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キーンコーンカーンコーン
「そういうことでこのプリントの続きは後日やることにします。今日は暑い中お疲れさまでした」
「「「ありがとうございましたぁ」」」
午前中だけの夏期講習が終わった。講師が黒板を消す間もなく多くの生徒がカバンを持って教室から出ていこうと荷物をまとめている。皆部活に急いでいるか早く帰りたいのだろう。それは僕もやまやまなのだけど外はとてつもなく暑いし、三八をほっといて帰るのはなんだか申し訳ない気がしてならなかった。
所在なく講習中に配布されたプリントをまとめ内容をそれとなく見返すなど、いつもならば絶対しない真面目っぽいフリをする。今は自分からヤツと顔を合わせる勇気がない。授業の内容を頭に叩き込もうとする気持ちと今朝あったいざこざへの後ろめたさとあのレッサーパンダ獣人についての疑問とが、三つとも内心をぐるぐると回転している状態だった。
……背後に誰かがいる。ここは覚悟を決めてゆっくりと振り返る。
「よ、よぉ。イッサ」
「なんだ、ザッパじゃんか」
三八が指定カバンを持ってぎこちない表情をして立っていた。表向きは平静を保っているみたいに見えると思うけれど、実際はカチコチに緊張している自分がいる。一時間目の休み時間、裏拳のことを必死に謝り倒したもののまったく口を利いてくれなかった。向こうは怒り心頭というよりもなぜだかバツが悪そうな素振りで、おそろしく気まずい数分間を目も合わせられないまま浪費してしまったものだから二時間目は罪悪感と後悔にまみれロクに授業を聞く気にもなれなかったというのがことのあらましだ。そんな脳ミソが麻痺した状況で指されでもしたらどうしようかと、やたらビクビクしていたのがついさっきまでのことだった。
「な……なあ。今日の授業、結構面白かったよな?」
「へ? あ、あー……うん」
この夏期講習は外部から特別講師を招いて中学生の学問への興味関心を育むというのが名目の、私立ならではの選択参加型イベントだ。教科ごとに有名予備校の講師や大学教授などが興味を引くような専門分野の講義を展開するということもあって、確かに僕は去年からこの手の企画を楽しみにしていた。クラス関係なく科目ごとに少人数が割り振られ、主要の五教科を二周するコマ割りが設定されている。
僕の場合、今日は前半が国語で後半が理科だった。一方でヤツは二時間目が数学なので、先ほどの凍てついた空気を氷解できるわけもなく別々に移動したことになる。それで僕がいる元の教室に戻ってきてくれたのでようやく三八が謝罪を受け入れてくれたのかと期待していたところに普段はあまりしないような授業に関する話題を出されたものだから、困惑するのも無理はないというものだろう。
とどのつまり、相手の意図するものがまったく読めないでいた。
「そっちのクラスってなにやったんだ?」
「ええっと。パウリの排他律や[[rb:LUMO > ルモ]]とか[[rb:HOMO > ホモ]]とか、原子と化学結合に関する色々かな」
「お、オレは三角比の定義からイッキにネイピア数や最後にオイラーの公式なんかを説明された」
「……へー」
なんだこの話の進まなさは。そもそもコイツとはこういった勉強の話をするような仲ではない。そっちだってわかっているくせに、なんであえて不慣れなものをこのタイミングで持ちかけてきたのか理解に苦しむ。いや、わかる。気持ちはわかる。十中八九休み時間に無視を決めこんだことへ多少なり良心の[[rb:呵責 > かしゃく]]があって、それについて弁解しておきたいのだと察する。しかしいきなり謝罪から入るのも性に合わなくて、まずは前置きで講義の話題から入ろうとした結果失敗してしまったという次第に違いない。いつもならコミュニケーション強者のはずが、なぜ僕の前となるとこうも挙動が怪しくなるのか。これはヤツの奇妙な一面でもあった。仕方ない、こちらから切り出すか。
