地平線に沈む太陽。
薄い赤色にコイツも俺も沈んでいく。
オアシスまであと少し。
沈みきって寒くなる前に早く行こう。
なんもない砂場を走ってると少し先に、
小型のクルマが止まっているが見えた。
故障したのか発煙筒をあげている。
側にトラックを止める。
「おい!そこの。大丈夫か?」
「あっ、はい!…故障したみたいで…」
声をかけるとそこにはネズミの青年がいた。
「……ここで切れるなんてな。」
思わず口が出た。ネズミの青年はきょとんとして俺を見る。
「え?」
「乗れ。陽が落ちる」
「で、でも……クルマが……」
砂漠の向こうを見る。太陽はもう、縁を地平線に預けて、
薄いピンク色に染めてる。
「置いてく。朝まで誰も来ない」
「……っ」
迷ってる暇はない。
「判断は早くしろ」
青年は一瞬、唇を噛んでから、勢いよく頷いた。
「……お願いします!」
「荷物だけ持て。全部は無理だ」
「はい!」
走る足音。小さな影がこっちに来る。
「名前」
「え? あ、えっと……」
「急げ」
「……ジュークです!」
「……ジューク。シート掴め。揺れる」
青年が慌てて乗り込む。ドアが閉まる前に、風が冷たくなった。
エンジンを吹かす。
「フェネックのおじさん、助か——」
「喋るな。舌、噛むぞ」
言い切って、アクセルに入れる。
「……助かりました。本当に」
助手席で、青年が小さく頭を下げた。
シートベルトが擦れる音がする。
「さっきも言いましたけど……あそこで止まってたら、夜は越せなかったです」
「だろ」
「え?」
「夜は冷える。それだけだ」
少し間が空く。青年は前を見たまま、手を握り直した。
「それでも、です。止まってくれる人、
いないと思ってたんで」
「運が良かったな」
「……はい」
また沈黙。オーディオの音が、間を埋める。
「……あの」
「何だ」
「フェネックのおじさんって……
その、呼び方、嫌でしたか?」
一瞬、手に力が入る。でも緩めない。
「……構わない」
「よかった…」
声が、少しだけ明るくなる。
「本当にありがとうございます。
名前も聞かずに、助けてもらって……」
「聞いた」
「え?」
「さっき言っただろ。ジュークって」
「……覚えてくれてたんですか」
「仕事だ」
「それでも、です」
青年は一度息を吸って、はっきり言った。
「ありがとうございます。フェネックのおじさん」
「……」
否定はしない。訂正もしない。
「掴まってろ。少し飛ばす」
「はい!」
エンジン音が一段、低くなる。
オーディオの音を落とす。
夜の匂いが、窓の隙間から入り始めた。
「……行き先」
「え? あ、次のオアシスです。家がある方で……」
「どこから来た」
「南の、ミルナです」
「ミルナから一疋?」
「はい…」
言い切る声。無理してる。
「名前、もう一つ聞いとく」
「はい?」
「俺のだ」
青年が一瞬、目を瞬かせる。
「……サンだ」
「サン……さん?」
「呼び捨てでいい」
「……サン」
声に出して、確かめるみたいに言う。
「で」
ハンドルを切る。
「なんで止まってた」
「……走ってる途中で、急に音がして。
タイミングベルトが切れました」
「新品か」
「……中古です」
「だろ」
「……安かったんで」
「砂漠でケチるな」
責めてるわけじゃない。ただの事実だ。
「ミルナからここまで、何回替えた」
「……一回」
「足りない」
「ですよね……」
少しだけ、声が沈む。
「商人に勧められて」
「“十分だ”って言われたか」
「……はい」
「覚えとけ。十分は、向こうの基準だ」
ジュークは黙って聞いている。
「でも……本当に助かりました」
「……仕事だ」
「それでも、です。止まってくれたの、サンだけでした」
「運が良かったな」
「……はい」
少し間が空く。
「フェネックのおじさん」
「……何だ」
「ありがとうございます」
否定しない。訂正もしない。
ただ久しぶりに聴いたその言葉は柔らかかった。
「掴まってろ。もうすぐ着く」
「はい!」
エンジン音が夜に溶ける。
オアシスの灯りが見えた。
夜に浮かぶ水面が、細く揺れている。
