無題

  着陸した機内からボーディングブリッジに降り立ったシドは、小さく伸びをした。彼の背後には【サトウ】改めハンサムが続き、2人はターミナルビルへ続く道を歩いた。ビジネスクラスとエコノミークラスの出口は分かれているため、シドとハンサムは手早くターミナルビルへ入ると、そのまま手荷物受取所へと移動した。

  手荷物受取所にある到着案内の電光掲示板を見上げたシドは、そこに反射する人影を見た。シドとハンサムの後方、トイレの出入り口付近に立つ白人男性は、手元のスマートフォンを弄りながらも、シド達の方を見ていた。それに気がついているシドは疲れたような雰囲気で目元に指を当てると、トントンと2度叩いた。シドの振る舞いにハンサムもまた、「やはり…疲れたな」と返すと、ベルトコンベア上を流れてきたスーツケースをピックアップした。手元の控えナンバーとタグのナンバーを確認したハンサムは、スーツケースを回収した。少し後にシドもスーツケースを回収すると、手荷物受取所の出口へと歩いて行った。

  2人の後方を、白人男性が距離を置いて続く。

  手荷物受取所の出口には警察官が立っており、周囲を警戒している。その横を通過したハンサムは財布から5000円札を取り出して、シドに手渡すと「一服してくる」といい、近くの喫煙所に姿を消した。

  「到着ロビーの右側におにぎり屋がある。衛生面にもとても気を使っている店だから、安心して大丈夫だ」

  ハンサムの言葉を聞いたシドは「…わかりました」と小さく応えると、スーツケースを転がしながら歩いて行った。

  「めんたいおにぎりと梅おにぎりを頼む!」

  シドの背中にハンサムの声が届き、シドは手のひらを振ることで応えた。周りから見ると、部下にお使いを頼み、自身は喫煙所でゆっくり過ごす、よく見かける部下と上司の構図であった。

  シドはハンサムに向かって手を振る際に、喫煙所に入る白人男性の姿を見た。

  (…尾行は任せろ、安心して用事を済ませろ、という事か)

  ハンサムの言動の意図を汲み取ったシドは、言われた通りに到着ロビー脇にある和食の店に行くと、店頭に並ぶ列の最後尾に立った。テイクアウトにも対応しており、かつ安価な値段設定のため、家族連れや一人旅の客など、多くの人が居た。

  5分ほど並び、シドがカウンターに立つと中年の女性店員が「いらっしゃい」と言った。カウンター上には品書きが置いてあり、それに目を通したシドは店員に向かって話した。

  「めんたいおにぎりと梅おにぎりを2つずつ、あとお味噌汁と漬物セットも2組、テイクアウトでお願いします」

  「はい、合わせて1000円ね」

  シドは財布を取り出すと、ハンサムから渡された5000円札をカウンターに置いた。店員がそれを受け取り、釣り銭を用意する間、店員の向こう側にある土産物コーナーに立つ人物と目が合った。

  銀髪、サングラス、ミニスカと臍を出したショートの服、観光客風の女性はシドの視界に入るように立っており、彼と目が合うと近くのベンチに腰掛けた。くちゃくちゃとガムを噛み続ける女性を目で追ったシドは、店員から釣り銭と品物を受け取り、先ほどの女性が座っているベンチへと向かった。

  銀髪の女性の左隣に座ったシドは、ビニール袋からおにぎりと味噌汁、漬物を取り出すと、それらに口をつけた。シドの隣に座っている銀髪の女性は、突然食べ始めたシドを見て舌打ちすると、左手でベンチの座面を一度触り、立ち去った。女性の後ろ姿を見送ったシドは、梅おにぎりを頬張りながら女性が触ったベンチの座面、そこに置いてある黒い物体に目を向けた。

  【3F-B】と手書きで記してある駐車券とスマートキーであった。

  それを見たシドはおにぎりの入っていた袋をそれらの上に置き、ハンサムが来るのを待った。シドがそれらを食べ終わった頃、喫煙所から歩いてきたハンサムが合流し、シドはおにぎりの入ったビニール袋を手に取った。ビニール袋ごと座面に置かれていた駐車券とスマートキーを握り、駐車券をお釣りの紙幣の合間に挟み、それらを渡すとハンサムは「ありがとう」と短く言った。

  「あと、お茶も買ってきてくれ」

  ハンサムは紙幣をちらりと見ると、1000円札をシドに渡した。紙幣の裏には駐車券もあり、受け取ったシドは頷くと、ベンチから少し離れた場所にある自販機へと移動した。その際、ベンチに座るハンサムを盗み見ると、美味しそうにおにぎりを頬張り、慣れ親しんだ味を堪能していた。

  ベンチから少し離れた箇所、着陸案内板の近くに白人男性が立っていた。その姿を横目で見たシドは彼に気づかれないようにハンサムに駐車券に記されている文字を伝え、更にスマートキーを自身のポケットに入れていた。シドはお茶を2本買うとハンサムの下に戻り、1本をハンサムに渡した。ハンサムは漬物を食べながら「ありがとう」と返すと、近くに置いてある2つのスーツケースを指差した。

