スカイフックを夢に見て 中

  妙な肥満気味の狼――狼森と出会ったその日から、寅谷は昼休みや放課後に物理準備室に入り浸る様になった。

  

  さすがに寅谷も天文物理部に入部する気はなかったが、放課後にやることの無くなってしまった彼にとっては美味いコーヒーと狼森と過ごす時間はいい暇つぶしになったし、何よりバスケットボールと全く関係のない話をしていると膝の怪我を考えなくてよかったのだ。時折狼森が実験用具で作ってくれる珍妙な菓子も面白かったし、何より狼森の語ってくれる宇宙の話はいつも壮大で無限で楽しくて、寅谷が聞いたことのないようなものばかりで飽きることがなかった。

  寅谷も自分の膝の怪我のことでくよくよと悩む時間が減り、宇宙について少しだけ興味を持つようになった。

  

  

  

  ……そうして一週間が経過した頃。

  

  

  

  「トラタニ、今日の夜は空いてるかい?」

  

  放課後の物理準備室で、狼森はそう切り出した。

  そのとき寅谷は、宇宙物理の本を斜め読みしながら狼森の淹れてくれたコーヒーを啜っていた。あと数十億年もすると太陽が膨張を始めて近くの惑星を飲み込んでしまうらしいという記事を読んでいたのだ。何とも恐ろしい話である。幸いと言うべきか、その頃にはさすがに寅谷も狼森も生きていないだろうが。

  虎は本から目を上げて

  「空いてるけどさ、オイノモリのために使う時間はねえなあ」

  ふざけてそう言ってみた。

  途端にふくよかな狼は眉毛をへの字に下げてしょぼんとする。

  「あやあ、そうかあ……」

  あからさまに落ち込んだ様子だった。

  それを眺めながら寅谷は

  (ホント面白えなあオイノモリは……)

  と思った。

  この肥満気味の狼ときたら、宇宙に関する様々な知識を溜めこんで頭が良さそうに思えるのに、この前の放課後に起こした小火騒ぎからも分かるようにやってることは案外危なっかしいし、年上のはずなのに妙に子供っぽいところがある。すぐに感情を露わにする狼森の反応がいちいち可笑しいので、寅谷はついついからかってしまいたくなるのだった。

  「冗談だよ冗談。で、今日の夜になんかあんのか?」

  寅谷の言葉がスイッチだったかのように狼森の顔が、ぱっ、と明るくなる。

  やはり見ているだけで面白い。

  「冗談なら仕方ないなトラタニっ!むっふふー。実はだなあ、今日はとある流星群の極大日なのだよトラタニくん……!」

  狼森は秘密めいた調子でそう言い放つと、胸を張って宣言した。

  

  「今夜の我々は天文物理部らしく、天体観測をしようじゃあないかっ」

  

  

  

  

  

  [chapter:スカイフックを夢に見て 中]

  

  

  

  

  

  3

  

  (……あ、しまった。そういえば昼間のアイツ、しれっと“我々は天文物理部”とかなんとか言ったぞ。さりげなく俺を部員に数えたやがったな……)

  

  午後10時20分。

  夜の高校の正門前で、私服姿の寅谷はそんなことを考えていた。狼森と待ち合わせをしているのである。

  5月も終わりに近づいているとはいえ昼夜の寒暖差は激しく、まだ日によっては夜となれば肌寒いこともある頃だ。

  くしゅん、と寅谷はくしゃみを一つする。

  春物の上着を羽織ってはきたが少々薄手だったかもしれない。ぶるり、と寅谷は身体を震わせた。

  そこへ、

  

  ぼぼぼぼ

  

  と古臭いエンジン音を立てて原付が走って来た。

  「お待たせえー」

  乗っていたのは銀色のヘルメットと黒いダウンジャケットを身に着けて、モコモコといつも以上に膨れた狼森だった。背中には茶色の大きなリュックを背負っており、その上の口からは望遠鏡の先端が覗いている。

  狼森は原付を止めると、

  「ほいこれ、トラタニの分」

  そう言って真っ赤なヘルメットをシートの下から取り出すと「悪いんだけんど、荷物はトラタニ背負ってもらっていいか?そうじゃねえと多分二人でこれに乗れねえしなっ」

  にこにこと笑いながら原付を親指で指差した。

  寅谷は驚く。

  てっきり校内で天体観測をやるものだと思っていたのだ。

  「え、アンタどこ行く気だよ。学校でやるんじゃねえの?大体、原付の二人乗りはまずいんじゃあ……」

  ちっ、ちっ、と狼森は指を振る。

  「俺の原付は二人乗りOKのヤツだから問題なし。それに、これ乗らねえとトラタニと一緒にあそこまで登れないかんなあ」

  そう言って、狼森は学校の裏山に向けて顎をしゃくる。「あそこがこの辺じゃあ一番明かりが少なくて星を見るのに最適なんだぞおっ」

  「ま、マジで山かよ……。俺、結構薄着で来ちまった」

  そう言いながら、寅谷はまたくしゃみをしてしまった。

  「あやあ、それじゃしょうがないなあ」

  言うが早いか、狼森はダウンジャケットを脱いで寅谷に寄越す。下には、彼の毛並みと同じような色をした灰色のチェック柄のシャツを着ていた。「ほい、これ着ろやトラタニ」

  寅谷は手を振って遠慮する。

  「いや、さすがにそれは悪いじゃんか」

  「気にすんなっての。俺、太ってるから結構寒いのに強いしなあ」

  「ええ?でもな……」

  「お前さんに風邪ひかれる方が嫌だから、さっさと着なってば」

  言いながら、狼森は上着を寅谷に押し付けると、ヘルメットを被り直しさっさと原付に跨ってしまう。「早くしないと置いてっちまうぞお」

  「……わかったよ、さんきゅーな」

  押しに負けて寅谷は渋々狼森のダウンジャケットを羽織ると、渡されたヘルメットを被りリュックを背負う。

  借り受けた上着は非常に暖かかった。中にはまだ狼森の体温が残っているようで、寅谷は何故かドキドキしてしまった。

  (な、何を考えてんだ俺は……)

  頭を一振りすると、寅谷は原付の後ろに座る。

  「しっかり掴まっててなあ」

  狼森が言うので寅谷はその腹に腕を回す。

  気付かぬうちに身体が冷えていたせいか、洋服越しの狼森の暖かさがより鮮明に感じられた。狼森の、狼らしくない脂肪のついた身体の柔らかな感触が心地いい。狼森の背中から、微かなコーヒーの香りと獣臭さが混じった匂いがした。

  (こいつ、意外に背中でけえのな)

  そんなことを思って再び寅谷の鼓動が早まる。

  なんだかおかしな気分になりそうだった。

  

  そんな寅谷を載せて、狼森の運転する原付はぶいん、と走り出した。

  

  

  *

  

  

  『展望台公園』と看板にはそう書かれていた。

  

  「へえ、こんなところがあったなんて知らなかったな」

  ヘルメットを取りながら、寅谷は周りを見回す。

  寅谷たちが通う高校、その裏山の中腹にある展望台。

  狼森の原付で辿り着いたのはそこに併設された公園だった。広場やアスレチックも設けられており、それなりに遊べそうだ。

  エンジンを止めながら狼森が応える。

  「原付とか自動車とか、動力のある乗り物じゃねえとここはちっと来にくいしなあ。高校生はあんまり来ないかもしんねえよな」

  狼森は寅谷の後ろに回ると、虎が背負ったリュックを取り上げ自分で背負い直した。「じゃあ行くかねえ」

  そう言って狼森はゆったりと歩き出す。寅谷も右脚を引きずりながらついていく。目指す観測ポイントは、駐車場からもう少し奥の広場にあるのだ。林の中の遊歩道を10分程歩かなければいけなかった。

  だが、狼森の歩みは遅いので寅谷がついていくには全く問題が無かった。

  (……もしかして、オイノモリなりに俺に気を遣ってくれてんのかな)

  寅谷は考える。

  先程もわざわざリュックを受け取ってくれたし、自分と歩く時の狼森はいつも非常にスローペースな気がした。

  普段の彼を見ていると、そこまで気が回るタイプには思えないが――

  

  「……そういえばさあ、トラタニは知らないだろうけんど」

  

