優しいギターに嘘を乗せて。

  目を開けた時にまず見えたのは、白い天井だった。そこから反射する光が眩しい。光から目をそらすように今度は手元を見てみると、見慣れない水色の袖。サラサラの肌触りの良いそれは入院服のようで、それを今僕が着ていることから推察するにどうやらここは病院らしい。手は少し冷たく指を折ると謎の違和感があって、首を傾げながら数回握り拳を作っては緩めていると徐々に指の先に血液が馴染んでいくのを感じる。そんなことをしていると、唐突に空気が鼓膜を振動させた。

  「⋯⋯おはよう、具合は?」

  「特に大丈夫だけど⋯⋯どうかした?」

  目の前には昨日よりも少し大人びた様な顔立ちをした幼馴染。三角の耳が今日は傾いていて、少し元気がなさそうだった。が、表情をよく見てみるとどこか安心したように頬を緩めてもいるため、一概に悪い状況ともいえなさそうだ。

  「いや、別に何もないけどさ。これでも食う? さっきコンビニで小腹減ったから買ってきたんだけど、やるよ」

  と言って、彼は一本のスポーツドリンクとチョコレート菓子を机に置く。寝起きのせいか食べ物を口にする気は起きなかったが、それでも本能というものはしっかりと機能している様でギュルルと音を鳴らして空腹を知らせる。

  「食べてもいいんかな」

  「別に大丈夫だろ、手術とかした後じゃないんだし」

  入院患者は病院食以外の食事をとっていいんだっけ、ダメなんだっけ。なんて曖昧な疑問を抱きながらも、彼が「大丈夫」だというから僕はそれを信じてチョコレート菓子の包装を破く。爽が部屋の窓を開けると、室内に風が吹き込む。そのせいでカーテンが靡いてさらに眩しい光が差し込んできた。どこか懐かしいような海の香りが、チョコレート菓子の甘ったるい香りと入れ替わるように部屋に満ちる。

  「⋯⋯もうすぐ夏かぁ」

  目の前の狼はそう小さく呟いたように聞こえた。僕はそれに返事をするでもなく、彼の見つめる窓の風景を僕も見ようと思って少し体を乗り出してみる。長く昼寝をした後のような少しだるさの残る身体を、伸びをして目覚めさせながら。

  しばらくした後、部屋に白衣を着た医師と思われる人物が入ってきた。そして彼の話を聞いて僕は大きなショックを受ける。

  ——僕は今、二十四歳となっていたらしいのだから。

  車に揺られながら、未だ先ほどの宣告を信じられないでいる僕は自身の身体をやたらペタペタと触ってみる。体格自体はそこまで大きく変わってはいない様で、特に違和感はなかった。

  「⋯⋯まあ、そりゃ驚くわな」

  「いや、ありえないでしょう。目が覚めたら大人になっていたなんて。スマホ、借りていい?」

  「ああ、そのかばんの中に入ってる。パスコードは1507」

  「うん、わかった」

  どこかの探偵漫画の逆みたいじゃないか。とそんなことを想像しながら実際には口に出さず、スマートフォンの電源を入れる。パスコードを入れてカレンダーアプリを開いてみても、インターネットで調べてみても、まるで動画をスキップしてしまったかのようで。

  「⋯⋯ほんとだ、年が違う。というか、今更だけど爽の車に乗ってるし」

  「昨日まで高校生やってたやつが急に車運転してたら怖いか。まあ、数年乗ってるから安心しな」

  言われてみればやけに落ち着いた運転だ。タバコの匂いが少し残った車内から、彼が成人したということも確認できる。となると、やはりあの医師の話は正しいということが確実なものに近づく。スマートフォンを手に入れたついでに、少し育ちが悪いと思われるかもしれないがブラウザの履歴を確認してみる。いわゆる性的な動画とか、そういうものがないかなと期待してみたもののそういったものは無くて、履歴にはランチの場所とか料理のレシピとか、そんなとりとめのないサイトばかり。

  性に関心があると言われる男子高校生といえど(実際はそうではないらしいのだが、未だその実感がないため今のところは男子高校生であるとする)、僕は自分のしたことが恥ずかしくなり軽く自分で自身の頭にコツンと拳骨をして、もう一つ気になることを尋ねる。

  「⋯⋯そういえば僕の母さんは?」

  三角の耳がピクッと動く。ということは僕の問いかけは聞こえているのだろうが、一向に口を開こうとはしない。それでもめげずに数回同じように訪ねると、彼はコンビニに車を止めた。

  「二年前に亡くなった」

  シン、と静まり返る車内。しかし、僕は不思議と感情が昂ることはなく冷酷に言葉が口から漏れ出す。

  「あ、まじ?」

  「⋯⋯あ、そんな冷静なのか」

  「いや、実感が湧かないし⋯⋯。というか、今も夢なんじゃないかって思ってるし」

  きょとんとした狼の頬を軽く引っ張ってみる。すると、「イデデデデ」と言いながら僕の手を握った。正直言うと、ショックを受けているのは変わりない。でも、心のどこかで『そうなんだろうな』と納得する自分もいた。最近は特に寝込みがちだったし、余命だって宣告されていた。二年前に亡くなったのであれば、一応余命よりもずっと長く生きることができたのだろう。

  「いや、それ自分でやらねぇと夢かどうか確認できないだろ」

  「まあ夢だった方がありがたいからね。シュレディンガーの猫だよ」

  という覚えたて⋯⋯でもないのか。少し難しい単語を適当に並べてみると、クスリとマズルが綻び牙が顔を見せる。

  「⋯⋯なんかいるか? 俺はタバコ買ってくるけど」

  「ソーダアイス」

  「分かった」

  一言だけ言って車を降りる。そういえば、自分がなぜ意識を飛ばしていたのかも分からない。いや、多分説明されたのだろうけどあまりのショックのせいかその理由だけが頭からすっぽりと抜け落ちてしまった。何かの事故に巻き込まれたのだろうか。それとも病気なのだろうか。それでも身体には不調がないし、痛くも痒くもない。

  お金のことについては、最悪生活保護とかでなんとかなるだろうし。まだ二十代だから仕事を選ばなかったらきっと就職だってできる。

  ⋯⋯とは思うようにしても、やはり胸の内ではモヤモヤとした蟠りが残っているのだった。

  結論から言うと僕の家はすでに存在しなかった。今は別の人が住んでいるようで、ただ僕の家だったアパートの周りを一周歩くことしかできなかった。地に足をつけて歩いてみると、どこか雰囲気を残したような、それでも確実に昨日とは異なる景色が目の中に飛び込んでくる。売地だった場所には新しい家が立ち並び、お化け屋敷と呼び昔爽と肝試しのまねごとをして怒られた空き家も取り壊されてしまったようで小綺麗な家に変わっていた。

  「⋯⋯で、僕はこれからどこに住めば」

  「ああ、俺の家。⋯⋯だけど。とりあえず次の家決まるまで、いれば?」

  少し気まずそうに口をもごもごとさせるのを見て、自分の存在が邪魔なのではないかと一抹の不安を抱く。が、そう言うわけでもないようで。彼の尻尾は小さく横に振れはじめる。もしも彼が獣人じゃなかったら僕はその言葉に甘えることすらできなかったと思う。

  「なに、嬉しいんだ?」

  「別に、そう言うわけじゃないけど」

  「⋯⋯そこらへん工面してくれてありがとうね」

  何も言わないまま静かに車のドアに触れる。もしも彼がいなければ、僕は今路頭に迷っていただろう。そもそも僕はこうやって再び目を覚ますことすらなかったのかもしれない。つくづく、いい友人を持ったと思う。

  とにかく、しばらくは部屋に住まわせてもらって、お金を稼げるようになって、十分な貯金ができたら新しい家を探そう。

  「ところで、一人暮らし?」

  「え? あぁ、まあそうだけど」

  「⋯⋯へぇ、昨日まで叔母さんちにいたのに」

  「まあ、家からは近いし心配ないだろうって。まだ元気だし」

  ならよかった。落ち着いたら挨拶に行きたいな、と思いながら窓を眺める。皆昼食をとっているのか人通りは少ない。そもそもこの地域に人がそこまで多くないというのもあるのだが。

  「着いたけど、もしかして酔ったか?」

  「いや全然。にしても、割と綺麗だなぁ」

  前まで僕が住んでいた家よりもはるかに綺麗で大きいアパート。もちろん家賃もその分お高くはなるのだろうが、それは敢えて聞かないでおくことにする。聞いてしまったら落ち着けない気がしたからだ。

  現代らしくこの家はデジタルキーのようで、彼が六桁の番号を手早く入力すると金属同士が擦れる音が小さく響く。恐る恐る足を踏み入れると、一人で住むには広々とした部屋がそこにはあった。

