はっと目が覚めた瞬間に妙に部屋が明るいことに気付いて、しまった――!と青年は思った。
だが時すでに遅し。
彼が寝ていた間に世の中はとっくに動き出している。
慌てて枕元の目覚まし時計を見ると9時半を少し回ったところだった。当然のように窓の外からは明るい陽射しが差している。
青年は自分にかかっていたタオルケットを蹴飛ばしてベッドの上に跳ね起きた。
「う、うそだろおいっ!」
天井に向かってそう大声を上げてみるが、横に置いてあった携帯電話のデジタル時計も、壁にかかった丸い時計も、皆揃って同じ時刻を指し示していた。
目の前の光景は紛うこと無き現実である。
――大事な日に寝過ごしてしまった……!という悪夢のようなそれの。
ハイエナ獣人の青年、拝島日出(はいじまひので)は大車輪で出かける準備を始めた。
寝間着を脱ぎ捨て半袖のTシャツにハーフパンツというラフな私服に着替えると、冷蔵庫からバナナを一本取り出し一気に頬張り、牛乳パックに直接マズルを付けて口の中のモノを一気にごくごくと飲み干す。部屋の傍に放り投げてあった黄色いバックパックをひっつかむと、モヒカンのように逆立った頭の被毛の寝癖を直すことも無く、アパートの玄関を勢いよく飛び出して行った。彼の黒い鼻先はまだ牛乳で濡れたままだったが。
外は初夏の太陽がアスファルトをじりじりと焼いている。
6月である。梅雨の合間の真夏日だ。
蒸した熱気が拝島の顔に吹き付けてくる。それだけで汗が噴き出してくるようだ。
(こんな日に遅刻とかマジかよくそが!俺のバカが!死ね!)
拝島は目的地へ向けて全力疾走しながら自分の大失態に腹を立てるが、そんなことをしても過ぎ去った時間が戻る訳でもない。
――ああ、やはり昨日の夜に気を抜いて悪友たちとビールを煽ってしまったのが失敗だった。ここ数日しばらく徹夜続きだったものだから、500ml缶たった一つでも泥酔するに十分だったのだ。ストレスが溜まっていたとはいえ、なんでよりによって昨日に飲んでしまったのか、くそ、マジで俺って馬鹿じゃねえのかあんなに勉強したっつーのに――
悔やんでも悔やみきれず。
そうこうしている間に、目指す場所が見えて来た。
後悔を続けるハイエナの青年は全力疾走のまま大きな門をくぐり抜ける。
両目は充血し被毛はぼさぼさ、明らかに寝起きにしか見えないハイエナの必死の形相に、すれ違った者たちが何事かと振り返る。
そこは、拝島の住むアパートから徒歩でたったの5分という好立地に存在する巨大な施設である。
幾つもの四角い建物が立ち並び、多くの若者たちがその広々とした構内で思い思いに時を過ごしている。
熱心に講義に耳を傾けている工学部の獅子がいれば、ベンチに腰掛け語り合っている文学部の狸と兎の姿がある。体育館で筋トレに励む柔道部の熊、建物の裏でギターを弾いている軽音楽部の猫、広場でキャッチボールに興じる野球部の鰐と犀――。
ここは、大学のキャンパス。
教育と学術研究の最高峰の機関にして、幾多の青年たちが青春を謳歌している場所だ。
拝島はそこの一員。
とある国立大学の一年生なのだ。
そして今日こそは、前期の中間試験の最終日である。
……さらには、絶対に落としてはいけないということで有名な、学生を留年させることを生きがいとしているとまで言われている、ある物理教授の試験が行われる日でもあった。
よりにもよってそんな日に、拝島は寝坊をやらかしてしまったのだった。
拝島はある棟へと飛び込むようにして入って行き、そのままの勢いで正面のエレベーターへと乗り込む。
白い壁に囲まれた狭い箱の中で足を止めると、ハイエナの額から思い出したようにぶわりと汗が噴き出してきた。拝島は荒く息をつきながら、褐色の腕の被毛で玉のようなそれを拭う。
ドアの上の数字はゆっくりと階上に向かって行くが、拝島は焦ってしまって気が気ではない。今日行われる物理の試験はただでさえ難しいと上級生たちから言われているのに、残りの試験時間はもう一時間を切ってしまっている。
いや、そもそも今更来たところで試験を受けさせてもらえるかどうかすら怪しいのだが。本来であれば9時開始の試験なのだ。5分や10分というレベルでは無い。大遅刻である。
だが、かといって逃げ帰る訳にもいかない。
学生が受験資格を放棄したと見なせば、あの意地の悪い教授のことだ、嬉々として拝島に留年を宣告するに違いなかった。
物理学教室の教授の、銀縁メガネから覗く冷ややかな視線を思い出して拝島は身震いをする。
(な、なんとかバレねえように教室に入れたりしねえかな……?)
などと無謀なことを考えながら、拝島は開いたエレベーターの扉をするりと通り抜け目の前の廊下を右に曲がるが、
「――おや。こんな時間に登校とは、昨日のお前さんは余程勉強に精を出したんじゃろうなぁ?」
唐突に柱の影から降って来た太い声に、拝島はびびびと毛並みを逆立ててその場で固まってしまった。
この威圧的な低い声。皮肉混じりの物言い。
まさか。
ハイエナが声の方向に恐る恐る顔を向けると。
思った通り。そこにヤツはいた。
半袖のワイシャツに銀縁メガネを身に着けた壮年の大柄な犬獣人が、腕組みをして拝島を見下ろしている。
大型犬はふん、と不愉快にそうに鼻を鳴らすと、垂れ下がった真っ黒な片耳をひょいと上げ、口の片端をわずかに歪めた。
テスト当日に遅刻をやらかしてしまった無様な学生を嘲笑うかのように。
(は、ハンド教授……!コイツ、わざわざ隠れてやがったな!)
拝島は内心で歯噛みする。
こんな場所にこの犬獣人がいたのは偶然ではなかろう。敢えて物陰で待っていたに違いなかった。遅刻した拝島を苛めようと考えて、きっと試験監督を助手にでも任せて部屋から出て来たのだ。廊下で教授に見つかれば、拝島の精神的ダメージは大きいだろうと考えて。
確実に50歳は超えているはずなのに、そういう子供じみた嫌がらせをする奴なのであるこの男は!
