ミチヒロに似てると思うんだよな。カノープスってよ――。
ある日の冬の夜。親友のパンダ獣人から言われたその言葉を思い出していた熊獣人の俺、[[rb:隈島道弘 > くましまみちひろ]]は、ベッドの上に寝っ転がって天井を見上げたまま、その言葉の意味に思考を巡らせる。
カノープス。柔道部の親友である[[rb:伴田良和 > ばんだよしかず]]によるとその星は、夜空の中で二番目に明るいとされる冬の一等星らしい。
しかし冬に見える星で有名なのは、オリオン座の右肩に赤く輝くベテルギウス、こいぬ座のプロキオン、そして夜空の中で一番明るいとされる有名な一等星シリウスといった、俗に言う『冬の大三角』を形作る星ばかりで、カノープスの知名度はそれほど高くない。
しかもカノープスは日本からでは地平線近くの高さにしか上らないため、平野でないと見えないらしい。現に、山に囲まれているこの街の狭苦しい夜空の中には見えず、夜の公園で良和から冬の星について教えてもらったときもその星だけ見えなかった。
まるで、天高く輝く星々から距離を置いているかのように。その星は独りでいるのだ。
そんな星に似ていると、良和は俺に言った。けれど、それは仕方ないことなのかもしれない。
何故なら俺は実際、周りと距離を置いているから。そして何より、親友である良和と距離を置かなければならない理由があるからだ。
男の俺が、親友である良和のことを好きだなんてことは、絶対に。絶対に知られてはいけないから。だから俺はお前と距離を置かなくてはならないのだ。だから俺は、お前に近付くことが怖くて仕方ないのだ。
たとえもう二度と、会えなくなったとしても。俺はもう、お前との思い出に触れることすら怖いのだ。
【忘れないでカノープス】
ピピピピピピ! ピピピピピピ! ピピピピピピ!
「んあ……?」
容赦なく耳に突き刺さるそのアラーム音に、俺は寝ぼけ眼のまま腕を大きく動かして、枕元で激しく震えているスマホの目覚ましアラームを止める。いつもの俺ならそのまま二度寝をしているところだったが、今日はそうもいかないため、俺は重たい身体を起こす。
「ふあ~あ……」
両腕を伸ばして大きく伸びをしながら、同時に口も大きく開けて盛大にあくびをする。それでも目は完全に開かず、俺はどす、どすと重たい両足を一つずつ床に下ろしてから、ふらふらとした足取りで彷徨いながら洗面所へと向かう。
きゅっきゅっとハンドルを捻った蛇口から勢いよく水が出てくる。俺はその水を両手に取って思い切り顔に当てる。ぱしゃんっと心地良い音とともに眠気が吹っ飛んだ俺は、タオルで顔を拭きながら鏡を見る。
歳を重ねてくたびれた毛並みはぼさぼさで色褪せており、窪んだ目元にはうっすらとシワが刻み込まれているくせに、顎周りにはだらしない贅肉がついている。鏡に映り込む俺の顔には、高校時代に柔道部で活躍した栄光の面影は一切なく、ただただ疲れ果てた四十手前の中年太りの熊親父にしか見えなかった。
あれから二十年以上も経ったのか……。そんなことを考えながら、俺は先ほどまで見ていた夢のことを思い返す。
高校で柔道をやっていた俺は、同じ柔道部員である伴田良和と出会った。口調が乱暴でガサツな性格の俺と、丁寧な口調と穏やかな性格の良和。正反対に見える俺たちは不思議と馬が合い、部活では共に切磋琢磨し競い合うライバルとして、時には夜空を見上げながら星について語り合う親友として、いつも一緒にいた。
だがある日、俺は気付いてしまったのだ。
周りのみんなが気になる女子と遊んだり付き合ったりしている中、俺だけはそういった興味が湧かないこと。
そして親友として一緒に過ごしてきた良和と話しているときや、良和の笑顔を思い出すとき。そんなときに、俺の胸が高鳴ってしまうことに。
男の俺が、男友達の良和に、恋をしているのだということに。
そのことに気付いた俺は、周囲と距離を置くようにした。クラスメイトたちが女子の好みで盛り上がっている中に、仲間外れの俺がいる意味もないし、何より『自分が仲間外れであること』を、みんなに知られること自体が怖かったからだ。
けれど。そんな俺に、よりにもよってあいつだけが、良和だけが。俺から離れようとしなかった。
高校を卒業しても俺と同じ大学に進み、同じように柔道を続け、同じ酒を飲んだことも何度もあった。
しかもそれだけじゃない。俺と良和の付き合いがきっかけで、柔道大会の応援席で知り合った俺の兄と良和の妹がこれまた意気投合して交際に発展、更には結婚して子供まで生まれてしまったのだ。
親友への恋心を知られまいと距離を置こうとしていたはずの俺は、気付けばその親友と家族ぐるみの付き合いをすることになってしまったのである。
二十数年という歳月は、俺と親友の関係性にそれだけの変化をもたらすのだ。それだけの時間が経てば俺の毛並みが色褪せたり、シワが増えたり贅肉がついたりしたとしても何ら不思議ではない。
そして。この歳月がもたらした変化は、それだけじゃない。
顔を洗い終えた俺は洗面所からベッドに戻り、改めてスマホを見る。通知欄を見ると、甥っ子からの新着メッセージが一件届いていたので、俺はメッセージアプリを開いてその内容を確認した。
『おはよう! 今日のデートも色んな所に連れていくから、おじさんも楽しみにしててね!』
興奮を隠しきれてないその文面に、俺は肩を竦めつつも口元を緩める。
このメッセージの送り主は先ほど言ったように、結婚した俺の兄貴の息子、[[rb:隈島光樹 > くましまみつき]]。生まれたときから可愛がってきた愛しい甥っ子で、今や立派に成長して一人暮らしをしているピチピチの大学生である。
そして同時に、去年の年末から付き合い始めたばかりの、俺の恋人でもある。
三月某日。今日は愛しい甥っ子改め、恋人でもある光樹との、待ちに待った久しぶりのデートなのだ。
「――よしっ」
小さく拳を握り締めて気合を入れ直した俺は、メッセージアプリを閉じるとすぐさまクローゼットを開けて、今日のデートに着ていく服を選び始める。
*
甥っ子の光樹から告白されたのは、去年の夏のことだ。
俺の出張先が光樹の住むアパートの近くだと知った兄貴が「様子を見てこい」とうるさくてかなわなかったのと、俺自身久しぶりに可愛い甥っ子の顔を一目見ておきたかったので、光樹の家を訪れたのだ。
久々に会った甥っ子はパンダ獣人らしい丸々としたぽっちゃり体型に育っており、一方でにこっと笑うその顔は幼い頃から何一つ変わっていなかった。そんな甥っ子に俺は、成長を喜ぶ気持ちと昔を懐かしむ気持ち、二つの感情に包まれた。
光樹とは最初、何気ない世間話から始めた。小さい頃の光樹は補助輪なしで自転車に乗れなかったよなあと俺がからかうと、反対に四十手前になっても俺がまだ独り身であることを光樹から指摘されてしまい、思わぬ反撃を食らってしまった。
それから麦茶を飲み交わしながら笑い合ったり、一丁前に生意気な口を叩くようになった甥っ子にプロレス技を仕掛けたりと、楽しい時間を過ごした。
そんなやり取りの中で光樹が「おじさん相手いないでしょ?」と言った風に、またまた小生意気な口で俺の独身事情をいじってきたものだから、俺は売り言葉に買い言葉で「そういう相手の一人や二人ぐらいいるっつーの!」と見栄を張ってしまった。
そんなとき、光樹は信じられない言葉を口にした。
「――でもおじさんはさ、ヨシカズおじさんのことが今でも好きなんでしょ?」
最初は、耳を疑った。柔道部のみんなにも、兄貴にも、もちろん良和本人にも、誰にも言ってなかったのに。どうして光樹がそんなことを知っているのか。
事情を聴くと、光樹は実家の大掃除を手伝っているときに、俺の部屋から出てきた卒業アルバムの間に挟まれていた手紙を読んだというのだ。
その手紙は、良和が結婚するという知らせを聞いた俺が酒の勢いに任せて、高校時代からずっと苦楽を共にしてきた親友への感謝の言葉をひたすら綴った後、最後の一文に、ずっと伝えることが出来なかった恋心を添えたものだった。
本来ならばこんな手紙、墓まで持って行くつもりだったのに、俺という奴は当時酔って書いたせいで肝心の手紙をどこにしまったかも忘れてしまい、それを実の甥っ子に読まれてしまった、というわけだ。
こんな間抜けな中年親父に対して光樹は、拒絶するわけでもなく馬鹿にするわけでもなく、ただ優しく受け止めてくれた。そんな光樹の優しさに、俺はなんて良い甥っ子を持ったのだろうかと叔父として誇らしくなり、涙ぐみそうになったものだ。
……まさかその直後に、「おじさん、前からずっと好きでした。俺と付き合ってくれませんか?」と実の甥っ子から告白されるとは思ってなかったが。
もちろん、最初は俺も断ろうとした。叔父と甥っ子で付き合うなんていけないことだと思ったし、何より光樹と付き合うなんてことになったら、あの鬼のような兄貴が俺をどんな目に遭わせるか分かったものではない。想像するだけでも身震いするほど恐ろしい。
