FILE.1「シロクマおっさん教師Wさんの幼児退行」
「……頑張ってりゃ、いつか立派な大人になれるって。そう思ってたんだよ」
盛況な居酒屋の中で、カウンター席に座るシロクマ獣人の俺は空のジョッキを片手にそうぼやく。周囲の賑わいに消えそうな俺の独り言に、隣に座っている連れのアライグマが「ふふっ」と笑った。
「何だよ、らしくないな。明日は雪が降るかもしれないな」
「うるへえ」
軽口を叩くアライグマに反論してみるが、やけ酒のせいで上手く呂律が回らなかった。
「悪い悪い。昔のお前だったら、そういうときこそ踏ん張るのになって」
「……」
アライグマの言葉に、俺は言い返せなかった。
確かにこのアライグマ、[[rb:御手洗司郎 > みたらいしろう]]と出会った高校時代の俺ならば、多少の理不尽や困難に対しても持ち前の度胸と根性、そしてラグビー部で培った自慢の体力で何とかしてきただろう。そのおかげで俺は、苦手な勉強や試験にへこたれることなく、念願だった教師になることが出来たのだから。
しかし教師として勤めて約二十年。四十代も半ばに差し掛かった今となっては、現実は度胸や根性だけではどうにもならないことを痛感している。
どれだけ真正面から生徒と話し合おうとしても、向こうがまともに応えてくれるとは限らない。
理不尽な要求や非難を浴びせてくる保護者に対して怒りを覚えても、迂闊な真似をすれば自身や学校の評判に傷をつけることになる。
自分がどれだけ細心の注意を払って生徒たちの素行に気を付けていても、見て見ぬふりをする者たちの陰でいじめが起きていることもある。更には、理事長や監督たちは世間からの批判を恐れてその事実を隠蔽しようとして、結果的に無関係の生徒たちまで近隣の住人達から陰口を叩かれるようになる始末。
「……俺一人じゃ、どうにもなんねえよ」
俺は再びため息をつく。鼻をつくような酒の匂いが混じる自分の吐息に、顔をしかめる。
大人になる、ということがこれほど苦く、息苦しいものだとは思っていなかった。俺は更に顔をしかめて、額に手を当てて俯く。
「……教師ってよお、ヒーローみてえなもんだと思ってたよ」
気付けば俺は、誰に訊かれたわけでもないのに一人で語り始めていた。
「曲がったことは許さず、ダメなものはダメってはっきり言ってくれて。それでいて生徒たちの悩みにちゃんと向き合ってくれて。その行動に生徒たちや、周りの教師たちも影響されて、みんな良い方向へと走り出すようになる。そういう大人に、俺はなりたかったんだよ」
中学生の頃、熱血教師が不良たちを更生させていく学園ドラマを見た俺は、子供心に響くものを覚えたのだ。進路指導に迷っていた自分に、『こういう生き方があるんだよ』と示してくれたみたいで、空っぽだった自分の心に一本の芯が通ったような感覚さえあった。
「けど、現実は上手くいかねえよなあ」
そう呟く自分の声が、情けなく震えているのが分かった。かつて自分の道を示してくれたはずの心の芯は、現実と理想、どちらに重きを置くべきかで揺らいでいるのだ。
「俺がどれだけ頑張っても、ドラマみたいにみんな上手くいくとは……限らねえんだよなあ……」
喉と鼻が詰まるような感覚に、俺は固く口を結んだ。泣き言を漏らしてしまったからと言って、本当に泣くわけにはいかなかった。
そんな資格、俺にはないのだから。
「……あのニュースのことか?」
御手洗の問いに、俺はこくりと頷いた。
数週間前。俺が勤めている学校で、部活の先輩にいじめられていた生徒が自殺をした。そのセンセーショナルな事件は大々的に報道され、あっという間に世間に知れ渡った。おそらくこの居酒屋にいる客に尋ねれば、一人ぐらいは耳に挟んだことがあると答えるぐらいには話題になっただろう。
「あれはお前のせいじゃないだろ?」
「でも、俺が勤めている学校で起きたことだ。無関係じゃない。俺にも何か、出来たはずなんだ……!」
御手洗の言葉にそう答えながら、俺は自分に対する怒りと不甲斐なさで、視界が涙で滲む。こぼれそうになる涙を誤魔化そうと俺は乱暴に腕で拭う。
「涙もろくなったな。昔と違って」見透かしたように御手洗が言う。