  「⋯⋯うわ、割と広いね」

  「田舎だからこれでも全然安い方だったんだよな。で、昼何にする?」

  冷蔵庫を開けてガサゴソと漁っているところを見るに、何か作ってくれるのだろうか。それとも余りものか。贅沢は言わないし、苦手なものが出なければなんでもいい。

  「なんでもいいよ」

  「ん、分かった」

  「⋯⋯なんか手伝うことある?」

  「いや、とりあえず休んどけ。大変だっただろ」

  何か手伝ったほうがいいのではないか。と思い提案するもそれはやんわりと断られてしまったため、時間を持て余す。キョロキョロと部屋を見渡してみると、一人暮らしにしてはやけに物が多い。食器も二人分か三人分はありそうだし、クッションもいくつかある。ベッドは二つ隣接している。家自体も一人暮らしの家というよりかカップルが同棲するようなそんな大きさで、模索してはいけないような空気を感じる。

  「⋯⋯誰かと別れたんかな」

  まあ、人生なんてそんなもんかと思いながらリモコンをつけてみる。すると、見慣れない番組ばかりで困惑してしまう。七年も経てばここまで変わってしまうのか、と驚愕していると油の跳ねる音とともにアチチと料理に不慣れそうな声が聞こえてくる。おまけに焦げ臭い。

  「なんかすごい音するけど大丈夫?」

  「⋯⋯焦げたわ」

  といいフライパンにこびりついた黄色と黒のマーブル模様のそれを見せてから苦笑いする。皿にはダマになったケチャップライスらしきものが盛り付けられている。ボウルの縁に垂れた卵液を見るに、どうやらオムライスを作ろうとしていたらしい。

  「ぷっ、ほんと不器用だね。そこは前と変わらないんじゃない?」

  「いや、いつもはできるんだよ! ったく、どうすっかなこれ」

  「水につけとけばいいよ。ケチャップライスはできてるしそれ食べよ」

  まあ、そのケチャップライスもダマになっているし上手いとは言い難い出来なのだが、それには言及せずにテーブルに運ぶ。やはりカトラリーのセットも二人分あるようだ。

  「⋯⋯どう?」

  「⋯⋯うん、まあ悪くはないんじゃない?」

  舌鼓を打つほどでもないが、食べられないほど酷い味というわけでもない。良くも悪くもない、ただ普通な味。毎日これくらいのご飯が食べられればそれはそれで幸せだろう。そんなケチャップライスを口にしながら僕はそこはかとなくこれからの生活について思案する。

  「にしても、バイトとか探さないとか〜。あれ、高校の時のバイトは流石にもう無理だよなぁ」

  「事故ってからしばらくして辞めることになってたぞ。しかもあの店もう無くなったし」

  「まじ!? うっわ、あの中華料理屋めちゃくちゃいいバイト先だったのに。てか、僕事故ってたんだ」

  「一番最初に説明されてただろ」

  僕が高校生の頃、といっても僕の間隔で言えば昨日の話なのだが。僕がバイトしていた昔ながらの中華料理屋さん。それすらもなくなってしまっているらしい。まあ、店長もそれなりに歳行ってたし仕方がないか。と少し寂しさを胸に抱きながら最後の一口を口に入れる。

  「ご馳走様。⋯⋯ところで、爽って社会人してんの?」

  「まあ、一応⋯⋯。今日は休みもらったけど」

  「悪いね、休ませて。それじゃ、尚更仕事探さないとな〜」

  窓から差し込む眩しい日光を片目に、何をするでもなくボーッと空を眺める。青い空に散りばめられた雲はゆったりとした時間のなかを流れているようだった。

  ふと、部屋の隅に視線を移すとよく弾き語りとかで使われる様なアコースティックギターが立てかけられていた。僕の記憶上に爽がギターを弾けるという情報は存在しないので、趣味として始めたのかななんてそんな安直な考えで尋ねてみる。

  「え、ギター弾けんの?」

  「⋯⋯ま、ちょっとな」

  「弾いてみてよ」

  「そんな、うまくねーけど」

  とか言いながら、演奏を始める。優しいギターの音色は、どこか爽やかで、憂いを帯びていて、なぜか心を揺れ動かす。たどたどしくはあるけれど、爽が昔好きだと言っていたラブソングだということは聞き取れる。あまりにも上辺だけの歌詞で僕は正直好みではないのだけど、メロディーラインは綺麗だから好きという理由が分からないでもない、そんな程度の曲。

  「うまいじゃん、ギターなんてやってたっけ」

  「⋯⋯趣味だよ」

  少し、怒った様にも聞こえる低い声色。それに僕は空気が悪くなるのを感じて、目を閉じる。

  「⋯⋯そっかそっか、ほら続けてよ。聞きたいから」

  そのギターの音色で、この空気をなんとかしてほしくて。それなのに、ギターはだんだんと綻び出して、ついには演奏が止まってしまう。

  「なんで泣いてるの?」

  「うるせえよ、泣いてなんか⋯⋯」

  ボタボタとギターに涙の落ちる音。多分楽器には良くなくて、それでも抑えることができないのか爽の目からは涙が溢れ出す。この涙を止めるにはどうしたらいいのだろう。僕は、一つ安易な考えを思いつく。

  「それじゃ、僕にギター教えてよ」

  「⋯⋯は? なんで、そうなるんだよ」

  「いいからいいから、一緒に弾けたら楽しいんじゃない? もっと上手くなるかもよ」

  「別に、上手くなんかなりたいわけじゃ」

  「楽譜ならピアノ習ってたから読めるし⋯⋯多分。てか、一緒に弾いてみたい!」

  狼の頬を両手で掴む。フサフサとした手触りとともに、しみついたタバコの香りがふんわりと漂う。いつからかこれをする機会はめっきり無くなってしまったのだが、彼が小さい頃理由も言わずに一人泣いてる時にはこんなことをやっていた気がする。

  「⋯⋯やめろよ。恥ずかしい」

  「なら、手をどけたら?」

  と言っても、そうはしない。大の大人がこんなことをしているわけだが、僕からしたら高校生同士の戯れだ。もっとも、それにしては少し距離が近いとは思うが。それは幼馴染の間柄ということで理由付けをすることにする。

  「タバコくさ」

  「うるせーな、おらおら」

  さっきは恥ずかしいだなんて言っていたのに、今度は頬を僕の顔に押し付けてくる。より強いタバコの匂いでむせてしまいながらも、手のひらだけよりもずっと彼の体温を感じられてこれはこれで嫌な気分ではなかった。

  朝、目を覚ますとすでに爽はいなかった。テーブルの上には一つのメモが乗せられていて、千円札が添えられていた。時計を見ると短針は十一と十二の間を指し示しており、慌てて服を着替える。

  「⋯⋯まさかこんな時間まで寝てしまったとは。昨日そんな夜更かしもしてないはずなんだけど」

  メモを手に取って読んでみると、そこには千円で昼食を摂るようにという旨の文章が綴られていた。しかし、何もしていないのにこの千円に手をつけるのは少し申し訳ない気がして、そのメモを机に置き直す。それに、寝起きだからかあまりお腹が空いていないのも事実。

  「⋯⋯さて、早速仕事探さないとなぁ」

  とりあえずインターネットで調べてみるか、と思い共用だと言っていたパソコンをつけてみる。いくつかの求人を見てみると、ここから徒歩圏内のスーパーマーケットが見つかった。時給は決して高くないが、仕事時間に融通がききそうだ。

  「まあ、最初はなんでも始めて見ないとね」

  応募のページへアクセスすると、名前や住所の項目がある。なんの問題もなく記入しようとしたところで、そういえば今住んでいるここの住所でなければいけないということを思い出す。

  「⋯⋯どうしよ、住所聞いておけばよかった」

  ポストでも漁ってみようかとも一瞬思ったが、流石にそれはやめておいたほうがいいだろうという結論に至り、結局時間を持て余してしまう。

  「本でも読もうかな」

  本棚には小説や漫画に混ざって『介護』だとか、『記憶』とか、そのようなタイトルを称した本が並べられている。その中で数冊ペラペラとめくってみても、僕の興味が惹きそうなものはなかった。

  「⋯⋯あ、懐かしい」

  一つ、見覚えのある表紙を見つけて手に取ってみる。それは小学校の卒業アルバムだった。開いてみると、今とは似ても似つかないあどけない顔をした僕や爽の顔が載せられていた。今では名前すら朧げで、どんな声だったかも、どんな人だったかもあまり覚えていない当時の友人や今は生きているかどうかも分からない担任の先生。ページをめくる手が止まらない。

  「うっわ、こんな行事あったなぁ⋯⋯。てか、みんな何してるんだろう」

  爽と同じように、クラスメイトも全員成人しているだろう。もちろん地元から出て都会で働いている人もいるだろう。それを想像するとただ一人、自分だけがこの世界から置いて行かれたような気分になってしまう。