……まあ、色々あって俺は結局、実の甥っ子である光樹と付き合うことになったわけなのだが。本当、人生というものは何が起きるか分かったものではないと、四十手前になって改めて実感させられた。
そんな紆余曲折を経て付き合い始めた俺たちは今日、久しぶりのデートをすることになっている。
待ち合わせ場所である都内某所の駅に、地方都市から在来線と特急電車を乗り継いで三時間ほどかけてやってきた俺は、スマホの時計を確認する。今は待ち合わせ時間の三十分ほど前だ。光樹はまだ来ていないが、先ほど届いた新着メッセージを確認するとどうやらあと十分足らずで到着するらしいので、俺は大人しく駅前で待つことにした。
高架線や地下鉄が集中しているこの駅の周辺は人通りが激しく、ほとんどの人がスマホを片手に持って、軽く俯いた姿勢のまま足早に駅前を通り過ぎていく。
そんな雑踏を遠巻きに眺めながら、俺はふと上を見上げた。
光樹が住むこの都内の街は、どこもかしこも高層ビルが立ち並んでおり、そのせいで雲一つない晴天だというのに空がやけに狭く感じた。山に囲まれていた俺の故郷の方がまだ広く感じるほどだ。
いや。独りぼっちの一等星、『カノープス』が見えないという点では、どちらの空も同じようなものかもしれないな――。
「なーに黄昏ちゃってんの? おじさん」
「どわあっ!?」
急に声をかけられた俺は驚きのあまり、大袈裟に飛びのいて声の主を振り返る。するとそこには、くすくすと笑うパンダの青年、隈島光樹がいた。
笑うたびに揺れる光樹の肩は幅広く、また肉付きの良い丸っこい輪郭を描いている。その輪郭に合わせたかのようにごく自然に着こなしている水色のノーカラージャケットと無地の白パーカーの組み合わせは、春の晴天を思わせるような爽やかなコーディネートだった。
恋人の可愛らしい服装に俺は誉め言葉の一つでも贈ってやりたかったが、その前に。先ほどの俺の驚きようにまだくすくすと笑い続けている甥っ子に対して、叔父として一言物申してやることにした。
「こらミツキ! 急に声をかけんじゃねえ! ビックリすんだろうが!」
「何言ってんのさ。俺、何度も声かけたよ? おじさん、おじさーん、って」
「え? ほ、本当か?」
俺が目を丸くしてそう尋ねると、光樹は「うん」と答えた。
確かに周囲の雑踏が気にならないぐらい、空を見上げたまま考え耽っていたかもしれないが、まさか声をかけられても気付かないほど放心していたなんて……。俺はおそるおそる光樹の方を見遣る。
「……俺、別に変な顔してなかったよな?」
「え~? さあ、どうだろうね?」
そう言って光樹はまたくすくすと、いたずらっぽい笑みをこぼす。もしかしたらだらしない間抜け面を光樹に見られたかもしれないと思うと顔がかあっと熱くなり、俺はそれを覆い隠すように手を顔に当てた。
それにしても、と俺は手で顔を覆い隠したまま、指の隙間からちらりと光樹の顔を見る。
俺をからかって楽しそうな笑みを浮かべるパンダの青年。そんなパンダの笑顔に、俺は思わずあいつの――良和の面影を重ねていた。
そう言えばあいつもこんな風に、俺をからかっては楽しそうに笑っていたな――と、親友であるパンダ獣人との懐かしい青春の思い出を振り返っていると、目の前の甥っ子パンダが不思議そうな顔でこちらを覗き込んできた。
「どうしたミツキ? 俺の顔に何かついてるか?」気になった俺は思わずそう尋ねる。
「いや、おじさん。何か嬉しそうだなーって思ってさ。俺の顔見ながら薄っすら笑ってたし」
「はえっ?」
光樹にそう言われた俺は、今度は自分の口元を手で覆い隠した。間抜け面を浮かべたり顔が赤くなったり、挙句の果てには甥っ子の顔を見ながら口元が緩んだりと、自分の表情筋の緩さに恥ずかしさを通り越して忌々しさすら覚えてきた。
「おじさん、今度はそんなに眉間にシワを寄せてどうしたの……?」
「……何でもねえ」
心配そうに見つめる甥っ子の眼差しを振り切るように、俺はしかめっ面のままぷいっと目を逸らした。
けれど光樹は、そんな俺の腕に両手を回してしがみついてきた。
「お、おいっ、ミツキ!?」
「だって。せっかくのデートなのにおじさん、全然楽しそうじゃないんだもん」
慌てふためく俺に光樹は子供っぽく唇を尖らせたまま、依然として俺の腕から離れようとしない。それどころか更に力を入れて、離れまいと言わんばかりに俺の腕にしがみつこうとする。
「俺と一緒にいるの、イヤなの?」
上目遣いでそうこちらを見つめてくる光樹のつぶらな瞳に、俺は再び目を逸らした。
「……イヤなわけ、ねえだろ」
そっぽ向いたまま、俺はそう呟く。そんなぶっきらぼうな俺の言葉に、光樹は「えへへ」と嬉しそうな笑みを漏らしながら、しがみついている腕ごと俺の身体にすり寄ってくる。
「おじさん。今日のデート、楽しみだね」
「…………ん。そだな」
嬉しそうな声を上げる光樹に、俺は相変わらずぶっきらぼうな声で答える。
走り回りたい気持ちをぐっと堪えて、俺は光樹の歩幅に合わせてゆっくり歩き始めた。
*
今回光樹が提案してくれたデートプランは、簡単に言うと映画デートだった。
最近話題の恋愛映画が気になるから一緒に観に行きたい、と光樹にせがまれた俺は叔父として、そして恋人として、そのお願いに付き合うことにした。
そして今日。大型ショッピングモールの最上階に位置する映画館フロアに来た俺たちは、光樹が事前に予約と支払いを済ませていた鑑賞チケットの発券を済ませると、売店でポップコーンとドリンクを購入してから劇場前の係員にチケットを見せて入場した。
上映五分前ということもあり、劇場内にはもう既に大勢の客が席についていた。ポップコーンとドリンクを両方運べる専用のトレイを持っているせいで両手が塞がっている俺は、チケットを見ながら席を探してくれている光樹の後を追ってついていく。
「えーっと、俺たちの席は……あっ。ここだよ、おじさん」
そう言って光樹はチケットに印字されている席に座る。俺はトレイの上のポップコーンとドリンクをひっくり返さないよう慎重に、光樹の隣の席に腰を下ろす。
「よっこらしょ……っと」
「うわ。おじさんくさ」
「うるせえ! 心はまだまだ若いっつーの!」
俺が反論すると、光樹は面白そうに「ふふ」と笑った。
「ごめんごめん。でも一つ訊かせてもらうけどさ、そのトレイ、膝の上に抱えたまま映画観るつもり?」
「え?」
光樹に言われて俺は、膝の上に抱えているトレイを見る。トレイと聞くと通常は平らなものを想像するが、このトレイはドリンクとポップコーンを差し込めるように一部がへこんだ特殊な形状をしており、簡単に倒れなさそうな構造になっている。
先ほど売店で店員からこのトレイを受け取ったときは「最近は便利なものがあるんだなあ」と感心したものだが……。
「……膝の上に置く以外、どうするんだ?」
純粋にそう疑問に思った俺が訊き返すと、光樹はまたふふっと小さく笑みをこぼした。
「こうするんだよ。おじさん、ちょっと貸して」
俺からトレイを受け取った光樹は、トレイのドリンク部分を、俺たち二人の席の間にあるドリンクホルダーに突き刺した。そしてそのドリンクホルダーを中心にトレイをくるりと回転させ、トレイの窪みに嵌まった状態のポップコーンを俺の前へと持ってきた。
「ほら。こうしてトレイごとドリンクホルダーに差し込んじゃえば、両手が空いた状態で映画を観れるでしょ?」
「おお~! す、すげえ~……!」
専用トレイの画期的な機能性に俺は、今の映画館にはこんな便利なものがあるんだなあ、と今一度改めて感嘆の息を漏らす。その反応が新鮮だったのか、隣の席からまたまた「ふふふ」と光樹の微笑ましそうな声が聞こえてきたが、あまり気にならなかった。
「そう言えばこの映画、どういう話なんだ?」
俺はトレイから顔を上げて光樹にそう話しかける。
「恋愛もので、ちょっと切ない系? みたいなんだよね。だからめちゃくちゃ泣けるらしいよ」
「へえ。そうなのか」
「だからおじさん。あんまり派手に泣かないように何とか声を押し殺してね。上映中の雑音及び騒音は他のお客様のご迷惑になる恐れがあるから」
「おい。何で俺が泣く前提なんだよ!」
「だっておじさんこういう映画好きそうだけど、絶対泣きそうなんだもん。だから心配でさ」
「そりゃ確かにちょっとは泣くかもしれないけどなあ、俺だっていい歳した大人なんだぞ! 周りの客の迷惑になるほど大泣きするわけないだろ!」
「本当に~?」
「当たり前だろ!」
ふんと荒っぽい鼻息とともに、俺は腕を組んでスクリーンを見据える。すると丁度シアター内の照明が暗くなっていき、やがてスクリーンに上映前お決まりのマナー説明や、映画の予告などが流れ始めた。
そんな中、俺はちらりと隣に座る光樹に視線を向ける。
見ていろ光樹よ。確かに俺は少々感情が顔に出やすいところがあるかもしれないが、今日は大事なデートなのだ。こんな公衆の面前で大泣きして大事な恋人であるお前に恥をかかせるような真似は、絶対にしない!
