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[2024 関西けもケ9] 恵みを巡るものがたり 試し読み
(『恵みを巡るものがたり』試し読み)
一 青紫色の手
真夏の、寝苦しい夜だった。
冷房も扇風機もとっくの前に切れたけれど、付け直すことはできない。そんなことをしたら明日どれくらい怒られるか分からないから。
薄い布団の中で、ぼくはうまく寝付けなくてうんうんと唸っている。せめてもの抵抗に窓を開けてはいるけれど、たまにそよいでくるのは生温い風ばかり。
なんとなく枕元の時計に目をやる。もうすぐ真夜中だ。こんな時間まで起きているなんて、初めてかもしれない。[[rb:大晦日 > おおみそか]]にだって早く寝なさいって言われるから。
そう、あとほんのちょっとで日付が変わる。八月三十一日、木曜。夏休み最後の日。そして、ぼくの十一歳の誕生日。
毎年、この日が来るのが嫌だった。夏休みが終わるからじゃない。家にいても学校にいても、たいした違いはなかった。というか、学校なら先生の言う通りにしていれば怒られないから、まだマシだ。クラスメイトには馴染めてなくて時々仲間外れにされたりはするけど、積極的にいじめられているってわけでもないから、全然平気だった。
誕生日が嫌なのは、自分のことが好きじゃないから。そして、あのひとに[[rb:鬱陶 > うっとう]]しそうな目で見られるからだ。今まで誰かに誕生日を祝ってもらったことなんて、あったっけ? 思い出をいくら探してみても見つからない。
そんなことをずっとうだうだ考えてしまって、結局眠気がくる様子もない。せめて蒸し暑さを紛らわすものを探して、うろうろと泳いだ視線に、時計の文字盤がぶつかる。時間もほとんど進んでいない。でも、遂に日付が変わるようだ。
あと十秒。あと五秒。三、二、一、――
――えますか……
「……え?」
誰かの声が聞こえた気がした。
爽やかで、よく通る声だった。男の人とも、女の人とも言えない声色。でも、聞こえたのはほんの一瞬で、そのあといくら耳を澄ましても、何も聞こえはしなかった。
近所の家でドラマでも見てるんだろうか? でも、それだったら、今も聞こえてたって良いはずだ。それなのに今はもう何も聞こえない。……そうだ、おかしいな。いつもなら、開いた窓からカエルの大合唱が聞こえるはずなのに。それさえ[[rb:止 > や]]んで、不気味なほどにしんと静まり返っている。自分の呼吸の音と、どきどきする胸の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
(それに、さっきの声……どこか遠くじゃなくて、耳元で聞こえたような気がする)
分からない。何も、分からなかった。こんなこと、本当にあり得るんだろうか? 混乱して次第に焦り始めた頭の中に、ふと考えが[[rb:閃 > ひらめ]]く。
(これ、ひょっとして夢?)
周りに視線を向けてみて確信する。どうして気付かなかったんだろう。いつの間にかぼくは、自分の部屋じゃない、ぼんやりした灰色の空間にいた。……あれ? そうだ、すっかり忘れていたけれど、前にもこんな夢を見たことがある。
その時は確か、夢の中で誰かに出会ったんだ。でもそれが誰だったかは、全然思い出せない。そもそも、そんな夢を見たのはいつだったっけ。[[rb:昨夜 > ゆうべ]]? 先月? それとも、去年かな?
