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青年に恋する猪のおっちゃん(名古屋弁風)

  「ふぅー……! いやぁ、どえりゃあ疲れたわ。腰が悲鳴あげとるがね」

  夕闇が迫る名古屋の片隅、ワシの住む古いアパートの庭先。 最後の一本の雑草を引っこ抜くと、ワシは「よっこらせ」と重たげな声を上げ、膝に手をついて立ち上がった。

  作業着のタンクトップは、滝のように噴き出した汗でぐっしょりと濡れ、剛毛に覆われた分厚い胸板や、だらしなくも愛嬌のある腹のラインに張り付いとる。 「フゴッ、フゴッ」と荒い鼻息がマズルから漏れるたび、イノシシ獣人特有の、むせ返るような濃厚な麝香(じゃこう)の香りと、酸っぱい汗の臭いが熱気とともに周囲に立ち込めた。

  我ながら、強烈な臭いだわ。

  「……ん、お疲れ様、トグルさん」

  その隣で、軍手を外しながら上目遣いにワシを見上げてくる細い影があった。刹那――せっちゃんだ。 普段は大学でもバイト先でも、影が薄くて大人しい子だなんて聞いとるけど、ワシの前でだけは違う。こうして捨てられた子犬みたいに、ワシの気配を探して寄ってくる。

  ワシは首に巻いた薄汚れたタオルで、顔の脂汗をごしごしと乱暴に拭うと、ニカッと牙を見せて笑いかけた。

  「ありがとな、せっちゃん。せっかくの休みに、こんなおっさんのアパートの草むしりから片付けまで手伝わせてまって……。一人じゃとても終わらんかったでよ」

  ワシが泥だらけの大きな手で、せっちゃんの頭をガシガシと撫でると、あいつは嬉しそうに目を細めて、ワシの太い腕にぴたりと身を寄せた。

  「……ううん。僕がやりたくてやったことだから。トグルさんの役に立てるなら、僕、全然平気だよ」

  ボソリと、けれど確かな熱を帯びた声。 ワシは照れくさくなって、太い首筋をガリガリと掻いた。その仕草だけで、脇の下からムワッとした強烈な雄の匂いが漂うのが自分でもわかる。普通の人間なら顔を背けるようなその体臭を、せっちゃんは嫌がるどころか、安心するようにクンと鼻を鳴らして吸い込んだ。

  「それにしても、おみゃーは物好きだわなぁ。こんな泥と獣臭にまみれた薄汚いおっさんの、どこがええんだか……」

  ワシが自虐交じりにそうぼやくと、せっちゃんはワシの泥だらけの腕に、ギュッとしがみついてきた。

  「……汚くないよ。僕、トグルさんの匂い、一番好きだもん。……なんか、落ち着くんだ」

  「……っ! お、おみゃー……真顔でそういうこと言うんじゃにゃあて!」

  顔の毛皮の下が、カッと熱くなるのがわかった。 二十歳の若者にこんな風に甘えられて、ワシの理性もいつまで持つやら。ワシは慌てて視線を逸らし、照れ隠しのように大きな声を出した。

  「と、とりあえず中入って、冷たい麦茶……いや、もう二十歳だし、ビールでも開けるか! ……あー、その前に水浴びんと、畳が泥だらけになってまうな。……ほれ、風呂場行くぞ。背中流したるで、こっち来やぁ」

  ワシはせっちゃんの華奢な肩に、汗ばんだ大きく重たい腕をポンと回した。 ドロドロの作業着越しに伝わる、ワシの過剰な体温と、強烈な生活臭。それでもせっちゃんは離れようともせず、むしろもっと深くワシの懐に潜り込むようにして、歩調を合わせてくる。

  狭い脱衣所に向かう廊下で、二人の足音が湿った音を立てて響いた。

  「ん……」

  ワシが風呂場へ促すと、せっちゃんはこくりと小さく頷いた。 だが、足は動かん。あいつの視線は、ワシの首に巻かれたままの、薄汚れたタオルに釘付けになっとる。

  「……なんあ、おみゃーも汗かいたか。ほれ、汚ねぇけど使うか?」

  ワシが首からタオルを外して差し出すと、せっちゃんは待ってましたと言わんばかりに、パッと目を輝かせた。 普通の神経しとったら、おっさんの脂汗と泥が染み込んだタオルなんて、雑巾にするのも躊躇うような代物だぞ。それをあいつは、まるで宝物でも受け取るみたいに両手で受け取りよった。

  「ありがと……トグルさん」

  せっちゃんは、そのタオルを躊躇なく自分の白く綺麗な顔に押し当て、滴り落ちる汗をぬぐった。 白い肌に、ワシの茶色い土汚れが少し移る。それを見ただけで、ワシの下腹が少し熱を持った気がしたが、次の瞬間、ワシは我が目を疑った。