心の中でそう強く意気込んだ俺は視線をスクリーンに戻し、うっかり泣かないようにと顔に力を入れる。
ほどなくして予告が終わり、いよいよ映画本編が始まった。
『同じ、夢を見る。いつの記憶だったか思い出せない、誰か、大切な人と過ごしたはずの、あの日の夢を――』
主人公と思しき男性の声で語られたモノローグとともに、スクリーンいっぱいに満天の星空が映し出される。俺の瞳に広がるその星空は、いつの日か良和と一緒に見上げた夜空に似ているような気がした。
数時間後。映画を見終えた俺たちは、上映劇場がある最上階から数フロア降りたところにあるレストランエリア、その一角にある小洒落たカフェの一席に逃げ込んでいた。
逃げ込んだ、という表現は別に大袈裟でも何でもなくて、本当に劇場から逃げるようにここに来たのだ。なぜなら――。
「……今日ほど箱ティッシュを持ってきて良かったと思った日はなかったよ。ね、おじさん?」
「全くもって……その通りだと思います……」
皮肉じみた言い方をする甥っ子の満面の笑みを前にして、目を真っ赤に泣き腫らした中年熊親父の俺は、情けない鼻声のまま頭を下げることしか出来なかった。
そんな俺を見ながら、光樹は仕方なさそうにため息をついた。
「だから言ったじゃん。大泣きしないよう気を付けてねって」
「だ、だってよう……あんな切ない話だとは思わなくて……」
そう話しながら映画の内容を思い出した俺は、また目頭が熱くなるのを感じる。
そこで何かを察知した光樹が、洗練かつ訓練された素早い動きとともにテーブルに身を乗り出し、その手に持っている箱ティッシュを俺の前に差し出してくれたので、俺はそこから二、三枚ほどティッシュを抜き取り、ぶーっという盛大な音を立てながら鼻をかんだ。そしてこれまた光樹が周到に用意してくれていたビニール袋に、使用済みのティッシュを捨てる。二袋目になるビニール袋の中はもうほぼ満タンだ。
「流石に三袋目はないから、そろそろ泣き止んでよ?」光樹が困り顔でそう言う。
「あのなあ! お前はまだ若いから分からねえかもしれねえが、歳食ったら涙腺が緩くなるもんなんだよ!」
そう反論しながら俺は、自分が随分歳を取ってしまったことを改めて実感してしまい、危うくまた瞳に涙を浮かべるところだった。
そうして冷静になったところで、俺はあることを思い出していた。
「――そう言えば。昔、お前と一緒に映画観に行ったことあったよな?」
「え? いつ頃の話?」光樹が首を傾げる。
「ほれ、お前が小学校に入ったばかりの頃」
「…………あっ」
俺の言葉でようやく思い出したらしい光樹は、そのつぶらな瞳で俺を睨みつけてきたが、無理もない。俺にとっても少々苦い思い出でもあるのだから。
あれは光樹が小学一年生だか二年生だかの頃の話だ。せっかくの休みなのに両親と遊べなくて暇を持て余していた光樹を連れて、一緒に映画を観に行ったことがある。
と言っても特に観たい映画があるわけもなく、困った俺が光樹にどんな映画を観たいか聞いても「おじさんが好きな映画でいいよ」と嬉しいような悩ましいようなことを言うものだから、とりあえず子供でも楽しめそうな、アクションシーンが多そうな人気映画を選んだのだ。
ただそれだけなら問題はなかったのだろうが、よく分からないくせに俺は『超体感型上映』というオプションが付いているチケットを購入してしまったのだ。
この超体感型上映というのは、座席が揺れ動いたり顔に突風が吹きつけたりすることで、アクションシーンでの臨場感をよりリアルに体感するというオプション内容である。その刺激的な仕掛けの数々に、当時の俺は上映中ずっと心躍らせながら映画に没入したものだった。
しかし一方で、光樹はそれどころではなかった。真っ暗な劇場の中で急に座席が動いたり、どこからともなく顔に風が吹きつけてきたりするその未知の体験は、まだ幼稚園を卒園したばかりの当時の光樹にはどうやら少々刺激が強すぎたらしい。上映が終わると同時に、上映中ずっと静かだった光樹は堰を切ったように大声でわんわんと泣き出してしまったのだ。
そんな光樹を、俺は慌てふためきながらも何とかあやしつけて、最終的には近くの売店にあったアイスクリームを奢ってやることで、何とか泣き止んでもらえたのだった。
「いやあ、あんときは大変だったなあ……」
当時のことを振り返りながら、俺はしみじみと呟く。
「大変だったのはこっちだよ! 映画観に行ったと思ったら急に座席は揺れ出すし、それが収まったと思ったら今度は風が吹きつけてくるわ水飛沫が飛んでくるわ、訳が分からなくてもう怖くて怖くて仕方なかったんだからね!」
当時、未知の体験だった恐怖を具体的に言語化しながら、光樹はその丸っこい頬を膨らまして俺を睨みつける。
「あ、あのときは悪かったって。つーか、あの後俺も兄貴にこってり絞られたし、十分懲りたよ……はい……」
光樹の父親、つまり俺の兄貴である[[rb:隈島道勝 > くましまみちかつ]]は泣く子も黙るほど鋭い目つきのくせに、息子である光樹のことは目に入れても痛くないほど溺愛している。だから愛しい息子の映画館号泣事件のことを知った兄貴から、俺はとんでもないお仕置きを食らうことになったのだが、それはまた別の話だ。
というか、思い出すだけでも身震いするので、これ以上語りたくないだけだ。
「……おじさん大丈夫? 顔真っ青だけど」
「だだ、大丈夫大丈夫。さすがに春先に半袖のアロハシャツは早かったかもしれねえな……ははは……」
心配してくれる甥っ子に苦笑いを浮かべたまま、俺はアロハシャツの半袖から覗いている自分の腕をさすって誤魔化した。
俺はふと、ちらりと光樹の服装に目を配る。先ほどまで羽織っていた水色のノーカラージャケットは椅子の背もたれにかけているため、先ほどまで羽織ってたジャケットに隠れて見えなかった白いパーカーの胸元にある、オリオン座を模したワンポイントのロゴマークがはっきりと見えている。
星や宇宙が好きな光樹らしい、素敵な服だなと思った。
「ミツキ」名前を呼んでみる。
「何? おじさん」
「いや。その服、似合ってんなーって思ってな」
俺がそう言うと、光樹のつぶらな瞳が大きく見開かれる。その真っ黒な瞳に、店内の照明の一つ一つが映り込み、まるで満天の星空のような輝きを見せている。
「ほ、本当に……?」
光樹は頬を赤らめたまま、星空のようなつぶらな瞳で俺の顔を覗き込むようにして尋ねてくる。そんないじらしい恋人の仕草に、俺は思わず口元が綻んだ。
「もちろん。つーか、俺が嘘やお世辞を言えるほど器用じゃねえってこと、お前がよく知ってるだろ?」
にかっと歯を見せつけながらそう笑うと、光樹は顔をますます赤くして俯いてしまった。全く、本当にこいつは可愛い奴だ。俺は椅子から腰を浮かしてテーブルに身を乗り出すと、その両手を俯くパンダの頭に伸ばす。
「ほれほれどうした。そんな俯いてちゃ可愛い顔が台無しだぞ~?」
そんな風にからかいながら、俺は俯く光樹の頭を両手でわしゃわしゃと乱暴に撫でてやる。すると黙り込んでいた光樹もたまらず「うわっ」とこれまた可愛い声を上げた。
「ちょ、ちょっとおじさん! やめてよ、もう!」
光樹が顔を上げると同時に両手を離した俺は、もう一度にかっと歯を見せて笑ってみせた。
「がはは! なーに今更恥ずかしがってんだ? 昔は頭撫でてやると嬉しそうに喜んでたじゃねえか」
「それいくつの話だと思ってんの!? 俺もう大学生なんだから、子供扱いしないでよね!」
「俺にとっちゃ大学生だってまだまだ子供だっつーの。がはは!」
俺がそう大声を上げて笑うと、光樹は「もー!」と頬を膨らませながらも笑い返してくれた。
*
映画館で大泣きするという失態を晒しながらも、カフェで昔話に花を咲かせながら軽く昼食を済ませた俺たちは、ショッピングモール内をブラブラと歩き回っていた。
「なあミツキ。この後どうする?」
隣を歩く光樹にそう尋ねると、彼は「うーん」と少し考え込んだ後、おもむろにその口を開いた。
「じゃあおじさん。久しぶりに水族館に行かない?」
「えっ」
光樹からの思わぬ提案に、俺は思わず尻込みする。
もちろん、可愛い甥っ子であり恋人でもある光樹からのせっかくの提案を断る理由などどこにもない。しかしそれでも素直に「行こう」と答えられないのは、『光樹と水族館に行く』という行為自体に俺が苦い思い出を抱えていたからだ。
あれは俺たちが正式にお付き合いを始める前のこと。夏に光樹から告白されたその数か月後、十月の初め頃に光樹からデートの誘いを受けた俺は、二人で一緒にこの水族館に来たのだ。
最初は甥っ子との外出ということで楽しんでいた俺だったが、途中、光樹の姿に何度も良和の面影を重ねてしまった俺は、人目も憚らずにその場で泣き出してしまったことがある。
そのせいで俺と光樹は気まずい雰囲気になり、しばらく連絡も取ることすら避けていた時期があったのだ。
そういった経緯から俺は、先ほどの映画館でも泣かないように気を引き締めていた。だが結果は知っての通り、俺はまたもや人前で大泣きしてしまい、せっかくのデートだというのに光樹に迷惑をかけることになってしまった。
それなのにここで水族館などに行ってしまっては、また何かの拍子で泣き崩れてしまうかもしれない。
それだけは何としても避けなくては。俺は目を左右に泳がせながら、何とか上手い言い訳はないかと必死に頭を動かす。
「あー、その。何だ。水族館も悪くないと思うけどな、わざわざ俺なんかと一緒に行かなくても――」
「えいっ」
ぱしゃり。と、シャッターが切られる音に視線を向けると、光樹が俺に向かってスマホのカメラを構えていた。
「お、おい! 何撮ってんだ!?」
「おじさんの可愛い困り顔。ほらほら、記念にもう一枚」
「こ、こらやめろ!」
俺は慌てて両手で顔を隠すが、それでも構わず連写してくるスマホのシャッター音が立て続けに聞こえてくる。
「こら! やめろっての! ったく、こんなおっさんの顔なんか撮ったってしょうがねえだろ!?」