「うるせえっ……うるせえよ……!」
俺はそう強がって答える。しかしどれだけ涙を拭っても、俺の声はどうしようもなく震えていて、泣いていることを隠し切ることが出来なかった。
「……なあ、覚えているか? 昔、似たようなことがあったよな」
「はあ?」
御手洗の唐突な話に、俺は苛立ち交じりに訊き返す。けど御手洗は、穏やかな笑みを浮かべたままこちらを見つめる。
「オレが彼女に振られたとき、お前がカラオケに連れて行ってくれたことあったよな?」
「え? えーっと……」
御手洗にそう言われて記憶を手繰ると、確かにそんなこともあった気がする。おそらく御手洗の気分を晴らすためにカラオケに行ったと思うが、どうして御手洗が振られたのか、どんな話をしたのかまでは思い出せなかった。
「あった気もするけど、何で今その話が出てくるんだ?」
「あのときのオレ、マジで人生終わったっていうぐらい最悪の気分だったんだよ。多分、今のお前と同じぐらい」
その言い方に、俺は思わずどきりとする。しかし当の御手洗は平然とした様子で話を続ける。
「でもオレは今もこうして普通な顔して生きていられるのは、多分お前のおかげなんだよ。お前があのとき、とことんオレの話を聞いてくれたから、立ち直れたんだ。だからさ――」
言いながら御手洗は飲みかけのジョッキを手に取り、俺の方に向ける。
「今日は、オレがお前の話を聞く番。今日はじゃんじゃん飲んで、吐き出して、一旦全部忘れて。明日からまた一からやり直そうぜ」
「御手洗……」
「まあ、そのしょぼくれた面を生徒に見られてもいいって言うなら、別に構わないけどな」
にやりとそう笑うアライグマに、俺は顔に力を入れて引き締める。そして傍にあった空のジョッキを手に取り、御手洗の方に向き直る。
「馬鹿にすんじゃねえよ。何ならお前が潰れるまで呑みまくって、逆に間抜けな寝顔を拝んでやらあ」
「いいね。じゃあ勝負だな。どっちが相手の寝顔を見れるか」
「望むところよ!」
勝負に乗った俺は、御手洗のジョッキグラスに自分のグラスを当てて、カチンと音を立てる。それはまるで勝負の開始を告げるゴングのように、高らかに響き渡った。
[newpage]
目を覚ますと、そこは居酒屋ではなかった。
薄暗いが、その見慣れた天井と、横たわる俺の身体をゆるやかに押し返すマットレスの感触から、自分が自宅のベッドで寝ているのだということを理解した。
どうやら相当呑んでしまったらしい。鉛のように重たい頭は思考も記憶も鈍くなっており、あれから自分がどれだけ酒を呑んだのか、御手洗との勝負の結果はどうなったのか、自分がどうやって家まで帰ってこれたのかすら思い出せなかった。
だが意識は徐々にはっきりとしてきた。酒のせいか頭は相変わらず重たいが、思ったよりも痛みはなかった。身体は脱力しきっていて、すぐには動けそうになかった。
そして何故か俺は両手を挙げた、いわゆる『バンザイ』の体勢でベッドに寝ていた。しかもいつどこで脱いだのか、パンツ一丁の状態で。おかげで中年太りで立派に丸く張り出した大きな腹も丸出しになっている。
そんな風に自分の状況を把握していくうちに、不意に身体がぶるりと震えた。
どうやら酒のせいで尿意を催したらしい。面倒だが、漏らさないうちにトイレへ行って済ませてしまおう――。そう思い上体を起こそうとした、そのときだった。
「――あ?」
両手の動きが、不自然な位置で止められた。引っ張られるような感覚と、手首が締め付けられるような不快感とともに。
まさか――! 慌てて首を動かし、自分の手首を見上げる。するとその違和感の正体がはっきりとした。
俺の両手首には、太いロープが巻きつけられていた。手枷のように巻きつけられたそのロープの端は、ベッドの下の方まで続いていることから、おそらくはベッドの脚の部分に括り付けられているのだろう。
ロープが巻きつけられているのは両手だけじゃない。両足もまた、頑丈なロープで拘束されて満足に動かすことが出来なかった。
「く、クソ! 一体誰が、こんなふざけたことを――!」
「僕だよ」
