海斗先生を探して歩く途中で、千秋さんの病室の前を通った。
緊張しながら通り過ぎた時、耳に笑い声が届いた。
思わずドアの方を見て、後悔した。
扉の隙間から見えた光景。
それは、千秋さんと涼介さんが笑い合っているものだった。
足を止めることなく通り過ぎ、角を曲がって思わずしゃがみ込む。
胸の中で暴れるこの感情がなにか、俺は知らない。
嫌に身体が強ばって、呼吸が浅くなる。
胸に手を当てて呼吸を整えながら、俺は暫く千秋さんから離れようと思った。
このまま見かける度に、勝手に傷付いていたら、俺自身も望まない結末が待っている気がしたから。
「…あの…」
その後も海斗先生を探して歩いていたが、どこにいるのか見当もつかないので、ナースステーションに行って看護師さんに聞いてみることにした。
「はい、どうされました?」
そう言って俺の前に来たのは、以前千秋さんの様子を見てくれていた看護師さんだった。
「あら、いつもお見舞いに来てた子じゃない
どうしたの?」
「海斗先生ってどこか分かりますか」
「あぁ、月守先生達なら、さっき内科病棟の方へ歩いて行ったわよ、2人で
何かあった?呼んでこようか?」
そう聞いた看護師さんに断って、俺は案内図を確認してから内科病棟を目指した。
内科病棟のナースステーションで同じように聞くと、ちょうど目の前の病室にいると言われた。
近くのソファーに座り、出てくるのを待っていると、少しして2人が出てきた。
俺が立ち上がると、愛斗先生は手を振って手術室の方向へ歩いていく。
「……待たせて悪いな。」
「…いいえ…」
海斗先生の言葉に緩く首を振った。
「…目、覚めたのか」
「…はい」
「水分は摂ったか?」
「はい…」
「飯は」
「…まだです……でも、、お腹なんて空いてな…「空いてなくても多少食っとけ。そうじゃないと、いつか倒れるぞ」
海斗先生の言葉に反論出来ず、俯く。
「…とりあえず、下の売店で何か買うか
着いてこい」
そう言って歩き出した海斗先生に、俺は遅れない程度にのろのろと着いて行った。
『好きなもん買ってこい』
そう言って俺に二千円札を渡した海斗先生は、売店の外のソファーに座って俺を待っているようだった。
お腹が空いていない為、食べたいものもなく、店内を徘徊する。
パンコーナーの横を通り過ぎた時、偶然目に止まったメロンパン。
胸が苦しくなって、俺は逃げるようにシュークリームだけを買って海斗先生の元へ戻る。
「早ぇな。
何買ったんだ」
「…シュークリーム」
「……だけ?」
「……(コク)」
「…確かに好きなもん買えっつったけどな、飯になんねぇだろ」
そう叱られて、俺は困って俯いた。
「……はぁ…俺も飯買うから、戻るぞ」
そう言って歩き出した海斗先生を目で追っていたら、怒ったような顔をして戻って来て、俺の手を引っ張って売店に戻って行く。
「まずは、パンでもおにぎりでもいいけど主食選べ。」
そう言われて、俺はおにぎりの前で立ち尽くす。
少しして手に取ったのは鮭おにぎり。
それを横で見ていた海斗先生は小さく頷き、俺をサラダコーナーへ連れて行く。
「次は野菜。何でもいい、選べ
バランスが大事だ」
そう言われたが、俺は野菜が嫌いだ…。
「……ぃ、いらない…」
困ってそう言うと、海斗先生は少し眉を寄せた。
「野菜嫌いなのか。じゃぁ、半分でいい。
残りは俺が食う。
…これなんてどうだ?タコと枝豆の白だし和え
美味そうだな…アレルギーあるか?」
首を振ると、海斗先生がカゴにサラダを放り込む。
「…後は、飲み物か
好きなの選んでこい
それも、んな大事そうに持ってなくても誰も取って食わねぇから。かご入れろ」
ずっと持っていたシュークリームを指摘され、少し赤面してかごに入れる。
飲み物はカフェオレを選んだ。
会計を済ませた海斗先生と、東棟に向かう。
「…聞いてどうにかなるもんじゃねぇけど」
ぼーっと海斗先生の後ろを歩いていたら、そんな声が聞こえて、俺は視線を上げた。
「…大丈夫か」
その言葉が、麻痺したような心に触れた気がして、俺は目を見開いた。
夕方の風に冷えた頬に、涙が伝うのを感じながら首を振ると、頭に大きな手が乗る。
言葉はなくても、優しさを感じた。
「ここで食おう」
空いている個室に入り、テーブルで食事をとる。
袖で涙を拭い、少し鼻を啜っておにぎりを手に取ると、海斗先生がボックスティッシュをテーブルに置いてくれた。
ありがたく鼻をかんでから食事をする。
のんびり、何も考えずに食べているが、美味しさも何も、感じなかった。
ずっと、心が麻痺してるみたいだ。
いつもは嫌な野菜も、味がしなかったから少しは食べれた。
見た目もあって3分の1くらい食べて、容器を置いた俺に、海斗先生は「食べれて偉いな」と褒めてくれた。
それが医者なんだろうけど、優しいなと思う。
後はぼーっと床を見つめていた。
何も考えない。
考えられない、の方が正しいのかな。
この先のことは、浮かばなかった。
食べ終わって少しして、海斗先生は大事な話があると言った。
「……神代さんのことだが、」
千秋さんの名前に、ビクリと肩が跳ねる。
「もうわかってると思うが、記憶喪失だ」
「……はい…」
改めて突きつけられた現実に、目の前が暗くなる。
「…黒木と会う前で、記憶が止まってる」
唇を噛み締めた俺に、海斗先生が聞いた。
「何か、聞きたいことはあるか
可能な限り答える」
俺は握り締めていた拳の力を抜いて、海斗先生を見つめた。
「…記憶が戻ることは、あるんですか」
その問いに、海斗先生は目を伏せる。
「…なんとも言えない
ふとした瞬間に戻ることもあるし、一生、戻らないこともある。」
…もしも戻らなかったら、千秋さんは俺のことが分からないままなのか…
部屋に沈黙が流れる。
それを破ったのは、優しい海斗先生の声だった。
「…黒木、酷いこと、言うぞ」
そんな前置きされたくないけど、言ってくれるだけ優しいんだろうな。
「…ずっと待ってたの、俺達は見てたから」
その言葉に、じわりと目の前が滲む。
握りしめた拳にぽたぽたと涙が落ちた。
「こんなこと、言いたくもねぇけど…」
海斗先生の視線を感じる。
「…焦るな、黒木。」
思ったより、ショックじゃなかった。
でも、あまり希望がないように思えた。
「思い出してもらおうとして焦ると、神代さんの脳に負担がかかるんだ。
頭痛や発熱などの症状がよく見られる。
気持ちは痛いほど分かるが…」
ゆっくりと視線を上げた俺を真剣に見つめて、海斗先生が言う。
「焦るな。ゆっくり、関わっていけ」
零れる涙は、何を伝えたいのだろう。
それは俺さえ分からないことだった。
「……わかった…」
ジンと痺れた頭に、自分の声だけが響いた。
続く