  「すまないが、先にタクシー乗り場まで運んでいてくれ。私はトイレを済ませてから合流する」

  「…タクシーは確保しておきますか?」

  シドの問いにハンサムは「いやっ」と返すと、味噌汁を飲み干した。

  「乗り場まで運んでくれ、タクシーを待たせるのもドライバーに悪いからな」

  ハンサムの言葉を聞いたシドは「わかりました」と返すと、スーツケースを転がしながら、歩いて行った。周囲から見ると、上司のお使いをさせられる部下という構図であり、それに疑問を持つ人は誰も居なかった。電光掲示板の下に立っている白人男性も同様に、シドとハンサムを見比べると、上司であるハンサムを監視すべきと判断し、シドの背中から目を逸らした。

  ハンサムの言葉の意図を的確に汲み取ったシドは、エレベーター待ちの列に並び、タクシー乗り場ではなく併設されている立体駐車場へと移動した。立体駐車場の3FにあるBブロックへと移動したシドは、ハンサムの指示通りに監視カメラの死角とフロア全体を見渡せる場所を探し、待機することにした。

  スーツケースが転がらないように固定すると、シドは腰のボールホルダーからモンスターボールを取り出した。機内でポケモンを出せないように黒と黄のシーリングテープで封をしてあるが、シドはそれを破るとボールの中に入っていた雌のルカリオ、エコーを外に出した。右耳の付け根に花飾りを付けているエコーは、ようやく外に出れたことで伸びをすると、周囲を見渡した。

  『あー、疲れたぁ…』

  ボールの中で退屈していたエコーのテレパスの言葉を聞いたシドは「すまないな」と返すと彼女の頭を撫でた。シドの手の感触にエコーは目を細めると、右耳を僅かに揺らし、花飾りを踊らせた。10年前のクリスマスイブ、強盗に撃たれたエコーは右頭部を銃弾が掠めた事で古傷となり、一部の毛が生えなくなっていた。そのため、古傷を隠すためにシドはエコーに花飾りなどを随時贈り、エコーもそれを喜んで受け取っている。

  揺れる花飾りを見たシドは「頼んだ」と短く言い、エコーは目を閉じると後頭部の4本の房に意識を向けた。駐車場内部にいる生き物の波導を感じ取り、悪意や敵意のある者が居るか否か、簡易的な検査を行った。やがて、目を開いたエコーはシドの顔を見上げると、八重歯の覗く口を動かした。

  『異常無し、怪しい奴も居ないぞ』

  男勝りな口調で報告してくるエコーの頭を撫でると、シドは「ありがとう」と短く言った。その言葉を聞いたエコーは擽ったそうに笑うと、青い尻尾を小さく振っていた。

  足音が聞こえた。

  シドがそちらに顔を向けると、シーリングテープのゴミを丸めながら歩いてくるハンサムの姿があった。周囲に白人男性の姿はなく、尾行も撒けたらしい。涼しい表情のハンサムはシドの差し出したスマートキーと自身のスーツケースを受け取ると、歩きながらボタンを押し、反応する車両を探した。

  駐車場の端の方に止めてある黒い乗用車が反応し、ハンサムは運転席へと乗り込んだ。シドはリアシートにカバンとスーツケースを乗せ、助手席に乗った。続けてエコーもスーツケースと反対側のリアシートに乗ると、ハンサムはエンジンをかけた。微かに車体が揺れ、フットブレーキとパーキングを解除したハンサムは、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。車両は立体駐車場を抜けると、空港前のアプローチへと出た。

  シドは口を開いた。

  「…DGSEがなぜ?」

  シドの問いにハンサムは小さく唸ると、視線を前に向けたまま、応えた。

  「先日のカロス美術館での発砲事件について、彼らも色々と調べているんだろうな。我々に対する尾行も、【なぜ日本に捜査官が、このタイミングで向かうのか】という疑問によるものだろう」

  ハンサムの返答にシドは僅かに溜息をこぼすと、助手席から外を見た。ヤマブキシティの街並みが後方に流れていき、車両は首都高に入った。微かな振動と共に車両は加速し、本線へと入った。

  ダッシュボードから甲高い音が聞こえた。

  それを耳にしたシドは横目でハンサムを見ると、彼はダッシュボードを一瞥すると「開けてくれ」と言った。その要請にシドは素直に応じると、ダッシュボードを開けた。そこには、甲高い着信音を鳴り響かせているスマートフォンが置いてあった。

  それを手に取ったシドは、画面に記された番号に目を向けると、通話をタップした。少しの沈黙の後、低い男の声が聞こえた。

  【ストーカーは無事に撒けたようですね】

  丁寧な口調の低い男の声、それに聞き覚えのないシドは戸惑った表情をハンサムに向けるが、運転中のハンサムは小さく鼻を鳴らすと、アクセルを踏み込んだ。

  「国際警察の捜査官たる者、これくらい朝飯前だ」

  【なるほど、さすがはハンサムさん…いえ、今はサトウさんでしたね】

  今回の任務のために国際警察本部が用意した偽IDの事もお見通しなのか、男は低い声で微かに笑った。男の口調にシドとエコーは眉根を寄せるが、ハンサムは意に介さずに応えた。