――燔渡嵐人(はんどらんど)。
この大学の物理学の教授の一人である。
数ある種族の中でも大型の部類に入る、ニューファンドランド犬種の犬獣人。その身長は190cmを悠に超え、がっしりとした骨太な体格とやや中年太りをしている腹回りから体重も100kg以上はあると思われる。耳と目の周り、そして顔の側面は真っ黒だが、額から鼻、そして顎にかけては真っ白な被毛で覆われている。半袖のワイシャツの胸元からはふさふさとした白い被毛が覗いているが、腕組みをした太い腕には白の中に黒い斑点がまばらに散っていた。
こういった黒白の被毛を持つニューファンドランド犬を特にランドシーア、とも呼ぶらしい。
だが、そんなのは拝島の知ったことではなかった。
拝島は燔渡のことが大嫌いだったからである。
いや彼だけではない。燔渡と関わった学生ならば、口を揃えて同じことを言うに違いなかった。
数年前に40代半ばという年齢で教授になったという燔渡は確かに優秀なのだろう。実際、国立某大の燔渡教授と言えばある分野ではそれなりに名の通った人物でもあるらしい。
だが、彼は何しろすこぶる性格が悪かった。
平日も休日も研究室に籠りきっているせいで性根がひん曲がってしまったのか、燔渡は偏屈で皮肉屋、いつも煙草の匂いをぷんぷんさせているし、講義は退屈で眠くなるだけ。たまに飛ばす冗談はちっとも面白くないし、機嫌が悪いと怒鳴り散らすしで、学生からの評判は常に最低。さらには講義で課されるレポートの数は尋常ではなく、定期試験も高難度。ついでに、赤点を取ってしまった学生の答案や出来の悪いレポートには、皮肉をたっぷり込めたコメントをつけてくれるという大盤振る舞いである。
どうやら燔渡は頭の悪い学生が嫌いらしく、拝島はこれまでに何度もレポートを突っ返されてしまっていた。それも赤い文字で書かれたムカつくコメント付きで、である。
『不可。これが本当に大学生のレポートかね?ワシには無意味な文字の羅列にしか見えんが。幼稚園児の落書きかと思ったわ(笑) 燔渡』
自分なりに頑張って書いたはずのレポートに、でかでかと赤いサインペンでそんなコメントが書かれて返されて、拝島もさすがに頭に来た。怒りのあまり、レポート用紙ごと燔渡の書いた癖の強い字をぐしゃぐしゃと握りつぶしてしまった。
燔渡自信はどうやら冗談で書いているつもりらしいのがまた腹立たしい。
――(笑)じゃねえよ、ちっとも面白かねえし!
拝島だけではない。クラスの1/3くらいの学生が、そんな酷いコメントをつけられて再提出にされてしまっているのだった。
これでは人気が出る方がおかしい。
今だって燔渡は冷や汗を掻いている拝島のことを、まるで獲物を甚振る猫のような冷たい視線で見下ろしている。
元来、気性が穏やかで優しいはずの大型犬種の癖に、燔渡はねちっこい性格をしているのである。
「す、すいません。今日は、ちょっと、身体の具合が悪くて……」
拝島はそう必死に弁明して頭を下げるが、大型犬は眼鏡を片手でちょいと直すと、平坦な口調で
「ほう、なるほど。そいつは気の毒にな」
と言ってのけてから拝島の顔をずいと覗き込むようにして「……だが、調子が悪いという割に、先程のお前さんの全力疾走は見事じゃったぞ。是非ワシから賛辞を贈らせてもらいたいものだな、えぇ?」
などと厭味ったらしく言ってまたふん、と鼻を鳴らす。だがその目は少しも笑っていない。
どうやら燔渡は窓に張り付いて、拝島が必死で走ってくる様を上から悠々と眺めていたらしい。
いちいち底意地が悪い。
ぐ、と拝島は言葉に詰まるが、困った顔を見せてはこいつの思う壺である。
「あ、あの、ハンド先生……今日の試験なんすけど……」
拝島は必死に声を絞り出すが、言いかけたところで燔渡に鋭い目つきでじろりと見返されて身体がびくついてしまう。
燔渡もいい年のはずだが、学生に向ける視線には強烈な威圧感がある。肉食獣のはずの拝島がたじたじになってしまうくらいの迫力なのだ。
間違っても彼のゼミには入りたくないと拝島は思っていた。
何を発言しても、燔渡の鋭い目線で射すくめられた挙句に怒鳴り散らされそうである。
「……なんじゃ」
不機嫌そうに顔を歪めた燔渡の高圧的な言葉に、拝島は別の汗をかきそうになりながらも一生懸命に言った。
「きょ、今日は、その、遅刻してすいませんでした……。い、今からでも試験を受けさせては、もらえないでしょうか……!」
拝島はそう言ってがばりと勢いよく頭を下げる。
だがその上に降ってきた言葉は、
「いやじゃ」
にべも無かった。
縋りつく拝島の声を切って捨てるように、燔渡はそう言い捨てた。
「そ、そんな……!」
絶望と共に拝島は顔を上げる。
泣きそうだった。
大学に入学してたった2ヶ月だというのに、もう留年の危機である。しかも拝島は一年浪人して大学に入学している。こんな体たらくでは、独り暮らしをさせてくれた親に顔向けができない。
余程拝島が情けない顔をしていたのだろう、燔渡は面白そうな色を両目に浮かべて観察するようにハイエナの青年を見つめていた。
これである。
燔渡が『学生を留年させることを生きがいにしている』などと噂されてしまう理由は。
学生を落とす時の燔渡は、いかにも楽しそうな表情をしているのだ。拝島を見下ろす燔渡のマズルが意地悪く歪んでいるのがその証拠である。
自分が学生の生殺与奪の権利を握っているのがさぞ嬉しいに違いない。
だがこの日は一体何の気まぐれだったのか、
「……ふん、まあワシも鬼ではない」
単に機嫌が良かったのか、半べそをかいている拝島が哀れになったのか、燔渡は少しだけ穏やかな声音に変わり、こう言ったのだった。
「――そうじゃな、お前さんには特別課題とちょっとしたレポートを課そう。それが見事こなせたら、今回の中間試験は合格扱いにしてやるわい」
[chapter: スプートニクが恋人]
1
「っあー!くそ!マジありえねえ!ハンド!ムカツク!」
とあるアパートの一室で、テーブルの前に胡坐を掻いたハイエナが缶ビールを片手に大声を上げていた。
拝島である。
だがここは彼の部屋ではない。
大学の友人の家へ押しかけて、今日の物理の試験を受けられなかったことを愚痴っているのである。
目元を赤く染めたハイエナは、昼間に燔渡教授から受けた仕打ちへの怒りを爆発させていた。
「おーおー。ハイジマ、荒れてんなあ」
テーブルの向かいには大柄な虎の青年が座っていた。
彼がこのアパートの一室の家主である。虎も同じくちびちびとビールを煽りつつ返事をする。「しかし受けなくて良かったかもしんねえぞあのテスト。俺、半分くらい最後まで解答作れなかったしよ」
虎はそう言ってツマミのスナック菓子に手を伸ばした。
拝島と虎は同じ学部の同い年。入学式の際に偶然席が隣り合ったことから仲良くなった。二人とも大学浪人をしているせいか、なんとなくウマが合うのだった。
虎は中学時代からバスケットボールを続けているそうで、平均的な体格の拝島にとっては並ぶと見上げる形になってしまうくらいに高身長でガタイも大きい。
