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39

  翌朝。

  雪はまだ降っていたが、前日ほど重くはなかった。

  空気が、ほんのわずかに緩んでいる。

  夜のあいだに、世界が一度、深く息をしたような感覚が残っていた。

  巣穴の奥で、エリアスは目を覚ましていた。

  眠りは浅かったが、疲れはない。

  腹に手を当てる。

  昨日と同じ場所。同じ姿勢。

  (今日は、動かない?)

  それでも、不安はなかった。

  あの感覚は、夢でも錯覚でもなかったと、身体が知っている。

  すぐ隣で、ガレンが身じろぎする。

  身体は伏せたままだが、落ち着きがない。

  呼吸が一定にならず、前脚に力が入ったり抜けたりする。

  鼻先が何度も、エリアスの腹の前で止まる。

  嗅ぐでもなく、触れるでもない。

  確かめきれない何かを、探している動きだった。

  「……どうしたの、ガレン」

  小さく声をかけると、ガレンは低く喉を鳴らした。

  何かが揺れている音。

  (……昨日のこと、かな)

  エリアスは思う。

  命が動いたこと。

  確かに感じた、小さな兆し。

  それが、ガレンの中でも何かを揺らしているのだろうか。

  熊としての感覚と、守るべき存在が増えたという事実が、まだ噛み合っていないのだろうか。

  そのとき、巣穴の外から足音がした。

  一定の間隔、人の歩幅。

  「……入るぞ、」

  ギルバートの声だった。

  ガレンの喉が、低く鳴る。

  許可の音だが、いつもより短い。

  ギルバートは中へ入り、まず熊の様子に一瞬だけ目を留めた。

  それから、エリアスを見る。

  「……何かあったな」

  エリアスは、少しだけ迷ってから、素直に言った。

  「昨日……動いたんだ、お腹の中が」

  言葉は短い。

  だが、巣穴の空気がはっきり変わる。

  ギルバートの動きが止まり、医師としての思考が走る。

  「……いつだ」

  「お昼すぎだったよ」

  腹に手を当てながら、続ける。

  話しながら微笑みが出る。

  「最初は、気のせいかと思った。

  でも……二回目は、違った」

  ガレンの身体が、ぴくりと反応する。

  耳が動き、鼻先がまた腹へ向く。

  見えないものを、必死に確かめようとしている。

  ギルバートは頷き、何も言わずに聴診器を取り出した。

  「じゃあ、今日はもう一度、心臓の音も聞こう」

  聴診器の金属が、腹に触れる。

  ひやりとした感触。

  エリアスは、以前より緊張していなかった。

  確かめたい気持ちが勝っている。

  ――トク

  ――トク、トク

  初めて聞いたときと同じ命の音。

  ギルバートは位置を慎重に変え、何度も確かめる。

  ガレンは、その間じっとしていられず、わずかに身体を前後させる。

  (……揺り戻し、か)

  ギルバートは内心でそう判断する。

  ガレンの中で境界が、また少し動いている。

  やがて、聴診器を外す。

  「……問題ない」

  静かに、だがはっきりと言った。

  「胎動が出始める時期としては、順調だ」

  少し微笑んだギルバートの表情。

  エリアスの肩から、力が抜ける。

  「……よかった」

  その言葉は、自分だけでなく、ここにいるすべてに向けられていた。

  ギルバートは続ける。

  「これからは、恐らく活発に動く日と静かな日がある。

  全く感じないのは心配だが、ある程度感じなくても、心配はいらない。

  逆に、感じたからといって、無理に意識しすぎる必要もない」

  医師としての言葉だが、声は柔らかい。

  「命は……たくましく育つ」

  その言葉に、ガレンの喉が低く鳴る。

  だが、まだ落ち着かない。

  鼻先が、もう一度腹の前で止まる。

  「……ガレンも、心配してる?」

  エリアスが言うと、ギルバートは一瞬だけ目を伏せた。

  「獣は、人より先に気づくことがある。

  ただ……理解が追いつくとは限らん」

  ガレンの動きは、それを裏付けていた。

  守りたい。

  だが、何をどう守ればいいのか、まだ輪郭が定まっていない。

  父性は、確かに芽生えている。

  だが、それは本能よりも、ずっと不器用だった。

  ギルバートは荷物を片付け、袋を置く。

  往診のたびに何かと土産を持ってくる。

  今日は厚手のゆったりとした服だった。

  「…食べられるものが増えたら、遠慮なく言え。

  あと、体調が変わったら、すぐガレンを寄越してくれ。

  …次は、五日後に来る」

  「うん、いつもありがとう」

  エリアスは頷く。

  ギルバートは立ち上がった。

  外へ出る前、一度だけ立ち止まる。

  「してやれることを、している」

  それだけ言って、振り返らずに雪の中へ消えた。

  巣穴に、静けさが戻る。

  ガレンは、しばらく動かなかった。

  それから、ゆっくりと身体を低くし、エリアスの横にぴたりと寄る。

  鼻先を腹の前に置き、深く息を吐く。

  落ち着こうとしている呼吸。

  エリアスは、その大きな身体に手を伸ばした。

  「……大丈夫」

  誰に言った言葉かは、分からない。

  自分か、ガレンか、それとも――この中で静かに育っている命か。

  外では、雪が降り続いている。

  巣穴の中では、確かな未来の気配が、静かに積もっていた。

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