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気づくと、本棚に囲まれた見慣れぬ部屋の中にいた。窓際には本の積まれた机がぽつんと鎮座しているのを見る限り、この部屋は誰かの書斎のようだ。
本棚の中には、古びた書物から最近出版された小説まで多様な書籍が並んでおり、異様な雰囲気を醸し出している。部屋で舞っている埃が窓から差し込む陽射しで煌々と光っており、少し綺麗だなんて思った。
部屋中をぐるりと眺めていると、本棚の中にひと際俺の気を引く本を一冊見つける。近づいて見てみると本というよりかは紙でできた箱のようで、題名などは書かれていない。古びてはいるが長い間丁重に扱われているような、そんな印象を受ける箱だった。
「山南晴くん、で合ってるかな」
突然後ろから声をかけられ、振り返ろうとする……のだが、首がぴくりとも動かない。手足は動く。でも、首だけが痺れてしまったように動かすことができない。
後ろの声の主が誰なのかも、何をされるのかも分からない。恐らく、声質的に同年代の男……だとは思うのだが。何もかも分からないことだらけの空間に、少なからず恐怖を覚える。
「怖がらせちゃってごめん。でも、顔を見られる訳にはいかないから」
「……何するつもり、なんだ」
発言の内容や口調から敵意を感じなかったために、一番の疑問を口に出す。見た限りは密室に二人きり。これから起こりうる良からぬ展開の選択肢は数多あり、心臓がドクドクと高鳴る。
「……気持ちいいコト」
「……っ!」
言い終わるのとどちらが先か唐突に抱きつかれ、俺はいっそ明白に狼狽える。
息は荒く、脚は震え。急激に速度を上げて鼓動を打つ胸には、後ろの何者かの右手が添えられており。きっと狼狽していることも相手には筒抜けなのだろう。
「あ……ぅ」
左手ではそっと腹を弄られ、初めて味わうこそばゆさに思わず声が漏れる。
頭の中で思い描いていた展開に、このようなものが含まれていないわけではなかった。でも……誰かにこんな手つきで触られたことなんてないし、実際にこんなことをされると、頭が、真っ白に……。
「……ふふ、あはは」
突然、俺の身体を弄る手が止まったかと思えば、耳には笑い声と吐息が入ってきて。未だに早鐘を打ち続ける心臓を宥めていると、一頻り笑い終わった後ろの相手が口を開く。
「はは……ごめん。反応が面白くて、つい揶揄っちゃった」
「……」
心みたいなこと言いやがるな、こいつ。なんて思うが、顔も名前も知らないやつにこんなことされたって、嬉しくもなんともない。それに……相手は男みたいだし。
……ちょっと気持ちいいなんて思ってしまったのも、生理的なものなんだから仕方がない。そうに決まっている。
「……話に聞いてた通りだ」
誰が言った何の話だ、と言うより先に相手が口を開く。
「怖がらせちゃってごめんね。君に会いに来た本来の目的なんだけどね――」
そうだ、結局俺は何をされるんだ。さっき尋ねた気がするも、奇行に及ばれたせいで答えは聞けていない。
「――君には、ほんの少し僕の言葉を聞いてほしいだけなんだ。そして、それを絶対に忘れないで」
急に落ち着きのある真面目なトーンで話され、息を呑む。「絶対に」という言葉が、俺の中で妙に引っかかった。
「じゃあ、言うからね」
言われ、頷く。何を言われるのか見当もつかないが、きっと、何か大事なことを言おうとしているというのは伝わってきて。
「――言の葉はいたく空の曇れるを見て その嘆きにて歌はれるもの 人のけしきもしかと違はじ 希へばやがて雲も晴れなむ」
「……っ」
言葉の意味はよく分からない。だけど、不思議と頭に深く沁みわたってくる感覚がして。
「……心くんを、よろしくね」
ひどく物憂げな声色で、後ろの何者かは呟く。
なんでここで心の名前が、なんて思ったその瞬間――。
――俺の意識は、忽ちに混濁し始めた。
*
スマホからデフォルトのままのアラーム音が鳴り響き、目が覚める。画面を見ると時刻は7時ちょうどを示しており、朝食に寝坊しなくて済みそうなことに、ほっとする。
普段なら寝坊を心配する必要などないのだが、昨日は意図せず爆睡してしまったし……何より、連日心に起こされるなんて失態は犯したくなかった。
とりあえず制服に着替えようと立ち上がる――が、立ち眩んでしまい、ベッドへと座り込んでしまう。
「……ッ」
立ち眩みと同時に俺の脳に流れ込んできたのは――見知らぬ書斎での、不可解な記憶。
俺は、そこで見知らぬ男に身体を弄られ、挙句意味不明な言葉を、いかにも大事そうな口ぶりで伝えられた。
果たしてあれは、俺が実際に経験したものなのだろうか。俺が今目を覚ましたばかりという現実を鑑みるに、夢だったと考えるのが自然ではあるのだが……。
……身体を弄られる感覚も、「絶対に忘れないで」と言われたあの意味の分からない言葉も、厭に生々しい記憶として俺の中に残っている。
もしかすると、これが清瀬先生が昨日「今晩はちゃんと眠るように」と言っていた理由なのだろうか。
俺の想像力の及ぶ範囲であれこれ考えを巡らすも、途中でふと、昨日出会ったクラスメイト――逸花の言葉を思い出す。
――今はあれこれ考えてもどうにもならないんじゃない?