「あのさ——」
「ゴメン!!!!」
三八はすさまじい勢いで突如ほぼ真直角に[[rb:頭 >こうべ]]を垂れた。あまりの加速度と大きな声に、思わず身をすくめる。前触れもなくなんなんだ一体。教室に他の生徒がいないことが唯一の救いだ。
「オレ、人目があったのにそのままイッサにキスしようと迫っちゃった……本当に恥ずかしい思いをさせちゃって申し訳ない。もうこれ以上イヤなこと絶対にしないから……どうか許して欲しい」
涙まじりの震える声で三八はまくし立てた。いつもの[[rb:飄々 > ひょうひょう]]とした雰囲気はどこへ行ってしまったのやら、真剣そのものな態度になんだか一種のデジャヴを感じる。
「え……いや確かに人の目はあったけれど、あれはそういう裏拳じゃなくて」
「でもあの時イッサが止めてくれなかったら……オレ、もしかせずともヤバかったかもしれない」
泣き腫らしたを目頭をぬぐい、しょぼくれた顔をこちらに向けた。声が今にも消え入りそうだ。
「ヤバかった、ってキスが?」
「違う、もっと先のことだ。えっと、その、つまり……」
一転して今度は顔を赤らめモジモジしている。思えば最近、こんな表情をしょっちゅう見ている気がした。というか“先”ってなんのことだ??? 相当言及しづらい内容なのだとは、だいたい推測できる。
「言葉にするのが難しいなら別に話さなくていいよ、ザッパの尻尾を遊んだ自分が悪いんだから」
「いいや。言い出しっぺのオレが一番悪い。裏拳[[rb:喰 > く]]らうくらい、当然の報いさ」
「だったら、なんで休み時間はなにも話してくれなかったの?」
「……オレのやったことを思い返すと恥ずかしすぎて、言い訳する勇気もなかったんだ」
なんというか。
すごくかわいいな、コイツ。それが率直な一つの感想だった。僕はおもむろに席を立って、正面から向かいあう。眼のまわりとほほと耳が、真っ白な毛皮の上からほんのりと赤くなっている。
「オレ、親友失格だよな。幼なじみとこんなことしちゃって、迷惑かけてサイテーで——えっ」
僕は三八を抱きしめた。存在を肯定するように、ただひたすら抱きしめた。しばらくそのままになって抱き返されてから、彼の耳元に向かい一言二言ずつ紡ぎはじめる。
「裏拳は痛かった?」
「……うん。スゲー痛かった」
「そっか、ごめんね。僕のほうから謝らなきゃならなかったのに、先にさせちゃって面目ない」
「こうして顔は合わせられなくても抱き合えているじゃんか。変なの」
三八のこわばりが徐々にほどけていく。互いの鼓動は高鳴りをひそめ、落ち着いた同調を刻み始める。
「ねぇザッパ、自分のことを親友失格っていったでしょ。そんなこと、二度と言わないでよ」
「イッサは……お前は、あんなことされてイヤじゃねぇのか」
「ううん、僕はザッパとずっといられるならどんなことにでも付きあうよ。君が好きなことを一緒にやって乗り越えて、常にあらゆるものを共有していきたい」
「お前ってさ、ほんっとモノ好きだな。……いいさ。オレのほうからもよろしくさせてもらうよ」
抱きしめる力が強くなった。まるで僕ら二人が一つになってゆくみたいな、そんな感覚がする。
「イッサ。改めてオレは、お前のことが好きだ」
「うん、ザッパ。僕も君のことが好き」
「お前には本当にこの“好き”の意味、わかっているのかよ?」
「別に好きに大きいも小さいもないでしょ、いつになったってこの好きは変わらないよ」
彼は朗らかに笑った。僕もつられて自然とほほ笑む。
「確かに、イッサの言う通りかもしれないな——」