  前を歩く狼森が口を開いた。

  「なんだよ」

  「ここってさあ、アベックの逢引きの聖地なんだよな。深夜に来ると、結構頻繁にチョメチョメな現場に遭遇しちゃって気まずかったりするんだけんど、本当はちょっと期待しちまうよなあっ。むっふふー」

  そう言って狼森は含み笑いをする。

  寅谷には聞き覚えのない言葉だったが、話の内容から察するにチョメチョメ、というのはどうもいかがわしい行為を指すらしい。

  前言撤回。

  寅谷は呆れてため息をつく。狼森は何も考えて無さそうだ、と思った。

  「意外だな。アンタでもそういうの興味あるんだな」

  「え?そりゃあるわい、大事な生命の営みってやつだからなあ。見つけたらじっくりと観察してやんのよ。むっふふーのふー」

  また狼森は低く笑う。

  「……なんかオイノモリが言うと気持ち悪いな。それって只の覗きじゃねーのか」

  「し、失敬なっ!あんな軽犯罪と一緒にしねえでもらいたい!科学的な観察と考察だぁっ!」

  「同じだろうが。考察って一体何する気だアンタ」

  などと賑やかに言い合いながら二人は歩いていく。

  

  そうして、広場が見えてきた頃。

  なんとなく話すことも無くなって、悪気なく寅谷は言ってしまった。

  

  「――そういやさオイノモリ。アンタってさ、実は先輩だったんだな」

  

  その途端。

  寅谷が声に出すと同時に前を歩く狼森の全身の被毛がびびび、と逆立つのが分かった。

  あまりにも過敏な反応に寅谷の方がびくりとしてしまう。

  だが狼森は何でもない風を装っているのか、寅谷の方を見もせず歩みを止めようともしなかった。

  「……え?よく聞こえなかったから、ちょっともう一回言ってくれねえか?」

  これだけ近くを歩いているのだから聞こえてないはずなかったのに、狼森はそう聞き返してくる。口調もなんだか取って付けたみたいだった。

  どうもわざとらしい。

  寅谷は頭を掻いた。

  (しまった。これってもしかして禁句だったかな)

  さすがに気軽に口にするには少々デリケートな話題だったか。狼森はあまり何かで悩んだりするタイプには見えないが、意外に彼も留年したことを気に病んでいるのかもしれない。

  そう心配する寅谷だったが、言い出した手前後には退けず仕方なくもう一度口にする。

  「……えーと、だからさ。アンタ、実は先輩だったんだなー……って」

  途端、また狼森の毛がぼぼぼ、と逆立ち、耳がぱたぱとはためく。

  「せ、先輩とか言うのはやめてくれねえかなあ……。そんなこと言われたって、ぜ、全然嬉しくなんかねえんだからなっ……」

  狼森は振り向かず、寅谷の顔を見ないでそう抗議してくる。

  だが寅谷は気付く。狼森のその声は妙に上擦っており、耳の辺りが真っ赤になっていることに。灰色の箒みたいな尻尾は、ぶんぶんと振られるのを我慢するように小刻みに痙攣している。

  (……ん?なんか俺にはすっげえ嬉しそうに聞こえるんだけど、気のせい?)

  そう思ったので、寅谷は少し黙って歩いてから、

  

  「オイノモリ、先輩」

  

  そうぼそりと呟いてみた。

  待っていたかのように勢いよく狼森が振り向く。

  

  「だーから、そう呼ぶのはやめろってのっ!俺の心はいつまでも若いままなんだよ!」

  

  怒ったような口調で言う狼森だったが、

  「――先輩、アンタ顔がニヤけてんぞ」

  「ふぐっ」

  寅谷に指摘されて狼森は俯く。その耳と頬は真っ赤っかだった。

  先程の様子を見て、一つの仮説を寅谷は思いついていた。

  (やっぱり、そういうことか?)

  寅谷は狼森の高校での部活動のことを考えていた。

  いつから天文物理部なのかは知らないが、今の時点で一人きりなことを考えると後輩なんて出来たことはおそらく無いのだろうし、下手したらずっと独りぼっちで細々と活動していたのではないだろうか。寅谷も、高校に入学してからこの春になるまで天文物理部なんて存在を聞いたことなかったくらいなのだ。

  そして狼森のこのみょうちきりんな性格では、ひょっとしたら中学時代からそうだったのかもしれない。

  つまり。

  「……オイノモリさ。アンタ、もしかして先輩って呼ばれんのって初めて?」

  「う、うるさいなあっ!どうせ俺は部活の先輩後輩という関係を知らぬのだっ……!」

  顔全体を紅潮させ、俯いた狼森が悔しそうに唸る。

  なんだそりゃ、と寅谷は苦笑する。そんなことで喜ぶなんて面白すぎる。

  「別にそんなの恥ずかしがることじゃねえだろ。――じゃあ、今から俺が先輩って呼んでやろうか」

  その言葉に、狼森はばっと顔を上げた。

  「え!」

  「まあ、アンタの方が年齢上みたいだし、その方がいいかなって」

  途端に狼森はもじもじとし出した。

  「え、え、いいのか……?俺、留年してんだぞ……?」

  「何をいまさら」

  狼森の反応が面白くて、寅谷はくくく、と笑う。

  「で、でもなあ、ほら、先輩ってつけられるとなあ、ちょっと他人行儀な気はするやなあ。トラタニの俺への尊敬の念はもちろん嬉しいんだけんどよ……」

  狼森は頭を掻いて照れるが、それを見て寅谷は内心ツッコむ。

  ――いや別に、尊敬しているわけじゃないが。全然違うが。勘違いも甚だしい。

  そんなもの只の年齢順である。

  狼森があんまり嬉しそうにしているので、寅谷も敢えてそれを言おうとは思わなかったが。

  寅谷は少し考えてから、

  「じゃあさ、下の名前を取ってケンゾー先輩って呼ぶのはどうよ」

  そう提案してみた。

  狼森賢造。

  オイノモリ、ケンゾー。

  すると狼森はぴん、と耳と尻尾を立てた。その様子を見るにどうやらお気に召したらしい。

  「むふふ、なるほど。先輩という畏敬の念と下の名前で呼ぶことで俺への親近感を両立させているのだなあっ……!よかろうトラタニ!これからは俺のことをそう呼ぶがよい!」

  「いいけどさ。なんでアンタはたまに時代がかった口調になんの?」

  「アンタじゃねえ。ケンゾー先輩と呼べぇ!」

  「はいよ、ケンゾー先輩」

  そう呼ばれて胸を張って勇ましく歩き出す狼森。ご機嫌である。

  やれやれ、と思いながら寅谷はその後に続く。

  広場までもう少し。

  

  

  「――そしらたさトラタニ。俺も、お前さんのことを下の名前で呼んでもいいかい?」

  

  小高くなっている広場に到着すると、狼森はそんなことを聞いてきた。

  「そんなのいちいち許可なんかいらねえだろ。好きに呼べばいいだろ」

  寅谷は狼森の方を見もせずにぶっきらぼうに答えたが、狼は嬉しかったようだ。

  にこりと笑って尻尾を振ると、

  「おーう!じゃあこれからお前さんのことをコウイチって呼ぶなあっ」

  と明るい声で言った。

  

  

  ……だが、その言葉は寅谷の耳にはしっかりと入っていなかった。

  

  彼には見えてしまったから。

  釘づけになっていたから。

  

  広場の奥にある、バスケットゴールに。

  

  

  *

  

  

  寅谷はその場でリングから視線を外さない。外せなかった。

  暗闇の中でゴール付近だけが電灯で照らされ、夜にそこだけが白くぽっかりと浮かび上がっているようだった。

  寅谷にはバスケットコートを見るのが随分と久しぶりに感じられた。あんなに毎日眺めていたはずなのに。何年間もこの中を走り続けていたはずなのに。

  長年出会っていない懐かしい旧友に久しぶりに予想外の再会を果たした――。

  そんな感覚だった。

  まだあの怪我から二週間も経っていない。だが、こんなにも長い間バスケットから離れていたのは寅谷にとって生まれて初めてだったのだ。途方も無いくらいに時間が流れてしまったような気がしていた。