――。届いて、いますか……
「!」
こんどははっきりと、耳元でそう聞こえた。振り返って、もう一度周りを見渡す。薄暗い、灰色一色だった空間が、次第に明るさを増していく。
光る何かが、その場に現れようとしていた。それはやがて[[rb:朧気 > おぼろげ]]な人型になって、ぼくの前にゆっくりと近付いてくる。
「……認証。ああ、遂に、声が届いたのですね。来ていただけて、本当に良かった……」
それはとても涼しげで美しい声だったけど、ひどく疲れているようだった。まるで何もない砂漠をずっと歩き続けていたような、くたびれ果てた声。そして、その末にやっとオアシスを見つけた時みたいな、心の底から安心した声。
その人型はぼくの目の前まで来ると、輝きを抑え、[[rb:跪 > ひざまず]]いて頭を下げるような姿勢になった。
「[[rb:深謝 > しんしゃ]]……ご来訪を心よりお待ちしていました。どうか、おチカラをお貸しいただけませんか。我らの世界に来ていただきたいのです」
「ちょ、ちょっと待ってよ。えっと……」
ぼくがまだ何も言えないでいるうちに、話がどんどん進みそうだったので、慌てて口を挟む。近くでよく眺めてみると、それが[[rb:模 > かたど]]っている姿はすらっと背が高く、飾り気のない布地をローブにして纏っているようにみえた。
むかし、何かの絵本で見たことがあるような。それはまるで……
「……天使?」
「回答未定義。この身は、ひとつの世界を守り、維持するもの。それ以外の[[rb:権能 > けんのう]]は有しません。呼称もありませんので、好きにお呼びください」
「はあ……」
全く事情が呑み込めないままのぼくに、その天使(そう呼ぶことにした)はゆっくりと話をしてくれた。かれの世界がいま滅びかけているということ。世界を動かすチカラが途絶えて、このままでは無に帰してしまう、とかなんとか。……話はしてくれたけど、結局よく分からない。
「それでどうして、ぼく……なんですか?」
「回答。あなたには[[rb:類 > たぐい]]まれなるチカラがあると、とある旅人から聞いたのです」
「旅人、って、もしかして」
心のどこかに引っ掛かって隠れていた記憶が、そのとき不意に戻ってきた。そう、いつか見た夢で出会ったのは、黒いカラスのような印象のひとだった。
それを伝えると、天使は優しく微笑んで、「肯定。その通りです」と答える。
「我らの世界へと来たその旅人が、万策尽きたこの身に、あなたのことを教えてくれたのです。あなたなら、停滞し隔絶した我らの世界を救うことができる、と。[[rb:銓衡 > せんこう]]結果――まさしくその言葉通りでした。この目で見て、確信しました」
熱弁するその姿は、なんとなく新興宗教のひとみたいだ、とぼくは思った。天使っぽいから、本当に宗教の関係者なのかも。ぼくなんかの夢に来るなんて、いろいろ大変そうだな。でも……
「……でも、ぼくには何もできないよ」
暗くて重いあのひとの声が、心の中で響く。あんたはなにもできないんだから。
「非同意。今ここで、こうして言葉を交わしていることこそ、あなたのチカラを証しています。夢を[[rb:航 > わた]]り、夢を叶えるためのチカラ……推論、きっと我らの世界にて、それは恵みをもたらす偉大な筋肉ともなるでしょう」
「えっ? 筋肉?」
ついつい問い返してしまったけれど、天使はそれには答えなかった。
「再提示。あなたが来てくださるだけで、我らの世界に未来が生まれます。さもなくば我らは、もはや滅びるのみ。……この身に残された猶予も長くはありません。あなたが最後の希望なのです。どうか――」
「――よく、分からないままだけど。そもそもぼくなんかに、できることがあるのかな。一体どうすればいいの?」
天使の言う世界に行くのは良いけど、夏休みは明日で終わりだし、二学期が始まったらズル休みなんかできない。こてんぱんに叱られるのは目に見えている。……正直、それは嫌だ。
そのことを伝えると、天使は真剣な顔で頷く。
「回答。その解決のために、チカラが必要なのです。あなたが目を閉じ、眠りに落ちて、次にその目が覚めるまで――あなたの魂であれば、我らの世界にお招きすることができるのです」
「魂? 寝ている間、だけ……?」
「肯定。あなたのカラダは寝床から出ることもありません。ですから誰かに気付かれる心配も不要です。ご懸念はこれで解消されます」
天使はそう言って[[rb:太鼓判 > たいこばん]]を押してくれるけど、果たして本当に、そんなチカラがぼくにあるのだろうか。信じられない気持ちはまだ強い。
でも、夢の中でどこかへ行けるんだとしたら。それは、ずっとやりたいと思っていたことだ。心の奥で長い間[[rb:疼 > うず]]いていた、ぼくの願いだ。
「それなら……行くよ。良ければ、今からでも」
だからぼくは、天使を信じてみることにした。「おお……おお! [[rb:万謝、 > ばんしゃ]]この身の全てに懸けて、あなたに御礼申し上げます。それでは……[[rb:啓行 > けいこう]]開始。どうぞ、夢に身を委ねてください」
天使がぼくの頭に手をかざす。だんだん、その声がぼやけてきた。顔もだ。深い眠気がぼくを呑み込んでいって――
……ぼくは、まだ夢を見ているんだろうか?暗くて何も見えない。こういうの、なんて言うんだっけ? いつか辞書で見た覚えがあるんだけど。――混沌。たぶん、そうだ。何もかもがぐちゃぐちゃになって、ちゃんとしたカタチになっていない、そんな感じ。
少し不安になってきた。ここが天使の言っていた世界なのかな? もしそうなら、これってもうとっくに滅んでしまってるんじゃないか?まさか、あの天使に[[rb:騙 > だま]]されてしまった……?
