水の大陸、おだやか村の付近。
テンケイ山の麓は豊かな自然に覆われており、清流にも恵まれている。森の中の開けた部分では開墾されており、小麦や野菜、木の実が栽培されている。近くの清流では、水の流れを利用した水車の歯車が回転しており、小屋の中では小麦を挽いている。
小屋の傍には木製の椅子が置いてあり、それに座る人影がある。
青い身体と長い舌が特徴の影、牡のゲッコウガは椅子に座ったまま収穫した野菜を仕分けしている。大きさや形、色を基準にゲッコウガは幾つかのカゴに野菜を分け入れ、淡々と作業を片付けている。ゲッコウガの近くには走り回る子供達の姿があり、彼らの持つ風車がくるくると回っている。
ゲッコウガの視界に、水車小屋に向かって歩いてくる一団が映り込む。ゲッコウガが視線を向けた先には、近くのおだやか村に駐屯しているレシラム教の騎士達と保安官の姿がある。彼らの先頭にはゲッコウガが見慣れた牝のアローラロコンの姿がある。
「ニノ、客人か?」
牝のアローラロコン、ニノは頷き、彼らを水車小屋へと案内する。ゲッコウガは武装した騎士達と保安官、ライラに目を向け、落ち着いた声で話しかける。
「私達の村へようこそ、何か手助けが必要ですか?」
ゲッコウガから声をかけられたライラは穏やかな笑みを浮かべ、優しい声色で応える。
「初めまして、私は近くのおだやか村で保安官を務めているスミスです。実は…テンケイ山の麓に新たな村ができたと聞きまして…もし良かったら貿易や互いに手助けができないかと思いまして、急ですが訪問させていただきました」
ライラの返事を聞いたゲッコウガは驚きの表情を浮かべ、すぐに笑顔を浮かべた。
「なんと、ありがたい…申し遅れました、私はタリスと申します。この集落の代表を務めています」
牡のゲッコウガ、タリスは椅子から立ち上がり、ライラ達に向かってお辞儀をした。ライラと騎士達も笑顔で応え、ライラはタリスの背後にある村へと視線を向けた。
「見たところ…テンケイ山の麓に位置するので、大雨や落石、川の氾濫などの自然災害の備えはされていますか?私達の村は海に面していますので、津波や時化の対策はしていますが…」
ライラに尋ねられたタリスは頷き、笑顔で応える。
「ご心配には及びません。村は麓の中でも比較的高地にあるため、落石や氾濫の影響は最小限です。まぁ、豪雨による土砂崩れが発生したら、それなりの影響が出るとは思いますが…」
タリスの返事を聞いたライラは笑顔で話す。
「なるほど…もし自然災害や野盗など困った事があれば、私達に声をかけてください。おだやか村には騎士団の方々が駐留しているので、私と一緒に助けに行きますので」
「…それはありがたいです」
ライラの申し出を聞いたタリスは少しの間を置き、応えた。タリスの反応を見たライラはにこりと微笑み、村へと視線を向けた。
『おだやか村には軍事力が背後に控えている』と友好的にアピールしたライラは、続けて口を開く。
「こちらの村の特産品などはありますか?もし良かったら、私達の村の特産品と貿易したいと考えていますが…」
おだやかな口調でライラが尋ねる。タリスは僅かに細めた目で微笑み、穏やかな口調で応える。
「今の時期ですと…収穫した小麦を使った焼き菓子やパンがありますね。おだやか村は海に面した斜面で平地が少なく、小麦の収穫に使える広い農地が足りないでしょう」
「…そうなんですよ、おかげで小麦は付近の村々から購入しています」
タリスの話を聞いたライラの返事が一瞬遅れた。
『おだやか村の地理情報と食料事情は把握している』とタリスは友好的にアピールしており、それを理解したライラはタリスが一筋縄では行かない相手である事を把握した。
タリスは水車小屋の脇に置いてあるカゴから焼きたてのパンを取り出し、ライラと騎士達、ニノに手渡した。
「良かったらどうぞ…ニノも昼食がまだだろう?」
タリスからパンを受け取ったニノは嬉しそうに笑い、焼きたてで芳醇な香りを放つパンに齧り付く。ニノの姿を見たライラと騎士達もパンを口に含み、その風味を楽しむ。