その声に、俺は首だけ動かしてその方向を睨みつける。やがて、暗闇の奥に一人の人影が浮かび上がる。
「御手洗……!?」
そこに立っていたのは、先ほどまで居酒屋で俺と呑み比べをしていたアライグマ、御手洗司郎だった。
「随分と可愛い寝顔をするんだね。見ていて微笑ましくなったよ」
「ふざけんな……! こんなことして、一体何のつもりだ!? 何が目的だ!?」
「ああ、違う違う。別に何か目的があるわけじゃないんだよ」
そう言うとアライグマは、にやりと笑みを浮かべた。口の端を釣り上げた、何とも歪で不気味な笑みを。
「単なる趣味さ。君のような男に催眠術をかけて、あれこれ好き勝手に遊ぶのがさ」
「趣味……? 催眠術だと……!?」
どういう訳かまるで分からなかった。高校限りの付き合いではあったが、俺の知る限り、御手洗司郎という男はこんな変態趣味を持っているような奴ではなかった。それがどうして――。
「――どうしてこんなことを言い出すのか分からない、って顔をしてるね?」
「なっ……!?」
心の中を読んだかのようなその指摘に、俺は息を呑む。
「簡単なことさ。答えはこの中にあるよ」
そう言ってアライグマが取り出したのは、俺の高校時代の卒業アルバムだった。アライグマはそのアルバムを開いてぱらぱらとページをめくると、途中でその手を止めて俺にアルバムを見せてきた。
「ほら、このクラス写真。よーく見てごらん」
そのページには卒業当時のクラスメイト全員分の名前と写真が載っていた。当然、俺の写真もあるし、御手洗の写真だって――。
「――――は?」
そう。あるはず、なのだ。いや、御手洗司郎の写真は、確かに。そのアルバムのページに存在していた。
しかしそのページに載っている写真の『御手洗司郎』は、ブルドッグ系の雑種犬の獣人だった。少なくとも、アライグマには見えない。
俺は、アルバムを持つ男の顔を見る。小ぶりな耳、とんがった鼻先、目の周りを縁取る黒い隈模様。どこをどう見てもアライグマだ。だが何度見比べても、アルバムに載っている犬獣人の『御手洗司郎』とはまるで似ても似つかない。明らかに別人である。
「な、何で……? どういう……?」
「僕が本物の御手洗司郎じゃないからさ」
戸惑う俺に、御手洗、いや。アライグマの男が淡々とそう答える。
「言っただろう? 催眠術をかけて遊ぶのが趣味だって。君が僕のことを高校時代の同級生『御手洗司郎』だと思い込むようにしたんだよ」
「う、嘘だ……そんなわけ……」
「このアルバムが証拠さ。それとも君は、自分は絶対に間違えないって言い切れるのかい?」
「ひっ……」
アライグマの言葉に俺は息を呑む。先ほどまで疑いもしなかった記憶が、この男によって作り出された虚構だったのだ。その事実に俺は、自分の中にあった常識や日常といったものの一端が崩れ始めたような、そんな恐ろしさについ身体がぶるりと震える。
と、そのとき。忘れかけていた尿意がぶり返す。しかし両手両足は依然としてロープで縛られたままなので、トイレに立つことも出来ない。
「く、クソッ……! こんなときに……!」
「おやおや、随分と辛そうだね」
ベッドの上の俺を見下ろして、くすくすと笑みをこぼすアライグマ。一体誰のせいだと胸倉を掴んでやりたいが、今の俺には何も出来ない。せめて少しでも尿意を紛らわせるために、内股の体勢で両足をもぞもぞと動かすが、そんなことで尿意が収まるはずもない。
「くっ……ふっ、ぐうっ……!」
「そんなに我慢しなくてもいいじゃない。どうせ自分の家なんだし、汚したって誰も怒らないでしょ?」
「ふざけんな……いい歳こいたおっさんが、漏らしてたまるかよ……!」
怒りで噛み締めた牙の隙間から、ふうふうと荒々しい息が漏れ出している。だが息が荒くなっているのは怒りのせいだけではない。ゆっくりと、しかし確実に迫りつつある膀胱の決壊に対する焦りが、そうさせるのだ。
早くトイレに行かねば。そう思うが、両手両足の動きを封じるこのロープはよほど厳重に結ばれているのか、どれだけもがいても一向にほどける気配がなかった。
まずいまずい。早く。早くどうにかしないと。でないと、このままだといずれ俺は――!