でも、何故かは知らないけど、ぼくは天使の言葉を素直に信じられると、妙に確信していた。さっき「世界を救ってほしい」と言われたことが、温かくて強いチカラに変わっていく。……根拠もないのに、そんな気がしていた。
(世界を救うだなんて、絶対カッコいいよね)
最初は、ほんのりとそう思っただけだった。カッコいい、けれど、ぼくなんかにできるかは分からない。できたらいいな、とは思う。ぼくにそんなチカラがあればいいな、と。
チカラ、ってなんだろう? 天使が言ってたことを思い出す。ええっと、確か、夢を叶える、恵みをもたらす、それから――
――筋肉。
急に出てきた言葉だった。けれど、たしかにそうだな、とぼくは納得する。漫画のスーパーヒーローも、みんな筋肉もりもりだ。ゲームに出てくるボスキャラもそう。自分でやったことがあるわけじゃなくて、攻略動画を見たことがあるだけだから、たくさんは知らないけれど、ぼくに思いつく限りの作品ではそうだった。
それじゃあ、どうすればチカラを、筋肉を、得られるんだろう。……このぼくのカラダじゃきっとダメで無理だ。新しい世界にぴったりの、新しいカラダが要る。
(だったらそれを、作らないといけないよね)
これが夢だったら、きっとなんでもできるに違いない。何かを一から作り上げることだって。
そう思った瞬間、もこり、と何かが生じた。
何もない混沌に生じたそれは、次第に大きくなっていく。ぼこっ、むにゅ、びきっ、どくっ、と様々な感触を伴ってそれは分裂し、融合し、複雑に絡まって、形を変えていく。
無から有を創り上げるように、夢から現実を紡ぎ出していくように、ひとつの肉体が世界に現れようとしていた。
小さな魂はそれを感じている。一面の暗闇のなか、[[rb:遥 > はる]]か[[rb:彼方 > かなた]]から[[rb:微 > かす]]かに光が滲み出してくる。暑さや寒さ、手触りや匂い、何もかもなかったところに新たな五感が生まれていく。温もりが、そよぐ風が、せせらぎの音が、そして――
目が覚めた。
ぼくは、いつも通りの部屋で、いつも通りに布団を蹴飛ばし、ぼんやりと天井を眺めていた。
「変な、夢……」
やっぱりあれはただの夢だったのかと思うと、妙に残念な気持ちが込み上げてきて、はあ、と大きなため息を吐いてしまった。
まあそうは言っても正直、世界を救うだとかどうとか、そういう[[rb:大袈裟 > おおげさ]]なことに巻き込まれなかったのは良かったのかもしれない。
(今日も怒られないように、目立たないように一日を過ごせれば、それでいいや)
良いことなんてなくても、昨日と変わらない今日を明日に繋げていく。それさえできれば、生きていける。そうやって今までも、なんとかやってきたんだから。
昨日までと何も変わってないかのように振る舞って、今日がぼくの誕生日だなんてことには気付かせない。そういう風に朝を乗り切って、あのひとが仕事に行った後は、ひとまず自由だ。……といっても、目に付くようなことをすれば怒られるから、そこには気をつける。ちょっと前に近所の人から譲ってもらった、お古のタブレットで動画を見るくらいが、ぼくにも許されている数少ない娯楽だ。
ゲームの攻略動画、無料公開しているアニメ、いろんな企画で話題作りをしようとする配信者。ぼくには手の届かない、キラキラした世界。
課せられた家事はなんとか済ませ、あのひとが帰ってきて、うまくできなかったいくつかのことを[[rb:詰 > なじ]]られて、そうこうしているうちにまた夜が来た。誕生日にしては、まだマシなほう。
(今晩も、夢が見られるかな)
いつの間にかそれを心待ちにしていた自分に気が付いて、頭の中だけで小さく笑う。本当に声に出してしまわないよう、注意しなくちゃ。おとなしくしてさえいれば、とりあえずは安全だから。
相変わらずうだるような熱帯夜だけど、夢を見れさえすればそれも気にならなくなるだろう。昨日の夢みたいに、世界を救ってくれと言われても困るけど、もしも、もう一度天使が現れて、知らない世界へと誘ってくれるのなら、まあ、ついて行ってもいいか、なんてちょっと生意気なことを考えているうちに、眠気が訪れて――
何も見えない。
夢どころか、ぼくを取り囲むのは真っ暗な闇だけで、指一本、目線の一つも動かせない。
昨日、あれだけ必死に『ぼくを探していた』なんて口説いてきたくせに、天使の姿はどこにも見えず、[[rb:一向 > いっこう]]に現れる気配すらない。
一体、どうしてなんだろう。ひょっとして、ぼくがまたなにか間違ったことをしちゃったんだろうか? なにか取り返しの付かない失敗をやらかして、あの天使にさえ愛想を尽かされてしまったのだとしたら?
