ふと気が付けば、そこはいつもと違っていた。
「……っぇ……」
千秋さんの仕事が休みだからと、二人で買い物に出掛けた時のことだった。
急に立ち止まった俺に、千秋さんは不思議そうな視線を向けた。
「…貴和?どうしたの?」
千秋さんの言葉に答えられないくらい、思考が止まっていた。
何でもない事のはずだ。
俺だって昔、変わらないものなんてないって言ったじゃないか…。
ただ、売れなくて潰れただけ…。
なのに……どうしてこんなに胸が苦しいの?
……あぁ、それはきっと…思い出があるからだ……。
「貴和…ちょっと座ろうか。」
千秋さんに促され、道の端にあるベンチに座らされる。
「飲み物買ってくるから、“Stay”ね。」
そっと俺の頭を撫でて離れていく千秋さんの背中に、誰かの影が重なった。
「ま、、」
待って。そう思うのに。
手を伸ばしても届かない。
誰の影が重なったのか。
記憶を探る。
広い背中、優しい声、強過ぎない……嘘、だろ……。
有り得ない……何で、何であの人なんかっ。
「…貴和?貴和、落ち着いて息してごらん。
……“Breathe”。」
そのCommandに、肺に一気に空気が入ってくる。
「っは……はぁ…はぁ…」
俯いたまま荒い呼吸を繰り返す俺に、千秋さんはただ寄り添ってくれていた。
そんな優しい千秋さんに、俺は……俺は優さんなんかを……。
最低だ。どうしてこんな……こんな……
今日は上手くいかない日だったのか。
こんなことなら、外出しなきゃ良かった…。
「…貴和、やめなさい。」
千秋さんの静かな声に、俺はハッとして忙しなく動かしていた腕の動きを止めた。
両腕に強い引っかき傷が出来ている。
「何かストレスがあるの?
お話出来るなら、してみない?」
無理やり話させることはなく、俺を待ってくれている。
分かってる。この人なら離れないって。
そして俺が同じ間違いを犯すこともないって。
だけど…それでも……怖いんだ。
怖いんだよ……。
もしそうなったらどうすればいい?
千秋さんのいない人生なんて、考えたくない…。
「貴和、今どう思ってるのか、知りたいな。
自分で言える?Command必要なら、かけるよ?」
熱い手で、引っかき傷の出来た腕も、俺の頬も、頭も撫でてくれる。
手を優しく握ってくれる、貴方に守られている。
あぁ、、ならどうしてこんなに、苦しいの……。
「……ここじゃあれだし、カフェでも入ろうか。」
そう言った千秋さんは、そっと立ち上がり、まだ俯き座る俺を見つめた。
……やめて、つむじに穴が開く。
俺は仕方なくのろのろと立ち上がる。
ふらついた俺に、千秋さんが肩を抱き寄せる。
「平気?熱中症かな…
少しだけ急ごうね。」
千秋さんにリードされ、カフェに入る。
「いらっしゃいませ〜」
静かな、でも少し騒がしいような、居心地の良い空間。
そのカフェの名前は、『Gue’rison』。
フランス語で、癒しという意味だった。
奥の方に進むと、第2次性の人達用の広いスペースがあった。
「…貴和お顔熱いね。
おしぼりか何かもらってくるから、ここで“Stay”。
いいね?」
俺の顔を触った千秋さんは、その綺麗な眉を寄せてそう呟き、俺にCommandを残してレジの方へ向かって行ってしまった。
手を伸ばしたくても、Commandが身体を縛っていた…。
なんだか疲れてしまい、俯いていると、視界に革靴が入った。
明らかに千秋さんのじゃない気配に、身体が強ばる。
Glareは一切出ていないが、何となく空気が重い気がした。
そっと顎に手が掛けられ、顔を上げさせられる。
その人を見た瞬間、あぁ、強いんだと感じた。
じぃんと痺れる頭で、理性を手繰り寄せる。
顔を背けてその手から逃れ、また俯こうとした俺に、その人はイラッとしたのだろう。
俺の髪を掴み上げた。
「いっ……」
小さく漏れた声。
歪んだ顔に、男はフッと笑った。
けれど、次の瞬間頬を強ばらせる。
レジの方から、店員と共にこちらを見た千秋さんから、凄まじいGlareが一直線にこっちに飛んでいたから。
千秋さんはすぐに店員とこっちに向かってきた。
どんどん強くなるGlareに、堪らず俺はうなじを晒す。
こわい、こわい……。
「…誰の許可をとって、うちのSubに触れたんでしょうか。」
冷静な言葉とは裏腹に、荒れるような視線。
瞳の奥には苦しみさえ揺れているんじゃないだろうか…。
優さんの事件も、千秋さんのせいじゃないのに…。
俺が、ダメなSubだから。
「……おぃ……てめぇのSubなら躾くらいしたらどうだ?