ライラは下の上に広がる豊かな香りに気がついた。
「これは…香辛料ですか?」
ライラの感想を聞いたタリスは笑顔で頷き、カゴの中のパンに目を向ける。
「はい、草の大陸や砂の大陸から仕入れた香辛料を使っています」
タリスはパンを手に取り、それを手で二つに分けた。パンの断面から香辛料の匂いが広がり、騎士達は思わず頬を緩める。
ライラはパンに目を向けつつ、穏やかな声で尋ねる。
「初めて食べましたが、こちらの村で作ったオリジナルの製法ですか?」
タリスは首を横に振り、笑顔で応える。
「私達の伝統的な焼き方ですよ」
タリスの返事を聞いたライラは「なるほど」と呟く。『見慣れた焼き方じゃない、どこの国の製法だ?』とライラは暗に尋ねるが、タリスは丁寧な口調でライラの意図を避けた。
騎士達は気付かないが、ライラとタリスは殴り合っている。
タリスは落ち着いた声でライラに話す。
「立ち話も疲れるでしょう…良かったらこちらの椅子へどうぞ、紅茶と焼き菓子も用意しますよ」
『お前達を村に入れるつもりはない、水車小屋から先へ足を踏み入れるな』とタリスは暗に示しており、それを理解しているライラは余計な争い事を避けるべく、タリスの言葉に従う。ライラと騎士達は水車小屋の脇にある椅子に腰かけ、タリスの差し出す焼き菓子と紅茶を受け取る。
その香りと味を楽しむライラは、タリスに尋ねた。
「パンや焼き菓子に多様な香辛料を使うとは…私は初めて見ましたが、他にも味はありますか?」
「今の時期なら、この味に限られますね…もう少し涼しくなれば、より多くの香辛料が届きますので…」
タリスの返答を聞いたライラは「なるほど」と呟き、パンを口に運ぶ。ライラの口内に甘い香りが広がり、覚えのある味を楽しみつつ、ライラは足りずに尋ねる。
「…これだけの香辛料を使うとなると、かなりのお金が必要になりますが…羽振りが良さそうですね」
ライラに尋ねられたタリスの笑顔が少し硬直し、彼はすぐに応えた。
「えぇ…この香辛料がたくさん取れる場所を知っていますので…」
「…なるほど」
タリスの返答を聞いたライラは呟き、視線をパンに向ける。パンの断面にはバニラビーンズの粒があり、その風味がライラの口内に広がる。
(今の時期に日持ちしないバニラビーンズを大量に使える…乾燥せず、ある程度の気温を保ち、日光に恵まれた箇所…栽培地は水の大陸か、草か風の大陸か…)
ライラはタリスの言葉から彼らの持つ貿易路を分析しつつ、パンを食べた。タリスはライラの質問の意図を『どれだけの資金があるのか』と捉えたが、実際は『バニラビーンズの栽培地から貿易路を探る』事であった。ライラの意図を読み違えたタリスは気付かぬうちに情報を漏らしてしまった。
(バニラビーンズは日持ちしない…長期間の保存ができない…蒸気船や帆船での運搬には不向き…花を育成できる環境も限られている…水の大陸が栽培地か)
同じ大陸内ならば、陸路を使い迅速に運搬できる。対する海路では時間がかかるため、苗の運搬ならば可能だが、実自体を運ぶと風味が劣化する。
(水の大陸でバニラビーンズを栽培できる箇所は…)
タリスの貿易先を見極めたライラは脳内で思案し、やがてタリスに微笑みかけた。
「素晴らしい味です。もしバニラが余っているなら、我々の村で採れた果物と取引しませんか?」
ライラは自身の考えを悟られぬように、貿易を希望しているかのように振る舞う。タリスはライラの意図に気づかず、穏やかな声で応える。
「そうですね…村の皆と相談しますので、返事は後日でも良いですか?」
タリスに尋ねられたライラは頷き、タリスは近くにいるニノの名前を呼ぶ。パンを食べていたニノは喉の奥に流し込み、タリスに視線を向ける。
「サンプル品のバニラビーンズが倉庫にあるから、客人に包んでくれ」
タリスに依頼されたニノは頷き、村の方へと駆けて行った。その小さな背中を見届けたライラは、先ほどタリスが口に出した言葉を脳内で反芻した。