「じゃあせめて笑顔でいてよ」
頬を叩くように、ぴしゃりと言い放たれたその言葉に俺が顔を向けると、真剣な面持ちの光樹がこちらを睨みつけていた。
「俺は、今日おじさんとデートできて本当に嬉しいの。だから、『俺なんか』とか、『こんなおっさん』とか、そんな寂しいこと言わないでよ」
そう言いながら光樹は、その手に持つスマホを更に強く握り締める。
「せっかくのデートなんだもん。どうせだったら、笑って思い出せるような一日にしたい。だから今日の水族館もさ、苦い記憶のままじゃなくて、笑って話せるような思い出に塗り替えようよ」
「ミツキ……」
そう名前を口にしながら、俺は目の前にいる光樹の顔を見つめる。
光樹はもう、映画館で泣きじゃくって俺にアイスを奢ってもらうような小さな子供じゃない。苦い記憶があったとしても、それを楽しい思い出に塗り替えようと自分で歩き出すことが出来る、立派な大人に成長しているのだ。
その成長ぶりに、目を細めた俺の視界がぼんやりと滲み始める。だが泣いている場合ではない。俺は親指で目元を拭うと、拭き取った涙ごとぐっと拳を握り締める。
「……そうだな。よし、じゃあ汚名挽回の水族館デート、張り切って行くか!」
「おじさん。張り切ってるとこ悪いけど、『汚名挽回』だと『もう一回失敗を繰り返す』みたいな意味になるよ?」
「あれえ……?」
と、まあこんな具合に。せっかくの意気込みを自分の言い間違いで少々台無しにしてしまったものの、俺と光樹は水族館デートのリベンジマッチに挑むこととなった。
[newpage]
二度目の水族館デートは思いのほか順調で、俺は良和のことを思い出して泣くどころか、以前に光樹と来たときのことを思い出して笑い合えるほど楽しめた。
ただ予想以上にはしゃぎすぎたせいで、俺が水槽を見ながらにやにや笑っている横顔を光樹に何度も盗み撮りされてしまい、少々恥ずかしい思いをした。
それと、水族館の売店に並んでいた限定Tシャツを見つけたときに光樹から「せっかくだからお揃いで買おうよ」と耳元で囁かれたものだから、その甘い誘惑に負けた俺は機嫌よく自分と光樹の二人分のTシャツをお揃いで買ってしまった。楽しい思い出にしようとは言ったが、いくら何でもはしゃぎすぎだと我ながら呆れ果ててしまう。
しかし。そんな光樹とのやり取りが、俺には時間を忘れるほど楽しく感じられた。
そうして水族館で長い時間を過ごした俺たちは外に出て、そのまま帰路につこうと駅まで歩いて行く――はずだった。
「はあ~……ったく、天気予報ってのは、いつの時代になっても外れるときは外れるもんなんだな」
「だねー……。うわ、もう靴までビショビショ……」
大通りに面したビルの軒下。ため息をついて空を見上げる俺の隣で、光樹もうんざりした声を漏らしていた。
水族館を出て駅前に向かって歩いていた俺たちは、突然降ってきた予報外れの大雨に慌ててこのビルの軒下まで避難してきた。だがその雨量は凄まじく、ほんの数分ほど雨の中を走っただけで俺も光樹も頭から爪先までびしょ濡れになってしまった。
俺は試しに自分の腕を撫でてみた。水を多分に含んだ俺の毛並みは、撫でた先からぽたぽたと雫を垂らしていく。すると。
「へっくし!」
と、俺の隣で急に光樹がくしゃみをした。
「おいおい大丈夫か?」心配になった俺が思わず声をかける。
「へ、平気平気。これぐらい何てこと――いっきし!」
平静を装ったそばからまたくしゃみをする光樹。おそらく雨に濡れて身体を冷やしてしまったのだろう。風邪を引いてしまわないうちに早く服を乾かしてやりたいが、一体にどこに行けばいいのやら分からず、俺はただ当てもなく辺りを見渡すしかなかった。
「おじさん……」
光樹が震える声とともに、俺のアロハシャツを指で摘まんできた。くい、と服を引っ張るその動きに俺が視線を向けると、光樹がつぶらな瞳でこちらを見上げていた。
それから光樹がくい、くいと続けて俺の服を引っ張ってきたので、俺はその動きに合わせて少し、少しずつ。光樹の目線に合わせて屈んでいく。
「どうしたミツキ? 具合でも悪いのか?」
俺が光樹の顔を覗き込みながらそう尋ねると、光樹はふるふると首を横に振った。そして今度はその口元を、すうっと流れるように俺の耳に近付けてこう囁いてきた。
「実はね、おじさん。この近くに、良いホテルがあるんだ」
「――――へっ?」
ぼっ、と火の点いたマッチ棒みたいに俺の顔が熱くなる。その熱に気付かれないようにと俺が慌てて顔を離すと、光樹は何を企んでいるか分からない笑みを浮かべたまま、俺の顔をじっと見つめてきた。
「どうせこのままじゃ帰れないし。今日はそこでお泊り、しよ?」
ざあざあと降りしきる雨音の中、はっきりと聞こえた恋人の口説き文句に。雨に濡れて冷たくなったはずの中年親父の俺の身体の中で唯一、股間部だけが窮屈なズボンの中で熱く盛り上がっているのを感じた。
*
「ああ~っ! 気持ち良い~っ!」
俺の隣で頬を赤らめた光樹がそう恍惚とした声を上げる。二人きりのこの空間に満ちる熱気が、火照った身体を伝う雫が、肌から直に伝わってくる温もりが。その全てが、雨に濡れた俺たちの肉体を内側から温めてくれているのだと身に染みて実感する。
「あ~……生き返る~……。どう、おじさん? 最高でしょ。このホテルの大浴場!」
「……ああ。そうだな」
隣ではしゃぐ大学生の甥っ子の言葉に、冷静に返事をする中年親父の俺。そんな俺たちの声が、このビジネスホテルの最上階に位置する大浴場内に響き渡る。
俺たちの他には誰もいない大浴場に満ちる湯気。身体から噴き出る汗。湯船に浸かる身体の、その肌から伝わってくる温泉の温もり。その全てが、雨に濡れた俺たちの肉体を内側から温めてくれているのだと、身に染みて実感させられている。
そして同時に。俺が抱いた淡い期待も、泡となって実現しなかったのだということも、痛いほど実感している。
「はあ~~~~~~……っ」
俺は深いため息をつきながら、大きく肩を落として俯く。
「どうしたのおじさん?」すると光樹が心配そうに、そのつぶらな瞳で俺の顔を覗き込んでくる。
「いや、大丈夫だ……ちょっとこう、自分に呆れ果ててたというか……」
俺は先ほどまで抱いていた下心に気付かれないよう、光樹から顔を逸らしながらごにょごにょと口ごもる。
それにしても、と。俺は改めて大浴場を見渡す。出張などで何度かビジネスホテルに泊まったことはあるが、こういった大浴場付きのものは初めてだった。
出張中の風呂と言えば、部屋の中で適当に脱ぎ散らかした服をベッドの上に置いて、狭いユニットバスの中に運動不足で贅肉まみれのこの巨体を押し込んで、空の浴槽に立ち尽くしたままシャワーだけ浴びるようなものだった。
しかしこのホテルの大浴場は違う。脱いだ服を入れるカゴが用意されている脱衣所。足を伸ばしてゆっくり入浴できる大きな風呂。椅子に座ってシャワーを浴びることが出来る洗い場。フロアまるごと贅沢に使ったこの憩いの空間は、今日のデートで疲れ切った中年を心身ともにじんわりと癒してくれた。
「はあ~……」
腹の底から深く息を吐き出して身体の力を抜いた俺は、そのまま広々とした湯船に身を委ねる。
期待していたような展開はなかったが、それはそれとして、たまにはこういった風呂でゆっくりと身体を休めるのも悪くはないな――。そんな風に気を抜いた、そのときだった。
「ん……っ!?」
突如股間に走るその刺激に、油断していた俺は思わず声を漏らしそうになるが、口を固く結んで何とかすんでのところで耐える。
俺は眉間に力を入れたままぐるりと隣を振り向く。俺の隣にいるパンダは、にんまりと何かを企んでいるような笑みを浮かべたまま、湯船の中で揺れる俺の愚息に手を伸ばしている。
「お、おい。ミツキ! 何もこんなところで……!」
「だっておじさん、俺が『ホテルに行こう』って言ったときからずっと勃ちっぱなしだったじゃん。だから、楽にしてあげようかなーって思ってさ」
そう言ってにやりと笑う光樹の言葉に、俺は顔から火が出そうになった。
まさか、あのときからずっとバレていたのか? そしてこいつは、気付いていてわざと知らないような素振りで、純粋に温泉を満喫しているように振舞っていたというのか? 俺が下心で愚息を力強く滾らせているのに気づいていながら、わざと――。
恥ずかしさやら興奮やらで、身体中の血が巡り巡って一気に頭へと立ち上る。そして先ほどからずっと湯船に浸かっていた影響で既に体温が上昇していた俺の頭に熱が回り始め、まともに思考を働かせることすら難しくなってきた。
そんな風に俺の頭が茹だったところを狙いすましたかのように、光樹の手は俺の愚息の先を優しく撫で回してきた。
「ミツ、キッ……だ、だめっ、やめ……っ!」
「何がダメなの? 周りに人はいないんだし、おじさんが我慢すればいいだけじゃん」
「そっ、いう問題じゃっ……あぐっ……!」
俺を黙らせるように、光樹の太い指が俺の愚息を包み込んでくる。恋人からの容赦ない攻撃に、俺はただ両手で口を押えて我慢するしかなかった。
「本当にイヤなら、俺を突き放せばいいじゃん。おじさんの体格と腕力なら、それぐらい簡単に出来るでしょ?」
俺の耳元でそう試すように囁くと、光樹は握り込んだ俺の愚息を上下に擦り始める。股間から両足に走るその刺激に俺は、口から声が漏れ出そうになるのを、必死に両手で抑え込んで耐え忍ぶことしか出来なかった。
そう。光樹は分かっているのだ。俺が力ずくで突き放すなんて、そんなこと出来るわけないと。たとえ頭では駄目だと分かっていても、俺がこの快楽に身を委ねてしまうような自堕落な男だということを、光樹は今まで何度も俺と身体を重ねてきた経験から理解しているのだ。
だが、今はまずい。非常にまずい! 何がまずいって、こんな誰が来るかも分からない大浴場で性行為に耽るなど、人として倫理的にやってはいけないことだからだ!
