを見たグレイもまた、疲れた表情ではあるが僅かに笑みを浮かべ、その場で伸びをした。固まった筋肉がバキバキと音を立てつつ伸びる感触を覚え、グレイは改めて自身が疲れている事を自覚した。
(…早く仕事を終わらせて、家に帰るか)
グレイは妻と娘の顔を思い出しつつ、フィルに声をかけた。
「それで…フィルはなぜここに来たのかい?港だから…外交部の仕事か?」
グレイに尋ねられたフィルは頷き、周囲を見渡し、声を低くさせながら話す。
「…お祖母様の指示で各地の検問所や港での取引記録と商人達の流通の記録を照会しています。この倉庫でも大量の銃器や食料、日用品が保管されていたと聞き…調査に来ました」
フィルの話を聞いたグレイは顎に指を当て、考え込む。彼の視線は手元の納品書と倉庫内の貨物、そしてフィルの差し出した各地の取引の実数値と書類上の数値を比較した資料に目を通す。
グレイは資料を読み解き、小さな声で呟いた。
「…都市から地方への物流の数値が、削られて記録されているな」
数値から状況を把握したグレイは呟き、フィルも頷いた。
「物量全体を俯瞰して分析したところ、地方から都市への食料品の流れに関しては、実数値と書類上の記録に大きな差異は見られません…ですが、都市から地方への物量は少なく記録されている傾向にあります」
「…取引記録を少なく記録し、差額の物資を別の場所に流している…偽造された物量は銃火器の取引か?」
グレイに尋ねられたフィルは首を左右に振り、グレイの持つ資料を捲る。そこに記された数値をグレイに見せつつ、フィルは話を続ける。
「医薬品や日用品などが主ですが、各地の軍隊や武装勢力に流れる火薬類や医薬品、銃火器などの類に大きな変化はありません」
「…医薬品や日用品の横流し…新たな生活コロニーが生まれているな」
グレイは呟き、フィルは頷く。
「お祖母様も同じ事を指摘していました。ただ、軍備の拡張は確認されなかったため、あくまでも新たな村や集落などの生活コロニーが生成されていると考えられます」
以前、取引数値の改竄が軍備の拡張を意味する訳ではないとオリビアから教わったフィルは、祖母の予想が当たっている事を実感した。改めて、祖母の能力の高さを目の当たりにしたフィルは、彼女のアドバイスに素直に従いつつ、行動していた。
そうして、様々な事柄を把握したフィルは、グレイに情報を提供した。
グレイは納品書と貨物に視線を向け、静かな声で呟いた。
「…この納品書の数値も異様に大きいが、大量の銃火器を取引したと思い込ませるためのブラフか…」
グレイ達が捕縛した連中の財政状況はまだ調べていないが、彼らの装備や状況から大した資産を有していない事は明白である。加えて、フィルから各地の軍隊や武装勢力が軍備を拡張していない事を報告されたグレイは、幾つかの可能性を考慮した。
やがて、グレイは口を開いた。
「…どうやら、各地に新たな生活コロニーが誕生し、医薬品や日用品をちょろまかしているようだな。加えて…大量の銃火器の取引が行われたと我々に思わせる事で、自分達の武力が強大な物だとアピールしている…」
「やはり、ディアルガ教徒ですか?」
フィルに尋ねられたグレイは「おそらくな」と呟く。
「ディアルガ教徒達が新たな生活コロニーを形成している…だが、これだけ精密な金属加工や雷管の生成している事を考えると…ある程度の武力は有しているだろうな」
「…組織的な戦闘を仕掛けてくる可能性はありますか?」
フィルに問われたグレイは首を左右に振り、視線をフィルに向ける。グレイはフィルの頭を撫でつつ、落ち着いた口調で話す。
「騎士団が各地のディアルガ教徒達の集落をパトロールしているが、現状は平和そのものだ。おそらく、取引の横流し先も各地の集落だろうな。そこを介して、新たなコロニーへと送っているのか…」
現状のディアルガ教徒達は信者同士で集まり、集落を作っているだけである。レシラム教やゼクロム教に対して軍事的な行動を取っていない以上、騎士団も治安維持のためのパトロールという名目の偵察行動しか取れない。