  「⋯⋯あ、爽のお母さんだ」

  授業参観の時の写真だろうか。微かに記憶に残っている女性の隣に、満面の笑みを浮かべた爽が写っていた。

  「あんな親だったのに、喜んでるんだなぁ」

  彼の母親はいわゆるネグレクトをしていた。その理由は言わずもがな、彼が人間とはかけ離れた見た目をしているためである。僕や彼が生まれた当時、新しい予防接種が開発されていた。それはウイルスの仕組みを基に作られていたらしいのだが、一部のワクチンに狼の遺伝子が組み込まれてしまっていたらしい。それにより妊娠初期の妊婦にそのワクチンが接種されると生まれてくる子供が狼のような姿となってしまうという薬害が発生した。

  その後彼の両親は虐待によって逮捕され、爽は親戚の叔母さん叔父さんに引き取られることになったという壮絶な人生を歩んでいる。今の僕も、そこそこ壮絶な人生ではあるのだが。

  「⋯⋯なんか眠くなってきたな」

  あれだけ寝たはずなのに、また強い眠気を感じる。まだ入院してきたばかりだからだろうか。そういえば、医者に数日の間一人で長時間の外出は避けるようにと言われていた気がする。それは多分、この急な眠気が事故などを起こす危険があるからなのだろう。

  身体を揺すられて起きる。すっかりと暗くなってしまった部屋の中に、二つの黄色い光がぼんやりと浮かんでいた。

  「⋯⋯あ、寝てたみたい」

  「ったく、びびらせるなよ。めちゃくちゃ焦ったんだが」

  パチリ、と彼は部屋の電気を点けると、チカチカと数回点滅した後に照明が光を放つ。白いプラスチックでできた袋をもった狼は、僕の安否を確認すると机にその袋を置く。

  「それ何?」

  「弁当。作るの面倒だから買ってきた」

  「マジか、お腹空いたんだよね〜。あ、そういえばなんだけど⋯⋯」

  何かを言いかけて、言葉に詰まる。一体、何を尋ねたかったのか。記憶がすっかりと抜け落ちてしまったかのように思い出せない。

  「あれ、何聞きたかったんだっけ」

  すると、爽は苦笑いを浮かべながらも呆れたように弁当を机に並べる。

  「ま、そのうち思い出すだろ。昼も食べてないみたいだしまず食べろ」

  「あ、そうそう。ここの住所! バイトでも応募しようと思ったんだけど⋯⋯」

  「⋯⋯別に無理しないでもいいんだぞ? もう少し休んでからの方が」

  「いやいや、何もしないで居候するのなんか悪いし。しかも全然健康だから身体動かさないと!」

  「⋯⋯まあ、それもそうか」

  少し冷めた弁当の唐揚げを食べる。それはどこか懐かしい味がした。仕事で帰りが遅い母が、夕食にするようにと置手紙を添えて買っておいてくれた唐揚げ弁当。当時は心細くて食事も喉を通らなかったけれど、独特の字の手紙は僕に対する愛情だったというのに気づいてノスタルジーを感じる。

  夜、隣のベッドで横になっている爽に気になっていたことを聞く。それは、僕に対するこの待遇だ。友達に対して、普通ここまでの扱いをしてくれるだろうか。

  「⋯⋯あのさ、なんでこんな良くしてくれるん? そりゃ、小学生からの付き合いだけどここまでしてくれるとは」

  「別に、家広かったし食器もあるし、一人でも二人でもそこまで変わんないし」

  「とか言って、同棲してた彼女とかと別れて寂しかったんじゃないん?」

  「⋯⋯ちげーよ」

  「じゃあなんでベッド二つあるん?」

  食器やクッション、椅子などといったものが二つあるのは、来客用だとかそういう理由だと納得ができる。しかし、ベッドが二つというのはどうしても違和感が残る。

  「いいから黙って寝てろ、こっちは明日も早いんだ」

  「はーい、ごめんなさーい」

  少し思い出したくないことを思い出させてしまったかなと反省しつつ、僕も目を閉じる。彼が息を吸うたびに膨れる肺によって生まれる揺らぎと、少し高い体温がやけに心地よくて、徐々に意識が混濁していくのだった。

  「おい、本当に大丈夫かよ」

  「大丈夫大丈夫。家にずっといたって、逆におかしくなっちゃうよ」

  人手が足りていなかったらしいスーパーマーケットは、僕をすぐに採用してくれて応募した次の週から働かせてくれることになった。そんな人生の再スタートにふさわしく、窓の外は雲一つない青空が広がっていた。

  「流石にずっとここに居候させてもらうわけにもいかないし、お金も貯めないとね」

  「⋯⋯別に俺はいいけど?」

  「いやいや、流石にそこまで甘えられないよ。あ、そういえば事故起こした相手から賠償金みたいなの貰ったの? それ使えばすぐ一人暮らしできそうだけど」

  「⋯⋯それが」

  話を聞いたところ、事故を起こした相手は自殺してしまったらしい。しばらくの間、定期的にお金が振り込まれていたらしいのだがそれが途絶えたことがあったらしく。よくよく調べたところ、すでに自室で亡くなっていたとのこと。

  それが僕を轢いたことと関係があるのか分からないが、少なくとも僕は少し罪悪感に似た何かを感じた。

  「なんか、申し訳ないね。僕は今元気なのに」

  「⋯⋯なんでだよ。そんな、アイツがもし事故なんて起こさなかったらお前は今まで」

  「だって、こんな元気なんだよ? そりゃ、数年くらい寝ちゃってたけどさ。でも、まだやり直せるよ」

  「それで良いわけ、ないだろ」

  「んー、まあ不謹慎かもしれないけど。もし今も生きてたら定期的にお金もらえてたかもなんだよね」

  「⋯⋯その責任からもアイツは逃げたんだよ」

  「それは、ちょっと困るねぇ。まあ、今や働きに出かける直前だし! じゃ、行ってくるね」

  ドアを開けて、外の世界へ。なんだか新鮮な青空の下で僕は深呼吸をした。

  「それじゃ、次はここの品出し頼める?」

  「はい!」

  幸いスーパーの人たちはみんないい人ばかりで、僕はそこにすぐに馴染むことができた。とは言っても働き出してまだ二時間も経っていないのだが。

  「若いっていいわねぇ。こんなところ、若い子全然働いてくれないから助かるわ〜」

  「ありがとうございます! えっと、これはここですか?」

  「⋯⋯いや、これはあっち。さっきも教えたはずなんだけど」

  「あ、すみません。なんか、物覚え悪くて。でも、頑張って覚えるので!」

  やっぱり、頭の中にモヤがかかった様に覚えたことを再び取り出すのが難しい。これは一時的なものなのだろうか。それとも、これからずっと続くのだろうか。もしもこれが治らないものなのだとしたらそれは困る。今でさえ僕は迷惑をかけてしまうのに、さらに多くの人に迷惑をかけてしまうだろうから。

  そんな僕はパートのおばさん達に苦い笑みを向けられながら、なんとか一日を乗り切った。やはり記憶の定着が悪い。自分で言うのもなんだが、学校の勉強はそこまで苦手じゃなかったはずなのだ。にもかかわらず、ここまで出来が悪いと流石に少しへこむ。

  「⋯⋯あの子、二十四歳になってこんなパートだって」

  「さっきから同じこと繰り返して聞いてくるのよ?」

  なんて陰口が耳に入るくらい、今日だけで嫌われてしまった様だけど。それは仕方がない、事実だから。それに、しばらく働けばきっと覚えられるはずだから。そんなポジティブシンキングで頭を埋め尽くして、制服をロッカーに入れた。

  「ただいま、って帰ってきてるわけないか」

  誰もいない部屋の玄関を開ける。ついでに足りていなさそうだった食材とかを買ってきたので、それを冷蔵庫に入れようとキッチンに運んだところで目に入るのは真新しい調味料。

  「⋯⋯あっちゃー。これは、流石に怒られるかな」

  そういえば、昨日少し距離があるスーパーでセールがやっていたから買い出しに行ったんだった。結果、今家には野菜と調味料がかなりの量。

  「よし、こうなったら作り置きだ」

  幸い、爽は料理が苦手な癖にタッパーとかそういう器具は残ってるのだ。僕自身もあまり料理の経験はないのだが、家庭科では彼よりも良い成績だったからきっと上手くいくはず。とりあえず、まずは野菜を切ろう。腕が鳴る、ほどの腕前もないのだが、アルバイトのことで若干ブルーになった心を紛らわすために袖をまくった。

  結果から言うと、想像以上に僕は料理がうまかった。身体が勝手に動く様な、そんな感覚。味付けも適当なのにしては、上出来。ただ、ちょっと物足りない気もするけどそれをどうこうするほどの技量を僕は持ち合わせていない。

  「⋯⋯ただいまーっ、て。もう作ってくれてたのか」

  「いやぁ、それが昨日買い出しに行ったのにまた買ってきちゃって。急遽作り置き。だからこれは明日とかお弁当に入れるね。⋯⋯って、いつも菓子パンだったよね。ごめん、何言ってんだろ」