叔父として、大人として! 一刻も早く光樹を止めなければ! だが、しかし――。
息も絶え絶えな中、俺は何とかして視線を隣の光樹に向ける。薄っすらと涙を浮かべた俺の視界には、真っすぐな眼差しとともに俺の愚息を握る右手を上下させている、光樹の懸命な姿が映っていた。
恋人のそんないじらしい姿を見てしまった俺は、叔父だとか大人だとかそんな立場を忘れて、ただただこの快楽に身を委ねるしかなかった。恋人からの精一杯の愛情表現を、突き放したくなかった。
脳内で理性と感情がせめぎ合いその葛藤に苦しんでいると、光樹が俺の愚息を強く握り締めた。そして先ほどよりも早い動きで肉棒を上下に擦り、俺の思考をかき乱してくる。
「がっ、うあっ、あ、あっ、ぐあ……っ!」
言葉にならない呻き声が、口元を押さえている両手の指の隙間から吐息交じりに漏れ出る。対する光樹は一言も発することなく、今もなお俺の愚息をしごき続けている。
光樹の腕の動きに合わせて、湯船の水面がちゃぷちゃぷと小刻みに波を立てる。
それだけじゃない。ぽた、ぽた、とどこかで雫が滴り落ちる音が響き渡る。広々とした大浴場を満たす熱気を、ごうごうと力強く吸い込む音も聞こえる。それらの音に交じって、隣にいる光樹がはあはあと息を荒げているのも分かった。
そしてそれ以上に。火照った俺の肉体の内側から、心臓がドクンドクンと鼓動を打っているのを感じた。
ドクン、ドクン、ドクンドクン、ドクドクドクドクと、急かし立てるように段々と早まる心臓の鼓動。それに合わせてへその下からせり上がってくる熱い衝動に、自分の限界が近いことを悟った俺はぎゅっと目を閉じた。
「ミツキ……! 俺っ、もう……っ!」
何とか喉から声を搾り出した俺が、何もかもを忘れて全てを解き放とうとした――そのとき。
「おーい!! クマシマくーん!!」
「はえっ!?」
「ふあっ!?」
突如大浴場に響き渡るその朗らかな声に俺、隈島道弘と、隣にいる隈島光樹が同時に驚く。そして拍子に光樹が俺の愚息から手を離したので、俺も慌てて光樹から飛びのいて距離を取った。
距離を置いて一旦冷静になった俺と光樹は、お互いの顔を見合わせてから、ゆっくりと声の聞こえた方へと顔を向けた。湯煙の向こう側から、てしてしと湯水に濡れた床を歩く足音とともに一人分の影がこちらに向かってくるのが見えた。
「やっぱりクマシマくんじゃないか! こんなところで奇遇なんだなぁ!」
先ほどと同じ朗らかな声とともに俺たちの前に姿を現したのは、肥満体型の狼獣人だった。
全身を覆う灰色の毛並みはあまり手入れがされていないのかボサボサで、頭部の毛にはところどころ白っぽい毛も交じっている。先ほどの朗らかな声から覚えた若々しい印象に対して、苦労を思わせるその風貌は正確な年齢を推し量ることが出来ない、独特の雰囲気を纏っていた。
しかし、先ほど「クマシマ」と名前を呼ばれた気がするが、俺の知り合いにこういう男はいない。
ならばと思い、同じ苗字を持つ我が甥っ子の方を見ると、光樹は狼を見ながら「あっ」と声を漏らした。
「お、オイノモリ先生!? えっ、どうして先生がここに!?」
「それはこっちのセリフなんだぞ。クマシマくんこそ、どうしてここにいるんだぁ?」
驚きの声を上げる光樹に対して、オイノモリと呼ばれた狼は悠々とした口調で訊き返してきた。
そんなやり取りを交わす二人を交互に見て、気になった俺は滑るように湯船の中を移動し、光樹のそばに近寄った。
「なあミツキ。お前、この人とどういう関係なんだ?」と、俺は声を潜めて光樹に耳打ちする。
「この人は俺の通っている大学の先生で、天文物理学教室の教授なんだ」
「初めまして。[[rb:狼森賢造 > おいのもりけんぞう]]と言います」
光樹から紹介を受けた狼森教授がぺこりと頭を下げて俺に挨拶してくれた。
「クマシマくん……ああいや、ミツキくんの担任をやらせてもらってます」
「担任?」俺は首を傾げる。
「おじさん。俺の大学には担任制度っていうのがあって、自分の担当する十数人の生徒と年三回の面談をして、どの講義を受けるかの選択や、進路相談なんかに乗ってくれるんだ。俺も何度か相談に乗ってもらったことがあるんだよ」
「へえー……そうなのか……」
光樹から初めてそんな説明を聞いた俺は、視線を狼森教授へと向け直す。伸ばしていた両足を湯船の中で胡坐の形に組み直して、両膝に手をついた俺は背筋を伸ばして、改めて狼森教授に目を向ける。
「初めまして。ミツキの叔父の、隈島道弘と言います。ミツキがいつもお世話になっております」
俺も自己紹介をしつつ、また叔父として、狼森教授に深く頭を下げて感謝の言葉を伝えた。
「ああいやいや! そんな畏まらないでください! せっかくの大浴場なんですから、ぜひとも楽にしてくださいな!」
すると狼森教授が恐れ多そうに慌てた様子で言うものだから、俺はその言葉に甘えて頭を上げると、胡坐を解いて再び足を伸ばした。そして、未だ浴槽の外側に立っている狼森教授の顔を見上げる。
「でしたら先生も、せっかくの大浴場ですしゆっくりしてください。俺のデカい身体のせいで少々狭苦しいとは思いますが、幸い隣も空いておりますので、良かったら是非どうぞ」
「分かりました。では、ご厚意に甘えてちょいと失礼……」
そう言って狼森教授はその太い足をゆっくりと指先から、湯気が立ち上る温泉に沈めていく。狼森教授はその温もりに時折気持ち良さそうな声を漏らしつつも、そのまま胸元の辺りまで十分に浸かったところで、身体を少し浮かしたまますいーっと滑らせて、俺の隣へと移動してきた。
「くああ~……っ! 生き返るぅ~……っ!!」
両手を大きく上げて伸びをしたまま、狼森教授がこの温泉のほどよい温もりに打ち震えながら心底気持ち良さそうな声を上げる。
「いやあ、こうして広い風呂で足を伸ばしてゆっくりできるなんて、最高ですなあ!」
「ええ、全く! 仕事で疲れ切った身体が、それこそ生き返ると言っても過言でないぐらい、最高に気持ち良いもんですわ!」
狼森教授と顔を見合わせた俺の口から、思わずがははと豪快な笑い声が飛び出る。狼森教授が親しげに話しかけてくれるおかげで、堅苦しかった俺の口調と態度も解されてきたのかもしれない。
ふと、狼森教授の胸元が視界に入る。そして俺はその胸元に目が釘付けになった。
これは決して狼森教授の肉体に思わず目が眩んだとか、そういったことではない。俺が狼森教授の胸元から目が離せなくなった理由は、その胸に残る『傷跡』である。
湯船に浸かった狼森教授の濡れそぼった毛並みの中に見える、胸元に走る大きな傷跡。縦に切り裂かれたようなその傷跡は不自然なほど一直線な形で、おまけにその傷を縫い合わせたような跡まで残っている。
切り裂いて、縫った。その傷跡に俺は目を見開き、教授の顔と傷跡を交互に見遣る。
「狼森さん、そ、それって……」
「ん? ……ああ、これですかあ」
俺の視線に気付いた狼森教授が自分の胸元に視線を落として、その傷跡をそっと撫でる。
「私はね、生まれつき心臓が悪くて……。この傷跡は、心臓移植の手術を受けたときのものなんです」
心臓移植。予想はしていたが、やはり衝撃的なその言葉に俺は半信半疑のまま光樹の方を見る。すると光樹は何も言わず、ただこくりと頷いた。光樹のその行動に俺は、狼森教授の言葉が嘘ではないと確信した。
俺は再び、狼森教授に顔を向ける。しかしどんな言葉をかけたらいいか分からず、結局目を伏せてしまう。
「――今の私の人生があるのは、この心臓をくれた人のおかげなんです」
そう語る狼森教授の声に、俺は顔を上げる。湯船に視線を落としている狼森教授は胸元に手を当てたまま、どこか遠くを見るような眼差しを浮かべている。
「名前も顔も分からない誰かの心臓が、今こうして自分の人生の一部となって生きている。だから私は、この心臓をくれた人に胸を張れるよう、後悔のない生き方をしようと決めたんです」
「後悔のない、生き方……」繰り返し呟いたその言葉が、俺の胸に深く突き刺さる。
「ま、だからこそこうして温泉に浸かって『生き返る~!』なんて言えるわけですが! なっはっは!」
そう言って狼森教授は、神妙な空気を吹き飛ばすかのように大きな声を上げて陽気に笑い飛ばした。
「――それじゃ、私はここら辺で失礼しますわ。連れを待たせてるもんなんで」
一頻り笑い終えた狼森教授がその場で立ち上がり、そのままざぶざぶと踏み出す足で湯を掻き分けながら湯船から上がる。そして俺たちに背中を向けて立ち去る――前に、くるりとこちらを振り返った。
「クマシマくん」
教授が名前を呼ぶ。俺ではなく、隣にいる隈島光樹の名前を。
「良かったんだな、ちゃんと仲直りできたみたいで。先生、安心したぞ」
最後にそう笑顔を浮かべると、狼森教授は今度こそ俺たちに背中を向けて、そのまま出入口へと立ち去って行った。
がららら、ぴしゃり、と狼森教授が扉を閉めて外に出る音を聞いた俺は、光樹に視線を向けた。
「……光樹。お前、あの先生にどんな相談したんだ?」
先ほどの狼森教授の意味深な言葉が気になった俺がそう尋ねると、光樹は赤くなった顔を隠すように湯船に沈めた。その反応に確信を得た俺は、にやりと笑みを浮かべる。
「本当に進路の相談だけなのか? どうなんだ? なあなあ?」
俺がわざとらしくすっとぼけてそう矢継ぎ早に問いかけるが、光樹は湯船に顔を沈めたまま一言も喋ろうとしなかった。
その反応で俺はもう、光樹が狼森教授に何を相談したのか大体の予想はついていた。だがいつも口を開けば生意気なことを言ってくる光樹のそんな姿が新鮮で、俺はそれから何度もからかってやった。
*
突然の雨にシャツの肩回りやズボンの裾はビショビショに濡れていたが、幸いパンツだけはそれほど濡れていなかったので、俺たちが大浴場に入っている間に部屋の中でハンガーにかけて吊るしていたらすっかり乾き切っていた。