  「まずは車を用意してくれて、ありがとう。ただ、君の部下はファッションセンスが良くないな」

  【…まぁ、あれは彼女の趣味ですから…上官の私が口出しする必要も無いかと】

  「それにしても銀髪のウィッグなどとは…最近の若者のセンスは理解できないな」

  おそらくは遠目から銀髪の女性を見たのであろう、その身分を見抜いているハンサムの言葉を聞いた男は困ったような声を漏らした。

  【いつの時代も世代間のギャップは拭えないものです】

  男の返事を聞いたハンサムは「だろうな」と短く切り返すと、アクセルを緩めて周りの車両の流れに合わせた。景色が次々と変わり、リアシートに座るエコーは物珍しそうに外を眺めている。その姿をルームミラー越しに見たシドは、続けて男の声に意識を向けた。

  【…で、主任捜査官がなぜ日本へ?】

  男の声色がより低くなり、警戒色が滲み出ている。対するハンサムはリラックスした雰囲気のまま運転しており、シドの手にあるスマートフォンに向かって話しかけた。

  「確認しておくが、スマートフォンと車内は掃除済みか?」

  ハンサムの問いに男は「はい」と肯定した。男の返事にハンサムは小さな声を漏らすと、再度口を開いた。

  「この電話番号は?」

  【清潔なものを使用しています】

  男の返答に満足したのか、ハンサムは「よし」と小さな声で呟いた。車両は本線から逸れると、徐行し一般道へと降りた。そこにはヤマブキシティ中心街、霞ヶ関へ向かう車両で満たされており、シドは溜息を漏らした。

  車両は信号待ちの列に並び、停車した。ふと、助手席から外を見ていたシドの目に、カフェのテラス席に座るバシャーモと全身黒い格好をした人物が見えた。バシャーモは器用にフォークとナイフを使っており、それを見たシドは感心したように独り言を漏らした。

  「ずいぶんと鍛えられたバシャーモだな…」

  運転席に座るハンサムが口を開いた。

  「少佐はカロス美術館の発砲事件の他に、ヒウンシティの爆弾テロ、欧州の空港発砲事件、南米のスタジアム爆破、アフリカの資源プラントへの攻撃、ガラルの鉄道爆破の共通点を知っているか?」

  ハンサムの問いに男は【三佐です】と応えると、その質問について否定の言葉を口にした。一方、それらの共通点を知っているシドは閉口したまま、ハンサムの言葉を待った。

  信号が変わり、ハンサムはアクセルをゆっくりと踏んだ。車両は交差点に侵入して、そのまま右折した。

  「答えは全ての事件にポケモンが使われており、それらのポケモンは軍や警察ではなくポケモンレンジャーが捕獲している、という点だ」

  彼の説明を聞いた三佐は【全ての事件で?】と怪訝そうな声を漏らした。

  【…我々の調査だと、事件の実行犯の持つ思想は全て異なり、無関係の事件だと断定しましたが…】

  「その分析は間違っている、シド君」

  唐突に名前を呼ばれたシドの反応は一瞬遅れ、シドに釣られてエコーの毛も微かに逆立った。

  「シド君、こちらは少佐だ。この国の情報機関に所属している。少佐、こちらはシド君だ。組織犯罪対策課の分析官だ」

  ハンサムの紹介を聞いた少佐、いや三佐は溜息をこぼし、【よろしくお願いします】と返事した。シドもまた、顔の見えない相手に挨拶すると、事態を説明すべく、口を動かした。

  「ハンサムさんの説明通り、組織犯罪対策課では世界中に存在する犯罪組織やテロ組織などの資金分析や思想・情報分析を行います。三佐殿のおっしゃったように、彼らに思想や使用武器や装備、資金の流れの共通点は見られませんでした」

  【だが、国際警察は何かを見つけたのですね】

  三佐の質問にシドは「はい」と応えると、リアシートに座るエコーがカバンから取り出したファイルを受け取った。そこに記された文字に目を向けると、スマートフォンに向かって話しかけた。

  「彼らが攻撃に使ったポケモンが共通点でした」

  【…まさかモンスターボールの識別番号ですか?それは我々でも調査済みです】

  シドは三佐の返事に「いいえ」と返すと、誌面上に記されている文字を指でなぞった。そこには英数字による組み合わせが記されており、それらを視認したシドはスマートフォンに向かって話を続けた。

  「モンスターボールの識別番号を元に調べたところ、出国手続き時に行われるポケモン用ワクチンのロット番号です」

  【ロット番号?】

  「はい。ご存知の通り空港や港からポケモンを連れて行く際に、予防接種を受けさせる義務があります」

  シドの言葉を聞いたエコーは、かつて自身が受けた予防接種の痛みを思い出し、微かに毛を揺らした。小さく泣くエコーの姿をルームミラー越しに見ると、シドは話を続けた。

  「特にカロス熱やガラル風邪は非常に感染力が強く、WHOが主体となり、予防接種とワクチン管理に努めています。そこのデータベースを確認したところ、攻撃者が連れていたポケモン達のボール識別番号が、同じグループのロット番号で予防接種を受けていました」

  【…そのロット番号のワクチンを製造していた研究所か製薬企業が日本にある、ということですね】

  三佐の問いにシドは「はい」と応えると、ファイルに記されている施設名と住所を見た。そして運転席に座るハンサムを一度見ると、彼が頷くのを確認した。

  「今回、犯罪組織に対する協力連絡体制の調整という名目でハンサムさんと私は日本に来ました」

  【しかし、実態はこのロット番号の調査という事ですね。それで…施設名は?】

  三佐の問いに、シドはゆっくりと口を開いた。

  「ポケモンレンジャーの戦闘訓練所兼実験施設、ポイントθです」

  *

  「それでは、こちらがお部屋の鍵になります。レストランは22時まで、大浴場は深夜2時まで時まで使用可能です。どちらも、明日の朝9時から使用可能ですが、お急ぎなら客室のシャワーや近くにコンビニもあります」