  汗を拭き終わったはずなのに、せっちゃんはタオルを顔から離さん。 それどころか、ワシの首の匂いが一番染み付いとるあたりに鼻を埋めると――。

  すぅぅ……。

  音を立てんように、けれど肺の空気を全部入れ替えるくらいの勢いで、静かに、深く深呼吸しやがった。 ワシの加齢臭も、獣臭さも、泥の匂いも。全部を体内に取り込むみたいに、うっとりと目を閉じとる。

  (……おいおい、マジかて。そんな臭いタオル嗅いで、何が嬉しいんだわ……!)

  ワシが呆気にとられて立ち尽くしとると、ふと目を開けたせっちゃんと視線がぶつかった。

  「……っ!!」

  せっちゃんがビクリと肩を跳ねさせた。 誰にも見られとらんつもりだったんだろう。あいつは顔を真っ赤にして、慌ててタオルを口元から離すと、気まずそうに視線を泳がせた。

  「あ、いや……えっと、ちが、違うの! その……!」

  しどろもどろになるせっちゃんの手には、まだワシのタオルが握りしめられとる。 その必死な様子が、かえってワシの嗜虐心というか、なんとも言えん「雄」の部分を刺激してまって、ワシは喉をゴクリと鳴らした。

  「あ、いや……その、えっと……」

  せっちゃんが真っ赤な顔で俯いてまうと、こっちまで心臓が早鐘を打ち出しよった。 あんな風に、ワシの染み付いたタオルを愛おしそうに嗅がれるなんて……まるでワシの匂いで自分を上書きする「マーキング」みたいじゃにゃあか。 そう思ったら、ズボンの下でワシの逸物が、ぴくん、と勝手に跳ねた。

  (……いかん、落ち着けワシ。未成年のガキじゃあるめぇし、匂い嗅がれたくらいで昂ぶっとってどうするんだわ)

  興奮を悟られんように、ワシはわざとらしく咳払いをして、視線を天井に向けた。 このアパートは、ワシの親族が持ち主でな。一階と二階に二部屋ずつの、全四部屋しかないちんけな普請(ふしん)だ。ワシが管理人として住んどるのが、ここ102号室。 そして今、ワシの頭上――つまり202号室は、空き部屋になっとる。

  『なぁ、せっちゃん。おみゃーのアパート、更新近いんだろ? だったら上の部屋、格安……いやタダでええで、住まんでか?』

  喉元まで、その言葉が出かかっとる。 光熱費だけでええ。毎日ワシの飯を食わせてやるし、何なら朝も起こしてやる。 ……けど、それを言ったら「おみゃーを囲いたい」って言っとるのと同じだわな。四十過ぎたおっさんが、二十歳の男の子捕まえて「空き部屋に入れ」なんて、下心が透けて見えそうで、どうしても口に出せん。

  せっちゃんもせっちゃんで、何か言いたげに口をもごもごさせとる。 お互いに腹ん中に熱いもん抱えとるくせに、肝心な一言が出てこんまま、ワシらは狭い脱衣所の前で立ち尽くしとった。

  「……ま、まぁええわ! 話はあとだ。ほれ、風呂沸いとるで、おみゃーから先に入りゃあ」

  ワシが顎で浴室をしゃくると、せっちゃんはフルフルと首を横に振った。

  「だめだよトグルさん。トグルさんの方が年上だし、一番汗かいてるじゃないか。年長者が先に入るべきだよ」

  「何言っとるんだわ。今日はおみゃー、手伝ってくれた『お客さん』だろ? お客さんに泥んこのまま待たせるわけにゃあいかんて」

  「でも、僕なんかよりトグルさんの方が……」

  「あーもう、頑固だなぁ! ワシの皮は厚いもんで、泥がついとってもどうってことにゃあけど、おみゃーのその綺麗な肌は、早よ洗ってやらんと荒れてまうだろ?」

  ワシは強引にせっちゃんの背中を押そうとするが、せっちゃんも意外と踏ん張って動かん。 狭い廊下で、泥だらけの男二人が「先だ」「後だ」と押し問答。身体が触れ合うたびに、さっきのタオルの件を思い出して、妙に空気が熱くなる。

  「……じゃあさ」

  せっちゃんが、上目遣いにワシを見上げて、ボソリと言った。

  「……二人で、入る?」

  「……は?」

  「だって、お互い譲らないし……。男同士なんだから、一緒に入れば解決、でしょ?」

  せっちゃんの耳が、真っ赤になっとる。 この狭いユニットバスに、獣人のワシと、成人男性が二人? 正気か? と言いたかったが、ワシの口から出たのは、情けにゃあほど上擦った声だった。