  弁当なんて作ったことがない。タッパーが入っていた棚にあった弁当箱を見たからそれにつられてしまったのだろうか。

  「いや、嬉しい。⋯⋯もし、無理じゃなかったらお弁当がいい。俺、[[rb:千陽 > ちはる]]の料理好きだから」

  「⋯⋯食べさせたことないだろ! まあ、いいけど。あ、口に合うか分からないけど食べてみる?」

  「うん」

  大きく口を開ける爽に、菜箸で摘んだ副菜を一口食べさせる。もしもマズイとか言われたらどうしようかと身構えていると、少し間を置いてから彼は口を開いた。

  「⋯⋯うまい」

  「なんで間開けんだよ。不味かった?」

  「いや、普通に美味しい。⋯⋯少し、砂糖入れてみてくれるか?」

  「え、砂糖? ⋯⋯分かったけど」

  しょっぱいものに砂糖なんて入れて大丈夫なのだろうか。と半信半疑になりながら少し入れてみる。そして味見をしてみると、先ほど僕も感じていた謎の物足りなさがパズルのピースがハマった様に無くなっていた。オムライスを焦がすような料理下手な癖に、味付けに関しては才能が僕よりもあるらしい。

  「⋯⋯美味い」

  クシャリと顔を歪ませた様な笑顔。昔見たことがある様なその表情に、僕もつられて自然に口角が上がる。

  「じゃ、これ覚えとかないとね。いや、メモしておこう! 紙とペン借りるよ」

  忘れてしまわない様に、書き留めておこう。胡麻ネギダレの鶏肉ソテー。もしかしたら、こうやって料理の才能が開花して、レシピ本を出して、印税で働かなくても良くなるのかな。そんな淡い夢を抱いて、そう簡単に叶うわけがないと僕はそれを頭から振り払った。

  「じゃ、ご飯にしよっか!」

  「⋯⋯なんか炊飯器、付いてなくね?」

  「⋯⋯うわ! 最悪!」

  慌てて炊飯のボタンを押す。こんなんじゃレシピ本なんて到底無理だな、と思いながらご飯が遅くなることに対して怒られはしないかと恐る恐る爽をチラリと見てみるも、特にそんな気にしている様子もなくまた一つタッパーに入ったおかずをつまみ食いしていた。

  「⋯⋯ちょ、明日の分!」

  「美味いのが悪い」

  なんて、真顔で言うのが少し恥ずかしくて、でも悪い気はしないから責めようにも責められず口を噤んでしまう。

  「じゃ、ご飯炊けるまでギター教えてよ」

  「⋯⋯あんま俺、教えるの上手くないけど」

  「僕よりは上手いんだから、大丈夫大丈夫」

  渋々と言った様に、爽はギターをスタンドから取り出して僕に渡す。持ち方もよく分からない僕は恐る恐る両手で壊さない様に持ってみる。意外と軽い。

  「とりあえず、右手でジャーンってしてみろ」

  「⋯⋯こう?」

  金属の弦が震えて、ギターの胴に音が入り込んで、部屋に響く。それはすこし濁ったガチャガチャした音。先日爽が弾いていた音とは程遠くて、別のギターを弾いているのではないかと錯覚してしまうほどに僕の音は耳障りだった。

  「うーん、手首の力抜いて。ピックこう⋯⋯。あんま強くすると、いい音鳴らないから⋯⋯」

  「ほうほう、こんな感じ?」

  「そうそう。そしたら、左手を⋯⋯」

  ふと、左手を言われた通りに押さえてみるとスムーズに押さえられるのに気がつく。さっきの料理の時の様だ。

  「あれ、意外といけそうかも。才能あるのかな」

  「もし俺より上手くなったら今度は俺に教えてくれよ」

  「うん、分かった」

  コードと呼ばれるアルファベット。それごとに指があるらしい。特に苦労することもなく、僕は教えてもらったコードを押さえることができるようになっていく。⋯⋯一つを除いて。

  「⋯⋯あれ、これ。難しいな」

  「ああ、Fはな。俺も正直無理だ」

  「えー! ここまできたから楽勝だと思ったのにな」

  「ま、練習してたら弾けるようになるだろ」

  「⋯⋯こんなん、むずすぎるって!」

  そんなことをしていたら、炊飯を終えた炊飯器が電子音でメロディを奏で出す。少し前から甘い香りがしていたので、もうすぐだとは思っていたがまさかこんな中途半端な場所で炊けてしまうとは。

  「ほら、ご飯食べるぞ」

  僕は名残惜しくもアコースティックギターをスタンドに置いて、食卓に向かう。そして、おかずが冷め切っていたのをすっかり忘れていた僕は慌てて電子レンジの蓋を開けた。

  「⋯⋯明日、水族館でも行かね?」

  少し前に教えてもらったコードのフォームを爽に聞きながら練習していると、ふと彼は一つ提案をする。久々の三連休、その初日である今日は雨で台無し。でも、明日からは晴れ間が見えるらしい。

  「水族館って、あのボロいところ? いいよ、何もいないじゃんあそこ⋯⋯」

  「それが、新しくなったんだよ。⋯⋯三年前に」

  「結構前だね」

  「でも、見てないだろ? 新しくなってから。結構人気なんだぞ」

  「それなら、まあ行ってもいいけど」

  「よし、じゃあ決まり! ⋯⋯あと、もう一つ提案なんだけど電車で行かね?」

  「ええ、暑いよ?」

  「ほら、懐かしいだろ。電車乗って水族館なんて」

  最後にあの水族館に行ったのは確か、小学校を六年生の夏休みに二人だけで電車に乗って行った時だったはずだ。今思えば特に何の変哲もない水族館、むしろガラガラで寂れた場所なのだが当時の僕たちから見れば壮大な冒険だったのだ。

  「⋯⋯まあ、いいでしょう。あの時みたいに真夏じゃないし」

  「あれは、本当に地獄だったな」

  電車に揺られて一時間、そこからさらに照りつけるアスファルトの熱気をもろに受けながら水族館までの道のりを歩くのだからとても過酷だった記憶がある。

  翌日は日焼けでヒリヒリして仕方がなかったのを思い出す。

  「⋯⋯うわー、思い出したら行きたくなくなってきた」

  「おい、今からそう言うこと言うなよ。もう決定だからな!」

  「分かった分かったって、ほら。えーっと、Am! ってどうするんだっけ?」

  「⋯⋯それは」

  何回同じことを聞いても嫌な顔せず答えてくれる。それが嬉しい反面、しつこくないかと不安にもなる。⋯⋯こうしている間にも、またGコードを忘れてしまった。

  電車に揺られ一時間。その末に街中を今度は歩く⋯⋯のだが、拍子抜けしてしまうほど早く着く。時間にして約十分。特段近いと言うわけでもないが、別に歩くのに無理がある距離でもない。海が近くにあるためか、潮の香りが風に乗ってやって来る。

  「以外と近かったね」

  「まあ、当時より歩幅も広がってるし」

  目の前にあるのは、記憶とは全く見た目の異なる水族館。コンクリートで打ちっぱなしだった壁からスタイリッシュなデザインになって、廃墟にも見えるような建物から清潔感のある建物になっていた。

  「じゃ、チケット買ってきたから」

  「あ、ありがとう」

  駅の改札みたいに、チケットを入れるとゲートが開く。昔は受付の人にチケットを恐る恐る渡していたはずだが、今ではその必要は無くなったらしい。ゲートの奥は、僕の全く知らない場所へと変貌を遂げていた。勝手がわからずにキョロキョロとしていると、はしゃいでると勘違いしたのか爽は声をこらえられないといったように笑う。

  「おいおい落ち着けって、そんな子供じゃないんだから」

  「いや、こんな変わってるとは思ってなくて。てか、別にはしゃいでるとかじゃないし!」

  「はいはい。で、どこ見にいく?」

  「⋯⋯うーん、じゃあ『クラゲの海』? ってとこ行ってみたい」

  適当に見回してみてみると矢印とともにエリアの名前と思われる文字が書いてある。『ふれあいプール』『ペンギンの岩場』『雄大な日本海』。そのなかでも一番デカデカと書かれていた文字。それを読み上げるかのように要望を伝えると、爽は僕の手をとって人混みを避けるように進む。

  廊下を歩くと海へ潜っていくかのように、だんだん周囲が暗くなっていく。周りの人たちの顔が見えていた程度には明かりがあったにもかかわらず、ついには地面のぼんやりとした灯りだけになって、手のひらの感触だけが爽の存在を認知させるほどに。