  クチバシティにあるポケモンセンターの宿泊受付で手続きを終えたティトは、聴き慣れた説明を受けながら「わかりました」と応えた。通常色のバシャーモに変幻している色違いのゾロアーク、ジーンは彼女の隣に立っており、遠目からティトを見ているナンパ目的の男性トレーナーを威嚇していた。

  「行くよ」

  そんなジーンの背中にティトは声をかけると、彼と共に部屋に移動した。エレベーター前の掲示板にはヤマブキシティのポケモンセンターと同様に、ティトの顔写真が掲示してあった。それを横目で見たティトは、小さく溜息を溢すとエレベーターに乗り込み、ジーンと共に部屋に向かった。

  ヤマブキクチバ間に敷かれたポケモンレンジャーの検問所を無事に抜けたティトは、部屋に荷物を置くと室内の備品と避難経路を確認し、続けてドアと窓の鍵を確認していた。その間にジーンも室内を歩き回ると、優れた聴覚を使い室内に不審物がないか確認していた。

  やがて、一通り室内を見回ったジーンはティトの方を向くと、テレパスで話しかけた。

  『盗聴器や怪しい物はない、安心しろ』

  直後、バシャーモの姿から本来の色違いのゾロアークへと姿を変えたジーンの言葉を聞いたティトは、安心したように息を吐き出すと、その脚でベッドに向かい、そこに置いてある荷物に手を伸ばした。ボールホルダーからトランスと呼ばれたポケモンのボールを取り出すと、それを空に投げた。

  長い胴体に短い四肢、大きなヤマアラシのようなポケモンが姿を現した。ジョウト地方では初心者トレーナーに贈られるポケモンの一種、ヒノアラシの最終進化系であるバクフーンのトランスは、猫のように伸びをすると、ティトに歩み寄り顔を擦り寄せた、

  長い時間、ボール内に居た彼女の甘えに、ティトは苦笑するとトランスの顎を撫でた。ティトの指の感覚にトランスは心地良さそうに目を細めると、ティトの頬を舐めた。

  バクフーンと言えば、首元から炎を出し、好戦的な鋭い眼差しが特徴である。しかし、トランスは気怠そうな眼差しをしており、体色も通常のバクフーンより薄い。なにより、首元の模様が通常のバクフーンとは異なっている。

  トランスはヒスイの姿のバクフーンであった。

  カントー地方ではまず見かけないヒスイバクフーンは、人々の好奇心を誘ってしまう。故にトランスは人前に出せず、室内や山奥など人目の無い状況でないと自由を堪能できないのだ。

  朝からモンスターボールの中に居たトランスは、ティトに対してお腹を撫でて、空腹をアピールしていた。ティトはトランスの振る舞いに笑みを浮かべると、あらかじめ買っておいたサンドイッチの封を開けて、彼女に渡した。

  パンとトマト、タマゴの香りにトランスは嬉しそうな声をあげると、ティトからサンドイッチを受け取り、美味しそうに齧り付いた。トランスの食べっぷりにティトは嬉しそうに笑みを見せると、黒いウィッグとカラーコンタクトを外し、銀髪と蒼い瞳の本来の姿に戻った。肩が凝ったのか、ティトは数回背伸びをすると、その場で服を脱ぎ出した。唐突に服を脱ぎ始めたティトに対して、ジーンは慌てたようにカーテンを閉じると、ティトを睨みつけた。

  『服は洗面所で脱ぎなさい』

  まるで母親のような口調で説教してくるジーンに対して、ティトは「はいはい」と応えるとシャワールームへと姿を消した。褐色の身体がドアの向こうに消えると、ジーンは呆れたように溜め息をついた。

  ふと、シャワールームのドアが開き、ティトが顔を見せた。

  「…覗かないでよ」

  『覗かねえよ』

  彼女の言葉にジーンは即答し、トランスは「見張りは任せろ」と親指を立てた。同性のトランスの振る舞いにティトはニコリと笑うと、異性に当たるジーンを一睨みし微かに笑い、シャワールームへと姿を消した。

  『たくっ…』

  10年前に出会った時は可愛い子供だったが、今では感情豊かに振る舞えるようになっている。そんなパートナーの姿を見届けたジーンは、ティトが脱ぎ散らかした服と下着を拾い、ランドリー用の袋に入れた。

  『相変わらず、父親みたいな振る舞いねぇ』

  サンドイッチを食べたトランスは満足したように自身の腹を撫でると、やる気を感じさせない垂れ目をジーンに向けた。テレパスを使えない彼女はティトと意思疎通する際にボディランゲージやジーンに通訳を頼むが、今はポケモン同士なので問題なく会話が成立している。

  ジーンは間延びしたトランスの言葉に『うるせえよ』と返すと、シャワールームの方を見た。

  『…あいつはレンジャーから逃げ出して、今の生活を楽しんでいるように振る舞っているが、本心は怯えているんだよ。それを俺たちに気づかれないようにしている…いや弱点を見せることができないんだよ』