(ああ、あ、あああ……い、イヤだっ……!)
いくら嫌がっても、これは覆らない事実だ。昔っからいろんなことで叱られてきた。それもこれも、全部ぼくが悪い。不器用で、のろまで、空気が読めなくて。……よせばいいのに、嫌な考えばかりが浮かんで止まらない。
怖くて、焦って、カラダがどんどん[[rb:火照 > ほて]]っていくのがよく分かる。……あれ? でも、ぼくのカラダって、こんな感覚だったっけ?
「――ィちゃん、おーい」
もしも、もしもだけれど、この先もずっと、夢を見ることさえ許されないとしたら、ぼくはどうしよう。坂道を転がり落ちていくように、悪い方へばかり考えが行ってしまっているのは自分でも分かるけど、どうしても止まらない。こんな風にぐるぐる悩まなくなれれば、せめてもう少しはマシになるのかな。だとしたら――
「なあ、大丈夫か? ニィちゃん!」
肩を揺すられて、ようやく呼び声に気付いた。天使のものとは違う、太くて聞き覚えのない声だ。もちろん聞き覚えなんてない。
びっくりして目が開くと、青空を背景にしてぼくを覗き込んでいた顔と目が合った。
ゴツゴツした、トカゲみたいな顔だった。
「え? ……うわ」
「ヒトの顔を見て、うわ、とはなんだい。まあでも気が付いて良かった! アンタ、そりゃあこの良い陽気で眠くなるのは分かるがね、往来のド真ん中で寝こけるのは、よした方がいいと思うなあ」
トカゲ顔は[[rb:流暢 > りゅうちょう]]に喋っているけど、内容はまるで頭に入ってこない。ちんぷんかんぷんだ。身を起こそうとしてもうまく動いてくれないし、それとなんだか……いつもより重い?
「お、とと」
でも、ちゃんと身体を意識してみたら、嘘のようにすんなりと持ち上がった。ひとまず声を掛けてくれた相手に謝りつつ、頭を下げる。
「なあに、気にしなさんなって。ニィちゃん、ここいらじゃ見たことねえ顔だが、どっかから避難の途中かい? よっぽど疲れてたんだろ。町はもうすぐそこだから、ちゃんとした寝床でしっかり寝なよ、なあ?」
相手は声色に心配を滲ませて、ぼくの視線を誘うように指を差す。
どうやら自分たちがいるところは、小ぶりな丘を突っ切るように敷かれた道の真ん中らしい。両脇の明るい野原には、背の低い草花が茂っていて、道は細い川の流れに沿って続いている。
その先に、小さな建物の集まりがちょこんと、確かにあった。
「あ……ありがとうございます」
「おお、じゃあ気ィ付けてな」
ガハハハ、と笑いながら手を振って、町から離れる方に去って行く相手は、顔だけじゃなく身体もゴツゴツしていて、翼まで生えている。トカゲというか……ドラゴン?