しかも虎は、少なくとも物理に関してはそれなりに出来る方だ。今まで一緒に物理の講義を受けてきて、虎が燔渡のレポートのやり直しを食らっているのを見たことが無かった。
「でもよ、それでもテスト受けた方がマシに決まってんじゃねえか……」
虎の言葉に拝島は憮然とするが、虎は気にせずひらひらと手を振った。
「いやまそりゃそうだけどさ、お前を慰めてやってんだよ。ぶっちゃけ、遅刻したのはハイジマの自業自得じゃねえか」
「う。そ、その通りだ……」
虎に正論を言われてがくりと拝島はうな垂れる。
燔渡の意地の悪いやり方は気に入らないが、それでもその原因を作ってしまったのは自分の方である。そこに関しては何と言われても言い返せない。
アルコールも手伝って拝島は一気にずーん、と重い気分になってしまった。
「ま、まあ元気出せって。なんとか首の皮一枚繋がって良かったじゃねえか!」
暗くなってしまった拝島を見かねたのか、虎が明るい声を上げた。
だが拝島の気持ちは晴れない。ぶつぶつと拗ねたように愚痴る。
「ちっとも良かねえよ……。特別課題ってさ、来週の土曜にアイツの研究室の掃除をさせられんだぜ……。休日だってのに……。くそ、ハンドの野郎、完全に思い付きでやらせやがって……」
「んー。掃除で留年避けられたんなら却ってよかったんじゃねえの?」
虎は意外そうな顔をする。燔渡にもっと無理難題を言いつけられたのかと思っていたらしい。
拝島はばっと顔を上げる。
「いやいや!何言ってんだ!なんであんな野郎の部屋の掃除なんか俺がしなきゃいけねえんだ!俺はハンドの野郎の利益になることなんか絶対やりたくねえし!」
拝島は拳を握りしめて強く宣言する。ハイエナという種族柄、ただでさえ垂れ目の拝島であったが、さらに目元がとろんとしている。ビールで少々酔っているようだ。
普段から顔に感情が出やすい彼であるが、今夜は燔渡教授に対する想いがもろに出てしまっている。つまりは、大嫌いだ、という感情が。
今日の一件で、拝島はあの大型犬のことをさらに毛嫌いするようになってしまったらしい。
「あ、そ、そうなのか?それは悪かったよ、うん……」
対する虎はまだあまり酔いが回って無いらしく、テーブルに乗り出してきそうな拝島の剣幕にやや引き気味である。
ハイエナは浮かせていた腰を下ろすと後ろに置いてあったバックパックから、ごそごそと一枚のプリントを取り出した。
「しかもよお、このレポート課題が完全に意味不明なんだよ……」
「へえ、見せてみ」
拝島に渡されたプリントに目を通して、虎は眉根を寄せた。
「えーとなになに、『問1。慣性系において、質量Mの物体Aと質量mの物体Bが互いに相互作用を及ぼすとき――』うわめんどくさっ!なんだこれ、式の導出が問5まであんじゃねえか!……え、しかもなんだ最後の。『問6。これらから導き出された式を現実社会で利用している例について自由に論述せよ』って、ぐえ、論述レポートかよ……」
そこまで行って虎はプリントをぺ、と投げ捨てる。「――やーめた!俺は今日でテストから解放されたんだしな!」
その虎にハイエナは縋りつく。
「た、頼むよトラタニ!お前だけが頼りなんだ!俺じゃあこんなもん解けねえ!」
拝島の言葉に虎は目を剥いた。
「アホかハイジマ!やっぱり俺に解かせようとしてたのかよ!」
「違う違う!お前は困っている友人を見捨てらんない、友情に熱い男って俺知ってるから!」
勝手にそんなことをのたまうハイエナの額に、虎はずべしとチョップを食らわす。
「むーり!無理!俺、明日から部活の試合で遠征だし!」
「そこを頼むよお、トラタニぃ!」
拝島は甘えるように声を上げるが、虎は首を横に振った。
「無理だって!こんなの一日で終わるレベルじゃねえし!諦めろ!……ほれ、お前が留年したって、友情に熱い俺は今まで通り仲良くしてやっからさあ」
虎はニヤリと笑ってハイエナの頭をよしよしと撫でる。
からかわれた拝島はむっとした。
「てんめー!このアホ虎!鬼!悪魔!」
拝島が虎を本気で罵倒して、酔った勢いもあって一発お見舞してやるつもりで飛びかかろうとした時――、
「――たっだいまー!」
玄関から明るい声が響いてきた。
拝島ははっとして自分の座っていた席に戻る。虎がルームシェアをしている相方が帰って来たのだった。
がらがら、とキッチンと居間をつなぐ引き戸が開けられる。
そこに立っていたのは、被毛はぼさぼさで肥満気味、黒縁眼鏡をかけた狼獣人である。元来は灰色の被毛だったろうに、ところどころに白髪が混じっているのと中年にも似た体型、さらにはよれよれのシャツのせいで老けて見えて、年齢不詳な風体であった。
古風なことに、狼はブックバンドで教科書やらノートを縛って抱えていたが、彼の纏った雰囲気と相まってそれが妙に似合って見える。
「すいません、お邪魔してます」
拝島は狼に向かってぺこりと頭を下げる。
仲良くなってすぐの頃の虎に、一緒に住んでいるルームメイトだと紹介されたために、拝島にとっては狼も顔なじみである。拝島と虎と狼の三人で酒を飲んだことも何度かあった。
「おー、こんばんは!ハイジマくんが来てたんだなっ!ひっさしぶりぃ!」
狼はそう言って顔を綻ばせる。見た目は少々怪しげだが、狼が悪い人物でないことは拝島にも分かっていた。いつも拝島の来訪を歓迎してくれるのだ。
「さっき豆乳が安かったから買って来たんだけんど、ハイジマくんもお一つどうだいっ?」
狼はそう言って、手にしていたスーパーのビニール袋から黄緑色のパックをひょいと取り出して拝島に差し出した。
「……や、お、俺は遠慮しときます」
なんで酒飲んでる時に豆乳なんだ、と拝島は内心ツッコむ。
こんな風に、この狼にはちょっと変わったところがあるのである。……繰り返すが、決して悪い人物ではないのだが。
「先輩、なんでそんなもん買って来てんだよ……自分じゃどうせ飲まねえだろ……」
虎はそう言ってため息を一つつき、「今日は随分早かったじゃねえか。例のプレゼンは出来たのかよ」
狼に気安く呼びかける。
彼ら二人は高校からの付き合いらしく、狼は虎の先輩なのだそうだ。ルームシェアをしているくらいだから二人は余程気が合うのだろう。
「んー。完璧に仕上げてたつもりだったんだけんど、今日教授に観て貰ったらえらいツッコまれちまって。まあ今回はやり直しだなあ」
そう言って狼は頭を掻く。
だが、言葉の内容とは裏腹に、狼はどことなく嬉しそうでもあった。
「……?先輩、なんか嬉しそうじゃんよ」
虎の言葉に狼はにやりと笑う。
「いやあ、今日腹を割って話してみたら案外教授が俺と気が合うってことが分かってよ!なんか色々な話が出来そうなんだよなあ」
「んん?そういや先輩、前に教授と喧嘩したとか言ってなかったっけか……?」
虎が首を捻る。
その話は拝島も聞いたことがあった。5月の中ごろに三人で飲んだ時に、カクテル一杯で酔っ払ってしまった狼が怒りに震えていたことがあったからだ。
(あんのジジイはなんにも分かってないんだなっ!全然俺とは意見が合わないんだなっ!)