グレイは苦い表情を浮かべつつ、呟いた。
「…取引記録の改竄は、あくまでも商人や検問所、港の『ミス』と言われるだろう…故意ではないミスならば、コロニーに対する積極的な行動を取る訳にはいかない…」
「…物量全体の流れも、あくまでも傾向があるだけであり、各地のコロニーを問いただす根拠として乏しいですね」
各地の検問所や港と商人達の取引の統計が誤っているからといって、横流し先と考えられるディアルガ教徒の集落を調査する訳にはいかない。その事をよく理解しているグレイは苦い表情を浮かべつつ、溜息をこぼす。
「騎士団が動くということは、それだけで外圧を加えることになる…相手方も警戒し、余計な問題が生じる可能性もあるね」
グレイの呟きを耳にしたフィルは頷く。外交部の官僚として働くフィルにとっても、交渉時に外圧を加える必要性を理解している。しかし、個人間の交渉ならまだしも、部族間や宗教間、国家間の交渉で余計な外圧を加えた場合、行き着く果てが衝突である事も理解している。
フィルは困り顔で唸り声を漏らし、呟いた。
「なにか…ヒントがあれば良いのですが…」
彼女の呟きを聞いたグレイは低い声で唸り、周囲を見渡した。騎士達と距離が空いている事を確認したグレイは、声量を抑えつつ、フィルにのみ聞こえるように話した。
「…これは未発表の情報だが、倉庫にいた連中を捕縛したのは騎士団だが…捕縛のみだ」
グレイの呟きを聞いたフィルは驚きの顔を浮かべ、彼を見上げた。グレイは素知らぬ顔のまま、微かな声で呟く。
「作戦を指揮した隊長の報告によると…倉庫内に突入した時点で、連中は手足の骨を折られた状態だった…倉庫の外に逃げたリーダーも倉庫の外壁に叩きつけられ、失神していたよ」
「…では、騎士団以外の者が戦ったと?」
フィルに尋ねられたグレイは肩を竦めた。彼は周囲の騎士達に気づかれぬように声を小さくさせ、フィルにのみ聞こえるように呟いた。
「…ペストマスクと外套を纏った者、らしい…」
捕縛したリングマやハッサムから得た情報をフィルに伝えたグレイは、「叔母さまによろしく言ってくれ」と騎士達に聞こえる声量でフィルに言った。一見すると親族の子供を可愛がる叔父の姿であり、騎士達も特に違和感を抱かず、各々の作業に意識を向ける。
グレイはフィルの頭を撫で、副官の下へと歩いて行った。その背中を見届けたフィルは小さな声で呟いた。
「ペストマスクと外套…」
*
レシラム教教会に併設された騎士団の本部、その訓練場にゼインとエレナの姿がある。彼女らの他にも、ゼインやロア、テスなど上級学校に通う面々の姿があり、彼らは指導教官を務めるガロンの監督の下、訓練場にて護身術の授業を受けている。
「…では、各自で実践してください」
手本を見せたガロンは学生達に声をかけた。ガロンに指示された学生達はペアを組んでいる学生同士でストレッチを行い、準備ができた者から組み手の型の練習を行っている。
学生の多くは初めて経験する護身術の授業に四苦八苦しているが、騎士団の訓練を受けているロアや護衛を務めるカルムは難なく組み手をこなし、周りの学生達から称賛の眼差しを贈られている。
その光景を横目で見たゼインは、ペアを組む牡の学生の首元を掴み、足払いをかけつつ、体重を移動させた。重心を移動させたゼインに引っ張られ、学生はなす術もなく地面に倒れ込み、ゼインは彼の腕を捻り、動きを制限した。
保安官である父親から護身術を一通り学んでいるゼインの手捌きを見た他の学生達からも、感嘆の声があがる。
彼らの声を聞いたゼインは恥ずかしそうに顔を背けるが、ペアを組んだ学生に手を貸し、立ち上がるのをサポートする。学生が立った後、ゼインは一礼した。
「ありがとうございます」
ゼインに礼を述べられた学生は恥ずかしそうに俯き、小声で「ありがとうございます」と返す。彼の背後では、別の学生とペアを組んだエレナが、倍近い体重差のある学生の身体を掴み、その重たい身体を放り投げる光景が見えた。