減速すると、周囲の気配が一気に増える。
ラクダ、ダチョウ、でかい荷役獣。乾いた笑い声が混じる。
「おい見ろよ。運転席、空かと思ったらフェネックだ」
「ちっせぇな。ちゃんとペダル届いてんのか?坊や?」
無視する。ブレーキに入れて、指定の場所に止める。
「夜走りか。無茶するねぇ」
「砂に埋もれちまう前に帰れよ」
聞こえてる。全部。
でも返さない。エンジンを切る。
「……降りろ」
ジュークにだけ言う。
「え、あ、はい」
ドアを開けると、視線が一斉に集まる。
「ほら。やっぱ子供じゃねぇか」
「保護者はどこだ?」
笑い声。
「荷を下ろす」
短く言って、荷台に回る。
「ちょ、ちょっと待てよ。そんな身体で?」
「触るな」
声を低くする。それだけで、距離が少し開く。
「……仕事だ」
それ以上は言わない。
ジュークが、俺と周りを見比べて、何か言いかける。
「……フェネックのおじさん」
「黙ってろ」
強めに言った。
「ここでは、喋るな」
ジュークは口を閉じる。正解だ。
「おいおい。連れか?」
「…拾った」
「優しいねぇ」
「違う」
ロープを外す。
「遅れた分、手伝え」
「は?」
「仕事だ」
その一言で、揶揄は止まる。仕事の話になると、連中は引く。
水の匂いが濃くなる。夜のオアシスは、いつも通りだ。
荷を下ろし終えて、受領の印をもらう。
「……これで終わりだ」
そう言って戻ろうとした時だった。
「——なんで、あんな言い方されて黙ってるんですか」
小さな声。でも、はっきり聞こえた。
「……は?」
振り返ると、ジュークが拳を握っている。
「フェネックだからって……!仕事してるだけなのに、あんな……」
「やめろ」
被せる。
「でも!」
「やめろって言った」
一歩、近づく。
「ここで声を荒げたら、
“正しいこと言ってる可哀想なネズミ”じゃなくなる」
ジュークが言葉に詰まる。
「連中にとっては、逆らう小動物は…」
少し、間を置く。
「——面白い獲物だ」
沈黙。
ジュークは唇を噛む。
「……でも、おかしいじゃないですか」
小さく、震える声。
「……なんで、あんな……」
その言葉で、胸の奥が少しだけ、きしんだ。
……あぁ。昔、俺も同じことを思った。
夜のオアシスで。笑われて、見下されて。
「……なんでだ、って」
自分に向けて、呟く。
「理由なんてない」
ジュークを見る。
「あるのは“慣れてるかどうか”だけだ」
「……慣れたくないです」
即答だった。
一瞬、言葉が詰まる。
……俺も、そうだった。
「……そうだな」
短く返す。
「慣れなくていい」
そう言ってから、付け足す。
「でも——」
ジュークの肩を、軽く叩く。
「今は、飲み込め」
「……」
「そのうち、言い返す場所を選べるようになる」
ジュークは、しばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……フェネックのおじさん」
「サンだ」
自然に、口から出た。
「俺の名前。」
一瞬、ジュークが目を見開く。
「……サン、さん」
「呼ぶな」
歩き出しながら言う。
「仕事相手にだけだ」
でも。悪くはなかった。
懐かしい、胸の奥の痛みが、少しだけ、温くなった。
荷台の扉を閉める。あとは寝るだけだ。
「じゃあな」
そう言って歩き出した、その背に声が刺さる。
「待って!」
振り返るとジュークが、少し息を切らしていた。
「なにか……なにかお礼させてください!」
「……」
「助けてもらったし、クルマも……それに、色々と……!」
言葉が先に出て、後から理由を探してる顔だ。
「今日は疲れた」
即答する。
「……え?」
「走りっぱなしで頭も回らん」
少しだけ、間を置く。
「明日な」
ジュークはきょとんとする。
「……明日?」
「あぁ」
ポケットから端末を取り出す。
「連絡先、出せ」
「い、いいんですか!?」
「面倒なのは嫌いだ」
画面を差し出す。
「一回で済ませろ」
慌てて操作するジューク。指が少し震えてる。
「……はい!」
端末が短く鳴る。
「受け取った」
しまいながら言う。
「明日、日が高くなる前だ」