とかなんとか。
狼は虎の方を見ると、「ぎ、ぎくり」などと言いながら、決まり悪そうに舌をぺろりと出した。
「……あー。コウイチには言ってなかったっかい?俺、前の教授と大喧嘩して志望ゼミを変えたって」
狼はなんでもないように言ったが、虎はがくんと大口を開いた。
「はああああ?なんでお前はそういうこと勝手にやんの!?つうかそんなこと出来るの!?」
ゼミ、とは要は一人の教授の下に集まって行われる勉強会みたいなものだ。普通はそう簡単には変わったりできないはずなのだが、狼はそれをやってのけたらしい。
虎の言葉に狼は頬を膨らませる。
「お、お前って言うな!俺の方が先輩なんだなっ!この時期なら出来るし!」
「うっせえバカ狼!やってることはいっつも子供みてえなくせに!」
虎と狼の遠慮の無い言葉が部屋を飛び交い、拝島は肩を竦める。
まあいつものことだ。
喧嘩するほど仲がいいとはよく言ったもので、以前からこの虎と狼はくだらないことでよく言い合いをするのである。結局それだけ遠慮なしに言い合える相手同士、ということなのだ。だから二人でルームシェアをしているのだろうし。
あんまり仲がいいので、拝島はこの二人は付き合っているんじゃないかと思ったこともある。
「……んで、先輩。今度はどこのゼミに入るんだよ」
ひとしきり言い合いをした後で、諦めたような顔の虎の質問に、狼はドヤ顔をして答える
「ふっふふーのふー!今度の教授は1年生も教えてるらしいから、二人も名前くらいは知ってるかもしんねえなあっ」
狼は勢い余って言うものだから、1がいっち、と聞こえてしまった。「――燔渡ゼミっていうところなんだけんど、二人は知ってっかね?」
虎とハイエナは顔を見合わせた。
――なんという偶然か。
もしかしたら、狼は拝島の救世主かもしれない。
拝島は、今度は狼の脚にがばりとしがみついた。
「先輩!お疲れのところ申し訳ないんですが、俺を助けて頂けないっすか!?」
「ええっ?なんだなんだ?どうしたハイジマくんっ?」
*
――そして15分ほど後。
部屋の中には狼の明るい笑い声が響いていた。
「なっはっはっは!そいつぁいかにもハンドくんらしいんだなっ!ハイジマくん、ドンマイ!」
狼は楽しそうだが、当事者の拝島としてはちっとも面白くない。
「笑い事じゃあねえっすよ……っていうかハンドくんって……」
拝島が今日の試験に遅刻してしまったことや、その時の燔渡に言われたこと、さらには特別課題やレポートのことを話すと狼は笑い出してしまったのだ。
だが、拝島は狼の態度に怒るよりも、燔渡のことをくん付けで呼ぶ狼の豪胆さに驚いていた。アイツは君付けで呼ぶほどカワイイ人物でもあるまい。年齢的にも外見的にも。
「まあまあ、掃除くれえで済めばよかったでねえの。ハンドくんの趣味のもんを壊したりしなきゃあ大丈夫だって」
狼は虎と全く同じことを呟いてうん、うん、と一人で頷いた。
「……あとさ先輩、これもちょっと見てやってくんねえ?俺にもさっぱりで」
虎が、先程のレポートの課題が書かれている紙を狼に渡す。
狼はそれを受け取ると、眼鏡を直してプリントに目を落とした。
その時の狼は一見真面目そうな顔つきをしていたが、よく見ると文字を追う狼の瞳が楽しそうにわくわくと輝いているのに拝島は気付いてしまった。
(や、やっぱりこの先輩は変人だ……!)
と認識を新たにする。
この狼、かなりの物理オタクなのである。
大学受験の際のセンター試験も二次試験も、物理だけは満点で合格したという話だった。二年生である彼がこの時期に早くもゼミに出入りしているのも、単に彼の趣味らしい。もっと高度なことが勉強したいだとか何だとか、わざわざ教授陣に訴えたというから大したものである。遊びたい盛りの拝島には、狼の思考回路が少しも理解できないが。
そして今回も、たったの数十秒で狼にはこの問題が解けてしまったらしい。
満足そうに顔を上げて、拝島に向かってニコリと笑った。
「いやあこれも随分ハンドくんらしい素直な問題だなっ!簡単簡単!こいつは、“円制限三体問題”っつーヤツだ」
「え、エンセイゲンサンタ……?」
初めて聞く言葉に、拝島はオウム返しに言葉を繰り返す。
狼はこくりと頷くと
「まあ知ってるか知らないかで難易度はだいぶ変わるかもしんねえなあ。これ、ハンドくんの趣味とも関係あるんだけんど」
「はぁ」
拝島は曖昧に返事をしながら、
――アイツの趣味とかそんなものはどうでもいいけどよ……、と心の中で吐き捨てる。
そんなマイナスの感情がハイエナの表情に出ていたらしい。
狼はとりなす様に、
「まあそんな嫌そうな顔しなさんなって。ハンドくんほど分かりやすくてちょろい人もなっかなかいねえからなあ、あの人の趣味について調べてレポート書いたら、多分簡単に“優”が貰えると思うぞ?……まあ俺にまっかせておけば大丈夫だっ!」
と得意気に胸を張ったのであった。
[newpage]
2
拝島がこつこつとノックを二回すると、大して待たずにそのドアは開いた。
「――ほう。お前さん、今日は遅刻しなかったようだな。またぞろ走っては来んかったのか、えぇ?」
中から出て来た黒と白の被毛の大型犬は、開口一番にそう言った。
ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら、相変わらず皮肉たっぷりである。
1週間後の土曜日、燔渡に言い渡された約束の日の朝だ。拝島は燔渡の教授室までやってきたのだった。
燔渡は、足元は靴下にサンダル、灰色のスラックスに白い半そでのワイシャツ、胸元にはネクタイ替わりなのか茶色のループタイを着けていた。顔にはお馴染の銀縁メガネと、大学で見るいつも通りの彼の恰好である。おっさん臭い。
普段と違うとすれば、手拭いを一本首にかけているくらいか。
(けっ。全く、いちいち嫌味を言ってくる野郎だぜ)
ジャージにTシャツという出で立ちの拝島は心の中でそんなことを思いつつ、
「……先日は、すいませんでした」
悔しいが単位のためである。殊勝に頭を下げた。
だが燔渡はそんな拝島の謝罪を無視して
「今日はこの部屋の片づけを手伝ってもらう。全く、それっぽっちで単位が貰えんのだからお前さんは楽でいいなあ、えぇ?ワシに感謝せえよ」
などと言ってさっさと部屋に入ってしまう。
その態度に少々憤慨しながらも拝島はそれを顔には出さないようにして、背中のバックパックから細長い箱を取り出し、それを小脇に抱えて燔渡を追いかけた。
「あの。ハンド先生」
「なんじゃ――」
拝島の方を振り向いた燔渡はあからさまに面倒臭そうな顔つきをしていたが、拝島が手にしたものを見ると途端に表情を変えた。
驚きのあまりか目を見開き、がばりと口を開いて呆気にとられたような顔をする。
「……!そ、それはっ……!」
ごくり、と大型犬が唾を飲み込むのが分かった。本人はおそらく意図していないのだろうが、その背中では尻尾がはしたなく横に振られていた。
「――今回ハンド先生にご迷惑をかけたお詫びに、と思いまして。つまらぬもので恐縮ですが、どうぞ」
昨晩何度も練習したので口からはすらすらと言葉が出て来た。拝島は手にしたものを恭しく燔渡に差し出す。
その白木で作られた箱には、『純米大吟醸 伯楽星』と書かれている。地方名産の、少々高級なお酒である。わざわざ今日の日のためにネット通販で手に入れたのであった。
燔渡は旨い酒に目が無い――というのは、狼がくれた情報だった。
(今度会う時に、お土産としてちょっとイイお酒を持ってくと多分ハンドくんは相当機嫌が良くなると思うんだなっ)
(え。そんな、モノで釣るみたいのでいいんすか……?却って機嫌悪くするんじゃ)
(なっはっは!ハンドくんはそこまで深く考えねえだろから、素直に喜ぶと思うぞっ)
(ま、マジっすかね……?)
