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ケモナーおっさん転生記(5)

  第21話:歩く氷山と、縫い付けの決意

  「……デキタカ?」

  「は、はい! なんとか……!」

  騎士団の補給庫にて。

  数人の兵士たちが、額に汗を浮かべてハサミと針を置いた。

  俺は鏡――といっても、磨かれた鉄板だが――に映る自分の姿を見た。

  そこには、ずんぐりむっくりとした巨大な毛玉が映っていた。

  結局、俺のサイズに合う防寒具など、この街のどこにもなかったのだ。

  特注で作る時間もない。

  そこで俺が提案したのが、この「即席縫い合わせスタイル」だ。

  テントや幌に使われる厚手の防寒生地を何重にも体に巻き付け、兵士たちに頼んで、俺が着たままの状態で直接縫い合わせてもらったのだ。

  見た目は最悪だ。ツギハギだらけの布の塊で、まるで包帯を巻かれたミイラか、不格好な雪だるまだ。

  だが、機能性は悪くない。生地の間には断熱材として羽毛が詰め込まれており、動きを阻害しないよう関節部分には余裕を持たせてある。

  (……ま、見た目を気にするようなキャラじゃないしな)

  俺は腕を回し、可動域を確認した。

  多少のごわつきはあるが、許容範囲だ。むしろ、この分厚さが多少の防具代わりにもなるだろう。

  「……イケル。……アリガトウ」

  俺が礼を言うと、兵士たちは恐縮しきりで敬礼を返してきた。

  「ご武運を! ガク殿!」

  ***

  準備は整った。

  駐屯地の外には、すでにハンスが待機していた。

  用意されていたのは、来る時に乗ったような快適な箱型の『要人輸送用ソリ』ではなかった。

  屋根はなく、むき出しの鉄枠と、荒々しくリベット留めされた装甲板だけで構成された、無骨な鉄の塊。

  速さと機動力を最優先し、快適性など一切を削ぎ落とした、軍事作戦専用の『強襲用ソリ』だ。

  「……行きますか」

  御者台の手綱を握るのはハンスだ。

  今回は、客席にウィルの姿はない。彼は迎賓館に残してきた。

  ここにあるのは、男二人と、冷たい鉄と、死地へ向かう覚悟だけだ。

  「……アア」

  俺は頷き、鉄板がむき出しの座席にドカッと腰を下ろした。

  クッションなどない。尻に伝わる冷たい硬さが、これから向かう場所が「戦場」であることを告げていた。

  ハンスが手綱を振るう。

  地竜が嘶き、戦闘用ソリが雪原へと飛び出した。

  目指すは北方。『凍てつく峡谷』と呼ばれる防衛ラインの手前だ。

  ソリは猛スピードで雪を蹴立てて進む。

  道中、ハンスとの会話は少なかった。

  ただ、彼が時折振り返り、俺の様子を確認する視線には、決死の覚悟と、隠しきれない不安が滲んでいた。

  数時間後。

  俺たちは騎士団が展開する前線基地――急造された砦に到着した。

  そこは、戦場特有のピリピリとした空気に包まれていた。

  兵士たちは皆、顔を引きつらせ、北の空を見つめている。

  「ガク殿、こちらを」

  出迎えた補給将校から、ずっしりと重い革製の背嚢を渡された。

  中身は、カチカチに乾燥させた肉と、レンガのように硬いパン、そして水筒だ。

  

  「兵糧です。……長期戦になるやもしれませんので」

  「……タスカル」

  俺はそれを防寒着の上から背負い、太い革紐を胸元でギュッと締め上げた。

  背中に張り付く適度な重みが、これから始まる過酷な戦いへの覚悟を促しているようだった。

  補給将校は、悲痛な面持ちで教えてくれた。

  「奴は……ドラゴンは、ここからさらに北、五十キロの地点を南下中です。この砦に到達するのは、およそ二日後と推測されます」

  「……チカイナ」

  「はい。……目視はできませんが、すでに『影響』は出ています」

  将校の言葉通りだった。

  北の空は、この世の終わりかと思うほど暗く淀み、不自然なほどの猛吹雪が荒れ狂っていた。

  そして何より――音だ。

  ズゥゥゥゥン……。ズゥゥゥゥン……。

  遠雷のような、あるいは大地の心音のような重低音が、絶え間なく響いてくる。

  奴が歩いているのだ。

  ただ歩いているだけで、数十キロ離れたこの大地を揺らしているのだ。

  (……おいおい、マジかよ)

  俺の頬を冷たい汗が伝う。

  ゲームのコントローラーを握っていた時には感じなかった、「質量の恐怖」がそこにあった。

  「……ガク殿。ここからは、私が送ります」

  ハンスがソリの準備を整えて戻ってきた。

  他の兵士たちは、この砦で防衛陣地を構築する手はずだ。これより先へ進むのは、俺とハンスだけになる。

  「……タノム」

  俺たちは再びソリに乗り込み、吹雪の壁へと突っ込んでいった。

  ***

  視界は最悪だった。

  白一色の世界。風が轟音を立てて吹き荒れ、雪の礫が容赦なく顔を叩く。

  ハンスは土魔法で前方に風除けを作りながら、巧みに地竜を操っていく。

  地響きが、次第に大きくなっていく。

  ズシン! ズシン! と、腹の底から突き上げられるような振動に変わる。

  地竜たちが怯えて足を止めようとするのを、ハンスが必死に叱咤して進ませる。

  「見え……見えました! ガク殿!」

  ハンスの叫び声。

  俺は目を凝らした。

  吹雪の切れ間。白く霞む視界の向こうに、とてつもなく巨大な「影」が浮かび上がった。

  (……は?)

  俺の思考が停止した。

  そこにあったのは、もはや生物ではなかった。

  山だ。

  動く、氷の山だ。

  四本の太い足。その上に乗る、甲羅のようなドーム状の胴体。

  その背中には、無数の氷柱が剣山のように天を衝き、まるで氷山を背負った亀のようなシルエットを形成している。

  長い首の先にある頭部は、吹雪に霞んでよく見えないほど高い位置にある。

  (……でかすぎるだろッ!!)

  俺は心の中で絶叫した。

  俺はこのモンスターを知っている。いや、知っている、はずだった。

  『氷山龍(アイスバーグ・ドラゴン)』。

  ゲームの中では、全長50メートルほどのフィールドボスモンスターだった。

  だが、目の前のこいつはどうだ?

  見上げる首の高さだけで50メートルは超えてるぞ!?

  全長に至っては、目測でも200メートルはありそうだ。

  東京ドーム位はありそうか?

  そんなサイズの巨塊が、生き物として動いているのだ。

  (話が違う! 詐欺だッ! 運営に問い合わせてやる!)

  俺は混乱のあまり、存在しない運営へのクレームを叫びそうになった。

  ゲームと現実の縮尺の違いか? それとも、この世界の個体が特別製なのか?

  どちらにせよ、事前の想定がガラガラと崩れ去っていく。

  あんなのを、素手で殴り倒す?

  正気じゃない。

  蟻が象に喧嘩を売るようなものだ。

  ……帰りたい

  本能がそう囁いた。

  今すぐ回れ右をして、全力で逃げ出したい。

  だが――残してきた、あの小さな笑顔が脳裏をよぎった。

  (……逃げたら、ウィルが死ぬ)

  この「山」が砦を越えれば、都市は踏み潰され、ウィルもまた瓦礫の下だ。

  それだけは、絶対に嫌だ。

  「――ッ!!」

  俺は自分の頬を、バシン! と両手で叩いた。

  痛みで恐怖を散らす。

  やるしかない。ここまで来たんだ。今更引き返せるか!

  「ガク殿ォォッ!!」

  暴風音に負けないよう、ハンスが叫んだ。

  「接近します! 奴の左前足が着地した瞬間です! そのタイミングで飛び移ってください!」

  ハンスは恐れを知らないのか、地竜に鞭を入れ、ドラゴンの足元へとソリを加速させた。

  近づくにつれ、その巨大さがさらに際立つ。

  足一本の太さだけで、高層ビルが丸ごと一本建っているようだ。

  ズウゥゥゥゥンッ……!!

  左前足が着地する。

  凄まじい衝撃波と雪煙が巻き起こり、ソリが木の葉のように揺れる。

  だが、ハンスは踏みとどまった。

  「今ですッ!!」

  ハンスが俺を見る。

  その目は、決死の覚悟と、祈りに満ちていた。

  「ご武運を!!」

  「……マカセロ!!」

  俺は短く応え、ソリから飛び出した。

  雪煙を突き破り、宙を舞う。

  目の前に迫る、青白い氷の壁――いや、ドラゴンの鱗。

  ガギィィィッ!!

  俺は両手の爪を、硬質な鱗の隙間に全力で突き立てた。

  凄まじい硬度だ。だが、今の俺の筋力ならば通る!

  俺の体は、ドラゴンの足首あたりに張り付いた。

  下を見ると、ハンスの乗ったソリが、豆粒のように小さくなりながら遠ざかっていくのが見えた。

  無事に離脱できたようだ。

  「……フウ」

  俺は一つ息を吐き、上を見上げた。

  遥か頭上、雲に隠れるようにして、ドラゴンの背中がそびえ立っている。

  ほぼ垂直の氷壁。

  足場などない。

  吹き荒れる暴風と、極寒の冷気。そして、振り落とそうとする振動。

  (……これを、登るのかよ)

  正気の沙汰ではない。

  普通の人間なら、取り付いた瞬間に凍りつくか、握力が尽きて落下するだろう。

  (……だが、あいにく俺は、普通の人間じゃないんでね)

  俺はニヤリと笑った――熊の顔だから、他人には牙を剥いたようにしか見えないだろうが。

  俺のステータスじゃなきゃ、無理な芸当だ。

  だからこそ、俺がやる意味がある。

  (……俺はすごい。俺は強い。俺はこの世界で唯一の、英雄だ!)