ぼくも手を振り返して、ようやく気が付く。
「わあ」
伸ばしたその手は見慣れた自分の手ではなく、ゲームかアニメのキャラみたいな色をしていた。手の甲は薄い青紫色、手のひらは少し淡くて、白っぽい青色だ。表面はつるっとしていて、触ってみると程よい弾力があった。
……ちゃんと、触った感覚がある。いろんな所の感じ方が自分の慣れてきたものとちょっとずつ違っていて、それなのに違和感は全くない。〝これは自分のカラダだ〟と、自然に感じる。
当然、変わっているのは手だけじゃなかった。身体全体が、青くてつやつやした質感になっているようだ。そしてどう見ても、眠る前のぼくより大きくなっている。……そういえばさっき喉から出てきたのも、ぼくの声とはまるっきり似ていない、声変わりした後の低い声だった。
「本当に、違う世界にきちゃったみたいだ……」
さっき教えてもらった〝町〟の方をみても、ビルの姿は見えないし、電線もない。道の舗装は大小様々な敷石らしくって、アスファルトののっぺりした表面はどこにもないし、交通標識も見当たらなかった。
こうなるともう認めるしかない。ぼくは違う世界に来て、違うカラダを手に入れて、きっとこれから世界を救うとか、あの天使が言ってたみたいに……あれ、そういえば、天使は結局、どこにいるんだろう?
「ねえ、天使」
――返事はなかった。ほっぺをつねっても、ヒリヒリした痛みを感じるだけで何も起きない。お尻の先がむずむずしたので、なんとなく力を入れてみると、手と同じ色のモノがぴょんっと跳ねて視界に入る。思わずそれを掴んでみると、なんとも言えない妙な感覚がした。
「これ……シッポだ。ぼくの、シッポ……」
手を握られたとき、というよりはもっとこう、腰の辺りがビクッとなるような、不思議な感じ。……ちょっぴり、クセになっちゃいそうだ。
しばらくはそうして、新しいカラダの感覚を確かめていたけれど、それ以上は特に何も起こらず、ぼくは途方に暮れてしまった。
(あの天使、言いたいことを言うだけ言って、肝心の時に出て来てくれないなんて。これから一体どうしたら良いのかな)
きょろきょろと辺りを見渡してみても、その手掛かりになりそうなものはない。さっき教えてもらった小さな町が見えるだけだ。
(とりあえず、あそこに行ってみるか)
そう決めてぼくは歩き始めた。それにしても、なんだかお腹が空いてきたな。夢の中なのに、痛みはあるしお腹も空くだなんて、不便だ。
(……まずい、頭がぼうっとしてきちゃった)
思わず目を閉じ、その場に屈み込んで――
――目を開けるとぼくは自分の寝床にいた。朝の日差しが、古ぼけたカーテン越しに部屋に注いでいる。
(そっか、こんな風にあっちとこっちを行き来するってことなのかな)
いつも通りの肌色の、小さな自分の手を見てそう思う。……次は、寝る前にお腹をいっぱいにしておくのが良いかもしれない。
(今夜もまた行けるかな。楽しみだな……)
ふふっと[[rb:微笑 > ほほえ]]んで、はっと表情を引き締める。……良かった。あのひとには見られていない。
(それじゃあ、ぐずぐずしてちゃダメだよね)
夏休みは終わり、今日から二学期だ。すぐに支度をしないと叱られてしまう。
朝ご飯もそこそこに家を出て、学校に向かう。通学路を行く生徒たちは、夏休みにあんなことをしたとか、どこかへ旅行に行ったとか、宿題がまだ終わってないよとか、みんな楽しそうに話していたけれど、ぼくはその輪には入れない。ひとりで、ただ黙って歩いていた。
目が覚めたときには、夢の中のこともあっちの世界のことも、まだ鮮明に覚えていたはずなのに、今ふと気付くと、全部が[[rb:曖昧 > あいまい]]にぼやけて思い出せなくなっていた。
それでもどこか、日常のいろんなことが心に引っ掛かる。……ぼくのカラダって、こんなに小さかったっけ? それに、シッポがないのはやっぱり違和感が強くて落ち着かない。シッポ……そんなもの、ぼくにはもともと生えてないはずなのに。
夢の中でじぶんがどんな姿だったか、どんな体つきをしていたか、思い起こそうとしても、モヤが掛かったようになって、うまくいかない。
それでも、夢の中で手に入れたあのカラダの方が良かった、という喪失感みたいなものが、ないものねだりをするような[[rb:虚 > むな]]しい気持ちが、心の奥でぶすぶすと煙を立ててくすぶる。
教室に着いたあとも、始業式のために体育館へ移動しても、大して状況は変わらない。大勢の中にいても、ぼくはひとりだった。
壇上では校長先生が、いつもみたいに長くて退屈な話を続けている。まともに話を聞いている生徒なんてたぶん誰もいなくて、みんな仲の良い友達同士で小突きあったり、こそこそ話をしていたりする。
それは、ちょっと[[rb:羨> うらや]]ましいけれど、ぼくにはきっとこれからも縁のない光景だ。動画の中のゲームやアニメと一緒。
(でも、じゃあ、あの世界なら……?)