(サンプル品のバニラ…事前にサンプル品を用意しているという事は、他の村や地域とも取引をしている…テンケイ山の麓ならば、海路は使えず陸路の輸送ルートは限られている…)
ライラは内心で考えつつ、村の方角から戻ってきたニノが差し出した袋を受け取った。中にはタリス達の村で精製されたバニラビーンズが入っており、その香りを嗅いだライラはタリスとニノに声をかける。
「これは素晴らしい品です…保存期間と方法はどのようにすれば良いですか?」
ライラに尋ねられたタリスは微笑み、丁寧な口調で応える。
「暗所で涼しい場所なら…数日から2週間ほど保存できます。ただ…長期間の保管となると…風通しが良く、氷と共に冷やせる場所が良いですね」
タリスの返事を聞いたライラは礼を述べ、視線を手元のバニラビーンズへと向ける。
(長期間の保管には氷が必要…陸路を氷で冷やしながら輸送するのは困難…ならば、氷で冷やす必要がない距離を輸送している)
タリスの言葉から彼らの取引相手の所在を推測したライラは、「ありがとうございます」とタリスとニノに礼を述べた。彼らは笑顔で頷き、タリスは手を差し出した。
「互いに、良い関係を築ける事を祈ります」
ライラはタリスの手を握り返し、笑顔で応える。
「その通りです」
*
ワイワイタウの中心部に建てられたレシラム教の教会。荘厳な造りの建物の中には、レシラム教の歴史や友好的な仲であるゼクロム教との繋がり、街の歴史などが記された本を収納している図書館がある。大量の蔵書は歴史の重さと重要性を意味しており、訪れる者の気を引き締める。
図書館の中にある会議室、平時は教会関係者や軍人などの会議などに使われる部屋であるが、本日はゼインやエレナ、ロア、カルムなどの若年者が集っている。
室内には彼らの他にも若者の姿があり、年齢は14-16歳ほどである。性別や種族、宗教、出自を問わずに集められた彼らは、事前に配られた教科書に目を通しつつ、近くの席に座る者と歓談している。
席に座るゼインの隣には妹のエレナ、エレナの反対側にはロアとカルムが座っている。手元の本に目を通すゼインは、紅茶の入ったカップに口をつけた。妹のエレナは最初こそ落ち着かない様子であったが、近くの席に座るヘレンとグレイの娘、テスと楽しげに話している。
ゼインは横目でエレナとテスを見つめ、視線を手元の本に向ける。
『もぉ〜、なに済ました顔をしているの‼︎青春だよ‼︎もっとキャハハウフフと楽しもうよ‼︎』
(うるせぇ…)
ゼインの脳内に広がる白いポケモンを聞き、彼女は眉根を寄せた。ゼインは涼しい表情のまま、紙面に記された文字を目で追う。しかし、彼女の頭蓋内では白いポケモンのけたたましい声が広がる。
『えぇ⁉︎青春は一瞬なんだよ‼︎恋や友情や勉学や遊び…時間は有限だから、もっと燃えあがろうよ‼︎』
白いポケモンはわざとらしい驚きの声をあげ、その声量をもろに浴びたゼインは軽い頭痛を覚えた。ゼインは頭痛を意識しないように視線を紙面に向け、紅茶に口をつける。
豊かな風味を楽しみつつ、ゼインは心の中で白いポケモンに話しかける。
(アンタらと違い、私は課題や実技、座学もあるから…呑気に過ごす事ができないのよ)
『えぇ…つまんない青春だねぇ』
白いポケモンの返答を聞いたゼインは心の中で中指を立てつつ、紙面に目を通す。隣の席では妹のエレナとテスが仲睦まじく話しており、時折黄色い声が聞こえる。
ふと、ゼインは視線を感じた。
エレナの反対側から視線を感じたゼインが目を向けた先には、ロアが座っている。次期教皇とはいえ、同世代の子達と共に教育を受ける事を養父のルドルフと母親のアキは希望しており、ロア自身もそれを希望していた。それ故に教会内に設けられた上級学校へと通い、奇しくもロアはゼインの隣の席に座っている。
ゼインは切れ長の目でロアを睨みつけ、「なに?」と厳しい声色で尋ねる。ゼインに問いかけられたロアは肩を竦め、平然とした口調で応える。