「は、はい!」
「寝ろ」
背を向ける。
「それと——」
振り返らずに言う。
「礼はいらん」
少し歩いてから、付け足す。
「……借りにしとけ」
後ろで、息を呑む気配。
「——はい!」
その声は、さっきよりずっと明るかった。
……昔の俺も、ああいう声をしてた気がする。
今日はもう、十分だ。
朝のオアシスは静かだ。夜の喧騒が嘘みたいに、空気が軽い。
昨日、荷を下ろした積み下ろし場の前。
約束より少し早い時間。
……来るかどうか、五分だけ待つつもりだった。
「……サンさん!」
呼ばれて振り返る。
ジュークだ。昨日より身なりが整ってる。
眠れてない目をしてるが。
「早いな」
「待たせるの嫌だったので」
「……そうか」
沈黙。
気まずい、ってほどじゃない。
ただ、まだ互いに距離を測ってる。
「……で」
先に口を開く。
「お礼、だったか」
「はい!」
即答。
「えっと……その……」
言葉に詰まって、視線が泳ぐ。
「……朝飯、奢らせてください」
「軽いな」
思わず、鼻で笑う。
「でも、ちゃんとした店です!」
「砂漠の朝飯に“ちゃんと”も何もあるか」
ジュークが少しムッとする。
「ありますよ。安くないけど、ちゃんと腹に溜まるのが」
「……」
腹が鳴った。
……裏切りが早い。
「……案内しろ」
「えっ、いいんですか!?」
「聞こえなかったか」
歩き出す。
「奢るんだろ」
「はい!」
後ろからついてくる足音。
「……サンさん」
「呼ぶな」
「……サン」
「……それならいい」
小さく言う。
朝の光が、砂に反射する。
昨日より、少しだけ。世界が、マシに見えた。
市場はもう動き出している。
朝のうちから、声と匂いが混じる。
袋詰めの穀物、籠に盛られた野菜。
「……部品も野菜も一緒だ」
歩きながら言う。
「安いのは理由がある」
「……」
「目先の値段だけ見て買うと、あとで余計に金と手間がかかる」
ジュークが少し黙る。
「……昨日の、ですか」
「あぁ」
否定もしない。
「タイミングベルトなんて、ケチる場所じゃない」
「……」
ジュークは視線を下げたまま、しばらく歩いてから言った。
「……野菜」
「ん?」
「僕、自分で買ったことないんです」
思わず、足を止める。
「……は?」
「家では……いつも誰かが用意してて」
苦笑い。
「昨日、部品買うのも初めてで」
「……」
「値段しか、見てなかった」
市場のざわめきが、少し遠くなる。
「……だから、止まった」
ジュークが言う。
「走ってみないと、わからないこともあると思って」
俺は、野菜の山を見る。
表面が綺麗なもの、少し傷があるもの。
「……そうだな」
歩き出す。
「初めてなら、仕方ねぇ」
ジュークが顔を上げる。
「ほんとですか?」
「あぁ」
短く返す。
「俺も最初は、砂と鉄の区別もつかなかった」
「……サンも?」
「“サンだから”じゃねぇ」
少しだけ、言葉を強くする。
「誰でもだ」
ジュークは、ゆっくり息を吐いた。
「……じゃあ」
前を向いて言う。
「次は、ちゃんと見て買います」
「そうしろ」
「……野菜も?」
「あぁ。まずは野菜だ」
歩いてると、看板だけがひっそりとある
高そうな店の影が見えてくる。
通り過ぎようとするとジュークが指を刺す
「ここですよ!」
「……ここか」
看板だけ。人通りも少ない。
「高そうだな」
「だ、大丈夫です!ちゃんと朝用の値段ですから!」
「“ちゃんと”な」
戸を押す。
重い。砂避けのためか、厚い。
中は意外と静かだった。香辛料と焼いた油の匂い。
客は俺たちしかいない。
寒いぐらいに空調が効いてる。
「……落ち着かねぇな」
「そうですか?」
「仕事前の店じゃない」
「だから、なんです」
ジュークが少し胸を張る。
「昨日の“借り”、ちゃんと返したいんです」
「……」
席に案内される。
小さい卓。椅子は俺の体に合わせたみたいに低い。
「……珍しいな」
「でしょ」
ジュークが笑う。
「小さいヒト用、です」
「……」
悪くない。
「なに頼むんですか?」
「量があるやつだ」
「即答ですね」
「燃料だ」
店員が来る。