漏らしてんじゃねぇか」
……ぇ……
ハッとして俺はズボンを触る。
濡れた感覚と覚えのある臭いに、全身から血の気が引いた。
カタカタと震え出した俺の傍に店員さんがしゃがむ。
「大丈夫ですよ。」
そう言って背中を撫でてくれるけど、俺は千秋さんの反応の方が怖かった。
今まで一度でも、家の中だろうが外だろうが、こう言った粗相はした事がなかった…。
この年で…漏らすなんて……。
恥ずかしさと怖さで声もなくボロボロと涙を零していると、千秋さんの鋭い声が響いた。
「だから何ですか?
それで貴方の靴が汚れようが知ったことじゃない。」
地を這うような、低い声。
「ぁ?コイツてめぇのSubじゃねぇのかよ」
「私のですが。」
「だったら外で粗相しねぇように躾くらいしろっつってんだろうが!」
そう怒鳴った男は、近くのテーブルを蹴り飛ばす。
他にもいた数人のパートナー達が、僅かにGlareやDefenseを発し始める。
千秋さんは、どこまでも冷静に、冷たい表情で男を見つめていた。
だけど、恐らく次俺を貶されたら、間違いなくキレるだろう。
一触即発。
そんな現場に、冷静な第三者の声が響いた。
「困りますね。」
静かすぎる声に、俺は少し気になって顔を上げた。
スラッとした容姿の男性。
「…ここには、多くのお客様が今現在も、ご自分の時間を過ごしておられます。
貴方がたの他にも、数名パートナーのお客様がご利用中です。
Glareを抑え切れないのであれば、今すぐご退席下さい。
他のお客様のご迷惑になります。」
空気からして、Domだと思ったのに、近付いてきたその人からしたのは、Subの雰囲気だった。
その人の手もよく見れば震えていて、千秋さんも、恐らく男も、特Sだ。
特SのGlareは半端じゃない。
周りに迷惑を掛けてしまっていることに申し訳なく思いつつ、俺は動けずにいた。
「……チッ」
男は舌打ちすると、さっさと店を出て行った。
すかさず、Subの店員さんが頭を下げる。
「お騒がせしてしまい、申し訳ございませんでした。
お詫びとして、本日は皆様にお好きなケーキ一つをサービス致します。
店員が順番にお持ち致しますので、お席でお待ちください。
大変、申し訳ありませんでした。」
『申し訳ありませんでした。』
他の店員達も頭を下げる。
所々で拍手が起こった。
「いやぁ、助かったよ。」
「後もう少しで飛び出す所だった。」
「びっくりしたけど、もう大丈夫ね。」
「追っ払ってくれてありがとな!兄ちゃん」
その言葉に店員達はまた頭を下げ、カフェの空気が元通りになった。
そっと千秋さんが俺の前にしゃがむと、傍にいた店員さんは少し離れた所で見守ってくれていた。
「……貴和、」
名前を呼ばれ、ビクリと身が竦む。
「ご、ごめ、なさ……」
怯えて頭の上に手をやれば、そっとその手を掴まれ、撫でさすられた。
「怖かったね。ごめんね、一人にして。」
「っ……」
「Glare、強かったね。
ごめんね。帰って着替えようか。」
千秋さんの言葉に、いつの間にか店員さんが、洋服を俺らに差し出していた。
「良ければお使いください。
奥にPlayルームもございますので、アフターケアなどもすることが出来ます。」
「ありがとうございます。
では洗ってお返しいたします。」
「いえ、そんな。
差し上げますのでお気になさらず。
後でおしぼりもお持ちしますね。」
店員の案内で、俺は千秋さんに抱っこされてPlayルームに入る。
中は全体的に防音で、床も壁も柔らかいクッションで覆われていた。
「貴和、脱げる?」
そう聞かれて、俺は唇を噛んで俯く。