「――漏らしたくないなら、切ってあげようか? そのロープ」
「は?」
呆けた声を出す俺に、アライグマは不敵な笑みを浮かべたまま話を続ける。
「そんなに漏らすのが嫌なら、そのロープを切ってあげるって言ってるんだよ。ただし、条件があるけどね」
「条件、だと……?」
「そう。交換条件。それさえ呑んでくれれば、ロープを切ってあげる。君がトイレに行けるように、ね」
アライグマは勿体ぶった口ぶりとともに、懐から出したハサミをわざとらしくちらつかせる。
「そう難しいことじゃないさ。僕はこれから君に関する質問をする。それにちゃんと答えてくれたら、ロープを切ってあげる」
「はあ? 何でそんな――」
「あれ。トイレに行けなくてもいいのかな?」
ちゃきちゃき、と音を立てて何度もハサミで空を切ってみせるアライグマ。まるで自分の主導権を見せつけるかのように。
「――分かった。さっさと済ませてくれ」
「ありがと。物分かりが良くて助かるよ」
アライグマはハサミを手にしたまま嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「あ。先に言っておくけど、もしロープを切ってる途中で暴れたら君を置いて逃げるから。殺されたくないからね」
「……分かってるよ」しっかりと釘を刺されてしまった。抜け目のない奴だ。
「オッケー。じゃあまずはテスト代わりに、簡単な質問から。君の名前は?」
「……ワタナベ、タクマだ」
「ワタナベさんは、どんなお仕事をされてるのかな?」
「高校で、現国の教師をしている」
「随分と立派な身体をしているけど、学生時代は何か部活でもやっていたの?」
「ラグビーをやってた」
「へえ、ラグビー部。どうりでこんなに立派な胸板をしているわけだ」
「あっ、おい!」
俺が制止するより先に、アライグマが俺の胸板に手を置いた。筋肉で張り詰められた大胸筋の硬さを確かめるように軽く撫でると、あっさりと手を離す。いや、わずかに指先だけ触れた状態で止めて、そのまま滑らせるように胸板をなぞる。そのとき、アライグマの指先が乳首の脇を掠めた。
「くあっ」不意な刺激に、思わず上ずった声を漏らしてしまった。
「ああ、ごめんごめん。ついうっかり」
口ではそう言っているが、アライグマの口元は下卑た笑みを浮かべており、狙ってやったことが丸分かりだった。
「乳首が感じるのかい?」
「そんなわけねえだろ……! ふざけてんのか……!?」
俺は腹の底から湧き出る怒りを覚えつつも、下腹部から這い寄ってくる尿意を堪えながら、アライグマを睨みつける。
「ごめんごめん。それじゃ、お詫びの印に……」
アライグマはおどけながら、手に持ったハサミをロープに近付ける。
ちょきん、という心地よい音とともに左手が少し軽くなった。どうやら本当にロープを切ってくれたらしい。
本当ならばここでアライグマの胸倉を掴んで頭突きの一つでも食らわせてやりたいが、それで万が一こいつが気絶したら、誰が俺のロープを切ってくれるのだろうか。
先ほどの忠告もあるし、何よりこいつは約束通りロープを切ってくれたのだ。ならばここは下手に抵抗せず、大人しくしているのが良いだろう。そうすれば、この邪魔くさいロープから解き放たれて、悠々とトイレに行けるのだから。
「……で? 他に質問はねえのかよ?」
「あれ? 怒らないの? いい子だねえ」
「バカ言うな。こんな悪ふざけ、とっとと済ませてほしいだけだ」
「分かった。それじゃあ次は――……」