「先日、妹のナツが世話になっただろう…あれ以来、ナツは君達姉妹の事ばかりを気にしているよ」
「…」
ロアの口から飛び出したナツの名前を聞き、ゼインは脳裏に赤みを帯びた体毛を持つ、猫のように大きな瞳と人懐っこさを持ち合わせているナツの姿が過ぎる。初めて会った時はナツが軽い怪我を負った状態であり、そこをゼインとエレナが手助けする形となった。
その事を思い出したゼインは「気にしないで良いわよ」と端的に応え、視線を紙面に向ける。だが、ロアはゼインに冷たい反応を示されたにも関わらず、ナツに負けず劣らずの人懐っこい笑顔をみせ、ゼインに話しかける。
「邪険に扱わないでくれよ…単に兄として、礼を述べているだけだ」
ロアはゼインに声をかけ、穏やかな口調で話を続ける。
「ナツは…父上の影響を受けて、騎士学校に入った…同期に牝の子は少なく…ほとんど牡ばかりの組織だな」
「…」
ゼインは視線を紙面に向けたままであるが、耳ではロアの話を聞いている。そのため、紙面を捲るゼインの手の動きは止まっており、その事を見抜いているロアは笑みを浮かべ、話を続ける。
「…もし君達姉妹が良かったら…ナツと仲良くしてやってくれ…同性の子と親しくなれた事で、アイツも凄く喜んでいるよ」
ロアに頼まれたゼインは溜息をこぼし、横目でロアを睨みつける。切れ長の目で睨みつけられたロアは驚きの表情を浮かべた。
ゼインはロアを睨みつつ、口を開いた。
「良いわよ、私とエレナも…ナツの事は嫌いじゃないからね」
態度とは裏腹に、ゼインの口から飛び出した言葉は非常に穏やかなものであり、それを聞いたロアは嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
裏表のないロアの言葉を聞き、ゼインは恥ずかしそうに視線を逸らした。姉の反応に気がついたエレナとテスは不思議そうにゼインとロアに目を向けるが、ゼインは「何でもないわ」と応えた。
ゼインの反応を見たロアは猫のように目を細め、ニヤニヤと笑みを浮かべる。
横目でロアの反応を捉えたゼインは手元にあるハンカチを丸め、ロアに投げつけるが、ロアはそれを空中で掴み、ゼインに手渡した。
「落としたぞ?」
わざとらしい口調でロアはゼインにハンカチを手渡し、ゼインはロアを睨みつつ、それを受け取る。2人のやり取りを見ていたエレナとテス、カルムは驚きの顔を浮かべるが、彼らの注意はすぐに逸れた。
会議室の扉が開かれ、室内に牝のヒスイバクフーン、オリビアが入ってきた。オリビアは室内を見渡し、会議室の中に設けられた教卓へと歩み寄り、笑顔を浮かべ、話しだす。
「既に知っている顔の方もいますが…初めまして、私はオリビア・ヘルマン…本講座の講師兼アドバイザーを務めます」
オリビアは室内の椅子に座る学生達を見渡し、口を開く。
「皆も既に知っているとは思いますが、本講座は初級学校を卒業した者の中から、教育と教会関係者から推薦を受けた者かつ筆記と面接に合格した者のみが参加できます。出自や身分、立場は関係なく、互いに対等の関係を築いてください」
学生達はオリビアの説明を聞き、頷いた。彼らの反応を見たオリビアは笑みを浮かべ、話を続ける。
「本講座を受けるにあたり、明確にさせる事が一つあります。初級学校では算術や語学、歴史など各教科に関するテストが行われ、各人の学習能力が評価されたと思います。しかし、本講座ではテストを用いず、互いの対話や立場の違いを通じ、思考や見方の相違、社会における振る舞い、管理者としての能力を身につけてもらいます」
オリビアは学生達に説明し、背後の黒板に話した内容を書き記す。上級貴族なだけあり、オリビアの書く字は非常に丁寧であり、読みやすいものである。
ゼーンとロアも板書を見つめ、その意味を理解していた。
やがてオリビアは振り返り、学生達に声をかける。
「まずは顔合わせからです。午前は室内の学生同士で交流し、講座は午後から始めます」