  俺は心の中で、呪文のように叫んだ。

  自分に言い聞かせる。

  己を鼓舞する。鼓舞して、鼓舞して、鼓舞し続ける。

  そうでもしなければ、眼前にそびえる圧倒的な「質量」と「絶望」に押し潰されそうだった。

  強気な笑みは、恐怖を隠すための仮面だ。

  少しでも弱気になれば、指先がすくみ、そのまま心が折れて剥がれ落ちてしまいそうだったからだ。

  (ビビるな。俺ならできる。……ウィルが待ってるんだ!)

  俺は恐怖を怒号で塗りつぶし、右腕を伸ばした。

  さらに上の鱗へと、深々と爪を食い込ませる。

  ――ガギッ!

  体を引き上げる。

  一歩。

  確実に、山頂を目指して。

  俺の、孤独で長い戦いが始まった。

  [newpage]

  第22話:垂直の戦場と、雪中の祝杯

  ――ガギッ、ガギィッ!

  凍りついた鱗に爪を突き立て、体を強引に引き上げる。

  それを何百、何千回繰り返しただろうか。

  俺は、ドラゴンの足を登りきり、ようやく少しだけ傾斜の緩やかな場所――ドラゴンの背中の一部とおぼしき場所へと這い上がった。

  「……ハァ、……ハァ、……ッ」

  肺が凍りつきそうだ。

  酸素が薄い。

  あれから、どのくらい時間が経ったのだろうか。数時間か、それとも丸一日か。

  ずっと続いている猛吹雪のせいで、時間の感覚が完全に麻痺している。

  視界を薄く照らすこの青白い光が、雲の向こうの太陽のものなのか、それとも月明かりなのかさえ判別できない。

  ただわかるのは、俺の体力が確実に削り取られているということだけだ。

  指先の感覚はない。まつ毛も髭も凍りつき、視界は狭まる一方だ。

  「……メシ、ダ」

  俺は風除けになりそうな巨大な氷柱(背びれの一部だろうか)の陰に身を隠し、背中の荷物を下ろした。

  かじかむ指で背嚢を開き、中身を探る。

  出てきたのは、レンガのように硬い黒パンと、干し肉だ。

  俺はそれを口に放り込み、ガリガリと噛み砕いた。

  味なんてしない。ただの燃料補給だ。だが、胃袋に物が入ると、少しだけ体の芯から熱が生まれる気がした。

  水分も取ろうと、俺は再び背嚢に手を突っ込んだ。

  指先に、冷たい金属の感触が当たる。

  一つは水筒だ。

  だが、その奥に、もう一つ別の容器があることに気づいた。

  「……ン? ナンダ、コレ」

  記憶にない容器だ。

  水筒よりも小さく、平べったい形状をしている。スキットルというやつだろうか。

  俺は興味本位で、その金属製の蓋を開けようとした。

  ――ブチッ。

  「……ア」

  かじかんだ手で力を込めすぎたのか、蓋ごとねじ切れてしまった。

  容器の口から、透明な液体がこぼれ出し、強烈な芳香が鼻孔をくすぐった。

  「……サケ、カ?」

  俺は溢れた液体を舐めた。

  喉が焼けるような刺激。そして、鼻に抜ける独特な青臭さと甘い風味。

  テキーラだ。いや、この世界だと別の何かかもしれないが、とにかく度数の高い蒸留酒だ。

  「……タスカル」

  俺はニヤリと笑った。

  あの真面目そうな将校にも、粋な計らいができる奴がいたらしい。

  本来、雪山での飲酒は体温を下げるから厳禁だ。だが、今の俺に必要なのは、凍えた血と精神を強制的に沸騰させる「着火剤」だ。

  俺は容器を煽り、残りの液体を一気に喉へと流し込んだ。

  カァァァッ……!!

  食道が熱い。胃袋で爆発が起きたようだ。

  濃密なアルコールが血液に溶け込み、全身を巡っていく。

  凍えて鉛のように重かった四肢に、偽りの、けれど確かな熱が戻ってくる。

  萎えかけていた気分が、急速に高揚していくのが分かった。

  恐怖心が麻痺し、代わりに理不尽なほどの全能感が湧き上がってくる。

  「……プハァッ!」

  俺は空になった容器を雪の中に放り投げ、立ち上がった。

  視界が少し回っている気がするが、悪くない気分だ。

  ここまでの極限の疲れのせいか、それとも空腹に流し込んだアルコールのせいか。

  俺のテンションは、もはや自分でもよくわからない領域に突入していた。

  「……オッ、シ! オジサン、ガンバッチャウ、ゾ!」

  俺は吹雪に向かって、わざとらしく明るい声を張り上げた。

  誰に聞かせるわけでもない。

  ただ、そうでも言わないと、自分の弱さに押し潰されそうだったからだ。

  ***

  正直に言えば、俺一人の力でこの山のような怪物を討伐することは、半ば諦めていた。

  実際に取り付いてみて分かった。こいつはデカすぎる。そして硬すぎる。

  俺の攻撃は通じる。だが、HPを削り切るには、俺の体力と時間が足りなさすぎる。

  だから、作戦を変えた。

  俺はここに来るまで、ただ登っていただけではない。

  砕き、剥がし、引きちぎる。

  単純作業の繰り返しだ。

  右腕をハンマーのように振り下ろし、分厚い氷の装甲を粉砕する。

  左手の爪をねじ込み、肉と皮の隙間をこじ開け、ベリベリと引き剥がす。

  それを延々と、背中から首へと続く長い道程で繰り返してきた。

  もし、俺が途中で力尽きても。

  剥き出しになった傷口ならば、後続の騎士団の魔法やバリスタが通じるかもしれない。

  俺の体力が尽きるのが先か、こいつの装甲を剥がし尽くすのが先か。

  これは、俺の命を燃料にした「整地作業」だ。

  「……ハァ、……ハァ、……ッ!」

  最後の急斜面を這い上がる。

  そこは、見渡す限りの平原――いや、ドラゴンの頭頂部だった。

  (……ようやく、たどり着いたぞ……!)

  俺は荒い息を吐きながら、後ろを振り返った。

  吹雪に霞む背中の稜線。そこには、俺が這い上がってきたルートが、黒々とした「傷跡の轍」として刻まれていた。

  綺麗な氷の彫像だった背中に走る、醜く、荒々しい破壊の痕跡。

  それは、俺というちっぽけな異物が、この巨体に爪痕を残した証明だった。

  (……ハッ。こんだけやって、何の反応もなしかよ)

  俺は憎まれ口を叩きながら、足元の装甲を蹴りつけた。

  反応はない。

  ここまで来るのに、ドラゴンの装甲を何トン分も剥がしたはずだ。

  それでも、コイツは一度として鳴き声を上げることもなく、歩みを止めることもなかった。

  まるで、俺の存在など、象の背中に止まった蚊ほどにも感じていないかのように。

  「……ッ」

  ふと、辺りを見回した俺は、息を呑んだ。

  吹雪で視界は最悪だ。だが、その白い闇の向こうに、うっすらと切り立った崖の影が見えたのだ。

  両側に迫る高い岩壁。

  『凍てつく峡谷』だ。

  (……くそ! 平原は抜けちまったか!)

  焦りが、冷え切った心臓を鷲掴みにした。

  時間がない。

  ここを抜けられれば、騎士団が待つ最終防衛ラインだ。そこを突破されれば、もう都市まで遮るものはない。

  足止めできていない。俺の破壊工作は、コイツの歩みを遅らせることすらできていなかったのか。

  (……いや、まだだ。まだ終わっちゃいない!)

  俺は頭頂部から側面へと、四肢を使って這い降りた。

  目指すは、顔の横。

  巨大な窪みの中に、分厚い氷のまぶたに守られた「それ」があった。

  ドラゴンの左目だ。

  直径だけでも数メートルはある、巨大な眼球。今は閉ざされているが、その下には柔らかい急所があるはずだ。

  (……これならどうだ! クソ野郎!)

  俺は叫びと共に、全身のバネを使って右腕を突き出した。

  狙うはまぶたの隙間。

  【STR:26】とスキル効果を乗せた、渾身の貫き手。

  ズプゥゥッ!!

  嫌な感触があった。

  硬い氷の膜を突き破り、その奥にある、生暖かく柔らかいゼリー状の物体を、俺の腕が深々と貫いたのだ。

  俺はそのまま、内部で拳を握り込み、さらに奥へと押し込み、かき回した。

  グチャリ。

  眼球が内部で破裂する感触。

  その瞬間だった。

  ――――グギャアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!!

  世界が震えた。

  いや、大気が悲鳴を上げた。

  ドラゴンの口から放たれたのは、物理的な衝撃波を伴う絶叫だった。

  「……ッ!?」

  次の瞬間、俺の体は宙に浮いた。

  ドラゴンが、激痛に狂ったように頭を振り回したのだ。

  その速度は、巨大なビルが高速でスイングするようなものだ。遠心力だけで、俺の体など容易く千切れ飛びそうになる。

  「……グゥ、オオオオオオォッ!!」

  俺はドラゴンのまぶたの縁にしがみつき、爪を深く食い込ませて耐えた。

  今振り落とされる訳にはいかない!