でかいラクダだ。ちらっと俺を見る。
……いつもの視線。
「注文は?」
「二疋分だ」
「ほう?」
「同じでいい」
ジュークを見る。
「文句あるか」
「ないです!」
「じゃあ、それで」
店員が去る。
少し、間。
「……サン?」
「ん?」
「……ここ、親に連れてきてもらったことがあって」
「……」
「その時は、自分で払う日が来るなんて、
思ってなかったです」
卓の木目を見る。
「……」
「悪くないだろ」
「え?」
「初めて払う場所としては」
ジュークは一瞬驚いて、それから、ゆっくり頷いた。
「……はい」
料理の音が、奥から聞こえる。
朝の光が、卓を照らす。
料理を待っていると、奥の暖簾が揺れた。
「サークル様」
低く通る声。
振り返ると、毛並みの整ったカラカルが出てくる。
首元に金の飾り。……店主か、少なくとも偉い立場だ。
「いつもご贔屓にありがとうございます」
ジュークが軽く手を振る。
「いや、大丈夫ですよ」
慣れた調子。
「今日は二疋分で」
「承知しました」
カラカルは一瞬、俺を見る。値踏みするような目。
……いつものやつだ。
「すぐにお持ちします」
そう言って、奥へ戻っていく。
沈黙。
「……ジューク」
「はい?」
「お前……」
言葉を選ぶ。
「ここ、“初めて来た店”じゃねぇだろ」
ジュークは一瞬だけ、目を逸らした。
「……たまに、です」
「“たまに”で名前覚えられる店じゃない」
「……」
「裕福なのか」
直球で聞く。
ジュークは、少し困ったように笑った。
「……家が、です」
「お前は」
「……別に」
視線を下げる。
「欲しい物は、だいたい揃ってましたし」
「だから、部品を自分で買ったことがなかった」
「……はい」
納得が落ちる。
「……なるほどな」
椅子に背を預ける。
「悪い意味じゃない」
「わかってます」
ジュークが言う。
「だから……」
顔を上げる。
「昨日、止まったんです」
料理を運ぶ音が近づく。
「自分で選んだ物で、初めて失敗したから」
卓に皿が次々と置かれる。
「……味、冷めるぞ」
話を切る。
「はい!」
ジュークは少し笑った。
……金があるのと、生き方を知ってるのは、別だ。
それは。俺が一番、よく知ってる。
皿に目をやるとトーストとベーコン、
新鮮な生野菜と切られた果物が置かれていた。
新鮮な野菜も果物もここじゃ贅沢な物だ。
「……朝から張り切ってんな」
思わず、口に出る。
「ですよね」
ジュークは少し誇らしげだ。
「昨日の借りですから」
「借りにしとけって言っただろ」
「だからです」
フォークを取る。
「借りは、ちゃんと覚えてたいので」
野菜に手を伸ばす。瑞々しい。……砂の味がしない。
こんな野菜は久しぶりだ。
「……悪くない」
「ほんとですか?」
「あぁ」
一口、噛む。
「安物じゃない」
ジュークが少し笑う。
「ちゃんとした店、って言ったじゃないですか」
「野菜は嘘つかねぇ」
ベーコンを齧る。
塩気が、身体に染みる。
「……昨日の部品もな」
ジュークが、少しだけ肩をすくめた。
「……はい」
「次は、値段の前に触れろ」
「触る、ですか?」
「硬さ、匂い、色」
パンを噛みながら言う。
「野菜も、部品も、ちゃんとしてるやつは黙ってる」
「……黙ってる?」
「あぁ」
皿を見る。
「売り文句が多いのは、だいたい怪しい」
ジュークは、真剣な顔で頷いた。
「……覚えます」
「覚えるな」
「え?」
「失敗して覚えろ」
フォークを置く。
「そっちの方が、身体に残る」
ジュークは少し驚いた顔をして、それから、静かに笑った。
「……サンらしいですね」
「知った口利くな」
そう言いながら、もう一口、野菜を噛む。
……悪くない朝だ。
「……サンは、このあと予定とかってありますか……?」
「暇だが、なんでだ?」
口に運びながら答える。
ジュークの食べ方は、静かだ。音を立てない。
皿の端から順に手を付ける。
……育ちが出る。
「その……サン……さんは」
少し間。
「会ったことがない雰囲気で……話してて、面白くて……」
フォークが止まる。
「……」
「その……」