未だ縛られたままの俺の傍らで、じっくりと考え込むアライグマ。こんな異常な状況にもかかわらず、俺はどこか楽観的でいられた。アライグマの質問はそれほどおかしいものではないし、この調子なら何事もなくこの問答を終わらせることが出来るはずだ。俺はそんな風に思っていた。
思ってしまっていた。この男が、次に何を言い出すかも知らずに。
「――ワタナベさんの、初体験はいつ?」
「………………あ?」
何の脈絡もないその質問の意味が分からず、俺の思考が止まる。
「あ、もしかして童貞?」
「バカ言うな! 初体験の意味ぐらい知ってるっつーの!」
「じゃあどうして答えられないの?」
「アホか! 何で答えなきゃなんねえんだよ!? ふざけてんのか!?」
「真面目だよ。至って大真面目だ。僕は真剣に、君がいつ童貞を卒業したかを知りたいんだ」
俺の恫喝に対してもアライグマは平然と、そしてまっすぐな目で、不気味な笑みを浮かべたまま俺を見つめる。その手には、依然としてハサミが握られている。
「どうする?」
ハサミを手にしたまま、アライグマは変わらず平然とした様子で訊いてくる。
言葉は通じるのに、ところどころで話が通じなくなる。その歪さに、俺の背中にはじわりと嫌な汗が滲み出てくる。忘れかけていたこの状況の異常さと、それに対する恐怖心が心の隅から染み出してくる。
しかしだからと言ってこんなふざけた質問に対して真面目に答えるつもりはない。俺は両目を閉じて、ぐっと口を固く閉じる。このまま沈黙を押し通せば、この変態男も諦めて違う質問に変えるはずだ。俺は閉じた口に更に力を入れて固くする。
「ワタナベさん? どうしたのかな?」
奴が呼びかけてくるが、俺は何も答えない。聞こえないふりをして、相手が諦めるのを待つ。
「おーい、ワタナベさーん」
無視だ、無視。俺は何も答えないし、何も聞いてない。何も聞こえない。そう強く念じ続ける。
「ワタナベさん、ワタナベさん――……」
すると奴の声が、少しずつ遠く感じてきた。身体の力も自然と抜けてきて、自然と意識が遠のいていく。どうやらまだ酒が抜けきっていないのか、再び眠気が来たらしい。
丁度良い。こんな訳の分からない変態男の相手をするのはもう疲れた。今はまだ身動きも取れないことだし、ここは一旦休むことにしよう。
おれはそのまま、吸い込まれるような眠気に身を委ねた。
[newpage]
――ワタナベさん。最近セックスしたのはいつ?
夢の中で、誰かにそんなことを訊かれた。ここ最近は生徒が自殺した一件で保護者や報道陣の対応に追われて、それどころじゃなかったから、はっきりとは思い出せない。おそらくだが、一か月以上前に彼女とヤったのが最後だろう。
――彼女っていうのは、あの黒猫の女性?
そうだ。同僚の紹介で知り合って、酒や食べ物の好みが同じだったから気が合って、そこから付き合うようになった。もう三年近く付き合ってるかな。
――じゃあ初体験も、その彼女と?
いや、違う。初体験は……そう。確か高校生のときだ。当時付き合っていた彼女の家へ遊びに行ったとき、誰もいなくて……二人でゲームして遊んだ後に彼女が「汗かいたからちょっとシャワー浴びてくる」って言って……。心のどこかで期待しながら待っていたら、下着姿で戻ってきた彼女が……その、俺のを……。
――君のを、触ったのかい? 例えば、こんな風に――……。
声の主と思われるそいつの手が、いきり立つ俺の股間の先端を撫でる。多忙な毎日でしばらく抜いていなかった俺の愚息はひどく敏感で、簡単な愛撫だけでも痺れるような快感が全身を貫く。これほどの快感を覚えたのは、初体験のときに下着姿の彼女がズボン越しに俺の股間を撫でてくれたときぐらいだろう。
――精通したときも、こんなに勃っていたのかな?