  ここで落ちれば、全てが水の泡だ!

  数秒か、数分か。

  永遠にも思える暴れ狂う時間が過ぎ、ようやく揺れが収まってきた。

  だが、ドラゴンの足は止まらない。痛みにもがきながらも、コイツは前進を続けている。

  「……ハァ、ハァ……!」

  俺は顔に浴びたドラゴンの体液――青紫色の粘つく液体を拭い、ニヤリと笑った。

  恐怖はない。あるのは、歓喜だ。

  (……ようやく、反応しやがったな!!)

  手応えはあった。

  こいつは、ただの動く災害じゃない。痛みを感じ、血を流し、悲鳴を上げる「生き物」だ。

  今までなんの手応えもなかったから、実は精巧なゴーレムか機械なんじゃないかとすら疑っていた。

  だが、違う。

  コイツは生物だ。

  生物である以上――殺せる。

  「……それなら、話は早い!」

  俺は再び頭頂部へとよじ登った。

  目指すは、眉間のあたり。脳みそが詰まっているであろう場所だ。

  目を潰された程度では止まらないなら、思考の中枢を破壊するまでだ。

  (……脳天がカチ割れるまで、ぶっ叩いてやる……!)

  俺は眉間の中心に仁王立ちし、両手を組んでハンマーのように握り込んだ。

  足元の装甲は、他の部位よりもさらに分厚く、硬い。

  だが、関係ない。

  ――ガァンッ!!

  俺は拳を振り下ろした。

  氷の破片が散る。だが、装甲にはヒビ一つ入らない。

  流石に硬い。ドラゴンの急所を守る、最強の盾だ。

  (……一回でダメなら、十回だ)

  ――ガァンッ!!

  (……十回でダメなら、百回だ)

  ――ガァンッ!!

  俺は無心で拳を振り上げ、叩きつけた。

  何回でも、何千回でも繰り返してやる。

  コイツが死ぬか、俺の腕が砕けるか。

  単純で、残酷な我慢比べの始まりだ。

  [newpage]

  第23話:氷壁の崩落、騎士の咆哮

  絶望には、音があることを初めて知った。

  それは、地底から響く重低音だ。

  ズゥゥゥゥン……。ズゥゥゥゥン……。

  騎士団本隊が布陣する『凍てつく峡谷』。

  その北方の入り口から、白い悪夢が姿を現した時、誰かの手から槍が滑り落ちる音が聞こえた。

  「……でかすぎる……」

  隣にいたベテランの兵士が、乾いた笑い声を漏らした。

  事前に情報は聞いていた。想定もしていた。

  だが、現実に目の前に現れたそれは、俺たちの想像力など容易く踏み砕くほどの威容だった。

  見上げるほどの氷の絶壁。

  空を覆い隠す巨大な背びれ。

  峡谷の幅いっぱいに広がるその巨体は、戦う相手というよりは、迫りくる「天変地異」そのものだった。

  俺たちが用意したバリスタや投石機が、子供の玩具のように小さく見える。

  あんなものに、鉄の杭が通じるのか?

  魔法で傷をつけられるのか?

  兵士たちの顔に、急速に敗北の色が広がっていく。

  無理だ。勝てるわけがない。誰もがそう思いかけた、その時だった。

  「……見ろ! 奴の背中を!」

  監視塔の上にいたグスタフ団長の怒号が響いた。

  俺はハッとして、ドラゴンの背を見上げた。

  「……あ、あれは!?」

  我が目を疑った。

  本来ならば、白銀に輝くはずの氷の甲殻。

  だが、その背中から首筋にかけて、黒々とした一本の『道』が刻まれていたのだ。

  装甲が無残に砕かれ、剥がされ、抉られている。

  まるで、巨人のハンマーで何度も何度も叩き潰されたような、荒々しい破壊の痕跡。

  それは、ドラゴンの巨体に刻まれた、唯一にして最大の『弱点』だった。

  「ガク殿……!」

  俺は震えた。

  やったのだ。あの方は、たった一人で。

  この動く山に取り付き、暴風と冷気に晒されながら、俺たちのために道を切り拓いたのだ。

  あの傷跡一つ一つに、ガク殿の拳と、魂が込められている。

  「怯むなァッ!! 見ろ! あの傷跡を!」

  グスタフ団長が剣を抜き放ち、裂帛の気合いで叫んだ。

  「あの男が! 命を削ってこじ開けた活路だ!! 無駄にするなァッ!!」

  「!!」

  「狙うは首筋の『傷跡』一点のみ!! 一矢たりとも無駄にするな! 撃てェェェェェッ!!」

  団長の号令が、恐怖に凍りついた兵士たちの背中を叩いた。

  ヒュンッ! ズドォォォンッ!

  数十基のバリスタが一斉に唸りを上げ、魔法部隊が火球と雷撃を放つ。

  吸い込まれるように、攻撃は一点――ガク殿が作った傷口へと集中した。

  本来なら氷の装甲に弾かれるはずの攻撃が、剥き出しになった肉へと突き刺さる。

  「グギャアアアアアアアアアッッ!!」

  ドラゴンの悲鳴が峡谷に響き渡った。

  通った! 攻撃が通じている!

  「……っ! 俺も!」

  俺は地面に手を突き、魔力を練り上げた。

  俺の得意とする土魔法。派手さはない。だが、質量だけはある。

  地面から岩の槍(ストーン・ランス)を精製し、射出する。

  届け。あの傷口へ。ガク殿の奮闘に報いるために!

  だが――相手は腐っても伝説のドラゴンだった。

  痛み狂ったドラゴンが、逃げ場を求めるように身を捩り、峡谷の岩壁へと体当たりをしたのだ。

  ズガァァァァァァァンッ!!

  世界がひっくり返るような衝撃。

  俺が立っていた足場が崩れ、頭上から巨大な落石が降り注ぐ。

  「うわぁぁぁぁっ!?」

  「崖が崩れるぞ! 退避ッ! 退避ィッ!」

  悲鳴と怒号が交錯する。

  土煙が舞い上がり、視界が遮られる。

  味方の陣形は崩壊寸前だ。

  「……くっ、うぅ……!」

  俺は瓦礫から這い出し、土埃に塗れた顔を上げた。

  こんなところで、倒れている場合じゃない。

  視界の悪い中、俺は必死にドラゴンの頭部を探した。

  ガク殿は? 今の衝撃で、振り落とされたのでは?

  俺は懐から遠見の魔道具を取り出し、ドラゴンの頭へと焦点を合わせた。

  「……ッ!!」

  息が止まった。

  そこに、彼はいた。

  激しく暴れまわるドラゴンの頭頂部。

  ボロボロになったツギハギの防寒具は、あちこちが破れ、中の毛皮は血と氷で赤黒く染まっていた。

  もはや立っていることすら不思議なほどの満身創痍。

  それでも。

  ガク殿は、ドラゴンの角にしがみつき、耐えていた。

  そして、揺れが収まる一瞬の隙をついて、拳を振り上げていた。

  殴っていた。

  ただひたすらに、ドラゴンの脳天を。

  自分の手が砕けるのも構わずに。

  『……オレ、ヒトリ、イイ。……オマエラ、ウシロ、カタメロ』

  出撃前の言葉が蘇る。

  あの方は、本当に一人で全てを背負い、守り切るつもりなのだ。

  「……ガク、殿ォォォォォォッ!!」

  俺の喉から、嗚咽のような叫びが迸った。

  涙が溢れて止まらなかった。

  悔しかった。自分の無力さが。安全な場所から見ているだけの自分が。

  「撃ってくれぇぇぇッ!!」

  俺は枯れかけた喉で絶叫した。

  命令ではない。これは、ただの懇願だ。

  魔力など、残す必要はない。血管が切れてもいい。

  「あの方が戦っているんだ! まだ終わっていない! お願いだ、撃ち続けてくれ! ドラゴンの気を引いてくれぇッ!」

  俺は再び地面に手を叩きつけた。

  岩を生成する。一発、二発ではない。俺の魔力が続く限り、何十発でも。

  「今度こそ……今度こそ、俺が貴方を助ける番だ!!」

  鼻から血が垂れるのも構わず、俺は泥に塗れて魔法を放ち続けた。

  俺の叫びに呼応するように、呆然としていた兵士たちが動き出す。バリスタの矢が尽きた者は、手持ちの石を投げ、剣で岩壁を叩いて音を出し、ドラゴンの注意をガク殿から逸らそうと叫び始めた。

  暴れ狂うドラゴン。

  泥臭く、無様で、必死な抵抗。

  だが、その想いは天に通じたのか。

  度重なる衝撃と轟音に耐えかねたのか、ドラゴンの頭上の岩盤が、不気味な悲鳴を上げた。

  ――ズズズズズッ……!!

  次の瞬間、巨大な影が落ちてきた。

  崩落した崖の塊だ。数十トンはあるであろう巨大な岩塊が、あたかも狙い澄ましたかのように、ドラゴンの首の傷口へと直撃したのだ。

  ズガァァァァァンッ!!

  ドラゴンの悲鳴すら掻き消す衝撃音が響く。

  あまりの衝撃に、ドラゴンの巨体が大きく傾き、その動きが一瞬だけ完全に静止した。

  その絶好の機を、あの方が見逃すはずがなかった。

  頭上のガク殿が、渾身の力で両手を振り下ろすのが見えた。

  ――バギィィィィッ!!