体育館に[[rb:籠 > こ]]もる熱気と、単調に続く長話と、どこかでうるさく鳴いているツクツクボウシのせいで、頭の中がふわふわしている。お風呂でのぼせたみたいな気分だ。こんなとき、ぼくにできるのは、眠気に身を任せるくらい……
――微かにそよぐ涼しい風と、せせらぎの音。
それは一瞬だけですぐ消えてしまったけれど、ぼやけた記憶をくすぐる感覚だった。夢の世界にほんの少しだけでも触れられたという実感で、喜びと[[rb:安堵 > あんど]]が押し寄せてくる。
(今でもあの世界と、ちゃんと繋がってるんだ)
しみじみとそんなことを考えているうちに、校長先生の長い話もようやく終わったらしい。ぼくはクラスメイトの波に呑まれるまま教室に戻って、その後は、まあ、いつも通り。ホームルームで夏休みの宿題を提出して、明日からの授業に向けての心構えなんかを聞いて、二学期最初の席替えをして……今日はそれでおしまい。
結局、誰ともまともに話せないまま、下校の時間になってしまった。
開けるとき、やたらと[[rb:軋 > きし]]む古いドア。塗装もだいぶ汚れているそれが、我が家の玄関ドアだ。鍵を開けて中に入り、電気を[[rb:点 > つ]]けようとしたら、もうすでに点いている。
珍しくこんな時間から、あのひとが家にいた。その場で引き返したかったけど、そんなことをしたって、苦しむ時間が余計長くなるだけだ。だからぼくは、素直に家に入って「ただいま」と挨拶をする。
――なに、もう帰ってきたの? ああそっか、今日は始業式だけか。いいよね、子供は。
大体そんな感じの言葉から始まって、[[rb:些細 > ささい]]な失点を目敏く見つけられ、叱責の言葉が続く。
小言というよりは、取り留めのない恨み言の連続で、どう反応しても結局は否定されたり、[[rb:喚 > わめ]]かれたり、泣かれたり、たまには叩かれたり。
ぼくには、それをどうすることもできない。
ただ耐えて、なるべく機嫌を損ねないようにして、できるだけ叱られる時間が短くなるよう祈って、なんとかやり過ごす。今まで通り。
……そう、今までは、それしか仕方がないと思っていた。ぼくは、ここにいるしかなかった。
でも今のぼくには、夢の世界がある。
向こうの世界に、あのひとはいない。そんな世界があるだなんて、考えたこともなかった。
だから夜が待ち遠しい。早く寝て、向こうへ行きたい。ぼくに何ができるのか試してみたい。あのカラダに戻りたい……
それって、現実から逃げてるだけじゃない?
ぼくは身震いする。自分で自分を制する声は、あのひとの声に似ている。あのひとからは逃げられても、ぼくからは逃げられない。
そうして、また少し自己嫌悪が深まるのだ。
……眠りについて、しばらく経った。
いつしかぼくは、今朝目が覚める前にいたのと全く同じ場所で、屈み込んだ姿勢もそのまま、夢の世界にたどり着いていた。振り返って空を見れば、太陽の位置も変わっていないように見える。つまり、こっちの世界での時間は経っていないってことだろうか。
(元の世界で、晩ご飯はちゃんと食べたけど、こっちだとお腹は空いたまんまだな……)
そこら辺の変化もないらしい。とりあえずはこの空腹をなんとかしたいので、立ち上がって町への道をゆっくり歩いて行くことにした。
日差しは穏やかで、[[rb:川面 > かわも]]を渡る風は心地良い。町に近付くにつれて他の通行人とすれ違うことも多くなってくる。
(みんな、さっきのおじさんと同じような顔だ)
なんて呼ぶべきなのかな。ヒト? トカゲ?それとも、ドラゴン? どっちにしろ、表情はみんな穏やかで、挨拶もちゃんとしてくれる。
「やあ、良いカラダだね!」「筋肉の祝福を!」「[[rb:巨竜 > きょりゅう]]の恵みあれ!」
不思議な響きの言葉だけど、言葉は通じてるみたいだ。……意味は、よく分からない。
そして今更気付いたのは、誰ひとりとして服らしいものを身に着けていない、ということ。……というか、ぼく自身も裸で歩いていた。
だけど何故だか、少しも恥ずかしくないし、周りから何かを言われることもない。気付いたタイミングが遅くなったのも、裸でいることがあまりにも自然だったからだ。
(そういえば――)
と、ぼくは股間に手をやる。ちんちんがあるはずの場所には、何もない。ただ、うっすらと一筋の切れ目が通っているだけだ。周りにいるみんなも同じ。まさか、このドラゴンみたいな生き物には、男……というかオスはいなくて、みんなこうなんだろうか。つまりは、ぼくも?