  それこそ宇宙規模の時間単位である、何万年も、何億年も。

  「どうしたん、コウイチ?」

  立ち尽くす彼に狼森は声をかけるが、茫然としている虎の耳には入っていなかった。

  寅谷は脚を引きずるようにして、よろよろとバスケットゴールに近づいていく。

  その途中で使い古されたボールが落ちていることに気付いて、思わず拾い上げる。

  表面が削れてざらりとしていた。

  

  ――ああ、この感触だ。

  

  その手触りも、重さすらも、何もかもが最早懐かしい。

  寅谷は、一日でも触るのを止めるとハンドリング力が落ちるような気がして、中学の頃から部屋にいる時にはいつもボールに触れるようにしていた。今となっては、バスケットボールは寅谷の身体の一部のようなものだった。

  寅谷はひとさし指の上でクルクルとボールを回す。

  さながら自転する地球の様に。

  

  ――これがどれだけ長く出来るか、あいつらと競ったりもしたっけな。

  

  この前の放課後に教室で声をかけてくれたハスキー犬や、その他諸々のチームメイトたちの顔が浮かぶ。

  あいつらは今頃どうしてるのだろうか。

  誰が練習を仕切っているんだろう。ちゃんと声は出せているのか。もう次の対戦相手の対策は始めてるのかな。今度の試合は俺無しで大丈夫なのだろうか。オフェンスのパターンは?ディフェンスはどうするんだ?マンツー?ゾーン?プレスは?そうだ、その前によく考えたらいっつもジャンプボールは俺じゃねえか。あれでまず速攻を決めて勢いを掴むのに。やべえな、下手したらあいつら試合開始からもうガタガタに崩れそうじゃねえかよ――。

  今まで考えないようにしていたことが、激流の様に寅谷の頭に氾濫する。

  もう自分はあそこには戻れない。

  仲間たちと一緒には戦えない。

  あの場に立つ資格がない。

  胸が苦しくて、切なくて、寅谷の顔が歪む。

  虎はぎり、と歯を食いしばった。

  

  だむ だむ だむ

  

  寅谷はその場でドリブルを始めてみる。

  たった二週間離れていただけでも、手へのボールの吸い付きが悪いような気がした。感触が変わってしまっているような気がした。

  一日も欠かさずにやっていた日課。

  ドリブルだけじゃない。

  シュート。パス。リバウンド。ディフェンス。ターンに、フェイクに、ポストプレイに――

  

  今まで寅谷が培ってきたものが、彼の手の中から零れ落ちようとしている。

  無駄になろうとしている。

  

  唐突に憤怒のように強い感情が彼の中に湧きおこり、寅谷は叫び出したいような気持ちになる。

  他にどうしようもなくて、寅谷はその感情を振り払うように地面を蹴って駆け出す。

  彼の右膝が悲鳴を上げて軋む。

  「お、おい――っ!」

  後ろから狼が制止する声が聞こえたが、構わなかった。

  寅谷はドリブルで真っ直ぐにゴールへと向かう。

  

  ――ああ、全く嫌になっちまう。全然スピードが出ねえじゃねえか。畜生。

  

  瞬発力が持ち味の寅谷は、縦だけでなく横の動きも速かった。地区大会では敵無しと謳われるほどに。ゴール下へ切り込む様は疾風のようだった。

  ……速かった、のだ。

  既にそれは過去形だ。

  今の寅谷は痛みで右膝が曲げられず、身体ががくがくと上下する不格好なドリブルしか出来ない。全盛期の彼は見る影も無い。健常人が普通に歩いている方が速いかもしれない。

  

  ――畜生、畜生、畜生!

  

  寅谷は心の中で痛烈に叫び声を上げる。

  あの怪我さえしなければ。

  あそこでターンしなければ。

  第四クォーターに出場しなければ。

  あの試合さえなければ。

  いくつもの可能性と後悔と失った未来が、寅谷の頭の中に渦巻く。

  どうしようもなくて堪え切れなくて、彼の目尻から一筋だけ熱いものが伝う。

  寅谷が目指すのはゴールから右斜め45度、フリースローレーンギリギリの位置。それが寅谷の最も得意な角度と距離。ここから放つフックシュートなら誰にも止められない自信があった。

  その場所に寅谷は到達する。

  彼が頭に思い描くは、幼い頃から追いかけ続けたあの伝説のプレイヤー。芸術品とも形容された無敵のシュート。

  寅谷は瞬時に右手にボールを持ち変える。

  左足で踏み切る。

  伸び上がる。

  跳ぶ。

  夜空に、虎の右腕が優雅な弧を描く。

  その先端から、ひゅ、と音を立ててボールが放たれる。

  

  ――憧れていたスカイフック。

  ――夢にまで見たスカイフック。

  

  それを、自分自身で体現したくて。

  ずっとその影を追いかけ続けて。

  

  ――ああ、だが高さが全然足りていない。

  違う。こんなのはスカイフックじゃない。

  紛い物ですらない、怪我をしたポンコツのシュート。

  

  分かっていた。片脚じゃ満足に跳べやしないのだ。空に届きはしないのだ。

  右脚をかばって無理にシュートを放ったために、バランスを崩した寅谷の上体が空中でぐらりと揺らぐ。

  

  ――くそっ、着地すらまともに出来ねえなんて。

  

  そのまま、斜めに傾いた虎の身体が地面へと迫る。

  

  「――コウイチぃっ!」

  

  その間に、大声を上げながら灰色の丸い塊が割り込んで来る。

  

  どおっ

  

  鈍い音を立てて寅谷は落ちた。だが、幸いにして頭を打ったりはしなかった。

  滑り込んできた狼森が受け止めてくれたからだった。

  

  「――お前さん何やってんだあっ!そんな脚で走ったら危ねえっつのぉっ!怪我増やしたらどうすんだあバカもんっ!」

  

  折れ重なる様にして寅谷の下敷きになった狼森は、怒鳴りながら身体を起こすと拳骨でぽかりと寅谷の脳天を殴る。

  「あっでっ!」

  寅谷は思わず悲鳴を上げる。

  痛かった。

  とっても、痛かった。

  あんまり痛くて、寅谷の目には涙が浮かんでしまった。

  「……ケンゾー先輩。俺の今のシュートは、どうなった」

  寅谷は頭をさすりながら俯いて尋ねる。最後に倒れたせいで、ボールの行く末がよく見えなかったのだ。

  狼森は頬を掻くと、気まずそうに言う。

  「――届かなかったよ。リングに掠りもしなかったぞ」

  それを聞いて、ぼろぼろと寅谷の目から涙が零れた。

  

  ……自身のバスケットボールの終わりを、目の前に突き付けられて宣告されたような気がして。

  

  「うわ、何で泣いてんだコウイチ!俺そんなに強くぶってねえぞおっ」

  慌てたように声を上げた狼森だったが、拳骨で殴ったのがまずかったと思ったのかすぐに寅谷の頭をわしゃわしゃと撫でてくれた。

  怪我をしたことが悲しくて、バスケが出来ないことが悔しくて、しかし狼森の手つきがあんまりにも優しくて、寅谷は思わず狼森の胸に縋りつくようにして泣き続けてしまう。だが狼森は黙ったままゆっくりと寅谷の頭と背中をさすり続けてくれた。

  大丈夫だ大丈夫だ、と言い聞かせるように。

  狼森が何も言わないでいてくれるのが有り難かった。

  

  ――暖かい胸だな、と寅谷は思った。

  

  

  [newpage]

  

  

  

  4

  

  「――コウイチ、落ち着いたかあ」

  

  そう言いながら狼森が寅谷にティッシュを差し出す。

  それを受け取って、鼻をかみながら寅谷は立ち上がった。

  思い切り涙を流して、寅谷は少し吹っ切れたような気がしていた。よく考えれば、膝の怪我をしてから泣いたのは初めてだった。自分で思っている以上に気持ちが張り詰めていたのかもしれない。