  戦場の喧騒を切り裂く、乾いた破砕音が響いた。

  それは、決して砕けないと思われていたドラゴンの頭蓋が、ついに砕け散った音だった。

  その瞬間、ドラゴンの瞳から、禍々しい光がフッと消え失せた。

  糸が切れた操り人形のように、巨体が力を失う。

  ゆっくりと、しかし抗えない重力に従って、氷の山が傾いていく。

  ズゥゥゥゥゥン……!!

  腹の底を揺さぶるような、重く、長い衝撃音が峡谷を支配した。

  巻き上がった雪煙が、白い津波となって俺たちの視界を覆い尽くす。

  大地が悲鳴を上げ、その揺れが収まると同時に、世界は嘘のような静寂に包まれた。

  吹雪の音だけが、ヒュウと虚しく響いている。

  誰も言葉を発さない。

  誰も動かない。

  目の前にある現実が、まだ信じられないのだ。

  「……やった……のか?」

  隣にいた兵士が、夢遊病者のように呟いた。

  あの悪夢が、動かなくなっている。

  倒したのだ。俺たちが。いや――

  「……ッ!!」

  俺はハッと息を呑み、血の気が引くのを感じた。

  視線が、雪煙の中に沈んだドラゴンの頭部へと彷徨う。

  あの方は?

  ガク殿は、どうなった!?

  あれほどの高さから、ドラゴンの巨体と共に地面に叩きつけられたのだ。無事で済むはずがない。

  「ガク殿は……ガク殿はどこだ!?」

  俺の叫び声が、静寂を引き裂いた。

  返事はない。

  白い雪煙の向こうからは、何の気配もしない。

  「ガク殿ッ!! ガク殿ォォォッ!!」

  俺は弾かれたように駆け出した。

  団長の制止も、周囲の視線も、もう何も目に入らなかった。

  重い鎧が雪に足を取られるのも構わず、俺はただ、白い闇の向こうにあるはずの影を目指して、無我夢中で足を動かし続けた。

  どうか、無事でいてくれ。

  己に誓ったんだ。必ず、ウィルの元へ帰すと。

  こんなところで、終わらせてたまるものか!

  「ガク殿ォォォォォッ!!」

  俺の悲痛な叫びだけが、白銀の戦場に虚しく響き渡っていた。

  [newpage]