こんなに分からないことだらけの状況に放り込まれても、あんなことを言える奴がいるなんて。凄いことだと思ったし、何より……今の俺にとって、少し心強かった。
あいつの言う通り、今の俺がどれだけ頭を使おうと、きっと大した実りはない。むしろ、余計に時間を消費した挙句、杞憂に終わることだろう。
心の中で逸花に感謝をしながら、俺は再び立ち上がった。
*
制服に着替えてから自分の部屋を出る。ぐるりと家中を見渡してみる……が、そこに人の気配は認められなかった。
……まだ起きてないんだな、心。
朝食の時間まではまだ余裕があるものの、この寮に来て初めて迎える朝なんだから、時間にゆとりをもって行動したい。心を置いて行くわけにもいかないので、もう起きてほしいのが正直なところだ。
「心」
名前を呼びながら、心の部屋の扉をノックする。……が、返事はない。
「……心」
再び名前を呼びながらさっきより強めにノックしても尚、心が起きる気配はない。
正直、予想していたことではあった。俺、大きな声とか音出すの苦手だし、こういう時はどうしても遠慮を拭いきれない。かといって、朝の男の部屋に入っていくのは――主に生理現象がアレ的な理由で――どうにも憚られる。
しかし、こうやって扉の前で考えあぐねていても時間が無為に過ぎていくばかり。意を決した俺は、心の部屋のドアノブに手をかける。昨日と立場が逆転しただけなんだし、何か不都合があってもお互い様……ってことで。
「……入るぞ」
許可を得るにしては小さすぎる声とともに、静かにドアを押す。やはり心はまだ寝ているようで、半端な視界の中にはベッドに寝そべる心の脚があった。
そして、扉を開いてみて気づいたのが――部屋のベッドから微かに発せられている、荒い喘ぎ声。何やら様子がおかしいと思い、扉を完全に開いて部屋へ踏み込んだ俺が目にしたのは――。
「……心っ!」
――ベッドで魘されている、心の姿だった。
俺はすぐさま心のそばへ駆け寄り、その肩を揺する。悪夢を見ているのか具合が悪いのかは分からないが、心が今苦しんでいるのは明白だった。
「ぅ……あ」
「心……っ!」
少し身体を起こした心の目からは、涙が伝っていた。昨日は常に笑っていた心が見せる苦々しげな表情に、胸がずきりと痛むまでの憂慮を覚える。
「あ……夢、だった……のか。よかった……」
さっきより多少マシにはなったものの、尚のこと引き攣った表情で心は呟く。
「起こしてくれてありがとね、晴。……もう、大丈夫だから」
心も俺と同じような夢を見て、そこで辛い目に遭ったのだろうか。それとも、何か別の悪夢か。いずれにせよ、「大丈夫だ」と言うその表情は、俺からしたら少しも大丈夫なようには見えなかった。
「本当に大丈夫、なのか」
「うん、大丈夫。もう朝ご飯の時間なんでしょ。……着替えて出てくから、待ってて」
「……分かった」
心に促され、部屋を出る。あんな表情を見せられては、心配するなという方が無茶だというのに。
……結局、俺では心の力になれなさそうなこと。そして、最後の言葉から感じ取られた、俺への微かな拒絶。扉の前で立ち尽くす俺の胸の中では、心への心配と無力感が渦巻いていた。
*
あの後、心は昨日と全く違わぬ様子で部屋を出てきた。心配をかけたと謝られた後は、魘されていたことなど感じさせないほどに明るく、快活に振る舞う姿しか見ていない。
それは、朝食に続き入学式を終えたばかりの現在でも同様で、少し前の席では同級生と談笑する心が目に入る。だが、俺の脳裏には苦しむ心の表情が今も尚張り付いていた。
「また何か考えごとしてる」
「うおっ」
急に横から顔を覗き込まれ、素っ頓狂な声を上げてしまう。考えごとの最中に話しかけられるのには、どうしても慣れない。ああ、心臓に悪い。