僕らだけの教室。僕たち二人の時間。それは静かにたたえて、またたく間に過ぎ去っていった。
「…………」
「そんじゃ湿ったれた空気ともおさらばして、昼メシ喰いに向かうかぁ」
僕は椅子を逆にして座り、後ろの机に寄りかかる三八をこの目に捉えている。
「ん? ここで食べるんじゃないの」
「こんな教室で食べるなんて殺風景もいいとこだっての。どうせなら屋上行かねーか?」
「えーっと、屋上って確か開放してないような……」
近年は物騒な事件が相次いでいることもあって、校舎の屋上へは原則立ち入り禁止となっているはずだ。ここでそういった噂の類は意外にも耳にしたことがなかったけれど、たぶん周辺の学校の流れを汲んで通常なら用務員以外は鍵がないと入れないことぐらい容易に予想できた。
「それがどうにも、オレが聞くところによれば整備の関係で高校棟だけは限定的に開かれているんだと。工事関係者も昼休憩でお留守にしているだろうから、今がちょうどチャンスなんだってさ」
「けどそれでも一般の生徒は入っちゃいけないんじゃ、というか死ぬほど暑いだろうし」
「んなこと気にしてられる場合かって。むしろいつもは滅多に立ち入れないのだからこんな貴重な機会、みすみす見逃すわけにはいかねーぜ」
ああもう。これじゃまるで廃墟探検のノリそのまんまじゃないか。あれだけ酷い目に遭ったにも構わず自分から探検にはもう懲りたと宣言したにもかかわらず、中身はなんら変わっちゃいないのだと僕は思い知らされる。まあ今回は廃墟を選んでいないあたり、そこだけは成長しているのかもしれないけど。
「……わかった、自分も一緒に行くよ」
「おっしゃー決まりだな!」
ヤツは僕の返事に満足したらしく、ニヤッといたずらな笑みを浮かべる。カバンを背負って、僕にわざとらしく片手を差し出してきた。白い毛に浮かんだ黒い肉球と黒い毛に埋もれたピンク色の肉球が触れあって重なる。
「んじゃ案内しやすぜ、ダンナ」
「ちょっと、自分はザッパの旦那になった覚えはないよ」
「へへ。そういう生真面目なところも好きなのさ」
その言葉に僕はなんだか照れ臭くなりつつ、引っ張られるがまま教室を後にした。
高校棟の最上階を右奥に突きあたって大きなプロジェクターが置かれた視聴覚室兼自習室の前に来ると、この階では唯一の登り階段が屋上へと伸びている。下の階から響いてくる物音は僕ら以外に誰一人とていない空間の[[rb:寂寞 > せきばく]]を、ひときわ深めているように感じられた。階段を二人でスタスタ上がっていくと徐々に冷気から離れ、夏のにおいが濃くなって鼻腔をくすぐってくるのがわかる。あっけなく入り口の扉の前に着いてしまった。聞いていた通り施錠が外されていて、普段だったら決してお目にかかれない未踏の領域があけっぴろげになって待ち構えている。境界をくぐって最初に襲いかかってきたものに、僕たちは二匹そろって声を上げた。
「「うわっ、ペンキ[[rb:臭 > くさ]]!!」」
三八は耐えられないのか鼻先を両手で隠し、僕もえずきそうになるのを必死でこらえる。屋上の床石は一面がネズミ色の塗料でコーティングされていて、それが灼熱の外気で揮発したのかそこら中にむせ返りそうな刺激臭が充満していた。これじゃ昼ご飯も食べられたものではない。
「なるほどなぁ、工事ってそういうことだったのか」
ヤツは塗料が乾燥していることを確認してから内部へ足を踏み入れた。僕はそれを追って鉄柵に遮られた景色を眺めようと隣に立つ。学校の近くに高い建物はないため見晴らしは絶好で、およそ数十キロ先まで目が届いた。遠い遠いはるか向こうで軌道エレベーターが陽炎に揺らぎ、ケーブルが青天井を貫いている様が見てとれる。三八がいま住んでいる街、僕がかつて住んでいた街——。
「…………」
!!