  第24話:英雄の休息と、少年の祈り

  あれから、三日が過ぎた。

  窓の外から、爆発するような歓声と、陽気な音楽が聞こえてくる。

  アイゼンベルクの街は、今まさに沸き立っていた。

  「……呑気なものだ」

  俺は廊下の窓から、通りを行き交う人々を見下ろし、苦笑交じりに呟いた。

  街はお祭り騒ぎだった。

  騎士団が持ち帰った、山のようなドラゴンの素材――巨大な牙、鋼鉄より硬い鱗、そして貴重な竜の肉。

  それらを積んだ荷車がパレードのように大通りを通るたびに、市民たちは熱狂し、酒を酌み交わしている。

  彼らは知らないのだ。

  この数日前、自分たちの頭上に「滅び」の刃が突きつけられていたことを。

  混乱を避けるため、ドラゴンの襲撃情報は伏せられていた。「北の山に強力なドラゴンが現れたため、騎士団が討伐した」という事後報告だけがなされたのだ。

  だが、それでいい。

  恐怖を知らず、ただ明日が来ると信じて笑っていられる。その「当たり前の日常」こそが、俺たちが命を賭して守り抜きたかったものなのだから。

  「……ハンスか」

  背後から、重厚な声がかかった。

  振り返ると、そこには疲労の色を濃く滲ませたグスタフ団長が立っていた。その手には、分厚い報告書の束が握られている。

  「団長。……処理の方は?」

  「地獄だ。嬉しい悲鳴というやつだがな」

  団長は肩をすくめ、窓の外を親指で指した。

  「持ち帰ったドラゴンの素材だが……硬すぎて、街の職人たちが悲鳴を上げているよ。『ミスリル製のノコギリが折れた』だの、『この鱗を加工できる炉がない』だのとな」

  「それは……」

  「改めて、思い知らされるよ。あんなデタラメな硬度の塊を、ハンマーもなしに叩き割ったあの男の異常さをな」

  団長は呆れたように笑い、ふと廊下の隅に置かれた搬送用のワゴンに目を向けた。

  「……そういえば、彼が身につけていた装備だが。処分する前に見ておくか?」

  「え?」

  俺は視線を移した。

  そこには、赤黒いボロ布の塊が積まれていた。

  「……これが?」

  それはもはや、服と呼べる代物ではなかった。

  即席で縫い合わせたはずの防寒具は、ズタズタに引き裂かれ、繊維の一本一本まで泥と、どす黒い血が染み込んで固まっている。

  持ち上げれば崩れ落ちそうなほどの惨状。

  それを見るだけで、あの吹雪の中で繰り広げられた壮絶な殴り合いが、生々しい痛みとなって脳裏に蘇る。

  あんな布切れ一枚で。

  鉄をも砕く暴風と、絶対零度の冷気、そして山のような質量に、生身一つで挑んだというのか。

  「……彼がいなければ、今頃この街は更地になっていただろう。市民がこうして笑えるのも、全て彼のおかげだ」

  団長の声は、悔恨と感謝がない交ぜになっていた。

  「我々は、英雄を使い潰して生き延びた。……その事実は、生涯消えん」

  「はい」

  「礼を言っても言い尽くせんな。……あとは、主役のお目覚めを待つだけか」

  団長は俺の肩を強く握りしめ、執務室へと戻っていった。

  残された俺は、居住まいを正し、病室の扉に手をかけた。

  街を守り抜いたという充足感はある。

  だが、あのボロボロの残骸を見た後では、この冷たい取っ手に触れる手にどうしても緊張が走る。

  ――ガチャリ。

  扉を開けると、外の喧騒が嘘のように遮断された。

  そこには、世界から切り離されたような、重く静かな空気が漂っていた。

  部屋の中央には、貴賓室のベッドを二つ並べて無理やり連結し、さらに補強を入れた「特大の寝床」が設えられている。

  その上に、彼は眠っていた。

  ガク殿だ。

  全身を包帯で巻かれ、微動だにせず横たわっている。

  胸が上下し、規則正しい寝息が聞こえる。だが、その瞳は深く閉じられたままだ。

  あの日。ドラゴンの討伐が終わった直後。

  俺たちは必死になって雪原を掘り返した。

  瓦礫と雪の下、奇跡的にできた空洞の中でガク殿が発見されたのは、崩落から数時間が経過した後だった。

  その姿を見た時、歴戦の兵士たちですら目を背けたほど、傷は深かった。

  すぐに街へ搬送し、最高級のポーションを惜しみなく使い、ようやく命をつなぎ止めたのだ。

  外傷は塞がった。骨も繋がった。

  だが、極限まで消耗した体力が回復しきっていないのか、あるいは精神の糸が切れてしまったのか。

  ガク殿は三日が経った今でも、深い眠りの底にいた。

  「……ハンス兄ちゃん」

  ベッドの脇から、小さな声がした。

  椅子にちょこんと座り、濡らしたタオルで丁寧にガク殿の顔――剛毛に覆われた頬を拭いている少年。

  ウィルだ。

  「……調子は、どうだ?」

  俺は努めて明るく声をかけた。

  ウィルは手を止めずに、ポツリと答えた。

  「ううん。……まだ、起きない」

  その声は少し掠れていた。

  数日前、血まみれで運び込まれたガク殿を見た時、ウィルは錯乱したように泣き叫んだ。ことの次第を聞かされた彼は、涙が枯れるまで泣き続けていた。

  今はもう、取り乱してはいない。だが、その背中は痛々しいほど小さく見えた。

  ウィルは、拭き終えたタオルを置き、ガク殿の大きな耳元に顔を寄せた。

  「ガクさん……。今日の晩御飯、なんだと思う?」

  まるで、ただ昼寝をしている相手に話しかけるような、日常的な口調だった。

  「お祝いだからって、コック長さんが張り切ってたよ。骨付き肉のローストだって。ガクさんの好きな、ハチミツをたっぷり塗ったやつ」

  「……」

  「いい匂いがするよ。早く起きないと、僕が全部食べちゃうよ……?」

  ウィルの声が、最後の方で少しだけ震えた。

  食事の話をすれば、いつものように「……ハラヘッタ」と言って飛び起きてくれるんじゃないか。

  そんな切ない期待が透けて見えた。

  「……そうか」

  俺はウィルの隣に歩み寄り、その小さな肩に手を置いた。

  「大丈夫だ、ウィル。……治癒師も言っていたろう? 峠は越えたと」

  「……うん」

  「ガク殿は強い。ドラゴンと殴り合って勝つような御方だぞ? ただの寝不足さ。そのうち、その骨付き肉の匂いにつられて目を覚ます」

  俺の軽口に、ウィルは少しだけ口元を緩めたが、その瞳はまだ揺れていた。

  「……僕のために、戦ってくれたんだよね」

  「ああ」

  「僕が……弱かったから」

  「違う」

  俺は即座に否定し、ウィルの視線の高さに合わせて膝をついた。

  「ウィルが大事だったからだ。……あの方は、ウィルが悲しむ顔を見たくなかった。ただ、それだけのために命を懸けたんだ」

  そうだ。

  ガク殿の行動原理は、いつだってシンプルで、そして強固だった。

  世界のためでも、名誉のためでもない。

  ただ、この小さな家族を守るため。

  世界中を敵に回しても、この子の笑顔だけは守り抜く。そんな覚悟があの背中にはあった。

  ふと、道中での会話が蘇る。

  『会える時、話しておけ。……お前の言葉で』

  『……会うこと、もうない』

  あの時、俺はその言葉の重みを、表面でしか理解していなかった。だが、今なら痛いほどに分かる。

  あれは、全てを奪われた彼だからこそ言える、血の滲むような忠告だったのだ。

  故郷を、過去を、全てを失い、絶望の淵を彷徨った経験。

  「二度と戻らない日々」の尊さを誰よりも知っているからこそ、俺に「今ある時間を大切にしろ」と諭してくれたのだ。

  そして、今度こそ失わないために。

  ようやく見つけたこの小さな温もりを、二度と手放さないために。

  この人は、己の命そのものを盾にして、あの絶望的な吹雪の中に立ったのだ。

  ウィルはガク殿の大きな肩撫でながら、ぽつりと呟いた。

  「……僕ね。ガクさんと会うまで、何も知らなかったんだ」

  「何も?」

  「うん。村の外のこと、なんにも」

  ウィルは遠くを見るような目をした。

  「村のお手伝いで、近くの街へ行ったことは何度かあったよ。でも、その時は……ただ怖かった。人がいっぱいで、うるさくて、早く村に帰りたかった」

  閉鎖的な村で育った少年が、初めて触れる外の世界。

  それは、幼い彼にとって畏怖の対象でしかなかったのだろう。

  「でもね。ガクさんと旅をしてからは、違って見えたんだ」

  ウィルの声に、少しだけ明るい色が戻る。

  「ガクさんと一緒だと、全部がキラキラして見えた。

  グランキースの市場で食べたお菓子も、ここに来る途中で見た雪景色も。

  全部、僕の知らないものばかりで……すごく、楽しかった」

  ウィルは噛み締めるように言った。

  「この世界には、僕の知らないことが、まだいっぱいいっぱいあるんだって知ったんだ」

  それは、ウィルが「守られるだけの子供」から、「世界を知ろうとする少年」へと一歩踏み出した証のように聞こえた。

  ガク殿という絶対的な守護者がいたからこそ、ウィルは恐怖を好奇心に変えることができたのだ。

  「だから……ガクさんが目を覚ましたら、言おうと思ってるんだ」

  「何をだ?」

  ウィルは眠るガク殿の顔を真っ直ぐに見つめ、小さな決意を口にした。

  「『もっと旅をしたい』って」

  「……旅、か」

  「うん。逃げるためじゃなくて、隠れるためでもなくて。

  もっといろんな場所に行ってみたい。見たことのない景色を見て、食べたことのない美味しいものを食べて……。

  ガクさんと一緒に、この広い世界を見て回りたいんだ」

  ウィルの瞳には、微かだが、確かな光が宿っていた。

  それは、希望という名の光だった。

  俺は胸が熱くなるのを感じた。

  この少年は、もう「可哀想な孤児」ではない。

  自分の足で立ち、自分の目で見たい夢を持っている。

  「……それはいいな」

  俺は心の底から賛同した。

  「ガク殿も喜ぶ。きっと、二つ返事で『行こう』と言うさ」

  「うん……!」

  ウィルが今日一番の笑顔を見せた。

  その笑顔を守れたこと、そしてその未来を繋げたこと。

  それが何よりも誇らしかった。

  俺は、眠り続けるガク殿の顔を見上げた。

  安らかな寝顔だ。戦場での鬼気迫る形相が嘘のように、今は穏やかに見える。

  (……この人が、ウィルを残していくはずがない)

  俺の中には、確信に近い思いがあった。

  あれほどの地獄を、ウィルの笑顔を守るという理由一つで乗り越えた男だ。

  これしきの怪我で、くたばるはずがない。

  もし神が彼を連れて行こうとしても、この人は「ウィルが待ってるから」と言って、神様を殴ってでも戻ってくるだろう。

  「信じて待とう、ウィル」

  俺はウィルの頭を優しく撫でた。

  「ガク殿は、お前を残していかないさ」

  ウィルは涙を拭い、ガク殿の包帯が巻かれた手に、自身の手を優しく重ねる。

  「うん……! 待つ。ずっと、待ってる」

  窓の外からは、相変わらず平和な歓声が響いている。

  俺たちはその喧騒を背に、静かに、けれど確かな希望を持って、英雄の目覚めを待ち続けた。

  [newpage]

  第25話①:止まった秒針と、繋がった体温(前編)

  ふと、目が覚めた。

  天井のシミが見えた。

  見慣れた、安っぽい天井板のシミだ。

  「……あ?」

  俺は上体を起こした。

  そこは、雪原でもなく、石造りの迎賓館の部屋でもなかった。

  六畳一間の、薄暗い和室。

  散らかった雑誌、飲みかけのペットボトル、万年床の煎餅布団。

  かつて見慣れていたはずの、現実世界の、俺の安アパートの一室だった。

  目の前のディスプレイが、青白い光を放っている。

  そこに映っていたのは、見覚えのあるゲームのロゴと、作りかけのキャラクタークリエイト画面。

  熊の獣人のパラメータ設定画面だ。

  「……夢、か?」

  俺は呆然と呟いた。

  全部、夢だったのか?

  異世界に飛ばされたことも、熊の姿になったことも。

  ハンスという生真面目な騎士と出会ったことも。

  巨大なドラゴンと死闘を繰り広げたことも。

  そして何より――あの小さな少年、ウィルとの日々も。

  全ては、冴えないおっさんが見た、長い長い白昼夢だったというのか?

  「……いや」

  俺は首を振った。

  あんなに鮮明な夢があるわけがない。

  雪の冷たさも、殴った拳の痛みも、食べた肉の味も。

  あの子が俺に向けてくれた笑顔の温かさも。

  あれが作り物だなんて、俺の心が認めない。

  ふと、机の端に置いてあるアナログ時計が目に入った。

  チクタクと時を刻むはずの秒針は、ピクリとも動かず、止まったままだ。電池が切れたのだろうか。

  俺は枕元のスマホを手に取った。

  画面をタップする。だが、反応がない。充電切れか? いや、ケーブルには繋がっているはずだ。

  「……そういえば」

  俺は違和感に気づいた。

  音がしない。

  何の音もしないのだ。

  この安アパートのすぐ近くには高速道路が通っている。

  防音の甘い壁からは、深夜であっても大型トラックの走行音や、タイヤがアスファルトを噛む音が聞こえてくるはずなのだ。

  だというのに、今のこの部屋は、まるで真空の中にいるような完全な静寂に包まれている。

  俺は立ち上がり、カーテンを開けた。

  「……は?」

  窓の向こうには、ただひたすらに深い暗闇が広がっていた。

  高速道路の街灯も、向かいのマンションの灯りも、月や星さえもない。

  ただ、黒一色の虚無が、窓枠の向こうにへばりついている。

  「……なるほどな」

  俺はカーテンを閉め、力なく布団に腰を下ろした。

  ここは現実じゃない。

  「死後の世界、ってやつか」

  だとしたら、もっとそれっぽい演出があってもいいだろう。

  一面のお花畑とか、白い空間で神様が出てきて「手違いで死なせちゃいました、テヘペロ」みたいなテンプレ展開とかさ。

  こんな、生活感あふれる汚い部屋が終着点なんて、いかにも俺らしいというか、夢がない話だ。

  俺は万年床にゴロリと横たわった。

  自分の手を見る。

  熊の剛毛はない。節くれだった人間の手だ。

  体も、元に戻っている。

  俺は目を瞑り、直前の記憶を手繰り寄せた。

  

  あの白い吹雪の中。

  ドラゴンの頭上で、何度も何度も拳を振り下ろした感触。

  硬い甲殻を砕き、その下の頭蓋を叩き割った瞬間。

  崩れ落ちる巨体と共に、宙に投げ出された浮遊感。

  無我夢中だったが、アイツを倒した確かな手応えはあった。

  騎士団は無事だろうか。ハンスは生きているだろうか。

  そして――ウィルは。

  (……俺は、頑張ったよな)

  天井のシミを見つめながら、独りごちる。

  特に取り柄もない、しがないおっさんにしては、頑張りすぎたくらいだ。

  誰も褒めてくれなくても、俺自身が認めてやる。よくやったよ、俺。

  (……俺は死んだのだろうか)

  このままここで意識を手放したら、俺という存在は消えてなくなるのだろうか。

  PCの電源を落とすように、プツンと。

  後悔はない、と言いたいところだが。

  (……せめて、最後に会いたかったな)

  脳裏に浮かぶのは、あの屈託のない笑顔だ。

  あの子が無事でいる姿を見れたら。

  最後に頭を撫でてやれたら。

  それだけで、俺は満足して逝けたのに。

  視界が滲む。

  意識が、深い闇へと沈んでいく。

  その時だった。

  「……?」

  右手に、微かな暖かさを感じた。

  冷え切った俺の手を包み込むような、小さな、けれど確かな温もり。

  凍える雪道でずっと繋いでいた、あの温かさ。

  (……あぁ)

  俺は直感した。

  (これは、ウィルの手だ……)

  その温もりが、俺を呼んでいる気がした。

  こっちだよ、と。

  まだ行っちゃダメだ、と。

  俺の魂を、暗い底なし沼から引き上げてくれる命綱のように。

  ――ガクさん。

  声が聞こえた。

  ――ガクさん!