抗議の意味を込めて相手を軽く睨むが、大して怒ってはいなかった。相手によってはかなり不機嫌になってたとは思うが……こいつには、どうにもそんな気は起こらない。
「ごめんね、でもすごく難しそうな顔してたから」
そうやって、俺に話しかけてきた相手――逸花は謝る。そしてまた言われた、「難しい顔」……。そんなに表情に出てるのか、考えごとしてるときの俺。
「……少し気になることがあって、考えてた」
今朝の心のことを誰かに話すのは不躾に思えたので、曖昧な言葉で濁す。また、「考えるだけ無駄だ」なんて言われるのかと思っていたのだが、逸花の返事は予想とは異なるもので。
「……そっか。友達のために悩めるなんて、山南くんは優しいね」
ぎょっとして、俯いていた顔を逸花に向けると、どこか物憂げな表情が目に入った。驚きのあまり返す言葉を探しあぐねているうちに、逸花がまた口を開く。
「ほら、お友達。呼んでるよ」
前を見れば、俺に手を振る心の姿が目に入って。早足で心の元に向かうも、去り際に逸花が放った言葉が、俺の脳内を漂い続ける。
――大事に、してあげてね。
……いったい逸花は何を知っていて、何を思って、何を考えているのだろうか。
結局、今朝の出来事に続いて、俺の悩みの種は増えるばかりであった。
*
「昨日に引き続いて集まってもらっちゃってごめんね。また、皆さんには話さなきゃいけないことがあります」
入学式を終えた後、俺達は清瀬先生の指示のもと、再び教室に集まっていた。席順は昨日と同じ――つまり、俺の視界の端には心がいて、後ろには逸花がいる。
「というのも、昨日お話しした皆さんの”特異体質”について、詳しくお話しする準備ができたからなんです」
「……!」
”特異体質”という言葉を聞き、俺はピンと耳を立てる。薄々勘づいてはいたものの、やはり、今日また俺達が集められたのはそのためだったか。
先生の言葉に反応したのは他の同級生達も同様で、教室では微かなどよめきが起こっていた。その中で、心がやけに神妙な面持ちをしているのが目に入る。
「皆さんは、昨晩夢を見たと思います。その内容を、覚えていますか」
言われ、今朝起きた時のことを思い出す。意味不明なのにやけに脳裏にこびりついているあの夢と、悪夢に魘されていた心。やはり、そのどちらも”特異体質”とやらと関係しているのだろうか。
考えながら、先生の言葉の続きを待つ。先生が勿体ぶるような口調で話していると、窓の外では雲が日を隠したようで、教室がしんと薄暗くなる。
「きっと、皆さんは夢の中で古い言葉の詩を聞いたはずです。そして、それこそが皆さんの体質に大きく関わるもの――私達が”言の葉”と呼ぶものなのです」
古い言葉の詩と聞いて思い当たるのは。あの、何者かも知れない誰かが言い聞かせてきた、謎の詩。
――言の葉はいたく空の曇れるを見て その嘆きにて歌はれるもの 人のけしきもしかと違はじ 希へばやがて雲も晴れなむ
……やはり、今でも一語一句違わずに思い出せる。先生が”言の葉”と呼ぶそれが持つ意味とは、果たして。
「言の葉というのはつまり、皆さんの内なる願いを詩で表したものでね……」
先生は顎に手を当て、何かを考え込むような素振りを見せる。正直、先生が何を言っているのかはよく分からない。だが、俺が知りたかったことの答えが今まさに話されてようとしていることに、違いはなくて。
「……端的に言えば、皆さんが持つ特異体質というのは――」
言葉を選び終えたのか、先生が前に向き直って言う。
「――”言の葉で表された自らの願いを叶えられる”というものです」
見れば、窓からは再び陽が差し込んで教卓を白く照らしていた。
*
「言の葉というのは平安時代からその存在が記述されていて――」