だが他の衣類はやはりまだ濡れたままだった。流石にパンツ一丁で寝るわけにもいかないので、俺と光樹は水族館で買ったばかりのお揃いTシャツを寝間着代わりにして着ることにした。
そうして意図せずペアルックになった俺たちは、ダブルベッドの上で並んで寝ることにした。俺も光樹も恰幅の良い体型をしているので、こうして二人で寝るとダブルベッドでも少々狭く感じたが、俺は嫌ではなかった。
「おやすみ。おじさん」
「おう。おやすみ」
お互いに声をかけ合って、部屋の電気を消す。すると十分も経たないうちに、隣で光樹がすうすうと可愛らしい寝息を立て始めるのが聞こえてきた。
おそらく今日のデートではしゃいでいるうちに体力を使い切ってしまったのだろう。そう思うと、殊更愛おしく思えた。
そんな愛しい恋人の寝息を聞きながら、俺は暗闇の中、部屋の天井をぼうっと見つめていた。
天井を見上げる俺の視界には暗闇が広がっている。次第にその暗闇に俺は、ぼんやりと浮かび上がる光の粒を思い描いていく。
三つ並んだ星が特徴的なオリオン座のベルト。そこから左上に行くと、オリオンの右肩に輝く赤い星、ベテルギウス。
ベテルギウスから下の方に行くと、宇宙の中で一際輝くおおいぬ座の一等星、シリウス。この地球から見える星の中で一番明るい星だ。
そしてベテルギウスとシリウスを繋いだ直線、その真ん中辺りから左の方に行けば、こいぬ座のプロキオン。
ベテルギウス、シリウス、プロキオン。その三つの星を繋げば、冬の大三角が浮かび上がると、あいつが――良和が教えてくれた。
そして、ベテルギウスとプロキオンを結ぶ直線から、シリウスに向かって垂線を引いて、更に伸ばしていった先に、シリウスの次に明るいとされる幻の一等星、カノープスがあるということも、良和から教わった。
だが俺は自分の視界に広がる暗闇に、その星を思い描くことが出来なかった。
何故なら、俺はカノープスを見たことがないからだ。山に囲まれた狭苦しい故郷の夜空を見上げても、地平線の近くにしか上らないその一等星を、見つけることが出来なかった。
良和と過ごした、大切な思い出の一つなのに。自分の心の一部である、思い入れのある特別な星なのに。なのに俺は、どれだけ思い出をなぞっても、その星の輪郭すら思い描くことが出来ない。
――名前も顔も分からない誰かの心臓が、今こうして自分の人生の一部となって生きている。だから私は、この心臓をくれた人に胸を張れるよう、後悔のない生き方をしようと決めたんです――。
大浴場で会った狼森教授の言葉が、不意に蘇る。今もなお胸に突き刺さるその言葉を思い返しながら、俺は隣で寝ている光樹に目を向ける。
光樹は俺を愛してくれている。いい歳して人目も憚らず泣き出したり、格好つけようとしていまいち締まらなかったり、思わせぶりな言葉一つでいちいち顔を赤くしたりするような中年親父の俺を、全て受け入れて、心の底から愛してくれている。今日のデートでも、それを深く実感した。
だが、俺はどうなのだろうか?
良和のことを思い出して人前で泣き出すようなことはもうしない。しかし、やはり今でも俺は時折、ふとした拍子に良和との思い出を思い描いてしまうことは確かだ。
良和との在りし日の思い出は、それほど俺の心の奥底に根付いているのだ。
そんな状態で、俺は心の底から光樹を愛していると言えるのだろうか?
胸を張れるような、後悔のない生き方をしていると言えるのだろうか?
俺は、光樹の人生の一部に、光樹の心の一部に、なってもいい資格があるのだろうか――?
どこにも見えないカノープスと同じように、答えの見えない疑問を見上げながら、俺の独りきりの夜は静かに更けていった。
[newpage]
翌朝。何とか乾かすことが出来た服を着て、俺たちはホテルを後にした。思わず泊りがけのデートになってしまったため、俺は光樹を駅前まで送り届けると、そのまま別の電車に乗って自分の家へと帰った。
そして数日後。せっかくの休日なので昼過ぎまで寝ようとしていた俺の枕元で、スマホの着信音がけたたましく鳴り響く。
俺が寝ぼけながらスマホを手に取ると、それは職場からの連絡だった。相当慌てているのか、電話口の向こうから早口でまくし立てるその変更内容を慌ててメモに書き留めると、俺はそのまま通話を終える。そして改めてメモ帳に書き留めた変更後のスケジュールを見て、俺は深いため息をついた。
今日はゆっくり休むつもりだったが、仕方ない。そう思い直し、立ち上がった俺は今日着る服を選び始める。
命日には少し早いが、俺は今日、良和の墓参りに行くことにした。
伴田家の墓は、俺たちが生まれ育った故郷の山の上にある霊園にある。だから良和も、その霊園で静かに眠っている。
良和は、ちょうど三月の今ぐらいの時期に、交通事故で亡くなった。道路に飛び出した近所の子供を庇って、命を落としてしまったのだ。
当時、高校受験を控えていた光樹は良和の葬式に参加できなかったが、それで良かったと思ってしまう。何故なら突然の良和の死に動揺した俺は、家族や親戚たちが集まる葬式の場で人目も憚らずに号泣し、食事も喉を通らないほど憔悴しきっていたからだ。身勝手ながら、光樹にそんな姿を見られなくて良かったと思ってしまう。
そんなことを思い返しながら、俺は自宅から車を走らせて霊園のある山道を上っている。途中で、俺の車の隣をバスが通り過ぎていった。おそらく麓から出ている霊園行きのバスだろう。俺はそのバスを見送りながら、そのまま自分の車を走らせる。
霊園の駐車場に車を停めた俺は、トランクから花や線香、そしてガスマッチを取り出して、それを持ったまま霊園に向かう。
俺は伴田家の墓に向かって、霊園中に張り巡らされた通路を歩いて行く。通路の脇に立ち並ぶ様々な色や形の墓を横目に歩き続けていると、視線の先に伴田家の墓を見つけることが出来た。
だが俺はそこで思わず足を止めてしまう。伴田家の墓の前に、佇む一人の人影に目を見開く。
「ミツキ……!?」
細長い煙を燻らせる線香が置かれた墓の前には、神妙な顔で佇む光樹の姿があった。
まさか今日、こんなところで光樹に会うと思ってなかった俺は、一筋後ろの道に逃げて、光樹の背後に立ち並ぶ墓に隠れながら、そっと様子を窺うことにした。
「……久しぶり。ヨシカズおじさん」
寂しそうな声で、光樹が声をかける。
「こうして一人で来るのは初めてかな。だから、何から話したらいいか、分からなくて……」
そう困ったように言う光樹。そんな独り言を背後の墓の陰に隠れたまま盗み聞きしていた俺は、どうするべきか悩んでいた。
こんなことするべきじゃないと思いつつも、しかし。本当はずっと気になっていた。
光樹が良和のことをどう思っているか。恋人である俺の片思いの相手である良和のことを、光樹はどんな風に考えているのか。それを聞けるかもしれないと思うと、俺はその場から動くことが出来なかった。
山の上の霊園は静かで、遠くで木々が揺れる音も風に乗って聞こえるほどだった。だから、光樹が意を決したように大きく息を吸う音も、はっきりと聞こえた。
「ヨシカズおじさん。空の上から見ているからもう知ってるかもしれないけど、俺、おじさんと――ううん。ミチヒロさんと、お付き合いさせていただいてます」
はっきりとした光樹の言葉にドキン、と俺の心臓が高鳴った。聞こえるわけがないと分かっているが、俺は少しでも心臓の鼓動を鎮めようと、思わず自分の胸を手で押さえた。
「――でも。ミチヒロさんは、本当はずっとヨシカズおじさんのことが好きだったんだ」
ヒュウウッ、と冷たい風が吹き抜ける。その風に、俺の胸の奥で何かがざわざわと逆立つ。
「最初は嫉妬したよ。だから最初、ミチヒロさんに俺のことを見てほしくて、わざとミチヒロさんのことを名前で呼んだり、ヨシカズおじさんみたいに眼鏡をかけてみたりした。でも、そのせいで俺、ミチヒロさんのことを傷つけちゃった……」
寂しそうな光樹の言葉に、俺の胸にズキンと突き刺すような痛みが走って、思わずその場に蹲る。
違う。それは違うぞ、光樹。俺が悪いんだ。
高校時代に抱いた初恋を、二十年以上経った今でも心の奥にしまい込んだまま引きずっている俺が悪いんだ。もう一緒に見ることすら出来ないのに、狭い夜空を見上げては思い出の一等星を指先で追いかけているような、俺が悪いんだ。
その場から逃げ出したかったのに、身体が重くて、俺は蹲ったまま動けなかった。
「……ミチヒロさんに嫌われたと思って落ち込んでた俺に、心臓移植の手術を受けた大学の先生が言ってくれたんだ。後悔のないように生きてほしい、って」
そうしている間にも、光樹は今も話を続けている。きっとこれは、俺のことで狼森教授に相談したときのことだろう。
「それを聞いて俺、決めたんだ。生きているうちにミチヒロさんとちゃんと話をしようって。ヨシカズおじさんの面影を利用するんじゃなくて、自分の言葉で。自分の姿で、ありのままの自分を見せて、ミチヒロさんと正面から向き合おうって」
でも、と一言置いてから光樹は更に話を続ける。
「それと同時にね、気付いちゃったんだ。誰かの心臓が狼森先生の一部として生きているように、ヨシカズおじさんの思い出は、ミチヒロさんの心の一部なんだって。だからきっとミチヒロさんは、これから先ずっと、ヨシカズおじさんのことを忘れることはないだろうって……」
受け入れているような、それでいて諦めたような光樹の口ぶりに、俺はまた胸が痛んだ。
そうだ。良和のことをいつまでも引きずっていることに負い目を覚えていると同時に、俺はきっと、良和のことを忘れることはないんだろうということを、痛いほど理解していた。
後悔のない生き方を選んだ光樹と違って、俺はいつまでも、自分の気持ちを正直に伝えられなかった後悔を引きずっている。こんな俺が、光樹の人生の一部を奪っていいわけがない――!