  「……わりいな、先輩。恥ずかしいところ見せちまった」

  寅谷の言葉に、狼森は何故かまた頭を掻いて照れた素振りをする。尻尾をゆらゆらと揺らして嬉しそうな様子を見ると、どうやら先輩という言葉にまだ慣れていないらしい。

  「ま、まあ誰だって泣きたくなる時はあっからなあ。俺なんかでよければいつでも胸を貸すぞ?ほれ、触り心地もよかったろ」

  そう言って狼森は、はにかみながら自分の腹をむにむにと揉む。

  彼なりに、ふざけて励ましてくれているつもりのようだった。

  「……ケンゾー先輩、その身体ちょっと痩せた方がいいんじゃねえの?さすがに不健康だぜ」

  泣いているところを見られた照れ隠しに、寅谷はそんなことを言った。それに対して狼森は困ったように頭を掻く。

  「そうは言っても毎日の飯が美味くてなあ。ついつい食い過ぎちまうんだなっ」

  「なら運動しようぜ。本読んでばっかりじゃ身体に毒だ。たまには動かねえとどんどんデブになっちまうぞお。飛べねえ豚はなんとやら、ってさ」

  ふざけた寅谷の口調に、口の減らない狼森ならてっきり何か言い返してくるかと思ったが、

  「……ん、考えとくな」

  歯切れ悪くそう言っただけだった。

  寅谷は少々その態度に引っかかりを覚えるが、

  「――ほらコウイチ、セット出来たから覗いてみなあ」

  狼森が三脚の上に置いた天体望遠鏡を指したので、すぐにその考えを忘れて狼森の方に歩いて行った。

  「ほれ、ここ見てみい」

  狼森が本体から直角に突き出した接眼レンズを指差す。「ちょっと触っただけでズレちまうからな、そおっとだぞぉ」

  注意された寅谷は、身を屈めて慎重に覗き込む。

  そこには暗闇の中にぽっかりと浮かぶ、黄土色の縞々の惑星が見えた。周りにはその惑星の代名詞でもある有名な“輪”が斜めにぐるりと取り囲んでいる。

  始めてみるその姿は神秘的で、圧倒的で、神々しいようにさえ感じられた。

  農耕と時の神をシンボルとする、太陽系第二位の大きさを持つ惑星。

  「――これが土星か。なんかすげえな……。初めて生で見た」

  寅谷が望遠鏡から目を離し前に立つ狼森の顔を見上げると、狼は満足気に頷いた。

  「ふっふふーのふー。初めて見ると感動するよなあ。やっぱり輪がいいよなっ、輪が!ちなみにコウイチはこの輪が何で出来てっか知ってるかい?」

  「さては俺のこと馬鹿にしてんな? 岩石とか氷だろ」

  物理準備室で色々と本を読んだ成果が出せたと思って寅谷はニヤリと笑ってみせるが、何故か狼森はガッカリした顔をする。

  「なんだ、つまんねえ。あれは実はドーナツだとか嘘教えようと思ったのにな……」

  「信じるわけねえだろ」

  

  土星の次は、太陽系最大の惑星である木星。

  その質量は太陽系の木星以外の全惑星を合わせたものの2倍以上と考えられるほどに大きい。古くから観測されてきたこの惑星もまた、多くの文明での信仰の対象となってきた。

  寅谷が望遠鏡を覗くと、木星の台風と考えられている有名な赤茶色の大渦もはっきりと見えた。

  「おおっ!これもまたすげーな。これが大赤斑ってやつか」

  寅谷は声を上げる。

  その渦は、中に地球が2-3個ほど入ってしまう程のサイズだと言われている。

  途方もないスケールだ。

  「今がちょうど木星と土星が“衝”の時期なんだよなあっ。今日は天気もいいし運がいいやなあ」

  狼森も上機嫌で、嬉しそうに鼻をひくひくとさせていた。

  

  ひとしきり惑星観測を楽しんだ二人は、狼森の持ってきたブルーシートに腰を下ろすと、これまた狼森が持参した山で使うような調理機器で湯を沸かして、小さな鍋でインスタントラーメンを作って食べた。

  「ケンゾー先輩、準備がよすぎっしょ……」

  冷えた身体に温かい食事は有り難かった。

  「むっふふー。こちとら伊達にお前さんより長く生きていねえかんなあ」

  狼森はそう言ってドヤ顔をした。

  

  その後、二人でそれぞれ寝袋にくるまって夜空を見上げた。

  確かに天文物理部の部長が絶好の観測ポイントというだけのことはあった。街の明かりにほとんど邪魔されないために、星々の光が映えるのである。

  寅谷が寝転んで見上げると、そこには満天の星空が広がっていたのだった。

  「はあ。こんなの、子供の頃のキャンプで見たっきりだなあ」

  今にも降って来そうな程多くの星々に見とれて、寅谷はため息をこぼす。

  「ほれほれコウイチ見てみい。あそこから横に伸びるのが春の大曲線ってんだぞぉっ。で、そこのアークトゥルスとスピカ、その二つのすぐ傍にあるデボネラを加えて春の大三角だっ!そんでだな、あっちはだなあ」

  興奮気味の狼森は空を指差して矢継ぎ早に説明してくれるのだが、寅谷はついていけない。

  「星が多すぎてわかんねえよ……」

  「そんなことないだろぉ。明るさで見分けろってえの。まずは北に見える北斗七星から辿ってな――」

  寅谷にとってはお馴染みの、狼森の講義が始まろうとしたその時、

  「あ」

  一筋、星が零れた。

  夜空を横切る一瞬の光跡が二人の視界の端に映る。

  「……今、見えたかケンゾー先輩」

  「見えた。これは始まったかあ?」

  しばらく眺めていると、その次がまた流れる。少し経つと、またその次が。そしてまたもう一つ。

  次第にその間隔が狭くなり、次々に流れ星が落ちてくる。

  流星群と呼ばれる天体ショーが始まったのだった。

  「おわ……なんだこれ、すっげ……」

  寅谷は口をあんぐりと開いて声を漏らす。

  幾筋も幾筋も、星空を背景に光の軌跡が走っていく。

  幻想的な光景だった。

  「むふふ、コウイチはさっきからボキャブラリーが貧困だなあ。すげえ、しか言ってねえような?」

  余裕のある狼森が笑いながらからかう。

  「うっせ……。すげえもんは、すげえんだよ……」

  寅谷が言い返すと狼森もそれ以上は言わず黙って空を見続ける。

  夜空に降り注ぐ、荘厳な星々の群れ。

  宇宙に浮かぶ塵や小石。そんな小天体たちが秒速数十kmという高速で地球大気に突入し、燃え尽きる。

  その過程で見せる、高度100km付近でのほんの一時の最後の輝き。

  それはさながら小さな流星たちが懸命に命を燃やしているようにさえ思えてくる。

  虎と狼の二人は、並んで寝転んだまま言葉も無く光の雨を見上げ続けた。

  

  「――うん……。やっぱり、何度見ても感動するよなあ。宇宙に、行ってみたくなるよなあ……」

  

  しばらく黙っていた狼森が、感極まってという様子で感想を口にする。

  そんな狼を、寅谷はついついからかってみたくなる。

  「そんなに宇宙が好きならさ、先輩、宇宙飛行士になればいいじゃねえか。あれの訓練なんかいいダイエットになるんじゃねえの?まあ、なれないだろうけどな!」

  語彙が貧困だと言われたお返しのつもりで寅谷はそう言ってやった。

  だが、いつまで経っても狼森は返事をしない。二人の周りがしんと静まり返ってしまい、寅谷は不安になって横の狼を見る。

  狼森は黙ったまま茫然としたように夜空を見上げていた。その目尻には、うっすらと涙が浮かんでいるようにも見える。

  「――なんだよ。どうしたんだよ、ケンゾー先輩」

  その声に、狼森は寅谷を見やるとはっとして、夢から醒めたように目をぱちぱちとしばたたかせた。

  「え?……ああ、いやちょっと胸がいっぱいになっちまったんよ。こんなに星が綺麗な素敵な夜にさ、こんな可愛い後輩が出来たもんだからさあ」

  そう言って狼はにこりと屈託なく笑った。

  寅谷は自分の胸がどきりと跳ね上がるのを感じる。

  「か、可愛いって、何言ってんだよアンタ……」

  そう口を尖らせて見るものの、可愛いと言われた寅谷はなんだか気恥ずかしい。顔が赤くなるのが自分でも分かった。狼森がふざけているわけでもなんでもなく、素直な気持ちから言っているのが分かったからだ。