  「⋯⋯見えるか?」

  「うん、見える。⋯⋯別に、今はもうおんぶとかしなくていいからね?」

  「しねーよ、恥ずかしいわ」

  「綺麗だね」

  大きな水槽には少しおぞましいと感じてしまいそうになるほどのクラゲが漂っていて、ライトアップによってロマンチックに光を放つ。フヨフヨなんて間抜けな効果音がお似合いなように、一定の間隔で半透明な体を動かしながら巨大な円を描くかのような軌道で水槽を泳ぐ。その美しさに見とれながら、ふとクラゲから目を離してみるとやはり周りの人々も息を飲むような、幻想的でほんの少し官能的にも見えるクラゲに目を奪われているようだった。

  この水槽の前に男女のカップルが多いのは、多分デートスポットだとかいうそういう場所だからなのだろう。そんな中、一般より華奢とはいえそれなりに男性の体格をしている僕と一般以上に体つきの良い爽のコンビはこのクラゲたちの前では悪目立ちしてしまう。

  「行こっか」

  「おいおい、早くね?」

  「⋯⋯こんなとこ、僕たちがいたら邪魔でしょ」

  多分、周りはそこまで気にしてはいないのだろうけど。勝手に少しの疎外感を感じてしまって僕はクラゲの水槽から距離を取った。真似事でも、あの中にずっといたら僕たちも同じようになれるのか、なんて絵空事を描いた脳内のスケッチブックを黒歴史になる前に破り捨てた。

  『十三時から、イルカショーが始まります』

  無機質な館内アナウンスが流れる。イルカショーという言葉に興奮する子供の声、それに構わずに手を繋ぎながらクラゲを眺める制服を着た男女。アナウンスに対する人々の反応は様々だ。イルカショーなんて昔は無かったのに、どうやらここもいつの間にか本格的な水族館になっていたらしい。

  「イルカショーだって! 行こうよ!」

  「おいおいはしゃぐなはしゃぐな。って言っても、ほぼ高校生みたいなもんか」

  「おい、聞こえてるからな?」

  「おー、はいはい。いくぞー」

  僕はイルカが好きなのだ。あの可愛らしい見た目に、沢山の複雑なトリックをこなしてしまう頭脳の良さ。一回だけ、まだ幼かった頃イルカが見たいと駄々をこねて母にこの水族館に連れてきてもらったことがあった。

  ⋯⋯結局ここにはイルカがいなかったから、目当てのイルカが見れなくてまた大泣きしてしまったのだが。

  「⋯⋯イルカ、かぁ」

  水槽の中を優雅に泳ぐ彼らの姿を見ていると、母さんのことを思い出す。決して裕福ではなかったのに、楽譜が読めるようになる程度にピアノを習わせてくれて、高校まで行かせてくれて、ご飯のメニューとか、友達との遊びとかそういう日常のわがままも聞いてくれて。父親を事故で亡くしてから、一人で僕を育ててくれた。それが祟って身体を壊し、先が長くないと言うのを知ったのはいつだっただろうか。そんな母の死に目に、僕は立ち会えなかった。

  『イルカさんの、大ジャンプです! 水飛沫にご注意ください!』

  そのアナウンスとほぼ同時。盛大に水をかぶる。だけど、ちょうどよかった。これなら少し泣いてしまったこともバレないだろうから。

  帰り道、せっかくだからぶらりと街を歩いて帰ろうと寄り道をしながら駅に向かって歩く。人通りなんてものはあってないようなもので、車もたまに通る程度。シャッター通りと化してしまった商店街の中を、二人占めしながら時々言葉を交わしつつ。そんな少し寂しい通りを歩いていると、ふとショーウィンドウにアコースティックギターが並んでいるのを見かけた。

  「あ、ギターだ。中古だって」

  キラリと輝く茶色のボディ。弦はピンと張られていてホコリもない。ちらりと視線を下に落として値段を見ると、三万円弱。地味に高くて、今の僕には手も出せそうにない。もしも爽と弾けたのなら、きっと楽しいだろうな。なんてことを思いながら、僕はそのギターから距離を取るように歩みを進めようとする。

  「いらねぇの?」

  「別に? だって、家にあるじゃん」

  「めっちゃ欲しそうな顔してたけど」

  「⋯⋯うるさい。欲しくないし」

  「本当は?」

  「⋯⋯いや、うん。一緒に弾けたら楽しそうだなって思ったくらいで。でも、それだけ。って、待って待って待って!」

  僕の言葉も聞かずに店のドアを開けてしまった爽。楽器屋なんて、入ったことがないから押し売りとかされてしまうんじゃないかと不安になりながら爽の後ろにくっつくように店の中に入る。木材の匂いなのだろうか、落ち着く謎の空気に鼻腔をくすぐられながらも決して気を緩められずいた。

  「いらっしゃいませ、あのギターですか?」

  「はい。コイツ、ギター欲しいみたいなんで」

  店の奥から出てきたのは、物腰柔らかそうなお爺さんだった。これなら、高いものを買わされたりする心配はなさそうで少しだけ安心する。いや、他人は見た目によらないというからまだ警戒を怠ることはできない。

  「それなら、さっき見ていたあのギターがおすすめですよ。中古でも質が良くて、綺麗な音が鳴るんです。弾いてみますか?」

  「⋯⋯しょ、初心者なんですけど」

  と言うと、僕の不安を和らげるような柔和な笑みを返す。

  「それなら触ってみて、弾きやすいものを選びましょうか。おすすめは⋯⋯この辺りなので、とりあえず一つずつ弾いてみましょう」

  丸椅子に腰掛けて、ギターを手にする。まずはショーウィンドウに並んでいたギター。手に持った感じはしっくりくる。左手も押さえやすくて、音も綺麗だった。ピックを借りて、手首の力を抜きながらダウンピッキング。すると、弦の揺れがギターを通して体に伝わってくる。

  「⋯⋯弾きやすい」

  「音もいいな」

  「そうでしょうそうでしょう。一応、他のも試しましょうか」

  それから僕は予算に合わせたギターをいくつか試してみた。結果は、初めに目にしたあのギターが一番手に馴染む気がした。でも、僕の趣味なんかに三万円もお金を使うのは憚られる。これを買ったせいで爽のマンションから出るのが遅くなったら迷惑だろうし、僕は爽の家みたいな防音のマンションなんか住めるわけがない。そんなことを考えると、手に持っているこのギターを買うのがバカバカしく思えてしまう。

  「⋯⋯あの。ごめんなさい、やっぱり僕。お金ないから。買ったら、自分の家探すのも遅れるし。そしたら、防音じゃないから多分練習できなくなると思うし」

  「それなら気にするなよ、俺払うし。で、どれがいいんだ?」

  「⋯⋯じゃあ」

  おすすめされた中でも、一番安いやつ。それを指差す。

  「じゃ、これください」

  「⋯⋯ちょ、それ!」

  しかし、爽が選んだのはお勧めされたギターの中では値段的には一番高い、本当は選びたかったもの。

  「俺にはあのギターが一番弾きやすそうに見えたし、あの音が俺も好きだった。あの音で、俺はお前の演奏を聴きたい。それじゃ、ダメか?」

  「⋯⋯そんな、素人に期待しすぎだろ」

  と、つぶやいてここが店の中ということを思い出して急に恥ずかしくなる。それを気にしないかのように店主のおじいさんは僕に声をかけた。

  「大丈夫ですよ。ギターは練習したら上手くなりますから。それに、その手。ずっと練習してきたんじゃないですか?」

  「⋯⋯手?」

  「指の皮が厚くなるのは、マメに練習をしないとならないんですよ。そんなに練習できるなら、すぐに上手くなります」

  「だってさ。ほら、楽しみにしてるから、なっ!」

  バシンと肩を叩かれる。それが三万円の重みのように感じてプレッシャーに感じつつ、ほんの少し照れ臭くて、嬉しかった。

  「⋯⋯で、自分のアパート探すつもりなん?」

  「え? だって、ずっといるわけにも行かないでしょ」

  「だから、俺は別にずっといてもいいんだけど」

  「そんな、甘えられるわけないだろ」

  ギターのケースを握る手が強まる。僕は、彼に今まできっと迷惑をかけ続けていたのだろう。病院に入院していたのだから、お金もバカにならないはずだ。その上でまだ世話になるなんて図々しさを僕は持ち合わせていなかった。

  「⋯⋯じゃあさ」

  長い昼が終わりを迎え、暗くなってしまった街の中。やっぱり人通りの少ない駅前のシャッター通りの中で、肩を掴まれる。狼の、僕とは違った顔。鼻筋(彼の場合マズルというのか)が通ったやけに端正な顔を前に、僕は咄嗟に目をそらしてしまう。彼のことが嫌いだから自分の意志でそうしたのではなくて、反射的なもの。正直あまり得意じゃないタバコの匂いも、今だけは大人っぽくて余計に妖艶に思えた。