狼のアドバイスは半信半疑だったが、土産というアイデアは悪くないと思って一応買って持って来てみたのだ。
そしてそれはどうやら正解だったようだ。どう見ても目の前の燔渡の表情が先程までと違う。嬉しそうだった。
意外や意外。
あの燔渡教授に、こんな一面があったとは。
いつも眉根に皺を寄せたような顔をしているのに、こんな開けっぴろげに喜色満面の表情をすることがあるなんて驚きだった。
拝島の手からおずおずと箱を受け取る燔渡は、まるでクリスマスプレゼントを貰う子供みたいに期待と喜びに満ちた目をしていた。思わず笑いそうになってしまったが、拝島は耐えた。
その辺りで、燔渡も表情が綻んでいるのを間近で拝島に見られていることにようやく気付いたらしい。壮年の大型犬は酒を受け取るとはっとしたように急に厳めしい顔つきになり、不機嫌そうに眉根を寄せた。
「ふ、ふん……。まあ、貰っといてやるわ。こ、これは冷蔵庫にでも入れとくでな」
そう言い残していそいそと教授室の奥へと一旦消えた。
だがぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、燔渡は日本酒を大事そうに胸に抱えていたし、相変わらず背中の尻尾は横にぶんぶんと振られたままだった。
(――ハンドくんほど分かりやすくてちょろい人もなっかなかいねえからなあ――)
狼の言葉を思い出して、拝島は再び笑い出しそうだった。
*
燔渡のご機嫌取りという意味では、この日は好調な滑り出しだった。
だが、燔渡の研究室――教授室と資料室の掃除はなかなかに骨だった。
どうやら彼は教授になってから一度もまともな掃除をしていなかったらしく、そこへ次から次へと資料を積んでいくモノだから、まるで地層のように本やら紙束やら小物やらが折り重なっているのだった。
それがなにしろ数年分。かなりの量が堆積しているのである。
燔渡は手拭いを頭に巻いてやる気を出しているようだったが、なるほど、確かに気合を入れなければ掃除もしたくないだろう。それくらいに彼の部屋は埃と書物とモノに溢れ、雑然としていた。
おまけに、燔渡は掃除が壊滅的に下手だった。
拝島に向かって的外れな指示ばかり出して来るので、作業は全く進まなかった。
「いいか、お前さんはそっちをやれ」
「え?いや教授、ここじゃなくてまずはあっちをやった方が……」
「阿呆!あれを抜いたらそこの山が崩れるに決まっとろうが!まずはここからじゃろうが、えぇ?」
「えっと……。いや、教授、待って!そこはバランス的に絶対まずいですって!まずは簡単なとこか」
「――ぬおおおおおおお!?」
「……だーから言ったじゃねえかよ……」
拝島の制止を聞かずにうず高く積まれた資料を崩してしまい、本の山に埋もれた燔渡を引っ張り出して助けたり(そのまま生き埋めにしてやろうかとも思ったが)、
「ちょ、ハンド先生、そんなに大量に持てるんすか……?」
「阿呆。これくらい余裕じゃ」
「いやでも、本って案外重いですし……」
「いちいちうるさいなお前さんは。お前さんみたいのとワシは身体の作りがちが……うおっ!?」
「あっぶねえ!」
「むぐっ。……べ、別にお前さんなんかの手を借りんでもこれくらい持てたんだぞ……!」
「……知ってますよ、先生は力持ちですから。ただ、ちょっと心配だったんで」
「ふん、ならばええわ」
本の詰まった大量の段ボール箱を一気に持ち上げようとして、バランスを崩して転びそうになった燔渡を支えてやったり(そのまま見殺しにしてやってもよかったのだが)、
「先生!そっち!そこの上!」
「む?どこじゃ」
「だーから!先生の側の上のとこ!左!」
「こっちか?」
「違う!俺から見て左!あっ、ぶつかるっての!」
「む、見えんぞ……。――うおっ!割れた!」
「……」
「……」
「……あちゃー」
「……そんな声を出すな。ワシの方が背ぇ高いんじゃから仕方ないだろうが」
「……そういう問題っすか?」
二人で本棚を運んでいて、天井のから釣り下がった電球に本棚の角をぶつけて見事に割ってしまったり(燔渡は、自分の非を絶対に認めようとせず拝島のナビが悪いと言い放ったが)、極めて非効率的に掃除は進行した。
だが日本酒の土産のおかげか燔渡も機嫌を損ねることなく、拝島も理不尽に怒鳴られるようなことも無かった。
そのうちに拝島も燔渡の言動に次第に慣れてきた。燔渡のことを、図体ばかり大きな子供みたいなものだと思えば腹も立たないことに気付いた。
実際に燔渡はそんな感じなのである。きっと自分の感情を素直に表に出し過ぎなのだろう。
嫌なことは嫌だと思ったことをすぐ口に出してしまうし、自分が悪いなんてことは認めたくないのだ。まさに子供だ。
逆に、ちょっと褒めてやれば尻尾で機嫌をよくしているのが丸わかりなので、拝島も段々と燔渡の扱いが分かって来た。
燔渡も慣れないなりに掃除の仕方が分かってきたようで、少しずつ二人の作業のペースは上がった。
しかし既に暦の上では夏。
埃が凄いので冷房を使わず窓を開け放しただけで狭い室内で掃除をしていたので、昼前には二人とも汗だくになってしまった。
*
「ハア、ちょっと、休憩、じゃ……」
大型犬は舌を垂らしてはっはっ、と荒く息をついていた。頭に巻いた手拭いを解くと、それで顔を拭き始める。燔渡の胸元の白い被毛が一部、埃で茶色に薄く染まっていた。
先祖がサバンナ生まれの拝島だって暑いのだ。元々の血筋が北方の燔渡はさらにしんどいに違いない。もふもふとした暖かそうな毛並みも冬にはいいかもしれないが、この季節には見ているだけで暑苦しいくらいだ。
燔渡は壁に立て掛けてあったパイプ椅子を手に取ると、一つを広げそこに座ってぐったりとしていたが、何かを思いついたようにおもむろに拝島に向かって手招きをした。
ハイエナが寄って行くと、汗で被毛を濡らした大型犬は言いにくそうに口を開いた。
「……お前さん、名前はなんといったか」
「えっ」
今まで覚えてなかったんかい!と拝島は思ったが、またそれが彼の顔に出てしまったらしい。
燔渡は眉を潜めて、少々決まり悪そうに床に目を落とした。
「そんな不満そうな顔をするな。ワシとて毎年数百名の学生を見とるのだ。いちいち一人一人覚えてられると思うか、えぇ?」
いつもの強い調子でそう言ってから、大型犬はぼそりと呟く。「お前さんらはすーぐ卒業でいなくなっちまうし、もうワシも歳だしなァ……」
ほんの少しだが、付け加えた一言は寂しそうな声音に聞こえた。
彼らしくない。
いつもの厳格で強気な燔渡とのギャップに、拝島はドキリとしてしまった。