  その声に導かれるように、俺の意識が急速に覚醒していく。

  アパートの天井が遠ざかり、代わりにまばゆい光が瞼を刺す。

  「……う、……ぅ」

  体が、鉛のように重たい。

  指一本動かすのにも、全身の筋肉が軋むようだ。

  喉が張り付いて、うまく声が出ない。

  それでも、俺はあの子の名を呼ぼうとした。

  「……ゥ、……ル」

  出たのは、情けない呻き声だけだった。

  だが、その微かな音に反応した気配があった。

  「ガクさん?」

  耳元で、震える声がした。

  俺は重い瞼を、力を振り絞って押し上げた。

  ぼやけた視界に、光が飛び込んでくる。

  白い天井。窓から差し込む陽光。

  そして、俺の顔を覗き込む、涙でぐしゃぐしゃになった小さな顔。

  焦点が定まっていく。

  夢じゃない。

  俺が一番会いたかった、守りたかった存在が、そこにいた。

  「ガクさん!」

  ウィルの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

  [newpage]

  第25話②:止まった秒針と、繋がった体温(後編)

  「……ウィ、ル」

  俺は、鉛のように重い腕をどうにか持ち上げ、ウィルの頬を伝う雫を、分厚い包帯が巻かれた手の甲でそっと拭った。

  ガサリとした乾いた布の感触。

  視界に映るその白くて丸い塊が、夢の中で見た自分の手ではなく、今の俺の「熊の手」の大きさであることに、安堵がこみ上げる。

  (ああ……よかった。こっちが、現実だ)

  あの灰色の六畳一間ではなく。

  温かさと、少しの埃っぽさと、消毒薬の匂い。

  ――俺の手を濡らす、この温かい涙。

  ウィルが待っていてくれるこの場所こそが、俺の帰るべき世界だったのだ。

  「……ナク、ナ。……オレ、ダイ、ジョウブ」

  「だって……だってぇ……!」

  俺が声を絞り出すと、ウィルは我慢の糸が切れたように、俺の胸に顔を埋めて声を上げて泣きじゃくった。

  温かい涙が、包帯越しに染みてくる。

  その熱さが、凍りついていた俺の記憶を溶かしていくようだった。

  ――バンッ!

  不意に、部屋の扉が勢いよく開かれた。

  「ガク殿ッ!?」

  飛び込んできたのは、ハンスだ。

  普段は整えている白毛が乱れ、目は血走っている。きっと、ウィルの泣き声を聞いて、何事かと駆けつけたのだろう。

  彼は俺が目を覚ましているのを見ると、信じられないものを見るように目を見開き、そして――その場に崩れ落ちるように膝をついた。

  「……よかった……。本当によかった……!」

  ハンスは両手で顔を覆い、男泣きに肩を震わせた。

  騎士としての体面も忘れて、ただの青年のように。

  「……ハンス。……ドラゴン、ハ?」

  俺が一番気になっていたことを尋ねると、ハンスは顔を上げ、濡れた瞳で力強く頷いた。

  「討伐されました! ドラゴンの死骸は、今もあの峡谷に横たわっています。……貴方が、この街を守り抜いたのです!」

  ハンスは言葉を継いだ。

  あの日、俺がドラゴンと共に落下した後、すぐに救助されたこと。

  それから数日間、俺が意識を失ったまま生死の境を彷徨っていたこと。

  「……ソウカ。……シンパイ、カケタ」

  俺はウィルの頭を、包帯越しに撫でた。

  小さな体が、まだ震えている。

  「……本当に、良かった……」

  ウィルが掠れた声で呟く。

  「……ヨシ。……オキル、カ」

  俺は状況を確認するため、上体を起こそうとした。

  だが――。

  「……ッ、グゥゥッ!!」

  激痛が走った。

  全身の筋肉と骨が、内側から悲鳴を上げるような感覚。

  あまりの痛みに、俺は顔をしかめてベッドに沈み込んだ。

  「ガク殿! 安静にしてください!」

  ハンスが慌てて駆け寄る。

  「ご自身の怪我を理解されていますか!? 両手の拳は砕け、ドラゴンの装甲と何度も打ち合って指の形も変わっていました。それに……」

  ハンスは痛ましげに顔を歪めた。

  「落下の衝撃で全身の骨がひび割れ、さらに極度の凍傷で、発見時は心臓が止まりかけていたのです。……常人なら、即死していてもおかしくない重症でした」

  複数人の高位治癒師がつきっきりで回復魔法をかけ続け、なんとか骨を繋ぎ、外傷を塞いだのだという。

  「外見こそ取り繕っていますが、内部のダメージは深刻です。まだ絶対安静です!」

  (……マジか)

  俺は自分の手を見つめた。

  分厚い包帯に巻かれていて形はわからないが、微かに痺れている。

  どうやら、俺は夢の比喩ではなく、本当に生死の境にいたらしい。

  あの夢の中で、もしあのまま諦めて目を閉じていたら、俺は本当に死んでいたのだろう。

  俺は視線を横に向けた。

  そこには、心配そうに俺を見つめるウィルがいる。

  あの時、暗闇の中で俺の手を引いてくれたのは、間違いなくこの子の温もりだった。

  (……また、救われてしまったな)

  この世界に来た時も、そして死にかけた今回も。

  俺を生かしたのは、この小さな手だ。

  「……アリガトウ。……ウィル」

  「え?」

  俺がポツリと呟くと、ウィルは不思議そうに小首をかしげた。

  俺が何に対して礼を言ったのか、わかっていないようだ。

  それでいい。これは俺だけの秘密だ。

  それにしても、数日も寝ていたのか。

  そう考えた瞬間、俺の体が正直な反応を示した。

  ――グゥゥゥゥゥゥゥゥンッ!!

  雷鳴のような音が、シリアスな空気を一瞬で吹き飛ばした。

  俺の腹だ。

  命の危機が去った途端、猛烈な飢餓感が襲ってきたのだ。

  「……ハラ、ヘッタ」

  「……ははっ。さすがはガク殿だ」

  ハンスが涙を拭い、呆れたように、しかし嬉しそうに笑った。

  「わかりました。コック長に言って、とっておきを作らせますよ。……ウィルが言っていた『ハチミツを塗った肉』でしたか?」

  「……オウ。……タノム」

  俺は期待に喉を鳴らした。

  ***

  だが、現実は非情だった。

  「……ナンダ、コレ」

  俺の目の前に並べられたのは、山盛りのご馳走――ではなく。

  大量の麦粥と、具のない薄味のスープ、そしてすりおろしたリンゴだった。

  「……申し訳ありません」

  ハンスが、ものすごく気まずそうな顔で謝罪した。

  「ガク殿が目覚めたと聞いて飛んできた治癒師長に、止められてしまいました。『数日間の絶食状態で、いきなり脂っこい肉なんぞ食わせたら死ぬぞ!』と……」

  「……」

  まあ、正論だ。

  前世の知識でも、断食明けの回復食(リハビリ食)は消化の良いものから始めるのが鉄則だ。

  いきなりステーキなんぞ食ったら、消化不良で苦しむのは目に見えている。

  「……シカタナイ」

  俺は諦めて、スプーンを手に取ろうと腕を伸ばした。

  だが、包帯で固められた手は、細いスプーンの柄を掴むことさえできなかった。

  「あ、ダメだよガクさん! その手じゃ持てないよ」

  ウィルが慌てて俺の手を制し、代わりにスプーンを手に取った。

  「僕が食べさせてあげる。……ほら、アーンして」

  ウィルがスプーンでとろとろの麦粥を掬い、フーフーと息を吹きかけて冷ましてから、俺の口元へ差し出す。

  (……またこれか)

  以前、街の宿屋でもやった羞恥プレイだ。だが、今の俺は背に腹は変えられないし、何より自力で食べるのは物理的に不可能だ。

  俺は観念して、大きく口を開けた。

  肉ではない。だが、一口食べると、穀物の優しい甘みが五臓六腑に染み渡った。

  「……ウマイ」

  「よかった……! たくさんあるから、無理しないで食べてね」

  ウィルが甲斐甲斐しくよそってくれる。

  結局、俺は寸胴鍋いっぱいの麦粥を平らげた。肉はなかったが、腹は満たされた。

  食事が終わり、一息ついた頃だった。

  ――ガチャリ。

  扉がノックされ、ハンスと共に一人の巨漢が入ってきた。

  グスタフ団長だ。

  軍服をきっちりと着こなしているが、その顔には深い安堵の色が浮かんでいた。

  「……食事中、すまなかったな」

  「……イイヤ。……オワッタ」

  俺は体を起こそうとして、すぐに顔をしかめた。

  それを見た団長が、手で制する。

  「そのままでいい。……寝ていてくれ」

  団長はベッドの脇に立つと、俺の顔をじっと見つめ、深く頭を下げた。

  「……目覚めて、本当によかった」

  その声は震えていた。

  「貴殿をあのような無茶な作戦に巻き込み、あまつさえ死地へ一人送り出したこと……。どれほど詫びても足りん。そして、この街を、民を救ってくれたこと……心から感謝する」