涙がこぼれそうになるのを、俺はぎゅっと瞼を閉じることで堪えようとする。そのとき。
「けどそれでも良いんだ。だって、ヨシカズおじさんは――俺の人生の一部でもあるから」
「え……?」
思わず、俺の口からそんな声が漏れていた。
光樹の言葉の真意が分からず、俺は目を開けて光樹の背中を見る。良和に語りかける、そのパンダの丸っこい背中を。
「だって――ヨシカズおじさんがミチヒロさんと出会ってくれたから、父さんと母さんが出会って、俺が生まれたんだ。ヨシカズおじさんが教えてくれた色んな星の話を、ミチヒロさんから聞いたから、俺は星や宇宙に興味を持ったんだ。今の大学で、友達や教授たちと出会えたんだ。だから、ヨシカズおじさんはもうとっくに俺の人生の一部なんだ」
優しくそう語りかける光樹の言葉とともに、再び風が吹いた。
だが先ほどと違ってその風は、俺の心を洗い流すように吹き抜けていった。自分を縛り付けていた鎖が自然にほどけたような、そんな清々しさを感じた。
風がまた柔らかく吹く。それと同時に、光樹が息を吸う音が聞こえた。
「――俺もミチヒロさんも、ヨシカズおじさんと一緒に生きていくよ。だから、こっちのことは心配しないで。どうか安心して、空の上から俺たち二人を見守っていてください」
柔らかい風に乗って聞こえてきた光樹の言葉に俺は、自然と目に涙を浮かべていた。
光樹は、独りぼっちだった俺の全てを優しく受け止めてくれて、恋人として一緒に生きることを誓ってくれた。
でもそれだけじゃない。俺を、俺たちを置いて先に旅立った良和を、遠い空の上に一人でいる良和のことも。光樹は受け入れてくれたのだ。
俺が好きだったあいつのことも、光樹は独りぼっちでいさせず、一緒に生きると改めて誓ってくれたのだ。
俺は、何て馬鹿だったのだろうか。あいつに先立たれて、葬式で泣き喚いて、いつまでもあいつのことを思い出しては涙を浮かべて。
空にいるあいつが、どんな思いで俺を見ているかも考えないで。自分が一番悲しいんだと、一番辛いんだと。四十近くになった中年のくせに、そんな狭苦しくて身勝手な子供みたいな考え方しか出来なくて。
何が『俺にとっちゃ大学生だってまだまだ子供』だ。たとえ大学生でも、光樹の方が、よっぽど大人じゃないか。
そして俺は、そんな光樹の隣に立つことを許された、唯一の恋人なんだ! だったら虚勢でも何でもいい。格好つかなくても、締まらなくても、胸を張っていけるように必死こいて頑張るしかないだろうが!
ばっと勢いよく立ち上がった俺は、涙が零れないよう、精一杯高く。高く、空を見上げた。
山の上から見上げた空は、もう狭苦しく感じなかった。俺の目には、果てしなく広がる雄大な大空が映っていた。空がこんなに広いならきっと、いつかカノープスだって見つけられるだろう――。そんなことを考えながら。
風が吹く。目に浮かべていた涙が、零れる前にその風の中に溶けていく。おかげで涙を拭う手間が省けた。
「――――よしっ」
そう気合を入れると、俺は歩き出す。そして偶然を装って伴田家の墓に近付き――。
「よおミツキ! 奇遇だなあ!」
「え、えっ!? おじさん!? 何でここに!?」
それはこっちのセリフだぞ、と心の中で呟きながら。俺はがははと大きく口を開けて笑いながら、困惑した様子の光樹の頭をわしゃわしゃと撫でてやる。
「ちょ、ちょっとやめてよおじさん! おじさんってばー!」
「がはは! ミツキ! お前って奴は本当に可愛いなあ! がはははは!」
じゃれ合い、笑い合う俺たち二人の声が響き渡る。よく晴れた空の、雲の上まで届きそうなほどに。高らかに、響き渡った。[newpage]
三月のとある日。大学生の俺、隈島光樹は休みを利用して、母の兄である良和おじさんの墓参りに来ていた。
その帰り道。山の上の霊園から麓へと続く道を走る車の助手席に座っていた俺は、窓の外に向けていた視線を運転席の方へと向ける。そこには大学生の俺よりも一回りも大きな熊が、そのごつい手で巧みにハンドルを操作していた。
その手から続く太くたくましい腕、肩へと視線を動かして、俺はその人を見つめる。するとその視線に気付いたのか、向こうがちらりと視線をこちらに向けてきた。
「――ん? どうした、ミツキ。俺の顔に何かついてるか?」
にやりと不敵な笑みを浮かべる熊獣人、熊島道弘。彼は俺の父の弟、つまり叔父さんにあたる人であり、俺の恋人でもある。そんな彼が見せた表情に俺は、思わず胸がどきりと高鳴る。
「い、いやあ。相変わらず、運転してるときのおじさんは格好良いなあ~って」
「がはは! 当たり前だろ? 俺はいつだって格好良い、最高にイケてる男だからな!」
渋い声でそう格好つけると、道弘おじさんは再び「がはは」と大きな口を開けて笑った。そんなおじさんの仕草や笑顔に、俺の胸はますます高鳴っていく。
俺がおじさんと付き合い始めたのは、去年の暮れ。年末に父の実家に帰省した際に、正式にお付き合いを始めた。
それから何度もデートをしたり、両親の目を盗んで手を繋いだりキスをしたり、人肌恋しい夜にはお互いの肉体を重ね合わせたりもした。一般的には付き合い始めてから三ヶ月目が倦怠期だと言うが、そんな心配いらないぐらいに俺とおじさんは仲睦まじく幸せな交際を続けている。
しかし、一つだけ。俺はとある懸念を抱いている。
俺は道弘おじさんの横顔から視線を外して、再び車の窓に目を向ける。だが見ているのは外の風景ではなく、窓ガラスに薄っすらと映る俺自身の顔だ。
道弘おじさんは茶褐色の剛毛を持つ立派な熊獣人だが、俺はそうじゃない。丸々とした肉付きの良い顔は熊に似ているが、その顔を覆う毛並みは全体的に白く、その中で両耳と目元だけが真っ黒な毛並みに染まっている。
そう。俺は熊獣人である父や道弘おじさんと違って、母や良和おじさんと同じパンダ獣人として生まれたのだ。
別にパンダ獣人として生まれたことにコンプレックスを抱いているわけじゃない。俺が気になっているのは、母譲りのこの見た目が、母の兄である良和おじさんに似ていることだ。
何故なら良和おじさんは、道弘おじさんの親友であると同時に、初恋の人でもあるからだ。
そのことを知ったのは実家の大掃除を手伝ったとき。偶然、道弘おじさんの高校時代の卒業アルバムを見つけた俺は、若い頃の道弘おじさんの写真を見たくて、ついそのアルバムを開いた。
するとその中に一通の手紙が挟まれていた。もしかして道弘おじさんが当時好きだった女子から貰ったラブレターか何かだろうかと、深く考えずに下心込みの興味本位で中を見た俺は当時、その文面に驚くこととなった。
そこに書かれていたのは、結婚が決まった良和おじさんへの道弘おじさんからのお祝いの言葉や、学生時代の友人として感謝を伝える言葉ばかりだったが、その最後に。『俺はお前のことが高校の時からずっと好きだった』と、道弘おじさんらしい率直な、でも自分の口から良和おじさんに言えなかった、愛の言葉が綴られていたのだ。
その手紙に俺は、道弘おじさんも自分と同じ同性愛者なんだと喜びと共感を覚えると同時に、寂しくもあった。
道弘おじさんの心の中には、どうしようもなく。良和おじさんの面影が残っているんだと、思い知らされたから。
しかし二人の出会いや思い出を否定するわけにはいかない。道弘おじさんと良和おじさんは高校時代に柔道部で知り合ってからの親友で、それがきっかけで父と母が出会い、俺が生まれたのだ。二人の出会いがなければ俺は生まれなかった。だからどれだけ妬ましくても、自分の人生の一部である良和おじさんのことを否定してばかりいられない。
でも。良和おじさんが俺の人生の一部であると同時に、良和おじさんは、道弘おじさんの心の一部でもあるのだ。
そう思うと、俺は無性に寂しくなった。頭では分かっていても、どうしようもなかった。
そう思うたび俺は、自分の身体が冷えていくような感覚に襲われる。だからそのたびに俺は、道弘おじさんと手を繋ぎたくなる。唇を重ねたくなる。肌を合わせて、腰を交えて、深く。道弘おじさんと深く繋がりたいと、温もりを求めたこの身体が疼き始めるのだ。
俺はちらりと道弘おじさんの手を見る。彼の両手は今もなおハンドルをしっかりと握っている。それに車通りの少ない道とは言え、俺のわがままで道弘おじさんに片手で運転させるのも気が引けた。
だから俺は仕方なく俯いて、自分の両手の指先を絡ませる。しかしどれだけ指先を絡ませても、俺の両手が温まることはなかった。
俺と道弘おじさん。助手席と運転席。俺たち二人は手を伸ばせば触れる距離にいるはずなのに、手を繋ぐことが出来ないだけで、やけに遠く感じた。そう思うと更に寂しくなって、指先から冷えていくような感覚が迫ってくる。
俺はちらりと道弘おじさんの横顔に視線を向ける。運転をしている道弘おじさんの視線は当然、前に向けられており、隣にいる俺を見つめ返してくれることはない。