ジュークは視線を落としたまま、続ける。
「まだ、喋ってたいなって……」
オドオドした声。
皿を見る。まだ、半分残ってる。
「……」
一息置く。
「面白いって言われるのは、久しぶりだ」
「……えっ」
「大抵は、“愛想がない”か“怖い”だ」
ジュークが慌てて首を振る。
「ち、違います!その……落ち着く、というか……」
「褒め言葉にしちゃ、下手だな」
少しだけ口角が上がる。
「……すみません」
「謝るな」
パンをちぎる。
「喋りたい理由は、それだけか」
「……はい」
間髪入れず。
「……仕事の話とか、生き方とか……」
「重いな」
「で、でも……!」
「冗談だ」
フォークを置く。
「……食べ終わったら、市場でも一回りするか」
ジュークが顔を上げる。
「いいんですか!?」
「暇だって言ったろ」
「……はい!」
声が弾む。
「ただし」
指を立てる。
「俺は、説教はしない」
「……はい」
「聞く気があるなら、勝手に喋るだけだ」
ジュークは、少し考えてから笑った。
「……それで、十分です」
……不思議なやつだ。
そう思いながら、残りのベーコンを口に放り込んだ。
悪い気は、しない。ただ。
……本当に不思議なやつだ。
飯を終えて、店を出る。朝の市場は、もう獣が増えていた。
「獣、多いですね」
「昼前が一番うるさい」
歩き出す。
香辛料の匂い。乾いた声。籠を抱えた大きな獣たち。
野菜の露店で、足を止める。
「それ、一束いくらだ」
ラクダの商人が、俺を見る。
一瞬。ほんの一瞬、視線が下に落ちる。
「……あぁ」
鼻で笑う。
「三束でその値段だ」
「一束でいい」
「まとめた方が得だぜ?」
「腐らせる」
「はは」
軽い笑い。
「じゃあ、端のやつでいいだろ」
差し出されたのは、少ししなびた葉。
「……」
何も言わず、受け取る。
ジュークが一歩、前に出かけて、俺の袖を掴んだ。
「いい」
短く止める。
「……でも」
「いい」
代金を置く。
歩き出すと、背中で声がした。
「小さいと、量も要らねぇんだな」
笑い声。
……いつものことだ。
「……」
少し進んでから、ジュークが言う。
「……今の」
「気にするな」
即答する。
「気にしたら負けだ」
「……」
「連中は、悪意があるわけでもない」
市場の喧騒を見渡す。
「ただ、考えてないだけだ」
ジュークは黙っている。
「……それでも」
小さな声。
「腹、立ちます」
「そうだな」
否定しない。
「俺も、昔は」
言いかけて、止める。
「……今は?」
「慣れた」
歩きながら言う。
「慣れるのが、大人になるってことだと思ってた」
ジュークが顔を上げる。
「……思ってた?」
「今は、わからん」
正直に言う。
「お前みたいなのに会うと、たまに、な」
市場の出口が見える。
「……不思議なやつだな、お前」
「……はい?」
「悪い意味じゃない」
少しだけ、声を低くする。
「昔の俺に、似てる」
ジュークは、言葉を失っていた。
砂の匂いが、近づいてくる。
市場の出口を抜ける。
砂の匂いが、強くなる。
「……サン」
背後から、呼ばれる。
「……慣れるのが大人なら」
足を止める。
「僕は——」
ジュークの声は、震えていない。
「大人に、なんか成りたくないです」
振り返る。
真っ直ぐな目だ。逃げてない。
「……」
しばらく、何も言えなかった。
……昔の俺も、同じ顔をしてた。
「……そう言えた時点で」
やっと、口を開く。
「もう、半分は大人だ」
「……え?」
「嫌だって言えるのは、ガキには難しい」
歩き出す。
「……ただな」
肩越しに言う。
「成りたくなくても、なる時は来る」
ジュークが一歩、ついてくる。
「……それでも」
「それでもだ」
被せる。
「慣れない場所を、一つくらい残しとけ」
「……場所?」
「あぁ」
空を見る。
「全部に慣れたら、何も感じなくなる」
ジュークは、少し考えてから、小さく、笑った。
「……難しいですね」
「俺に聞くな」
口元が、少しだけ緩む。
「俺も、まだ途中だ」
砂の向こうに、トラックが見える。
……さて。
今日は、長くなりそうだ。