  「……お、おみゃーがええなら、ワシは構わんけどよ……。でら狭いぞ?」

  温泉にゃあ何回か一緒に行ったことあるけどよぉ、この狭いアパートの脱衣所で二人っきりってのは、わけが違うがね。 壁も薄いし、距離も近い。せっちゃんがTシャツの裾を掴んで引き上げるだけで、二人の体温が籠った狭い空間の空気が揺れる気がした。

  「……ん」

  せっちゃんが上半身裸になる。 泥と汗で汚れた作業着の下から現れたのは、ワシの剛毛だらけの体とは正反対の、白くて滑らかな肌だ。 脱いだばかりのTシャツを手に、せっちゃんはキョロキョロと視線を泳がせた。この狭さだ、置き場所に困っとるんだな。

  「あー、そのままでええよ。洗濯機放り込んどくで、貸してちょ」

  ワシは自然を装って手を伸ばし、せっちゃんの手から、まだ体温の残る生暖かい布切れを受け取った。 その瞬間だわ。

  「……フゴッ!!」

  ワシのマズルが、意志とは関係なく大きく鳴ってまった。 人間の何千倍も利くイノシシの嗅覚が、手の中にある布切れから立ち上る「強烈な匂い」を勝手に捉えてまいよったんだ。

  (……っ!? なんちゅう濃い匂いだわ……!)

  泥や草の匂いに混じって、鼻腔をダイレクトに殴りつけてくる、せっちゃんの若い雄の匂い。 特に脇のあたりの、ツンとくる酸っぱさと甘さが混じったような濃密なフェロモンが、ワシの脳髄を痺れさせる。 普段は涼しい顔しとるくせに、脱いだらこんなに強い匂いを隠し持っとったんか。

  (……でら、ええ匂いだ……)

  ワシの下腹が、さっきより重く熱を持った。 もっと嗅ぎたい。この布切れに顔を埋めて、肺がパンクするまで吸い込みたい。 そんな獣の衝動が背骨を駆け上がったが、ワシは必死で理性を総動員して押し留めた。

  チラリと視線を上げると、せっちゃんはズボンのベルトに手を掛けたところで、ワシが鼻を鳴らしたことには気づいとらん様子だった。 まあ、洗濯籠に入れるついでに鼻先をかすめただけだ。不自然にクンカクンカしたわけじゃにゃあもんで、バレてはいないはずだわ。

  ワシは平静を装って、その「宝物」を洗濯籠に放り込んだふりをしつつ、実は一番匂いの強い部分が内側に来るように丁寧に丸めて置いた。

  「……ほれ、棒立ちしとらんで。ズボンも脱いでまわんと、風邪引くぞ」

  声が少し渇いて聞こえたのは、狭い脱衣所の湿気のせいだけじゃにゃあはずだ。

  「カチャ……」

  静まり返った狭い空間に、二人のベルトのバックルが外れる音が重なって響いた。 妙に生々しいその音に、ワシの心臓がまた一つ大きく跳ねる。

  せっちゃんは恥ずかしそうに俯きながらも、泥で汚れたデニムを足元へ滑らせた。 現れたのは、これまたワシとは対照的な、すらりと伸びた白い足だ。 太ももの裏からふくらはぎにかけて、無駄な肉も毛もない綺麗なライン。ワシの剛毛と筋肉の塊みたいな丸太足と並ぶと、同じ生き物とは思えんわ。

  (……見ちゃいかん、見ちゃいかんぞトグル……)

  頭では分かっとるのに、視線がどうしても下へ吸い寄せられてまう。 薄いグレーのボクサーパンツ。 その布地が、なんだか妙に……窮屈そうに膨らんどるように見えるのは、ワシの目が腐っとるせいか? それとも、さっきワシのタオルを嗅いだせっちゃんも、ワシと同じように昂ぶっとるんか?