  「俺が、一緒に暮らして欲しいって言ったら?」

  「そんなの、無理して言ってるだけだろ」

  「⋯⋯目、見ろよ」

  言われた通り、彼の目を恐る恐る見てみる。キラリと光る二つの金色の目は、僕の心臓を貫くようにまっすぐと視線を飛ばしていた。揺らぎのない瞳。

  「なんだよ、一緒に暮らしてほしいって。ま、そんな言うなら家事手伝いとして住んであげてもいいけど?」

  まっすぐに見つめられると、なんだか変な気持ちになる。このままでは心臓が高鳴って、またこの前みたいにフラッと倒れてしまうのではないか。そんな気がして、目を逸らす。

  「じゃ、家帰るぞ」

  「⋯⋯うん」

  ずいぶんと長く道草を食っていた。本来であれば乗るはずの電車はとうの昔に出発してしまっていて、次の電車は三十分ほど待たないといけないらしい。

  電光掲示板には同じ文字列が時間が経過するごとに繰り返し流れて、同じ文字が五回くらい流れたところで数えるのをやめた。

  静かなホーム。誰もいない。まあ、車社会のこの地域でわざわざ電車を使う人は少なくて、高校生とか車を持ってない人がたまの休日に使うくらいなのだからいつもと変わらないのだろうが。そんな中、さっき彼言った言葉にほかの意味が込められていないのかを模索したくなって一つの質問を投げかけてみる。

  「もしも、もしもだよ? 僕に好きな人がいたら、どうする?」

  「なんだよ、いきなり。そりゃ、応援するかな。だって、友達だし」

  「⋯⋯そっか。うん、ただのもしも話だよ」

  友達。そうだよな、それ以外の何者でもない。ただ、あの言葉に対して僕が意識しすぎていただけだ。もしも、僕が額面通りにあの言葉を受け取ってこのまま彼の家に住み続けたとしたら。いずれ彼に大切な人ができた時に僕は、邪魔者になってしまう。その時に拒絶されてしまえば、僕は立ち直れそうにない。

  「じゃあ、頑張っていずれは独り立ちするから⋯⋯! もうしばらく、お世話になるわ!」

  「⋯⋯あ、ああ」

  引かせてしまったかな。戸惑ったように爽は電光掲示板を見上げてしまう。⋯⋯あと二十五分。まだ五分しか経っていないらしくって、言葉を続けようと思ったが一日の疲れがどっときて、そんな気遣いもできずに沈黙の時間が生まれてしまう。

  それでも、特に居心地の悪さは感じなかった。

  「いらっしゃいませ、あの。えっと、全部で五千六百七十二円になります」

  「⋯⋯ちょっと、ポイントカード使いたいんだけど!」

  「あっ、大変失礼しました。ポイントカード、ですね。あと、レジ袋は⋯⋯」

  「いらない。さっさとしてもらえる?」

  レジは大混雑。行列ができているのにも関わらず、パートのおばさんたちはどこにもいない。

  「すみません! レジ応援お願いします!」

  声をかけても、聞こえなかったのか黙々と自分の作業を進めるおばさん。それのせいで、また僕は客を待たせてしまって。

  「タバコ、スターライト」

  「あの、番号でお願いします⋯⋯」

  「チッ、三番だよ三番! 銘柄くらい覚えられんだろ、使えねーな!」

  「申し訳ございません⋯⋯」

  レジの手順も、品出しの場所も、タバコの銘柄も、思い出せない。正確には、しばらく考えれば思い出せるのだが、そんなことをしていると今度は仕事が遅くなってしまい。

  仕事をしていくうちに慣れるだろうと高をくくっていたスーパーマーケットのパートは、むしろ前よりも上手くできなくなっていた。

  「⋯⋯いつになったら辞めるのかしら」

  「ほんと、最近の子っておかしな子ばかりよね」

  制服を脱いでいると、そんな声が聞こえてくる。振り返ってみると、誰もいない。⋯⋯ダメだ。最近、変な幻聴のようなものが聞こえるようになってしまった。夏の暑さと、ストレスのせいだろうか。それでも、爽は僕というお荷物兼家事手伝いを養うために僕よりもずっと大変な仕事をしているのだから。こんなことで弱音を吐いていちゃいけないと自分を奮い立たせる。

  汗をかきながらレジ袋に詰めた調味料とか洗剤だとかそういうものを両手に持って、帰り道を歩く。ぼんやりと、遠くの景色が砂糖を溶かした紅茶みたいに歪んでいるのが見えた。

  「あれ、なんで僕。洗剤、二個も買ってるんだろ」

  家に帰ってレジ袋を開くと、その中には全く同じ洗剤が二つ。そして、家にも全く同じほぼ新品の洗剤。よくよく見てみたら、買い出ししたもののいくつかはすでに先日買い足したものだった。

  「⋯⋯なんで、あれ。なんでこんな、僕⋯⋯」

  眩暈がする。視界がグルグルとして、頭を抱えてみても、さっき何をしていたのか。それを思い出すことができない。昨日は何を作った? 昨日は何を買った? 今日の朝は弁当を作ってあげた? 今日の昼は何を食べた?

  「ああ、ダメだこれ。おかしい」

  とりあえず、出しっぱなしにしておくとダメになってしまいそうな肉や野菜といったものは冷蔵庫と冷凍庫に入れよう。とドアを開けてみると、そこには二人暮らしにしてはあまりにもぎっしりと中身の入った冷蔵庫。やっぱり、そこには今日買ってきたものも入っていて。

  『今日買う物 マヨネーズ ごま油 爽が大好きな豚肉の炒め物の素!』

  メモがヒラリと落ちる。冷蔵庫に入っていたらしいそれはひんやりとしていて、僕の頭を冷ますように記憶を蘇らせる。

  「ああ、メモ。こんなとこに置いてたんだ⋯⋯」

  最近は、病的なほどに物忘れがひどい。物忘れどころか、記憶ができない。虫食いされたように、断片的な記憶しか残ってなくて、こうやって間違いばかり繰り返すたびに僕はどうしようもなく死んでしまいたくなる。

  「⋯⋯もう、ダメだ」

  なんだか、自己肯定感がとても下がる。こんな僕でも、爽は『しばらく洗剤買わなくていいな』だとか、『じゃ、豪勢に大盛りで頼む』とか。僕に気を遣って励ましてくれるけど、それもいずれ限界が来てしまうだろう。いつか僕に愛想をつかしてしまうのではないか、もうすでにそうなのではないかなんて不安が頭によぎっては、それすらも記憶の彼方へ消えていく。もしかしたら、もう一度意識を失ってしまうんじゃないか。爽に会えなくなってしまうのではないか。そんな黒い不安に蝕まれていく。

  「そういえば、前にギター練習したのっていつだっけ」

  あの日、爽に買ってもらったギター。決して安くないギターを、『演奏楽しみにしてる』と言って僕に買ってくれた。あれを手に持ったのはいつのことだったか。そんな大事なギターの存在ですらも忘れてしまっていたという事実に僕はぞっとしてしまう。

  「⋯⋯練習、しなきゃ。練習、しなきゃ!」

  何かに駆り立てられたように僕はギターを引っ張り出す。スタンドに立てかけられた二つのギターはすっかり埃をかぶっていて、ずっと練習していなかったことを暗示させた。

  「⋯⋯どうしよ、何も覚えてない」

  どうやって構えるのか。どうやって、抑えればいいのか。今までできていたはずのそれが、すっぽり抜け落ちてしまったかのようにできなくなっていた。もしも、ギターが弾けなくなってしまったら爽と僕のつながりが一切なくなってしまうような気がして。そんな想像が余計に僕をパニックに陥らせる。

  「嫌だ、なんでこんな。買ってもらったギターなのに、弾けなかったら、どんな顔すれば⋯⋯」

  才能があったはずなんだ、僕は。爽にギターを初めて教えてもらった時、簡単に抑えられたんだから。なのに、そんな事実が虚空であったと嘲笑うかのように僕の指は動かない。

  「なんでだよ! なんで、こんな⋯⋯」

  とにかく、前までと同じくらい弾けるようになるには。本棚に、確かギターの教則本があったはず。かなり古い物らしく、メモが書き込まれているのであろう付箋がいくつも張り付けられたそれを爽は奥へ隠すようにしまっていたのを見た。爽にギターを教えてもらいたかったから、僕が教則本を開くことはなかったのだけど。

  「⋯⋯あった」

  それは思ったよりも奥へ押し込まれていた。宝物を隠すかのように、それでいて誰にも見つからないように。

  ボロボロになったその表紙を開いてみると、そこには見覚えのある筆跡。

  「なに、これ」

  これは、僕の筆跡だ。でも、僕はこの本を読んだ記憶はない。そもそも、爽が全部ギターを教えてくれていたのだからこの本を開くことすらなかった。たまに、爽がこの本を読んでいたのを見かけていたくらいで。