「貴和、たーか」
優しく名前を呼ばれて、恐る恐る顔を上げる。
千秋さんは優しく微笑んでいた。
「怒ってないし、怒らないよ。
仕方ない。あんなに強いGlare出したの、初めてだったし。」
そう言い、俺の頭を撫でると、そっと俺のズボンを脱がし始めた。
「っ……ふ……」
恥ずかしさで涙が溢れる。
「…ごめんね。怖い思いも、恥ずかしい思いもさせちゃって。」
最初に渡されたおしぼりで拭いてもらっているうちに、何度か布が当たったそこが反応してしまった。
「っ……」
慌てて手で隠そうとしたが、千秋さんに押さえられてしまう。
「ぅ、んっ……ぁ、、」
「すぐ終わるから大丈夫。
生理現象だよ。」
「ん、んっ……ぁ、も……っ〜〜」
少しして出した俺を、千秋さんはやっぱり優しく見つめた。
追加でもらったおしぼりも使って、丁寧に身体を拭いてもらうと、服を着替えた。
「よし、お着替え完了。
綺麗になった笑」
千秋さんはそう言うと、少しだけ離れた所で、両手を広げた。
「貴和、おいで。」
俺は堪らなくなって勢いよく千秋さんに抱き着いた。
「よしよし、怖かったね。
もう大丈夫だからね。」
「っ、、ぅ……うええぇん……」
しゃくり上げて泣く俺に、愛おしそうに千秋さんがキスをする。
背中や頭を撫でて、トントンと叩いて落ち着かせる。
俺が泣き止むまで、千秋さんはずっとあやしてくれていた。
「ふ、ひっく……」
「落ち着いてきた?」
「ん…」
少しして呼吸が落ち着くと、二人でPlayルームを出た。
荷物を持ってレジまで行く途中の、俺が座っていた場所は、綺麗に掃除されていた。
「あの、ご迷惑をお掛けしてすみませんでした。
クリーニング代等あれば請求してください。」
千秋さんの言葉に、さっきのSubの店員さんがとんでもないと言うように手を振った。
「パートナーさんがお怪我をなさらなかっただけで十分です。
良ければまた、お越しください」
そう言われて見送られる。
「…貴和、あのお店、どうだった?」
千秋さんの問いに、俺は静かに店を振り返った。
店の外でまだ頭を下げる店員さん。
「……凄く、落ち着く所だった」
俺の答えに、千秋さんは微笑んで頭を撫でた。
「…また行こうね。」
帰ってから、二人でお昼寝をして、起きたら夕方だった。
いつものように一緒にお風呂に入り、ご飯を食べてテレビを見ている時、千秋さんがふと尋ねた。
「そう言えば、カフェに入る前、貴和は何を考えてたの?」
俺は悩んだ末、全て話すことにした。
感じていたことも、不安も。
「……離れていく千秋さんの背中が、優さんと重なった…
千秋さんが俺を捨てるなんて有り得ないし、俺も千秋さん以外を選ぶことなんてないけど……もしも、そういうことになっちゃったら、どうなるんだろうって。
どうすれば、いいんだろうって、思っちゃって……」
俺の言葉に、千秋さんはポカンとした後笑った。
「あはは!
簡単だよ。
貴和が感じてるように、私達は離れないよ。
だから、もし貴和が他の人を選んだら、それは浮気ってことになる。
そんなことしたらお膝から下ろさないだけだよ?笑
別れるなんて選択肢、私達にはないからね。
だって、これは運命でしょう?」
千秋さんが、俺のCollarに付けた南京錠を、自分のネックレスの鍵で外す。
「……もしも貴和が死を選ぶなら、私も一緒に死ぬ。
もしも貴和が苦しい道を選ぶなら、私も一緒に行く。
貴和、安心していいよ。
何があっても、ずっと一緒。」
その声と共に、南京錠がカチャリと閉まった。
千秋さん。
愛してくれてありがとう。
千秋さん。
愛してます。誰よりも。
END