  「……あ、ごめんなさい」

  ズボンを脱ごうとして屈んだ拍子に、ワシの尻とせっちゃんの腰が、ドンッとぶつかった。 狭い。ほんとに狭いわ、ここは。

  「いや、ワシこそすまん。……図体がデカくて邪魔だろ?」

  「ううん……トグルさんが大きくて、あったかいから……えへへ」

  せっちゃんはぶつかった場所をさするでもなく、むしろその余韻を楽しむように、とろんとした目で笑いやがった。 その無防備な笑顔と、下半身の下着一枚の姿。 ワシの理性の堤防が、ミシミシと音を立ててきしむのが聞こえたわ。

  「……ほ、ほれ! 早よ入らんと風邪引くぞ! 身体洗うで!」

  ワシは逃げるように浴室の扉をガララッと開けた。

  ムワッとした湯気と共に、さらに狭い空間が現れる。 二人で入るにゃあ、どう考えても密着不可避な広さだ。

  「……失礼します」

  せっちゃんが、ワシの背中に隠れるようにして一緒に入ってくる。 カラン、と桶が鳴る音さえも、妙に色っぽく響きやがる。

  「……まずは泥落とすぞ。ワシが流したるで、そこに座りゃあ」

  ワシはシャワーを手に取ると、プラスチックの椅子を指差した。 これから、この手でせっちゃんのその白い肌を触ることになる――そう思うと、ワシの喉はカラカラに渇いてまった。

  「座りゃあ、せっちゃん。まずは泥落とさんと、湯船にも浸かれんでな」

  ワシがシャワーを片手に、プラスチックの椅子を顎でしゃくると、せっちゃんはフルフルと首を横に振った。 普段なら、ワシのデカい声と圧に負けて「あ、うん……」って大人しく従うような子だ。 だのに、今のあいつは一歩も引かん。裸のまま、上目遣いでワシをじっと見上げてきよる。

  「……だめ。トグルさん、腰痛いんでしょ? さっき『腰が悲鳴あげとる』って言ってた」

  「あー、いや、それは言葉のアヤというか……」

  「それに、トグルさんの方がずっと汚れてる。……あ、汚いって意味じゃなくて、頑張った証拠がいっぱいついてるってこと」

  せっちゃんは、ワシの手からスポンジをそっと、けれど強引に奪い取った。 その手が震えとるのが分かる。緊張しとるくせに、ワシを敬う気持ちだけで精一杯虚勢を張っとるんだな。

  「僕に洗わせて。……お願い、トグルさん」

  そんな潤んだ瞳で見つめられて、断れる男がどこにおるんだわ。 ワシは観念して、小さくため息をついた。

  「……ったく、頑固な子だわなぁ。分かったて、好きにしてちょ」

  ワシがドカッと小さな風呂椅子に腰を下ろすと、ミシッ……と椅子が悲鳴を上げた。 狭い浴室に、巨大なイノシシの背中と、華奢な青年の裸体。 シャワーの音が、ザーッと静寂を埋める。

  「……じゃあ、流すね」

  せっちゃんのお湯加減は、ワシには少しぬるいけど、でら丁寧だ。 お湯を含んだスポンジが、ワシの剛毛に覆われた背中を滑り始めた。

  ゴシ、ゴシ、ゴシ……。

  「……痛くない?」

  「おう、ちょうどええわ。……あんた、意外と力が強いんだな」

  「トグルさんの背中、広いから……。一生懸命やらないと、綺麗にならない気がして」

  せっちゃんの細い指先が、泡越しにワシの背中の筋肉をなぞる。 ただ汚れを落とすだけじゃにゃあ。まるで、壊れ物を扱うみたいに、慈しむような手つきだ。 背中の毛の根元を、あいつの指が優しく揉み解していくたびに、ゾクゾクした甘い痺れが背骨を駆け上がる。

  (……あかん。これ、逆に精神修養だわ……)

  ワシは膝の上に置いた手ぬぐいを、ぎゅっと握りしめた。 すると不意に、背中の感触が変わった。 スポンジの感触が消え、代わりに、柔らかくて温かい何かが、ワシの肩甲骨のあたりに押し当てられた気がした。

  「……ん?」

  振り返ろうとすると、せっちゃんの吐息が、ワシの濡れた耳元に直接かかった。

  「……トグルさんの匂い、お湯に濡れると……もっと濃くなるね」

  せっちゃんは、ワシの背中を洗うふりをして、顔を近づけてきとる。 いや、近づけるどころか、これはもう――頬をワシの背中の毛に埋めとるんじゃないか?

  「……せ、せっちゃん? 洗うんじゃなかったんか?」

  「……ん。洗ってるよ。……でも、この匂い、流したくないなぁって……」

  ボソボソと呟く声と一緒に、チュッ、と背中に吸い付くような音がした気がした。 それが唇なのか、スポンジの音なのか、ワシの妄想なのか。 確かなのは、ワシのイチモツが、もう限界に近いほどパンパンに張り詰めとるってことだけだ。