  『まずはCコードから! 爽はここで挫折しちゃったけど、いつか教えて一緒に弾きたいな』

  『ストロークは手首の力を抜いて、ピックを摘みながら。あまりガシガシやるとうるさいよ』

  『難関Fコード! とりあえず、毎日練習しよう』

  僕が、爽から教わっていたのとほぼ同じ内容が書かれた付箋。それはFコードの部分で終わってしまっていて、それ以降の簡単な弾き語りをするページには何もメモが残されていなかった。

  「なんで、こんなものが」

  まるで、自分がもう一人いるかのような得体の知れない気持ち悪さ。もしかして、僕は夢でも見ているんじゃないかと頬をつねってみても痛みがあって、現実であると知覚させる。

  「⋯⋯てか、このノートも」

  教則本の近くにあったのは、レシピのようなもの。パラパラとめくってみると、作った記憶のある料理ばかり。市販のレシピ本のように細かく書き込まれ写真も貼られたそれは、いつの日からか作り方を忘れていた爽の好物の作り方を思い出させてくれた。

  「なんで、忘れてたんだ」

  怖くなって、レシピノートを閉じる。そして、本棚の隅にはもう一つのノート。それを恐る恐る手に取ってみる。すると、そこには日記が記されていた。やはり僕の名前、僕の筆跡で。

  『どうやら僕は、記憶が定着できなくなる障害を持ってしまったようなので日記に残すことにします』

  その一文から始まる日記。ページを開くと、細かな一日の出来事や爽との会話が記されていた。

  『指先を動かすと脳に良い影響を与えるとお医者さんに勧められたので、ギターを始めることにしました。思い出を忘れてしまうのが許せなくて、ちょっと無理をしてお母さんにお金を借りてギターを買ってみました。ごめんなさい。でも、練習して上手くなって、ずっと思い出を残せるようになります』

  『また洗剤を買い過ぎてしまいました。それを爽は責めることもなく笑い飛ばしてくれてたけど、今日は流石にちょっと怒られてしまいました。別に僕は気にしていないのに、その後に泣いて謝られてしまったから僕もより一層気をつけよう』

  『ギターのFコードがまだ咄嗟に抑えられません。爽が好きだという曲にはこのコードがあるから、どうしてもこれを抑えられるようになりたい。毎日抑える練習をするけど、次の日には忘れてしまって、僕はどうしたらいいのかわからない』

  『ギターなんて練習してないで、パートでも始めることにします。コンビニなら、雇ってくれると思うし』

  『ごめんなさい。コンビニ、クビになってしまいました。それに、最近は寝てばっかりで自分の自堕落さに嫌になる。医者によると、僕はまた意識を失ってしまい、今までの記憶を失うとのこと。仕方のないことらしくて、みんな許してくれているけど、その優しさが余計に辛い。もしも、次に目を覚ましたみらいの僕がこの日記を読んでいたらコンビニには応募しない方がいいです。けっこう、大変なので』

  『なんか、日記にかくこともなくなってきた。なくなってきたんじゃなくて、おぼえてないだけか』

  『爽、さいごまで君がすきだって言えなくてくやしかったな』

  ミミズのようになった文字。ページをめくるごとに漢字が減って、ひらがなが増えていく日記。僕は、事故でずっと入院していたわけではないらしい。そして、記憶が抜けていくのは事故の後遺症で、治ることはなさそうなことを理解する。

  「これは⋯⋯?」

  もう一冊、また一冊と日記帳が出てくる。それは、それぞれ僕の名前で僕の筆跡で。それでも、綴られる日々は全て異なっていた。

  『なんか、爽が僕のことを好きだと言ってくれた。でも、僕は思い出を覚えてられないから断ってしまった。他に好きな人がいるからだなんて、嘘までついて』

  『爽が、僕を忘れられるように絶対この気持ちは隠し通さなくちゃいけない。それに、もしも僕が次に目を覚ました時に僕の感情を僕自身に押し付けてはいけない。その時の僕は、僕自身とはほぼ別人で、爽のことが好きだとは限らないから』

  『きえるのが怖い。今の僕は、消えてしまうんだ。爽が、あさはやいのに僕を抱きしめてなぐさめてくれる。僕を、ひっぱたいてでもいいから、おこしてほしい。いつのひか、急にあさひがみれないんじゃないかって、まいばんふあんになる』

  怖いのに、読み進める手が止まらない。全ての日記で、僕は葛藤を抱えながら消えてしまうようだった。心臓が嫌な音をたてる。すると、突然ドアが開く音がした。

  「⋯⋯千陽! おい!」

  「そ、爽。僕、ぼくは。⋯⋯もしかして」

  「すまない、お前に絶対見せるべきじゃないのは分かってたのに、どうしても⋯⋯捨てられなかった。隠しておけば大丈夫なだなんて、甘えた考えだった。⋯⋯本当に、すまない」

  「⋯⋯く、くるしい」

  抱き寄せる力が、少し弱まる。そして、爽の顔を見て僕は思い出したように言葉を紡ぐ。

  「⋯⋯洗剤を、また買ってきちゃった。あの、肉も。ごめんなさい」

  「そんなの、どうでもいい! どうして、こんな本棚の奥まで⋯⋯」

  「⋯⋯ギター、弾いたのいつだったか分からなくなって。ためにし弾こうとしたんだけど、弾けなくなって。爽が買ってきてくれたのに、弾けなくなったら嫌だから。たまに爽が読んでた本を探してたら」

  「そうか、そっか。ほんと、俺、ダメだな。そんなとこも、見られてたなんて」

  震えながら、嗚咽を漏らす爽。フワフワとした頬が涙で濡れていく。ふと、両手でその頬に触れてみる。

  「⋯⋯泣かないでよ。なんか、こっちが落ち着いてきたんだけど」

  「だって、俺!」

  「⋯⋯あの、一つ聞きたいんだけど。あと僕はどれくらい一緒にいれると思う?」

  この症状は多分、いずれもっと悪化していくのだろう。そして、僕のこの記憶ももうじき消えてしまうのだろう。それを悟った僕は、最後に残された時間がどれくらいなのかを尋ねる。

  「あと一ヶ月、くらいだと思う。いつも通りなら」

  「そっか。⋯⋯わがまま言ってもいい?」

  医師に話を聞くと、やっぱり僕の予想は的中していたようで記憶は消えてしまうらしい。それは今までも同じだったようで、毎回『今回こそは』という希望を持ちながらも結局は今まさに現れている症状のように徐々に記憶できなくなって、また眠りつく。それなら、初めに伝えておいてくれればよかったなんて責めようにも、まだ確実に記憶が消えるのかが分からなかったからこそ誰も言えなかったのだろうと悟って、運命を受け入れた。

  そして、病院でその話を聞いた後、僕はその理由とともにスーパーマーケットのパートを辞めた。多分、こんな状態の僕じゃまともに仕事をすることもできないだろうし、なによりも僕は彼にギターの演奏を届けなければいけない。そんな義務があるような気がした。

  「指も、なんとか思い出してきた。問題は⋯⋯」

  Fコード。これに関しては、僕のメモがないから自分でなんとかするしかない。爽が仕事に行ってしまっている間、僕はギターを忘れないように教則本を睨んでいた。

  家事も、料理も、火を消し忘れたり水を止めっぱなしにする危険があるからとドクターストップがかかった今、僕は自然とギターに向き合う時間が増えたのだ。

  「⋯⋯予定じゃ、あと二週間」

  こんな短期間しか、残されていない。タイムリミットが来る前に、僕は⋯⋯。

  「⋯⋯千陽?」

  「⋯⋯ん、爽?」

  ある日の夜、僕は爽に起こされた。明日は休日だから、特に夜更かししても問題はないのだが、最近の僕は記憶障害の影響か睡眠時間が長くなりつつあった。

  「⋯⋯あのさ、俺がもしお前のこと好きだって言ったら。どうする?」

  不意に飛び出した言葉は、ほぼ告白みたいなものだった。でも、僕はそれに素直に応えることができなかった。

  「⋯⋯ごめん、それは断らないといけない。僕は思い出を覚えてられないし、もう二度と目を覚まさないかもしれない。その言葉を受け入れたら、爽は多分。⋯⋯多分だよ? 僕に囚われて次へ進めなくなる。それに、今まで消えていった僕に申し訳ない。ないと思うけど、もしも僕の次の僕が、爽のこと嫌いな可能性もある。そうじゃなくても、爽じゃない他の人を好きになる可能性もある。その可能性を潰えさせるのは、僕にはできない」