茶化すのも悪いような気がして、拝島は額の汗を拭ってゆっくりと答えてやった。
「……ハイジマ」
「ん?」
小さく呟いた拝島の声に、大型犬がそのデカい顔を上げる。
「俺――私は、拝島、日出といいます」
その一言に、何故か燔渡は小さく笑った。
だがそれはいつもの燔渡の、馬鹿にしたような不愉快な笑いではなかった。
柔らかで、嬉しそうで、生徒を見守る教師のように暖かな微笑み。
初めて見る燔渡の表情だった。
「なるほど。……お前さん、親御さんに良い名を貰ったな、えぇ?」
その落ち着いた声に、また拝島の心臓が跳ね上がった。
日出、という一風変わった名前は子供の頃にバカにされたことはあっても、手放しで“良い”などと言われたのは初めてだった。
率直な言葉は逆に衝撃的で。
燔渡に褒められたことも。
燔渡のこんなに優しそうな顔を見るのも。
拝島は何と返事をしていいか分からず、背中の辺りがこそばゆくて毛並みを逆立てて立ち尽くしてしまった。
だがそんな拝島の様子にはまるで気付かないようで、燔渡は尻のポケットから草臥れた財布を取り出すと、小銭を幾つか摘まんで拝島に渡した。
「ヒノデ。すまんが、ちょいと飲み物でも買って来てくれんか」
そう言いながら、彼は胸元のポケットから煙草を取り出し火を点けると、心底美味そうにそれを吸いつつ窓の外を眺めて始めた。
“すまんが”。
燔渡らしくない神妙な物言いの頼み方に、思わず拝島は強く頷いてしまった。
失礼します、の挨拶もそこそこに、拝島は教授室を飛び出す。
(俺、アイツに初めて名前呼ばれたのかよ……)
そう考えて、なんだか気恥ずかしさを覚えながら。
*
大学前のコンビニにやってくると、バスケ部の虎に出くわした。
頭にスポーツタオルを巻き、タンクトップに斜め掛けのエナメルバッグという出で立ちである。どうやら練習帰りらしい。虎は同じバッグを提げた獣人たち数名と一緒にアイスを食っていた。
「うーっす。どうよハイジマ、ハンド教授のお掃除教室は」
拝島を認めた虎はそう言って、にぃ、と面白そうに笑っている。
ギラギラとした太陽の下、虎の筋肉質な体躯は健康的である。
埃まみれの自分の姿を見下ろして、拝島は大げさに息をついた。
「どうもこうも! アイツ、片付けが致命的に下手すぎてよ……ありゃ一人じゃ掃除も出来ねえわ」
「あ、なんかわかるわ。ハンド教授は世捨て人みてえな雰囲気だからなあ。いかにも研究者っつうか。家事とか苦手そうだよなあ」
そんな虎の言葉を聞きつけたのか、近くにいた強面のハスキー犬がこちらに寄って来た。
エナメルバックを肩に掛けた恰好を見るに、彼も虎のバスケ仲間らしい。ハスキー犬が虎と一緒にキャンパス内を歩いているのを、拝島も数回見たことがあった。
「ハンドってさ、あの物理の教授っしょ?学生にすっげー嫌われてるらしいよなあ」
ハスキーが嬉しそうに口を挟んで来る。
「そうそう、全然講義が面白くなくてよ、おまけにテストは難しいし――」
「ゼミも入りたがる人が集まんねえとか聞いたなあ!」
ハスキーと虎は燔渡の悪口で盛り上がり始めたが、どうしたことか、今の拝島はそれに加わる気が起きなかった。いつもの拝島なら喜んでその話に乗っていただろうに。
何故か彼らの楽しそうな声を聞いていると胸がモヤモヤとした。
――あれ?なんでだ?
と思った。
拝島はしばらく黙ってそこにいたが、居心地が悪くて、
「……わり、俺もう行くわ」
そう言ってコンビニへと入って行った。虎とハスキーの楽しそうな声が聞くに堪えなったのだ。冷房の利いた店内で燔渡へ買う飲み物を選びながら、拝島は考える。
自分の感情の変化を。
つまりは自分が燔渡を悪く言うのも、誰か燔渡を悪く言っているのを聞くのも嫌だったのだ。
いつの間にか燔渡へのマイナスの感情を忘れかけていた。
先程耳にした、壮年の大型犬の落ち着いた声が耳にこだまする。
(――お前さん、親御さんに良い名を貰ったな)
そんなことを言われたせいかもしれなかった。
一緒に協力して作業なんかをしたせいかもしれなかった。
あんな優しげな顔を向けられたせいかもしれなかった。
ちょっとでも、燔渡をいいヤツかもしれない、などと思ってしまったのは。
「ちぇっ……」
拝島は一人舌打ちをする。
ちょろい、のは自分の方かもしれない。たった数時間だけのことで燔渡に気を許してしまったような気分になっていた。
アイツは偏屈で皮肉屋で、嫌なヤツなのである。いい年をして子供みたいなヤツなのである。碌に部屋の片付けも出来なような、生活力の無いヤツなのである。
自分にはアイツを庇うつもりも、アイツと仲良くする気も毛頭ない。
後で、虎やハスキー犬と一緒になって燔渡のことを思い切り罵倒してやろう、と思った。
……だが拝島が飲み物を買って店の外に出ると、バスケ部の面々は既に帰った後だった。
*
拝島がコンビニから戻ると、教授室の中からは怒鳴り声が響いてきていた。
そっとドアを開けると、燔渡が何やら机の上の固定電話に向かってがなり立てているのが目に入った。
「――いいからさっさと持ってこい!ワシが食いたいと言っとるんだ!金はいくらでも払ってやるわ!こんの阿呆めが!」
そう一声吼えると、燔渡は叩きつけるようにがちゃんと受話器を置いた。
(うお、やっぱこええなあこの人……。ロクでもねえわ)
久しぶりに燔渡の怒鳴り声を聞いたような気がした。妙な話だが、拝島はなんだかそのことに安堵する。
拝島が恐る恐る部屋に入り、ペットボトルの茶をそっと目の前に差し出すと、燔渡はそこでようやく拝島が帰ってきたことに気付いたらしい。
「おおヒノデ、ご苦労だったな。お前さん、昼は寿司でいいか。全く寿司屋のヤツは休日で混んどるから遅れるなどとふざけたことを言いよってな!」
「えっ」
燔渡の言葉に、面食らってしまった。
(ご苦労様!?寿司!?)
燔渡の口から労いの言葉が出て来たことにも驚いたし、どうも今の電話は寿司の出前を頼んだらしいことにも気づいたからだ。
そんな拝島の反応に、燔渡は口を尖らす。
「……なんだヒノデ、お前さん寿司は嫌いか」
「いや、え、あの、俺そんな金、持ってないですし……」
もごもごとした拝島の言葉に、燔渡は途端に不機嫌そうな顔になった。
「阿呆。誰がお前さんみたいな貧乏学生に金を払わせるか。ワシの奢りだ」
「や、え、でも」
遠慮というか。だが燔渡に奢ってもらう義理が無いし。借りを作りたくないというか。
いやしかし寿司を食えるのは嬉しいのだが。でもいいのかにっくき燔渡に奢ってもらって。
(――ていうかさハンドの野郎、俺のこと嫌いじゃねえの!?)