  これ以上、背後に回らせとくのは危険すぎる。 ワシの理性が決壊する前に、状況を変えんといかん。

  「……よ、よし! もう十分だわ! ピカピカになった!」

  ワシはわざとらしく大きな声を出して、バシャッとお湯を被ると、勢いよく振り返った。

  「次はワシの番だ! ほれ、交代だ交代!」

  「あ……わっ」

  ワシはせっちゃんの手からスポンジを奪い返すと、今度はあいつを椅子に座らせた。 目の前には、無防備に足を閉じて座る、白くて細い、愛おしい裸体。

  「……覚悟しやぁよ、せっちゃん。ワシの手はデカいもんで、隅々まで洗ってやるでな」

  ワシはニヤリと笑ったが、その笑顔が引きつっとらんか、自分でも自信がなかったわ。

  「……ほれ、次は交代だ。座りゃあ」

  ワシがそう言ってプラスチックの椅子を指差すと、せっちゃんは「あ、うん……」と小さく頷いて、大人しく従った。 さっきワシの背中を流してくれた時は、一生懸命で、でもどこか遠慮がちで……そのいじらしい指先の感触がまだ背中に残っとる気がする。

  ワシはボディタオルに石鹸をつけて、ワシの手のひらほどもありそうな大きな泡を作った。 目の前には、無防備に背中を丸めて座る、白くて細い背中。 ワシの剛毛だらけの腕と並ぶと、まるで別の生き物みたいだわ。

  「……ゴシゴシやるで、痛かったら言いゃあよ」

  「うん……お願いします」

  ワシは出来るだけ力を抜いて、その白い背中に泡だらけのタオルを滑らせた。

  (……細いなぁ)

  軍手をしとる時は気づかんかったが、肩甲骨が浮き出るほど華奢だ。 ワシのゴツゴツした指先が背骨のラインをなぞると、せっちゃんの身体がビクン、と小さく跳ねた。

  「……っ」

  「ん? 痛かったか?」

  「う、ううん。……ちょっと、くすぐったくて」

  せっちゃんは首をすくめて、恥ずかしそうに笑う。 そのうなじが、湯気でほんのり桜色に染まっとるのが目に入って、ワシは慌てて視線を逸らした。 いかん。ただ身体を洗っとるだけだぞ。変な気を起こすな、ワシ。

  「……おみゃーの肌はツルツルだで、ワシのヤスリみたいな手で触ると傷になりそうだわ」

  「そんなことないよ……。トグルさんの手、大きくて……あったかい」

  ボソリと呟くせっちゃんの声は、シャワーの音にかき消されそうなほど小さい。 けど、その言葉に嘘がないことは、ワシの手に身を委ねてくる背中の重みでなんとなく分かった。

  背中を流し終え、ワシは泡を流すためにシャワーをかけた。 お湯が流れるたび、白い肌がさらに艶めかしく光る。

  「……前も、自分で洗えるか?」

  ワシがタオルを渡そうとすると、せっちゃんは少し迷ったように視線を泳がせた後、おずおずとワシの方へ身体を向けた。

  「……えっと、あの。……背中、やってもらったし。……その、ついでに……」

  言葉を濁しながらも、期待するように上目遣いでワシを見る。 自分から「前も洗って」とは言えんけど、この時間の終わりを惜しんどるような……そんな、甘えた子供みたいな目だ。

  (……ほんとに、おみゃーって子は……)

  ワシは観念して、もう一度タオルに石鹸を足した。

  「……バンザイしやぁ。脇の下も洗わんと、いかんでな」

  せっちゃんが素直に両腕を上げる。 露わになった胸元や、薄いあばら骨のラインに、ワシの大きな手を這わせる。 柔らかい泡越しでも伝わる、トク、トク、という心臓の音。 それがワシの鼓動と重なって、狭い浴室の空気をさらに熱くしていくようだった。

  互いに何も言わん。 ただ、泡が弾ける音と、荒くなりそうな呼吸を必死に抑える音だけが、狭い空間に響いとった。

  「……よし、上半身はこれでええな」

  泡だらけになったせっちゃんの胸元から手を離すと、ワシは一つ息を吐いて、視線を少し下にずらした。 ここから先――へそから下は、さすがにワシが手出しする領域じゃにゃあ。

  「……下(しも)は大丈夫じゃよな? 自分で洗えるか?」

  ワシがそう聞くと、せっちゃんはコクンと頷いて、ワシの手からスポンジを受け取った。 おずおずと、けれど丁寧に、せっちゃんの手が自分の股間へと伸びていく。 白い指先が、泡にまみれた自身のモノを包み込んで、ゆっくりと動く。

  (……見ちゃいかん。見ちゃいかんて……)

  頭じゃ分かっとるのに、ワシの目は吸い寄せられるように、その手つきを追ってまう。 ワシの剛毛に覆われた黒い一物とは違う、若くて、綺麗な色をしたモノ。 それをせっちゃん自身が、恥ずかしそうに、でも愛おしむように洗う姿は……正直、毒だわ。