  「でもなあコウイチ。お前さんの言う通りで俺は宇宙飛行士には、なれないんだよなあ」

  狼森は、何でもないようにそう続ける。

  「え?なんで?」

  虎の疑問に、狼は星空を見上げたままほんの少しだけ寂しげに答えた。

  

  「……俺な、心臓が悪いんよ。生まれつきで。去年はそれで結構入院なんかしてたから出席日数が足りんくてな、そんなわけで留年しちまった」

  

  寅谷は目を見張る。

  

  「だからさ、俺は小さい頃からずーっと本と部屋の窓から見える星ばっかりが友達だったんだなあ。外で身体を動かすなんてよ、許してもらえなかった」

  

  寅谷は胸を突かれたような気になった。

  だからさっきの狼森は、身体を動かせと言った寅谷に対して歯切れが悪かったのか。

  「――ごめん先輩。俺、全然知らなくて、あんなことを」

  謝る寅谷に、狼森はにかっと歯を見せて笑いかける。

  「気にすんなあコウイチ、俺が伝えてなかったんだしよ。今までもっと酷いことを言うやつは沢山いたしな。……それにさ、あんまりお前さんに気を遣われるのも嫌だったんだよなあ」

  寅谷ははっとする。

  自分と同じだ、と思った。

  右膝のことで必要以上に心配されるのが、同情されるのが、自分も耐えられなかったのだ。自分を見つめる皆の視線が、憐れんでいるようで。可哀想に、と言われているようで。

  狼森もそうだったのか。

  「そんでよ、宇宙飛行士になる条件ってえのはさ“心身健康な者”だかんなあ。俺には厳しいと思うんだよ。ろくに走れもしなかったのに、訓練だとかシャトルの打ち上げになんて耐えられねえって」

  「……」

  寅谷は、それで思い当たる。

  昼休みの物理準備室で、狼森の語っていた夢に。

  

  (――宇宙なんだあっ!)

  

  宇宙飛行士になれないという彼が、そこへと到達するための手段に。

  

  

  

  「……ケンゾー先輩。もしかして、だけど。アンタがスカイフックの実現を夢見てるのって」

  

  

  

  寅谷の言葉に、狼森の顔に暖かな笑みがゆっくりと広がっていく。

  ああ、やっと気付いてくれたか、と言うように。

  秘蔵の自慢の生徒が、とうとう正解に辿り着いたのを嬉しげに見守る教師のように。

  

  「――ご名答だコウイチ。それが、今の俺が宇宙へ行くための方法なんよなあっ」

  

  軌道エレベーター。そしてその亜型、スカイフック。

  これらなら、特殊な訓練が無くとも宇宙へ行けるかもしれない。

  可能性でしかない。だが狼森は、その可能性を信じているのだ。

  

  「でもま、そのためには高校を無事に卒業しねえとなあ! いい大学に入んねえといけねえからなっ」

  そう言って狼森はからからと笑う。

  「大学?」

  「そうだなあ。やっぱ独学じゃあ限界があるってもんよ。軌道エレベーターだのスカイフックだのを作るためにはもっともっと勉強しなきゃいけねえってのが、俺にも最近分かって来たからなっ」

  そして狼森は、自分の手で夢を掴みとろうとしているのだった。自分の力で、宇宙に飛び出す道を探し続けるつもりなのだ。

  「……なんか、すげえな。ケンゾー先輩は」

  寅谷は、星降る空を眺めながらふう、と静かに息を吐き出す。

  なんだか自分の夢が随分とちっぽけな気がした。全国大会なんて言っても、この小さな島国の、しかも高校生だけの大会でしかない。地球から宇宙を見据えている狼森のそれとは釣り合わないような気がした。

  「……俺はコウイチの方が凄ぇと思うけんど」

  ぽつりと狼森がつぶやく。

  「え?」

  「あんな何十分間も跳んで、走って、相手とぶつかって、競い合って。あんなの俺には出来ねえもんなあ。そんでよ、勝ったらチームの皆で喜んで、負けたら皆で悔しがって。ああいうの、いいなあって思ってた。俺にはそういうことが出来なかったから、ずっと運動部のお前さんたちが羨ましかったんだな」

  寅谷には、よく分からなかった。それが当たり前だと思って来たから。

  だが、狼森にとってはそれが憧れだった。

  友達と走り回ることも出来ずに病室に独りぼっちでいたであろう幼い狼森のことを想像すると、寅谷は胸が潰れるような気がした。

  「……でも、俺も、もう膝壊しちまったし」

  それでもそう言わずにはいられない寅谷の弱々しい言葉を、狼森は鼻で笑い飛ばす。

  「それで終わりじゃねえだろ、コウイチの人生ってのはさあ?高校バスケは間に合わねえのかもしんねえけんどさ、また大学でもやればいいや。それがだめなら社会人だってある。プロになることだって出来る。お前さんの時間はまだまだ一杯あるぞおっ」

  そこまで言ってから、狼森は思わずといった調子でぽろりと零した。「……俺と違ってなぁ」

  最後の一言に、寅谷は息を呑む。

  思わず体を起こして強い口調で詰問する。

  「ケンゾー先輩、それって一体どういう意味だよ」

  横に寝そべる狼森は両手で口を抑えて、しまった、と言う顔をしていた。

  「あやあ、喋り過ぎちまったなあ。こんな夜は口が軽くなっちまっていけねえ。ほらコウイチ、俺の話なんかいいからさ、せっかくの流星群だからちゃんと見て行けって――」

  「誤魔化すなよ先輩。そこまで言ったらちゃんと説明しろよ」

  寅谷は低い声で唸ると、隣で寝ころぶ狼の横顔を真っ直ぐに見つめる。

  狼森は困ったように眉毛を下げて寅谷を見返すと、思案するように耳をぱたぱたとはためかせた。

  二人の視線が交錯する。

  そして狼森は寅谷の真剣な目を認めると、目を伏せて観念した様に小さく言った。

  

  

  「……言葉通りの意味だな」

  

  

  ――狼森曰く、今の彼の心臓は正常の半分程度しか動いていないらしい。

  今でこそ薬で小康状態を保っているが、少しずつ進行していくその疾患はゆっくりと彼の心筋を蝕んでいく。そして、ある一定のラインを越えて心臓の機能が低下してしまえば、移植手術を受けるしか彼が助かる手は無いのだという。当然、彼の寿命はその病の進行によって規定されてしまうのだった。

  数十年後に完成を目指すという軌道エレベーターでも果たして間に合うかどうか。

  

  だから、スカイフックだったのだ。

  材質だけを考えるならば、現状でも十分に実現可能な宇宙への足掛かり――

  

  

  「――だからって変な気を遣うなよなあコウイチ?無理しなければ、ぜーんぜん普通に過ごせるんだからよっ!将来いい薬が出来るかもしんねえし、上手くいけば手術だって受けられるかもしんねえかんなあ」

  狼森はいつもの調子でそう言うが、寅谷は何と返していいかわからなかった。

  そんな風に振る舞う狼森がいじらしくて、可哀想で、見ていられなくて、黙りこくってしまう。狼森が自身の将来について心の底から前向きに考えているなら、先程のような愚痴めいたこぼし方はしないはずだから。

  狼森がスカイフックにこだわるのには、彼がただ面白がっているだけではなく、もっとずっと切実で、真剣な理由があったのだ。

  表情を曇らせている寅谷を、狼森は静かに見つめると、

  「……そんな顔するなってえコウイチぃ!そうされたら俺も悲しくなっちまうだろおっ」

  言うが早いか、狼森は寝袋を抜け出して来て寅谷に馬乗りになる。

  かと思うと、寅谷の脇腹をこちょこちょとくすぐり始めた。

  「――ぎゃーっはっはっはっは!やめろ!やめろ先輩!死ぬ!」

  寝袋に包まれているせいで上手く動けない寅谷は芋虫のように身を捩るしかなかった。腕を出そうにも、狼森の脚に身体ごと挟まれてしまってそれも出来ない。

  「うりゃあ、俺に気を遣ってごめんなさいと言え!言うのだあ!」

  調子に乗った狼森は楽しそうに笑いながら虎の身体をくすぐり続ける。

  「わかった!ごめん!先輩ごめん!悪かったあ!俺もう気を遣わねえからあ!」

  悲鳴を上げながら必死に寅谷が謝ると、狼森は手を離す。地獄のようなくすぐったさから解放され、寅谷は荒く息をついた。

  「ぶはあ、はあ、ひ、ひでーぞケンゾー先輩。俺が、抵抗できないのを、いいことに」

  「むふふ。悪かったよ、コウイチ。でもあんまりお前さんが暗い顔してっから、ついなあ。それによ、今日はあんまり綺麗な夜だから――」

  狼森はそこで言葉を切ると、一瞬何かを言い淀んで頬を掻く。そして、思い切ったように付け加えた。

  

  「――だからよ、これも許してくれな」

  

  「ん?」

  夜空を見上げる寅谷のすぐ近くに、狼森の顔があった。

  それが、重力に引かれるように突然急接近してきて。

  寅谷の口元に柔らかい感触が押し付けられる。

  気付くと、寅谷は狼森に口づけされていた。

  (――!?)