  『頼る相手が居ないのは、良くない…ティトも頼れる人が必要ということねぇ…』

  

  間延びした口調でトランスは言うと、猫のように伸びをして、ジーンを見た。

  『私が気になるのは、頼る相手が居ないということは、別の物事で補う可能性があるかも、という点が心配ねぇ』

  トランスの言葉を聞いたジーンは『どういう事だ?』と彼女に尋ねた。トランスは自身の指先を舐めると、猫のように顔を描きながら応えた。

  『人間は色々な物を作るからねぇ…酒やタバコなら可愛いけど、クスリや肉体的な物で依存するのは嫌よねぇ』

  『肉体的な?』

  『セックス依存性とかねぇ』

  トランスの言葉を聞いたジーンの動きが止まった。あらわな姿で異性の身体を求めるティトの姿を想像したのか、ジーンは心底嫌そうな表情で顔を背けた。そんなジーンを見たトランスは猫のように目を細めると、話を続けた。

  『クスリやセックスの依存性は感染症のリスクもあるからねぇ…セックス依存性だと子を孕むリスクもある…ティトほど可愛い女の子が欲すれば、ほとんどの男は抱くでしょ』

  『…やめろ』

  ジーンの声がトランスの言葉を止めた。彼の反応を見たトランスはニヤリと目を細めると、からかうようにケラケラと笑った。

  『言っておくけど、私はティトの事を心配しているから教えてあげているのよぉ…彼女の事が大切なら、ストレスのかからない生活と頼れる相手が必要ねぇ』

  トランスの言葉にジーンは顔を顰めると、シャワールームの前の床に腰掛けた。最悪な未来を回避するための解決方法が判明しているのに、それを行えないもどかしさを覚えたジーンの反応に、トランスはニヤニヤと笑い顔を浮かべた。

  『先に言っておくけどぉ、ジーンが頼りにならない存在ということは無いのよぉ…むしろティトはジーンに頼り切っているわねぇ』

  『…』

  『あとはストレスのかからない生活…ポケモンレンジャーから自由になるのが1番ねぇ…』

  そう呟いたトランスは大きな欠伸をすると、床の上で丸まった。すぐに寝息を立て始めたトランスを一睨みしたジーンは、閉口したまま、シャワールームのドアにもたれかかった。

  『…わかっている、わかってはいるが…』

  誰に言うまでもなく、ジーンはポツリと呟いた。彼の声は室内に微かに広がり、窓から吹き込む風音により掻き消された。

  背後のドアの奥から水音が聞こえる。

  生まれたままの姿でシャワーを浴びているティトが落ち着けるようにジーンは見張り番に徹している。時々、ティトの鼻歌が微かに聞こえたが、ジーンは目を伏せたまま、周囲の気配を警戒していた。

  室内にトランスの寝息が反響し、静かな時間が過ぎていく。

  やがて、水音が止まると濡れた床を歩く音が聞こえた。ジーンはそれを耳にすると、音を立てずに移動し、バスタオルを準備した。

  シャワールームのドアが開き、一糸纏わぬ姿のティトが出てきた。直後、ジーンは彼女の頭にバスタオルをかけると、後ろから全身を拭いてあげた。ティトは肩越しにジーンを見ると、器用に世話してくれる彼に「ありがとう」と微笑んだ。

  「喉乾いたぁ…ジュースはあったかしら…」

  そのまま歩き出そうとするティトの褐色の背中を見下ろしたジーンは、何も言わずに抱き締めた。背中越しに感じる彼の体温、それを覚えたティトは不思議そうな声で「ジーン?」と尋ねた。

  ジーンは何も言わずに、服を纏わぬティトを後ろから抱き締め続けると、彼女の左肩に口を近づけた。シャワーで化粧の落ちた彼女の左肩には、古傷がその存在を顕にしていた。ジーンは右手の指先でティトの顎を掴むと、古傷を舐めた。突然、肩に広がる舌の感覚にティトはくすぐったそうな声をあげたが、ジーンは止めない。

  窓は開かれ、外から風が吹き込んでいる。しかしシャワールームの付近は外から死角になっており、バルコニーの下を行き来する者達は、室内の光景に気づきもしない。窓から吹き込む風がティトの濡れた肌にあたり、ティトは微かに身体を震わせた。

  褐色の珠肌、銀色の髪、大きな蒼い瞳、それらを見下ろしたジーンは、先ほどトランスの放った言葉を思い出した。

  誰かのものになるのなら、いっそのこと…

  ジーンの左手の爪がティトの下腹部を掠める。そのまま手を動かそうとした矢先、ティトの手が彼の左手を叩いた。

  「やめて」

  はっきりとした彼女の言葉に、ジーンの動きが止まった。肩越しに振り返るティトの大きな蒼い瞳に自身の顔が反射しており、それは呆気に取られた表情をしている。ジーンは己の行動を再認識すると、何も言わずにティトの首の古傷を舐めた。そしてバスタオルで彼女の身体を包むと、清潔な着替えを取りに行った。そんなジーンの背中を見ていたティトは、彼に舐められた首の古傷を撫でると、彼が投げて寄越した着替えを身に纏った。新しい服に着替えたティトはテラスの傍に立つジーンの背中に歩み寄ると、後ろから抱きついた。両手を彼の胸元に回すと、紫の体毛に顔を埋めた。