オリビアは学生達に指示し、軽く手を叩いた。彼女の合図を皮切りに、学生達は近くの席に座る者同士、声をかける。
エレナはテスや近くの学生と話し、再び和気藹々とした空気を醸し出す。エレナは臆病な性格だが、決して社交性が無いわけではない。慣れれば普通に他者とのコミュニケーションが取れるため、エレナは同世代の者達と楽しげに話している。
年相応の子供のように笑うエレナを見たゼインは、無意識に頬を緩めた。ゼインは視界の隅から感じる視線を意識し、そちらに目を向けた。
頬を緩めるゼインを見たロアは笑みを浮かべており、嬉しそうな表情をみせた。ロアの表情の変化に気がついたゼインは恥ずかしそうに顔を背け、妹達の会話に入った。
ロアとカルムはゼインとエレナの背中に目を向け、それぞれの席の近くに座る者達に声をかけた。
*
ゼインとロア達がオリビアの講座を受講しているころ、図書館内には牝のリザード、エリスの姿があった。ここ数日、エリスは町立図書館や役所に通い、過去におだやか村で何が起きたかを調べようとしていた。
そして、答えはすぐに見つかった。
隕石の落下に伴う暴動が発生し、暴徒がおだやか村を襲った事件。村民は虐殺され、村は破壊され、被害者達の遺体は村の丘に埋葬された。エリスは町立図書館で管理されている新聞から事件を知り、役所の公文書から被害の実態と被害者名簿を入手した。
同時に、当時のおだやか村の住民の数を記載した記録も発見した。
それらを手にしたエリスは更なる記録の確保と分析のために、レシラム教の教会内にある図書館へと通っていた。
「…まさか、自分からここに通う羽目になるとはね…」
図書館に設置されている椅子に腰かけたまま、エリスは独り言を漏らした。
理由は不明だが、エリスはワイワイタウンにあるレシラム教の教会を忌避していた。初めてワイワイタウンを訪れた際に教会を見つけ、その瞬間にエリスは激しい嫌悪感を抱き、その場を離れた。
教会の建物、壁に彫られたレシラム像、鐘楼から鳴り響く鐘の音、それらはエリスの気分を害し、エリスは無意識に教会を避けていた。
そんなエリスが自ら教会の中にある図書館に通う事になり、彼女は自嘲を浮かべた。だが、エリスは即座に思考を切り替え、眼前の机上にある作業へと意識を向けた。
エリスは集めた事件の資料や犠牲者名簿、おだやか村の住民数を記録した資料に目を通し、何か情報を得られないかと作業に没頭していた。
そうして作業に励む事、数日の時が流れた。
事件の全体像と時間毎の詳細、加害者達の末路、被害者達の様子が記された資料に目を通し続けたエリスは溜息をこぼした。
「…たく、反吐が出るわ…」
自身が住んでいた村の歴史と虐殺の内容を知り、エリスは不機嫌そうな顔で伸びをした。仕事や訓練の合間に図書館に通い、ようやく得られた情報は吐き気を催すものであり、エリスは肉体的にも精神的にも疲労を自覚した。
椅子に座り伸びをしたエリスの視界に、窓から見える教会の鐘楼が映り込む。荘厳な造りの鐘楼にはいくつもの窓があり、いくつもの部屋がある。
その部屋はおだやかな風と暖かな日光が入り、寝心地が良い空間である事をエリスは記憶している。
同時に、その部屋の中では若い牝のバシャーモが泣いていた事も記憶していた。
「…?」
姿勢を直したエリスは不思議そうな顔で鐘楼に目を向ける。ワイワイタウンのレシラム教の教会にエリスが足を踏み入れるのは、今回が初めてである。だが、エリスは鐘楼内の一室の環境や誰かが泣いている光景を覚えており、彼女は不思議そうな顔でそれに目を向ける。
鐘楼は街一番の高さを誇り、眺めが非常に良いものである。
その様子から眺めの良さや風や日光が入りやすい環境である事は想像に容易いが、その室内で誰かが泣いている光景を思い描く事は、初見ではあり得ない。
だが、エリスは鐘楼内の一室で若い牝のバシャーモが泣いている事を記憶している。
「…」