『いやぁ〜、相変わらずエレナちゃんの馬鹿力は凄いよねぇ〜』
ゼインの脳内に白いポケモンの声が広がる。卓袱台に向かって座り、翁の淹れた熱いお茶を飲む白いポケモンは、のんびりとした口調でエレナの剛腕を称賛している。
『腕力だけなら父親以上だな…綺麗な花には棘があると言うが…まさにエレナちゃんの事だな』
白いポケモンの言葉にギラちゃんも賛同し、お茶を飲む音が聞こえた。のんびりとした彼らの雰囲気を肌で感じたゼインは溜息をこぼし、心の中で返答した。
『他人事みたいに話しているけど、あんたらとエレナが鉢合わせたところで…勝てる自信はあるの?』
『…』
『…無理』
ゼインに問われた白いポケモンは沈黙し、ギラちゃんはぽつりと呟いた。彼らの反応を見たゼインは鼻で笑い、意識を眼前へと向ける。先ほどの学生はガロンからアドバイスを受けており、別の学生と組み手を行っている。
その光景を見たゼインは、訓練場の中を歩き、近づいてくる影に気がついた。しなやかな筋肉を白い体毛で覆われたロアは、ゼインに近づき笑みを浮かべた。
ゼインはロアに鋭い目を向けるが、ロアは朗らかな笑みを浮かべ、口を開いた。
「見事な腕前だ、未経験者が相手とはいえ…まさか牡を投げ飛ばせると…」
称賛の言葉を贈るロアは友好的な笑みを浮かべるが、ゼインは「どうも」と短く応える。近くにある水差しからグラスに水を注ぎ、ゼインはそれを口に流し込む。
氷で冷やされた水が口内に流れ込み、乾いた喉を潤す。
心地良さがゼインの中に広がり、彼女は目を細める。同時に首筋に走る違和感を覚え、ゼインは呆れ顔を浮かべ、振り向いた。
ゼインを注視しているロアは悪戯っ子のように笑い、ゼインに片手を差し出した。ダンスのお誘いのようなロアの振る舞いの意味を理解する事ができるゼインは、溜息をこぼし、ロアに尋ねた。
「口で言ったら?」
ゼインに指摘されたロアは苦笑いを浮かべ、「そうだな」と応える。彼は改めてゼインの手を取り、にやりと笑みを浮かべる。
「お相手を願おう」
騎士団で軍事訓練を受けるロアから見ても、ゼインの護身術は見事なものである。ロアの中にある闘争心が刺激され、挑戦的な笑みを浮かべる。
彼の笑みを見たゼインは視線を空に向け、息を吐いた。ゼインは手に持つグラスを水差しの横に置き、ロアの手を軽く叩いた。
ゼインの手はロアの手首を即座に掴み、彼の腕を巻き込みつつ、肩関節を内旋させた。ゼインはそのままロアの身体を巻き込みつつ、重心を利用し彼を地面に押し倒そうとした。
だが、ロアは前腕を回外させ、掴まれた手首を強引に引き抜いた。ロアの反応と腕力に耐えきれなかったゼインはバランスを崩し、地面に倒れ込む。
「…クソッ‼︎」
砂埃を立てつつ、ゼインは地面を転がり、ロアに足払いをかけた。だが、ロアは軽やかなステップで足払いを避け、ゼインの顔を見つめ、ニヤリと笑った。
直後、地面を転がるゼインは砂を掴み、ロアの顔面に向かって投げつけた。空を飛ぶ砂は細かく飛び散り、ロアの視界を奪う。
「ちょっ…」
予想を超えたゼインの反撃にロアは声を漏らし、彼の足取りが僅かに遅れる。その隙を見逃さなかったゼインは素早く身体を起こし、ロアの腕を掴み、捻り上げようとした。だが、ロアは素早く腕を動かし、ゼインの拘束を回避した。
ロアの手がゼインの腕を掴む。
「…捕まえた」
ロアは僅かに笑いを浮かべ、ゼインの腕を捻り上げつつ、その場で足払いをかけた。ゼインはなす術もなく倒れ込み、ロアはゼインの反撃を防ぐべく、彼女の身体を拘束した。
自身の身体の下で拘束から逃れようと暴れるゼインであるが、その動きは弱まった。それを確認したロアはニヤリと笑みを浮かべ、静かな声で話した。
「俺の勝ち、だな」
ロアは呟いた直後、周りの視線が自身とゼインに向けられている事に気がついた。テスやカルムだけでなく、指導教官であるガロンの顔も凍りつき、ロアを凝視している。