  ティトの鼻腔に、ジーンの匂いが広がる。

  彼の体温と匂いを感じ、安心し切っている彼女はジーンを抱き締めたまま、彼に声をかけた。

  「あんたは私の嫌がる事をしないでしょ」

  彼女の言葉を聞いたジーンは目を伏せると、『当たり前だ』と返した。彼の言葉を聞いたティトは心の底から安心したような目で彼を見上げると、指先でジーンの立髪を弄っていた。毛先から伝わる感覚にジーンは目を細めると、小さく息を吐いた。

  ジーンは右手を左肩に回すと、肩越しにティトの首の傷を撫でた。首筋に走る感覚に、ティトは目を細めるとジーンの身体を強く抱き締めた。

  室内にトランスの寝息が響いている。

  *

  雪道を黒塗りの車が疾走している。

  ドライバーはスリップしないようにハンドルを握り、アクセルを調整している。車内には生臭い血の臭いが広がっており、リアシートに横にさせられているティトの首からは真っ赤な鮮血が流れ出ている。彼女の首の傷にはたおるが押し付けられ、リアシートの前で屈んでいるシドが懸命に圧迫している。脚も高く保持しており、応急処置としてはこれが限界である。

  ティトの傍には右頭部から出血しているリオルのエコーとゾロアの姿もあり、ゾロアはエコーの頭部を舐めると、止血を試みていた。

  「あと少しで病院だからな‼︎がんばれ‼︎」

  運転席の男性、シドの父親はティト達に向かって励ましの言葉を送るが、視線は前方を向いたままである。雪道でコントロールできるギリギリまでアクセルを踏み込むと、やがて左の赤信号から合流してきた2台の白バイの姿が見えた。先頭の白バイは疾走する車を止めず、並走しながら車内を確認すると、サイレンを鳴らしながら先導を始めた。もう一台の白バイは車の後方につき、同じくサイレンを鳴らした。周囲の車両は緊急車両の接近に合わせて車線を開き、その合間を2台の白バイと乗用車が走り抜ける。

  「が、がんばって…」

  リアシートでティトの傷口を圧迫しているシドは泣きながら言った。しかし、ティトの顔色はどんどん青白くなっている。

  右頭部から出血しているが、エコーは意識をしっかりと保っている。しかし、ティトは意識がなく、呼吸も弱くなりつつある。

  シドの視界の端に雪景色に溶けていた病院の建物が見えた。

  運転席の父親が「もう着くぞ!」と声を上げて、先導する白バイについていき、救急の搬送口へ停車した。入り口には救急スタッフが待機しており、リアシートのドアを開けるとティトをストレッチャーに移し、そのまま建物の中に搬送していった。その頃にはティトの腕は消毒され、輸血針用の針が刺されていた。一方、父親は白バイ隊員に状況を説明し、隊員は県警本部に連絡していた。ティトの家に向かって警官が出動し、捜査が始まるはずだ。

  リアシートに居たエコーは看護師が処置室へと連れていき、止血処理が施される。それにゾロアもついて行こうとしたが、建物の入り口で警備員により阻止されていた。それを見たシドは震える脚でゾロアに駆け寄ると、その小さな身体を抱き上げて、警備員を見上げた。

  「僕のポケモンです‼︎」

  血塗れの手と服、震える眼差し、それらを見た警備員は根負けしたように息を吐くと、館内のスタッフに連絡し着替えの用意を依頼していた。少しして事務員が駆けつけて、シドと父親、ゾロアを館内へと案内した。救急搬送口にはティトの他にも搬送された患者の姿があり、非常に忙しい状態であった。故に彼らは外来処置室に案内され、あらかじめ事務員が準備していた病院売店で販売されている普段着に着替えた。そのまま血塗れの服と身体を拭き、清潔になった頃、事情聴取のために駆けつけた刑事が入ってきた。

  「休んでいなさい」

  父親はそう言うと、刑事と共に隣室へと姿を消した。その間、泣きながら椅子に座っているシドの背中を事務員は撫で続け、気を利かせた看護師がスタッフの休憩室に置いてあったホットココアを持ってきた。室内に甘い

  香りが広がり、大人に囲まれたシドの涙腺は再度崩壊した。大泣きするシドを見た事務員は「あとは任せてください」と看護師に言い、彼女は部屋を後にした。

  処置室にシドの大きな泣き声とゾロアの弱々しい声が広がった。

  幸いにも処置室に他患者は居らず、シドは大泣きし続けた。やがて落ち着いたのか、ホットココアを飲み干し、泣き疲れて眠ってしまった。

  どれくらいの時間が経ったのだろうか、処置室で眠っていたシドの背中には毛布がかけられており、近くにはゾロアと処置を終えたエコーの姿があった。父親は誰かと話をしているらしく、隣室から声が微かに聞こえた。シドは腫れぼったい目を擦りながら起き上がると、靴を履こうとした。

  毛布が床に落ちた。

  シドはそれを拾うと、ベッドの上に置いた。そして処置室のドアを開けると、薄暗い廊下に出た。病院特有のクリーム色のリノリウム床を踏み締め、シドはゆっくりと廊下を歩く。窓から見える外の景色は真っ暗になっており、廊下は冷凍庫のように冷え切っている。