  寅谷の鼓動が一気に加速する。反射的に、寅谷は寝袋から腕を出して狼森を押しのける。

  「ちょ、え?あ、アンタ、なんで――」

  息を荒げながら身体を起こして、寅谷は混乱する。

  その目の前で、寅谷に跨ったまま太った狼は視線を彷徨わせた。狼森は大抵堂々としていて根拠の無い自信に溢れているのに、この時ばかりはひどく弱気に見えた。

  

  「ごめんな、コウイチ。こんなこと言ってもお前さんのこと困らせるだけかもしんないんだけんど、俺、やっぱり我慢出来なくなっちまった。……俺な、お前さんのことが」

  

  狼森の後ろの空でまた星が流れる。ちっぽけな短い命を懸命に燃やして。

  一筋、二筋。

  それはまるで夜空の涙のようだ。

  

  狼は、虎を見つめ直すと意を決した様に口を開く。

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  「――好きになっちまった」

  

  

  

  

  

  

  

  

  [newpage]

  

  

  5

  

  ……気付くと、寅谷はうつらうつらとまどろんでいた。

  

  

  寝袋にくるまり、ぼんやりと見上げる夜空には満天の星々。

  

  大気圏外から降り注いでくる幾つもの光跡は、まるでシャワーみたいだ。

  ふと見ると、彼の左には太陽系最大の巨大な赤茶色の惑星が浮かんでいる。その反対側には立派な輪が特徴的な黄土色の惑星が同様にぷかぷかしている。どちらも寅谷が少し前に天体望遠鏡で見たものだったが、目の前にすると恐怖を覚えるような迫力と大きさだった。

  何しろどちらの惑星も、地球の10倍近くの直径を誇るのだ。

  あまりにも自分のサイズが小さすぎて、寅谷は眩暈がしそうになる。

  気付くと寅谷は、その星二つと並んでふわふわと宇宙遊泳をしていた。

  重力がかからないためにまるで水に浮かんでいるみたいな心地よさだった。

  これが、宇宙。

  これが、あのデブの狼が話していたスカイフックが見せてくれる風景。

  しかもなんだかぽかぽかと暖かい。

  

  (あー……なんかすっげー気持ちいいなあ……)

  

  その程よい気怠さの中、遠くから声が聞こえてくる。

  

  

  

  「――タニ」「――きろよ」

  

  

  

  誰かの呼び声。それが次第に近づいて来て。

  

  

  「――おーい、もうとっくに授業終ってんぞ」

  

  「――ラタニ、起きろ。昼休みだぞ」

  

  

  

  

  聞き覚えのある二つの声で寅谷はパチリと目を開く。

  そこには、クラスメイトかつバスケ部のチームメイトでもあるハスキー犬と柔道部主将の熊獣人がいた。寅谷の身体が覆いかぶさっているのは、彼自身の机だった。ハスキーと熊はその傍に立って、虎を見下ろしているのだった。

  「……あれ?」

  寅谷は目をこすりながら顔を上げる。

  自分がいるのは宇宙ではない。いつもの教室だった。

  どうやら夢を見ていたようだ。

  授業中に窓から注ぐ陽の暖かさに耐えかねて、気付かぬうちに机に突っ伏して寝ていたらしい。四時間目はあの催眠術のような講義をする山羊教師の物理だったはずだが、途中ですっぱりと記憶が抜け落ちている。

  寅谷は、寝ぼけ眼でがりがりと頭を掻いた。

  「……昨日は夜遅かったのか、トラタニ。だいぶ疲れているようだが」

  熊がむすりとした顔でそう尋ねてくる。

  「お前、一時間目から大欠伸してたもんなあ。夜更かしして一体なーにしてんだよトラタニ?」

  ハスキー犬も、ふざけてじゃれるようにそんなことを言ってくる。

  それで、寅谷は思い出す。

  昨夜の展望台公園での出来事を。

  

  

  

  原付に二人乗りをして。狼森の背中に掴まって。

  

  バスケットゴールと。

  

  土星と木星と、流星群と。

  

  

  そして狼が、自分を真っ直ぐに見据えて発した言葉。

  

  

  (――俺な、お前さんのことが――)

  

  

  

  

  「――っ」

  瞬間、思わず寅谷は息を呑む。

  虎の青年は、重い負荷をかけられたコンピューターのように硬直してしまった。

  「……どうした、トラタニ」

  固まってしまった寅谷に対し、熊は眉根を寄せて睨みつけるように見つめてくる。一応寅谷のことを心配しているつもりらしいが、何しろ顔が怖い。

  「あ。い、いや、なんでもねえ」

  寅谷はぶんぶんと頭を振って取り繕うが、熊もハスキーも怪訝な表情のまま互いの顔を見合わせる。

  (やべえやべえ、昨日のことは一回頭から忘れよう)

  寅谷はそう考える。

  そんな虎の様子を見て、ハスキーは首を捻りながらも場をとりなす様に声を上げる。

  「よっしゃ、トラタニ。今日は久しぶりに俺らと飯食おうぜ!食堂に行こう!」

  右膝の怪我をして落ち込んでる彼ならばそんな誘いはすぐに断っていたところだが、今日の寅谷は逡巡する。ここのところ昼休みは物理準備室に行くようになっていたが、あんなことを言われた昨日の今日で狼森と顔を合わせるのはさすがに気まずい。

  また校舎裏に行って一人でパンでも齧るか。

  「――いや、俺は購買で」

  パン買って食うから、と断りかけた寅谷の肩に傍に立っていた熊が大きな手を勢いよく、ずしりと置いてきた。

  というより、ほとんど叩きつけてきた。

  力が強過ぎて少々痛い。

  「……トラタニ、最近のお前は昼休みになると一人でどこかに行ってしまうからな。たまには俺らの相手もしてくれないか、寂しいだろう」

  そう言って熊は、寅谷に向かって片目をぎゅうっと瞑って威嚇してくる。

  いや、どうやら彼なりに下手くそなウインクをしているつもりらしい。

  「そうだぜトラタニ。久しぶりに一緒に食べようぜ!」

  ハスキーも明るい声で熊に追従する。だが彼もまた種族柄目つきがよろしくない。

  有無を言わせぬ二人の様子に、寅谷はこくりと頷くしかなかった。

  

  (……まあ別に、ケンゾー先輩のところに毎日行くって約束してるわけでもねえしな)

  

  そう胸の内で考えてみても、物理準備室にて一人で待っているであろう狼のことを想像すると少しだけ後ろめたいような気はしたが。

  

  

  *

  

  

  「おばちゃーん、俺A定食ねー」

  「……俺はBだ」

  

  ハスキーと熊が、台の向こうのエプロン姿の猫獣人女性に声をかける。

  「じゃあ、俺もAにすっかなあ」

  寅谷も足を引きずりながらそれに続く。

  学生食堂は腹を空かせた大勢の学生たちの姿で賑わっていた。この高校の食堂では数百円で定食が食べられ、しかもご飯の大盛りが無料なのである。育ち盛りの運動部男子でも満足させてくれる量の主菜を提供してくれるので人気もそれなりに高い。