自身が初めて足を踏み入れた箇所で見た過去の記憶、エリスはそれに疑問を抱き、首を傾げた。エリスは鐘楼に視線を向け、異様な感覚を抱いた。
エリスの記憶の奥底に眠っている光景、そこにいたのは母親と瓜二つな牝のバシャーモである。
言葉に表せられない感覚を抱いたエリスは、鐘楼から目を離し、視線を机上の紙の束へと向けた。紙の束の中にはエリスがまだ目を通していない物もあり、エリスは少し疲れた表情でそれに手を伸ばした。
大きな物音が聞こえた。
エリスが視線を向けた先には、小柄な牝のマグマラシの姿がある。彼女の足下にはいくつもの本と紙の資料が散らばっており、マグマラシは溜息をこぼしつつも、それらを回収していた。彼女の傍には幾人かの人影がみえるが、マグマラシを一瞥し、手助けせずに立ち去って行った。
マグマラシは床に散らばった資料を手に取っていたが、傍に立つエリスの存在に気がつき、視線をエリスに向ける。
「落ちていたよ」
突然、話しかけられた牝のマグマラシ、フィルは驚きの表情を浮かべたが、「ありがとうございます」と応え、エリスの差し出した紙を受け取った。エリスは微笑みを浮かべ、フィルに声をかける。
「どういたしまして」
人懐っこいエリスの笑みを見たフィルはぎこちなく笑い、ゆっくりと立ち上がる。小柄なフィルは紙の束や資料の山を抱えて、再び歩き出そうとした。それを見たエリスは床に落ちている重たげな箱を抱え、フィルに向かって声をかけた。
「手伝うよ」
エリスの申し出を受けたフィルは、再びぎこちなく笑い、「ありがとうございます」と同じ言葉を繰り返した。そんなフィルを見たエリスは妹達の姿をおもいだし、思わず満面の笑みを浮かべた。
「気にしないで…重たいでしょ?」
荷物を抱えたエリスはフィルと共にエリスが使っていたテーブルへと移動し、机上にそれらを置いた。小柄なフィルとは違い、調査団で体を鍛えているエリスにとって、荷物を運ぶ事など造作もない。瞬く間にそれらを運び、エリスは涼しげな雰囲気のまま、フィルに声をかける。
「あんまり無理しないでね」
エリスは妹達の事を思い出しつつ、フィルに声をかけた。そのままエリスは自身の荷物を持ち、図書館を後にしようとしたが、その背中にフィルが声をかけた。
「あ、あの…」
フィルの声を聞いたエリスは足を止めて、振り向いた。フィルは落ち着かない雰囲気のまま、エリスに声をかけた。
「…フィル、私はフィルです」
彼女の声を聞いたエリスは目を僅かに見開き、すぐに答えた。
「私は…アインス、調査団で働いているよ」
偽名であるアインスと名乗ったエリスは、微笑みながらフィルに目を向ける。同年代かつ同性のエリスから返答を貰えたフィルは嬉しそうに笑い、エリスの傍に歩み寄る。
オリビアに報告していた時のフィルは肩の力が入った雰囲気であったが、今のフィルは年相応の柔らかい雰囲気を纏っている。フィルはエリスに笑いかけ、穏やかな口調で話す。
「あの…もし良かったら、お礼にそれを手伝いましょうか?こう見えて…事務方は得意ですよ」
フィルはエリスの持つ荷物を指差し、先程の資料に関して言及した。突然の提案にエリスは目を丸くさせるが、フィルの手に持つ大量の資料やそれに記された文章に目を向け、彼女の事務能力が非常に優れている事を見抜いた。
母親譲りの腕っ節を持つエリスであるが、その母親と同じく事務処理が非常に苦手である。短所まで母親譲りのエリスは苦笑いを浮かべ、フィルに話した。
「…フィルの手が空いているなら、お願いしようかな」
エリスに頼まれたフィルは嬉しそうに笑い、隣り合う椅子に座る。フィルは大きな瞳を細め、エリスが机上に広げた資料に目を向ける。
それらに目を向けたエリスは考え込み、やがて説明を始めた。
「…調査団の訓練の一環で、故郷の歴史を調べているんだ…それで、私の故郷のおだやか村では…何かがあったらしいんだよ」
それらに目を通したフィルは静かに考え込み、視線をエリスに向ける。フィルの大きな瞳には困り顔のエリスが反射しており、エリスは苦笑いと共に口を開いた。