謎の声にそう訊かれた俺は、記憶の糸を辿って思い返す。田舎で生まれ育った小学生の俺は当時、相当な悪ガキとして有名で、よくふざけてフルチンのまま家や庭を走り回って、母を怒らせたり妹をからかったりしたものだ。
そんな俺が精通を迎えたのは、小学生三年生だか四年生だかの頃だ。夏休みに何かの集まりで我が家を含めた親戚連中が祖母の家に大集結したときのこと。その親戚の中に、大人しそうな雰囲気の女子中学生がいた。
祖母の家には数日間ほど泊まる予定だったので、当然、夜には風呂に入る。俺はその大人しそうな女子中学生が風呂に入るタイミングを見計らって、驚かせてやろうと自分も服を脱いで風呂場に入ってやった。
こういうとき、気の弱い妹が相手ならば驚いてびーびー泣き喚くので、当然その女子中学生もそうなるだろうと予想していた。しかし。
『――どうしたの? 一緒に入る?』
彼女は、大人しい声色で、とても落ち着いた口調でそう尋ねた。その冷静さに、むしろ俺の方が答えに詰まってしまった。
裸になっていた俺は、場の流れでそのまま風呂場に入り、彼女に背中を洗ってもらった。泡に包まれた彼女の肉体からは、柔らかい石鹸の香りが漂っていた。湿布臭い母や、べそっかきの妹とは違う、年上の女性の肉体から放たれるフェロモンのようなものに、当時の俺はドキドキしていた。
『ここ、元気だね』
艶めかしい声とともに、彼女は背後から抱き着くようにして俺の愚息へと手を伸ばした。彼女のフェロモンに当てられた俺の小さな愚息は、ぴんといきり立っていて、彼女の柔らかくて細い指がその愚息を包み込む。
『ちょっとごめんね。でもキミは男の子だから、我慢できるよね?』
そう言うと彼女は、包み込んで俺の愚息を上下に擦り始めた。初めての感覚に俺は逃げ出しそうになったが、自分からこの場に来ておいてそんなことをするなんて、何だか負けたような気がしたので、俺はぐっと歯を食い縛ってその感覚と戦うことにした。
しかし彼女の手淫はとても心地よく、気付けば牙の隙間から荒い息が漏れ始めて、下腹の奥底から何かがせり出しそうだった。まるで小便でもするときのように。
風呂場で、しかも女性の手で小便を漏らすなんて、そんな恥ずかしい真似できるわけがない。それでも彼女の手が俺の愚息を掻き乱すたびに、俺の衝動はどんどんと加速していき、そして絶頂を迎える――と思われたそのときだった。
彼女の手は不意に止まり、俺の愚息から離れていく。何が起きたか分からず俺が背後を振り返ると、彼女はにこりと微笑んで。
『よく我慢できたね。いじわるしてごめんね?』
彼女はそう不敵に笑うと、自分の身体に纏わりついている泡を洗い流すと、湯船に浸かることなく風呂場を去った。
風呂場に取り残された俺は、彼女との行為と快感が忘れられず、見よう見まねで彼女を思い返しながら風呂場で『再現』し、そしてそのまま一人で果てた。それが、俺の精通の記憶である。
その後、彼女とは二度と会うことはなかったのだが、その強烈な体験は幼い俺の記憶に強く刻み込まれた。とても懐かしい記憶だ。
――それじゃあ、初恋もその人なのかな?
いや。初恋は確か、小学生のときよりももっと前……そう、確か幼稚園の先生だったはずだ。誰が先生と結婚するか、みたいなことで友達と喧嘩をした気がする。これも懐かしい記憶ではあるが、かなり幼い頃の記憶なので、少し曖昧なところもあってはっきりとは思い出せない。
――ワタナベ、タクマくん。
誰かが、呼んでいる。誰だろう。
――起きて、タクマくん。お昼寝の時間は終わりだよ。
ああ、もうそんな時間かあ。先生がおれを呼ぶ声が聞こえて、頭の中がぼんやりとしたままゆっくりと目を覚ます――。
[newpage]
約束通り、彼の両手と両足を縛っていたロープを切って、更には結び目も解いて自由にしてあげてから、僕は彼に呼びかける。
「起きて、タクマくん。お昼寝の時間は終わりだよ」
「んあ……」
僕に名前を呼ばれた彼が、たどたどしく目を覚ます。彼はその丸っこい上体をゆっくりと起こして、寝ぼけ眼のままキョロキョロと暗い室内を見渡す。
「あれ……? ここ、どこ……?」
「ここは先生の家だよ」
「せんせえの家……?」
まだ眠気から覚めていないのか、それともきちんと『暗示』が効いている証拠か、彼は舌足らずな口調でそう首を傾げる。そんな彼に僕は「そうだよ」と首をゆっくり縦に振ってみせる。