  現在の状況を把握できないまま、シドは夢の中のような世界を歩いていた。

  ふと、廊下の奥に影が見えた。それはエコーと同じ色と似た雰囲気を持つポケモンだった。しかし、エコーと違い、その眼光は鋭く、まるで猛禽類のようである。その姿を見たシドは怯えたように立ち止まり、恐怖の眼差しを向けた。そのポケモンは廊下の奥から歩いてきたシドに警戒の目を向けていたが、「ルーク」と呼ぶ低い男性の声に反応した。

  ポケモンは処置室の隣の部屋の入り口に向かってお辞儀すると、中から出てきた大きな人影に付き従った。人影に続き、父親も出てくると人影とポケモンは父親に向かって深くお辞儀した。

  直後、父親がシドの存在に気がつき、彼の下に駆け寄ってきた。そして小さな身体を抱き締めると、そのまま抱き上げ、人影に向かって何かを言った。だが、父親に抱き抱えられた安心感から、シドは再度の眠気に襲われて、やがて意識を消失した。

  *

  目が開いた。

  ポケモンセンターの宿泊施設に泊まっているティトは、シャワーを浴びた後、再度化粧と変装を施し、食料品や日用品などの買い出しのため、クチバシティへと繰り出した。隣にはバシャーモに変幻したジーンが、腰のボールホルダーには悪目立ちするトランスの姿があり、彼らは常に周囲を警戒している。

  一通りの買い物を終えたティトとジーンは、豪華客船や定期連絡船、貨物船などが停泊する港湾部、そこへ続く桟橋が見える公園のベンチに座ると、沖合から吹き込む海風を全身で浴びていた。そして、疲れが溜まっていたのか、ティトはジーンの肩にもたれ掛かると、そのまま眠り込んでいた。

  目を覚ましたティトはもたれ掛かっていたジーンに「ごめん」と声をかけると、疼いている首の傷を触った。海風の潮に当たり続けたためか、皮膚が微かにベタついており、黒髪のウィッグにも絡みやベタつきがあった。

  『おう、気にすんな』

  ティトの言葉にジーンは短く答えると、彼女の髪を手櫛で整えた。器用かつ髪が絡まないように整えるジーンの指の動きに、ティトはくすぐったそうに目を細めた。

  

  時刻は16時過ぎ、夏の日差しが公園内に降り注ぐが、ティトとジーンの座るベンチは木陰になっており、幾分か暑さが軽減している。それでも、夏の公園に居た以上、ティトはうっすらと汗をかいており、ジーンの差し出したウェットティッシュで首元を拭いた。

  化粧が落ち、首の古傷が顔を見せた。

  直後、ジーンは別のタオルをティトの首に被せると、『不用心だぞ』と小言を漏らした。自身を守るために即座に行動してくれるジーンの優しさを実感したティトは、再度ジーンの肩に頭を預けると、ゆっくりと唇を動かした。

  「ありがとう」

  彼女の言葉を聞き、ジーンは顔を少し背けた。恥ずかしそうに指先で頬をかく姿を見たティトは、ベンチから立ち上がると大きく伸びをした。

  ティトは午前の移動時とは異なり、白いパンツに白いキャミソールを着ており、上から淡い水色の薄手のカーディガンを纏っている。頭上には大きな白い帽子を被り、黒のウィッグとカラーコンタクトを装着している。

  夏の日差しがよく似合うティトの姿は、周囲の人々の目を引いた。特に男性の目を強く引いており、すれ違う人やカップルで歩いている男性の目も魅了している。もっと、カップルの男性は彼女に耳を引っ張られているが。

  周囲の視線が自然と集まりつつあることを感じたジーンは、殺気を込めた目で彼らを睨みつけ、威圧している。ティトの隣に立つバシャーモの姿は、近くに居る男性や他ポケモン達を遠ざけさせ、それに気づいているトランスのボールが愉快そうに微かに震えた。

  ティトの視界の端を、オレンジ色の制服を着た人影、ポケモンレンジャーの歩く姿が映り込む。彼らの先頭にはクチバシティ入り口に検問所を敷いていた赤髪に赤い目の青年、ポケモンレンジャー教官のコウサカの姿もあり、クチバシティ内を巡回している様子である。今のティトは検問所の時の黒い服とは打って変わって、白と水色の格好をしているため、彼らの注意を引かずに済んだ。公園内を歩くレンジャー隊員達を尻目に、ティトはベンチの先にあるテラスへと歩み寄り、そこからクチバの海を眺めている。

  一方、ジーンは周囲に気付かれないうちにバシャーモからコジョンドへと姿を変幻させ、ティトの傍に移動した。一見すると海の景色を見ているようだが、ティトとジーンの眼差しは後方を歩くポケモンレンジャー隊員達を捕らえており、会話を盗み聞きしようとしていた。

  「たく、疲れたよな…」

  年若い男性隊員が溜息混じりにテラスの柵にもたれ掛かると、青空を見上げていた。彼の視線には先行するコウサカや他のレンジャー隊員の姿があるが、まだ若い彼は不貞腐れたような表情で公園内を見渡していた。

  そんな若い隊員の側に、別の女性隊員が近づいた。

  「ほんと、暑いわよね…早く屋内に戻りたいわ」

  「検問所で小娘を探す任務だから楽だも思ったが…なかなか見つからないよな」

  「いつまで検問するんだよ」と呟いた男性隊員は、手にした缶コーヒーを飲みながら愚痴をこぼしていた。彼らの近くにはティトとジーンの姿があるが、手配書と違う格好のため、気づかずにいる。