「…おだやか村は暴徒に襲われた村ですね。生存者はゼロ…村民と関係者は皆殺しにされました」
フィルの言葉を聞いたエリスは驚きの顔を浮かべ、フィルに目を向けた。エリスの視線に気がついたフィルは恥ずかしそうに笑い、エリスに説明する。
「その…私は外交部に所属していますので…各地の事件やその影響なども把握する必要があります。事件の余波が思わぬ形で外交に影響する事もあります」
フィルの説明を聞いたエリスは納得したように頷き、視線を資料に向ける。フィルの知識量を理解したエリスは、困り事を相談すべく、口を開いた。
「私が知りたいのは…事件の詳細、そして何故おだやか村が襲われたのか…隕石が落下したのは風の大陸だったのに、なぜ水の大陸で暴動が起きたのか…」
エリスの話を聞いたフィルは困り顔で首を傾げた。彼女は周りに目を向け、近くで聞き耳を立てる者が居ない事を確認し、静かな声で話し出した。
「…これは、あまり大きな声で言えませんが…隕石の破壊に失敗した者が居たとか…」
「失敗?」
フィルの話を聞き、エリスは不思議そうな声を漏らした。フィルは頷き、声を抑えたまま話を続ける。
「その者はおだやか村の出身であり、その報復を受けたのではないか…公式の記録ではそのように記されています」
「…」
フィルの話を聞いたエリスは静かに頷き、資料に目を向ける。新聞には記載されていない情報を得られたエリスは、不思議そうな顔を浮かべ、小さな声で呟いた。
「…誰なんだろう」
エリスの疑問の声を聞いたフィルは首を左右に振った。
「私も何者かは知りませんが…暴徒がおだやか村を襲ったのは隕石の落下の直後…その者は隕石が落下した風の大陸にいたと思いますよ」
「…つまり、その者は生き延びている…」
エリスは小声で呟き、唸り声を漏らしつつ、頭を抱えた。その者が誰なのか、事情を知るおだやか村の関係者は皆殺しに遭い、エリスが知る術は存在しない。
唸り声を漏らすエリスを見たフィルは、机上にある犠牲者名簿に目を向けた。役所が管理している資料であるため、必要な手続きを行えば、誰でも閲覧可能な資料である。それに記された大量の名前を見たエリスの表情は曇り、首を傾げた。
「でも…ここにあるリストは犠牲者の名前しか記されていない…」
エリスが小さな声で呟いた直後、フィルは口を開いた。
「…あとは、現地調査ですね」
フィルの一言を聞き、エリスは不思議そうな表情で「現地調査?」と聞き返す。フィルは頷き、犠牲者の名前の一覧と当時の村民の数を記した資料を指差した。
「例えば…おだやか村に慰霊碑や石碑があるなら、そこに犠牲者の名前が刻まれている可能性があるかと…それと紙の資料を照らし合わせて、当時の村民の数から引けば…おおよその生存者の数はわかると思いますよ」
「…」
「もちろん、犠牲者の中には旅人や村外の者もいますので…精確な生存者数の把握ではなく、大雑把な数の把握になりますね」
フィルのアドバイスを聞いたエリスの脳裏に、父親が管理している数々の墓石の光景が過ぎる。それらには名前が刻まれており、何かしらの情報に繋がる可能性がある。現状では他に打つ手がないため、エリスはフィルの助言に従う事にした。
エリスは小さく頷き、フィルに笑いかける。
「ありがとう、調べてみるよ」
エリスに礼を述べられたフィルも微笑み、優しい声色でエリスに話す。
「ここで働いていますので…何かあれば声をかけてください」
フィルの申し出にエリスは再度礼を述べ、机上に広げた資料や荷物を片付けた。エリスはフィルに手を差し出し、それを見たフィルは笑顔を浮かべ、握手で応じた。
「図書館に寄る事があると思うから、その時はよろしくね」
エリスはフィルに声をかけ、団長の下へ向かうべく、足早に移動を始めた。その背中を見届けたフィルは、自身が運んでいた荷物を抱えて、己の職務へと戻っていった。
「…また会えるかな」
小さな声で呟いたフィルは嬉しそうに笑い、仕事へと戻った。