俺はそっと視線を外してそのまま俯いた。すると。
「――なあ、ミツキ。お前、カノープスって覚えてるか?」
道弘おじさんにそう話しかけられ、俺は運転席に座る道弘おじさんの方に顔を向けた。
「カノープスって、確か冬の星座、りゅうこつ座の一等星だっけ……?」
「そうそう! よく覚えてるなあ!」道弘おじさんが嬉しそうに笑う。
カノープス。冬に見られるりゅうこつ座の一等星で、おおいぬ座のシリウスに次いで二番目に明るい星であるが、日本では地平線ギリギリの高さまでしか上らないため、場所や地形によってはなかなか見られない、言わば幻の一等星である。
俺がこんな風に星について詳しいのは、通っている大学が理系であるから。そして。俺が小さい頃から、道弘おじさんが星や宇宙に関する色んな話を聞かせてくれたからだ。カノープスのことも昔、道弘おじさんから軽く教えてもらった記憶がある。
――その道弘おじさんの知識も、元はと言えば良和おじさんから聞かされたものらしいけれども。
指先が更に冷えた気がして、俺は熱を逃がさないよう両手を組んだ。
「きゅ、急にどうしたの? そんな話をして……」震える声を抑えて、何とかそう尋ねる。
「いやあ実は昔な、ヨシカズからカノープスについて色んな話を聞かせてもらったんだけどよ」
ああ、やっぱり。道弘おじさんの話を聞きながら納得すると同時に、俺はまた胸が寂しくなった。
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、道弘おじさんは更に話を続ける。
「んでな。そのとき、アイツがカノープスの話をしながらこんなこと言ったんだよ。『カノープスって、ミチヒロに似てると思う』……ってな」
「ミチヒロおじさんとカノープスが……?」
「ああ。変な話だろ?」
そう言いながらも、道弘おじさんの口元は嬉しそうに微笑んでいた。
しかし、笑顔を浮かべていた道弘おじさんの表情が変わり、寂しそうに目を細めてどこか遠くを見つめ出した。
「気になった俺は、どういう意味か聞いたんだ。そしたらアイツはこう答えたんだ。カノープスは他の星から距離を置いた仲間外れの、独りぼっちの一等星だって」
「えっ……」
予想外の答えに、俺は戸惑いの声を漏らす。それでも道弘おじさんは寂しそうな眼差しを浮かべたまま、話を続ける。
「……もしかしたら、バレてたのかもしれねえな。俺がみんなと違うってこと。そしてわざとみんなから距離を置こうとしていたこと。俺が――アイツのこと、好きだったってこと。全部、な」
しみじみとそう話しながら、道弘おじさんは車のスピードを緩やかに落としていき、停車させた。気になった俺は前方をちらりと見ると、車両用の三色信号が赤く点灯しており、フロントガラス越しに見える横断歩道を通行人が渡り始めていた。
ピヨピヨと、雛鳥の鳴き声を模した信号の電子音が、車の窓ガラス越しに薄っすらと聞こえてくる。一定のリズムを繰り返す雛鳥の電子音が小さく響き渡る車内で、俺は俯いたまま先ほどの話を思い返していた。
カノープスは仲間外れの、独りぼっちの一等星と言ったこと。そしてそんな星と道弘おじさんが似ていると、良和おじさんが言ったこと。
その話を聞いた俺は、迷っていた。道弘おじさんの悲しみに寄り添ってあげるべきなのか、それとも無暗に良和おじさんとの思い出に触れないようにするべきなのか。どんな風に答えたら良いのか分からなくて、何も言葉が出てこなくて、俺は冷え切った拳を膝の上でぎゅっと握り締めることしか出来なかった。
「――でもなあ、ミツキ。俺は思うんだよ。カノープスって星は、そんな悲しい星じゃねえよなって」
「え……?」
またしても予想外の言葉に、俺の口から戸惑いの声が漏れる。道弘おじさんは前を向いたまま、いや。軽く空を見上げたまま、話を続けた。
「俺にとってカノープスってのは、狭い夜空の中じゃ見つけられないけど、広い世界に出てようやく見つけることが出来て……そして何より、俺たちが生きているこの地上に最も近い一等星。そんな、特別な星なんだよ」
そう言うと道弘おじさんは、空に向けていた視線を動かして、顔を俺の方に向けてきた。俺は思わずドキリと胸が高鳴り、視線を逸らしそうになったが、まっすぐにこちらを見つめる道弘おじさんの瞳から逃げることが出来なかった。
ゴクリと、俺が喉を鳴らして固唾を呑み込む。それに合わせて、道弘おじさんの口が再び開かれる。
「ヨシカズと一緒に過ごした高校時代、この街からどれだけ夜空を見上げてもカノープスは見つからなかった。でもアイツとの付き合いがきっかけで、俺の兄貴とヨシカズの妹が出会って、それからずっと時間が経って二人とも大人になって、結婚してさ。そういう繋がりが広がっていった先で俺はカノープスを見つけ――いや。出会ったんだ」
そう言って道弘おじさんは、ハンドルを握っていた左手を離した。その左手の行方を目で追うと、道弘おじさんは自分の手を俺の膝の上、そこに置かれている俺の拳を上から包み込むように、そっと重ねてきた。
冷え切った自分の手を包み込む温もりに驚いた俺が顔を上げると、道弘おじさんは先ほどと変わらず、まっすぐ俺のことを見つめていた。
「ミツキ。お前のことだよ。俺にとってのカノープスは、お前なんだよ」
その言葉を聞いた瞬間。俺は、胸の奥から一気に温かいものが広がるような感覚を覚えた。冷え切っていた拳が、温もりを求めていた身体が、一気に満たされていくのを感じる。
そんな俺の手を、道弘おじさんの手が更に強く握り締めてくれた。
「この長い人生の中で、この広い世界で、ミツキ。お前に出会えて、本当に良かった。この地上で生きている誰よりも、俺はお前のことを愛している。これからもずっと、ずーっと、な」
俺の手を握り締めたまま、俺の目をまっすぐに見つめたまま、そんな言葉をかけてくれる道弘おじさん。
俺に出会えて良かったと、俺のことを愛してくれると、はっきりとそう伝えてくれた。
その言葉が、身体中を満たす温もりが、やがて俺の目頭をも熱くさせる。
「――俺も」
震えを隠し切れない声が、俺の口から漏れ出る。でも呑み込むようなことはしない。俺はそのまま、胸の奥からせり上がってくる熱いものとまとめて、口から思いの丈を吐き出していく。
「俺も、道弘おじさんのこと、大好き! 世界中で――ううん。宇宙で一番、おじさんのことが大好きだよ!」
道弘おじさんと手を重ね合わせたまま、道弘おじさんの瞳を見つめ返したまま、俺も同じように愛の言葉をぶつける。すると道弘おじさんは大きく口角を上げてから、にかっと歯を剥き出して笑った。
「がはは! 宇宙一と来たか! 嬉しいこと言ってくれるじゃねえか!」
がはは! と大きく口を開けて豪快に笑う道弘おじさん。辛いことも悲しいことも、寂しさも。丸ごとひっくるめて吹き飛ばしてくれそうなその笑顔に、俺はまた胸が温かくなった。
そんなやり取りを交わしながら、俺はふとフロントガラスの方に目を向けた。すると前の横断歩道を渡る人はもうほとんどおらず、見ると歩行者用の信号も赤に変わっていた。となると車両用の信号ももうじき青に切り替わるだろう。
「おじさん、もうすぐ赤信号変わるよ」
「おっといけねえ。そんじゃ、行くか」
そう気を引き締め直すと道弘おじさんは両手でハンドルを握り直し、前方に視線を向け直す。そして車両用の信号が青に切り替わったのを見て、ゆっくりとアクセルを踏んで車を走らせる。
それからしばらく車を走らせた後、再び赤信号で車を停車させたタイミングで、道弘おじさんがこんなことを言ってきた。
「なあミツキ。いつか一緒に、カノープスを見に行かないか?」
「え? あ、うん。良いけど……急にどうしたの?」
急な提案に俺は戸惑いながら、逆に訊き返してしまう。すると道弘おじさんは何故か得意げな笑みを浮かべた。
「知ってるか、ミツキ。カノープスってのはよ、中国だかどっかの国だと『見ると縁起が良い星』とされてんだよ」
「へえー……。ちなみに、どんなご利益があるの?」
「長寿。要するに、見ると長生きできるらしいんだよ」
さらりと道弘おじさんが言ったそのご利益の内容に、俺は気付いた。
いつまでも、これからもずっと。自分と一緒に長生きしてほしい。良和おじさんを亡くした道弘おじさんの言葉に隠された、切なくも愛しいメッセージに、俺はこくりと頷いた。
「分かった。じゃあ、一緒に見に行かないとね」
「へへ。だろ?」
道弘おじさんが再び笑う。その笑顔に、俺も嬉しくて笑みを浮かべる。
信号が赤から青に切り替わり、道弘おじさんがゆっくりとアクセルを踏む。俺たち二人を乗せた車は、まっすぐ伸びる道をゆるやかに走っていく。
いつかこんな風に、長い道を走った先にあるカノープスを見に行けたら。そんな未来を想像しながら、俺は車の窓ガラスに目を向ける。
窓ガラスにはもう、パンダの姿は映り込んでいない。窓ガラスの向こうには、山に囲まれたこの街の風景が広がっていた。