  三人はそれぞれの注文した定食が載ったトレイを受け取ると、四人掛けの席に陣取った。寅谷に向かい合うようにして熊とハスキーが座る。

  テーブルの上に出来立ての温かい食事が並んだ。

  「「「いただきまーす」」」

  虎と熊とハスキー犬は声を揃えてそう言うと箸を手に取った。

  そして茶椀を持ったところで、急にハスキーが噴き出す。

  「……なんだ、急にどうした」

  熊が困惑した顔を隣の犬獣人に向ける。

  「いや、なんかさ、泣く子も恐れる程怖い顔の柔道部の主将様が、お行儀よく“いただきまーす”とか言ってるの、改めてよく考えたら可笑しくなってきてさ」

  そう言ってハスキーは、だはははと笑う。

  「……別に、食事の挨拶は誰でもきちんとするもんだろう」

  熊は普段の仏頂面をさらに憮然とさせてハスキー犬に言い返す。「……大体、お前も人の顔がどうとか言えないだろうが。入学当初は目つきが悪いせいで地元の中学をシメていたと思われていたと聞いたぞ」

  「あー!それは禁句だっての!俺が自分の目つきを気にしてんの知ってるだろ!」

  図星を突かれたのか、ハスキーはから揚げを箸で摘まみながら不満そうに声を上げる。

  だが熊は、好物の鮭フライを齧りながらすまし顔である。

  「悪いがそれはお互い様だ。俺だって顔のことは気にしているんだ」

  「いやいや俺とお前では顔面のレベルが全然違うから!絶対お前の方が怖いし。うちの後輩が一目見ただけでビビってたくらいだからなあ」

  ハスキーはそう言って熊を貶めてやったつもりだったが、

  「……そうか。じゃあ目つきの悪さに関してはお前に勝ちを譲ってやろう」

  熊は気にした素振りも見せずにそう言い返すと、ふふん、と鼻で笑う。

  「おわ、ひっでえまだ言うか!トラタニもなんとか言ってやれよ! お前も“恐怖の顔面同盟”の一員だろ!」

  ハスキー犬が突然寅谷に矛先を向けてきた。

  「なんだよそりゃ。俺そんなもんに入った覚えねえよ」

  そう言って、寅谷は苦笑する。

  ぎゃんぎゃん文句を言うハスキーと、それを全く相手にしない熊が面白かったのだ。

  そんな寅谷を、熊とハスキーがじぃっと見つめてくる。

  「な、なんだよお前ら。俺の顔になんかついてるか?」

  凝視してくる二人に驚いて、寅谷はそう口にする。

  熊が、ゆっくりと口の端を吊り上げる。牙を剥いたその姿は獰猛な野生の獣そのものである。

  どう考えても威嚇しているようにしか見えないが、それは熊が笑った時の顔だということを寅谷は知っていた。

  「……少しだけだが、やっと笑ったな。トラタニ」

  その顔のまま、熊がぼそりと呟く。

  「へ?」

  寅谷は素っ頓狂な声を出してしまう。

  ハスキー犬も笑顔になる。

  「トラタニ。お前最近ずっと浮かない顔ばっかしてたからさ、俺ら心配してたんだぜ。そりゃ、あんなことがあったから当たり前だろうけど」

  ハスキー犬はそう言ってから揚げをもう一つ、一口に頬張る。「らからかうかつりもきれくれらいしよお」

  ハスキーは何かを言ったが、、もぐもぐと口を動かしているために付け加えた一言が聞き取れない。

  「……口の中に物があるときに喋るな、行儀が悪い」

  言うが早いか熊がハスキーの脳天に軽くチョップを食らわせた。

  「あぐっ!」

  熊にとっては優しい一撃のつもりでも、ハスキーにとってはそうではなかったらしい。突然の衝撃でハスキーは口の中のものを一気に飲み込んでしまう。「――っ!……げへっ、げはっ!何しやがる!喉詰まらしたらどうすんだっつうのこの馬鹿力!」

  むせ返って顔を真っ赤にさせてしまったハスキーの抗議に、熊は何故か照れたように頬を掻く。

  「……俺の腕力はそれほどでもないぞ。全国にはもっと強いヤツが大勢いるからな」

  「褒めてるんじゃねーし!てめー頭脳がマヌケか!」

  「二人して、お前らはコントでもやってんのかよ」

  熊とハスキー犬のやり取りに、寅谷は今度こそくつくつと笑ってしまう。久しぶりに、クラスメイトの前で素直に笑えているような気がした。それを見て、熊とハスキー犬も嬉しそうだった。

  「よかった。いつものお前に戻ったって感じだな、トラタニ」

  ハスキーが心底安心したように言うので、寅谷は面食らう。

  「そんなに今までの俺って暗い顔だったかあ?」

  寅谷は茶化してそう言ったが、熊はハスキーの頭に手を載せると真面目くさった顔で頷いた。

  「……少なくとも俺とコイツが心配する程には、な。怪我をしてからのお前は、毎日がこの世の終わりみたいな酷い顔をしていたぞ」

  熊がそう言うと、ハスキーが後を引き継ぐ。

  「かといって、声をかけてもトラタニは嫌みたいですぐにどっか行っちまうからさ、どうしたらいいもんかと思って、二人で相談したりしたんだぜ」

  ハスキーが軽くため息をつく。

  寅谷は段々と自分の頬が紅潮するのを感じた。ハスキーと熊に言われて、今まで自分が己のことしか見えていなかったのが今更分かって来たのだ。もちろん、周りの友人のことに気が回らないほどに彼も追い詰められていたのであるが。

  「なんか、二人には随分心配かけてたんだな」

  虎はそう言って背を丸めて小さくなる。

  だが、今されている心配は少しも嫌な気がしなかった。目の前の熊とハスキー犬、二人の気持ちが同情しているわけでも憐れんでいるわけでもないと、寅谷にも伝わったのだった。

  「……まあ、それでもここ一週間くらいのトラタニはだいぶ調子が良くなってきているようだったがな」

  「確かにな。なんか、いいことでもあったのか? 最近、昼休み終わって戻って来ると妙に楽しそうな顔してたぜ」

  熊とハスキーは口を揃えてそう言う。ここ一週間で寅谷が元気になった様だったと。

  考えるまでも無かった。

  狼森に出会って、物理準備室に出入りするようになってからだ。確かにあの狼と宇宙について話すようになってから、寅谷自身も怪我のことで暗い気持ちになる時間が減ったように感じていたのだ。

  バスケットボール以外の楽しみを見つけられたおかげだった。

  

  「……まさかとは思うが」

  

  おもむろに熊が口を開く。「恋人でも出来たのか。トラタニ?」

  そう聞いてきながら、泣く子も黙ると言われる柔道部主将はニヤリと口を歪める。彼がそんな笑顔を作ると、まるっきり悪人のそれである。

  「は?マジかトラタニ!?そうなのか?俺聞いてねえぞー!あ、そういや昼休みにいつもどっか行ってたのってもしやカノジョ……!?」

  ハスキー犬が尻尾を振りつつ好奇心に輝いた目を向けてくる。

  その顔を見ていると、寅谷の頭に放課後の物理準備室が浮かんだ。コーヒーの香りと、あのくたびれた白衣を着てドヤ顔をする太った狼の立ち姿が。宇宙について論じながら、瞳をキラキラとさせていた彼の姿が。

  はは、と寅谷は苦笑いを浮かべる。

  「んなわけねえだろ、恋人なんてさ。俺はただ――」

  だがそこで、寅谷の脳裏に昨夜の光景がフラッシュバックする。

  

  

  

  

  

  流れ星を背にして、自分を懸命に見つめる狼が。

  

  (――好きになっちまった)

  

  そう言って顔を近づけてくる狼森の瞳が。

  

  

  

  

  

  頭の中の光景に気を取られて、寅谷は毛並みを逆立てると固まったままぽろりとから揚げを取り落す。

  熊とハスキーがぎょっとする。

  「……急にどうした、トラタニ」

  熊の訝しげな声に、寅谷は、はっとしてぶんぶんと頭を振る。

  「な、なんでもねえよ」

  だが、ハスキー犬はにやにやして寅谷の顔色を窺うように上目づかいで見つめてくる。

  「ははーん、やっぱり昨日なんかあったんだなトラタニ……!なんか顔赤くねえお前?もしかして昨日童貞卒業したとかかあ?」

  ハスキーの嬉しそうな声を、寅谷は目を剥いて否定する。

  「な、んなわけあるか!バカか!」

  