(それは……ちょっと困ったな。おしっことか、どうすれば良いんだろう……?)
なんだかトンチンカンな事が気になりだしたけど、その疑問はとりあえず保留だ。……この切れ目の中に、なにかがありそうな感覚はする。きっとそのうち、答えが分かるだろう。
そろそろ、空腹も限界に近付いてきた……。
「それなら、巨竜教会へ行けばどうかな?」
町に着いて、どこか食べ物を食べられる場所がないかと尋ねてみると、そう教えてくれた。
相変わらず相手の顔の見分けがつかなくて、若いのか年寄りなのかもよく分からない。声は結構低くて深みがあるから、案外おじさんかも。
「ほら、あそこ。見えるかい? 広場の真ん中に、背の高い建物があるだろう。もうそろそろご飯の時間だしね、食べに集まってくるヒトも多いと思うよ」
「……でも、お金とか持ってないんです」
そう言うのはさすがに恥ずかしくて、思わず小声になってしまったけど、そのヒトはぼくの心配をカラカラと笑い飛ばした。
「大丈夫さあ、だってそのための教会だからね。まあ、お兄さんほどの体格で満足できるような大ご[[rb:馳走 > ちそう]]とはいかないだろうけど」
そう言って、ぼくの腰辺りを親しげに[[rb:叩 > はた]]く。ちょっと照れくさいけど、このカラダは周囲のヒトたちと比べても、割と背が高いほうらしい。
「教会――行ってみます、ありがとう」
「どういたしまして。豊かな肉の恵みあれ!」
またも、不思議な挨拶だ。
巨竜教会、って言ってたっけ。巨竜って響きからすると、ものすごくムキムキなドラゴンを崇拝しているのかもしれない。お互い裸だから分かったけど、さっきのヒトもだいぶカラダを鍛えてたっぽいし、そういう信者なのかな。
……ぼくも、筋肉のことが好きかもしれない。
探し当てた教会は石造りの古びた建物だった。真っ昼間なのにほんのり薄暗くて、吹き抜ける空気が肌にひんやりと感じる。
入ってすぐのところに柱の並ぶ回廊と、それに囲まれた広い中庭があって、そこにはぼくの他にも食事を待ってるらしいヒトたちがいた。
みんな、どことなく肌の色がくすんでいて、どんよりした目をしている。
体つき自体はそう悪くないのに、心の疲れが見た目にも現れて、ひと回り小さく見える……そんな気がした。
やがて鐘が鳴ると、優しげな笑みを浮かべた聖職者っぽいヒトが奥から出てきて、ぼくたちに歓迎の言葉を掛けてくれた。
やっぱり服は着ていなかったけれど、何かのシンボルらしい首飾りを付け、額や胸なんかには鮮やかな色の模様を描いている。こういうの、ボディペイントって言うんだっけ?
ちゃんとした由来や意味があるんだろうけど、ほんの少し[[rb:可笑 > おか]]しく見える。逆に、裸のカラダに絵の具を塗ってるだけだからえっちに見えるはずなのに、[[rb:荘厳 > そうごん]]というか、聖なる感じもする。
ぼくたちはそこから、食堂へと案内された。簡素な机と腰掛けが並べられ、スープが入った木の椀とパンが用意されている。みんな、好きなところに座って、感謝の祈りっぽい仕草をしていたので、ぼくも見よう見まねでお祈りしつつ、周囲の様子を興味の[[rb:赴 > おもむ]]くままに眺めてみた。
食堂の古びた壁には、一枚の大きな絵が掛けられている。そこに描かれた、どこか見覚えのある顔がぼくの目を引いた。
(……あ、そうだ! ひょっとして、と思ったけれど。あれは確かに、あの天使だ!)