  「それは、お前の感情じゃないだろ」

  「いいから、早く寝よう」

  「⋯⋯ああ」

  それだけ言って、目を閉じると不意にぬくもりに包まれた。⋯⋯安心からか、眠気にすぐ襲われる。

  「⋯⋯爽、ギター。一緒に弾かない?」

  予定では、僕の記憶が消える前の最終日。それにもかかわらず、お昼頃にしか起きることができなくなった僕は、寝起きのまま爽に声をかける。

  「⋯⋯寝癖、めっちゃついてるぞ」

  「いいのいいの。出かけないでしょ?」

  「⋯⋯そうだな」

  「じゃ、ギター合わせよ。今日一日中」

  「それは流石に、指が」

  「僕は大丈夫だよ? ほら」

  すっかり固くなってしまった指先を爽に触らせる。その手を労るように彼は大きな手で指を包み、手の甲に一つキスをした。

  「⋯⋯なんだよ、そんな恋人みたいに」

  「返事は、今日もらわないとなって」

  「⋯⋯だから、断るって」

  「お前は、どう思ってんの? 記憶が消えるからだとか、そんな理由を抜きにして。お前の今の気持ちが知りたい」

  「⋯⋯ほら、合わせるよ」

  シャラン。ポロン。ツギハギの演奏と、音痴な歌声。上部だけのラブソング。君の声と、重なる僕の声。

  『永遠に一緒だよ』だなんて、そんな優しい嘘をギターに乗せる。明日にはさよならしてしまうのにねなんて思いながら、その歌の歌詞に苦笑いして。

  絶望しかないこの世界に、妙にぴったりなギターの繊細な音色。その先には、愛なんてものが垣間見えたような気がした。

  「⋯⋯うーん、ヘタクソ。僕」

  「俺の方、全然弾けなかった」

  もう一度。観客なんて誰もいないのに、[[rb:追加演奏 > アンコール]]を求める声が上がったように、僕たちはもう一度ギターを構える。満足なんて、絶対出来やしないのに。何回も、何回も。

  「すっかり、暗くなったな」

  「そうだね」

  「⋯⋯で、しつこいだろうけどお前は俺のことどう思ってんだよ」

  「まだ覚えてたんだ」

  と言いつつ、僕も覚えていたのだが。真実を告げてしまえば、僕は彼の中で生き続けることができるだろうか。日記帳に記されていた僕は、思いを告げることはなかったけど、僕だけちょっぴり特別扱いしてもらえるのだろうか。そんなわがままを叶えてしまうのは、自身に不誠実な気がして。

  「日記でさ、前の僕は想いを伝えられなかったとか書いてあったから。なんか、自分だけ伝えるなんてずるい気がするんだよね」

  「⋯⋯それ、日記には書いてなかったけどさ。あのあと、俺の方から好きだって言ったんだよ」

  それは、日記に記されていなかった続き。その続きがどうしても気になってしまう。

  「へぇ。じゃあ、前の僕はなんて答えたの?」

  「やっぱり俺のことが好きだってよ」

  「なんだよ、お前のこと嫌いとかいうやついなかったの?」

  「いねぇよ。今のところ全員、俺に堕ちてる。モテすぎて困るわ」

  「ぷっ、そんな何回も僕をたぶらかして。意外と肉食系ですねぇ」

  「馬鹿、めっちゃ一途だろ」

  なんだ。結局、日記帳の僕も彼に想いを告げていたんだ。それを聞いて僕は少しだけ彼らが報われたように感じて嬉しくなった。それなら、僕も彼に対して本音をぶつけてしまっても。

  「——やーめた。言わない」

  「は!? おい、なんでだよ」

  「全員が結局告ってるなら一人くらい、告ってない僕がいても面白いじゃん。むしろ印象強くて僕のことを覚えててくれるでしょ?」

  「⋯⋯いや、全員。てか、お前なんだから全部覚えてるぞ」

  全員君を好きだと言っている。その経歴に傷つけるように、僕が一度も君に好きだと言葉にしなければ僕が特別になれるような気がした。さっきまで、自分だけ報われるのはずるいとか思っていたくせに、今度は自分だけ特別になりたいだとか。そんなころころ変わる自分の考えに自虐的な笑みがこぼれる。

  「嫌なんだ、特別じゃなきゃ。自分自身と張り合うなんて、馬鹿馬鹿しいけどね」

  「後悔しないのか?」

  「⋯⋯するかも。でも、それでいいよ。抜け駆けして、君の特別になりたいと思った僕への罰だ」

  「そうかよ」

  すこし不貞腐れたような表情を見せる爽。僕も意地を張ってしまったかと、若干後悔が芽生え出した瞬間、とある妙案を思いつく。

  「⋯⋯そうだ、今度僕が目を覚ました時に、もしもさっきの言葉を覚えていられたら返事を返してあげるよ。それと、僕が目覚めるまでに、爽が心変わりしたなら。その時は、迷惑をかける前に僕を殺して。そんな世界で生きる意味ないし、目を覚ましたとしても爽の恋人のこと殺しちゃうだろうし」

  「なんだよそれ。まあ、いいよ。ぜってー、またお前の長い長いボサボサ頭の寝起き顔を拝んでやるから」

  両手にかかえるようにモフモフの頬を触る。目の潤んだ金色の瞳が、透明になっていく。タバコの匂いはいつの間にか消えていて、手のひらに感じるぬくもりだけがつなぎとめるようになって、それすらも徐々に感じられなくなる。だんだんと、意識が遠のいていく。海の底へ引き摺り込まれるかのように。いつの日か見た、クラゲの漂うあの水槽へと飛び込むかのように。

  それから、病院へと俺は毎日のように通った。流石に仕事が忙しい時には行けない日もあったけど、時間がある時には彼の病室で小さな額に手を乗せる日々を繰り返した。長い月日が経った末、次に目覚めるのかすらも分からない俺の幼馴染がいつ目覚めてもいいように。

  目を閉じて眠る寝顔は、年相応に髭も生えるので時々髭剃りをしてやる。それでも、どこかあどけなさが残るのは何故だろうか。

  もしもまた目を覚ましたら、俺だと気づいてくれるのか。そんな不安もある。気づいてくれたとしても開口一番、『おっさんになってる!』だなんて、言われたら結構ショックを受けるだろう。

  二十七歳と、もうアラサーだ。そろそろ健康に気を付けないといけないと思い立って、みんなが吸ってるからと流されて始めてしまったたばこをやめようと心掛けている。俺の方が先にぽっくり逝ってしまったなんてことになったら目も当てられない。周りは結婚とかをし始めている年齢なのだが、俺はその気が起きることはなかった。結局心変わりなんてすることもなく、今日こそは目覚めないかと楽しみにしている。

  今日は雪が降るらしい。窓を見ると、すっかり葉が落ちて枝だけになった木の枝。そろそろ冬が始まることを肌で実感する。この時期になると、両親がいつの間にか家から消えてしまって世界が途端に色あせたものになった時、彼が小さな両手で俺の頬を包み込み、再び鮮やかな景色を見せてくれたことを思い出す。俺はその時にこの世界で生きていく理由を見つけられた。彼はすでに忘れてしまっているかもしれないが、それくらい彼との出会いは俺の人生の大きな分岐点だったのだ。

  あまりにも他人とは違う風貌、実の両親からすら愛されることがなかった俺は他人から愛されるなんてことを諦めきっていた。そんな俺に、暖かなぬくもりを注いでくれた。もちろん叔父や叔母もお世話にはなったのだが、彼のそれは親戚だからとかそういうものを抜きにしたものだったから、多分これが本物の愛なのだろうと思ったものだ。

  「⋯⋯あー」

  誰もいないはずの病室に、声が上がる。看護師でもきたかと思い振り返ってみると、そこには手を開いては閉じてを繰り返す千陽。

  「⋯⋯あ、何してんの? って、なんかおっさんになってない!?」

  ああ、言われてしまった。やはり少しだけ傷つく。でも、また目を覚ましてくれたことが嬉しくて、俺だと気づいてくれたことも嬉しくて。少しの胸の痛みを知らないふりしながら、いつものように声をかける。

  「おはよう。具合は?」

  「⋯⋯特に大丈夫。なんで?」

  「⋯⋯そうか。医者、呼んでくる」

  あの日交わした言葉は、やっぱり覚えていないみたいだった。目をもう一度開けてくれただけでも嬉しいのに、残念そうな顔を見せてしまいそうになる。そんな厄介な呪いを俺にかけたあいつは、もういないのだ。いや、いないのではない。俺の中で生きている。今までの彼だって、今目の間にいる彼だって千陽に違いはない。

  「ちょっと待って」

  医者から千陽に状況を説明をしてもらうために、呼びに行こうとしたところを引き止められる。そして腕を引かれ、内緒話をするかのように耳に手を添えて⋯⋯。

  「好きだよ」

  その後、病室に誰もいないのを確認して。口にキスをしたら、『歯磨いてないのにやめろ』と叩かれてしまった。俺が磨いてやっていたことを伝えたら、それならいいかとまたもう一度。

  「家帰ったら磨いてやろうか?」

  「絶対やめろ」

  また終わりが来るかもしれない。それでも俺は、何度でもやり直すだろう。家に帰ったら、まずは無性に優しいギターに本当の愛の言葉を乗せて、囁いてやろう。練習の成果を見せる時が来たようだ。