  「……ミンナ、ブジカ?」

  「ああ。貴殿のおかげで、人的被害は最小限で済んだ。……本当に、貴殿のおかげだ」

  団長が顔を上げる。その瞳は、少し潤んでいるように見えた。

  「……ヨカッタ」

  俺は短く答えた。

  多くを語る必要はない。結果が全てだ。

  「……今回の正式な礼と、今後のことについては、また日を改めて話させてもらう」

  団長はチラリと、ベッドの脇にいるウィルを見た。

  「貴殿は目覚めたばかりだ。今は何も考えず、ゆっくりと療養してくれ」

  「……ワカッタ」

  団長はもう一度頷くと、ハンスを連れて部屋を出て行った。

  忙しい身なのだろう。俺の生存確認が最優先だったようだ。

  部屋に、静けさが戻る。

  窓の外からは、遠く祭りの喧騒が聞こえてくる。

  「ガクさん」

  椅子に座っていたウィルが、足をぶらぶらさせながら口を開いた。

  「今後のことって、なんだろうね」

  「……サア、ナ」

  「やっぱり、報酬の話かな? すごいドラゴンを倒したんだし、きっとすごいの貰えるよ!」

  ウィルが目を輝かせて、指折り数え始めた。

  「お金かな? それとも、勲章とか? すごい剣とかもらえたりして!」

  「……ケン、モテナイ」

  「あ、そっか。じゃあ、ドラゴンの素材とか!」

  ウィルが無邪気に笑う。

  俺は苦笑しながら、天井を見上げた。

  (……単純に、金とか食い物で済めばいいんだけどな)

  あれだけの化け物を、騎士団との共闘だったとはいえ、ほぼ単独で倒したのだ。

  英雄扱いされるのは避けられないだろうし、騎士団や領主が俺をどう扱うつもりなのか、面倒なことにならなければいいが。

  俺としては、元の静かな生活に戻れればそれでいいのだ。

  ふと、視線を戻すと、ウィルが楽しそうに「ドラゴンの素材が貰えたら、角や鱗は加工せずにそのまま売った方が相場が高いよね! ドラゴンのお肉って美味しいのかな?」と皮算用をしている。

  その笑顔を見ていると、面倒なことへの不安がスーッと消えていく気がした。

  (……まあ、いいか)

  報酬なんて、この笑顔で十分だ。

  あんなに泣いていた顔が、今はこんなに笑っている。

  俺が生きて戻ってきた。ただそれだけのことで、こんなに喜んでくれる存在がいる。

  それ以上の報酬が、どこにあるというんだ。

  「……ウィル」

  「ん? なぁに?」

  「……モット、ハナソウ。……ムラ、ノ、コト」

  「うん! あ、そうだ、村のみんなへのお土産買わないとね!。それに……」

  ウィルがお喋りを始める。

  他愛のない話。

  とりとめのない会話。

  時間が、蜂蜜のようにゆっくりと流れていく。

  俺は枕に頭を沈め、その声に耳を傾けた。

  そうだ。

  俺は、この時間を守りたかったのだ。

  [newpage]

  第25.5話:動かない手と、二人の距離

  目を覚ましてから、さらに数日が過ぎた。

  俺の回復力は、担当した治癒師たちが「熊の獣人というのは、これほど頑丈なのか」と呆れるほど早かった。

  死にかけていたのが嘘のように体力は戻り、今日ついに、介助なしでベッドから立ち上がり、窓際まで歩く許可が出たほどだ。

  ただ、両手だけは別だった。

  未だに分厚い包帯でグルグル巻きにされ、指先一つ動かすこともままならない。

  「……ま、仕方ないか」

  俺はベッドの上で、クリームパンのようになった自分の両手を見つめた。

  治癒師の話では、運び込まれた当初の両手は「挽肉」に近い状態だったらしい。

  ドラゴンの鋼鉄の頭蓋に、何百発と拳を叩き込んだのだ。骨は粉砕され、肉は弾け、原型を留めていなかったという。

  よくて切断、悪ければ壊死して全身に毒が回るところを、高位の治癒魔法でどうにか「手」の形に繋ぎ止めたのだそうだ。

  だが、魔法による治療はそこでストップしている。

  治癒師曰く、これ以上の急激な再生は危険らしい。

  砕けた骨や筋が複雑に絡み合っている状態で、魔法で無理やり組織を再生させると、関節が癒着したり、変な形で固まったりして、二度と指が動かなくなる可能性があるのだという。

  「あとは時間をかけて、少しずつ正しい形に戻していくしかない」と釘を刺されてしまった。

  両手が残っただけでも御の字だ。魔法様様である。

  ***

  窓の外はすでに夜の帳が下りていた。

  部屋の照明は落とされ、枕元の魔道具が発する淡いオレンジ色の光だけが、静寂に包まれた病室を照らしている。

  俺は視線を横に向けた。

  広くとられた特注のベッドの隣には、ウィルが横になっている。

  ここ数日、ウィルは片時も離れず俺の看病をしてくれていた。食事の世話から下の世話まで、嫌な顔一つせずに。

  疲れているはずなのに、その瞳は夜の光を映してキラキラと輝いている。

  「……ガクさん」

  静寂を破ったのは、ウィルの小さな声だった。

  「……あの日……川で、僕が大人になったら、って話してたこと、覚えてる?」

  あの日のことか。

  晩秋の冷たい川辺で、ウィルが何かを言いかけて、飲み込んだ言葉。

  俺は短く頷いた。

  「……オウ」

  「僕ね、やりたいことが見つかったんだ」

  ウィルはシーツの上で、もじもじと指を遊ばせながら言った。

  「旅がしたいんだ。……いろんな場所を巡って、他の国も見てみたい。美味しいものを食べて、見たことのない景色を見て……僕の知らないこと、全部知ってみたい」

  ウィルの言葉に、俺は少しだけ驚いた。

  この子はてっきり、生まれ育ったあの村で、ずっと暮らしていくものだとばかり思っていたからだ。

  だが、その瞳は、未知の世界への憧れでキラキラと輝いている。

  ウィルが上体を起こし、俺の顔を覗き込んだ。

  真剣な眼差しだ。

  「……ガクさんも、一緒に来てくれる?」

  その問いかけに、迷いはなかった。

  俺の帰る場所は、もう元の世界にはない。この子の隣こそが、俺の居場所だ。

  「……アア。……タノシソウダ」

  俺が答えると、ウィルは花が咲くように破顔した。

  「ありがとう、ガクさん」

  ウィルが身を乗り出してくる。

  布団が衣擦れの音を立て、甘いミルクのような匂いが鼻腔をくすぐった。

  ――ウィルの濡れた鼻先が、俺の鼻先にそっと触れた。

  

  挨拶代わりの、あるいはそれ以上の意味を持つ、獣人同士の親愛の証。

  俺は不意を突かれて、身を固くした。

  ウィルの体温が、吐息が、あまりにも近すぎる。

  心臓が早鐘を打った。

  ウィルは鼻先を離すと、どこか不安げに、けれど決意を秘めた瞳で俺を見つめた。

  「……僕、ガクさんのことが、好き」

  その言葉は、静かな水面に落とした小石のように、俺の心に波紋を広げた。

  「村のみんなや、孤児院のみんなへの『好き』とは違う。ハンス兄ちゃんや、家族への『好き』とも違うんだ」

  ウィルは俺の包帯だらけの手に、自身の手をそっと添えた。

  「僕は……ガクさんが、好きなんだ」

  真っ直ぐな告白。

  俺は戸惑った。

  俺もウィルのことは好きだ。大切だ。

  だが、それは「庇護欲」であり、「親子のような情愛」だ。

  守るべき対象への、温かくて健全な愛情。

  (……でも、本当に?)

  もし、ただの「親心」だとしたら。

  どうして今、俺の心臓はこんなにもうるさく鳴っているんだ。

  どうして、ウィルの「好き」が家族のそれとは違うと言われて、こんなにも歓喜しているんだ。

  ただ守りたいだけなら、この笑顔を誰にも渡したくないなんて独占欲が湧くだろうか。

  これからの長い旅路、その隣を歩くのは他の誰でもない俺でありたいと、こんなにも強く願うだろうか。

  (……なんだ)

  俺は、自分で自分を騙していただけじゃないか。親子の情愛だと思い込もうとしていただけだ。

  俺はとっくに、ウィルと同じ思いだったのだ。

  俺は息を吸い込み、ウィルの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

  両手が使えないのがもどかしい。抱きしめてやることもできない。

  だからせめて、言葉にありったけの想いを込めた。

  「……オレ、モ。……スキダ」

  たった一言。

  けれど、それで十分だった。

  言葉は少ないが、想いは通じたはずだ。

  ウィルの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。それは悲しみの涙ではなく、安堵と喜びに彩られた宝石のようだった。