混乱して、拝島はたじろいでしまった。
「ふん、今どきの若者にしては珍しく遠慮しいだなヒノデ。あんないい酒を貰っておいて、お前さんをただで返すわけにはいかんだろうが、えぇ?」
「や、でもあれは……その……先生にご迷惑をかけたわけですし……」
あの酒は燔渡のご機嫌を取るために持ってきたんですけど!とはさすがに口が滑っても言えない。
「ふん、どうせワシは独りもんだ。金の使い道にとやかく言う女房もおらんからな、遠慮せず食ってけ」
そう言って燔渡は、ごくごくと喉を鳴らしてペットボトルの茶を飲み干した。
*
出前の寿司は非常に旨かった。
空腹なのを差し引いたとしても、これはかなりの高級寿司ではなかろうか。
あまり美味しいので、夢中になって黙々と食べていた拝島だったが、
「味はどうだ、ヒノデ」
目の前に座っている燔渡にそう声を掛けられ、慌てて口の中のモノをお茶で飲み干して返事をする。
「め、めちゃくちゃ美味いっす」
褒めたつもりだったが、燔渡は不満げに鼻を鳴らした。
「……ふん、当たり前だろが。ワシが贔屓にしとる店の、一番の特上寿司だからな」
「ぐえ、と、特上っすか!?」
驚いてむせ掛けた拝島に、燔渡はここぞとばかりにニヤリと意地の悪い笑みを向けた。大型犬はちょっと得意そうだった。
「お前さんら貧乏学生にはそうそう食えん代物だ。よく味わっとけ」
そう言って自分も中トロを口に運び、満足気な顔をしている。
わざと拝島を驚かせて楽しんでいるようにも見えた。
「あ、ありがとうございます……」
燔渡に馬鹿にされているような気もしたが、今回はそんなに悪い気はしなかった。
まあいい寿司を食わせてもらったからしょうがねえかな、と拝島は自分に言い聞かせた。
昼食後に作業を再開した。
二人とも慣れて来たのか、部屋の大半のスペースを占めていたガラクタが減ってきたこともあって午後の作業はだいぶスムーズに進んだ。
15時頃になると、あとは資料室に積まれた段ボールを移動させるだけになった。
「ヒノデ」
拝島が古くなって不要になった学会誌を紐で縛っていると、燔渡が呼びかけて来た。
「はい、なんすか」
「例のレポートを見せてみろ」
そう言って燔渡は顎をしゃくる。「お前がここの段ボールを運んどる間に目を通しといたるわ」
拝島が十数枚のレポート用紙を持って来て渡すと、燔渡は片耳を上げ眉間に皺を寄せ、マズルの端を歪めてレポートの表紙を眺めた。いつもの燔渡の、悪意のある顔つきだった。
燔渡はその表情のままちらりと拝島の顔を見ると、
「……これでお前さんの合否が決まると思うとワクワクせんか?下手をしたらお前さんの一生を左右するかもしれんぞ、えぇ?」
などとまたまた意地の悪いことを言う。その目は嬉しそうに爛々と輝いており、脅かすように拝島を睨みつけてくる。
いつもの拝島だったら、ここで怯えて狼狽していたのかもしれない。
だが今日一日を燔渡と一緒に過ごした拝島は、彼の言葉や態度に慣れてしまっていた。そのせいか、思わず頭の中に浮かんだことをあまり吟味もせずに、つい口から出してしまった。
「いやいや、いいから読んでみてくださいよ先生。それ、結構自信作っすからね」
最後まで言い切ってから、拝島は生意気を口にしたことに気付いてはっとマズルを抑えるが、出てしまった言葉はもう戻らない。
しん、と室内に沈黙が落ちた。
(――し、しまった、怒らせたか!?)
燔渡は、予想外の言葉に虚を突かれたのか目を丸くして拝島のことをじっと見つめていた。
その目が自分を睨んでいるように感じて、拝島の背中から冷や汗が噴き出す。
恐怖のあまり頭がフル回転して、燔渡の一挙手一投足がスローモーションのように見えた。
大型犬はしぱしぱと瞬きを二回すると、肩を怒らせた。
全身の毛並みを逆立てると、すう、と大きく息を吸い込む。
くわっと大口を開いたのが分かった。
(やっべえ、怒鳴られる!)
拝島は反射的に、ぎゅ、と目を瞑り身を竦めた。
――だが、
「だっはっはっはっは!」
聞こえてきたのは笑い声だった。
驚いて目を開けると、目の前で燔渡が大笑いしていた。
――あの燔渡が。
――笑っている。
今度は拝島の方が目を丸くする番だった。
「はっはっはっは!なかなか生意気を言うな、ヒノデ!――近頃の学生はな、ワシのことを怖がってばかりで、お前さんのように自信たっぷりにレポートを出して来るモンはそうはおらんぞ、えぇ?」
笑いを収めると、目尻に浮いた涙を拭いながら燔渡はそう言った。
その顔は随分と嬉しそうに見えた。
訳が分からない。
「い、いや、俺ってば、先生に失礼なことを……」
拝島は頭を下げるが、燔渡はひらひらと手を横に振った。
「ふん。根拠の無い自信というのも若い時分の特権じゃ、気にせんでええ」
そう言う燔渡はどこか懐かしそうな目つきをしていた。そしてこう言い添える。「……だがなヒノデ、言ったことには責任を持てよ。こいつがワシの眼鏡にかなわんような出来じゃったら――その時はわかっとるな?」
燔渡は手にしたレポート用紙を丸めると、ぽん、ぽんと拝島の頭を叩いて片眉を上げる。
先程とは打って変わって、お馴染みの燔渡の顔に戻っていた。学生を落とすことを生きがいとしているような、嫌われ者で、捻くれ者で、偏屈な教授の顔に。
だが拝島の言葉にも嘘は無かった。
(これだけ書けば、絶対ハンドくんは合格にしてくれるんだなっ!)