「今日は、タクマくんのお父さんやお母さんが出かけていてね。先生の家に来てもらったんだ」
「そおだったっけ……? あっ――……!」
彼は何かに気付いた様子を見せると、弾けるようにベッドから飛び降りた。そのまま走り出してどこかに行ってしまう、かに思われたが、彼はベッドから数歩のところで急に立ち止まった。そしてもどかしそうに股間を押さえた状態で、足をジタバタと動かしてその場で忙しなく足踏みをしながら辺りを見渡している。
「どうしたんだい、タクマくん。そんなに慌てて……」
「と、トイレ! せんせえ、トイレ!」
「先生はトイレじゃないよ?」
「ちがう! トイレ! トイレどこ!?」
「ああ、そういうことか」
僕はわざとらしくポンと拳で手のひらを叩いて、合点がいった振る舞いを見せる。
「トイレなら――確か、ええっと……。どこだったかな。引っ越したばかりで間取りをよく覚えていなくて……」
「は、はやく! はやくはやく! はやく教え――……」
教えて、と言い終わるより先に彼は「あっ」と小さく声を漏らしたのが聞こえた。
そしてほどなくして彼のパンツ、内股気味になっているその股間辺りを中心にシミが広がり始めた。そのシミがパンツの裾にまで到達すると、黄ばんだ雫が太ももを覆っている筋肉の隆起に沿って流れていく。その雫は股間を押さえている彼の両手からも滴っており、足元に広がっている水たまりに落ちるたび、小さな飛沫とともにアンモニア臭が香り立つ。
「あ、ああ……うああ……」
四十代半ばの中年男性の身体で失禁してしまった彼は恥ずかしさか、あるいは悔しさからかその険しい強面を歪めると、ぽろぽろと大粒の涙を流し始める。まるで粗相をしでかした子供のように。
いや、今まさに彼は子供となっているのだ。肉体は大人でも、その精神や記憶は子供時代に逆行している。だからこそ彼は自分の家にも関わらずトイレの場所を把握できていないし、こんな醜態を晒す原因となった僕に対しても怒りを露わにして暴れることもなく、ただただ自分の不甲斐なさに涙することしか出来ないのだ。
仕込みが万全に整ったことに、僕は思わず笑みをこぼす。しかしすぐに手で口元を覆い、笑みを取り消すと、僕はさも申し訳なさそうな表情を浮かべて彼に歩み寄る。
「ご、ごめんね? そんなに我慢してたなんて、先生知らなくて……」
「うっ、うぐっ……うう~……っ!」
彼は俯いて下唇を噛み締めたまま、言葉にならない声を漏らして泣いている。よほど恥ずかしいのだろう。僕は彼の両肩にぽんと手を置いた。
「大丈夫。ここは先生の家だから、お母さんやお父さんに怒られる心配をしなくていいんだよ」
「うう……ひぐっ……」
「洗濯物はあとで先生がやっておくから、一緒にお風呂入ってさっぱりしよう。ね?」
「……うん」
小さくそう頷くと、彼は股間から両手を離した。僕はそんな彼の背中をぽんぽんと優しく叩いて、一緒に風呂場へと赴いた。もう既に風呂は沸かしているので、脱衣場に入ってしまえばあとは服を脱いで入るだけだ。
「はい、バンザイして」
「い、いいよう。ひとりで出来るから」
服を脱がそうとした僕に対して、彼はそっぽ向いて自分でいそいそと服を脱ぎ始める。少し心惜しいが、ここで無理強いをするとこの後の本番に支障をきたす恐れがある。僕は自身の欲望をぐっと堪えて、一人で服を脱ぎ始める。
洗濯機にまとめて服を放り込んだ僕たちは、風呂場の扉を開けて一緒に中へ入る。この家の浴室は大人二人が入るには少々手狭だが、そのおかげで僕たちの身体は自然と近付き、少し動けば密着しそうな状態になる。また浴槽に張っている湯船から立ち上る湯気も相まって、この空間の熱気がどんどんと高まっていく。
「それじゃあ、背中から洗っていくね」
僕はボディソープを適量出し、それをタオルにしみ込ませて泡を立てていく。泡を纏ったタオルを彼の背中に這わせて、上下に動かす。柔らかな香りとともに泡が立つたびに、シロクマ獣人の彼の白い毛並みの奥までしみ込んでいき、ごわついた被毛が少しずつしなやかになって倒れていく。
「気持ち良いかい?」
「……うん」
前屈みの体勢で照れ臭そうに答える彼に、僕は微笑ましくなった。僕は彼の背中を洗うために動かしている手を肩の方へと動かしながら、ゆっくりと立ち上がり、身を乗り出して彼の股間を見下ろす。彼が両手で必死に隠そうとしている、その股間の状態を確かめるために。
