「…はぁ…はぁ……ッ」
夜空に浮かぶ月の光量が極限に達する頃。
青年は森の中で、大木に寄り掛かるようにして立っていた。
間もなく奴らが追ってくる。
これまで何度となく逃れてきた。
度々襲い来る"衝動"を抑え続けもうひと月になる。
しかしそろそろ限界だ。
忌まわしい正体が奴らによって白日の下に晒されるだろう。
他の仲間たちがそうされたように。
必死に、誰にも迷惑をかけまいとやってきた。
激しい破壊衝動に見舞われたことも一度や二度ではなかったが、森の奥に身を潜めていたのでどうにかやり過ごしていた。
なのに。
無力感に引き摺られるように地面へと身体が滑り落ちていく。
もう少しだけ、人間らしく生きてみたかった。
幽かな願いも虚空に弾けて消えていく。
「ようやく見つけたぜ、"人狼"さん」
下卑た男の呼ぶ声が聞こえてきた。
気付けば青年は幾人もの追手に周囲を囲まれていた。
「さあ、化けの皮を剥がしなァ」
言うと連中の一人が銀色に光る何かを投げて寄越した。
「……これは…」
銀の十字架。
それはきっと彼らの雇い主が寄越した護符のようなものだ。
魔なるものの正体を暴き、闇の力を増幅させる…
心臓がどくん、と大きく脈打った。
この感じはまずい。
青年の直感もしかし間もなく訪れた激痛に掻き消されていく。
「あっ……あああああああアアアア」
熱い、痛い、痒い、気持ち悪い、
不快という不快がすべてごちゃ混ぜになって百倍にも膨らませたかのような感覚。
鼓動が早鐘のようだ。
深い絶望と浅はかな快楽が同時に押し寄せてくる。
喉の奥から絞り出すような叫びを上げながら、その吐息は熱く、荒々しいものに変わっていく。
全身の筋肉がみるみるうちに盛り上がる。
鍋が泡を吹くように、手の形も歪に変形する。
そして溢れ出すように身体中、手足や顔までも黒い剛毛が覆っていく。
いつもならば。
シャツは脱ぐ、ズボンのボタンも外している。
暴れないように、理性を失わないように拘束具もつけている。
だがもう駄目だ、何もかもが遅い。
ブチブチブチ、と音を立ててシャツが破れボタンが弾け飛ぶ。
それは抗い難い、酷く心地良い感覚だった。
「う……ハァッ……あああアアアっ!!!!」
ひときわ大きな声で、己の獣性を解放するように叫べば、もう抑えが効かなかった。
身体中わなわなと震わせ、背骨が服を突き破りながら曲がって顔と両の手が前に突き出す形になる。
苦しみから逃れるように這いつくばり地面を引っ掻くその先から爪が伸びてくる。
「ぐウ、が、あぁ、グルルッ、アアアア」
絶えず苦しげに漏れていた声が変化する。
鼻をひくつかせると一瞬で黒ずみ、口と共に前へ突き出していく。
同時に耳も上部へと引っ張られていった。
嗅覚も聴覚もめちゃくちゃなまま叫びをあげる。
「がアアアアッ!オオッ、アオ………グオオ……」
悲痛な青年の声は低く獰猛な獣の咆哮へと変わっていく。
「オオオオ、グ、ガァ」
歯が上下から伸びて犬歯へと変わった。
「ア……ガ……グルルルルルルッ、ッ!!!」
苦痛は怒りへと変わり、剥き出しの歯の間からとめどなく涎が零れ落ちる。
「ハーッ、ハーッ」
裂けた口の端からは血が滴った。
長い舌で無意識にそれを舐めとると、突如、獣は興奮したように目をかっと開いた。
息を荒げながら一頻り吠えると、彼は唐突に自分の腕に噛みついた。
「ァゥウッ!……グ、グルッ……ガルル……」
そして噴き出した自らの血液を至極美味そうに丁寧に舐めとっていく。
心を満たすのは血と肉の香り。
よろよろと巨体が揺れる。
尻のあたりから長い尾が飛び出すと、大きく身震いした。
「アオオオオオオオーーーッ」
怒りと昂りをぶつけるように、獣は長い雄叫びをあげた。
[newpage]
「ガルルルル………」
背中を丸め、鋭い歯を剥き出しにして獣は威嚇の声を上げる。
獰猛な本能を抑えきれないように、瞳は爛々と輝き、呼吸は荒く繰り返されている。
「うわあぁぁああ!」
「何してる!追え!捕まえろォ!」
「グオオオオオオッ!」
力任せに奮った鉤爪が狩人の頬を掠める。
「うわぁあっ!!!」
「何ボサっとしてる!傷口から感染るぞ!!!」
狩人たちは各々猟銃を構えてオオカミに向かって放つ。
しかし獣は一向に怯む気配を見せず、力任せに飛びかかる。
血飛沫が上がると瞳はますます興奮したようにぎらついた。
「ガア……アオッ……オオオンッ!」
月に向かってひときわ高く吠える。
銃弾の雨は蝿を退けるように薙ぎ払われた。
「ひっ……」
「クソがぁあああッ!!!」
ひとりの狩人が背後から、銀に光るナイフを手に襲いかかってきた。
狼は視線だけでそれを見極めると、巨大な図体に見合わないほど俊敏に後脚で地面を蹴り、近場の木の枝に着地する。
そして唐突に姿を消した獣に狼狽する男たちの頭上へ飛びかかろうと後脚をたわめる。
獲物は1体、2体、3体………
前足を突き出して身を投げた、その時だった。
空中でピタッと動きが止まる。
狼はギョロリと視線をそちらへやる。
「…気持ち悪い。だから嫌なんですよケモノは」
忌々しげに呟きながら、片手でオオカミの後脚を掴んでいるのは、黒いスーツを着た女性だった。
「照らし、溢れ、満ち満ちて、遍く平穏をもたらす者、いま来たりて、闇なるものを退けよ」
ぶつぶつと呪文を唱えたかと思うと、狼は苦悶の声を上げはじめる。
「グウッ!…ガァアアアアアァァァ」
全身から力が抜けていく。
先ほどまで身体中を満たしていた怒りも高揚感も、すべてが奪われていく。
そしてそのまま意識は遠のいていった。