  涙を流すウィルに、俺はもう一度、愛しさを込めて鼻先を寄せた。

  濡れた鼻鏡同士が触れ合う。

  互いの体温と吐息が混ざり合い、甘い空気が二人の間を満たしていく。

  その時だった。

  安堵と幸福感で緩んだ俺の体が、正直すぎる反応を示した。

  ――ズズッ。

  シーツの下。下半身の怪物が、意志を持ったように鎌首をもたげたのだ。

  数日間の絶対安静。高カロリーな療養食。そして何より、愛しい相手との想いの成就。

  溜まりに溜まっていた熱が、一気に下腹部へと集結した。

  「……あ」

  ウィルが視線を落とす。

  そこには、布団を持ち上げるほどに膨れ上がった、俺の剛直のシルエットがあった。

  「……ワルイ。……コレ、チガウ……」

  俺が慌てて言い訳しようとすると、ウィルは涙を拭い、悪戯っぽく口元を緩めた。

  「……ずっと寝たきりだったもんね」

  ウィルは濡れた瞳で、上目遣いに俺を見つめた。

  「溜まってた?」

  「……ッ」

  否定できなかった。

  俺が言葉に詰まっていると、ウィルは音もなく身を起こし、シーツの中に潜り込むようにして俺の足の間へと移動した。

  「……ウィル?」

  「じっとしてて、ガクさん」

  ウィルが俺の服に手をかける。

  両手が使えない俺は、されるがままだ。

  ウィルの手慣れた動きでズボンが引き下げられると、抑圧から解放された俺の分身が、ビクンと跳ねて熱い空気に晒された。

  「……すごい。カチカチになってる」

  ウィルが熱っぽい瞳で見つめる先で、俺のモノは血管を浮き上がらせ、赤黒く充血して脈打っている。

  ウィルはその熱い塊を、小さな両手で包み込むように握った。

  「……ウィル、ヨセ。……キタナイ」

  「汚くないよ。ガクさんのだもん」

  ウィルは俺の剛直に顔を寄せる。

  そして、ニッコリと微笑んだ。

  「僕に任せて」

  言うが早いか、ウィルは小さな口を大きく開き、その先端をパクリと咥え込んだ。

  「……ッ!?」

  温かく、湿った感触が先端を包み込む。

  ウィルの舌が、敏感な鈴口を優しく舐め上げた。

  「……う、んっ……」

  「……ッ、ウィル! ……ダメ、ダ……!」

  俺は思わず声を上げた。

  だが、ウィルは止まらない。

  俺のモノはあまりに大きく、ウィルの小さな口には到底収まりきらない。

  それでもウィルは、溢れ出る部分を両手でしっかりと握りしめ、唾液で濡らしながら激しく扱き上げ始めた。

  ジュルッ、チュプッ、グチュ……。

  静かな病室に、卑猥な水音が響き渡る。

  先端に舌を絡ませ、根本を手で擦り上げる複合責め。

  その刺激は、強烈すぎた。

  「んむ……っ、ん……ふぅ……っ!」

  ウィルが苦しそうに、けれど一生懸命に頭を振る。

  そのひたむきな姿と、直接脳に響く快感が、俺の理性を瞬く間に溶かしていく。

  「……ッ、ウィル……! ……モウ、ダメ、ダ……ッ!」

  「んっ……! だして……っ、ガクさん……!」

  ウィルが一度口を離し、代わりに激しく手と舌で刺激を加速させる。

  俺の腰が弓なりに反った。

  「ぐ、ぅぅ……ッ!!」

  ドクンッ!!

  俺の身体が大きく跳ねた。

  限界を超えた昂りが、白濁した熱となって勢いよく迸る。

  ウィルの顔に、胸元に、そして手の中に。

  俺の全てを叩きつけるように、何度も、何度も吐き出した。

  「はぁッ、……はぁ、はぁ……ッ」

  射精の余韻に浸りながら、俺は荒い息をついた。

  視界が明滅する。

  目の前には、俺の出したもので汚れたまま、満足げに微笑むウィルの姿があった。

  愛おしい。

  どうしようもなく、愛おしい。

  俺は、今すぐにでもこの子を抱きしめたかった。

  だが、今の俺にはそれができない。

  この溢れ出る愛しさを伝える術が、今の俺には一つしか残されていなかった。

  「……ウィル」

  「ん? なに、ガクさん」

  「……オレ、モ」

  俺はウィルの瞳を見つめ、懇願するように言った。

  「……オレ、モ……ウィル、ノ……ナメタイ」

  ウィルが目を見開いた。

  そして、ぶんぶんと首を横に振った。

  「えっ、でも……! ガクさんにそんなこと……」

  「……ダメ、カ?」

  俺が悲しげに眉を下げると、ウィルは「うぅ……」と言葉を詰まらせた。

  ガクさんの頼みは断れない。でも恥ずかしい。

  そんな葛藤が手に取るようにわかる。

  やがて、ウィルは顔を真っ赤にして、小さく頷いた。

  「……わかった。……ガクさんが、いいなら」

  ウィルは俺の足の間から這い上がり、俺の分厚い胸板の上に跨るようにして座った。

  そして、震える手で自身のズボンを下ろす。

  目の前に、可愛らしくも凛々しく昂った、ウィルの象徴が現れた。

  俺のと比べれば小さい。けれど、興奮で先走りを滲ませ、期待に震えているのがわかる。

  「……どうぞ」

  ウィルが恥ずかしそうに顔を背けながら、それを俺の顔へと差し出した。

  甘い匂いが鼻をくすぐる。

  俺は迷わず、その薄桃色の先端へと口付けた。

  「ひゃぅっ!?」

  ウィルが可愛らしい悲鳴を上げる。

  俺はそのまま口を開き、ウィルのモノを根本まで深々と咥え込んだ。

  「あ……っ、ガクさん……っ! 中、熱い……っ!」

  俺の口内は、ウィルにとっては広くて温かい洞窟のようなものだろう。

  俺は舌を使い、優しく舐め上げ、先端を転がすように刺激した。

  「んあぁっ! ……だめ、そこっ……! ガクさんの舌、ざらざらして……っ!」

  ウィルが俺の胸板に手をつき、ガクガクと震え始めた。

  その震えが、俺の体にも伝わってくる。

  俺は愛しさを噛み締めるように、音を立ててウィルを味わい続けた。

  この小さな体が、果てるその瞬間まで。

  「んぁっ……! ガクさん……ッ!」

  ウィルが俺の胸板に爪を立て、快感に身をよじる。

  俺は舌先で尿道口を執拗に責め、時折、頬をすぼめて強く吸い上げた。

  ジュルッ、チュプッ……。

  卑猥な音が部屋に響くたび、ウィルの身体がビクンと跳ねる。

  目の前にあるウィルの剛直は、今にも破裂しそうなほど赤く充血し、先端からは透明な蜜が溢れ出していた。

  甘い。

  ウィルのだからだろうか。

  口の中に広がるその味は、極上の蜂蜜のように俺の理性を蕩けさせた。

  「あ、ぁ……ッ! もう、だめ……っ! ガクさん、いくっ……!」

  ウィルの腰の振りが激しくなる。

  俺はそれに応えるように、喉の奥を開き、根本まで一気に飲み込んだ。

  「んんーーーーッ!!」

  ウィルの体が弓なりに反り、甲高い絶叫が上がった。

  ドクドクと脈打つ肉竿から、熱い濁流が俺の喉奥へと噴射される。

  一度、二度、三度。

  ウィルの若く濃密な命の種が、途切れることなく注ぎ込まれる。

  俺は一滴も漏らすまいと、喉を鳴らしてそれを飲み干した。

  ウィルの全てを、俺の中に受け入れる。

  「はぁッ、……はぁ、ぁ……ッ」

  ウィルが脱力し、俺の胸の上に崩れ落ちる。

  小さな心臓が、俺の胸板越しにトクトクと早いリズムで鼓動しているのがわかった。

  俺は口元を離し、愛おしげにウィルの汗ばんだ額に頬ずりをした。

  「……ウィル。……ヨカッタ、カ?」

  「……うん。……すごかった」

  ウィルがとろんとした瞳で俺を見下ろし、恥ずかしそうに、でも嬉しそうに微笑んだ。

  「全部、飲んじゃったの?」

  「……オウ。」

  「もう……変態だね、ガクさんは」

  ウィルはクスクスと笑い、ベッド脇の手拭いを取ると、俺の口元を丁寧に拭ってくれた。

  包帯だらけで身動きが取れない俺を、甲斐甲斐しく世話するその手つきは、どこか誇らしげにも見える。

  ひとしきり体を拭き終えると、ウィルは再び俺の胸の上に顔を乗せ、じっと俺の目を見つめた。

  「ねえ、ガクさん」

  「……ン?」

  「さっきの……『好き』って言葉。本当だよね?」

  ウィルの瞳に、わずかな不安が揺れている。

  勢いに任せた言葉だと思っているのかもしれない。

  俺は動かない腕を恨めしく思いながら、精一杯の誠実さを込めて頷いた。

  「……ホントウダ。……オレ、ウィル、ガ、スキダ」

  言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

  「……イチバン、チカクデ。……ズット、ソバニ、イタイ」

  俺の言葉を聞いて、ウィルの顔がパァッと輝いた。

  まるで、世界の全てを手に入れたような笑顔。

  「うん……! 僕も。僕も大好きだよ、ガクさん!」

  親子でもない。保護者と被保護者でもない。

  互いを求め合い、分かち合う、対等な魂の半身。

  言葉にする必要すらないほど強固な絆が、今の俺たちにはあった。

  (……ああ、そうか)

  俺はようやく、本当の意味でこの世界に根を下ろせた気がした。

  俺の居場所は、ここだ。

  この子の笑顔の隣だ。

  これから先、旅に出れば困難もあるだろう。

  だが、今の俺には何も怖くなかった。

  繋がった体温と、満たされた心。

  俺たちは寄り添い合い、眠りについた。

  

  枕元の魔道具が放つ、琥珀色の淡い光が、二人の寝顔を温かく浮かび上がらせていた。

  静かな灯火は、まるで二人の新たな門出を、朝が来るまで優しく見守り続けているようだった。

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