この物言わぬ視線、朝に感じたものとまんま同じだ。ハッと気が付いて、あのバンカラもどきがどこかにひそんでいないか、あたりを見回して急いで探す。
「ん、どうした?」
ヤツが気のゆるんだ鼻声を漏らした。僕はそれどころではない。あのおそろしく鋭い穿つような瞳、クソ暑いはずなのに思い出すだけで寒気がする。どこだ、一体何者なんだ。
「…………」
! いた。今朝方目撃したままの姿で、給水タンクの影にそいつはたたずんでいた。今回は毛頭隠れるつもりはない様子で、レッサーパンダ獣人はこちらが認識したことに気づいたのかゆっくり影の中からはい寄ってきた。よく見れば革靴を履いていて、バンカラ調の黒づくめに白と茶の毛色が映えている。そしてギラギラと照りつける太陽に劣らぬ、肌を刺すかのようなすさまじい眼光。
「ざ、ザッパ。あれ……今日の朝、集会所で見ていた奴」
僕が震えを我慢してどうにか指差した方を向いて、三八はギョッとした素振りを見せる。どうも朝の出来事といい、僕だけがこの言い知れぬ目線を感知できているらしい。レッサーパンダ獣人は完全に陽の当たるところまで出てきて、僕たちのことを変わらず傍観していた。
「あぁん? なに見てんだテメェ」
唐突にヤツが大見得を切って、バンカラ姿につかみかかろうとする。すぐさまイヤな予感がして止めようとするまでもなく、ことは一瞬にして決着がついた。
「見せもんじゃねぇんだぞ、とっとと——ぐはっ!?」
レッサーパンダ獣人の胸ぐらをつかんだ三八が宙に浮く。否、持ち上げられたと表現したほうが正しい。それは、あまりに見事な背負い投げだった。受け身を取らせる隙も与えず袈裟固めに入る一連の所作が美しくて、思わず見入ってしまう。時間の進みが平常に戻ったとき、ヤツの抵抗する声にハッと我に返った。
「なにすんだこのチビ!! 離せつってんだろが!!」
「ザッパ!!!!」
慌てて三八の元へ助けに駆け寄ろうとする。がそれをさせまいとしてか、もう一つの声に今度は立ち止まらざるを得なかった。
「[[rb:骨躙 > ほねにじり]]一朔、[[rb:人行潟 > にんぎょうがた]]三八……名前は違っていないか?」
ドスの利いた低音。そうとしか表しようのない野太い声が、僕に向かって投げかけられる。全身がゾワゾワとして毛が逆立つのを感じた。無意識に警戒の態勢に入る。
「落ち着け、一朔そして三八。こちらに従えば悪いようにはしない」
レッサーパンダ獣人は明らかにヤツより小さい体型をしていた。しかし発せられる一言の響きがとてつもなく重く、まるでのしかかられるような感覚にさいなまれる。
「……ええ。いかにも、その名前ですが」
「イッサ!! ソイツの話に耳を貸すな!!」
喉元にナイフをあてがわれている気分だ。おそらく、僕たちに拒否権はないに等しいのだろう。返事によってこいつがなにをしてくるのか予測できないのがなおのこと、怖くて仕方がない。
「なるほど。別に俺は危害を加えにきたつもりではないことを、まず理解してもらいたい。一朔と三八、二人に是非ともやって欲しい頼みごとがある。ここじゃあなんだから場所を移そう」
「わかりました、……あなたの名は?」
三八が未だ拘束から逃れようともがき暴れている。そんな状況にもお構いなしに平然と涼しい顔をして、一度[[rb:逡巡 > しゅんじゅん]]するかのような素振りを見せてから、声色を一段と低くしてレッサーパンダ獣人は答えた。
「姓は[[rb:筒木府 > つつきくら]]。名は[[rb:余市 > よいち]]。以後、お見知りおきを」
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