  「……ッ」

  ズボンの下で、ワシの息子がグクリと首をもたげそうになるのを感じた。 こんな狭い密室で、目の前で若いオスが自身のナニを弄っとるのを見せつけられりゃあ、そりゃあ反応せん方が嘘だわな。 だめだ、だめだ。今はただの風呂だ。変な気を起こすな、トグル。

  ワシは下腹にギュッと力を込めて、湧き上がる熱を無理やりねじ伏せた。

  「……ん、よし! もうええだろ! 風邪引く前に泡流して、湯船浸かってきやぁ!」

  これ以上見とったら理性が飛ぶ。 ワシは逃げるようにシャワーを掴むと、せっちゃんの全身の泡をザバーッ!と勢いよく洗い流した。

  「わっ、……うん。ありがとう、トグルさん」

  「ええからええから! ほれ、入った入った!」

  せっちゃんが小さくなった身体で湯船の方へ移動するのを見届けて、ワシはようやく大きく息を吐いた。 心臓がまだバクバク言っとる。

  「……ふぅ。次はワシの番だわな」

  ワシはボディタオルに石鹸をなすりつけると、自分自身の体を洗い始めた。 せっちゃんを洗った時とは大違いの、力任せのゴシゴシ洗いだ。 剛毛に覆われた胸板、突き出た腹、太い太もも。硬いタオルで皮膚を擦る痛みが、昂ぶった神経を少しだけ鎮めてくれる気がした。

  (……やれやれ、とんだ苦行だわ)

  シャワーの音に紛れて、ワシは誰にも聞こえんように独りごちた。

  「ゴシッ、ゴシッ、ゴシッ……」

  ワシの剛毛に覆われた腕を、ナイロンタオルが容赦なく擦り上げていく。 さっきまでせっちゃんの、あのマシュマロみてぇに柔らかい肌を洗っとった感触が残っとる手で、今度は自分のワイヤーみてぇな毛皮を洗うんだ。 その落差に、我ながら苦笑いが出てまうわ。

  (……それにしても、今日はよう働いてくれたなぁ)

  シャワーの飛沫に打たれながら、ワシは今日一日のことをぼんやりと思い返した。 炎天下の中、軍手をしたその細い腕で、文句ひとつ言わずに雑草を引き抜いとったせっちゃんの姿。 汗で前髪を額に張り付かせながら、「トグルさん、次はあっちやるよ」なんて笑いかけてきよって。

  泥にまみれるのも、ワシのこの獣臭い体臭も、あいつは嫌がる素振りすら見せんかった。 今時の若いもんにしちゃあ、珍しい子だわ。稀有(けう)っちゅうか、物好きっちゅうか……。

  (……けど、あぶなっかしくて見てられんわ)

  ワシはタオルで、弛んだ腹の肉を少し乱暴に擦った。 あんな無防備な顔で、おっさんの使用済みタオルの匂いを嗅いだり、「一緒に入ろう」なんて言い出したり。 ワシがただの親切なおっさんだでええけど、もしワシが悪い狼だったら、骨までしゃぶり尽くされても文句言えんぞ。

  あいつは、自分がどれだけ無防備で、男(オス)の庇護欲を掻き立てるか、ちっとも分かっとらん。

  「……はぁ」

  大きなため息が、泡と一緒に足元へ落ちていく。

  (……婿(むこ)に欲しいわなぁ)

  ふと、そんな言葉が脳裏をよぎった。 いや、娘がおるわけじゃにゃあで、誰の婿だ、って話だけどよ。 このアパート――いや、ワシの隣に、ずっと置いておきたい。 あいつが他の悪い虫がつかんように、ワシの目の届く範囲で、ずっとニコニコ笑って飯食ったり、今日みたいに泥んこになって遊んだり……。

  「……バカか、ワシは」

  四十過ぎた薄汚いイノシシ獣人が、何を夢見とるんだわ。 ワシは首を振って、邪念を振り払うように股間へタオルを伸ばした。 さっきせっちゃんのナニを見たせいで、まだ少し血気が引いとらん息子を、痛いくらいにゴシゴシと洗い上げる。

  (……落ち着け。これ以上、あいつを怖がらせちゃいかん)

  全身の泡をシャワーで勢いよく洗い流すと、ワシは桶にお湯を汲んで、頭からザバーッと被った。 視界が開けると、湯気の向こう、狭い浴槽にちょこんと収まっとるせっちゃんの頭が見えた。

  「……よし、お待たせ。ワシも入るぞ」

  ワシは努めて明るい声を出すと、せっちゃんが待つ、一人用サイズの狭い湯船へと足を向けた。

  「……ほれ、足詰めやぁ。おっちゃんが入ると、お湯が溢れ出してまうでな」

  「ん……どうぞ」

  ザバーーーッ!!