「おや、どうしたんだい? また我慢しているのかな?」
「あっ、ちょっと待っ――」
待って、と彼が言い終わるより先に、僕は彼の両手の隙間をかいくぐって、その股間にそびえ立つモノへとそっと手を伸ばす。手触りだけでも肉棒と分かるほどにそれは太く、浮き彫りになっている血管が脈打つたびに、触れているこちらの指先が解けそうなほどの熱を放っている。
中年男性の勃起した逸物に、僕はふっと笑みをこぼす。
「――ここ、元気だね?」
薄く微笑んだ口元から漏れる吐息に交えて僕がそう囁くと、彼は静かに俯いた。まるで先ほど粗相をしでかしたときのように。
その幼気な仕草に、僕は笑みを堪え切れなかった。口の端がピクピクと動くのを感じながら、何とか笑い声を漏らさないようにして平静を装いながら、口を開く。
「ちょっと、ごめんね。少しの辛抱だから、我慢できるよね?」
そう言って僕が彼の肉棒を優しく手で包み込むと、彼は一瞬びくりと身体を震わせる。しかしすぐに動きを止め、すっと大人しくなる。その反応を見て僕は、彼の肉棒を握り込んでいる手を緩やかに上下させる。
「んっ……ふうっ……」
僕の手の動きと連動して、彼が艶っぽい吐息を漏らす。それに呼応するようにどくどくと力強く脈打つ肉棒を、僕は徐々に速度を上げながら扱いていく。撫でるような緩やかな愛撫が、いつしか磨き上げるような激しいものへと変化していく。
「ぐっ、ううっ、ふうっ……ふうっ……!」
激しさを増す手淫に歯を食い縛る彼の口元から、荒々しい吐息が漏れる。無理もないだろう。記憶と精神が逆行している今の彼にとっては、この行為とそこから生じる快感は、言葉にし難いものなのだ。出来ることと言えば、こうして声を殺して耐えることだけだろう。僕はそんな彼の耳元に顔を近付ける。
「どうしたの? 痛い?」
彼の肉棒を扱きながらそう囁くと、彼はふるふると首を横に振った。
「ち、ちがうっ……でもっ、何か……出ちゃうっ……!」
「何だろうね。おしっこかな?」
「いやっ……! 漏らしたく、ないっ……!」
涙を浮かべてそう訴える彼。そんな彼の耳元に、僕は再び顔を近付ける。
「大丈夫。先生がいるからね。今度はもう、我慢しなくていいんだよ」
そう囁いた瞬間、彼の肉棒を扱く僕の手に、何かぬめりのある液体が垂れてくるのを感じた。おそらく亀頭から漏れだした我慢汁だろう。僕はその我慢汁を巻き込んで、潤滑剤代わりにしてより一層激しく扱き上げる。
「んん~~~~っ!!」
押し寄せる快感に耐えているのか、彼は声を押し殺して雄叫びを上げながら、その両足をガクガクと震わせている。そして――。
「あ、あっ、だめっ、だめ! で、出ちゃっ、ああ~~~~~~っ!!」
シロクマ獣人の中年男性が、その野太い声をまるで絹を裂くときのように甲高く響かせて、使い込まれた太い肉棒の鈴口からどくどくと大量の精液を吐き出した。初々しい声色からは想像できないほど激しく噴き出た精液は、熱気満ちる浴室中に雄臭さを撒き散らしながら床や壁をべっとりと白く汚していく。
「あがっ、はあっ、はあっ……はあっ……」
大きく開けた口から舌をだらしなく垂らしたまま、彼は放心したように天井を見つめたまま苦しそうに息を漏らしている。そして脱力したのか、天井を仰いだ彼の身体は後ろ向きにふらりと倒れ始めた。
「おっと」
僕が慌てて彼の両肩を掴んで抱き留めると、天井を仰ぎ見る彼の目と視線がかち合う。
微睡むように薄く開いている彼の瞼から覗き見える彼の瞳は、疲弊しているためか焦点が合っておらず、どこを見つめているのか分からない。しかし、にやけたその口元と、赤らんだ頬が、彼の悦びを雄弁に物語っていた。
「――気持ち良かったかい?」
「うん」
僕の問いに、彼は素直にこくりと頷いた。
「すごかった……こんなの、初めて……♡」
四十代も半ばを過ぎた中年男性のくせに、そんなことを言って恍惚の表情を浮かべるシロクマ獣人の彼。今、こうして僕の手に抱かれているのはもう学校で教鞭を取っている教師ではない。幼い頃に親戚の女性の手で精通を迎えた少年でもない。
僕の手で初体験の記憶を改竄され、男の手で射精する悦びを覚えてしまった、哀れな大人のなりそこないでしかないのだ。
さて。この大人になりそこなった子供もどきの彼に、次は何を教育してあげようか。次回の授業に対する想像を膨らませて、僕は再び薄っすらと笑みを浮かべる。