先生は”言の葉”について簡潔に説明した後、その特徴やルーツについて説明を続けた。その話はどれも突拍子のないものであったが、俺が実際に見た夢の通りの話をされているのだから、今は受け入れるしかない。
先生の話によると、言の葉はあまり公には知られないようにされていて、この土地――世朱町の住民は、大半が俺達と同じ体質を持っているらしい。つまり、この高校は――。
「言の葉の力が発現する十五歳のタイミングで、皆さんに集まってもらうために推薦を送った、という訳です」
俺の思考を代弁するかのようなタイミングで、先生は言う。
これで漸く、いくつかの疑問が解消された。やけに寮生活が快適なのも、言の葉の力について言及せずとも生徒に関心を持ってもらうための工夫の一つだろう。先生が昨日はちゃんと寝るように、と言っていたのも、滞りなく例の夢を見せるため。
ガキっぽいという自覚はありつつも、自分が特殊な力を手に入れたという状況に、少し胸が高鳴る。特殊能力とかそういうのに憧れるの、皆が一度は通る道だと思うし。
そして、そうやって浮かれているのは俺だけに限らないらしい。教室を見渡せば、周りの同級生達も微かに辺りを窺ったり、近隣同士で私語をしているのが見て取れる。
そんな空間の中に、俺にとっての大きな気がかりが一つ。表情はよく見えないが、明らかにどんよりとした空気を纏っている同級生もといルームメイト――心の存在である。
先生が言の葉についての話をしてからというものの、心の様子は今朝方のそれへと戻りつつある。そんなに暗い話をされた訳じゃないと思う――むしろ、明るい話題のように思えた――から、今朝の悪夢のことを思い出してしまっているのだろうか。
なんて考えていると、先生が若干私語が増えてきた生徒を軽く窘めてから、真面目な面持ちで話し始める。
「最後になるけど、ちょっと大事な話だからよく聞いてね」
周り皆が、先生の方を見る。こんな状況で「大事な話」なんて言われたら、気になるのも当然ではあるが。
「この体質と付き合っていく上で気を付けてほしいんだけど……あまり、他人の言の葉について詮索しないでね。人の願いって、ちょっとセンシティブな話題だからさ」
少し、どきりとした。心の様子がおかしいのは、きっとあいつの”言の葉”が原因なのだとは思うのだが……確かに、不用意に踏み込めば、それは「詮索」という言葉が相応しい行いだろう。
「あとは、言の葉でどうやって願いを叶えるのかって話だけど……」
さっきとは一転して、明るい表情で先生は言う。黒板の前で話しているだけだというのにコロコロと表情が変わる様は、なんだか見ていて面白い。
「自分の言の葉を、自分なりに解釈してみてほしいんだ。古文だから少し難しいけど……その解釈次第で、叶う願いも変わるんだよ」
先生は続けて「古文の質問ならいつでも歓迎しますよ」と言った。なるほど、自分の担当教科の話だから、少し嬉しそうだったのか。
それにしても、なんとも不思議な力である。自分で詩を解釈して、それに応じた願いを叶える……。なんだか、回りくどいやり方のような気がした。それに、なぜか古文だし。
「詩の解釈って面白いし、言の葉の力も、きっと皆さんにとって有用なものになります。だから、是非楽しんでほしいな」
先生はそう言うと、今回のホームルームの解散を宣言した。教卓の前には、先生に何やら質問をしようと数名の生徒が群がっている。ふと心の方を見やれば、例のごとくクラスメイトが何人か集まっているのが見えた。
――楽しんでほしい、か。確かに、願いを叶える力っていうのは興味深いし、魅力的な響きをしているのだが……。
……遠くでクラスメイトと談笑しながらも、その表情に少し曇りが窺われる心の様子が、どうにも気がかりだった。
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