スープを[[rb:啜 > すす]]りながら、ぼくはそう考える。
とろりとして、少し濁ったスープだった。具らしいものも見えないので薄味なのかと思ったけれど、香辛料がピリッと効いていて結構強い味だ。それに、あまり嗅いだことのない香り。
(結局、天使は何も言ってくれないまんまだ。本当に、これからどうすれば良いんだろう? どこかへ行けば良いのかな?)
考えたところで答えがぽんっと出るわけでもなく、ぼくは半ば諦めてもう一度絵の方に目を[[rb:遣 > や]]った。天使と向かい合うように、山のような巨体が描かれている。……巨竜教会というからには、信仰の対象になる〝巨竜〟っていうのが当然いるんだろうし、その絵なんだろうけど。……頼りない[[rb:松明 > たいまつ]]しかない室内では、ちょうど暗がりになっていて、よく見えなかった。
パンを一口[[rb:囓 > かじ]]って、またスープを飲む。腹の虫もようやく満足してきたみたいだ。
それにしてもこのスープ、やっぱり不思議だ。変わった味と匂いなんだけど、このカラダには合ってるみたいで、飲めば飲むほどじんわりと奥の方から温まって、なんだかどんどん欲しくなる。美味しい。美味しくて、止まらない。
いつからか、心臓がどきどきして、息が荒くなり、足の間がむずむずしてきた。ちんちんが無くなっていた、あの切れ込みの辺りだ。……おしっこに行きたい、いや違う、これは一体、なんだろう?
「はぁ……はぁ……?」
何かが物足りなくて、[[rb:火照 > ほて]]って、[[rb:疼 > うず]]く。その熱い部分を、ついつい手で触ってしまった。
気持ちいい。
もっと触りたい。掻き回してみたい。
むずむずがもっと強く、深く、固くなる。
「んッ」
切れ込みに突っ込んでいた右手が、なにかに当たった。頭に電流が流れるような、衝撃的な気持ちよさに襲われて、その瞬間、[[rb:否応 > いやおう]]なしに理解させられる。
これだ。ぼくが欲しいのはコレなんだ、と。
青かったぼくの肌が、次第に赤みと艶を増していき、ぬらぬらした青紫に染まっていく。
そして、その切れ込みの奥から、この快感の原因が姿を現し始めた。赤黒い肉の塊が、冗談みたいにでっかいソレが、ぼくの意思など全くお構いなしにゆっくり伸びてきて、驚くぼくの手の中で、さらに大きく、みるみるうちに膨れ上がっていく。
ソレは――どこから見ても、どう考えても、ぼくのちんちんだった。
けれど、これはいくらなんでもデカすぎる。“三本目の足”って表現がしっくり当てはまるくらい長くて太くて、ぼくの股間から誇らしげに[[rb:聳 > そび]]え立っている。……ちんちんというより、これはもう肉の塔と呼ぶほかない。
「あ、アレを見ろ!」「まさか……!」「奇跡のはしらだ」「巨竜のみしるし!」「おお……」「これこそ、奇跡……!」
その場にいたみんながぼくの股間を見ている。ぼくの、ちんちんを。
教会のヒトも、ご飯を食べに集まったヒトも、口々に驚き、ざわめきながら、食い入るように見つめている。――ああ、それが、こんなにも気持ちいい。
(あ、ああ、なんだこれ、止まらない!!)
何かが込み上げてくる。圧倒的なまでの熱だ。それこそ世界を新しく創り上げられるくらいの、全てを押し流してまっさらにしてしまうくらいのパワーがぼくの股間に、ちんちんに押し寄せ、ぶつかり合い、弾けそうに……
「あああああ、があァッ!!!」
爆発にも似た衝撃。何もかも吹っ飛ばす快感。頭の中まで白く、真っ白く、溢れるべとべとに染まっていって、塗りつぶされて。
とても耐えきれなくなったぼくは、とっくに意識を手放していて――
~ ~ ~ 続きは本編にて! ~ ~ ~
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