この一週間、虎の先輩の狼――燔渡ゼミに出入りしている狼に散々付き合ってもらって答え合わせをしてもらったのだ。自分でもわざわざ図書館に行き、幾つか専門書も読んだ。何度書き直しをしたか分からないが、自分が書いたレポートの中でも一番いいモノが書けたような気がする。
燔渡の求める答えに、必ず辿り着いている自信があった。
負けたくなかった。
「……勿論です。このレポートは今までで一番頑張りましたから」
拝島はわざと胸を張ってそう言ってやった。
その応えに、燔渡はまた不敵にニヤリとした。
「ふん。……あとでお前さんが泣きついてくるのが楽しみじゃがな」
燔渡はそう言って教授室の奥へと歩いて消えて行った。
だがその言葉は皮肉というよりも、好意を抱いている相手に素直になれない子供のそれのようにも聞こえた。
好きな相手にちょっかいをかけてしまう年端もいかない少年。
もしかしたら、燔渡が今までついていた悪態もそういう意味合いだったりして。
実は燔渡は、学生への接し方がよく分からないだけなのかもしれない――
そんなことを考えている自分に気付き、拝島は肩を竦める。
その考えはあまりに燔渡に肩入れしすぎている気がした。
(アイツに限って、んなまさかな。……ったく、ホントめんどくせえおっさんだぜ……)
ふう、と一つため息をつくと、拝島は作業に戻った。
*
だが、陽が傾く頃になっても燔渡は教授室から戻ってこなかった。
あれから2時間はたっぷり経過している。学生一人のレポートを読むにしては、ちょっと遅すぎやしないだろうか。
(まあ、まだこっちも全部終わってねえんだし、いいけどさ)
拝島はそう思って伸びをしつつ部屋を眺める。
とは言うものの資料室の片付けも終盤である。あと十数個の段ボールを運びだしさえすれば、どうにか形にはなるだろう。
「よっと」
拝島が掛け声とともに、棚の上に重ねてあった段ボールを持ち上げると、
「……ん?」
見慣れない物体がそこに置かれているのに気付いた。結構目立つモノなのに、今まで段ボールの影にあって気付かなかったらしい。
「なんだっけ、これ」
拝島は顔を寄せてそれを見つめる。
……それは台座に乗せられた銀色の金属球だった。
直径は15cm程度。鏡のように磨き抜かれた表面には、拝島の黒い鼻面が歪んで写り込んでいる。その側面からは、四本の針金のような細長い金属の棒が斜め下方向に伸びている。
それはまるで大地に向かって尾を引いているようで、金属球が空に向けて飛び出そうとしているようにも見えた。
全体を眺めていると、天へと向けて金属球が疾走しているような不思議な感覚を覚える。
何かの実験に使う機器だろうか。
夕暮れの資料室で拝島は首を捻る
――これ、どっかで見たことがあった気がする。
だが確かに見た筈なのに、頭の隅にひっかかって出てこない。
おそらくそんなに昔の話ではない。新しい記憶である。
そう、ここ最近だ。
……確か、レポートを書くために数日前に読んだ本の中の挿絵だか写真だかで――
……なんだっけ。確かこれが二大国のナントカカントカ競争の引き金になったとか――
「――そいつはな、スプートニク1号。そのレプリカだ。お前さんも知っとろうが、それこそが世に言う“スプートニク・ショック”を引き起こした張本人じゃな」
唐突に後ろから低い声が聞こえてきて拝島が振り向くと、ドアのところに腕組みをした燔渡が立っていた。
窓から差し込む真っ赤な西日を受けた大型犬は、眩しそうに目を細めた。
「……ヒノデ。お前の自信作、読ませてもらったぞ。ワシの出したあのレポートの意図、わかったようじゃな、えぇ?」
燔渡は満足気だった。
表情も声もいつもの学生を責めるようなそれではなく、ずっと穏やかだ。
それは拝島が提出したレポートの解答が間違っていなかったことを示していた。
拝島はこくりと小さく頷く。
「最初は何のことか少しもわからなかったんすけどね。『問1。慣性系における、質量Mと質量mの2物体の相互作用』の話……」
そこまで言ってから、拝島はゆっくりと噛んで含めるように「……あれってつまり、天体の動きの話だったんですね」
静かに答えた。
質点同士の相互作用。つまりは万有引力のことだ。
質量を持つ全ての物体が持ちうる、互いが互いを引き合う力。
過去の科学者が、木からリンゴが落ちる様を見て着想したという力。
星と星が互いに影響しあう、目に見えない力。
それはつまりは宇宙の話。
圧倒的なスケールで語られる、暗黒空間に浮かぶ星々の話。
それこそが狼の言っていた、“燔渡の趣味”だったのだ。
「その通り。まあそこまでならちょいと高校物理を齧っておればわかったろう?」
「ええ、そ、そうっすね……」
燔渡はしたり顔だが、対する拝島の顔は引きつる。
正直、拝島一人ではちっともわからなかった。あの狼が教えてくれたのである。
とはいえ確かにそこまでは高校物理の範疇だった。
“二体問題”、とも呼ばれる、質量を持つ二つの点の運動の問題だ。
これを用いれば、例えば地球と月といった二つの天体の動き方を説明することも予測することも出来るのである。
そこに他に天体が無いなら、であるが。
「ま、そこから先は少々意地悪だったかもしれんがなあ。天体が三つに増えた途端、一筋縄ではいかなくなるからな」
燔渡はまた口の端をひん曲げて牙を剥いて見せた。笑っているのである。なんとも楽しげに。
彼の言う通り、そこからが難問だった。
点が三つに増えた途端、問題は急に複雑になるのである。三つの天体が重力によって互いに影響し合っている時にこれらの天体の軌道を決定する問題は“三体問題”と呼ばれるが、これは一般的には解けない問題なのだ。
解くためには幾つかの特別な仮定が必要となる。
だが、そのことさえ分かっていれば燔渡のレポートの意図も見えてくるのだ。
その仮定とは、一体の質量が他の二体に影響を及ぼさないほど微小で無視できるということ。
そして、残り二体の軌道を円軌道とするということ。
この二つだ。
あの夜、虎のアパートで狼の先輩が言っていた“円制限三体問題”。
それがこれだったのだ。
拝島は、近所のファミレスで交わした狼との会話を思い出す。
(――ふっふふーのふー!これこそ!この仮定こそが!じゃじゃん!“円制限三体問題”なんだなっ!分かったかなハイジマくんっ?)
(……いやいやオイノモリ先輩、俺には全然わかんねえっすけど……)
(あやあ、そうかあ?……えーとな。つまりよ、円軌道を描く二体ってぇのはさ、惑星と衛星のことを表してるわけだな。ここまではいいかい?)
(んー。つまり、地球と、月みたいなっすか?)
(そうだなっ!そんで残り一つは無視できるくらいの質量って仮定だ。そいつらよりもんのすげえ小さくて、そんでもってその周りを動いてるモンってことだなあ)
(地球や月よりすっげえ小さいモノ……?)
(そういうの、どんなもんがあるかねっ?)
(……えーと……。それってつまりは……)
「――ではヒノデ、もう一度お前さんの口から聞こうか。『問6。これらから導き出された式を現実社会で利用している例について自由に論述せよ』。……口頭だからな、簡潔に一言で良いぞ」
燔渡が先を促す。
ここまで来れば、あとは難しいことではなかった。
狼との会話の中でも拝島はそこに辿り着けたのだ。
惑星よりも、衛星よりも、無視できるほどに小さいそれ。天体と並んで宇宙を運動しているというそれ。
拝島はおもむろに、棚の上に置かれた小さな金属球にもう一度目を向ける。
まるで遠い空を目指すかのようなデザイン。
拝島が抱いたその印象は間違っていなかった。
そうだ、思い出した。こいつもその一つ。図書館で読んだ専門書に載っていた。
人類史上初の『それ』として、恐らく最も有名なもの。
二大国の宇宙開発競争の口火を切った象徴とも言うべきもの。
拝島は一文字一文字区切るようにして、ゆっくりとその言葉を口にする。
燔渡の求める答えを。
天駆ける一筋の軌跡を。
暗黒空間をさすらい続ける孤独な飛翔物体の名称を。
「――答えは、“人工衛星”っすね?」
拝島の答えに、燔渡は大きく破顔した。
両手を大きく広げ、誇らしげに声を上げた。
嬉しそうに。祝福するように。
自力で答えに辿り着いた生徒を褒め称える教師のように。
「その通りだ、ヒノデ。ご名答だ!」