  ワシがその狭い浴槽に巨体を沈めると、盛大な音を立ててお湯が洗い場へと溢れ出した。 ただでさえ狭い一人用のユニットバスだ。ワシとせっちゃん、男二人が入れば、それはもう「浸かる」というより「詰め込まれる」という表現が正しい。

  向かい合って膝を抱えると、ワシの剛毛に覆われた太い脚と、せっちゃんのツルツルした白い膝が、お湯の中でぴったりと密着する。 肌が触れ合うたびに、ピリピリとした熱が伝わってきて、どうにも落ち着かん。

  「……あー、どうだ、湯加減は。ぬるくにゃあか?」

  「うん、ちょうどいいよ。……トグルさんが入ってきて、お湯のかさが増したから、肩まで浸かれるようになったし」

  「そ、そうか。そりゃあよかったわ」

  会話が続かん。 普段ならもっと軽口を叩き合えるのに、この距離感と、互いに腹に抱えた「言いたいこと」のせいで、妙によそよそしい空気が漂ってまう。

  (……アパートの更新、どうするつもりだなんて……この距離じゃ逆に聞きにくいでかんわ)

  ワシは気まずさを紛らわすように、お湯を手ですくって顔を拭った。

  「……あー、そういや、今日は悪かったな。半日仕事させてまって」

  「ううん、楽しかったよ」

  「いやいや、そういうわけにはいかんて。朝から6時間くらいか? 結構な重労働だったし、タダ働きさせるわけにゃあいかん」

  ワシはここぞとばかりに、年長者としての威厳を見せることにした。 本来なら「家賃タダにするから住んでくれ」と言えば済む話だ。だが、それを言い出せん今のワシには、金で清算するくらいしか思いつかんかった。

  「あとで1万……いや、色つけて渡すでな。バイト代だと思って取っといてちょ」

  しかし、せっちゃんは濡れた髪を揺らして、ふるふると首を横に振った。

  「いらないよ。僕が好きでやったことだし……お金なんてもらったら、他人行儀みたいで嫌だ」

  「だ、だけどよぉ! おっちゃんのメンツってモンが……」

  「……じゃあさ」

  せっちゃんは、お湯から少しだけ顔を出すと、上目遣いでワシを見つめてきた。 その瞳が、湯気の中でとろんと潤んで見えるのは、のぼせたせいだけじゃにゃあだろう。

  「……『鶏王(とりおう)』。あそこに連れてって」

  「……は? 『鶏王』って、あの駅前の?」

  ワシは拍子抜けして、思わず素っ頓狂な声を出してまった。 『鶏王』といえば、チキン料理専門のチェーン店だ。せっちゃんが鶏肉好きだからよく連れて行っとるが、ディナーで腹一杯食っても1500円いくかいかないかの、安くて美味い大衆店だぞ。

  「おみゃー、あそこでええんか? 1万円あれば、もっとええ回らない寿司だって食えるぞ?」

  「ううん、あそこがいいの。トグルさんと一緒に、あそこのスパイシーチキンが食べたい」

  せっちゃんは、ふにゃりと嬉しそうに笑った。

  「トグルさんと並んで、ハフハフしながら食べるのが……一番美味しいんだもん」

  (……っ! ほんとに、おみゃーって子は……!)

  そんな殺し文句を、無防備な笑顔で言われたら、ワシの完敗だわ。 安上がりな願い事だ。けど、ワシにとってはどんな高級店での接待より、ずっと価値のある「おねだり」に聞こえた。

  「……しゃあにゃあな。おみゃーがそこまで言うなら、今夜は鶏祭りだわ!」

  「やった。ふふ、楽しみだな」

  「その代わり、デザートまでしっかり食えよ? おっちゃんが奢ったるでな」

  ワシがニカッと笑うと、せっちゃんも嬉しそうに微笑み返してくる。 狭い湯船の中、お湯の温かさと、せっちゃんの体温と、そしてこの何気ないやり取りの温かさが、ワシの胸をじんわりと満たしていくようだった。

  (……こんな風に、毎日一緒に飯食えたら、どんなにええか……)