トラックが見えてくる。砂埃を被った、いつもの相棒。
「……ここですか」
「あぁ」
荷台のロックに手をかける。
「サン」
背後から声。
「……一緒に、行きたいです」
手が止まる。
「色々なのを、見たい」
振り返らない。
「やめとけ」
「……どうしてですか」
「足手纏いだ」
短く、切る。
「仕事は遊びじゃない」
ジュークが黙る。
「危ないし、責任も増える」
ロックを外す音。
「……それでも」
「それでも、だ」
荷台を開ける。
「俺は、誰かを守りながら走れない」
少し、間。
「……」
ジュークの気配が、少し遠のく。
「……わかりました」
声は、落ち着いてる。
「でも」
一拍。
「聞いただけです」
「……そうか」
荷物を持ち上げる。
「悪く思うな」
「思いません」
ジュークは、そう言って。それでも、その場に立ったままだ。
……不思議なやつだ。
トラックは、黙って俺を待っている。
荷台に荷物を置き終える。
扉を閉めようとした、その時。
「……じゃあ」
ジュークの声が背中にかかる。
「最後に、行きたい場所が……」
手が止まる。
「……は?」
振り返る。
「サンと、行きたくて…」
少しだけ、視線を逸らす。
「……」
息を吐く。
「いいけど」
自分でも、早いと思う。
「どこ行くんだ?」
「……市場の中です」
「……」
それだけで、だいたい察しはつく。
「……歩くぞ」
「えっ」
「すぐそこだろ」
「あ、はい!」
トラックの脇を抜ける。
砂を踏む音が、並ぶ。
「……サン」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「礼はいらん」
前を向いたまま言う。
「“最後”だ」
「はい」
その返事は、さっきより少し落ち着いていた。
市場のざわめきが、また近づいてくる。
……やっぱり、面倒なやつだ。
だが、悪くはない。
市場に戻る。
昼が近づいて、声も足音も、重くなっていた。
布を扱う露店の前で、足を止める。
「これ、触っていいか」
言うと、商人が一瞬だけ間を置く。
「あぁ……」
視線が、俺の頭から足先まで流れる。
「壊さないでくれよ」
「……」
返事はしない。
横から、別の客が来る。
大きな背の獣だ。
「これ、二反」
即答。
「はいはい!」
声色が、変わる。
……いつものやつだ。
歩き出すと、ジュークが小さく息を吸う。
「……今の」
「言うな」
先に止める。
少し間が開く。
「善意のつもりでやってる分、厄介だ」
市場の端を抜ける。
獣が減る。
声が、遠くなる。
「……こっちです」
ジュークが細い路地に入る。
建物と建物の影。風が、少し冷たい。
突き当たりに、古い扉。
小さな標識。
《CLUB ADENIUM》
「……クラブ?」
「はい」
ジュークが扉を押す。
中から、低い音楽。
「……」
入口は、低い。
大きな獣なら、屈まないと入れない。
「……こんな所、あったんだな」
思わず、呟く。
「ありますよ」
ジュークが言う。
「僕らみたいな、小さいのしか入れない場所」
扉の向こうで、同じ目線の影が、動いていた。
……知らなかった。
オアシスは、まだ、全部を見せてくれないらしい。
扉を開けると、
軽快な音楽が耳に飛び込んできた。
辺りを見渡す。
いるのは、ジュークと似た顔つきの者ばかり。
ネズミ、ネズミ、ネズミ。
……俺が歓迎されている空気じゃない。
「ここなら、サンの居場所があるかもって、僕……」
「そうか……」
的外れだ。
ジュークは、
俺に向けられている視線に気づいていない。
「……サンも踊りましょうよ!」
「……遠慮しとく」
「……わかりました。じゃあ、見ててくださいね!」
そう言って、
ジュークは群れの中へ溶け込んでいった。
……あんな顔、するんだな。
楽しそうに笑って、音に身を任せて、自然に、そこにいる。
興味なんか、無いはずだった。
それなのに。
俺は、群れの中で踊るジュークから、目を離せずにいた。
周りの視線が、刺さる。
……どうして、俺はここにいるんだろう。
俺はただ、
彼と同じ陽を浴びて、
同じ物を食べて、