  

  

  「……なんだつまらん、違うのか」

  そう残念そうに低く呟いたのは、一番真面目そうな熊だったが。

  

  

  *

  

  

  その次の五限目の数学も、寅谷は上の空だった。

  昨晩の天体観測のために深夜まで起きていて睡眠不足であることも勿論原因なのだが、やはりそれ以上に――

  

  (なんなんだよアイツ、俺のことが好きって……)

  

  彼の頭に浮かぶのは昨日の狼森のことばかりだった。

  寅谷はその身長や運動神経から実はそれなりにモテる方である。だが、今までバスケットボールばかりに打ち込んできたせいで特定の恋人なんてものはいなかった。別に欲しいとも思わなかったし。

  

  だが、そんなことは問題ではない。

  それよりなにより。

  

  さすがの寅谷も同性から告白をされたのは初めてだった。

  

  

  *

  

  

  ――昨夜。

  

  あれは丁度午前零時を回った頃だったろう。

  

  「ちょ、ちょ、ちょっと待てってケンゾー先輩!」

  

  狼森の告白の直後、寅谷は咄嗟に寝袋から抜け出ると、狼森から距離を取る様に後ずさりをした。あまりに予想外の事態に、どうしていいか分からなかったのだ。

  「やめろよな先輩、変な冗談言うなってそんなの……は、はは……」

  寅谷はへらへらと笑い飛ばそうとしたが、その様子を見て狼森はとても悲しそうな顔をした。

  狼のその表情が、落ちた肩が、だらりと垂れさがった耳と尻尾が、先程の彼の言葉が決して嘘などではないということを雄弁に物語っていた。

  「……こんなの、おかしいって思うかい。そうだよな、そう思われんのが当たり前だなあ」

  狼森は眉毛をハの字に下げてへへ、と寂しそうに短く笑う。

  「せ、先輩……」

  寅谷はそう言ったきり、何と返事をしていいのか分からなくて黙ったまま目を丸くして狼森を見つめる。

  ――おかしい?

  確かに、おかしい。先輩は男で、自分だって男なんだ。

  でも。

  それを今の狼森に言うのはとても残酷過ぎる気がして。

  寅谷は、馬鹿みたいに口を開けたまま何も言えない。

  対する狼森はおもむろに掌を開くと、寅谷の視線に耐え切れなくなったようにそこに目を落とす。

  「ああ。全く俺ってのは意気地がねえから、こんなに手が震えちまってるんだけんど」

  そう言われて寅谷も狼森の手に視線を向けて、それが小刻みにふるふると震えていることに気付く。しばしそうした後、狼森は自分の手を見つめながら震えを抑え込むようにぎゅうっと握りしめると、もう一度寅谷を真っ直ぐに見つめ直す。「――でも、俺は本当にお前さんのことが好きなんよ」

  その率直過ぎる告白に、寅谷は自分の顔が熱を帯びるのを感じた。狼森と近距離で見合うことが気恥ずかしくなって思わず目を逸らす。

  「んなこと突然言われたって……。そ、それってさ、後輩として好き、とかそういんじゃねえんだよな……?」

  そっぽを向いたまま最後の抵抗の様に絞り出した言葉に、狼森が小さく首を横に振るのが寅谷の視界の端に映って見える。

  

  「そうじゃ、ないんよ。――俺が、コウイチに惚れちまったってことだ」

  

  狼森は静かにそう言った。

  「ほ、惚れたってアンタ……」

  寅谷は絶句する。

  狼森はため息をつくと、たどたどしく語り出す。

  「俺、な。ずっと独りぼっちだったから、あの日コウイチが物理準備室に来てくれて、すっげえ嬉しかったんだよなあ。初めてだったんだ、スカイフックについてちゃんと聞いてくれた人は。この一週間は、お前さんと色んなことが話せて本当に楽しかったんよ」

  それは寅谷も同じだった。

  軌道エレベーターにスカイフック。

  惑星に恒星に衛星に彗星に、それらの星々の違いや地球外生命の可能性。

  エッジワース・カイパーベルトと太陽系外縁天体、そして冥王星が惑星から外されてしまった理由。

  宇宙の誕生と終焉、ビッバンにビッグクランチ――。

  狼森と話していて、全く自分の知らなかった世界の知識が開けていくのは楽しくて仕方がなかった。自分の中に新しい風が吹き込んできたようだった。それこそ、今まで自分がどっぷりと浸かっていたバスケットボールのことを一時的にでも忘れさせてくれるくらいに。

  二人の上をまた流星が一つ落ちていく。

  狼森は続ける。

  「そんで、な。気付いたらお前さんのことを……好きになってた。でも、俺の気持ちを言ってもお前さんを困らせるだけだって思ってたから、絶対言っちゃいけねえと思ってたんだけんど。今日はなんていうか、あんまり空が綺麗だったから、お前さんが嬉しいことばっかり言ってくれるから、なんつうか、辛抱が利かなくなっちまってな……」

  そう言って狼森は、まだ衝撃から立ち直れずに口をパクパクとさせている寅谷を悲しげな眼で見つめる。

  そして、再び口を開くと

  

  「……ホント、気持ちわりいこと言っちまってごめんな。今した話は全部忘れてくれ――」

  

  

  *

  

  

  五限目の教室で、大柄な虎は憮然とした表情で机に頬杖を突いていた。

  

  (なーにが、忘れろだっつーのあのデブ狼。自分だけ好き放題言いやがって、自分勝手すぎんだろうが……!)

  

  寅谷は昨夜の狼森との会話を思い出して、今更ながら憤慨していた。目の前で展開されている数学の授業には、当然の如く全く集中できていない。

  あの後、寅谷と狼森は会話らしい会話もせずに帰途へと着いてしまった。

  二人してどちらともなく荷物を片付けた後は、狼森はほとんど黙りこくったままトボトボと歩き始めてしまうし、寅谷は寅谷で頭が混乱しすぎて何を言うべきか見当もつかず、口を閉ざした狼の後をついていくしか出来なかった。

  あの時の狼森の悲しそうな顔を思い出すと、寅谷は胸の辺りがモヤモヤとしてしょうがなかった。

  何か優しい言葉をかけてやればよかったとも思うし、怒鳴ってやってもよかったような気もする。

  好きとか好きじゃないとかとりあえずそんなことは横に置いておいても、なんだか狼森のやりかたが一方的過ぎて気に障るのであった。そして、あんなに懸命に話してくれた狼森に対し、何も応えてやれなかった自分自身にも。

  昼休みまでの彼は、ただひたすらに昨日のことは忘れようと心に蓋をするばかりだったが、今はとにかく狼森に会わなければ気が済まなかった。

  

  (あーくそ!もう気まずいとか言ってる場合じゃねえな、とりあえず放課後に物理準備室に行って――)

  

  その時、

  「――い。おいトラタニ!聞いとるのか!」

  物思いにふけっていた寅谷だったが、教卓の前に立った牛獣人教師の鋭い檄が飛んできてびくりとする。

  「え?」

  気付くと、牛の教師だけでなくクラスメイト達も自分の方を見ていた。黒板には幾つかの小難しい数式が並んでいる。

  寅谷は考え事に熱中するばかり、教師に指されたことに気付かなかったらしい。

  前方の席では寅谷の方を振り向いていたハスキー犬の奴が、(あちゃーご愁傷様ぁ)という顔をして額に手を当てている。

  「お前、来春には受験控えとるっちゅー癖に、ワシの数学でぼーっとしとるとはいい度胸しとんのお?あ?」

  牛獣人教師が、ふしゅう、と鼻息荒く凄んで来る。彼の専門は数学の癖に体育教師のような体つきと威圧感があるので、生活指導教師と並んで生徒に恐れられている人物の一人であった。

  「す、すいません……」

  寅谷はよたよたと不自由な足で立ち上がると殊勝に頭を下げる。

  

  (くっそ、これもあのデブ狼のせいだ……!)

  

  そうして寅谷は、全く見当違いの方向に腹を立てるのであった。