  喉元まで出かかった「202号室」の話は、お湯と一緒に飲み込んでまった。 今はただ、この狭くて幸せな空間を、もう少しだけ味わっていたかったんだわ。

  ありがとうございます。お言葉に甘えて、ワシ(トグル)の視点で、二人のもどかしくも温かい距離感をじっくりと書かせていただきます。

  風呂上がり、濡れた髪を拭いてやるシーンから、外出への準備、そしてどうしても言い出せない「あの言葉」を巡る葛藤を描写します。

  「ふぅー……! 生き返ったわ。やっぱ湯船はええなぁ」

  ワシがザバーッと立ち上がると、狭い浴室の水位が一気に下がる。 続いてせっちゃんも、白い肌を上気させながら、ふらりと立ち上がった。

  「……ん。温まったね、トグルさん」

  「おう。ほれ、湯冷めせんうちに上がるぞ」

  脱衣所に出ると、湿気と二人の体温でムワッとした空気に包まれる。 ワシはバスタオルを頭から被り、剛毛だらけの頭をワシワシと乱暴に拭いた。ブルブルと身震いして水滴を飛ばす様は、まさに野生動物そのものだわな。

  対してせっちゃんは、フェイスタオルで丁寧に、白い肌をポンポンと押さえるように拭いとる。 その仕草がいちいち儚げで、放っておけん気持ちにさせやがる。

  「……貸してご。おみゃー、髪の毛まだビショビショだがね」

  ワシは自分の頭を拭くのをやめ、大きめのバスタオルを広げると、せっちゃんの頭からすっぽりと被せた。

  「あ……」

  「じっとしとりゃあ。ワシが拭いたる」

  「……うん。ありがとう」

  せっちゃんは抵抗せず、素直にワシの前に立って首を垂れた。 ワシの大きな手が、タオルの上からせっちゃんの頭を包み込む。 優しく、ワシャワシャと揉み込むように拭いてやると、せっちゃんは「ん……」と気持ちよさそうな吐息を漏らして、ワシの腹にコテッと額を預けてきよった。

  (……っ! 無防備すぎるだろ、おみゃーは……)

  ワシの腹に伝わる、せっちゃんの額の熱。 風呂上がり特有の甘い石鹸の匂いと、あいつ自身の匂いが、ワシの鼻腔をくすぐる。 濡れた前髪の隙間から覗く瞳は、とろんと潤んで、まるで餌を待つ愛玩動物みたいだ。

  このまま抱きしめて、この狭い脱衣所で押し倒してまいたい――。 そんな獣の衝動が、湯上がりで火照った身体の中で暴れそうになる。 だが、ワシは奥歯を噛み締めてそれを耐えた。 今はまだ、その時じゃにゃあ。せっちゃんを怖がらせちゃいかん。

  「……よし、こんなもんか。さっぱりしたな」

  ワシは未練を断ち切るように、ポンとせっちゃんの背中を叩いた。

  「ほれ、服着て。腹減ったろ? 『鶏王』が待っとるぞ」

  「ふふ、そうだね。……お腹すいた」

  せっちゃんがニコッと笑う。 その笑顔を守れるなら、ワシの理性なんぞ安いもん……かもしれん。

  着替えを済ませ、ワシらはアパートの外に出た。 夜の名古屋の風が、火照った頬に心地ええ。

  「鍵、閉めるで待っとってちょ」

  ガチャリと102号室の鍵を閉める。 その時、ワシの視線がふと、横にある外階段に向けられた。 錆びついた鉄骨の階段。その先にあるのは、空室のままの『202号室』だ。

  (……今だ。今言うべきだろ、トグル)

  『せっちゃん、飯食い終わったら、上の部屋見てかんか?』 『あそこなら、いつでもおみゃーの部屋にしてええでよ』

  言葉は喉元まで出かかっとる。 今夜のこの甘い空気なら、あるいは受け入れてくれるかもしれん。 ちらりと横を見ると、せっちゃんもまた、何か言いたげに階段の方を見上げとるように見えた。

  「……トグルさん?」

  「あ、いや! ……なんでもにゃあ! さあ行くぞ!」

  結局、ワシはヘタレた。 土壇場で勇気が出ん。もし断られたら、もし「気持ち悪い」と思われたら……この心地よい関係まで壊れてまう気がして、怖かったんだわ。

  「……うん。行こうか」

  せっちゃんは何も聞かず、そっとワシの隣に並んだ。 街灯に照らされた二人の影が、アスファルトの上で長く伸びて、時折重なり合う。 手は繋いどらん。 けど、肩が触れそうなほど近い距離で、ワシらは駅前の『鶏王』へと歩き出した。

  「……なぁ、せっちゃん」

  「ん? なあに?」

  「今日のスパイシーチキンは、特別辛くしてもらうか? 汗かいてスッキリしたい気分だわ」

  「ふふ、トグルさんまた汗だくになっちゃうよ? ……でも、いいかもね」

  たわいもない会話。 けれど、ワシの腹の中では、まだ消化しきれない熱い塊が、チキンへの食欲とは別の意味で渦巻いとった。

  続く

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