  暑そうに空を見上げた女性隊員が、口を開いた。

  「しばらくは続くでしょうね…必要ならシンオウやホウエンまで捜査を広げるのかしら…」

  女性隊員の言葉、それは捜査の範囲がカントー地方付近に留まっており、シンオウ地方やホウエン地方はまだ手付かずである可能性を示唆していた。つまり、飛行機やフェリー、高速鉄道などの経路の検問所が未設置である可能性がある。そのことに気づいたジーンはティトの肩を軽く小突くと、ティトは小さく頷いた。

  「どちらにしろ…しばらくは検問所勤務かぁ」

  「暑いよなぁ」と男性隊員は続けて小言を漏らすと、缶コーヒーを飲み干し、ゴミ箱に捨てた。その際にティトの後方を通過したが、男性隊員はその正体に気づきもしない。通り過ぎる隊員の背中をティトは肩越しに一瞥すると、彼らの会話に耳を傾けた。

  「ところで…その小娘は何をやらかして脱走したんだ?わざわざ検問所も敷くレベルのVIPなのか?」

  男性隊員はスマートフォンの画面に映し出されたティトの顔写真を見ながら呟いた。彼の言葉を聞いた女性隊員はわざとらしく肩をすくめると、声を落として呟いた。

  「聞いた話だけど、研究所のヤバい実験の関係者だとか…」

  「研究所、ねぇ…」

  女性隊員の言葉を聞いた男性隊員はタバコを咥えて火を点けようとするが、「ここは禁煙よ」という女性隊員の指摘に苦い表情を見せると、タバコとライターを懐にしまい、彼らは歩き去った。

  2人の影が小さくなった頃、ジーンはコジョンドの姿のまま、ティトに話しかけた。

  『…どうする?』

  ジーンの質問にティトは閉口すると、腰のボールホルダーを撫でた。ヒスイの姿のバクフーン、トランスはボールを微かに揺らし、指先に走る感覚にティトは伏せていた目を前に向けた。

  「あいつらの話が本当なら…まだ逃げるチャンスはある」

  『問題は北か南か…』

  ジーンの一言を聴き、ティトは小さく頷くと、トランスのボールを撫で続けた。ボールは微かに揺れ、まるで意思表示するかのようである。指先の感覚に集中したティトは、ゆっくりと口を開いた。

  「正直、私は雪が嫌い…嫌な記憶を思い出すわ」

  『俺も雪は嫌いだ』

  ティトとジーンの意見は合致し、同時にトランスのボールは小さく揺れた。ティトはトランスに向かって「北は嫌い?」と尋ねると、ボールは大きく揺れた。

  「じゃあ、トランスも南が良いの?」

  トランスのボールが大きく揺れる。その音を聞いたジーンは『決まりだな』と呟き、ティトも海を眺めながら口を開いた。

  「ホウエンに渡って、落ち着く場所を見つけたら…私は彼のことを探すつもり…」

  ティトの一言に対して、ジーンは『アイツの事か』と返答した。それにティトは首肯すると、遠い地であるホウエン地方のことを思っていた。生まれた故郷とは全く異なる土地への旅路、心なしか、ジーンの目に映るティトの表情は、微かに明るくなっている気がする。

  そんなティトに向かってジーンは声をかけた。

  『なんにせよ、ティトも落ち着いて生活できる環境が必要だ。今の生活はストレスが多すぎる』

  彼の言葉を聞いたティトは自嘲を浮かべると、横目でジーンを見ながら口を動かした。

  「ポケモンレンジャーを潰せ、というの?私1人で?」

  彼女の口角は上がっているが、蒼い瞳には絶望の色が滲み出ていた。一瞬のうちに、彼女の身に纏う雰囲気が変わり、そのことに気がついたジーンは『軽率だったな』と返した。しかし、彼の声にも哀しみの色が滲み出ている事にジーン自身が気づいていなかった。

  組織に追われ、少しずつ包囲されていく感覚はティトの心身に強いストレスを与えている。その事に触れたくないティトは、ジーンの肩に頭を預けると「…ごめん」と小さな声で言った。

  ジーンは何も言わずにティトの頭を撫でると、夏の空を見上げた。

  蒼い空には銀白色の雲が広がり、自由気ままに泳いでいる。それとは正反対の状況に置かれているティトの頭を撫でていたジーンは、空を恨めしそうに見上げると、隣から聞こえたティトの声に耳を傾けた。

  「…タバコって美味しいのかしら」

  先ほどの男性隊員の持っていたタバコを思い出し、ティトは小さな声で呟いた。直後、ジーンの脳内にポケモンセンター内で交わしたトランスとの会話の内容が再生された。

  同時に、あらわな姿で男の身体を求めるティトの姿も再生された。

  次の瞬間、ジーンはティトから勢いよく顔を背け、蒼い空を見上げた。唐突なジーンの動きにティトは目を丸くしたが、当の本人は自身の想像力を恨みつつ、顔面に降り注ぐ太陽の光で目を細めた。

  彼の心の内を知っているトランスは、ボールの中でケラケラと笑っていた。

  ティト「やっぱり吸ってみようかな…」

  ジーン『やめろ』

  トランス『m9(^Д^)プギャーwww』