彼らの視線と反応を訝しげな表情で見渡したロアは、視線をゼインに向けた。
ロアに押し倒されたゼインの顔は羞恥心で真っ赤に染まっている。彼女の目はロアの顔と自身の胸を鷲掴みにするロアの手を行き来し、ゼインの目尻に涙が浮かぶ。
「あ、いや…違っ‼︎」
今になり、状況を理解したロアは慌ててゼインの拘束を解き、急いで彼女の上から降りた。
直後、ゼインの脚が素早く動き、つま先でロアの顔に蹴りを放つ。眼前に迫りつつあるゼインのつま先を見たロアは、無意識にそれを手で防ぐ。
ゼインの反撃を防いだロアは安堵の息をこぼした。
次の瞬間、ロアの視界が反転した。
「お姉ちゃんから離れろ‼︎」
ロアの視界にゼインと彼女の隣に立つエレナの姿が映る。エレナは潤んだ瞳でロアを睨みつけており、剛腕にものを言わせ、ロアの身体を放り投げた。
剛腕のエレナが全力で投げ飛ばした事により、ロアの身体は空を飛び、訓練場を舞った。その頃になり、他の学生達も異変に反応し、空を飛ぶロアの存在に気がついた。
誰もが唖然とした表情を浮かべており、指導教官を務めるガロンも、華奢なエレナがロアをこれほどまでに投げ飛ばせるとは予想しておらず、驚きの表情を隠せずにいた。
だが、ガロンは即座に我に返り、素早く駆け出そうとした。カルムもロアを救うべく、ガロンより素早く駆け出した。
ロアの身体は空を飛び、そのまま地面に叩きつけられそうになった。しかし、ロアの身体が地面に衝突する直前、逞しい腕が彼の身体を抱き上げた。地面に衝突する事を覚悟していたロアは、自身を抱える影に目を向け、驚きの顔を浮かべた。
「…父上」
ロアを抱える人物、彼の養父であり騎士団の団長を務める牡のガオガエン、ルドルフは呆れ顔でロアを見ており、駆けつけたガロンとカルムに目を向け、静かな声で尋ねた。
「様子を見に来たつもりだったが…何事だ?」
ルドルフはロアとカルム、ガロンに目を向けつつ、尋ねた。ルドルフに問われたカルムとガロンは言葉に詰まり、視線を僅かに逸らした。
『護身術の授業中、ロアが誤ってゼインの胸を鷲掴みにしてしまい、妹のエレナに放り投げられた』と口に出せば、ゼインを辱め、ロアの名誉を傷つける事になる。従者であるカルムと指導教官であるガロンは言葉に詰まったまま、はっきりとしない声を漏らした。
「え、と…その…」
「その…なんと言うべきか…」
カルムとガロンの親子がしどろもどろになる姿を見たルドルフは首を傾げ、抱えられたロアは恥ずかしそうに顔を俯かせた。
事の成り行きを傍で見ていたテス、当事者であるゼインとエレナは鋭い目つきでロアを睨んでおり、場の空気は冷え切っていた。
唯一、状況を把握できていないルドルフは首を傾げ、不思議そうに皆を見ていた。
*
調査団の拠点内には幾つもの部屋があり、団員達の個室として使われている。広さは7-8畳ほどのワンルームであり、共有の水回りがあるため、団員達は睡眠や休息などに使用している。
その中の一角、日当たりの良い部屋の中に牝のリザード、エリスの姿があった。この数日間、教会内にある図書館に通い、手の空いたフィルの手助けを借り、おだやか村で起きた事件について調べていた。
犠牲者の人数、時系列、被害状況、犠牲者達の詳細、騎士団による鎮圧と捕縛された暴徒のその後、事件の影響などについて調べたエリスは、暇な時間があれば自室で資料を読み漁り、両親とおだやか村との関係を知ろうとしていた。
その過程で、フィルは「隕石の落下の阻止に失敗した者がいた」「その者はおだやか村の出身であった」という情報を得た。加えてフィルの提案した現地調査の必要性もエリスは実感していた。
「…紙の資料だけでは、犠牲者の名前まではわからないよね」
椅子に座ったエリスは小声で呟き、背伸びをした。凝り固まった筋肉が伸びる感覚が広がり、エリスは僅かに目を細める。バキバキと音をあげる身体を伸ばしたエリスは、視線を天井に向けた。