同じ目線で立てたことが、
それがただ、嬉しかっただけだったのに。
どうして、勘違いしてたんだろう。
同じ“小さい者”でも、
それ以上にネズミとフェネックで、
違う種族なんだ。
群れの中で楽しそうに踊るジュークを見ながら、
そう、思った。
音が、重くなった。
胸の奥に、何かが溜まっていく。
……無理だ。
踵を返す。
誰かが何か言った気がしたが、聞き取れなかった。
扉を押し開ける。
外の空気が、一気に肺に突き刺さる。
「……っ」
一度、大きく息を吸う。
音楽が、遠ざかる。
……やっぱり、俺の居場所じゃない。
数歩歩いたところで
「サン!」
振り返ると、ジュークが走ってくる。
息を切らして。
「どうして……!」
「戻れ」
被せる。
「お前の場所だ」
「違います!」
即答だった。
「サンがいない場所なんて、意味ないです!」
「……」
足を止める。
……厄介なことを、平気で言う。
「……俺は」
言いかけて、言葉を探す。
「……混じれない」
「そんなの——」
「混じれないんだ」
静かに言う。
ジュークは、黙った。
「同じ小ささでも、線はある」
風が、二人の間を抜ける。
「……それでも」
ジュークが言う。
「サンと、来たかったんです」
その言葉に、胸の奥が、きしんだ。
……あぁ。
まただ。
昔と、同じだ。
「歯を見ろ」
ジュークの前に立つ。
「……根本的に違う」
自分の口元を、指で示す。
「わかるだろ」
視線を外す。
「結局は、ネズミとフェネックだ。」
夕陽が、路地を黄金色に染めていた。
長い影が、足元に伸びる。
「……それでも」
ジュークが、震えない声で言う。
「違うってことと、一緒にいられないってことは、
同じじゃないです」
「……」
「サンは、噛まない」
「……噛める」
「でも、噛まない」
ジュークは、まっすぐ見てくる。
「選んでるんです」
夕陽が、俺の影を長く引き延ばす。
……選んでる、か。
「……お前」
少しだけ、声が低くなる。
「それを言うなら、覚悟が要る」
「……はい」
迷いは、ない。
「噛まれない覚悟じゃない」
一歩、距離を詰める。
「噛まれたあとも、立ってる覚悟だ」
夕陽が、二人を包む。
「……それでも」
ジュークは、目を逸らさない。
「一緒に、居たいです」
……参った。
この路地は、やけに眩しい。
「それに……」
ジュークが一歩、近づく。
「違かったって、混じれなくっていいじゃないですか」
夕陽が、彼の輪郭を縁取る。
「少しずつ、解っていけばいいだけです」
「……」
「僕、サンのこと、勘違いしてた」
一瞬、言葉が詰まる。
「……ごめ——」
「わかった」
被せるように言う。
「それ以上、言うな」
ジュークが、はっと口を閉じる。
俺は視線を落とす。
「……確かに」
短く息を吐く。
「急ぎすぎたな」
深く、息を吸う。
胸の奥まで、夕方の空気を入れる。
……焦ってたのは、俺の方だ。
「……全部を一気に、分かろうとする必要はない」
ジュークを見る。
「それは——」
「俺も、同じだ」
ジュークの表情が、少し緩む。
「……はい」
夕陽が沈みきる前、路地は静かだった。
違うままで、立っている。
それだけで、今は十分だ。
しばらく、言葉のない時間が流れる。
市場の喧騒が、遠くに戻ってくる。
「……もう、行くんですよね」
ジュークが言う。
「ああ」
短く答える。
トラックを停めている場所は、もうすぐだ。
一拍、置いてから。
「……じゃあ」
ジュークが、探るように口を開く。
「着いていっても、いいですか」
足を止める。
振り返らずに、言う。
「ダメだ」
即答だった。
ジュークが息を呑むのがわかる。
「それと、これは違う」
少しだけ、声を落とす。
「……今はな」
沈黙。
それから、肩越しに視線をやる。
「でも」
一瞬だけ、間を空ける。
「次、ここに来たら」
夕焼けが、俺たちの影を長く伸ばす。
「考えとくよ」
ジュークの耳が、ぴくりと動く。
「……はい」
無理に笑わない、その返事が、妙に心地よかった。
それぞれ、別の方向へ歩き出す。
同じ陽を浴びたまま、違う場所へ。