天井には僅かな汚れが付着しているが、部屋の壁や床は綺麗に清掃されており、数少ない調度品はエリスの品の良さを表している。
調査団で働き始めた頃、団長はエリスをこの部屋へと案内した。部屋の中には古びた家具や本などが置かれているが、いずれも手入れされており、いつでも使える状態であった。
当初は引っ越してきたばかりのエリスのために、団長が家具を用意したと彼女は考えていた。だが、室内に保管されていた本はエリスが産まれる前に発行されたものであり、家具のデザインも古びたものである。
まるで、誰かが使っていた部屋を保存し、それをエリスに与えたようである。
団長の対応にエリスは疑問を抱いたが、室内にある家具や本はエリスの好みに合っており、特に不満をあげずにエリスは使い続けていた。
天井を見上げていたエリスは、気分転換を兼ね、汚れを落とそうと椅子に登った。雑巾を片手にエリスは天井に手を伸ばし、汚れた部分を擦り、天井の汚れを取り除いた。
エリスの手が止まった。
汚れの下には傷があり、文字を刻み込んでいる。天井を汚す事で意図的に文字を隠している事に気がついたエリスは、目を細め、傷が描く文字を読解しようとした。
「…ライラとリラ?」
天井には両親の本名が刻まれており、2人の名前はハートマークで囲われている。それを見たエリスは首を傾げ、室内を見渡した。
室内の家具や本、調度品はエリスの好みと合っており、まるで実家にいるような感覚を抱いた。実家と同じような雰囲気のある部屋を見渡したエリスは、違和感の正体に気がついた。
「まさか…この部屋はお母さんが使っていた部屋?」
部屋の前の主人がリラであった場合、彼女の趣味が反映された部屋となる。そのため、調査団の部屋と実家の雰囲気が似ているようにエリスは感じたのだ。
エリスは部屋の雰囲気から母の存在を感じ、思わず頬を緩めた。
「…そっか、お母さんが修行していた時に使っていたのか」
エリスは小声で呟き、天井に名前を刻む母親の姿を想像した。昔から仲睦まじい両親の事を思い出したエリスは、椅子から降り、大きく伸びをした。
「…調査も兼ねて、帰省しようかな」
エリスは小声で呟き、壁にかけられたカレンダーに目を向ける。そこには数ヶ月先までの予定が記載されており、それに目を通したエリスは纏まった休みが取れないか、思案していた。
扉がノックされた。
その音を耳にしたエリスは扉に目を向け、「どうぞ」と応えた。エリスの声の後、扉がゆっくりと開き、室内に団長が入ってきた。
団長は朗らかな笑みを浮かべ、エリスに声をかける。
「お疲れ様です、実は…我々の調査対象であった反社会的な組織ですが…今朝方、全員逮捕されたと知らせがありました」
団長の話を聞いたエリスは目を丸くさせる。喫緊の予定では、反社会的な組織の密輸と資金洗浄について団長やエリスは調査する予定であった。だが、そのメンバーが全員逮捕されるという予想外の知らせを聞き、エリスは驚きを隠せずにいた。
団長はエリスの驚き顔を見て、笑みを浮かべる。
「まぁ、端的に言うと予定がキャンセルになりました。次の予定まで日数もあるので、臨時のお休みとしましょう」
団長は微笑みながら話し、エリスに手を振った。
「エリスも働き詰めでしたから、良い機会ですし…帰省してみたらどうですか?」
団長の提案を聞いたエリスは「えぇ」と呟き、視線をデスクに向けた。デスクの上には資料が広げられており、現地調査の必要性を実感していたエリスにとって、団長の提案は吉報といえる。
エリスは視線を団長に向け、笑みを浮かべる。
「…じゃあ、お言葉に甘えて帰省しようかな」
両親や家族の顔を思い浮かべたエリスは笑顔で応え、団長の顔を見上げた。
笑顔を浮かべるエリスであるが、帰省の目的が家族に会う以外にも、墓石を調査するためであるのは明白である。それを知らない団長はエリスの反応がいつもと同じである事に安堵していた。